空夢
"こんな夢を見た"引用 - 夏目漱石 / 夢十夜
"おや、珍しい方だ"
声が、聞こえる。
白い霧がだんだんと晴れるように、ぼんやりとした輪郭がはっきりとしていく。
初めに目にはいったのは、その群青色の髪の毛だった。その少女は読んでいた本を閉じて赤いナイトキャップを被った。尻尾が一度、円を描くように動いた。
「こんばんは、壁に耳あり障子にドレミーでお馴染みのドレミー・スイートです」
そんな名前に聞き覚えはなかった。そもそも障子にあるのは耳だったはずだ。ドレミーと名乗った少女は少しかしげた首に薄い微笑みを浮かべながら身軽にこちらに近づいてきた。
「ああ、警戒なさらないで。どうぞそこへお掛けください」
彼女が右手で指し示した方を見ると、先程まで無かった椅子が現れていた。意味のない曲線を持った木枠に分厚いクッションをはめ込んだ古風な椅子だった。
ドレミー、そう名乗った彼女はまたどこから出てきたのかわからない椅子に座って机の上にあるティーカップに黒い液体を注いでいた。白い湯気が夜の闇のように黒い液体と対照的である。彼女の服の色合いもそんな感じだなと思った。
彼女はもう一つのカップにも黒い液体を注いで私の前に差し出した。何とも不思議な香りをしている。
机に平置きされた本には
彼女はカップに少し口をつけた。その上品な動作と動きに合わせて揺れる軽そうな髪の毛をじっと見つめていた。
「……さて」カチャリ、と音を立ててカップが彼女の手を離れた。
「あなたの夢、お聞きしましょうか」
***
ある姫に纒わる話
ある山奥に老夫婦がいた。爺さんは山へ柴刈に、婆さんは川へ洗濯へと向かった。
婆さんが川で洗濯をしていると、川の向こうから大きな瓜が一つ流れてきた。
婆さんはそれを見つけると杖の先の方で鮮やかな薄緑色の瓜をかき寄せて、なんとか陸に引き上げていた。
「まあ、立派な瓜だこと。持って帰っておじいさんと食べましょう」
独り言など呟きながら婆さんは洗濯を終えると瓜を家へと持って帰ってしまった。あれだけ大きいのに老婆独りで持てるとは。案外中身は詰まっていないのかもしれない。
日暮れが近づき空が茜色に染まると、爺さんが火をつける時に使う枝を背負って帰ってきた。婆さんは小走りして爺さんに駆け寄ると、手を引いて土間の方へと入っていってしまった。
ひとこと、ふたこと言葉を交わし、瓜の素晴らしさを褒め称えた後老夫婦は大きな包丁を持ってきた。銀色に鈍く輝く使い込まれたそれは何とも不吉に思われた。
さあ、瓜に刃を入れるぞ。そう思った途端、瓜はひとりでに割れた。その中は白く瑞々しい実などではなかった。
女の子である。
瓜の中から可愛らしい少女が出てきた。人の子がそうであるように、瓜から生まれたこの赤子も元気に泣き叫んでいた。
これに、老夫婦は揃って腰を抜かしていた。
私も驚いて木から落ちそうになった。
これは、どういうことか。
冷静さを取り戻した私の心のなかに在ったのは、瓜を食べられなかった苛立ちである。
やがて老夫婦も我に返り、泣き叫ぶ赤子を抱きかかえてあやしていた。
――桃から生まれた子どもがいたという話を何処かで聞いたことがある。その子どもは成長して鬼を退治してしまったらしい。
私も妖怪の端くれである。ひょっとするとこの赤子はいずれ自分を殺すために生まれてきたのかもしれない。そんな考えが頭をよぎる。
日が暮れて闇を孕んだ山の木々が後ろから迫ってくる。いや、そんな気がしただけである。
しかし、桃から生まれたのは男の子だったそうではないか。今回のは女である。まさか、武器を取るまい。私を殺しに行こうなどと考えまい。それならば、慌てて殺す必要もあるまい。
泣き叫ぶ赤子。和やかに笑いながらそれをあやす老夫婦。老夫婦には子どもがいないから、子どもができるのはよほど嬉しいのだろう。
さて、どうしてやろうか。
老夫婦の笑顔に憎しみが湧いてくる。
祈ってやろうか。
幸せを睨みつける。
祈ってやろう。
綺麗な女に育つよう、祈ってやろう。
綺麗な女に育ったら、喰ろうてやろう。
なにもなにも、その子の成長を祈るのは老夫婦ばかりではない。
*
夜、赤子は泣いていた。老夫婦は昼間の仕事と子守の疲れで眠ってしまっている。それならば、とて私は木から降りた。
障子を開けると綺麗な白い綿の布にくるまれた赤子がいた。私の気配を察したのだろうか、一度泣き声を上げるのをやめて私をじっと見つめていた。その目に浮かんでいるのは恐怖か好奇心か。
手を体の下に差し入れて、首が垂れないように優しく支えて抱きかかえた。左右にゆっくりと振りながら子守唄を歌う。
段々と、気持ちよさそうに夢に誘われる赤子の顔はさもうまそうに見えた。
いっそこのまま喰ろうてやろうか。
生え始めたばかりの黒髪に手を伸ばし、首を捻り折ろうとした時に向こうの障子が開いた。
暗闇を割く青白い月明かりの中で見知らぬ者が我が子を抱えている。そんな奇妙な光景を目にした老婆は叫び声を上げた。爺さんが飛んで来る。二人が私を睨みつけるなか、私はそっと赤子を元の布団の上に置いた。
そのまま暗い夜の山へと消えた。
もう少し闇が深ければ、あるいは私の正体が知られることもなかったかもしれない。
