梅雨は嫌いだ。
空気が微かな粘りと重さを帯び、やがて彼方から黒い雲を引き連れてくる頃になると、日がな一日塚を歩き回って、捨てられた道具たちの中から価値の糸口らしきものを探しあてることも、人間たちの墓標代わりの石の間を縫って歩き、あるいはそれを枕にして空に向かって煙草をふかすことも、ほとんどできなくなってしまう。眠る骸を地下に感じながら石に耳を押し当てるとひどく静かなので、ずいぶん楽観的な考えが浮かぶ。
私はそうした時間が本当に好きだ。それらがなくなってしまうということは、私にとって、生活のほとんどが失われてしまうことに等しい。
雨の季節がそうしたものを私から奪っていった代わりに、日中の小屋の曇った窓からは、子供が間違って墨を零したような空が際限なく染み出してくる。それは文字通り部屋の中に広がっていく。外が広いと殊更に感じるのは、外に出ているときよりも、むしろそういう場面だ。
降っていると私はいつもより余計腹が減るが、湿気とカビが怖いのでそうたくさんの穀物を置いておくわけにもいかない。仕方ないのでできるだけ長い時間眠る。夢などは見ない。どうにも寒々しい感じから、ついつい被り過ぎた布団のせいでびっしょりと汗をかいて目を覚ます。だるい手足と、渇いた喉とを引きずって、半分寝ぼけながら水を汲む。窓からは相変わらずの下手な水墨画が溢れているばかりだ。太陽が見えないので時間がはっきりとは分からない。どうせいつしか曖昧に日が沈むまでのどこかの一瞬だ。
話し相手は鼠だけで、彼らは雨が降っていてもお構いなしに外に駆け出していく。鼠である彼らがそういう風で、妖怪となった私がこうして屋根の中に引きこもっているのであれば、それは実際のところ退化なのではないかと考えないわけではない。とはいえ、帰ってきた、文字通り濡れ鼠の彼らの身体をタオルで拭いてやれるのは私だけなのだが。
そういう風に日々を過ごしているうちに、私は少しずつ自分の心の中に澱が溜まっていくのを感じる。それは窓を拭いたり使うあてのない靴を磨いたりしているときに、ふと身体から吹き出そうになる。実際のところ、小屋の中には一本だけ傘があった。しかし、傘をさして外へと出て行く億劫さは、身体の内側でうごめく情動をいつも僅かに上回っていた。
私が恨めし気に傘をじっと見ていると、鼠が私の膝の上に乗り、鳴いて首を傾げた。
「いや、なんでもないよ」と私は言う。
鼠はもう一度鳴いた。私は苦笑いをして首を横に振った。
道具があって、それをあえて使わないのは二本足の知性のなせるわざだが、傍から見たらもちろんただの間抜けだ。
雨は一週間も降り続けていて、私はもうすっかり窓も床も靴も磨ききってしまった。零れた水がその染みを広げていくように、私はロッドの手入れをしようと思い立って、しばらく使っていないその二本の棒を手に取る。ゆっくりと布巾で磨き上げた。鈍い輝きを放つそれを何気なく両手で構えると、ぶるぶると震えだす。私は驚いてそれを取り落してしまう。床に当たってがらんと大きな音がした。私は思わず辺りを見回す。
気を取り直して、もう一度両手でロッドを構える。それは数秒の間じっと手の中におさまっていたが、やがてぶるぶると震えだし、ぴっと一つの方向を指した。私はそれを目で追う。戸。何度もロッドの先と戸を見比べたが、ロッドはそちらを指したまま微動だにしない。
私はそれでもしばらくの間抗議の目でそれを見ていた。しかし、結局は根負けして傘を手に取る。傘よりは信頼できる道具なのだ。あるいは私よりも。鼠がからかうように鳴いた。
「うるさいな」と私は言った。
戸に手をかけて引くと、雨の中によく知っている姿が見えた。彼女は傘の中から右手を出していて、まさに戸を叩こうとしていた。私の姿を認めると、濡れた袖を引っ込めて朗らかに笑った。
「あれ」と彼女は言った。「出かけるところでしたか」
