暮れる夕日を眺めながら、青娥の話を聞く。
「一応初めての試みだから、真上に人間を近づけたくないの」
分かる、芳香? と青娥が私の瞳を覗く。
「うん」
夕暮れ時。暑さは感じないが、虫が寄って来るのだけが嫌いだ。
「そういうわけだから、またしばらく人間を近づけないよう、お願いね」
「分かった」
頷こうとして、首が軋む。
私が無理に動かそうとしたのが可笑しかったのか、青娥が笑う。
青娥はいつもそうやって笑ってくれる。
私が一人じゃ上手く動けなくても、笑って手助けしてくれる。
「じゃあ、巡回用に貼り替えるわよ」
「あい」
いつもそうだ。
切り替えだとか効率化だとか。よく分からないが、巡回前は青娥が私にひと手間加えてくれる。
その作業が自分でできないのがもどかしいが、とりあえず、そのひと手間でもっと役に立てるなら、私は嬉しい。
「青娥、感謝してるぞ」
額に衝撃が走った。
痛みはない。
代わりに、意識が額から抜けていきそうな感覚に襲われる。
全身の力が抜け、ぼうっとするような感覚と戦っていると、再び頭に何かが押し付けられる。
なんだろうなんだろう、と思ううちに、意識がはっきりとして来た。目の前の青娥に、焦点が合う。
「ん? 芳香、何か言ったかしら」
誰が喋っている。目の前の青娥だ。
何か言った? 名前を呼ばれてるということは、私が何か言ったのか聞かれているんだ。
何だっけ。確かに何か言ったような。はっきりと思い出せない。
「うん、うーん? ごめん青娥、忘れた」
何が可笑しかったのか、首を捻ろうとする私を見て青娥が笑った。
「だから思い出したら、また言う」
「はいはい」
青娥が手に持っていた札のようなものを胸元にしまう。見覚えがあるような、ないような。
「さてと」
さてとって言葉は、話題が変わるんだな。なんだろう。そういえば、さっきの札はなんだろう。
「今日も巡回、お願いね」
「うん、任せろ、青娥」
振り返ってお堂を背にして、いざゆかんと息を吐く。
巡回。
巡回、どこからどこまでだっけ。
墓地。
そうだ、墓地の中だけだ。遠出すると青娥に怒られるからな。
とりあえず、右に行こうか、左に行こうか。
以前に墓地の見取り図を見せられたことがあった気がしたが、思い出せない。どちらから進むべきか、少し迷う。
程なくして、右手の道へ歩を進める。なんてことはない、墓地中を回るのならば、変わらないではないか。
気にすることなく、巡回を始める。
最初の角を曲がるとき、青娥が手を振っているのが見えた。
○ ○ ○
巡回を始めてどれくらい経っただろう。小さな音がして、足を止めた。
からん。かたん。かつん。
下駄の音、だろうか。
立ち止まっても鳴ったのなら、私の音ではない。すると、侵入者だな。
見当を付けて、音のする方へ向かう。幸いなことに、不審者の出す音は巡回路で鳴っていた。
角を曲がって、その姿を捉えた。
人間の子供が、何かを引きずって歩いている。
提灯を下げているのに、こちらに気付く様子はない。ざりざりと、足音を立ててもなかなか気が付かない。しょうがないので、喋って追っ払う。
「なんだ、お前」
子供はようやく私に目を向けた。
私の声は効果があったのか、こちらを見上げる顔は恐怖の表情だ。
「ここは立ち入り禁止だ、出て行くがいい」
怯える子供の傍らで、獣が一匹吠えている。引きずって見えたのは、これのようだった。
ばうばうと。吠える声にかき消され、子供の声を聞き漏らしそうになる。
「ごめんなさい」
小さい声だが、謝罪した。子供が獣の顔に手をやり、黙らせる。
「すぐに出て行くから、許してください」
それからゆっくりとこちらを見上げ、呟いた。
「あなた、妖怪……?」
「誇り高きキョンシーだ。さあ、満足したならここから出て行け」
青娥がたまにやる、手首でしっしと払う仕草を真似ようとしてみる。しかし手首は思うように動かず、肩から先を揺らすだけになってしまう。
なかなかかっこつかない。少し意地になり、強めに力を入れる。
すると肩が思ったより大きく動き、前にバランスを崩した。
「お」
「ひっ」
足を踏み出して堪えようともしたが、上手く動かなかった。関節が固いのは不便だなあなんて思いながら、肩から地面に転倒する。
目線が下がったので、子供の連れている獣と目が合った。舌を出して息を荒げ、首を傾げている。
眼球を動かすと、怯えて身構える子供と目があった。足元に目線を戻し、下駄に目をやる。なるほど、やはりこれが鳴っていたんだな。
子供が後ずさるように、足を引く。
「おお、驚かせたか。すまない」
子供はまだ、こちらの顔を見て怯えている。青娥だったら引き上げてくれるのに。
仕方ない、転んだのは私だし。
地に触れた足に、力を込める。そこからお腹のあたりに、力を込める。
「よっ」
視界が急激に動く。
獣より下から、子供より上へ。横向きから、普段通りの向きに。
一人でいる時の普段通りの起き方で、再び地に両足をつける。
子供は一歩引いたまま、こちらを見つめている。
「何見てるんだ。さっさと出て行け」
私の声に獣が吠えて、続いて子供がはっとする。慌てたように向きを変えて、手に持った綱を引きずるように、来た道を戻り始めた。
その様子を見てから、私も巡回を始める。
ざり、ざり。かつん、かつん。
思わぬ所で転んでしまった。青娥の言う通り、柔軟体操をしてからの方が良かったかなあ。
ざり、ざり。かつん、かつん。
そういえば、ええと、どこまで巡回したっけ? 時間がどれくらい経ったか分からない。月を見上げてみる。
「あの」
どこからか声が聞こえた。
まだ侵入者が居るのかと、耳を澄ませて、今度は鼻も動かしてみる。が、子供の服と獣のにおいが近すぎて、他のものを見つけられない。
困っていると、目の前でもう一度「あの」と声がした。なんだ、こいつが喋ったのか。
「どうした」
「本当に出て行くから、その、着いて来なくても、大丈夫です」
立ち止まって、意味を考える。
どういう意味だ。この子供は何を言いたいんだろう。
よく意味が分からない。
「何を言ってるんだ? 私はただ、巡回をしているだけだぞ」
それ以外特に言うことがなくて、じっと様子を伺う。
向こうも考えているのか、何も言わずにこっちを見つめている。
先に声を上げたのは、向こうの方だった。
「あ、たまたま、着いて来てるだけなの?」
子供はなぜか緊張がほどけたような顔になる。
足元で獣が、わう、と吠える。
「てっきり出口まで見張ってるのかと」
見張る? この子供をだろうか。ああ、それは考えなかった。本当に立ち去るのか、墓地を出るまで見張るのも納得だ。
「だけど、出口、出口? ああ、確かにこっちの方だったかもしれない」
曲がり角の向こうを想像する。次の十字路を右に曲がると、門があった気がする。
呆けた顔をする子供が立ち止まるので、危うくぶつかりそうになる。
何も言わずにこちらを見るのみで、なんと声をかければいいか分からない。
とりあえず分かること。出て行ってくれないのは、困る。
「お前もお前だ、どうして早く出て行かないんだ」
早く立ち去ってくれた方が、青娥も私もいい筈だ。
ところがこいつは、抵抗するらしい。不機嫌そうに弁明する。
「折角ここまで来たんだから、帰り道も散歩くらいはさせてよ」
ここまで、と言われても、どこから来たのかを知らない。それが理由になるのだろうか。
「よく分かんないけど、もう、出て行くならそれでいい」
獣が吠える声を聞きながら、角を曲がるまでなんとなく後ろを歩く。突き飛ばすのも噛みついて急かすのもできたが、むやみに噛みつくとなぜか青娥に怒られる。「早く歩け」と急かすのみにする。
出口に向けての分かれ道であいつが右へ曲がるのに対し、私は正面を行く。よしよし、一人追い返したぞ。今日もいい仕事をしている。
「またね、ゾンビのお姉ちゃん」
背後に聞こえた声を推測しながら、ゆっくりと振り返る。
あの子供がまだ居た。
