「ふわぁ。あれ?」
まぶたに朝日が落ち、僕は目を覚ます。暖かい風になびいた木々が、頭上でひそひそ声を忍ばせている。僕はどこにいるのか。思い出すまでぼんやりと空を見上げ、木漏れの光を浴びていた。
……思い出した、夜中に蛍のコンサートを見ながら、いつのまにか寝てしまったんだ。起き上がろうと左手に力を入れると、思うように動かない。なにかのやわらかさを感じ、視線を向ける。
おしり!
岩と尻に圧迫されていたのだ。そのおしりの持ち主、にとりは今もぐうぐう寝息をたてて気持ちよさそうに眠っている。
「にとり、にとり。起きなよ」
「ひゅい? 椛……? ありゃりゃ、あのまま寝ちゃってたんだ」
「うん」にとりも寝ぼけて現状を理解するのに時間がかかったみたい。そりゃそうだ、外で布団も無しに寝たのは久しぶりだから。哨戒訓練での野営といえども寝袋くらいは用意する。
でも、たまにはこういうのもいいかも知れない、にとりの可愛い寝顔を近くで見れた。よだれを垂らしてむにゃむにゃ言ってるにとりの寝ぼけ顔も、寝起き直後でないと見ることができない。お泊りして布団の中で見るのとはまた違う。
なにより昨日のこともあり、今日のにとりは一段と愛おしい。
「いちち、岩の上で寝ちゃったから体中痛いなあ」
「そうだな。ここから近いし、僕の家に来るかい?」
「そうしようかな」
朝の余韻も残して、僕の家でもうひと眠りしよう。そういや部屋を片付けてなかったな……まあいいさ、二人で二度寝するくらいの場所はある。
「朝食は何にしようかなあ、にとりはやっぱりきゅうりだろ?」
「そうだね、椛もやっぱり干し肉でしょ?」
「はは、お互い色気ないな」この前にとりに言われた色気について、僕はずっと考えていた。色気といえば本来好きな人、気になる人に好意を伝える為のものだ。僕にとっての好きな人はもちろん、にとり。
ただ、どう言えば好意を伝えられるのかわからない。言葉にするのが難しい。だから昨日、蛍を見ていた時も、色気のある言葉が出なくてもどかしかった。
……あんな恥ずかしいこと、生まれて初めてした。いくら言葉にできないとは言え、少々やりすぎたかもしれない。にとりが笑い出すんじゃないかと不安にもなった。けれど、にとりは僕と同じことをしてくれた。きっと好意が伝わったんだ。にとりも、僕のことを気になる人だと想ってくれている。
にとりが好意を持ってくれただけで、いつもの何気ない会話ですら耳にとても心地いい。外で眠っていて体は冷えたはずなのに、おへそのあたりがぽかぽかする。木漏れ日のせいか世界がきらきら見えてきた。川のせせらぎや野鳥のさえずりさえも愛おしく思える。いつも眺める妖怪の山が、より一層美しく輝いた。
これが幸せってことなんだろう。
「それにしても昨日の蛍、綺麗だったねえ」
「うん……」僕はにっこりと微笑んで、にとりの手をきゅっと握った。にとりのふくよかな手のひらが、触り心地良くあったかい。
「ん? 椛?」
「なんだなんだ、どうしたんだ? お、なに一人でにやにやしてるんだい」
「え! にやにやなんて……」にっこりだよ、まったくもう。
「あ、そうだ! 昨日椛ったらねえ面白かったんだよ!」
「面白い?」はたてさんの家でのことだろうか、何か違う気がする。にとりの笑みを見て、これ以上聞いてはならないとも思ったが、僕は気になって反射的に聞いてしまった。
「覚えてないだろうけどねえ、なんと昨日の椛、すごく女の子っぽかったんだよ! 寝ぼけてたんだろうけど、あまりにも違和感だらけで、面白くて笑うのをこらえるのが大変だったよ」
「……」
「しかも私の肩に頭を預けるわ、膝には手を添えるわ、恋人かっての! ぷひゅひゅひゅひゅ!」
――なんだよ。
「そんでもって、からかって私も椛に頭を預けたら、くうくう言いながら寝ちゃうんだもの。いくら蛍が綺麗だからって、何ロマンチックになっちゃってるんだよ! ぷひゅひゅひゅひゅ!」
――なんなんだよ!
