「それでね、あの黒白魔法使い、出会い頭に私を見てなんて言ったと思う? 『刺身だな』よ! 刺身! ワカサギは刺身でも天ぷらでも何したって美味しいけどさ、私はそんじょそこらのワカサギと違っていっぱしの妖怪なのよ。まったく、失礼しちゃうんだから」
「なるほど……で、率直に言ってお味はどうなんですか?」
「あ、興味あるんだ。ん~っと、そうねぇ……ちょっとなめてみる?」
「遠慮しておきます。万が一、転生できなくなったら、閻魔様にどやされそうですから」
「肉を食べて不老不死になるのは海の人魚。私は淡水人魚だからきっと大丈夫よ~」
ぐいぐい尻尾を押しつけてくるわかさぎ姫を無視して手帖にメモをする。
『怒って頬を膨らませたと思ったら、まんざらでもなさそうな顔で尻尾を差し出してくる。大人しく気弱な性格と聞いていたが、なかなか情緒豊か』
「いい加減やめてください。ぶっちゃけ生臭いです」
「がーん。これでも体臭には気をつけてるのにぃ~」
大げさに嘆きながら冷たい湖へぶくぶくと沈んでいく人魚姫に、私は軽く身震いした。
「はぁ……」
小春日和と呼ぶには少し肌寒い日のこと。
私は里を出て、はるばる霧の湖まで足を運んでいた。目的はもちろん、私が編纂している妖怪大百科、もとい幻想郷縁起に新たな一頁を書き加えるためである。
ここ数年、外の神様が神社ごと引っ越してくるわ、地底の妖怪が遊びに来るようになるわ、ついでに聖人が復活するわ、とにかく次から次へと新たな人外が出現したおかげで、私は縁起の改訂にてんてこ舞いになっていた、
特に先日の輝針城異変は、これまで縁起に載せるほど目立っていなかった妖怪たちが急に暴れ出した上に、大量の付喪神が一度に誕生するという、編纂者にとって嬉しくも悩ましい異変だった。
物書きの性分なのか、書きたいことが増えると無性に胸が高鳴ってくるものの、実際に幻想郷を駆けずり回って取材をし、集めた情報を文章に昇華させるとなると一苦労どころの話では済まないのだ。
なので、最近は少しでも負担を軽くするために、取材の方法にも工夫を凝らすようになっていた。
「そろそろ水から上がりませんか? 見ているだけで風邪を引いてしまいそうです。それに、ちょうど良い頃合いなのでお昼にしましょう」
「もうそんな時間なの? まいったわね。人間のお客様に出せるようなものが何もないんだけれど……」
「お構いなく、というか……お弁当を多めに持ってきているんですよ。よろしければ頂いてください」
「え、もらってもいいの?」
「はい。取材を受けていたいたささやかなお礼ということで」
「やった~」
例えば、今日は家を出る前におにぎりへ味噌をまぶしてさっと炙ったものを多めに作ってもらい、わかさぎ姫と食べるつもりで持参していた。
同じ釜の飯を食う仲、ということわざとは意味が違ってくるが、取材時に休憩を兼ねて一緒に食事をとると、緊張がほぐれて会話が弾んだり、相手の思わぬ一面を目撃することがあるのだ。
堅物であるともっぱらの噂だった哨戒天狗の犬走椛は、差し入れのサンドウィッチを片手に将棋への愛を滔々と語ってくれたし、幻想郷のクールビューティーとして名高い八雲藍は稲荷ずしをふるまった際、感極まったのかその場で踊り始めてしまった。いやはや、あの時ほど求聞持の能力に感謝したことはなかったかもしれない。
「ではどうぞ」
「わっ、ありがとう~」
わかさぎ姫が波打ち際に突き出た岩に腰かけたのを見計らい、おにぎりとわらびの醤油漬けが入った笹の葉の包みを手渡す。続けて竹でできた器を渡して、これまた持参してきた水筒の中身を注いだ。
「こんなに至れり尽くせりなんて、まるでお姫様になったみたい」
「名前に姫とついてるじゃないですか」
「紅魔館のお嬢様の方がよっぽど……あっ」
竹器に口をつけたわかさぎ姫は大きく目を見開き、それからゆっくりと目尻を下げた。
「本当にお姫様になった気分」
うっとりとしたわかさぎ姫の声を聞き、私は作戦の成功を確信してほくそ笑んだ。
持ってきた二本の水筒のうち、一本には自分用の紅茶。そして、もう一本には秘密兵器の日本酒を入れてきたのだ。
幻想郷在住の妖怪は総じて酒好きであり、仮に無口だったり恥ずかしがり屋だったとしても、酒精の力を借りれば驚くほど簡単に会話を引き出せることを、私は宴会に参加することで学んだ。ついでに酒が誰かの奢りであれば効果は倍増である。
酒量が増えるにつれて話の真偽が怪しくなってくるという欠点はあるが、それは後日改めて取材をして確かめれば良い。話が進まないせいで時間を無駄にした挙句、何度も取材を繰り返すよりはよほどマシである。そうだと思いませんか、頑固で無口な雲山さん?