「ゾンビの中でも、誇り高きキョンシーだ」
私の言葉に獣が吠えて返事をする。
それ以上の返事はなく、提灯の明かりが門の向こうに消えた。
○ ○ ○
「じゃあ、今日もお願いね」
「あう」
額に巡回用の札を貼り付けられて、後ろにつんのめる。
転倒しないよう頭を戻した拍子に歯がぶつかって、体に衝撃が走る。目が覚めてきた。
「今日は柔軟体操、してるみたいね」
ぼうっとした頭で瞬きをしながら、考える。確かに、した、ような気がする。
「首の動きがスムーズだもの」
ほらほらよく動く。と私の頭を動かして遊ぶ青娥になすがままにされながら、どうして柔軟体操をしていたのか、思い出そうとする。
侵入者を見つけたのは、膝があったまって来た頃だった。
体操のおかげで歩くのも苦労しない。気分良く二つめの角を曲がると、正面からぼんやりとした明かりが見え、何かを叩く物音がした。
からん、からん。
「そこにいるのは誰だ」
からん。
音が止まった。
「ここの住民になりたくなければ今すぐ立ち去るがいい」
明かりの方へ歩き、警告する。立ち去る素振りを見せないのは、気のせいだろうか。
「やっぱりお姉ちゃんだ」
「あ?」
侵入者がこちらへ寄って来た。提灯を持ち上げて、顔を照らす。
「また会えた。こんばんは」
「あー、こんばんは」
提灯の明かりが目に入って見辛いが、やはりこいつは人間だ。それも子供の。
手に綱を掴んで何かを引きずっていて、からから下駄が鳴って。どこかで見覚えがある。
「ええと、誰だっけ?」
私が首を鳴らすと、子供は驚いて声を上げた。
「前に散歩に来た時、私、追い返されたじゃない。確かに昨日は会ってないけど」
ううん、覚えているような、覚えていないような。
反対方向に首を曲げて考えていると、足元で何かが吠えた。
わう。
「あ、獣」
確かにこの獣は、見覚えがある。
子供の足元に伏せていた獣を覗こうとして、膝が音を立てる。
「おー。お前は覚えているぞ、獣」
子供が屈み込んで、獣の近くに提灯を寄せる。
「獣じゃないよ、犬だよ」
いぬ、イヌ、犬。ああ、そうだ。
「そうだ、お前は犬だな。思い出した」
四つ足で歩いて伏せる毛むくじゃらのその姿は、まさしく犬だ。猟に連れていける、賢いやつだ。
手を向けると犬は少し鼻を持ち上げた後、私の顔と手を見比べた。
「おうおう、愛いやつめ。お前も立派な猟犬なのか」
「この子は、猟はしないの」
犬が低く一度吠える。
「昔はそうだったらしいけど、今はもう、お爺ちゃんだから。私が散歩に連れて行くだけ」
子供の方を見ると、犬を大事そうに撫でている。
私も撫でようと手首を曲げたが、少し動いた所で固まってしまった。仕方がないので、指先で撫でようとする。
届かない。
「暑さに参っちゃうから、この時間帯しかできないの。本当に残念」
膝をもう少し曲げようとしてみるが、ごきりと音がしただけだった。
やはり届かない。
「お姉ちゃんは犬が好きなの?」
「犬は好きだけど、美味しくはないぞ」
撫でるのを諦めて立ち上がると、子供は屈んだまま私の顔を見ていた。
「っていうか、なんで犬、見てたんだっけ?」
犬の顔を見て、子供の顔を見て。
周りを見渡して、考える。
墓地で、歩いていて、確か。
「ああ、そうだ見回りしてたんだ」
目の前に子供と犬が座り込んでいる。どうしてだっけ。
そうだ、こいつらは侵入者だった。
「お前、ここから出て行け」
「ええ、もうちょっと散歩させてよ」
「だめだ、早く立ち去れ」
なおも動かないので大きな声を出すと、犬が吠え、子供が立ち上がった。
「はいはい、分かったわ」
子供が背を向け、犬を引いて歩き出す。提灯の明かりが、離れていく。
一人追っ払ったぞ。青娥、喜んでくれるかな。
見回りを再開し、歩いて行く。上機嫌でいると、誰かが私に声をかけた。
「あのさ」
「んあ?」
音のした方を見ると、犬を連れた子供がこっちを見ている。
「なんだお前、まだ居たのか」
「だって出口はこっちだもの」
そうだったっけ。
「お姉ちゃんは、墓地の見回りがお仕事なの?」
道を思い出そうとしていると、また話しかけられた。前を見ると、やはりこの子が話しかけたようだ。
「そうだ。墓地を守るのが使命だ」
「なんで最近見回りしてるの?」
「あー、えっと」
なんでだっけ。青娥に言われた、ような。
「なんだか、重要な日があって、あー」
月を見上げて暫し歩いて。
結局思い出せずに、目線を戻す。子供と目が合った。
「忘れた」
「なに、それ」
子供が笑う。
「思い出したら、また言う」
私が十字路を真っすぐ進むと、子供は横に曲がった。
そうだ、ここを右に曲がるのが出口だった。
「じゃあね、誇り高いキョンシーさん」
聞こえた声に旋回すると、出口の門の方から声がしたようだった。たぶん、あの子が言ったんだ。
「詳しいじゃないか、お前」
門の向こうで提灯が大きく揺れた。
○ ○ ○
「青娥」
今日は青娥が手伝ってくれるというので、背中を押してもらいながら柔軟体操中。
私が思い出したことを伝えようと、首を僅かに回すと、青娥が正面に顔を覗かせてくれた。
「なに、芳香」
思い出したことは、忘れないうちに言う。最近覚えた大事なことだ。
「犬って、かわいいな」
青娥はきょとんとした顔をしてから、返してくれる。
「ええ、かわいいわよね。どこで見たの?」
「どっかで見た。ふさふさだったぞ。ふさふさ」
青娥が元に戻って、背中を押す。
腰が徐々に曲がるようになって、手の届く範囲が広がる感じは、体操をして良かったと思う瞬間。
「もしかして、飼いたいの?」
「分かんない。けれどたぶん、飼いたい」
青娥の声が、少し途切れる。
「困ったわねえ、芳香がペットかあ」
新しい言葉が聞こえた。ペット。
なんだろう、飼いたいと一緒かな。
「残念だけど、無理じゃないかしら」
無理。
私が犬を飼うのが、無理という意味だな。
「どうしてだ?」
「だってペットを飼うってことは、世話をしなくちゃいけないのよ」
「世話」
「そうそう。それこそ私が芳香にしてるみたい、に」
青娥が全身で、ゆっくりと私の腕を曲げる。
「芳香、忘れたりしない?」
「あう」
「まだ生き物を飼うのは難しいと思うのよね」
その後両腕に続いて、両足が曲げられる。
はいおしまい。と青娥が離れる。
「外れてたり、変なところはないわね」
「うん」
「じゃあ芳香、行ってらっしゃい」
僅かに動く首で頷いて、青娥に背中を向ける。
さて、今日も巡回だな。頑張るぞ。
踏み出す前に、考える。
巡回。どこまでだっけ。
墓地の中だけだ。そうだ。
墓地の地図は忘れてしまったが、全部見回るんだから問題ない。とりあえず道は、右手と左手にある。
どっちに行っていたっけか。
確か、左だ。
おかしいな。
足を引きずって歩きながら、違和感を感じた。今日の巡回は、やけに長く感じる。
柔軟体操をしっかりしたから体もほぐれているし、普段より頭は冴えているのに。
理由を考えても思い出せずに。のろのろ歩いていると、十字路に着いた。
右と真ん中と左。
少し考えて、直進した。
途中で、少し動く首と目玉で、なんとなく左を見た。舗装された道の向こうに、月明りで照らされた門がある。
「そっか、こっちは出口か」
覚えてるぞ。墓地から出ると青娥に怒られるんだ。
よく思い出したぞ、私。えらい。
青娥が居ないので自分で褒めて、機嫌よく、直進した道をゆく。
月も出てきて。機嫌もいいのに。それでもなかなか進んでいる気がしなくて、ざりざりと、普段より大きな音を立てて進む。
十字路を進んだ後に、右目が何かを捉えた。うっすらとした明かりが見える。
ふらふらと明かりに近づいて行くと、提灯が地面に置かれている。それだけでなく、他に何かがそこに居るようだ。
「そこに居るのは誰だ」
侵入者だな。侵入者を追い出すのが、私の使命だ。
屈んでいるらしい侵入者に近付き、背後から威嚇する。
「早くここから立ち去、れ」
