Coolier - 新生・東方創想話

秋の入学式

2016/04/30 23:58:46
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 長月の季節から、この山を見てきた。人妖豊かとはとても括れない、少し片寄ったこの山の景色も、冬を越え、春を迎え、季節の度に様変わりする。
 それでもここ、守矢神社は大した変化が無い方だった。
 山の妖怪との定例会に出入りすることはあれど、それ以外は特別何も開かれない。
 私は神社を清め、神は加護を与える。妖怪の信仰者は様子を見に現れ、足を伸ばした人間の参拝者はお賽銭を入れて祈る。
 揉め事の後は、何も起きないまま月日が過ぎた。
 そして、葉月がやってきた。


     ○     ○     ○


 蝉の鳴き声が耳をつんざき、太陽の日差しが肌を刺す。
 仄かに滲む汗を指で払い除けてから、手をかざして太陽に目を向ける。
「やっぱり幻想郷も夏は暑いですね」
 ひとりごとの後、感心、というよりは、辟易に近いため息が小さく出る。石畳に落ちたため息は私の足音にかき消され、私の払う箒によって転がっていく。吹いた風によって守矢神社の鳥居の方まで飛んでいった気がしたが、落ち葉と違い目に見えるものでもないので、放っておいた。
 続けて別の事も考える。幻想郷でも、暑さは外の世界と平等にやって来るようだ、と。
「向こうと暑さは変わらずですか。残念」
 呟きながら、無意識のうちに服を引っ張って、背中をぴっぴっと払う。もし誰か来た際に、汗で服が貼り付いてしまっていたら恥ずかしい。
 元々、ひとりごとは多い方ではなかった。けれども、少しだけ意識して口にする。少しだけ、劇的に。
 そうでもしないと、やっていられない。
「早苗、外に居るのかい?」
 聞き慣れたよく通る声に反応し、振り返る。
 本殿の中に探し物でもしていたのだろうか、私の使える神である、八坂神奈子様が歩いて来て顔を覗かせた。
 行事の際に身に纏うしめ縄の装飾こそ無いが、元々低くない背丈、加えて延びた背筋から、人前に出ない今朝でも十分な威厳がある。
「神奈子様」
「はー、こんな日射しの中よくやるね。そんなに散らかってもないだろうに」
 神奈子様は縁の上に肘をかけ、首を回して境内を一通り見回す。つられて、私も目線を追うように顔を動かす。
 確かに境内の中は、さほど落ち葉も小枝もない。強いて言うなら、雨水による狛犬の汚れが気になるくらいだ。
「別に狛犬のお尻なんて、誰もまじまじと見やしないさ」
 私の目線の先に気づいたのか、神奈子さまがさっぱりとした口調で言い切る。
 蝉も太陽も、もう一踏ん張りと張り切る時期。落ち葉の季節と言うには、まだ少し早い。
 それでも私は雨が降っていなければ、毎朝、境内を整えてきた。それは基本中の基本であり、気がつけば最も心が落ち着く時間になっていた。
「無理に毎日やらなくても、手を貸せって言われれば私たちもやるよ。なんならご飯と一緒で当番制にすればさ」
「いいえ、私自身が、こうしていると落ち着けるんです。こっちに来る前と変わらない事の一つですし」
 神奈子様は考えるように母屋の方を振り返り、私と本殿を交互に見た。やがて「そっか」とだけ呟き、むこうへ体を向けた。
「綺麗にしてくれるのは私たちも嬉しいけどさ。暑いんだから気を付けてね」
 それから神奈子様は「あの扇子どこやったっけなあ」と溢しながら、来た方と反対方向へ歩いていった。
 その背中を見送ってから、大方綺麗になった境内へ向き直る。視界に眩しい太陽が入り、目を細める。
 忘れられたものの辿り着く土地、幻想郷。
「外界が温暖化前の夏を忘れて、こっちに来たりしないかしら」
 下らない事を呟きつつ、天を仰ぎ見る。
 いくらなんでもそれは無理な相談だろう。私でも分かっている。
 たとえ外界と幻想郷を分かつ大結界があったとしても、ここは同じ国、同じ領土なのだ。そうであればこの空気もこの空も、外の世界と共通のものだろう。
 私もちょっと前までは、その外界に居たのよね。
 少しホームシックな感覚に捕らわれ、つい手を止めてしまう。いけない。早く終わらせて、この後に備えよう。
 気を取り直して掃除に戻ろうとすると、刺さるような視線を、背中に感じた。
 来た。
 物音はしない。が、確かにそこにいる。
 いやな視線だ。
 こちらに向かってくる足音は聞こえてこないが、誰かが私をじっと見つめている。この異様さは、信仰者の人のものではない。
 まただろう。落ち着け、私。
 息を一つ吐いて、整えた。それから、鳥居とその列びに雑木林の方を振り返る。
 そこには私の予想通り、背中から羽根を生やした人物が、隠れもせずに堂々とこちらを観察していた。
 目が合ったが、動きはない。動揺も、嘲笑もない。
 天使のようなそれとは違う、黒い羽根を操るヒトガタ。山の妖怪でも高位に位置する種族の、天狗。
 木の枝に立ってこちらを見下ろす天狗は、依然黙ったままだ。
 守矢神社の巫女として、声をかけた方が良いのかもしれない。が、観察される巫女は果たして何を話すべきなのか。言葉が出てこない。あの状態で一言も発しないものだから、こちらも口を固く閉ざすしかない。
 そのまま暫く、無言の時間が続いた。
 半ば睨むようにして、箒を握る手に力が籠ったとき。観念したのか、飽きたのか、天狗は枝を蹴って羽ばたいた。
「はあっ」
 天狗が飛び立ち、他に妖怪がいない事を確認してから、私は溜め込んでいた息を吐いた。
 慣れなくてはいけない。ここでは普通なんだから。
 幻想郷にそびえる最大の山、妖怪の山とも呼ばれるこの地では、天狗、河童をはじめとする妖怪たちが、当たり前のように闊歩する。
 そもそも人と妖怪の共存する土地、幻想郷では、人里などごく一部を除けば、妖怪とすれ違ったり顔を合わせるなど、至極当たり前の事だ。
 しかし人しか居ない世界で育った私にとっては、非常識で、非現実性の塊。今まで伝承や昔話でしかなかった存在が、当たり前のように目の前に姿を現す。
 彼らに悪気は無い。それは分かっている。だが同じ土地で暮らすうち、時間の流れの違いを、価値観の違いを痛感した。特に天狗の突き刺すような目線には、未だに慣れない。
 先程の目線を思い出し、体が強張る。深呼吸を二つ挟み、緊張をほぐす。
 すぅ、はぁ。すぅ、はぁ。
 気がつけば蝉もいつの間にか鳴き止み、境内はすっかり静かになっていた。先程まで暑さを助長するだけだった蝉の声が、今では不思議と恋しい。
「神奈子様、私はどうしたら良いのでしょう」
 誰にも聞こえないよう、小さな声で呟く。
 私が幻想郷にやって来てから、一年が経とうとしていた。


     ●     ●     ●


 井の中の蛙、大海を知らず。されど母屋の暑さも知らず。
 親交のある蛙たちの快適な住まいを思い出し、ぼそりと呟く。残念ながら今私が横たわるのは井戸底の冷たい石ではなく、守矢神社の母屋の畳。どちらが快適かと聞かれれば、当然ながら水辺を選びたいのが、夏における当然の心理というもの。
「あーあ、こんなに暑いなら『蛙風情』とか言うんじゃなかった」
 私を侮り、小馬鹿にしたあの蛙面を思い出し、一人憤る。
 ――洩矢諏訪子? 知らん上に大層な名だな。なに神だ? ならば人に化けて見せろ。狭いから成れないだと?
 ああもう知らぬ老人が。いつか苦しい思いをさせてやるからな。
 うつ伏せたまま、怒りに任せて額を畳に打ち付ける。頭突きに乗せた黒い感情は畳へ拡散し、少しばかり気分はすっきりした。が、その動作のぶん体が発熱し、とたんに暑くなってきた。
 残念ながら愛しの守矢神社の敷地内には、蛙飛び込む水も無い。湖までは、炎天下の中を移動することになる。よって却下。
 すると清涼感を与えてくれるのは、日陰の他は人工的な風のみ。嗚呼、今や団扇が送る風だけが私の味方。
「はいはい、そこの寝てる神様、ちょっと跨ぐよ」
 私の念仏を聞いていたのだろうか、なだめるような神奈子の声がした。瞼を開ける。
 恐らく、襖と箪笥を結んだルート上に私が寝転がっていたのだろう。私の両隣で畳の擦れる音と、わずかに床板の軋む音がする。
「こうしてると床が曲がるのが分かるよね」
「まあ多少はな」
「神奈子の体重を算出できるかも」
「自己管理はできてるので結構です」
 ていねい、というよりはあしらう様に対応される。いつもの事だが、実につれない。
 そんなつれない神奈子は首筋を掻いてから箪笥を開き、物探しを始めた。片手間に話し始める。
「そういえば体重計、壊れてたぞ」
「あ、そう」
「言っておくけど私じゃないからな」
 神奈子じゃないのは知ってるよ。たぶん私が洗濯物かごを、どかんと置いたのが原因。いや、私が降ろす先に体重計があったのが、原因。
 心の内だけで推理を述べ、あとは黙って会話が流れるのを待つ。
「河童の工房に修理依頼出しとくけど、何か他にある?」
 クーラー。と言おうとして、「電気問題」の一言で返されるのを想像する。あと正確に言うならクーラーは壊れていない。掃除の方が問題だ。河童は掃除サービスは断固としてやらないと宣言している。
 その電気問題を解決する方法として、最近は発電機を売り出してるらしい。けど、あいつら高くつけてくるしなあ。
「修理っていうより、新しいの作ってもらおうよ、その方が早く済むよ」
 あの連中は修理より、目新しい物の製作を優先する修正がある。後回しにされる物を頼むより、奴らの気の乗る物を作らせるのが建設的だろう。
「頼むとすれば、井戸とか。そう、井戸作ってもらおう。マイ井戸」
 本当にお前しか使わないだろうそれ。と神奈子が反対する。
 いやいや神奈子も頑張れば蛙ぐらいなれると思うよ。私は蛙の神奈子も一度見てみたいと思うね。
 神でもさすがに心は読めない。今出たため息は、私の心の声に対してではないはずだ。
「一端の神が避暑地を追い出されて乾上がってるなんて、格好つかないな」
「追い出されたんじゃない、出ていったんだ」
 聞き逃せない発言に団扇を持ち代え、行司のように指して指摘する。
 ちなみにこの団扇は、そこであちこち箪笥を覗いている、神奈子から朝に引ったくったものだ。
「そういう神奈子は気前良く譲っておいて、自分の扇子をずっと探し回ってるじゃないか。格好つかないな、いい気味だ」
「言ってろ」
 ここにあるはず。と呟きながら、一段ずつしらみ潰しに探している。
 それだけあちこち探せば見つかるはずさ。さっき本殿の方に探しに行ったのも知ってるよ。
「ああ、良い事考えた。脱げば涼しくなるよね」
「やめろ、はしたない。今日は山から天狗の使いが来る日だろう」
 呆れるような声が背中から飛んでくる。別に使いも女だし、構わないだろうに。小言を言って口論にもつれると面倒なので、唇を尖らせるだけに留める。
 顎を上げて畳の上に立てようとして、喋りづらくなると気が付く。先ほどまでと逆側の頬を、畳につける。
「あー、そんな日かあ。あの子何て名前だっけ」
「犬走椛」
「ああそうそう、もみちゃんもみちゃん。使えそう?」
 私が使いの名を軽々しく呼んだのを気にしたのだろうか。お前の友達じゃないんだぞ。と神奈子が苦い顔をする。
「まあ、概ね予想通りだ。現状不満はないよ」
「やっぱ神様拝める仕事は若いもんにやらせるものだね。座布団あっためてる連中にチャンスは無いよ」
 不意に後ろ髪に風が一度吹く。体を起こして振り返ると、お気に入りの扇子で涼む神奈子が座っていた。
 先程の風は「扇子見つかったぞ」の報告代わりに送った風らしい。
「犬走は名家でなくとも、若いぶん真面目だから任せる気になる」
「そうねえ。ああ、熱が籠る」
「任せるといっても形式だけの、挙げ句伝言の使いっ走りだけど、下積みと思ってやってもらうしかないね」
「そうねえ。ねえ、一番効率良く放熱できる格好ってどんなだと思う?」
「話聞いてる?」
 そこでちょうど掃除を終えた早苗が帰ってきた。大の字で舌を出し放熱に徹する私の姿を見て、早苗は「諏訪子様、新しいお祈りですか?」と真面目な顔で訊ねる。
 私は舌をしまう。
「おかえり早苗。今日暑くない?」
「まだまだ暑いですね。幻想郷に涼しさが来てると良かったんですけど」
「あー、やっぱり期待するよねえ。私も裏切られた気分だよ」
 手で風を送りながら座る早苗に、神奈子がどこからか団扇を差し出す。なんだよ、団扇あるじゃん。
「今日は天狗の使いが来るから」
 私が言葉を飲み込んだとは知らず、神奈子が早苗に予定を告げ始める。


