雲一つない紺碧の空。その下でどっしりと、威厳を持って構えているのはこの蓬莱城。この世の中で最も大きく、素晴らしい城だ。
天守閣に一番近い部屋から望む紺碧の空は、この世の全てに勝る景色だろう。なんせこの世の全てに勝るこの私、蓬莱山輝夜が言うのだから。誰が何と言おうと私こそ全てだ。
下を見下ろすと霞んで見える米粒程度の人、いや家来達がうろちょろしている。言わば私は仏か神の様な存在だ。皆私の家来。せっせと私に尽くし、虫の様に静かに生きていろ。それが私への忠義である。
いい気分、実にいい気分だ。全てが私の思い通りに進む。夢の様な話だ。しかし一般人なら夢物語で終わるだろう。
残念ながら、これは夢ではない。さっき自分で頬を抓ってみたのだ。痛く感じた事が、夢ではない証拠だ。何故か異様に自分の手が冷たかったのは些か疑問だが。
さて、次は何をしようかな——
「姫様!」
聞き覚えのある声が頭に響く。と同時に身体が宙に浮き始める。自分の意思とは関係がないまま、為すがままに空へと浮く。
天守閣も貫き、紺碧の空も貫いていく。とうとう宇宙へと飛び出し、そこで私の意識は途切れてしまった。
世界が二転、三転程した位に底無しの暗闇が私を襲う。その瞬間に、身体がビクッと痙攣する。すると私の手足に暖かみを感じ、色々な感覚が戻って来る。
重い瞼を開けると朧げな世界が、私の視界に映し出される。天井に潜む怪しげな顔した妖怪達は、私を見て笑っている様に見える。
不機嫌になりながらも横を見ると大きな二本の足が伸びていた。上を見上げると月の賢人、八意永琳が私の目の前に立っていた。
「姫様、いつ迄も寝てないで起きて下さい。何時だと思っていますか?」
私は日光が差す東の窓を見た。太陽は窓の上半分から少し身体を見せている。おおよそ、朝ではない事が分かる。
「ほら、いい加減に起きないと。これだと不健康ですよ」
永琳が布団に手をかける。その瞬間、私は布団を引っ張り、自分の身体に覆い被せた。私のテリトリーに入ってきそうで、何だか嫌悪感を感じた。
そうだ、この布団は私の城。私の生活に誰も口出してはならない。口出す愚か者はどんな事をしてでも処罰する。
夢の中でも出てきたあの蓬莱城を思い出せ。夢はまだ途中で終わっている筈だ。夢の中の私も、永琳こと八意軍と戦うだろう。同じ私が戦わなくてどうする。
難攻不落の蓬莱城、落としてみろ。
「……起きたくない。寝る」
その一言が、この先三日間続く籠城戦が始まる合図となった。
「何を言ってるのですか姫様!これじゃ身体に毒ですよ!人は日光を浴びないと……」
始まった。永琳の説教だ。伊達に賢人を名乗ってはいない、という勢いで私へのデメリットを羅列する。どれだけ自分の意見を持っていても、全て塗り替えされてしまう。最終的には意見というものを持てず、永琳の意見を持つことしか出来なくなってしまう。
普通の人ならばこれだけで精神がやられ、永琳の術中にはまってしまうだろう。しかし流石は私、普段から受けているこの説教には既に耐性が付いている。
私は耳を塞ぎ、布団の中で身体を縮こまる。頭の中に常に物事を考え、永琳の言葉を入ってこさせない様にする。
数分すると流石の賢人でも疲れが出てくる。私に対してのデメリットも出尽くし、ハアハアと深い息ばかり出てくる。こうなればもう弾切れだ。迎撃は成功だ。
「姫様、分かっているでしょうね。そうとなれば強行手段ですよ」
若干の疲れを見せながらも、永琳は掛け布団の端に手を掛け、力いっぱいに引っ張った。それを事前に予知していた私は掛け布団を足で押さえつけ、永琳の進行を食い止めようとする。
八意軍は無数の矢を放ち尽くした後、破城槌を城門に打ち付け、城内侵入を試みている。しかし流石は我が蓬莱城、そう簡単には壊れない。幾度と無く槌を打ち付けるが、一向にヒビが入る気配もない。
馬鹿め、八意軍よ。上がガラ空きだ。
私は城の高台に兵と砲台五十門を用意させた。城門に夢中の八意軍は、上が死角になっているだろう。そこに榴弾でもぶち込めば痛手になる筈だ。
私は兵と砲台の用意が出来た事を確認し、合図となる右手を高々と挙げた。
「永琳さぁ…誰が一番偉いと思ってるの?」
うぐっ、と小さな呻き声を上げ、月の賢人は布団から手を離した。
月の社会では位の高さこそが正義。身分の高い者が幅をきかし、身分の低い者は従わなければならない。
月の賢人である永琳はそれなりに位は高いが、姫である私よりは低い。地球に来てから何千年も経った今、その感覚が薄れ始めていた。
私はその『穴』を見逃さなかった。
「本来なら打ち首ものだよ?ここは月じゃないからまあ許してあげるけど。貴女は忠義ってものが無いのかしら?」
矢継ぎ早に放たれた榴弾は、大きな弧を描きながら城門付近へと落下した。大きな爆発音と共に響く悲痛の呻き声が、蓬莱城を木霊する。
米粒程度の八意軍が一斉に逃げ出していく様を、私は高台から眺めていた。
わらわらと黒点の集合体が、城から離れていく姿は滑稽にも程があった。所詮は雑兵、蓬莱城を陥落させるには力不足だ。
「分かりました。今後一切姫様に直接的に危害を加えません。今一度、姫様に忠義を尽くす事を誓います」
永琳は布団から離れ、私へ傅いた。先程の勢いは薄れ、冷静沈着なあの頃の永琳へと戻った気もする。