背中を見せて小さくなっているのは、どうやら人間の子供のようだった。傍らには何かが座り込んで、どちらも私に背を向けている。
どこかで見覚えがある、ような。
考えているうちに、人間の子供がこちらを振り返った。
「あ」
「こんばんは、キョンシーさん」
「あれ、お前」
人間を見分けるのは苦手だが、この子供は覚えている。最近巡回していると、追い出すことの多い子だ。
「子供」
「やっと覚えてくれた」
すると足元に居るのは、あの獣、犬か。
「と犬」
犬は小さく、微かな声で吠えた。
膝を曲げようとして、やめる。確か、目いっぱい曲げても届かなかったんだ。
「今日の見回りは、遅いのね」
棒立ちの私を見上げるように、屈んだまま顔を上げて問う。
「遅い、か? 今日の私は好調だぞ」
「遅かったわ。お墓参り、済んじゃったもの」
そう言って少女は向きを変え、再び私に背を向けた。
提灯で光る地面近くは見辛いが、月が照らす部分はよく見える。
石のかたまり。
「墓」
そっか。墓地だから、お墓があるのか。
私が口に出すと、少女はなぜか「うん」と返事をした。
それから少し黙って、犬を撫でながら話し始めた。
「ここにね、お母さんが居るの」
犬が低く唸ってから、べったりと地面に伏せる。
「死体か」
「うん? そう、だね」
同意が得られた。
墓に居るんだから、そうだよな。
私の同胞が、ここにも一人居るんだな。
思ってから、なんとなく、口を開く。
「死体も」
すぐに喉の動きを止めた。
死体も案外悪いもんじゃないぞ。
そう言おうかと思って、途中でやめた。なんだか、違う気がする。
「え、なに?」
少女が聞き直してくるので、無視するより、とりあえず答えてやる。
「死体も、元気だぞ」
そうだ。死体は元気なんだ。私も元気だからな。
言ってから下に目を向けると、こちらを見上げる目が四つあった。
犬は笑わなかったが、すぐに少女が吹き出した。
「なに、それ」
「だから、元気なんだ」
「死体が?」
「そうだ。見ろ、私だって死体だ。だからきっと、元気にしてるぞ」
冗談を言ったつもりはないのに、少女はくすくすと笑う。
何か足元で動いた気配がしたと思ったら、犬が舌を出している。黒い舌が見えた。
「なんだ、お前もか、犬」
「お母さん、キョンシーじゃないのにね」
ああ可笑しい。そう言ってから、少女は膝に手を当て立ち上がった。それからもう一度屈み、提灯を手に取る。
「それじゃあ、行こうか」
誰に話しかけたのかと思ったが、私ではないようだ。足元を見て、犬の名らしいものを口にする。
ゆっくりと立ち上がった犬を見ながら、考える。
そうだ、私は墓参りに来たんじゃなかった。見回りの途中だったな。
道順を考えて、右を向いていたことを思い出す。ならば左に旋回すれば、進行方向だ。よしよし、今日は冴えてるぞ。
間違えないよう慎重に向きを直して、意気揚々と歩き始める。
そういえば青娥はなんで警備を命じてたんだっけ。あと少しで思い出せそうなんだけど。
少女の背中と、それに連れられる犬の様子を見ながら歩く。
確か最近、すごい場所と繋がったって。なんだっけ。
少ししてから、あることに気が付いた。
目の前の一人と一匹を呼び止める。
「なあ」
「ん」
振り返る少女に、体を旋回させて、正しい道を教えてやる。
「出口は、あっちだぞ」
さっき通ったから、今日は覚えている。
この向きに進んだ先の十字路を、どっちかに曲がるんだ。
背後の少女はしばらく黙った。
匂いが離れないから、逃げてない、はず。
考えていると、少女はふらりと私の視界へ入って来た。
「そうだったね」
「お」
少女の背中が見えたとき、急に自信が無くなった。
あれ、いいんだよ、な?
これで私は、巡回を再開するんだ。間違ってないはずだ。
侵入者だから、追い返すんだよ、な。
少女はいつもより重そうに、犬を引きずって歩く。
「またね、キョンシーさん」
「お? おお」
少女に続いて犬が通り過ぎるのを見てからも、なんとなくその背を眺める。
からんからんという音と、提灯の明かりが離れていく。
はっとして、今背中を向けている方へゆっくりと旋回する。どっちへ進むのか、忘れないうちに再開しよう。
ぎこちなく、足を踏み出して進む。ざりざりと、大きな音を立てて。背後の下駄の音は、すぐに聞こえなくなった。
ざりざり。
ざりざり。
鼻を動かしても、耳を澄ましても何も見つけられない。
その日の巡回は、やはりやけに長かった。
○ ○ ○
何日だったか。
日数は忘れてしまったけど、順調に見回りをする日が過ぎたある日。青娥が私に、予定を教えてくれた。
「最近お願いしてる巡回なんだけど、一旦お終いになるわ」
「おお」
そっか、時期が来るまで、って言ってたな。
これで使命も一段落なのか。
「明日には準備が整うと思うから、今日と明日で、もう終わりかしら」
「なんか分かんないけど、良かったな。青娥」
ありがと。と返事をしてくれた後に、青娥はいつものように送り出してくれた。
「それじゃああと二日、頑張ってきてね」
「あい」
青娥に背中を押されて、いざ巡回開始。
確か範囲は、墓地の中だけだったはず。
墓地の中は道が入り組んでいて到底覚えられないけど、今目の前には右の道と左の道がある。
どっちの方向へ進んでいたっけ。
考えてから、歩き出す。
右かな。
青娥の体操のおかげで、今日も関節の調子がいい。
ざりざりと。
空を見上げながら、足を動かして進む。
最近気が付いた。自分が歩くと、空も動く。見ていて飽きないし、暇しない。
藪に突っ込んで、立ち止まる。進みすぎたらしい。曲がらなくては。
首を戻して、左に体を向ける。それから、また、歩き出す。
再び上を向こうとして、何かが目に入った。
行く先で、何かが光っている。
月の光じゃない。提灯の明かりみたいな。
からん、からん。
私が進むと、何かの足音が近付いてくる。私の靴音ではない。下駄、みたいな。
ざり、ざり。
からん、からん。
やがて正面から、提灯を持った人間がやって来た。
「こんばんは」
「う」
以前ここで見たことのある、女の子だった。
眼球を動かして、足元を見る。そうだ、この子も下駄をはいていた。
「うー? こん、ばんは」
「こんばんは」
私が返すと、女の子はもう一度挨拶を口にした。
あれ。
何かが、足りない。
そのまま眼球を動かして、上から下まで見てみる。
片手に提灯、片手は下げて。
足元に見えるのは、この子の履いた下駄だけで。
「あ、犬」
口にしてから、目線を上げて顔を見てみた。
女の子は俯いたままだった。
「死んじゃったの」
「死んだ」
犬が。そうか。
「死体か」
「うん。そう、なった」
死体になったのか。そうか。
顔を見ながら、少しぼうっとしていた。女の子も俯いたまま、何も話さない。
目の前を虫が飛んで、腕に付いたのが見えた。
感覚は無い。が、腕を振って飛ばす。
「今日は追い返さないのね」
「あ」
女の子が喋った。
虫を払った目線を戻すと、少女はもう顔を上げていた。
言われてみて思い出す。
そうだった、私は巡回の途中だった。
「いつもは立ち去れって言うのに」
「あー」
なんて言うべきか考えてから、行動する。最近大事だと思ったことの二つ目。
決めてから口を閉じて、回れ右をする。
「戻るか」
振り返ってみると、新鮮な光景だった。そうか、来た道を戻るとこんな風に見えるんだな。
「え」
女の子の驚く声がする。
匂いは離れていない。立ち去ってはいない、筈だ。
「同胞の所へ案内してくれ」
確かこっちだったと、思う。
思い出すのに苦労しつつ、足を進める。後ろから近付く気配がして、女の子が着いて来たのが分かる。
ざり、ざり。からん、からん。
進んだ先で、どっちだったっけ。左だったか、右だったか。
ざり、ざり。からん、からん。
やがて歩いて行くと、背後から女の子に呼び止められる。
「ここだよ」