ドン
「!? 椛……?」
「く、う……にとりのバカ!」僕はにとりを突き飛ばし、きびすを返して駆け出した。さっきまでの幸せな気持ちが嘘のよう。足を踏み出すたびに僕の心は黒く塗りつぶされ、にとりから離れるにつれ嫌悪がどんどん膨らんだ。にとりの顔を見たくない僕は、この場を逃げ出すことしか選択できなかった。草をかき分け木々を交わして、僕はにとりのもとから逃げ出した。
「な、なんでこうなるの?」
はるか後ろで疑問に満ちたにとりの声が聞こえる。
なんで、じゃないよ!
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もう自宅についてしまった。それほど離れていないだけに、にとりが追いかけてくるかもしれない……こないかもしれない。いや、そもそも追いかけてくることを期待してるのか? わからない、もう何もわからない……
「にとりなんか知らない、あんな奴……あんな奴!」言いたくないのに、思いたくないのに、にとりへの嫌悪が噴き出した。さっきまでの、大切な人への愛しい思いは心の奥底に閉じこもり、顔を覗かせてくれない。
「おうい、椛! 待ってよ!」
「あ……」やはり追いかけて来てくれた! だけど少しだけ開いた僕の心は、続けざまに口から放たれた雑言でまた閉じた。
「僕のことは放っておいてよ!」突き放したり待っていたり、僕は何がしたいんだ。論理的に説明のつかないことをしている。いや、論理だなんて、いままでそんな小難しいことなど考えたことは一度もない。自分で自分のことがわからないなんて、そんな馬鹿なことがあるだろうか。
「何言ってんの! いきなり突き飛ばしておいて、ほっといても何もないでしょ」
「にとりが、にとりが僕を馬鹿にするからっ!」にとりの言うことは、至極当然のことだった。
「ええ? 馬鹿にって、さっきの冗談のことかい? 今まで散々冗談言い合ってたのに今回はダメなのかい?」
「……さっきのも冗談なの?」淡い期待を寄せていた。もし、もしそうだったなら、ただの質の悪い冗談で済む。その時は僕も『さっきは突き飛ばしてごめん』と素直に謝れるし、このあと二人で仲良く遊べる。そうだ朝ごはん、とびきり美味しいきゅうり料理を作ってあげよう。だから、答えて、冗談だって。
「まあ冗談といえば冗談だね」
期待に応えてくれたにとりに、僕は謝罪を言うため顔を見上げて口を開く。だけど謝罪の言葉は、続けざまに放たれたにとりの言葉に踏みつけられた。
「とはいえ、昨日の椛がヘンテコで面白かったのは事実だけどね」
「もう! 帰れよ!」
「ひゅい!? なんだよ全く、自分勝手な奴」
侮辱され、激情に任せて僕はにとりを罵倒した。もう、考える暇もなく、胸につかえた鬱憤が、頭に浮かんだ雑言が、全て口から出ていった。
「自分勝手ってなんだよ! 人の気も知らないでさ、にとりなんて顔も見たくない! さっさと帰っちまえ!」
「ふん、もういいよ! 帰る!」
にとりに追い払う手振りをしてしまった。本来山に来た部外者を追い出すためにするような手振りであり、完全な拒絶を意味する。僕の傍若無人な態度に呆れ果て、ついににとりは怒って帰ってしまった。自分勝手、か。当然だ、あんな態度をしたら誰だって怒る。でもにとりも悪いんだ、あんな言い方して僕の気持ちを踏みにじったから――……
「……」
「……うぅっ」にとりへの嫌悪と自分への嫌悪が入り混じり、気分が悪く胸が痛い。敷石の白御影石に膝を折り、しばらく動けなくなるほど気が重くなる。
どうすればいいのか、どうしたらよかったのか。ぐるぐると頭の中を同じことが巡っていた。
敷石の白御影はポツポツと、濃灰色に色を変えていく。
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トン トン
