私と文は、にとりと椛が見えなくなるまで手を振った。
残された私たちを、月と星々がキラキラと眺めている。
「にとりも椛も帰っちゃったね。文、今日は泊まるんでしょ?」
「はい。さっきまで四人でワイワイしてましたし、急に一人でなったら寂しくて死んでしまいますよ」
「ウサギみたいなこと言うのね。でもその気持ち、わかるわ」
文も、私と同じ気持ちみたい。この何とも言えない寂しさに似た感情を知っている。博麗神社で行われる大宴会で、人妖乱れて騒いだ後の帰り道。寒いわけでもないのに寒さを感じ、気を紛らわす為に誰かと話そうとしても、私一人しか周りにいない、あの時の、ひとりぼっちの孤独感に非常に似てる。
まして仲のいい友達との別れは寂しさがより一層強くなる。明日も会おうと思えばいくらでも会える。でも会えるまでの孤独感は誰が埋めてくれるのか。
もし今、隣に文がいなかったらどうなるだろう。人の数倍おしゃべり好きで、思ったことをぺちゃくちゃ喋る、遠慮のないかしまし娘。そんな文がいなければ、私は寂しさに押しつぶされて、部屋の隅で膝を抱えて縮こまる。寂しさに凍え、長い夜をじっと一人で耐えねばならない。
――でもそんな心配はいらない。文は今、ここにいる。
「晩酌でもする?」部屋に戻ってとっくりを見せる。文はあくびをしながら返事する。
「いや、今日はもう寝ましょうか。すごく眠たいです、ふああ」
文はこれだから困る。一日の汚れを落とさずに、平気で人の家の布団にもぐりこもうとする。子供みたいなあくびをしながらムニャムニャ寝室に向かっていく。しょうがない、ここはひとつ私が躾けなければ。
「お風呂入りなさいよ」
「行水でいいですか」
「何言ってるのよ、ダメ! そうだ、アリス特製の香り付き石鹸があるのよ。いい香りだし文も使ってみましょ」女の子が行水で済ますなんて信じられない。文の私生活に乱れを感じるわ。
「いや、ざっと湯を浴びるだけでいいですよ」
「もう! 一緒に入るわよ!」ダダをこねる文の首根っこを捕まえ風呂場に直行。着ている服を引っペがし、浴室にぽいっと放り込む。一人で入らせておいたら行水で済まして出てくるかも知れない。私も一緒に入るとしよう。
「うああああ」
文の弱々しい叫び声は、かっぱ印の頑丈な浴室に鳴り響いた。
少女強制入浴中
へちまのたわしでゴシゴシ洗った文の肌は、湯気に反射した光で幻想的に白く輝く。濡羽色の黒髪をタオルで包み、おくれ毛をぴょこんと出しながら湯船に浸かってとろけている。本当に気持ちよさそうね、私も早く洗ってお湯に浸かろうっと。
「ふい~たまにはゆっくり湯船に浸かるのも気持ちいいですねえ。それにこの石鹸、はたてがすすめるのも納得ですよ。確かにこれはいい香りです、ラベンダーですか?」
「この前行った、太陽の畑のラベンダーらしいわ。幽香からもらったラベンダーで作ったんだって」
「実に乙女チックですね、……おや? そこにも石鹸がありますね」
頭を洗っていて目が開かないのに、文は指差しこれはなんだと答えを急かす。まったく、少しは空気を読んで待って欲しい。
「もう、目に泡が入っちゃったじゃない! イタタ……こっちの石鹸はオレンジ、こっちはカモミールの香りよ。ここにはないけど他にも数種類あるわ」
「そんなに種類があるんですか! はたてがいつもいい香りさせてるわけがわかりました」
「え! 気づいてくれてたんだ!」
驚いてまた目を開けてしまった、目に泡が! でも文が私のことを気にかけていたなんて。いつも香水やシャンプー、石鹸に気を配っていて本当に良かった。苦労ってほどでもないけれど、少しの変化を気づいてもらえるのってこんなに嬉しいものなのね。
「はたてのことなら、なんでもお見通しですよ。幻想郷の清く正しい射命丸を見くびらないでください。」
