ぽつぽつと髪に当たる雨粒が、額を伝い目に入る。私はそれでも、まぶたを閉じない。
――眼前に広がる非現実に、目を背けることができなかった。くらむような閃光の後、すくむような炸裂音の後、その光景は受け入れ難かった。
「にとり! ああ、そんな……うそよ……」私は狼狽しながらも、にとりに駆け寄り安否を確かめる。あの鮮やかな空色の服は黒く焦げ、帽子やリュックは弾け飛び、泥まみれになった腕や足はぴくりと動く――動いた? 生きてる!
「にとりっ! 誰か! 誰か助けて!」小さく呻き、微かに体を動かした。動揺し、私は悲鳴に似た声で助けを呼んだ。聞きつけた河童達が各々の家から顔を出す。医者を呼んでくれているらしく、皆慌ただしく叫んでいた。
しかし、河童たちの騒ぎはほとんど私の耳に入らない。雷鳴で聴覚を失ったのではなく、雨音に遮られたからでもない。自責の念で、まわりの事をつぶさに認識できなくなっていた。にとりが雷に打たれた原因は、外に出たこと。そして自宅にいたにも関わらず外に出た原因を作ったのは……私だ……
「私、なんてことを」にとりが雷に……じわりじわりと忍び寄る恐怖の足音は、心臓をぎゅうと締めつける。肺から空気が押し出され、四肢は思い通りに動かせない。身体が自分のものではないような感覚になる。
私は、にとりの元へ駆け寄っても、助けを呼ぶしかできないことに気づく。ただ助けを待つ、この時間がとてつもなく長く感じた。早く、早く、にとりを助けて! 願えば願うほど時は遅く感じられ、まとわりつくぬるい空気が粘性を高める。重くのしかかる空気の中で、ついには雨粒の軌跡が見えるようになった。
一瞬が永遠に引き伸ばされたような時の中、雷鳴に似た聞き覚えのある破裂音が、きいんと耳に届いた。この音は――
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少量の水滴が窓にてんてんとついた。やはり一雨きたか。
僕は誤解の元となったカーテンを閉めた。一息ついて頭は落ち着いたが、未だににとりへの弁明を思いつかないでいる。
文さんは、真剣なのか考えてるふりなのか腕を組んでうんうん唸っていた。普段は自分勝手なおとぼけ天狗だが、今日は一段と頼りになる。なにか心境の変化でもあったのだろうか……はたてさんのグーパンチが効いたのかな? いや、まさか。
でも今回に限らず、文さんのことだからはたてさんと幾度も衝突してきたはず。それでも二人は今まで友達同士だったんだ、仲直りのコツを知っているのかもしれない。
「はたてさんと付き合い長いよね? 文さん」
「ええ。新聞記者になる前の学生時代、崇徳魔縁塾でお勉強していた頃からの付き合いです」
「なら、何度か喧嘩もしたよね? どうやって仲直りしたの?」
「う~ん、時と場合によりけりですね。こちらから謝ることもありますし、向こうから謝ることもあります」
お互いに非を認めるのか、なんて大人なんだ。
「にとりと僕みたいな、誤解で喧嘩したときはどうやって仲直りしたの?」
「誤解ですか、したことないですね。私もはたても単純ですし」
「そうか……」
だめだ、良好な関係過ぎて全然参考にならない。
けれど僕は思い返した。にとりとの誤解を解く方法の糸口さえ見つかればと、淡い期待をよせたのがそもそもの間違いかもしれない。即席の弁明など、かえってにとりを怒らせる可能性もある。やはり正攻法で、正直ににとりへの想いを打ち明けるべきか。このまま手をこまねいていても、にとりの心が僕から離れていくだけだ。
「もういっそのこと、千里眼でにとりさんのことを見れば良いのでは? 仲直りのヒントが見つかるかもしれませんよ」
文さんは明暗を閃いたかのような表情で唐突に発言した。これしかない、と言わんばかりに自信たっぷりの顔をし、背筋を伸ばして居丈高。だけど僕は、気が進まなかった。
「いや、あまり千里眼を友人に使いたくないんだ。まるで盗撮みたいだもん」
「えっ! 私の時は使ったじゃないですか!」
そういえば使ったな、よく覚えてるもんだ。
「あの時は文さんと仲良くなかったもん」
「えぇ~そんなあ。あんまりですよ」
ぴんとした姿勢から一転、ぶうたれてウダウダしている。よほど気に食わなかったのだろう。拗ねたふりをして、僕に謝れと全身を使って訴える。しょうがないなあ、今はにとりのことでいっぱいいっぱいなんだけど。
「今は大切な友人なんだからいいじゃない」
「えへへ、そうですね……その、大切なって、もう一回言ってください」
そんなことを言ってる場合ではない。このままじゃにとりが僕のもとから去ってしまう。あの楽しかった日々が、あの幸せだった気持ちが、僕の手からこぼれ落ちてしまう。そんなことは絶対避けなければ。……友人と、大切な人と、永遠に会えなくなるくらいなら――いっそのこと、使うか――