「椛さん、椛さーん」 トン トン
「……」
さっきからずっと文さんが僕の家の扉をたたいている。毎日家に来るが、今日だけは勘弁して欲しい。誰とも話したくないし会いたくない、一人で静かにしていたい。
「椛さーん、いるんでしょー?」 トン トン
「うるさいなあ、いるよ、いますよ」ああ、いつもながらしつこい! 事情を知らないとは言え少しは人の都合というものを考えて欲しい。新聞記者だから性分なのだろうけど、友達じゃなかったら殴っているところだ。
「何? なんか用?」戸をがらりと開け、ぶっきらぼうに用を聞く。
「椛さんに吉報ですよ、楽しいことが……あれ? 目が腫れてますねえ。泣いてたんですか?」
「う、文さんには関係ないですよ。ん?」よく見ると、文さんの目はいつもより腫れ気味だった。見間違いではない、いつもより腫れている。
「文さんの目も腫れてるじゃないか。泣くようなことがあったの?」
「まあちょっと。あっいや、私が泣くなんてことありませんよ」
「ふん。……ふっ」文さんのあまりの狼狽ぶりに、思わず少し吹いてしまった。文さんにも隠したい事なんてあるんだな。いつも他人の隠し事を暴いて新聞のネタにしているのだ、ここで僕が文さんの隠し事を暴いても文句は言われないだろう。そんなことはしないけど。
もしそんなことをしたら、間違いなく僕の泣いた理由も聞くに決まってる。
「あ! 笑いましたね! お互い悲しいことがあって腫れてるんだから、笑うことないじゃないですか!」
「お互いだって? 僕のは悲しくて泣いたんじゃないもん」いきなり言い当てられそうだったので、とっさに嘘をついてしまった。恐ろしい、これが新聞記者の勘というものか。
「えっそうなんですか。じゃあ私も悲しくて泣いたんじゃないです!」
「僕のは、あれだ、小説読んでたら感動して涙が出ちゃっただけだもん」
「じゃあ私もそれです」
しばらくふくれっ面でお互いにらみ合う。文さんは威張ったように腕を組んで眉を釣り上げ、力いっぱい拗ねていた。私も負けじと意地を張るが、文さんのおかしな言葉に気づいてしまう。
「……っぷ! ふふふ、ははは」予想よりも大きく笑ってしまったが、もう駄目だ、笑い声は止まらない。体をくの字に曲げ、膝を叩いて高らかに笑った。
「なんだよ『じゃあ私も』って、いつにも増していい加減だなあ文さんは」
「う、椛さんだって、いい加減じゃないですか」
「わかったわかった、いいよ入りなよ。なんか用があったんでしょ、お茶くらい出すよ」
「じゃあお言葉に甘えて、おじゃまします」
ふてくされながらも家の中に入ってきた。ついさっきまで、どん底の気分で一人ふさぎ込んでいたのが嘘のようだ。騒がしい友人がいてくれるということは悪いことじゃないな。くだらない口喧嘩は笑いの種、笑いは元気の源っていうことなのかも。
おや? 前を通った文さんからいつもと違う香りがした――この香りは――
「あいた! なにか踏んづけました」
「悪いね、散らかってて」
「いえ、大丈夫です、私の家はもっと散らかってますので」
「そんな情報知りたくないよ」汚い部屋自慢なんて女性のする話じゃないと、文さんをじとりと見て諌める。当の本人はのほほんと座布団に座っている。
「で、用件ってなんだったんだい?」
「それがですね、先程まで守矢神社にいたんです」
「守矢神社かあ。神様が二柱いるとかいないとか?」最近神社ごと引っ越してきた、あの神様たちか。最初のうちは、周りの白狼天狗たちが参拝客に対して、哨戒任務をどうするかについて議論を交わしていた。しかし、いつの間にか神々の布教によって山の妖怪たちに受け入れられ、信仰を得たようだった。
「私はそこの風祝である東風谷早苗さんに取材をしてたんです。」
「パパラッチか」皮肉を言いながら冷えた緑茶を出すと、文さんはぐいっと飲み干してしまった。喉が渇いていたんだな、おしゃべりだから無理もない。
