1 レミィが呪われた椅子を作った
まどろみの中で、夢を見た。たわいのない夢。椅子を立ち、書架へ本を取りに行く。椅子へ戻ると、レミィが私のところへ来ていて、ひらひら手を振る。何をするでもなく、テーブルの向かいに座って、私は本を読んでいる……。レミィは退屈そうにして、私を真似て、ページをめくる。何を読んでいるの。アルベール・カミュ。何を読んでいるの。何を読んでいるの。アナトール・フランス。何を読んでいるの。人間心理の本。何を読んでいるの。薬草学。何を読んでいるの。仏教美術。……幾日も、私たちはそうしていられる。私たちはそういう時間の使い方をする。
目が覚めてから、レミィがいないことに気がついた。レミィが私のところへ来るのが当然のことだと思っているから、こんな夢を見る。
レミィが図書館へ来なくなって結構な時間が経つ。珍しいこともあるものだと思う。レミィはいつでも退屈しているから、何か面白いことがないかと、図書館には良く来る。代わり映えがしないのを見て、「つまんない」と帰っていくだけのことが多いけれど。
今、幻想郷で何かが起こっている風でもない。レミィが来ないのは、何か面白いことを見つけて、遊んでいるのだろう。そう、私は思った。
レミィが来ていると嬉しい。けれど、夢に見るほどだとは思わなかった。本を読んでいればいい、一人の方が気楽だ、と思っていたけれど。自分の心を観察した。どうにも、そういうことらしい。
レミィの方でも、例えて言うなら友達が、自分ばっかり遊びに誘うようなもので、これでは一方的な関係なのではないかと思っても仕方ないだろう。たまには、私の方から会いに行かなくては、悪いことのようにも思えてくる。
会いに行くのがいいか。私は気紛れにそう思った。レミィを尋ねるのなんて、何ヶ月、何年ぶりだろう。私は身体を起こして、図書館を後にした。
洋館の中には、影が色濃く映っている。魔法の明かりが廊下を照らしている。壁を這うようにいくつもの影が伸び、進むたびに消えて、また生まれを繰り返す。窓の外の暗闇が、ガラスを鏡のように見せている。ガラスの向こうは、黒く、濡れている。
必要のないことをしている、とも思った。レミィに会いたい気持ちはあるが、会って何をするかということは思いつかない。したいこともない。ないまま、とりあえず会いに行こうとしている。それで、何をするのだと思えば、別に……、という、気分にもなる。そもそも、本を読みたい、という気持ちもある。別に、レミィのところへ行く必要はない。私は必要のないことをしている……。
レミィの部屋の前に来る。重厚な扉があって、いつも押し開けるのに苦労する。レミィは自分で開けないから、楽なことだろう。ノックをすると、返事がある。
「だあれ」
「私よ」
「ワタシ。わ、た、し……変わった名前ね」
「いいから。入るわよ」
ぐい、ぐい、と、身体を使って押し開けていると、咲夜が手を貸してくれた。何故か咲夜は、シルクハットを被って、付けひげをつけている。布を片腕に掛けている様は、まるで執事みたい。何をやっているんだろう? 部屋の中では、レミィが椅子に深く腰かけて座っている。
「珍しいお客様だこと」
「そうかしら」
「そうよ。あなたが私の部屋に来るなんて、何十年ぶりかしら」
もうそんなになるかな。と、思っていたら、レミィがくすくす笑っている。冗談だったかもしれない。冗談だとしても分からないほど、ご無沙汰だ。
私は存外、ひどい、というか、情の薄い奴らしい。友達づきあいも、長くなれば希薄になるものか、それともこんな風になっても友達づきあいを続けていられることをありがたく思うべきか。
「あら。昔を思い出しちゃった?」
「誰が」
「ふふん。そんな顔をして、説得力のないこと」
知らんふりをして、私もレミィの向かいの椅子に、座ろうとした。レミィはそれを制止した。
「あ、ストップ! ストップ。座っちゃだめよ、パチェ」
「どうしてよ。新しく、客人に座らせないマナーでも作ったの?」
「ちょっと椅子に呪いをかけてね。呪われるわよ」
私は振り向き、椅子を見た。呪いのオーラは感じられない。冗談かと思った。
「……本当?」
「かくいう私も、つい座ってしまってね」
レミィの座っている椅子は、変わったところはない。ちょっと豪華なだけだ。疑わしく思った。
「また、レミィってば。嘘でしょう」
「本当だってば」
私はレミィの手を引いてみた。レミィの手が伸びた。力いっぱい引いてみても、レミィは動こうとしなかった。私の力が足りないだけかもしれない。うんうんうなって、片足を椅子にかけて引っ張ったけど、動かない。
「痛い、痛いってば」
「本当に言ってるの?」
「うん。立てないのよ。まるで地獄の椅子みたいだわ。冥界の椅子から立てなくなったテセウスを立たせたという、ヘラクレスなら立たせられるかしら。それで、もう長いこと座りっぱなしなのよ。咲夜が退屈を紛らわしてくれるけど、限界よ。退屈で仕方ないわ」
奇妙な格好をした咲夜が、一輪車を持って出てくる。紅茶のポットとカップ、それから林檎の乗ったおぼんを持って、一輪車に乗りながら紅茶を入れている。林檎の皮を剥き、カップに浮かべる。
「アップルティーですわ」
一輪車をきこきこ漕いで、テーブルにアップルティーを置いて下がってゆく。一輪車の操縦にも危なげなところはない。レミィがアップルティーに口をつける。
「面白いでしょう」
「いいえ、あんまり」
「そう? 転んでほしいところで転んでくれるのよ」
レミィが目配せをすると、咲夜はアイコンタクトを受け取り、絶妙なタイミングですっ転んで吹っ飛んだ。カップは吹き飛び、頭にお茶がかかって、転がって熱がった。レミィが楽しそうにけらけら笑った。
「パチェもやる?」
「遠慮しておくわ」
「パチェもやりなさいよ。きっと面白いわ」
「私は面白くない」
つまらない、とレミィは言った。心底つまらなそうだった。さっき咲夜が笑った時も、腹の底から笑った感じではなかった。
「ああ、退屈だわ。何をする? チェス? 花札? トランプ? 外の世界から来た、テレビゲームというのをやってもいいのよ」
「読書でもしたらどう?」
「本を読むのも面白いけどね」
部屋の片隅には、読み終わったらしい漫画が積み上げてあった。飽きるほど読んだのだろう。まあ、やってもいいけどね。
「じゃあ、チェスでもする?」
よくてよ、とレミィが答えた。咲夜があっという間に用意を済ませた。さっき転んだばかりだというのに、服は綺麗になっていて、格好もいつもの通りに戻っていた。普通の椅子も持ってきてくれていた。
「呪いの椅子に座らせたら良かったかも。そうしたら、話し相手ができたわ」
「私は……。まあ、本を読めたらいいけど」
ふん、とレミィは言った。チェスが始まった。
チェスの決着はつかなかった。途中で食事の時間になったため、中断して置いておいた。「またやりましょう」とレミィは言った。
それから、唐突にレミィは言った。急に思いついたらしい。
「そうだ。パチェ、皆を集めてきて。それで、私を楽しませるの」
「ええ……?」
「もちろん、ただとは言わないわ。私を楽しませてくれた人には、報償を与えるの。報酬が出るとなれば、遊びに来る連中もいっぱい来ようと言うものよ。どう。領主らしいお遊びだと思わない」
ふふん、とレミィはふんぞり返って、楽しそうだ。ふうん。
「私が探すの?」
「たまにはいいでしょ。咲夜は私の身の回りのお世話があるもの。それに、一人だと退屈だわ。咲夜には、私を楽しませてもらわないと」
「咲夜に、椅子を背負って歩いてもらえばどう」
「パチュリー様、あまり無理を言わないでください」
咲夜が、料理の用意を済ませて、レミィの脇に立った。ありがとう、とレミィが言い、私は中座しようと腰をあげた。
「パチュリー様の分も用意してあります。どうぞそのまま」
「あら。気が利くのね、咲夜」
「そうしたいかなと思いまして。妹様にも声を掛けたのですが、いらない、と」
「一人の方が気楽なんでしょう。放っておきなさい。それより、咲夜も一緒にどう」
「いえ、私も、一人で取る方が気楽ですから、後で頂きます」
そう、とレミィが言った。殊更に追求はしなかった。私にとっては珍しい、豪勢な夕食が始まった。
次の日の朝のこと。まあ、豪華な夕食を貰ったお礼というわけではないけれど、私はレミィのために、暇そうな人々に声を掛けて回ることにした。念のためレミィを覗きに行くと、相変わらず椅子に座っていた。どうやら立ち上がれるようにはなっていないようだった。レミィは「いってらっしゃい。よろしくね。できるだけ早くね」と言った。着替えとか、どうしてるんだろう。
私が部屋を出ると、おそらく時を止めて歩み寄ったのだろう。唐突に、咲夜が私のごく近くに現れた。「パチュリー様。急ぎお願いします」それだけを言ってぱっと消えた。どうも咲夜もきついらしい。
やれやれ。
2 レミィのために暇潰しを探して歩いた
博麗神社に来るのは、何やら久々な心地だ。魔理沙は時々、図書館へ勉強に来るけれど、巫女が館へ来ることは滅多にない。レミィはよく遊びに来るそうだけど……。
境内に入っても、巫女の姿は無かった。奥へ回ると、巫女はこたつの中で寝ていた。横向きになり、布団に半ば顔を埋めている。あどけない寝顔をしていた。和ごたつというのは、どうも、床に横たわっているようで、慎みが無いわ、と、私は考えた。足を置くところに横になる、というのが、今ひとつ想像の付かない心地だ。
そうやってしげしげと霊夢を見ていると、背後から、私に声をかける奴がいた。
「何をやってるんだ」
魔理沙だ。私は振り返った。
「魔理沙、お久しぶり。何をやってるって、言われても……」
「妙だぜ。お前が外に出ることも妙なら、神社へ来ることも妙だし、霊夢の顔を覗き込んでいるのも妙だ。そんなことをする奴だったか?」
「そういうことをしない奴でいたつもりもないわよ」
「妙な言い分だぜ」
魔理沙は日の中に立っていた。箒を担ぎ、やれやれ、と片腕を持ち上げてみせた。
「ところで、魔理沙。あなた、面白いことはできる?」
「面白いことだと? ずいぶんざっくりした物言いだな」
「レミィがね、面白いことをできる人を探しているの。退屈しているみたいでね」
「なんだ。いつものことじゃないか」
「楽しませられたら、報償が出るそうよ」
「王様みたいな言い分だな」
ふぅん、と魔理沙は呟いた。座敷に上がり込み、霊夢の傍らにあぐらを掻くと、霊夢の頬をかりかり掻いた。うぅん、と霊夢がうめき、眠ったまま手を振って、魔理沙の手を払った。
「考えておいてやるよ。霊夢にも言っておくよ」
「ええ。ついでにその調子で広めてちょうだい。私は面倒だから」
「なんだよ。勝手なやつだな」
私は疲れたので、部屋の隅に座り込んだ。「帰らないのかよ。座るのかよ」と魔理沙に言われたけれど、無視した。
魔理沙は霊夢で遊ぶのに夢中になっているようだった。鼻先をくすぐったり、眉をいじって広げたりした。霊夢は、最終的には嫌がって、顔を布団に埋めてしまった。魔理沙はまだまだお遊びをしたそうだったけど、とりあえずやめて、どこかへ行き、お盆にお茶と湯飲みを乗せて帰ってきた。お茶を入れて、私にもくれた。
「こいつ持って帰ったらいいんじゃないか。面白いぜ」
「ええ。楽しそうね。あなたを見てると実に楽しそうだわ」
私はずりずり、膝立ちで歩いて、魔理沙と並んで霊夢の傍らにしゃがみ込んだ。「いいの?」と聞くと、「いいぜ」と魔理沙は答え、布団を捲った。自分のものでもない癖に、自分のものであるかのような物言いだ。私は、魔理沙がやってたのが面白そうだったので、霊夢の頬に手を伸ばした。指を押し当てると、うぅん、とうめいた。もう一度。うぅん。もう一度。うう……。
「同じことやってたって、面白くないぜ」
魔理沙は言って、霊夢の唇を摘んだ。圧し潰されて、唇を思いっきりとがらせ、変な顔になった。霊夢の手が魔理沙の手を叩いた。目を閉じたまま、霊夢が不機嫌に呻いた。
「やめろ」
「怒った怒った」
霊夢は怒って、再び顔を布団に埋めた。魔理沙は立ち上がり、こたつの向こう側へ行くと、こたつごと動かして霊夢の顔を出した。霊夢はもぞもぞ芋虫のように動き、布団に潜った。また引いた。潜った。霊夢は顔を埋めるようにするので、次第に背中が布団の外へ出て来た。魔理沙がこっちに戻ってきて、霊夢の背中、上着とスカートの間、背中が曲がったせいでちらりと見える脇腹に、指を立てた。霊夢はびくっと震えて、上着を下ろして隠した。魔理沙がひゃっひゃっひゃっと笑った。
「もう! 鬱陶しいって! やめろっての!」
霊夢が立ち上がり、魔理沙は笑いながら私の背中に隠れた。霊夢は怒りながら、私をぎろっと眺め、私は首を振った。霊夢は疑問を持った目をしたけれど、眠くて面倒らしく、布団に潜った。
「次やったら殺すから」
ひゃひゃひゃ、と、魔理沙は笑った。いつものことらしい。私からしたら変わった日常だ。こんな風に日常を過ごすことは考えられない。ホストが居間で寝こけているというのも妙な話だし、そもそも、こたつとは不思議な道具だ。椅子なのか? テーブルなのか? ベッドなのか? 実に不思議な道具だ。これがあるから、この二人は妙な親しさを演出できるのか?
「どうした、入れよ」
ええ、と答えて、こたつに入った。背もたれがないので、本を読むには不向きだ。魔理沙が霊夢を揺さぶり、「そろそろ起きろよ」と言った。霊夢はむっくり身体を起こし、魔理沙の湯飲みを奪ってお茶を飲んだ。魔理沙は文句を言いながら、湯飲みを取りに行った。寝ぼけ眼の霊夢は、じろりと私を睨んで、「珍しい奴がいるわね」と、言った。
私が紅魔館へ帰ったのは夕方になってからだった。ちょうどレミィが起き出したところだった。
「おかえりなさい、パチェ。楽しかった? 私は退屈だったわ。咲夜ったら、工夫のない、いつもと似たような芸で……」
「あら、そう……。ごめんなさい、誰も連れてこれなかったわ」
「何をしていたの?」
「神社で、魔理沙と一緒に寝ている霊夢をつついて遊んだわ」
「何それ。超面白そうじゃない。ずるい。何一人で楽しんでるのよ」
そうは言われたってなあ。
さて、困った。神社に行って霊夢と魔理沙に声をかけ終わると、他に、私には呼べる人がいないことに気付く。私は交友関係が広くない。どこへ行くかも、考えなければならなくなった。そうなると、面倒で、図書館で本を読んでいたい気分になる。
午前を読書で潰していると、その必要もないのに罪悪感を感じて、読書も進まない。なので、午後には外に出ることにした。やれやれ。
玄関先へ出ると、美鈴が何やら、金槌を振るって大工仕事をしていた。
「何をしているの、美鈴」
「ああ、パチュリーさん。看板を作っているんですよ。パチュリーさんは知ってるでしょう、お嬢様の……」
ええ、と返事をすると、美鈴は大工仕事に戻り、背中を向けたまま話を続けた。
「それで、作っているんです。褒美を出すから面白いことをしろって言う……。どこかの王様のおとぎ話みたいですね」
「ええ。ほんとに。……美鈴、それ、どこに立てるの?」
「ここです。館の前ですが」
「里に立てたらどうかしら。ここは人通りもないし」
それいいですね、と美鈴は振り返り、人差し指を私に向けた。そのアイデアいただき、と言わんばかりの格好だ。ばきゅーん。
まあ、それはそれとして、私は当てのない旅に出かけることにした。
神社は閉まっていた。「居酒屋に出かけています」と書き置きがあった。
霊夢はなかなか見つからなかった。霊夢を見つけたのは、里で貸本屋なんてものを見つけて、本を見るのに数時間も使ってしまった後だった。貸本屋なんて、良いものがあるものね。たまには里にも来てみるものだわ。借りる本を数冊選んでから、目的が逆転している、本末転倒なことをしている、と気付く。それで、霊夢のことと、居酒屋のことを聞いてみると、貸本屋の店子は、霊夢の行き先のあてがあった。
「夜雀の屋台とかいうのの話を聞いたことがありますよ。森の辺りにあるそうですよ。昼間にやっているかは知りませんが」
なるほど、と思った。聞き覚えがある。行ってみると、いた。屋台に座って、酒を飲んでいた。
「やっと見つけた」
「あぁ?」
霊夢はもう酔っているみたいで、私を睨み付けるように見た。どうも、最近、胡乱な霊夢と会うことが多い。
「よう、パチュリー。珍しいな、こんなところに。まあ座れ」
魔理沙も相席していた。店主の夜雀は、あははーと笑いながら、お通しを出してくれた。山菜の付きだしと日本酒だ。私はありがとうと答えておいた。
「何よ。神社には書いておいたでしょ。わざわざ探して、何の用」
霊夢は言いながら、酒をぐびぐびやった。
「いえ、別に。何か面白そうなものがないかと探していたのだけど」
「何、それ。面白いものがそこらに転がってたら、私は毎日退屈してないわよ」
「こないだのやつか。まだやってるのか」
「ええ」
「何よ。教えなさいよ」
魔理沙は霊夢に、レミィのことを説明した。「レミリアが面白いものを探してるんだってさ」と、言っただけのことだったが。私はその合間に、お酒を口に入れた。おいしい。
「レミリアが、なんで面白いものを探してるのよ。それも、自分で来ないで、パチュリーに探させるなんて、まだるっこしいことを。自分でやりなさいよ」
「レミィは、呪いの椅子に座ってしまって、立てないの」
「なんだそれ、馬鹿じゃないのか」
魔理沙が、霊夢の向こう側から顔を出して、ははは、と笑った。
「それで、退屈だから面白いものを探してるのか」
「咲夜なんて大変なのよ。毎日芸をさせられて」
「そりゃ面白そうだ。それを見に行ってもいいな」
そうね、と霊夢も賛成して、酒を飲んだ。
「何よ。全然飲んでないじゃない。あんたも飲みなさいよ」
「ええと……」
私は言われるがままにお酒を飲み干したけど、少しきつい。けほけほ、むせて、「大丈夫ですか」と、店主に心配されてしまった。
「何か食べますか?」
「ああそうだ、酒ばかりじゃなくて何か食え。ミスティア、何か炙ってやってくれ」
はいはい、と店主が串に刺した肉を、たれにつけて炙り始めた。煙の良い匂いがする。
「あなたは何かできないの?」
「私はとてもとても。歌うくらいと、料理を作るくらいですかねえ」
「ああ、いいじゃないか。やってやればいいぜ」
「いいわね。変わった料理も、レミィは喜ぶと思うわよ。私の館の位置を知ってる? 良ければ来て、やってあげて」
そうですねえ、とミスティアは言った。
「お帰り、パチュリー。今日もオケラね」
「ごめんなさい」
「今日は何をしてたの?」
「貸本屋に行って、それから居酒屋で霊夢とお酒を飲んで、焼いた肉を食べたわ。おいしかったわ」
「何それ、超楽しそうじゃないの。何であなたばっかり楽しんでるのよ。ずるい」
その日から、妙に人出があった。朝から氷精の子が来たと言うので、レミィの部屋に顔を出してみた。
「なんだよ、あれもダメ、これもダメ。何をすればいいってのさ」
「でもね、あなた、蛙を凍らせたって面白くないし、部屋を凍らせたって困るのよ。もうちょっと考えて芸をやって頂戴」
「なんだー? お前、主人だからって偉そうだな。どうだ、喧嘩しよう。私は強いぞー? 最強だからな。どうした、椅子から立てよ」
「咲夜、どうにか……笑ってんじゃない、早くつまみ出して。笑ってんじゃない」
「立てないのかー? びびってんじゃないのか? どうしたかかってこいよホラホラ」
レミィは顔を真っ赤にして、肘置きに手を置き、ぐぐぐっと力をこめてみたが、無駄だった。頬を膨らませて怒った。それを見て、チルノはケラケラ笑った。
「しょうがないなあ。じゃあ、これはどうだ。とっておきだぞ」
そう言うと、チルノは氷でコップをいくつも作り出し、それをテーブルに並べた。
「水入れて」
「自分じゃ作れないの?」
咲夜は、チルノが言うがままに水を入れに行った。戻ってくると、チルノはコップの水を窓の外へ捨てて、水の量を調整した。氷の棒を持つと、チルノは棒でコップを叩いた。こん、きん、かん、と音が鳴って、チルノは得意そうな顔をした。
「……それで?」
「それぞれ音が違うんだよ。教えてもらったわけ。近所の妖精に。あ、いっておくけど、私より格下だよ。子分みたいなやつ」
きんきんかんかん叩きながら、チルノは歌った。
「きーらー、きーらー、ひーかーるー……」こっ、「あっ」「音程間違えた」「おーそーらーのー、ほーしーのー」
「んーふーふーん、ふーふーふーん」「歌詞適当だし……」「ふーふーふーん、ふーふーふーん」
「きーらーきーらひーかーる、よーぞーらーの、ほーしーのー」
じゃーん、と言って、チルノは両手をあげた。咲夜がレミィの背後で、ぱちぱち拍手をした。
「終わり?」
「うん!」
チルノはいい笑顔をした。
「帰って」
それで、ようよう、咲夜はチルノを摘み上げて、部屋の外へ放り出した。後はメイド妖精たちが玄関へご案内するだろう。
「まったく……咲夜、連れ出すのが遅いわ」
「申し訳ございません、お嬢様」
「咲夜、あなた、こないだからの仕返しのつもり」
「そんなつもりはございません」
どう見ても咲夜は笑いながら言った。
「でも、お優しいですね。最後まで歌を聞いてあげていました」
「ふん」
昼頃には夜雀が来た。道具を背中と両手いっぱいに抱えて、「煙出るけど、いいですか」と言って、火を起こして串に刺した肉を焼いた。これは八目鰻、これは牛、これは豚、鹿、猪、説明しながら、テーブルに並べていった。
「何がお好みか分からないし、食べられないと困るので、色々持って来させてもらいました」
「ええ、どれも美味しいわ。なかなかね。これは独学で?」
「いいえ、人間の作っているものが美味しかったので、真似しました。冥界近くの屋台でやってたのが美味しかったから。こういう、味付けって、人間の方が上手なんですよね」
「ええ、本当。楽しませてもらったわ。あなたが火を起こしてる時に歌った歌も上手だった。咲夜」
はい、と咲夜がレミィの傍らに立つ。
「地下のワイン倉に、いいのがあったでしょう。差し上げて」
はい、と咲夜は答え、その場を去った。
「ミスティアさん、良い物を頂いたわ。お帰りの前に、咲夜から品物を貰って下さいな。楽しませて頂いたお礼ですわ。また、いつでも来てくださいね」
「ああ、それはどうも、ありがとうございます。皆で有り難く飲ませていただきます」
ふふん、とレミィは当主らしい仕事ができて、嬉しそうだった。
夜雀と食事をして楽しそうだったのに、レミィはまた私にわがままを言った。
「パチェ、面白いことは終わり?」
「ええ……。まだ、面白いことを探してこなくちゃいけないの? 昨日は楽しそうだったのに」
「看板を立てても、もう誰も来ないじゃない。また探してきてよ」
「ええ……。そもそも、レミィにとって面白いことを教えてほしいわ。レミィは何が面白いの?」
「何が面白いも面白くないもないわね。自分で、やりたいことはするし。その時面白かったら面白いし、つまらなかったらつまらないわ。要するに、その時次第だし、面白いと思うことが面白いのよ。パチェも、自分なりに面白いものを見つけて、持ってきてくれたらいいの」
「ふうん……」
夜になって、貸本屋で借りた本を二十冊も持っていったら、怒られた。でも、夜を徹して本を読み、互いに討論会をすると、楽しかった。
レミィが、まだまだ面白いことを募集中とのことなので、私は外へ出た。近頃は、外へ出ることが日々の一部になってしまって、すっかり慣れている。
私は、山へ登ってみた。身体に風を纏って、常に追い風を負うように歩くと、身体が軽くふわふわと進んでゆく。山狗たちに咎められたけれど、紅魔館の者で、面白いものを探していると言うと、彼女たちは里に立てられている看板のことを知っていた。まあ、問題ないと判断して、通してもらえた。それにしても、こんな厳戒態勢を取っていたら、山へ来る参拝客は嫌がるだろう。あんまり客も来ないに違いない。
私は山の神社へ向かっていた。そこには、あんまり馴染みはないけれど、早苗とかいう、緑髪の巫女がいることは知っている。
山へ登って鳥居をくぐると、緑髪の女が、境内を掃いていた。砂利の敷き詰められたあたりを、熱心に、下を見ながら、手を動かしている。里の巫女と違って、随分と仕事熱心だ。私は歩み寄った。
「こんにちは」
「はい、こんにちは。ううん? どこかで見たような人ですね」
早苗は、私の顔を見て、それから服装をじろじろ見た。服装を見て、変わった格好だから、変わった奴だ、と思ったのかも知れない。ううん? と、首を傾げてみせた。
「パチュリーよ」
「ああ。図書館の。それで、本を持っているんですね。なるー」
なるー?