     ○     ○     ○


「お待ちしておりました」
 そう言って表で迎え入れると、現れた人影が三つだったのだから、驚いた。
 話が違うではないか。
 聞いているのといないのでは、覚悟の量が違うのだ。
「いつもご苦労様です、風祝様」
 私の心配をよそに、遣いの天狗、犬走椛さんが頭を下げた。
 それから両脇の白い影が、手を上げて跳ねる。
「にんげんのみこさんだ!」
「にんげんはなにもはえてないって、ほんと?」
 おや。
 よく見ると、明らかに体躯が小さい。どうやら、白狼天狗の子供のようだ。
「従姉妹甥です」
 私がまじまじと見つめられ困惑していると、犬走さんが説明に入ってくれた。
 いとこ甥、ですか。
「ええ。甥姪の、それです。今日一日の面倒を頼まれてしまいまして」
 言いながら犬走さんは荷物を探る姪を押さえたり、「指をさしてはいけないと言ったでしょう」と叱ったり忙しそうだ。
「それで申し訳ないのですが、この子達も敷地内に入れていいでしょうか。面倒事は起こしませんので」
「ええ、構いませんよ。石畳で転ばないよう、気を付けてくださいね」
 はーい。と揃った声がした。
 それから少し遅れて、犬走さんに肩を押され、ありがとうございます、とまばらにお辞儀をした。


 鳥居をくぐって母屋に入り、客間へ通す。
 冷たい緑茶と水羊羹を出して、犬走さんと向かい合うように座る。子天狗たちは境内が気になるのか、履き物を突っ掛けて再び外へ飛び出してしまった。
「忙しなくてすみません」
「いいんですよ。あ、ここを開けると見えますよ」
 犬走さんの隣に膝をつき、障子戸を開く。縁側を飛び越えて到達した太陽光に目を細めてから、飛び出した子天狗に焦点を合わせる。
 狛犬のお尻を撫でたり、軒下を覗いたり。暑さを感じさせないほどに遊び回っている。
「元気ですね」
「私は到底、着いていけません」
 何気なく隣を見ると、犬走さんの尻尾が少し、うなだれた気がした。
 首を回した格好のまま、背後の足音に気がついた。振り返ると、開け離しにされていた襖の向こうを、コップを片手に諏訪子様が通りすぎるところだった。
 はしゃぐ子供の声に気づいた諏訪子様はこちらに目をやり、犬走さんに手を振る。
「お、来たねもみちゃん」
 捲った袖を振りながら歓迎した発言に、私も、犬走さんも困惑する。そんな間を知らず、庭の二人が諏訪子様に気づいた。
「かみさまだ!」
「ぼうしのかみさまだ!」
 再び跳ねる子天狗二匹を見て、諏訪子様は「今日はもみちゃんズなのね」と謎の訂正をする。
「いま神奈子呼んでくるから、適当に待っててよ」
 そう言って鼻歌を歌いながら、ぺたぺたと進行方向へ進み始めた。一つ思い出し立ち上がり、身を乗り出して廊下に顔を出す。
「麦茶、無くなったら作っておいてくださいね」
 はいはーい。と諏訪子様が後ろ手を上げて返事を返す。あの様子だと、後で確認しておく必要がありそうだ。
 捻った体を戻すと、犬走さんの様子に気がついた。今のやり取りを見て、彼女は微笑んでいたようだ。
「本当に仲がよろしいんですね」
 意外な言葉に、少し返答に詰まる。そう、でしょうか。
「守矢神社が現れるまで詳しく知らなかったもので、神と巫女の間は、てっきり堅苦しいものかと」
 犬走さんは羊羹に手を伸ばし、美味しいですね、と目を細める。
 私も座布団に座り直し、髪を撫でてから、考える。
「あまり他の神社の様子を知らないもので、なんとも言えません。ですが神奈子様たちとは、以前から一緒だったというのが大きいと思います」
「以前から、ですか。やはり知れた仲というのは大きいのですね」
 含みのある言葉に、目線を上げる。犬走さんは茶碗を両手の指で触り、ぼんやりと眺めていた。
「お二方とお話しされているときの早苗様は、本当に自然です。身分も、歴史の差もない様は、見ていて羨ましさすら感じます」
 羨ましさなんて。
「私は、守矢神社の巫女ですから。神奈子様や諏訪子様が居られるようにするのが、私の役目。私は大層な事なんて、なにも」
「そんな事を言わないでください」
 そうではないのです、と犬走さんが言いかけた時、縁側からの声に遮られた。
「もみじさん、まだ?」
 いとこ甥、だったか。とにかく甥の方が、縁側からこちらを覗き込んで様子を見ている。
 一通り境内を見てしまったのか、変わらぬ様子にもう飽きてしまったのか。続けて姪の方も縁側に顔を出し、違う声で同じ質問をした。
「もみじさん、まだ?」
「はい、すぐ行くので大人しくしているのですよ」
 はあい。と伸びた返事をして、子天狗二人は石畳の上に戻り、枝を立て始めた。
 犬走さんはといえば、茶碗に指を添えたまま、黙り込んでしまった。その様子を見て、自分の手元を見て。それから目線を戻そうとして、奥の境内で遊ぶ子天狗に視線が吸い寄せられた。
 二人してしゃがみこみ、線をなぞるように、石畳の隙間を木の枝で引っ掻いている。あみだくじのように、ぎざぎざに。そうかと思えば、一つの石を囲うようにぐるぐると。
 尻尾と耳がなければ、まるで人間の子のようだ。
 種族の違いはあれど、幼少の子がする仕草は同じようなもの。自分の過去の姿も重なったのか、少し微笑ましくなる。
 それから、私につられて境内を見る犬走さんに目が行く。その様子は本当に姉のようだ。
 神奈子様の事を考えて、諏訪子様の事を考えて。それから、改めて考える。私は、犬走さんをどう思っているのだろう。目線を引き剥がし、正面を見る。
「あの」
「はい、なんでしょう」
 私は人間、犬走さんは白狼天狗。生きてきた年数がまるで違うのは分かっている。
 それでも外観は私とさほど変わりないのに、姿勢も居住まいもしっかりとされていて、美しくて。神社と神の前でもちゃんと職務をこなして。姪たちからは頼りにされ、まるで姉か母親のようで。その様を見ていると、女性として憧れを覚えたりもして。
「素敵なご家庭だと思います」
「ええと、甥と姪です」
 巡らせた考えを纏めようとして、私は失敗した。
 思考の経緯を細かく説明するのも憚られ、力なく笑う。
「そうですよね」
 一度きょとんとした顔をしたものの、困ったように笑ってくれたものだから、助かった。


     ●     ●     ●


 打ち合わせが始まった。実際は打ち合わせとは名ばかりの、ここにいない大天狗との交渉事なのだが、今相対しているのは神奈子と犬走椛だ。どこも業務なんてそんなものかもしれない。
 部屋を覗いた角度からは、椛の他に早苗の姿も見える。名義上の立会人だとか、椛の緊張をほぐすためだとか、色々な意味を持ってそこに座ってもらっている。
 ところで、だ。
 白狼天狗はともかく、早苗はなんで緊張してるんだい。
 背筋は伸びているものの、膝の上の手を握ったり開いたりして手汗を誤魔化している。交わされる会話を追うように、目が世話しなく泳いでいる。
 おーおー、情けないね。
 早苗の心労が私にも移りそうで、覗くのをやめる。
 滝にでも涼みに行こうかとふらりと背を向けたが、炎天下のなか一人の散歩も虚しいもの。加えて、早苗がだくだく嫌な汗をかいたところに、涼しげな顔で再登場するのも、さすがに忍びない。
 ならば双方の心情のため、あの空間から連れ出してやろう。どうせ同席していても、大して早苗の経験にはならない。
 再び部屋の前に戻り、襖を少しだけ開けて覗き込む。さほど時間をかけることなく、早苗の目線は捕まった。
 ね、早苗早苗、こっちこっち。
 神奈子の後ろから手招きをし、声には出さないが口を動かして合図してやる。早苗が頃合いを見て席を立ち、静かに抜けてきた。
「どうしたんですか」
 小声で訊ねる早苗を居間まで手招きし、呼び出した理由を告げる。
「おつかい、行きたくない?」
「え」
「おつかい」
 周囲には何もないのに、早苗はきょろきょろして狼狽える。困ると一人でも行う、いつもの癖だ。
「でも、私はあの場に居た方が」
「話の内容は五割も理解してないんだろう」
 う。と声を漏らした早苗に追撃する。残念ながらあの話は早苗に決定権は無いのだよ、と。
「ささ、どうする。あの空間で嫌な汗かくか、ちょっと里まで使われるか」
 さほど時間はかからず、早苗は決断する。
「お言葉に甘えて、おつかいに行ってきます」
 よろしい。女の子は素直が一番だよ。
 不甲斐なさか何かに苛まれたらしい早苗は頭を垂れると、思い出したように顔を上げた。
「それで諏訪子様、おつかいの内容は何ですか?」
「あ? ううん、そうだなあ」
 確かにそうだね、なんて言いそうになるのを寸前で堪える。米も調味料もあるし、何か買ってもらう物はあったか。
「そうだ、あのお茶菓子買って来てよ」
 頭を回転させ、嗜好品の味を思い出す。たまに早苗が買ってくる、和菓子店の名前を挙げる。
「午後には売り切れちゃうけど、まだいけるでしょ。もみちゃんたちの分も買って、多めでもいいよ」
 早苗が戻ってくる前にあの子たちは帰る気もするが、そうなった場合に得するのは自分なので、黙っておく。
「分かりました。そうします」
「神奈子には上手い事言っとくから」
 了承した早苗が玄関に向かうのを見届けて、私は一つ思いつく。神奈子と客人の様子を考えてから、今朝の早苗の話を思い出す。
 私は紙とペンを探しに、台所に急いだ。