「あ~ん、おにぎりも香ばしくて美味しい~。これって阿求さんが握ったの?」
「残念ながらお手伝いさんに作ってもらいました。帰ったら大変好評だったと伝えておきますよ」
「うんうん。お酒にとーっても合っていたって伝えておいてね~」
満面の笑みでおにぎりを頬張るわかさぎ姫を眺めていたらお腹の虫がクゥと鳴いたので、私も手頃な岩に腰かけておにぎりを頂くことにする。
天気は冬の残り香のような曇天で風も冷たいが、この湖にしては珍しく霧が立ち込めておらず、波打ち際に座ると岬にたたずむ紅魔館はおろか対岸までを一望することができた。
岸辺では枝垂れ桜が薄紅の花を湖面に垂らし、新緑と枯れ枝が入り混じって広がる山裾ではコブシと山桜の淡い花が風に揺れている。野には菜の花の絨毯が敷かれ、悪魔の庭園では花桃をはじめとしたありとあらゆる花々が館の真紅に負けじと咲いていた。
こうして景色や花を楽しみながらおにぎりをかじっていると、なんだか少し遅めの花見をしているみたいだ。
「ああ、美味し……」
景色や草花を前にしておにぎりを頬張り、ほどよく漬かったわらびをかじれば、どんよりとした雲も気にならない。時折、肌をなでるひんやりとした風さえも、桜の花びらや香りを運んでくれる小粋な演出に早変わりだ。
思いがけず手に入れた春を噛みしめるように目を閉じた瞬間、まぶたの裏に一面の梅の花と、花見そっちのけで酒食に興じる人々が映し出された。
「…………」
極稀に、特にこうして五感を働かせている時、自分の奥底に沈んでいる過去の御阿礼の子たちの記憶が目を覚ますことがあるのだ。
もっとも、大半の記憶は転生する際に失われてしまう。なので花見に集まっている、恐らくは親しかった人たちの表情はおろか、顔の輪郭さえもおぼろげである。ただ、記憶を埋め尽くす白い花だけは霞がかることなく、はっきりとその姿を留めていた。
「阿求さーん? 眠たいの?」
私が梅の中を漂っていると、突然、まったりとしたわかさぎ姫の声が聞こえ、花が散った。
小さく息を吐き、ゆっくりとまぶたを開くと、目と鼻の先に暢気そうな人魚姫。そして、記憶と場所は違えども、変わることのない幻想郷の風景が広がっていた。
「いえ。少し昔のことを思い出していただけです」
「ふーん」
「そういうことにしておいてください……あっ」
いけない。
空になっていた自分の竹器にわかさぎ姫用の水筒を注いでしまった。
取材をする側が酒を飲むのはご法度だというのに……ま、仕方あるまい。国破れて山河ありと言うように、私が生まれ変わる度に人間の世界は一変してしまうけれども、野山だけは転生前と変わらぬ姿を見せてくれる。長年の友との再会を祝って何が悪いのだろうか?
そんな言い訳をしていると、
「何だかよく分からないけど、乾杯」
「……乾杯」
わかさぎ姫が竹器をそっと打ち付けてくれた。
「目の前に美味しそうなご飯があるな~、と思ってパクッとやっちゃったのよ。そうしたらほっぺがグイーって引っ張られて、気づけば水の外。私も私を釣り上げたおじいちゃんもびっくりしちゃって」
「ちょっとぉ、わかさぎ姫さん。食べられそうになるのは、さっきの狼女の話に続いて二回目ですよ。周りから抜けてるって言われません~?」
「そ、そんなことないわよ! この話だって、漁師のおじいちゃんと仲良くなれたから結果オーライだし!」
「ハッピーエンドにして話の本質を誤魔化すとは許しがたい……このことはしっかりと縁起に書かせてもらいますよ。『わかさぎ姫はおっちょこちょい』っと」
「やめてー! 妖怪の格が下がっちゃう!」
「私には幻想郷の真実を公表する義務があるんです。やめるわけにはいきません!」
「んもー! このっ、意地悪物書き!」
「いたっ!? 生臭人魚の分際でよくもやってくれましたね!」
湖畔を歩いていた白鷺がいつの間にかいなくなり、わかさぎ姫用の水筒がだいぶ軽くなった頃、すっかり顔を赤くした私たちは尻尾と筆でお互いの頭を叩き合う程度には仲良くなっていた。
やはり酒の力は素晴らしい、などとうそぶきながら髪についたウロコを払い落としていると、水に入って墨を洗い流していたわかさぎ姫が湖面から顔を出した。
「ぷっ」
「うふふ」
目が合った私たちはどこがおかしいのやら、どちらともなく笑い出していた。頭が冷えて自分たちの子どもじみた行いが馬鹿らしく感じられたのか、はたまたお互いの顔がよほど滑稽に見えたのか、とにかくひとしきり笑ってようやくそれが収まってきた時、
「はぁ……良い時代になったわねぇ」
わかさぎ姫が深くため息をついた。
その一言で取材者として本能が目を覚まし、すかさず脇に置いていた手帖と筆を手に取る。
「何故、そう思われるのですか?」
「だって人間が満月の日に、それも酒と肴を持って来るなんて、昔じゃ考えられなかったもん」
私の問いに対して、わかさぎ姫は尻尾をゆらゆらさせながら答えた。
そう、今宵は月と魑魅魍魎が最も輝く夜。満月から放たれた魔力に酔いしれた妖怪たちが一晩中騒ぎ通す日だ。
この月の魔力というのは非常に強力らしく、まだ日が高いうちから浮かれた気分になってくるばかりか、普段は取材に乗り気ではない妖怪ですら、聞いてもいない身の上話を自ら切り出してくれるほど。まさに満月の日は絶好の取材日和と言えよう。
今回の取材対象は虫も殺せないほど気弱だということで、酒と満月の二段構えで取材に挑んでみたのだが、この砕けっぷりを見るにいささか用心が過ぎたかもしれない。
「里の外を出歩けるのは昼間だけです。さすがに暗くなったら家にこもりますよ」
「それで十分。ひと昔前は満月の前後、一週間くらいは漁師や太公望が湖に寄りつかなかったんだから」
「まあ、現代が不用心過ぎるのかもしれませんね」