しかしこうも簡単に白旗を上げるとは思わなかった。私の見込んだ永琳はもっと賢く、策を二重三重に張り巡らせれる者なののだが。まぁそれは私が強くなったという事なのだろう。
勝利を確信し、布団の中でほくそ笑んでる私へ向け、永琳は捨台詞を残した。
「私はこれより、優曇華とてゐと共に修練に励みます。今の私達では姫様はお守り出来ません。それによって私達はこれから忙しくなるので、姫様は御自分で御食事を用意して下さい。」
まさしく青天の霹靂。突然の兵糧戦宣言に私は戸惑いを隠せなかった。思わず布団から顔を出し、永琳を探した。
「ちょっ、永琳……」
「では、私はこれで」
既に襖に手をかけていた永琳は、消え入るように私の部屋から去っていた。
私は呆然とし、窓の方に目を向ける。太陽は既に窓から見えなくなり、麗らかな陽気が窓から入ってきた。もう昼時だ。
どうしようもなく、私は再び布団に潜る。今まで心地よく感じてきたこの城も、段々憎たらしくなってきた。お前のせいでこんな事に、と無機質な城に向けて憎悪を深める。今の私は絶対的窮地に陥ってしまっていた。
勝利の美酒に酔いしれていた私は、八意軍の動向など気にしていなかった。勝利への揺るぎない自信、それが脆く崩れ去る事なんて思ってもいなかった。
相手は月の賢者。策は二重三重ある事は分かっていたはずなのに、私の驕りの所為で対策していなかった。いや私の所為じゃない。見張りの所為だ。決して私は悪くない
退却したのは兵糧戦を行う為だったようだ。話によると城の周りを柵で囲い、食糧補給路を途絶えさせたらしい。
私はどうしようもなく、勝利の美酒だったものを飲み干した。すっかり酔いも冷め、あんなに美味く感じた酒も何故か味がなくなっていた。
酔った勢いで、という事は出来ずにただひたすら天井を見る以外に術はなかった。
二日目の朝。昨日の様に暖かな日差しはなく、暗い雲が辺りを覆っていた。
寝過ぎたせいか、目を開けたまま天井を夜通し見続けていた。天井に潜む妖怪達とは、ずっと見続けていたお陰か、話が出来る位仲良くなっていた。
ぐるる、と腹の音が鳴り響く。空っぽのお腹にはその音が木霊し、身体中に響き渡る。今の私には何もない、そう感じさせてくれる。
一昨日の夜だったか、優曇華が作ってくれたお粥が脳裏に浮かぶ。夜食に、と永琳に内緒でこっそり頼んだお粥は格段に美味しかった。白粥では物足りないから無理言って鮭粥を作らせた。
柔らかな甘みを含む粥と、塩気がある鮭の旨味が絡み合う。さらに付け合わせの三つ葉も、爽やかな香りを醸し出し後味をすっきりとさせる。
今でも口の中でその味がする位に美味しく、それを求めていた。しかし、それを食べる事は現在不可能に程等しい。大きな喪失感が、空腹感と共に襲いかかってくる。私は腹を凹ませ、必死に空腹を紛らわそうとした。
どれ位経っただろうか、決して満たされる事のない空腹感と戦い続けていると、開く事がなかったはずの襖が開く音がした。私は布団から顔を出すと、優曇華が何かを持って布団の側で座っていた。
途端に私の鼻が何かを感じた。懐かしく、求めていた塩っ気ある匂い。あの鮭粥だ。
思わず私は飛び起き、鮭粥に手を伸ばした。しかし優曇華は粥を私から遠ざけた。
「姫様、これを食べるのならば師匠の言う事に従って下さい」
苦渋の決断に、私は伸ばした手を引っ込めざるを得なかった。
どうやら八意軍は優曇華を通して和解を求めているようだ。しかもこちらの心理をつく品物を持っている。今の蓬莱軍は食糧不足でまともに戦える状態ではない。今、家来達が暴動を起こしても不思議ではない程にだ。
家来達の事を考えれば和解する事も選択肢にある。しかし、私には彼奴らの事なんて頭にない。私が全てであり、私あってこその彼奴ら。
それに、彼奴らの為に私のプライドを自らへし折る事なんて出来ない。
私の名にかけ、戦い抜こう。
「じゃあ…要らない。早く帰ってよ」
そうですか…と優曇華が小さく呟いた。私を哀れんでいるようにも聞こえる。その言葉がずしりと私の肩にのしかかる。
優曇華は最初から分かっていた様だ。この喧嘩に私の勝ち目はない、と。勿論、分が悪い勝負だと私も承知している。私が見込んだ賢者には、私を上回る力が無いと困る。いざという時に私を守る為になくてはならない存在。私は永琳のお陰でここまでこれたと言っても過言ではない。
それが私は嫌だった。『永琳』という存在に守られ、堂々と胸張って生きていく事に意味があるのかどうかが疑問になった。まるで生かされている様にも感じる。生きている心地がしない。
かつての蓬莱山輝夜は何処へ行ったのだろうか。月にいた頃の私は冷酷で、誰にも劣らない位に強かった筈なのに、今となってはすっかり丸くなってしまった。
この喧嘩は過去の私を思い出させる為だ。誰にも頼らずに生きていく、その為の第一歩。孤高の強さを求め、敢えて永琳と離れる為に喧嘩した。悔いなんてない。
あの夢の中の私は今、何をしてるのだろうか。過去の私の様に冷酷で、全てを圧倒出来る強さを持っているのだろうか。全ては夢の続きで分かる。結果はどうなるか、楽しみは取っておこうか。続きを見るのはこの喧嘩が終わってからだ。 今日は寝ないでおこう。
ふと、窓の外を見ると雲の間から一筋の光が差していた。果たしてこれは私への光か永琳への光か、明日になれば決着はつく。
私は布団を敷き直し、再び天井を見続けていた。