「なるほど、の、略です」
ふうん。外の世界から来たというが、外ではそういう言葉遣いをするものか。どうぞどうぞ、と、早苗は私を案内して、中へ入っていった。
「パチュリーさん。時々、会った覚えはありますよ。でも、ほんとに時々だから、ちょっと、すぐに名前が出て来ませんでしたね。すみません。でも、新聞や何やかんやで、話は聞いてます。魔理沙さんも時々名前を出しますよ」
「本を泥棒に行くって?」
「ええと……そ、そんなことはないです!」
じゃあどういう話を? と聞いたら、面白そうだったけど、早苗を困らせてしまいそうだったので、やめておいた。
私は空き間へと通された。普段、あんまり客が来ることはないらしい。小綺麗な部屋に座らされると、きちんとしないといけない気分になった。元々、普通はきちんとしないといけないのだけど、霊夢や魔理沙といると、そういう感じではなくなる。困ったものだ。
早苗が部屋を出て、お茶を入れて戻ってくる。互いの前に置き、早苗が正面に座る。
「それで、何のご用事です? ご参拝ですか?」
「そうね。……何だと思う」
うーん、と、早苗は考えた。
「借財ですか?」
「なんで私がお金を借りなくちゃいけないのよ……」
「ええと、そういう方は時々来られるもので……その、生活に困窮された方とか……じゃあ、何でしょう? 私とお茶を飲みに来たんですか?」
「あなた、面白いことはできる?」
「面白いこと? 面白いことを言いますね。うーん。珍しいことはできるけど……」
風が吹いて、紙がひらり、ふわり、と、机の上へ飛んできて、滑って、私の前で並んだ。ちょうど五枚。整列をかけられたように、きちんと隣りあって並んだ。
ふわり、と風が吹いた。「右から二枚目のが、ひっくり返りますよ」早苗が言った。中央の紙が、びく、びくびく、びくんびくんびくんびくんと震えて、右から二番目がくるり、と空中で一回転し、元の位置へ戻った。早苗は得意げな顔をした。風が吹いた。
「今度は一番端のが動きますね」
またびくびくが始まった。全ての紙がぶるぶるーっと威嚇するように震えて、両端の紙だけがすぅーっと滑って机の下へ落ちた。風が吹いた。
「パチュリーさん、紙を押さえてもらえますか」
私は言われたとおり、中央の紙を押さえた。
「パチュリーさんが押さえたやつだけが飛びますよ」
勢いよく風が吹いたが、置いたままの紙は微動だにしない。私の手の下の紙だけが、すぅーっと滑って、庭の方へ飛んで行ってしまった。
「どうですか?」
ふふん、と自慢げに、早苗は目を閉じた。私はすごいなあと思ったけど、どうも自慢げにやられると、なんとも反応しにくい部分があった。
「なかなかすごいわね」
「でしょう」
「レミィが……レミリアがね、退屈してて、面白いものを探してるの。紅魔館へ来て、やってくれないかしら。もっと派手なのでもいいわよ」
「ええ。構いませんよ。レミリアさんは、奇跡を見たら、驚いて入信してくれたりしませんかね?」
「どうかしら」
ずず、と私はお茶を飲んだ。それから少し雑談をしたけれど、きちんきちんとしていて、どうにもくつろげなかった。たぶん、これが普通なんだろうけれど、魔理沙と霊夢に毒されている。
それで、どうやら、早苗は後日になって来たようだったけど、レミィはお気に召さなかったようだった。
「人間相手だったら、あれでいいのでしょうけどね。『今から奇跡が起きます!』『次はもっとすごい奇跡が!』って、能力を小出しにしてやるから、どうもね。人間に対するショーパフォーマンスとしては、正しいのでしょうけど。一回、『私もできるわよ』って言ったら、すごいむっとしてたから、もう言わなかったけど」
早苗の奇跡は、妖怪向けではなく、人間向けだったようだ。すごいことをやると言っても、あまり強いのをやって館を壊しては迷惑がかかると考えるだろうし、早苗の考えは人間としてはしごく真っ当なのだった。残念ながら、真っ当なショーは、レミィには受けないのだ。
もはやルーチンワークだ。朝起きて、本を読み、朝食を取って、本を読み、紅魔館を出る。今日は道場に行った。最初からそうと決めていたのではなく、街角で風水占いをしていた占い師を見かけて、話をしているうちにそうなったのだ。
「ほほう。道場で修行がしたいと」
「ええと。いえ、修行がしたいわけではないのだけど。面白いものを見られるところを探しているのよ」
「うむ。道場で修行をすれば面白いことなど無数に見れようぞ。うむ、では決まりじゃな」
「ええと……」
割と話は通じなかった。私はあっという間に道場に連れて行かれてしまっていた。
道場は、別の空間にあるようだった。別の空間だというのに、普通の人間らしき者が行き交っていて、泊まり込みで修行に勤しんでいるのだろうと予測した。
布都と名乗った全身真っ白の占い師は、私の前を楽しげに歩いた。何が楽しいのか知らないが、足取りは軽く、愉快そうだった。私の知らないタイプだ。こういう者を見ると、レミィは面白がるかもしれない。
「ここで待っておれ」
どこかの部屋へ案内するでもなく、布都は部屋の中へ入っていって、私は廊下に置き去りにされた。欄干や、窓の意匠はどことなくアジア風だ。おそらく、道教の本拠地であるところの中国の影響を受けて作られているのだろう。
「あら、こんにちは。見ない顔ね」
私の前に、ふわふわ浮かぶ、青色の女が現れた。「こんにちは」私は挨拶した。
「それに、なかなか見ない格好……。こんにちは。霍青娥ですわ。もしかして巫女とか、魔法使いとかの友達?」
うーん、と、私は考えた。知り合いか友達か、微妙な距離感だ。
「ええ、まあ、知っている仲ではあるわね。パチュリーよ」
「へえ。ジャスミンとか、ジャコウみたいな名前ね。可愛らしいわ。ね、お姉さんと仲良くしない?」
私も長いこと生きているのだけど、と、私はむっとした。しかし、見た目で年齢が分からないのが幻想郷だ。この青娥と名乗った女も、相当の歳かもしれない。道場は聖徳太子の生まれ変わりだか何だかがいるそうだから、その係累だとすれば、相当歳は上のはずだ。
「……遠慮しておくわ。ねえ、あなた、面白いことはできる? 私の友達が、面白いことができる人を探しているのだけど……」
私は言葉を止めた。ひょい、ひょい、と、青娥を追って、丸まった肉塊のような何かが飛び跳ねて、青娥の足下で転がったからだ。よく見るとそれは胎児だった。死んだ胎児が床に、二つ三つ、まとまって転がっている。あとから、死人がひょいひょい跳ねてやってきた。
「面白いこと?」
「ええと。ううん。ごめんなさい。やっぱり、いいわ」
「あらそう。つまらないわ」と言い残し、青娥はふわふわ浮いてゆき、その後を胎児と死人が自動で動き、追って行った。
あれは良くないものだ。西洋でも、死体を慰み物にする派閥の者がいたし、知っているけれど。私も、知識にとって実践は必要だから、似たようなことは経験がある。だから、殊更に貶めるつもりはない。気に入らないのも確かだけど。ああいうのが本物の魔女というものだ。レミィに会わせるには、相応しくない。
ああいう者を平気で棲まわせておく道場というものは、実に怪しげで、底知れない組織のように思えてきた。
「お入り下され。太子様がお会いになるぞ」
ようよう、布都が部屋から出て来て、そう言った。太子様とやらと話をしていたらしい。
太子様、と布都が呼ぶ人物が、聖徳太子だというのは知っている。本人は蘇ったと称しているが、有り得るものだろうか? 太古の昔に、蘇ったイエス・キリストのように? ともあれ、本人だろうが、生まれ変わりだろうが、その人物は、私の目の前にいる。
「初めまして、パチュリーさん」
「あら。知ってるの、私のこと」
「ええ。吸血鬼の館の、司書だそうで。私は幻想郷の救世主になりたいもので、色々と知っておこうと思い、日々勉強をしているのです。あなたの友人のことも知っていますよ。吸血鬼の館の女主人、レミリア・スカーレット……おっと、自己紹介がまだでした。豊聡耳神子です。そこの布都には太子様とか、よく呼ばれます。聖徳太子とか、厩戸皇子とか、呼ばれ方は色々あります。私のことを知りたければ、私のことについて書かれた本はいくらでも。布都、差し上げて」
「畏まりました!」布都が部屋を出てゆく。たぶん書庫かどこかへ行ったのだろう。本をくれるとはこの人は良い人ではないか。私は機嫌が良くなった。
「それで、パチュリーさん。こんなところへ、どうして?」
「面白いことを探してて」
「面白いこと? なんだか、そういう人は珍しいですね。それで、道場の門を叩いたと」
「いえ、あの……さっきの布都という人に……」
「ああ……」
太子様ー、と、廊下の向こうから声が聞こえてきて、布都が姿を現した。両手にいっぱい本を持って、犬のように嬉しそうな顔をしている。神子はなんとなく察した顔をして、そこに置いときなさい、と言った。
「面白いことですか。青娥をやってもいいのですが。あれはここでも一番器用です」
「あの人は……ちょっと」
「ああ。もう会ったのですか」
「ええ。西洋にも、死体を弄ぶ者はおりましたが、忌み嫌われていました。レミィが喜ぶとは思えない」
「それはその通り。……でも、勿体ないですね。青娥の作る料理は、とってもおいしいんですよ。彼女は、私と違って、大陸の色んな国を知っていますから。香辛料の効いたもの、ハーブの良い香りのするもの。焼き物に炒め物、なま物も。彼女は宮殿生活も面白いけれど、庶民の生活も面白い、と言っていましたから、色んなことを知っていて、重宝するのですよ。料理も、その一つです」
……おいしそう。ちょっと、神子の提案を遮ったことを、後悔した。
「では、青娥に代えて、布都をよこしましょう。何か、やってくれるでしょう。何、布都はそういったことを面白がれる者です。悪いようにはならないでしょう」
神子という人も、どちらかと言えばきちんきちんとしている人だった。私は、そういう、きちんとした者ではないのだ。堅苦しくて苦手だった。私は会談を終えて、部屋を出、布都の案内で里へ帰った。
「さ、お主、お主の主人のところへと案内するのだ。この我が、道術の神髄というものを見せてくれるからのう!」
布都は楽しげに笑った。
布都はレミィの前で、得意げに皿を回したり、風を吹かせ、水を生み出した。だけど、レミィは、布都のやる芸よりも、布都の人柄そのものを、レミィは気に入ったようだった。布都は、レミィに言われるがまま、食事をし、一晩泊まって、帰っていった。
神子はおそらく、力を見せて、レミィの懐柔を……そこまでではなくとも、道教への興味と好奇心を、布都に期待していたのだろう。早苗と同じだ。だが、布都はむしろ、レミィに懐柔されてしまった。レミィにもそのつもりはなかっただろうけれど。
「あの者は、猫のようにじゃらすと、おもしろい」そう言って、レミィは笑った。
3 レミィの部屋で寝泊まりすることにした
「ほう、ほう、ふむ。なるほど……」
レミィの前で、射命丸文がメモを取りながら、話を聞いている。
「それで。呪いの研究をしているうちに、好奇心を抑えられずに……」
「そう。座ってみたら、どうなるのかってね。本当に離れられないのかって」
「アホですね」
「誰がアホよ!」
むきぃっ、と、レミィは手を伸ばし、おっと、と顔を引っ込めた文の、キャスケットをレミィの爪がはじき飛ばした。レミィの手が届かないところへ文が引っ込み、メモを続けた。
「本当に立てないみたいですね」
「試したのね。立てなくたって、あんたにやり返す方法はあるのよ」
レミィの背後で、鋭く尖ったコウモリ型のレミィの一部が、浮遊して待機した。文は降参という風に手を上げた。
「おぉ、怖い怖い。ともあれ、事情は分かりました。新聞に掲載させていただきますよ」
「ええ。私を楽しませてくれる人の募集も、お願いするわよ」
「おまかせ」と言って、文は帽子を被りなおし、部屋を出て行った。
「でも、けっこう来たものね。また来てくれる人はいるかしら。あんまり期待できなさそうよねえ」
と、後に残ったレミィは、一人言のようにそう言った。
「まあ、ね」
私はレミィの一人言に答え、本を閉じた。
……私は、レミィのために、来る日も来る日も奔走した。それでレミィは、仏教の教えを聞いたり、ライブを見たり、舞を見たり、演奏会を聞いたりした。だけども、当てがなくなると、どうにも困ってしまう。とは言え、ただ困っているわけにはいかない。
「じゃあ、行ってくるわ、レミィ」
「今日も行くの? 最近勤勉じゃない、パチェ」
私は外を見た。
「……まだ日が高いしね」
「あらそう。いってらっしゃい。私は、一眠りさせていただくわ」
ぱちん、と指を鳴らすと、部屋のカーテンがしゃ、しゃっと、全部落ちて、部屋は急に暗くなった。扉が開いて、咲夜が毛布を持って入ってきて、レミィにかけた。レミィは頬杖をつき、目を閉じた。ああやって眠っているのだ、と、私は知って、新鮮な気分になった。咲夜と入れ替わりに、部屋を出た。
部屋を出る前に、暇潰しにする本が少し足りない気がしたので、図書館へ寄った。図書館で本を見繕っていると、小悪魔がいて、恨み言を言われた。
「今日も、図書館から出るんです? なんだか近頃、私は一人で、寂しいです」
「仕方ないでしょう。レミィがああなんだから」
「そもそも、パチュリー様はどうして、お嬢様にそこまで世話を焼くんです? 放っておいても、咲夜さんがどうにかなさるでしょ」
咲夜は側にいて世話が、と思ったけど、それは物事の本質ではない。咲夜のことだから、どうにでもするだろう。私は、私がしたいから、世話を焼いているのだ。
さて、これは難しいことだ。私はどうして世話を焼くか。ふむん。
「ま、あれこれ動き回るのも、それなりに楽しいわよ。レミィのことは抜きにしても」
私は小悪魔の質問に、真摯には答えず……はぐらかして、答えた。はいはい、とのろけを聞かされたように、小悪魔は私に向かって手を振る。
私は何となく、レミィが困ってると言えば動き回ってしまう。何が理由で? まあ、理由なんてないんだろう。理由がなくても私は本を読む。レミィがそうしろと言っているのに、聞かずに、本を読んでいるのも悪いような気がする。それで、実際にレミィが楽しめないとしても、彼女のためにうろつき回っているのは、割と楽しいのだ。レミィのためというよりも、自己満足のためかもしれない。日々は、鼻歌でも歌いたいほど、気に入っている。
割愛するが、成果はなかった。日はあっという間にまわり、夕方になった。レミィのところへ戻り、報告をしに行った。レミィは起きていて、本を読んでいた。私が部屋へ戻ると、本を閉じ、私を見た。報告、と言っても、成果はだいたい分かるだろう。言うべきことも殆どなかった。レミィの方から先に、私に言った。
「パチェ。退屈だわ」
レミィはにやにや笑って、言った。まるで、私が奔走しているのが、楽しいようだった。私はわざと、悪びれずに、言った。
「あなたって本当ワガママね。大概、楽しいことを探して、歩きまわったのよ。こんな夕暮れまで。私はいったいいつまで探し回ってきたらいいのかしら」
「パチェ。パーチェ~。あなた、マジメな人ね。相変わらずだわ。昔っからそう。なら、初心に戻りましょう。お話なんてどう? ね、パチェ、お話をして。面白い話をね」
面白い話ね。私はふぅん、と言った。
「あなたって、本当ワガママだわ。外で歩きまわってた方がましなくらいね。もう一度、行こうかしら」
「ああん。寂しがってる親友を放っておいて出てくの。悪い友達。ね、ね、面白い話でなくてもいいからここにいて。何かしらお話しましょう」
ああそうそう、とレミィがコウモリを飛ばした。コウモリは、チェス盤の四隅にとりつき、ふわふわ浮いて、盤面を崩さずに持ってきた。
「こないだやりかけていたチェスが途中だったわ。そのうち、咲夜が夕食の用意をしてくれるでしょうから。それまで、やりましょう。お話をしながら」
仕方ないわね、と、私はレミィの前に座った。
チェスは、レミィの方が旗色が悪くなって、私の勝ちになった。レミィの思考力が劣っているのではなく、劣っているのは落ち着きだ。レミィは、思いつきのままに駒を動かしてしまうくせがある。もっとも、そのくせのために、思わぬ敗北を喫することもある。……あった、と言うべきか。レミィとチェスをするのも、久々のことだった。久々にやり、久々に私が勝利したのだ。
チェスの合間に、ぽつりぽつりと話をした。古い話、昔の話。チェスが済むと、話の続きをした。話は途切れ、また続き、新しいとっかかりを得て、次の話へと繋がった。珍しく長い話をして、夜も更けた。
「パチェ、寝所を用意したから」
「うん?」
「寝所を用意したから、泊まっていきなさい。たまには、そういうのもいいでしょう」
咲夜がそのようにしたらしい。私は咲夜に付き添われて、レミィの私室へと案内された。咲夜に付き添われて着替えを済ませ、寝間着を身につけた。まるで領主になったようだった。咲夜がレミィの椅子を押し、すー、と滑って、寝所へ来た。
「寝所とは言っても、ここはレミィのベッドじゃないの」
「いいのよ。どのみち、使う者のいないベッドですもの。存分に使って差し上げて」
レミィはそう言って、くすくす笑った。レミィは私の枕元へ陣取り、部屋が暗くなってもお話をした。手を伸ばし合って、手を握り、そのまま眠った。
「ね、パチェ。しばらく、この部屋にいるといいわ。その方が、私も楽しいもの。私を楽しませに来てくれる人が来たら、一緒に楽しみましょう。ね、そうしましょう。本が読みたいなら、小悪魔と咲夜にやらせるから」
半ば、夢心地に、レミィがそう言った。レミィがそう言うのなら、私に逆らう理由はない。どのみち、そのようになるのだ……レミィがそう、望むのならば……。
その日から、私は起きてレミィの部屋で着替えを済ませ、朝の用意を済ませて、食事をし、レミィとお話をし……一日を一緒にした。紅茶を飲むのも、眠るのも一緒。色んな話をした。
あるとき、レミィはぽつりと言った。
「霊夢、来てくれないかな」
「霊夢のこと、好きねえ」
レミィは霊夢が好きだ。大抵のところは、一度行けば満足してしまうけれど、霊夢のところにはよく通っている。私は、本のページを、ぺらりとめくった。
「うん。パチェだって、こないだ、遊んだんでしょう」
「霊夢と遊んだ、というより、霊夢で遊んだのよ」
「似たようなものよ。あの子は、不思議ね。誰にでも好かれる。あの子は、なんとなく好ましい気分になる」
レミィは机に肘を置き、頬杖をついていた。何かを思っているような表情だ。霊夢のことを考えているのだろう。
「なんていうのかしら。好ましいことだけど、霊夢にとっては面倒なことかもしれないわね。だから、あんなにつっけんどんなのかも。そこも可愛らしいけどね」
ふふ、とレミィは笑った。
「ふうん。そう、思ってるの」
「あら。嫉妬かしら?」
まさか。あんな小娘程度に。
「嫉妬するのなら、もっと怖いわよ。レミィ」
「おお。パチェがまさかそんなことを言うなんて。くわばら、くわばら……」
くすくす、レミィは笑いながら、腕を組み直した。まぁ、と、私は言葉を重ねた。
「でも、楽しかったのは確かよ。あの子をここに置いて、一日中炬燵で寝かせておいたら、 二日でも三日でも眺めていられそうだわ」
「いいことを言うわね、パチェ。そうしようかしら……」
ううむ、と、レミィは真剣に考えていた。
次の日になると、本当に実現してしまっていた。咲夜は大抵のことなら実現してしまえるのだ。霊夢は何も気付かず、うぅんと呻きながら、絨毯の上で、炬燵に入りながら、寝ている。私とレミィは、眠っている霊夢を眺めながら、適当にお喋りをする。いつ起きるかしら、いつかしら、と、くすくす、笑いながら。
普通に起きてきた霊夢は怒った。お詫びに食事を提案しても、霊夢の怒りは収まらなかった。でも、怒りながら食べて、怒りながら、そのまま帰ってしまった。「怒ってるのに食べるのねぇ」と、のんきに言うレミィが不思議に面白かった。
あるとき、レミィがぽつりと言った。