「しょうがない、見てみるよ」
「大切なって、言ってくれないんですか?」
しょぼんとした文さんを他所に僕は再びカーテンを開け、にとりのいる方向をじいと見る。すぐに目の前の景色はかすみ、見たい場所を望遠する。
河童の里は雨が本降りで、家屋の屋根に雨がはねていた。
「なにか見えましたか? にとりさん、いましたか?」
ええい、擦り寄ってくるんじゃない、どいてくれ。こんなところをまたにとりに見られでもしたら、一巻の終わりだろ。文さんの学ばなさと空気の読めなさは神がかりだな。
「にとりがいた。あれ? なんだか、はたてさんと口論してるみたい。お、にとりが空を飛んで、また何かを言っ――」次の瞬間、今までに経験したことない光量が目に飛び込んできた。ぐっと瞼を閉じ、体を反射的に丸めて窓から離れる。視界は消え、閉じているのにも関わらず瞼に白光がちらついた。二人の身に何が起こったのか、視界が蘇るまでの数秒にいくつもの考えが浮かんでは消えた。僕の耳もとに届いた答えは、閃光の六秒後。
ガガァン、ロロロロロ……
光の正体は、雷光だった。同時に、考えたくもない仮説が押し寄せる。いや、にとりたちと僕の間に雷が落ちただけかもしれないだろう? 雷に当たる確率なんて、そう高いはずがない。きっと思い過ごしだ、悪い想像なんてするもんじゃない。だいたい、にとりが空を飛ぶときはいつも天気を気にしていたじゃないか。雨の中飛ぶなんて……
――雷光の後、何秒で音が聞こえた?――
視界があと数秒でもどるという時、一番考えたくないことを考えてしまう。雷鳴の轟きは三町を一秒で駆け巡る。六秒ならば、十八町(約二キロメートル)――河童の里と同じ距離じゃないか! 早く、はやく、視力よ戻れ!
「椛さん、どうしました? 目が見えないんですか?」
身体を文さんに支えられ、ついに色を取り戻した目でにとりたちを見る。先程まで宙を飛んでいたにとりの姿は、なかった。
「うそだろ」――飛んでいたちょうどその下の、ぬかるんだ地面ににとりはいた。いつも着ていた服は黒く煤け泥にまみれている。背負っていたプロペラはくの字にねじ曲がり、原型をとどめない金属片に姿を変えていた。にとりとは違う河童かもしれない、僕は現状と向き合えずに虚しく願う。
僕の千里眼は常に事実を映し出す。が、今ほど自分の目を疑った事はなかった。大切な友人に起こった残酷な出来事を許容できるほど、僕は強くはない。
「にとりが、雷に、打たれた」虚ろな顔で文さんを見、真実味のない真実を言う。例えようのない有様を、とても受け入れがたい現実を。文さんも僕も、二の句を継げずに息を飲む。
どうすればいい、ここから必死に走るとしても三分か? 三分も雨の中放置されたら、傷ついたにとりが死んでしまう。よしんば間に合ったとしても雷に打たれた者の応急処置など、やったことがない。いや、それでも僕はあそこに行かなければ。
須臾の垣根を飛び越えて、事の緊急性を悟った瞬間――僕の身体を支える腕が、ぎゅうと体を固定する。文さんは僕を抱えて窓から飛び出し、そっと、耳打ちする。
「椛さん、目と口を閉じていてください」そんなことを言ったように聞こえた。
大地が足元から落ちるような錯覚――異様な速さで文さんは飛び上がり、全ての音を置き去りにした。幻想郷の最速を自称する彼女は、紛れもなく《最速》だった。
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強烈な速さで飛行し、ものの数秒で河童の里に到着した。あまりの不慣れな速さのせいで、足元がふらつきまっすぐ歩けない。役に立たない足に拳を入れ、河童の里の広場から大切な人のもとに駆け寄った。
「にとり!」
「はたて! にとりさんは?」
悲しくも千里眼で見た通り、にとりがそこに倒れていた。
「にとりっ! ああ、にとり……」雨と泥にぬれた痛ましいにとりを抱く。雨に濡れないよう羽織をかぶせ、冷え切った体を温めるよう体を密着させた。大切な人を失うかも知れない――つい先刻までの恐れが現実となってしまい、嗚咽が止まらない。
「この中にお医者さんはいませんか!」
文さんが大きな声で叫ぶ。いつのまにか周りには河童の里の住人たちが集まり、にとりや僕たちを不安そうに見ていた。僕も文さんに続き、懇願する。
「にとりを、にとりを助けてください!」ざわつく集団の中から白衣を着た河童が近寄ってきた。医者のようだ、僕らはその河童に診察を頼む。脈をとり、瞳孔をペンライトでチェックする。聴診器を胸にあてがい、心音を調べてわずかに頷いている。ふと、にとりの口元に耳を傾ける。呼吸を診ているのだろうか?
