十四日ぶりに地霊殿へ帰ってきたこいしは、背丈に不釣り合いな長い槍を担いで庭先に現れた。まだ寒風の吹き残る春先の庭に花は無く、短い草を踏んで立っている妹の姿は風景の中に切って貼られたように見えた。
ちょうど芝の上で傘を乾かしていた私は、石門の向こうで歩兵のように立っている妹の姿に驚かされた。驚いた私は「良くお帰り」と言うよりも思わず、「あんた、そんなの持ってきて重くなかったの?」と言ったが、こいしの方では「お姉ちゃんただいま」と言うのを忘れなかった。
どこで拾ってきたものか、こいしの槍は実に長いもので、石突きから切っ先までの高さは使い手の背丈の二倍半もあった。黒く塗られた柄の先端には、鈍色の穂先が光っていた。空中に物差しを当てて線を引いたようにまっすぐであった。全体によく磨きをかけられて艶のある槍だったが、実用をうかがわせる痕跡はほとんど無い。笹穂型に膨らんだ穂先さえ無ければ平凡な樫の杖と同然になるだろうと思った。
そんな槍を担いだまま石門をくぐろうとしたこいしは、当然槍のせいで高さがつっかえたが、穂先で天井をキリキリ傷つけながら強引に通り抜けた。門を入ると、いつも被っている鴉色の帽子を取って砂埃を払いながら、館の西を回って裏へと消えた。
私はしばらく、奇妙な夢でも見ているような心地でいたが、妹の姿が物裏へ隠れて見えなくなると、いったい妹はあの槍で何を突くつもりだろうかという疑問がはじめて頭の中に立ち上がって来たのだった。
「ねえ、何なのよ、それ!」
自分を取り戻した私は、こいしの行ってしまった影へ向かって声を投げた。声は館の壁に当たってカンという音の感じを残した。こだまのように少しの間を置いてから、こいしの声が応えた。
「お姉ちゃん、これ、槍!」
こいしの声もまた同様にカンとなった。
「槍で、何するのよ!」
「龍! 龍を仕留めるの!」
そう物裏から投げ返された言葉は、私の耳に何か謂れ深い暗号のように響いた。
奇妙な返事の跡を追って駆け寄ろうかと思ったそのときには、もう壁越しに気配は消えていた。
十四日ぶりに地霊殿へ帰ってきたこいしは、埃のついた服を着替えることもしないまま、何やら慌ただしく活動し始めた。
物置部屋からのこぎりを持ち出し、玄関口の石段を作業場にして、槍の尺を石突きの方からザクザクと切り詰めた。四分の一ほども切って捨ててしまうと、今度は手頃な釣り合いになった獲物を確かめるように庭先で危なっかしく振り回す。私は十分離れた位置から妹を眺めていた。
先週刈り込んだばかりの薮垣を破壊してようやく素振りに納得したらしいこいしは、また帽子を取って丁寧に埃を払った。そうして、そのからっぽうな中をじっとのぞき込むようにしながら、今度は台所の方へと入っていく。うっかりして皿を割られたりしたくないと思ったので、私も急いであとからついていった。
こいしはかまどのところまで歩いて来ると、壁にぶら下がった大小の鍋の中から、黒い中華鍋を一つ取った。そうして帽子をかぶった頭の上からさらに兜のようにそれをかぶせてにやりとした。鍋の大きさはちょうど帽子を覆い隠して、あつらえたようにぴったりとしていた。
「お姉ちゃん、私、何に見える?」
そう訊かれた私は「いつもと同じ妹よ」と言いかけたが、ちょっと考え直してから「龍を仕留める人」と答えた。この答えにこいしは満足らしくうんうんと頷いた。そうして、お礼と言うように私の頭にも一回り小さい鍋をかぶせてくれた。
「何に見えるかしら」
私も同じように訊き返してみた。
こいしは間を置かず「龍狩りについて来る人」と答えた。
・
十四日ぶりに帰ってきた地霊殿を、こいしは一刻も過ごさずにまた出発した。