「私にとってはありがたい話だわ。別に一人で歌うのは好きだし、人間以外の友だちだっているけどさ、何と言うか……やっぱり私は妖怪なのよ。有名でもなく、特に秀でたところもない弱小妖怪なんて、人間から忘れられるとすぐに消えちゃうでしょ? しかも私って水の外が駄目だから、どこぞの付喪神みたいに人里まで行って脅かすこともできないし。だから、たった一週間でも人と会えないと、不安というか寂しいというか、妙な気持ちになってきちゃうのよ」
この気持ち、人間には分かんないだろうなぁ、とはにかむ妖怪の彼女は、まるで恋人との逢瀬を待ち望む少女のように見えた。
確かに、この百年の間に人と妖の関係は一変してしまった。
原因は言うまでもなく幻想郷が外界から隔離されたためである。前代の御阿礼の子、阿弥が存命中に起きたこの一大事件によって人妖は呉越同舟を余儀なくされてしまったのだ。
もちろん、当初は誰もが昨日まで命のやり取りをしてきた相手と共存することに戸惑っていた。形ばかりの“襲い、退治する”関係も完全には守られず、以前と変わらぬ争いがしょっちゅう起きていた。
結局、幻想郷に変化が訪れるよりも先に阿弥のお迎えが来てしまったため、彼女の記憶は混沌としたまま終わっている。そして、大きなブランクを挟んで私が記憶を始めた時、幻想郷はすっかり変わってしまっていた。
妖怪が里を訪れ、人間も妖怪の家へ遊びに行くなんて、阿弥の時代には考えられなかったことだ。花屋で淑やかに買い物を楽しむ大妖怪を見かけた時など『あの幽香がねぇ……』とつい口に出してしまい、とびっきりの笑顔を向けられてしまったほどである。
ただ、前代との記憶の差にショックを受けると同時に、幻想郷が変わったからには幻想郷縁起もこれまでにない新しいものに生まれ変わらなければならない、という決意も沸き起こっていた。
今、そして未来の幻想郷に役立つ書物になるよう、あれやこれや私なりに模索したつもりだ。妖怪側からのアピールを取り入れたり、私生活について踏み込んでみたり、挿絵を多用し文章を柔らかくしてとっつきやすくもした。
こうした試みは妖怪たちに受け入れられていたのだろうか。
「わかさぎ姫さん」
「なぁに?」
「取材を始める際、先立って私が発行した幻想郷縁起を読まれたことがあるとおっしゃっていましたが、私よりも前の御阿礼の子が書き記した書物を読まれたことはありますか?」
「昔の幻想郷縁起なら……そうね、江戸に都があった頃だったかしら。友だちが人里から盗んできた写本を一緒に眺めたことがあったっけ。読んでいる途中で眠っちゃうほど退屈な本だったと記憶してるわ」
「阿七か阿弥の時代ならそんなものでしょうね。それと比べてどうでしょう、私のは?」
考えてみれば、八雲紫といった大妖怪に本の校正を頼んだことはあれども、わかさぎ姫のようなごく普通の妖怪に感想を聞いたことはついぞなかった。
自然と袖を握る手に力が入り、身が乗り出てしまう。
「そうねぇ」
彼女の瑠璃色の瞳が光った。いや、光ったのは私の方かもしれない。
「天狗の新聞みたい」
「あふんっ!?」
乗り出していた身が崩れる。
ついでに脇に置いてあった竹器が転げ落ち、岩に当たって間の抜けた音を立てた。
「あら、身体が冷えちゃった?」
「い……いえ。予想外の方向から弾幕が飛んできただけです」
「?」
我ながら強張った笑顔でどうにか取り繕う。
それにしても天狗の新聞、か。
別に妖怪の発行物が嫌いという訳ではない。何を隠そう私も文々。新聞の愛読者で、毎号楽しみに読ませてもらっている。
ただ、あれは小鈴なんかと一緒に笑いながら読むもので、私の幻想郷縁起はもっとこう、読みやすくて真面目な本を目指したつもりだったのに。
「以前よりフランクにしたから新聞みたいでいい……いいのか?」
「私は良いと思ったけど」
頭を抱える私にのほほんとした声がかけられる。
「だって妖怪が普段どんな生活を送っているとか、どんな性格をしているかとか、詳しく本人に取材して書いてあるでしょ。人間に対して絶好の宣伝になるし、水から上がれない私には会ったことのない妖怪たちのことを知る良い機会になったわ。あと、竹林の藤原さんが忍者の末裔だなんて本当かどうか分からない話を面白おかしく書いてたし」
「あれはきちんとした情報に基づいて出した結論だったのですが……」
「霧の湖にはわかさぎ王子がいるって変な記事を書かれて抗議した時、射命丸さんも同じことを言ってたわよ」
「うぐぐ」
やはり天狗の記者と同列に扱われると嫌な声が漏れてしまう。
射命丸文だって彼女なりに真面目にやっているのだろうけど、どうも物事を誇大に書き立てる傾向があったり、論理に飛躍が見られるというか。鈴奈庵に出入りしている女性の頭にたまたま葉っぱが乗っているのを目撃しただけで『化け狸が貸本屋の少女をたぶらかそうとしている!』という号外をばらまきかねない。
「そこも含めて身近に感じるのよ」
「身近、ですか」
「ええ。昔の幻想郷縁起は妖怪の退治方法とせいぜい、いつどこで遭遇するかくらいで、まるで人相書のよう……実際のところ人間にとってはそうだったのでしょうけど。それが今やみんなが楽しめる妖怪新聞、じゃなくて大百科かしら。記事に載るだけで妖怪としての箔がついちゃう」
わかさぎ姫はご機嫌で尻尾をふる。飛沫とウロコが服にかかったが、あまり気にはならなかった。
「紅魔館の門番さんが話してたわ。幻想郷縁起が出た後、館に向けられる人間の視線に畏怖と崇敬の気が強くなったって。それに怖いもの見たさの野次馬が増えてお嬢様の退屈しのぎにもなったとか。ここまでは望まないけど……私の記事もちょっとは期待していいかしら?」
