せっかくの日和なんだから、厄介事に巻き込まれるのは御免だ。MGMGと団子を咀嚼しつつも、うへぇという気分になる。
空には雲ひとつなく、うっすらと私が捨てた故郷=月が青白く浮かんでいる。もう私には関係のない場所だ。幻想郷に移住することを決め、しっかりと穢れに塗れ始めた私には。
「できなくはないけどさぁ……」
私の隣に腰掛ける修験服の薬売りを横目に、小さくため息。編み笠で顔を隠す薬売りの正体は、もちろん鈴仙ちゃん。あまり元月の兎と親しくしている様子を見られちゃ仕事に影響が出るから、と顔を突き合せて話すことは拒まれてる。
だったら、人里の茶屋で声を掛けなくてもいいじゃん。
鈴仙ちゃんの要領の悪さが際立つ感じだなぁ。
「あんたも同類だから、判るでしょ? 今さら玉兎通信で月に連絡取るとか、自殺行為だよ。私とか清蘭ちゃんが月でどう言われてるやら、考えるだけでゾッとしないね」
「その気持ちは判るんだけどねー……」
鈴仙ちゃんが、やれやれとばかりにため息を吐く。この子もこの子で、なかなかの苦労人とのこと。まあ、あの八意さまに従ってるんだから、然も有りなんってもんだ。
「八意さまが、どうしても話したいって言うんだもの。断れないよ。私の通信は、もう月まで届かないようにしてるからさ」
「だから私に、サグメさまに連絡入れてってわけだ。はーあ、嫌だ嫌だ。元『月の賢者さま』は、下々の者の苦労まで考えちゃくださらないんだねぇ」
嘆息。私のそれに呼応するみたいに、鈴仙ちゃんも大きな大きなため息。部下としての気苦労を共有してるような空気になった。
私はどっちかってーと、八意一味の被害者って立場なんだけどね。
「でも、まぁ、処罰されたりはしないでしょ。八意さまの名前を出せばさ」
緑茶をグイと煽った鈴仙ちゃんが、タンスみたいな香箱を背負った。
「八意さまはお礼の概念を知らない方じゃないしさ、なんか貰えるかもよ。鈴瑚だって地上での生活、何かと入用でしょ? ただでさえ、元々は侵略者だったんだから立ち位置も難しいだろうし」
「あぁ、天狗? だっけ? に追い回されたのも記憶に新しいよ。妖怪の山に入ったら、殺されそうな勢いだもん」
「でしょ? だったら、ここで恩を売っとけば得するんじゃない? 一時の気まずささえ我慢すればいいんだからさ」
「他人事だなぁ。ま、私のメリットに関しちゃ、至極ごもっともなんだけどさ」
「じゃあ、よろしくね。私、八意さまにそう言っておくから」
そう言って、一段と編み笠を深く被った鈴仙ちゃんが去っていく。結局、押し切られてしまった形だ。人混みに紛れていく修験服の背中を見つめつつ、やれやれと茶を啜る。
――八意さまとサグメさまの会談。
それを実現させるためには、確かにこんな形を取らざるを得まい。未だ大罪人扱いの八意さまが月へ赴くことが許されるわけもないし、平和を取り戻した今の月に使者を出すのも無理だろう。だから、通信機能が生きている玉兎にサグメさまへのコンタクトを頼むしかない。
「――さて、と」
面倒事は、後回しにすればするほどアンチな気持ちが増していく。嫌なことはさっさと済ませてしまうに限る。残っていた団子を頬張りつつ、茶屋を後にした。玉兎通信をしているかどうかなんて傍目から見ても判んないけど、元月の兎が月と連絡を取っているのを見られるのは、ちょっと嫌だった。
てなわけで、ブラブラと里の大通りを抜けてから、通信を開始する。着拒とかされてたらヘコむなぁ、とか心配してたけど、案外とあっさり玉兎通信監理部に繋がった。
『り、り、り、鈴瑚ちゃん!?』
うわぉ。思った以上の反応が返ってきた。もっと冷淡に事務的に取り扱われると思ってたんだけどね。元同僚の声は、キンキンと脳髄に突き刺さるみたいな音量で、
『ど、どうしてたの!? 今まで何をしてたの!? イーグルラヴィはほとんど帰還したっていうのに!』
『あー、まぁ、色々あってね。そっちに帰れそうにないんだ』
『なんで!?』
『穢れちった』
『…………ッ!?』
察してくれたらしく、元同僚が息を呑む。月に住む者としちゃ、もっともな反応だ。なんせ、徹底的に穢れに対する忌避感に晒され続ける生活を送ってるんだから。
案外、悪くないもんだけどね。食べ物は色々あるし、月とは比べ物にならないくらいに刺激的だし。穏やかな生活を続けてるだけじゃ、退屈しちゃうもんね。まあ、私の性には合ってたって話だ。
『鈴瑚ちゃん……その、私、なんて言えばいいか……』
『あー、いいのいいの。しょうがないよ。私は私で、何とかやってくさ。ところで、ちょっと伝言頼まれてくんない? サグメさまに』
大いに心を痛めてるらしい同僚を気遣いつつ、道端に生えていた木の根元に腰掛ける。樹皮の臭い、草の臭い、土の臭い。月には無いものばっかり。最初はエンガチョだったけど、慣れればどうってことはない。
『え? う、うん。いいよ』
という彼女の好意に感謝しつつ、ざっと説明する。八意××さまが、サグメさまに逢いたいと言っていること。自分が赴くわけにはいかないから、彼女に地上へ来て貰う必要があること。なるたけ重大な任務に聞こえるよう、言葉を選んだ。ウチくる? 行く行く! くらいのテンションでお偉方を呼びつけるわけにもいかないんだし。
『――なるほどね』
『伝えておいて貰える?』
『うん。大丈夫。すぐに聞いてくるね……その、鈴瑚ちゃん?』
『なに?』
元同僚の彼女が、消え入りそうな声で私の名前を呼ぶ。私の聞き返しに対する返事は、短いとは決して言えない沈黙を経てから、
『……また、お話ししよ? 顔を見れないのは辛いけど……私、鈴瑚ちゃんとお喋りするの、好きだったから』
と告げられる。
ちょっぴりのセンチメンタルが、私の胸に去来した。私が月に残して来たものを突き付けられた気分で。ああ、そっか、私はもう、この子には逢えないんだな、なんて。今さらの寂しさに震え始める心を、グッと締め付けて、
『――そうだね。話すだけでも、きっと私たちは繋がれるから』
と、笑っているように聞こえる声を意識して、告げた。
◆
八意さまの名前は、効果覿面だったらしい。元同僚の彼女曰く、『すぐにでも向かうから、神社に来ること』と指示を受けたとのこと。まあ、あの人は喋らないし迂闊には喋れないから、それを察するだけでも難儀したに違いない。
しかし、滅多には動かないサグメさまにしては行動が迅速だ。逢いたいと言われたことが嬉しいんだろうか。なんでも八意さまがまだ月に居た頃には、二人はずいぶんと親しくしていたらしい。何百年単位で逢えていない人から呼び出されたとあっちゃ、すぐにでも馳せ参じたい気持ちにもなるんだろう。きっと。
そんな指示を受けたので、私はさっさと神社へと向かう。地上に神社はふたつあるけど、きっと赤い巫女の居る方だろうと見当をつけた。サグメさまが訪れたことがあるのは、確かそっちの神社だけだったはずだから。
というわけで、博麗神社に至る階段の前に辿り着く。驚くべきことに、サグメさまは既にそこに居た。指示を受けてからすぐに来たというのに、と舌を巻く。月の民らしからぬ、と言ってもいいくらいに行動の迅速さが半端じゃない。
「サグメさま。すみません。お待たせしてしまったようで……」
口元に左手を当てるサグメさまに向けて、頭を下げる。彼女からの返事がないことは判っていた。なので、すぐに頭を上げて彼女の顔を見る。そうでもしないとコミュニケーションが成立しないのだ。
「…………」
サグメさまが首を横に振った。『構わない』ということだろう。次いで彼女は周囲をグルリと見回し、私に視線を向け、そして小さくため息を吐く。
これはどういう意味だろう。『こんな穢れた地にいて、アナタも大変ね』なのか、『アナタが月の生活を捨てて地上を選んだ理由が判らない』なのか。まあ、どちらにせよ、私が返すべき言葉に大差はない。つまり、私が戻らなかったことへの謝罪である。
「その……すみませんでした。月に帰らなくて。ここには居ませんが、清蘭ちゃんの分も私が謝って――」
と再び頭を下げようとした途端、サグメさまが私の頭にそっと触れてくる。彼女は口元を僅かに綻ばせ、目を閉じてからゆっくりと首を横に振った。
いまのはハッキリと判った。『気にしないでいい』ということだ。あるいは、『アナタたちの選択を尊重する』ということだ。どうやら、危惧していたお咎めは受けずに済んだらしい。同時に、彼女の優しさに触れて、さっき元同僚と喋って湧きあがったセンチメンタルが膨らんだ。
「――ありがとうございます」
私が言うと、サグメさまがウンと頷く。月の生活を捨てた私たちが、正式に許された瞬間だ。そう思った。
なんだかんだ、鈴仙ちゃんから依頼を受けて良かったのかもしれない。この話を私が受けなかったら、きっと月に置き捨てて来た確執を心のどこかで引き摺り続けたままだっただろうから。
お偉いさんの気紛れも、たまにはいいものだ。
「…………」
サグメさまが、もう一度周囲を見回してから、首を傾げる。ええと、これはどういう意味……あぁ、判った。『八意さまは?』かな。そう思い至ったところで、ちょいとマズいことが起きていることを悟った。
私は鈴仙ちゃんから、『八意さまがサグメさまに逢いたがっている』という情報しか与えられてない。いざ呼んだら、それからどうすれば良いのか聞いてないのだ。
……くそぅ、鈴仙ちゃんめ。肝心なところを言いそびれやがって。月の重鎮を引っ張り出すなんて大層なことをやるのなら、きちんと手筈を整えろよ。玉兎通信で確認しようにも、あの子は通信機能を切ってるから、こっちからはどうしようもない。
……まあ、仕方ない。
私だって、八意さまがどこに居るかくらいは知ってる。彼女が住むのは永遠亭って名前のところで、確か……何たらの竹林とかいうところを抜けた先だったな。とりあえず、竹林に行けば何とかなるだろうってことだ。そこまで行けば、鈴仙ちゃんが待ってるかもしれないし。
「えぇと……八意さまは永遠亭という場所にいらっしゃいます。なので、これからご案内しますね。ここから飛び上がって、竹林まで向かいましょう」
私が言うと、サグメさまは一度だけ頷いて、ふぅわりと片翼を羽ばたかせた。ああ、やっぱり八意さまに逢えるのが嬉しいんだなぁ、なんて再確認。じゃなきゃ、こんな迅速に地上へ降りようとか思わないだろうしな。
ともかく、これから私はサグメさまと竹林に向かって、そこを抜けた先の永遠亭に彼女を送り届けて、そうすればミッション・コンプリート。きっと八意さまから、なにかご褒美が貰えるに違いない。
簡単なもんだ。
◆
――と、甘く考えていたのだけど、現実は案外うまく行ってくれないようだ。
空から探せば、竹林はすぐに見つかった。だけど問題は、竹林を上空から眺めるだけじゃ永遠亭がどこにあるのかサッパリ判らないという点だった。
おかしい。竹林を抜けた先に永遠亭があると聞いていたのに。空から探して見つからないというのはどういうことだ。
サグメさまからの無言の圧力をビンビンに感じた。彼女を引き連れてウロウロと竹林の上空を飛び回ることに耐えかね、竹林の真ん中に降りたつ。背の高い竹に囲まれて、サグメさまは眉間に皺を寄せていた。冷や汗が止まらない。全部、鈴仙ちゃんのせいだ。
「あ、あははは……大丈夫ですよ。歩いて探せば、その内に見つかります。そんなに広大な竹林ってわけでもありませんでしたし……」
「…………はぁ」
サグメさまがため息を吐く。私だって同じ気分。だけど、さすがに期せずして案内役となってしまった私が、ため息を吐くわけにも行くまい。せっかく先ほど賜った許しを反故にされるわけにもいかないし。
私は精一杯に虚勢を張りつつ、なるべく人の気配があるような気がする方向に――つまり適当に歩き始める。竹林に入ったのなんて初めてなのだから、正解のルートなんか判るわけもない。
だが、訪ねる相手は腐っても月の賢者。こっちの動きを予測して、迎えを寄越してくれる可能性も無きにしもあらず。とりあえず適当にフラフラして永遠亭を見つけるなり、迎えにバッタリ出会うなりを期待するとしよう。私が呼び出しておきながら、どうやって八意さまのところに行けばいいのか判りませんなんて正直に言えば、喧嘩売ってると思われてもおかしくないしね。
そんなわけで、無謀な竹林探索である。
薄茶色に枯れた竹の葉が積もって、フワフワとクッションのように私の体重を押し返す。竹は大した風もないのに右へ左へ揺らめいて、梢が触れ合うたびにサラサラと囁くような音がする。無言のサグメさまと二人きりというのは、実に心臓に悪い。心なしか、さっき食べた団子が胃袋の中で重力を増してるようにさえ思えた。
嫌だよ怖い怖い怖い。もう帰りたい。だって背後から、すっごくサグメさまの視線を感じるんだもん。後頭部がめちゃめちゃゾワゾワする。彼女の視線の終着点をピンポイントで指し示そうなくらい。鈴仙ちゃんに逢えたら、とりあえず一発殴ろう。鳩尾を。抉り込むようなパンチをお見舞いしてやる他にない。月の重鎮を穢土で引き回すプレッシャーたるや、本気で寿命が無くなりそうだ。
てな具合で湧き出す冷や汗を拭き拭き歩いていると、突然、二時の方角からガサリと何かの物音。
誰かな。鈴仙ちゃんかな。と右手を抉り込ませる準備をしていると、いきなり背後からガバと抱き付かれる。
「……うわわッ!?」
すわ敵襲か、と臨戦態勢に入り掛けたところで、私のお腹辺りに見覚えのある袖。グレーの洋服と、真っ白な両手。
ああ、なんだ。どうも私に抱き付いてきたのはサグメさまらしい……と思い至ったところで疑問が湧く。どうして彼女が私に抱き付いてくる? 仮にも月の重鎮だぞ? なんでいきなりハグしてくるんだ?