*
あの夜以来、私は子どもの姿をほとんど見ていなかった。私の正体を知った老夫婦が子どもを家からほとんど出さないようにしているのである。来客があっても居留守を使え、決して戸を開けるななどと言いつけている次第である。ここまで警戒されると流石に手を出し難い。手を出せないついでに成長するのを数年待っていた。ちょうど、綺麗な娘になっていた。
今日は久しぶりに老夫婦が家を空けていた。家で姫は機を織っている。姫の織る機は質が良く、都で高値で買われるらしい。
私は地面に降り立った。
音を立てないように家にそっと近づいていく。
「この戸を開けて、遊んではくれないか?」
私の声を合図にしたように機を織る音が止まった。
「いいえ、開けられません」鶴のようにか細い声である。
「そんなこと言わずにせめて指が入る隙間だけでも」
しばらくの沈黙の後、少しだけ戸が開いた。
「これでよろしいでしょう。もう帰ってくださいませ」
私はこっそりと微笑んだ。
「まあまあ、せめてこの手が入る隙間だけでも」
姫はその白い手でもう少しだけ戸を開けた。
「もうお帰り下さいませ。私は誰も家に入れてはいけないのです」困惑の混じった声で姫は言った。
「では、この頭の入る隙間だけでも。頭さえ入れば帰りましょう」いい加減、裏声を使うのも疲れてきた。
「本当に、帰っていただけますね?」
「ええ、もちろん」
姫はもっと戸を開けた。
途端に、私は体をねじ込んで家の中へと入ってしまった。
驚いた顔をしている姫をじっと観察する。思った通り綺麗な女に育ったものだ。赤い生地に金色で鳳凰の刺繍をした着物がよく似合っていた。
「さあ姫よ、裏の山に柿でも食べに行きましょう」
姫はハッとして「いいえ、いけません。おじいさんに叱られてしまいます」と言った。
私はその困惑した顔を鋭く睨みつけた。
「さあ、行きましょうか」
一転、優しい微笑みを浮かべながら姫の手を取る。白く枝のようにか細い手は少し加減を間違えるだけで折れてしまいそうだった。
山道を駆け抜ける。家はぐんぐん遠くに行ってしまう。
姫は私に対して恐怖を感じながらも久しぶりに見る外の世界に心惹かれるのか、首をあちこちに回して木々を見ていた。まったくこの姫は、赤子の頃から好奇心に溢れている。家の中に閉じ込めておくなど、生き地獄にほかならないだろう。さあ、救って差し上げよう……。
やがて柿の木に辿り着いた。枝の先にはもう食べごろだと主張する真っ赤な柿が幾つもなっていた。
一人で木によじ登り旨そうな柿からひとつふたつ取って食べ、取っては食べと姫に魅せつけた。姫はまだ下の方で私のことをじっと見ていた。
しばらく気にもせず柿を食っていると「私にもひとつくださいな」と姫が言った。私は「自分で取りに来ればいいじゃないか」と冷たく返した。
姫は履物を脱いで慣れない手つきで枝から枝へと手を伸ばし、やっとのことで私の近くまで来た。
私はひとつ柿を手渡そうとした。
姫はその柿を取ろうと片手を離し、姿勢を崩して足が木から離れてそのまま地面へ落ちてしまった。
地面に広がる赤い液体を見ながら、「あゝ、人間とはこれほど脆いものか」と思った。姫をこの手で殺せなかったことを悔やんだ。
右手には柿がある。姫に渡そうとした柿である。この柿さえなければ姫は死ななかったやも知れぬ。もはや姫を喰う気も何処かへ消えてしまった。
さて、これからどうしようか。
ひとまずその血の紅に似た柿を食らいながらぼうっと考えていた。
*
老夫婦が家に帰ってくると、姫は機を織っていた。
おじいさんは荷物をおろして姫にニコニコしながら駆け寄った。
「姫よ、喜びなさい。あの山の向こうの名のあるお殿様がお前の織った美しい機を見て気に入ったそうだ。お前の容姿が美しいという噂を耳にいれてぜひ会いたいともおっしゃっていただいている」おじいさんはだいたいこのようなことを言った。
姫は機を織る手を止めて一度は驚いた顔をしていたがおじいさんとおばあさんと一緒に喜んだ。
この頃、男女が顔を見合わせるというのは婚礼にも繋がる大きなことであった。その相手が名のある殿様であれば喜ばぬ娘などいなかった。
そのすぐ翌日のことである。上物の着物を着て立派に化粧した姫のもとに侍たちがやってきた。姫に一目会いたいと言った殿様の家来たちである。
姫は駕籠に乗せられて、山の向こうへと向かった。小窓から老夫婦に手を降ってしばしの別れを告げた。老夫婦は我が娘が良い家に嫁ぐかもしれないという嬉しさと娘が遠くに行ってしまうような哀しさに苛まれて不思議な表情をしていた。口は笑っているが目が泣いているのだ。
山道を駕籠はゆく。今は秋であるから、紅や黄に色づいた紅葉が色紙を紙吹雪にしたように舞っていた。侍たちが一歩歩くたびに枯れ葉がガサリと乾いた音を立てる。
姫は、紅葉を見ようと小窓を開けた。
柿の木が見えた。
一羽の鳥が、その木に止まっていた。
「あゝ、あゝ。その駕籠に乗っているのは瓜子姫ではない。瓜子姫が乗って行く駕籠に、***が乗って行く。その駕籠には***が乗っている」
鳥は、そう鳴いた。
侍たちは鳥が鳴いた柿の木を見て、すべてを察したのだろうか。