遠くの紅魔館に注がれていた熱っぽい視線が私にのしかかる。やたらと重そうだが、私も物書きだ。こんなに褒めてくれる読者の期待を裏切るわけにはいくまい。
「ええ。珍しい石が山ほど貢がれる程度には期待してくださいね」
わかさぎ姫のきょとんとした顔は、すぐにはじけて笑顔に変わった。
湖面にたゆたう陽光のようなほほ笑みを前にすると、丹精込めて作った私の本が天狗の新聞と同列に扱われるのも、まあ、悪くはないなという気分になってくる。まったく、我ながら現金なものだ。
竹器を拾い直して水筒に残っていた酒を全部注ぎ、嬉しいやら恥ずかしいやらと一緒に飲み干した。
「あーあ。これなら影狼ちゃんとの約束を早めにしておけば良かった。そうしたら彼女も一緒に幻想郷縁起の記事を作ってもらえたのに」
「カゲロウ?」
再開した取材もあらかた終わり、そろそろお暇しようと思い始めていた時、インタビューでお腹いっぱいという感のわかさぎ姫が唐突につぶやいた。
「狼女の今泉影狼。私のお友だちよ」
「先ほど話されていた狼女ですか。捕食者と仲良くなるなんて、あなたも度胸がありますね」
「あっ、あれは不幸な行き違いがあっただけよ! 影狼ちゃんはとっても優しくて私の一番の友だちなんだから! 今日だって一緒にライブへ行く約束をしてるんだから!」
「む。ライブがあるのですか?」
聞き捨てならないキーワードがあったので、すかさず切り返す。
何を隠そう、私は紅茶と音楽には目がない。特に惹かれるのは新しいタイプの音楽だ。幺樂団はもとより、プリズムリバー楽団や鳥獣伎楽の音楽は、昔ながらの長唄や箏曲とはまったく異なる魅力を備えているのだ。
しかしながら、これらのグループは人外で構成されていてファンも妖怪が多いため、里から離れた場所でライブが開かれることなど日常茶飯事である。里で講演が行われることもあるが、妖怪の山で開催ということになると実質、妖怪限定のライブになってしまう。そもそも人間側に情報が入ってこないことさえあるのだ。
何が何でも参加するという猛者もいるにはいるが、私にはそこまでもエネルギー、もしくは狂気はない。
だからこそ、常日頃からアンテナを張って、機会に巡り合ったら喰いつくよう心がけているのだ。
「そうよ。プリズムリバー楽団の満月ライブ。夕刻から夜明けまで一晩中騒ぎ通すのよ」
「わあっ、楽しそう!」
「しかも今回は堀川雷鼓と九十九姉妹が特別ゲストとして出演するの」
「なんと、あの付喪神の」
堀川雷鼓と九十九弁々、九十九八橋はつい最近の異変で誕生したばかりの妖怪だ。太鼓や琵琶といった伝統的な楽器の付喪神ながら、かなりイケてる音楽を奏でるらしい。
残念ながらまだライブも取材も行けてないのだが、ひょっとするとこれは絶好の機会かもしれない。
「ううむ……ぜひとも聞きに行きたいです」
「あら、私たち気が合うみたいね」
わかさぎ姫は虫さえ殺せなさそうな笑顔をするくせに、音楽の趣味はなかなかのようだ。
「太陽の畑で開催だから私一人で行けなくてね。それで影狼ちゃんにおんぶして運んでもらおうと思ってお願いしたの。彼女、満月の日はあまり動きたくないから頼むのに苦労しちゃった」
「あー、陸は駄目ですもんね」
びちゃびちゃと水を飛ばす尻尾を見ながら相づちを打つ。
聞くところによれば巫女や魔法使いたちと勝負をした時も、終始水の中から弾幕を放っていたそうだ。人間でさえ平然と空を飛ぶ幻想郷において、活動範囲が水中とその周辺に限定される彼女はかなり特殊な部類に入るのではないだろうか。
「もうしばらくしたら湖に来てくれるはずよ。もっと早い時間に来てくれるよう頼んでおけば、取材を受ける時間もあったのに」
「太陽の畑に向かいながら取材というのもアリですよ。というか同行させてください。そのライブ、ぜひとも聞きたいので」
「うーん。私も阿求さんと一緒に楽しんでみたいんだけどねぇ」
と、急に言葉を切ったわかさぎ姫が天を仰ぐ。
「どうも天気が怪しいのよ」
「あ」
つられて上を向いた私の目に、墨汁をぶちまけたかのような雲が飛び込んできた。
さっきまで曇りとはいえ高曇りだったのに。
「たぶん、影狼ちゃんが来る前に降り出すんじゃないかな。それもライブが中止になるかどうかって勢いで」
「そんなに降るんですか」
「これでも水には敏感なのよ。間違いないと思うわ」
わかさぎ姫が影狼との逢引きを邪魔されたくないがために嘘をついている、というわけではないだろう。これでも多数の魑魅魍魎をインタビューしてきた身だ、彼女がそのような悪知恵を働かせる妖怪でないと見抜くくらいの観察眼は持っている。
それに、かつて河童の河城にとりを取材した時にも、これからしばらくは雨が続いて嬉しいと予言めいたことを話していたと記憶している。ここは大人しくわかさぎ姫の言葉に従うべきだろう。
「ならば私も里へ帰った方が良さそうですね」
「雨具は? 傘代わりに使える大フキなら向こうに生えてるけど」
「ご心配なく。コウモリ傘があります」
「そう……それならライブを諦めてすぐ帰れば大丈夫だと思うわ」
ライブ。
そうだ、濡れずに家へたどり着くにはライブを諦めなくてはならないのだ。ああ、ルナサの幽愁に満ちたヴァイオリン、メルランの情熱的なトランペット、その二人を調和させるリリカのキーボード。そして何よりも、未だ謎に包まれた付喪神たちの音楽。潔く諦めるにはあまりにも大き過ぎる。
「ごめんなさいね。もっと早めに注意しておけば良かったのに。御阿礼の子って身体が弱いんでしょ? 雨に当たって風邪でもひいたら大変だわ」
「あはは……若い内に転生をするから短命なのであって、他の人間と比べて際立って病弱ということではないんですよ」
「あら、そうなの?」