訳の判らない行動に困惑していると、私にしがみつくサグメさまの右手が、音の聞こえた方を指差す。そっちに目をやると、可愛らしいドレス姿に半透明の翼を携えた幼女の姿が見えた。
「あぁ、なんだ……妖精じゃんか」
何が面白いのやら竹をゆさゆさ揺すぶっている幼女を見つつ、安堵とガッカリが綯交ぜになったため息。音の正体は敵襲でもなく、迎えでもなかったってこと。月には居ないけど、幻想郷じゃそこらじゅうで見る連中の一匹だ。
「サグメさま。音の正体は妖精だったみたいです。襲撃とかじゃないんで、ご安心を」
やれやれと肩を竦めつつ告げる。月の民が地上にいるとありゃ、襲撃に過敏になったっておかしくない。それに鈴仙ちゃん曰く、サグメさまが地上侵略の首謀者だったことは地上の民には割れてるらしいし。
だが、そう告げたにもかかわらずサグメさまは私を離してくれない。むしろ、さっきよりも締め付けが強まってるような……?
「あー! 変な兎だー!」
竹を揺さぶっていた妖精が私を見つけたらしく、こっちを指差したかと思うと走り寄ってくる。そのタイミングで、サグメさまがパッと私から離れてくれた。相変わらず、よく判らないお方だ。
だが、ちょうどいいや。妖精に道を聞いてみるのも悪くなかろう。ちゃんとした答えが返ってくる望みはあまりないとは言え、何も情報がないまま歩き回るよりはマシに違いない。
「何してたのー? こんなところで抱き合ったりしてー」
「いや、抱き合ってたわけじゃないけどね」
「もしかして、アオk」
「それ以上言ったら殴るよ」
「……抱き付き鬼?」
妖精が人差し指を唇に付けながら小首を傾げる。よしよし、言っちゃ駄目なことを訂正するだけの頭はあるらしい。私はちょっぴり屈んで妖精と目線を合わせると、
「永遠亭って場所に行きたいんだ。どこにあるか知ってるかい?」
「エイエンテー? なにそれ? お菓子とかあるのかな?」
妖精が腕を組んで難しい顔をする。どうも言葉のチョイスを間違えたらしい。私は咳ばらいをひとつして、
「竹林の中に、お屋敷――あぁ、いや、お家を見たことはあるかな? 私たち、そこに行こうとしてるんだ」
「竹の中のお家ー? あー、知ってる知ってる。あっちの方にあったよ」
ポン、と手を打った妖精が、三時の方向を指差した。グッド。これで大体の方角が判った。私は妖精の頭をよしよししてやりつつ、
「ありがとう。助かったよ。次に逢ったときには、お菓子をあげよう」
「ホント!? やったー! へへーん、私、スゴいでしょお!」
「うんうん。凄いよ。ほら、もう行ってもいいよ。たくさん遊んでおいで」
「うん!」
妖精の彼女は腰に手を当てて自慢げな表情を浮かべたかと思うと、どこかに向けて飛んで行った。
やっぱり何でも試してみるもんだ。私は妖精の姿が見えなくなってから、
「サグメさま。あっちに行けば良いみた――」
振り向いた瞬間、私の時間が停止する。
なぜなら、竹の根元辺りに蹲っているサグメさまを見てしまったからだ。彼女は私に背を向けて、頭を両手で庇いながらブルブル震えている。そこだけ地震でも起きてるみたく。
……………………。
………………。
…………えっと?
何してるんだ。この月の重鎮。
「あのぉ……サグメさま? どうかしました?」
私が歩み寄った途端、ビクリと彼女の身体が過剰な反応を見せる。切羽詰った両目が私に向けられ、次いで周囲を真剣に見回したかと思うと、彼女はホッとした風に立ち上がっていつもの凛とした立ち姿に戻る。
――いやいやいやいやいや。
そんな今さら、『え? 何もしてませんでしたけど? なにか?』みたいな顔をされても。
「え? え? 何です? 何だったんです? どうしてあんな怯えてらっしゃ――」
「――怯えてない」
サグメさまが私の言葉尻を飲みこむように鋭く告げてくる。ああ、サグメさまってこんな声してたんだ。見た目通りのカッコいい系の声……って、そうじゃなくて。
え? このひと喋って大丈夫なの?
「確かに私は半年近く凍結された月の都にあって、妖精の脅威にさらされ続けた」
「ちょっと?」
「恐ろしい体験だったことは否定のしようがない。妖精とは穢れ。生命そのもの。つまり、我々月の民にとって致命的になり得る。私ひとりだけでその脅威に対処し続けた」
「いや、そこまで聞いてないっていうか……」
「だが、それはあくまで純狐の能力で純化された妖精の脅威だった。普通の妖精のことではなかった。だから私は大丈夫だった。全然、ちっとも、微塵も、まったくもって、妖精が怖いということは一切ない。大丈夫だ。怯えてなどいなかった。怖いなんて思ってはいなかった。だから私は大丈夫だ。心配はない<code:舌禍:Reverse:何の問題もなく永遠亭に着く:to:心配事が大挙して訪れる>」
「…………さようですか」
うわぁ。
……うわぁ。
すごいことを聞いてしまった。というか、こんなに大丈夫さを感じない『大丈夫』を連呼されたの初めてなんだけど。
あれだ。この人、妖精に対するトラウマが半端ないんだ。
月に何が起きてたのか知らなかったけど、鈴仙ちゃん曰く、月は妖精を用いたテラフォーミングのような侵攻を受けてたとのこと。そしてサグメさまは、ひとりでその侵攻を食い止め続けていた。月の民にとっての穢れそのものである妖精たちを相手に。
そりゃ、その恐怖が骨身に染み付いていてもおかしくない。
――が。
私が危惧してるのはサグメさまのトラウマじゃなくて、この人が喋ったことで起きうるリスクの方なんだけど。
「何となく判りました。が、サグメさま。あれだけ喋って大丈夫ですか? 舌禍の能力が――」
「私が言及したのは過去のことについてだった。だから、舌禍の能力は発動しない。たぶん」
「そ、そうですか……なら、安心していいんですね?」
私が言うと、サグメさまはコクリと頷く。たぶん、とか抜かした辺りが怖くてしょうがないんだけど、当人が大丈夫と言うのならそれを信用する他にない。運命が逆転したかどうかなんて、知りようがないのだし。
「それでは気を取り直して……あちらの方に歩いて行きましょう。八意さまの待つ永遠亭はそちらにあります」
先ほど妖精が教えてくれた方を指差すと、サグメさまはもう一度頷いた。そして、何故か私の尻尾を指でつまんでくる。くすぐったい。やめて欲しいと言いたいところだったけれど、それで少しでもサグメさまの恐怖が和らぐなら、と我慢する他になかった。
さて、再び歩き出す。
今度は大体の方角が判ってるのだから、さっきより若干気は楽だった。サグメさまからのプレッシャーも感じなかったし。というか彼女は周囲を警戒しまくってるから、それどころじゃないんだろう。きっと。
だが、歩みは遅々として進まない。
だって、何か物音がする度にサグメさまが立ち止まるんだもん。その都度その都度、尻尾が引きちぎられそうになるので本当に勘弁してほしい。尻尾は敏感なんだ。ぎゅっと握られたり引っ張られたりすると、めちゃめちゃ痛いんだぞ。
サラサラと竹の葉が揺れる音。するとまた、サグメさまが立ち止まる。私の尻尾に痛みが走るのも、これで七回目。駄目だ、埒が明かない。というか痛い。限界。私は首だけで後ろを振り向いて、
「あの……サグメさま? ちょっと尻尾は、痛いので……」
サグメさまがブンブンと首を横に振る。『嫌だ。絶対に離さない』ってことだろう。悲しいことに他の都合いい解釈が全く思い付かない。やれやれだ。この分だと、夜になっても永遠亭に着かないぞ。
などとため息を吐いていると、いきなり上空から、
「――あ、見っけ!」
と、聞き覚えのある声。サグメさまが小さく息を呑んで、私の尻尾から手を離す。
さっきの妖精か? と声のした方を見上げる。すると、青空に小柄なシルエットが三つ。うわ、なんか増えてるとか思いつつ、サグメさまがピュッと竹の根元にしゃがみこむのと、三匹の妖精がこちらに降りてくるのを交互に見やる。
「ねぇねぇ、ホントー? ホントに面白い?」
「うんうん、本当だよー。たぶん、大丈夫だからさ」
「楽しいこと好きー。イタズラ大作戦ー」
三匹の妖精が、かしましくキャッキャウフフと笑い合いながら私の前に降り立った。
激しく嫌な予感。
「ねぇねぇ、また逢ったよー? お友達も連れてきたー。お菓子ちょうだい?」
「トリック・オア・トリートー!」
「主は来ませりー!」
きゃいきゃいとはしゃぎながら、三匹の妖精が私に手を伸ばしてくる。一匹だけイベントを勘違いしてるが、まあそれはいい。困ったのは、まさかさっき適当に言った約束を、こんなに早く遂行されるとは思ってなかったってところだ。
「うーん……まだ、竹の中のお家に着いてないんだよ」
先ほど助けて貰った手前、無下に扱うのもどうか、とそんな風に返してしまう。妖精に目を付けられたというのが困ったことなのは判るが、さっきはお姉さんぽく接してしまっただけに、今になって追い払うのも気が引けた。
「お菓子ないのー?」
さっきの妖精が、またも人差し指で唇に触れつつ小首を傾げる。だが、どこか違和感。唇の端が、いやに楽しそうに歪んでいるように見えた。気のせいであって欲しい。切に。
「あぁ。お家に着いたら、お菓子も貰えるかもしれないからさ。それまで良い子で待てるかな?」
私は震えるサグメさまをチラと見やってから、そう告げる。一匹だけであの怯えようだ。それが三匹に増えれば、彼女の恐怖も三倍とはいかないまでも、それなりに増えているはず。早いところ、帰って貰わねば。
すると、三匹の妖精がひそひそと顔を突き合わせて話し始める。声を落として、聞かれないようにという具合に。しかし、そこは妖精の頭の出来とでも言うべきか、会話の内容は丸聞こえだった。
「やっぱり、お菓子持ってなかったね」
「アナちゃんの言う通りだー。トリック、トリック」
「こっちじゃなくて、あっちだよねー」
「準備はできてるのかなー?」
「きっと大丈夫だよぉ。あの子たち、妖精の中でも強い方だし?」
「巫女にイタズラするくらいだもんねー。お手並み拝見だー」
――マズい。
何だかよく判らんが、とてつもなくよろしくない計画を立てているらしい。こりゃ、もう助けて貰ったとかお姉さんぶってたとか、そんなことを言ってる場合じゃないみたいだ。
「おい、ちょっとお前ら。いったい何を――」
と、私が詰め寄り掛けた途端、
「っきゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!!!????」
突如として響く悲鳴。心臓がマグナムでもブチ込まれたように跳ね上がる。
聞き間違えようもなく、サグメさまの声。
何が起きた!? と彼女が震えてた方を見る。ひそひそと話し合ってたのとはまた違う三匹の妖精が、サグメさまを取り囲んでいた。
馬鹿な、どういうことだ!? 姿も見えなけりゃ、物音も聞こえなかったってのに!?
「うわ、びっくりした……サニーの顔が怖いせいじゃない?」
青いドレスで黒髪ロングの妖精が言う。
「はぁ!? 違うもん! ルナでしょ!」
赤っぽいドレスの金髪ツインテールの妖精が言う。
「ふっふっふ……何を隠そう、私の正体は恐怖の大魔王! ってなに言わすのよ」
白黒ドレスで縦ロールの妖精がノリツッコミをする。
それまで顔を突き合せてた三匹の妖精が、突如として現れた三匹の妖精を見上げながら腰を抜かすサグメさまを見て、きゃあきゃあと手を叩きながらはしゃいで、
「本当に妖精が怖いんだ!」
「おもしろーい! 楽しーい! 人間にイタズラするよりずっと良いね!」
「私、もっとお友達呼んでくるー!」
「呼んじゃえ呼んじゃえー!」
「えっとぉ、そうだ、あの新しい子も呼ぼうよ! きゃはははって笑う子!」
「さんせーい!」
「異議なーし!」
「――ゴルァアアアアア! お前らああああああッ!」
サグメさまが完全に妖精のターゲットにされてしまったらしい、と遅まきながら気付き、集合した六匹の妖精たちを散らしに掛かる。私の怒声もどこ吹く風といった感じで、妖精たちはきゃっきゃと騒ぎながら、
「あはははは! 怒った怒ったー! こわーい!」
「逃っげろー!」
「ちょっとサニー! 早く姿を隠して!」
「言われなくても!」
「ま、待ってよスター! サニー!」
と、飛び去ったりパッと姿を消したりして、一斉に消えてしまう。これ幸い、と私はサグメさまのもとに走り寄った。
「だ、大丈夫ですか! サグメさま!」
「あ、あわわわわわ……」
半泣きのサグメさまは歯の根もしっかり合わないらしく、ガタガタと震えながらしきりに十字を切っていた。いいのか、それは。アンタ、古事記出身の方でしょうが。
「とにかく、行きますよ! アイツらが居ない内に、さっさと永遠亭に向かうんです!」
「まま、待って……こ、腰が抜けて……」
「どんだけ怖がってんですか! あんなんただの妖精です! 月の重鎮ともあろう方が!」
サグメさまに手を差し伸べる。彼女は私の手を握ってはくれたが、ペタンと座り込んだまま立とうとはしなかった。本気で足に力が入らないらしい。こんな体たらくを見たら、この人の部下たちは卒倒するぞ。
私だってぶっ倒れそうだもん。
「ほら! 今すぐ行かないと、もっとたくさんの妖精が来ますよ! 今なら妖精は一匹もいないから――」
「――とでも、思ってた?」
突然私の耳元でさっきの青い、スターとか呼ばれてた妖精の声が囁き掛けてくる。さすがに肝を冷やして声の方を見るが、そこには何もいない。サグメさまが「ヒィ!?」と悲鳴を上げた。
……まさかコイツら。いや、確かにさっき、『姿を隠す』とか言ってた。どうもさっきの妖精三人組は、姿を隠せるらしい。
つまり、まだ周囲には、さっきの三匹の妖精が――
「――えい! タッチ!」
サニーとか呼ばれてた妖精が、元気のいい声と同時にパッと姿を現す。
グッと突っ張った妖精の両手は、紛れもなくサグメさまの胸を鷲掴みにしていて……。
「ッ!? ッッ!! ッッッッ!!!!!!??????」
「あはは。柔らかーい」
「ッッ!! ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!!!!!」
首を絞めつけられたシロサギみたいな甲高い悲鳴を上げて、サグメさまがどこへともなく走り出す。もうその時には、サニーの姿はまた見えなくなってしまっていた。
「あ、ちょ、サグメさまああああああッ!」
とにかくサグメさまを追い掛ける私。向かっていた方向とは全然違う。どうもパニックで何も判らなくなってしまっているらしい。
クソ妖精め! 自分らがイタズラ仕掛けてる相手が何なのか知らないのか! 知ってるわけないよなぁ畜生め! あの人がトチ狂っちまったら世界がヤバいんだぞ!