     ○     ○     ○


 まただ。背後に視線を感じる。
 守矢神社から人里に向けて、申し訳程度の遊歩道を歩いていると、すぐに違和感に気がついた。
 三歩歩いて、少し歩幅を縮めて。三歩歩いて、歩幅を縮めて。
 それでも同じような距離から、気配を感じる。ならば獣や通りすがりではなく、私に合わせて動いているのだろう。
 横目で後ろを窺うと、子供の天狗が木々の間からこちらを覗いている。子供であるならば、観察と言うより単なる興味だろうか。
 こちらと目が合った。途端、天狗はがさがさと茂みに隠れる。勇気を出して「どうかしましたか」と声をかけてみても、反応は無い。
 仕方なく歩き始めても音は着いて来て、風も吹いていないのに頭上の枝が揺れる。下手な尾行が気になって、足元の石につまづきそうになる。
 やがて本当に爪先を引っかけ、転びそうになって足を踏み出す。
 踏み出した足で体重を支えると、頭上から一際大きな音がしたのだから、二重で驚いた。
「みこさん、平気?」
 器用に身を支えて逆さに顔を覗かせたのは、先程神社で遊んでいた、犬走さんの親戚の天狗だった。
 顎に引っかかった首飾りが揺れる。甥の方、だろうか。
「あなたたち、境内で待ってなくては」
 いけませんよ。と言おうとして、姪の方の登場に遮られる。
「だめじゃない、びこうにんむしてたのに」
「ごめん」
 地面に屈むように落ちてきた姪に合わせて、甥も逆さの状態から戻って地に足をつける。気づかれていないと思っていたのか、頭をかいてばつが悪そうにしている。
「犬走さんに……椛さんに、待っているように言われていたでしょう。迷子になったらどうするんですか」
 今度こそ、注意した。
「ごめんなさい」
「みこさんが出かけるのを見たから、おもしろそうでつい」
 もう一度謝った甥に続けて、姪が肩を揺らしながら呟く。それから、自主的に「ごめんなさい」を言った。
「いいですか、ちゃんと神社まで戻るんですよ」
 はぁい。と小さくも返事を返した二人を眺めて、分かってくれるならいいと、頭を撫でる。
 そういえば、子供を叱る場面なんてこれまで滅多になかったと考える。
 天狗に意識を向けていたため、前から飛来してくる人物には中々気付かなかった。
「よう、早苗! 丁度いいところに」
「わ、わ!」
 危険を感じ、咄嗟に天狗を引き寄せる。背後に二人を隠し、自分も後ずさる。
 箒に跨がったその人物は減速することなく真っ直ぐに私の方へ突っ込んで来て、すんでの所でブレーキをかけた。
 箒の柄と私の胸とはあと数センチ。一歩引かなければ、危うく激突されるところだった。
「っと、危ないなー。余所見して歩くなんて、ぶつかりでもしたらどうしてくれるんだ」
 魔女帽の下から顔を覗かせたのは、知った顔の人間だった。幻想郷に越して来た際に、博麗の巫女と共に神社に乗り込んで来た魔法使い、霧雨魔理沙だった。
「危ないはこちらの台詞です。毎度引き倒すスピードで飛び回るんですから。この子達とぶつかったりでもしたら」
 どうするんですか。言いかけたところで、背中の後ろにはもう天狗がいないことに気がついた。
「ん、なんだって?」
「あ、いえ、なんでも」
 振り返っても、もう物音はしなかった。
 ならばこちらかと見上げると、頭上の枝が僅かに揺れている、気がした。
「よっ、と。そうそう、会えたならちょうど良かった。ちょっと頼みたい事があるんだが」
 何やら話があるようで、魔理沙さんは箒から飛び降りる。ちょうど良かったとは、一体どういう事か。
「頼みたい事。何かあったんですか?」
「ここしばらく、霊夢の姿が見えないんだ」
「霊夢さんが居ない?」
 博麗の巫女、博麗霊夢。
 幻想郷の重要人物、その行方がわからないとは、どういう事なのだろう。
「ん、知らなかったか」
 魔理沙さんは意外そうに眉を上げてから、箒を突き立て、顎を乗せるように背中を丸める。柄に置いた手の上で顔をごろごろさせ、状況を説明してくれる。
「ここ数日、霊夢の行方が分からないんだ。まあ妖怪退治で時間がかかって一日空けることはあるんだが、最後に見てから三日経ってるらしい。流石に気になって、今はアリスに声かけて探してるんだが……あー、アリス・マーガトロイド。憶えてるか?」
 山で一度開いた宴会の場を思い出す。魔理沙の友人の魔法使いという彼女は、会場の隅の方で静かに洋酒を飲んでいた姿が記憶にある。
「で、他に天狗や河童の、山の連中の情報網も借りようかと思ってここへ来たら、早苗がいたんだ。そして当然、早苗は手伝ってくれると」
 状況は理解したが、まだ私は承諾の返事をしていない。それでも構わず、魔理沙さんはすれ違うように山道をずんずん歩き、私の肩に手を乗せた。
「というわけで妖怪の山の奥……神社じゃなくて天狗のいる方に行きたいんだが、許可を貰うのに付き合ってくれないか。私一人より勝算がありそうだし」
 この力の入り方は肩に手を置くと言うより、掴むと表現した方が近い。
 振り払う気力もなく、引きずられるようにして歩き出す。
「分かりましたから。けれども天狗さんの管轄は私とは違うんですから、向こうの指示に従ってくださいね」
 先へ行こうとする魔理沙さんを制しながら、考える。
 いったい、霊夢さんは何処へ行ってしまったのだろう? あれほどの有名人が出張すれば、誰かがどこに行くかを知っているはずだろうとも思う。
 加えて烏天狗は日々収集した情報をもとに新聞の発行を趣味にしているらしく、目撃証言は得られそうに思えた。問題なのは、私が天狗たちの組織を知らず、果たして気軽に訪ねられるのかという点だった。
 木組みの櫓が見えてきた。見張り台か事務所なのだろうか、櫓の最上階に居た天狗はこちらに気が付くと、窓を開き、翼を広げて地に下りてきた。幸いなことに、見張りの天狗は気兼ねなく対応してくれた。
「これは東風谷様。この様な場所までいったい何用、で」
 天狗さんが途中眉を潜めたのは私のせいではなく、背後に魔理沙さんを見つけての事だと信じたい。


     ●     ●     ●


 耳をそばだてると、話し声が聞こえる。一つは天狗のもの、一つは霧雨魔理沙のもの、そしてもう一つは、東風谷早苗のものだ。
 会話の内容に耳を傾けてみれば、どうやら早苗が魔理沙と共に山に入る事を許して欲しい、といった内容だった。交渉にはさほど時間はかからなかったものの、天狗は渋々、といった様子で承諾した。
 用が済んだら直ちに立ち去ること。また上級天狗に立ち入りを禁じられた地点でそれに従うこと。そして最後に、くれぐれも魔理沙から目を離すなとも付け加えた。
 それから天狗の厳しい眼差しを背にして魔理沙は山道を意気揚々と歩き始め、その後を早苗が駆け足で追い始めた。早苗の足が目の前の土を踏みしめ、私の視界を横切るように、左から右へ消えていく。
 蹴り返された土が私の頬に飛んだ。顔を振るい、それを振り落とす。服が汚れないのは幸いだ。
 天狗の目に留まっていないことを確認し、草藪の中を素早く移動した。隠れるにはもってこいの草藪を挟んで、早苗に並走する形になる。早苗はもちろん、そんな私に気が付くことなく、既に魔理沙の横に並んで歩いていた。
「いいですか、勝手に飛んだりしないでくださいね。なんならその箒も預かりますから」
「大丈夫だって、面倒事は起こすなってアリスにもきつく言われてるんだから」
 人間の歩幅に合わせるのは大変だが、急いで跳ねて、なんとか追いついた。
 蛙の姿に化けた事を、少し後悔する。
 私がここまでして早苗の後をつける決心をしたのには、根拠と呼べる程でないにしても、理由がある。近頃の早苗には、違和感があったのだ。
 博麗霊夢との騒動があって、もうどれくらい経つのだろうか。あの出来事から、早苗の立ち振る舞いから、自信のようなものが、日に日に無くなっている。
 原因は、不安だろう。
 後から聞いたが、幻想郷の中核である博麗神社と揉め事を起こしたのだ。有名になってしまうのも、当然だ。
 そして名が広がるには、早すぎた。そしてその機会も、悪かった。砕けた自信を抱えた姿が、新しい目に晒される。
 その筆頭として、まずは山での立場、だろうか。
 中でも、問題なのは天狗連中だろう。今朝一人来たと話していた天狗の客も、恐らく普通の参拝客ではなかったのだろう。鎌をかけたらすぐに分かる。話しぶりからして、早苗はまともに言葉を交わしていない。
 対策は既に打ってある。しかし、その成果を確認する機会はそう多くなかった。ならば朝方に天狗が接触してきたという今日は、様子を見てみてもいいかもしれない。
 調査半分、暇半分が決心要素となり、いざ早苗の後を着いて来てみれば。突如現れた黒ずくめの女に、山の本道の方へ連れていかれるではないか。その正体は霧雨魔理沙だと途中で気が付いたが、ここで姿を現すと、何かと面倒だ。姿を隠しながらついて行くのが、懸命だと判断する。
「あっ、待ってください。靴ひもが」
 ちょうど良い。足が疲れてきたところだった。魔理沙の後ろに続く早苗、その背中に私は飛び付く。
 無事布地に手足を張り付け、そのまま移動する。小さくなった私は分かりづらく、飛び付いた衝撃も、汗が伝っただけに感じたろう。
「お待たせしました」
 早苗が立ち上がったので、居場所を考える。今日の服装なら、裾の辺りに居ればいいか。多少走られても、腰に掴まりやすい。
「そういえば魔理沙さん、道なりに飛ぶの、危ないですよ」
 屈んだ姿勢が、魔理沙の手元と同じ高さだったのか。箒を指して指摘する。
 そういえば先程、追突しそうになった場面を、遠目から見た。
「日陰を求めて飛ぶと自然とそうなるんだ。逆に聞くが、どうして早苗は里まで飛んで行かないんだ?」
「それは」
 魔理沙からの質問に答えようとして、早苗は言い淀んだ。
「目立ってしまいますし」
 考えるような間を持ってから、早苗はぼそりと答えた。