もっとも、病弱ではないとはいえ、豪雨の中でライブを楽しめるほど人間離れしているわけではない。第一、ライブだって開催されるか分からないのに……こうやって頭では納得しているつもりでも、未練は私の髪を引っ張り続けているし、自分の中の原始的な感情は音楽を渇望している。
私は内心のもどかしさを表に出さないよう努めつつ、わかさぎ姫に礼を言った。
「もう雨も降り出しそうですし、そろそろお暇させていただきますね。今日は取材を受けていただき、ありがとうございました」
「いーえいえ。私も自分のアピールができて楽しかったし、記事になるのを期待してるから。あ、お昼ごはんとお酒もありがとうね」
「帰ったら好評だったと伝えておきます。では、失礼します」
「じゃあね~」
広げていた荷物を手早くまとめ、霧の湖を後にする。
わかさぎ姫はこのまま狼女を待つようで、岩に腰掛けたまま手を振り、私を見送ってくれた。
「寄り道したりライブに行っちゃ駄目よ~」
「こ、子どもじゃないんですからっ!」
彼女の瑠璃色の瞳に内心を見透かされたようでドキリとし、手を振り返して誤魔化す。そんな私の心を知ってか知らずか、暢気に笑い続けるわかさぎ姫を冷たい風が運んできた桜吹雪が隠した。
岸辺で遊んでいた妖精たちの姿はすでになく、頬に当たる風も冷たさを増しているようだ。
水に鈍感な人間でも分かるほど、幻想郷は雨の気配に満ちてきていた。
「私の馬鹿! 馬鹿っ!!」
やっぱり私は子どもだった。
猛烈に降りつける雨の中、私はその事実を嫌というほど噛みしめている。
わかさぎ姫と別れてすぐは順調だったのだ。それが里へ向かう道と太陽の畑へ向かう道の分岐点に着いた時、ほんの僅かな時間だが欲望に耳を傾けてしまったのである。
もしかしたらライブ会場を紅魔館に移して実施するかもしれない。もしかしたら雨が降らないかもしれない。河童の川流れとも言うではないか。
稚拙な葛藤で足踏みしている間にも、雲はより濃く風はより強くなっていった。我に返って足を里の方角へ走らせた瞬間、ついに第一滴目が空からこぼれ落ちたのだった。
後はあっという間だった。雨はたちまち自分の声さえ聞こえないほど強烈になり、吹き荒れる風は貧弱なコウモリ傘を攫っていった。水煙が春の花々をかき消し、かろうじて泥濘と化した道が見えるだけだ。
私は手帖を入れた風呂敷を守りつつ、必死に道を駆ける。
しかし、全身に叩きつける雨粒が体温を、足にまとわりつく泥が体力を奪っていく。こんな過酷なマラソン、普通の人間はおろかそこらの妖怪だって勘弁願いたいところだろう。いわんや御阿礼の子をや、なのだが悲しいことに私には走って里を目指すという選択肢しかない。
かくて馬鹿の総天然色見本は怨嗟のつぶやきを漏らしながら、もつれそうな足を動かすのだった。
「もう……無理」
ようやく里を囲む田畑の端っこにたどり着いたところで限界が訪れた。
不幸中の幸いとでも言うべきか、水煙の先に農家の人が休憩に使ったり農機具を保管しておく野良小屋を見つけ、まともに動かなくなった両足を叱咤して小屋を目指した。
「た、助かった」
戸に施された妖精・妖獣避けの封印を解き、中へ滑り込む。
熟成された埃と土の臭いに包まれるが、それさえ芳醇な日本酒の香りに感じられるほど、私は疲れ果てていた。
積み上げられた藁に倒れたくなるのを堪え、もはや衣服としての機能を放棄した着物を脱ぎにかかる。恥ずかしいとか、誰もいないから大丈夫だとか、そんなことを思いつく余裕もない。ただ無表情に服を脱ぎ、壁にかかったクワやスキの隣に干す。同様に風呂敷と中身も干し、俵の上にたたんであった手ぬぐいで全身から滴る水を拭き取り、やっと一息つくことができた。
名も知らぬ農家の方に感謝しながら藁の中へ沈む。野菜の苗を冷害から防ぐ敷き藁にするつもりで置いてあったのだろう。肌にチクチク刺さるのが難点だが、保温性は抜群。今の私にとっては天蓋つきベッドよりもありがたい存在だ。
無事に里へ帰ったらこの野良小屋の持ち主に礼を言いに行かねば。
濁りきった思考でそんなことを考えているうちに、雨音が遠くなっていき、私は薄暗い室内から闇の底へと落ちていった。
「……っ!」
全身を貫く悪寒に目が覚める。
うかつだった。
濡れた身体は拭いたとはいえ下着一枚というあられもない姿。加えて春とは思えないほどの冷気。いくら藁の布団があっても寝るべきではなかった。
「さ、寒い……」
大急ぎで乾かしてあった服に駆け寄るが、まだしっかりと濡れている。
寝ていた時間はほんの少しだけだったようだ。それでいて身体は芯まで冷え、震えが止まらない。
これはひょっとしなくても危険だ。
慌てて小屋の中を手探りで動き回るが、身にまとえそうなものは湿った手ぬぐいしか見当たらない。これでは無い方がマシである。
震える身体を抱きしめながら野良小屋の闇とさらに格闘すること数分。隅に小さな釜戸が申し訳なさそうに存在していることに気づく。すぐさま風呂敷の中身から火打ち石を選ぶ。帰りが遅くなった際に備え、提灯とそれに火をつける道具一式を携帯していたが正解だった。
希望の火を灯すため、さっそく火打ち石と火打ち金を打ち合わせて火種のもぐさへ火花を散らす。が、つかない。風呂敷ごとびしょ濡れになってしまったせいだろうか。藁を持ってきてそちらに火花を出してみるが、こちらも湿気を吸ってしまったのか煙さえ上がらない。
次第に深くなっていく闇に怯えつつ、震える手で石を打ちつけ続ける。ほぼ裸で石をカチカチやる姿は傍目から見れば滑稽だろうが、私にとっては生きるか死ぬかという問題なのだ。
