0
「おいで、おいで」少女が声をかける。それは幼く、同時に呪いのよう。「ここに、おいで」
「いるよ、いるよ」何かが声に呼応する。何かは群れで動き、ざわめきが声をなしている。「ここに、いるよ」
岩で出来た水底と壁面はデコボコとしてナイフの刃先のような鋭利さを向ける。少女が息を吐くと泡が口からこぼれた、泡は子供がはしごを昇るように、飛び方を覚えたばかりの鳥のように不安定に上昇する。時間をかけ、ついに泡が儚く消えるシーンでも少女は目を瞑っており、見ていなかった。興味が無かった。
少女と何かが居る空間に照明は無い筈だが目を開けば少女や何かの姿も、刺さりそうな岩も消えゆく泡も確認できた。だけど少女は目で存在を見て確かめることはしなかった。それよりも何かの動きによる水の揺れの感触で判断する方が確からしかった。少女は動こうとしなかった。動けば、何かの揺れがわかりづらいと考えた。
何かは、極小の粒状の物体の集合体のように見える。どうやら意思があるようで少女の動きを再現して動いていた。その動きを感じて少女は愉快そうに笑い、必要性の無い動きを繰り返していた。
少女が水中を泳ぐ、群れもついていく。少女が片腕をあげる、片足をあげる。もがく。その度に群れが反応し、拡散や凝縮を繰り返す。自然の和らぎ、人工のシャープを同時に持つ赤黒い光景がある。それはバイタリティの擬人化で、美しくはなかった。かといって、醜い訳でもなかった。あるいは、美しく醜い。少なくとも言葉では表せない。少女と何かの関係、関係だけが存在を表している。現している。露わにしている。顕である。
縁と緑が、似ている。
積と績が、似ている。
彼女と何かが、似ている。
どちらも、この世界で最も原始的な存在。
誰も、見ていない。
見ない振り。
繁殖と絶滅が、似ている。
増加と減少が、似ている。
現象と夢想が、似ている。
ここには何もかも閉じ込められていない。
何もかもを閉じ込めたから、何もかも閉じ込められていない。
エネルギーの集合体、まさにパワースポット。
まさに原核。
きちんと見えている。
柔らかい訳ではない。
スケール。
毒。
侵食。
レッド。
ブラック。
抗生物質。
耐性。
ペニシリン。
培養。
免疫。
バイオ。
ペーハー。
ゲノム。
少女が沈む。
何かが沈む。
意識を失う。
そう、失われていく。
だから、在り続ける。
流れていく。
忘れていく。
誰も覚えていない。
だから、
私達だけは、
似た者同士だから、
一緒に居よう。
「おいで、おいで。ここに、おいで」
「いるよ、いるよ。ここに、いるよ」
1
十六夜咲夜は紅魔館と呼ばれる館のメイド長であり、この館で一番時間厳守な人物でもある。1秒の狂いもなく行動する。時を停めるという、人間にしては異端な能力を持つ彼女は無限といって差し支えない時間を所有する。その能力の応用で紅魔館のスペースも広げている。はたからみれば多忙のように見える彼女だが、一日に無限の時間が詰まっている彼女にとって忙しいという認識はしていない。ただ他人とのコミュニケーションを取らねばならない時にだけ、忙しいと思う。時間を止めても成し得ない事の一つだ。
今は最近早起き志向な吸血鬼、紅魔館の当主であり咲夜の主、レミリア・スカーレットに館で起きた事細かな変化を報せていた。普段はふうん、と興味を示さないが、今日は異なる反応を示してみせた。
「人形?」
「いえ、人魚ですわ」
「へえ、この湖に住んでいるの?」頬杖をつきながら主がこちらを見る。
「前にもお伝えしました」
「あの湖、何も住んでいないんじゃなかったかしら」
「そうですわね、湖で遊んでいる妖精ばかり」咲夜はあることを思い出し、付け足す。「部下の間では死の湖とも」