道は地霊殿の周囲までは赤石畳が敷かれてあったが、すぐに荒れて砂利ばかりになる。歩きにくい足元を、前を行くこいしにしたがってとんとん飛び越えながら進んだ。こんな、屋敷からほんの目と鼻の距離へ出てくることさえ、私にとっては随分久しぶりのことだった。
二日前から夜を寒くしていた青い雨は今朝やんで、姉妹の上には発光性の輝石の明るさが木漏れ日のようにやわらいでいた。
鐘乳石の階段状に重なった狭い坂道をぐるぐる上り、やがて道は旧都へ入った。私はこいしの案内について、久しぶりに訪れるにぎやかな店屋通りの坂を上った。中華鍋を被った姉妹が人混みの中を通り抜けていくのは傍から見ればすこぶる奇観だろうと思ったが、誰も気付いた様子は無い。行き会う人々は皆食べ物のことばかり考えている。
「お姉ちゃん、龍はね、物凄くすばやいから気を付けないとだめだよ」
不意にくるりと向きを変え、後ろ歩きをしながらこいしが言った。
「気を付けないと、食べられるよ」
そう言った拍子に、肩に担いだ槍がすれ違いかけた土蜘蛛の頭を打ったが、土蜘蛛もこいしも互いに気付いた様子は無かった。
こんな妹に気を付けろと言われても、私はどう備えればいいか分からない。そこでいい加減な返事をする代わりに「本当に龍がいるの?」と、そもそも疑わしい部分へ切り込んだ。
こいしは「いる」と言う代わりに、歩いて行く上り坂の向こうに槍を掲げて見せた。
「龍はね、目がものすごく光ってるのよ! 唸り声で地響きが鳴るのよ! 穴の中で出くわすと、追いかけてきて食べられるのよ! 全長は旧都の街道よりも長かったし、頭は庭の石門がつかえてくぐれないほど大きかった!」
龍の凄まじさを話すとき、こいしの声もあらん限り大きくなった。私はうんうん頷きながら、鍋の下の頭を掻いた。
猛烈な勢いで喋る妹とは対照、私には疑問ばかりあった。自分の知る龍は空を飛ぶ生き物であって、こいしの言うような立派そうな龍が陰気な地面の下で這い回っているという話は、出任せでなければ不可解に思われる。あるいは、不確認なこいしが大蛇を龍と見間違えて大袈裟な話をするのではないかとも思われた。
胸中で冷淡な想像ばかりしている姉を引っ張って、妹の脚は早まった。
こいしの案内する道は、旧都を抜けてなおいっそう上り道だった。川が見えて水橋を渡ってもまだ上る。ついに地上へ通じる竪穴まで来ると、ある程度のところから真っ暗な横穴へ飛び込んで、込み入った洞窟の迷路を右や左へ歩き回った。穴の道は足元ががたがたして、石も土も固かった。天井は所により高くなったり低くなったりしたので、上の方からはときどきにカツンカツンと槍のつっかえる音が鳴った。
横穴へもぐり始めて十分ほどすると、行く手の暗闇に何やら大きな岩が割れて崩れたような亀裂が見えた。
「ここを通れって言うの?」
「お姉ちゃんなら出来るよ」
鍋をのせた頭を屈めて亀裂から這い出すと、横穴の狭かったのが不意に開けた場所へ出た。
奇妙な場所だった。巨大な坑道のような暗く長い伽藍の中である。壁も床も灰色い石で出来ており、その全てが表面を平たく角に切られてある。そうして壁の迫る左右には、太い石の柱が前後果てしなく立ち並んで、平たい天井を支えている。私達姉妹の他には誰も居ないらしい。ただ砕かれた石の欠けっぱしばかりが散らかっている。坑道の向こうからはコウコウと重たい風が、ゆっくりと動いてくる。廃棄された神殿のようだと思った。
「これ、龍の巣穴よ」
私より前に亀裂を出ていたこいしが言った。伽藍の中は音がよく反響して、今耳に届いた声がこだまを伴って壁を伝い、だんだん遠くへ逃げていくように聴こえた。
思いがけない光景の中に立って呆然としている私をよそに、こいしは「こっちだよ」とすぐまた歩きだす。