もし火がつかなかったら、翌日に心配して探しに来た家人によって私の亡骸が発見され、鴉天狗がはしたない死に様を収めた写真を一面に載せた新聞を幻想郷中にばら撒くに決まっている。稗田阿求の名はどうしようもない原因で死んだ御阿礼の子として永遠に記憶され、四季映姫・ヤマザナドゥに無限に続くとも感じられる説教を受けるだろう。
「ちょっと待って。転生の儀を行わずに死んだ場合、転生して十代目の御阿礼の子として生まれ変わることを許される……の?」
恐ろしい予想が頭をかすめ、悪寒が一気にひどくなる。
あの閻魔なら土下座しても許さないだろう。そうなったら御阿礼の子は私の代で絶えることになってしまう。そうなったら幻想郷縁起は、幻想郷の未来はどうなってしまうのだろうか。
「まだ付喪神の演奏だって聞いてないのに!」
ありったけの殺意を込めて火花を散らした時、水と泥をはねのける音がしたかと思うと、小屋の壁が大きく揺れた。少し遅れて荒い息づかいが耳に届く。
まるで、雨の中を走ってきた何者かが、野良小屋の軒下にたどり着いて一息ついたかのようではないか。
「!!」
反射的に扉へ飛びついて音を立てないようにカンヌキを閉めた。
こんな雨の中、まして満月の日の夕方に里の外を出歩く人間はまずいない。私の捜索に来た家人の可能性もなくはないが、雨が降り出してから外出した人が、雨具を持ち合わせていない者のような行動を取るだろうか。
幻想郷が特殊な土地であることを考慮すると、十中八九、外にいるのは人間ではない。それも、雨具や雨避けの術を持たない低級な妖怪、あるいは妖獣の可能性が高い。
今までとは異なる種類の恐怖が冷えきった身体を駆け抜ける。
私は握ったままだった火打ち石をその場に置き、壁にかけっぱなしだった着物から懐剣を取り出した。これは万が一のことを考え、取材時には肌身離さず持ち歩いている唯一の護身用具だ。
現在、幻想郷で暮らす人間にとって幻想郷は安全になった。それでもごく偶に間違いが起きることがあるし、田畑や道といった人間の縄張りから外れれば熊や狼のような危険な野獣も出る。
だから日常的に里の外へで活動する人間はお守り的な意味合いも兼ねて、何かしらの武器を携行している。それは御札であったり刀だったり。私の懐剣は阿余の時代から使っている由緒あるものだ。巫女によると、長く使い続けているせいか普段から霊力のようなものが放たれているらしい。精神が主体である妖怪はこうした伝統や由緒のある武器を自然に察知して警戒するらしく、私の代になってからは一度も危ない目にあったことはなかった。
しかし、その記録も今日まで。
手入れの時しか抜いたことがなかった刀を、慎重に鞘から出す。それから怪しい手つきで握りしめる。戸口の方へ向けているつもりなのだが、震えのせいで切っ先が一向に定まらなかった。
外からは雨音に混じって湿っぽい足音が響いてくる。どうやら入り口を探しているらしい。
懐剣を握り直すや否や、扉が揺れてカンヌキが不気味な悲鳴を上げた。ほとんどすがるように懐剣を握るが、うまく力が入らない。
「ハッ、ハッ」
悪寒と荒れ狂う心臓で身体がどうにかなってしまいそうだった。そして、こんなにも怯えてしまっている自分が情けなかった。
なぜ、外にいる化け物を信用できないのか。
あれほど幻想郷は変わった、私の幻想郷縁起も変わらなくてはならないと自負していたのに。襲われることがあっても命までは取られず、人間側だって本気で妖怪を退治しない、そうした新しいシステムが私の代でやっと機能するようになったと喜んでいたのに。
確かにルールを理解する理性に乏しい魑魅や妖獣もいる。だが、幻想郷の人間をむやみに傷つければ、巫女や妖怪の賢者によって恐ろしい報復が行われることを身を持って学んでいるはずだ。まして、今、外にいるのはきちんと扉を開けて小屋に入ろうとする知性の持ち主なのだ。どうして新しい幻想郷に身を委ねられないのだ。
私はもう汗なのか涙なのか鼻水なのか、良く分からないものにまみれながら、それでも刀を捨てることができなかった。
不意に視線が一段低くなる。
呆気にとられていると、今度は懐剣が手から滑り落ちて鋭い音を立て、次の瞬間には自分もその隣に横たわっていた。
ついに身体が言うことを聞かなくなったらしい。もはや床に頭をぶつけて痛い、という感覚さえ働いていなかった。
急速に視界が狭まっていく。何故か、あれほどうるさかったカンヌキがピタリと鳴り止んでいた。かすかに、礼儀正しく戸をノックする音が聞こえた気がした。
うめき声が充満していた。これは、里を襲撃した妖怪と退魔師たちが戦った後の記憶だろう。破壊された家屋の周囲で人も妖も関係なく倒れ、わずかに生き残った者からも命の灯火が奪われようとしている。
次に聞こえてきたのは苦しみに溢れた叫び声。あの当時、他所は維新だの文明開化だので浮かれていたが、新しい時代に対応できなかったものは悲惨だった。幻想郷は行き場を失った魑魅魍魎やら侍やらでごった返し、乱れに乱れていた。薄いヒエの粥で一日をしのいでいた記憶など嫌で仕方がないのに、わざわざこれだけが後の代まで残ってしまうなんて、まったく自分の力が恨めしい。
と、妙な怒りに発露しているうちに世界が白んでいき、ぬくもりが生まれた。
浴槽に張ったお湯よりも暖かく、母親に抱かれているみたいに心が落ち着く。私は雨に濡れて凍え死にそうになっていたはずなのに、
「……なんで?」
目を開いても視界は暗いままで、周囲に火の気もなかった。外では相変わらず土砂降りの雨がけたたましい音を立てている。なのに、どうしてこんなにも暖かいのだろう。
「んー」
原因を探って視線をさまよわせる。
身体が動かないのは疲労や低温のせいではなく、全身が何かに覆われているためのようだ。ふかふかとして素肌にも優しく、毛布か毛皮のような心地良さがある。
え……毛皮?
