夏の強い日差しが背中をジリジリ焼いている。
私はいつもと違う服を身にまとい、椛さんの元に向かう。
会場である山の麓の広場の上空を通過すると、ライブコンサートを待つ人だかりがもう出来ていた。会場を取り囲む木々は夏なのに赤く染まり、会場を日常から切り取っている。急いで向かおう、そして二人でこの非日常に身を投じよう。
――そう、二人きりで。
カツン
椛さんの家の前、白御影の敷石に降り立つ。いつもは高下駄だが、今日はヒールを履いていた。ずっこけそうな危うさもあるけれど、今日一日くらいならなんとかなる。にやけた顔を引き締めて、今日一番の綺麗な声で今日のパートナーを呼んだ。
「椛さん、お待たせしました」
戸が開き私を一瞥した後、いつもの口調でつぶやいた。
「うん、結構待ったなあ。千里眼で見たけど、会場はもう開いてるみたいだよ」
「いじわる。そうだ、どうですか? 椛さん」
私は、さあ見てください、と言わんばかりに両手を広げくるりと回ってみせる。ほら、いつもは着ないTシャツですよ! ちょっと大きいサイズだけど鎖骨が露出するのでいつもよりセクシーでしょ? はたての家でラベンダーの石鹸も使ってきたし、お化粧もちょっと違うんですよ? ほらほら、もっとよく見てくださいよ。
……椛さんは見てくれているけど、何も言葉を発してくれない。まるで、『何を見ろと言ってるんだ』と言わんばかりの顔だった。
「ちえ、おめかししてきたのに何も言ってくれないんですか」
「ん、ああ、Tシャツ姿なんて初めて見たよ、どこで買ったの?」
「借り物です。早苗さんに、『ライブといえばこういう格好で行くんです!』と強くオススメされまして」早苗さんは神様用に買ったのか、二着のTシャツを私に見せた。『二人共着てくれないんです』と嘆いていたが、なるほど。古代日本で崇められていた神様が着るとは思えないデザインだ。チケットを貰った時一緒に貸してくれたので着てみたら、二柱のうちの諏訪子様用は少し小さくへそが出る。なので私は神奈子様用の大きめTシャツを着用した。
「いいと思うよ」
「おお! ありがとうございます!」ふふふ、いいって言ってもらった。いや、本当は言わせた感じだけれど、いいんだ。椛さんから褒めてもらえればなんでも嬉しい。
「……実は、椛さん用にも借りてきたんですけど着ますよね?」
「えっ僕はこのままでいいよ」
「そんなこと言っていいんですか? きっと一人だけ浮いちゃいますよ」椛さんはいつも通りの服装だ。下駄と紅葉柄のロングスカート、盾と段平こそ持っていないが和風の装いで臨むらしい。似合っているし、かっこいいけど、ロックな姿もぜひ見たい。このTシャツを椛さんに着てもらうためにも、お揃いであることは黙っておこう。お揃いと聞くと、にべもなく嫌がるに違いない。
「ライブコンサートは雰囲気を楽しむところでもあるんです。一人だけ場違いな服装だと雰囲気が壊れて素直に楽しめなくなりますよ」
「そういうもんかな……あぁ、でもさっき千里眼で見た時、会場の人たちは、皆そんな洋風の格好だったなあ。そうか、一人だけ和風ってのもおかしいか」
やった、釣り針にかかった! あとは慎重にかつ大胆に……
「そうですよ! きっと似合いますって! 着るの、お手伝いしますよ」
「へ? 僕一人で着れるからいいよ!」
「まあまあそう言わずに」
「いいから外で待ってろって」
ぐいと外に押し出された、さすがに大胆すぎたか着替えは同席できず。恥ずかしがる椛さんを見たかったのもあるが、着てもらえるだけでありがたい。追い出された私は、椛さんのロックンロールな姿を妄想しながら、今か今かと白御影の敷石でヒールをぐりぐりする。
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「はたてちゃん、もう開場するみたいだよ」