こいしの目的地まではそこから少しの距離も無かった。這い出してきた亀裂から右に折れて十間ほど歩くと、前を歩いていたこいしが右手の壁際へ横っ跳びに跳んで、槍を伏せながらしゃがみ込んだ。私は「何してるの」と言おうとしたが、逆にその出がかりを遮られて「お姉ちゃんこっちに来て!」と叱られた。
「ここで仕留める」
そう言うこいしに倣って後ろにしゃがみ込んでみると、壁際の地面は一段低く溝になっている。ここに身をひそめて龍を待つという計画らしかった。
姉妹の足音が止んでしまうと、伽藍の中に動くものは空気だけになった。空気は相変わらず動いている。頭の上を通り過ぎるその音を聞いていると、遥か地上を流れる山川が地面を通して響きを伝えてくるような気がした。頭の鍋を取ってこの風に当たりたいと思ったが、また妹に叱られるかもしれないので我慢した。代わりに、少しだけ顔を上げて坑道の続く先を見た。その先は緩やかな左曲りになっている。
「ここで仕留める」
そう繰り返すこいしはまったくいつの間にか立ち上がって私の前に立っていた。こいしが立つと、私の視界は暗闇の中に、妹の丸っこい背中と、何を考えているのか分からない横顔だけになった。
しばらくの間、私は空気の音を聞きながら、妹の後ろ姿を見ているその時その状況を、何か不適当なもののように思った。しかしそれが何を誤ってしまっているのか、はっきりとした原因を心に思うことはなかなか出来にくかった。
不意に言葉が出た。
「あんた、龍を仕留めて、それでどうするの?」
このとき、私がこう訊いたことは、ほとんど無意識に近い習慣のようなものだった。妹の行動が意思の力によらない全くの反射的であることを私は理解している。そのためなのか、私の声は平然としていたが、確かに不思議そうな表情を含んでいた。
しかしその一方、問われて振り向いたこいしの顔には、表情が無かった。もしこういう言い方が出来るなら、こいしの無意識はどう振る舞うべきか迷っているように見えた。
「お姉ちゃん、私、何に見える?」
たっぷりと溜めこんでからようやく口を開くと、それがこいしの返事であった。
途端、私の目の前に、ある後悔の影が差した。にわかにハッと、背中を強く突かれたような気がした。私は今朝、十四日ぶりに地霊殿へ帰ってきた妹に「良くおかえり」と普段通りに言うべきであった。
私はこいしの手を見た。黒くまっすぐな槍を握りしめ、何か祈るようにして胸に抱いている。また、こいしの顔を見た。帽子の上から黒い中華鍋を兜のようにかぶっている。私は、地霊殿の台所で今と同じ質問をされたあのとき、「いつも通りの妹よ」と答えるべきであったのに。
「あんた私の妹よ」
気が付いた私は急き込みながらそう言って、また、前の間違いを償うように同じ言葉を二度繰り返した。
一度目を言い、それを聞いたこいしの表情が変わろうとしていた直前のこと、坑道の中に突然として岩なだれのような地響きが鳴り湧いた。こいしはさっと前へ向き直り、せっかくの私の二度目は埃っぽく汚れた背中に吸い込まれてしまった。
地響きは激しさを増して近づいて来る。槍を握ったこいしが膝立ちで頭を低く下げて待ち構えた。数秒の後、左曲がりの向こうがカッと物凄い光を噴きだし、溢れるような明るさの中からこいしの待つ龍が飛び込んで来た。
初めの一瞬は、その場の影を消してしまうような光の中に飲み込まれて何も分からなかった。そこからまず判別出来たものは金色に光る二つの丸い目だった。そうして大きな四角い窓の付いた銀の顔、次に音立てて回る幾つもの大きな車輪たちに気が付いた。
「機械!」