「ドレミー! ドレミー助けて! 助けてッ! 見てるのよね!? 私を月の世界に戻してッ! うわあああああああああああああん! <code:舌禍:Reverse:稀神サグメを監視していたドレミー・スイートが助けてくれる:to:ドレミー・スイートが槐安通路を開けられなくなる>」
「ちょっとサグメさま! 落ち着いてください! 運命が逆転しちまうからあ!」
とにかく彼女を黙らせなきゃマズい。全速力で彼女を追った私は、なりふり構わず背後から飛び掛かる。
「嫌だああああああッ! やめて!<code:舌禍:Reverse:鈴瑚がサグメを優しく宥める:to:鈴瑚が実力行使をやめない>助けて! 穢れる! 穢れちゃうッ!<code:舌禍:Reverse:通常妖精の影響などでは稀神サグメが穢れることはない:to:稀神サグメを穢す可能性のある敵が訪れる>ひぃいいいいいいいいいいっ!!!!」
「このッ! 良いから黙りなさいって! アンタ、自分の能力のことを忘れちゃ駄目でしょうが!」
ジタバタ暴れるサグメさまから何度かパンチをくらう。月の重鎮とはいえ、こんな体たらくじゃ優しく宥めるのは無理だ。私は我武者羅に、彼女の口を塞ぐ。とにかく彼女に何かを言わせるわけにはいかないのだ。やむを得ない。
「んん! んむぅううううう! んんんんんんんん!!!!!」
私が馬乗りになって手で口を塞いでいるもんだから、サグメさまのパニックたるや目も当てられないレベルだった。ボロボロ涙を零しながら私を跳ね除けようとしてくる。同時に私の手に噛み付こうとしてくるので、一瞬たりとも気が抜けない。
「ほら! 私ですから! 鈴瑚ですよ! 鈴瑚! 妖精じゃありません! ほら!」
サグメさまに顔を近づける。それでほんの少しだけパニックが和らいだのか、彼女がパチパチと瞬きをしてから私の目を覗き込んでくる。暴れたり騒いだりも収まってくれたので、私は彼女の口を塞いだまま、
「落ち着いて。はい、深呼吸。いいですか? あれらは単なる妖精です。触られようが何されようが、アナタが普通の妖精によって穢れてしまうことはありません。そうでしょう?」
問い掛けると、サグメさまはコクリと頷いた。まだ呼吸は荒いけれど、とりあえず理性的な判断ができるところまでは回復してるらしい、とホッとする。
「だったら、また出てきたところで蹴散らせばいいのです。いいですか? 妖精なんて雑魚です。有象無象です。私でさえ片手でぶっ飛ばせるくらいの貧弱な存在です。そんな弱小種族なんぞに、月の重鎮が負けるわけがない。いいですね?」
サグメさまが、今度は二度、頷いてみせた。瞳に理知の光が戻り始めている。うん。何とかなりそうだ。私は無礼を詫びつつ、サグメさまの身体から離れる。彼女がゆっくりと立ち上がり、形だけは凛とした立ち姿に戻る。口元に当てる左手は信じられないくらいに震えていたが、まあ良しとしよう。
「奴らはアナタに無礼を働いた。きっとまだ油断しているでしょう。現れたところで、順次蹴散らしてやればいい。それで何の問題もない。稀神サグメともあろう方が、妖精なんぞに負けるはずがないのです。そうでしょう?」
「その通りだ」
サグメさまが震えつつも頷いてきた。
「――私が妖精なんかに負けるはずがない<code:舌禍:Reverse:稀神サグメは妖精なんかに絶対負けたりしない:to:やっぱり妖精には勝てなかったよ>」
「おおおおおおおいッ!」
何やってんだこの人! 自分を鼓舞したかったんだか知らんがそんなことを言っちゃったりして!! さすがに運命がどう逆転したか私でも判るぞ! 落ち着いたように見えたのはポーズだったってことかよ! ド畜生め!
私が叫んだところで、サグメさまがハッとした風に口を抑える。だが、今さらそんなことをしたってもう遅いのだ。
「何やってんすか! 何やってんすかあッ! よりによってそんな物騒なこと喋ってくれやがって!」
「ごごご、ご、ごめんなさい……でで、でも、やっぱり怖くて……」
「ああああああもう判った! 判りましたから! お願いだからもう喋らないで! 口を開くという機能を忘却して! もういっそのこと唇を針と糸で縫ってください!」
地団太を踏む私。サグメさまは両手で口を塞いだまま、オロオロと周囲を見回していた。
……過ぎたことを責めても仕方がない。これでサグメさまが、妖精を蹴散らすという運命は消滅した。どんな逆転が起きたのかは判らんが、とにかくこの場で頼りになるのは私だけだ。
さっきの妖精の姿は、まだ見えない。周囲に居るのかもしれないし、サグメさまが逃げ回ったときに運よく見失ってくれたのかもしれない。だが、こんなところでウダウダしているわけにもいくまい。私は頭をフル回転させて、これから打つべき手を考える。
とにかく、永遠亭だ。
撤退という選択肢は、たぶん取れないだろう。さっきサグメさまは、槐安通路の管理人たるドレミー・スイートに助けを求めてしまっていた。となると、既にその運命は逆転していると見ていい。何らかの理由で、槐安通路は開かなくなっているはずだ。
私が妖精を蹴散らしつつ、永遠亭に行く。それしか方法はない。我武者羅に逃げ回って妖精に囲まれれば、トチ狂ったサグメさまが何を言い出すか知れたもんじゃないのだ。八意さまと逢えさえすれば、彼女も落ち着くはず。私はため息を吐きつつ、
「いいですか? 私がアナタを妖精から守りつつ永遠亭に向かいます。お願いだから、もう何も喋らないでください。絶対ですよ? フリじゃないですからね?」
コクリと頷いて見せるサグメさま。いまは彼女の理性を信じるしかない。さっき進んでいたルートからは離れてしまったが、一時の方向に進めば戻れるはずだ。
「それじゃ、行きますよ。妖精が出て来たら、私がぶっとばしますから――」
「――HQ,HQ」
不意に、サニーの声。サグメさまがビクリと身体を震わせるが、まだパニックにはなってないようで、何も言わずに周囲を見回し出す。
「どこだ! どこにいる!」
私も彼女と同様、周囲に妖精の姿がないかと探し回る。また姿を隠しているようで、周囲には誰の姿もない。だが、声が聞こえたからには近くに居るはずだ。
「――こちらHQ」
今度はルナとか呼ばれてた妖精の声。サニーの声よりも遠くから聞こえてきた。声の聞こえた方向からあたりを付けようとするも、ガサガサと竹の葉を踏み荒らす音に紛れてしまう。ひとつところに留まらないようにしているらしい。こいつは厄介だ。
「――対象に接近中。確認は完了した」
「――首尾は?」
「――白だった。白無地のパンツだ。色気の欠片もないな」
「!?」
まさか、とサグメさまの方を見る。顔面蒼白な彼女の奇抜なスカートが、ガバと後方でまくり上げられている光景が飛び込んできた。
相変わらず、妖精の姿は見えない。サグメさまのスカートが重力に逆らっているような、奇妙極まりない有様だ。
だが――
「そこかぁああああッ!!!」
即座に弾幕を発射する。人差し指から放った弾丸はサグメさまの足の間を抜けて、何もない空間でピチュンと弾けた。
「――ふぎゃッ!?」
ビンゴ。活発そうな妖精がパッと姿を現し、グルグルと目を回しながらその場に倒れ込む。つーか、さっきから何なんだこの妖精は。イタズラ好きったって、そっちの意味じゃないだろ。絶対に。
私はサニーから目を離す。さっきの会話から察するに、こいつらの姿が見えなかったのはこの妖精の仕業だったようだ。妖精の思考なんて単純なもんだ。味方がやられたとありゃ、次に彼女らが取る行為は――
「ちょっとサニー!」
「あわわわ……スター! サニーを助けなきゃ!」
またしてもビンゴ。スターとルナの二匹が、慌ててこちらに駆け寄ってくる。サニーがやられたことで、自分らの姿が隠れていないことにも気付いていない様子。
「おらあっ!」
慌てた妖精二匹の眉間へ間髪入れずに弾幕を叩き込む。ピチュン、ピチューン、ってな具合でスターもルナもぶっ倒れた。
「……ふぅ。サグメさま、これで安心です」
彫像みたいに固まったままの彼女に微笑みかける。こいつら三匹は、妖精側でもそこそこ実力のある奴らだったようだ。何より、姿を隠すという能力は厄介極まりなかった。どこから敵が襲って来るかわからないというのは、かなりの脅威だ。
しかし、もう安心。強敵は消えた。だいたい、敵さんはどう足掻いたところで妖精なんだ。落ち着いて対処さえすれば、負けるわけがない。
「……サグメさまー? おーい?」
微動だにしない彼女の前でヒラヒラと手を振る。それでようやくハッとした風に彼女が私を見てきた。サグメさまはそれから、キョロキョロと周囲を見回し、
「……ここはどこだ? 何故お前が居る? お前は穢土に残ったのでは?」
「記憶を飛ばしてらっしゃる……」
ため息。妖精からの襲撃が、ここまで彼女を追い詰めてしまうとは。だがまあ、パニックになってあーだこーだと喚かれるよりは百倍マシだ、と気を取り直して、
「とりあえず、喋らないでくださいね。永遠亭に向かいますから」
「ん……あぁ……」
サグメさまが頷く。記憶が飛んでるなら飛んでるで構わない。とりあえず、落ち着きは取り戻しているようだから。目を回す妖精三人娘を置き去りにして歩き出す。サグメさまはそんな彼女らを見て何か言いたげだったが、自分の能力故か思い出してはいけない記憶だと考えてか、何も言わなかった。
ステルスを使う強敵は倒したが、いまだ完全に窮地を脱したわけではない。妖精は友達を連れてくると言っていた。つまり、第二波、第三波の襲撃があると考えるべきだ。順次、倒していけばいいだけなのは判るが、サグメさまがパニクってたときの言葉も気に掛かる。妙な具合に運命が逆転していない保証はない。気を引き締めよう。
とか考えた矢先に、
「――突撃ーーーッ!」
なんて喧しい声が上空から聞こえる。見上げれば、十匹近くの妖精がこちらに飛び掛かろうとしている光景が飛び込んできた。
来たか、と弾幕の準備。妖精の弱さは体験済みだ。端から撃墜してやれば、それで問題はない。こちとら仮にも元軍人なんだ。妖精なんぞにやられる道理はない。
「~~~~~~ッ!」
サグメさまが声なき悲鳴を上げる。やはり妖精恐怖症は健在なご様子だ。しかし、ぶっ倒してしまえば問題はない。私は彼女の方を振り向いて、
「ご安心を。私が端から叩き落してやりますよ」
「り、鈴瑚……」
恐怖と期待が綯交ぜになったような視線が向けられる。ここで良いところを見せておかにゃ、またぞろ彼女がパニックになりかねん。そういった意味では、私も必死だ。
「――月見酒『ルナティックセプテンバー』」
というわけで、最初から狂気的(ルナティック)にいかせて貰うことにする。周囲に無数の輪状弾幕を展開し、一気に破裂させる。結果として現れるのは、蟻の入り込む隙間すらない弾幕の嵐。馬鹿正直に突っ込んでくる妖精なんぞに、避けきれるわけはない。
――はずだった。
だが妖精たちは突如として機敏に動き回る。微かな隙間を見つけて身体を滑り込ませ、目にも留まらない速さで弾幕を避けまくる。一匹たりとも、私が展開した弾幕に被弾することなく。きゃははははは! なんてイカれた笑い声なぞ上げつつ。
「あぁ!? 何だありゃ!?」
自分の見ているモノが信じられない。こちとらほとんど全力を出してるんだぞ。妖精の一匹一匹が、地上の異変解決屋レベルの回避行動をするなんてありえない。相手は雑魚のはずだろう。だったらどうして、私の弾幕が避けられるんだ。
「――きゃはははは!」
一瞬だけ、私の弾幕の向こうに奇怪な格好の妖精が見えた。
アメリカ国旗みたいな服を纏って、松明を片手に掲げる金髪少女。なんだありゃ、と首を傾げかけた途端、ドサリと背後で妙な物音。
「あ、ああ、あれは……」
またも腰を抜かしたらしいサグメさまが、その場に尻餅を着いたままにガタガタ震え出す。私にはその理由が判らない。だが、妖精どもが私の弾幕を避けまくっていることといい、なにかとんでもなく良くない局面に立たされつつあるのは判った。
「……っ! この!」
弾幕を展開したまま、妖精どもに向かって弾丸を撃ちこんでいく。隙間の僅かな耐久弾幕に加え、高速自機狙い弾。こいつは弾幕ごっこじゃ完全に反則だ。さすがに避けきれないと見えて、一匹、二匹と撃墜されてくれる。
反則技に頼ったおかげで、最後の一匹も何とか叩き落す。それと同時にスペルブレイク。竹林から見上げる空を隠していた私の弾幕が掻き消えると、さっきのピエロみたいな少女が爛々と輝かせた目でこちらを見ながら、
「月の民! 月の民月の民月の民月の民月の民月の民月の民月の民ィ! きゃは! きゃはははは! ねぇねぇええええ!!?? なーんでこんなとこにいんのォ!? あたいと一緒かしらぁ! 月の生活が嫌になっちゃったぁ!? ピンク色の電気羊が雨と一緒にギターへ染み込むみたいにさぁ!? きゃははははぁ!」
アカン。
あれはアカン。完全にイっちゃってる人だ。
私の本能が全力で警鐘を鳴らしている。あれと関わり合いになるのはマズいよって。何とかして逃げ出さないと未来はないよって。話が通じる相手じゃないよって。
――だが、と私は腰を抜かすサグメさまを見やる。
ここで私が逃げるわけにはいかない。怯える彼女に頼れるところを見せにゃ、冗談じゃなく世界がヤバいのだ。
きっとアイツは、サニーやらスターやらルナやらよりも強い。しかし妖精なのは間違いなかろう。なら私が全力で戦えば、勝てないわけがない。
闘争心。己の中の野性を燃やせ。頭はクールに。心はヒートに。月に居たときでさえ、出したことのない本気の本気。それでもって、あの狂った妖精を打破する他にない。
「――お前が何者か知らないが」
帽子を被り直し、口の端に笑みを携えてやりながら上空の妖精を見上げる。感情の振りきれたギラギラの瞳が、私に向けられるのが判った。
「妖精なんぞに好き勝手やられて堪るもんか、だわ。穢れたとて、私は月の軍人だ。見てな。そのヘラヘラした顔を、すぐさま泣き顔に変えてやるよ」
「月の兎ぃ……!? お餅ペッタンペッタン!? きゃははは! アンタを泣かして遊べば、友人さまもご主人さまも喜ぶのよねぇ!?」
奇怪な妖精が、火の付いたままの松明をグルングルンとバトンのように回しながら、げらげらと笑う。私はギュッと拳を握り、開戦を間近に控えてピリピリとひりつく空気で精神を高揚させた。
「――負けたときの言い訳を考えときな。その、主人と友人とやらに説明する奴をさ」
ポキポキと指を鳴らし、背後のサグメさまに振り返る。ガタガタと震える彼女はしかし、私をしっかりと見据えていた。
私は彼女に微笑みかける。大丈夫。アナタに危害を加えさせやしません。そんな意を込めて。私の意図は伝わったのだろう。彼女は唇から少しだけ安堵を滲ませて、
「――勝て! 鈴瑚! お前の全身全霊をもってして、あの妖精を叩きのめせ! <code:舌禍: Reverse:全力を出した鈴瑚が、辛くもクラウンピースに打ち勝つ:to:クラピちゃんに勝てるわけないだろ相手は五ボスだよ?>」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおいッッッッ!!!!!!!?????」
何してんだこの人はーーーーーーーーーーーーッ!!??
