宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンが目覚めたのは千と一夜を経た朝だった。ある冬の終わりに際して、数多の生物の覚醒とまさに入れ替わるようにして彼女たちは眠りはじめた。もちろん、この驚異的な睡眠について、記録はいっさい残っていない。これは彼女たちの個人的な体験である。もっとも、完全な睡眠を体験と呼べるならば、だが。
彼女たちは打ち棄てられた灰色の遺跡に横たわっていた。記憶によれば、最後に眠った場所はどちらかの自室だったはずだが、長い夜の風化にすべては塵となっていた。遺跡は、かつては巨大な神殿のようだったが、今や完全な円形を成す祭壇の部屋と、装飾が施された無数の石柱の名残がかろうじて判別できるだけだ。二人は一組の供物のごとく、この祭壇のちょうど中心に整然と並んで眠っていた。
千と一夜、真円、そして睡眠……これらの神秘的な記号に、彼女たちは疑いを抱いた。つまり、これはまだ夢なのではないかと蓮子は言った。「だったら何の問題があるの」マエリベリー――メリーはためらわずに反論した。「夢の中で夢を見ているなら、少しずつ覚めていけばいいのよ。居る階層が違うだけ」
メリーは立ち上がり、部屋の四方にある階段の一つへ歩を進めた。蓮子も遅れて後を追った。まるで真昼のようにまったくの抵抗なく身体は動いた。しかも、身に纏う衣服が寝間着ではなくいつもの格好――白のブラウスに黒のスカート、そして黒い帽子――であることに気が付くと、ますますこの状況への疑いが募った。
二人が降り立つと、そこには灰色の砂漠が開けていた。風化した遺跡の砂が遺灰のごとく大地を覆っていたのだ。ある程度の距離までそれは続いており、そこから先はすべて暗い森だった。神殿、砂漠、森林――ここにあるのは同心円状に広がる三つの景色のみだった。三者を仲介する曖昧な中間地帯はなく、ただ純粋な神殿と砂漠と森林とがあり、それぞれには明確な境界があった。神殿と砂漠の境界はあの階段である。砂漠と森林の境界は一つの石柱だった。その柱は、同種のほとんどが砂に埋没している中、森林の傍で孤独に直立していた。蓮子は珍しがり、あれこれとこの驚異の原因を探った。一方でメリーはトリフネの鳥居を連想したが、それを口には出さなかった。夢の中の夢――自身の言葉がためらわせたのだ。
「日が暮れるまでに探索を進めないと駄目ね」
砂漠からわずかに覗く石柱に腰かけながら、蓮子は言った。メリーは頷いた。問題は、これを二人一緒に行うか、別々に行うかということだが、二度ほどのやり取りですぐに決まった。知らない土地でわざわざ別れるのは愚策である。そもそも日暮れが存在するのかはまだわからなかったが、空を仰げば太陽らしき光源がゆるやかに昇りつつあったので、おそらくありうるのだろうと彼女たちは推測していた。
何もかもが不明だったが、一つだけ幸いなことに、水の確保は簡単に済んだ。階段のふもとに井戸らしきものを発見したのだ。祭壇と同じく風化を免れたそれは確かに機能しており、水源もある程度潤沢に見えた。次は食糧を確保しなければならない。そのためには、不毛の砂漠ではなく、鬱蒼とした森林に分け入るしかなかった。食事を断っていては、きっと心身ともに衰弱してゆくことだろう。
奇妙なことに、どこへ行っても日差しは一定の強度を保っていた。森の奥深くにさえ変わらず光は及んでいたので二人はまた議論し、同時にこの世界はやはり夢なのではないかとふたたび疑いはじめていた。
「不思議だけど、貴重な体験だわ。ここには天然の物だけがある」と蓮子は言った。いかにもこの状況を楽しんでいる風だった。
「夢なのに天然?」
ふと足元の草木の高さにしゃがみこむと、メリーは茂みの中からひときわ目立つ鮮やかな赤色の実を白い指先で摘み取った。