三日目の朝、空模様は一昨日の様に青空が広がっていた。絶好の喧嘩日和、なのだろうか。
半日以上天井を見ていた私は、天井の木目を数える、なんて事はとっくのとうに終わっていた。全部で一万三千八百飛んで八。区切られたものは別物と考えた。多いかどうかは分からないし、これといって達成感も無かった。決して実りのある時間だとは言えなかったが、今喧嘩している事も実りのある時間ではない。でも将来投資と考えてみればそうでもない気もする。
自分のしている事が段々と可笑しくなり、力なく笑っていると。
「姫様、これで最後です。部屋から出て下さい。理由があるならどうぞお伝え下さい。」
投降を求める永琳の声が襖越しに聞こえた。
とうとう投降勧告を八意軍が出してきた。その声は天守閣近くのこの部屋まで響いた。既に和解も蹴破っていて、私には勝利と投降しか選択肢が無い。和解を拒否する時に特別いい考えがあると言う訳ではなかった。しかし家臣達には良い考えがあると信じていたのだ。誰かを頼る事なんて癪に触る事だが、非常事態には形振り構ってられなかった。
早速家臣と会議を開いてみたものの誰も考えを持っていなく、あまつさえ私の判断を否定する意見も出て来た。
『姫はご乱心か?家来達は既に疲労困憊だ。』
『姫、もう少し早く相談して頂ければ…』
全く、情けない奴らだ。主君に従事し、命を賭して命令を遂行する。それが私の家来というものであろう。それなのに命令に背き、あろう事か私を否定する行為までした。
蓬莱山の勘も鈍ったらしい。たった数人の家臣の能力を見極めきれなかったとは。奴らは選りすぐりの家臣だった筈なのに。
はぁ、と深い溜息をつく。と同時に顔に手を当て、天を仰ぐ。広がる空は紺碧の空。私の心の様に深い色合いの美しい空。私が愛した空。
家臣を失ったというものの、地の利はまだ私に有る。この難攻不落の蓬莱城が私を守ってくれる。例え私一人になろうとも、勝利をもぎ取りに行く。
私は部屋に丁寧に飾ってある鎧と刀を、再び身に着け始めた。
「理由ならあるわよ、しっかりとね。」
永琳の投降勧告に私は応答する。私の意見もちゃんと聞いて欲しいし、理解して欲しい。
「私は貴女に頼りたくないの。かつての私の冷酷さが欲しい。あんなに強かった私だったからこそ、貴女は付いてきたんじゃないの?」
私の言葉に永琳は何も言わない。ただ黙っている。もしかして図星なのかもしれない。こんな腑抜けた私に、そろそろ嫌気が差してきてもしょうがない。
私だったら絶望するだろう。慕っていた人が自分よりも弱くなっていたら、私はその人に襲い掛かってしまうだろう。何でこんな人を慕っていたのか、悔しい程憎たらしい過去の自分を消してしまう勢いで殴りかかるだろう。
この喧嘩で私は、永琳から慕われなくなるかもしれない。優曇華やてゐと共に出て行くかもしれない。それはそれで良い。今迄の私を消し去る事が出来るのなら、私は何だってしてやる。
暫くすると、襖がスッと開いた。俯き加減で永琳が部屋へと入って来る。悲壮感漂う月の賢人の顔は見えない。私への配慮として見せない様にしているのか、真意は定かではない。
静かに永琳は、私の枕元へと向かった。そして右手を高々と上げた。瞬間、振り下ろす——
パンッと乾いた音が部屋に響く。一瞬、何をされたのかがよく分からなかった。永琳の右手が私の顔を突き抜けて通っていった。ただそれだけの事が私の目に映った。
「失望しましたよ、姫様!」
ああ、そうか。永琳は私に失望したから平手打ったのか。そうなれば合点がいく。
私は頬に手を当てた。ジンジンと頬に来る痛みが増してくる。その痛みが理不尽だとは思わなかった。されて当然の事、受け入れて然るべきもの。その時は、その痛みに何の感情も覚えなかった。
「貴女は私が尊敬した姫様ではありません!」
えっ、と私の口から疑問が零れ出す。その瞬間にあの痛みがつん裂く様な痛みに変化する。
ヒリヒリとして、重い何かを頬に刺された感じ。私は何か大きな間違いを犯した気がしてならなかった。
「私や優曇華、てゐに親身になっていたあの姫様が、私が尊敬した姫様なんです!月にいた頃は私達に一瞥もくれなかったのに、今は一緒に生活して、他愛もない話ばかりして、家族の様に接してくれて、そんな貴女に憧れていたのです!」
永琳の口からボロボロと溢れていく言葉の数々に、私は驚くしか他なかった。
確かに地球に来た私は、月に居た頃よりも口数が増えていた。今日の出来事、面白いと思った話、相談事、色々な事を永琳達に話しかけていた。話さなくていい事も、全てを私は話していた。
月に居た頃は周りに従者が居て、家来が居て、私に仕える者が何千何万も居た。それ即ち何千何万もの人が常に私の行動を見ているわけである。
私は何が起きても平静を装わなければいけなかった。仕える者達が混乱しないように、私が先立って何事もしなければならなかった。勿論家来と話す事は殆どなく、たまに永琳と話す位でしか口を開かなかった。
『冷徹な蓬莱山』を装っている間は、色々な人から尊敬の眼差しを受け続けていた。しかしそれと同時に私の中に重い何かがドッシリと、常に居座っている状態が続いていた。
私は誰かに想いを伝えたかった。中にある重い何かを砕き割り、自由気ままに生きて行きたかった。地球ではそれが叶い、今こうして生きている。でも今の私はこの生活が嫌になっている。私は何を求めているんだ?