「パチェ、あなた、お話をする時くらい本を置いたらどう」
私は、ページをめくり、考えを反芻しつつ、自分の求めている事柄が書かれているページを探して、少し戻った。「ねえ。ねえ」と、レミィは続けて言った。
「答えてくれてもいいでしょう」
「……読まなくちゃいけないものが沢山、あるんだもの……」
眼鏡の角度が少し、ズレている。持ち上げて、ページをめくり、テーブルに置いた紙にメモを書く。メモ書きを附箋にし、ページに挟む。私は本を閉じ、眼鏡を外し、重ねてテーブルに置いた。レミィは私を見ている。
「でも、あなた、同じ本を何度も読んでるじゃないの」
「新しい知識を得た後に読むと、新しい輝きを放つものなのよ」
「頭の中で統合すればいい話でしょ」
「全部把握してしまっては、新しいものは得られない。物事を整理して知識として頭の中に突っ込んでしまっては、それは固定された知識なのよ。知識は常に流動させていなければいけない。常に新しい知識を脳へ注ぎ込むこと。読書の中で得るインスピレーションこそ、最も重要なものなのよ」
「ああ。漫画でも、何度も読むと新しい発見があるものね。そういうのも分かるわ」
そういうのとは、違うんだけどな。まあいいや。言わないようにしたけれど、態度に出たらしい。レミィは、ちょっとバカにされた、と思ったみたいだった。
「……ふん。パチェは賢いわね。でも、理論は良くっても、実践が足りないわね」
「……レミィは実践ばかりよ。あなたの魔術、系統付ければ、もっと良くなるわ」
私は、売り言葉に買い言葉で、返してしまった。チェスの時なんかも、よく思うことだから、その言葉に嘘はない。レミィは、頬を歪ませて笑った。
「うふふ」
「…………」
私が黙っていると、レミィは机をばん、と叩いた。
「パチェ! やるの! 外へ出なさい!」
「いいわよ。レミィこそ、その椅子に座ったままでどこまでやれるか、試してあげる」
レミィは椅子ごと浮き上がって、窓を突き破って外へ出た。私は、割れた窓から、レミィを追って空へ飛んだ。レミィは力任せに物事を進めようとする。では、理論に支えられた荒事というものを、見せてあげるとしよう。
あるとき、レミィはぽつりと言った。
「パチェって、家族はいるの?」
「何よ。藪から棒に」
「いいえ、別に。聞いたこともあるような気もするけれど、あんまり印象に残る話は聞いていないから。聞きたくなっただけよ」
「……まあ、いるわよ。当然。木の股から生まれてきたわけじゃあるまいし」
「ふんふん」
「若いうちから長いこと生きられないって言われてたから、なんとか長生きができないか勉強してね。そうしているうちに、若い姿のまま、父よりも長く生きてしまったから、家を出たの。その頃のことがあるから、あんまり良い思い出じゃないわ」
「あらそう。前に話した時も、そんな風だったから、あんまり覚えていないのかしら。……ねぇ、仲の良い家族はいなかったの?」
「……そうねえ。家は裕福だったみたいだから、実際は知らないけれど……少なくとも、困っているような風はなかったわ。だから、きっと裕福だったんでしょう。家族と接するよりも、召使いと接していることの方が多かった気がするわ」
「そう……」
ふぅん、と息をつき、レミィは外を見た。風が鳴っている。音を立てて、窓が震えている。湖の上を越えてゆく風。
レミィは家族の話をするのかなと思った。レミィの家族の話は、何度か聞いている。本当の家族、それから吸血鬼となったあとの、疑似家族。スカーレットの名を持った義理の父親、そして両親の死、レミィとフラン、二人になった姉妹の話……。だけど、レミィは繰り返さなかった。私をちらりと見、いたずらっぽく笑った。にま、と唇の端が吊り上がった。
「ねえ。じゃあ、初恋は?」
はつこい? ……私は、頭の中で、その言葉を、文字として改めて作った。初恋。
「ないことないでしょう。あなた、私のところへ来る前にも、長いこと放浪していたんでしょうから。人の合間に生きてきたのなら、恋の一つや二つ、あるでしょう」
私は目を伏せた。……本の間に、顔を隠した。私を、真っ当な人間と同じように考えてもらっては、困る。レミィだって吸血鬼だから、一般的とはいいがたいが、恋の一つや二つ、しているのだろう。たぶん。
「あなた、もしかして……」
私は、レミィを見ずに、呟いた。
「……初恋だった」
「嘘でしょ?」
「……本当よ。……繰り返しになるけれど、私は幼い頃から、本を沢山読んで、長く生きる方法を探してきた。それ以外のことは、したことがない」
レミィは片肘をつき、口元を隠して、黙っていた。困っているのが分かった。困らせてしまって、申し訳ない、と思った。「それは……」レミィが口を開き、再び閉ざした。
「ひどいことをしたわね」
レミィが困っているのが、申し訳ないと思いつつも、おかしかった。私はくすくす笑い出したいのを我慢した。
「ええ。ひどいひと。あなた、残酷よ。レミィ」
レミィは困って、頬杖をついたまま、明後日の方向を見た。私はおっかしくなって、思わずくすくす笑った。レミィはますますむすっとして、でも、私の機嫌が悪くはないようなので、ほっとしたようだった。
咲夜が、紅茶をいれて持ってきた。紅茶をテーブルに置く間、レミィはそっぽを向いたままだった。咲夜は、黙って退出した。……何かを言わなければいけない気がした。レミィを慰めてあげなければ。けれど、いまレミィを慰めてあげることは、甘やかすというか、意地悪をして気分をほぐしてあげるようなもので、好ましいものだった。紅茶にミルクを入れて、スプーンでくるくる掻き回した。
「レミィ、あなたに誘惑されて、私は惑った」
レミィは、瞳だけをちらりと動かして、私を見た。
「恋愛小説も読んだわ。初めて読んだ。馬鹿馬鹿しくって、つまらなかった。でも、他に、恋や愛について規定された本はなかった。つまらないことで皆悩んでいて、ひどい時には死を選ぶこともあった」
レミィは黙って、私の話を聞いていた。スプーンを置いて、カップを傾けた。静かだった。静けさは、苦痛ではなく、穏やかさを伴って、ふうわりと優しげでさえあった。
「でも、思うに、恋や愛で死ぬのじゃないのね。死ぬ人は、自分に操を立てて死ぬのよ。自分の選択を、間違っていないと、信じるために死ぬ。幼い自我のために、幼い自尊心のために死ぬ。それなら、理解ができるわ」
レミィの頬杖は深くなった。何かを考えているようだった。……レミィは、何を考えているのだろう?遠い昔のこと、在りし日のこと。それはレミィ自身のこと?それとも私のこと?
「あなたといた頃は、私は幼かった。でも、きっと、今も変わっていないわ。今も幼いまま。見た目だけの話じゃなくてね。……いつまで、幼いままでいられるかしら」
「さぁて、ね」
レミィは紅茶のカップを脇へどかし、テーブルに肘を乗せて身体を乗り出した。
「面白い話ね。……初めて聞いたわ」
「当たり前よ。恋愛が分からないから、恋愛の本で勉強した、なんて、恥ずかしくて言えないわ」
くす、くすくすくす。昔のことを、思い返して、笑った。美しい話だ、と思う。過ぎ去ったものは、終わってしまったものは、いつまでも美しい。可愛らしく、痛々しく、可笑しい。
あるとき、レミィはぽつりと言った。
「パチェ、そう言えばあなた。あなたも魔法使いなら、椅子の呪いを解けるんじゃなくて」
私は本から顔を上げて、レミィを見た。まじまじと見た。
「レミィ、あなた、立ちたかったの」
レミィもまた、私をまじまじと見た。なぜそんなことを言うのか、という、新鮮な驚きに満ちている。
「立ちたいに決まっているでしょ」
「もう、ずっとそのままでいるから、満足しているのかと思っていたわ」
「そんなわけないでしょう」
「椅子ごと飛ぶし、滑って動くし、特別困っているようには見えないから」
「そんなわけないでしょ! 重いのよ、これ。私は困っているからこそ、楽しみを見つけようと看板を立てたりしてたんでしょうが。でも、ダメね。もう、皆飽きちゃったみたい。ああ、今頃、看板も片付けられたりされちゃってるかしら。ま、いいわ。パチェ、どうにかしてよ」
それなら、最初からそう言えば良かったのじゃないだろうか。立てないから暇潰しを探してきてくれ、と言うよりも、呪いを解いてくれ、と。ともあれ、私は椅子の呪いのことを検討することにした。
「ちょっと待っててね。呪いに関する本を持って来るから」
「ああ、そんな、コーヒーを作るのに豆を育てるようなところからしなくっていいのよ。解けるなら、それでいいんだから」
ふうん。それはそれでいいけれど、結局一から検討した方が、早いことも多いのに。ま、良いだろう。それでレミィが満足するならば。どのみち、時間はいくらでもあるのだ。
「じゃあ、簡単なことから試してみるけど。レミィ、あなた、コウモリになれるでしょう」
「コウモリ? なれるわよ」
「コウモリになってバラけたら、椅子から離れられるんじゃなくって?」
「もちろん」
「じゃあ、離れられるでしょう」
レミィは、コウモリになって姿を失った。分離した身体がコウモリになり、羽ばたく無数の小動物が、部屋中に飛び散る。やがて、一つに集まり、再びレミィの姿を形作る。……再び、椅子の上に座っていた。
「何やってるのよ。そこに戻ったら意味がないでしょう」
「元に戻ると、自然とここにいるようになってしまっているのよ」
レミィは指先からコウモリを飛ばし、少しずつ姿を移していった。絨毯の上に足が現れ、腰が、胴体が、腕が、顔が現れる……そうして、レミィは床の上に立っている。
「こうすると、まあ、離れられはする。でも、見て。椅子の上に、一匹だけ残ってるでしょう」
椅子の上には、ぴったりと張り付く、一匹のコウモリだけが残っていた。レミィの一部、お尻の肉あたりだろう。ぺしゃんこになって、まるで影みたいだ。
「あれを置き去りにして、色んなところへ行くことはできるでしょう。でも、意識の一部が切り取られているみたいに、絶えずあれのことが気に掛かる。頭の中から離れない。椅子と私が同化してしまっているのね。気がつくと、椅子の上へ戻っている。これじゃ、遊びに行ったって楽しくないわ。遊びに集中できないんですもの」
レミィは椅子に戻り、座った。ふう、と溜息をついた。
「無理矢理に身体を椅子から離すと、とても疲れるわ。大本から呪いを断たないといけない」
「ふむ。なかなか、見事な呪いね」
「ふふん。でしょう」
レミィは自慢げに笑った。自分で良い呪いの品物を作れたことが嬉しいらしい。
「でも、レミィ。自分で立てなくなって自慢してると、バカみたいよ」
「バカとは何よ」
「褒めてるのよ。立派な呪いの椅子だわ。でも、これはなかなか、大変ね。ところで、どうして呪いの椅子なんて作ろうと思ったの」
「ああ、そう言えば言ってなかったわね。よくぞ聞いてくれたわ。大抵の吸血鬼の館とか、そういう怪しげな館には、逸話があるわ。呪いの部屋とか、呪いの武器とか、呪いの食器とかね。だから、呪われた椅子を作って、より怪しげにしようと思ったの。座ると死ぬまで立てない椅子ってね」
「……やっぱりバカじゃない」
「バカって何よ。もう怒った。パチェなんてもう知らない」
ふん、とレミィは頬を膨らませて、そっぽを向いてしまった。困ったものだ。私は椅子を立ち、しゃがみこんで、レミィの椅子を見た。
「いいわね。立てるのは……羨ましいわ、パチェ」
しんみり、染み入るように、レミィは言った。早いうちに解いてあげた方がいいかもしれない。私は手紙を書くと、咲夜に手渡した。小悪魔に、呪いの本を見繕って持って来るように、書いたのだ。
呪いについての勉強が始まった。自分の中の知識、曖昧なそれと、本の文章を擦り合わせて、自分の中の知識を、本質へ近付けてゆく。私は私がまだ見たことのない、呪いの形が生まれているのを、初めて読む本で知った。呪い、呪術、人間心理、人間の精神構造、コミュニケーションについて……学ぶことはいくらもあった。私は思いついたことをメモして、新しい発見のとっかかりになりそうなことには、所見を付け加えていった。大半は、こういった作業のために、時間は過ぎていった。横道に逸れるのは、私の悪いくせだ。だけど、物事の新しい発見にたどり着けるプロセスは、その一瞬にしかなく、また、改めて思いだそうとしても、その瞬間にたどり着けることは二度とない……というほど、長い時間がかかる。私は、私がどうしてそれを書いたのか思い出せないような一言二言のメモを、後になって見つけて、苦悩する。そういったことはよくある……ともあれ、勉強は進めていた。殊更、呪いというものは、解き方を一つ間違えると、呪いが自分へ返ってくることもある。慎重にして間違いはなかった。……普通なら。
後になって分かるのだが、そんな面倒は必要なかったのだ。……レミィが椅子にかけた呪いは、とても単純かつ力任せなものだった。呪いにも目的がある。何者かを害するために呪いを使うのは、直接危害を加える能力がないか、気付かれたくないか、とにかく、迂遠な理由のためだ。レミィには迂遠などとは程遠い性格をしていた。直接危害を加えることのできる能力があるのに、呪いなんてどうして使うだろう? 彼女には、複雑な呪いをかける必要もないし、当然能力もなかった。
ともあれ、呪いのために勉強をしたのは、完全に私の好みだ。そのために時間がかかったことは、レミィに対しては申し訳ないけれど、しばらくの間、時間は呪いの勉強のために費やされた。
眼鏡をかけてもくもくと本を読んでいると、周りのことが目に入らなくなる。
「パチェ」
と、レミィが私を呼んだのが分かった。たぶん、何度も呼んでいたのだろう。私はちらりと顔を上げて、レミィを見た。レミィは私を見ていた。退屈そうで、きっと、足はぱたぱたさせていることだろう。
「ね。パチェ。ずっと本を読んでばっかり。つまらないわ。ちょっと、構ってちょうだい」
私は返事しながら、本に視線を戻した。
「我慢してて。レミィのためにやってるんだから」
「私のために?」
「何。レミィがやれって言うんなら、何でもやるわよ」
「あら。……嬉しいことを」
「……? 嬉しがるようなことなんて、言ってないと思うけれど」
「あら、そう。まあ、そうね。どうせパチェは、本が読めたら何でもいいんだものね。ほんとに、何でもしてくれるなら、どんなに嬉しいか」
「ああ、そりゃ嬉しいわ。レミィが喜んでくれることが、私、一番嬉しいもの。だから、ちょっと待っててね」
「あら。あら。あらら」
私はメモを取り上げて、走り書きを残した。呪いも色々と、難しいのだ。レミィは、それっきり、呼ぼうとはしなかった。少なくとも、気付かなかったので、たぶん呼ばなかったのだろう。
椅子を調べるのと、軽く簡単な解呪を試してみようと、私は椅子を覗き込んだ。帽子の上から、何かが降ってきて、私の頭をわしわしと掴んでいじくった。
「どう、パチェ。うまく行きそう?」
「ちょっと。もう。レミィ、邪魔しないで」
手を払うと、楽しそうな笑い声が、上から降ってくる。
「ね、パチェ、こっちに来てくれる」
「何よ」
せっかく椅子を見ていたのに。私は、レミィに呼ばれて立ち上がった。背の低い私だけど、レミィが座っているせいで、高い視点から、レミィを見ている。
「こっち」
レミィは、再び私を呼び、招き寄せた。もう、充分に近い距離なのに、もっとレミィは引き寄せようとする。私は大人しく従った。もう、ここ一週間は、レミィの言いなりになっている。レミィは、自分の膝の上を叩いた。私はレミィに示されるがまま、椅子の上へ上った。膝をつき、レミィの足を避けて、椅子の上へ膝を付いた。一瞬、上ってから、私も呪われるんじゃ、と思ったけど、まあいいや。レミィと私の距離は、もうほとんどない。レミィは身体を前へ倒し、私のお腹に触れた。レミィの身体を、私は身体で感じた。
「動けないのは、面倒だけど、良いこともある。パチェが来てくれるのは嬉しいわ」
レミィはお腹に顔を寄せて、あぁ、と、吐息をこぼした。
「暖かい。人の温度があるわね、パチェ」
前にも、似た様なことを言われた気がする。レミィの皮膚は少し冷たい。レミィは、私の肌に触れては暖かいと喜ぶ。それは、私だけじゃなく、咲夜や他の誰かに触れても同じだけど。
レミィは私の腰へ手を回し、お腹を抱いて、脇腹へ顔を擦りつけた。楽しそうで、気持ちよさそうだった。目を細め、口角は優しく持ち上がり、むふふと笑うと吐息がお腹にかかった。
「楽しい、レミィ」
「うん。楽しいわね、パチェ。ずっとこのままでもいいくらい」
私は、少し照れてしまった。レミィは相変わらず楽しそうに顔を寄せている。ううん。私は、恥ずかしくなって、なんだかいけないことをしている気がした。それで、呪いを解いてしまった。「おお?」と、レミィは違和感に気付き、不思議そうに椅子を見て、立ち上がった。私はすっと身を引いた。
「あれ? 呪い解けた? どうやったの?」
「簡単なことよ」
「ものには属性があって、その属性を決めているのは、観測者たる私たちなのよ。例えばこのスプーンは、私たちはスプーンだと思って見ている。スプーンをスプーンとして観測している。でも、見ていないところでは、スプーンの形をしておらず、コップの形をしているかもしれない。スプーンを叩くとコツコツ音を立てるけど、私たちの聞いていないところでは、どろどろになり、べちゃ、べちゃと音を立てるかもしれない……スプーンを、私たちはスプーンだと思って使う。もし、私たちが、スプーンはスプーンでない、と、迷いを持ち始めたら、途端にスープをすくうことはなくなり、スープを全てこぼしてしまうかもしれない……極端に言えば、属性というのは、本人が意識するものではなく、他人に意識されて形作られるものよ。
『ちょっと待った。スプーンや、鉄や、木、もちろん椅子にだって、意識はないじゃないか』と思うかもしれないわ。でも、それはあなたがそう思っているだけのことよ。椅子にも意識はある。私たちは、椅子に意識があるなどと考えない。付喪神というのがあるでしょう。あれは、付喪神が喋り、歩くと思うから、道具が喋り、歩く。それと同じことよ。椅子が喋るものだと思えば、喋り出すでしょう。意識も同じ。
あなたの椅子は、レミィ……あなたが呪いをかけた。呪われたものだ、と考え始めたから、その意識に従って、座った者を立てなくした。自分には、座ったものを立てなくする、という思い込みがあるから、座った者は、椅子の力によって立てなくなった。だから、椅子に、『あなたは呪いの椅子ではない。立てなくする能力なんてない』と、教えた。実際、レミィ、あなたの乱暴に組み立てた呪いよりも、私の呪いの力の方が強い……そういうわけで、椅子は呪われていなくなったわ。呪いには儀式なんかが必要で、解呪にも似たような儀式が必要だけど、レミィの呪いは実にインスタントで、簡単にかけたから、解くのも簡単だった。
解いた証拠が欲しい? じゃあ、椅子に聞いてみて。椅子は怒っているわよ。呪いの力があると思っていて、自分には他の椅子にはできない優れた椅子だと思っていたのに、騙されたって」
私が説明を終えると、レミィは椅子を見た。見た目は、何の変哲もない、ちょっと小綺麗で、丁寧な作りの椅子だ。レミィが使うのだから、そこらの安物ではないだろう。幻想郷の外から持ち込んだものかもしれない。
レミィは訝しげに椅子を見た。急に、気味の悪いものに見えてきたのかも知れない。でも、私を見て、ちょっと馬鹿にした感じで言った。その馬鹿にした感じにも、虚勢が混じっているように見える。
「何馬鹿なこと言ってるのよ、パチェ。椅子が喋るはずないでしょう」
「ほんとに?」
「当たり前でしょう」
私は椅子に聞いてみた。「どうなの?」私が椅子へ意識を向けると、レミィも、振り返って椅子を見た。変わった様子もないのに、椅子は、一種異様な雰囲気を纏って、そこに佇んでいる……。
「一生恨んでやる」
「ほらね」
「うわ喋った」