そう叫んだときには機械の龍はあと数秒で触れるほどの位置にまで接近していた。私の声は光にも増して強烈な轟音に吹きちぎられてしまい、それが聴こえていたのかどうか、私にはこいしの心も龍の心も分からなかった。
とっさの行動で、こいしの肩を掴んで溝の底へ引っ張り抱き込んだ。こいしは意外なほど簡単に私の腕の中へ落ちてきた。その勢いでこいしの手を離れた槍が頭から降ってきたが、二人とも鍋をかぶっていたおかげで怪我はせずに済んだ。
それから二秒ほど遅れて、機械の龍は私達の居る溝の脇を走り過ぎていった。龍の胴体は長く、何秒にもわたる怖ろしい音と振動の下で私はうつ伏せのまま、じっと身を低くして、無我夢中でこいしを固く捕まえていた。
「あんた私の妹よ、あんた私の妹よ」
誰の声も聞こえない暗中で、同じ言葉を何度も繰り返したような気がしたが、それは私の口を衝いて出たものか、あるいはただ心に思ったものだったか、ちょっと分からない。
はじめ、洪水のようになだれ込んできた光と轟音は、訪れたときと同じ速度で容赦も未練も無く過ぎ去った。私とこいしは顔を上げて、瞬く間に遠くなって行く龍を見送った。龍は最後に耳が痛くなるような金切り声をひとつ上げて、地下道の暗闇の中にだんだん小さく包まれ消えた。
ふと気付くと、この世の終わりのようだった激変の後には、それまでとすっかり同じ暗さと静かさが残されていた。私の隣でこいしがかぶっていた鍋をとり、「お姉ちゃん、もう帰ろう」と言った。私はすかさず「帰ろう」と頷いて、自分も鍋の兜を脱いだ。丁度そこへ、龍の背中を追ってきたように一拍遅れた強風が坑道の中を吹き抜けた。風はこいしの髪を肩から掬い上げ、ばさばさと物凄くなびかせた。
例の槍は、いつの間にか気の付かないうちにどこかへ消えていた。
ちょうど芝の上で傘を乾かしていた私は、石門の向こうで歩兵のように立っている妹の姿に驚かされた。驚いた私は「良くお帰り」と言うよりも思わず、「あんた、そんなの持ってきて重くなかったの?」と言ったが、こいしの方では「お姉ちゃんただいま」と言うのを忘れなかった。
どこで拾ってきたものか、こいしの槍は実に長いもので、石突きから切っ先までの高さは使い手の背丈の二倍半もあった。黒く塗られた柄の先端には、鈍色の穂先が光っていた。空中に物差しを当てて線を引いたようにまっすぐであった。全体によく磨きをかけられて艶のある槍だったが、実用をうかがわせる痕跡はほとんど無い。笹穂型に膨らんだ穂先さえ無ければ平凡な樫の杖と同然になるだろうと思った。
そんな槍を担いだまま石門をくぐろうとしたこいしは、当然槍のせいで高さがつっかえたが、穂先で天井をキリキリ傷つけながら強引に通り抜けた。門を入ると、いつも被っている鴉色の帽子を取って砂埃を払いながら、館の西を回って裏へと消えた。
私はしばらく、奇妙な夢でも見ているような心地でいたが、妹の姿が物裏へ隠れて見えなくなると、いったい妹はあの槍で何を突くつもりだろうかという疑問がはじめて頭の中に立ち上がって来たのだった。
「ねえ、何なのよ、それ!」
自分を取り戻した私は、こいしの行ってしまった影へ向かって声を投げた。声は館の壁に当たってカンという音の感じを残した。こだまのように少しの間を置いてから、こいしの声が応えた。
「お姉ちゃん、これ、槍!」
こいしの声もまた同様にカンとなった。
「槍で、何するのよ!」
「龍! 龍を仕留めるの!」
そう物裏から投げ返された言葉は、私の耳に何か謂れ深い暗号のように響いた。
奇妙な返事の跡を追って駆け寄ろうかと思ったそのときには、もう壁越しに気配は消えていた。
十四日ぶりに地霊殿へ帰ってきたこいしは、埃のついた服を着替えることもしないまま、何やら慌ただしく活動し始めた。