駕籠はそこで止まり、乱雑に地面に落とされたかと思うと、私は外に引きずり出されてしまった。
柿の木のその上に、姫が吊るされている。
私が吊るした姫がいる。
侍の刀の鈍く光る銀の刃が私の顔を掠めた。
あゝいけない。
姫の皮が剥がれてしまう。
化けの皮が暴かれてしまう。
木の上の姫の死体と鳥を睨みつけた。
あの鳥は姫の生まれ変わりだろうか。
いや、今はそんなことはどうでもいい。兎に角逃げなくては。
そう思い、紅葉の上を駆け出した私の首を、銀の刃は捕らえてきた。
……やはり、瓜から生まれてきた時に殺しておくべきだっただろうか。
首は、断面から血を吹き出しつつ、弧を描いて柿の木よりも高く飛んでいった。
***
「ほう、あなたは***なのですか」ドレミー・スイートは少し微笑みながら言った。「いや、しかし……」
彼女はしばらく黙りこんでしまった。
いつの間にか四方を壁が取り囲んでいた。床には動物の毛皮の絨毯、動き続ける柱時計、仄かな明かりをまとった暖炉。
「まあ、いいでしょう」
彼女はふうっと短く息を吐いた。
「夜はまだまだ永いですよ」
***
ある未完成の橋に纒わる話
一人の男が私の前に現れた。
お前が***かと尋ねられたから、そうだと返した。どうして私に会いに来たのかと尋ねると、村の者に頼まれたからだと男は答えた。
この男の格好を見て、私はその身を少し緊張させていた。細かな竹で編まれた笠、袖は擦り切れているが上質な生地でできたこの服は、修行僧が身に付けるものである。村の人間には毎日のように嫌がらせをしていたから、頼まれたというのはのは私の退治だろう。
まったく、冗談じゃない。これでも丸くなった方なのだ。昔は炉の灰の中に潜んで灰をいじる子どもなどを引きずり込んで喰っていたりもしたが……あれは遠野にいた頃だったか。此処、紀州に来てからは特に人を喰うこともなく、他愛もない悪戯を繰り返すばかりである。
しばらく黙りこんでいた。下手に動いて殺されてもつまらない。沈黙の中、逃げる機会を伺っていた。
すると僧が突然口を開いた。賭けをしようか。そう言ったのだ。
どのような賭けか、と聞くと橋を造る賭けだと返ってきた。人に見られない夜のうちにあの島まで橋を架けるだけだ。男の指差す方を見ると確かにうっすらと島が見える。
私からすれば願ってもないことである。誰とも知らない人間、しかも僧侶と揉め事など起こしたくないのだ。
それから、幾つか取り決めをした。
期間は夜明けまで。私が橋を架けられたら僧侶は何もせずにこの地を立ち去る。逆に僧侶が先に橋を完成させれば私は殺される。
一見すると不公平である。私が負けようが勝とうが僧侶は生き延びているではないか。それでも私はこの取り決めに合意した。
というのは、取り決めについて議論を交わしている最中に一度殺してしまおうと襲いかかったのだ。そのとき奴は私を笠の下から睨みつけた。その時点で私の体は動かなくなった。これ以上、一歩でも近づけば即座に殺される。視線だけでその殺意が伝わってきた。こんな勝負を介さなくても、この僧は何時でも私を殺せるのだ。私は生き延びる機会を与えられている側だったのだ。
何とかして橋を造らねば。
*
夜の帳は舞い降りた。
私と例の僧侶は同時に橋造りにとりかかった。
こう見えても私は昔巨人であったから、岩を運ぶことなど容易であった。山から岩を取ってきて此岸と島との間に投げ入れていく。途中、岩と岩の間に隙間ができてしまったが、後で埋めればいいだろうと思った。
――丑三つの刻を過ぎた。草木も妖も眠る時間である。波が、向こうの海からザザ、ザザと押し寄せてくるのがわかる。
私はもはや疲れきっていた。もう働かなくなって幾年も経つ。力が衰えていた。
ここで負ければ間違いなく私は奴に殺される。それだけは避けねば……。
暗い、暗い海の向こう。深い、深い闇の中で何かが動いている。まさかまさかと思いながら私は歩き始めた。
そんな馬鹿な。あれは人間だろうに。
嫌な汗が背中を伝う。足が早くなる。もつれて転びそうになる。
加速した鼓動のまま、僧が橋を造っている岸についた。
そこで僧は、私が運んできた岩よりもっと大きな岩を軽々と持ち上げて海へ投げ込んでいた。出来ている橋の長さは私の倍ほどあるように見える。
やはりこの僧、只者ではなかった。積んでいる徳など並大抵のものではない。
まずい、これはまずい。このままでは間違いなく殺されてしまう。
どう見ても夜明けまでに橋が完成してしまう速度で岩が海に運ばれていく。どうしたものか。私はまだ殺されたくない。
逸る気持ちを抑えられないまま対策を考える。が、一向に妙案が出てこない。
いっそのこと逃げてしまおうか。
いや、駄目だ。この僧は私を追ってきて簡単に殺してしまうに違いない。ここで決着をつけなければいけない。一生逃げまわるのは御免だ。
……そもそも、この賭け事はどこかがおかしい。
どうして私が橋を造らねばならないのか。
半ば脅されるような形で造る取り決めになったのはわかるが問題はどうして勝負が橋造りなのかである。別にそのまま対決しても良かったはずだ。