レミィはびっくりした。レミィは、私の後ろに隠れて、椅子を見た。まあ、そりゃ、椅子が喋るなんて普通に考えれば頭がおかしい事態だ。発声器官がどこにあるのだという感じだし、そもそも喋る椅子なんて絶対に落ち着けないだろう。
「一生恨んでやる」
「こわ……捨てよう、これ。さくやー、咲夜。こっち来て。早く。これ、これ、捨てておいて」
レミィが咲夜を呼ぶと、咲夜は素早く現れて、椅子を担いで出て行った。
「ギギギギ」
「どっから歯ぎしり音出してんの。こわ……」
レミィは終始怯えていた。
それにしても、と、レミィは普通の椅子に座って、言った。
「あれ、喋る椅子なんて看板立てて置いておいたら、怪しげな感じは出ないかしら」
「むしろなんだか楽しげだから、やめておきなさい。変に調子に乗せて、気分良くなられても困るわ。椅子はやっぱり喋らない方がいいわね」
そのあと、咲夜がどのように処分したのかは知らないが、喋る椅子の話が、里で出回った。咲夜が捨てた椅子を妖精がどこかへ持っていったのか、森あたりに放置した椅子を妖怪が発見したのか、それとも屋敷を運んでいる間に、妖精たちが見て、それが噂になったのか。おそらく、いくつかの要因が合わさったものだろう。レミィや咲夜も、おそらく話題にして、誰かに喋っただろうし。噂話は思わぬ方向に広がるものだし、思わぬ尾ひれがついたりするものだ。それが、結果として、里での噂話になったのだろう。
それはいいとして、一週間もすれば、レミィが立てなくなったことも、喋る椅子のことも、すっかり忘れ去られてしまっていることだろう、と、私は思ったし、実際そうなった。
呪いを解いてしまうと、私がここにいる理由はなくなった。レミィはどこにだって勝手に行くだろうし、私だって今読んだ呪いの知識をノートにまとめたい。私は、図書館へ帰ろうと立ち上がった。
レミィが私の手を握った。引き止められていた。
「なによ、レミィ」
「いいじゃない」
私が振り返ると、にへ、とレミィは笑った。
「もうちょっとくらいいてもいいんじゃない?」
……まあ、いいけど。
4 レミィの部屋で寝泊まりするのをやめる
レミィは、珍しく外出もせず、部屋にいた。椅子から立てるようになったのに、まるで呪われたままのようだった。レミィは、何が楽しいのか知らないけど、楽しそうに私を見ている。
「ねえ、パチェ」
タイミングを見計らっていたようだった。私がしおりを挿し、眼鏡を外して目頭を押さえる、その時にレミィが私を呼んだ。
「なに、レミィ」
「困ったことになったわ。パチェ、こっちに来て」
何をまた言い出すのだろう。こっちも何も、テーブルを隔てたところに私たちはいる。ともあれ、言われるがままに立って、レミィの側に立った。レミィは椅子を回し、私を正面に見た。
「もっと、こっち。こないだみたいにして」
呪われもしてないくせに。言われるがままにすると、こないだと同じように、レミィは私のお腹に顔を寄せた。手が、私の腰とお尻の中間辺りに触れた。私は、突然、恥ずかしいことをしている気分になった。それで、レミィから身体を、すっと離した。レミィは、私の身体が引き、離れようという動きを感じると、腕が緩んだ。
「あら。……ね、もっと」
私は目をそらし、うーんと悩んだ。なんだか、良くないことをしている気分になった。こんなことをしていていいのかな。
遠い、遠い昔にも、私は、レミィとこんな風にした。もう、あまりにも遠い昔のことだから、絹の手触りのように実感は薄く、心地よいばかりとなっている。思い出は思い出のままだ。いま、新しく何かを加えて、昔の思い出を失うのは、こわい。私は、レミィから身を引いた。レミィは、今度は引き止めなかった。
「あら。パチェったら意地悪なんだから」
レミィは立ち上がって、私を抱きついた。うわ、と思った。そういうことをされると、困る。
「やっとパチェに抱き着くことができたわ」
「……そう」
「私のために走り回ってくれてるパチェ。可愛かったわ。ずっと触りたかったけど、できなかったから、なんだか嬉しいわ」
私は、レミィの身体を押しはがし、ゆっくりを身を引いた。
「……レミィ、良くないわ」
私は目をそらし、壁の隅を見ていた。
「……あらそう!」
レミィは、少し怒り気味に言って、椅子にどっかりと座った。
「図書館の、自分の部屋に戻るわ。ね、そうさせて」
「パチェの好きにして頂戴」
レミィは怒っているようだった。当然だ。私はそのまま、後も見ずに部屋を出た。
「パチェ」
レミィが、私を呼び止める。私は歩を止めた。
「気に障ったのならごめんなさい。あなたに、不快な思いをさせるつもりはなかったのよ」
レミィは、そのつもりだろう。レミィが、私に、嫌なことをするはずがないのだ……。だから、悪いのは、私、弱い私ばかりだ。私は、何も言いたくなくて、レミィに悪くて、そのまま真っ直ぐ歩いた。
唇を寄せると、頬に吐息がかかった。熱っぽい囁き。パチェ。パチェ。パチェ。……三度呼び、唇を重ねる。短く口づけ、二度、三度。パチェ。
名前を呼び、名前が返ってくる。レミィ。親密さの表象。レミィ、と名前を呼ぶ私は、横たえられ、身体を組み敷かれている。レミィ。レミィ。可愛らしく、愛らしく、幼いレミィ。
白いシルクの天蓋が、私とレミィの世界を濃密に隠している。幾十に折り畳まれた布の波の中へ、二人は沈み込んでゆく。暖かなまどろみ。揺れるさざ波の小さなうねり。ベッド脇の小さな燭台が、垂れ下がる布を隔てて、柔らかな明かりとなって、世界を包んでいる。暗くもなく、明るくもない。光と闇の中間地点、曖昧な部分の中に私たちはいる。ベッドの外に世界は見えず、外側からも中は見えない。閉じた世界のように、私たちは感じている。互いに、相手のほかには、何も見えていない。くす、くす、笑いながら、互いを突っつきあって遊んでいる。やがて静かになり、部屋は闇の中へ沈んで、何もなかったようになる。…………
むくり。身体を起こす。身体が濡れている。寝汗のためだ。なんてこと。なんて。遠い昔の夢。あんな。恥ずかしい夢。
よろよろと身体を起こすと、肩に引っかかっていた薄衣の寝間着が落ちた。私はふらふら歩いて、扉にぶつかり、書架にぶつかり、小悪魔にぶつかった。
「パチュリー様、何下着で出歩いてんですか」
小悪魔に肩を掴まれて、押されて、私は寝室に戻された。
変な夢は見たものの、昼頃まで読書をすると、まあ、わりかし、いつも通りの気分に戻っていた。
昼頃になって、本を取り替えようと、席を立とうとする。そうすると、椅子から立ち上がれない自分に気がついた。その正体にはすぐに気がついた。というか、座るまで気がつかなかったなんて、なんて愚かなこと。椅子には呪いがかかっていた。呪いをかけた張本人は考えるまでもなかった。レミィが現れた。
「逃げられないようにしてあげたわよ」
なんてこと。
まあ、それでも、困ることはないのだ。本については、小悪魔がどうにでもしてくれる。自分で本を取りに行くのは、気分転換になって良いのだが。本を読むことが第一義だから。我慢できないほどの苦痛ではない。
「別に困ったりなんてしていないわよ」
「あらそう。……じゃあ、困らせてあげようかしら」
困るのはこっちの方だった。ただでさえ、朝から恥ずかしい夢を見て困っているというのに。思い出しそうで、困る。レミィは私をじっくりと観察している。昨日言い合いをしたばかりだというのに。レミィは気にしていないのだろう。気にしているのは、私ばかりだ。
レミィはにやにや、楽しそうに、私を見ている。私は俎板の上の鯉だ。逃げ出す心配がないから、後は捌くだけ……そういう気分だろう。
「どう、パチェ。椅子に呪われている気分は」
「まあ、別に、嫌なものじゃないわよ。……魔理沙なら耐えられないでしょうね」
「あらそう。私は気分がいいわ。パチェが逃げられないから」
私はむっとした。返事をせず、ページをめくって、本に集中しているふりをした。
「あなたっていつも逃げるもの。昨日もそう。ずっと前も、そうだったわね」
「…………」
「黙っていればいいと思っているの」
「言ったでしょう。あなたとのことは……」
もう、遠い遠い、昔のことだ。私とレミィは、必然のように恋に落ちた。そう思っていたのは、私だけかも知れないけれど……。
「私たちが少女だったころ……」
「少女? 自分で言うの。それに、私もパチェも、もう少女なんて呼べる歳じゃなかったわ。あの頃にはとうに」
「うるさいわね。ともかく、あなたは、何も知らない私を誘惑したのよ」
「悪魔ですもの。誘惑の一つもするわ」
「うるさいわね。それに、言ったでしょう。初恋だったの。あなたは私を弄んだのよ」
「あらそう。じゃ、私なしじゃいられないようにしてあげる。あなたの方から、私の部屋へ来るようにしてあげる。夜になれば、私のベッドに潜り込むようにしてあげるわ」
これはレミィなりの誘惑のつもりだろうか。だけど、私はそんな気分にはなれないのだ。恥ずかしくて、レミィの顔も見れやしない。私は、本を置き、椅子のわきへ上半身を伸ばすと、呪文を唱え、呪いを解きにかかった。
「あ、だめよ、パチェ」
レミィは私の手を取り、私の身体をレミィの方へ向けさせた。けれど、詠唱は続けた。すると、レミィは私の唇に手を伸ばして、つまみ、ぎゅう、と締め上げた。おかげで呪文は中断されて、変な顔になってしまった。顔を振って、レミィの手を掴むと、レミィは変に意地になって、唇を掴む手を緩めなかった。私は頑張ってレミィの手を引きはがすと、唇が痛んだ。
「もう。やめてよ。どうせなら、キスで塞ぐくらいのロマンチックなのにして」
「なぁに。してほしかったの。パチェったらすけべね」
「誰がすけべよ。すけべにしたのは誰よ」
レミィはどうしてか楽しそうに手を伸ばし、指先で頬をついた。むにゅう、と、押された頬が潰れて、肉が周りに広がった。ぱし、とはたき落とすと、レミィは大人しく自分の席に戻った。
「すけべって言うけどね。パチェのせいで、私もすけべになったところ、あるんだから」
「なっ」
私は、私の行いを思い返し、ますます赤くなった。くすくす、レミィは笑った。
「私はね、パチェ。パチェにひどいことをしてたのかもしれない、と思ったのよ。私は気が多いから、それは、パチェにとってはひどいことかもしれない。でも、私は思うわけ。パチェにいいことをしてあげよう、って。それだけ……それだけのことなのよ。難しいことは考えなくてもいい。パチェも、私にいいことをしてくれればいいし、自分で、自分にいいことをすればいいの」
私はレミィの話を聞きながら、椅子の呪いを解いた。前の呪いと何も変わらない、単純なものだった。これなら解くのはわけはない。解き、レミィに返事をやった。
「ふん。いいわよ。私は、本が好きだもの。他には何もいらないもの」
「あらあら、素直じゃないこと……」
ぱちん、ぱちん、と、レミィは指を打ち鳴らした。指を打ち鳴らすと、次の瞬間には、本が消えている、ということも、レミィならできるんだろうか。できるかもしれない。レミィは優しいから、そういうことをしないのだ。
「パチェ、呪いの話をしたでしょう」
「なあによ」
「私も呪ってあげようかしら。椅子みたいにして。私が乗っかっていなくちゃ、どうしようもならない呪い」
椅子みたいに。不意に、いやらしい想像が浮かんで、打ち消した。
「ふん。レミィの呪いよりも、私の方が力が強いんだから。すぐに、解いてあげるわ。そんな呪いくらい。むしろ、私がレミィを椅子にしてあげる」
うふふ、とレミィは笑った。レミィならやりかねない。今日から、眠る時は防壁を張って眠らないと。
それにしても、と私は言った。
「やっぱりレミィって意地悪だわ。私のしてほしいこと、何もしてくれないんだもの」
「あら。呪われるのはお嫌い?」
「ええ。当たり前。呪われてみたい人がいると思う?」
「いいえ。でも、パチェは、私が呪われているのを見て、嬉しそうだったわね」
「そんなことないでしょ」
「いいえ。パチェは、毎日、私のために走り回ってくれました。楽しそうにね」
私は、黙ってしまった。確かに、レミィが縛りつけられていて、私の帰りを待っているのは、楽しかった。
「……レミィが呪われているのを見るのが、楽しかったわけではないわよ」
「似たようなものよ」
ふん、と、私は溜息をつき、本に戻った。
「それで、パチェがしてほしいことって何?」
「何って」
「だから。私はパチェに、意地悪ばかりするんでしょう。パチェの、本当にしてほしいことは何」
してほしいことなんて、いくらでもある。でも、一番してほしいことは、一つなのだ。たった一つだ。それさえしてくれたら、何でも許してあげられる気分になる。今でも、充分、色々と許しているけれど……。
「その……」
「何よ。恥ずかしがってないで、さっさと言いなさいよ。恥ずかしがっててもいいけど。面白いから」
「もう。……レミィは、私のこと、好きなの?」
「なに?」
「だ、だから」
私は本に顔を隠した。
「レミィは、私のことを好きなのか、聞きたいの。きちんと、言ってくれたこと、ないでしょ。だから、レミィのこと、分からなくなるのよ。きちんと言って」
「何言ってるのよ。言ったでしょ」
「言ってない。覚えてないわよ」
「言ったのに。言ったってば」
「言ってない。……もう一回、言ってよ。というか、何度でも、言って」
……はぁ、と、レミィが溜息をつくのが聞こえた。微妙に傷付いた。沈黙があった。不安と、興奮で、胸に爪を立てたいような気分さえした。でも、その気分を、レミィに悟られたくなかった。
本に、手がかかった。レミィが本を下ろし、私の顔を見た。私はがた、と音を立てて、椅子から立った。いきなり、レミィが近い距離にいたので、びっくりしたのだ。レミィは悪戯っぽく笑っていた。
「パチェ、あなたに好意を伝えるのはいいけれど、私がしたいことは別にあるわ」
レミィはそう言うと、私の身体へ手を伸ばした。レミィの腕が、私の肩と腰を捕まえる。レミィの身体と唇が、私のところへ寄ってくる。
私は、レミィの口づけを、受け入れた。唇が重なり合うと、衝撃音が鳴りそうな激しい愛撫が、私の口内へ加えられた。
思わず身体が弾けそうに反応した。身体を落ち着けて、レミィの唇と舌をたっぷりと受け入れたあと、唇が離れて、私はレミィの身体の間に腕を入れて、ぐっとレミィの身体を離した。
「これが答えの代わりよ」
私は、唇を、服の裾で隠し、一歩身体を引いた。
「なに。気に入らなかったの。それとも、私が嫌いなの。嫌いなら嫌いと、はっきり言いなさいよね」
私は、レミィを見返した。涙が流れるのが分かった。レミィは、じっと私を見ていた。
「……嫌いよ。激しいのは嫌い。もっと、穏やかのが好きって、前にも言ったでしょう」
「そうだっけ」
「レミィは忘れっぽいのね。いつもそうだわ」
「うるさいわね。じゃあ、静かで、穏やかな、ロマンチックなキスをしてあげるわよ」
レミィの顔が、再び近付いてくる。思わずレミィの胸に手を置くと、レミィはその手を脇へよけて、私に抱き着いた。
レミィに誘われて、されるがままになった頃があった。あの頃は幼かったのだ、と、思おうとしているけれど、今も同じだ。されるがままにされなくなっただけのことで、心はいつも隷従しているのと同じだ。
その証拠に、レミィに身体を寄せられると、私はこんな風になってしまう。
小悪魔が、図書館から出て行く気配がした。ゆっくりと、扉が閉まってゆく。
扉が、静かな音を立てて、閉じた。レミィの手が、私の背を、強く、ぎゅう、と、抱いた。
まどろみの中で、夢を見た。たわいのない夢。椅子を立ち、書架へ本を取りに行く。椅子へ戻ると、レミィが私のところへ来ていて、ひらひら手を振る。何をするでもなく、テーブルの向かいに座って、私は本を読んでいる……。レミィは退屈そうにして、私を真似て、ページをめくる。何を読んでいるの。アルベール・カミュ。何を読んでいるの。何を読んでいるの。アナトール・フランス。何を読んでいるの。人間心理の本。何を読んでいるの。薬草学。何を読んでいるの。仏教美術。……幾日も、私たちはそうしていられる。私たちはそういう時間の使い方をする。
目が覚めてから、レミィがいないことに気がついた。レミィが私のところへ来るのが当然のことだと思っているから、こんな夢を見る。
レミィが図書館へ来なくなって結構な時間が経つ。珍しいこともあるものだと思う。レミィはいつでも退屈しているから、何か面白いことがないかと、図書館には良く来る。代わり映えがしないのを見て、「つまんない」と帰っていくだけのことが多いけれど。
今、幻想郷で何かが起こっている風でもない。レミィが来ないのは、何か面白いことを見つけて、遊んでいるのだろう。そう、私は思った。
レミィが来ていると嬉しい。けれど、夢に見るほどだとは思わなかった。本を読んでいればいい、一人の方が気楽だ、と思っていたけれど。自分の心を観察した。どうにも、そういうことらしい。
レミィの方でも、例えて言うなら友達が、自分ばっかり遊びに誘うようなもので、これでは一方的な関係なのではないかと思っても仕方ないだろう。たまには、私の方から会いに行かなくては、悪いことのようにも思えてくる。
会いに行くのがいいか。私は気紛れにそう思った。レミィを尋ねるのなんて、何ヶ月、何年ぶりだろう。私は身体を起こして、図書館を後にした。
洋館の中には、影が色濃く映っている。魔法の明かりが廊下を照らしている。壁を這うようにいくつもの影が伸び、進むたびに消えて、また生まれを繰り返す。窓の外の暗闇が、ガラスを鏡のように見せている。ガラスの向こうは、黒く、濡れている。
必要のないことをしている、とも思った。レミィに会いたい気持ちはあるが、会って何をするかということは思いつかない。したいこともない。ないまま、とりあえず会いに行こうとしている。それで、何をするのだと思えば、別に……、という、気分にもなる。そもそも、本を読みたい、という気持ちもある。別に、レミィのところへ行く必要はない。私は必要のないことをしている……。
レミィの部屋の前に来る。重厚な扉があって、いつも押し開けるのに苦労する。レミィは自分で開けないから、楽なことだろう。ノックをすると、返事がある。
「だあれ」
「私よ」
「ワタシ。わ、た、し……変わった名前ね」
「いいから。入るわよ」
ぐい、ぐい、と、身体を使って押し開けていると、咲夜が手を貸してくれた。何故か咲夜は、シルクハットを被って、付けひげをつけている。布を片腕に掛けている様は、まるで執事みたい。何をやっているんだろう? 部屋の中では、レミィが椅子に深く腰かけて座っている。
「珍しいお客様だこと」
「そうかしら」
「そうよ。あなたが私の部屋に来るなんて、何十年ぶりかしら」
もうそんなになるかな。と、思っていたら、レミィがくすくす笑っている。冗談だったかもしれない。冗談だとしても分からないほど、ご無沙汰だ。
私は存外、ひどい、というか、情の薄い奴らしい。友達づきあいも、長くなれば希薄になるものか、それともこんな風になっても友達づきあいを続けていられることをありがたく思うべきか。
「あら。昔を思い出しちゃった?」
「誰が」
「ふふん。そんな顔をして、説得力のないこと」
知らんふりをして、私もレミィの向かいの椅子に、座ろうとした。レミィはそれを制止した。
「あ、ストップ! ストップ。座っちゃだめよ、パチェ」
「どうしてよ。新しく、客人に座らせないマナーでも作ったの?」
「ちょっと椅子に呪いをかけてね。呪われるわよ」
私は振り向き、椅子を見た。呪いのオーラは感じられない。冗談かと思った。
「……本当?」
「かくいう私も、つい座ってしまってね」
レミィの座っている椅子は、変わったところはない。ちょっと豪華なだけだ。疑わしく思った。
「また、レミィってば。嘘でしょう」
「本当だってば」
私はレミィの手を引いてみた。レミィの手が伸びた。力いっぱい引いてみても、レミィは動こうとしなかった。私の力が足りないだけかもしれない。うんうんうなって、片足を椅子にかけて引っ張ったけど、動かない。
「痛い、痛いってば」