ハイ逆転しました! 運命が完全に逆転しちゃいました! 残念! 鈴瑚は勝てないことが確定してしまった! おお、鈴瑚よ、戦う前から負けを確信するとは情けない! って、うるせー!! 馬鹿!! 完全に戦うテンションでカッコつけちゃった私が馬鹿みたいじゃんかああああああああ!!!
「馬鹿かーーーーーーーーーーーッ!! 何してんの何してんの何をしてくれちゃってんですかこの似非セフィ○スがあッ! アンタ自分の能力を何だと思ってんだこの局面でええええええええ!!!」
「ごご、ごめんなさいごめんなさい! で、でも完全にそういう空気だったわよね!? 私が応援して、アナタが奮い立つみたいな流れだったわよね!?」
「人選を考えてくださいよおおおおッ!! アンタ自分がそういうポジションじゃないって判ってるでしょーーーーーーーッッ!!??」
アカンアカン! もう駄目だこりゃ! 戦うって選択肢が潰えた! もういっそのことこの人置いてっちゃうか! 置いて逃げちゃうか! そっちの方がいいんじゃないかなもう! パニクる運命逆転屋さんとか見え見えの爆弾でしかないもんなぁ!
「――きゃはははは! 私を差し置いて面白いことしてるわね! 許せない! 私も混ぜてよーッ!」
星条旗の妖精がグルン、と松明を振るう。その途端、レーザーやら星形弾幕やらがグワッと上空に展開された。それはまるで小惑星の爆発。眩いばかりの弾幕が視界の全てを埋め尽くし、信じられないくらいの速度で私たちに迫ってくる。
……あれ? もしかしなくても私たち、死ぬんじゃね?
「ヤバいヤバいヤバいヤバい! サグメさま逃げますよ! 脱兎のごとくに逃げます! もうそれしか方法がない!」
あわあわとパニクるサグメさまの手をグイと掴み、どことも知れない場所へと走り出す。彼女の腰が現在進行形で抜けてしまっているせいか、半ばどころじゃなく彼女を引きずる形になる。しかし火事場の馬鹿力って奴のおかげか、それでもそれなりの速度で逃げることはできた。
「痛い痛い痛い! 鈴瑚! 物理的に私が穢れていく! 私の服に泥と葉っぱが!」
「言ってる場合か! 嫌なら自分の足で走ってください! ていうか喋らないで!」
「鈴瑚、飛んで逃げられない!?<code:舌禍:Reverse:鈴瑚と稀神サグメは飛行能力を持つ:to:不思議な理由で飛べなくなっちゃいました>……あ」
「ほらあ! そういうことになるからああああああもおおおおおおおおおお!!」
首を絞めるとかブン殴るとかでサグメさまを黙らせたい衝動に駆られるが、残念ながらそれを実行している暇はなかった。背後の竹がメキメキと音を立てて折れたり、地面が爆発するような音がひっきりなしに聞こえるからだ。
マジで何なんだあの妖精は! 妖精に許されるレベルを超越してるぞ! これじゃサグメさまが運命を逆転させてなかったとしても勝てるかどうか! もしくはさっきの逆転よりも前に何か変な具合で弄られてたのかもしれんが、考慮したところでどうにもならん!
とにかく、逃げることだ。逃げまくることだ。今はそれ以外にどうしようもない。
「きゃははははは!! きゃは! きゃはは! ねぇねぇ!! 逃げないでよぉおお!? あたいと遊ぼうよおおおおお!!?? きゃははははは!!!」
「いやああああああ!! 来ないで! 来ないでぇえええええッ!!<code:舌禍:Reverse:クラウンピースが疲れて帰る:to:クラピちゃんのスタミナは無尽蔵なのです!>ひいぃいいいいいいいッ!!」
国旗妖精が変な薬でもキメたみたいな笑い声をあげながら、エゲつない弾幕をブチ撒けてくる。その爆音に負けず劣らずの音量で、サグメさまが甲高い悲鳴を上げまくっていた。この世界にまともな奴が私だけみたいな気分になる。
どうする私。このままじゃジリ貧……っていうか、どう考えても蹴散らされるぞ。こちとら全力で逃げてて体力の限界も近いってのに、あちらさんはスタミナが切れる予兆すらない。
戦って勝つ運命は塗り潰された。
逃げても逃げても、相手の追跡が止まない。
これって私たち、詰んでない?
どうしろってんだ。戦っても駄目、逃げても駄目ときちゃ、全面降伏しかないのか? あの狂った妖精がジュネーヴ条約を理解しているなんて思えないんだけど。ヤバい。そろそろ体力の限界。サグメさまを引きずって走るなんて無理があった。両足は痛いし、サグメさまを掴む腕が悲鳴を上げてる。たぶん、半狂乱のサグメさまが私の腕に爪を立ててるせいだ。めっちゃ痛い。
やはり、サグメさまを捨てて逃げる他にないのか。
そんな後ろ向きな思いが去来した途端、私の右足に何かが引っ掛かる。
「――うわわっ!」
足がもつれたせいで、私はその場に転んでしまう。地面に手を突こうとするとっさの反射神経。しかし、突いたはずの手は地面よりも下へズボッと抜けてしまう。
「ッ!?」
何が起きたのか判らない。走っていた。そして転んだ。なら、バランスを崩した私の身体は地面に叩き付けられるはず。だが、私の身体はサグメさま諸共、頭から地上の重力に従って地面の中へと呑みこまれる。私たちが居た場所から、すさまじい爆音と圧倒的な熱が湧き上がるのが判った。
「っぐぁ!」
不可思議な浮遊の時間は、そう長くは続かなかった。身体がひんやりとした土に叩き付けられる。意識がぶっ飛んでしまいそうな痛み。
「……げふっ!?」
何が起きたかと自問するよりも早く、上から降ってくる衝撃。サグメさまが私の上に落下したらしい。これで死んでたっておかしくない。そう思えるってことは、どうやらまだ死んではいないらしい。そんなことを他人事みたいに考えた。
「痛い痛いッ! イヤ! もうイヤだよぉおおお! 帰る! もう帰りたい! 誰でもいいから無事に帰らせて!!<code:舌禍:Reverse:稀神サグメと鈴瑚が用事を終わらせて無事に帰る:to:稀神サグメも鈴瑚も、無事では竹林から帰れない> 助けて八意さま!<code:舌禍:Reverse:物音に気付いた八意永琳が様子を見に来る:to:八意永琳は来ない。現実は非情である>神様仏様! 月の兎たちぃいいいいいい!!<code:舌禍:Reverse:稀神サグメの帰りが遅いことを心配した月からのコンタクトがある:to:月の兎が助けに来ることはない。現実は(以下略)> 助けてぇええええ! ふわあぁあああんッ!」
「サ、サグメさま……ちょっと、黙って……!」
私の上で子どものように泣くサグメさまに、蚊の鳴くような声で懇願する。たぶん今ので八意さまはもちろん、神様仏様や元同僚の兎が助けに来てくれる可能性も無くなった。この人がパニクるたびに、どうしようもない境地へと叩き込まれてしまう。泣きたいのはこっちだぞ畜生。
死にそうなくらいの激痛に苛まれつつも、周囲を見回す。土しか見えない。どうも落とし穴のトラップに嵌ってしまったらしい。これも妖精の仕業か? いや、アイツらにそんな知能があるとは思えない。だが、サグメさまの能力の影響かもしれないので、何とも言えない。重要なのは、このトラップを仕掛けた奴について考えることじゃなく、あの国旗妖精がどうなったかだ。
「ひっく……うぐ……うぅううう……ひぐ……ふえぇ……」
サグメさまの嗚咽のせいでよく判らないけれど、さっきまでの爆発音やら何やらは聞こえなかった。あの妖精は私たちを見失ったか? はたまた、さっきの爆発に巻き込まれて木端微塵になったと思ってくれたか? もしくは周囲を探してるのか? 何にせよ、サグメさまの泣き声を聞き付けられたらヤバい。
「ちょっと、サグメさま……! いまは泣いてる場合じゃ……!」
言いつつ彼女のお尻の下から抜け出そうともがく。土を掻くように両手をバタバタさせてたところで、右手の指先が妙に硬質な感触を伝えてくる。何だこりゃ? 石か? そんな風に考えようとした途端、カチリと音がして、指先が一センチほど沈んだ。
ははーん。判った。
これ、何かのボタンだ。
まったくもって嫌な予感というのは当たってくれるもので、その変なボタンを押してしまった途端に、私たちの身体が急激に上へと跳ねあげられる。落とし穴の底から姿を現した網によって、釣り上げられるみたいに。
「いやあああああああッ! 今度はなに!? なんなの!? もう嫌ぁあああああああああああッ!!」
網に絡め取られた私たちは、気付けば落とし穴から五メートルほど上の地点に垂れ下がっていた。網は竹か何かに吊り下げられているのか、ビヨンビヨンとヨーヨーみたいに上下する。さっきからうつ伏せのままな私の目には、近付いたり遠ざかったりを繰り返す地面が丸見えで、実に心臓に良くない。
なんだ。なんなんだこの竹林は。
もう誰か助けてくれ。マジで。
「――あ、居たぁ」
国旗妖精の嬉しそうな声が、私たちの上から聞こえてくる。ああ、万事休すだこれは。こっちは訳の判らんトラップのせいで身動きすらとれないというのに。
「何してんのー? 楽しそうねぇ、それぇ! きゃははは!」
網の向こうから私たちを見る国旗妖精の顔が、それはそれは楽しそうに歪んでいる。ピエロみたいな彼女を間近に見たサグメさまが「ヒィ……っ!」と悲鳴をあげた。
もう私たちに打つ手なんか、ひとつだって残ってない。
「きゃはははは! 月の民ぃ捕まえちゃったぁ! どうしよっかなぁ!? どうしちゃおうかなぁ!? とーりーあーえーずー……こうだぁ!」
国旗妖精が空中でほんの少しだけ身体を引き、私たちに体当たりをしてくる。網で吊られている私たちは、当然のことながら趣味の悪すぎるブランコみたいに大きく左右に振り回される。
「きゃあああああああああああああ!! やめて!<code:舌禍:Reverse:クラウンピースが網を揺らす遊びに飽きてやめる:to:クラウンピースがこの遊びを気に入って、もっと続ける> やめなさい! もうイヤだあああああああッ!」
「きゃはははは! それそぉれ! もっと泣けー! もっと叫べー! ほぉらもっともっと揺らしちゃうわよー! きゃははっ! きゃははははははは!!」
妖精が体当たりを仕掛けるたびに、網の揺れは強くなるばかりだった。私の視界に空が映ったかと思えば、瞬く間に地面が映り、そして笑い転げる妖精の顔が映る。何かの拍子に網ごと地面に落っこちる気がして、私は無様にも声すら出せない有様だった。元気に泣き喚いているのはサグメさまばかり。
「イヤ! イヤァアアアアアアアアアアアッ! お願いだからもうやめて!」
「きゃはははははは! 月の民が泣いてる! 月の民が泣いてるよぉおお! きゃはははは! 楽しい! 気持ちいいいいいいいいいいいい! ねぇねぇえええええ! 見てますかぁ!? ご主人さまぁ! ご友人さまぁ! きゃははははははははははは!」
「……っこの! 調子に乗りやがって妖精ごときが! こんなことしてただで済むと思うな!?」
「きゃははは! 聞こえなーい! 兎なんか怖くないよーだ! アンタも泣いてよぉ! 涙で顔をグチャグチャにしながらあたいに許しを請えー! きゃはははははは!」
「っく……!」
歯軋り。悔しいが、こんな体たらくじゃ虚勢を張ったって効くわけがない。景色が目まぐるしく変わって、重力の方向があちこちに向いて、酔ってしまいそうなくらいだった。
どうすればこの状況を抜け出せる?