物置部屋からのこぎりを持ち出し、玄関口の石段を作業場にして、槍の尺を石突きの方からザクザクと切り詰めた。四分の一ほども切って捨ててしまうと、今度は手頃な釣り合いになった獲物を確かめるように庭先で危なっかしく振り回す。私は十分離れた位置から妹を眺めていた。
先週刈り込んだばかりの薮垣を破壊してようやく素振りに納得したらしいこいしは、また帽子を取って丁寧に埃を払った。そうして、そのからっぽうな中をじっとのぞき込むようにしながら、今度は台所の方へと入っていく。うっかりして皿を割られたりしたくないと思ったので、私も急いであとからついていった。
こいしはかまどのところまで歩いて来ると、壁にぶら下がった大小の鍋の中から、黒い中華鍋を一つ取った。そうして帽子をかぶった頭の上からさらに兜のようにそれをかぶせてにやりとした。鍋の大きさはちょうど帽子を覆い隠して、あつらえたようにぴったりとしていた。
「お姉ちゃん、私、何に見える?」
そう訊かれた私は「いつもと同じ妹よ」と言いかけたが、ちょっと考え直してから「龍を仕留める人」と答えた。この答えにこいしは満足らしくうんうんと頷いた。そうして、お礼と言うように私の頭にも一回り小さい鍋をかぶせてくれた。
「何に見えるかしら」
私も同じように訊き返してみた。
こいしは間を置かず「龍狩りについて来る人」と答えた。
・
十四日ぶりに帰ってきた地霊殿を、こいしは一刻も過ごさずにまた出発した。
道は地霊殿の周囲までは赤石畳が敷かれてあったが、すぐに荒れて砂利ばかりになる。歩きにくい足元を、前を行くこいしにしたがってとんとん飛び越えながら進んだ。こんな、屋敷からほんの目と鼻の距離へ出てくることさえ、私にとっては随分久しぶりのことだった。
二日前から夜を寒くしていた青い雨は今朝やんで、姉妹の上には発光性の輝石の明るさが木漏れ日のようにやわらいでいた。
鐘乳石の階段状に重なった狭い坂道をぐるぐる上り、やがて道は旧都へ入った。私はこいしの案内について、久しぶりに訪れるにぎやかな店屋通りの坂を上った。中華鍋を被った姉妹が人混みの中を通り抜けていくのは傍から見ればすこぶる奇観だろうと思ったが、誰も気付いた様子は無い。行き会う人々は皆食べ物のことばかり考えている。
「お姉ちゃん、龍はね、物凄くすばやいから気を付けないとだめだよ」
不意にくるりと向きを変え、後ろ歩きをしながらこいしが言った。
「気を付けないと、食べられるよ」
そう言った拍子に、肩に担いだ槍がすれ違いかけた土蜘蛛の頭を打ったが、土蜘蛛もこいしも互いに気付いた様子は無かった。
こんな妹に気を付けろと言われても、私はどう備えればいいか分からない。そこでいい加減な返事をする代わりに「本当に龍がいるの?」と、そもそも疑わしい部分へ切り込んだ。
こいしは「いる」と言う代わりに、歩いて行く上り坂の向こうに槍を掲げて見せた。
「龍はね、目がものすごく光ってるのよ! 唸り声で地響きが鳴るのよ! 穴の中で出くわすと、追いかけてきて食べられるのよ! 全長は旧都の街道よりも長かったし、頭は庭の石門がつかえてくぐれないほど大きかった!」
龍の凄まじさを話すとき、こいしの声もあらん限り大きくなった。私はうんうん頷きながら、鍋の下の頭を掻いた。
猛烈な勢いで喋る妹とは対照、私には疑問ばかりあった。自分の知る龍は空を飛ぶ生き物であって、こいしの言うような立派そうな龍が陰気な地面の下で這い回っているという話は、出任せでなければ不可解に思われる。あるいは、不確認なこいしが大蛇を龍と見間違えて大袈裟な話をするのではないかとも思われた。