……この自信たっぷりな態度がなければキュンときたのになあ。残念な空気の読み加減がとても文らしいけれど、途中まで喜んでしまって悔しいので、お返しに嫌味でも言ってやろ。
「さすが清く正しいわね、でも普段は行水で済ます程度の清さでしょ?」
「あやや……まあそうなんですが、耳が痛いですねえ」
私の皮肉は行水並みに軽く流された。大して気にしてないようで、再び湯船に肩まで浸かり、とろけた顔になっていた。私も早く温まろう。
流した泡が宙に舞い、文の頭に飛んでいく。タオルからはみ出た髪の毛に当たり、パチンと弾けて消え去った。
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湯上りホカホカ上機嫌な文は、下着でウロウロしながら飲み物を探している。ほんと世話が焼けるわね、湯冷めしちゃうじゃない。用意したパジャマを握り締め、うろつく文に突きつけた。
「あなたのパジャマはこれ」
「うわわ、ハート柄ですか。なにかの嫌がらせですか?」
どういう意味よ。ぶつくさ言う文に無理やり着せる。パジャマの首の穴から腕を出し、もごもごしながら着直した。ああ、鈍臭い、上から被るタイプの服を着ない理由がよくわかる。文はパジャマの裾を引っ張り、鏡の前に立って一言呟いた。
「なんだか恥ずかしいですねえ」
「文と私しかいないんだからいいじゃない。似合ってるわよ」なぜか文は不満げだ。
「地震とか起こって外に飛び出したとき、みんなに笑われますよう」
「じゃ、明かり消すわね」
文の文句を聞かないふりして、寝室の明かりの電源を切る。かっぱ印の白熱電球から優しい光がすっと消え、一瞬の暗闇が広がった。目を凝らすとカーテンの隙間から月明かりが差し込んで、月光に包まれた文がおぼろげに見える。文は早く寝ようと合図する。
「今日は楽しかったね」夜のまどろみが始まった。暖かい布団に入って、文と今日のことを語りながら気持ちよく眠りに就こうかな。
「ええ、楽しかったです。椛さんにあの写真見せた時のあの顔覚えてますか?」
「椛がずっこけてた写真? 恥ずかしがってたね」
「そうなんですよ、普段つっけんどんな態度なのにたまに慌てる姿が可愛いんですよね」
「そうね」
「それにお菓子を頬張る顔もかわいかったですねえ、写真を取れなかったのが残念です」
「文は椛のことが大好きなのね」なあんだ、椛のことばっかりじゃない。
「椛さんは怒ってるように見せて実は喜んでたり、皮肉を言う時に私が拗ねたふりしたら謝ってくれたり。いちいち素直じゃないところがいいですねえ」
「ふうん。意外と大人な目線で椛のことを見てるのね」
「そりゃあ、私の方が大人ですから」
この前『椛さんに嫌われた』と言って泣きついてたのはどこの烏天狗だろう。薄い光のもとでも、文の自慢気な顔がよくわかる。ニヤニヤしながら頭の中は椛でいっぱい、話し相手の私には何のお構いも無し……か。なんだか無性に腹が立ってきた。
「じゃあ椛みたいになったら、私のことも可愛いって思うの?」
「はたてが椛さんみたいに、ですか? ん~、イメージできませんねえ、はたてははたてですから」
「ふふ、そうね」少しからかってやろう。
「おい、射命丸」
「!?」
声のトーンをことさら落とし、昔の椛の真似をする。
「何だよ、イメージできないって言うから、想像しやすいようにやってるんだろ。ありがたく思いなよ」
「え、ええ?」
「ぼうっとしてないで、なんとか言ったらどうなんだ?」
「それってだいぶ前の椛さんの真似ですか? やめてくださいよ、はは……」
