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#01
クラウンピースが自室で本を読んでいると電話が鳴った。シェイクスピアの『ハムレット』で、ヨリックの〝しゃれこうべ〟が登場する場面だった。食い入るようにページを睨んでいるところに知らせが飛びこんできたのだ。
駆けつけたときには事は終わっていた。エンタシスの柱は巨人にデコピンされたみたいになぎ倒され、崩落した屋根が大理石の床に散乱していた。真っ二つになった玉座に主人の姿はなかった。松明を振りかざして、仲間と探し回ろうとしたとき、近くの瓦礫が吹き飛んだ。
「あらん、――クラウンピース?」
上半身を跳ね起こした主人が、服についた粉塵を払い落としながら云った。
「ごめんなさいね、騒がせちゃったかしら」
「滅相もありません」
「〝滅相もない〟か」ヘカーティア・ラピスラズリは愉快そうに笑った。「そんな言葉、よく知ってたわね」
「本のなかに出てきました」
「ちゃんと辞書で調べたの?」
「はい」
「そう、偉いわね」
彼女はクラウンピースの帽子を取って頭をなでた。それから腰に手を当てて、戦禍の去った瓦礫の山を眺め渡した。
「純狐の奴、やってくれたわねぇ」
「ご友人様が、これを?」
「ああ、あの子を責めないでやって。私が刺激したのが悪いんだから」
「刺激、ですか」
「最近のあの子、すっかり燃え尽き症候群みたいになってたじゃない。〝これは活を入れてやらなくちゃ〟と思ったんだけど、入れどころを間違えちゃった」
「それでケンカに」
「別に喧嘩じゃないわよん。これで純狐の気が紛れるなら、古くさい屋敷のひとつやふたつ、安いものよ」
ヘカーティアの笑顔は、服や肌の汚れもあって、まるで遊んで帰ってきた幼子のように見えた。安心した他の妖精たちも三々五々に散ってしまい、眼元に隈をたっぷり蓄えた下っ端の獄卒たちが修繕のために集まってきた。彼らは完膚なきまでに破壊された神殿を呆然と眺めていた。
「ゆっくりで好いわよ」女神が声をかける。「どうせこんなだだっ広い場所、私には似合わないもの」
「あたいもこじんまりとした家の方が好きです」
「気が合うわね、クラウンピース」
獄卒のひとりが横目で睨んできたので、クラウンピースは舌を出してやった。
#02
顕界よりも遥かに広いとされる地獄にも辺境はあって、ヘカーティアの〝別荘〟はそこに建っていた。新しくこしらえた偽の太陽が放つ光は弱く、常に強風が吹き荒れて地表は剥き出しの荒野になっている。クラウンピースは地平の彼方に吹き飛ばされないよう踏んばりながら、庭つき一戸建ての家屋の前に降り立った。
ベルを引いても反応がなかったので、云いつけ通りに屋内へお邪魔した。ヘカーティアはソファに腰かけ、電話で誰かと話をしていた。こちらを認めると笑みを浮かべ、手のひらを挙げてみせた。
「――いや、あの女は止めておいた方が好いわよ」主人は顔をしかめて通話に戻った。「どうせ最後には泣きを見る羽目になるに決まってるわ。風の強い日に階段の下で待ち合わせでもしてご覧なさい。あの女がとんだ淫売だってことがひと目で分かるはずなんだから。……え、お前が云うな? 上等じゃないの、このエロじじい! あんな牛乳配達でもするみたいにそこら辺の男に乳を吸わせまくってるような女といっしょにするんじゃないわよっ」
ヘカーティアはしばらく黙っていたが、やがて組んでいた足を正して受話器を両手で握った。
「……ちょっと、何も泣かなくたって好いじゃない。浮気性な癖してほんとメンタル弱いんだから。分かった分かった、私が悪かったってば。お願いだからそんな情けない声きかせないでちょうだい。今度うめ合わせするから。腹いせに洪水おこしたり化け物とか創っちゃダメよん。ええ、――それじゃ」
主人は受話器を置くと、ソファの背もたれに身を預けて大きく息を吐いた。
「女神ってのも意外と大変なのよ。分かるでしょ、クラウンピース?」
「はい、好く分かりました」
「遠路遥々、ご苦労様。何か欲しい飲み物はあるかしら」
「そんな、あたいがやりますよ」
「いいのよん。身体を動かした方が気が楽だもの。今日の貴方はお客様。好いわね、ヨリック?」
クラウンピースは呆けたように口を開けた。ヘカーティアはコーヒー・サイフォンをキッチンの戸棚から取り出して笑った。「最近はシェイクスピアを読んでいるのでしょう。私も好きなのよ。すっかり読書家になったわね」
「言葉の意味が分かったら、本も面白くなってきました。地上は思っていたよりもずっとスゴいです。月よりも自然が豊かで、生命が溢れていて、気持ちが跳ねまわるみたいです」
「顔つきも以前より知性が感じられるわよ」
クラウンピースは曖昧に笑った。主人の声音があまり褒めているようには聞こえなかったからだ。女神は淹れたてのコーヒーに砂糖とミルクをしこたま放流すると、椅子にちょこんと腰かけたクラウンピースの目の前に置いた。電灯に照らされた赤い髪が警告を思わせるような輝きを帯びた。
「……教養を身につけすぎて、愛嬌を失ってはダメよん。貴方は道化のかけら。私たちを楽しませてくれなくちゃ、傍に置いている意味がないもの。――クラウンピース、その身をもって私にこの世の儚さを教えるようなことにはならないでちょうだい。約束よ」
ヘカーティアはコーヒー・カップを目線の高さに持ち上げた。〝Alas, poor Yorick !〟と流暢な発音で呟き、熱々の中身をひと息に飲みほした。クラウンピースは答えられずに黙っていた。
窓に小石が当たった。二人は首をそちらに向けた。入道雲が地表まで降りてきたかのように見えたが、実際には怪物のように巨大なダストボウルが猛烈な速度でこちらに迫っているのだった。神話の再現とも思しき砂と埃の大洪水だ。ヘカーティアは椅子から立ち上がると使い捨てのマスクで口を覆った。
「やぁねえ、これだから太陽がないと大変なのよ。洗濯物とり込まなきゃ」
クラウンピースも手伝い、作業は速やかに完了した。ダストボウルに呑みこまれ、ガタガタと震える屋内でヘカーティアは悠然とコーヒーを飲み続けた。クラウンピースはそんな主人を伏し目がちにずっと見ていた。
#03
月のヘカーティアが仙界にたたずむ草庵を訪ねたとき、純狐は庵の隅でダンゴ虫のように丸くなっていた。腰のあたりから紫色の禍々しい妖気が尾を何本も伸ばして、床や天井を這いまわっている。
空気の震えが肌で感じられ、ヘカーティアの黄金色の髪が逆立った。首を振り、友人の肩に手を置いた。――純狐、戻ってきなさい純狐。また空間ごと創りなおす羽目になってしまうわよ。――そう声をかけようとしたが、振り向いた純狐が放った一撃でひと言も発することができないままに吹き飛ばされた。ヘカーティアの身体を構成していた血や肉片、骨に頭髪、眼球から脳しょうに至るまでの一切合財がペースト状に混ざり合い、庵の壁へ盛大にぶちまけられた。
「本当にごめんなさい、ヘカーティア」
「いいのよ。――いやよくないけど、私もいきなり触れてしまって悪かったわ。お相子ね」
「でも、私、貴方のお家まで消し飛ばしてしまって――」
「異界の神殿のこと? あいつのことだから、別荘に隠居できてむしろせいせいしてるわよ。気にしないで」
月のヘカーティアは、こんなこともあろうかと持参した着替えを身にまとい、友人の背中をさすっていた。シャツには〝I Love Olympus〟というお忍び用の文言が殴り書きされている。
もう一度、ごめんなさいと謝ってから、純狐はヘカーティアを上目遣いに見た。「ところで、どうして月の貴方がこんなところまで? 大変だったでしょう?」
「異界の奴から頼まれたのよ。〝自分が行くと余計にややこしいことになるから〟って。勝手な話よね、ほんと」
「地球の貴方は元気?」
「近ごろはますます死者が増えて、毎日てんてこ舞いだそうよ。そろそろ過労で死ぬんじゃないかしら」
「そう、心配ね……」
純狐が中空に手を差し伸ばすと、手首には小鳥が羽を休め、指先には蝶が誘われた。五月晴れで気温も過ごしやすく、土手に群生した菜の花は今を盛りと咲いている。そよ風で波立った小川が、陽光を反射して魚のうろこのように輝いている。こうした原風景のなかで暮らしていても、この子の心が安んじることはないのだな、とヘカーティアは頭の隅で思った。
純狐が呟いた。「……私ね、時どき恐ろしくなるのよ」
「あら、そうなの」
「毎日が楽しいわ。貴方と過ごした復讐の日々も、心がとろけるくらい素敵よ。でも、ふと気がつくと記憶が飛んでいるときがあるの。さっきだって一瞬、貴方が誰なのか分からなかったのよ。貴方のお家を壊してしまったときだって――」
「そりゃあ、誰だか分かったら友達をハンバーグのタネみたいにぐちゃみそにすることもないでしょうよ」
「茶化さないでちょうだいっ」
「茶化して済ませるだけマシだと思いなさいよ!」
二人は立ち上がり、胸ぐらをつかまんばかりに睨みあった。先に表情を崩したのはヘカーティアだった。
「――ま、そんな心配するほどのことじゃないわよ。これまでだって上手くやってきたじゃないの」
「そうだけど」
「でも、できれば爆散されるのは勘弁願いたいわ」
「……月の貴方は意地悪ね」
「他の二人が優しすぎるのよ」ヘカーティアは唇の端を曲げた。「音楽でも聴いて、リラックスしましょう」
ポシェットからウォークマンを取り出すと、片方のイヤフォンを自分の耳に、もう片方を友人に渡した。純狐は再び口を開きかけたが、ヘカーティアが片目をつむってみせると大人しくなった。向かい合って原っぱに横たわり、青空を眺めながら旋律を分け合った。純狐の唇が、ボブ・ディランの「風に吹かれて」のメロディをなぞった。曲が終わると彼女は照れくさそうに笑い声を上げた。それは風に乗ってヘカーティアの耳に届いた。
「好いものでしょう?」
「そうね」純狐は答えた。「なんど聴いても飽きないわ」
「答えは風のなかよ」
「……そうね」
やがて純狐は眠りに落ちた。ヘカーティアは耳からイヤフォンを外して半身を起こし、友人の頭をそっと持ち上げて自分の膝の上に乗せた。稲穂のように波打つ彼女の髪を四本の指で梳いた。鳥の翼の軌跡を眼で追いながら、ささやき声を風に溶かした。
「やっぱり、誰かを怨んでいるときの方が素敵よ、貴方は」
#04
霧雨魔理沙は自宅の玄関のドアを開けたがすぐに閉めた。それからもう一度ひらいて隙間から顔を覗かせ、じっと耳を澄ませた。箒の柄を握りなおし、八卦炉を胸の高さに掲げて忍び足で廊下を進んだ。階段を昇って寝室に辿りつくと、深呼吸をひとつ入れてから部屋のなかへ躍りこんだ。
「――動くな、泥棒!」
地球儀を頭に乗せた女はこちらを見て会釈した。それから掃除機のスイッチを切り、マスクを外して微笑んでみせた。窓を開いて新緑の空気を取りこむと、ベッドやカーテンにレノアハピネスの香りのファブリーズを吹きかけ始めた。
「おい!」
「ああ、ご挨拶を忘れていたわね」
「違ぇよ!」
「遊びにきたんだけど、入ってみたら部屋がボスニアの戦場みたいな有様なんだもの。久々に張り切っちゃったわ」
魔理沙は完膚なきまでに整理整頓された寝室を呆然と見渡した。「……鍵をかけといたはずなんだが」
「私には有って無いようなものよ」
青髪のヘカーティアは埃避けのエプロンを外しながらそう云った。その下から〝Hello, Mother Earth〟と書かれたシャツが深淵からの使者のように現れた。魔理沙は手で額をおさえて立ちくらみに耐えた。
「お前には分からんだろうが、私は散らかっていた方が好いんだ。これじゃ、どこに何があるのかさっぱりじゃないか」
「心配しないで。ちゃんとリストにまとめておいたから」
古風な羊皮紙を受け取りながら、女神の顔を改めて見つめた。「眼の下のそれ、隈か。それとも地獄で流行ってる化粧か?」
「やだ、消えてなかったかしら」ヘカーティアは両手で目元を隠した。「こっちの地獄は死者が多くてね。あまり眠ってないのよ。他の二人はちっとも手伝ってくれないし」
「お前がそんなに仕事熱心な奴だったとはな」
「あら、異界の奴といっしょにしないでよ。〝母なる地獄のヘカーティア〟って異名は伊達じゃないのよ」