     ●     ●     ●


 結局、妖怪の山で博麗の巫女は見つからなかった。ある程度で別の天狗に立ち入りを禁じられ、そのまま折り返す格好で下山を始めた。私は発見されないように、魔理沙の背中に移動する。
 道中の野良妖怪に魔理沙が声をかけるも、誰も博麗霊夢の行先は知らない。中には悪事を働くなら今だという顔をする者もおり、当然ながら魔理沙は釘を刺す。
 成果といえば見張り天狗からの信頼を得られた事と、悪事を働く予備軍リストが完成しただけ。意気消沈した魔理沙と、気疲れで疲労困憊の早苗は山を下り、人里までやって来ていた。
 忙しなく人の行き交う里の外れで、二人は会議を始める。
 魔理沙は「山の当てが外れたかあ」と溢しながらも、次の捜索場所に頭を巡らせる。早苗は土地勘が無いながらも、霊夢が出かける理由を推理する。
 しかし霊夢捜索とは別に、私に関わる問題が一つあるんだよ。
 人里に帰ってきたのに、早苗は特別はっとした様子はない。出発前に頼んだお昼の買い物の事をすっかり忘れているようだ。
 むむむ。どうしたものか。
 ほんのちょっとだけ、魔理沙の体を借りることにしよう。私の神力なら十分可能だ。
 目を閉じて、意識を集中する。魔理沙の代わりにそこに立つことをイメージして、口を動かそうとする。
 内容は、そうだね、ご飯を示唆するぐらいでいいかな。
 お昼どうしようかな。
「お昼どうしようかな」
 よし、成功した。
 早苗が振り返るのを、魔理沙の腰から身を乗り出して確認する。
「お昼?」
「え、今私なんか言ったか?」
「言いましたよ。お昼はどうしようかって」
 その直後、早苗の表情が固まるのを私は見てしまった。「あちゃあ」と口に出したくて、思わず蛙の手で蛙の目を覆った。
「……どうしましょう」
 どうしましょうじゃないよ。神奈子は昼寝してても、私は知ってしまったよ。
「そうだな、昼か。すぐそこになら蕎麦屋とかあるけど」
 魔理沙が首を傾けて、目的地までの道のりを考え始める。人混みを歩くのは、好きではないようだ。
「で、早苗は何をどうしちゃったんだ」
 ばつが悪そうに、早苗は魔理沙と私に白状する。
「諏訪子様に頼まれた事を、すっかり忘れていました」
 お前が呼び止めたからだぞ、魔理沙。
 内心で呟いたからではないだろうが、魔理沙が私の名前を口にする。
「諏訪子。ああ、あっちの神様か」
「うう、しょうがないか」
 観念した早苗は肩を落としてから、取り出した札にボールペンで何やら書き始めた。
「ごめんなさい諏訪子様……」
 忘れっぽいけど、素直に謝れるのは良い事だと私は思うよ。
 お腹がまだ減っていなかったから、ぎりぎり許す。
 早苗の指先から、紙飛行機を飛ばすようにして、札が離れる。風に乗りひらひらと進む様が珍しかったのか、行く先を眺める魔理沙に早苗が顔を向ける。
「簡単な式です。荷物は運べませんが、伝言くらいなら」
「へえ、伝書鳩みたいなものか。便利だな」
 舌を伸ばしてそいつをはたき落とすこともできたが、それでは神奈子が損をするだけだ。黙って見送ることにする。そして肝心の博麗霊夢捜索も、進展としては芳しくない。
 今日のお昼は遅めを覚悟し、諦めて背に寄りかかる。
「なんか痒いな、さっき蚊にでも刺されたか」
 魔理沙の爪が頭上を通り過ぎ、衣服を揺らした。


     ○     ○     ○


 真っ直ぐ山の方角へ飛んでいく式を見ながら、少し悪い事をしたかな、と思う。
 どちらにしろ、式の方が伝わるのは早い。
 諏訪子様が居るはずだし大丈夫でしょう。
「早苗、こっち」
 振り返ると、魔理沙さんが一度だけ手を曲げた。
 誘われるまま通りを歩くと、飲食区画の一ヶ所で立ち止まる。人指し指で示した店に入ると、厨房から漂うそば粉独特の香りが鼻をくすぐった。
「いらっしゃい。あら、魔理沙ちゃん」
 迎え入れたのは割烹着を着た恰幅のいい女性だった。魔理沙さんの顔を見て、自然に笑顔を振り撒く。
「久しぶり、おばちゃん」
「ご実家の方は? 心配させてない?」
「あー、まあ、四半世紀に一回帰る予定」
 またそれ! と言いながら、女性は肩を揺らす。説明を求める私の目に、魔理沙さんは「細かい事はいいだろ」と手を振った。
「お友達と来てくれて悪いんだけど、今ちょっと混み合ってるのよね」
 確かに、ちょうど昼食時の時間だ。男女問わず、個人団体で大半の席が埋まっている。
 魔理沙さんが口元に手を当て、ううんと唸る。
「そろそろ相席をお願いしようと思ってたとこなんだけど、どうする?」
 店主は急かすわけではなく、今一度入店するか確認した。様子から察するに、魔理沙さんの性格をよく知っての事なのだろう。魔理沙さんは店内を見回して、座れそうな席を探す。
「お、そこにおわすはもしかして」
 首を半分ほど回したところで、魔理沙さんは何かを発見した。窓際の四人席に、一人でかけている人物が居る。
 席が埋まる様子はない。窓の外を眺める背中は、近寄りがたい雰囲気を振り撒いている。恐らく、その容姿が特徴的なのだろう。
 人里にメイド服を着こなす人間は、そう居ない。
「いつものお連れはいないし行けるかな」
 魔理沙さんは彼女の視界に入るよう歩み寄り、視線を捕らえてから片手を上げた。
「よう、咲夜じゃないか」
「あら魔理沙」
 低いトーンで、魔理沙さんに反応する。雰囲気に反して、表情は柔らかい。
 十六夜咲夜さん。頭の中で、顔と名前を照合する。
 目線が合って、小さく会釈する。
「ここ空いてる、よな。お邪魔するぜ」
 魔理沙さんは慣れた様子で椅子を二つ引き、四人掛け席の片側奥、そこに体を滑り込ませた。
「よし、おばちゃん、私たちここ座るから。私いつものね」
 咲夜さんは嫌がる様子を微塵も見せず、セルフサービスだった水をコップに二杯注いだ。
「そっちのお友達は?」と訊ねられ、私は一番最初に目についたざるそばを注文する。
「たまたま入って相席とは、運命的だな」
「否定はしないけど、貴女以外の方に言われたかったわ」
「咲夜が一人なんて珍しいけど、買い出しか?」
「今お嬢様はお眠りになられてるから、買い出しも兼ねて休憩時間。夜までに帰れば問題ない」
 そう言って咲夜さんは汁が跳ねる不安すら感じさせず、スムーズに蕎麦を食べ進める。メイド服の人が蕎麦をするすると啜る姿は、なかなか珍しいものを見ている気がする。
「そっちこそ珍しい組み合わせ、なのかしら。早苗さんって言ったわよね?」
「はい。以前の場から挨拶に伺えなくて、すみません」
「気にしないで。うちもお嬢様が不規則生活してて、お客様が来づらいのよ」
 彼女のことは私も良く憶えている。宴会の際に来た吸血鬼のお嬢様と一緒にいた人で、服装から動作まで、正しくお付きの人、といった印象だった。
 今は実質勤務外だからなのか、ずいぶんと柔らかい雰囲気だった。魔理沙さんとも軽口を飛ばし合い、以前からの旧友というような様子だ。
「珍しい組み合わせには理由があってだな」
 魔理沙さんが、途端に深刻そうに身を乗り出す。
「なんと、あの霊夢が行方不明だ」
「あらあらそうなの。お土産は珍しい妖怪の首かしら」
 咲夜さんは大して驚かないまま、恐ろしい事を言う。
 思いの外つれない態度だったからか、返しに負けた気がしたのか。魔理沙さんはお尻を椅子の上に戻す。
「そんなに珍しい妖怪だったなら、霊夢は一度諦めて神社でふて寝を始めるだろうが」
「確かにそうかもしれない」
「そもそも『果報は寝て待て』とか言った挙げ句、お尋ね者が現れるタイミングで飛び起きる」
「いつもの勘ってやつね」
「咲夜にそんな勘は無いのか」
「霊夢用のは無いわね。強いて言うなら、そろそろお蕎麦が来るかしら」
 言った直後に、咲夜さんの背後にある厨房から店員さんが顔を見せた。驚く私をよそに、魔理沙さんは親指を立てて咲夜さんを誉める。別に咲夜さんが呼んだから来たわけではないのだけれども。
「霊夢さんの勘って、そんなに有名なんですか?」
 私の前を、魔理沙さんの頼んでいたざるそばが通りすぎる。
「本人が言うから、みんなもてはやすの。けれども実際、勘だけで冥界まで行っちゃうのよ」
「とある濃霧異変の時も、あっさり首根っこ捕まえてな」
 魔理沙さんが手を合わせ、葱を盛り始める。あれは隠れる気が無かったのよ、という咲夜さんの言葉を無視し、蕎麦を啜る。
「とにかく、彼女の行動に実績があるのは本当。問題は、妖怪退治にしては時間をかけすぎってこと」
 私の前にもざるそばが来る。納得してから、手を合わせる。いただきます。
 それから式を飛ばした神社に向けて、内心で頭を下げる。諏訪子様、今日の晩御飯のお当番、代わります。
 三人で蕎麦を食べ進めていると、窓の外を見ていた魔理沙さんが、「むお」と蕎麦を口に含んだまま変な声を発した。
「あそこ歩いてるの、文じゃないか?」
「あら、新聞屋さんの?」
 咲夜さんが首を回して魔理沙さんの指先を探す。
 私はといえば、なんとなく、彼女の影に隠れるような態度を取ってしまう。
「カゴ下げてるし、人里で買い物かな。ん、阿求も一緒なのか」
 稗田阿求。その名前には聞き憶えがあった。特殊な血の末裔で、生前の記憶を継いでいるのだったか。
 恐る恐る顔を上げると、こちらに背を向け、向こうへ歩いて行く二人の人影が見えた。
 人里を歩いているためか羽根は広げていないが、黒髪で高い下駄を履いているのが射命丸文だ。すると、隣に居る背の低い和服の少女が、阿求ということになる。
 姿を見るのは初めてだが、何のへんてつもない少女にしか見えない。
「阿求って文と仲良かったのか」
「飛び飛びで転生しても、天狗の寿命なら面識があってもおかしくないわね。新聞屋さんがどれだけ生きてるかは知らないけど」
「本に『以前の私から友人です』とか書いてないのか」
「さあ、もう憶えていないわ」
 咲夜さんは箸を置き、自然に手を合わせた。それからこちらに顔を向ける。
「そうだ、彼女の纏めた書籍は読んだことあるかしら」
 私は正直に、首を横に振る。
「なら是非おすすめするわ。幻想郷の妖怪の事は大体乗ってるし、人間向けに纏めたものだから。うちの館は本が多いから、私は伝書と照らし合わせて読んだりしたわ」
 興味があれば書庫にも通せるよう話してあげる、暇があったら是非いらして。そう付け加え、彼女は席を立った。
「それじゃあお先に失礼するわ。霊夢、見かけたら声をかけておくわね」
 咲夜さんに礼を言って頭を下げると、何やら後ろでもごもご言う声が聞こえた。タイミング悪く、魔理沙さんはまた口に蕎麦を含んだ時だったらしい。
「魔理沙さん、蕎麦減りませんね」
「それは私が大盛りを頼んだからだ。それより早苗、こういうときは女の子のペースに合わせて食べ進めないと、嫌われちゃうぜ?」
 その後はお昼時を過ぎたこともあり、相席になることはなかった。
 二人でゆっくりと蕎麦を啜り、店を出た。