「僕なりにやってるのに茶化すのか。いつもふわふわだらだらいい加減なことばっかり言って。適当なことがかっこいいとでも思ってるのか? それにさっきからなんだよ、いつも椛のことばかり喋ってるくせに今日も飽きずにベラベラと。昼はみんなで楽しく遊んでおしゃべりしてたのに、僕やにとりのことについて、もっと感想ないのかよ」
「……やめてください、はたて」
「んん? 何をやめろって? この喋り方を、かな? ほんと自分勝手だな、なぜ椛は良くて僕はダメなんだ?」
「なんか……怖いです」
文はこちらに背を向けてしまった。少し調子に乗りすぎたか。どさくさに紛れて本音をさらけ出しすぎたかも……どうやら私が椛みたいに文に噛み付くのはダメみたいね、あ~あ残念。
「文」
全く返事がない。枕に顔をうずめ、体を遠ざけ、全身で私を拒否している。
……怖い、か。まさか冗談なのに怖がるとは思わなかった。優しく声をかけてみよう。
「ごめんね、いつもの私よ」ばっと振り返る文の顔は、涙でぐっしょり濡れていた。
「ばか! はたてのばか!」
文はぎゅうと握りしめた手で、私の肩をぐいぐい押して遠ざける。さらには足をばたつかせ、掛け布団が派手に乱れる。
「うん、ごめんね」
「あんなひどい、言い方、しなくても。ひっく はた、はたてはいつもの、はたてじゃなきゃ……!」
涙の粒をポロポロこぼして枕の色を鈍くする。大きな声で私を非難するが、その言葉はたどたどしい。よっぽど動転させてしまったのだろう。私は文の布団に移り、抱きしめる。顔をうずめる文の涙で私の胸はひどく濡れた。冷たく、尚冷たく、胸の奥を冷やしていく。
「うぅ、はたてのばかあ」
「うん、うん……」文は私の腕の中で体を丸め、すんすん泣いた。なだめるように頭を撫で、心を落ち着かせるように背中をぽんぽん優しく叩く。文のすすり泣く声が頭の中で響き、私は自分の犯した罪を段々理解し今更悔やむ。一時の遊びのつもりがとんでもない結果になってしまった。
――こんなくだらない遊びで文がどんな気持ちになるのか、これからの私と文の関係が崩れるのではないか、こんなことすら私は予想できなかったのか――今となっては後悔を深くする種にしかならなかった。
「ごめんね文……私を嫌わないで」
しぼりだしたその言葉は、残念ながら文には届いていなかった。涙は止まり深い息をつないでいる、泣き疲れて眠ってしまったようだ。私のせいで悪い夢を見ないといいけど。
カーテンがゆらいで夜空が見える。月も、星も、キラキラと静かに輝くばかり――神様に祈ったことはないけれど、今夜ばかりは心底祈る――これが悪い夢でありますように。そして私は目を閉じた。
まぶたの裏に、罪悪感が拭いきれずにべっとり残る。
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明るい日差しが目にかかる。かすむ目をじわりと開けると、横には既に起きた文が座っていた。
「おはよう、文」
「おはようございます、はたて」
昨日のことを怒っているのだろうか。朗らかな朝日と対照的に気まずい空気が流れていた。
「…………」
「きのうは」
「もうあんな悪ふざけ、やめてくださいね」
私が謝罪を言う直前、文の言葉が言葉を遮る。それは、大人が子どもを諭すように言うというより、子供が母親にお願いするかのようなようだった。
「もう、絶対にしないわ。約束する」
文はまぶたをぱちくりして一息吐き、いたずらっぽく口の片方を上げる。眉根がゆるみ八重歯が覗いた笑顔を見せて、いつもどおりの弾んだ口調で応えてくれた。
「じゃあ許してあげます、へへ」
「許してくれてありがとう、文」私はホッと胸を撫で下ろす。よかった、本当に良かった。結局私は夜の間、文に対する後悔の夢をずっと見ていた。これほどまで長く苦しい夢を見たのは初めてだ、二度と同じ過ちをするまい。