私は黙って横に首を振り、傘とロッドを隠すようにして小屋の中に押し戻した。
「どうぞ」と私は突っ張った声で言った。
ご主人は身を屈めるようにして中に入ってきた。彼女が入ると部屋はたちまち小人の国のようになる。彼女は濡れた傘を畳んで、私のもう少しのところで濡れるところだった傘の横に立てかけた。その更に横にはロッドが立てかけてある。もう一度手に取ったとしてもぴくりとも動かないだろう。
彼女は少し濡れた紙袋を床の上に置いた。米や果実、塩と酒が入っている。
「困ってるんじゃないかと思って」
「別にそうでもないよ」と私は言った。
彼女はそれほど気にした風ではなかったし、米びつを覗いて私の強がりを笑うようなこともしなかった。そんなことはするまでもないことで、彼女にはお見通しだ。私は乾いたタオルを出して渡す。彼女は礼を言って頭を拭いた。
「ねえ、雨の季節くらい寺にいたら良いじゃないですか」
「どうして」
「ここですることがありますか?」
私はしばらく考えるふりをした。
「生活が楽しすぎたらすぐに年を取ってしまう」と私は言った。
「……まさか、冗談でしょう?」
「そう」
彼女はくすくすと笑った。私はいたたまれなくなって、彼女の持ってきた紙袋の中に手を入れた。イチジクがある。二つ取って一つを彼女に渡した。
「私はもう寺でずいぶん食べましたよ」
「良いから」
「それでは、いただきます」
イチジクは手で剥けた。齧ってみるとまだずいぶん酸っぱくて空腹にはこたえた。
「美味い」と私は言った。
「檀家の方が持ってこられたんですよ」
それを切り口にして彼女は近況を話した。法会や修行、聖の説法、一輪たちのいつものひと騒ぎ。この部屋の中にあってはずいぶん色とりどりに聞こえる言葉のひとひら。私は時折相槌を打ちながら、聞くともなく聞いていた。
私は窓を見た。相も変らぬ鼠色。それは今や部屋の中を充たしていた。
やはり梅雨は嫌いだ。どうにも私を甘やかしすぎる。
空気が微かな粘りと重さを帯び、やがて彼方から黒い雲を引き連れてくる頃になると、日がな一日塚を歩き回って、捨てられた道具たちの中から価値の糸口らしきものを探しあてることも、人間たちの墓標代わりの石の間を縫って歩き、あるいはそれを枕にして空に向かって煙草をふかすことも、ほとんどできなくなってしまう。眠る骸を地下に感じながら石に耳を押し当てるとひどく静かなので、ずいぶん楽観的な考えが浮かぶ。
私はそうした時間が本当に好きだ。それらがなくなってしまうということは、私にとって、生活のほとんどが失われてしまうことに等しい。
雨の季節がそうしたものを私から奪っていった代わりに、日中の小屋の曇った窓からは、子供が間違って墨を零したような空が際限なく染み出してくる。それは文字通り部屋の中に広がっていく。外が広いと殊更に感じるのは、外に出ているときよりも、むしろそういう場面だ。
降っていると私はいつもより余計腹が減るが、湿気とカビが怖いのでそうたくさんの穀物を置いておくわけにもいかない。仕方ないのでできるだけ長い時間眠る。夢などは見ない。どうにも寒々しい感じから、ついつい被り過ぎた布団のせいでびっしょりと汗をかいて目を覚ます。だるい手足と、渇いた喉とを引きずって、半分寝ぼけながら水を汲む。窓からは相変わらずの下手な水墨画が溢れているばかりだ。太陽が見えないので時間がはっきりとは分からない。どうせいつしか曖昧に日が沈むまでのどこかの一瞬だ。
話し相手は鼠だけで、彼らは雨が降っていてもお構いなしに外に駆け出していく。鼠である彼らがそういう風で、妖怪となった私がこうして屋根の中に引きこもっているのであれば、それは実際のところ退化なのではないかと考えないわけではない。とはいえ、帰ってきた、文字通り濡れ鼠の彼らの身体をタオルで拭いてやれるのは私だけなのだが。