「本当に言ってるの?」
「うん。立てないのよ。まるで地獄の椅子みたいだわ。冥界の椅子から立てなくなったテセウスを立たせたという、ヘラクレスなら立たせられるかしら。それで、もう長いこと座りっぱなしなのよ。咲夜が退屈を紛らわしてくれるけど、限界よ。退屈で仕方ないわ」
奇妙な格好をした咲夜が、一輪車を持って出てくる。紅茶のポットとカップ、それから林檎の乗ったおぼんを持って、一輪車に乗りながら紅茶を入れている。林檎の皮を剥き、カップに浮かべる。
「アップルティーですわ」
一輪車をきこきこ漕いで、テーブルにアップルティーを置いて下がってゆく。一輪車の操縦にも危なげなところはない。レミィがアップルティーに口をつける。
「面白いでしょう」
「いいえ、あんまり」
「そう? 転んでほしいところで転んでくれるのよ」
レミィが目配せをすると、咲夜はアイコンタクトを受け取り、絶妙なタイミングですっ転んで吹っ飛んだ。カップは吹き飛び、頭にお茶がかかって、転がって熱がった。レミィが楽しそうにけらけら笑った。
「パチェもやる?」
「遠慮しておくわ」
「パチェもやりなさいよ。きっと面白いわ」
「私は面白くない」
つまらない、とレミィは言った。心底つまらなそうだった。さっき咲夜が笑った時も、腹の底から笑った感じではなかった。
「ああ、退屈だわ。何をする? チェス? 花札? トランプ? 外の世界から来た、テレビゲームというのをやってもいいのよ」
「読書でもしたらどう?」
「本を読むのも面白いけどね」
部屋の片隅には、読み終わったらしい漫画が積み上げてあった。飽きるほど読んだのだろう。まあ、やってもいいけどね。
「じゃあ、チェスでもする?」
よくてよ、とレミィが答えた。咲夜があっという間に用意を済ませた。さっき転んだばかりだというのに、服は綺麗になっていて、格好もいつもの通りに戻っていた。普通の椅子も持ってきてくれていた。
「呪いの椅子に座らせたら良かったかも。そうしたら、話し相手ができたわ」
「私は……。まあ、本を読めたらいいけど」
ふん、とレミィは言った。チェスが始まった。
チェスの決着はつかなかった。途中で食事の時間になったため、中断して置いておいた。「またやりましょう」とレミィは言った。
それから、唐突にレミィは言った。急に思いついたらしい。
「そうだ。パチェ、皆を集めてきて。それで、私を楽しませるの」
「ええ……?」
「もちろん、ただとは言わないわ。私を楽しませてくれた人には、報償を与えるの。報酬が出るとなれば、遊びに来る連中もいっぱい来ようと言うものよ。どう。領主らしいお遊びだと思わない」
ふふん、とレミィはふんぞり返って、楽しそうだ。ふうん。
「私が探すの?」
「たまにはいいでしょ。咲夜は私の身の回りのお世話があるもの。それに、一人だと退屈だわ。咲夜には、私を楽しませてもらわないと」
「咲夜に、椅子を背負って歩いてもらえばどう」
「パチュリー様、あまり無理を言わないでください」
咲夜が、料理の用意を済ませて、レミィの脇に立った。ありがとう、とレミィが言い、私は中座しようと腰をあげた。
「パチュリー様の分も用意してあります。どうぞそのまま」
「あら。気が利くのね、咲夜」
「そうしたいかなと思いまして。妹様にも声を掛けたのですが、いらない、と」
「一人の方が気楽なんでしょう。放っておきなさい。それより、咲夜も一緒にどう」
「いえ、私も、一人で取る方が気楽ですから、後で頂きます」
そう、とレミィが言った。殊更に追求はしなかった。私にとっては珍しい、豪勢な夕食が始まった。
次の日の朝のこと。まあ、豪華な夕食を貰ったお礼というわけではないけれど、私はレミィのために、暇そうな人々に声を掛けて回ることにした。念のためレミィを覗きに行くと、相変わらず椅子に座っていた。どうやら立ち上がれるようにはなっていないようだった。レミィは「いってらっしゃい。よろしくね。できるだけ早くね」と言った。着替えとか、どうしてるんだろう。
私が部屋を出ると、おそらく時を止めて歩み寄ったのだろう。唐突に、咲夜が私のごく近くに現れた。「パチュリー様。急ぎお願いします」それだけを言ってぱっと消えた。どうも咲夜もきついらしい。
やれやれ。
2 レミィのために暇潰しを探して歩いた
博麗神社に来るのは、何やら久々な心地だ。魔理沙は時々、図書館へ勉強に来るけれど、巫女が館へ来ることは滅多にない。レミィはよく遊びに来るそうだけど……。
境内に入っても、巫女の姿は無かった。奥へ回ると、巫女はこたつの中で寝ていた。横向きになり、布団に半ば顔を埋めている。あどけない寝顔をしていた。和ごたつというのは、どうも、床に横たわっているようで、慎みが無いわ、と、私は考えた。足を置くところに横になる、というのが、今ひとつ想像の付かない心地だ。
そうやってしげしげと霊夢を見ていると、背後から、私に声をかける奴がいた。
「何をやってるんだ」
魔理沙だ。私は振り返った。
「魔理沙、お久しぶり。何をやってるって、言われても……」
「妙だぜ。お前が外に出ることも妙なら、神社へ来ることも妙だし、霊夢の顔を覗き込んでいるのも妙だ。そんなことをする奴だったか?」
「そういうことをしない奴でいたつもりもないわよ」
「妙な言い分だぜ」
魔理沙は日の中に立っていた。箒を担ぎ、やれやれ、と片腕を持ち上げてみせた。
「ところで、魔理沙。あなた、面白いことはできる?」
「面白いことだと? ずいぶんざっくりした物言いだな」
「レミィがね、面白いことをできる人を探しているの。退屈しているみたいでね」
「なんだ。いつものことじゃないか」
「楽しませられたら、報償が出るそうよ」
「王様みたいな言い分だな」
ふぅん、と魔理沙は呟いた。座敷に上がり込み、霊夢の傍らにあぐらを掻くと、霊夢の頬をかりかり掻いた。うぅん、と霊夢がうめき、眠ったまま手を振って、魔理沙の手を払った。
「考えておいてやるよ。霊夢にも言っておくよ」
「ええ。ついでにその調子で広めてちょうだい。私は面倒だから」
「なんだよ。勝手なやつだな」
私は疲れたので、部屋の隅に座り込んだ。「帰らないのかよ。座るのかよ」と魔理沙に言われたけれど、無視した。
魔理沙は霊夢で遊ぶのに夢中になっているようだった。鼻先をくすぐったり、眉をいじって広げたりした。霊夢は、最終的には嫌がって、顔を布団に埋めてしまった。魔理沙はまだまだお遊びをしたそうだったけど、とりあえずやめて、どこかへ行き、お盆にお茶と湯飲みを乗せて帰ってきた。お茶を入れて、私にもくれた。
「こいつ持って帰ったらいいんじゃないか。面白いぜ」
「ええ。楽しそうね。あなたを見てると実に楽しそうだわ」
私はずりずり、膝立ちで歩いて、魔理沙と並んで霊夢の傍らにしゃがみ込んだ。「いいの?」と聞くと、「いいぜ」と魔理沙は答え、布団を捲った。自分のものでもない癖に、自分のものであるかのような物言いだ。私は、魔理沙がやってたのが面白そうだったので、霊夢の頬に手を伸ばした。指を押し当てると、うぅん、とうめいた。もう一度。うぅん。もう一度。うう……。
「同じことやってたって、面白くないぜ」
魔理沙は言って、霊夢の唇を摘んだ。圧し潰されて、唇を思いっきりとがらせ、変な顔になった。霊夢の手が魔理沙の手を叩いた。目を閉じたまま、霊夢が不機嫌に呻いた。
「やめろ」
「怒った怒った」
霊夢は怒って、再び顔を布団に埋めた。魔理沙は立ち上がり、こたつの向こう側へ行くと、こたつごと動かして霊夢の顔を出した。霊夢はもぞもぞ芋虫のように動き、布団に潜った。また引いた。潜った。霊夢は顔を埋めるようにするので、次第に背中が布団の外へ出て来た。魔理沙がこっちに戻ってきて、霊夢の背中、上着とスカートの間、背中が曲がったせいでちらりと見える脇腹に、指を立てた。霊夢はびくっと震えて、上着を下ろして隠した。魔理沙がひゃっひゃっひゃっと笑った。
「もう! 鬱陶しいって! やめろっての!」
霊夢が立ち上がり、魔理沙は笑いながら私の背中に隠れた。霊夢は怒りながら、私をぎろっと眺め、私は首を振った。霊夢は疑問を持った目をしたけれど、眠くて面倒らしく、布団に潜った。
「次やったら殺すから」
ひゃひゃひゃ、と、魔理沙は笑った。いつものことらしい。私からしたら変わった日常だ。こんな風に日常を過ごすことは考えられない。ホストが居間で寝こけているというのも妙な話だし、そもそも、こたつとは不思議な道具だ。椅子なのか? テーブルなのか? ベッドなのか? 実に不思議な道具だ。これがあるから、この二人は妙な親しさを演出できるのか?
「どうした、入れよ」
ええ、と答えて、こたつに入った。背もたれがないので、本を読むには不向きだ。魔理沙が霊夢を揺さぶり、「そろそろ起きろよ」と言った。霊夢はむっくり身体を起こし、魔理沙の湯飲みを奪ってお茶を飲んだ。魔理沙は文句を言いながら、湯飲みを取りに行った。寝ぼけ眼の霊夢は、じろりと私を睨んで、「珍しい奴がいるわね」と、言った。
私が紅魔館へ帰ったのは夕方になってからだった。ちょうどレミィが起き出したところだった。
「おかえりなさい、パチェ。楽しかった? 私は退屈だったわ。咲夜ったら、工夫のない、いつもと似たような芸で……」
「あら、そう……。ごめんなさい、誰も連れてこれなかったわ」
「何をしていたの?」
「神社で、魔理沙と一緒に寝ている霊夢をつついて遊んだわ」
「何それ。超面白そうじゃない。ずるい。何一人で楽しんでるのよ」
そうは言われたってなあ。
さて、困った。神社に行って霊夢と魔理沙に声をかけ終わると、他に、私には呼べる人がいないことに気付く。私は交友関係が広くない。どこへ行くかも、考えなければならなくなった。そうなると、面倒で、図書館で本を読んでいたい気分になる。
午前を読書で潰していると、その必要もないのに罪悪感を感じて、読書も進まない。なので、午後には外に出ることにした。やれやれ。
玄関先へ出ると、美鈴が何やら、金槌を振るって大工仕事をしていた。
「何をしているの、美鈴」
「ああ、パチュリーさん。看板を作っているんですよ。パチュリーさんは知ってるでしょう、お嬢様の……」
ええ、と返事をすると、美鈴は大工仕事に戻り、背中を向けたまま話を続けた。
「それで、作っているんです。褒美を出すから面白いことをしろって言う……。どこかの王様のおとぎ話みたいですね」
「ええ。ほんとに。……美鈴、それ、どこに立てるの?」
「ここです。館の前ですが」
「里に立てたらどうかしら。ここは人通りもないし」
それいいですね、と美鈴は振り返り、人差し指を私に向けた。そのアイデアいただき、と言わんばかりの格好だ。ばきゅーん。
まあ、それはそれとして、私は当てのない旅に出かけることにした。
神社は閉まっていた。「居酒屋に出かけています」と書き置きがあった。
霊夢はなかなか見つからなかった。霊夢を見つけたのは、里で貸本屋なんてものを見つけて、本を見るのに数時間も使ってしまった後だった。貸本屋なんて、良いものがあるものね。たまには里にも来てみるものだわ。借りる本を数冊選んでから、目的が逆転している、本末転倒なことをしている、と気付く。それで、霊夢のことと、居酒屋のことを聞いてみると、貸本屋の店子は、霊夢の行き先のあてがあった。
「夜雀の屋台とかいうのの話を聞いたことがありますよ。森の辺りにあるそうですよ。昼間にやっているかは知りませんが」
なるほど、と思った。聞き覚えがある。行ってみると、いた。屋台に座って、酒を飲んでいた。
「やっと見つけた」
「あぁ?」
霊夢はもう酔っているみたいで、私を睨み付けるように見た。どうも、最近、胡乱な霊夢と会うことが多い。
「よう、パチュリー。珍しいな、こんなところに。まあ座れ」
魔理沙も相席していた。店主の夜雀は、あははーと笑いながら、お通しを出してくれた。山菜の付きだしと日本酒だ。私はありがとうと答えておいた。
「何よ。神社には書いておいたでしょ。わざわざ探して、何の用」
霊夢は言いながら、酒をぐびぐびやった。
「いえ、別に。何か面白そうなものがないかと探していたのだけど」
「何、それ。面白いものがそこらに転がってたら、私は毎日退屈してないわよ」
「こないだのやつか。まだやってるのか」
「ええ」
「何よ。教えなさいよ」
魔理沙は霊夢に、レミィのことを説明した。「レミリアが面白いものを探してるんだってさ」と、言っただけのことだったが。私はその合間に、お酒を口に入れた。おいしい。
「レミリアが、なんで面白いものを探してるのよ。それも、自分で来ないで、パチュリーに探させるなんて、まだるっこしいことを。自分でやりなさいよ」
「レミィは、呪いの椅子に座ってしまって、立てないの」
「なんだそれ、馬鹿じゃないのか」
魔理沙が、霊夢の向こう側から顔を出して、ははは、と笑った。
「それで、退屈だから面白いものを探してるのか」
「咲夜なんて大変なのよ。毎日芸をさせられて」
「そりゃ面白そうだ。それを見に行ってもいいな」
そうね、と霊夢も賛成して、酒を飲んだ。
「何よ。全然飲んでないじゃない。あんたも飲みなさいよ」
「ええと……」
私は言われるがままにお酒を飲み干したけど、少しきつい。けほけほ、むせて、「大丈夫ですか」と、店主に心配されてしまった。
「何か食べますか?」
「ああそうだ、酒ばかりじゃなくて何か食え。ミスティア、何か炙ってやってくれ」
はいはい、と店主が串に刺した肉を、たれにつけて炙り始めた。煙の良い匂いがする。
「あなたは何かできないの?」
「私はとてもとても。歌うくらいと、料理を作るくらいですかねえ」
「ああ、いいじゃないか。やってやればいいぜ」
「いいわね。変わった料理も、レミィは喜ぶと思うわよ。私の館の位置を知ってる? 良ければ来て、やってあげて」
そうですねえ、とミスティアは言った。
「お帰り、パチュリー。今日もオケラね」
「ごめんなさい」
「今日は何をしてたの?」
「貸本屋に行って、それから居酒屋で霊夢とお酒を飲んで、焼いた肉を食べたわ。おいしかったわ」
「何それ、超楽しそうじゃないの。何であなたばっかり楽しんでるのよ。ずるい」
その日から、妙に人出があった。朝から氷精の子が来たと言うので、レミィの部屋に顔を出してみた。
「なんだよ、あれもダメ、これもダメ。何をすればいいってのさ」
「でもね、あなた、蛙を凍らせたって面白くないし、部屋を凍らせたって困るのよ。もうちょっと考えて芸をやって頂戴」
「なんだー? お前、主人だからって偉そうだな。どうだ、喧嘩しよう。私は強いぞー? 最強だからな。どうした、椅子から立てよ」
「咲夜、どうにか……笑ってんじゃない、早くつまみ出して。笑ってんじゃない」
「立てないのかー? びびってんじゃないのか? どうしたかかってこいよホラホラ」
レミィは顔を真っ赤にして、肘置きに手を置き、ぐぐぐっと力をこめてみたが、無駄だった。頬を膨らませて怒った。それを見て、チルノはケラケラ笑った。
「しょうがないなあ。じゃあ、これはどうだ。とっておきだぞ」
そう言うと、チルノは氷でコップをいくつも作り出し、それをテーブルに並べた。
「水入れて」
「自分じゃ作れないの?」
咲夜は、チルノが言うがままに水を入れに行った。戻ってくると、チルノはコップの水を窓の外へ捨てて、水の量を調整した。氷の棒を持つと、チルノは棒でコップを叩いた。こん、きん、かん、と音が鳴って、チルノは得意そうな顔をした。
「……それで?」
「それぞれ音が違うんだよ。教えてもらったわけ。近所の妖精に。あ、いっておくけど、私より格下だよ。子分みたいなやつ」
きんきんかんかん叩きながら、チルノは歌った。
「きーらー、きーらー、ひーかーるー……」こっ、「あっ」「音程間違えた」「おーそーらーのー、ほーしーのー」
「んーふーふーん、ふーふーふーん」「歌詞適当だし……」「ふーふーふーん、ふーふーふーん」
「きーらーきーらひーかーる、よーぞーらーの、ほーしーのー」
じゃーん、と言って、チルノは両手をあげた。咲夜がレミィの背後で、ぱちぱち拍手をした。
「終わり?」
「うん!」
チルノはいい笑顔をした。
「帰って」
それで、ようよう、咲夜はチルノを摘み上げて、部屋の外へ放り出した。後はメイド妖精たちが玄関へご案内するだろう。
「まったく……咲夜、連れ出すのが遅いわ」
「申し訳ございません、お嬢様」
「咲夜、あなた、こないだからの仕返しのつもり」
「そんなつもりはございません」
どう見ても咲夜は笑いながら言った。
「でも、お優しいですね。最後まで歌を聞いてあげていました」
「ふん」
昼頃には夜雀が来た。道具を背中と両手いっぱいに抱えて、「煙出るけど、いいですか」と言って、火を起こして串に刺した肉を焼いた。これは八目鰻、これは牛、これは豚、鹿、猪、説明しながら、テーブルに並べていった。
「何がお好みか分からないし、食べられないと困るので、色々持って来させてもらいました」
「ええ、どれも美味しいわ。なかなかね。これは独学で?」
「いいえ、人間の作っているものが美味しかったので、真似しました。冥界近くの屋台でやってたのが美味しかったから。こういう、味付けって、人間の方が上手なんですよね」
「ええ、本当。楽しませてもらったわ。あなたが火を起こしてる時に歌った歌も上手だった。咲夜」
はい、と咲夜がレミィの傍らに立つ。
「地下のワイン倉に、いいのがあったでしょう。差し上げて」
はい、と咲夜は答え、その場を去った。
「ミスティアさん、良い物を頂いたわ。お帰りの前に、咲夜から品物を貰って下さいな。楽しませて頂いたお礼ですわ。また、いつでも来てくださいね」
「ああ、それはどうも、ありがとうございます。皆で有り難く飲ませていただきます」
ふふん、とレミィは当主らしい仕事ができて、嬉しそうだった。
夜雀と食事をして楽しそうだったのに、レミィはまた私にわがままを言った。
「パチェ、面白いことは終わり?」
「ええ……。まだ、面白いことを探してこなくちゃいけないの? 昨日は楽しそうだったのに」
「看板を立てても、もう誰も来ないじゃない。また探してきてよ」
「ええ……。そもそも、レミィにとって面白いことを教えてほしいわ。レミィは何が面白いの?」
「何が面白いも面白くないもないわね。自分で、やりたいことはするし。その時面白かったら面白いし、つまらなかったらつまらないわ。要するに、その時次第だし、面白いと思うことが面白いのよ。パチェも、自分なりに面白いものを見つけて、持ってきてくれたらいいの」
「ふうん……」
夜になって、貸本屋で借りた本を二十冊も持っていったら、怒られた。でも、夜を徹して本を読み、互いに討論会をすると、楽しかった。
レミィが、まだまだ面白いことを募集中とのことなので、私は外へ出た。近頃は、外へ出ることが日々の一部になってしまって、すっかり慣れている。
私は、山へ登ってみた。身体に風を纏って、常に追い風を負うように歩くと、身体が軽くふわふわと進んでゆく。山狗たちに咎められたけれど、紅魔館の者で、面白いものを探していると言うと、彼女たちは里に立てられている看板のことを知っていた。まあ、問題ないと判断して、通してもらえた。それにしても、こんな厳戒態勢を取っていたら、山へ来る参拝客は嫌がるだろう。あんまり客も来ないに違いない。
私は山の神社へ向かっていた。そこには、あんまり馴染みはないけれど、早苗とかいう、緑髪の巫女がいることは知っている。
山へ登って鳥居をくぐると、緑髪の女が、境内を掃いていた。砂利の敷き詰められたあたりを、熱心に、下を見ながら、手を動かしている。里の巫女と違って、随分と仕事熱心だ。私は歩み寄った。
「こんにちは」
「はい、こんにちは。ううん? どこかで見たような人ですね」
早苗は、私の顔を見て、それから服装をじろじろ見た。服装を見て、変わった格好だから、変わった奴だ、と思ったのかも知れない。ううん? と、首を傾げてみせた。
「パチュリーよ」
「ああ。図書館の。それで、本を持っているんですね。なるー」
なるー?