「母なる地獄」魔理沙は繰り返した。「その母性をもっと別のことに使ってくれ」
「例えば?」
「他人の家に勝手に上がりこんで掃除するなんて真似はよしてくれって云ってるんだよ」
「料理も作っておいたわよ。あと洗濯物も溜まっていたようだから――」
「そういうことじゃねぇ」
「あったかいお味噌汁よ。炊きたてのご飯に卵焼き。それにスライス・ソーセージ。欲しくないの?」
「……いただくぜ」
「好かったわ」
デザートのアップル・パイを平らげ、食後のコーヒーを味わって魔理沙はひと息をついた。腹が満たされて気分も落ち着いた。向かいに座っているヘカーティアは母親のような微笑みを浮かべてこちらを見つめている。
「ごちそうさま。美味しかったぜ」
「おそまつさま。たくさん食べてくれて嬉しいわ」
「お前は誰に対しても世話焼きなのか」
「誰でもってわけじゃないわ。貴方をひと目見たときから〝放っておけない〟って気持ちになっていたのよ」女神は椅子を持って移動し、魔理沙の隣に座った。「あとは、……そうね、部下の妖精も好く面倒をみているわ」
「あのランパースだかニューヨーカーだかみたいな奴か」
「そう、クラウンピース。最近はあの子、あまりこっちに来てくれないけどね。ずっと本を読んでるみたい」
「あの妖精が?」
「そうよ。純化も解けて落ち着いたかと思ったら、急に向学心を見せ始めてね。月や地球での体験が刺激になったのかしら」貴方だって同じでしょう、と顔を近づけてくる。「広い世界に憧れて、住み家を飛び出して、必死に勉強して、今ではこんなに立派になった。妖精を馬鹿にするのは好くないわ。私から見れば、人間も妖精も可愛いすぎるくらいに無知な存在よ」
魔理沙は椅子から立ち上がった。
「ちょっと待てよ、いくら神様だからって私のことを知りすぎだろ」
「だって貴方は魔法使いじゃない。魔法に手を染めた以上、私の眼から逃れることはできないわよ。貴方は自分でも気づかないうちに、悪魔ならぬ女神に魂を売っていたの。それこそが人間の無知なる証左よ。自分が得た力の源を知ろうともしないなんて、ヘカーティア、寂しい」
魔理沙は後ずさろうとしたが、手首をつかまれてそれもできなくなった。
「怖がらなくて好いのよ。何も取って喰おうってわけじゃないんだから。……ああ、やっぱり貴方は素敵よ。私の思った通り、放っておくことなんてできないわ。どうして貴方は私をこんな気持ちにさせるのかしら。最初にクラウンピースと会ったときのことを思い出すわね」
八卦炉はテーブルに置きっぱなしだった。頭が真っ白で気の利いたスペルのひとつも出てこない。身体を引っ張られ、彼女の胸元に顔を埋める格好になった。うなじが逆立つのを感じた。女神は魔理沙の後ろ髪をなでながら子守唄のようなメロディを口ずさんだ。
魔理沙は呟きを落っことした。「私は、甘えるのは嫌いだ」
「甘えるのが下手なだけでしょう? もしくは、甘え方を忘れちゃったのかしら?」
「…………」
「いいえ、甘えているのは私の方かもしれないわね」彼女は云った。「ねぇ、……仕事で疲れてるのよ。お腹を横倒しにして水面に浮かんでる魚みたいに疲れてる。たまにで好いから、こうして世話をさせて。貴方にとっても、悪い話じゃないでしょう?」
女神の両手が背中に回され、力がこめられた。ヘカーティアの身体は地獄の熱を確かに宿していた。それは母なる地球が湛える温かみでもあった。心臓の鼓動もちゃんと感じられた。魔理沙は射的場に並んだ景品のぬいぐるみのように動けなくなってしまった。
「……しょうがないな、もう。条件付きなら来ても好いぜ」
「ええ、何かしら」
「私に魔法を教えてくれ」
「分かったわ」
「あと、勝手に部屋の掃除はしないでくれ」
「それは駄目」
#05
「あ、貴方は」
鈴仙・優曇華院・イナバの耳は早くもしおれていた。晩秋のヒマワリみたいだな、とクラウンピースは思った。隣を歩いていた純狐も「あら」と声を上げて立ち止まった。
「兎さん、ちょうど好かったわ。今からそちらに伺おうと思っていたのよ」
「そうなんですか」
「風の赴くままに歩いていたら、道に迷ってしまって」純狐は唇に指を当てて笑った。「お恥ずかしいことね」
鈴仙が視線をそらして胸に手をやるのが見えた。
「そ、それで、永遠亭に御用でしたら、ご案内しましょうか」
「いいのよ。貴方に逢いたくて来たんだもの」
鈴仙の耳はしおれた。
「私、これから仕事が――」
「終わってからでも好いわ」
鈴仙の耳はしおれた。
「そんな、お待ちいただくなんて失礼です」
「じゃあ付いていっちゃおうかしら。薬屋さんの外回りって興味があるわね」
鈴仙の耳はしおれた。
「クラウンピースちゃん、貴方もそう思うでしょ?」
「はい。地上のお薬ってどんなものか気になります」クラウンピースはどのような表情を浮かべれば好いのか分からなかった。「でも、ご迷惑じゃないでしょうか。ウサギさん、困っているように見えます」
「あら……」
純狐は眼を丸くした。それから突然、両手で鈴仙の肩をつかむと、顔をくっつけんばかりに近づけて穴が開くほど見つめ始めた。薬屋さんの営業スマイルも、ここに至って根元から倒壊した。二人の鼻が触れ合った。純狐はまばたきさえしなかった。
「ううん、私には困っているようには見えないわ」純狐は顔を離して云った。「気遣いができるなんて、お利口さんになったのね。ヘカーティアが云ってた通り」
「仕事は地上の人びとにとって大事なものなんだって、本で学びました。お邪魔するのは好くないと思います」
「そうねぇ」
鈴仙が純狐の背後で激しくうなずくのが見えた。純狐は微笑みを浮かべてクラウンピースの頭をなで、姿勢を低めて額に口づけし、さらに頬と頬を子猫のようにこすり合わせると、「分かったわ」と云った。
「クラウンピース御前様のおっしゃる通りね」
「それでは、私はこれで――」
「待つことにするわ。あとで合流しましょう」
鈴仙の耳はしおれた。
「私ね、頑張っているひとを見るのが好きなの」
里の往来を歩きながら純狐が云った。隣を鈴仙が歩き、後ろをクラウンピースが続く。右手に文庫本を、左手に出店で買ってもらったアメリカン・ドッグを持っている。今はローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』を読んでおり、頁をめくるたびに笑い声を上げた。
「ひたむきに頑張る姿って、素敵だと思わない? 今の自分をより高めようと悩んで、苦しんで、答えに辿りつこうとするその姿。〝無為自然の道に反する〟ですって? そんなことはないわ。何も無気力に流れへと身を任せることが道じゃないのよ。精いっぱい努力して、後のことは天命に任せるの。空の境地に至った聖人も、最初から悟ったような物云いをしていたわけじゃないでしょう? 誰もが最初は悩むのよ。それにね――」
機関銃のように話し続ける純狐に、鈴仙はうなずきを返すばかりだった。クラウンピースは、ヨリックの説教を読み上げるトリム伍長の異様に詳しい描写にくすくすと笑っていた。
「――だからね、鈴仙さん」
初めて名前で呼ばれて、兎の少女は慌てて顔を上げた。
「私が貴方のことを好きな理由が分かってもらえたかしら」
「え、ええ」
「貴方は近い将来、大きなことを成し遂げるわよ。今の自分を大切にしなさい。そうした純粋さは宝になるわ」
「私は、……純粋なんかじゃありません」
「いいえ、そんな風に謙虚になれるという姿勢そのものが、貴方が素直なことの証左なのよ。罪を背負っていることと、純粋さというのはそもそも無関係なの。私には分かっているわ。貴方は素敵よ」
純狐は鈴仙の頭をなでた。地上の兎はようやくはにかんだような笑みを見せた。
「あら、ヘカーティアじゃない」
純狐は手を離して近くの店に駆け寄った。店の軒先には赤髪と青髪、二人のへカーティアがいて、挟まれた魔理沙がげっそりとした顔でストローを口にくわえていた。
「ご主人様」
「あらん、純狐。それにクラウンピース。奇遇ねぇ」
「どうしたの、ヘカーティア。二人そろって」
「こいつに誘われたのよん」異界のヘカーティアが地球を指さす。「この子に魔法の手ほどきをするんだって。星に関する魔術なら、私の方が得意だから」
「そうなのよ」地球の女神が後を継いだ。「魔理沙ちゃんと契約したの。お世話をさせてもらう代わりに地獄の魔法を教えてあげるって」
魔理沙がコップのなかにストローを吐き出した。「早く教えてくれよ。お喋りばかりでちっとも先に進まないじゃないか。これじゃ魔法の〝ま〟の字も知らないままに日が暮れちまう」
「焦っちゃだめよん。夜は永いわ」
「徹夜確定かよ」
「それで、純狐たちはどうしたの」と青髪。
「クラウンピースちゃんを誘って、地上の兎と会っていたのよ」純狐が鈴仙の肩に両手を置く。「この子ったら可愛いのよ」
「あら、魔理沙ちゃんの方がもっと可愛いわよ。がんばり屋さんなの」
「そうねぇ、魔法使いさんも根は素直そうで、私の好みだわ」
鈴仙が口を挟む。「あの、……私、もう戻らないと」
「ああ、――そうだったわね」
純狐がため息をついた。腰から立ち昇りはじめていた毒々しい妖気も引っこんだ。「ごめんなさい。私ったら、また周りが見えなくなっていたみたいね」
「いえ……」
クラウンピースは本を閉じて主人におずおずと云った。「ご主人様、私たちもそろそろ地獄に帰りましょう」
「〝私たち〟?」異界のヘカーティアが首を傾げる。「丁寧な言葉づかいになったものね、クラウンピース?」
「この子も勉強して、おしとやかなレディになったのよ」
青髪のフォローを無視して、赤髪は片眉を上げた。「前に約束したことを忘れたのかしら、ランパース」
主人からその名で呼ばれたのは久々のことだった。クラウンピースの足が震えた。
「で、――ですが、ご主人様は長いこと地獄を空けていらっしゃいますし、神殿の修復も完了したと鬼神長様から伺っています」
「〝いらっしゃる〟」ヘカーティアは繰り返した。「〝伺っている〟」
「ご主人様――」
「私に逆らおうっての?」
ヘカーティアの頭上の球体がゆっくりと回転を始めた。禍々しい紅色の閃光が火花のように飛び散った。クラウンピースはそれ以上ひと言も発することができなくなってしまった。魔理沙は立ち上がり、鈴仙は後ずさった。純狐は軒下を飛んでいるモンシロチョウに眼を奪われていた。
「……なーんて、ね」
女神は球体の回転を止めて云った。その声は微かに震えていた。
「冗談よん、冗談。本気にしないで。――ほら、クラウンピース。こんなとき貴方は〝ご主人様ったら、また!〟って笑ってね、気の利いたジョークのひとつやふたつ、云ってくれたじゃないの。それが道化ってもんでしょう? ね?」
その場の誰もが無言だった。青髪のヘカーティアが緩やかに近づき、赤髪に手刀を見舞った。
「めっ!」
「やん!」
「――頭を冷やしなさい。お店のひとも困ってるじゃない。撤収しましょう撤収。出入禁止にされちゃうわよ」
「うう、分かったわよぅ」
代金に迷惑料を上乗せして払い、一同は往来に出た。魔理沙は「とんでもない目に遭った」という顔で箒に乗って飛び去っていった。鈴仙もお辞儀をしてから荷物を背負い直して立ち去った。後には鉛のように比重の大きな沈黙が残された。
異界のヘカーティアが呟く。「興が冷めたわ、帰りましょ」
「落ちこまないで、ヘカーティア」純狐が慰めるように云った。「私も悪かったわ」
「純狐、……最近の貴方、謝ってばかりね。らしくないわ」
「らしくないって、これが本当の私よ」
「うぅん、違うわ。復讐に燃えているときの貴方は、もっと綺麗で、そして輝いていた……」
「ヘカーティア」純狐が立ち止まった。「この前、貴方が私をけしかけた理由は、それなのね?」
「そうよ」
「じゃあ、云ってあげるわ。大きなお世話よ」
でも、ありがとうね、と純狐は付け加えた。ヘカーティアは黙っていた。クラウンピースはいつかのように〝気の利いた〟冗談を飛ばそうとしたが、唇は貼りついたように開かず、舌は乾いてしまっていた。
#06
異界、地球、月。――三界のヘカーティアが一堂に会するのは久しぶりのことだった。異界のヘカーティアはベリー・ジャムを、地球のヘカーティアはミント・エキスを、月のヘカーティアはハチミツとレモンを各々の紅茶に垂らし、別荘のリビングでくつろいでいる。紅茶をひと口味わってから、黄髪が「それで」と声を上げた。