「あ、起きた?」
「わひゃあっ!?」
突然、耳元でささやかれ、脳が一気に覚醒する。というか覚醒し過ぎて乙女に似つかわしくない声が出てしまった。
「わわっ! こっち見ちゃ駄目!」
「ぐえっ」
反射的に振り返ろうとするも、両目の部分を押さえられて無理やり阻止される。
若い女の声なのにこの力強さ。間違いない、彼女は妖怪だ。
「ごめん。痛かった?」
「なんとか大丈夫です。それよりも、その……助けてくださりありがとうございます」
小屋の中が暗くて助かった。もし明るかったら真っ赤に茹で上がった顔を見られていただろう。
懐剣を必死にかまえていた自分がとてつもない阿呆に思えてくる。意識を保ったまま対面していたら、一週間は家に引きこもっていたくなるほどへこんでいただろう。いや、刀と一緒に倒れていたらどのみち私が何を考えていたかバレているか。
とりあえず知り合いの妖怪でなくって良かった……こんな毛むくじゃらの妖怪は毛玉しか記憶にないけど知り合いじゃないよね?
「いやぁ~無事で良かったわ。姫に予想よりも早く雨が降り始めて心配だからって頼まれたのはいいけど、雨で臭いが散ってて迷っちゃってさ。やっとここにたどり着いても戸が閉まってるし。ああ、人里に帰ったら持ち主に詫びておいてくれないかしら」
「それはかまいませんけど……姫とはわかさぎ姫のことですか?」
「稗田阿求さんだよね? 私、わかさぎ姫の友だちの今泉影狼」
「あっ、わかさぎ姫さんを誤って食べようとした狼女の」
「……その覚え方は勘弁して欲しいかな」
「すみません」
目を塞ぐ手がわきわきと動いてくすぐったい。
けれども、これで合点がいった。わかさぎ姫はライブよりも私の安全を選んでくれたのだ。今日、初めて会ってインタビューをしただけなのに。今度、里一番の銘菓と珍しい石を持ってお礼に行かなければいけない。もちろん命の恩人の狼女さんのところにも。
それにしても、狼女とはこんなにふかふかしているものなのだろうか。里の慧音女史だって満月の夜に変身しても尻尾と角が生えるだけなのに。
影狼の暖かさで探究心が解凍されたのか、にわかに全体像が気になってきた。
「あの、目隠しを外していただいてけっこうですよ。もう暴れませんから」
「やだ」
「や、やだって……」
「毛深い姿を見られたくないもの」
なるほど。誰だって恥ずかしい姿は見られたくないものだ。しかも相手が心を許した親友どころか、初めて出会った人物ならなおさらである。
私の下着姿は見たのに不公平だ! というわがままな考えが首をもたげかけ、慌てて消す。服を脱いでいたのはこちらの勝手であるし、暖めるには服を着たままより都合が良かっただろうし……あれ?
今の私は裸に近い格好なのだけど、全身にもこもことした毛の感触を感じる。それに加えて毛深いという発言。そこから導き出される答えは、影狼も服を脱いで私を抱きしめているということではないか!
「!?」
身体がこわばったのが伝わってしまったのか、耳元で不安気な声が響く。
「私の毛、臭う? 異変の時に戦った巫女に獣臭いって言われちゃったんだけど」
「そんなことありません! 全然臭わないし……それにとても暖かいです」
「本当!? あれから毎日手入れしてたのよ!」
よほど嬉しかったらしく、両肘と足を使って器用に抱きしめられてしまう。臭いがしないのは世辞ではないし、暴れん坊巫女に傷つけられたプライドが癒されるならけっこうなことである。ただ、こうやってギューッと抱きしめられると、背中に感じる二つの何かが強く押しつけられて非常に困るのだ。
正直、でっかい。
「お……おおぅ」
今すぐにでも逃げ出したい。しかし、身体はがっちり拘束されていて振りほどくのは不可能だし、善意で暖めてもらっている分、断りにくい。なにより、この室温の中を下着一丁で過ごせるほど体力は回復していなかった。
私が逡巡している間にも、羞恥心は猛攻を続ける。
小鈴のような友人はおろか、家族にだって見せたことのない姿を披露してしまっただとか、毛皮一枚(?)へだてた先に他者のぬくもりを強烈に感じるとか、そのくせ相手は裸同然の姿でこれまた同じような状態の人間を抱くよりも見た目や臭いの方を気にしてるだとか、諸々の情報が頭の中で混ざって今にも爆発しそうだ。
「どうかしたの?」
「いえっ。あのその……えーと」
このままでは私一人が恥ずかしがったり、人間と妖怪をへだてる巨大な意識の差に驚き、もだえ苦しむだけだ。
気を紛らわせるためにも、適当な話題を求めて混乱する脳を回転させる。
「そうだ、影狼さんはどうして私を助けたんですか?」
「どうして、って言われても……」
予想外の質問だったのか、私を抱きしめる力が少しだけ弱くなった。
「姫にお願いされたからかなぁ」
「友人の頼みとはいえ、私はそれまで挨拶をしたこともない赤の他人、しかも人間です。探すフリをして戻るとか、探したけど見つからないかったとか、いくらでも誤魔化しようがあると思うんですが」
「……阿求さんって見かけによらず意地が悪いね」
「あだっ」
眉間のあたりに軽く爪を立てられてしまった。
影狼の怒りはごもっともだ。私だって助けた相手に妙なことを無遠慮に聞かれればへそを曲げてしまう。気が動転していたとはいえ、あまりに不躾な質問だった。
謝罪をしようと口を開きかけた時、再び私を抱きしめる力が強くなった。