向き直ると、女の子が提灯を置いて、屈み込んでいた。少し戻って、横に並ぶ。
やっぱり犬は、居ない。
「お母さん、大好きだった犬なの」
手を合わせるようにしてから、じっと墓を見つめる。
「ずっと一緒にいたから、あの子も会いたいかなって、ここを散歩してた」
女の子は手を降ろして地面に近づけてから、自分の足を触った。
「お爺ちゃんだったもんなあ。仕方ないよ」
手を膝に揃えて、再び墓を見つめる。
その様子を見ながら、口を開く。
「じゃあもう散歩は、一人なんだな」
「うん? そうだなあ、来るのはお墓参りの時くらいかな」
「そうか」
お墓参り。
犬のお墓参りもするのかなと、なんとなく思う。
「私の巡回も終わりだ」
「そうなんだ」
一つ、思い出した事がある。
「私はここから引っ越すんだ」
「え。引っ越す」
「そうだ。なんか、みんなが言ってた」
驚いた顔で、女の子が提灯片手に立ち上がる。
「引っ越す? キョンシーが」
「そうだ。キョンシーでも引っ越す」
「別のお墓ってこと?」
「うう、なんだっけ。なんか、すごいとこ」
青娥が前に説明してくれた気がする。けれど、よく思い出せない。
月を見上げて考えていると、視界の外で女の子が笑った。
「なにそれ」
首をゆっくり戻して、顔を見る。
何が可笑しかったのか、よく分からない。とりあえず、今日はよく動く首を傾げてみる。
「まあいっか。満足したし、私は帰るね」
「あう。そうだ、立ち去れ」
少女を前にして、再び歩いた。足音の下駄が鳴り、揺れる提灯が影に隠れたり、現れたりする。
上を見上げて、前を蹴飛ばさぬよう、ゆっくり歩いた。度々首を戻しても、女の子は黙って前を歩いていた。
十字路に着いて、考える。確か右に曲がったら、出口があった、はずだ。
「それじゃ」
女の子が右に曲がる。
十字路の真ん中まで出て、右へ旋回する。
「ばいばい、キョンシーさん」
「おお」
女の子が空いている手を振るので、私も右肩を上げる。手首を曲げようとしても、指先が僅かに前を向いただけだった。
その様子を見て、女の子はもう一度笑った。それから背を向け、門の向こうへ消える。
明かりが見えなくなるまでぼうっとして、左へ向き直った。ゆっくりと、歩き出す。
ざりざりと、足音を立てて。
その日の巡回が終わって青娥にメンテナンスをしてもらう時、なんとなく訊ねてみた。
「青娥、一人の散歩って、寂しいのかな」
青娥は不思議そうな顔をしてから、答えてくれた。
「一人じゃないのに慣れてしまったなら、寂しいかもね。二人で歩くのが普通になっていたなら、尚のこと」
「そっか」
聞いてみたけど、よく分かんない。
今日の出来事を思い返して、呟く。
「犬、居なかったな」
○ ○ ○
頭に衝撃が来て、固い首を揺らす。
二回目の衝撃で、意識がはっきりしてくる。
「あう、あう」
私が漏らしているらしい声を聞きながら、復帰に努める。
目を結んで、開いて。青娥の目線を捉えて、見つめ返す。
目の前の青娥が一つ頷いた。
「うん、これで良し」
青娥が手に持っていた物をしまって、私の様子を見る。
「今日も柔軟体操、していく?」
「うん」
よろしい。と青娥が笑って、背後に回る。頭を両手で持たれて、まずは首の柔軟から。
「芳香、覚えてる?」
「うん?」
後ろに引っ張られて。前に倒されて。
少しずつ、首が動いていく。
「巡回、今日が最後の日よ」
今度は右と、左に。
青娥に体重を掛けられながら、返事をする。
「おお、覚えてるぞ。どこか、引っ越すんだろう」
「よく覚えてたわね。えらいえらい」
お腹に手を回されて、背中を片手で押される。
このお腹の異物感は、くすぐったい、というやつなんだろうか。
「毎日のようにお願いして悪かったわね。お疲れ様」
頭上から青娥の声が降ってくる。
背中を曲げ終えると両肩を素早く動かして、腕を曲げるのに移る。
「頑張ってくれた芳香に、今日はご褒美があるの」
右腕がほぐされて、次は左腕。
青娥の声も、左側に移動する。
「おお。なんだなんだ?」
「体操が終わってからの、お楽しみ」
だからちょっと我慢してね。と。
私の足を抱えて、強く曲げ始める。
なんだか長いし、今日の体操は入念だな。
「おお、青娥、ちょっと曲がりすぎだぞ」
「これくらい大丈夫だから」
なすがままにされていると、完了を告げる青娥の声が、背後から聞こえた。
普段なら目の前から送り出されて、振り返って見回りに向かうのに。
「青娥?」
「ちょっと待っててね。さて、と」
後ろがすごく気になったが、待てと言われたので、そのまま待っている。
しばらくぼうっとしていると、再び誰かが近付いてくる気配がした。青娥が戻って来たのだろうか。
「芳香、こっち向いていいわよ」
青娥の声だ。
言われた通り振り向くぞ。
念のためゆっくりと、後ろへ旋回する。
やはりそこには青娥が立っていた。満足げな顔をして、手を後ろで組んでいる。
「芳香へのご褒美。ちょっとだけ、苦労したんですからね」
わう。
足に、何かが触れる。
それから、聞き覚えのある声がしたことに気が付いた。
「お」
首を下に向けると、一匹の獣がいた。
ふさふさで、四つ足で。私の足に一足を置いて、舌を出している。
「犬」
そうだ、これは犬だ。忠実で、猟もできる賢いやつ。
「おお」
肩を下げて、腕を曲げ。最後に膝を目いっぱい曲げる。
伸ばした手の先に、犬の毛が触れた。少し量は少ないが、青娥の髪とは違う、獣の毛だ。
「おおお」
ふさふさだぞ、青娥。
少し大きな声が出たのか、足元の犬が一度吠えた。
「でもどうして、青娥」
いつだったか、飼うのは無理だと、言っていた気がする。
「その子、死んだ犬なの」
「お」
青娥に向けていた目を、犬に向ける。
こいつも同胞なのか。
「死体」
「そう。鮮度の良いご遺体だったから、上手くできたと思うけど」
青娥の声を聞きながら、犬の目を見る。
べっと出した舌。伏せた姿。こちらを見上げる目。
お前は、もしかして。
「えっと。確か」
あの女の子が口にした名前は何だったか。
思い出せない。
「芳香、どうかした?」
「いや。なんでもない」
一つ首を傾げてから、青娥は普段の様子に戻った。
「その子は散歩したりないみたいだけど、老犬で急場の処置だから、長持ちはしないわ」
「あい」
「一晩だけ、一緒に散歩させてあげなさい」
「あい!」
青娥が犬の首に回っていた綱を持ち、私の片腕に結んでくれる。
私がゆっくりと膝を伸ばすと、犬は綱の結んだ手に近づくように並んだ。
「おお」
一歩歩くと、のろのろと着いて来る。
二歩歩くと、やはりゆっくりと着いて来る。
「お前はお爺ちゃんだから仕方ないな」
わう。
低く犬が吠えて、私の横に伏せる。
私はゆっくりと、後ろを向く。
「青娥」
振り返ってから、一つ、言うことを思い出した。
思い出したら、忘れないうちに。
「青娥、いつもありがとうな」
どうしたの急に。青娥はそう笑ってから、手を振ってくれた。
「最後の巡回、お願いね。行ってらっしゃい芳香」
行く先に向き直り、足元を見る。最後はお前と、見回りだな。
ちらと犬がこちらを見上げて、私も目線を戻す。
巡回は、墓地の中だけ。侵入者が居たら、追い出すこと。
背後には青娥が居て、足元には犬が居て。目の前には二手に分かれた道がある。
右手の方と、左手の方。
道順は覚えられないけど、結局全部回るのだから問題ない。
その上でどちらにしようか考えてから。音を立てて歩き出す。
右だ。
「一応初めての試みだから、真上に人間を近づけたくないの」
分かる、芳香? と青娥が私の瞳を覗く。
「うん」
夕暮れ時。暑さは感じないが、虫が寄って来るのだけが嫌いだ。
「そういうわけだから、またしばらく人間を近づけないよう、お願いね」
「分かった」
頷こうとして、首が軋む。
私が無理に動かそうとしたのが可笑しかったのか、青娥が笑う。
青娥はいつもそうやって笑ってくれる。