にとりに手を引かれ、私は会場の入口にいた。八雲の子猫にチケットを渡していざ入場。会場はすでに熱気に包まれ、多くの妖怪がわいわいと騒いでいる。
「結構多いね、やっぱり人気なんだなあ」
「なんてったって有名アーティスト達の合同コンサートだもの」にとりもこれだけの規模のコンサートは初めてみたい、私と一緒にキョロキョロ辺りを見渡す。見慣れた妖怪もいれば妖怪の山に来るのは初めてのような妖精もいる。
「みんないつもと違う格好ね、やっぱりライブだからはっちゃけたいのかも」
「私たちも違う格好だもんね。はたてちゃん、いつも以上におしゃれ!」
「にとりもかっこいいよ。いつもスカートだから、ショートパンツのイメージ無かったけど似合うね」にとりは明るい水色のスカート姿と打って変わって、紺のショートパンツにタンクトップのハジけたルックだ。私は市松模様のニット帽に、ロングブーツとボートネックのシャツで動きやすく、ラフにコーディネート。
野外のライブコンサートでは周りの迷惑にならないよう、過度な装飾は抑える配慮をしたほうがい。引っかからないようネックレスやリボンはしない、かさ張るのでリュックではなくポーチ程度に荷物を減らす、足を踏んでも相手が痛くないようヒールは控える等々。ほかにも準備したほうが良いものもたくさんある。にとりは経験者らしく、非常に用意がいい。暑さでのどが渇けば水を差し出し、日差しから肌を守るためのタオルを差し出してくれた。こんなに気配りしてくれるなんて、どこかの烏天狗と大違い。にとりの古くからの友人、椛は幸せだな。
……文には、にとりの爪の垢を煎じて飲んで欲しい。
「わくわくするね!」
「うん、いっぱい楽しもうね!」もう待ちきれないようだ、にとりの体がむずむずしているのが傍目でわかる。
にとりと談笑していると、前方の観客からどんどん声が静まっていく。ああ、ついに始まるんだ。
「にとり、はじま……」にとりに呼びかけようとしたら、急に声が出なくなった。辺りを見渡せば、声が出なくなったのは私だけではないようだ。にとりはおろか、ざわめく観衆の声、いや音までも消えた。同時に、昼間なのに突然暗くなる。星明かりのある夜とは別物の暗さ、完全な闇だ。
――声と光が失われた真の闇――怖くなって私は隣にいるにとりと手をつないだ。闇に囚われた時間は十秒だろうか、数分だろうか。時の感覚が麻痺した頃、頭上に一つの光が現れる。
見上げれば闇を切り裂き流星が降り注ぐ。細かな星の光線は、ステージ上の一人を映し出す。闇に一人佇むミスティアは、静かなメロディにあわせ儚く切ない歌声を一人囁く。夢幻の歌声と悲哀なメロディが耳に染みわたり孤独感に落ちていく。にとりと手をつないでいなければ、この場に私とミスティアしか居ないと錯覚するほどの孤独感。光と声を失うということはこんなにも恐怖を覚えるものなのか。
歌声とメロディが停まった――刹那!
色とりどりの閃光とともに爆音と幽谷響子の迫力ある歌が炸裂した! メインボーカルのミスティアにリードされ幽霊楽団の激しい旋律が加速する。響子はサブボーカルとエレキギターで正確無比なベースを刻み、サウンドの厚みを増していく。ステージ上空に広がる闇のキャンバスに無数のクナイ弾幕が広がり、興奮をさらに加熱させる。視覚と聴覚を支配されて心臓の鼓動が早まっていき、私とにとりは一緒にリズムにあわせて叫んでいた。
観客は出るようになった声を振り絞り、魂の歌声とリズムの狂乱に身をゆだねる。
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「ほら椛さんも一緒に、ミスティアー!」