「突然呼びつけたりしてどうしたのかしら。つまらない用事だったら帰るわよ。私も忙しいの」
「嘘をつきなさい、この暇人」青髪が疲労の跡が残る眼元をこすりながら反撃する。「月の地獄がガラガラのスポスポだってこと、私はちゃんと知ってるんだからね」
「あら、そんなことないわ。しょっちゅう玉兎が流れてくるもの。奴隷の身の上って哀しいものよね」
「寝言は寝て云いなさい。こちとら何千万もの人間を相手にしてるのよ。少しは手伝えってんのよ」
「愚痴なら聞いてあげるわ。でも押しつけるのはよして」
「こンの陰険女」
「なによ、このメランコリック野郎」
赤髪のヘカーティアが溜め息をついて、ソファの背もたれに頭を預けた。今にも殴り合いを始めようとしていた二人は座り直した。異界は姿勢を変えて背後を振り返った。そこには本棚があった。クラウンピースがこれまでに読んだ物語、その軌跡だった。
「ほら、あの小説、何だったかしら」赤髪は云った。「本の所持や読書が禁じられていて、片っ端から燃やされるディストピアSF――」
「『華氏451度』ね」青髪が即答する。「レイ・ブラッドベリよ」
黄髪が拍手する。「さすが、人間担当は博識ね」
「黙んなさいよ」
赤髪は無視して続けた。「最近ね、あの物語のことを思い出すのよ。〝平和がいちばんなんだ、モンターグ〟って。本当の愛情ってものを知らない時分から書物を読みふけってね、教養ばかり無駄に身につけちゃって、要らない悩み事や心配事を抱えこむ羽目になるくらいなら、何も知らない方がマシってこと。狂気に身を委ねる方がどれだけ心が安まることか。哲学だの社会学だの、構造主義だの実存主義だの――」紅茶を口にして、ひと呼吸を挟んだ。「寿命の短い人間ならそりゃ結構でしょうよ。でも、私は昔に失敗しているから分かるの。あれは妖精向きじゃないわ。妖精という器に知性なんて大きすぎるのよ」
語り終えると、残りの紅茶を飲みほしてうな垂れた。月のヘカーティアが表情を変えずに答えた。「人間も、妖精も、仙霊も、神や仏だって時が過ぎれば変わるわ。皆、いつまでも貴方の〝楽しい〟や〝面白い〟に付き合ってくれるほどお人好しじゃないのよ」
異界は顔を上げなかった。「純狐も、クラウンピースも、どうして夢から覚めようとするのかしら。狂化の妖精が正気を身につけてどうすんのよ。純狐も積年の怨みはどうしたの。あんなにあっさり引き下がるなんて」
「あの二人の眼を覚ましてやったのは、貴方よ。地獄の底で、狂気の海に溺れていた二人に、名前と、目的と、力の使い方を教えて、自分という存在を取り戻させてあげたのは、貴方自身なのよ」
「…………」
「狂気とは、炎のようなもの。取扱いを間違えれば我が身を燃やすわ。でも、あの二人は私たちが思っていたよりもずっと賢かった。クラウンピースは道化ではないし、純狐は私たちの遊び道具じゃない。どんな生き物にも巣立ちのときは訪れるわ。貴方のおかげで生まれ変わったあの二人は、貴方に頼らずとも生きてゆこうって、今も懸命に抗っているのよ」
「……つまり、今が〝反抗期〟ってこと?」
「推測だけどね」
「馬鹿馬鹿しい」
青髪が黄髪に寄りかかった。「意外とロマンチストだったのね、貴方」
月のヘカーティアは微笑んだ。
「月はいつだってロマンスの象徴よ」
#07
クラウンピースは静かの海の波打ち際で立ち止まった。重力は地球の六分の一。背中の羽が宇宙を求めてうずいている。純化の奇跡も今はいずこ、再び無生命の空間に戻りつつある表の月は、妖精の身でも少し息苦しい。辺りを探せば、あの星条旗が見つかるだろうか。今ではクラウンピースも、その旗が何を意味し、どのようにして自分と巡り逢うことになったのか、その歴史的背景を知っている。
星屑の散らばる砂浜でうずくまっていると、足音が聴こえた。ほぼ真空に近しいこの空間でも、彼女の音は変わらず凛として響いた。月のヘカーティアは無言でクラウンピースの隣にしゃがみ込み、砂の城づくりを手伝ってくれた。二人が作成した城は、淡い優しい色をした星の光で、きらきらと輝いた。
月のヘカーティアが立ち上がった。「今日は、本を読まないのね」
「何だか、気力が湧いてこなくって」クラウンピースは答えた。「急に分からなくなったんです。……最初は、ご主人様のお役に立ちたい、そのためには勉強もしないといけないって思ってたんです。それから、地球の自然があまりに美しくて、もっとあの星のことを知りたいと思って、それも動機のひとつになりました」
「今はちがうの?」
「あるときから、本を読めば読むほど異界のご主人様は変な顔をするようになりました。地球は楽しいことがたくさんあるけれど、同じくらい哀しいこともたくさんある場所なんだってことも、学びました」
「そう、そこまで分かれば上出来ね」
クラウンピースは首を振った。「ここは、静かです」
「ええ、他に比べれば」
「それに、今の私の原点でもあります」
ヘカーティアは月の球体を愛おしげになでた。「原点回帰ってことね」
「私、いけないことをしてしまったんでしょうか」
「そんなことないわ。貴方は好くやっているわよ。ただ、あまりにも一途な心は、時どき周りを混乱させてしまうことだってあるの。それを学んだ方が好いわね。何かの物語でもあったでしょう? ――愛情を伴わない教養は、貴方と、貴方が愛する人たちとの関係に楔を打ちこむって」
クラウンピースはうなずいた。ワンピースの袖で目尻を拭った。
「いつでも戻ってきなさい」月の女神は云う。「貴方ひとり分くらいの空間は、こっそり留めておいてあげるから」
月人には内緒よ、と彼女は悪戯っぽく笑った。
しばらくの月日が流れた。クラウンピースは読書を中断して、神殿に戻った異界のヘカーティアに侍り、明るく振る舞おうと努めた。時おり純狐もやってきて、三人でおしゃべりに興じることもあった。今度はヘカーティアも、純狐を挑発するようなことはしなかった。万事、元通りの日々だった。変わった事と云えば、クラウンピースがコーヒーに砂糖もミルクも入れなくなったことくらいだ。
ある日、クラウンピースは地球の地獄に出向することになった。地球のヘカーティアからの要請で、とうとう体調を崩してしまったので、一日で好いから代理を務めて欲しいとのことだった。異界のヘカーティアは渋々ながら同意した。
「いいわね、クラウンピース?」彼女は云い聞かせた。「あいつみたいに全ての案件をクソ真面目に片づけようとしたら駄目よん。適度に力を抜いて、楽しくやれば好いのよ。分かったわね?」
「はぁい、行ってきます」
異界のヘカーティアも、サボっている間に仕事が山積していたのだ。空間転移したクラウンピースの前に現れたのは、大量の罪人に責め苦を与えるための、テーマパークかと見まごう巨大な処刑施設だった。案内役の牛頭(ごず)と馬頭(めず)が恭しく膝を折り、この度はヘカテー様の代理としてご足労くださり誠に云々と口上を述べた。
神殿から、赤銅色の岩肌を削っただけの階段を降り、いつもは青髪のヘカーティアが座している監視席に着く。そこからは責め苦の有り様が一望できた。針の山、焼けた鉄板、車輪砕き。この施設で、悲鳴や絶叫が聴こえない場所など存在しない。罪人は殺されては復活し、復活しては殺される。抜け殻は獄卒に喰われるか、地獄の釜に燃料として投げこまれ、灼熱の大地を保全するための礎(いしずえ)となる。
クラウンピースは、好く研いだ鉈で肉を少しずつ削り取られてゆく罪人や、串刺しになってじっくりと炙り焼きにされている人びとを眺めていた。黒い服を着た事務方の妖精たちが、獄卒たちの要望を受けて忙しげに飛び回っている。
やがて、新たな罪人の一団が横合いの通路より運ばれてきた。鎖で数珠のように繋がれ、鞭で叩かれても声ひとつ上げない。
「罪状に応じて、受ける刑罰はあらかじめ決まっております」
と、牛頭が罪人を数えながら云った。
「クラウンピース様は、ただ執行書を読み上げてくださるだけで結構です。ご面倒ではありますが、この手続きが重要でございますゆえ、なにとぞ……」
馬頭が後を継いで書類を差し出してきた。クラウンピースは両手で受け取った。いちばん前にいた罪人が引き立てられた。まだ十を過ぎたばかりの子どもだった。布切れ一枚も身にまとっておらず、痩せこけた顔には何の表情も浮かんでいない。
「賽の河原も満員でしてな」牛頭が恥ずかしそうに頭をかく。「最近はこうした燃費の悪い罪人も送られてくるのです。肉が付いていなければ幼子でも美味かろうはずがなく、大した燃料にもならない。困ったことです」
馬頭も頭を下げた。「まったく申し訳ない」
クラウンピースの手から紙が滑り落ちた。「あんたら、――みんな、狂ってる」
「はて」牛頭が顔を上げた。「なんと申されましたか」
クラウンピースは答えずに立ち上がり、松明を手にすると、羽を広げて虐殺の沼に飛びこんだ。手近にいた獄吏を力任せにぶん殴ると、松明を掲げて妖精たちに合図を送った。
「貴方たち、力を貸して! ――貸せってんだよ、この!」
妖精たちは突然の事態に右往左往するばかりだった。クラウンピースは頭上を見上げた。地獄の妖精たちを導くはずの、松明の火は完全に消えていた。殴られた獄吏が後ろからクラウンピースを羽交い絞めにする。
「放せ! 触るな! あっちいけ!」
鳩尾を思いきり蹴飛ばして脱出した。咳きこみながら顔を上げると、すでに周囲は獄卒や妖精たちによって完全に取り囲まれてしまっていた。彼らの顔に敵意はない。豹変した代理人に対する困惑だけがあった。中には気遣わしげな表情を浮かべている鬼もいた。クラウンピースは鳥肌だった。腰の力が抜けた。地面に尻餅をついて、両手で耳を塞いだ。眼には涙があふれ、硫黄の臭いと嗚咽で喉が塞がった。
足先に何かが当たった。それは頭蓋骨だった。強引に引き裂かれ、皮や頭髪、肉の残骸がこびりついていたが、それが立派な〝しゃれこうべ〟であることに変わりはなかった。クラウンピースは飛びつくように両腕で頭蓋骨を抱きしめると、おいおいと大声で泣きはじめた。周囲の獄卒や妖精たちは困惑を深め、お互いに顔を見合わせるばかりだった。
クラウンピースは泣き続けた……。
#08
目覚めたとき、二人の主人とその友人の顔が視界に映りこんだ。地球のヘカーティアは泣きはらした眼を瞬(しばたた)かせ、起き上がったクラウンピースを力いっぱい抱きしめた。それから何度も「ごめんなさい」と謝った。そこは異界の神殿の一室だった。敷かれた絨毯の模様や、壁に付いた染みが何故だか視界に焼きついた。
「もう好いわよ。落ち着きなさいったら」異界の主人が地球の主人の肩を抱く。「なにも大怪我をしたわけじゃないのよ」
「でも、でも、私のせいで――」
「しばらく安静にしていれば大丈夫よ。気分はどう、クラウンピース。お水、飲めるかしら?」
クラウンピースはすぐに首を縦に振った。まだ、上手く声が出せなかったのだ。
「ほら、云った通りでしょ?」コップを手渡しながら主人が云う。「貴方はひと先ず、地球に戻りなさいな。お互い、今は忙しい身よ」
「うう、そうね。……ごめんなさい、クラウンピース。今度、ちゃんと謝りにいくからね」
地球のヘカーティアは何度も振り返りながら退室した。赤髪は椅子に座り直した。クラウンピースは、主人と眼を合わせることができなかった。壁掛け時計が時を刻み続けた。秒針が何度も短針を追い越した。やがてヘカーティアが呟いた。
「……私が、悪いのよね」
クラウンピースは声を絞り出した。「ち、違います、ご主人様、私が――」
「あれからずっと考えていたのよ。貴方はもう私の道化じゃない。地獄の妖精ですらないのかもしれない。でも、それならそれで、新しい貴方と新しい関係を築いてゆけば好いだけじゃないかって、そんな単純なことに今やっと気がついたのよ」女神は深呼吸を入れて続けた。「ごめんなさい、クラウンピース。今まで辛い想いをさせちゃったわね」
クラウンピースは言葉の代わりに何度もうなずきを返した。熱い塊で喉が塞がっていた。
「――さて、湿っぽい話はここまで。私も退屈な仕事に戻るとするわ。しっかり身体を休めておきなさい」