何も策はないのか?
まさか、もうこのまま、この妖精から良いようにされるしかないのか……?
これまで張りつめていた気力が、弱々しく萎えていく。捨て鉢な気分、諦めにも似たマイナスの感情。そうしたどうしようもないやるせなさが、私の中でどんどんその大きさを増していく。
――もう、駄目だ、と。何もかも諦めて、目を閉じようとした、そのときだった。
ふと、振り回される視界の片隅に見覚えのないシルエット。ピンクのワンピースに、あれは……ウサ耳か? そんな少女が私たちを見上げている光景が、ほんの一瞬だけ私の視界を通り過ぎる。
「――うーわ、なにあれ。怖い」
サグメさまの悲鳴と妖精の狂った笑い声を掻き分けて、ドン引きしたような少女の声。ウサ耳の少女……イーグルラヴィの誰かか? それとも、月から助けでもきた? いや、そんなわけはない。助けが来る運命は、サグメさまがことごとく逆転させた。
それじゃ、あれは誰だ……?
いや、誰だって構わない。
このまま妖精の玩具にされ続けるよりは、ずっとマシだ。
「――おい! そこのアンタ! 助けてくれ!」
グルグルとダウジングの振り子みたいに振り回されつつも、助けを乞うてみる。視界が定まらないせいで、ウサ耳の少女に声が届いたかどうかは判らない。
だが、少なくとも国旗妖精にはしっかりと聞かれていたようだ。嬉々として私たちに体当たりを続けていた妖精が、体当たりをやめ、地面の方へと視線を向ける。慣性の法則に従って私たちの揺れが少しずつ収まり、やがてウサ耳少女が視界から外れなくなる。
「兎だー! ねぇねぇ! アンタも月の兎ぃ!?」
国旗妖精が松明を振り回しながら、少女に問いかける。この隙に何とか抜け出せないかともがいてみるが、網が私たちを解放してくれる予兆はない。私の上のサグメさまは過呼吸にでも陥ってしまったのか、悲鳴とも嗚咽ともつかない呼吸を繰り返していた。ほんとこの人、竹林に入ってから良いところないな。
「地上の兎だよ」
少女が面倒臭そうに国旗妖精に返す。私たちに視線を移した彼女は、ははんと小馬鹿にするみたいに鼻を鳴らして、
「性懲りもなく罠にかかる鈴仙ちゃんを笑いに来たってのに、なんだかヤバげな雰囲気だね。網で捕まった奴らの前に、松明を掲げるへんちくりん? いつから迷いの竹林は、密着! アマゾンの神秘! ってな具合のディスカバリーチャンネルの舞台になったのかな?」
「私らは月からの使者だ! 八意さまに逢いに来た!」
状況が判ってないらしい――というよりは妙に余裕な態度の地上の兎に告げる。
少女の口から鈴仙ちゃんの名が出た。つまり、彼女は鈴仙ちゃんの知り合いの兎だ。となると、永遠亭の関係者である可能性が高い。永遠亭側は、もうサグメさまが来ることを知っているはず。
「あーらら。そりゃ、マズい」
こっちの話は通じてくれたらしく、少女はやれやれと肩を竦める。彼女は周囲の様子を確認でもするみたいにキョロキョロと視線を移ろわせると、
「それじゃ、アンタらを放って帰るわけにはいかないね。首を突っ込んだらヤバそうだったから、帰りたかったのに。なぁ、アンタら。お師匠さまには、因幡てゐが助けてくれたと言ってちょうだいね? ああ、因みに、その罠を仕掛けたのは私じゃないからね? 嘘じゃないよ? 私は嘘なんか吐いたことがない。それもこれも全部、乾巧って奴の仕業なんだ」
いや、嘘を吐くな。誰だそれは。現れたタイミングとか最初の口ぶり的にアンタだろ。どう考えても。
なんて水を差してる場合じゃないとか思ってたら、
「アンタは私の邪魔をする気なんだ!」
と、ルナティック合衆国国旗が地上の兎――てゐに敵意を向ける。
妖精の域を脱したコイツの強さを、私たちは身を持って体験している。八意さまの関係者とは言え、地上の兎に勝てる相手とは思えない。このままじゃ、せっかく幸運にも訪れてくれた助けが無駄になっちまう。
考えろ、考えろ。サグメさまが逆転させまくった運命に縛られている今、私たちの最適解とは何だ。絡まった運命の糸を選り分けるように、現状を解き明かせ。八意さまを呼んで貰う? 駄目だ。あの方がやってくることは、きっとない。てゐとやらが、国旗妖精と真正面から戦うこと。それは避けなくちゃならない。
なら、兎にも角にも、私たちを拘束から解いてもらうこと。
そして、永遠亭へと案内してもらうこと。
それしかない。それがベストだ。永遠亭にさえ着ければ、何とかなる運命はまだ逆転していないはずだ。その目的を達成するまで、サグメさまに黙ってもらわにゃならんが……。
「――鈴瑚……もしかして、アレって……?」
スンスンすすり泣きながら、サグメさまがポツリと呟く。ヤバいヤバいヤバい、サグメさまがてゐを見つけちまった。またぞろパニックで何か言い出す前に黙らせないと!
「サグメさま、いいですか!? 落ち着いて! そうですそうです! 見ての通り助けに来てくれた兎です! もう大丈夫ですから、絶対に何も言わないでください! フリじゃないですからね!? ここで運命が逆転したら、もう終わりですから!」
「そこの兎さん! 私たちを助けて!」
「終わったあああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!!」
聞けやーーーーーーーーーーーーーッ!!!!! 私のアドバイスを! 私の! 私の! 私の話を聞けぇーーーーーーーーッ!!!
駄目じゃん! もう駄目じゃん! あの兎が私たちを助けてくれる運命までもが潰えた! はい! 私たちの新たな転職先が決まりました! 妖精の玩具です! チャチャチャ、玩具のチャ・チャ・チャ!!!
「何してんすかーーーーーーーッ!!!! 助けを求めるな! あの兎について言及すんな! もう運命引っ繰り返ったじゃないですかあああああああああああッ!!!! このワンピース手羽先女がーーーーーッ!!!」
「――鈴瑚」
サグメさまが、いつになく真剣な声音で私の名を呼んでくる。
……まさか、何か策があってワザワザ助けを求めるような真似を?
そっか。そうだよね。サグメさまが、何度も何度も同じような失敗を繰り返すわけがない。もしかしたら、てゐと国旗妖精の力の差を見越した上で、敢えて言及し、てゐが我々を助けることができないという運命を逆転させたとか――
「ごめんなさい」
「期待して損したあああああああああああああああああああああああああッ!!!」
学習能力ゼロなのかアンタは! ここまで繰り返したらプラナリアでも学習すんぞ! まして自分の能力でしょうが!! トラウマごときに振り回されてどうすんだマジで!!
はーい。私たちの旅路はこちらで終点になりまーす。お疲れさまでしたー。今後の余生は、きゃはは妖精から体当たりされたり突っつかれたりで、いっぱいいっぱい穢される素敵な日常が待ってまーす。妖精以下という斬新な身分を楽しんで逝ってねー。
私、泣いて良いかな?
「――なんか、勘違いしてるみたいだけど」
国旗妖精とにらみ合いをしていたらしいてゐが、ため息を吐いてから告げてくる。眼下では一触即発な空気が流れつつあったが、もう諦めてしまった私にとってはどうでもいい。
「私は何もしないよ。私が助けるんじゃない。アンタらが勝手に助かるんだ。まあ、見てなって。ここから先は馬鹿馬鹿しくなるくらい、アンタらにとって都合の良いこと『しか』起こらないから」
「……は?」
どういう意味だろう。てゐが言わんとしていることは、よく判らなかった。運命なんてものは気の持ちようでしかないんですよー、みたいな楽観的な自己啓発だろうか。そんな慰めなんて、サグメさまの舌禍の前じゃ通用しないんだけど。
「月の民は渡さないんだからねー!!」
国旗妖精が、ブンと松明を振るって弾幕展開の準備に入る。狙いはもちろん、私たちを見上げてニヤニヤしている因幡てゐ。
「笑ってられるのも今の内なんだからね!! アンタも泣き叫べー!!」
国旗妖精が、バトンのように松明をクルクル振り回す。空中に展開される魔法陣。そこから飛び出すのは、私たちを散々追い掛けてきた高密度のレーザー。果たして地上の兎に、それを避けるような技量があるのか――
そう思っていた途端に、何の前触れもなく突風が吹く。
燃え盛る松明の炎が、私たちを吊り上げていた縄に引火する。
「――え?」
火が点いた縄一本で、私とサグメさまの体重を支えられるはずもない。プツン、と音がして私たちは地上へと落下していく。思わず悲鳴を上げる私とサグメさま。突風に煽られたせいか落下地点は落とし穴からズレて、『たまたま』密集した竹の葉のクッションの上に落ちた。
「――ぐえッ!」
とはいえそれなりに位置エネルギーはあったわけで、地面にぶつかった衝撃は、なかなかのものだった。だが、あの高さから落ちて骨の一本も折れていないのは僥倖だろう。きゃーきゃーわーわーと喚くサグメさまの下で、なんとか体勢を立て直そうとする。
「あー! 月の民が!」
さすがの国旗妖精も、突如として降りかかった偶然の積み重ねに慌てふためく。彼女はてゐから視線を逸らし、私たちに松明を向けて、
「フン! 地面に落ちたくらいじゃ、あたいからは逃げられないもんねー! 網から出る前に、丸焼けになっちゃえ!」
さっきまでてゐに向いていた魔法陣が、こちらに照準を定める。さきほど燃えたのは、私たちを宙吊りにしていた縄の一本だけ。つまり、網から逃れられたわけじゃない。レーザーが射出されるより前に、抜け出さないと……
「おやおや、突風に流されちゃったか。可哀想に」
てゐが頭の後ろで両手を組み、見世物でも見物してるみたいに言う。なんのこっちゃ、と彼女の視線を辿る。風に任せるがまま中空を滑ってくるのは、どうも看板か何かのようだった。
んなアホな。
この竹林で竹に引っかからず、ここまで飛んでくるなんてどんな偶然だ。
「――ぎゃあ!!」
看板が、国旗妖精の後頭部にヒットする。もはや意味が判らな過ぎて、変な笑いさえこみ上げてきた。突然の痛みに怯んだか、彼女が展開していた魔法陣が消える。松明を持ったまま、半泣きで後頭部を抱える妖精は、しかし闘志を無くしたわけじゃないようで、
「いったぁい……! うぐぐぐ……! こんなことで泣くあたいじゃないもん! 月の民をやっつけてやるんだから!」
「仕掛けた罠はひとつだけじゃないんだよねー」
てゐが手頃な竹の根元に腰を下ろし、足を組みながらウキウキと言う。私は網の隙間から、彼女の視線を観察していた。どうもてゐは、先ほど妖精の頭を強打した看板の行く先を眺めているらしい。不自然な風は『霧雨魔法店』と書かれているらしい看板をゴロゴロと転がし、地面のとある地点に激突する。
その途端、地面が大爆発を引き起こした。吹き荒んでいた風を押し返すほどの爆風と、目の奥が痛くなるほど眩い爆炎。国旗妖精をも含めた私たちが、思わず呆然と立ち尽くす。
「えぇー……」
地雷か? あれ? 怖ッ。イタズラで済むレベルを超越してるぞ。普通に踏んだら死ぬじゃんか。ある意味、私たちが掛かったのが落とし穴と釣り上げ網だけで幸運だったのかもしれない。
爆風によって竹の梢の向こう側まで打ち上げられた看板が、錐揉み回転をしながらこちらに戻ってくる。あぁ、なんとなく、これからどうなるのか予想がついた。ご愁傷様って感じだ。
思った通り、看板は国旗妖精を目掛けて一直線に降ってくる。しかし、看板の行く末を見ていたのは妖精も同様。さすがに彼女が見えている飛来物に対応できないわけもないようで、
「あたいの頭をぶった悪い看板め!! 二度もぶつけられて堪るか!!」
グルン、と松明を回した妖精が、弾幕を発射して看板を打ち落とす。哀れ、看板はレーザーに貫かれ、星型弾にもみくちゃにされ、バラバラになる。危機を切り抜けた、とばかりに妖精が胸を張り、ドヤァとばかりに笑みを浮かべた。
その瞬間、
「――ウチの看板に何しやがる!!」
遠くから聞き覚えのある恐ろしい声。突風なんか比じゃないくらいの速度で飛び込んでくるのは、懐かしい白黒のシルエットだった。猛スピードで突っ込んで来た箒乗りの魔法使いが、ドヤ顔妖精に激突する。
「っきゃあああああああッ!!??」
跳ね飛ばされた国旗妖精が上空に吹っ飛び、先ほどぶっ壊された看板よろしくクルクルと落ち葉のように回転しながら堕ちてくる。
「今は取り込み中だ!! 後でもう一回ぶっ飛ばしに来るからそこで待ってろ!」
言って、彼女を轢いた白黒の姿は、あっという間に竹林の向こうに消えていった。
とか思っていたら今度は、
「――魔理沙さん! まだ勝負は終わってませんよ!! 看板が飛んでったくらいで逃げないでください!」
とか叫びつつ、白黒が飛来した方向からエキセントリック緑巫女の姿。ああ、いきなりの突風はコイツのせいだったか。どうも弾幕ごっこの最中だったらしく、彼女はレーザーやら星形弾幕やらを、やたらめったらに撒き散らしながら白黒の後を追う。
白黒が行ってしまった方向は、向かって左。
右からやってくる緑巫女が弾幕を放つ方向もそちら。