私が一人じゃ上手く動けなくても、笑って手助けしてくれる。
「じゃあ、巡回用に貼り替えるわよ」
「あい」
いつもそうだ。
切り替えだとか効率化だとか。よく分からないが、巡回前は青娥が私にひと手間加えてくれる。
その作業が自分でできないのがもどかしいが、とりあえず、そのひと手間でもっと役に立てるなら、私は嬉しい。
「青娥、感謝してるぞ」
額に衝撃が走った。
痛みはない。
代わりに、意識が額から抜けていきそうな感覚に襲われる。
全身の力が抜け、ぼうっとするような感覚と戦っていると、再び頭に何かが押し付けられる。
なんだろうなんだろう、と思ううちに、意識がはっきりとして来た。目の前の青娥に、焦点が合う。
「ん? 芳香、何か言ったかしら」
誰が喋っている。目の前の青娥だ。
何か言った? 名前を呼ばれてるということは、私が何か言ったのか聞かれているんだ。
何だっけ。確かに何か言ったような。はっきりと思い出せない。
「うん、うーん? ごめん青娥、忘れた」
何が可笑しかったのか、首を捻ろうとする私を見て青娥が笑った。
「だから思い出したら、また言う」
「はいはい」
青娥が手に持っていた札のようなものを胸元にしまう。見覚えがあるような、ないような。
「さてと」
さてとって言葉は、話題が変わるんだな。なんだろう。そういえば、さっきの札はなんだろう。
「今日も巡回、お願いね」
「うん、任せろ、青娥」
振り返ってお堂を背にして、いざゆかんと息を吐く。
巡回。
巡回、どこからどこまでだっけ。
墓地。
そうだ、墓地の中だけだ。遠出すると青娥に怒られるからな。
とりあえず、右に行こうか、左に行こうか。
以前に墓地の見取り図を見せられたことがあった気がしたが、思い出せない。どちらから進むべきか、少し迷う。
程なくして、右手の道へ歩を進める。なんてことはない、墓地中を回るのならば、変わらないではないか。
気にすることなく、巡回を始める。
最初の角を曲がるとき、青娥が手を振っているのが見えた。
○ ○ ○
巡回を始めてどれくらい経っただろう。小さな音がして、足を止めた。
からん。かたん。かつん。
下駄の音、だろうか。
立ち止まっても鳴ったのなら、私の音ではない。すると、侵入者だな。
見当を付けて、音のする方へ向かう。幸いなことに、不審者の出す音は巡回路で鳴っていた。
角を曲がって、その姿を捉えた。
人間の子供が、何かを引きずって歩いている。
提灯を下げているのに、こちらに気付く様子はない。ざりざりと、足音を立ててもなかなか気が付かない。しょうがないので、喋って追っ払う。
「なんだ、お前」
子供はようやく私に目を向けた。
私の声は効果があったのか、こちらを見上げる顔は恐怖の表情だ。
「ここは立ち入り禁止だ、出て行くがいい」
怯える子供の傍らで、獣が一匹吠えている。引きずって見えたのは、これのようだった。
ばうばうと。吠える声にかき消され、子供の声を聞き漏らしそうになる。
「ごめんなさい」
小さい声だが、謝罪した。子供が獣の顔に手をやり、黙らせる。
「すぐに出て行くから、許してください」
それからゆっくりとこちらを見上げ、呟いた。
「あなた、妖怪……?」
「誇り高きキョンシーだ。さあ、満足したならここから出て行け」
青娥がたまにやる、手首でしっしと払う仕草を真似ようとしてみる。しかし手首は思うように動かず、肩から先を揺らすだけになってしまう。
なかなかかっこつかない。少し意地になり、強めに力を入れる。
すると肩が思ったより大きく動き、前にバランスを崩した。
「お」
「ひっ」
足を踏み出して堪えようともしたが、上手く動かなかった。関節が固いのは不便だなあなんて思いながら、肩から地面に転倒する。
目線が下がったので、子供の連れている獣と目が合った。舌を出して息を荒げ、首を傾げている。
眼球を動かすと、怯えて身構える子供と目があった。足元に目線を戻し、下駄に目をやる。なるほど、やはりこれが鳴っていたんだな。
子供が後ずさるように、足を引く。
「おお、驚かせたか。すまない」
子供はまだ、こちらの顔を見て怯えている。青娥だったら引き上げてくれるのに。
仕方ない、転んだのは私だし。
地に触れた足に、力を込める。そこからお腹のあたりに、力を込める。
「よっ」
視界が急激に動く。
獣より下から、子供より上へ。横向きから、普段通りの向きに。
一人でいる時の普段通りの起き方で、再び地に両足をつける。
子供は一歩引いたまま、こちらを見つめている。
「何見てるんだ。さっさと出て行け」
私の声に獣が吠えて、続いて子供がはっとする。慌てたように向きを変えて、手に持った綱を引きずるように、来た道を戻り始めた。
その様子を見てから、私も巡回を始める。
ざり、ざり。かつん、かつん。
思わぬ所で転んでしまった。青娥の言う通り、柔軟体操をしてからの方が良かったかなあ。
ざり、ざり。かつん、かつん。
そういえば、ええと、どこまで巡回したっけ? 時間がどれくらい経ったか分からない。月を見上げてみる。
「あの」
どこからか声が聞こえた。
まだ侵入者が居るのかと、耳を澄ませて、今度は鼻も動かしてみる。が、子供の服と獣のにおいが近すぎて、他のものを見つけられない。
困っていると、目の前でもう一度「あの」と声がした。なんだ、こいつが喋ったのか。
「どうした」
「本当に出て行くから、その、着いて来なくても、大丈夫です」
立ち止まって、意味を考える。
どういう意味だ。この子供は何を言いたいんだろう。
よく意味が分からない。
「何を言ってるんだ? 私はただ、巡回をしているだけだぞ」
それ以外特に言うことがなくて、じっと様子を伺う。
向こうも考えているのか、何も言わずにこっちを見つめている。
先に声を上げたのは、向こうの方だった。
「あ、たまたま、着いて来てるだけなの?」
子供はなぜか緊張がほどけたような顔になる。
足元で獣が、わう、と吠える。
「てっきり出口まで見張ってるのかと」
見張る? この子供をだろうか。ああ、それは考えなかった。本当に立ち去るのか、墓地を出るまで見張るのも納得だ。
「だけど、出口、出口? ああ、確かにこっちの方だったかもしれない」
曲がり角の向こうを想像する。次の十字路を右に曲がると、門があった気がする。
呆けた顔をする子供が立ち止まるので、危うくぶつかりそうになる。
何も言わずにこちらを見るのみで、なんと声をかければいいか分からない。
とりあえず分かること。出て行ってくれないのは、困る。
「お前もお前だ、どうして早く出て行かないんだ」
早く立ち去ってくれた方が、青娥も私もいい筈だ。
ところがこいつは、抵抗するらしい。不機嫌そうに弁明する。
「折角ここまで来たんだから、帰り道も散歩くらいはさせてよ」
ここまで、と言われても、どこから来たのかを知らない。それが理由になるのだろうか。
「よく分かんないけど、もう、出て行くならそれでいい」
獣が吠える声を聞きながら、角を曲がるまでなんとなく後ろを歩く。突き飛ばすのも噛みついて急かすのもできたが、むやみに噛みつくとなぜか青娥に怒られる。「早く歩け」と急かすのみにする。
出口に向けての分かれ道であいつが右へ曲がるのに対し、私は正面を行く。よしよし、一人追い返したぞ。今日もいい仕事をしている。
「またね、ゾンビのお姉ちゃん」
背後に聞こえた声を推測しながら、ゆっくりと振り返る。
あの子供がまだ居た。
「ゾンビの中でも、誇り高きキョンシーだ」
私の言葉に獣が吠えて返事をする。
それ以上の返事はなく、提灯の明かりが門の向こうに消えた。
○ ○ ○
「じゃあ、今日もお願いね」
「あう」
額に巡回用の札を貼り付けられて、後ろにつんのめる。
転倒しないよう頭を戻した拍子に歯がぶつかって、体に衝撃が走る。目が覚めてきた。
「今日は柔軟体操、してるみたいね」
ぼうっとした頭で瞬きをしながら、考える。確かに、した、ような気がする。