純狐、この子をお願いね、と云い残して、主人もまた去っていった。部屋にはクラウンピースと純狐だけが残された。ご友人様はクラウンピースの顔を無言で見つめ続けていた。まばたきもせず、なにも語らずに。そうした彼女の様子に強烈な既視感を覚えたが、それが何であったのか思い出せなかった。
「……ねぇ、クラウンピースちゃん」
唐突に純狐が云った。声の調子は平板で、何の感情もこもっていないように聞こえた。
「はい、なんでしょう」
「今もまだ、苦しいの?」
「苦しい? ううん、ちょっと頭が痛いです。それくらいですね」
「私は苦しいわ。あんなに落ちこんでいるヘカーティアの様子を見ていると」
「ええ……」
「それに、貴方がしょんぼりしているところを見ると、胸が塞いでたまらなくなるわ」
「平気ですよ。今は少し、疲れているだけですから」
「でも、休んだからといって、以前のクラウンピースちゃんに戻れるわけではないでしょう?」
「ごめんなさい。仰っている意味がよく……」
「私もやっぱりそうなのよ もう昔のようには戻れないわ 今では自分が誰を怨んでいたのかさえ忘れかけている いつかは貴方やヘカーティアにまで矛先を向けてしまいそうで そのことばかり心配しているの 自分でも抑えようと思うのだけど 抑えることが逆に危険なのかもしれないってヘカーティアに教えられたわ」純狐はそこまでを息継ぎせずに云った。「でも、貴方はまだ間に合うの。それが私には分かるの。――知っているかしら? 純粋さに罪は無関係だけど、狂気と純粋の間は紙一重なんだって」
クラウンピースには、純狐の云っている意味が半分も理解できなかったが、心臓はすでに早鐘を打ち始めていた。
「あの、ご友人様――」
「まだ物に名前がつけられる以前の時代、すべての存在には神様が宿っていたわ」純狐は無視して続けた。「そうした原初の存在の位置を心臓だとすると、私たちがいるのは限りなく血管が枝分かれした先、つまり、指の先端あたりということになるわね。私はその血管を遡って、心臓まで何度も冒険に出かけたわ。そこでいろんな存在に出逢ったの。そこでは何もかもがひとつの流れに身を任せていたわ。とても大きな、光りかがやく河を神様たちは下っていった。私は今も、そのかがやきに魅せられているのよ」
純狐の話はそこまでだった。彼女は右手を伸ばし、クラウンピースの額に優しく触れた。その動作で、クラウンピースはこれから何が起こるのかをようやく思い出したが、気づいたときには全てが手遅れだった。純狐の指が金色の髪を蟲のように這った。クラウンピースは眼を閉じて、彼女の営為を受け容れた。微笑みながら、恍惚とした昂ぶりに胸を打たれながら。
#09
山積した仕事も一段落し、ヘカーティア・ラピスラズリは神殿の玉座にふかく身を沈めた。それでも体重を支えられず、肘かけの片側にもたれかかるような恰好になった。睡魔に誘われて眼を閉じ、しばらくの間まどろんでいた。ヘカーティアが眼を覚ましたのは遠くから聴こえてくる物音のせいだった。目薬を差して大きく伸びをし、欠伸を漏らして耳を澄ませた。
それはどんどんこちらに近づいていた。
甲高い笑い声だった。
「きゃははははっ、気ぃィン持ちいぃぃィィィ! ――どうしたのみんな、もっともっとスピードあげていこうよっ!」
妖精の一団が玉座の間に飛びこんできた。先頭の少女が掲げる松明の煌々とした光に誘われて、右に、左にと動き続ける。誰もが盲滅法に弾幕を撃ちまくり、そのうちの数発がヘカーティアの傍で破裂して赤い髪をなびかせた。巻き添えを喰らった当直の獄卒たちが頭を抱えて逃げまどった。
先頭の少女がこちらに気づき、抱きつかんばかりの勢いで眼の前にひざまずいた。髪や衣装に罪人のものとおぼしき血や肉片がこびりついている。
「ご主人様、お仕事は終わったのですかっ?」
ヘカーティアは無言で首肯した。
「ああ、好かった。あたいたちはこれから外に行ってきます! ご主人様も、たまには身体を動かして思いっきり発散しましょうよ。〝病は気から〟って昔から云うじゃないですか! ――あっ、ごめんねみんな、すぐに行くからっ!」
彼女は立ち上がってから再度お辞儀し、猛スピードで妖精たちを引き連れて神殿を出て行った。石ころのように丸まって身を守っていた獄卒たちが、そろそろと起き上がった。脇の通路から純狐が悠然とした足取りで現れて、獄吏たちの間を縫うようにして歩いてきた。
「クラウンピースちゃん、元気になって好かったわ」
「純狐」ヘカーティアは無表情に云った。「あの子に、何をしたの。――いいや、ちがう、どうしてこんなことをしたの?」
「〝どうして〟って云われても、ね?」友人は穏やかな笑みを浮かべながら首を傾げた。「そうしたいから、そうしただけよ」
ヘカーティアの唇から、渇いた笑い声が漏れた。「まったく。これだから、私は貴方が好きなのよ」と云った。それからティー・セットや菓子の大皿が乗っている傍のテーブルを思いきり蹴飛ばした。
#10 Epilogue
ヘカーティア・ラピスラズリが自室で本を読んでいると電話が鳴った。本を伏せてソファから立ち上がり、徹夜明けで傷んでいる眼をこすりながら受話器を手に取った。月のヘカーティアからだった。しばらく世間話をしたあと、彼女は幾分か声を低めて云った。
『貴方、ねえちょっと、聴いているの?』
「何よう、朝っぱらからうるさいわね」
『元気かって訊いてるのよ』
「絶・好・調」
『嘘をつきなさい』
「私にどうしろってんのよ」
『そんなの私にだって分からないわよ。ただ、調子が狂っちゃうの』
「だったら電話なんか掛けてくるんじゃないわよ」
『分からないの? 〝元気を出して〟って云ってるのよ』
ヘカーティアは受話器を持ちかえた。「……貴方から、そんな台詞を聴ける日が来るなんて夢にも思わなかったわ」
『失礼ね』
「それで?」
『ちゃんと歯は磨いてる? お菓子ばかり食べてるんじゃないでしょうね? 睡眠時間はちゃんと取ること。あと飲酒は――』
ヘカーティアは受話器を置いた。それから『ハムレット』の続きを読み始めた。ヨリックの〝しゃれこうべ〟の場面に差しかかった。――〝Alas, poor Yorick !〟――頁を手繰る動きを止めて、ヘカーティアは何度目かのため息をついた。
「……結局、私の予言した通りになっちゃったわね」
読書を中断して、カベルネ・ソーヴィニヨンの赤ワインを手元に引き寄せ、ボトルの栓を開けた。すでに四本目だった。それでも酔いはいっこうに回ってこなかった。チョコチップ・クッキーの箱をこじ開け、中身を平らげようとしたところで玄関のベルが鳴った。来客は純狐だった。二人は敷居を挟んでしばらく見つめ合った。
純狐は袍服の袖で鼻と口を隠した。「……ヘカーティア、貴方、お酒臭いわ」
「何しに来たのよ」
「遊びに。誘ったのは貴方よ?」
「そうだったかな……」
ヘカーティアは思考を巡らせた。途端に立ちくらみがしてドアに寄りかかった。純狐が肩を貸してくれた。
「どうしたのよ、ヘカーティア。落ちこんでいるの?」
「……誰のせいだと思ってんのよ、誰の」
「私のせいなの? そうなのね?」
「貴方まで何も覚えてないってわけ? ――ちょっと、それはないんじゃないかしら?」
ヘカーティアは今にも純狐の胸ぐらをつかみそうになった。友人はこちらの剣幕に後ずさった。彼女は本気で戸惑っているようだった。瞳が潤みはじめ、か細い声を繰り返し漏らしはじめた。それは謝罪だった。
「……んもう、怒るに怒れないじゃないの」ヘカーティアは純狐の頭をかき寄せた。「すべて元通りよ。何も気にしちゃいないわよ」
やがて純狐は落ち着いた。それでも身体を離そうとはしなかったので好きにさせた。彼女の頬がヘカーティアの頬に触れた。子猫のような仕草だった。手が腰に回されたとき、再び電話が鳴った。断りを入れて彼女の腕を抜け出し、受話器を手に取った。
「はい、異界のラピスラズリ」
『もしもし、――ご主人様ですか?』
ヘカーティアは受話器を耳に押しつけた。「……どうしたの、クラウンピース。貴方、電話の使い方も忘れたんじゃ」
『適当に押したんです。そしたら通じました』
「今、どこにいるのよ」
『地球です。電話を借りてるんです。新しい妖精の友だちができて――』
「ずっと外に飛び出したまま、どこで何をしていたの」
電話の向こうでひと通りの沈黙が流れた。『あたいにも分かりません。気がついたらここにいました。ご主人様に何か云わなきゃと思って、それで電話を借りたんでした』
「なんなの、はっきり云いなさい」
『ごめんなさい』
ヘカーティアは受話器を両手で握った。「なんですって?」
『ごめんなさい。あたい、ご主人様に何でも好いから謝らなきゃいけないと思ったんです。気づいたとき、真っ先にやらなくちゃいけないことはそれだと思ったんです』
「そこで待っていなさい。今すぐ迎えに行くわ」
『まだ云いたいことが』
「何よ、今じゃないといけないの?」
鼻をすする音がノイズ混じりに聴こえた。『ご主人様、――あたいを嫌いにならないでください』
「そっ」ヘカーティアは声の調子を抑えた。「……そんなわけないじゃない。何を云い出すのよ」
『今回だけじゃないんです。普段からいっぱい、いっぱい迷惑をかけているんだと思います。でも、ご主人様はいつも笑って許してくれて、あたいはずっと甘えていました。これからは、もっともっと手間のかからない妖精になります。だから、あたいを嫌いにならないでください。お願いします』
ヘカーティアは受話器から片手を離して口を覆った。それから首を左右に振って大きく咳払いした。
「このおバカ。――だったら、そこから独りで戻ってらっしゃい。その間に、砂糖とミルクをしこたま入れたコーヒーと、貴方の好きなレモン・クッキーを用意しておいてあげるから」
『はいっ』
「いつでも、好きなときに帰ってくれば好いのよ。貴方の居場所はここにちゃんと在るんだから」
通話を切ったあとも、ヘカーティアの指は受話器に添えられていた。微かな吐息が唇から漏れて、その行方を確かめようとするかのように視線がさまよった。純狐が背中をさすってくれなければ、あるいはずっと受話器を放せなかったかもしれない。
「純狐、ねぇ」ヘカーティアは友人の身体に体重を預けた。「やっぱり、女神って大変だわ」
「お疲れさま、ヘカーティア」
「身体が三つあるからって苦労も三分割するわけにはいかないのよ」
「分かっているわ」
純狐が両腕を回して後ろから抱きしめてくれた。ヘカーティアは緩やかな眠気に誘われた。今になって酔いが急激に回ってきた。巨大なダストボウルに呑みこまれてゆくように意識に靄が懸かった。首が後ろに傾いた。純狐の顔がすぐ横にあった。彼女はヘカーティアを抱きしめる力を強めた。
「綺麗よ、ヘカーティア」
「……酒に溺れた女神のどこが」
「その方が貴方は美しいのよ。落ちこんでいるよりもずっと。――貴方、とっても穏やかな顔をしているわよ」
彼女は親しみをこめてこちらを見つめていた。それは誰かを怨んでいるときの、あの研ぎ澄まされた目つきではなかったが、それでもヘカーティアは彼女のことを美しいと思った。部屋の照明に洗われた友人の表情。消えそうで消えない暖かみ。不意にヘカーティアは嗚咽にも似たしゃっくりを漏らした。声が詰まらないよう慎重に、彼女へ言葉を贈った。
「私には、友だちがいるわ」
「ええ」
「無垢で親切な友だち」
「照れるわよ」
「ありがとう」
「こちらこそ」
「眠ってしまっても好いかしら」
「もちろんよ。コーヒーは、私が淹れておくわ」
「レモン・クッキーも」
「ええ。失敗したらごめんなさいね」
「ついでがあったら……」
「何かしら」
「クラウンピースのために、花束を見繕ってちょうだい。あの子の前途を祝福して」
「ヘカーティア、ここは地獄よ」
「いいえ、あるわ。探そうと思えば、花束はどこにでもあるの。私のなかにも、純狐のなかにも、あの子のなかにも」
そこにあるのよ。
ヘカーティア・ラピスラズリは眠りに落ちた。
それはいつだってここにあるの。
(引用元)
Jerome David Salinger:Franny and Zooey, Little, Brown and Company, 1961.