その両者の間に、国旗妖精が降って来るわけで――
「ギャアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!????」
当然、緑巫女の弾幕は、国旗妖精にヒットする。わぁ、もう見てらんない。ちょっと可哀想になってきた。さんざっぱら被弾の憂き目に逢った妖精が、地面に落ちてからピクリとも動かなくなる。
「なんなんですか!? 邪魔しないでくださいよ!! 魔理沙さんをやっつけたらまた来ますから、そこで待っててくださいよ!?」
緑巫女は、弾幕ごっこに巻き込まれた哀れな妖精に無慈悲な言葉を吐き捨てて、白黒の行ってしまった方へと消えていく。それに伴って、吹き荒んでいた風が止んだ。
怒涛の勢いで押し寄せたご都合主義の数々に、私の頭じゃ着いていけない。あまりに幸運が過ぎると変な笑いを浮かべて呆気にとられる他にないんだなー、なんて。なんだか他人事のように感じた。
「――さて」
どうやら再起不能になったらしい国旗妖精を眺めていたら、どっこらしょ、と立ち上がったてゐが尻の辺りをポンポンと叩いて言う。
「永遠亭まで案内しましょうかね」
「……アナタは、いったい……? 運命を操れるとでも言うの? 地上の兎に、そんな力が……?」
やっとのことで、(マジ、やっとのことで!) 落ち着きを取り戻してくれたらしいサグメさまが、平然顔で私たちを見るてゐに問いかける。
それを受けたてゐは、チ、チ、と指を振りつつ、
「私はただ、幸運を与えるだけだよ。運命を山あり谷ありの行程と定義するなら、幸運は山も谷も強引に迂回させて、なだらかな道だけを進ませる案内人みたいなものってこと。たとえ運命が逆転したところで、幸運の加護は全ての災難を消しちゃうのさ」
と、底知れない笑みを浮かべつつ言うのだった。
◆
「――まぁまぁ、サグメ。よく来てくれたわね」
てゐの案内に従って竹林を歩くこと十数分。私たちは呆気ないくらいに永遠亭に行き当たり、八意さまに迎えられる。サグメさまは彼女の姿を見るや否や感極まったのか、八意さまに抱き付いた。
「~~~~~~~~~~っ!!」
「あらあら。しょうがない子ね。こんなに汚れて、可哀想に」
半泣きで八意さまによしよしされる彼女を眺めつつ、やれやれとため息を吐く。まぁ、ここまでの道中で色々あったしね。本当に。いろいろ。死ぬかと思った。割とマジで。
とか思ってると、屋敷の奥から鈴仙ちゃんが出てくる。彼女は私を見て首を傾げた。
「あー、やっと着いたんだ。ちょっと遅くな――ウボァ!?」
とりあえず、鳩尾に正拳突きを喰らわせる。お腹を抑えてへたり込む彼女を見て、てゐがゲラゲラと笑い転げた。
「ゲフッ……な、なぜ……?」
「アンタの不手際の罰だよコンチクショウ」
パンパン、と手を叩いて吐き捨てる。殴られたお前も痛いんだろうが、殴った私の拳だって痛いんだ。そもそも鈴仙ちゃんがしっかりしてれば、私はああも振り回されずに済んだんだからな。
……ともかく、これでミッション・コンプリートだ。
サグメさまは八意さまのもとに送り届けたし、鈴仙ちゃんの鳩尾を抉るのも終わった。月の要人を送り届けるだけで、信じられないくらいに疲れた。だが、全てが終わってくれた今、もう死ぬような目には逢わなくて済む。
「――鈴瑚?」
八意さまの胸から顔を離したサグメさまが、私に振り向く。彼女は泣き腫らした目を遠慮がちに俯かせ、
「迷惑を掛けて、ごめんなさい」
「あぁ、良いんですよ。もう。終わったことです」
肩を竦めてそう答える。
……まあ、確かに死ぬほど迷惑は掛けられたさ。
だけど、このタイミングでそれをウジウジ言うのも野暮だろ? 道中で色々あったが、サグメさまは八意さまに逢うことができた。それでいいじゃないか。
八意さまからのお礼は魅力的だ。しかし、八意さまに逢えて心の底から喜ぶサグメさまを見るだけでも、かなり満たされてるんだ。苦労した甲斐があった……と言うには、ちょっと苦労し過ぎた感は強いが。
私の返答に安心したのか、サグメさまが小さく微笑む。そして、目元に浮かんでいた涙を指で拭って、
「私は、お前に感謝してる。せめて、この穢土でも健やかに」
「えぇ。もう会う機会もないかもしれませんがね」
「鈴瑚……と言うのね?」
サグメさまの頭を撫でつつ、八意さまが私を見る。
「あ、はい」
「アナタにも、後日お礼をしなくちゃね。今日はサグメと話をしなきゃいけないから、難しいのだけど……」
「ああ、いえ。大丈夫です。また伺います」
「うん。よろしくね? それじゃサグメ、中へどうぞ。てゐ、一緒に来てちょうだい?」
「はいはーい」
八意さまはてゐをお供に添え、サグメさまの肩を抱きつつ屋敷の中へ。永遠亭の前庭には、お腹を抑えて震える鈴仙ちゃんと私だけが残された。
「うっく……うぐぅ……何も、殴らなくたって……」
「うっせぇ。アンタがきちんと手筈を整えてりゃ、こんな竹林で死にかけなくて済んだんだよこっちは。私がどんな目に遭ったか、逐一聞かせようか?」
もう、本当に大変だったんだこっちは。サグメさまったら、口を開く度に運命を逆転させる癖に、パニックになって要らんことばかり言うせいで――
……ん?
何だろう。なんか、引っ掛かる。
まだ何か、サグメさまが逆転させちまった事柄が残ってたような? なんだろう。さっきまでは私だって相当にテンパってたから、あの方の話を全部覚えてるわけじゃないのだけど……。
――あの人、帰るとか帰りたいとか、そんなヤバいことを喋ってなかったっけ?
「――鈴仙ちゃん? 大丈夫?」
と、不意に聞き覚えのない声。鈴仙ちゃんが蹲る方から。驚いて振り向けば、ひとりの女の人が鈴仙ちゃんを介抱している姿。金髪、黒を基調とした中華風の衣服、陽炎のように揺らめく薄紫のオーラ。
「そこの兎にやられたのね? そうなのね? 聞いてたもの。そこの兎が、鈴仙ちゃんを殴ったのよね? ああ、なんて可哀想な鈴仙ちゃん。こんなに可愛らしい女の子だというのに、暴力を振るわれるなんて酷すぎるわ」
ゆらーり、と。金髪さんが私の方を見る。その目の色が、私の心臓を握り潰す。据わった目。千年を超えて恨み続ける怨敵でも前にしたような目。
「じゅ、純狐さん……あまり、手荒な真似は……その子は、月での同僚で……」
「庇ってるのね? なんて優しい子なんでしょう。そんな子を殴るなんて、普通の神経をしてたら無理よね。やっぱり、月の民というのは兎に至るまで酷い人ばかり。可哀想な鈴仙ちゃん。アナタはこんなにも純粋で優しいのに、そんなアナタが不当な暴力にさらされるなんて、この世はどうしてこんなにも残酷なの――
――この私がッ!!! 鈴仙ちゃんに暴力を振るった輩をッ!! 許すと思うなッ!!! 私は貴様を許さないッ!! 貴様が犯した罪ッ!! その命を持って償って貰おうかッ!!!」
うわーーーーーーーーこれはヤバいヤバいヤバい!!!! 完全にイッちゃってる人だ!! 通常時とお怒りモードの転換速度が半端じゃない!!
と、とりあえず飛んで逃げよう――うわ、駄目だ飛べない! くっそ! サグメさまのせいだ!! 走って逃げるしかない!!
「逃がすかッ!! 憎き怨敵めッ!! 鈴仙ちゃんを傷つけたッ!!! 嫦娥の手先ッ!! それだけで貴様を殺す幾万の理由に足るッ!! 見てるか嫦娥ッ!! 貴様が育てた尖兵はッ!! 貴様と同様に性根が腐っているぞッ!!!!
――鈴仙ちゃん? あとで一緒にお茶しましょうね? 美味しい焼き菓子を持って来たのよ? アナタの口に合うと良いのだけど……」
ダッシュで逃げる私を追跡しつつ、純狐は怒り狂って叫んだり鈴仙ちゃんに優しく語り掛けたりと忙しない。つーか純狐って。よく考えたら嫦娥さまを付け狙うヤバい罪人じゃねーか。そんなのとお友達してるとか、鈴仙ちゃんは正気か。
ああ、何かに引っかかってた理由が判った。あの人が帰るとか帰りたいとか言えば、そりゃ私たちが帰るっつー運命が色々と捻じ曲がっちまうよな。
無事に帰れる運命から、無事に帰れない運命に!
なんてことしてくれるんだあの女神は!!!
「ふふふ……地上に居ながら、嫦娥の手先を始末する機会に恵まれるなんて、今日は運のいい日なのね。日頃の行いに感謝しなきゃね。
逃げるな兎ッ!!! その生意気な身体ッ!! この手で八つ裂きにしてくれるッ!!」
「誰か助けてええええええええええええええッ!!!」
ダレカ……タスケテ……。
Fin
空には雲ひとつなく、うっすらと私が捨てた故郷=月が青白く浮かんでいる。もう私には関係のない場所だ。幻想郷に移住することを決め、しっかりと穢れに塗れ始めた私には。
「できなくはないけどさぁ……」
私の隣に腰掛ける修験服の薬売りを横目に、小さくため息。編み笠で顔を隠す薬売りの正体は、もちろん鈴仙ちゃん。あまり元月の兎と親しくしている様子を見られちゃ仕事に影響が出るから、と顔を突き合せて話すことは拒まれてる。
だったら、人里の茶屋で声を掛けなくてもいいじゃん。
鈴仙ちゃんの要領の悪さが際立つ感じだなぁ。
「あんたも同類だから、判るでしょ? 今さら玉兎通信で月に連絡取るとか、自殺行為だよ。私とか清蘭ちゃんが月でどう言われてるやら、考えるだけでゾッとしないね」
「その気持ちは判るんだけどねー……」
鈴仙ちゃんが、やれやれとばかりにため息を吐く。この子もこの子で、なかなかの苦労人とのこと。まあ、あの八意さまに従ってるんだから、然も有りなんってもんだ。
「八意さまが、どうしても話したいって言うんだもの。断れないよ。私の通信は、もう月まで届かないようにしてるからさ」
「だから私に、サグメさまに連絡入れてってわけだ。はーあ、嫌だ嫌だ。元『月の賢者さま』は、下々の者の苦労まで考えちゃくださらないんだねぇ」
嘆息。私のそれに呼応するみたいに、鈴仙ちゃんも大きな大きなため息。部下としての気苦労を共有してるような空気になった。
私はどっちかってーと、八意一味の被害者って立場なんだけどね。
「でも、まぁ、処罰されたりはしないでしょ。八意さまの名前を出せばさ」
緑茶をグイと煽った鈴仙ちゃんが、タンスみたいな香箱を背負った。
「八意さまはお礼の概念を知らない方じゃないしさ、なんか貰えるかもよ。鈴瑚だって地上での生活、何かと入用でしょ? ただでさえ、元々は侵略者だったんだから立ち位置も難しいだろうし」
「あぁ、天狗? だっけ? に追い回されたのも記憶に新しいよ。妖怪の山に入ったら、殺されそうな勢いだもん」
「でしょ? だったら、ここで恩を売っとけば得するんじゃない? 一時の気まずささえ我慢すればいいんだからさ」
「他人事だなぁ。ま、私のメリットに関しちゃ、至極ごもっともなんだけどさ」
「じゃあ、よろしくね。私、八意さまにそう言っておくから」
そう言って、一段と編み笠を深く被った鈴仙ちゃんが去っていく。結局、押し切られてしまった形だ。人混みに紛れていく修験服の背中を見つめつつ、やれやれと茶を啜る。
――八意さまとサグメさまの会談。
それを実現させるためには、確かにこんな形を取らざるを得まい。未だ大罪人扱いの八意さまが月へ赴くことが許されるわけもないし、平和を取り戻した今の月に使者を出すのも無理だろう。だから、通信機能が生きている玉兎にサグメさまへのコンタクトを頼むしかない。
「――さて、と」
面倒事は、後回しにすればするほどアンチな気持ちが増していく。嫌なことはさっさと済ませてしまうに限る。残っていた団子を頬張りつつ、茶屋を後にした。玉兎通信をしているかどうかなんて傍目から見ても判んないけど、元月の兎が月と連絡を取っているのを見られるのは、ちょっと嫌だった。
てなわけで、ブラブラと里の大通りを抜けてから、通信を開始する。着拒とかされてたらヘコむなぁ、とか心配してたけど、案外とあっさり玉兎通信監理部に繋がった。
『り、り、り、鈴瑚ちゃん!?』
うわぉ。思った以上の反応が返ってきた。もっと冷淡に事務的に取り扱われると思ってたんだけどね。元同僚の声は、キンキンと脳髄に突き刺さるみたいな音量で、
『ど、どうしてたの!? 今まで何をしてたの!? イーグルラヴィはほとんど帰還したっていうのに!』
『あー、まぁ、色々あってね。そっちに帰れそうにないんだ』
『なんで!?』
『穢れちった』
『…………ッ!?』
察してくれたらしく、元同僚が息を呑む。月に住む者としちゃ、もっともな反応だ。なんせ、徹底的に穢れに対する忌避感に晒され続ける生活を送ってるんだから。
案外、悪くないもんだけどね。食べ物は色々あるし、月とは比べ物にならないくらいに刺激的だし。穏やかな生活を続けてるだけじゃ、退屈しちゃうもんね。まあ、私の性には合ってたって話だ。
『鈴瑚ちゃん……その、私、なんて言えばいいか……』
『あー、いいのいいの。しょうがないよ。私は私で、何とかやってくさ。ところで、ちょっと伝言頼まれてくんない? サグメさまに』