「首の動きがスムーズだもの」
ほらほらよく動く。と私の頭を動かして遊ぶ青娥になすがままにされながら、どうして柔軟体操をしていたのか、思い出そうとする。
侵入者を見つけたのは、膝があったまって来た頃だった。
体操のおかげで歩くのも苦労しない。気分良く二つめの角を曲がると、正面からぼんやりとした明かりが見え、何かを叩く物音がした。
からん、からん。
「そこにいるのは誰だ」
からん。
音が止まった。
「ここの住民になりたくなければ今すぐ立ち去るがいい」
明かりの方へ歩き、警告する。立ち去る素振りを見せないのは、気のせいだろうか。
「やっぱりお姉ちゃんだ」
「あ?」
侵入者がこちらへ寄って来た。提灯を持ち上げて、顔を照らす。
「また会えた。こんばんは」
「あー、こんばんは」
提灯の明かりが目に入って見辛いが、やはりこいつは人間だ。それも子供の。
手に綱を掴んで何かを引きずっていて、からから下駄が鳴って。どこかで見覚えがある。
「ええと、誰だっけ?」
私が首を鳴らすと、子供は驚いて声を上げた。
「前に散歩に来た時、私、追い返されたじゃない。確かに昨日は会ってないけど」
ううん、覚えているような、覚えていないような。
反対方向に首を曲げて考えていると、足元で何かが吠えた。
わう。
「あ、獣」
確かにこの獣は、見覚えがある。
子供の足元に伏せていた獣を覗こうとして、膝が音を立てる。
「おー。お前は覚えているぞ、獣」
子供が屈み込んで、獣の近くに提灯を寄せる。
「獣じゃないよ、犬だよ」
いぬ、イヌ、犬。ああ、そうだ。
「そうだ、お前は犬だな。思い出した」
四つ足で歩いて伏せる毛むくじゃらのその姿は、まさしく犬だ。猟に連れていける、賢いやつだ。
手を向けると犬は少し鼻を持ち上げた後、私の顔と手を見比べた。
「おうおう、愛いやつめ。お前も立派な猟犬なのか」
「この子は、猟はしないの」
犬が低く一度吠える。
「昔はそうだったらしいけど、今はもう、お爺ちゃんだから。私が散歩に連れて行くだけ」
子供の方を見ると、犬を大事そうに撫でている。
私も撫でようと手首を曲げたが、少し動いた所で固まってしまった。仕方がないので、指先で撫でようとする。
届かない。
「暑さに参っちゃうから、この時間帯しかできないの。本当に残念」
膝をもう少し曲げようとしてみるが、ごきりと音がしただけだった。
やはり届かない。
「お姉ちゃんは犬が好きなの?」
「犬は好きだけど、美味しくはないぞ」
撫でるのを諦めて立ち上がると、子供は屈んだまま私の顔を見ていた。
「っていうか、なんで犬、見てたんだっけ?」
犬の顔を見て、子供の顔を見て。
周りを見渡して、考える。
墓地で、歩いていて、確か。
「ああ、そうだ見回りしてたんだ」
目の前に子供と犬が座り込んでいる。どうしてだっけ。
そうだ、こいつらは侵入者だった。
「お前、ここから出て行け」
「ええ、もうちょっと散歩させてよ」
「だめだ、早く立ち去れ」
なおも動かないので大きな声を出すと、犬が吠え、子供が立ち上がった。
「はいはい、分かったわ」
子供が背を向け、犬を引いて歩き出す。提灯の明かりが、離れていく。
一人追っ払ったぞ。青娥、喜んでくれるかな。
見回りを再開し、歩いて行く。上機嫌でいると、誰かが私に声をかけた。
「あのさ」
「んあ?」
音のした方を見ると、犬を連れた子供がこっちを見ている。
「なんだお前、まだ居たのか」
「だって出口はこっちだもの」
そうだったっけ。
「お姉ちゃんは、墓地の見回りがお仕事なの?」
道を思い出そうとしていると、また話しかけられた。前を見ると、やはりこの子が話しかけたようだ。
「そうだ。墓地を守るのが使命だ」
「なんで最近見回りしてるの?」
「あー、えっと」
なんでだっけ。青娥に言われた、ような。
「なんだか、重要な日があって、あー」
月を見上げて暫し歩いて。
結局思い出せずに、目線を戻す。子供と目が合った。
「忘れた」
「なに、それ」
子供が笑う。
「思い出したら、また言う」
私が十字路を真っすぐ進むと、子供は横に曲がった。
そうだ、ここを右に曲がるのが出口だった。
「じゃあね、誇り高いキョンシーさん」
聞こえた声に旋回すると、出口の門の方から声がしたようだった。たぶん、あの子が言ったんだ。
「詳しいじゃないか、お前」
門の向こうで提灯が大きく揺れた。
○ ○ ○
「青娥」
今日は青娥が手伝ってくれるというので、背中を押してもらいながら柔軟体操中。
私が思い出したことを伝えようと、首を僅かに回すと、青娥が正面に顔を覗かせてくれた。
「なに、芳香」
思い出したことは、忘れないうちに言う。最近覚えた大事なことだ。
「犬って、かわいいな」
青娥はきょとんとした顔をしてから、返してくれる。
「ええ、かわいいわよね。どこで見たの?」
「どっかで見た。ふさふさだったぞ。ふさふさ」
青娥が元に戻って、背中を押す。
腰が徐々に曲がるようになって、手の届く範囲が広がる感じは、体操をして良かったと思う瞬間。
「もしかして、飼いたいの?」
「分かんない。けれどたぶん、飼いたい」
青娥の声が、少し途切れる。
「困ったわねえ、芳香がペットかあ」
新しい言葉が聞こえた。ペット。
なんだろう、飼いたいと一緒かな。
「残念だけど、無理じゃないかしら」
無理。
私が犬を飼うのが、無理という意味だな。
「どうしてだ?」
「だってペットを飼うってことは、世話をしなくちゃいけないのよ」
「世話」
「そうそう。それこそ私が芳香にしてるみたい、に」
青娥が全身で、ゆっくりと私の腕を曲げる。
「芳香、忘れたりしない?」
「あう」
「まだ生き物を飼うのは難しいと思うのよね」
その後両腕に続いて、両足が曲げられる。
はいおしまい。と青娥が離れる。
「外れてたり、変なところはないわね」
「うん」
「じゃあ芳香、行ってらっしゃい」
僅かに動く首で頷いて、青娥に背中を向ける。
さて、今日も巡回だな。頑張るぞ。
踏み出す前に、考える。
巡回。どこまでだっけ。
墓地の中だけだ。そうだ。
墓地の地図は忘れてしまったが、全部見回るんだから問題ない。とりあえず道は、右手と左手にある。
どっちに行っていたっけか。
確か、左だ。
おかしいな。
足を引きずって歩きながら、違和感を感じた。今日の巡回は、やけに長く感じる。
柔軟体操をしっかりしたから体もほぐれているし、普段より頭は冴えているのに。
理由を考えても思い出せずに。のろのろ歩いていると、十字路に着いた。
右と真ん中と左。
少し考えて、直進した。
途中で、少し動く首と目玉で、なんとなく左を見た。舗装された道の向こうに、月明りで照らされた門がある。
「そっか、こっちは出口か」
覚えてるぞ。墓地から出ると青娥に怒られるんだ。
よく思い出したぞ、私。えらい。
青娥が居ないので自分で褒めて、機嫌よく、直進した道をゆく。
月も出てきて。機嫌もいいのに。それでもなかなか進んでいる気がしなくて、ざりざりと、普段より大きな音を立てて進む。
十字路を進んだ後に、右目が何かを捉えた。うっすらとした明かりが見える。
ふらふらと明かりに近づいて行くと、提灯が地面に置かれている。それだけでなく、他に何かがそこに居るようだ。
「そこに居るのは誰だ」
侵入者だな。侵入者を追い出すのが、私の使命だ。
屈んでいるらしい侵入者に近付き、背後から威嚇する。
「早くここから立ち去、れ」
背中を見せて小さくなっているのは、どうやら人間の子供のようだった。傍らには何かが座り込んで、どちらも私に背を向けている。
どこかで見覚えがある、ような。
考えているうちに、人間の子供がこちらを振り返った。
「あ」
「こんばんは、キョンシーさん」
「あれ、お前」
人間を見分けるのは苦手だが、この子供は覚えている。最近巡回していると、追い出すことの多い子だ。
「子供」
「やっと覚えてくれた」
すると足元に居るのは、あの獣、犬か。