村上春樹 訳(邦題『フラニーとズーイ』),新潮文庫,2014年。
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Flowers for Clownpiece
「……少なくとも僕にはいつだって、ヨリックの頭蓋骨に夢中になるくらいの暇はある。僕が死んだときには、立派な頭蓋骨を持ちたいものだ。僕はヨリックくんみたいな麗しい頭蓋骨を渇望している。そして君だって僕と同じ気持ちのはずだ、フラニー・グラス。きっとそうだ。そうに決まっている。……ああ、まったく、なんでこんな話をしているんだろう? 君は僕と寸分変らないろくでもないフリークっぽい教育を受けている。もし君が今でもまだ、自分が死んだときにどんな頭蓋骨を持ちたいかわかってないとしたら、そしてそれを手に入れるためにどんなことをしなくてはならないかわかってないとしたら――つまり俳優である限り君は演技することを要求されているんだという事実すら、君がいまだにわかっていないのだとしたら、こんなことを話しまくって、いったい何の意味があるっていうんだ?」
――J.D.サリンジャー『フラニーとズーイ』より。
#01
クラウンピースが自室で本を読んでいると電話が鳴った。シェイクスピアの『ハムレット』で、ヨリックの〝しゃれこうべ〟が登場する場面だった。食い入るようにページを睨んでいるところに知らせが飛びこんできたのだ。
駆けつけたときには事は終わっていた。エンタシスの柱は巨人にデコピンされたみたいになぎ倒され、崩落した屋根が大理石の床に散乱していた。真っ二つになった玉座に主人の姿はなかった。松明を振りかざして、仲間と探し回ろうとしたとき、近くの瓦礫が吹き飛んだ。
「あらん、――クラウンピース?」
上半身を跳ね起こした主人が、服についた粉塵を払い落としながら云った。
「ごめんなさいね、騒がせちゃったかしら」
「滅相もありません」
「〝滅相もない〟か」ヘカーティア・ラピスラズリは愉快そうに笑った。「そんな言葉、よく知ってたわね」
「本のなかに出てきました」
「ちゃんと辞書で調べたの?」
「はい」
「そう、偉いわね」
彼女はクラウンピースの帽子を取って頭をなでた。それから腰に手を当てて、戦禍の去った瓦礫の山を眺め渡した。
「純狐の奴、やってくれたわねぇ」
「ご友人様が、これを?」
「ああ、あの子を責めないでやって。私が刺激したのが悪いんだから」
「刺激、ですか」
「最近のあの子、すっかり燃え尽き症候群みたいになってたじゃない。〝これは活を入れてやらなくちゃ〟と思ったんだけど、入れどころを間違えちゃった」
「それでケンカに」
「別に喧嘩じゃないわよん。これで純狐の気が紛れるなら、古くさい屋敷のひとつやふたつ、安いものよ」
ヘカーティアの笑顔は、服や肌の汚れもあって、まるで遊んで帰ってきた幼子のように見えた。安心した他の妖精たちも三々五々に散ってしまい、眼元に隈をたっぷり蓄えた下っ端の獄卒たちが修繕のために集まってきた。彼らは完膚なきまでに破壊された神殿を呆然と眺めていた。
「ゆっくりで好いわよ」女神が声をかける。「どうせこんなだだっ広い場所、私には似合わないもの」
「あたいもこじんまりとした家の方が好きです」
「気が合うわね、クラウンピース」
獄卒のひとりが横目で睨んできたので、クラウンピースは舌を出してやった。
#02
顕界よりも遥かに広いとされる地獄にも辺境はあって、ヘカーティアの〝別荘〟はそこに建っていた。新しくこしらえた偽の太陽が放つ光は弱く、常に強風が吹き荒れて地表は剥き出しの荒野になっている。クラウンピースは地平の彼方に吹き飛ばされないよう踏んばりながら、庭つき一戸建ての家屋の前に降り立った。
ベルを引いても反応がなかったので、云いつけ通りに屋内へお邪魔した。ヘカーティアはソファに腰かけ、電話で誰かと話をしていた。こちらを認めると笑みを浮かべ、手のひらを挙げてみせた。
「――いや、あの女は止めておいた方が好いわよ」主人は顔をしかめて通話に戻った。「どうせ最後には泣きを見る羽目になるに決まってるわ。風の強い日に階段の下で待ち合わせでもしてご覧なさい。あの女がとんだ淫売だってことがひと目で分かるはずなんだから。……え、お前が云うな? 上等じゃないの、このエロじじい! あんな牛乳配達でもするみたいにそこら辺の男に乳を吸わせまくってるような女といっしょにするんじゃないわよっ」
ヘカーティアはしばらく黙っていたが、やがて組んでいた足を正して受話器を両手で握った。
「……ちょっと、何も泣かなくたって好いじゃない。浮気性な癖してほんとメンタル弱いんだから。分かった分かった、私が悪かったってば。お願いだからそんな情けない声きかせないでちょうだい。今度うめ合わせするから。腹いせに洪水おこしたり化け物とか創っちゃダメよん。ええ、――それじゃ」
主人は受話器を置くと、ソファの背もたれに身を預けて大きく息を吐いた。
「女神ってのも意外と大変なのよ。分かるでしょ、クラウンピース?」
「はい、好く分かりました」
「遠路遥々、ご苦労様。何か欲しい飲み物はあるかしら」
「そんな、あたいがやりますよ」
「いいのよん。身体を動かした方が気が楽だもの。今日の貴方はお客様。好いわね、ヨリック?」
クラウンピースは呆けたように口を開けた。ヘカーティアはコーヒー・サイフォンをキッチンの戸棚から取り出して笑った。「最近はシェイクスピアを読んでいるのでしょう。私も好きなのよ。すっかり読書家になったわね」
「言葉の意味が分かったら、本も面白くなってきました。地上は思っていたよりもずっとスゴいです。月よりも自然が豊かで、生命が溢れていて、気持ちが跳ねまわるみたいです」
「顔つきも以前より知性が感じられるわよ」
クラウンピースは曖昧に笑った。主人の声音があまり褒めているようには聞こえなかったからだ。女神は淹れたてのコーヒーに砂糖とミルクをしこたま放流すると、椅子にちょこんと腰かけたクラウンピースの目の前に置いた。電灯に照らされた赤い髪が警告を思わせるような輝きを帯びた。
「……教養を身につけすぎて、愛嬌を失ってはダメよん。貴方は道化のかけら。私たちを楽しませてくれなくちゃ、傍に置いている意味がないもの。――クラウンピース、その身をもって私にこの世の儚さを教えるようなことにはならないでちょうだい。約束よ」
ヘカーティアはコーヒー・カップを目線の高さに持ち上げた。〝Alas, poor Yorick !〟と流暢な発音で呟き、熱々の中身をひと息に飲みほした。クラウンピースは答えられずに黙っていた。
窓に小石が当たった。二人は首をそちらに向けた。入道雲が地表まで降りてきたかのように見えたが、実際には怪物のように巨大なダストボウルが猛烈な速度でこちらに迫っているのだった。神話の再現とも思しき砂と埃の大洪水だ。ヘカーティアは椅子から立ち上がると使い捨てのマスクで口を覆った。
「やぁねえ、これだから太陽がないと大変なのよ。洗濯物とり込まなきゃ」
クラウンピースも手伝い、作業は速やかに完了した。ダストボウルに呑みこまれ、ガタガタと震える屋内でヘカーティアは悠然とコーヒーを飲み続けた。クラウンピースはそんな主人を伏し目がちにずっと見ていた。
#03
月のヘカーティアが仙界にたたずむ草庵を訪ねたとき、純狐は庵の隅でダンゴ虫のように丸くなっていた。腰のあたりから紫色の禍々しい妖気が尾を何本も伸ばして、床や天井を這いまわっている。
空気の震えが肌で感じられ、ヘカーティアの黄金色の髪が逆立った。首を振り、友人の肩に手を置いた。――純狐、戻ってきなさい純狐。また空間ごと創りなおす羽目になってしまうわよ。――そう声をかけようとしたが、振り向いた純狐が放った一撃でひと言も発することができないままに吹き飛ばされた。ヘカーティアの身体を構成していた血や肉片、骨に頭髪、眼球から脳しょうに至るまでの一切合財がペースト状に混ざり合い、庵の壁へ盛大にぶちまけられた。
「本当にごめんなさい、ヘカーティア」
「いいのよ。――いやよくないけど、私もいきなり触れてしまって悪かったわ。お相子ね」
「でも、私、貴方のお家まで消し飛ばしてしまって――」
「異界の神殿のこと? あいつのことだから、別荘に隠居できてむしろせいせいしてるわよ。気にしないで」
月のヘカーティアは、こんなこともあろうかと持参した着替えを身にまとい、友人の背中をさすっていた。シャツには〝I Love Olympus〟というお忍び用の文言が殴り書きされている。
もう一度、ごめんなさいと謝ってから、純狐はヘカーティアを上目遣いに見た。「ところで、どうして月の貴方がこんなところまで? 大変だったでしょう?」
「異界の奴から頼まれたのよ。〝自分が行くと余計にややこしいことになるから〟って。勝手な話よね、ほんと」
「地球の貴方は元気?」
「近ごろはますます死者が増えて、毎日てんてこ舞いだそうよ。そろそろ過労で死ぬんじゃないかしら」
「そう、心配ね……」
純狐が中空に手を差し伸ばすと、手首には小鳥が羽を休め、指先には蝶が誘われた。五月晴れで気温も過ごしやすく、土手に群生した菜の花は今を盛りと咲いている。そよ風で波立った小川が、陽光を反射して魚のうろこのように輝いている。こうした原風景のなかで暮らしていても、この子の心が安んじることはないのだな、とヘカーティアは頭の隅で思った。
純狐が呟いた。「……私ね、時どき恐ろしくなるのよ」
「あら、そうなの」
「毎日が楽しいわ。貴方と過ごした復讐の日々も、心がとろけるくらい素敵よ。でも、ふと気がつくと記憶が飛んでいるときがあるの。さっきだって一瞬、貴方が誰なのか分からなかったのよ。貴方のお家を壊してしまったときだって――」
「そりゃあ、誰だか分かったら友達をハンバーグのタネみたいにぐちゃみそにすることもないでしょうよ」
「茶化さないでちょうだいっ」
「茶化して済ませるだけマシだと思いなさいよ!」
二人は立ち上がり、胸ぐらをつかまんばかりに睨みあった。先に表情を崩したのはヘカーティアだった。
「――ま、そんな心配するほどのことじゃないわよ。これまでだって上手くやってきたじゃないの」
「そうだけど」
「でも、できれば爆散されるのは勘弁願いたいわ」
「……月の貴方は意地悪ね」
「他の二人が優しすぎるのよ」ヘカーティアは唇の端を曲げた。「音楽でも聴いて、リラックスしましょう」
ポシェットからウォークマンを取り出すと、片方のイヤフォンを自分の耳に、もう片方を友人に渡した。純狐は再び口を開きかけたが、ヘカーティアが片目をつむってみせると大人しくなった。向かい合って原っぱに横たわり、青空を眺めながら旋律を分け合った。純狐の唇が、ボブ・ディランの「風に吹かれて」のメロディをなぞった。曲が終わると彼女は照れくさそうに笑い声を上げた。それは風に乗ってヘカーティアの耳に届いた。
「好いものでしょう?」
「そうね」純狐は答えた。「なんど聴いても飽きないわ」
「答えは風のなかよ」
「……そうね」
やがて純狐は眠りに落ちた。ヘカーティアは耳からイヤフォンを外して半身を起こし、友人の頭をそっと持ち上げて自分の膝の上に乗せた。稲穂のように波打つ彼女の髪を四本の指で梳いた。鳥の翼の軌跡を眼で追いながら、ささやき声を風に溶かした。
「やっぱり、誰かを怨んでいるときの方が素敵よ、貴方は」
#04
霧雨魔理沙は自宅の玄関のドアを開けたがすぐに閉めた。それからもう一度ひらいて隙間から顔を覗かせ、じっと耳を澄ませた。箒の柄を握りなおし、八卦炉を胸の高さに掲げて忍び足で廊下を進んだ。階段を昇って寝室に辿りつくと、深呼吸をひとつ入れてから部屋のなかへ躍りこんだ。
「――動くな、泥棒!」
地球儀を頭に乗せた女はこちらを見て会釈した。それから掃除機のスイッチを切り、マスクを外して微笑んでみせた。窓を開いて新緑の空気を取りこむと、ベッドやカーテンにレノアハピネスの香りのファブリーズを吹きかけ始めた。
「おい!」
「ああ、ご挨拶を忘れていたわね」
「違ぇよ!」
「遊びにきたんだけど、入ってみたら部屋がボスニアの戦場みたいな有様なんだもの。久々に張り切っちゃったわ」
魔理沙は完膚なきまでに整理整頓された寝室を呆然と見渡した。「……鍵をかけといたはずなんだが」
「私には有って無いようなものよ」
青髪のヘカーティアは埃避けのエプロンを外しながらそう云った。その下から〝Hello, Mother Earth〟と書かれたシャツが深淵からの使者のように現れた。魔理沙は手で額をおさえて立ちくらみに耐えた。
「お前には分からんだろうが、私は散らかっていた方が好いんだ。これじゃ、どこに何があるのかさっぱりじゃないか」
「心配しないで。ちゃんとリストにまとめておいたから」