……そういえば前に村人たちが、あちらの島に船で行くのも不便だから橋を架けようと計画していた。私はそれを妨害したのだ。今回奴が来たのは村人に頼まれたからだというではないか。
ああ、嵌められた。
この僧が村人から頼まれたのが私の退治ではなく橋を架けることだったとしたらどうだろうか。すべて合点がいく。あの僧からすれば橋を造るのなど他愛もないことである。私を退治するのも同様に。そこで、どうせ退治するなら利用しようとでも思ったのだろう。橋が二つあっても困ることはない。夜明けまでに橋を二つも造ることが出来たとあれば名声も高まる。まんまと私はその道具として使われていたわけだ。おそらく、こいつは私が力を落としていることにも気がついていたに違いない。初めから自分が勝つことがわかっている賭けをあいつは仕掛けてきたのだ。
ともすれば橋を造ることなど馬鹿らしい。私は人の邪魔をする***なのだ。人の手助けなどしようものなら誇りはへし折られてしまう。それは避けねばなるまい。
そこで私はもっと恐ろしいことに気がついた。
私が橋を造れば私の誇りは踏みにじられて***としては死んでしまう。それどころか奴の得になってしまう。
橋を造らなければ勝負に負けて死んでしまう。それでも橋は完成するから奴の当初の目的は私を殺すことも含めて達成される。
力で挑めば即殺される。
初めから勝ち目などなかったのか。
ああ、いけない。僧がまた巨岩を海へと投げ込んだ。橋ができるのはもはや時間の問題である。
さあ、どうする。
どうすればいい。
僧が最後の岩を取りに山へと向かった。
せめて、この夜が明ければ……。
*
さて、この岩で最後になるだろう。あの***はやはり橋を完成できなかったようだ。
一歩一歩、ゆっくりと歩みを進めていく。
空は、墨を溶かしたように黒かった。
その時である。
鶏が鳴いた。
馬鹿な。
まだ朝が来るはずがない。
歩を止めた。
また、鶏が鳴いた。
空耳などではない。
岩を、その横の海に捨てた。
*
夜が明ける。幻の鶏の声で夜が明ける。
僧がこの地を去ってから、もはや四刻が過ぎていた。ようよう向こうの山が白んできた。
緊張から開放された私は岩にもたれかかりながら地面に足を放り出して座り込んでいた。しかし、その顔に微笑みを絶やすこともなかった。
僧は私を殺さずに何処かへ行ってしまった。
橋は一つも完成していない。
私は賭けに勝ったのだ。
ただ、一声鳴いただけである。
***
"お目覚めですか?"
いつの間にか私は眠っていたらしい。肩に軽いブランケットがかかっていることに気がついたのはそのすぐあとだった。
「本当に、あなたは何者なのですか?」
未だ夢心地の私を彼女は目を細くして観察していた。
視界が歪む。
世界が闇に閉ざされる。
"おやすみなさい"
最後に聞いたやさしい声。
***
ある夢に纏わる話
未だ世は神代、戦が乱発していた。
戦に負けた男は敵の大将の前に引き据えられていた。
大将は少し齢を重ねている。長い髭を生やし、革の帯を締めて棒のような剣をそれにつるしていた。
酒瓶を伏せたようなものの上に大将はどっしりと座っていたが、捕らえられた男は捕虜である。何かに腰掛けることが許されるはずもなく、草の上で胡座をかいていた。
篝火が捕虜の前にかざされ、大将が一言、生きるか死ぬかと聞いた。一応、捕虜にはこの質問をするのだ。生きると答えれば降参を意味し、死ぬと答えれば屈服しないということになる。男は一言死ぬと答えた。大将は草の上についていた藤蔓のように太い弓を向こうに投げ、腰につるした棒のような剣をするりと抜きかけた。
風が吹いて篝火が揺れる。捕虜は右手を
待て、という合図である。
大将は剣を鞘に収めた。
捕虜の男は、恋をしていた。
死ぬ前にひと目、女に逢いたいと男は望んでいた。大将は、夜が明けるまで待つと言った。
そろそろ行かなくては。
装束の純白を闇に浮かばせながら、隠れていた岩陰を離れた。
*
裏の楢の木に繋いでいる、白い馬を引き出した。
急がなくては。朝までに、夜が明けるまでにたどり着かねばあの人は殺されてしまう。
足で馬の太腹を蹴ると、馬はいっさんに駆け出した。
遠くの空が薄明るく見える。
生きているあの人に何としても逢わなければ。たとえその後あの人が殺されようと、この身がどうなろうとも……。
馬の鼻からは火の柱のような熱い息が二本出ていた。それでもしきりに馬の腹を蹴る。馬の蹄が宙で鳴るほど速く飛んで行く。髪の毛は吹き流しのように尾を引いていた。それでもまだ篝火のある所には着かない。
真っ暗な道のそばで、こけこっこうと鶏の声がした。
身を空様に、両手に握った手綱をうんと控えた。馬は前足の蹄を硬い岩の上に発矢と刻み込んだ。
こけこっこうと鶏がまた一声鳴いた。
あっと言って、締めた手綱を一度に緩めた。馬がもろ膝を折る。そしてそのまま、真向へ前へのめった。岩の下では深い淵が待ち構えていた。
宙で、白い装束を見た。それで、鶏の声が何だったか理解した。
地面に再び触れたのはその直後である。
*
篝火から離れて歩いて行くと、馬の嘶きが聞こえた。その方を見ると白い馬に女が乗っているではないか。それで私は大方の状況を理解した。