     ●     ●     ●


 それから早苗は魔理沙に連れられるまま、妖怪の道に立つ小道具店、竹林の小屋を訪ねた。どちらの訪問先でも魔理沙はゆっくりとお茶をして行き、時刻は昼をゆうに過ぎていた。竹林の案内人が深部への案内を拒否していなかったら、夕方にまで差し掛かっていただろう。
「アリスと落ち合う約束をしてたんだ」
 突如魔理沙はそう告げて、別行動を再開する事を宣言した。
 誠に身勝手な行動だとは思うが、各地の知り合いを同時に動かす、彼女なりの早期解決策なのだろうか。
「すまないな、今日は歩き回らせて」
「まあ、平気です。アリスさんが情報を持ってるといいですね。私も天狗さんにもう一度聞いて回ってみます」
 頃合いを見て早苗の背中へ移動し、魔理沙を見送る。
 慌ただしく箒に跨がり魔法の森へと出発した魔理沙を、粒の大きさになるまで、早苗と共にぼうっと眺める。ふと隣を見ると、そんな魔理沙の背中を、早苗は羨ましそうに眺めていた。
「帰りますか」
 思わず返事をしそうになり、開いた口をパクパクとさせて咄嗟に堪える。それだけ、言い聞かせるような、はっきりとした独り言だった。
 それから私は、またしばらく早苗に揺られることとなる。
 楽をした散歩のようで、決して気分は悪くない。しかし早苗が神妙な顔つきをしており、今さら、のこのこと声をかけるのも不自然で、することと言えば喉を膨らませて遊ぶくらいしかない。
 不思議な事に、時間が経つにつれ、私に伝わる振動は小さくなっていく。
 どうやら山へ足を進める度に、歩幅が小さくなっているようだ。
 まるでこれから向かう先が、望む場所ではないように。早苗は肩をすぼめるようにして、少しずつ進む。
 登山道に入ってからは、その真逆だった。
 何かを隠すように、顔を伏せて早足で歩く。山に入ってすぐは僅かに早い程度だったものが、今や足元が心配になるような速度で、もはや飛んでしまった方が早いばかりでなく、体力面においても良いのではないかと思うほどだった。
 この様子では転んでも仕方ない。いざというときのために、踏み潰されない位置取りをしておこう。
 そう思い手のひらを這わせて側面に移動すると、前方に白い人影が見えた。再び体の裏に姿を隠し、様子を探る。
「あっ」
 早苗が声を上げ、立ち止まる。
 予想した最悪の状況は、早苗が前方に気づかずに激しく驚き、私の上にすっ転ぶ事だった。どうやらそれは無いようで、心配事が、一つ消える。
 遠方から見えた影と早苗のトーンから、思い当たる天狗が一人居た。耳を澄ませて、相手の言葉を待つ。
「山道を来たのが見えたので、失礼ながら」
 もみちゃんの声だ。間違いない。
 椛が早苗を待ち伏せた。さてこれはどういう事か。
 気まずさと興味深さの合間で、もう一度だけ喉を膨らませた。


     ○     ○     ○


「犬走さん」
 山道で出会った人影に、私は立ち止まる。
 私を待っていたと一度頭を下げた犬走さんは、真っすぐこちらを見ていた。
 彼女は別段、通せん坊をするように手を広げて立っている訳ではない。それでも登山道は決して広くなく、私と必ず話をするために、ここに待っていたように思える。
 どうして、待たれていたのか。
 少し首を傾げて、真意を測る。
「うちの子たちから聞きました。昼間は、危ない所を助けていただいたようで」
 なるほどと合点し、昼間の出来事が再生される。
 親戚の子と話していると正面から現れた魔理沙さんを止めたのが、確かちょうど、この辺りだったか。
「助けたなんて、そんな大げさな。あの子たち、ちゃんと神社に戻ったんですね」
「大人しくしているよう言ったのに、すみませんでした。感謝しております」
 犬走さんはもう一度頭を下げた。
 それからお互いが話題を譲るように、少し黙り込んだ。
「あの、人を探しているのですが」
 私が進めた話に、相槌を返す。
「ここ数日、博麗霊夢さんをお見かけしていないでしょうか。皆さん行方を知らないようで、探し回られていて」
「もしかすると、早苗様もその一件で」
 同意する。経緯は省略するが、先程まで霊夢さんを探していた事を大まかに説明した。
 犬走さんはそれを聞いて、記憶を辿るような顔はせず、真っすぐにこちらを見つめる。
「なるほど。いい機会、ですね。一度お訊ねしておきたかったのです」
 イエスかノーか。
 簡単な返答が帰ってくると思っていた私は、話の流れが変わった事に、動揺する。
「東風谷早苗様、貴女は現人神であり、守矢神社の巫女でおられる」
 風向きが変わった。はっきりとわかる。
 彼女の言葉が、木々を揺らす。
「博麗の巫女は以前貴女が目の敵にしていた存在だ。それでも尚、関わろうとし続ける。今の貴女にとって」
 来る。
 彼女が譲れないと決断した質問が、来る。
 覚悟は、できていない。
「貴女にとって博麗霊夢とは、どのような存在なのですか?」
 静かに。
 犬走さんは質問してきた。
「えと」
 風の音が、うるさい。
「それは」
 息を吸って、吐き出す言葉がそこにない事に気がついた。私は彼女の問いに、咄嗟に答えられない。
 それから、視界の枝が一切揺れていないと気が付いた。なんてことは無い。うるさいのは私の鼓動だ。
「犬走さん」
 落ち着けるために、助けを求めるように呟いてみても、彼女は何も言ってくれない。
 私だって、答えたい。全く言葉がないのではない。
 決められないのだ。そしてきっと、これは大事な答え。
 霊夢さんは、幻想郷を守る巫女。山とは別の場所、人里を挟んだ所に、博麗神社を構えている。
 霊夢さんは、私が幻想郷に来た後、一度争った事がある。その時は確かに敵だった。それでは、今は?
 そして、これからは?
 唾を一つ飲む。
 霊夢さんは、私の敵? 元・敵? 友達? ライバル? 関係の無い他人? 仲間? 言葉が浮かんでは、消える。
 点滅する言葉から、正しいものを選ばなければ、きっと私は後悔する。そんな予感がする。
「彼女は、私の」
 息苦しさを覚え、一度息を整える。
「霊夢さんは、私の」
 声が震え、自分がまだ消え入りそうな声をしている事に気づく。
 駄目だ、このまま消してはいけない。ここで誤魔化してはいけないのだ。
 自分の背中を押すため、風を吸い込んだ。


     ●     ●     ●


 しゃんとした声が。
 張り上げた早苗の声が、私の耳を強く貫いた。
 そっか。
 早苗がそこまではっきり言えるなら、もうこの件に関しては大丈夫ね。
 音をたてないよう、柔らかい地面に飛び降りた。一瞬椛の意識がこちらに向いた気がしたが、気にせず自然に跳ねて歩いた。私はたまたまくっついてた、ただの蛙だよ。
 考えながら、ゆっくりと跳ねた。久しぶりだ。こんなに何も心配せずに跳ねるのは。
 藪に入る直前、天狗の方に意識を向けてみた。既に彼女は私を気にせず、早苗と話を続けていた。
 さて、帰って蕎麦でも茹でてやろう。いい加減神奈子の奴も目が覚めているだろうしね。
 頑張りな、早苗。