段々と私のしたい事が分からなくなる。脳は自問自答を繰り返し、答えのない答えを探すかの様に同じ場所を行ったり来たりする。
「で、でも私は貴女に頼りたくないのよ。自分で生きてる感じがしない。貴女が私を支えようとしてここに居るなら出てってよ。」
頭が混乱している中、辛うじて自分の考えを見つけた。そうだ、私は永琳に頼りたくなかった。だから今の私を消し、誰にも頼らなかった過去の私を甦らしたいと思ったんだ。永琳が憧れてなかろうが、私の生きたい道を選ぶ——
「そんな事は断じて思っておりません!」
永琳はバンっと畳を叩いた。乾いた音が私の部屋に響く。そして、私の中にある砕けた重い何かを揺れ動かす。予想外の答えに私はたじろいだ。
「私は貴女を支えているのではありません!貴女と支え合ってるのです!」
私の中の重い何かが溶けていった。
戦火が彼方此方に広がる。難攻不落の筈の蓬莱城は、彼方此方に火を纏いながら私を守る。
もう私を守ってくれる人は居ない。家来は皆自分の命の為だけに戦い、分が悪くなったら投降する。私を守りに部屋へ駆けつけた家来は一人もいない。肝心の私の家臣達は一目散に逃げていった。
最早私を守ってくれるのはこの蓬莱城しかいない。私を信じて戦ってくれるのはこの蓬莱城しかいない。
寂しい、ただそれだけだ。私の周りに誰も居ないのがこんなに虚無感を感じるのとは思わなかった。全てに勝る私と全てに勝る蓬莱城が手を組めば、誰も抵抗出来ないはずなのに。
「蓬莱城、もう少しだ。頑張ろう。」
私は独り言をポツンと呟く。その言葉は誰にも拾って貰えず、虚空へと消え去る。自分を鼓舞したはずなのに、逆に戦意が消えていく。何がもう少しなのか、何を頑張るのか、私にはもう分からない。
蓬莱城は何も言わず、ただ黙って攻撃を受け続けている。その姿は何故か悲しそうに見えてしまう。
ふと上を見上げると紺碧の空。大好きだった筈のなのに、今はもう何も思わない。深い青色は私を包み込んでくれない。誰もかれもが私を見捨てているのかもしれない。
暫くすると私の部屋の襖が揺れ動き、怒号が段々と聞こえ始める。足音が次第に大きくなり、刀同士が擦れる音が聞こえる。
私は何も思う事はなかった。自分がもう死んでしまう事に気付いても、自分の命が惜しいとは思わなかった。その代わりに一つ、ある事に気付いた。きっと、もっと早く気付くべきものだっただろうに。
私は刀を手放した。瞬間、襖が開いた——
私は永琳をただ、じっと見つめていた。私の瞳はしっかりと永琳を見ている。そして永琳も私を見つめている。その視線は私を貫いているかのように、太く、強かった。
支え合う。その言葉が私の頭を駆け巡る。そして混乱していた頭を綺麗に整え、答えを見つけ出してくれた。
「私は姫様に色々助けられました。お気付きになってないかもしれませんが、私は姫様に支えられているのです。楽しそうに私達に話掛けてくれて、姫様が楽しんでいる姿を見るだけで、私達は支えられてるんです。」
「で、でも私はただ楽しんでるだけよ?なのにどうして貴女達は支えられてるの?」
「姫様が楽しんでる、それだけで私達がお守りしている甲斐があるのです。そうして明日も明後日もお守りする事が出来るのです。」
永琳の眼差しは真剣そのものだった。決して私を裏切らない、忠誠の眼差しを私に向けている。
私は永琳の言い分が本当とは思えなかった。いや、本当とは思いたくなかった。私のただの勘違いでこんな騒動にまで発展し、誰かに誤解を与えてしまった。そんな私を否定したくなかった。どうしようもない過去の自分を立てて、今の私を存在出来るようにしたかった。
でも、あの真剣な眼差しでどうしようもない過去の私は消え去った。それと同時に、今の私も消え去っていった。
他人に頼る私が、誕生した。
すると永琳はにこやかな笑顔を私に向け、手を差し出す。過去の私なら手を振りほどいていただろう。
でも私は手を掴んだ。暖かい人肌、布団に篭っていては決して感じれない温度。決して気にならない温度。誰かを思い遣るかのような優しい温度。永らく感じる事が出来なかった温度をようやく、私は得る事が出来た。
私は満足した顔を浮かべ、永琳に引っ張られながら立ち上がった。
気がつくと、私はあの城の城門前に立っていた。夢の中で見たあの城は、改めて見ると意外にも小さく見えた。
城門は既に破られ、彼方此方に死体が転がっている。皆不思議と晴れ晴れとした顔だ。
焼け跡が目立つ三の丸、二の丸を抜けて私の部屋の前まで辿り着いた。何故か私の部屋の近くには死体が居ない。つまりはそういう事なんだろう、と一人で合点し、襖を開けた。
不思議な事に、私の死体らしきものはなかった。しかし部屋は踏み荒らされ、自慢の鎧も見る影もなくバラバラに壊されていた。無理言わせて作らせていた掛け軸も、無理矢理家来から奪った骨董品の数々も、既に原型を止めていない。
部屋の隅々を見渡していると、片隅に一本の刀が立て掛けていた。華やかな装飾品の数々、間違いなく夢の中の私のものだ。
無数の足跡がついた畳を渡り、刀を手に取ってみる。そして刀を抜いた。
「……これは?」
私の眼の前に、銀色に光り輝く刀身が現れた。血痕一つついていない、新品同様の刀だ。
刀を抜かざるを得ない状況にあった筈なのに、夢の中の私は最期まで刀を抜いていなかった。
それは、最期まで無抵抗だった事を意味していた。
「……そうか、お前もか」