「先生、助かりますか」たまらず声を出してしまう。文さんとはたてさんは診察の邪魔をすまいと静かにしていたが、僕は焦っていた。ただ立ち尽くすことすら出来ない程、動転していた。
医者はこちらをキッと振り向き、そばの河童たちに耳打ちする。
「えっ、ちょっとなんですか?」
「僕たちはにとりの友達ですよ!」
診察していた河童が周りの河童たちに号令をかけ、僕ら三人をにとりから遠ざける。多勢に無勢、僕らは河童たちに広場の外に、里の出口に、どんどん外へ追いやられる。排他的な行動をする河童たちの姿は、僕にとって非常に馴染みのあるものだった。妖怪の山に侵入した者に対する哨戒の、白狼天狗の行動そのものだ。
僕たちは河童の里を追い出され、ほど近い森の入口で途方に暮れる。
「なぜ私たちを追い出すんでしょう。声をかけただけなのに」
「にとり……」
「私がいけないんだわ、私がにとりにあんなことしなければ」
はたてさんの口から聞き捨てならない言葉が放たれた。
「おい、なんだ? にとりに何をしたんだ? 雷に打たれるような事したのか!?」
自然現象である雷に倒れたとはいえ、その原因を作ったというのであれば話は別。烈火のごとく憤慨しながら、今までに見せたことのない剣幕ではたてさんに詰め寄った。
「待ってください椛さん。はたてがそんなことできるわけないでしょう。少し冷静になってください」
「冷静だって? なれるわけないだろ。にとりは死にかけているんだぞ!」
文さんが間に割り込み、僕を制する。鼻息は荒く吹き出し、息継ぎを忘れ大きく叫んだ。見開き乾いた眼ではたてさんを睨みつけたまま、僕は激昂する――これが逆鱗というものか――遠く彼方に飛ばされた僕の理性が冷静に呟く。
「お医者さんはきっと助けてくれます。信用するんです! 椛さんがここで喚いても何も解決できませんよ!」
文さんは僕の顎をぐっとつかみ、僕を自分の方に無理やり向かせた。叱りつける文さんの真剣な顔は、遠い昔母親に叱りつけられた記憶を呼び覚ました。
「あ、ああ、ごめん」
僕の顎から手を離し、文さんはゆっくり頷いて僕の心に同調してくれた。僕は今この瞬間まで冷めやらぬ怒りに支配されていたが、文さんの優しい目と包容でようやく我を取り戻す。
「でも、ただ待っているなんて、出来ない」
「永遠亭――幻想郷最高の薬師、八意永琳さんに意見を聞くのはどうでしょう?」
その名前、どこかで聞いたことがある。どんな難病でも必ず治し、あらゆる傷を塞ぐと噂の。
「でも僕、永遠亭に行ったことない……」
「ご安心を、私は取材で何度も行ったことありますし、永琳さんとも面識があります。今からすぐ行って、助言を貰ったら最速で帰ってきます」
「文、私が行くわ。私のせいだもの」
「いいえ、はたては椛さんの家で待っていてください。椛さん、はたてをよろしく頼みます」
確かに、今のはたてさんに行かせるにはとても心許ない。途中で倒れそうなくらい憔悴しきっている。はたてさんのこの様子だと、永遠亭に着くまでに行き倒れるか、帰ってこなくなるかのどちらかだろう。なによりはたてさんには聞きたいことが、ある。
「うん……文さんも雷に気をつけて」
「ええ、任せてください。ではっ!」
たんっと地を蹴り、いとも容易く音速超え。雨もろとも大気を弾いた残響は、妖怪の山にこだまする。はじかれた雨粒はざあと纏めて落ちてきて、残った僕たちに喝を入れた。
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さらに雨足の強くなる中、駆け足で我が家に飛び込んだ。僕ははたてさんにかからないよう、軒先でぶるると体に染み込んだ雨をふるい落とす。
「この手ぬぐいで拭いてください。拭き終わったらそこに座って」
わずかに声のトーンを落とし、はたてさんを促した。努めて平静を装ったが、渦巻く怒りは収まっていない。どれほど理性的になろうとしても、心だけは制御できなかった。