こんな暗闇を、馬具もつけない裸馬に乗った女が駆け抜けることなどそうそうない。それだけの一大事だということだ。例えば、想い人が今まさに敵に捕まって殺されようとしている時である。
その姿を見て私はすうっと一声鳴いた。
馬が急に止まる。
女の顔に動揺と驚愕の入り混じった表情が浮かんでいた。
もう一声鳴いてみる。
馬が崖の方へと倒れこんでいった。
女と馬は下へ下へと落ちていった。
その一瞬、目が合った気がした。
崖の下の方まで歩いて行くと、思った通りに赤黒い血の海に女が浮いていた。顔などは潰れて原型をとどめていない。右足は妙な方向へと曲がっていた。
崖の上に登って行くと、岩に馬の蹄の跡が残っていた。
先ほど、目が合った時に正体は気づかれただろうか。
恨まれて、呪われて、仇にでもされただろうか。多少、面倒なことになってしまったようだ。
少なくとも、この蹄の跡が岩に刻みつけられている間は私は呪われるだろう。
別に構わない。人間一人の恨みなど、たかが知れているだろう。
朝日が現れて偽りの夜明けは暴かれた。本物の朝である。もう、篝火も必要ない。
二人も殺してしまったか。
あの男女に恨みなどなかった。鶏の鳴く真似をしたことにも大した理由はない。
私が***でなければ、あるいはあの二人は意志を成し遂げられたかもしれない。
愉悦の笑みを携えながらその場から姿を消した。
***
これは、夢なのだろうか。
これは、私の記憶なのだろうか。
……わからない。
ただ、誰かが頭をなでてくれている。
とてもあたたかい、やさしい手で。
***
ある巫女、もしくは神に纏わる話
窓に通っている格子が鳥の籠を思わせる部屋の中で、私は白い装束を身にまとって静かに座っていた。
どうしてこうなってしまったのか。
初めはただの虚言だったのに。
*
ある日、私は神社で神楽を見た。紅と白の服をまとって舞い踊る巫女に目を奪われた。白い小袖が舞い落ちる雪のように揺れる、鈴が鳴る。笛の音を聞くとどこか遠くへ行ってしまったかのように感じる。その虚無を緋袴の紅が打ち払う。
"私も巫女さんになりたいなぁ"
その言葉を発した途端、私の中で何かの歯車が噛み合って動き出したように感じた。
その高揚した気分のまま、祭りが終わると村の大人たちに向かってこう言った。
「これから雨がふって、川がいっぱいになって、あふれちゃうよ」
大人たちはまったく取り合わなかった。もちろん、私も特に意味を考えずに言ったことである。根拠も確信も何もなかった。
ただ、巫女がするという『予言』に憧れただけなのだ。
それから数日後、黒い雲が空を覆ったかと思うと強い雨が降り始めた。梅雨の時期というわけでもなく、むしろ例年なら晴れ間が続く時期だった。
時間が経てば経つほど雨は激しさを増し、田の水が溢れんばかりになっていた。朝から降り始めた雨は、日が暮れる頃には川を凶暴な濁流に変えていた。
そうして、堰が切れた。水はあっという間に家を飲み込んで、そこにいた人影も、繋いであった馬も、灯されていた明かりも、すべて初めから無かったかのように消してしまった。
「……あの子の言ったとおりになった」
誰がそう呟いたのか、今となっては定かではない。
どうして予言ができたのか、次に何が起こるのか。大人たちはそんな質問を次々と私にした。私は何も答えなかった。それでも、いつの間にか私が神の声を聞いて予言したという噂が村には蔓延していた。
真実というものは、大衆の認識によって定義されている。たとえその事象が虚偽であっても大多数が真と信じていれば真になる。私はもはや大衆の真という虚偽によって投影された偶像となっていた。
こうした経緯があったため、私が神社に仕えることはそう難しくはなかった。
*
神社に入って巫女になってから、何度か予言を伝えることがあった。
無論、私は神から何かを告げられたことなどない。予言をする機会が回ってくるたびに、私は起こりえないようなことを言った。
「すぐに地震が起きる」とか「村で病がはやる」など、とりあえず突拍子もないことを言った。というのも、神社での暮らしは思ったほどいいものではなく、嫌気がさしていたのだ。神聖な子だからという理解し難い理由によってほとんど神社から出ることができなかったことも私の精神を蝕んでいた。
早く、本当は自分に何の力もないと悟って欲しかった。あの大雨の予言は本当は予言でも何でもないと言えば救われたのかもしれないが、私にはそうするだけの勇気もなかった。予言が何度も外れてしまえば、神社の方から出て行ってくれと頼んでくるのではないかと考えたのだ。
それでも、予言、正確には私の虚言は当たった。
地震が起きて、家の何軒かが倒壊した。都の病が薬売りやらを通じて広まった。
もう、何がなんだかわからなくなった。
神主や村の民衆は私を特別な力を持ったものとしてどんどん持ち上げていった。これで余計に神社から開放されることはなくなってしまった。
なぜ予言が当たるのか。神のお告げなどではない。私は誰の声も聞いていない。
その予言を誰がしたのか。それは紛れも無い私。
――私が口にしたことが、現実になってしまうのではないか?