「これがメリーの夢なら全然おかしくないでしょう」
「でも、目覚めなきゃそれは確かめようがないわ」
指先は、星屑のように小さな実をしばらく弄んでいたが、やがてつれなく弾いた。メリーは蓮子の方へ向き直り、先へ進むことを促した。
先に発見したように、ここの地形は同心円状に広がっているため、森林を探索するにしても、ひたすら円の外側を目指す仕方と、円周を旋回する仕方との、二つの道があった。蓮子は前者の方が食糧を見つける蓋然性が高いと主張し、メリーは安全面から後者を推した。
「果てしなく進んでも、帰り道が大変だわ」
「でも、風景だって同心円状かもしれない。森林の奥にまた新たな景色の円が取り巻いている可能性もある」
蓮子はそう反論したが、メリーは頑として退かなかった。「安全のためにこうして二人一緒に行動しているんだから、ここでわざわざ危険を冒すのは矛盾よ」
そうして、結局メリーの案に従うこととなった。これ以上森の奥には進まないように注意して二人は歩き続けた。一巡したが、森は常に沈黙していた。この世界には自分たち以外の動物などいないのではないかと彼女たちは思いはじめていた。日が落ちる速度に従って、二人はますます急いだ。しかし、無駄だった。端的に結果を言えば、収穫はいっさいなかった。
夜、太陽と入れ替わり現れた星と月を眺めながら、蓮子はいつものように時間と場所を告げる。そうは言っても、まともに知れたのは時刻とおおまかな場所くらいだったが。年月日の情報は明らかに非現実的な荒唐無稽で、場所に関しては、この世界についてまだ不案内なせいか、与えられた情報を十全に活かすことができなかったのだ。
「明日は森の奥へ行くからね」
蓮子は少し不機嫌そうに告げながら、井戸の水を何度も飲んだ。まるで無理やり腹立ちを紛らわせている子供のようで、メリーは唇だけで微笑んだ。
そうして、二人は目覚めたときと同じく祭壇を寝床とした。二人分の空間があり、かつ雨風を凌げるであろう場所はそこしかなかったのだ。ただし、石の上に直接寝るのはさすがに厳しく思われたので、森から取ってきた大きな葉をいくつか祭壇に敷いた。
隙間ができていないか念入りに確かめてから、二人は葉の上に仰向けになった。唐突に直面させられたこの状況に、蓮子もメリーも疲労していたのだろう、横になってしばらく明日の計画を話していたが、まもなく抗えない睡魔が襲った。
月の光も淡くなり、夜の闇がいっそう深まる頃、相方が寝床を脱け出す気配をメリーは感じた。
「どうしたの?」
「あー……ちょっとね」
「暗いから気を付けてね」
「分かってますよ、っと」
メリーは横になりながら、階段を降りる蓮子の足音が遠ざかるのを聞いた。
「あんなに水ばかり飲むからよ」寝返りをうちながら、メリーはもう見えない背中に小さな声で投げつけた。掠れた月が一瞬見えたが、場所なんて彼女にはさっぱりわからなかった。早くこの世界の正体を蓮子が解き明かしてくれればいいのに――この理不尽な不満にも似た信頼を、彼女はじっと抱え込んでいた。
意識がふたたび闇へ旅立とうとする曖昧な瞬間、蓮子の短い悲鳴がそれを覚ました。どうやら祭壇へ上がる際に勢いよくつまずいたらしく、蓮子はつま先を押さえながら寝床に倒れ込んだ。「だから言ったのに」メリーは頭を振って呆れてみせた。
翌朝、蓮子は起き抜けに何やら驚くべき発見をしたらしく、すぐさま大声でメリーを呼んだ。迷惑そうに渋面を作って起き上がったメリーも、二度ほど目を擦ると驚愕に目を覚ました。
完全な円形だったはずの祭壇に、わずかな綻びがあったのだ。だが、綻びといっても、円が欠けたわけではない。それは一種の『ずれ』だった。祭壇は一塊の石ではなく、二つの――つまり、蓋の石と匣の石に分かれていた。蓮子とメリーが今まで横たわっていたのは、大きな石棺の上だったのだとわかった。
「昨夜の衝撃で蓋がずれたのでしょうね」