胸中で冷淡な想像ばかりしている姉を引っ張って、妹の脚は早まった。
こいしの案内する道は、旧都を抜けてなおいっそう上り道だった。川が見えて水橋を渡ってもまだ上る。ついに地上へ通じる竪穴まで来ると、ある程度のところから真っ暗な横穴へ飛び込んで、込み入った洞窟の迷路を右や左へ歩き回った。穴の道は足元ががたがたして、石も土も固かった。天井は所により高くなったり低くなったりしたので、上の方からはときどきにカツンカツンと槍のつっかえる音が鳴った。
横穴へもぐり始めて十分ほどすると、行く手の暗闇に何やら大きな岩が割れて崩れたような亀裂が見えた。
「ここを通れって言うの?」
「お姉ちゃんなら出来るよ」
鍋をのせた頭を屈めて亀裂から這い出すと、横穴の狭かったのが不意に開けた場所へ出た。
奇妙な場所だった。巨大な坑道のような暗く長い伽藍の中である。壁も床も灰色い石で出来ており、その全てが表面を平たく角に切られてある。そうして壁の迫る左右には、太い石の柱が前後果てしなく立ち並んで、平たい天井を支えている。私達姉妹の他には誰も居ないらしい。ただ砕かれた石の欠けっぱしばかりが散らかっている。坑道の向こうからはコウコウと重たい風が、ゆっくりと動いてくる。廃棄された神殿のようだと思った。
「これ、龍の巣穴よ」
私より前に亀裂を出ていたこいしが言った。伽藍の中は音がよく反響して、今耳に届いた声がこだまを伴って壁を伝い、だんだん遠くへ逃げていくように聴こえた。
思いがけない光景の中に立って呆然としている私をよそに、こいしは「こっちだよ」とすぐまた歩きだす。
こいしの目的地まではそこから少しの距離も無かった。這い出してきた亀裂から右に折れて十間ほど歩くと、前を歩いていたこいしが右手の壁際へ横っ跳びに跳んで、槍を伏せながらしゃがみ込んだ。私は「何してるの」と言おうとしたが、逆にその出がかりを遮られて「お姉ちゃんこっちに来て!」と叱られた。
「ここで仕留める」
そう言うこいしに倣って後ろにしゃがみ込んでみると、壁際の地面は一段低く溝になっている。ここに身をひそめて龍を待つという計画らしかった。
姉妹の足音が止んでしまうと、伽藍の中に動くものは空気だけになった。空気は相変わらず動いている。頭の上を通り過ぎるその音を聞いていると、遥か地上を流れる山川が地面を通して響きを伝えてくるような気がした。頭の鍋を取ってこの風に当たりたいと思ったが、また妹に叱られるかもしれないので我慢した。代わりに、少しだけ顔を上げて坑道の続く先を見た。その先は緩やかな左曲りになっている。
「ここで仕留める」
そう繰り返すこいしはまったくいつの間にか立ち上がって私の前に立っていた。こいしが立つと、私の視界は暗闇の中に、妹の丸っこい背中と、何を考えているのか分からない横顔だけになった。
しばらくの間、私は空気の音を聞きながら、妹の後ろ姿を見ているその時その状況を、何か不適当なもののように思った。しかしそれが何を誤ってしまっているのか、はっきりとした原因を心に思うことはなかなか出来にくかった。
不意に言葉が出た。
「あんた、龍を仕留めて、それでどうするの?」
このとき、私がこう訊いたことは、ほとんど無意識に近い習慣のようなものだった。妹の行動が意思の力によらない全くの反射的であることを私は理解している。そのためなのか、私の声は平然としていたが、確かに不思議そうな表情を含んでいた。
しかしその一方、問われて振り向いたこいしの顔には、表情が無かった。もしこういう言い方が出来るなら、こいしの無意識はどう振る舞うべきか迷っているように見えた。
「お姉ちゃん、私、何に見える?」
たっぷりと溜めこんでからようやく口を開くと、それがこいしの返事であった。