「死の湖に集まる妖精、ねぇ」主が椅子を鳴らして、少し考えこむ振りをする。
「釣り目的などで来る人間が居ないのでしょう」
「人魚は何て言ってるんだ」
「さあ、詳しくは」咲夜はわざとらしく首を傾げた。「湖のことだったとは思いますが、ホブゴブリンから聞いた話ですので」
「へえ、うん、いってらっしゃい。たまには人里と博麗神社以外にも寄って行きなさい」
「かしこまりましました。妖精メイドには」咲夜の言葉を主が遮る。
「ああ、いいよ、いいよ。勝手に、いや、緊急でいきなさい。これは命令」
「緊急、ですか」歯切れ悪い咲夜に主は眉を潜める。
「あんたがいると他のやつのプライベートが無いのよ」
「休憩時間など労働以外の時間もありますわ」
「そうやって他人から時間で縛られてるのは、プライベートとは言いがたいな」そっぽを向く。外では太陽光が燦々と降り注ぐ。「本当にプライベートな時間というものはね、本人がその定義なんか気にしていないのよ」
「今はプライベートな時間ですか?」
「そうやって質問した時点で違うね」主はもう一度こちらを向く。「大丈夫、一週間ぐらい留守にしても平気よ。平気っていうのは、持ちこたえられるって意味。それが咲夜でも、私でも、パチェでも、美鈴でも同じ話」咲夜はその中にある人物の名前が無かったのが気になったが、それに関して問うことはしなかった。
2
「水を見ているだけでも少し涼しい気がするわね」咲夜は霧の深い湖の上を飛行していた。視界は悪いが、もう慣れている。
この湖は生物がほとんど居ない、妖精をカウントしなければ、の話であるが。その妖精達を見ている範囲で6割ほど退治して進む。以前は偶然見つけられたが、今回は目当ての人物を見つけることが出来るか咲夜には分からなかった。ただ、わざわざこちらにまでやってきたのだから近くには居るだろうと判断した。
ふと、声がする。歌声のようで、人を引き寄せる魔術のようだった。歌をしるべとして咲夜は向かう。
「あ!ようやく来てくださったのね」咲夜が見つけた半魚人、わかさぎ姫が言葉を発した後に驚いたような顔をする。「あ、あなたは私を倒した」
「ご用は?」
「うーん、まぁ、私を倒したってことは私より強いから良いのは確かだから良いのかしら」わかさぎ姫は目を下に向ける。
「もう一度、その証明をしてもいいわよ」咲夜が急かす。
「ま、まって!……水の流れがおかしいのよ。流れというか、何か陰湿な物を運んできているような、とにかく、おかしいのよ!」半魚人、わかさぎ姫が水面から訴える。
「では、その根源を斬りますわ。流れの向きがあるなら、それを辿っていけば元にたどり着くはずです」咲夜は空間認識能力が高い。時間を操る彼女にとって、時間と密接な関係にある空間と速度を操ることも容易だ。
「きっと、西の方だと想うのだけど」わかさぎ姫が西に顔を向ける。咲夜もそうした、すると嫌な匂いがしたような気がした。
「あまり付き合ってやる義理は無いんだけどな」咲夜がつぶやいた。
「なによう!あなたのお屋敷は氾濫原にあるのよ。この湖の危機は、つまり館の危機なの」
「氾濫原っていうのかしら」
咲夜は面倒事を博麗の巫女に押し付けようとも考えたが、人里にまで影響の及ばないことにやや堕落的な面もある巫女が取り合ってくれるか分からず、無駄足になることを考えてわかさぎ姫の泳ぐ方へとついていくことにした。まさか、この半魚人が虚言をついている訳ではないだろう。恐らくほうっておくと厄介なことになるはずだ。
こうやって、思考が悪い方に傾いているのが異変の証拠なのだと咲夜は確信する。
3
西行寺幽々子、冥界の主。和風な屋敷の庭で、従者が剣の稽古をしているのを眺めていた。空は一面グレーで覆われている。ふと、従者を呼びかけた。