「思いっきり足をぶつけた甲斐があればいいんだけど……」
蓮子が頭をかきながら言うと、さっそくこの蓋を完全に開けようと試みた。敷きつめられた葉を降ろしながら、メリーも手伝った。見た目のわりに蓋は軽く、女性二人の力でも簡単に動きはじめた。
「ちょっと期待したけれど、空っぽね」
現れた空虚を一瞥して、蓮子は言ったが、それに答える声はなかった。彼女は訝しんで、息を呑み立ち尽くす相棒を窺った。
「いいえ、何かある――私には視えているわ」
メリーは空洞の中心を指すと、そのまま身を乗り出して手を伸ばした。ふいに手首から先が消え、また現れた。手は一冊の本を掴んでいた。遺跡のほとんどが耐えがたい風化の影響を見せていた中で、その本は千年経っても変わらないだろうという確信をつい抱かせる完全性を保っていた。いっさい光を反射しない漆黒のハードカバーに、歪な十字架が褪せた赤色で彫られてあった。
三度ひっくり返して表紙や裏表紙を観察してみたが、それ以上の発見はとくになかった。おそらく十字架の側が表紙だろうと蓮子は言った。そうして、一ページ目が捲られ、二人は覗き込んだ。期待の表情は、しかしたちまち疑問に変わった。そこには言語か否かすら判別のつかない無数の記号が延々と綴られていた。蓮子は相棒をちらりと見遣った。「さすがに、これじゃ見えていても仕方ないわね」とメリーは肩をすくめた。
しばらく本を持ち上げて日に透かしてみたりしたが、変化はなかった。ひととおりのことを試し終わると、蓮子は飽きてしまったのか蓋を元に戻しはじめた。
「そもそも、これは文字なのかしら?」
メリーの掌が、ページの上を撫でていた。謎めいた記述の上をすべての指がせわしなく往復していた。その反復は、一種の偏執を思わせる加速度を伴っている。メリーはもはや本を見ていなかった。めまぐるしい夢の展開と同じく、無意識の速度で印字は掠れていく。彼女の右手の五指が見る間に黒く染まった。
蓮子がようやくこの異変に気付いた頃には、この侵食はもう手首の辺りに至っていた。「メリー」蓮子は呼んだ。返事はなかった。「メリーってば」さらに指が加速した。
「メリー!」
ほとんど叫びながら、蓮子は相棒の肩を引き寄せ、強引に本を取り上げた。メリーは怯えた目で蓮子の顔を確かめた。大量に汗が噴き出し、二人の足元を濡らした。
「どうしたの?」
蓮子が詰問するが、メリーはまだ混乱した表情で自分の黒い手を見つめていた。
「ごめん……落ち着いた。もう一回その本を貸してもらえる?」
深呼吸をして、メリーは蓮子の手元にある本を指差した。当然、返答は拒否だった。メリーは何度も主張した。「その本をどうすればいいのか、わかったのよ」蓮子はなおも首を振り続けた。「お願い」や「信じて」といった台詞が繰り返された。果てしない応酬の末、ついに蓮子は折れた。もちろん、メリーの容態が回復して見えたことや、やはり本の正体を知りたいという抗いがたい知的好奇心などがこの結果に作用したのは否定できない。
メリーは受け取った本を広げると、白く掠れた一ページ目に右の掌を押し付け、破った。黒に染まった手がそれを握りしめていた。今度は、紙の方へ黒が帰る番だった。メリーの手から黒色が薄れるたび、紙は次第に萎びていった。
やがて完全に色が移行すると、メリーはそれを摘み上げてみせた。黒色のケープがあった。「ふーん?」と彼女は興味深そうに眺めた後、蓮子の方へ放った。ぎりぎり受け取って見ると、その裏地があの表紙の十字架のように赤く、奇妙な感じを覚えた。
「たぶん、長すぎる年月を経ていたのでしょうね」とメリーは言った。「あやうく残留思念に憑りつかれるところだったけれども、さっきのですっかり消えちゃったみたいね」そう続けながら、メリーは次のページも破いて同じようにした。今度は苺が現れた。彼女はそれをふたたび観察すると、現状についての分析を行っているであろう相方にこう切り出した。