「なるほど、の、略です」
ふうん。外の世界から来たというが、外ではそういう言葉遣いをするものか。どうぞどうぞ、と、早苗は私を案内して、中へ入っていった。
「パチュリーさん。時々、会った覚えはありますよ。でも、ほんとに時々だから、ちょっと、すぐに名前が出て来ませんでしたね。すみません。でも、新聞や何やかんやで、話は聞いてます。魔理沙さんも時々名前を出しますよ」
「本を泥棒に行くって?」
「ええと……そ、そんなことはないです!」
じゃあどういう話を? と聞いたら、面白そうだったけど、早苗を困らせてしまいそうだったので、やめておいた。
私は空き間へと通された。普段、あんまり客が来ることはないらしい。小綺麗な部屋に座らされると、きちんとしないといけない気分になった。元々、普通はきちんとしないといけないのだけど、霊夢や魔理沙といると、そういう感じではなくなる。困ったものだ。
早苗が部屋を出て、お茶を入れて戻ってくる。互いの前に置き、早苗が正面に座る。
「それで、何のご用事です? ご参拝ですか?」
「そうね。……何だと思う」
うーん、と、早苗は考えた。
「借財ですか?」
「なんで私がお金を借りなくちゃいけないのよ……」
「ええと、そういう方は時々来られるもので……その、生活に困窮された方とか……じゃあ、何でしょう? 私とお茶を飲みに来たんですか?」
「あなた、面白いことはできる?」
「面白いこと? 面白いことを言いますね。うーん。珍しいことはできるけど……」
風が吹いて、紙がひらり、ふわり、と、机の上へ飛んできて、滑って、私の前で並んだ。ちょうど五枚。整列をかけられたように、きちんと隣りあって並んだ。
ふわり、と風が吹いた。「右から二枚目のが、ひっくり返りますよ」早苗が言った。中央の紙が、びく、びくびく、びくんびくんびくんびくんと震えて、右から二番目がくるり、と空中で一回転し、元の位置へ戻った。早苗は得意げな顔をした。風が吹いた。
「今度は一番端のが動きますね」
またびくびくが始まった。全ての紙がぶるぶるーっと威嚇するように震えて、両端の紙だけがすぅーっと滑って机の下へ落ちた。風が吹いた。
「パチュリーさん、紙を押さえてもらえますか」
私は言われたとおり、中央の紙を押さえた。
「パチュリーさんが押さえたやつだけが飛びますよ」
勢いよく風が吹いたが、置いたままの紙は微動だにしない。私の手の下の紙だけが、すぅーっと滑って、庭の方へ飛んで行ってしまった。
「どうですか?」
ふふん、と自慢げに、早苗は目を閉じた。私はすごいなあと思ったけど、どうも自慢げにやられると、なんとも反応しにくい部分があった。
「なかなかすごいわね」
「でしょう」
「レミィが……レミリアがね、退屈してて、面白いものを探してるの。紅魔館へ来て、やってくれないかしら。もっと派手なのでもいいわよ」
「ええ。構いませんよ。レミリアさんは、奇跡を見たら、驚いて入信してくれたりしませんかね?」
「どうかしら」
ずず、と私はお茶を飲んだ。それから少し雑談をしたけれど、きちんきちんとしていて、どうにもくつろげなかった。たぶん、これが普通なんだろうけれど、魔理沙と霊夢に毒されている。
それで、どうやら、早苗は後日になって来たようだったけど、レミィはお気に召さなかったようだった。
「人間相手だったら、あれでいいのでしょうけどね。『今から奇跡が起きます!』『次はもっとすごい奇跡が!』って、能力を小出しにしてやるから、どうもね。人間に対するショーパフォーマンスとしては、正しいのでしょうけど。一回、『私もできるわよ』って言ったら、すごいむっとしてたから、もう言わなかったけど」
早苗の奇跡は、妖怪向けではなく、人間向けだったようだ。すごいことをやると言っても、あまり強いのをやって館を壊しては迷惑がかかると考えるだろうし、早苗の考えは人間としてはしごく真っ当なのだった。残念ながら、真っ当なショーは、レミィには受けないのだ。
もはやルーチンワークだ。朝起きて、本を読み、朝食を取って、本を読み、紅魔館を出る。今日は道場に行った。最初からそうと決めていたのではなく、街角で風水占いをしていた占い師を見かけて、話をしているうちにそうなったのだ。
「ほほう。道場で修行がしたいと」
「ええと。いえ、修行がしたいわけではないのだけど。面白いものを見られるところを探しているのよ」
「うむ。道場で修行をすれば面白いことなど無数に見れようぞ。うむ、では決まりじゃな」
「ええと……」
割と話は通じなかった。私はあっという間に道場に連れて行かれてしまっていた。
道場は、別の空間にあるようだった。別の空間だというのに、普通の人間らしき者が行き交っていて、泊まり込みで修行に勤しんでいるのだろうと予測した。
布都と名乗った全身真っ白の占い師は、私の前を楽しげに歩いた。何が楽しいのか知らないが、足取りは軽く、愉快そうだった。私の知らないタイプだ。こういう者を見ると、レミィは面白がるかもしれない。
「ここで待っておれ」
どこかの部屋へ案内するでもなく、布都は部屋の中へ入っていって、私は廊下に置き去りにされた。欄干や、窓の意匠はどことなくアジア風だ。おそらく、道教の本拠地であるところの中国の影響を受けて作られているのだろう。
「あら、こんにちは。見ない顔ね」
私の前に、ふわふわ浮かぶ、青色の女が現れた。「こんにちは」私は挨拶した。
「それに、なかなか見ない格好……。こんにちは。霍青娥ですわ。もしかして巫女とか、魔法使いとかの友達?」
うーん、と、私は考えた。知り合いか友達か、微妙な距離感だ。
「ええ、まあ、知っている仲ではあるわね。パチュリーよ」
「へえ。ジャスミンとか、ジャコウみたいな名前ね。可愛らしいわ。ね、お姉さんと仲良くしない?」
私も長いこと生きているのだけど、と、私はむっとした。しかし、見た目で年齢が分からないのが幻想郷だ。この青娥と名乗った女も、相当の歳かもしれない。道場は聖徳太子の生まれ変わりだか何だかがいるそうだから、その係累だとすれば、相当歳は上のはずだ。
「……遠慮しておくわ。ねえ、あなた、面白いことはできる? 私の友達が、面白いことができる人を探しているのだけど……」
私は言葉を止めた。ひょい、ひょい、と、青娥を追って、丸まった肉塊のような何かが飛び跳ねて、青娥の足下で転がったからだ。よく見るとそれは胎児だった。死んだ胎児が床に、二つ三つ、まとまって転がっている。あとから、死人がひょいひょい跳ねてやってきた。
「面白いこと?」
「ええと。ううん。ごめんなさい。やっぱり、いいわ」
「あらそう。つまらないわ」と言い残し、青娥はふわふわ浮いてゆき、その後を胎児と死人が自動で動き、追って行った。
あれは良くないものだ。西洋でも、死体を慰み物にする派閥の者がいたし、知っているけれど。私も、知識にとって実践は必要だから、似たようなことは経験がある。だから、殊更に貶めるつもりはない。気に入らないのも確かだけど。ああいうのが本物の魔女というものだ。レミィに会わせるには、相応しくない。
ああいう者を平気で棲まわせておく道場というものは、実に怪しげで、底知れない組織のように思えてきた。
「お入り下され。太子様がお会いになるぞ」
ようよう、布都が部屋から出て来て、そう言った。太子様とやらと話をしていたらしい。
太子様、と布都が呼ぶ人物が、聖徳太子だというのは知っている。本人は蘇ったと称しているが、有り得るものだろうか? 太古の昔に、蘇ったイエス・キリストのように? ともあれ、本人だろうが、生まれ変わりだろうが、その人物は、私の目の前にいる。
「初めまして、パチュリーさん」
「あら。知ってるの、私のこと」
「ええ。吸血鬼の館の、司書だそうで。私は幻想郷の救世主になりたいもので、色々と知っておこうと思い、日々勉強をしているのです。あなたの友人のことも知っていますよ。吸血鬼の館の女主人、レミリア・スカーレット……おっと、自己紹介がまだでした。豊聡耳神子です。そこの布都には太子様とか、よく呼ばれます。聖徳太子とか、厩戸皇子とか、呼ばれ方は色々あります。私のことを知りたければ、私のことについて書かれた本はいくらでも。布都、差し上げて」
「畏まりました!」布都が部屋を出てゆく。たぶん書庫かどこかへ行ったのだろう。本をくれるとはこの人は良い人ではないか。私は機嫌が良くなった。
「それで、パチュリーさん。こんなところへ、どうして?」
「面白いことを探してて」
「面白いこと? なんだか、そういう人は珍しいですね。それで、道場の門を叩いたと」
「いえ、あの……さっきの布都という人に……」
「ああ……」
太子様ー、と、廊下の向こうから声が聞こえてきて、布都が姿を現した。両手にいっぱい本を持って、犬のように嬉しそうな顔をしている。神子はなんとなく察した顔をして、そこに置いときなさい、と言った。
「面白いことですか。青娥をやってもいいのですが。あれはここでも一番器用です」
「あの人は……ちょっと」
「ああ。もう会ったのですか」
「ええ。西洋にも、死体を弄ぶ者はおりましたが、忌み嫌われていました。レミィが喜ぶとは思えない」
「それはその通り。……でも、勿体ないですね。青娥の作る料理は、とってもおいしいんですよ。彼女は、私と違って、大陸の色んな国を知っていますから。香辛料の効いたもの、ハーブの良い香りのするもの。焼き物に炒め物、なま物も。彼女は宮殿生活も面白いけれど、庶民の生活も面白い、と言っていましたから、色んなことを知っていて、重宝するのですよ。料理も、その一つです」
……おいしそう。ちょっと、神子の提案を遮ったことを、後悔した。
「では、青娥に代えて、布都をよこしましょう。何か、やってくれるでしょう。何、布都はそういったことを面白がれる者です。悪いようにはならないでしょう」
神子という人も、どちらかと言えばきちんきちんとしている人だった。私は、そういう、きちんとした者ではないのだ。堅苦しくて苦手だった。私は会談を終えて、部屋を出、布都の案内で里へ帰った。
「さ、お主、お主の主人のところへと案内するのだ。この我が、道術の神髄というものを見せてくれるからのう!」
布都は楽しげに笑った。
布都はレミィの前で、得意げに皿を回したり、風を吹かせ、水を生み出した。だけど、レミィは、布都のやる芸よりも、布都の人柄そのものを、レミィは気に入ったようだった。布都は、レミィに言われるがまま、食事をし、一晩泊まって、帰っていった。
神子はおそらく、力を見せて、レミィの懐柔を……そこまでではなくとも、道教への興味と好奇心を、布都に期待していたのだろう。早苗と同じだ。だが、布都はむしろ、レミィに懐柔されてしまった。レミィにもそのつもりはなかっただろうけれど。
「あの者は、猫のようにじゃらすと、おもしろい」そう言って、レミィは笑った。
3 レミィの部屋で寝泊まりすることにした
「ほう、ほう、ふむ。なるほど……」
レミィの前で、射命丸文がメモを取りながら、話を聞いている。
「それで。呪いの研究をしているうちに、好奇心を抑えられずに……」
「そう。座ってみたら、どうなるのかってね。本当に離れられないのかって」
「アホですね」
「誰がアホよ!」
むきぃっ、と、レミィは手を伸ばし、おっと、と顔を引っ込めた文の、キャスケットをレミィの爪がはじき飛ばした。レミィの手が届かないところへ文が引っ込み、メモを続けた。
「本当に立てないみたいですね」
「試したのね。立てなくたって、あんたにやり返す方法はあるのよ」
レミィの背後で、鋭く尖ったコウモリ型のレミィの一部が、浮遊して待機した。文は降参という風に手を上げた。
「おぉ、怖い怖い。ともあれ、事情は分かりました。新聞に掲載させていただきますよ」
「ええ。私を楽しませてくれる人の募集も、お願いするわよ」
「おまかせ」と言って、文は帽子を被りなおし、部屋を出て行った。
「でも、けっこう来たものね。また来てくれる人はいるかしら。あんまり期待できなさそうよねえ」
と、後に残ったレミィは、一人言のようにそう言った。
「まあ、ね」
私はレミィの一人言に答え、本を閉じた。
……私は、レミィのために、来る日も来る日も奔走した。それでレミィは、仏教の教えを聞いたり、ライブを見たり、舞を見たり、演奏会を聞いたりした。だけども、当てがなくなると、どうにも困ってしまう。とは言え、ただ困っているわけにはいかない。
「じゃあ、行ってくるわ、レミィ」
「今日も行くの? 最近勤勉じゃない、パチェ」
私は外を見た。
「……まだ日が高いしね」
「あらそう。いってらっしゃい。私は、一眠りさせていただくわ」
ぱちん、と指を鳴らすと、部屋のカーテンがしゃ、しゃっと、全部落ちて、部屋は急に暗くなった。扉が開いて、咲夜が毛布を持って入ってきて、レミィにかけた。レミィは頬杖をつき、目を閉じた。ああやって眠っているのだ、と、私は知って、新鮮な気分になった。咲夜と入れ替わりに、部屋を出た。
部屋を出る前に、暇潰しにする本が少し足りない気がしたので、図書館へ寄った。図書館で本を見繕っていると、小悪魔がいて、恨み言を言われた。
「今日も、図書館から出るんです? なんだか近頃、私は一人で、寂しいです」
「仕方ないでしょう。レミィがああなんだから」
「そもそも、パチュリー様はどうして、お嬢様にそこまで世話を焼くんです? 放っておいても、咲夜さんがどうにかなさるでしょ」
咲夜は側にいて世話が、と思ったけど、それは物事の本質ではない。咲夜のことだから、どうにでもするだろう。私は、私がしたいから、世話を焼いているのだ。
さて、これは難しいことだ。私はどうして世話を焼くか。ふむん。
「ま、あれこれ動き回るのも、それなりに楽しいわよ。レミィのことは抜きにしても」
私は小悪魔の質問に、真摯には答えず……はぐらかして、答えた。はいはい、とのろけを聞かされたように、小悪魔は私に向かって手を振る。
私は何となく、レミィが困ってると言えば動き回ってしまう。何が理由で? まあ、理由なんてないんだろう。理由がなくても私は本を読む。レミィがそうしろと言っているのに、聞かずに、本を読んでいるのも悪いような気がする。それで、実際にレミィが楽しめないとしても、彼女のためにうろつき回っているのは、割と楽しいのだ。レミィのためというよりも、自己満足のためかもしれない。日々は、鼻歌でも歌いたいほど、気に入っている。
割愛するが、成果はなかった。日はあっという間にまわり、夕方になった。レミィのところへ戻り、報告をしに行った。レミィは起きていて、本を読んでいた。私が部屋へ戻ると、本を閉じ、私を見た。報告、と言っても、成果はだいたい分かるだろう。言うべきことも殆どなかった。レミィの方から先に、私に言った。
「パチェ。退屈だわ」
レミィはにやにや笑って、言った。まるで、私が奔走しているのが、楽しいようだった。私はわざと、悪びれずに、言った。
「あなたって本当ワガママね。大概、楽しいことを探して、歩きまわったのよ。こんな夕暮れまで。私はいったいいつまで探し回ってきたらいいのかしら」
「パチェ。パーチェ~。あなた、マジメな人ね。相変わらずだわ。昔っからそう。なら、初心に戻りましょう。お話なんてどう? ね、パチェ、お話をして。面白い話をね」
面白い話ね。私はふぅん、と言った。
「あなたって、本当ワガママだわ。外で歩きまわってた方がましなくらいね。もう一度、行こうかしら」
「ああん。寂しがってる親友を放っておいて出てくの。悪い友達。ね、ね、面白い話でなくてもいいからここにいて。何かしらお話しましょう」
ああそうそう、とレミィがコウモリを飛ばした。コウモリは、チェス盤の四隅にとりつき、ふわふわ浮いて、盤面を崩さずに持ってきた。
「こないだやりかけていたチェスが途中だったわ。そのうち、咲夜が夕食の用意をしてくれるでしょうから。それまで、やりましょう。お話をしながら」
仕方ないわね、と、私はレミィの前に座った。
チェスは、レミィの方が旗色が悪くなって、私の勝ちになった。レミィの思考力が劣っているのではなく、劣っているのは落ち着きだ。レミィは、思いつきのままに駒を動かしてしまうくせがある。もっとも、そのくせのために、思わぬ敗北を喫することもある。……あった、と言うべきか。レミィとチェスをするのも、久々のことだった。久々にやり、久々に私が勝利したのだ。
チェスの合間に、ぽつりぽつりと話をした。古い話、昔の話。チェスが済むと、話の続きをした。話は途切れ、また続き、新しいとっかかりを得て、次の話へと繋がった。珍しく長い話をして、夜も更けた。
「パチェ、寝所を用意したから」
「うん?」
「寝所を用意したから、泊まっていきなさい。たまには、そういうのもいいでしょう」
咲夜がそのようにしたらしい。私は咲夜に付き添われて、レミィの私室へと案内された。咲夜に付き添われて着替えを済ませ、寝間着を身につけた。まるで領主になったようだった。咲夜がレミィの椅子を押し、すー、と滑って、寝所へ来た。
「寝所とは言っても、ここはレミィのベッドじゃないの」
「いいのよ。どのみち、使う者のいないベッドですもの。存分に使って差し上げて」
レミィはそう言って、くすくす笑った。レミィは私の枕元へ陣取り、部屋が暗くなってもお話をした。手を伸ばし合って、手を握り、そのまま眠った。
「ね、パチェ。しばらく、この部屋にいるといいわ。その方が、私も楽しいもの。私を楽しませに来てくれる人が来たら、一緒に楽しみましょう。ね、そうしましょう。本が読みたいなら、小悪魔と咲夜にやらせるから」
半ば、夢心地に、レミィがそう言った。レミィがそう言うのなら、私に逆らう理由はない。どのみち、そのようになるのだ……レミィがそう、望むのならば……。
その日から、私は起きてレミィの部屋で着替えを済ませ、朝の用意を済ませて、食事をし、レミィとお話をし……一日を一緒にした。紅茶を飲むのも、眠るのも一緒。色んな話をした。
あるとき、レミィはぽつりと言った。
「霊夢、来てくれないかな」
「霊夢のこと、好きねえ」
レミィは霊夢が好きだ。大抵のところは、一度行けば満足してしまうけれど、霊夢のところにはよく通っている。私は、本のページを、ぺらりとめくった。
「うん。パチェだって、こないだ、遊んだんでしょう」
「霊夢と遊んだ、というより、霊夢で遊んだのよ」
「似たようなものよ。あの子は、不思議ね。誰にでも好かれる。あの子は、なんとなく好ましい気分になる」
レミィは机に肘を置き、頬杖をついていた。何かを思っているような表情だ。霊夢のことを考えているのだろう。