「お茶が飲みたいわ」
「えぇ、急に言われましても。稽古中です」従者の手は止まらず、剣をふるっている。
「私もお茶が飲みたい中、被っちゃったわね」
「冥界にもスケジュールはあります、変更できません」
「例外は存在するわ」
「幽々子様が承諾したスケジュールですよ?」従者は一旦剣を鞘に収めた。
「んもう……」
幽々子が空を見上げる。と思えば、しゃがみだした。何をしているのかと従者が覗きこめば幽々子は手で土をすくっていた。
「変だとは、思わない?」
「変?土のことですか?」従者が少し考えこむ。「特に変化は見られませんが」
「生と死は非常に密着な関係、この世の危機はあの世の危機です」
「え?」
「私、散歩に行ってくるわね」
「ちょ、ちょっとお待ち下さい!」
「あなた、稽古中でしょ?スケジュール厳守、スケジュール厳守」
去っていく幽々子を見ながら従者は思った。はじめからお茶など飲む気は無く、今までのことは散歩したいがために作り上げた展開だったのだと。
4
「ふん、ふん、ふん、ふーん」古明地こいしが足取りよく手拍子をつけながら鼻歌を口ずさむ。
彼女の髪は煙草の煙と春の新芽を練り合わせたようで、陽気に揺れている。大ぶりの袖とスカートはブランコのように行ったり来たり。スカートの柄、ラナンキュラスは4月から5月に咲く花でラナは蛙の意。彼女は帰る訳ではなく、散歩をしていた。歌っているのだから、周りから見れば楽しいように振舞っているが特段楽しい訳ではない。楽しくないということでもない。元より感情を持ちあわせておらず、しかし感情が理解できるために楽しい振りをして楽しさを得ようとしていた。彼女の行動原理は、全てそう。大量虐殺をすれば誰でも心が揺れ動く、だから自分も少しは感情を持てると思った。心は揺れ動いた、いや、そういう錯覚だった。だけどそれで良かった、満足することができた。呼吸するように、歩くように、夢に入るように無意識に感情を求めた。
「あら」こいしが振り向く。何かを通り過ぎたような感覚があった。
「あ」そこに緑髪の少女が居た。白装束がバスローブのようで、桶の中に入り両手は桶のフチを掴んでいる。「こんばんは」
「こんばんは、お名前は?」挨拶をしてきたのでこいしは挨拶を返した。名前は知らなかったが、少しだけ似ている髪色に親近感が湧いた。正確に言うなら、感情を持っているなら親近感が湧くと思った。だから名前を訊いてみることにした。
「キスメ」
「私は、こいし」苗字は相手も教えてくれなかったので、自分も教えなかった。もしかしたら苗字が無いのかもしれない、地底にはそういう妖怪がたくさんいる。そもそも名前が無いこともある。
こいしがそのまま歩いて行こうとすると、キスメがそれを止めようとした。
「そっちは危ないよ」
「どうして?」
「いや、わからないけど……」
「じゃあ、危なくないのでは?」こいしは足元にある水たまりを踏んだ。
奥には水が溜まっている。地下深くに要るので薄暗く先に何があるのかまでは分からない。ただ、魚が居るとは思えなかった。深い水に一歩、足を踏み入れる。
「危ないよ」キスメが眉を潜めた。
「危なくても、いいよ」
足を掴まれたような感触がし、立ち止まろうとしたがバランスが崩れて前のめりになる。片腕が水の中に入り、その片腕も掴まれた。見ると、右足と右腕に赤黒いものがまとわりついている。粒のようだと思ったが、よく分からなかった。引きずり込まれないように後ろに下がろうとしたのに、結局は引きずり込まれ水底へ誘拐された。全身に赤黒い粒状のものが巡る。帽子がどこかに行ったことに気づいた。
両眼を瞑れば、異世界に行った気になれそうだ。目を瞑っているから、見えない。見えないから、居ない?
いない、いない。どこに、いる?