そういう風に日々を過ごしているうちに、私は少しずつ自分の心の中に澱が溜まっていくのを感じる。それは窓を拭いたり使うあてのない靴を磨いたりしているときに、ふと身体から吹き出そうになる。実際のところ、小屋の中には一本だけ傘があった。しかし、傘をさして外へと出て行く億劫さは、身体の内側でうごめく情動をいつも僅かに上回っていた。
私が恨めし気に傘をじっと見ていると、鼠が私の膝の上に乗り、鳴いて首を傾げた。
「いや、なんでもないよ」と私は言う。
鼠はもう一度鳴いた。私は苦笑いをして首を横に振った。
道具があって、それをあえて使わないのは二本足の知性のなせるわざだが、傍から見たらもちろんただの間抜けだ。
雨は一週間も降り続けていて、私はもうすっかり窓も床も靴も磨ききってしまった。零れた水がその染みを広げていくように、私はロッドの手入れをしようと思い立って、しばらく使っていないその二本の棒を手に取る。ゆっくりと布巾で磨き上げた。鈍い輝きを放つそれを何気なく両手で構えると、ぶるぶると震えだす。私は驚いてそれを取り落してしまう。床に当たってがらんと大きな音がした。私は思わず辺りを見回す。
気を取り直して、もう一度両手でロッドを構える。それは数秒の間じっと手の中におさまっていたが、やがてぶるぶると震えだし、ぴっと一つの方向を指した。私はそれを目で追う。戸。何度もロッドの先と戸を見比べたが、ロッドはそちらを指したまま微動だにしない。
私はそれでもしばらくの間抗議の目でそれを見ていた。しかし、結局は根負けして傘を手に取る。傘よりは信頼できる道具なのだ。あるいは私よりも。鼠がからかうように鳴いた。
「うるさいな」と私は言った。
戸に手をかけて引くと、雨の中によく知っている姿が見えた。彼女は傘の中から右手を出していて、まさに戸を叩こうとしていた。私の姿を認めると、濡れた袖を引っ込めて朗らかに笑った。
「あれ」と彼女は言った。「出かけるところでしたか」
私は黙って横に首を振り、傘とロッドを隠すようにして小屋の中に押し戻した。
「どうぞ」と私は突っ張った声で言った。
ご主人は身を屈めるようにして中に入ってきた。彼女が入ると部屋はたちまち小人の国のようになる。彼女は濡れた傘を畳んで、私のもう少しのところで濡れるところだった傘の横に立てかけた。その更に横にはロッドが立てかけてある。もう一度手に取ったとしてもぴくりとも動かないだろう。
彼女は少し濡れた紙袋を床の上に置いた。米や果実、塩と酒が入っている。
「困ってるんじゃないかと思って」
「別にそうでもないよ」と私は言った。
彼女はそれほど気にした風ではなかったし、米びつを覗いて私の強がりを笑うようなこともしなかった。そんなことはするまでもないことで、彼女にはお見通しだ。私は乾いたタオルを出して渡す。彼女は礼を言って頭を拭いた。
「ねえ、雨の季節くらい寺にいたら良いじゃないですか」
「どうして」
「ここですることがありますか?」
私はしばらく考えるふりをした。
「生活が楽しすぎたらすぐに年を取ってしまう」と私は言った。
「……まさか、冗談でしょう?」
「そう」
彼女はくすくすと笑った。私はいたたまれなくなって、彼女の持ってきた紙袋の中に手を入れた。イチジクがある。二つ取って一つを彼女に渡した。
「私はもう寺でずいぶん食べましたよ」
「良いから」
「それでは、いただきます」
イチジクは手で剥けた。齧ってみるとまだずいぶん酸っぱくて空腹にはこたえた。
「美味い」と私は言った。
「檀家の方が持ってこられたんですよ」
それを切り口にして彼女は近況を話した。法会や修行、聖の説法、一輪たちのいつものひと騒ぎ。この部屋の中にあってはずいぶん色とりどりに聞こえる言葉のひとひら。私は時折相槌を打ちながら、聞くともなく聞いていた。
私は窓を見た。相も変らぬ鼠色。それは今や部屋の中を充たしていた。
やはり梅雨は嫌いだ。どうにも私を甘やかしすぎる。
日々。