そう考えて私は戦慄した。
私の言葉のせいで、川が溢れ、地震が起き、病が流行り、そして人が死んだ。
ああ、ああ。そんなはずはない。
そう否定するたびに、人を殺したという意識が、頭を割って入ってくる。
暗い思いを抱えたまま月日を過ごすと、また予言をする番が回ってきた。
神楽を舞った後、みんな私の言葉を待っていた。張り詰めた空気の中、痛いほどの視線があちこちから突き刺さる。
私は意を決してこういった。
「今年は、豊作になるでしょう」
ただ、それだけである。
もう災害を起こして人を殺してたまるものか。言ったことが現実になるのであれば、このような平和的なことに使えばいいのだ。
以前の予言のようなおどろおどろしい内容でなかった事に肩透かしを食らった面々は、何か話しながら部屋を出て行った。
これでいいと自分に言い聞かせた。
しかし、事態はそれほど簡単ではなかった。
その年、稲は梅雨の時期に雨があまり降らなかったこともあってかなりの不作となった。
私は暗い穴へと突き落とされたような気がした。
虚言は現実になるとは限らないのだろうか。先の予言の共通点は人が死ぬような災害である。私が実現させてしまうのは人の死のみだとでもいうのだろうか。
人々は不作だったことと私の予言が外れたことで慌てふためいていた。
しばらく、予言の番が回ってくることはなかった。
巫女は予言ばかりしているわけではなく、掃除や炊事の雑務が日常である。私も今回の失敗で雑務にまわることとなったが、もともと高待遇で神社に入れられた私は雑務が得意でなく、邪魔者扱いされてしまった。
そのときに分かったことがある。
同僚の巫女たちは私を避けている。村の人々も私を見るとどこか気まずそうに下を向いてさっさと行ってしまう。
災害のような不気味な予言だけ当てる巫女に誰が近づくというのだ。
泣きそうになるのをこらえながら、私の部屋に当てられた六畳の空間に扉を閉めて座っていた。
格子の隙間から差し込む日光を眺めて、これからどうすればいいかを考えていた。
*
予言が外れてから一年。私はまた神楽を踊っていた。
舞が終われば、また予言である。
期待と恐怖で塗りつぶされた顔が私の方に向いている。
「今年は、豊作の年になります」
部屋の中がざわついた。
以前豊作になると言って不作になった私の予言だ。今年も不作に終わるのではないかとあちこちから不安そうな声が聞こえる。現に、今年も水不足の傾向にあるのだ。
でも、これでいいのだ。
もし予言が外れて不作になれば、私がもうこれ以上予言を任されることなんてないだろうし、この息苦しい神社から離れることができる。
予言が当ったら当たったで私は災害以外の予言も当てることができるということになる。少しはみんなの私を見る目も変わるだろう。
独りで納得して収穫を待った。
秋のころである。
稲は立派に実り、黄金色の頭を垂れて田一面に広がっていた。
私は再び持ち上げられ、神の子と言う異名がどこからか貼り付けられていた。
白い目で私を見る人はもう少なくなっていた。
すべてが丸くおさまった……かのように見えた。
私は悩んでいた。
災害以外の普通の予言も的中させることができるのであれば、私は何を現実に変えてしまっているのだろうか。
やはり虚言は偶然実現してしまったのではないかと考えたが、それは違うだろう。的中している回数が多すぎるし、地震や病がそれほど都合よく起こるとは考え難い。
私が実現させるのは人が死ぬ虚言だけではないというのが今回の豊作でよく分かった。
昨年の外れた一回だけが説明できない。
今回と昨年の豊作の予言は何が違ったのだろうか。
今回は明らかに干ばつで稲が全滅してもおかしくない勢いだった。むしろ不作になった去年は田の水は多くなる傾向だったというのに。
何が原因なのか、私は濃い霧の奥深くに誘われているような気がした。
*
ここ数年のことである。
予言をした回数も両手では数えきれないほどになり、私の極端な予言の法則性もぼんやりとその全体像が見えるようになった。それは、私自身だけでなく周囲の者も同様である。
初めは予言が当たったのは偶然で、予言を外しさえもする起伏の激しい巫女だとしか考えられていなかった。しかし、当たるときはよく当たるし内容もないようだから神の息がかかっているのは間違いない、あの巫女は予言を現実のものに変えてしまうのではないかと噂が流れ始めた。
私は口を閉ざし続けていた。
もう、自分の言葉で未来を決定したくなくなった。
神楽を舞うのも辞め、毎日部屋の格子から空を見上げるばかりである。
ひと月前、私が例大祭の生け贄に選ばれたことを伝えられた。
どう考えても厄介払いである。このところ不吉な事態が続いているからと理由を取り繕っていたが要はその原因を取り除いてしまおうということだ。
そして今日。
私は無垢の衣装を着せられて、生け贄としての出番を待っていた。
特に何の感情も湧いてこなかった。
もはや生に未練などない。
格子の外に狂い桜。
その木があまりにも美しかったから、私は口を開いてしまった。
"……神は死ぬ"
私は桜を見に外へと出た。
神が死ねば、私は生け贄になる必要などない。
そうでなければ私が死ぬだけである。もう虚言が実現する悪夢も終わる。
まだ咲き始めの桜は純白の中にうっすらと血のような紅を重ねていた。今まで見たどの桜よりも美しく思えるのは自分が死の間際だからだろうか。
例大祭の準備で忙しさを見せていたはずの境内には誰の姿も見えなかった。私の足は自然と村へ下る階段へと向いていた。どうせ死ぬのだ。最後にこの神社の外の景色を見たい。
階段を降りていく。この階段を通ったのは幼少の頃、最初の虚言のあとが最後だ。まだ歯車は回り続けている。そんな気がする。
村に降りても誰にも遭わない。みんな例大祭の準備でどこかに行っているのだろうか。
逃げる、という言葉が頭のなかで浮かんだ。今なら何処かへ逃げることができるかもしれない。
私は、私の中の歯車が何のために回っているのかを考えた。
なぜ、運命は私に作用するのか?