いるよ、いるよ。ここに、いるよ。
「おいで、おいで。ここに、おいで。」
「いるよ、いるよ。ここに、いるよ。」
5
湖の西の端についた咲夜とわかさぎ姫の二人だったが、そこにはなにも無かった。確かにさっき居た場所とくらべてみると良からぬような雰囲気がする。しかし特別霊力や魔力を感じる訳ではなかったのでその正体はわからなかった。そういう性質から、咲夜は自然の何かであると判断する。
「私、この下を潜ってみるわ。何かあるかも」わかさぎ姫が呼びかける。
「どうぞ」咲夜は応じてから、もし湖の底に何かがあったどうしようかと考えた。水中で長く居る訳にはいかない。館の主の友人は魔法使いであり、その友人から知恵を借りる必要があるかもしれないと考えた。
わかさぎ姫が潜り進めてから、明らかに湖の水面付近で感じた嫌な気配をより強く感じ、それは深くなるにつれ2倍、6倍、30倍と増し具合も大きくなっているように思えた。身体は薄ら寒く、自分が正確に泳げているか分からなかった。水の色は普通よりほんのすこし黒くもやがかり、赤い粒が浮いている。
それがどんどん顕著に現れはじめた時、何かに触れた。慌てて手を引き下げ、もう一度触ってみるとそれがただの湖底であることがわかる。拍子抜けをしてから、周辺の湖底を念入りに手で探ってみるも特に異様なものは無かった。なので諦め、わかさぎ姫は咲夜の所へ戻る。浅い所に行くにつれて水がクリアになっていくので安心した。
「ねえ、何も無かったわ。って」わかさぎ姫が外を見ると、湖の畔に咲夜ではない別の人物が居るのを見つけた。
その人物はフリルがあしらわれている水色の着物を女性が居た。幽霊のように三角の白い布を頭につけていて面白かった。
「水の底に何かあった?」あの布をつけている女性がたずねる。
「いえ、なにも。でも底の方にいくと卑しいように澱んでいるの」
「へえ……」
「それで、あなたは何が目的でここに?」咲夜が水面の上から、地に足をつけている着物の女性と向き合う。
「この世の危機は、あの世の危機ですわ」扇子を開いて女性が答えた。「常に自由であり、時に勢いを増し、時に静寂に。あらゆる物に恵みを与えては争わず、より低い場所へと収まり続ける」
「水のことかしら」わかさぎ姫が首を傾げながら言った。
「そう、上善は水の如し。あらゆる物を助けるということは、悪い現象へと手助けることもある」
「相変わらず、余計な婉曲表現をするのね」
「じっとしているのはあなた達の方。湖は一見静寂、だけど留まり続けている訳ではないわ。まだ水はより低い場所を見つけようとしている。誰もが嫌う低い場所だからこそ、誰も気づかなかったのね」
「湖の水はもうどこにも行かないわよ。え?低い方?」咲夜はしばらく考える。「あ!土の下に行くんだわ!」
慌てて咲夜は辺りを見回す。霧で見えづらい視界の中に井戸を見つけた。
「井戸に!」
「え?ま、まって。私、恥ずかしいからあんまり飛びたくないわ」
「つべこべ言うな!さっさと行くわよ!」咲夜がしぶるわかさぎ姫の腕を引っ張る。そのまま二人は落ちるようにして井戸の中へ入っていった。
6
二人は薄暗く水の無い空っぽな井戸の中へと入る。湿気が服と肌に貼り付き、蜘蛛の巣も見つかり今まで長い間使われていないことがわかる。その井戸独特の嫌な空気よりも何か陰湿で強大なものを感じ、奥に行くと岩は次第に鋭利になっていく。。咲夜は恐怖を感じたが同時に高揚もした。胸が重音で高鳴る。
咲夜は白い着流しを羽織っている真緑の髪の幼い姿の人影を見つける。左右に髪留めをしているので女の子だと分かった。
「この先、何があるの?」咲夜が質問する。
「あの、さ、さっき、こいしって人が」緑髪の少女が指をさす。
指差す方向を咲夜とわかさぎ姫が見ると、暗くてはっきりと分からないが水が溜まっていた。その中は湖の水よりも酷く濁っていた。その濁りは薄汚い茶色や緑ではなく、赤黒い。
「ねぇ、あの中に入るの?」わかさぎ姫がいやそうに咲夜に訊く。咲夜は無言で頷いた。
咲夜が水に手をつけ、そのまますくいあげるとすくった水の中に赤黒い粒状の何かがあった。それは水の中をうようよとしている。よくみると、それはさらに小さな粒が集まって出来ていた。