大いに心を痛めてるらしい同僚を気遣いつつ、道端に生えていた木の根元に腰掛ける。樹皮の臭い、草の臭い、土の臭い。月には無いものばっかり。最初はエンガチョだったけど、慣れればどうってことはない。
『え? う、うん。いいよ』
という彼女の好意に感謝しつつ、ざっと説明する。八意××さまが、サグメさまに逢いたいと言っていること。自分が赴くわけにはいかないから、彼女に地上へ来て貰う必要があること。なるたけ重大な任務に聞こえるよう、言葉を選んだ。ウチくる? 行く行く! くらいのテンションでお偉方を呼びつけるわけにもいかないんだし。
『――なるほどね』
『伝えておいて貰える?』
『うん。大丈夫。すぐに聞いてくるね……その、鈴瑚ちゃん?』
『なに?』
元同僚の彼女が、消え入りそうな声で私の名前を呼ぶ。私の聞き返しに対する返事は、短いとは決して言えない沈黙を経てから、
『……また、お話ししよ? 顔を見れないのは辛いけど……私、鈴瑚ちゃんとお喋りするの、好きだったから』
と告げられる。
ちょっぴりのセンチメンタルが、私の胸に去来した。私が月に残して来たものを突き付けられた気分で。ああ、そっか、私はもう、この子には逢えないんだな、なんて。今さらの寂しさに震え始める心を、グッと締め付けて、
『――そうだね。話すだけでも、きっと私たちは繋がれるから』
と、笑っているように聞こえる声を意識して、告げた。
◆
八意さまの名前は、効果覿面だったらしい。元同僚の彼女曰く、『すぐにでも向かうから、神社に来ること』と指示を受けたとのこと。まあ、あの人は喋らないし迂闊には喋れないから、それを察するだけでも難儀したに違いない。
しかし、滅多には動かないサグメさまにしては行動が迅速だ。逢いたいと言われたことが嬉しいんだろうか。なんでも八意さまがまだ月に居た頃には、二人はずいぶんと親しくしていたらしい。何百年単位で逢えていない人から呼び出されたとあっちゃ、すぐにでも馳せ参じたい気持ちにもなるんだろう。きっと。
そんな指示を受けたので、私はさっさと神社へと向かう。地上に神社はふたつあるけど、きっと赤い巫女の居る方だろうと見当をつけた。サグメさまが訪れたことがあるのは、確かそっちの神社だけだったはずだから。
というわけで、博麗神社に至る階段の前に辿り着く。驚くべきことに、サグメさまは既にそこに居た。指示を受けてからすぐに来たというのに、と舌を巻く。月の民らしからぬ、と言ってもいいくらいに行動の迅速さが半端じゃない。
「サグメさま。すみません。お待たせしてしまったようで……」
口元に左手を当てるサグメさまに向けて、頭を下げる。彼女からの返事がないことは判っていた。なので、すぐに頭を上げて彼女の顔を見る。そうでもしないとコミュニケーションが成立しないのだ。
「…………」
サグメさまが首を横に振った。『構わない』ということだろう。次いで彼女は周囲をグルリと見回し、私に視線を向け、そして小さくため息を吐く。
これはどういう意味だろう。『こんな穢れた地にいて、アナタも大変ね』なのか、『アナタが月の生活を捨てて地上を選んだ理由が判らない』なのか。まあ、どちらにせよ、私が返すべき言葉に大差はない。つまり、私が戻らなかったことへの謝罪である。
「その……すみませんでした。月に帰らなくて。ここには居ませんが、清蘭ちゃんの分も私が謝って――」
と再び頭を下げようとした途端、サグメさまが私の頭にそっと触れてくる。彼女は口元を僅かに綻ばせ、目を閉じてからゆっくりと首を横に振った。
いまのはハッキリと判った。『気にしないでいい』ということだ。あるいは、『アナタたちの選択を尊重する』ということだ。どうやら、危惧していたお咎めは受けずに済んだらしい。同時に、彼女の優しさに触れて、さっき元同僚と喋って湧きあがったセンチメンタルが膨らんだ。
「――ありがとうございます」
私が言うと、サグメさまがウンと頷く。月の生活を捨てた私たちが、正式に許された瞬間だ。そう思った。
なんだかんだ、鈴仙ちゃんから依頼を受けて良かったのかもしれない。この話を私が受けなかったら、きっと月に置き捨てて来た確執を心のどこかで引き摺り続けたままだっただろうから。
お偉いさんの気紛れも、たまにはいいものだ。
「…………」
サグメさまが、もう一度周囲を見回してから、首を傾げる。ええと、これはどういう意味……あぁ、判った。『八意さまは?』かな。そう思い至ったところで、ちょいとマズいことが起きていることを悟った。
私は鈴仙ちゃんから、『八意さまがサグメさまに逢いたがっている』という情報しか与えられてない。いざ呼んだら、それからどうすれば良いのか聞いてないのだ。
……くそぅ、鈴仙ちゃんめ。肝心なところを言いそびれやがって。月の重鎮を引っ張り出すなんて大層なことをやるのなら、きちんと手筈を整えろよ。玉兎通信で確認しようにも、あの子は通信機能を切ってるから、こっちからはどうしようもない。
……まあ、仕方ない。
私だって、八意さまがどこに居るかくらいは知ってる。彼女が住むのは永遠亭って名前のところで、確か……何たらの竹林とかいうところを抜けた先だったな。とりあえず、竹林に行けば何とかなるだろうってことだ。そこまで行けば、鈴仙ちゃんが待ってるかもしれないし。
「えぇと……八意さまは永遠亭という場所にいらっしゃいます。なので、これからご案内しますね。ここから飛び上がって、竹林まで向かいましょう」
私が言うと、サグメさまは一度だけ頷いて、ふぅわりと片翼を羽ばたかせた。ああ、やっぱり八意さまに逢えるのが嬉しいんだなぁ、なんて再確認。じゃなきゃ、こんな迅速に地上へ降りようとか思わないだろうしな。
ともかく、これから私はサグメさまと竹林に向かって、そこを抜けた先の永遠亭に彼女を送り届けて、そうすればミッション・コンプリート。きっと八意さまから、なにかご褒美が貰えるに違いない。
簡単なもんだ。
◆
――と、甘く考えていたのだけど、現実は案外うまく行ってくれないようだ。
空から探せば、竹林はすぐに見つかった。だけど問題は、竹林を上空から眺めるだけじゃ永遠亭がどこにあるのかサッパリ判らないという点だった。
おかしい。竹林を抜けた先に永遠亭があると聞いていたのに。空から探して見つからないというのはどういうことだ。
サグメさまからの無言の圧力をビンビンに感じた。彼女を引き連れてウロウロと竹林の上空を飛び回ることに耐えかね、竹林の真ん中に降りたつ。背の高い竹に囲まれて、サグメさまは眉間に皺を寄せていた。冷や汗が止まらない。全部、鈴仙ちゃんのせいだ。
「あ、あははは……大丈夫ですよ。歩いて探せば、その内に見つかります。そんなに広大な竹林ってわけでもありませんでしたし……」
「…………はぁ」
サグメさまがため息を吐く。私だって同じ気分。だけど、さすがに期せずして案内役となってしまった私が、ため息を吐くわけにも行くまい。せっかく先ほど賜った許しを反故にされるわけにもいかないし。
私は精一杯に虚勢を張りつつ、なるべく人の気配があるような気がする方向に――つまり適当に歩き始める。竹林に入ったのなんて初めてなのだから、正解のルートなんか判るわけもない。
だが、訪ねる相手は腐っても月の賢者。こっちの動きを予測して、迎えを寄越してくれる可能性も無きにしもあらず。とりあえず適当にフラフラして永遠亭を見つけるなり、迎えにバッタリ出会うなりを期待するとしよう。私が呼び出しておきながら、どうやって八意さまのところに行けばいいのか判りませんなんて正直に言えば、喧嘩売ってると思われてもおかしくないしね。
そんなわけで、無謀な竹林探索である。
薄茶色に枯れた竹の葉が積もって、フワフワとクッションのように私の体重を押し返す。竹は大した風もないのに右へ左へ揺らめいて、梢が触れ合うたびにサラサラと囁くような音がする。無言のサグメさまと二人きりというのは、実に心臓に悪い。心なしか、さっき食べた団子が胃袋の中で重力を増してるようにさえ思えた。
嫌だよ怖い怖い怖い。もう帰りたい。だって背後から、すっごくサグメさまの視線を感じるんだもん。後頭部がめちゃめちゃゾワゾワする。彼女の視線の終着点をピンポイントで指し示そうなくらい。鈴仙ちゃんに逢えたら、とりあえず一発殴ろう。鳩尾を。抉り込むようなパンチをお見舞いしてやる他にない。月の重鎮を穢土で引き回すプレッシャーたるや、本気で寿命が無くなりそうだ。
てな具合で湧き出す冷や汗を拭き拭き歩いていると、突然、二時の方角からガサリと何かの物音。
誰かな。鈴仙ちゃんかな。と右手を抉り込ませる準備をしていると、いきなり背後からガバと抱き付かれる。
「……うわわッ!?」
すわ敵襲か、と臨戦態勢に入り掛けたところで、私のお腹辺りに見覚えのある袖。グレーの洋服と、真っ白な両手。
ああ、なんだ。どうも私に抱き付いてきたのはサグメさまらしい……と思い至ったところで疑問が湧く。どうして彼女が私に抱き付いてくる? 仮にも月の重鎮だぞ? なんでいきなりハグしてくるんだ?
訳の判らない行動に困惑していると、私にしがみつくサグメさまの右手が、音の聞こえた方を指差す。そっちに目をやると、可愛らしいドレス姿に半透明の翼を携えた幼女の姿が見えた。
「あぁ、なんだ……妖精じゃんか」
何が面白いのやら竹をゆさゆさ揺すぶっている幼女を見つつ、安堵とガッカリが綯交ぜになったため息。音の正体は敵襲でもなく、迎えでもなかったってこと。月には居ないけど、幻想郷じゃそこらじゅうで見る連中の一匹だ。
「サグメさま。音の正体は妖精だったみたいです。襲撃とかじゃないんで、ご安心を」
やれやれと肩を竦めつつ告げる。月の民が地上にいるとありゃ、襲撃に過敏になったっておかしくない。それに鈴仙ちゃん曰く、サグメさまが地上侵略の首謀者だったことは地上の民には割れてるらしいし。
だが、そう告げたにもかかわらずサグメさまは私を離してくれない。むしろ、さっきよりも締め付けが強まってるような……?
「あー! 変な兎だー!」
竹を揺さぶっていた妖精が私を見つけたらしく、こっちを指差したかと思うと走り寄ってくる。そのタイミングで、サグメさまがパッと私から離れてくれた。相変わらず、よく判らないお方だ。
だが、ちょうどいいや。妖精に道を聞いてみるのも悪くなかろう。ちゃんとした答えが返ってくる望みはあまりないとは言え、何も情報がないまま歩き回るよりはマシに違いない。
「何してたのー? こんなところで抱き合ったりしてー」
「いや、抱き合ってたわけじゃないけどね」
「もしかして、アオk」
「それ以上言ったら殴るよ」
「……抱き付き鬼?」
妖精が人差し指を唇に付けながら小首を傾げる。よしよし、言っちゃ駄目なことを訂正するだけの頭はあるらしい。私はちょっぴり屈んで妖精と目線を合わせると、
「永遠亭って場所に行きたいんだ。どこにあるか知ってるかい?」
「エイエンテー? なにそれ? お菓子とかあるのかな?」
妖精が腕を組んで難しい顔をする。どうも言葉のチョイスを間違えたらしい。私は咳ばらいをひとつして、
「竹林の中に、お屋敷――あぁ、いや、お家を見たことはあるかな? 私たち、そこに行こうとしてるんだ」
「竹の中のお家ー? あー、知ってる知ってる。あっちの方にあったよ」
ポン、と手を打った妖精が、三時の方向を指差した。グッド。これで大体の方角が判った。私は妖精の頭をよしよししてやりつつ、
「ありがとう。助かったよ。次に逢ったときには、お菓子をあげよう」
「ホント!? やったー! へへーん、私、スゴいでしょお!」
「うんうん。凄いよ。ほら、もう行ってもいいよ。たくさん遊んでおいで」
「うん!」
妖精の彼女は腰に手を当てて自慢げな表情を浮かべたかと思うと、どこかに向けて飛んで行った。
やっぱり何でも試してみるもんだ。私は妖精の姿が見えなくなってから、
「サグメさま。あっちに行けば良いみた――」
振り向いた瞬間、私の時間が停止する。
なぜなら、竹の根元辺りに蹲っているサグメさまを見てしまったからだ。彼女は私に背を向けて、頭を両手で庇いながらブルブル震えている。そこだけ地震でも起きてるみたく。
……………………。
………………。
…………えっと?
何してるんだ。この月の重鎮。
「あのぉ……サグメさま? どうかしました?」
私が歩み寄った途端、ビクリと彼女の身体が過剰な反応を見せる。切羽詰った両目が私に向けられ、次いで周囲を真剣に見回したかと思うと、彼女はホッとした風に立ち上がっていつもの凛とした立ち姿に戻る。
――いやいやいやいやいや。
そんな今さら、『え? 何もしてませんでしたけど? なにか?』みたいな顔をされても。
「え? え? 何です? 何だったんです? どうしてあんな怯えてらっしゃ――」
「――怯えてない」
サグメさまが私の言葉尻を飲みこむように鋭く告げてくる。ああ、サグメさまってこんな声してたんだ。見た目通りのカッコいい系の声……って、そうじゃなくて。
え? このひと喋って大丈夫なの?