僕も文さんも、周りの妖怪たちと同じようにリズムに乗る。なるほど人気なわけだ、自然と体が動いてしまうくらいこの音楽にはパワーがある。会場に来るまでは少し冷めた目で見ていたが、始まると一気に引き込まれ心が踊りだす。文さんと一緒に柄にもなくきゃあきゃあ叫びぴょんぴょん飛び跳ね、僕はライブコンサートを全身で楽しんだ。いつもの僕を知る者がいたらどう思うだろうか。はしゃぐ姿が普段の僕と違いすぎて、きっと笑ってしまうだろう。まあものすごくレアなチケットらしいし、僕の少ない知り合いが偶然来るとは思えない。
文さんは大きなTシャツがめくれるのもお構いなしに僕の手を取りジャンプする。僕のTシャツは文さんのものと同じ柄だがサイズが小さくぴちぴちしてるし、へそがあらわになっている。口車にのせられて、えらい物を着てしまった。恥ずかしすぎてコンサート会場に来るまで何度へこたれそうになったことか。でもお陰で、場に馴染めずすごすご帰るという、間抜けなことにはならずに済んだ。
僕は開き直って思いっきり叫び、跳ねた拍子にバランスを崩す。誰かとぶつかり、謝ろうと目線を上げると見知った顔が――
「え? なんでにとりが!?」
「椛!」
「あやや! はたてと、にとりさんじゃないですか! 二人共来てたんですね」
「文……」
はたてさんと一緒に、にとりがいた――なぜはたてさんと? いや、きっとはたてさんが誘ってくれたんだろう。にとりが誘ったなら、そこにいるのは……はたてさんではなく僕のはずだから。変な自信が僕を安堵へ導き、平静を保たせた。
しかし、僕はこの時ライブの熱気にあてられて肝心なことを忘れていた。昨日、にとりとひどい言葉で罵ったことを。
なんの動揺もしていない風を装った。にとりは……普段見ない格好だ。僕と一緒の時はいつもスカート姿のくせに、はたてさんと遊ぶときはお洒落するのか。ふん。
「にとり、来てたんだ」
「商店街の福引でチケットもらってね。はたてちゃんと来たんだ」
「一等を当てたのよ、すごいよね……は、はは……」
はたてさんは、なぜか遠慮気味に笑う。力ない笑い声は周りの熱狂にかき消されていった。
「はたてさんと……来たんだ」
「椛がこういうところに来るとは思わなかったよ、イカした格好だね」
心のこもらない冷たい目で僕を見て言った。にとりのこんなに冷たい目見たことない。なぜ? ああそうだ、にとりを突き飛ばして罵詈雑言を吐き追い返したんだった。
昨日にとりと別れてから、喧嘩する前に戻れたらどんなにいいか、なぜ喧嘩してしまったんだとあの時のことをたくさん後悔した……はずなのに、にとりの顔を見たとたん心の奥底でくすぶっていた嫌悪感がふつふつと蘇る。
「何だその言い方。昨日のことまだ根に持ってるのか?」やめろ! そんな言い方したら……
「そっちこそ! 椛が先に怒ってたんじゃないか、自分のこと棚に上げてよく言うよ!」
「なんだと! そもそもにとりがくだらない事を言うからっ!」やめてくれ! 僕はそんなこと言いたくない!
「椛さん!」
「にとり!」
文さんが僕を、はたてさんがにとりを制した。にとりは僕の言い方にカチンときて、食ってかかるように私に迫り大声をあげる。僕も売り言葉に買い言葉、昨日の喧嘩を再開してしまった。文さんとはたてさんが間に入って止めてくれなかったらどうなっていただろう。
「せっかくのライブコンサートなんだし、みんなで楽しみましょ? ね、ケンカはやめましょうよ。ホラはたて、なんか言ってやって!」
「あんた、ちょっと黙ってなさい」
「うぅ、はい……」
怒られた文さんは引っ込んだ。はたてさんは、にとりと僕に落ち着かせるよう静かに話す。
「どうしたの、二人共。なにかあったの?」
「なんでも……」
「なんでもないよ。さあはたてちゃん、気にせず楽しもっ!」
僕がおずおずとしていたら、にとりは僕の言葉を遮り、笑顔ではたてさんの手を取った。その言葉は、その表情は、ついさっきの僕に対するものと違いすぎて、僕の心がえぐれていく。
――待って、にとり。僕の手をとってよ。その言葉は、僕に言ってくれるんだろ――?