すくった水を捨て、意を決して息を吸い入水する。どこもかしこも赤黒い粒の集合体が浮いていた。集合体はまた別の集合体を見つけては水の流れに左右されながらくっつき、または離れてを繰り返している。そして、中央辺りには最も大きい集合体があった。
規則的に巡回を繰り返す群れ、その中に少女が居た。両眼を瞑り、膝を両腕で抱え身体が丸くなっている。少女のスカートは波のように揺れている。
咲夜はわかさぎ姫に目配せをすると、わかさぎ姫も視線を送り返してきた。音を用いないコミュニケーションだった。
水を口に含まないように息を止め、咲夜は数本のナイフを投げる。粒の集合の一部が欠損したと見えたが、すぐに補強され、それどころか膨張し、伸びて咲夜の方へ飛び出してきた。すぐに咲夜は避け、伸びた部分を切り裂く。
元々の身体側にあった粒は収束し、外側は拡散して行く。だが集合体を見ても数が減ったようにはとても見えなかった。
咲夜は懐からストップウォッチを取り出し、ボタンを押す。時間が停止し、世界は色彩が失われ咲夜は呼吸をするために水からあがった。水面にはひときわ目立つ黒い帽子が浮かんでいた。
時間を停めるといっても限界がある。水の中ならなおさらでありこのままのスタンスを突き通しても咲夜は体力が消耗するだけだろう。
自分のストップウォッチを咲夜は握りしめ、見つめる。敵の動きを今もう一度思い返す。恐らくチャンスは一度しか無いだろう。仮に二度目があったとして、その後に予定通りに行く可能性は低いと見積もった。
時間が流れだし、咲夜は湿ったい空気を出来るだけ多く肺に取り込んでから潜る。
わかさぎ姫は壁ぎりぎりまで下がり、技を繰り広げた。
鱗符 「逆鱗の大荒波」
水の中で激しい波が巻き起こる。咲夜は流されていかないように壁の岩の鋭い箇所を持ってふんばる。粒達は流されるないよう抗い動いていた。
波に乗り、粒が散らばっていくと思いきやこちらへ伸びてきた。思わず反射的に下へ回避したが、悪手だった。
巻き起こっている波を利用して粒はまた咲夜へ襲いかかる。咲夜は仕方なく下へ、下へと潜り続ける。
水圧で耳が痛い。体力が限界にやや近づいているのが分かった。
一旦、時を停めて水からあがり潜り直すことにした。
呼吸と鼓動を落ち着かせる。
水の中で有効に動く手段を考えていた、名前は思い出せないが本で読んだことがある手法を思い出す。口を閉じ、鼻をつまむ。空気を漏らさないようにしつつも、徐々に鼻から息を出すようにゆっくり圧力をかけていく。
右耳の中で音がして鼓膜が膨れる感覚。
左でもその感覚を受けてから、5秒間その状態を持続させる。耳にかかる圧力が抜ける。
息んだせいで、血圧が下降し、そして一気に高まる。
顔が赤くなり、全身の血管が震える。
筋緊張。
これがバルサルバ効果という名前の生理現象だということを思い出した。
これで、普段より筋力が発揮できるようにもなる。
もう一度潜り直す。耳は痛くならなかった。
波の向き、波の勢いを咲夜は肌で感じる。ストップウォッチはいまだ強く手の中に収まっていた。粒の群れの動きを見据える。波の速度と粒の速度を見比べて計算する。
時計「ルナダイアル」
手に持っていたストップウォッチを、速度と距離を考え中心にいる少女に当たるように手首のスナップをきかせて投げる。粒の集合の動きは咲夜の予想とマッチし、出来た隙間にストップウォッチが入り込む。そのまま少女へと当たり、ストップウォッチは作動した。
一般的な魔法や魔術がそうであるように、わざわざ過程を踏むことでより強力な術を行使することができる。長時間の隙が出来た相手へ咲夜は、もし少女が急に動いても逃げ出さないような仕組みでナイフを配置していく。最後に、少女に当たったストップウォッチを回収してそのボタンを押した。
少女が結局、動かないで居たためにダメージを限界からオーバーして与えることができた。どの粒も完全に別の粒との繋がりが断ち切られ、集合はあっという間に散乱していった。
7
咲夜がびしょぬれのまま井戸から出ると、紅魔館の方が騒がしかった。何があったのかと思い、時間を停めモノクロの世界を一瞬で駆ける。
パーティが行われているようだった。自分が調理していない料理しか並んでいない光景を初めて見た咲夜は、唖然としたが安心もした。
主レミリアの姿を見つけ、その横へ立ちストップウォッチを作動させた。