「と犬」
犬は小さく、微かな声で吠えた。
膝を曲げようとして、やめる。確か、目いっぱい曲げても届かなかったんだ。
「今日の見回りは、遅いのね」
棒立ちの私を見上げるように、屈んだまま顔を上げて問う。
「遅い、か? 今日の私は好調だぞ」
「遅かったわ。お墓参り、済んじゃったもの」
そう言って少女は向きを変え、再び私に背を向けた。
提灯で光る地面近くは見辛いが、月が照らす部分はよく見える。
石のかたまり。
「墓」
そっか。墓地だから、お墓があるのか。
私が口に出すと、少女はなぜか「うん」と返事をした。
それから少し黙って、犬を撫でながら話し始めた。
「ここにね、お母さんが居るの」
犬が低く唸ってから、べったりと地面に伏せる。
「死体か」
「うん? そう、だね」
同意が得られた。
墓に居るんだから、そうだよな。
私の同胞が、ここにも一人居るんだな。
思ってから、なんとなく、口を開く。
「死体も」
すぐに喉の動きを止めた。
死体も案外悪いもんじゃないぞ。
そう言おうかと思って、途中でやめた。なんだか、違う気がする。
「え、なに?」
少女が聞き直してくるので、無視するより、とりあえず答えてやる。
「死体も、元気だぞ」
そうだ。死体は元気なんだ。私も元気だからな。
言ってから下に目を向けると、こちらを見上げる目が四つあった。
犬は笑わなかったが、すぐに少女が吹き出した。
「なに、それ」
「だから、元気なんだ」
「死体が?」
「そうだ。見ろ、私だって死体だ。だからきっと、元気にしてるぞ」
冗談を言ったつもりはないのに、少女はくすくすと笑う。
何か足元で動いた気配がしたと思ったら、犬が舌を出している。黒い舌が見えた。
「なんだ、お前もか、犬」
「お母さん、キョンシーじゃないのにね」
ああ可笑しい。そう言ってから、少女は膝に手を当て立ち上がった。それからもう一度屈み、提灯を手に取る。
「それじゃあ、行こうか」
誰に話しかけたのかと思ったが、私ではないようだ。足元を見て、犬の名らしいものを口にする。
ゆっくりと立ち上がった犬を見ながら、考える。
そうだ、私は墓参りに来たんじゃなかった。見回りの途中だったな。
道順を考えて、右を向いていたことを思い出す。ならば左に旋回すれば、進行方向だ。よしよし、今日は冴えてるぞ。
間違えないよう慎重に向きを直して、意気揚々と歩き始める。
そういえば青娥はなんで警備を命じてたんだっけ。あと少しで思い出せそうなんだけど。
少女の背中と、それに連れられる犬の様子を見ながら歩く。
確か最近、すごい場所と繋がったって。なんだっけ。
少ししてから、あることに気が付いた。
目の前の一人と一匹を呼び止める。
「なあ」
「ん」
振り返る少女に、体を旋回させて、正しい道を教えてやる。
「出口は、あっちだぞ」
さっき通ったから、今日は覚えている。
この向きに進んだ先の十字路を、どっちかに曲がるんだ。
背後の少女はしばらく黙った。
匂いが離れないから、逃げてない、はず。
考えていると、少女はふらりと私の視界へ入って来た。
「そうだったね」
「お」
少女の背中が見えたとき、急に自信が無くなった。
あれ、いいんだよ、な?
これで私は、巡回を再開するんだ。間違ってないはずだ。
侵入者だから、追い返すんだよ、な。
少女はいつもより重そうに、犬を引きずって歩く。
「またね、キョンシーさん」
「お? おお」
少女に続いて犬が通り過ぎるのを見てからも、なんとなくその背を眺める。
からんからんという音と、提灯の明かりが離れていく。
はっとして、今背中を向けている方へゆっくりと旋回する。どっちへ進むのか、忘れないうちに再開しよう。
ぎこちなく、足を踏み出して進む。ざりざりと、大きな音を立てて。背後の下駄の音は、すぐに聞こえなくなった。
ざりざり。
ざりざり。
鼻を動かしても、耳を澄ましても何も見つけられない。
その日の巡回は、やはりやけに長かった。
○ ○ ○
何日だったか。
日数は忘れてしまったけど、順調に見回りをする日が過ぎたある日。青娥が私に、予定を教えてくれた。
「最近お願いしてる巡回なんだけど、一旦お終いになるわ」
「おお」
そっか、時期が来るまで、って言ってたな。
これで使命も一段落なのか。
「明日には準備が整うと思うから、今日と明日で、もう終わりかしら」
「なんか分かんないけど、良かったな。青娥」
ありがと。と返事をしてくれた後に、青娥はいつものように送り出してくれた。
「それじゃああと二日、頑張ってきてね」
「あい」
青娥に背中を押されて、いざ巡回開始。
確か範囲は、墓地の中だけだったはず。
墓地の中は道が入り組んでいて到底覚えられないけど、今目の前には右の道と左の道がある。
どっちの方向へ進んでいたっけ。
考えてから、歩き出す。
右かな。
青娥の体操のおかげで、今日も関節の調子がいい。
ざりざりと。
空を見上げながら、足を動かして進む。
最近気が付いた。自分が歩くと、空も動く。見ていて飽きないし、暇しない。
藪に突っ込んで、立ち止まる。進みすぎたらしい。曲がらなくては。
首を戻して、左に体を向ける。それから、また、歩き出す。
再び上を向こうとして、何かが目に入った。
行く先で、何かが光っている。
月の光じゃない。提灯の明かりみたいな。
からん、からん。
私が進むと、何かの足音が近付いてくる。私の靴音ではない。下駄、みたいな。
ざり、ざり。
からん、からん。
やがて正面から、提灯を持った人間がやって来た。
「こんばんは」
「う」
以前ここで見たことのある、女の子だった。
眼球を動かして、足元を見る。そうだ、この子も下駄をはいていた。
「うー? こん、ばんは」
「こんばんは」
私が返すと、女の子はもう一度挨拶を口にした。
あれ。
何かが、足りない。
そのまま眼球を動かして、上から下まで見てみる。
片手に提灯、片手は下げて。
足元に見えるのは、この子の履いた下駄だけで。
「あ、犬」
口にしてから、目線を上げて顔を見てみた。
女の子は俯いたままだった。
「死んじゃったの」
「死んだ」
犬が。そうか。
「死体か」
「うん。そう、なった」
死体になったのか。そうか。
顔を見ながら、少しぼうっとしていた。女の子も俯いたまま、何も話さない。
目の前を虫が飛んで、腕に付いたのが見えた。
感覚は無い。が、腕を振って飛ばす。
「今日は追い返さないのね」
「あ」
女の子が喋った。
虫を払った目線を戻すと、少女はもう顔を上げていた。
言われてみて思い出す。
そうだった、私は巡回の途中だった。
「いつもは立ち去れって言うのに」
「あー」
なんて言うべきか考えてから、行動する。最近大事だと思ったことの二つ目。
決めてから口を閉じて、回れ右をする。
「戻るか」
振り返ってみると、新鮮な光景だった。そうか、来た道を戻るとこんな風に見えるんだな。
「え」
女の子の驚く声がする。
匂いは離れていない。立ち去ってはいない、筈だ。
「同胞の所へ案内してくれ」
確かこっちだったと、思う。
思い出すのに苦労しつつ、足を進める。後ろから近付く気配がして、女の子が着いて来たのが分かる。
ざり、ざり。からん、からん。
進んだ先で、どっちだったっけ。左だったか、右だったか。
ざり、ざり。からん、からん。
やがて歩いて行くと、背後から女の子に呼び止められる。
「ここだよ」
向き直ると、女の子が提灯を置いて、屈み込んでいた。少し戻って、横に並ぶ。
やっぱり犬は、居ない。
「お母さん、大好きだった犬なの」
手を合わせるようにしてから、じっと墓を見つめる。
「ずっと一緒にいたから、あの子も会いたいかなって、ここを散歩してた」
女の子は手を降ろして地面に近づけてから、自分の足を触った。
「お爺ちゃんだったもんなあ。仕方ないよ」
手を膝に揃えて、再び墓を見つめる。
その様子を見ながら、口を開く。
「じゃあもう散歩は、一人なんだな」