古風な羊皮紙を受け取りながら、女神の顔を改めて見つめた。「眼の下のそれ、隈か。それとも地獄で流行ってる化粧か?」
「やだ、消えてなかったかしら」ヘカーティアは両手で目元を隠した。「こっちの地獄は死者が多くてね。あまり眠ってないのよ。他の二人はちっとも手伝ってくれないし」
「お前がそんなに仕事熱心な奴だったとはな」
「あら、異界の奴といっしょにしないでよ。〝母なる地獄のヘカーティア〟って異名は伊達じゃないのよ」
「母なる地獄」魔理沙は繰り返した。「その母性をもっと別のことに使ってくれ」
「例えば?」
「他人の家に勝手に上がりこんで掃除するなんて真似はよしてくれって云ってるんだよ」
「料理も作っておいたわよ。あと洗濯物も溜まっていたようだから――」
「そういうことじゃねぇ」
「あったかいお味噌汁よ。炊きたてのご飯に卵焼き。それにスライス・ソーセージ。欲しくないの?」
「……いただくぜ」
「好かったわ」
デザートのアップル・パイを平らげ、食後のコーヒーを味わって魔理沙はひと息をついた。腹が満たされて気分も落ち着いた。向かいに座っているヘカーティアは母親のような微笑みを浮かべてこちらを見つめている。
「ごちそうさま。美味しかったぜ」
「おそまつさま。たくさん食べてくれて嬉しいわ」
「お前は誰に対しても世話焼きなのか」
「誰でもってわけじゃないわ。貴方をひと目見たときから〝放っておけない〟って気持ちになっていたのよ」女神は椅子を持って移動し、魔理沙の隣に座った。「あとは、……そうね、部下の妖精も好く面倒をみているわ」
「あのランパースだかニューヨーカーだかみたいな奴か」
「そう、クラウンピース。最近はあの子、あまりこっちに来てくれないけどね。ずっと本を読んでるみたい」
「あの妖精が?」
「そうよ。純化も解けて落ち着いたかと思ったら、急に向学心を見せ始めてね。月や地球での体験が刺激になったのかしら」貴方だって同じでしょう、と顔を近づけてくる。「広い世界に憧れて、住み家を飛び出して、必死に勉強して、今ではこんなに立派になった。妖精を馬鹿にするのは好くないわ。私から見れば、人間も妖精も可愛いすぎるくらいに無知な存在よ」
魔理沙は椅子から立ち上がった。
「ちょっと待てよ、いくら神様だからって私のことを知りすぎだろ」
「だって貴方は魔法使いじゃない。魔法に手を染めた以上、私の眼から逃れることはできないわよ。貴方は自分でも気づかないうちに、悪魔ならぬ女神に魂を売っていたの。それこそが人間の無知なる証左よ。自分が得た力の源を知ろうともしないなんて、ヘカーティア、寂しい」
魔理沙は後ずさろうとしたが、手首をつかまれてそれもできなくなった。
「怖がらなくて好いのよ。何も取って喰おうってわけじゃないんだから。……ああ、やっぱり貴方は素敵よ。私の思った通り、放っておくことなんてできないわ。どうして貴方は私をこんな気持ちにさせるのかしら。最初にクラウンピースと会ったときのことを思い出すわね」
八卦炉はテーブルに置きっぱなしだった。頭が真っ白で気の利いたスペルのひとつも出てこない。身体を引っ張られ、彼女の胸元に顔を埋める格好になった。うなじが逆立つのを感じた。女神は魔理沙の後ろ髪をなでながら子守唄のようなメロディを口ずさんだ。
魔理沙は呟きを落っことした。「私は、甘えるのは嫌いだ」
「甘えるのが下手なだけでしょう? もしくは、甘え方を忘れちゃったのかしら?」
「…………」
「いいえ、甘えているのは私の方かもしれないわね」彼女は云った。「ねぇ、……仕事で疲れてるのよ。お腹を横倒しにして水面に浮かんでる魚みたいに疲れてる。たまにで好いから、こうして世話をさせて。貴方にとっても、悪い話じゃないでしょう?」
女神の両手が背中に回され、力がこめられた。ヘカーティアの身体は地獄の熱を確かに宿していた。それは母なる地球が湛える温かみでもあった。心臓の鼓動もちゃんと感じられた。魔理沙は射的場に並んだ景品のぬいぐるみのように動けなくなってしまった。
「……しょうがないな、もう。条件付きなら来ても好いぜ」
「ええ、何かしら」
「私に魔法を教えてくれ」
「分かったわ」
「あと、勝手に部屋の掃除はしないでくれ」
「それは駄目」
#05
「あ、貴方は」
鈴仙・優曇華院・イナバの耳は早くもしおれていた。晩秋のヒマワリみたいだな、とクラウンピースは思った。隣を歩いていた純狐も「あら」と声を上げて立ち止まった。
「兎さん、ちょうど好かったわ。今からそちらに伺おうと思っていたのよ」
「そうなんですか」
「風の赴くままに歩いていたら、道に迷ってしまって」純狐は唇に指を当てて笑った。「お恥ずかしいことね」
鈴仙が視線をそらして胸に手をやるのが見えた。
「そ、それで、永遠亭に御用でしたら、ご案内しましょうか」
「いいのよ。貴方に逢いたくて来たんだもの」
鈴仙の耳はしおれた。
「私、これから仕事が――」
「終わってからでも好いわ」
鈴仙の耳はしおれた。
「そんな、お待ちいただくなんて失礼です」
「じゃあ付いていっちゃおうかしら。薬屋さんの外回りって興味があるわね」
鈴仙の耳はしおれた。
「クラウンピースちゃん、貴方もそう思うでしょ?」
「はい。地上のお薬ってどんなものか気になります」クラウンピースはどのような表情を浮かべれば好いのか分からなかった。「でも、ご迷惑じゃないでしょうか。ウサギさん、困っているように見えます」
「あら……」
純狐は眼を丸くした。それから突然、両手で鈴仙の肩をつかむと、顔をくっつけんばかりに近づけて穴が開くほど見つめ始めた。薬屋さんの営業スマイルも、ここに至って根元から倒壊した。二人の鼻が触れ合った。純狐はまばたきさえしなかった。
「ううん、私には困っているようには見えないわ」純狐は顔を離して云った。「気遣いができるなんて、お利口さんになったのね。ヘカーティアが云ってた通り」
「仕事は地上の人びとにとって大事なものなんだって、本で学びました。お邪魔するのは好くないと思います」
「そうねぇ」
鈴仙が純狐の背後で激しくうなずくのが見えた。純狐は微笑みを浮かべてクラウンピースの頭をなで、姿勢を低めて額に口づけし、さらに頬と頬を子猫のようにこすり合わせると、「分かったわ」と云った。
「クラウンピース御前様のおっしゃる通りね」
「それでは、私はこれで――」
「待つことにするわ。あとで合流しましょう」
鈴仙の耳はしおれた。
「私ね、頑張っているひとを見るのが好きなの」
里の往来を歩きながら純狐が云った。隣を鈴仙が歩き、後ろをクラウンピースが続く。右手に文庫本を、左手に出店で買ってもらったアメリカン・ドッグを持っている。今はローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』を読んでおり、頁をめくるたびに笑い声を上げた。
「ひたむきに頑張る姿って、素敵だと思わない? 今の自分をより高めようと悩んで、苦しんで、答えに辿りつこうとするその姿。〝無為自然の道に反する〟ですって? そんなことはないわ。何も無気力に流れへと身を任せることが道じゃないのよ。精いっぱい努力して、後のことは天命に任せるの。空の境地に至った聖人も、最初から悟ったような物云いをしていたわけじゃないでしょう? 誰もが最初は悩むのよ。それにね――」
機関銃のように話し続ける純狐に、鈴仙はうなずきを返すばかりだった。クラウンピースは、ヨリックの説教を読み上げるトリム伍長の異様に詳しい描写にくすくすと笑っていた。
「――だからね、鈴仙さん」
初めて名前で呼ばれて、兎の少女は慌てて顔を上げた。
「私が貴方のことを好きな理由が分かってもらえたかしら」
「え、ええ」
「貴方は近い将来、大きなことを成し遂げるわよ。今の自分を大切にしなさい。そうした純粋さは宝になるわ」
「私は、……純粋なんかじゃありません」
「いいえ、そんな風に謙虚になれるという姿勢そのものが、貴方が素直なことの証左なのよ。罪を背負っていることと、純粋さというのはそもそも無関係なの。私には分かっているわ。貴方は素敵よ」
純狐は鈴仙の頭をなでた。地上の兎はようやくはにかんだような笑みを見せた。
「あら、ヘカーティアじゃない」
純狐は手を離して近くの店に駆け寄った。店の軒先には赤髪と青髪、二人のへカーティアがいて、挟まれた魔理沙がげっそりとした顔でストローを口にくわえていた。
「ご主人様」
「あらん、純狐。それにクラウンピース。奇遇ねぇ」
「どうしたの、ヘカーティア。二人そろって」
「こいつに誘われたのよん」異界のヘカーティアが地球を指さす。「この子に魔法の手ほどきをするんだって。星に関する魔術なら、私の方が得意だから」
「そうなのよ」地球の女神が後を継いだ。「魔理沙ちゃんと契約したの。お世話をさせてもらう代わりに地獄の魔法を教えてあげるって」
魔理沙がコップのなかにストローを吐き出した。「早く教えてくれよ。お喋りばかりでちっとも先に進まないじゃないか。これじゃ魔法の〝ま〟の字も知らないままに日が暮れちまう」
「焦っちゃだめよん。夜は永いわ」
「徹夜確定かよ」
「それで、純狐たちはどうしたの」と青髪。
「クラウンピースちゃんを誘って、地上の兎と会っていたのよ」純狐が鈴仙の肩に両手を置く。「この子ったら可愛いのよ」
「あら、魔理沙ちゃんの方がもっと可愛いわよ。がんばり屋さんなの」
「そうねぇ、魔法使いさんも根は素直そうで、私の好みだわ」
鈴仙が口を挟む。「あの、……私、もう戻らないと」
「ああ、――そうだったわね」
純狐がため息をついた。腰から立ち昇りはじめていた毒々しい妖気も引っこんだ。「ごめんなさい。私ったら、また周りが見えなくなっていたみたいね」
「いえ……」
クラウンピースは本を閉じて主人におずおずと云った。「ご主人様、私たちもそろそろ地獄に帰りましょう」
「〝私たち〟?」異界のヘカーティアが首を傾げる。「丁寧な言葉づかいになったものね、クラウンピース?」
「この子も勉強して、おしとやかなレディになったのよ」
青髪のフォローを無視して、赤髪は片眉を上げた。「前に約束したことを忘れたのかしら、ランパース」
主人からその名で呼ばれたのは久々のことだった。クラウンピースの足が震えた。
「で、――ですが、ご主人様は長いこと地獄を空けていらっしゃいますし、神殿の修復も完了したと鬼神長様から伺っています」
「〝いらっしゃる〟」ヘカーティアは繰り返した。「〝伺っている〟」
「ご主人様――」
「私に逆らおうっての?」
ヘカーティアの頭上の球体がゆっくりと回転を始めた。禍々しい紅色の閃光が火花のように飛び散った。クラウンピースはそれ以上ひと言も発することができなくなってしまった。魔理沙は立ち上がり、鈴仙は後ずさった。純狐は軒下を飛んでいるモンシロチョウに眼を奪われていた。
「……なーんて、ね」
女神は球体の回転を止めて云った。その声は微かに震えていた。
「冗談よん、冗談。本気にしないで。――ほら、クラウンピース。こんなとき貴方は〝ご主人様ったら、また!〟って笑ってね、気の利いたジョークのひとつやふたつ、云ってくれたじゃないの。それが道化ってもんでしょう? ね?」
その場の誰もが無言だった。青髪のヘカーティアが緩やかに近づき、赤髪に手刀を見舞った。
「めっ!」
「やん!」
「――頭を冷やしなさい。お店のひとも困ってるじゃない。撤収しましょう撤収。出入禁止にされちゃうわよ」
「うう、分かったわよぅ」
代金に迷惑料を上乗せして払い、一同は往来に出た。魔理沙は「とんでもない目に遭った」という顔で箒に乗って飛び去っていった。鈴仙もお辞儀をしてから荷物を背負い直して立ち去った。後には鉛のように比重の大きな沈黙が残された。
異界のヘカーティアが呟く。「興が冷めたわ、帰りましょ」
「落ちこまないで、ヘカーティア」純狐が慰めるように云った。「私も悪かったわ」
「純狐、……最近の貴方、謝ってばかりね。らしくないわ」
「らしくないって、これが本当の私よ」
「うぅん、違うわ。復讐に燃えているときの貴方は、もっと綺麗で、そして輝いていた……」
「ヘカーティア」純狐が立ち止まった。「この前、貴方が私をけしかけた理由は、それなのね?」
「そうよ」
「じゃあ、云ってあげるわ。大きなお世話よ」
でも、ありがとうね、と純狐は付け加えた。ヘカーティアは黙っていた。クラウンピースはいつかのように〝気の利いた〟冗談を飛ばそうとしたが、唇は貼りついたように開かず、舌は乾いてしまっていた。
#06
異界、地球、月。――三界のヘカーティアが一堂に会するのは久しぶりのことだった。異界のヘカーティアはベリー・ジャムを、地球のヘカーティアはミント・エキスを、月のヘカーティアはハチミツとレモンを各々の紅茶に垂らし、別荘のリビングでくつろいでいる。紅茶をひと口味わってから、黄髪が「それで」と声を上げた。