思わず私は刀を抱き締めた。人を斬らなかった、それは冷徹な蓬莱山がする事ではない。本来ならば全て一人で斬り倒そうとして、刀身には赤い血に染まっていただろう。しかし夢の中の私は諦めていた。
ようやく気付いたのだろう。一人じゃ何も出来ない事に。
私はこの刀を失くしてはいけない。この刀には私の決心が詰まっている。銀色に光り輝く刀身には傷一つも、血痕一つも付けてはならない。
ふと上を見上げると紺碧の空が私を見下ろしている。何か言いたげな空に対して、私は刀身を高々と上げた。
天守閣に一番近い部屋から望む紺碧の空は、この世の全てに勝る景色だろう。なんせこの世の全てに勝るこの私、蓬莱山輝夜が言うのだから。誰が何と言おうと私こそ全てだ。
下を見下ろすと霞んで見える米粒程度の人、いや家来達がうろちょろしている。言わば私は仏か神の様な存在だ。皆私の家来。せっせと私に尽くし、虫の様に静かに生きていろ。それが私への忠義である。
いい気分、実にいい気分だ。全てが私の思い通りに進む。夢の様な話だ。しかし一般人なら夢物語で終わるだろう。
残念ながら、これは夢ではない。さっき自分で頬を抓ってみたのだ。痛く感じた事が、夢ではない証拠だ。何故か異様に自分の手が冷たかったのは些か疑問だが。
さて、次は何をしようかな——
「姫様!」
聞き覚えのある声が頭に響く。と同時に身体が宙に浮き始める。自分の意思とは関係がないまま、為すがままに空へと浮く。
天守閣も貫き、紺碧の空も貫いていく。とうとう宇宙へと飛び出し、そこで私の意識は途切れてしまった。
世界が二転、三転程した位に底無しの暗闇が私を襲う。その瞬間に、身体がビクッと痙攣する。すると私の手足に暖かみを感じ、色々な感覚が戻って来る。
重い瞼を開けると朧げな世界が、私の視界に映し出される。天井に潜む怪しげな顔した妖怪達は、私を見て笑っている様に見える。
不機嫌になりながらも横を見ると大きな二本の足が伸びていた。上を見上げると月の賢人、八意永琳が私の目の前に立っていた。
「姫様、いつ迄も寝てないで起きて下さい。何時だと思っていますか?」
私は日光が差す東の窓を見た。太陽は窓の上半分から少し身体を見せている。おおよそ、朝ではない事が分かる。
「ほら、いい加減に起きないと。これだと不健康ですよ」
永琳が布団に手をかける。その瞬間、私は布団を引っ張り、自分の身体に覆い被せた。私のテリトリーに入ってきそうで、何だか嫌悪感を感じた。
そうだ、この布団は私の城。私の生活に誰も口出してはならない。口出す愚か者はどんな事をしてでも処罰する。
夢の中でも出てきたあの蓬莱城を思い出せ。夢はまだ途中で終わっている筈だ。夢の中の私も、永琳こと八意軍と戦うだろう。同じ私が戦わなくてどうする。
難攻不落の蓬莱城、落としてみろ。
「……起きたくない。寝る」
その一言が、この先三日間続く籠城戦が始まる合図となった。
「何を言ってるのですか姫様!これじゃ身体に毒ですよ!人は日光を浴びないと……」
始まった。永琳の説教だ。伊達に賢人を名乗ってはいない、という勢いで私へのデメリットを羅列する。どれだけ自分の意見を持っていても、全て塗り替えされてしまう。最終的には意見というものを持てず、永琳の意見を持つことしか出来なくなってしまう。
普通の人ならばこれだけで精神がやられ、永琳の術中にはまってしまうだろう。しかし流石は私、普段から受けているこの説教には既に耐性が付いている。
私は耳を塞ぎ、布団の中で身体を縮こまる。頭の中に常に物事を考え、永琳の言葉を入ってこさせない様にする。
数分すると流石の賢人でも疲れが出てくる。私に対してのデメリットも出尽くし、ハアハアと深い息ばかり出てくる。こうなればもう弾切れだ。迎撃は成功だ。
「姫様、分かっているでしょうね。そうとなれば強行手段ですよ」
若干の疲れを見せながらも、永琳は掛け布団の端に手を掛け、力いっぱいに引っ張った。それを事前に予知していた私は掛け布団を足で押さえつけ、永琳の進行を食い止めようとする。
八意軍は無数の矢を放ち尽くした後、破城槌を城門に打ち付け、城内侵入を試みている。しかし流石は我が蓬莱城、そう簡単には壊れない。幾度と無く槌を打ち付けるが、一向にヒビが入る気配もない。
馬鹿め、八意軍よ。上がガラ空きだ。
私は城の高台に兵と砲台五十門を用意させた。城門に夢中の八意軍は、上が死角になっているだろう。そこに榴弾でもぶち込めば痛手になる筈だ。
私は兵と砲台の用意が出来た事を確認し、合図となる右手を高々と挙げた。
「永琳さぁ…誰が一番偉いと思ってるの?」
うぐっ、と小さな呻き声を上げ、月の賢人は布団から手を離した。
月の社会では位の高さこそが正義。身分の高い者が幅をきかし、身分の低い者は従わなければならない。
月の賢人である永琳はそれなりに位は高いが、姫である私よりは低い。地球に来てから何千年も経った今、その感覚が薄れ始めていた。
私はその『穴』を見逃さなかった。
「本来なら打ち首ものだよ?ここは月じゃないからまあ許してあげるけど。貴女は忠義ってものが無いのかしら?」
矢継ぎ早に放たれた榴弾は、大きな弧を描きながら城門付近へと落下した。大きな爆発音と共に響く悲痛の呻き声が、蓬莱城を木霊する。
米粒程度の八意軍が一斉に逃げ出していく様を、私は高台から眺めていた。
わらわらと黒点の集合体が、城から離れていく姿は滑稽にも程があった。所詮は雑兵、蓬莱城を陥落させるには力不足だ。
「分かりました。今後一切姫様に直接的に危害を加えません。今一度、姫様に忠義を尽くす事を誓います」