「うん? そうだなあ、来るのはお墓参りの時くらいかな」
「そうか」
お墓参り。
犬のお墓参りもするのかなと、なんとなく思う。
「私の巡回も終わりだ」
「そうなんだ」
一つ、思い出した事がある。
「私はここから引っ越すんだ」
「え。引っ越す」
「そうだ。なんか、みんなが言ってた」
驚いた顔で、女の子が提灯片手に立ち上がる。
「引っ越す? キョンシーが」
「そうだ。キョンシーでも引っ越す」
「別のお墓ってこと?」
「うう、なんだっけ。なんか、すごいとこ」
青娥が前に説明してくれた気がする。けれど、よく思い出せない。
月を見上げて考えていると、視界の外で女の子が笑った。
「なにそれ」
首をゆっくり戻して、顔を見る。
何が可笑しかったのか、よく分からない。とりあえず、今日はよく動く首を傾げてみる。
「まあいっか。満足したし、私は帰るね」
「あう。そうだ、立ち去れ」
少女を前にして、再び歩いた。足音の下駄が鳴り、揺れる提灯が影に隠れたり、現れたりする。
上を見上げて、前を蹴飛ばさぬよう、ゆっくり歩いた。度々首を戻しても、女の子は黙って前を歩いていた。
十字路に着いて、考える。確か右に曲がったら、出口があった、はずだ。
「それじゃ」
女の子が右に曲がる。
十字路の真ん中まで出て、右へ旋回する。
「ばいばい、キョンシーさん」
「おお」
女の子が空いている手を振るので、私も右肩を上げる。手首を曲げようとしても、指先が僅かに前を向いただけだった。
その様子を見て、女の子はもう一度笑った。それから背を向け、門の向こうへ消える。
明かりが見えなくなるまでぼうっとして、左へ向き直った。ゆっくりと、歩き出す。
ざりざりと、足音を立てて。
その日の巡回が終わって青娥にメンテナンスをしてもらう時、なんとなく訊ねてみた。
「青娥、一人の散歩って、寂しいのかな」
青娥は不思議そうな顔をしてから、答えてくれた。
「一人じゃないのに慣れてしまったなら、寂しいかもね。二人で歩くのが普通になっていたなら、尚のこと」
「そっか」
聞いてみたけど、よく分かんない。
今日の出来事を思い返して、呟く。
「犬、居なかったな」
○ ○ ○
頭に衝撃が来て、固い首を揺らす。
二回目の衝撃で、意識がはっきりしてくる。
「あう、あう」
私が漏らしているらしい声を聞きながら、復帰に努める。
目を結んで、開いて。青娥の目線を捉えて、見つめ返す。
目の前の青娥が一つ頷いた。
「うん、これで良し」
青娥が手に持っていた物をしまって、私の様子を見る。
「今日も柔軟体操、していく?」
「うん」
よろしい。と青娥が笑って、背後に回る。頭を両手で持たれて、まずは首の柔軟から。
「芳香、覚えてる?」
「うん?」
後ろに引っ張られて。前に倒されて。
少しずつ、首が動いていく。
「巡回、今日が最後の日よ」
今度は右と、左に。
青娥に体重を掛けられながら、返事をする。
「おお、覚えてるぞ。どこか、引っ越すんだろう」
「よく覚えてたわね。えらいえらい」
お腹に手を回されて、背中を片手で押される。
このお腹の異物感は、くすぐったい、というやつなんだろうか。
「毎日のようにお願いして悪かったわね。お疲れ様」
頭上から青娥の声が降ってくる。
背中を曲げ終えると両肩を素早く動かして、腕を曲げるのに移る。
「頑張ってくれた芳香に、今日はご褒美があるの」
右腕がほぐされて、次は左腕。
青娥の声も、左側に移動する。
「おお。なんだなんだ?」
「体操が終わってからの、お楽しみ」
だからちょっと我慢してね。と。
私の足を抱えて、強く曲げ始める。
なんだか長いし、今日の体操は入念だな。
「おお、青娥、ちょっと曲がりすぎだぞ」
「これくらい大丈夫だから」
なすがままにされていると、完了を告げる青娥の声が、背後から聞こえた。
普段なら目の前から送り出されて、振り返って見回りに向かうのに。
「青娥?」
「ちょっと待っててね。さて、と」
後ろがすごく気になったが、待てと言われたので、そのまま待っている。
しばらくぼうっとしていると、再び誰かが近付いてくる気配がした。青娥が戻って来たのだろうか。
「芳香、こっち向いていいわよ」
青娥の声だ。
言われた通り振り向くぞ。
念のためゆっくりと、後ろへ旋回する。
やはりそこには青娥が立っていた。満足げな顔をして、手を後ろで組んでいる。
「芳香へのご褒美。ちょっとだけ、苦労したんですからね」
わう。
足に、何かが触れる。
それから、聞き覚えのある声がしたことに気が付いた。
「お」
首を下に向けると、一匹の獣がいた。
ふさふさで、四つ足で。私の足に一足を置いて、舌を出している。
「犬」
そうだ、これは犬だ。忠実で、猟もできる賢いやつ。
「おお」
肩を下げて、腕を曲げ。最後に膝を目いっぱい曲げる。
伸ばした手の先に、犬の毛が触れた。少し量は少ないが、青娥の髪とは違う、獣の毛だ。
「おおお」
ふさふさだぞ、青娥。
少し大きな声が出たのか、足元の犬が一度吠えた。
「でもどうして、青娥」
いつだったか、飼うのは無理だと、言っていた気がする。
「その子、死んだ犬なの」
「お」
青娥に向けていた目を、犬に向ける。
こいつも同胞なのか。
「死体」
「そう。鮮度の良いご遺体だったから、上手くできたと思うけど」
青娥の声を聞きながら、犬の目を見る。
べっと出した舌。伏せた姿。こちらを見上げる目。
お前は、もしかして。
「えっと。確か」
あの女の子が口にした名前は何だったか。
思い出せない。
「芳香、どうかした?」
「いや。なんでもない」
一つ首を傾げてから、青娥は普段の様子に戻った。
「その子は散歩したりないみたいだけど、老犬で急場の処置だから、長持ちはしないわ」
「あい」
「一晩だけ、一緒に散歩させてあげなさい」
「あい!」
青娥が犬の首に回っていた綱を持ち、私の片腕に結んでくれる。
私がゆっくりと膝を伸ばすと、犬は綱の結んだ手に近づくように並んだ。
「おお」
一歩歩くと、のろのろと着いて来る。
二歩歩くと、やはりゆっくりと着いて来る。
「お前はお爺ちゃんだから仕方ないな」
わう。
低く犬が吠えて、私の横に伏せる。
私はゆっくりと、後ろを向く。
「青娥」
振り返ってから、一つ、言うことを思い出した。
思い出したら、忘れないうちに。
「青娥、いつもありがとうな」
どうしたの急に。青娥はそう笑ってから、手を振ってくれた。
「最後の巡回、お願いね。行ってらっしゃい芳香」
行く先に向き直り、足元を見る。最後はお前と、見回りだな。
ちらと犬がこちらを見上げて、私も目線を戻す。
巡回は、墓地の中だけ。侵入者が居たら、追い出すこと。
背後には青娥が居て、足元には犬が居て。目の前には二手に分かれた道がある。
右手の方と、左手の方。
道順は覚えられないけど、結局全部回るのだから問題ない。
その上でどちらにしようか考えてから。音を立てて歩き出す。
右だ。
とても好き
ひええ、満点だなんてありがとうございます!
落ちとかよりも文章中の空気に気を使うタイプなので、そう言っていただけると嬉しいです。
>2 様
芳香は本当にゾンビしていたり、全くそれらしさを感じさせなかったり、人によって立ち位置が異なる子だと思います。
私の頭の中では忘れっぽい子程度なので、記憶のオンオフが上手く伝えられたようで良かったです。
>3 様
いつにも増してふわふわした話になってしまった感はありますが、少しでも、後味が良い気分になっていただければそれで充分です。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
>奇声を発する程度の能力様
素敵だなんてもったいないお言葉、ありがとうございます……。
今後も精進して参ります。
>5 様
ありがとうございます。
というか皆さん、すぐ見ていただいたようですね。これぐらいの長さの方が気軽に見ていただけるのでしょうか……。