着替えが終わり朝食を取った私たちは、今日の予定をソファに座りながら話し合う。もう、昨日の夜のしこりは取れた。いつも通りの私たち、いつも通りの日常が始まる。文の笑顔は私をまぶしく照らし、明るく楽しい一日を予感させてくれた。
「文はどこかに取材?」
「今日は守矢神社に行ってきます、何かの特種がありそうな予感がするので。はたてもどこかに行くんでしょう?」
「特種もほどほどにね、私はアリスの家にお菓子の記事の申請を貰いに行くの。」
「おお、あのお菓子のレシピならみんな欲しがりますよ、きっといい記事になります。アヴァロンでしたっけ?」
「マカロンよ」間違えたことを恥ずかしがるでもなくケタケタ笑う文を見て、私もつられて笑ってしまった。こんな会話もいつも通り、私たちはずっとこのままなんだ。
そう自分に言い聞かせるように私は文といっしょに笑う。
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妖怪の山の麓、河童の里。上空から見ると広葉樹林がぽっかり抜け、穏やかな清流が顔をのぞかせている。河童の里の、下流側に〈川流れ商店街〉が軒を連ねている。にとりはそこに居るらしい。
「やっほー、にとり」
「あれっ? はたてちゃん! やっほう!」
商店街の大通りを歩いていたので、空からでもすぐに見つけられた。にとりは何かの部品を小脇に抱えて元気に手を振っている。
「商店街に来るのは珍しいね、どうしたの?」
「にとりがこっちに来てるってにとりの近所の河童さんに聞いたの」最初に家へ行ったけど、あいにくにとりは留守だった。家の前でどうしようかウロウロしていたら、親切な河童さんが教えてくれた。妖怪の山に住む者たちは、お互い助け合って生きているので困った者にとても親切。特に河童さんは、他の地域の者には人見知りらしいけど、天狗を始め山の妖怪にはフレンドリーね。
「さっきまでかっぱ印のアフターサービスであちこちの家を回ってたんだ。その帰りに精密パーツを買いにここへ来たの。そうそう、パーツだけを作ってる奴に頼んだらすごい精度で作ってくれるだよ。はたてちゃんの携帯のネジとかの小さな部品もそいつの作品なの。そのパーツを発明品に使うと……おっとごめんね、なにか用事があったんでしょ?」
「昨日言ってたマカロンの記事、書いてもいいかアリスに聞きに行ったら許可をもらえたの。今後もレシピ教えてくれるって」
「わあ、よかったね! マカロン、美味しかったもの。皆もそのレシピ、知りたがるよ」
アリスはお菓子のレシピをとても事細かに教えてくれる。作り方だけでなく使用する用具の説明から、そのお菓子に合う飲み物まで、ありとあらゆる情報を包み隠さず教えてくれる。お菓子を作ったことのない素人でも安心して作れるし、おいしいお菓子でティータイムも楽しめる。アリスのサービス精神旺盛な姿勢に私はいつも感心させられた。ただ、やはり『監修:アリス・マーガトロイド』とは書かせてくれない。河童さんより恥ずかしがり屋なのかもしれない。
「レシピと一緒に、実際に食べた感想も載せるつもりよ。にとり、名前付きで感想書いてくれる?」
「ひゅい! ついに私も花果子念報デビューかあ、じゃあ気合入れたコメント言わなきゃね。なんて言おうかな」
「ふふ、ゆっくり考えてね」にとりも椛もピクニック以来、花果子念報を定期購読してくれている。自分が心血注いだ新聞を読んでくれていることだけでも嬉しいのに、協力することに乗り気でいてくれる。これほどありがたいことは、ない。
「あら? にとり、それ福引券?」
「そうなんだ。川流れ商店街で買い物したら、キャンペーンらしくて福引券もらったんだ。当たる予感はしないけどやってみようかな~」