「なぜ未だに使命を遂げていないのだ」
声に驚いて振り返ると、声のした方向には、門に止まった雉と男がいた。
どうやら喋ったのは雉のようだ。尾の長い綺麗な雉である。
男の方は答えに詰まっていた。
私は物陰から鳥がしゃべる光景を観察していた。すると、また雉が口を開いた。
「答えよ、アメノワカヒコ」
私はその名に聞き覚えがあった。
私の足は自然と動き、男のそばに駆け寄った。
そして、こうささやいた。
"この鳥の鳴き声は不吉だから、射殺してしまいなさい"
男は驚いた様子で私を見つめた後、背負っていた矢を取り、弓につがえて雉に狙いを定めた。
一瞬、ためらったようにこちらを見た男に私は微笑んだ。
"射殺してしまいなさい"
矢は放たれた。
雉はゆっくりと門から落ちた。
胸を貫いた矢は天高く飛んでいった。
私は、鳥が不吉だという虚言に全てをかけた。
一瞬、目の前を通り過ぎた何か。
雉と同じように地面に倒れていく男。
頭には先ほど放った矢が刺さっていた。
神は死んだ。
虚言は現実へと。
私は自由へと。
運命の歯車は回り続けている。
神殺しを犯した私はもはや人ではなかった。
その恍惚に微笑みを。
紅みを増した桜の中へ姿を消した。
***
ドレミー・スイートの夢分析
ブランケットを肩から下ろした。
「ああ、おはようございます」
例の彼女、ドレミーはまたあの黒い液体をカップに注いでいた。
私は頭を軽くおさえていた。あの夢は何であったのか。
カップは私の前にも置かれた。机の上の本の数は以前よりも多くなっていた。
「あなたを取り巻く一連の悪夢」ドレミーが口を開いた。「その正体からお話しましょうか」
柱時計が乾いた低音で時を告げた。
「まずひとつめの悪夢。あれは瓜子姫と呼ばれる物語ですね。あなたはその話に出てくる山姥。皮を剥いでそれを着て姫になりすますとは、なかなか凄まじい」
なぜ、私の夢の内容を知っているのか。
「ふたつめ、紀伊に伝わる橋杭岩の伝承。あなたは弘法大師に打ち勝った元巨人だとか。鶏の声は山彦だった頃に覚えたものでしょうかね」
微笑みが深さを増した。
「みっつめ、これは人間の作家が書いた物語の一部ですね。意味もなく二人の愛を打ち壊した。あなたは天邪鬼でしょうか」
柱時計は十三個目の時を刻んだ。
「そして最後。古事記に記された天探女の伝承。巫女的性質を備え、神に反逆した神に近い力を持つ者。あなたは、天探女ですね」
私は依然として口を閉ざしていた。
ドレミーはふうと息を吐いて話を続けた。
「天邪鬼に纏わる伝承は数多くあります。しかし、その物語たちの根底には天探女の物語がある。鳥が、敵であれ味方であれ最後に天邪鬼の運命を決めるのですよ。まあ、最後の天探女は自分の言葉で運命を決定しましたが……。それが今の貴女に一番近い。ねえ、稀神サグメさん?」
名前を言い当てられた私は私の夢に立ち入った彼女の正体を見極めようとしていた。
私が怪訝な顔で黙り込んでいると、ドレミーは思い出したかのようにこう言った。
「ああ、申し遅れました。私は獏をしているものです。私には夢の世界のプライバシィなんてものありませんので。ご了承を」
何ともけったいな話だと思った。何か桃色のプニプニとした物体を左手で撫でているその姿はどこか胡散臭かった。
「ここもまた夢のなかです」ドレミーは伏し目がちに愛おしそうにスライムのようなものを撫でていた。「何を創ろうが消そうが入れ替えようが私の思いのままです。だから……」青みがかった澄んだ瞳が私を捉えた。「何を喋っても、よろしいんですよ」
獏の深い海のような群青色の髪の毛が軽く揺れていた。
「……それであなたは私に何をしたいわけ?」すこし躊躇いながら言葉を口にした。
初めて口を開いた私にドレミーは目を丸くした後、また口元を緩ませた。
「私は獏ですからね。あなたの悪夢、処理させていただこうかと」
その微笑みに敵意がないことを私は確信した。
「どうして私はあんな夢を見たのかしら?」
「ああ、それを言い忘れていましたね。夢解きは最後までしないと、寝覚めが悪くなっちゃいますし」
両手をトンと合わせてドレミーは語り始めた。
「発端は貴女が巻き込まれている厄介事です」
月の都は現在侵略にあっている。たしかに処理を任されている身としては厄介事でしかなかった。月の機密が漏れているとなると本当にプライバシィなんて無いのかもしれない。