「なんていうのかしら。好ましいことだけど、霊夢にとっては面倒なことかもしれないわね。だから、あんなにつっけんどんなのかも。そこも可愛らしいけどね」
ふふ、とレミィは笑った。
「ふうん。そう、思ってるの」
「あら。嫉妬かしら?」
まさか。あんな小娘程度に。
「嫉妬するのなら、もっと怖いわよ。レミィ」
「おお。パチェがまさかそんなことを言うなんて。くわばら、くわばら……」
くすくす、レミィは笑いながら、腕を組み直した。まぁ、と、私は言葉を重ねた。
「でも、楽しかったのは確かよ。あの子をここに置いて、一日中炬燵で寝かせておいたら、 二日でも三日でも眺めていられそうだわ」
「いいことを言うわね、パチェ。そうしようかしら……」
ううむ、と、レミィは真剣に考えていた。
次の日になると、本当に実現してしまっていた。咲夜は大抵のことなら実現してしまえるのだ。霊夢は何も気付かず、うぅんと呻きながら、絨毯の上で、炬燵に入りながら、寝ている。私とレミィは、眠っている霊夢を眺めながら、適当にお喋りをする。いつ起きるかしら、いつかしら、と、くすくす、笑いながら。
普通に起きてきた霊夢は怒った。お詫びに食事を提案しても、霊夢の怒りは収まらなかった。でも、怒りながら食べて、怒りながら、そのまま帰ってしまった。「怒ってるのに食べるのねぇ」と、のんきに言うレミィが不思議に面白かった。
あるとき、レミィがぽつりと言った。
「パチェ、あなた、お話をする時くらい本を置いたらどう」
私は、ページをめくり、考えを反芻しつつ、自分の求めている事柄が書かれているページを探して、少し戻った。「ねえ。ねえ」と、レミィは続けて言った。
「答えてくれてもいいでしょう」
「……読まなくちゃいけないものが沢山、あるんだもの……」
眼鏡の角度が少し、ズレている。持ち上げて、ページをめくり、テーブルに置いた紙にメモを書く。メモ書きを附箋にし、ページに挟む。私は本を閉じ、眼鏡を外し、重ねてテーブルに置いた。レミィは私を見ている。
「でも、あなた、同じ本を何度も読んでるじゃないの」
「新しい知識を得た後に読むと、新しい輝きを放つものなのよ」
「頭の中で統合すればいい話でしょ」
「全部把握してしまっては、新しいものは得られない。物事を整理して知識として頭の中に突っ込んでしまっては、それは固定された知識なのよ。知識は常に流動させていなければいけない。常に新しい知識を脳へ注ぎ込むこと。読書の中で得るインスピレーションこそ、最も重要なものなのよ」
「ああ。漫画でも、何度も読むと新しい発見があるものね。そういうのも分かるわ」
そういうのとは、違うんだけどな。まあいいや。言わないようにしたけれど、態度に出たらしい。レミィは、ちょっとバカにされた、と思ったみたいだった。
「……ふん。パチェは賢いわね。でも、理論は良くっても、実践が足りないわね」
「……レミィは実践ばかりよ。あなたの魔術、系統付ければ、もっと良くなるわ」
私は、売り言葉に買い言葉で、返してしまった。チェスの時なんかも、よく思うことだから、その言葉に嘘はない。レミィは、頬を歪ませて笑った。
「うふふ」
「…………」
私が黙っていると、レミィは机をばん、と叩いた。
「パチェ! やるの! 外へ出なさい!」
「いいわよ。レミィこそ、その椅子に座ったままでどこまでやれるか、試してあげる」
レミィは椅子ごと浮き上がって、窓を突き破って外へ出た。私は、割れた窓から、レミィを追って空へ飛んだ。レミィは力任せに物事を進めようとする。では、理論に支えられた荒事というものを、見せてあげるとしよう。
あるとき、レミィはぽつりと言った。
「パチェって、家族はいるの?」
「何よ。藪から棒に」
「いいえ、別に。聞いたこともあるような気もするけれど、あんまり印象に残る話は聞いていないから。聞きたくなっただけよ」
「……まあ、いるわよ。当然。木の股から生まれてきたわけじゃあるまいし」
「ふんふん」
「若いうちから長いこと生きられないって言われてたから、なんとか長生きができないか勉強してね。そうしているうちに、若い姿のまま、父よりも長く生きてしまったから、家を出たの。その頃のことがあるから、あんまり良い思い出じゃないわ」
「あらそう。前に話した時も、そんな風だったから、あんまり覚えていないのかしら。……ねぇ、仲の良い家族はいなかったの?」
「……そうねえ。家は裕福だったみたいだから、実際は知らないけれど……少なくとも、困っているような風はなかったわ。だから、きっと裕福だったんでしょう。家族と接するよりも、召使いと接していることの方が多かった気がするわ」
「そう……」
ふぅん、と息をつき、レミィは外を見た。風が鳴っている。音を立てて、窓が震えている。湖の上を越えてゆく風。
レミィは家族の話をするのかなと思った。レミィの家族の話は、何度か聞いている。本当の家族、それから吸血鬼となったあとの、疑似家族。スカーレットの名を持った義理の父親、そして両親の死、レミィとフラン、二人になった姉妹の話……。だけど、レミィは繰り返さなかった。私をちらりと見、いたずらっぽく笑った。にま、と唇の端が吊り上がった。
「ねえ。じゃあ、初恋は?」
はつこい? ……私は、頭の中で、その言葉を、文字として改めて作った。初恋。
「ないことないでしょう。あなた、私のところへ来る前にも、長いこと放浪していたんでしょうから。人の合間に生きてきたのなら、恋の一つや二つ、あるでしょう」
私は目を伏せた。……本の間に、顔を隠した。私を、真っ当な人間と同じように考えてもらっては、困る。レミィだって吸血鬼だから、一般的とはいいがたいが、恋の一つや二つ、しているのだろう。たぶん。
「あなた、もしかして……」
私は、レミィを見ずに、呟いた。
「……初恋だった」
「嘘でしょ?」
「……本当よ。……繰り返しになるけれど、私は幼い頃から、本を沢山読んで、長く生きる方法を探してきた。それ以外のことは、したことがない」
レミィは片肘をつき、口元を隠して、黙っていた。困っているのが分かった。困らせてしまって、申し訳ない、と思った。「それは……」レミィが口を開き、再び閉ざした。
「ひどいことをしたわね」
レミィが困っているのが、申し訳ないと思いつつも、おかしかった。私はくすくす笑い出したいのを我慢した。
「ええ。ひどいひと。あなた、残酷よ。レミィ」
レミィは困って、頬杖をついたまま、明後日の方向を見た。私はおっかしくなって、思わずくすくす笑った。レミィはますますむすっとして、でも、私の機嫌が悪くはないようなので、ほっとしたようだった。
咲夜が、紅茶をいれて持ってきた。紅茶をテーブルに置く間、レミィはそっぽを向いたままだった。咲夜は、黙って退出した。……何かを言わなければいけない気がした。レミィを慰めてあげなければ。けれど、いまレミィを慰めてあげることは、甘やかすというか、意地悪をして気分をほぐしてあげるようなもので、好ましいものだった。紅茶にミルクを入れて、スプーンでくるくる掻き回した。
「レミィ、あなたに誘惑されて、私は惑った」
レミィは、瞳だけをちらりと動かして、私を見た。
「恋愛小説も読んだわ。初めて読んだ。馬鹿馬鹿しくって、つまらなかった。でも、他に、恋や愛について規定された本はなかった。つまらないことで皆悩んでいて、ひどい時には死を選ぶこともあった」
レミィは黙って、私の話を聞いていた。スプーンを置いて、カップを傾けた。静かだった。静けさは、苦痛ではなく、穏やかさを伴って、ふうわりと優しげでさえあった。
「でも、思うに、恋や愛で死ぬのじゃないのね。死ぬ人は、自分に操を立てて死ぬのよ。自分の選択を、間違っていないと、信じるために死ぬ。幼い自我のために、幼い自尊心のために死ぬ。それなら、理解ができるわ」
レミィの頬杖は深くなった。何かを考えているようだった。……レミィは、何を考えているのだろう?遠い昔のこと、在りし日のこと。それはレミィ自身のこと?それとも私のこと?
「あなたといた頃は、私は幼かった。でも、きっと、今も変わっていないわ。今も幼いまま。見た目だけの話じゃなくてね。……いつまで、幼いままでいられるかしら」
「さぁて、ね」
レミィは紅茶のカップを脇へどかし、テーブルに肘を乗せて身体を乗り出した。
「面白い話ね。……初めて聞いたわ」
「当たり前よ。恋愛が分からないから、恋愛の本で勉強した、なんて、恥ずかしくて言えないわ」
くす、くすくすくす。昔のことを、思い返して、笑った。美しい話だ、と思う。過ぎ去ったものは、終わってしまったものは、いつまでも美しい。可愛らしく、痛々しく、可笑しい。
あるとき、レミィはぽつりと言った。
「パチェ、そう言えばあなた。あなたも魔法使いなら、椅子の呪いを解けるんじゃなくて」
私は本から顔を上げて、レミィを見た。まじまじと見た。
「レミィ、あなた、立ちたかったの」
レミィもまた、私をまじまじと見た。なぜそんなことを言うのか、という、新鮮な驚きに満ちている。
「立ちたいに決まっているでしょ」
「もう、ずっとそのままでいるから、満足しているのかと思っていたわ」
「そんなわけないでしょう」
「椅子ごと飛ぶし、滑って動くし、特別困っているようには見えないから」
「そんなわけないでしょ! 重いのよ、これ。私は困っているからこそ、楽しみを見つけようと看板を立てたりしてたんでしょうが。でも、ダメね。もう、皆飽きちゃったみたい。ああ、今頃、看板も片付けられたりされちゃってるかしら。ま、いいわ。パチェ、どうにかしてよ」
それなら、最初からそう言えば良かったのじゃないだろうか。立てないから暇潰しを探してきてくれ、と言うよりも、呪いを解いてくれ、と。ともあれ、私は椅子の呪いのことを検討することにした。
「ちょっと待っててね。呪いに関する本を持って来るから」
「ああ、そんな、コーヒーを作るのに豆を育てるようなところからしなくっていいのよ。解けるなら、それでいいんだから」
ふうん。それはそれでいいけれど、結局一から検討した方が、早いことも多いのに。ま、良いだろう。それでレミィが満足するならば。どのみち、時間はいくらでもあるのだ。
「じゃあ、簡単なことから試してみるけど。レミィ、あなた、コウモリになれるでしょう」
「コウモリ? なれるわよ」
「コウモリになってバラけたら、椅子から離れられるんじゃなくって?」
「もちろん」
「じゃあ、離れられるでしょう」
レミィは、コウモリになって姿を失った。分離した身体がコウモリになり、羽ばたく無数の小動物が、部屋中に飛び散る。やがて、一つに集まり、再びレミィの姿を形作る。……再び、椅子の上に座っていた。
「何やってるのよ。そこに戻ったら意味がないでしょう」
「元に戻ると、自然とここにいるようになってしまっているのよ」
レミィは指先からコウモリを飛ばし、少しずつ姿を移していった。絨毯の上に足が現れ、腰が、胴体が、腕が、顔が現れる……そうして、レミィは床の上に立っている。
「こうすると、まあ、離れられはする。でも、見て。椅子の上に、一匹だけ残ってるでしょう」
椅子の上には、ぴったりと張り付く、一匹のコウモリだけが残っていた。レミィの一部、お尻の肉あたりだろう。ぺしゃんこになって、まるで影みたいだ。
「あれを置き去りにして、色んなところへ行くことはできるでしょう。でも、意識の一部が切り取られているみたいに、絶えずあれのことが気に掛かる。頭の中から離れない。椅子と私が同化してしまっているのね。気がつくと、椅子の上へ戻っている。これじゃ、遊びに行ったって楽しくないわ。遊びに集中できないんですもの」
レミィは椅子に戻り、座った。ふう、と溜息をついた。
「無理矢理に身体を椅子から離すと、とても疲れるわ。大本から呪いを断たないといけない」
「ふむ。なかなか、見事な呪いね」
「ふふん。でしょう」
レミィは自慢げに笑った。自分で良い呪いの品物を作れたことが嬉しいらしい。
「でも、レミィ。自分で立てなくなって自慢してると、バカみたいよ」
「バカとは何よ」
「褒めてるのよ。立派な呪いの椅子だわ。でも、これはなかなか、大変ね。ところで、どうして呪いの椅子なんて作ろうと思ったの」
「ああ、そう言えば言ってなかったわね。よくぞ聞いてくれたわ。大抵の吸血鬼の館とか、そういう怪しげな館には、逸話があるわ。呪いの部屋とか、呪いの武器とか、呪いの食器とかね。だから、呪われた椅子を作って、より怪しげにしようと思ったの。座ると死ぬまで立てない椅子ってね」
「……やっぱりバカじゃない」
「バカって何よ。もう怒った。パチェなんてもう知らない」
ふん、とレミィは頬を膨らませて、そっぽを向いてしまった。困ったものだ。私は椅子を立ち、しゃがみこんで、レミィの椅子を見た。
「いいわね。立てるのは……羨ましいわ、パチェ」
しんみり、染み入るように、レミィは言った。早いうちに解いてあげた方がいいかもしれない。私は手紙を書くと、咲夜に手渡した。小悪魔に、呪いの本を見繕って持って来るように、書いたのだ。
呪いについての勉強が始まった。自分の中の知識、曖昧なそれと、本の文章を擦り合わせて、自分の中の知識を、本質へ近付けてゆく。私は私がまだ見たことのない、呪いの形が生まれているのを、初めて読む本で知った。呪い、呪術、人間心理、人間の精神構造、コミュニケーションについて……学ぶことはいくらもあった。私は思いついたことをメモして、新しい発見のとっかかりになりそうなことには、所見を付け加えていった。大半は、こういった作業のために、時間は過ぎていった。横道に逸れるのは、私の悪いくせだ。だけど、物事の新しい発見にたどり着けるプロセスは、その一瞬にしかなく、また、改めて思いだそうとしても、その瞬間にたどり着けることは二度とない……というほど、長い時間がかかる。私は、私がどうしてそれを書いたのか思い出せないような一言二言のメモを、後になって見つけて、苦悩する。そういったことはよくある……ともあれ、勉強は進めていた。殊更、呪いというものは、解き方を一つ間違えると、呪いが自分へ返ってくることもある。慎重にして間違いはなかった。……普通なら。
後になって分かるのだが、そんな面倒は必要なかったのだ。……レミィが椅子にかけた呪いは、とても単純かつ力任せなものだった。呪いにも目的がある。何者かを害するために呪いを使うのは、直接危害を加える能力がないか、気付かれたくないか、とにかく、迂遠な理由のためだ。レミィには迂遠などとは程遠い性格をしていた。直接危害を加えることのできる能力があるのに、呪いなんてどうして使うだろう? 彼女には、複雑な呪いをかける必要もないし、当然能力もなかった。
ともあれ、呪いのために勉強をしたのは、完全に私の好みだ。そのために時間がかかったことは、レミィに対しては申し訳ないけれど、しばらくの間、時間は呪いの勉強のために費やされた。
眼鏡をかけてもくもくと本を読んでいると、周りのことが目に入らなくなる。
「パチェ」
と、レミィが私を呼んだのが分かった。たぶん、何度も呼んでいたのだろう。私はちらりと顔を上げて、レミィを見た。レミィは私を見ていた。退屈そうで、きっと、足はぱたぱたさせていることだろう。
「ね。パチェ。ずっと本を読んでばっかり。つまらないわ。ちょっと、構ってちょうだい」
私は返事しながら、本に視線を戻した。
「我慢してて。レミィのためにやってるんだから」
「私のために?」
「何。レミィがやれって言うんなら、何でもやるわよ」
「あら。……嬉しいことを」
「……? 嬉しがるようなことなんて、言ってないと思うけれど」
「あら、そう。まあ、そうね。どうせパチェは、本が読めたら何でもいいんだものね。ほんとに、何でもしてくれるなら、どんなに嬉しいか」
「ああ、そりゃ嬉しいわ。レミィが喜んでくれることが、私、一番嬉しいもの。だから、ちょっと待っててね」
「あら。あら。あらら」
私はメモを取り上げて、走り書きを残した。呪いも色々と、難しいのだ。レミィは、それっきり、呼ぼうとはしなかった。少なくとも、気付かなかったので、たぶん呼ばなかったのだろう。
椅子を調べるのと、軽く簡単な解呪を試してみようと、私は椅子を覗き込んだ。帽子の上から、何かが降ってきて、私の頭をわしわしと掴んでいじくった。
「どう、パチェ。うまく行きそう?」
「ちょっと。もう。レミィ、邪魔しないで」
手を払うと、楽しそうな笑い声が、上から降ってくる。
「ね、パチェ、こっちに来てくれる」
「何よ」
せっかく椅子を見ていたのに。私は、レミィに呼ばれて立ち上がった。背の低い私だけど、レミィが座っているせいで、高い視点から、レミィを見ている。
「こっち」
レミィは、再び私を呼び、招き寄せた。もう、充分に近い距離なのに、もっとレミィは引き寄せようとする。私は大人しく従った。もう、ここ一週間は、レミィの言いなりになっている。レミィは、自分の膝の上を叩いた。私はレミィに示されるがまま、椅子の上へ上った。膝をつき、レミィの足を避けて、椅子の上へ膝を付いた。一瞬、上ってから、私も呪われるんじゃ、と思ったけど、まあいいや。レミィと私の距離は、もうほとんどない。レミィは身体を前へ倒し、私のお腹に触れた。レミィの身体を、私は身体で感じた。
「動けないのは、面倒だけど、良いこともある。パチェが来てくれるのは嬉しいわ」
レミィはお腹に顔を寄せて、あぁ、と、吐息をこぼした。
「暖かい。人の温度があるわね、パチェ」
前にも、似た様なことを言われた気がする。レミィの皮膚は少し冷たい。レミィは、私の肌に触れては暖かいと喜ぶ。それは、私だけじゃなく、咲夜や他の誰かに触れても同じだけど。
レミィは私の腰へ手を回し、お腹を抱いて、脇腹へ顔を擦りつけた。楽しそうで、気持ちよさそうだった。目を細め、口角は優しく持ち上がり、むふふと笑うと吐息がお腹にかかった。
「楽しい、レミィ」
「うん。楽しいわね、パチェ。ずっとこのままでもいいくらい」
私は、少し照れてしまった。レミィは相変わらず楽しそうに顔を寄せている。ううん。私は、恥ずかしくなって、なんだかいけないことをしている気がした。それで、呪いを解いてしまった。「おお?」と、レミィは違和感に気付き、不思議そうに椅子を見て、立ち上がった。私はすっと身を引いた。
「あれ? 呪い解けた? どうやったの?」
「簡単なことよ」