福引か、私は運が悪いとは思わないけど、こういった運があるとは思わない。全く当たったことがなく、いつも残念賞しか貰えないからね。にとりもそうそう当たったことはないらしい。一度だけきゅうりが一本当たったことがある、と自慢しているが、きゅうりは当たったことになるのかな? にとりと歩きながら福引の話していると福引抽選会場に来ていた。にとりはポケットから紙片を取り出し眺めている。
「何が景品なのかしら」
「あそこに書いてるね、なになに……」
「あっ! 一等は【虹川鳥獣伎楽団】のコンサートチケットなんだ!」虹川鳥獣伎楽団とは、プリズムリバー三姉妹と幽谷響子、ミスティア・ローレライ達がタッグを組んだバンド名。普段バラバラで活動してるから全員でライブする時は滅多にない。そのせいでチケットはものすごいプレミアになり、入手困難になっている。あいにく報道関係者枠がなく取材申請をしてもチケットが貰えない。
「いいなあ、私も行きたいんだけどチケット取れないんだ」
「若い妖怪たちのなかですごく人気なんだよね。そうかあ、はたてちゃんも行きたいのか……」
「ようし! それならいっちょ、このにとりさんがバシッと当てちゃうぞ」
「頑張れ!」腕まくりをしたにとりはズンズンと会場に突き進む。私も隣で緊張の一瞬を、応援しながら立ち会った。
「ていっ!」
ガラガラガラ コロン
一回目……ハズレ! トルクスネジ百個
「あちゃー。でもまだ三回分!」
ガラガラガラ コロン
二回目……ハズレ! 黒インクひと壺
「むむう、アヤにあげたら喜ぶかな。まだまだ!」
ガラガラガラ コロン
三回目……ハズレ! 荒・仕上両用砥石
「げげっ、残り一回か。これは椛にあげようかな。ああ……当たる気がしない。ってかハズレのバリエーション多くないか?」
「じゃあ私が当たるようにお祈りをしてあげるわ、気休めだけど」指を組んでお祈りのポーズ。アリスの、女子力アップの秘訣によると、上目遣いが重要らしい。女の子同士だけど一応やってみようかな。
「おお! なんだか当たる気がしてきた、えいっ!」
ガラガラガラ コロン
四回目……一等大当たり! 虹川鳥獣伎楽団のチケット二枚!
「ひゅいっ! やったああ! はたてちゃんのおかげだ!」
「わああ! すごいっ! にとり、こっち向いて! 記念撮影しよ、はいチーズ!」熱狂したにとりと、ハンドベルを鳴らして紙吹雪を散らす福引抽選会場の河童さん達の一コマを切り取った。見ていてウキウキする写真だ、あとで二枚現像してにとりと椛にあげよう。
「まさかほんとに当たるとは! いっしょに行こうね、はたてちゃん」
「え? 私?」突然私の名前が出て、うわずった声で驚いた。
「もっちろん!」
確かに行きたいとは言ったが、そんなつもりで言ったのではなかった。ただ、単純に一等が当たるといいだろな程度で騒いだだけなのに……にとりには私よりもっと仲のいい椛がいる。椛をさしおいて自分が行くのは気が引ける。
「行きたいけど、椛はいいの?」
「椛は……ううん、いいの。椛とは、いつも一緒に遊んでるから」
なにか言葉を詰まらせた。椛を誘わない理由があるのかな。じっと黙って下を向くにとりの顔を覗き込んだら、顔を上げて私に笑顔を向けた。その笑顔は、少し無理をしたようだった。
「その代わり椛には内緒だよ、羨ましがらせたくないし」
「あ、そうか」にとりの言うとおりだ。プレミア付きのチケットだけに、一緒に行きたくなっても簡単には入手できない。行けないと知ったら尚のこと残念に思うに違いない。うっかり口を滑らしてしまったらどんな気持ちになるのか。昨日の夜に文の泣き顔を見たばかりの私にとって、想像に難くない。
「うん、私も文には内緒にしとこっと」行けることになって嬉しい反面、内緒にしなければならないので、色々と複雑な気分になった。