「おや」レミリアが驚いたような顔をする。「はやいわね。てっきり朝帰りにはなるかと思ったのに」
「ご近所トラブルでしたからね」
「そのわりには、大変だったみたいだけど。水も滴るいい女?」
「もっと良い水が良かったですわね、あの湖の水は、ちょっと」
「あら、最高の水じゃない」
「え?」
「咲夜、通ってきたんでしょう?」
「湖のことですか?はあ、まあ」咲夜は吸血鬼が流水に弱いことを思い出す。確かにオーバーな褒め言葉で、遠回しの文句かと思い焦った。だが、その焦りは湖の光景を見て一瞬で取り払われた。
紅い、紅い湖。
その湖に、より一層紅い屋敷、紅魔館の姿が鏡のように映る。幾何学的な景観だとおもえた。
「赤潮ね」レミリアの友人の魔法使い、パチュリー・ノーレッジがいつの間にか居た。普段図書館にひきこもっている彼女はパーティでもあまり顔を出さない。この異様な景色があるために現れたのだろう。
「水がワインにでも変わったのかと思ったわ」レミリアが冗談を言う。
「パンはありませんね」咲夜がパーティ会場を見回す、レミリアの冗談に乗せた。こういう時の頭の速さは紅魔館随一である。パチュリーは時を停めて考えているのではないか、と疑っていた。
「咲夜が居ないせいで、妖精メイド達はお酒に合うような塩辛い料理ばっかり。おかげでパンはソールドアウト」レミリアが呆れたようにため息をつく。
「あの紅いのは、全部プランクトンの死骸。富栄養化による大量発生ね、だけどそれだけじゃないと思うわ」パチュリーが解説する。「原因は少なくとも3つはあるはず。1つは、この霧の湖は冷たすぎる。幻想郷の地形のせいね。内陸でさらに山に囲まれている。だから魚は住めない、けどプランクトンは生きていて捕食者が居ないから数が多い。生命エネルギーが多いのに、人間はやってこないから死の湖に妖精がたかるようになった」
「へぇ。で、もうひとつは?」
「それが、わからない。人為的なものとしか思えないわ。あ、まって。そうか、いや……うん、そうだ。違いない!」パチュリーが閃いた。「きっと、幻想郷の外でこのプランクトンの種族が絶滅してしまった。だから幻想入りしてしまったのよ。最も、たかがプランクトンじゃあこの地に適応する能力を持てなかったんでしょうけど」興奮気味なパチュリーはまくし立てるように語る。
「放っておいても良かったとは思いたくありませんわ」咲夜が自分の服を見つめる。
「どうせ餌が無くなって絶滅するとは思うけど」パチュリーが湖から咲夜へ視線をシフトする。「低い確率であれだけの数が全て集まったとする。さらに奇跡的な確率で、もしかしたら大変なことになったかもしれない。恐らく、幻想郷中の生態系が大きく変化した。情報材料がほとんど無いから、あくまで現状の見解」
その話をきいて咲夜はそれが、決して低い確率では無いと確信した。このプランクトン達と井戸の奥で退治した時に、核となる部分に少女が居た。その少女を守るようにしてプランクトンは集合していた。あのまま放っておけば、奇跡的ではなくほとんど100に近いパーセンテージで幻想郷の生態系が変化するだろうと推測した。咲夜は学者でも、なんでもない。しかしこの絶対的ともいえる勘は外れない。確信するということには、意味や理由がある。簡単には言葉に出来ないが、無意識にデータを解析している。それが直感ということを咲夜は経験で知っていた。神や妖怪のように概念的存在とは馴染めない人間だけが持つスキルであり、人間の最もたる長所。
ふとパーティ会場を振り返ると、なんとそこには今日会ったわかさぎ姫や西行寺幽々子、プランクトンに囲まれていた少女、井戸に居た桶に入っている少女も居た。またさらに驚くべきこととして、レミリアの妹フランドール・スカーレットも居た。フランドールは井戸の奥に居た少女と、桶に入っている少女で遊んでいる。
「ああ、うん。あいつが居るから驚いてる?」あいつ、というのはフランドールのことだろう。
「ええ……」咲夜は頷くしか無かった。
「屋敷内から出なきゃ良い許可はしてるし、そろそろ幻想郷にも慣れただろうし、ね」
「レミィったら、咲夜に秘密にしたかったのよ。プライドが許せなかったのね」パチュリーが思わず笑みをこぼす。
「おい!余計なことを言うな!」レミリアがパチュリーに向かって怒鳴った。