「突然呼びつけたりしてどうしたのかしら。つまらない用事だったら帰るわよ。私も忙しいの」
「嘘をつきなさい、この暇人」青髪が疲労の跡が残る眼元をこすりながら反撃する。「月の地獄がガラガラのスポスポだってこと、私はちゃんと知ってるんだからね」
「あら、そんなことないわ。しょっちゅう玉兎が流れてくるもの。奴隷の身の上って哀しいものよね」
「寝言は寝て云いなさい。こちとら何千万もの人間を相手にしてるのよ。少しは手伝えってんのよ」
「愚痴なら聞いてあげるわ。でも押しつけるのはよして」
「こンの陰険女」
「なによ、このメランコリック野郎」
赤髪のヘカーティアが溜め息をついて、ソファの背もたれに頭を預けた。今にも殴り合いを始めようとしていた二人は座り直した。異界は姿勢を変えて背後を振り返った。そこには本棚があった。クラウンピースがこれまでに読んだ物語、その軌跡だった。
「ほら、あの小説、何だったかしら」赤髪は云った。「本の所持や読書が禁じられていて、片っ端から燃やされるディストピアSF――」
「『華氏451度』ね」青髪が即答する。「レイ・ブラッドベリよ」
黄髪が拍手する。「さすが、人間担当は博識ね」
「黙んなさいよ」
赤髪は無視して続けた。「最近ね、あの物語のことを思い出すのよ。〝平和がいちばんなんだ、モンターグ〟って。本当の愛情ってものを知らない時分から書物を読みふけってね、教養ばかり無駄に身につけちゃって、要らない悩み事や心配事を抱えこむ羽目になるくらいなら、何も知らない方がマシってこと。狂気に身を委ねる方がどれだけ心が安まることか。哲学だの社会学だの、構造主義だの実存主義だの――」紅茶を口にして、ひと呼吸を挟んだ。「寿命の短い人間ならそりゃ結構でしょうよ。でも、私は昔に失敗しているから分かるの。あれは妖精向きじゃないわ。妖精という器に知性なんて大きすぎるのよ」
語り終えると、残りの紅茶を飲みほしてうな垂れた。月のヘカーティアが表情を変えずに答えた。「人間も、妖精も、仙霊も、神や仏だって時が過ぎれば変わるわ。皆、いつまでも貴方の〝楽しい〟や〝面白い〟に付き合ってくれるほどお人好しじゃないのよ」
異界は顔を上げなかった。「純狐も、クラウンピースも、どうして夢から覚めようとするのかしら。狂化の妖精が正気を身につけてどうすんのよ。純狐も積年の怨みはどうしたの。あんなにあっさり引き下がるなんて」
「あの二人の眼を覚ましてやったのは、貴方よ。地獄の底で、狂気の海に溺れていた二人に、名前と、目的と、力の使い方を教えて、自分という存在を取り戻させてあげたのは、貴方自身なのよ」
「…………」
「狂気とは、炎のようなもの。取扱いを間違えれば我が身を燃やすわ。でも、あの二人は私たちが思っていたよりもずっと賢かった。クラウンピースは道化ではないし、純狐は私たちの遊び道具じゃない。どんな生き物にも巣立ちのときは訪れるわ。貴方のおかげで生まれ変わったあの二人は、貴方に頼らずとも生きてゆこうって、今も懸命に抗っているのよ」
「……つまり、今が〝反抗期〟ってこと?」
「推測だけどね」
「馬鹿馬鹿しい」
青髪が黄髪に寄りかかった。「意外とロマンチストだったのね、貴方」
月のヘカーティアは微笑んだ。
「月はいつだってロマンスの象徴よ」
#07
クラウンピースは静かの海の波打ち際で立ち止まった。重力は地球の六分の一。背中の羽が宇宙を求めてうずいている。純化の奇跡も今はいずこ、再び無生命の空間に戻りつつある表の月は、妖精の身でも少し息苦しい。辺りを探せば、あの星条旗が見つかるだろうか。今ではクラウンピースも、その旗が何を意味し、どのようにして自分と巡り逢うことになったのか、その歴史的背景を知っている。
星屑の散らばる砂浜でうずくまっていると、足音が聴こえた。ほぼ真空に近しいこの空間でも、彼女の音は変わらず凛として響いた。月のヘカーティアは無言でクラウンピースの隣にしゃがみ込み、砂の城づくりを手伝ってくれた。二人が作成した城は、淡い優しい色をした星の光で、きらきらと輝いた。
月のヘカーティアが立ち上がった。「今日は、本を読まないのね」
「何だか、気力が湧いてこなくって」クラウンピースは答えた。「急に分からなくなったんです。……最初は、ご主人様のお役に立ちたい、そのためには勉強もしないといけないって思ってたんです。それから、地球の自然があまりに美しくて、もっとあの星のことを知りたいと思って、それも動機のひとつになりました」
「今はちがうの?」
「あるときから、本を読めば読むほど異界のご主人様は変な顔をするようになりました。地球は楽しいことがたくさんあるけれど、同じくらい哀しいこともたくさんある場所なんだってことも、学びました」
「そう、そこまで分かれば上出来ね」
クラウンピースは首を振った。「ここは、静かです」
「ええ、他に比べれば」
「それに、今の私の原点でもあります」
ヘカーティアは月の球体を愛おしげになでた。「原点回帰ってことね」
「私、いけないことをしてしまったんでしょうか」
「そんなことないわ。貴方は好くやっているわよ。ただ、あまりにも一途な心は、時どき周りを混乱させてしまうことだってあるの。それを学んだ方が好いわね。何かの物語でもあったでしょう? ――愛情を伴わない教養は、貴方と、貴方が愛する人たちとの関係に楔を打ちこむって」
クラウンピースはうなずいた。ワンピースの袖で目尻を拭った。
「いつでも戻ってきなさい」月の女神は云う。「貴方ひとり分くらいの空間は、こっそり留めておいてあげるから」
月人には内緒よ、と彼女は悪戯っぽく笑った。
しばらくの月日が流れた。クラウンピースは読書を中断して、神殿に戻った異界のヘカーティアに侍り、明るく振る舞おうと努めた。時おり純狐もやってきて、三人でおしゃべりに興じることもあった。今度はヘカーティアも、純狐を挑発するようなことはしなかった。万事、元通りの日々だった。変わった事と云えば、クラウンピースがコーヒーに砂糖もミルクも入れなくなったことくらいだ。
ある日、クラウンピースは地球の地獄に出向することになった。地球のヘカーティアからの要請で、とうとう体調を崩してしまったので、一日で好いから代理を務めて欲しいとのことだった。異界のヘカーティアは渋々ながら同意した。
「いいわね、クラウンピース?」彼女は云い聞かせた。「あいつみたいに全ての案件をクソ真面目に片づけようとしたら駄目よん。適度に力を抜いて、楽しくやれば好いのよ。分かったわね?」
「はぁい、行ってきます」
異界のヘカーティアも、サボっている間に仕事が山積していたのだ。空間転移したクラウンピースの前に現れたのは、大量の罪人に責め苦を与えるための、テーマパークかと見まごう巨大な処刑施設だった。案内役の牛頭(ごず)と馬頭(めず)が恭しく膝を折り、この度はヘカテー様の代理としてご足労くださり誠に云々と口上を述べた。
神殿から、赤銅色の岩肌を削っただけの階段を降り、いつもは青髪のヘカーティアが座している監視席に着く。そこからは責め苦の有り様が一望できた。針の山、焼けた鉄板、車輪砕き。この施設で、悲鳴や絶叫が聴こえない場所など存在しない。罪人は殺されては復活し、復活しては殺される。抜け殻は獄卒に喰われるか、地獄の釜に燃料として投げこまれ、灼熱の大地を保全するための礎(いしずえ)となる。
クラウンピースは、好く研いだ鉈で肉を少しずつ削り取られてゆく罪人や、串刺しになってじっくりと炙り焼きにされている人びとを眺めていた。黒い服を着た事務方の妖精たちが、獄卒たちの要望を受けて忙しげに飛び回っている。
やがて、新たな罪人の一団が横合いの通路より運ばれてきた。鎖で数珠のように繋がれ、鞭で叩かれても声ひとつ上げない。
「罪状に応じて、受ける刑罰はあらかじめ決まっております」
と、牛頭が罪人を数えながら云った。
「クラウンピース様は、ただ執行書を読み上げてくださるだけで結構です。ご面倒ではありますが、この手続きが重要でございますゆえ、なにとぞ……」
馬頭が後を継いで書類を差し出してきた。クラウンピースは両手で受け取った。いちばん前にいた罪人が引き立てられた。まだ十を過ぎたばかりの子どもだった。布切れ一枚も身にまとっておらず、痩せこけた顔には何の表情も浮かんでいない。
「賽の河原も満員でしてな」牛頭が恥ずかしそうに頭をかく。「最近はこうした燃費の悪い罪人も送られてくるのです。肉が付いていなければ幼子でも美味かろうはずがなく、大した燃料にもならない。困ったことです」
馬頭も頭を下げた。「まったく申し訳ない」
クラウンピースの手から紙が滑り落ちた。「あんたら、――みんな、狂ってる」
「はて」牛頭が顔を上げた。「なんと申されましたか」
クラウンピースは答えずに立ち上がり、松明を手にすると、羽を広げて虐殺の沼に飛びこんだ。手近にいた獄吏を力任せにぶん殴ると、松明を掲げて妖精たちに合図を送った。
「貴方たち、力を貸して! ――貸せってんだよ、この!」
妖精たちは突然の事態に右往左往するばかりだった。クラウンピースは頭上を見上げた。地獄の妖精たちを導くはずの、松明の火は完全に消えていた。殴られた獄吏が後ろからクラウンピースを羽交い絞めにする。
「放せ! 触るな! あっちいけ!」
鳩尾を思いきり蹴飛ばして脱出した。咳きこみながら顔を上げると、すでに周囲は獄卒や妖精たちによって完全に取り囲まれてしまっていた。彼らの顔に敵意はない。豹変した代理人に対する困惑だけがあった。中には気遣わしげな表情を浮かべている鬼もいた。クラウンピースは鳥肌だった。腰の力が抜けた。地面に尻餅をついて、両手で耳を塞いだ。眼には涙があふれ、硫黄の臭いと嗚咽で喉が塞がった。
足先に何かが当たった。それは頭蓋骨だった。強引に引き裂かれ、皮や頭髪、肉の残骸がこびりついていたが、それが立派な〝しゃれこうべ〟であることに変わりはなかった。クラウンピースは飛びつくように両腕で頭蓋骨を抱きしめると、おいおいと大声で泣きはじめた。周囲の獄卒や妖精たちは困惑を深め、お互いに顔を見合わせるばかりだった。
クラウンピースは泣き続けた……。
#08
目覚めたとき、二人の主人とその友人の顔が視界に映りこんだ。地球のヘカーティアは泣きはらした眼を瞬(しばたた)かせ、起き上がったクラウンピースを力いっぱい抱きしめた。それから何度も「ごめんなさい」と謝った。そこは異界の神殿の一室だった。敷かれた絨毯の模様や、壁に付いた染みが何故だか視界に焼きついた。
「もう好いわよ。落ち着きなさいったら」異界の主人が地球の主人の肩を抱く。「なにも大怪我をしたわけじゃないのよ」
「でも、でも、私のせいで――」
「しばらく安静にしていれば大丈夫よ。気分はどう、クラウンピース。お水、飲めるかしら?」
クラウンピースはすぐに首を縦に振った。まだ、上手く声が出せなかったのだ。
「ほら、云った通りでしょ?」コップを手渡しながら主人が云う。「貴方はひと先ず、地球に戻りなさいな。お互い、今は忙しい身よ」
「うう、そうね。……ごめんなさい、クラウンピース。今度、ちゃんと謝りにいくからね」
地球のヘカーティアは何度も振り返りながら退室した。赤髪は椅子に座り直した。クラウンピースは、主人と眼を合わせることができなかった。壁掛け時計が時を刻み続けた。秒針が何度も短針を追い越した。やがてヘカーティアが呟いた。
「……私が、悪いのよね」
クラウンピースは声を絞り出した。「ち、違います、ご主人様、私が――」
「あれからずっと考えていたのよ。貴方はもう私の道化じゃない。地獄の妖精ですらないのかもしれない。でも、それならそれで、新しい貴方と新しい関係を築いてゆけば好いだけじゃないかって、そんな単純なことに今やっと気がついたのよ」女神は深呼吸を入れて続けた。「ごめんなさい、クラウンピース。今まで辛い想いをさせちゃったわね」
クラウンピースは言葉の代わりに何度もうなずきを返した。熱い塊で喉が塞がっていた。
「――さて、湿っぽい話はここまで。私も退屈な仕事に戻るとするわ。しっかり身体を休めておきなさい」
純狐、この子をお願いね、と云い残して、主人もまた去っていった。部屋にはクラウンピースと純狐だけが残された。ご友人様はクラウンピースの顔を無言で見つめ続けていた。まばたきもせず、なにも語らずに。そうした彼女の様子に強烈な既視感を覚えたが、それが何であったのか思い出せなかった。
「……ねぇ、クラウンピースちゃん」
唐突に純狐が云った。声の調子は平板で、何の感情もこもっていないように聞こえた。
「はい、なんでしょう」
「今もまだ、苦しいの?」
「苦しい? ううん、ちょっと頭が痛いです。それくらいですね」
「私は苦しいわ。あんなに落ちこんでいるヘカーティアの様子を見ていると」