永琳は布団から離れ、私へ傅いた。先程の勢いは薄れ、冷静沈着なあの頃の永琳へと戻った気もする。
しかしこうも簡単に白旗を上げるとは思わなかった。私の見込んだ永琳はもっと賢く、策を二重三重に張り巡らせれる者なののだが。まぁそれは私が強くなったという事なのだろう。
勝利を確信し、布団の中でほくそ笑んでる私へ向け、永琳は捨台詞を残した。
「私はこれより、優曇華とてゐと共に修練に励みます。今の私達では姫様はお守り出来ません。それによって私達はこれから忙しくなるので、姫様は御自分で御食事を用意して下さい。」
まさしく青天の霹靂。突然の兵糧戦宣言に私は戸惑いを隠せなかった。思わず布団から顔を出し、永琳を探した。
「ちょっ、永琳……」
「では、私はこれで」
既に襖に手をかけていた永琳は、消え入るように私の部屋から去っていた。
私は呆然とし、窓の方に目を向ける。太陽は既に窓から見えなくなり、麗らかな陽気が窓から入ってきた。もう昼時だ。
どうしようもなく、私は再び布団に潜る。今まで心地よく感じてきたこの城も、段々憎たらしくなってきた。お前のせいでこんな事に、と無機質な城に向けて憎悪を深める。今の私は絶対的窮地に陥ってしまっていた。
勝利の美酒に酔いしれていた私は、八意軍の動向など気にしていなかった。勝利への揺るぎない自信、それが脆く崩れ去る事なんて思ってもいなかった。
相手は月の賢者。策は二重三重ある事は分かっていたはずなのに、私の驕りの所為で対策していなかった。いや私の所為じゃない。見張りの所為だ。決して私は悪くない
退却したのは兵糧戦を行う為だったようだ。話によると城の周りを柵で囲い、食糧補給路を途絶えさせたらしい。
私はどうしようもなく、勝利の美酒だったものを飲み干した。すっかり酔いも冷め、あんなに美味く感じた酒も何故か味がなくなっていた。
酔った勢いで、という事は出来ずにただひたすら天井を見る以外に術はなかった。
二日目の朝。昨日の様に暖かな日差しはなく、暗い雲が辺りを覆っていた。
寝過ぎたせいか、目を開けたまま天井を夜通し見続けていた。天井に潜む妖怪達とは、ずっと見続けていたお陰か、話が出来る位仲良くなっていた。
ぐるる、と腹の音が鳴り響く。空っぽのお腹にはその音が木霊し、身体中に響き渡る。今の私には何もない、そう感じさせてくれる。
一昨日の夜だったか、優曇華が作ってくれたお粥が脳裏に浮かぶ。夜食に、と永琳に内緒でこっそり頼んだお粥は格段に美味しかった。白粥では物足りないから無理言って鮭粥を作らせた。
柔らかな甘みを含む粥と、塩気がある鮭の旨味が絡み合う。さらに付け合わせの三つ葉も、爽やかな香りを醸し出し後味をすっきりとさせる。
今でも口の中でその味がする位に美味しく、それを求めていた。しかし、それを食べる事は現在不可能に程等しい。大きな喪失感が、空腹感と共に襲いかかってくる。私は腹を凹ませ、必死に空腹を紛らわそうとした。
どれ位経っただろうか、決して満たされる事のない空腹感と戦い続けていると、開く事がなかったはずの襖が開く音がした。私は布団から顔を出すと、優曇華が何かを持って布団の側で座っていた。
途端に私の鼻が何かを感じた。懐かしく、求めていた塩っ気ある匂い。あの鮭粥だ。
思わず私は飛び起き、鮭粥に手を伸ばした。しかし優曇華は粥を私から遠ざけた。
「姫様、これを食べるのならば師匠の言う事に従って下さい」
苦渋の決断に、私は伸ばした手を引っ込めざるを得なかった。
どうやら八意軍は優曇華を通して和解を求めているようだ。しかもこちらの心理をつく品物を持っている。今の蓬莱軍は食糧不足でまともに戦える状態ではない。今、家来達が暴動を起こしても不思議ではない程にだ。
家来達の事を考えれば和解する事も選択肢にある。しかし、私には彼奴らの事なんて頭にない。私が全てであり、私あってこその彼奴ら。
それに、彼奴らの為に私のプライドを自らへし折る事なんて出来ない。
私の名にかけ、戦い抜こう。
「じゃあ…要らない。早く帰ってよ」
そうですか…と優曇華が小さく呟いた。私を哀れんでいるようにも聞こえる。その言葉がずしりと私の肩にのしかかる。
優曇華は最初から分かっていた様だ。この喧嘩に私の勝ち目はない、と。勿論、分が悪い勝負だと私も承知している。私が見込んだ賢者には、私を上回る力が無いと困る。いざという時に私を守る為になくてはならない存在。私は永琳のお陰でここまでこれたと言っても過言ではない。
それが私は嫌だった。『永琳』という存在に守られ、堂々と胸張って生きていく事に意味があるのかどうかが疑問になった。まるで生かされている様にも感じる。生きている心地がしない。
かつての蓬莱山輝夜は何処へ行ったのだろうか。月にいた頃の私は冷酷で、誰にも劣らない位に強かった筈なのに、今となってはすっかり丸くなってしまった。
この喧嘩は過去の私を思い出させる為だ。誰にも頼らずに生きていく、その為の第一歩。孤高の強さを求め、敢えて永琳と離れる為に喧嘩した。悔いなんてない。
あの夢の中の私は今、何をしてるのだろうか。過去の私の様に冷酷で、全てを圧倒出来る強さを持っているのだろうか。全ては夢の続きで分かる。結果はどうなるか、楽しみは取っておこうか。続きを見るのはこの喧嘩が終わってからだ。 今日は寝ないでおこう。
ふと、窓の外を見ると雲の間から一筋の光が差していた。果たしてこれは私への光か永琳への光か、明日になれば決着はつく。