「私は筍が欲しいと思っていたのよ。だけど、出てきたのは苺だった。ねえ蓮子、あなたは苺のことを考えていた?」
蓮子は首を振った。メリーの真意が掴めないという困惑の表情だった。
「夢の中かもって言ったけど、もしかしたら、他人の夢かもしれない」
メリーは静かに告げた。そして、「あるいは、私たちを含む皆の夢」と空を仰いだ。蓮子はいよいよ相棒の頭がおかしくなったのではないかと思った。
「この本は夢か、境界の向こうに限りなく近い成分でできている。これは一種の世界なの、蓮子。私は正気よ」
「だから、メリーはそこから物を取り出せて、かつそれは自分の希望にそぐわない物となりうるってこと?」
「たぶん、そうだと思う。イメージを正確に受け取れるようになれば、好きな物を選んで取り出すことだってできるはず」
メリーは真剣な表情で手元の紙面を検討していた。その様子に蓮子は思わず一つの提案をした。今日の探索を自分一人に任せてほしいというものだった。しばしの黙考の後、頷きが返された。「なぜ」などと問う言葉はなかった。今この状況で互いがすべきことは何かということを、正しく理解できているという自信が彼女たちにはあった。
「気を付けて行ってらっしゃいね」
「私を誰だと思っているのよ。迷わず無事に帰ってくるわ」
自らの目を指差しながら、蓮子は振りかえった。白いブラウスの上に羽織ったケープが赤く翻る。階段の向こう、砂漠の向こうへ遠ざかる彼女の姿を注意の端に留めながら、メリーはふたたび本の点検を始めていた。
果たして、宇佐見蓮子が祭壇に帰ってきたのはもう月が頂点に差し掛かりつつある頃だった。
「おかえり。ずいぶんと遅かったわね」
ふだんの遅刻をたしなめるような口調の中に、今はいくらかの優しさが含まれているのを蓮子は感じた。本の実験がうまく行ったのだろうか、と考えたが、メリーの表情を見るにそれはおそらく違っている。そうして、むしろ、これは安堵の色だと蓮子は思い当たると、ひそかに頬を緩めた。
透明な月の光がわずかに照らす階段に腰かけて、二人は今日の成果の報告をはじめた。「まだ時間が掛かりそう」とメリーがはじめに言った。ひらひらとあの本を振りながら、でたらめな物品の数々について愚痴を吐いてみせた。ひとりでにページが補充されるからと無数に取り出したがらくたたちはひとまず石棺の中に仕舞っておいたらしい。メリーは投げ出すように本を傍らに置くと、今度は蓮子の発言を促した。
帽子を押さえながら蓮子は頷き、今日の内でおそらく最も重要な発見について切り出した。
「この世界には果てがある」
端的な宣言にメリーは驚いた。一呼吸の後、蓮子はこの日の体験のすべてを明らかにした。
果ての発見、それは世界が三つの景色で成っていることを改めて証明することと同義だった。しかし、『果て』と言っても、延々と続く森林の末で壁に行き当たったわけでもなければ、奈落の崖に立ち竦んだわけでもなかった。この世界の果ては周期的だった。つまり、ある地点から同じ景色が繰り返されているということに蓮子は気付いたのだ。
森を行くにつれ、すでに道が踏み固められているのを彼女は見た。メリーが弾いたあの赤い実が一寸の狂いなく落ちているのを彼女は見た。様々に印を付けた木々が同じ列をなすのを彼女は見た。ポケットから落としたメモの切れ端が行く先で待つのを彼女は見た。そして、夜空に浮かぶ月が自身の奇妙な往復運動を告げるのを彼女は見た。
そのとき、彼女はまさしく確信したのだ。普通の目による観察では、仮説を真理へ至らしめるのは困難だが、この場所を知る目だけは例外的に欺けないことを彼女は経験的に知っていた。世界の枠を理解するために、彼女はこの夜をただ待っていた。
帰りが遅くなったのはそうした確認のためだったのだと蓮子は最後に付け加えた。