     ○     ○     ○


 呆けたように、目の前の瞳を眺めていた。
 遅れて、目を閉じてしまわずに言えたのだと気がついた。
 あれだけ握っていた拳に、もう力は入っていなかった。軽い。手だけでなく、体が。
 そうか。
 心の中で、もう一度復唱する。霊夢さんは、私の――
 冷静になって、ふと気がついた。無我夢中のあまり、私はすごく大きな声を張り上げてしまったのではないか。肺に空気は残っておらず、ともすれば全て、声に、その大きさに変えてしまったはずだ。
 とにかく、私は確かに発言したはずだ。息を整え、彼女の返事を待った。
「急に大きな声を出すものだから、驚きました」
 目の前の犬走さんは耳こそ押さえないものの、瞬きを繰り返していた。恥ずかしさのあまり、顔を伏せて謝る事しかできない。
「ごめんなさい、急に」
 顔が熱くなってきた。
 これでは、意を決した事がばればれではないか。いや、息が震えていたのでは隠しようがない。そもそも、こっそり息を吸ったり吐いたりしているのは気づかれていたのか。
 危うく、この場から逃げ出したくなる。
「謝る事はありませんよ」
 ゆっくりと顔を上げ、少し表情が柔らかくなった気がする彼女と目が合う。
「やっと貴女の声が届いた気がします。私たちに関してではないのが、少し悔しいですが」
 指名されたなりに、働けたならいいのです。そう意味深に溢す。
 私は口を開きかけたが、犬走さんはそれに構わず「ああそうそう」と話を続行した。
「私が話を遮ってしまったのでした。博麗の巫女をお探しとのことでしたね」
 話題が帰ってきた事に気づくのが遅れ、急いで頷く。
「霊夢さんが今どこに居るか、ご存じですか?」
「ええ、まあ」
 むしろ知らないのか、といった調子で彼女はあっさりと口を開いた。
「博麗の巫女でしたら、人里に居ますよ」
 え?
 思った以上に簡潔な答えが帰ってきて、驚いた。人里に、居た?
「文さんが話していました。人里の知識人の方と共同取材だそうで。一昨日ほどから巫女についている筈ですが、知りませんでしたか?」
 一昨日から。
 時期的には、合っている。それに昼間、射命丸さんが人里に居る姿を見ているではないか。
 灯台元暗し。
 散々遠回りをしていた事に恥ずかしくなり、顔を覆いたくなる。
 犬走さんは顔を人里の方角に向けると、ピントを合わせるように瞳孔を開いた。
 それからゆっくりと首を回して何かを捉えると、一つ頷いた。
「事態は……収拾したようですね。文さんが戻ってきています。博麗の巫女は、恐らく神社へ戻ったでしょう」
 山へ向けて飛行しているらしい射命丸さんを捉えてから、再び首を戻して神社の様子を見るのだと予想した。が、瞬きを繰り返して目を休めると、私に目線を戻した。
「残念ながら、双眼鏡ではないので見せられるわけではありません」
 また私は、情けない呆けた顔をしていたのだろうか。
 とにかく、博麗神社を見てもらう必要はない。解放されたなら、十中八九、人間たちはそこへ集まるだろう。
 誤魔化す言葉としては、乗り掛かった船、だろうか。
 だけどそれより、今は素直な感情の方が強い。霊夢さんへの思いを確かめたい。直に合って自分の目で見て、一緒に笑って、確かめたい。
 決心し、犬走さんに一礼してから、踵を返す。
「私、ちょっと行ってきます」
 一呼吸遅れて、犬走さんが駆け足で並んできた。
「どちらまで」
 問いかける声は落ち着いたものだった。私の行動は予想されていたらしい。
 何処まで、と問われても行き先なんて一つなのだから、本当に行くのかを訊ねているのだろう。
「博麗神社まで。確かめに」
「歩いてですか?」
 はたと、足が止まる。
 どくん、と心臓の鼓動を感じて、半歩後ろの犬走さんを、ゆっくりと振り返る。傾いた西日の逆光の中、小さな笑顔が見える。
 犬走さんは私の右手を取っていた。
「あの、犬走さん」
「飛んだ方が早いですよ」
「でも私、人里も、横切りますし」
 ていうか、手、離してくれない。
「一人で飛ぶのに抵抗がおありなのでしょう? でしたら私がご一緒します。神社の前まで、お送りしますよ」
 わずかに手を引き寄せ、遊歩道から一歩、山の外側へ歩く。
「大丈夫、確かに貴女は人間ですが、幻想郷の住人でもあるのです。二人で飛んでいれば、誰も気にしません」
「いやでも、人里とか通りますし、犬走さんお仕事中だと悪いですし」
 もう一度ぐいと手を握られ、崖際まで引き寄せられる。
 眼下に広がる森と夕焼けを映す空。高さは怖くない。けれども遠くへ行くのが怖い。地面を蹴れない。
「仲間に連れられて行くので人里なら慣れていますし、問題ありませんよ。それに」
 犬走さんは言葉を切って、私の目を見て。それから同じ年代の人間のように、にかっと笑った。
「残念でした、今日の勤務はもう終わっています。それに勤務後は、友人と過ごす事に決めているのですよ」
 言葉を理解して飲み込む前に、体が引っ張られた。
 横ではない、上に向かって。
「えっ、犬走さん、えっ」
 先に宙に舞った犬走さんに吊られるように、情けなく、私は幻想郷の空に飛んだ。
 反射的にバランスを取り、同じ高さで目線を合わせた。私の様子を見てから、犬走さんはしっかりと握っていた手を離した。
「ふふ、よかった。飛び方を忘れてる、なんて落ちは無さそうですね」
「あのっ、犬走さん、今」
 突如見せられた手のひらに、遮られる。ストップ、という意味だろう。
「犬走家、結構小さくはないんですよ?」
「え」
 突きつけた手を後ろで組んで、犬走さんは改めて私に向き直った。
「姓で呼んで親戚が一斉に振り返ったら不便でしょう。私の事は、椛、でいいですよ」
 程なくして理解して、自然と頬が緩んだ。彼女もそれに返してくれる。それから、確認するのもやめる事にした。
「はい、椛さん」
「それじゃあ行きましょうか、本当に日が暮れてしまいます」
 傾き始めた西日の中、椛さんと並んで飛行する。
 誰かとこんな風に飛ぶのは、初めてだ。
「そういえば、帰りはどうしますか。不安でしたら、下で待っていましょうか」
 昼間の、魔理沙さんとの話題が思い返され、傍らの椛さんを見た。
 私が西日を背負う格好になり、少し目を細めている。が、他に特に変わった様子はなく、当たり前のように、飛行を続けている。
「椛さん、女の子に好かれそうですね」
「ははっ、なんですかそれ」


     ●     ●     ●


「やあやあ暇してるであろう神奈子の元に諏訪子さまが帰ってきてやったぞ」
 そう言いながら襖を開けると、やけに物静かな事に気がついた。出迎える声もなければ、寝息もない。よく見ると、部屋の電灯も点いていなかった。
「トイレ、に行くのに電灯は消さないよね。はて?」
 部屋へ踏み込んで変化はないか見回すと、ちゃぶ台の上に置き書きがある。
 まず物を確認するために、紙をひっくり返す。間違いない、私が早苗について行く前に残したものだ。
 それから、先程置いてあった面に戻す。表面には、旧地獄へ行ってくる、と殴り書きしてある。
 神奈子の字だ。
 そう、神々の抱える問題は『早苗おともだち計画』の他にもう一つあったのだ。旧地獄なんて辺鄙な場所へ足を運ぶのは、二つ目の計画のためだろう。と検討を付けた。
 紙を撫でてみて、傾けてみて、インクが乾いている事を確認する。それから畳に手を付けてみて、神奈子の体温が残っていないか確認する。もちろん、無い。
 すると私の帰る結構前、恐らくは昼過ぎにはもう出たのだろう。
 ならば夕飯の時間には戻ってくるつもりなのだろう。探しに行く必要はない。自分の仕事が増えなかった事に安堵し、畳に大の字になる。
 ところで、夕飯の当番は誰だったか。そもそも、今日の曜日はどれだったか。確認しようにも、いま寝ている位置からカレンダーは見えない。
 一度脱力させた体に力を入れて確認しようか。そして万一自分の曜日だった場合、もう一度活を入れて調理を始められるだろうか。
 暫し悩んで、起き上がるのをやめた。恐らく今日の早苗は、すこぶる機嫌が良いだろうから。
 普段少し良い事があった日ですら自ら当番を代わるのだ。きっと黙っていても、今日の夕飯はできるはずだ。
 起こされたらできているであろう、早苗の作る夕飯を想像する。その味を夢想してから、部屋の空気を吸い込んだ。