「ええ……」
「それに、貴方がしょんぼりしているところを見ると、胸が塞いでたまらなくなるわ」
「平気ですよ。今は少し、疲れているだけですから」
「でも、休んだからといって、以前のクラウンピースちゃんに戻れるわけではないでしょう?」
「ごめんなさい。仰っている意味がよく……」
「私もやっぱりそうなのよ もう昔のようには戻れないわ 今では自分が誰を怨んでいたのかさえ忘れかけている いつかは貴方やヘカーティアにまで矛先を向けてしまいそうで そのことばかり心配しているの 自分でも抑えようと思うのだけど 抑えることが逆に危険なのかもしれないってヘカーティアに教えられたわ」純狐はそこまでを息継ぎせずに云った。「でも、貴方はまだ間に合うの。それが私には分かるの。――知っているかしら? 純粋さに罪は無関係だけど、狂気と純粋の間は紙一重なんだって」
クラウンピースには、純狐の云っている意味が半分も理解できなかったが、心臓はすでに早鐘を打ち始めていた。
「あの、ご友人様――」
「まだ物に名前がつけられる以前の時代、すべての存在には神様が宿っていたわ」純狐は無視して続けた。「そうした原初の存在の位置を心臓だとすると、私たちがいるのは限りなく血管が枝分かれした先、つまり、指の先端あたりということになるわね。私はその血管を遡って、心臓まで何度も冒険に出かけたわ。そこでいろんな存在に出逢ったの。そこでは何もかもがひとつの流れに身を任せていたわ。とても大きな、光りかがやく河を神様たちは下っていった。私は今も、そのかがやきに魅せられているのよ」
純狐の話はそこまでだった。彼女は右手を伸ばし、クラウンピースの額に優しく触れた。その動作で、クラウンピースはこれから何が起こるのかをようやく思い出したが、気づいたときには全てが手遅れだった。純狐の指が金色の髪を蟲のように這った。クラウンピースは眼を閉じて、彼女の営為を受け容れた。微笑みながら、恍惚とした昂ぶりに胸を打たれながら。
#09
山積した仕事も一段落し、ヘカーティア・ラピスラズリは神殿の玉座にふかく身を沈めた。それでも体重を支えられず、肘かけの片側にもたれかかるような恰好になった。睡魔に誘われて眼を閉じ、しばらくの間まどろんでいた。ヘカーティアが眼を覚ましたのは遠くから聴こえてくる物音のせいだった。目薬を差して大きく伸びをし、欠伸を漏らして耳を澄ませた。
それはどんどんこちらに近づいていた。
甲高い笑い声だった。
「きゃははははっ、気ぃィン持ちいぃぃィィィ! ――どうしたのみんな、もっともっとスピードあげていこうよっ!」
妖精の一団が玉座の間に飛びこんできた。先頭の少女が掲げる松明の煌々とした光に誘われて、右に、左にと動き続ける。誰もが盲滅法に弾幕を撃ちまくり、そのうちの数発がヘカーティアの傍で破裂して赤い髪をなびかせた。巻き添えを喰らった当直の獄卒たちが頭を抱えて逃げまどった。
先頭の少女がこちらに気づき、抱きつかんばかりの勢いで眼の前にひざまずいた。髪や衣装に罪人のものとおぼしき血や肉片がこびりついている。
「ご主人様、お仕事は終わったのですかっ?」
ヘカーティアは無言で首肯した。
「ああ、好かった。あたいたちはこれから外に行ってきます! ご主人様も、たまには身体を動かして思いっきり発散しましょうよ。〝病は気から〟って昔から云うじゃないですか! ――あっ、ごめんねみんな、すぐに行くからっ!」
彼女は立ち上がってから再度お辞儀し、猛スピードで妖精たちを引き連れて神殿を出て行った。石ころのように丸まって身を守っていた獄卒たちが、そろそろと起き上がった。脇の通路から純狐が悠然とした足取りで現れて、獄吏たちの間を縫うようにして歩いてきた。
「クラウンピースちゃん、元気になって好かったわ」
「純狐」ヘカーティアは無表情に云った。「あの子に、何をしたの。――いいや、ちがう、どうしてこんなことをしたの?」
「〝どうして〟って云われても、ね?」友人は穏やかな笑みを浮かべながら首を傾げた。「そうしたいから、そうしただけよ」
ヘカーティアの唇から、渇いた笑い声が漏れた。「まったく。これだから、私は貴方が好きなのよ」と云った。それからティー・セットや菓子の大皿が乗っている傍のテーブルを思いきり蹴飛ばした。
#10 Epilogue
ヘカーティア・ラピスラズリが自室で本を読んでいると電話が鳴った。本を伏せてソファから立ち上がり、徹夜明けで傷んでいる眼をこすりながら受話器を手に取った。月のヘカーティアからだった。しばらく世間話をしたあと、彼女は幾分か声を低めて云った。
『貴方、ねえちょっと、聴いているの?』
「何よう、朝っぱらからうるさいわね」
『元気かって訊いてるのよ』
「絶・好・調」
『嘘をつきなさい』
「私にどうしろってんのよ」
『そんなの私にだって分からないわよ。ただ、調子が狂っちゃうの』
「だったら電話なんか掛けてくるんじゃないわよ」
『分からないの? 〝元気を出して〟って云ってるのよ』
ヘカーティアは受話器を持ちかえた。「……貴方から、そんな台詞を聴ける日が来るなんて夢にも思わなかったわ」
『失礼ね』
「それで?」
『ちゃんと歯は磨いてる? お菓子ばかり食べてるんじゃないでしょうね? 睡眠時間はちゃんと取ること。あと飲酒は――』
ヘカーティアは受話器を置いた。それから『ハムレット』の続きを読み始めた。ヨリックの〝しゃれこうべ〟の場面に差しかかった。――〝Alas, poor Yorick !〟――頁を手繰る動きを止めて、ヘカーティアは何度目かのため息をついた。
「……結局、私の予言した通りになっちゃったわね」
読書を中断して、カベルネ・ソーヴィニヨンの赤ワインを手元に引き寄せ、ボトルの栓を開けた。すでに四本目だった。それでも酔いはいっこうに回ってこなかった。チョコチップ・クッキーの箱をこじ開け、中身を平らげようとしたところで玄関のベルが鳴った。来客は純狐だった。二人は敷居を挟んでしばらく見つめ合った。
純狐は袍服の袖で鼻と口を隠した。「……ヘカーティア、貴方、お酒臭いわ」
「何しに来たのよ」
「遊びに。誘ったのは貴方よ?」
「そうだったかな……」
ヘカーティアは思考を巡らせた。途端に立ちくらみがしてドアに寄りかかった。純狐が肩を貸してくれた。
「どうしたのよ、ヘカーティア。落ちこんでいるの?」
「……誰のせいだと思ってんのよ、誰の」
「私のせいなの? そうなのね?」
「貴方まで何も覚えてないってわけ? ――ちょっと、それはないんじゃないかしら?」
ヘカーティアは今にも純狐の胸ぐらをつかみそうになった。友人はこちらの剣幕に後ずさった。彼女は本気で戸惑っているようだった。瞳が潤みはじめ、か細い声を繰り返し漏らしはじめた。それは謝罪だった。
「……んもう、怒るに怒れないじゃないの」ヘカーティアは純狐の頭をかき寄せた。「すべて元通りよ。何も気にしちゃいないわよ」
やがて純狐は落ち着いた。それでも身体を離そうとはしなかったので好きにさせた。彼女の頬がヘカーティアの頬に触れた。子猫のような仕草だった。手が腰に回されたとき、再び電話が鳴った。断りを入れて彼女の腕を抜け出し、受話器を手に取った。
「はい、異界のラピスラズリ」
『もしもし、――ご主人様ですか?』
ヘカーティアは受話器を耳に押しつけた。「……どうしたの、クラウンピース。貴方、電話の使い方も忘れたんじゃ」
『適当に押したんです。そしたら通じました』
「今、どこにいるのよ」
『地球です。電話を借りてるんです。新しい妖精の友だちができて――』
「ずっと外に飛び出したまま、どこで何をしていたの」
電話の向こうでひと通りの沈黙が流れた。『あたいにも分かりません。気がついたらここにいました。ご主人様に何か云わなきゃと思って、それで電話を借りたんでした』
「なんなの、はっきり云いなさい」
『ごめんなさい』
ヘカーティアは受話器を両手で握った。「なんですって?」
『ごめんなさい。あたい、ご主人様に何でも好いから謝らなきゃいけないと思ったんです。気づいたとき、真っ先にやらなくちゃいけないことはそれだと思ったんです』
「そこで待っていなさい。今すぐ迎えに行くわ」
『まだ云いたいことが』
「何よ、今じゃないといけないの?」
鼻をすする音がノイズ混じりに聴こえた。『ご主人様、――あたいを嫌いにならないでください』
「そっ」ヘカーティアは声の調子を抑えた。「……そんなわけないじゃない。何を云い出すのよ」
『今回だけじゃないんです。普段からいっぱい、いっぱい迷惑をかけているんだと思います。でも、ご主人様はいつも笑って許してくれて、あたいはずっと甘えていました。これからは、もっともっと手間のかからない妖精になります。だから、あたいを嫌いにならないでください。お願いします』
ヘカーティアは受話器から片手を離して口を覆った。それから首を左右に振って大きく咳払いした。
「このおバカ。――だったら、そこから独りで戻ってらっしゃい。その間に、砂糖とミルクをしこたま入れたコーヒーと、貴方の好きなレモン・クッキーを用意しておいてあげるから」
『はいっ』
「いつでも、好きなときに帰ってくれば好いのよ。貴方の居場所はここにちゃんと在るんだから」
通話を切ったあとも、ヘカーティアの指は受話器に添えられていた。微かな吐息が唇から漏れて、その行方を確かめようとするかのように視線がさまよった。純狐が背中をさすってくれなければ、あるいはずっと受話器を放せなかったかもしれない。
「純狐、ねぇ」ヘカーティアは友人の身体に体重を預けた。「やっぱり、女神って大変だわ」
「お疲れさま、ヘカーティア」
「身体が三つあるからって苦労も三分割するわけにはいかないのよ」
「分かっているわ」
純狐が両腕を回して後ろから抱きしめてくれた。ヘカーティアは緩やかな眠気に誘われた。今になって酔いが急激に回ってきた。巨大なダストボウルに呑みこまれてゆくように意識に靄が懸かった。首が後ろに傾いた。純狐の顔がすぐ横にあった。彼女はヘカーティアを抱きしめる力を強めた。
「綺麗よ、ヘカーティア」
「……酒に溺れた女神のどこが」
「その方が貴方は美しいのよ。落ちこんでいるよりもずっと。――貴方、とっても穏やかな顔をしているわよ」
彼女は親しみをこめてこちらを見つめていた。それは誰かを怨んでいるときの、あの研ぎ澄まされた目つきではなかったが、それでもヘカーティアは彼女のことを美しいと思った。部屋の照明に洗われた友人の表情。消えそうで消えない暖かみ。不意にヘカーティアは嗚咽にも似たしゃっくりを漏らした。声が詰まらないよう慎重に、彼女へ言葉を贈った。
「私には、友だちがいるわ」
「ええ」
「無垢で親切な友だち」
「照れるわよ」
「ありがとう」
「こちらこそ」
「眠ってしまっても好いかしら」
「もちろんよ。コーヒーは、私が淹れておくわ」
「レモン・クッキーも」
「ええ。失敗したらごめんなさいね」
「ついでがあったら……」
「何かしら」
「クラウンピースのために、花束を見繕ってちょうだい。あの子の前途を祝福して」
「ヘカーティア、ここは地獄よ」
「いいえ、あるわ。探そうと思えば、花束はどこにでもあるの。私のなかにも、純狐のなかにも、あの子のなかにも」
そこにあるのよ。
ヘカーティア・ラピスラズリは眠りに落ちた。
それはいつだってここにあるの。
~ おしまい ~
(引用元)
Jerome David Salinger:Franny and Zooey, Little, Brown and Company, 1961.
村上春樹 訳(邦題『フラニーとズーイ』),新潮文庫,2014年。
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神様の癖にやたら感情的なところがあるヘカーティアや、逆にそういった部分の抜け落ちている純狐の掛け合いがとても魅力的でした。クラウンピースも名は体を表すといったふうに描かれていて、底に至るまでの変化や再生が面白かったです。
耳しおれちゃう鈴仙かわいい。とても楽しめました、ありがとうございます。
女神いいよね……
歪な過去を背負った彼女はまさしく道化なのでしょう。
掴みどころのない純狐も素晴らしかったです。
読ませていただきまして、本当にありがとうございました(拝)
元に戻ったけど元なんてないからやっぱり変化してるクラピ
素敵です
クラピの地獄での描写がキツイけど だがそれがいい
獄卒達も妖精達も激昂する訳でもなく
ただ困惑して心配してくれるのが怖いですね
素敵です
ヘカトンケイルの物理的ぱぅわあと
ヘカーテの魔力と
ヘスティアのお母さんちからの三神合体がヘカーティアだと
個人的に思ってます アホなコメントですいません