「でも、もしそうなら、まるで結界みたいね」とメリーは言った。そもそも結界というものは、世界の認識に関わる一種の取り決めである。いわゆるバリア――単なる壁の形を明確に取る種類の結界は意外と少ない。そのような障壁を形成できるのはごく一部の術者に限られる。
一般的な結界とは、より曖昧で自然なものだ。そしてその形成を担うのは、他でもないあらゆる人々の認識である。内に住まう人間の総意として、結界はそこにあるのだ。ゆえに、結界なき世界はありえず、それは常に遍在している。
だが、この普遍性は翻って、結界を危うくする要因でもある。人々の総意が結界を成すならば、それは絶えず引き裂かれていなければならない。個々の間に存する認識の差異がそうさせるのだ。結界は、そうした力との微妙な均衡のもとに成り立っている。もっとも、同じ人間である以上、一般的傾向というものが存在するため、結界が甚だしく崩れるということはまずないのだが。それでも、差異がある程度大きくなれば、必然的に結界には瑕疵が生じる。結界の裂け目が現れる。
マエリベリー・ハーンの目はそれを知ることができる。先の石棺にしても、二人の少女と、長い過去の残留思念との間に差異の深淵が横たわっていたために裂け目が発見されたのだ。
メリーはこれと同じようにして、今いる世界の結界に穴を見つけて脱出できないものかと考えた。彼女の発言に蓮子はしばらく黙った後、「そうするしかないわね」と言った。
それから二人は、一日おきに探索と本の研究を行うようになった。そうは言っても、すでに世界の果ては発見していたので、七日も経てば同心円の地図も完成し、探索は気分転換の散歩とそう変わらなくなっていた。本の方は多少難航したが、この世界で三度目の満月を迎えた頃、メリーはほとんど完璧に本のイメージを受け取れるようになっていた。その夜は二人とも喜んで、元の現実に帰る日も近いだろうと話し合った。
しかし、そううまくはいかなかった。とうに百の夜が過ぎてからも、彼女たちは一向に有効な手掛かりを見つけられないでいた。蓮子は日を追うごとに焦りを募らせたが、あの黒い本がなにもかも満たしてくれることを再認するたびに、自分の現実的な視野をむなしく感じはじめていた。
ついに三百の夜を重ねた頃、この世界は逃れられない夢であると二人は自然と認めていた。そして、この認識とほとんど同時に、それまではいっさいありえなかった体験が彼女たちの身に起こりはじめた。二人は夢の中で夢を、しかもまったく同じ夢を見るようになっていたのだ。内容はたいてい、予言的なものだった。たとえばあの本について何らかの発見をする夢を見れば、朝にはその通りになった。空に浮かぶ雲の形も、砂漠に押し寄せる風の波も、夜の幻を忠実に模倣した。ただし、月だけは例外で、現実とは異なり夢では常に満月を保っていたのだが。
そうして、睡眠は日々を二重に映す鏡となった。やがて三十三対の夢の蝶番が彼女たちの生活をより非現実的なものにした。
まず、二人は自在に空を飛んだ。それはトリフネの奇妙な無重力の浮遊感ではなく、制御可能な飛翔体験だった。祭壇の部屋の屋上に腰かけながら、鬱蒼と茂る緑の地平線を眺めた。さらに上へ行くと、暗い緑に切り取られた灰色の同心円の大俯瞰図が広がった。
夜が来れば、空に取り残された三日月を掴むべく二人は手を伸ばした。地上の砂漠の直径を縮めながら、天空の月の光を強くした。しかし、これは叶わなかった。空にも『果て』があったのだ。
時に雲は雨を降らせたが、二人を濡らすことはけっしてなかった。雷も、二人の天辺では必ず分かれた。夜は月の空に眠り、朝は地平線の太陽を眼下に目覚めた。まるで神話の世界のようだとメリーが言った。