     ○     ○     ○


 椛さんとは博麗神社の麓で別れた。
 元から神社に送るまで、という提案だったが、改めて、一人で向かわなくてはいけない、と伝えた。
 それは正しい考えであると肯定してくれた上で、椛さんは「送り出すのも友人の役目ですから」と手を振ってくれた。階段を登ってから振り返ってはいないが、椛さんのことだ、きっと帰りを案じて待っていてくれるのだろう。そんな気がしている。
「よう早苗、一足遅かったな」
 私が階段を登り終えて博麗神社へ駆け込むと、魔理沙さんの声がした。私が来る事が分かっていたのか、出迎えるように鳥居に寄りかかっていた。霊夢なら奥だ。と裏手まで先導してくれる。
 西日に目を薄めながら歩いていくと、縁側に霊夢さんが腰掛け、咲夜さんが母屋に上がってお茶を注いでいた。
「残念だったな早苗。一世一大、霊夢奪還の大作戦はもう終わっちゃったぜ」
「そこ、話を盛らないの。私が解放されたとこに居合わせただけでしょう」
 霊夢さんが縁側から声を飛ばして注意する。様子を見るに、元気ではあるようだ。
「霊夢さん、今までどちらに居たんですか。皆さん……心配してましたよ」
「阿求のとこよ。幻想郷縁起の打ち合わせだけって聞いてたのに、途中から天狗が来て、二人が盛り上がって、根掘り葉掘りで」
「ずっとですか?」
「ずっとよ」
 近くに寄ってみると、若干疲労の色が見える。肘をつき、不機嫌そうに口を動かしている様子は、整った顔がもったいないと思う。
「ちょうど屋敷からヘトヘトで出てくる霊夢を見つけてな。アリスが霊夢を私に預けてさっさと帰っちゃって、私は咲夜と合流して」
 今に至る、と魔理沙さんは手を広げる。大雑把な説明だが、事件性が無いというのは伝わった。ほっと胸を撫で下ろす。
「まあ、霊夢さん、見つかったなら良かったです」
「記者魂に火が点いちゃったんですって。エピソードの多い博麗の巫女は大変よね」
 咲夜さんが肩を揉みながら労い、自然に手元を確認する。
「あー、そこもっと強く。まあ巫女を監禁するなんて、ホントあいつらはいい度胸してるわよね」
「身体の自由は奪われてないから、どちらかと言えば軟禁」
「縛り上げられてたとでも思ってるの? あんたの屋敷じゃないんだから平気よ」
 首を回して後ろを見ようとして、諦めて頭を真後ろに倒す霊夢さん。
「あら人聞きの悪い。お客様が怖がるでしょう」
 正式に招かれた方なら、致しませんから。と咲夜さんがこちらに笑う。
 そこで霊夢さんがふと気づいたように、首を戻す。
「あれ、あんた紅魔館行った事ないの」
 驚きにも似た、本当に意外そうな声だった。
 場所を知っているだけで、訪ねた事はない。本当なのだから、頷くしかない。
「なんだ、てっきり行った事あると思ってたわ。勿体ないわね、夏は涼しいのに」
「霊夢は毎回冷たいコーヒーを要求するけれど、あれって涼みに来てたのね」
 そういう目的で訪ねるべき所なのか、疑問を呈そうとした時、魔理沙さんが得意気に前に出た。
「甘いな、隠れた避暑地は魔法の森にあるんだぜ。ずばり
アリスん家だ。あいつも多少の熱魔法は扱えるし、人形の為に湿度管理はしっかりされてるしで……」
 魔理沙さんは「行った事あるか」と訊ねようとしたのかこちらを向き直り、指を立てたまま、まばたきを数回した。
「たぶん行ってないな」
「……ないです」
 居心地が悪くなり、小さな声で答える。
「そういえば神社に来たときに、早苗と会う事ってないな」
「ああ、そうかもね。神奈子は分社の様子を見に来る事があるけど」
 と言っても数えるほどか。と霊夢さんが指を折る。
 そうなのだ。私は、霊夢さんが思っているほど、幻想郷を知らない。
「なんで、来ないんだ」
 魔理沙さんが、ストレートに問いかける。
 突き刺さるような言葉に、思わず飛び上がりそうになる。
「いや、別に責めてるわけじゃない。私が魔法店を留守にしがちなのは認めるし、ここが霊夢とお茶以外何もない場所なのも認める。ただ理由もなく徘徊する人間妖怪が多いから、少し不思議で」
 悪気が無い、という顔をしている魔理沙さん。
 真っすぐ当たられると、私は折れるしかない。今に始まった性格ではない。素直に吐露する。
「そんな勝手に、行っていいものか分からなくて」
 私が行って、どうなる。何が始まる。何も知らない私が。
 それに、そうだ。
「それに、私は幻想郷に来ているのに、その実感が無いというか」
 思いつくままに、言葉を並べる。
 回りくどくても、拙くても、伝えるべきだ。そう思えた。
「今回の件だって、魔理沙さんはアリスさんを頼って、咲夜さんを頼って、射命丸さんを当たって。私は今朝山道で会ってなければ、声もかけてもらえずに」
 この際だから、吐き出してしまえ。
 ここで止めたら、むしろ不自然だ。
 天使と悪魔ではないが、自分の中の複数の私が、みな一様に背中を押す。
「私、幻想郷の人になれてるのかなって、思うんです」
 継ぎ接ぎの言葉が、地面に落ちる。
 音も立てず、跳ね返りも良くないであろう言葉が、風に吹かれても転がらずに、ただそこに沈む。
 言ってしまった。
 背中を押す風とは裏腹に、内面の気持ちは踊らない。発した言葉を探すように、目線を落とす。
 ふむ、と誰かの考える声が漏れる。
 沈黙は、さほどの時間をかけずに破れた。
「私たちと話すのに、許可がいるのか?」
 頭を揺らしたのは、魔理沙さんの声だった。よく通る声が耳を通して体を震わせ、身を起こさせる。
「初対面の人妖が来て身構えるほど、私も霊夢も肝は細くないぜ。妖怪連中なんて尚更だ」
 むしろお前、そんなに腰が低いと訪問先で食われちまうぞ。と続け、意地悪そうな顔で咲夜さんを見る。
「で、なんだっけ。もう一個?」
 咲夜さんを見た上半身はそのままの形に、腰をもう少し捻り、背後の霊夢さんに問いかける。
「当てにしてるか否か、じゃないっけ」
「おお、そうだそうだ」
 霊夢さんが魔理沙さんの背後を通り、歩きながら伸びをする。
 咲夜さんが自分の靴に足を通す。
「当てにしてる、してないというか、早苗は既に探してるものだと思ってたから、行ってなかった」
「え」
 意外な答えが返ってきて、驚いた。霊夢さんも続けて、私を挟むように振り返る。
「あら、私は探してくれてると思ってたんだけど。違ったの?」
 霊夢さんは普段通りの、当たり前の事を問うような表情。
 魔理沙さんは組んだ腕を解かずに、真っ直ぐに私を見ている。その目は自身の考えに間違いはない、と確信したような目だ。
「どうして、そんなに言い切れるんですか」
 混乱したまま、言葉が漏れる。
 分からない。自分がどんな答えを求めているのか。どんな返答を期待しているのかが、もう分からない。
 だけれども、この機会を逃せなかった。他人よがりでもいい、かかっていた橋の出所を確かめる、そんな言葉が欲しかった。
「うーん、それは、そうだな」
 一度言葉を止めて、魔理沙さんは首をかしげて考える。
「弾幕ごっこした仲だから……もう“幻想郷の人”だから、かな?」
 彼女は私の言葉を使って、そう言った。二度、三度、頭の中で言葉が繰り返される。
 弾幕ごっこをした仲だから。
 それだけ?
 それだけで、信じられるの?
 私は、どれだけ呆けた顔をしたのだろう。魔理沙さんは堪えきれずに吹き出し、口元を押さえた。
「そんなに不思議か」
 それから傍らに並んだ咲夜さんに同意を求めるような目線を送り、思い出したように眉を上げた。
「ああ、なんか外の世界は証明証だらけなんだっけ。妖怪の賢者様に愚痴られた事があったな」
「寺子屋にもいろいろ証明証があるんでしょう? 以前うちの図書館でそんな話を読んだ事があるわ」
 一部はフィクションかも知れないけれど。と付け加えて、咲夜さんは手を広げる。
「けれど弾幕証明証なんて発行してたら、妖怪、妖精、魔女、悪魔。全くキリがないぜ。管理人殿もそんなのに付き合ってられないんだし、勝手にしちゃえばいいんだよ」
 キリがない。
 付き合ってられない。
 勝手にすればいい。
 そんなに優しい、投げやりな言葉があったろうか。
「ま、強いて言うなら霊夢に会っておくくらいか。出会い頭に不審者だと思ってしばかれても、文句は言えない」
 続く忠告にも取れる言葉は、霊夢さん本人によって遮られた。
 頭を後ろから小突いた霊夢さんは、腰に手を当てて仕方なさそうにこちらを見る。
「とにかく。私はあんたが来たっていうのは知ってるし、どんな奴かは正直気にしてない。だからその」
 霊夢さんは一度言葉を止め、宙を眺めて思い出す顔をする。それから背後の咲夜さんに「なんだっけ、寺子屋証?」と確認し、彼女の返答を待たずにこちらに向き直った。
「そのあんたの求めてる証明証は、もう受理したから」
 呆気なく、言ってのけた。
 目の前の、幻想郷の巫女は、あっさりと私の存在を認める。
「あの、霊夢さん」
「まだ理由が必要なの?」
 ため息を吐きかねない勢いで息を吸い、少し溜めてから、言葉として吐き出す。
 誰にもない筈の決定権を自分だけが持っているかのように、博麗霊夢さんは断言する。
「あんたの弾幕は綺麗だったから、もう憶えた。幻想郷の人間があんたを憶えた以上、もう既に、あんたは幻想郷の人間よ」


     ○     ○     ○


 ありがとうございます。
 私の声は、上手く届いただろうか。確証が得られずに、一度頭を下げる。
 その拍子にこみ上げるものがあり、急いで咳払いをした。
「どうした、早苗?」
 鼻をすすったのは、ばれていない。
「いえ、なんでも」
「そうか。ま、私は専門外の弾幕は憶えない事にしてるから、その点諦めてくれ。咲夜は見た事、あったっけ?」
 こういうの、こういうの。そう言って目線を捕まえると、魔理沙さんは宙に五芒星を描き、それから『し』の字を大量に示す。咲夜さんは少し考えた後、解読を諦める。
 その様が面白くて、吹き出してしまう。
「おい、どういう事だ。個性的だけど本当なんだぞ。なあ早苗」
「魔理沙の説明だと、百通りの説明を受けても分かりそうにないわ」
「咲夜のスペルを見る目はあるのに、説明のセンスは無いのよねえ」
「魔理沙さん、実践派っぽいですもんね」
「人を考え無しみたいに扱うな。ちょっと、咲夜の察しが悪いだけだ」
 これだけ気の使える、本業の人を指して何を言うのか。霊夢さんと、一緒に笑う。
「なんだよ、許可証が無くても、ちゃんとはしゃげるじゃないか」
 魔理沙さんに指摘され、声に詰まる。集団の中にいるなら、勝手に笑うだろ。そう続け、肩を叩かれる。
 それから魔理沙さんは思いついたような顔をして、二人に目くばせする。それから、もう一度私の肩を叩く。
「幻想郷で一番人が集まる場所、知ってるか」
 咲夜さんが微笑みながら、霊夢さんと顔を合わせる。
 私は先程と同じように、長考の末に呟く。
「……人里?」
「違う」
「妖怪の山」
「生息数を知らない。違う」
「博麗神社」
「惜しいが、まあ違う。でも、ほぼ正解だ」
 候補を出し尽くした私が黙り込んでしまうと、魔理沙さんはしてやったり、という風に笑った。
「宴会会場だよ」
 惜しかったろう、と霊夢さんに確認を取るようにしてから、魔理沙さんが話題の種明かしをする。
「各地を巡るにも時間に限界がある。何より、あちこち面倒くさい。宴会を開いた方が、双方にとって楽なんだよ」
 守矢神社での、宴会。
 想像してというより、思い出すように、光景を想像する。
 魔理沙さんの提案は素敵だったが、申し訳なさそうに、告げる。
「でも宴会って、神社でなら一度しちゃったんです、けど」
 魔理沙さんが記憶を辿るような顔をするので、不安になる。今朝方、アリスさんの話をした際は憶えていたではないか。
 霊夢さんはといえば、口元に手を当て、同じく考えている。
「宴会? ああ、私が勝利宣言に開いたやつか」
 霊夢さんの言葉に、引っかかる。魔理沙さんの表情の意味を、考える。
 それらが反応して、私の頭に何かが閃いた。
 あれは霊夢さんが開いたもの。
 つまり?
 その閃きは一つ輝く星のように、私の胸で確かな形を持った。私が慎重に目を凝らせば、その星は私に応えて光り続ける。
 私からは。
「あんたの主催で宴会って、まだやってなくない?」
 私の中に、風が吹いた。
 心を乱す冷たい風ではなく、優しく包み込むような。不意に吹きかけられても暖かい、穏やかに吹く風が。
 遥か後ろから、僅かだが背を押すように吹き始める。
 合点がいったような表情をしてから、魔理沙さんが何か企んでいるように笑う。
「話し足りなかったら、もう一回開けばいいんだよ。霊夢の懐よりは、余裕あるだろ?」
「みんなお祭り事が好きなの。顔ぶれが変わらないのに何度も集まるのは、可笑しいかしら?」
 咲夜さんが困ったものを見るような、優しい目で肩をすくめて笑う。
 晒した肌はもう冷たくない。顔を上げれば、今まで気がつかなかった景色が色づいてくる。
「そっか、私、なんてこと」
 どこかで拒絶される事を恐れていたなんて、自意識過剰だった。
 自分から知る機会を遠ざけていたなんて。
 感情をコントロールしようと息を吸って、震える息を吐く。堪えようと歯をくいしばって、自然と顎が上がる。
 幻想郷が見えた。
 沈む夕日を背景に、下りの獣道が見える。眼下には人間の里が見える。畑で仕事をする村人が見える。里を駆け回る子供が見える。妖しげな竹林が見える。鬱蒼と広がる魔法の森が見える。大きな湖が見える。湖畔に立つ館が見える。そしてその奥には、私のよく知らない妖怪の山が見える。
 麓では中級神が眠り力を蓄えているのだろうか。それとも迷い人を里へ帰るよう諭しているのだろうか。中腹の辺りに見えるきらめきは大きな滝だろうか。河童たちは川で涼んでいるのだろうか。今山から離れた小さな影は天狗たちだろうか。
 暑い日差しも、眩しい太陽も気にならない。美しい幻想郷が見える。そのすぐ手前には三人が見える。幻想郷を彩る、夕日に負けないくらいに輝く三人が。
 素晴らしくて美しい。それなのに、その景色すら滲み始める。
「私、なんて事、してたんだろ」
「おい早苗、そんなに泣くほどの事か」
 一番最初に寄ってきた影に、思わず抱き付いた。止め方の分からない涙を隠すため、必死に胸元へすがり付いた。
 当たり前だった。知る機会すら無かったのだ。
 ここは幻想郷で、人間が居て、妖怪が居て、神様が居て。そこに人間が一人増えただけなのに、何を気取っていたのだろう。
「魔理沙さん、魔理沙さんの事、いっぱい教えてください」
「お? お、おう。なんだか分からんが、恥ずかしい事言うなあ」
 自分でも止め方が分からず、びーびーと泣いた。
「なんでそんなに泣いてるのか、分かんないんだけど」
「ま、霊夢には分からないでしょうね」
 おずおずと目線を上げる。霊夢さんが腑に落ちない表情で腕を組み。咲夜さんは私に何も言わずに微笑んでいてくれている。
「あの、わた、し」
 魔理沙さんに崩れるようにしてから、少し落ち着いてきた。それから、泣きじゃくった顔で椛さんにも会うかもしれないと気がついた。
 それでも構わない。気づいた事を、泣いた事を、全て話そう。そして、笑ってもらおう。
 惨めにも鼻をすすりながら、恥を堪えて顔を上げる。
「落ち着いたらどうするのか教えてよ。理由はいいや、私には分からないらしいから」
「どうぞ。使っていいわよ」
「あーあー私の一張羅が」
 咲夜さんがハンカチを差し出してくれる。ありがたくお借りし、まともに喋れるよう息を整える。
「すみません。今度洗ってお返しします」
「あらあら、別にいいのに」
「私のも洗って返せっ」
 何故だろう、以前なら迷惑をかけたと感じる場面であろうに、笑みが溢れた。
 清々しい気分だ。