「そりゃあ、私だっていっぱしの妖怪よ。妖怪と人間が“敵味方”の関係だということは理解しているつもり。仮にあなたが普通に雨宿りしていたら何もせず帰るつもりだったわ。もしかしたら軽く脅かしていたかもしれない。今宵は満月なんだからそれくらい許されるでしょう?」
私は全身に押しつけられるふわっとした毛の感触を味わいながら、黙って聞いていた。
「でも、驚かされたのは私の方だったわ。びっくりしたわよ~、中は静かだと思っていたら急に人が倒れる音がするんですもの。戸をこじ開けてみたらすっぽんぽんの女の子が震えてるし」
影狼はいったん言葉を切ると、私の首をグイッと横に向けた。
不意打ちに何もできずにいると、背中にもぞもぞとした毛の動きを感じ、次の瞬間、私は闇の世界から解放されていた。
「アタシ、キレイ? は他所様の決め台詞か。真似しちゃいけないわね」
初めて目を開いたひな鳥は最初に見たものを母親と認識するそうだ。その気持が、ちょっとだけ分かった気がした。
暗闇でも鈍い光沢を放つ紅色の瞳。すらりと整った鼻と口。漆黒とはまた違った輝きを持つ黒髪。その上にちょこんと飛び出た人ならざるものの耳。
彼女はとても綺麗で、まごうことなき妖だった。
「このとおり私は化け物よ。時にはあなたたちを襲うこともある。けれど、自分と似たような姿形をした存在が目の前で死にかけているのを、平然と無視できるほど心がないわけではない。それに……」
端正な顔がニイッと崩れる。
「死人を脅かしたところで何もならないし」
彼女の口から牙がまる出しになるが、不思議と心臓が跳びはねることはなかった。
本来なら恐怖の対象であるはずの牙は、どこかいたずらっぽく光っていて、手が押さえられていなければついつい触ってしまいそうなほどだった。人間ではありえない色に輝く瞳でさえ、眼の奥に焼きつけて胸の中にしまっておきたくなる。
どうにか手を動かせないものかと思案していると、私は再び闇の世界へ招待されてしまった。
「話はこれでお終い。まだ身体が冷えてるんだから、ゆっくり休んでね」
あれよあれよという間に彼女の胸に抱かれ、全身を毛で包まれる。ただ、さっきと違って恥ずかしさにもだえることはなかった。
私も彼女もしばらく一言も発することはなく、しぶとい雨音だけが野良小屋を震わせていた。
「……影狼さん」
「なに?」
「ありがとうございました」
「お礼はさっき聞いたわよ」
「さっきとは違うお礼です」
「んー。じゃあね、お礼として私の記事を妖怪大百科に載せてよ。私も姫と一緒に人間へアピールしたい」
「お安い御用です……近いうちに取材へ行きますね」
「やった。普段は霧の湖のあたりか竹林にいるから。くれぐれも満月の日に来ないでよね? 毛深い時の挿絵に載せられるなんて嫌だから」
気をつけます。
そう応えたのは口か、それとも心だったか。
「んあっ」
小鳥たちのおしゃべりに起こされる。
「もう朝……」
あれほどやかましかった雨音は影も形もなく、カンヌキが壊れた戸口の隙間からは陽光が溢れていた。
ここで覚醒してきた頭が違和感を訴える。全身の感触がどうもおかしいのだ。
「……っ! 影狼さん!」
自由になった手足をばたつかせても、藁の束が宙に舞うのみ。あの優しいもふもふはどこにも見当たらない。
私を暖めてくれた狼女は嵐と共に去り、代わりに藁の中へ寝かせてくれたようだ。しかもすっかり乾いた服に包まれていたおかげで、藁のチクチクはほとんど気にならなかった。
「服、着せてくれたんだ」
まるで夢のようである。
でも、藁に混じった栗色の毛たちが昨夜の出来事が夢ではなかったことを赤裸々に教えてくれている……実際、赤裸々という表現がこれ以上ないほど似合っていたが。
夢でなかったと教えてくれるのは毛だけではない。彼女の跡は全身に残っている。
「ん。影狼さんの匂い」
やっぱり臭くないじゃないか。洗剤が良いのか元々臭わないのだろう。今度、取材に行った時にどんな手入れをしているのか聞いてみるのも良いかもしれない。
服を整え、干してあった手帖や懐剣を風呂敷にまとめ、室内に向けて黙礼してから小屋から出る。
外は曇天のうっぷんを晴らすようにきらめいていた。
太陽は春とは思えないほど地面を照らし、雨風を耐えた花が幻想郷に彩りを添えている。木々は嵐に負けるどころか、昨日よりもさらに多くの緑を芽吹かせているようだ。
私は八重桜の並木をくぐり、里の方へと歩を進めた。
「そうだ」
水の溜まった田畑を眺めている時、ふと思いついて風呂敷を開いた。
矢立から筆を取り出し、しわしわになった手帖をなぞる。
『今泉影狼は胸毛が濃い』
「むう……」
これはちょっとひどい。伝えたいことがせいぜい私とわかさぎ姫にしか伝わらない。幻想郷縁起の記事には不的確だ。
暖かい風が吹きつける中、生まれ変わった縁起にふさわしい文章をひねり出す。
『そして極上の触り心地である。一緒に寝れば快眠間違いなし』
小鈴あたりが読んだら問い詰めに来るかもしれない。
けれども、本当のことなんだから仕方ないじゃないか。
ちゃんとフォローの文章が後に続いていてほっこりしました
取材シーンの姫も毛深い影狼もみんな可愛い
野球しようぜ
面白かったです。
モフモフの記憶は次の代まで引き継がれるのか楽しみだ
はやく影狼が載った阿求の本読みたいですね
完成した縁起を見てちょっと怒って、それでも笑顔な影狼さんの姿が目に浮かぶようです