「教えてくれ。はたてさんは、にとりに何をしたんだ? さっきの『わたしのせい』ってどういうこと?」にとりをわざと瀕死にしたわけじゃないことくらい、頭ではわかっている。つい先日まで仲良くお菓子をつまんでいた友人同士なのだから。
だが友人とはいえ、僕とはたてさんは仲良くなって日が浅い。にとりや文さんのように信頼することは到底できない。長年の付き合いでもなく、本音をさらけ出せるわけでもなく、にとりや文さんが親密にしているから友人として接していただけだ。ましてや『私のせいでこんなことに』なんて言われたら、心穏やかに居られるはずもない。ぴりぴりしてもなお、言葉を荒げないのが奇跡なくらいだ。
「はたてさん?」はたてさんはこの蒸し暑さの中、手足を小刻みに震えさせている。空虚な目は呆然と空間を眺め、顔は血の気が引いたように真っ青になり、哀れなほどに衰弱していた。見かねて僕は青白い手を取り、張り詰めた身体をさする。
「はたてさん、深呼吸して。僕の目を見るんだ」
一緒に息を吸い、吐く。まだ彼女は息が浅く、ひどく緊張している様が見て取れた。神経をほぐすため、はたてさんの肩に手を置き、もう一度、一緒に深呼吸して落ち着かせる。一連の動作ははたてさんの気を静めるためだけではない。気が立ち興奮しているのは僕だって同じだ。これは僕の気を力ずくで鎮めるためでもあった。
「ゆっくりでいい。にとりと二人になってからどんなことがあったのか教えて」はたてさんは幾分か落ち着いたらしく、暗い顔で僕を見る。今にも泣き出しそうな目だった。本当は僕も泣きたかったが、尖った犬歯で唇を噛み、ギリギリのところで僕は泣かなかった。僕たちは同じだ、にとりの身を案じ、焦りや恐怖に耐えていた。
「……私ね、文のことですごくイラついてたの。にとりと二人になった後も文への気持ちが収まらなくて、つい、八つ当たりをしてしまったの。そして、怒ったにとりが外に飛び出した途端、雷に……打たれ……」
はたてさんは言い終わるまでに涙が溢れていた。けほっと咳こみ息をヒュウヒュウといわせ、頬を伝う露を袖で拭う。力なく、崩れるようにその場に座り込み、失意にうなだれすすり泣く。
……目の前でにとりが倒れたのだ、きっとその時の光景が脳裏に焼き付いたのだろう。暴力的な光に力なく倒れ、動かなくなった大切な友人――その光景に絶望したのははたてさんだけではない。千里眼で目の当たりにした僕も、同じく絶望した――
「辛いのに言ってくれてありがとう。はたてさんが悪いわけじゃない。僕だってにとりに八つ当たりしたり誤解を招くようなことをしてしまったんだ。悪いことが重なったんだ。はたてさんは悪くないよ」
「椛……あなたが一番辛いのよね、ごめんなさい、私ばかり泣いて」
はたてさんを慰める過程で、いつしか僕の荒れ狂う心は太平に静まっていた。哀しみの波は未だ脳裏に押し寄せていたが、怒りや焦りは雲や霧のように散り消えた。
静まる我に、僕は悟った。文さんが……いや、元ははたてさんが言った、『相手のことを気づかえるようになったら、きっと相手は自分のことを好いてくれる』という言葉。これは、ただ相手に好かれるということだけではく、自分もまた自分の心が好きになれるということなんだ。相手を攻撃するような気持ちでいれば諸刃となって自分を傷つけ、相手を気づかう優しい心を持てば自分の心もまた救済される。どんなに辛いことがあっても、優しい心を忘れなければ、自分を見失うことはない。
僕は、僕を励ますためにも、はたてさんを励ました。
「大丈夫、にとりはきっと助かる。河童の里の医者たちもいる。文さんも永遠亭に助言を貰いに行ってくれてる。僕らはみんなを信じて待とう。だから泣かないで、僕も泣かないから」
「椛……」
はたてさんの手を握り、安心させるよう励ました……自分を励ますつもりで言った。