会場で撒かれた紙吹雪は、山風に吹かれて風下の方に散っていく。近くを流れる清流に、紅葉のように赤い紙吹雪がサラサラと一枚流れていった。
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河童の里での蒸し暑い昼間からがらりと一変、夕方はとても過ごしやすい温度になる。上空を飛ぶのも辛くなく、夕日に燃える妖怪の山を眺めながら、ゆったりと風に乗って帰路に着く。少し遠回りして遊覧していたので、夕日は地平に隠れそうだった。山の中腹、天狗の里にようやく着いたのは空が紺色に染まる頃。玄関に降り立ち、鍵を出そうとポケットに手を入れると、なぜか迎えの明かりがつく。
「おかえりなさい、はたて」
「あれ? 帰らなかったの?」
文が扉をガチャリと開けた。文は私の質問に答える前に、そそくさとリビングに入って、まるで自宅のようにソファに転がりくつろいだ。
「実は、あの石鹸のことで少々聞きたいことがあるんです。今日守矢神社に取材に行ったら早苗さんが『いい石鹸使ってるんですね、素敵なラベンダーの香り』と褒めてくれまして。その効果なのか、今までになくスムーズに取材が進んだんです」
「早苗さん、身だしなみやおしゃれに敏感そうだからちょうど良かったね」
「そうなんです。なのであの石鹸のつくり方を教わろうかなと」
文にしては殊勝な心構えだ。ちょうど、身だしなみやおしゃれにもっと興味を持ってもらいたいと思っていたところ。取材をスムーズにさせるために、身だしなみをきちんとするのは良いことだ。いつもパパラッチと称して草むらに身を隠し、屋根裏でくノ一ばりに聞き耳を立てる。そんな埃っぽい文ともお別れかと思うと、少し寂しく感じてしまった。
しかし文は、石鹸のつくり方を教わろうというには、いささかくつろぎすぎている。この分だと今晩も泊まる気なんだろう。当然私は断らないけれど、交換条件くらいは出してもバチが当たらないわよね。
「じゃあ文には晩ご飯作ってもらおうかな」
「あやや、わかりました。インスタントラーメンでいいでしょうか」
「だめよ」文が普段、いかに適当な生活をしているのかがよくわかった。今度文の家の掃除に行ってやろう、きっととんでもなくグチャグチャになっているはずだ。教えることは石鹸のつくり方だけでは足りなさそう。深い溜息をつきながらも、内心私は燃えていた。文が変わろうとしているのだ、このチャンスを逃してはならない。
「あれ? その服、どこかに遊びにいくんですか?」
明日のコンサートに着ていく服をハンガーにかけていたら文に見つかった。文は私の家に頻繁に泊まるので、次の日用意する服のかけ場所を覚えたのだろう。ハンガーにかけた服は、いつものワイシャツスカート姿とは違い、カジュアルな遊び用の服だった。まさかこんなところで勘づかれるとは思いもよらなくて少し焦る。
「ん……うん、ちょっとね。知り合いと遊びに……」
「そうなんですか。私も明日椛さんと遊びに行、あ!」
「ん? 椛と遊ぶの? ふうん」自分はにとりと遊ぶのに、椛と遊ぶとわかったとたん文を軽く責めてみた。この姫海棠式話術によって、うまく話を逸らせばコンサートのことは多分バレない。念のため追撃もしておこう。
「なるほど……今日もウチに泊まりに来たのはラベンダーの石鹸を使って、いい香りのまま椛と会うためなんでしょ!」
「い、いえいえそんなことはないですよ! ないです!」
「嘘が下手ね。私をダシにした罰として、本膳料理を作ってもらおうかしら」
「そ、そんなの作れませんよぅ」
怒ってるように見下ろす私にあたふたする文。これで完全にコンサートのことから話はそれた。ふう、危ない危ない。
ただ、なんとなく引っかかる。椛と遊びに行く? 二人で?
ふうん。随分仲が良くなったんだね、文。