「違いますよ、正当な記事の取材です。まあそっちはどうでもいいんですけどね。で、早苗さんが今ものすごくライブだのコンサートだのにハマってるんだそうです。なんでも元の世界では行けなかったので憧れてたとかなんとか」
「コンサート、ねえ。幻想郷でもやってるみたいだね。たしか前にも河童の里で幽霊達がやってたってにとりが……言ってた」不意ににとりの顔が浮かんだ。でも僕はにとりの笑顔をかき消すように、視線を文さんに向けた。文さんは表情をコロコロ変えて楽しそうに話している。
「そのコンサートです。しかも今回は幻想郷を代表するメンバー達がタッグを組んで一大コンサートをするみたいなんです。早苗さんは奇跡を使ったとかなんとか言って、ものすごく、本当にものすごく入手困難なそのコンサートのチケットを、自分と神様二柱用に三枚入手したのだそうです。だけど神様たちは、行きたくないの一点張りで二枚余ってしまったんですって」
「ふうん。そりゃあ山の神様がコンサートではしゃぐ姿は想像できないもんな。ハメを外しすぎて信者が減っちゃうかもしれないし」ハメを外した神々など、想像もできない。
「そこで交渉してその余った二枚をもらってきたんです!」
「え! がめてきたんじゃなくて?」
「私をなんだと思ってるんですか、幻想郷の清く正しい射命丸ですよ」
取材相手に親切にしてもらうなんて、いつもの文さんでは考えられない。そんな考えが根底にあったのか、すごく失礼な言葉が僕の口から飛び出した。悪気は無い、許してくれ。
「で、その二枚で誰かと行くのを自慢しにきたの? はたてさんと行くんだろうけど」
「いえ、椛さんと行くためにここに来たんです。」
ぶうっ、と口に含んでいた緑茶を吹いてしまった。畳に染み込む前に拭かなければ。手ぬぐいでごしごし拭きながら、文さんの顔を見てたどたどしく質問する。
「ぼ、ぼくとコンサート?」
「ええ、嫌ですか?」
すまし顔でこちらをじいっと見る。断られるなんて微塵も考えてないまっすぐな目だ。そんなに僕と行きたいんだろうか。でも僕は、大切な友人につい失礼なことを言ったり、ひねくれたことを言って傷つけたり――ろくなものじゃない。自分でも自分が嫌になる。そんな僕を誘うというのか。
「だって、僕より……はたてさんは? 文さんいつも世話になってるじゃないか、昨日の夜だってはたてさんの家に泊めてもらったんだろ? コンサートとか好きそうだし、うってつけじゃない?」
「まあ、そうなんですけど」
「……?」言葉を濁した文さんは、スカートの端をもじもじ触ってうつむいた。
ある考えが頭をよぎる。
はたてさんを優先しない、昨日の夜泊まった、目が腫れぼったく泣いたらしい、それらがひとつに結びついた。
「はたてさんと喧嘩したんだろ」
「なんでわか、あっ!」
「やっぱり」なんとわかりやすい反応をするのか。そうか喧嘩したのか。あんなに仲良くしてたのに昨日の今日で喧嘩してしまうなんて、僕とにとりみたい……もう頭から抜けていた。そうだ、僕はにとりと今朝、喧嘩したばかりだった。
「もちろんそのあと仲直りしましたよ! 今朝だって、普通におしゃべりしましたし、朝食も一緒に食べたんですよ」
「……朝食……そういや食べてないんだった」本当は朝食なんてどうでもよかった。文さんの、仲直りしたという言葉に少し劣等感を感じたので誤魔化しただけ。僕は成長しないな、にとりに意地を張って失敗したばかりだというのに、また懲りずに意地を張る。
「そうなんですか、じゃあ作ってあげますよ」
「インスタントラーメンとか干し肉しかないよ」
「それなら得意料理です」
いつもの今頃なら、にとりと一緒に遊んで、笑って、楽しい一日になっていたはず。意地を張ったばっかりにこんなことに……僕は何で意地を?