赤く、泣きはらした童子のような目ではたてさんは僕を見上げる。
「文が椛に虜になる気持ちがわかるわ。頼りになるもの」
「えっ!?」予想だにしない言葉にびっくりした。あまりの驚きに一回だけしゃっくりが出た。
「と、虜になるっ? そんなこと、あるはずないでしょう!」
「さっき椛に抱きついてたでしょ。あなたのことが好きなのよ」
そういうことか。僕と文さんによる誤解の種は、はたてさんにまで芽を出していた。にとりのことで慌てていて誤解を解く暇がなかったけど、今ならきっと解けるはず。文さんに変わって僕が誤解を解くとしよう。
「そのことなら誤解だよ。僕が、文さんに抱きついたんだから。それも特別な感情抜きにね、不可抗力だったんだよ」
「ええ、そうだったの!」
はたてさんはびっくりお目々でぱちくりしながら素っ頓狂な声を上げる。
「どうしよう、私ったら勘違いで文のこと思いっきり殴っちゃったわ」
勘違いとはいえ、文さんへのヤキモチのあまりつい手が出てしまったのだな。文さんは思い切り否定していたけど、やっぱり僕の予想通りじゃないか! 改めて文さんの鈍感っぷりには驚嘆する。
「文さんだったらきっと大丈夫。謝ったら許してくれるよ。殴られたあともあっけらかんとしてたし」
「そうなの? それはそれでちょっと悔しいかも」
「はたてさんは文さんの虜みたいだね」
「椛だって、にとりのこと……でしょ?」
はたてさんは否定しない。素直だな。
蛍を見た時、ライブ会場で出会った時、僕の家で誤解された時、素直に接していたら、にとりと喧嘩しないでいられただろう。雷にも、打たれなかっただろう……過去のことは、今となっては後悔しかできない。が、今は後悔している時ではない。
「うん。にとりのこと、大好きだよ。だからこそ、にとりには絶対助かってもらわないといけないんだ」
「私たちも出来る限りのことをしましょう!」
僕らは大きく頷き、手を取り合う。はたてさんのその目には先程までの悲しみに染まっておらず、希望と意欲に満ちていた。
この時、僕は決心した。にとりを救えるのなら、たとえこの身が散ろうとも必ず救う。必ず――
ドォン
南の空に衝撃音が響いた。風で窓ガラスが震えたと同時に、待ち望んだ高下駄の音が玄関の白御影にカコンと鳴る。
しかしその音は、けして軽やかなものではなかった。
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がらりと引き戸を開いた文さんに、僕とはたてさんはすぐさま駆け寄った。幻想郷の最高頭脳がどんな助言をくれたのか、にとりは助かるのか? 期待と不安に引っ張られ、はやる気持ちを抑えきれなかった。
「文さん! どうだった? あ、いや、まずはこれで体を拭こう」
「ありがとうございます。ぶはっ!」
毛布をずぶ濡れの頭にかぶせ、わしゃわしゃと水気を取る。文さんを気づかったつもりだが、待ち遠しくてがさつに拭いてしまった。房のついた頭襟はポロリと転げ落ち、文さんの髪はしっちゃかめっちゃかになっていた。
「で、どうだったの? 永琳さんはなんて言ってたの?」
「ええ、それなんですが、普通の妖怪は雷に打たれたとしても命に別状はないそうです。河童の里の医術でも十分対応できるとのことです」
「ああ、よかった。それなら安心だな」ホッと胸をなでおろした。にとりを失わずに済んで、本当に良かった。安否を待つだけの存在だった僕たちは、その一言で救われた。薬を使わずして僕らを救うとは、さすが八意先生である。
「いや、それがそうとも言い切れなくてですね」
「え?」僕とはたてさんは面食らった顔で振り返る。おい文さん、何を言う気だ。まさか……
「永琳さんは河童が雷に打たれた事例を見たことがないんです。水に生きる妖怪が落雷に耐えうるかどうかは推測の域を得ないそうです」
「もしかして」
「最悪の場合もありうるとのことです」
そんな!