     ○     ○     ○


「神奈子様、本当に私は向かわなくて良いのですか?」
「いいのいいの、そんな焦らなくても。博麗の巫女の手本を見てからでも問題ない。なあ諏訪子」
「そうそう。何も最初からタチの悪い地底妖怪を相手にする必要はないさ。早苗はその間レベル上げでもしてればいいのよ」
「妖怪退治にレベルなんてあるんですか? それに、どうやって上げろと」
 諏訪子様は私の問いには答えずに、腰を捻ってテレビの方へ向き直ってしまった。画面の中では勇敢な戦士たちが草むらを蛇行し、出会う妖怪に片端から戦いを挑んでは経験を積んでいる。
「とりあえず境界の妖怪が用意してくれたそれ、陰陽玉。それを見て学んどくといいよ、異変解決ってやつを」
「それでいいんでしょうか」
 神奈子様がそうしていたのと同じように、画面をなんとなく眺める。修行が一区切りついたのか、祝福の音が鳴り、戦士たちがとたんに強くなる。
「諏訪子様、それ何本目ですか」
「三作目」
 いつの間にそんなにクリアしていたのだ。驚きの声は、柿を噛む行為にかき消される。
「ほんと電力、安定しましたね」
 何の気なしにぽつりと呟くと、隣で神奈子様が、漫画の様に大きくむせる。何か驚かす、或いは脅かすような事を言ったのだろうか。
 最近手を打ったという新しい電力供給体勢に関しては教えてくれなかったり、先ほども私が霊夢さんに同行するのを引き留めたり。少し前に二人でひそひそと相談していた時期から、なんだかやけによそよそしい。まるで開発の計画から私を遠ざけているかのようだ。
「新しい電力体勢は、まだ教えてくれないんですか」
「いや、その内話そうとは思うが、今はタイミングが悪くて。あ、早苗。ほら、陰陽玉が」
「またそうやって話をずらして」と言おうとして、陰陽玉が本当に振動している事に気づく。どういう原理か発光点滅もしていて、まるで外の世界の連絡機器のようだ。急いで這って手を伸ばす。
 手には掴んだものの、肝心の応答方法が分からなかった。
 とりあえず振ってみたり、ボタンが無いかところ構わず押し込んでみたり、ちょっと霊力を注入したりしてみた。どれが正しかったのかは分からないが、本体から出てきた光が、立体映像のように宙へと映像を映し出した。
 飛行しているシーンだろうか、景色が手前の方に流れていき、微かに風を切る音がする。
 念のため、手を伸ばして確認する。指先は半透明の映像をすり抜けて、爪の上に薄く岩肌が映った。本当に空間を繋げたりはせず、映像だけをこちらに送っているようだ。
「へー、陰陽玉をこんな使い方するとはね。どうなってるのこれ」
 興味を示したのか、諏訪子様が背中に寄りかかって映像を覗きに来た。体重が預けられ、少し前のめりになる。振り替えって見れば、画面の戦士たちは何やらおどろおどろしい背景の中、次の指示を待って足踏みを繰り返しているところだった。
「諏訪子様、記録の方はしたんですか?」
「あ、してない。一回帰ろう」
 背中の重みが離れ、諏訪子様が再びテレビに向き直る。私も首を戻し、映像に向き直る。
 霊夢さんと魔理沙さんは、まずは地底へ繋がる洞穴を地下に向けて進んでいるはずだ。そうすると、まだ出発してそんなに時間は経っていなさそうだ。
 妖精の悪戯をいなしながら、二人は蜘蛛の巣が張られた区画へと侵入した。釣瓶落としに続き、蜘蛛の妖怪だろうか、糸を手繰る人影が二人を強引に呼び止める。
「わ、こんなときに限って出てくる!」
 背後から諏訪子様の悲痛そうな声が聞こえて来た。そちらの様子を窺う事はできませんが、果たして戦士たちは無事に帰れるのでしょうか。
 時の流れ、環境の変化、成長の過程。取り巻く環境が変わる時は、誰しも必ず訪れます。それを転機と言う人も、事件と言う人もいるでしょう。その変わった環境に溶け込むには、経験の他に、努力が必要なのだと今は思えます。
 私の場合は、ほんの少しの勇気。信じて身を預ける事も、努力の結果に当たるのかもしれません。
 私は、皆さんに追い付くために最大の努力をします。皆さんと一緒に笑えるように、最大の努力をします。待っていてください、霊夢さん。
 私は、映像の向こうに集中する。
 入学、進級、就職、引っ越し。
 春は出会いの季節と言いますが、その出会いに苦労する人も多いでしょう。
 けれども気が付いたら、自分もある集団に含まれていたと知ったとき。知らないうちに数に数えられるようになることは、何とも言えず嬉しいものです。
 関わりたい、けれども踏み込んで良いものか。気にしているのは、案外自分だけかもしれません。

 というわけで、四月分です。ギリ四月です。
 この話をやるにはこの時期しかないと思ったわけですが、開けてみれば何やら現実味のある話になってしまいました。
 長くなるのは承知の上で始めたものの、今回の冗長さはどうしたものか。
 滑り込みの為、表記揺れなどが多い気がします……。

 今回もここまで読んでくださった方、飛ばしてでも辿り着いてくださった方、共に深く感謝いたします。
 ひと言残して頂ければ、それだけで幸いです。
くろさわ
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コメント



0.250簡易評価
2.100名前が無い程度の能力削除
よかったです。
3.100名前が無い程度の能力削除
うわぁ、文字がびっしり……
と思ったらとてつもなく美しい文章で、吸い込まれるように読み進められました。
素敵なお話でした。
4.100奇声を発する程度の能力削除
良いお話でした
5.無評価くろさわ削除
>2様
 まさか100点を頂けるなんて思っていなくて、大変驚いています。
 私の文章がお気に召したなら、幸いです。

>3様
 やはり警戒させてしまいますよね。せめて導入だけでも柔らかくできないか、悩んでいます……。
 不慣れな話でしたが、満足して頂けて良かったです。

>奇声を発する程度の能力様
 あまり経験のない良い話でしたが、なんとか形にできました。
 よろしければ今後も、お付き合いください。

 簡易評価を入れて下さった方も、どうやら高評価を下さったようで……本当にありがとうございます。
 今後も精進してまいります。
6.100名前が無い程度の能力削除
 幻想郷に不慣れな早苗さんの話は今の時分、珍しいように思いますが、
 彼女が外の世界の常識を捨ててゆく過程が丁寧に描かれていて、
 何だか懐かしい気持ちになりました。古きよき、と云うと語弊がありますが、
 昔のSSを読んでいるような心地がして、最後まで楽しく読めました。
7.無評価くろさわ削除
>6様
 高評価ありがとうございます……!
 自分の中の東方史が中々進んでいないもので、今更なお話になってしまったかもしれません。
 それでも私の思う早苗さんを読み取って頂けた事、またそれに共感してくださった事に深く感謝致します。ありがとうございます。
8.100いぐす削除
「幻想郷では常識に囚われてはいけない」
その結論に至る前の早苗さんの心の動きが丁寧に描かれているのが印象的です。
神様二人から始まり、同じ山に住む椛、そして人里に降りて、最後は博麗神社。
少しずつ早苗の心の壁が取り払われ、世界が広がっていく様を感じました。

また、特に前半部分で感じたのですが、山や里の風景の描写も写実的で気付けば引き込まれていました。
幻想郷の光、風、空気(暑さや匂い)、音、お蕎麦のシーンでは味に至るまで…
常に五感を刺激されるような感覚で、まるで自分がそこに居るかのように感じる事が出来ました。
導入部分を気にされているようでしたが、この風景描写の部分で十分に引き込まれましたよ!

総じてとても素敵なお話でした。
せめてもの気持ちで最高評価とさせてください。
9.無評価くろさわ削除
>いぐす様
 わわわわわ、ご丁寧にありがとうございます……! 本当に励みになります……!
 早苗さんは自然や景色に敏感そうだなと思い、普段よりもう少し丁寧に表現してみました。「まどろっこしい!」と思われなくて良かったです。
 こんなお話がまた書けるかは正直分かりませんが、雰囲気は当面変わらないと思います。よろしければ次回も閲覧のほど、よろしくお願い致します。
14.無評価ルカ削除
使える→仕える
延びた→伸びた
だと思うのですが…
意図的にやったのであれば申し訳ありません。