「それで、普段表舞台にはほとんど出ないあなたが月の都に姿を見せ始めた。それを月の兎たちは謎めいたあなたの正体について勝手な推察を始めていたようです。『サグメ様は天津神だ、いや国津神だ、神霊だ、天邪鬼だ……』と。好かれてますねぇ」
少し声色を変えて月兎の真似をした彼女はすこし可愛らしかったが何も言わないでおいた。
「その兎たちの勝手な推察が悪夢の原因です。勝手な妄想があなたという人物像を変化させ始めた。ちょうど……そうですね、都市伝説が何人もの思考を媒介して実現するのと同じように」
暖炉の中の木がパキっと音を立てて弾けた。ドレミーは立ち上がって暖炉の中を少しいじっていた。
「……夢は、現と乖離したものだと思われがちですがそんなことはないんですよ。夢で視るものの多くは起きている時の思考や記憶です。それをうまく扱えるもの、例えば私とかは夢を媒介にしてどこにでも行くことができる。すべては繋がっているんですよ」
だいたいの事態を把握できた私は燃え盛る暖炉の炎のゆらめきと、それに照らされたドレミーの横顔をじっと見ていた。
「……そろそろ悪夢を頂いても?」
急に振り返ったドレミーと目が合ってしまった。すぐに視線をそらして「ええ、構わないわ」とだけ告げた。なんだか、変な気分である。
何が起きるのかと待ち構えていると、獏は私の前に立った。椅子に座っている私は逃げられないような威圧感を感じた。
「では、失礼しますね」
白い手が顔の方に伸びてきた。
指先がそよ風のような優しさで前髪をよけていく。私は何が起こるのか理解できず、動けなかった。
「じっとしててくださいね」ドレミーは前屈みになって私と視線の高さを合わせてささやくように言った。
少し細められた青みがかったその瞳の奥に、深い深い海を見た気がした。
露わにされた額に柔らかな感触が伝えられる。思わず目を閉じて体を少し強張らせた。むず痒い感覚は、私の頭のなかから意識を吸い上げていくようだった。
まどろんだゆっくりとした時間の中で、手が腰に回ってきたことを感じ、もう片方の手が私の右手に触れた時、私は片翼をはためかせた。その音が静寂を切り裂くと彼女はゆっくりと私から離れた。
眩暈に襲われながら、意識が混濁した中で、ドレミーが上気した朱い頬にあの微笑みを携えて細い指先で口元を拭っているのを微かに捉えた。
"ごちそうさまでした"
睡魔に似た意識の消失に誘われて私は目を閉じた。
"また、夢で逢いましょう"
意識は夢から剥離した。
***
薄目をあけると確かに私の部屋だった。
夢が明けると確かに現だった。
残ったのは幽かな切なさ。
今は、無いという記憶。
額に触れた彼女の唇の感触。
***
ある獏の夢に纏わる話
今日はどうも珍しい客が来た
稀神サグメというらしい。例によって夢のなかの記憶の断片を紐解いて知ったから彼女から直接聞いたわけではない
初め、闇の向こうから客が現れるのはいつものことだが、今回はすこし事情が違った
いや、別に何かがおかしかったというわけではない
端的にいうと、えっと……見惚れていた、かな
片方にしか生えていない軽そうな翼、鋭く光を返す銀色の髪、すべてを見透かそうとするような澄んだ瞳……
……自分で自分が恥ずかしい
我ながら大胆だった
悪夢を処理すると言って彼女の顔を間近に据えた時、私は衝動を抑えきれなくなりそうだった
このまま、彼女の唇に触れてもいいだろうかと一瞬考えてしまった
でも、私の意気地なしは先に髪を払いのけた額へと逃げた
別に、悪夢の回収など触れずとも夢魂に入ってくるのだ
それでも、彼女に触れたいという感情
恋情
また来てはくれないだろうかと期待している自分がいる
あなたが私のことをどう思っているかはわからないけれど、もっとお喋りして、あなたのことを知りたいと思った
夢の断片を見てもわからないものはわからない
夢のなかでは何でも思いのままだと思っていたのに……
あなたの心は、そうはいかないようだ
残ったのは今はもういないという寂しさ
唇に残る柔らかい感覚
まだ、湯気を上げている珈琲
私は少し、夢見がちである
空夢 【そら - ゆめ】
見もしないのに、見たように作り上げて人に話す夢。また、正夢(まさゆめ)と違って、現実には夢で見たようにならなかった夢。
引用 -デジタル大辞泉