私は布団を敷き直し、再び天井を見続けていた。
三日目の朝、空模様は一昨日の様に青空が広がっていた。絶好の喧嘩日和、なのだろうか。
半日以上天井を見ていた私は、天井の木目を数える、なんて事はとっくのとうに終わっていた。全部で一万三千八百飛んで八。区切られたものは別物と考えた。多いかどうかは分からないし、これといって達成感も無かった。決して実りのある時間だとは言えなかったが、今喧嘩している事も実りのある時間ではない。でも将来投資と考えてみればそうでもない気もする。
自分のしている事が段々と可笑しくなり、力なく笑っていると。
「姫様、これで最後です。部屋から出て下さい。理由があるならどうぞお伝え下さい。」
投降を求める永琳の声が襖越しに聞こえた。
とうとう投降勧告を八意軍が出してきた。その声は天守閣近くのこの部屋まで響いた。既に和解も蹴破っていて、私には勝利と投降しか選択肢が無い。和解を拒否する時に特別いい考えがあると言う訳ではなかった。しかし家臣達には良い考えがあると信じていたのだ。誰かを頼る事なんて癪に触る事だが、非常事態には形振り構ってられなかった。
早速家臣と会議を開いてみたものの誰も考えを持っていなく、あまつさえ私の判断を否定する意見も出て来た。
『姫はご乱心か?家来達は既に疲労困憊だ。』
『姫、もう少し早く相談して頂ければ…』
全く、情けない奴らだ。主君に従事し、命を賭して命令を遂行する。それが私の家来というものであろう。それなのに命令に背き、あろう事か私を否定する行為までした。
蓬莱山の勘も鈍ったらしい。たった数人の家臣の能力を見極めきれなかったとは。奴らは選りすぐりの家臣だった筈なのに。
はぁ、と深い溜息をつく。と同時に顔に手を当て、天を仰ぐ。広がる空は紺碧の空。私の心の様に深い色合いの美しい空。私が愛した空。
家臣を失ったというものの、地の利はまだ私に有る。この難攻不落の蓬莱城が私を守ってくれる。例え私一人になろうとも、勝利をもぎ取りに行く。
私は部屋に丁寧に飾ってある鎧と刀を、再び身に着け始めた。
「理由ならあるわよ、しっかりとね。」
永琳の投降勧告に私は応答する。私の意見もちゃんと聞いて欲しいし、理解して欲しい。
「私は貴女に頼りたくないの。かつての私の冷酷さが欲しい。あんなに強かった私だったからこそ、貴女は付いてきたんじゃないの?」
私の言葉に永琳は何も言わない。ただ黙っている。もしかして図星なのかもしれない。こんな腑抜けた私に、そろそろ嫌気が差してきてもしょうがない。
私だったら絶望するだろう。慕っていた人が自分よりも弱くなっていたら、私はその人に襲い掛かってしまうだろう。何でこんな人を慕っていたのか、悔しい程憎たらしい過去の自分を消してしまう勢いで殴りかかるだろう。
この喧嘩で私は、永琳から慕われなくなるかもしれない。優曇華やてゐと共に出て行くかもしれない。それはそれで良い。今迄の私を消し去る事が出来るのなら、私は何だってしてやる。
暫くすると、襖がスッと開いた。俯き加減で永琳が部屋へと入って来る。悲壮感漂う月の賢人の顔は見えない。私への配慮として見せない様にしているのか、真意は定かではない。
静かに永琳は、私の枕元へと向かった。そして右手を高々と上げた。瞬間、振り下ろす——
パンッと乾いた音が部屋に響く。一瞬、何をされたのかがよく分からなかった。永琳の右手が私の顔を突き抜けて通っていった。ただそれだけの事が私の目に映った。
「失望しましたよ、姫様!」
ああ、そうか。永琳は私に失望したから平手打ったのか。そうなれば合点がいく。
私は頬に手を当てた。ジンジンと頬に来る痛みが増してくる。その痛みが理不尽だとは思わなかった。されて当然の事、受け入れて然るべきもの。その時は、その痛みに何の感情も覚えなかった。
「貴女は私が尊敬した姫様ではありません!」
えっ、と私の口から疑問が零れ出す。その瞬間にあの痛みがつん裂く様な痛みに変化する。
ヒリヒリとして、重い何かを頬に刺された感じ。私は何か大きな間違いを犯した気がしてならなかった。
「私や優曇華、てゐに親身になっていたあの姫様が、私が尊敬した姫様なんです!月にいた頃は私達に一瞥もくれなかったのに、今は一緒に生活して、他愛もない話ばかりして、家族の様に接してくれて、そんな貴女に憧れていたのです!」
永琳の口からボロボロと溢れていく言葉の数々に、私は驚くしか他なかった。
確かに地球に来た私は、月に居た頃よりも口数が増えていた。今日の出来事、面白いと思った話、相談事、色々な事を永琳達に話しかけていた。話さなくていい事も、全てを私は話していた。
月に居た頃は周りに従者が居て、家来が居て、私に仕える者が何千何万も居た。それ即ち何千何万もの人が常に私の行動を見ているわけである。
私は何が起きても平静を装わなければいけなかった。仕える者達が混乱しないように、私が先立って何事もしなければならなかった。勿論家来と話す事は殆どなく、たまに永琳と話す位でしか口を開かなかった。
『冷徹な蓬莱山』を装っている間は、色々な人から尊敬の眼差しを受け続けていた。しかしそれと同時に私の中に重い何かがドッシリと、常に居座っている状態が続いていた。
私は誰かに想いを伝えたかった。中にある重い何かを砕き割り、自由気ままに生きて行きたかった。地球ではそれが叶い、今こうして生きている。でも今の私はこの生活が嫌になっている。私は何を求めているんだ?