「え! でも、ちょっと! 痛いって、にとり!」
「いいよ、ほっとけばいいんだよあんな奴」
あんな奴。にとりが僕にそんなことを言うなんて。僕は、雑踏の中に消えていく二人をただ呆然と見送るしかできなかった。あんな奴という言葉が耳に残り、胸がどんどん苦しくなり、まともに息ができなくなる。ライブで盛り上がっている歓声が聞こえているはずだが、僕の耳には何も聞こえなくなっていった。煌びやかな光が舞っているはずなのに世界は灰色に染まっていく。
そして崩れ残った僕の心は、一つの言葉に囚われた。
――待ってにとり、僕を置いていかないで――
熱狂の会場で一人自失していたら、ぽんと肩を叩かれた。さっきまでしゅんとしていた、文さんの手だった。
「椛さん、大丈夫ですか」
「……帰る」
「へ? 来たばっかりなのに!? あ、待ってくださいよう」
心配して声をかけてくれた文さんを突き放すように、僕は会場を後にした。とてもじゃないがこんな気分のまま、こんな賑やかな所に居られない。ちぎれそうな心を抱えて一人静かな場所を目指す。背後から文さんの、へなへなの声が聞こえた気がした。
ライブ会場はドーム状の闇に包まれていた、だれかの能力だろうか。なんだ、外から見れば大したことのない仕掛けじゃないか。なぜあんなものに夢中になっていたんだろう、なぜあんなに熱狂していたんだろう。
会場のそばの紅葉が一枚散り、僕の顔にぱさりと当たる。払い除けた紅葉の葉は跡形もなく砕けていった。にとり――もう今となっては全てが取り返せない出来事――悔いることなど、無駄だった。
夏なのに散りゆく紅葉の破片に、砕けた自分の心がかさなった。
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穏やかな川のせせらぎと、木漏れ日のカーテンに包まれた平らな巨石。昨日、にとりと朝を迎えた場所。そこで静かに座禅を組む。精神を統一……出来るわけがない。
「どうしたんですか椛さん」
カツン、と高いヒールの音がする。なんだ文さんか。心配してくれた文さんにはもうしわけないが、この期に及んでまだにとりが来てくれるかも知れないという期待がどこかにあった。
「なんでもない、ほっといて」
「そうはいきませんよ、幻想郷最速の清く正しい射命……」
「ほっといて!」文さんは黙った。いや黙らせてしまった。あぁまたこんなことを。僕はいつも大切な人を傷つける。僕だってやりたくてやっているんじゃない。が、なぜか突き放してしまう。
……にとりの言うように、きっと自分勝手なんだろう。
「僕は一人になったほうがいいんだ、きっと誰かを傷つけちゃうから」
「そんなこと言わないでください」
文さんは僕のことを気にかけてくれている。僕の大切な友人だから、傷つけたくない。でも今の僕は何を言い出すのか、僕ですらわからない。自分の考えとは反対のことが嫌というほどスラスラと口から滑り出し、相手の心に突き刺さる。大切な人に言葉を突き刺したばかりだから、文さんも例外ではないだろう。
「椛さん」
文さんはすいと近寄り僕の手にそっと、手を重ねる。優しく、暖かく、それでいて悲しげな手。
「私がそばにいますよ」
桃色の口が確かに僕にそう言った。
昨日のこの場所で、大切な人に望んでいたその言葉。僕が傷つけた大切な人に、言って欲しかったその言葉。文さんはいま、僕に言ってくれた。
「一人になんてさせません」
文さんの優しい言葉に心を打たれ、こらえていた涙がせきを切って溢れ出す。
文さんに抱きつき、僕は泣いた。大粒の涙は止まることなく文さんの肩を濡らしたが、文さんはかまわず僕を抱きしめる。広く吸い込まれそうな空に向かって、僕は哭いた。
「うわあああああああ――……」とおくとおく山こえて、僕の哭き声はこだました。
どれくらい泣いただろう。濡れた頬に涼しい風が優しく撫でる。木漏れ日は赤みを帯びはじめ、川のせせらぎに合わせて木々が夜雀のように囁いた。
「文さんの服、ぐしょぐしょにしちゃった」
「椛さんの涙なら大歓迎ですよ。このTシャツ、床の間に飾ることにします」
「え! 借り物でしょ? というより気持ち悪いからやめてよ、もう」
「ふふ」
「へへ」泣きすぎた赤い目とかすれた声で、笑いながら文さんをたしなめる。泣きつかれたはずなのに、不思議と笑えるだけの元気が戻った。
「すっきりしました?」
「うん、とっても」全身で思い切り息を吸った。山の澄んだ空気が肺に満たされ、頭が冴え渡る。ああ、空気がおいしいな。立ち上がり、腕を思いっきり伸ばして背伸びをしたら、お揃いのTシャツの裾が引っ張られる。文さんがTシャツの裾を握っていた。きっとまた僕が不意に飛んでいってしまうと思っているんだろう、幻想郷最速なんだからすぐに追いつけるはずなのに。