「ものには属性があって、その属性を決めているのは、観測者たる私たちなのよ。例えばこのスプーンは、私たちはスプーンだと思って見ている。スプーンをスプーンとして観測している。でも、見ていないところでは、スプーンの形をしておらず、コップの形をしているかもしれない。スプーンを叩くとコツコツ音を立てるけど、私たちの聞いていないところでは、どろどろになり、べちゃ、べちゃと音を立てるかもしれない……スプーンを、私たちはスプーンだと思って使う。もし、私たちが、スプーンはスプーンでない、と、迷いを持ち始めたら、途端にスープをすくうことはなくなり、スープを全てこぼしてしまうかもしれない……極端に言えば、属性というのは、本人が意識するものではなく、他人に意識されて形作られるものよ。
『ちょっと待った。スプーンや、鉄や、木、もちろん椅子にだって、意識はないじゃないか』と思うかもしれないわ。でも、それはあなたがそう思っているだけのことよ。椅子にも意識はある。私たちは、椅子に意識があるなどと考えない。付喪神というのがあるでしょう。あれは、付喪神が喋り、歩くと思うから、道具が喋り、歩く。それと同じことよ。椅子が喋るものだと思えば、喋り出すでしょう。意識も同じ。
あなたの椅子は、レミィ……あなたが呪いをかけた。呪われたものだ、と考え始めたから、その意識に従って、座った者を立てなくした。自分には、座ったものを立てなくする、という思い込みがあるから、座った者は、椅子の力によって立てなくなった。だから、椅子に、『あなたは呪いの椅子ではない。立てなくする能力なんてない』と、教えた。実際、レミィ、あなたの乱暴に組み立てた呪いよりも、私の呪いの力の方が強い……そういうわけで、椅子は呪われていなくなったわ。呪いには儀式なんかが必要で、解呪にも似たような儀式が必要だけど、レミィの呪いは実にインスタントで、簡単にかけたから、解くのも簡単だった。
解いた証拠が欲しい? じゃあ、椅子に聞いてみて。椅子は怒っているわよ。呪いの力があると思っていて、自分には他の椅子にはできない優れた椅子だと思っていたのに、騙されたって」
私が説明を終えると、レミィは椅子を見た。見た目は、何の変哲もない、ちょっと小綺麗で、丁寧な作りの椅子だ。レミィが使うのだから、そこらの安物ではないだろう。幻想郷の外から持ち込んだものかもしれない。
レミィは訝しげに椅子を見た。急に、気味の悪いものに見えてきたのかも知れない。でも、私を見て、ちょっと馬鹿にした感じで言った。その馬鹿にした感じにも、虚勢が混じっているように見える。
「何馬鹿なこと言ってるのよ、パチェ。椅子が喋るはずないでしょう」
「ほんとに?」
「当たり前でしょう」
私は椅子に聞いてみた。「どうなの?」私が椅子へ意識を向けると、レミィも、振り返って椅子を見た。変わった様子もないのに、椅子は、一種異様な雰囲気を纏って、そこに佇んでいる……。
「一生恨んでやる」
「ほらね」
「うわ喋った」
レミィはびっくりした。レミィは、私の後ろに隠れて、椅子を見た。まあ、そりゃ、椅子が喋るなんて普通に考えれば頭がおかしい事態だ。発声器官がどこにあるのだという感じだし、そもそも喋る椅子なんて絶対に落ち着けないだろう。
「一生恨んでやる」
「こわ……捨てよう、これ。さくやー、咲夜。こっち来て。早く。これ、これ、捨てておいて」
レミィが咲夜を呼ぶと、咲夜は素早く現れて、椅子を担いで出て行った。
「ギギギギ」
「どっから歯ぎしり音出してんの。こわ……」
レミィは終始怯えていた。
それにしても、と、レミィは普通の椅子に座って、言った。
「あれ、喋る椅子なんて看板立てて置いておいたら、怪しげな感じは出ないかしら」
「むしろなんだか楽しげだから、やめておきなさい。変に調子に乗せて、気分良くなられても困るわ。椅子はやっぱり喋らない方がいいわね」
そのあと、咲夜がどのように処分したのかは知らないが、喋る椅子の話が、里で出回った。咲夜が捨てた椅子を妖精がどこかへ持っていったのか、森あたりに放置した椅子を妖怪が発見したのか、それとも屋敷を運んでいる間に、妖精たちが見て、それが噂になったのか。おそらく、いくつかの要因が合わさったものだろう。レミィや咲夜も、おそらく話題にして、誰かに喋っただろうし。噂話は思わぬ方向に広がるものだし、思わぬ尾ひれがついたりするものだ。それが、結果として、里での噂話になったのだろう。
それはいいとして、一週間もすれば、レミィが立てなくなったことも、喋る椅子のことも、すっかり忘れ去られてしまっていることだろう、と、私は思ったし、実際そうなった。
呪いを解いてしまうと、私がここにいる理由はなくなった。レミィはどこにだって勝手に行くだろうし、私だって今読んだ呪いの知識をノートにまとめたい。私は、図書館へ帰ろうと立ち上がった。
レミィが私の手を握った。引き止められていた。
「なによ、レミィ」
「いいじゃない」
私が振り返ると、にへ、とレミィは笑った。
「もうちょっとくらいいてもいいんじゃない?」
……まあ、いいけど。
4 レミィの部屋で寝泊まりするのをやめる
レミィは、珍しく外出もせず、部屋にいた。椅子から立てるようになったのに、まるで呪われたままのようだった。レミィは、何が楽しいのか知らないけど、楽しそうに私を見ている。
「ねえ、パチェ」
タイミングを見計らっていたようだった。私がしおりを挿し、眼鏡を外して目頭を押さえる、その時にレミィが私を呼んだ。
「なに、レミィ」
「困ったことになったわ。パチェ、こっちに来て」
何をまた言い出すのだろう。こっちも何も、テーブルを隔てたところに私たちはいる。ともあれ、言われるがままに立って、レミィの側に立った。レミィは椅子を回し、私を正面に見た。
「もっと、こっち。こないだみたいにして」
呪われもしてないくせに。言われるがままにすると、こないだと同じように、レミィは私のお腹に顔を寄せた。手が、私の腰とお尻の中間辺りに触れた。私は、突然、恥ずかしいことをしている気分になった。それで、レミィから身体を、すっと離した。レミィは、私の身体が引き、離れようという動きを感じると、腕が緩んだ。
「あら。……ね、もっと」
私は目をそらし、うーんと悩んだ。なんだか、良くないことをしている気分になった。こんなことをしていていいのかな。
遠い、遠い昔にも、私は、レミィとこんな風にした。もう、あまりにも遠い昔のことだから、絹の手触りのように実感は薄く、心地よいばかりとなっている。思い出は思い出のままだ。いま、新しく何かを加えて、昔の思い出を失うのは、こわい。私は、レミィから身を引いた。レミィは、今度は引き止めなかった。
「あら。パチェったら意地悪なんだから」
レミィは立ち上がって、私を抱きついた。うわ、と思った。そういうことをされると、困る。
「やっとパチェに抱き着くことができたわ」
「……そう」
「私のために走り回ってくれてるパチェ。可愛かったわ。ずっと触りたかったけど、できなかったから、なんだか嬉しいわ」
私は、レミィの身体を押しはがし、ゆっくりを身を引いた。
「……レミィ、良くないわ」
私は目をそらし、壁の隅を見ていた。
「……あらそう!」
レミィは、少し怒り気味に言って、椅子にどっかりと座った。
「図書館の、自分の部屋に戻るわ。ね、そうさせて」
「パチェの好きにして頂戴」
レミィは怒っているようだった。当然だ。私はそのまま、後も見ずに部屋を出た。
「パチェ」
レミィが、私を呼び止める。私は歩を止めた。
「気に障ったのならごめんなさい。あなたに、不快な思いをさせるつもりはなかったのよ」
レミィは、そのつもりだろう。レミィが、私に、嫌なことをするはずがないのだ……。だから、悪いのは、私、弱い私ばかりだ。私は、何も言いたくなくて、レミィに悪くて、そのまま真っ直ぐ歩いた。
唇を寄せると、頬に吐息がかかった。熱っぽい囁き。パチェ。パチェ。パチェ。……三度呼び、唇を重ねる。短く口づけ、二度、三度。パチェ。
名前を呼び、名前が返ってくる。レミィ。親密さの表象。レミィ、と名前を呼ぶ私は、横たえられ、身体を組み敷かれている。レミィ。レミィ。可愛らしく、愛らしく、幼いレミィ。
白いシルクの天蓋が、私とレミィの世界を濃密に隠している。幾十に折り畳まれた布の波の中へ、二人は沈み込んでゆく。暖かなまどろみ。揺れるさざ波の小さなうねり。ベッド脇の小さな燭台が、垂れ下がる布を隔てて、柔らかな明かりとなって、世界を包んでいる。暗くもなく、明るくもない。光と闇の中間地点、曖昧な部分の中に私たちはいる。ベッドの外に世界は見えず、外側からも中は見えない。閉じた世界のように、私たちは感じている。互いに、相手のほかには、何も見えていない。くす、くす、笑いながら、互いを突っつきあって遊んでいる。やがて静かになり、部屋は闇の中へ沈んで、何もなかったようになる。…………
むくり。身体を起こす。身体が濡れている。寝汗のためだ。なんてこと。なんて。遠い昔の夢。あんな。恥ずかしい夢。
よろよろと身体を起こすと、肩に引っかかっていた薄衣の寝間着が落ちた。私はふらふら歩いて、扉にぶつかり、書架にぶつかり、小悪魔にぶつかった。
「パチュリー様、何下着で出歩いてんですか」
小悪魔に肩を掴まれて、押されて、私は寝室に戻された。
変な夢は見たものの、昼頃まで読書をすると、まあ、わりかし、いつも通りの気分に戻っていた。
昼頃になって、本を取り替えようと、席を立とうとする。そうすると、椅子から立ち上がれない自分に気がついた。その正体にはすぐに気がついた。というか、座るまで気がつかなかったなんて、なんて愚かなこと。椅子には呪いがかかっていた。呪いをかけた張本人は考えるまでもなかった。レミィが現れた。
「逃げられないようにしてあげたわよ」
なんてこと。
まあ、それでも、困ることはないのだ。本については、小悪魔がどうにでもしてくれる。自分で本を取りに行くのは、気分転換になって良いのだが。本を読むことが第一義だから。我慢できないほどの苦痛ではない。
「別に困ったりなんてしていないわよ」
「あらそう。……じゃあ、困らせてあげようかしら」
困るのはこっちの方だった。ただでさえ、朝から恥ずかしい夢を見て困っているというのに。思い出しそうで、困る。レミィは私をじっくりと観察している。昨日言い合いをしたばかりだというのに。レミィは気にしていないのだろう。気にしているのは、私ばかりだ。
レミィはにやにや、楽しそうに、私を見ている。私は俎板の上の鯉だ。逃げ出す心配がないから、後は捌くだけ……そういう気分だろう。
「どう、パチェ。椅子に呪われている気分は」
「まあ、別に、嫌なものじゃないわよ。……魔理沙なら耐えられないでしょうね」
「あらそう。私は気分がいいわ。パチェが逃げられないから」
私はむっとした。返事をせず、ページをめくって、本に集中しているふりをした。
「あなたっていつも逃げるもの。昨日もそう。ずっと前も、そうだったわね」
「…………」
「黙っていればいいと思っているの」
「言ったでしょう。あなたとのことは……」
もう、遠い遠い、昔のことだ。私とレミィは、必然のように恋に落ちた。そう思っていたのは、私だけかも知れないけれど……。
「私たちが少女だったころ……」
「少女? 自分で言うの。それに、私もパチェも、もう少女なんて呼べる歳じゃなかったわ。あの頃にはとうに」
「うるさいわね。ともかく、あなたは、何も知らない私を誘惑したのよ」
「悪魔ですもの。誘惑の一つもするわ」
「うるさいわね。それに、言ったでしょう。初恋だったの。あなたは私を弄んだのよ」
「あらそう。じゃ、私なしじゃいられないようにしてあげる。あなたの方から、私の部屋へ来るようにしてあげる。夜になれば、私のベッドに潜り込むようにしてあげるわ」
これはレミィなりの誘惑のつもりだろうか。だけど、私はそんな気分にはなれないのだ。恥ずかしくて、レミィの顔も見れやしない。私は、本を置き、椅子のわきへ上半身を伸ばすと、呪文を唱え、呪いを解きにかかった。
「あ、だめよ、パチェ」
レミィは私の手を取り、私の身体をレミィの方へ向けさせた。けれど、詠唱は続けた。すると、レミィは私の唇に手を伸ばして、つまみ、ぎゅう、と締め上げた。おかげで呪文は中断されて、変な顔になってしまった。顔を振って、レミィの手を掴むと、レミィは変に意地になって、唇を掴む手を緩めなかった。私は頑張ってレミィの手を引きはがすと、唇が痛んだ。
「もう。やめてよ。どうせなら、キスで塞ぐくらいのロマンチックなのにして」
「なぁに。してほしかったの。パチェったらすけべね」
「誰がすけべよ。すけべにしたのは誰よ」
レミィはどうしてか楽しそうに手を伸ばし、指先で頬をついた。むにゅう、と、押された頬が潰れて、肉が周りに広がった。ぱし、とはたき落とすと、レミィは大人しく自分の席に戻った。
「すけべって言うけどね。パチェのせいで、私もすけべになったところ、あるんだから」
「なっ」
私は、私の行いを思い返し、ますます赤くなった。くすくす、レミィは笑った。
「私はね、パチェ。パチェにひどいことをしてたのかもしれない、と思ったのよ。私は気が多いから、それは、パチェにとってはひどいことかもしれない。でも、私は思うわけ。パチェにいいことをしてあげよう、って。それだけ……それだけのことなのよ。難しいことは考えなくてもいい。パチェも、私にいいことをしてくれればいいし、自分で、自分にいいことをすればいいの」
私はレミィの話を聞きながら、椅子の呪いを解いた。前の呪いと何も変わらない、単純なものだった。これなら解くのはわけはない。解き、レミィに返事をやった。
「ふん。いいわよ。私は、本が好きだもの。他には何もいらないもの」
「あらあら、素直じゃないこと……」
ぱちん、ぱちん、と、レミィは指を打ち鳴らした。指を打ち鳴らすと、次の瞬間には、本が消えている、ということも、レミィならできるんだろうか。できるかもしれない。レミィは優しいから、そういうことをしないのだ。
「パチェ、呪いの話をしたでしょう」
「なあによ」
「私も呪ってあげようかしら。椅子みたいにして。私が乗っかっていなくちゃ、どうしようもならない呪い」
椅子みたいに。不意に、いやらしい想像が浮かんで、打ち消した。
「ふん。レミィの呪いよりも、私の方が力が強いんだから。すぐに、解いてあげるわ。そんな呪いくらい。むしろ、私がレミィを椅子にしてあげる」
うふふ、とレミィは笑った。レミィならやりかねない。今日から、眠る時は防壁を張って眠らないと。
それにしても、と私は言った。
「やっぱりレミィって意地悪だわ。私のしてほしいこと、何もしてくれないんだもの」
「あら。呪われるのはお嫌い?」
「ええ。当たり前。呪われてみたい人がいると思う?」
「いいえ。でも、パチェは、私が呪われているのを見て、嬉しそうだったわね」
「そんなことないでしょ」
「いいえ。パチェは、毎日、私のために走り回ってくれました。楽しそうにね」
私は、黙ってしまった。確かに、レミィが縛りつけられていて、私の帰りを待っているのは、楽しかった。
「……レミィが呪われているのを見るのが、楽しかったわけではないわよ」
「似たようなものよ」
ふん、と、私は溜息をつき、本に戻った。
「それで、パチェがしてほしいことって何?」
「何って」
「だから。私はパチェに、意地悪ばかりするんでしょう。パチェの、本当にしてほしいことは何」
してほしいことなんて、いくらでもある。でも、一番してほしいことは、一つなのだ。たった一つだ。それさえしてくれたら、何でも許してあげられる気分になる。今でも、充分、色々と許しているけれど……。
「その……」
「何よ。恥ずかしがってないで、さっさと言いなさいよ。恥ずかしがっててもいいけど。面白いから」
「もう。……レミィは、私のこと、好きなの?」
「なに?」
「だ、だから」
私は本に顔を隠した。
「レミィは、私のことを好きなのか、聞きたいの。きちんと、言ってくれたこと、ないでしょ。だから、レミィのこと、分からなくなるのよ。きちんと言って」
「何言ってるのよ。言ったでしょ」
「言ってない。覚えてないわよ」
「言ったのに。言ったってば」
「言ってない。……もう一回、言ってよ。というか、何度でも、言って」
……はぁ、と、レミィが溜息をつくのが聞こえた。微妙に傷付いた。沈黙があった。不安と、興奮で、胸に爪を立てたいような気分さえした。でも、その気分を、レミィに悟られたくなかった。
本に、手がかかった。レミィが本を下ろし、私の顔を見た。私はがた、と音を立てて、椅子から立った。いきなり、レミィが近い距離にいたので、びっくりしたのだ。レミィは悪戯っぽく笑っていた。
「パチェ、あなたに好意を伝えるのはいいけれど、私がしたいことは別にあるわ」
レミィはそう言うと、私の身体へ手を伸ばした。レミィの腕が、私の肩と腰を捕まえる。レミィの身体と唇が、私のところへ寄ってくる。
私は、レミィの口づけを、受け入れた。唇が重なり合うと、衝撃音が鳴りそうな激しい愛撫が、私の口内へ加えられた。
思わず身体が弾けそうに反応した。身体を落ち着けて、レミィの唇と舌をたっぷりと受け入れたあと、唇が離れて、私はレミィの身体の間に腕を入れて、ぐっとレミィの身体を離した。
「これが答えの代わりよ」
私は、唇を、服の裾で隠し、一歩身体を引いた。
「なに。気に入らなかったの。それとも、私が嫌いなの。嫌いなら嫌いと、はっきり言いなさいよね」
私は、レミィを見返した。涙が流れるのが分かった。レミィは、じっと私を見ていた。
「……嫌いよ。激しいのは嫌い。もっと、穏やかのが好きって、前にも言ったでしょう」
「そうだっけ」
「レミィは忘れっぽいのね。いつもそうだわ」
「うるさいわね。じゃあ、静かで、穏やかな、ロマンチックなキスをしてあげるわよ」
レミィの顔が、再び近付いてくる。思わずレミィの胸に手を置くと、レミィはその手を脇へよけて、私に抱き着いた。
レミィに誘われて、されるがままになった頃があった。あの頃は幼かったのだ、と、思おうとしているけれど、今も同じだ。されるがままにされなくなっただけのことで、心はいつも隷従しているのと同じだ。
その証拠に、レミィに身体を寄せられると、私はこんな風になってしまう。
小悪魔が、図書館から出て行く気配がした。ゆっくりと、扉が閉まってゆく。
扉が、静かな音を立てて、閉じた。レミィの手が、私の背を、強く、ぎゅう、と、抱いた。
理由 思わず一気に読んでしまうほどの面白さ
また題材が非常に好みで、その調理法も見事で、本当に良いです。
膝から崩れ落ちるほどよかった。