段々と私のしたい事が分からなくなる。脳は自問自答を繰り返し、答えのない答えを探すかの様に同じ場所を行ったり来たりする。
「で、でも私は貴女に頼りたくないのよ。自分で生きてる感じがしない。貴女が私を支えようとしてここに居るなら出てってよ。」
頭が混乱している中、辛うじて自分の考えを見つけた。そうだ、私は永琳に頼りたくなかった。だから今の私を消し、誰にも頼らなかった過去の私を甦らしたいと思ったんだ。永琳が憧れてなかろうが、私の生きたい道を選ぶ——
「そんな事は断じて思っておりません!」
永琳はバンっと畳を叩いた。乾いた音が私の部屋に響く。そして、私の中にある砕けた重い何かを揺れ動かす。予想外の答えに私はたじろいだ。
「私は貴女を支えているのではありません!貴女と支え合ってるのです!」
私の中の重い何かが溶けていった。
戦火が彼方此方に広がる。難攻不落の筈の蓬莱城は、彼方此方に火を纏いながら私を守る。
もう私を守ってくれる人は居ない。家来は皆自分の命の為だけに戦い、分が悪くなったら投降する。私を守りに部屋へ駆けつけた家来は一人もいない。肝心の私の家臣達は一目散に逃げていった。
最早私を守ってくれるのはこの蓬莱城しかいない。私を信じて戦ってくれるのはこの蓬莱城しかいない。
寂しい、ただそれだけだ。私の周りに誰も居ないのがこんなに虚無感を感じるのとは思わなかった。全てに勝る私と全てに勝る蓬莱城が手を組めば、誰も抵抗出来ないはずなのに。
「蓬莱城、もう少しだ。頑張ろう。」
私は独り言をポツンと呟く。その言葉は誰にも拾って貰えず、虚空へと消え去る。自分を鼓舞したはずなのに、逆に戦意が消えていく。何がもう少しなのか、何を頑張るのか、私にはもう分からない。
蓬莱城は何も言わず、ただ黙って攻撃を受け続けている。その姿は何故か悲しそうに見えてしまう。
ふと上を見上げると紺碧の空。大好きだった筈のなのに、今はもう何も思わない。深い青色は私を包み込んでくれない。誰もかれもが私を見捨てているのかもしれない。
暫くすると私の部屋の襖が揺れ動き、怒号が段々と聞こえ始める。足音が次第に大きくなり、刀同士が擦れる音が聞こえる。
私は何も思う事はなかった。自分がもう死んでしまう事に気付いても、自分の命が惜しいとは思わなかった。その代わりに一つ、ある事に気付いた。きっと、もっと早く気付くべきものだっただろうに。
私は刀を手放した。瞬間、襖が開いた——
私は永琳をただ、じっと見つめていた。私の瞳はしっかりと永琳を見ている。そして永琳も私を見つめている。その視線は私を貫いているかのように、太く、強かった。
支え合う。その言葉が私の頭を駆け巡る。そして混乱していた頭を綺麗に整え、答えを見つけ出してくれた。
「私は姫様に色々助けられました。お気付きになってないかもしれませんが、私は姫様に支えられているのです。楽しそうに私達に話掛けてくれて、姫様が楽しんでいる姿を見るだけで、私達は支えられてるんです。」
「で、でも私はただ楽しんでるだけよ?なのにどうして貴女達は支えられてるの?」
「姫様が楽しんでる、それだけで私達がお守りしている甲斐があるのです。そうして明日も明後日もお守りする事が出来るのです。」
永琳の眼差しは真剣そのものだった。決して私を裏切らない、忠誠の眼差しを私に向けている。
私は永琳の言い分が本当とは思えなかった。いや、本当とは思いたくなかった。私のただの勘違いでこんな騒動にまで発展し、誰かに誤解を与えてしまった。そんな私を否定したくなかった。どうしようもない過去の自分を立てて、今の私を存在出来るようにしたかった。
でも、あの真剣な眼差しでどうしようもない過去の私は消え去った。それと同時に、今の私も消え去っていった。
他人に頼る私が、誕生した。
すると永琳はにこやかな笑顔を私に向け、手を差し出す。過去の私なら手を振りほどいていただろう。
でも私は手を掴んだ。暖かい人肌、布団に篭っていては決して感じれない温度。決して気にならない温度。誰かを思い遣るかのような優しい温度。永らく感じる事が出来なかった温度をようやく、私は得る事が出来た。
私は満足した顔を浮かべ、永琳に引っ張られながら立ち上がった。
気がつくと、私はあの城の城門前に立っていた。夢の中で見たあの城は、改めて見ると意外にも小さく見えた。
城門は既に破られ、彼方此方に死体が転がっている。皆不思議と晴れ晴れとした顔だ。
焼け跡が目立つ三の丸、二の丸を抜けて私の部屋の前まで辿り着いた。何故か私の部屋の近くには死体が居ない。つまりはそういう事なんだろう、と一人で合点し、襖を開けた。
不思議な事に、私の死体らしきものはなかった。しかし部屋は踏み荒らされ、自慢の鎧も見る影もなくバラバラに壊されていた。無理言わせて作らせていた掛け軸も、無理矢理家来から奪った骨董品の数々も、既に原型を止めていない。
部屋の隅々を見渡していると、片隅に一本の刀が立て掛けていた。華やかな装飾品の数々、間違いなく夢の中の私のものだ。
無数の足跡がついた畳を渡り、刀を手に取ってみる。そして刀を抜いた。
「……これは?」
私の眼の前に、銀色に光り輝く刀身が現れた。血痕一つついていない、新品同様の刀だ。
刀を抜かざるを得ない状況にあった筈なのに、夢の中の私は最期まで刀を抜いていなかった。
それは、最期まで無抵抗だった事を意味していた。
「……そうか、お前もか」
思わず私は刀を抱き締めた。人を斬らなかった、それは冷徹な蓬莱山がする事ではない。本来ならば全て一人で斬り倒そうとして、刀身には赤い血に染まっていただろう。しかし夢の中の私は諦めていた。
ようやく気付いたのだろう。一人じゃ何も出来ない事に。
私はこの刀を失くしてはいけない。この刀には私の決心が詰まっている。銀色に光り輝く刀身には傷一つも、血痕一つも付けてはならない。
ふと上を見上げると紺碧の空が私を見下ろしている。何か言いたげな空に対して、私は刀身を高々と上げた。