――そんなこともうしないよ、文さん。
文さんの隣に座り、なぜにとりと喧嘩したかを話した。文さんになら、話せる。
「昨日文さんがなんで目が腫れてたか聞いてきたよね」
「そうですね、結局はぐらかされましたけど」
「にとりと喧嘩したんだ。昨日の朝、ここで」
「はたてさんの家からの帰り、にとりとこんな風にして蛍を見てたんだ。蛍のコンサート、綺麗だったよ」僕は文さんの肩に頭を預け、手を重ねる。
「そう……なんですか」
「でもね、次の日にとりに馬鹿にされたんだ。そんなつまらないきっかけで言い争いになっちゃった。で、一人ふさぎ込んでたところに文さんが来たんだ」文さんにはもう、なんでも言えた。あんなに大泣きした後だもの、恥ずかしいとかそんな気持ちは微塵もなかった。晴れやかな気持ち、なんの気負いもない心の軽さ。心が通じ合えるってきっとこんな感じなんだろうな。
仲が良かった頃のにとりと同じくらい、僕は文さんを信頼していた。
「なるほど、それでなんですね。椛さんが私の誘いにのってくれた理由が分かりました」
「? どういうこと?」何かに納得したみたいだけれど何の事なのか、僕にはわからなかった。
「いや、こちらの話です。それはそうと、にとりさんのことで後悔しているみたいですね」
「……うん」図星だ。あれだけ憎まれ口を叩いたのに、まだにとりの事を想っている。大泣きして気分が晴れたと感じたのに、まだにとりの事を考えている。
「はたてが言ってました。相手のことを気づかえるようになったら、きっと相手は自分のことを好いてくれるって」
「気づかう、の?」気づかうにはもう、いろいろと遅い気がした。
「にとりさんのことを気づかってあげればいいんですよ。さっきはあんなこと言ってたけど、にとりさんも仲直りしたがってると思うんです」
文さんはとても熱心に僕を説得してくれる。心の底から心配してくれている証拠だった。文さんの真っ直ぐすぎる顔は、卑屈になった今の僕には眩しすぎる。それでも、出口の見えない暗闇をなんの手がかりもなく歩くより、明かりに向かって僕は歩いた。暗闇の中のひとつの明かり、文さんの真剣な顔を見ていると、あんなに打ちひしがれていたのに仲直りできる気がしてきた。握られた手の温もりが、僕に勇気を与えてくれる。
「そうなの、かな」
「そうですよ、きっとそうです! 不安なら一緒に行って謝ってあげます」
「不安、だな。でも……今更なんて言ったらいいの?」
「そんなの簡単ですよ、『ごめんなさい』って言えばいいんです」
意外だった。気づかうと言うからにはもっと作戦めいたものがあるのかと思ったが、たった一言だけみたい。でも、それなら僕でも言える気がする。
「それだけ?」
「十分ですよ」
「……一緒に来てくれる?」
「はい!」
文さんがこんなにも頼りになるとは、今日の今日まで思いもよらなかった。心が消え入りそうになっていたが、そっと寄り添い力強く引っ張ってくれたおかげで僕は今、立ち直れる。文さんはじいと見つめたまま、僕の手を握り続けてくれていた。仄かな手の温もりに包まれて安心し、優しさに満ちたその目に見とれ僅かに頬が熱くなる。気づけば胸は、鼓動を高めて体中に鳴り響いていた。
恥ずかしくて見つめ続けられなくなり、ばっと抱きつき誤魔化した。だが、さらに脈は早まり、顔は熱くなり、尻尾がバタバタ動き出す。遅まきながらハッとする、こっちのほうが恥ずかしい! このままでは心臓の鼓動がバレバレなので、とにかく適当な言葉を投げ出した。
「あの、ありがとう、文さん」
変に抑揚のついた言い方だったが、きっとこれで誤魔化せた……はずだ。
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「待ってにとり。どうしたのか教えて、力になるから」
「気にしないでいいよ、ほら、もう二曲目だよ」ステージには氷の柱が何本もそびえ立ち、まばゆい光で玉虫色に輝いていた。二曲目のイントロが始まる中、体をぐいと引っ張られる。両方の二の腕をしっかりと掴まれ私は身動きがとれなくなる。
「何があったの」
「私は悪くないよ。全部椛が悪いんだ、昨日あんな態度とるからさ」椛が自分勝手だからいけないんだ、私は悪くない。真っ先に浮かんだ言葉で伏し目がちに自己弁護をした。だけど二の腕を掴んだはたてちゃんの手は離れず、こわばった顔も緩むことはなかった。
「椛が昨日何をしたのかわからないわ。けれどにとりがついさっき椛にした事は、正しい事とは思えない」