途端、私の目の前に、ある後悔の影が差した。にわかにハッと、背中を強く突かれたような気がした。私は今朝、十四日ぶりに地霊殿へ帰ってきた妹に「良くおかえり」と普段通りに言うべきであった。
私はこいしの手を見た。黒くまっすぐな槍を握りしめ、何か祈るようにして胸に抱いている。また、こいしの顔を見た。帽子の上から黒い中華鍋を兜のようにかぶっている。私は、地霊殿の台所で今と同じ質問をされたあのとき、「いつも通りの妹よ」と答えるべきであったのに。
「あんた私の妹よ」
気が付いた私は急き込みながらそう言って、また、前の間違いを償うように同じ言葉を二度繰り返した。
一度目を言い、それを聞いたこいしの表情が変わろうとしていた直前のこと、坑道の中に突然として岩なだれのような地響きが鳴り湧いた。こいしはさっと前へ向き直り、せっかくの私の二度目は埃っぽく汚れた背中に吸い込まれてしまった。
地響きは激しさを増して近づいて来る。槍を握ったこいしが膝立ちで頭を低く下げて待ち構えた。数秒の後、左曲がりの向こうがカッと物凄い光を噴きだし、溢れるような明るさの中からこいしの待つ龍が飛び込んで来た。
初めの一瞬は、その場の影を消してしまうような光の中に飲み込まれて何も分からなかった。そこからまず判別出来たものは金色に光る二つの丸い目だった。そうして大きな四角い窓の付いた銀の顔、次に音立てて回る幾つもの大きな車輪たちに気が付いた。
「機械!」
そう叫んだときには機械の龍はあと数秒で触れるほどの位置にまで接近していた。私の声は光にも増して強烈な轟音に吹きちぎられてしまい、それが聴こえていたのかどうか、私にはこいしの心も龍の心も分からなかった。
とっさの行動で、こいしの肩を掴んで溝の底へ引っ張り抱き込んだ。こいしは意外なほど簡単に私の腕の中へ落ちてきた。その勢いでこいしの手を離れた槍が頭から降ってきたが、二人とも鍋をかぶっていたおかげで怪我はせずに済んだ。
それから二秒ほど遅れて、機械の龍は私達の居る溝の脇を走り過ぎていった。龍の胴体は長く、何秒にもわたる怖ろしい音と振動の下で私はうつ伏せのまま、じっと身を低くして、無我夢中でこいしを固く捕まえていた。
「あんた私の妹よ、あんた私の妹よ」
誰の声も聞こえない暗中で、同じ言葉を何度も繰り返したような気がしたが、それは私の口を衝いて出たものか、あるいはただ心に思ったものだったか、ちょっと分からない。
はじめ、洪水のようになだれ込んできた光と轟音は、訪れたときと同じ速度で容赦も未練も無く過ぎ去った。私とこいしは顔を上げて、瞬く間に遠くなって行く龍を見送った。龍は最後に耳が痛くなるような金切り声をひとつ上げて、地下道の暗闇の中にだんだん小さく包まれ消えた。
ふと気付くと、この世の終わりのようだった激変の後には、それまでとすっかり同じ暗さと静かさが残されていた。私の隣でこいしがかぶっていた鍋をとり、「お姉ちゃん、もう帰ろう」と言った。私はすかさず「帰ろう」と頷いて、自分も鍋の兜を脱いだ。丁度そこへ、龍の背中を追ってきたように一拍遅れた強風が坑道の中を吹き抜けた。風はこいしの髪を肩から掬い上げ、ばさばさと物凄くなびかせた。
例の槍は、いつの間にか気の付かないうちにどこかへ消えていた。
台詞回しもいいですね。あんた私の妹よ、って繰り返す所が好きです。
とてもこいしちゃんでした
>鐘乳石の階段状に重なった狭い坂道をぐるぐる上り、やがて道は旧都へ入った。
さりげない地底描写もまた良かったです
無意識下の愛情察せれるのは姉妹の繋がりが深いからですよね、素敵でした
面白かったです!
さとりのこいしへの思いに心を打たれたかな