夢の階段はすでにあらゆる希望へ二人を導いていたが、その傍らで蓮子はこの夢の物理法則についてしばしば考えた。いっさいの法則を無視してすべてを可能にするあの黒い本は、物理学の徒として一際不可解な存在だった。夢の予言も、本の核心については未だ詳らかにしていない。メリーに尋ねてみても、「結局、そういう物だと納得するしかないんじゃないの?」というつれない言葉が返ってくるだけだ。蓮子はひととおり思案したが、やはり月並みな仮説を立てるほかなかった。つまり、あらゆる法則に、夢の想像力の値が働いているのかもしれないという説だった。
この頃になると、二人の時間に対する感覚はいっそう鈍くなった。もちろん、蓮子はときおり月を仰ぎ見たが、正確無比であるはずの夜の天体の時計と、時を倍化する夢の鏡の矛盾が常に彼女を惑わせる。それでも月が示す夜の数を蓮子は告げていたが、それは形式的なものにすぎなかった。そもそも、この無数に絡み合う夜に対して、いちいち幾夜を経たかを気に掛けるのはまったく無意味なことだった。ここにおいて確かなものはとうにない。
おそらく九百の夜が過ぎた頃だろうか、この世界に変化が現れつつあることに二人は気付いた。井戸の水面は徐々に下がり、森の木々は日ごとに痩せた。一定の強度を保っていた日の光も翳り、月の満ちる夜も少なくなった。あの万能の本すら、わずかに薄くなりはじめているように見えた。この世界は死につつあった。
それは彼女たちの夢においても同様だった。二つの世界の峻別を意味するあの永遠の満月も、今や蝕に侵されつつある。月の真円は、非常に緩慢な速度でだが、一夜ごとに確かに蝕まれているように見えた。それに伴って、予知夢の記憶も次第に曖昧なものと化してゆき、それらの超常的な恩恵も嘘のように身体を脱け出しはじめた。
すべてが掠れる世界の中、彼女たちだけがかつての精彩を保っていた。あの境界に立つ孤独な柱も、夢の満月が完全な蝕を迎えた夜にはもはやほとんどが風化していた。二人は懐かしんで、砂漠から覗く柱に腰を下ろした。
「久しぶりに歩いた気がする」とメリーが口を開いた。
「そうね」と蓮子は答える。「重力の感覚を取り戻しておかないと危険だわ」
彼女がわざとらしく肩をすくめるのを横目で眺めながら、メリーは両足を砂漠に遊ばせる。
「まるで宇宙飛行士みたいね」
「足は地面についているのに、頭はまだ向こうの方に浮かんでいるみたい」
そう言いながら、蓮子は頂点の満月を仰いだ。千と一夜が経っていた。
「ねえ、メリー」と蓮子が問う。「私たちはこの夢から覚められるのかしら?」
返答はなかった。メリーはただ黙って、蓮子と同じく月を眺めていた。
月の輪郭に沿って、蓮子の繊細な指先が空をなぞる。そこには円形の窓があった。星が瞬き、窓から時間の風が吹き抜けるのを蓮子は見た。
はじめに、窓の真下にあった灰色の祭壇が静かに吸い込まれていった。次いで青白く濡れた砂漠が、一筋の柱となって天に流れた。森は月光に毒されたまま、黒く風化し窓の向こうへ消えた。
蓮子もメリーも、無心に月の円窓のみを見上げていた。逆さまの砂時計のように、銀河の渦を巻いて夢が空へ落ちてゆくのを見守りつづけた。
神殿、砂漠、森林――世界を成す三つの風景が完全に去ると、無限の夜空が二人を取り巻いていた。星は限りなく近くにあったが、限りなく遠くにあった。月は平等に照らしたが、彼女たちの方を向いてはいなかった。
蓮子はふたたび、時間が窓の彼岸へ過ぎるのを見た。無限の夜空さえも、今や無数の風の一条となって窓の外を目指していた。果てしない時間を掛けて、最後に窓とまったく同じ大きさの満月が夢と同じく蝕のごとく失われると、二人の意識も夢の肉体を離れて彼方へ滑り落ちていた。
そして、蓮子とメリーは布団の中で目を覚ました。急いで窓の傍へ駆け寄ると、夜空は眠る前と変わらぬ顔をしてそこにあり、星と月が短い睡眠について教えてくれていた。
夢らしさというか幻想的な雰囲気というか、とにかく凄かったです