はっきりと面と向かって正論を言われた。確かに頭では理解できるし、はたてちゃんが心配してくれていることもよくわかる。でも喧嘩したばかりの私に、その正論だけは納得できなかった。
「ひとまず、帰りましょう」
「う、ん……」私たちは熱狂が渦巻く会場を後にし、静かな天狗の里へと向かう。残念でならなかった。
まもなく見えた天狗の里の、はたてちゃんの家に辿り着く。さっきからはたてちゃんはずっと黙っている。やっぱり怒ってるだろうか、繋いだ手は強く握られたまま少し汗ばんでいた。
……本当はわかってた。椛のことを気にせずコンサートを楽しめるわけがない。でも素直に認めるわけにも、いかなかった。だって、私悪くないもん。
「グリーンティー、どうぞにとり」
「ありがとう」大きなソファと柔らかいクッションに囲まれて、気分はだいぶ落ち着いてきた。
「はたてちゃん、ごめんね。せっかくのライブ……」
「いいの、私のことは気にしないで。それよりもにとり、あなたの方が心配よ。教えて、椛と何があったの?」
微笑みでもなく、怒りでもなく、悲しみでもなく、真面目な顔できっぱり言われた。はたてちゃんの真剣さが伝わった。だけど喧嘩の理由なんて本当は言いたくないので、ぼかして伝えることにする。
「椛が……昨日はたてちゃんたちと別れてから二人で帰ってたんだ。で、蛍が綺麗だったから椛と一緒に見てたら眠くなって、結局朝に二人共起きたんだ。で、いつものように椛をからかって冗談を言ったら急に怒り出して……それっきり会ってない」
「で、その後私と商店街で福引したってこと?」
「そう」これで私が悪くないということが伝わっただろうか。全ては椛の自分勝手さが招いたことなんだもの、この説明で十分だよね。
「ということはその冗談が原因かな? 何言ったの?」
ああ、やっぱりバレた。私のことも言わざるを得なくなった。
「蛍を見てた時に、椛が私に寄りかかって眠っちゃったの。いつもと違って女の子らしかったからついからかっちゃったんだ」
「なんて言って?」
「う、その、『何ロマンチックになっちゃってるんだよ』って……」
「え! そんなこと言ったの!」
「何かまずかったかなあ?」とぼけても有耶無耶にできないのはわかっているけど、私はとぼけた。
「それはそうよ! 椛はあなたのことが好きだったからしたのに、からかわれたら誰だって怒るわよ」
「好き!? 女の子同士だよ?」いくらなんでも飛躍しすぎじゃないか、私と椛はただの友達だよ?
「恋愛じゃなくても、親友だったり憧れてたり……あなたのことを大切だと思ってるからしたのよ」
あまりに予想外の見解で驚いたが、《大切》と言われてようやく気づいた。ああなるほど、椛は私のことを大切な友達と思っていたからこそ、茶化されて怒ったのか。私は椛の気持ちになって、初めて痛感した。
――私も最近、目の前の人にそんな気持ちになったんだった。
「そうだったのか……」
そういえば蛍を一緒に見ていた時、椛が言ってたじゃないか。私にとって大切な人、か。私、あの時なんて言ったんだっけ。
「今からでも遅くないわ。謝ったほうがいいわよ」
「でも、あんなこと言ったばっかりだし椛も会ってくれないかも。それになんて言ったらいいのか……」
「ばかっ!」
「ひゅい!?」
いきなり大声で怒られた。まさかはたてちゃんに怒鳴られるとは思ってもみなかったので思わず姿勢を正してしまった。はずみでクッションがコロンと転ぶ。
「そんなこと決まってるじゃない。たった六文字、『ごめんなさい』って言えばいいのよ。きっと椛もあなたに謝りたがってるわ。あれだけ仲良しだったんだもの」
すごくシンプルな答えに戸惑いを感じた。でもはたてちゃんの言うことだ、これがきっと正しい答えに違いない。私ははたてちゃんを信じている。
「今からでも遅くないわ、私も一緒に行くから、ね?」
はたてちゃんは優しく手を握って微笑んでくれる。私の心臓は鼓動を早めドキドキ脈打つ。しかし残念ながら、この胸の高まりはときめいたからではない。怒鳴られたからである。
「私、椛に謝るよ。はたてちゃん、ごめんね心配かけて。でもいいよ? 私一人で行ってくる」
「にとりの為ならこのくらいお安い御用よ。それに私も文に言いたいことあるし、一緒に行くわ」
気にしないでと私に微笑む。はたてちゃんははたてちゃんで、アヤに何かを言いたいらしい。
「何言うの?」
「ちょっと、ね」
はたてちゃんはそう言ってウインクし、手を差し伸べる。私は手をつなぎ、心地よいソファから立ち上がった。
はたてちゃんは、今度は優しく手をつないでくれた。