文さんは僕たちに沈痛な面持ちで無情な通告をする。ぬか喜びにも程がある。一度安心したがゆえに、もとの不安に戻されより一層辛くなる。はたてさんも僕も、がっくりと肩を落とした。
「まだ落ち込まないでください。河童に対してのみ、八意製の医薬よりも効果的な妙薬があるとのことです。その妙薬は――尻子玉」
「尻子玉!」にとりがいつも僕に『生意気言うと抜いてやるぞ~』と脅していた、あれか。ただし、どういったものなのか詳しく聞いたことはない。僕らから取れるようなものが、河童には薬になるのか?
「聞いたことはあるけど、なんなのそれ?」はたてさんも知らないようだ。天狗には馴染みのないものだから、知らなくても仕方ない。
「永琳さんの説明によると、尻のあたりにある魂のことだそうです。河童が好んで尻子玉を抜くのは、河童にとって好物だったり薬となったりするからだと言ってました」
河童と親しく、妖怪の山に共存する天狗ですら知らないのに、なぜそんな事を知っているのだろう。やはり八意先生は噂に違わず博学なのだな。
「じゃあ、尻子玉を持っていけばいいの?」
「いえ、ただの尻子玉では妙薬にならないようで。その河童に縁の深い者の尻子玉が薬として適しているとのことです」
縁の深い、か。
「なら僕の尻子玉なら助かるんだな」先程決意した覚悟は、おためごかしではない。にとりのためならなんだってする。なんだって。
「椛……」
はたてさんは僕の腕を弱々しく掴む。止めようとしているのか、止めるのを躊躇しているのか迷っているようだった。無理もない、にとりのためとはいえ、自分の魂を捧げるのだから。でも僕は既に決めたんだ。はたてさんに目配せして理解させる。
「待ってください、まだ河童の里の医術で助からないとは決まってません」
文さんの言うことはもっともだ、だが僕には僕の言い分がある。
「それは八意先生の推測だろ? 僕は必ず助けたいんだ。ならば取るべき行動はひとつ」
「椛さん。尻子玉を抜くということは魂を抜く、つまり椛さんが死んでしまうんですよ?」
文さんは、僕がにとりの代わりに死んでしまうことを恐れているようだった。なるほど、あやさんをよく見ているだけあって、はたてさんは鋭いな。文さんは僕をとても大切に想ってくれている。そこまで想ってくれているのなら、言わなくてもきっとわかるはず。大切な友人と自分の命を天秤にかけるなんて愚かなことを。天秤になど、かけるまでもないことを。
「それなら私が! にとりがああなったのは私の――」
「はたてさんのせいじゃない。さっき言っただろ? 誰のせいでもないんだ。それでも、僕はにとりをみすみす死なせるわけにはいかない。絶対に、死なせない!」
「……椛さんらしいです。永琳さんにこの話を聞いたとき、薄々気付いていたのです。きっと椛さんは自分を犠牲にしてでもにとりさんを助けようとするって」
やはりわかってくれていた。日頃、鈍感お気楽天狗と馬鹿にしてすまなかった。僕の事を想ってくれて、ありがとう。
「なら、止めないよね」ふっと文さんに微笑みを向けた。普段仏頂面だから、微笑みになってるかは怪しいが。
「ええ、それが椛さんの決めたことなら。一緒に行きますよ、河童の里へ」
「私も行くわ。にとりに言わなきゃ、『ごめんなさい』って」
僕を含め三人共、お互い喧嘩をすることがあっても良き友だ。認め合い、励ましあい、支え合う。三人にとって大切な友、にとりの為に立ち上がる。待っててくれにとり、きっと助けるからな!
手を重ね、決意の固まった僕らは一路河童の里へ。
にわか雨はやみ、空には紺碧の虚空が広がっていた。ひとつ煌く北極星が、僕らを導き瞬いた。