ああ、そうだ思い出した。大切なにとりに大切な気持ちを伝えようとして、それなのに茶化されて恥をかかされたんだった。それならば怒っても――しかたない、はずだ。
「椛さん、なにかあったんですか?」
「え?」文さんは首をかしげ、伺うようにこちらを見る。
「ちょっとだけいつもと違う感じがしまして。辛かったら言わなくてもいいですけれど」
「僕、違うとこある?」
「目が腫れてる以外だと、雰囲気がすこし。気のせいかもしれませんが」
いつもと違う、か。文さんは僕をいつも見てくれてたんだな。
「ん……ねえ文さん。文さんの大切な人って誰?」同じ質問をにとりにもした。にとりは、僕と文さんとはたてさん、と答えた。文さんはどう答えるだろう。
「そりゃあ椛さんですよ。幼馴染ですし、お友達ですし、とっても大切ですよ」
「そう。他には?」僕は前のめりになって聞いていた。
「他の? ああそういうことでしたか。にとりさんも、はたても大切ですよ。特に大切なのが椛さんということです」
僕がにとりに、本当に望んでいた答えだ。にとりに「大切な人は?」と聞かれていたらきっと僕も文さんと同じくこう答えただろう。でもにとりが三人同じくらい大切と答えたから、僕もあの時そう答えた。
……文さんがこう答えたのは僕のことをとても大切に想ってくれているってことなんだろうか? 文さんに対して、思ってもみなかった考えが頭を巡り、めぐる。
「ふうん」
「ふうん、って。それだけですか?」
「……コンサートって、いつ、どこでやるの?」
「? 明日です、山の麓の広場ですよ。秋姉妹が立秋の準備で、その広場だけ紅葉を早めていたので空から見たら一目瞭然でしたよ」
「行くよ」
「へ?」
まだ、心の中はモヤモヤしていた。でも文さんの、北極星の様に煌く、一つの想いに僕は気づいた。僕のことを大切に想ってくれる友人がいる。ならば、その想いに応えるべきではないか。
「僕、そのコンサート一緒に行くよ」
「お、ほ、本当ですかっ! やったあ!」
「うわ! 文さん、ラーメンが!」喜んでくれたのか、勢いよく振り向いたせいで持っていた鍋からラーメンが、文さんの足元にこぼれ落ちる。
「あっちち!」
バランスを崩し、文さんが僕の方に倒れこんできた。ぺいっと跳ね除けるのもかわいそうなので、肩と腰を掴んで床に倒れないよう抱きあげる。文さんは、とても軽かった。
「ちょっと! 気をつけてくださいよ」
「はは、はい……」
文さんはなぜか急に小声で震えるような声になる。顔が近いからだろうか? いや、文さんはそんなことまで気が回らない。いつも通り元気な声で話せばいいのに。
抱きあげていると、またさっきの香りがした――が、思い出そうとすると文さんが僕の腕の中で慌てだした。
「あ! ラーメン! 掃除します!」
「いいよ、やっとくよ。文さんは家に帰って明日の用意してきなよ」
「え、そうですか。すみません」
と言いながら頬を赤らめてこっちを見続ける。文さんは何か言いたそうだが何も言わない。僕も特に言うことはなくなったので眉をあげて、どうかした? という表情を作る。
「……あの、そろそろ立たせてもらってもいいですか」
「うん」何だ、立ちたかっただけか。文さんの手をとり、さっさと起こす。天下の烏天狗がなぜこんなに女の子らしくふにゃふにゃしているのだろう。もっとしゃんと背筋をのばしたらかっこいいのに。
「汚してしまって申し訳ないです」
「気にしなくていいよ」
「……ではまた明日、迎えに来ます。おやすみなさい、椛さん」
「おやすみ、文さん」文さんはラーメンを全部こぼしてしまったことがよほど恥ずかしかったのか、ずっと顔が耳まで真っ赤だった。いつもの取材という名のパパラッチで、これ以上に恥ずかしいことを幻想郷のあちこちでしてるのに、こんなことで今更照れることがあるのだろうか。疑問に思ったまま見送ると、ぴうと一陣の風を纏い、そそくさと飛んで帰っていった。
散らかった部屋に戻ると、こぼれたラーメンの匂いに混じって文さんの香りが部屋に残っていた。
――そうだ思い出した、この香りは太陽の畑でのピクニックでかいだあの香り――ラベンダーだ。
ピクニックから一週間くらいしか経っていないのにすごく昔に思えた。あの時はにとりと楽しく過ごしていたが、今はどう楽しかったか思い出せない。それもこれもにとりが悪いんだ。僕の気持ちをないがしろにして、あんなふうに笑うなんて許せない。
……いいや、決めた。にとりが謝るまで、僕も仲直りしてやんない。文さんとコンサートに行っていっぱい楽しんでやるんだ。
にとりなんて、知らない。
おもしろい
次も楽しみにしております。