「確かに私は半年近く凍結された月の都にあって、妖精の脅威にさらされ続けた」
「ちょっと?」
「恐ろしい体験だったことは否定のしようがない。妖精とは穢れ。生命そのもの。つまり、我々月の民にとって致命的になり得る。私ひとりだけでその脅威に対処し続けた」
「いや、そこまで聞いてないっていうか……」
「だが、それはあくまで純狐の能力で純化された妖精の脅威だった。普通の妖精のことではなかった。だから私は大丈夫だった。全然、ちっとも、微塵も、まったくもって、妖精が怖いということは一切ない。大丈夫だ。怯えてなどいなかった。怖いなんて思ってはいなかった。だから私は大丈夫だ。心配はない<code:舌禍:Reverse:何の問題もなく永遠亭に着く:to:心配事が大挙して訪れる>」
「…………さようですか」
うわぁ。
……うわぁ。
すごいことを聞いてしまった。というか、こんなに大丈夫さを感じない『大丈夫』を連呼されたの初めてなんだけど。
あれだ。この人、妖精に対するトラウマが半端ないんだ。
月に何が起きてたのか知らなかったけど、鈴仙ちゃん曰く、月は妖精を用いたテラフォーミングのような侵攻を受けてたとのこと。そしてサグメさまは、ひとりでその侵攻を食い止め続けていた。月の民にとっての穢れそのものである妖精たちを相手に。
そりゃ、その恐怖が骨身に染み付いていてもおかしくない。
――が。
私が危惧してるのはサグメさまのトラウマじゃなくて、この人が喋ったことで起きうるリスクの方なんだけど。
「何となく判りました。が、サグメさま。あれだけ喋って大丈夫ですか? 舌禍の能力が――」
「私が言及したのは過去のことについてだった。だから、舌禍の能力は発動しない。たぶん」
「そ、そうですか……なら、安心していいんですね?」
私が言うと、サグメさまはコクリと頷く。たぶん、とか抜かした辺りが怖くてしょうがないんだけど、当人が大丈夫と言うのならそれを信用する他にない。運命が逆転したかどうかなんて、知りようがないのだし。
「それでは気を取り直して……あちらの方に歩いて行きましょう。八意さまの待つ永遠亭はそちらにあります」
先ほど妖精が教えてくれた方を指差すと、サグメさまはもう一度頷いた。そして、何故か私の尻尾を指でつまんでくる。くすぐったい。やめて欲しいと言いたいところだったけれど、それで少しでもサグメさまの恐怖が和らぐなら、と我慢する他になかった。
さて、再び歩き出す。
今度は大体の方角が判ってるのだから、さっきより若干気は楽だった。サグメさまからのプレッシャーも感じなかったし。というか彼女は周囲を警戒しまくってるから、それどころじゃないんだろう。きっと。
だが、歩みは遅々として進まない。
だって、何か物音がする度にサグメさまが立ち止まるんだもん。その都度その都度、尻尾が引きちぎられそうになるので本当に勘弁してほしい。尻尾は敏感なんだ。ぎゅっと握られたり引っ張られたりすると、めちゃめちゃ痛いんだぞ。
サラサラと竹の葉が揺れる音。するとまた、サグメさまが立ち止まる。私の尻尾に痛みが走るのも、これで七回目。駄目だ、埒が明かない。というか痛い。限界。私は首だけで後ろを振り向いて、
「あの……サグメさま? ちょっと尻尾は、痛いので……」
サグメさまがブンブンと首を横に振る。『嫌だ。絶対に離さない』ってことだろう。悲しいことに他の都合いい解釈が全く思い付かない。やれやれだ。この分だと、夜になっても永遠亭に着かないぞ。
などとため息を吐いていると、いきなり上空から、
「――あ、見っけ!」
と、聞き覚えのある声。サグメさまが小さく息を呑んで、私の尻尾から手を離す。
さっきの妖精か? と声のした方を見上げる。すると、青空に小柄なシルエットが三つ。うわ、なんか増えてるとか思いつつ、サグメさまがピュッと竹の根元にしゃがみこむのと、三匹の妖精がこちらに降りてくるのを交互に見やる。
「ねぇねぇ、ホントー? ホントに面白い?」
「うんうん、本当だよー。たぶん、大丈夫だからさ」
「楽しいこと好きー。イタズラ大作戦ー」
三匹の妖精が、かしましくキャッキャウフフと笑い合いながら私の前に降り立った。
激しく嫌な予感。
「ねぇねぇ、また逢ったよー? お友達も連れてきたー。お菓子ちょうだい?」
「トリック・オア・トリートー!」
「主は来ませりー!」
きゃいきゃいとはしゃぎながら、三匹の妖精が私に手を伸ばしてくる。一匹だけイベントを勘違いしてるが、まあそれはいい。困ったのは、まさかさっき適当に言った約束を、こんなに早く遂行されるとは思ってなかったってところだ。
「うーん……まだ、竹の中のお家に着いてないんだよ」
先ほど助けて貰った手前、無下に扱うのもどうか、とそんな風に返してしまう。妖精に目を付けられたというのが困ったことなのは判るが、さっきはお姉さんぽく接してしまっただけに、今になって追い払うのも気が引けた。
「お菓子ないのー?」
さっきの妖精が、またも人差し指で唇に触れつつ小首を傾げる。だが、どこか違和感。唇の端が、いやに楽しそうに歪んでいるように見えた。気のせいであって欲しい。切に。
「あぁ。お家に着いたら、お菓子も貰えるかもしれないからさ。それまで良い子で待てるかな?」
私は震えるサグメさまをチラと見やってから、そう告げる。一匹だけであの怯えようだ。それが三匹に増えれば、彼女の恐怖も三倍とはいかないまでも、それなりに増えているはず。早いところ、帰って貰わねば。
すると、三匹の妖精がひそひそと顔を突き合わせて話し始める。声を落として、聞かれないようにという具合に。しかし、そこは妖精の頭の出来とでも言うべきか、会話の内容は丸聞こえだった。
「やっぱり、お菓子持ってなかったね」
「アナちゃんの言う通りだー。トリック、トリック」
「こっちじゃなくて、あっちだよねー」
「準備はできてるのかなー?」
「きっと大丈夫だよぉ。あの子たち、妖精の中でも強い方だし?」
「巫女にイタズラするくらいだもんねー。お手並み拝見だー」
――マズい。
何だかよく判らんが、とてつもなくよろしくない計画を立てているらしい。こりゃ、もう助けて貰ったとかお姉さんぶってたとか、そんなことを言ってる場合じゃないみたいだ。
「おい、ちょっとお前ら。いったい何を――」
と、私が詰め寄り掛けた途端、
「っきゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!!!????」
突如として響く悲鳴。心臓がマグナムでもブチ込まれたように跳ね上がる。
聞き間違えようもなく、サグメさまの声。
何が起きた!? と彼女が震えてた方を見る。ひそひそと話し合ってたのとはまた違う三匹の妖精が、サグメさまを取り囲んでいた。
馬鹿な、どういうことだ!? 姿も見えなけりゃ、物音も聞こえなかったってのに!?
「うわ、びっくりした……サニーの顔が怖いせいじゃない?」
青いドレスで黒髪ロングの妖精が言う。
「はぁ!? 違うもん! ルナでしょ!」
赤っぽいドレスの金髪ツインテールの妖精が言う。
「ふっふっふ……何を隠そう、私の正体は恐怖の大魔王! ってなに言わすのよ」
白黒ドレスで縦ロールの妖精がノリツッコミをする。
それまで顔を突き合せてた三匹の妖精が、突如として現れた三匹の妖精を見上げながら腰を抜かすサグメさまを見て、きゃあきゃあと手を叩きながらはしゃいで、
「本当に妖精が怖いんだ!」
「おもしろーい! 楽しーい! 人間にイタズラするよりずっと良いね!」
「私、もっとお友達呼んでくるー!」
「呼んじゃえ呼んじゃえー!」
「えっとぉ、そうだ、あの新しい子も呼ぼうよ! きゃはははって笑う子!」
「さんせーい!」
「異議なーし!」
「――ゴルァアアアアア! お前らああああああッ!」
サグメさまが完全に妖精のターゲットにされてしまったらしい、と遅まきながら気付き、集合した六匹の妖精たちを散らしに掛かる。私の怒声もどこ吹く風といった感じで、妖精たちはきゃっきゃと騒ぎながら、
「あはははは! 怒った怒ったー! こわーい!」
「逃っげろー!」
「ちょっとサニー! 早く姿を隠して!」
「言われなくても!」
「ま、待ってよスター! サニー!」
と、飛び去ったりパッと姿を消したりして、一斉に消えてしまう。これ幸い、と私はサグメさまのもとに走り寄った。
「だ、大丈夫ですか! サグメさま!」
「あ、あわわわわわ……」
半泣きのサグメさまは歯の根もしっかり合わないらしく、ガタガタと震えながらしきりに十字を切っていた。いいのか、それは。アンタ、古事記出身の方でしょうが。
「とにかく、行きますよ! アイツらが居ない内に、さっさと永遠亭に向かうんです!」
「まま、待って……こ、腰が抜けて……」
「どんだけ怖がってんですか! あんなんただの妖精です! 月の重鎮ともあろう方が!」
サグメさまに手を差し伸べる。彼女は私の手を握ってはくれたが、ペタンと座り込んだまま立とうとはしなかった。本気で足に力が入らないらしい。こんな体たらくを見たら、この人の部下たちは卒倒するぞ。
私だってぶっ倒れそうだもん。
「ほら! 今すぐ行かないと、もっとたくさんの妖精が来ますよ! 今なら妖精は一匹もいないから――」
「――とでも、思ってた?」
突然私の耳元でさっきの青い、スターとか呼ばれてた妖精の声が囁き掛けてくる。さすがに肝を冷やして声の方を見るが、そこには何もいない。サグメさまが「ヒィ!?」と悲鳴を上げた。
……まさかコイツら。いや、確かにさっき、『姿を隠す』とか言ってた。どうもさっきの妖精三人組は、姿を隠せるらしい。
つまり、まだ周囲には、さっきの三匹の妖精が――
「――えい! タッチ!」
サニーとか呼ばれてた妖精が、元気のいい声と同時にパッと姿を現す。
グッと突っ張った妖精の両手は、紛れもなくサグメさまの胸を鷲掴みにしていて……。
「ッ!? ッッ!! ッッッッ!!!!!!??????」
「あはは。柔らかーい」
「ッッ!! ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!!!!!」
首を絞めつけられたシロサギみたいな甲高い悲鳴を上げて、サグメさまがどこへともなく走り出す。もうその時には、サニーの姿はまた見えなくなってしまっていた。
「あ、ちょ、サグメさまああああああッ!」
とにかくサグメさまを追い掛ける私。向かっていた方向とは全然違う。どうもパニックで何も判らなくなってしまっているらしい。
クソ妖精め! 自分らがイタズラ仕掛けてる相手が何なのか知らないのか! 知ってるわけないよなぁ畜生め! あの人がトチ狂っちまったら世界がヤバいんだぞ!
「ドレミー! ドレミー助けて! 助けてッ! 見てるのよね!? 私を月の世界に戻してッ! うわあああああああああああああん! <code:舌禍:Reverse:稀神サグメを監視していたドレミー・スイートが助けてくれる:to:ドレミー・スイートが槐安通路を開けられなくなる>」
「ちょっとサグメさま! 落ち着いてください! 運命が逆転しちまうからあ!」
とにかく彼女を黙らせなきゃマズい。全速力で彼女を追った私は、なりふり構わず背後から飛び掛かる。
「嫌だああああああッ! やめて!<code:舌禍:Reverse:鈴瑚がサグメを優しく宥める:to:鈴瑚が実力行使をやめない>助けて! 穢れる! 穢れちゃうッ!<code:舌禍:Reverse:通常妖精の影響などでは稀神サグメが穢れることはない:to:稀神サグメを穢す可能性のある敵が訪れる>ひぃいいいいいいいいいいっ!!!!」
「このッ! 良いから黙りなさいって! アンタ、自分の能力のことを忘れちゃ駄目でしょうが!」
ジタバタ暴れるサグメさまから何度かパンチをくらう。月の重鎮とはいえ、こんな体たらくじゃ優しく宥めるのは無理だ。私は我武者羅に、彼女の口を塞ぐ。とにかく彼女に何かを言わせるわけにはいかないのだ。やむを得ない。
「んん! んむぅううううう! んんんんんんんん!!!!!」
私が馬乗りになって手で口を塞いでいるもんだから、サグメさまのパニックたるや目も当てられないレベルだった。ボロボロ涙を零しながら私を跳ね除けようとしてくる。同時に私の手に噛み付こうとしてくるので、一瞬たりとも気が抜けない。
「ほら! 私ですから! 鈴瑚ですよ! 鈴瑚! 妖精じゃありません! ほら!」
サグメさまに顔を近づける。それでほんの少しだけパニックが和らいだのか、彼女がパチパチと瞬きをしてから私の目を覗き込んでくる。暴れたり騒いだりも収まってくれたので、私は彼女の口を塞いだまま、
「落ち着いて。はい、深呼吸。いいですか? あれらは単なる妖精です。触られようが何されようが、アナタが普通の妖精によって穢れてしまうことはありません。そうでしょう?」
問い掛けると、サグメさまはコクリと頷いた。まだ呼吸は荒いけれど、とりあえず理性的な判断ができるところまでは回復してるらしい、とホッとする。
「だったら、また出てきたところで蹴散らせばいいのです。いいですか? 妖精なんて雑魚です。有象無象です。私でさえ片手でぶっ飛ばせるくらいの貧弱な存在です。そんな弱小種族なんぞに、月の重鎮が負けるわけがない。いいですね?」
サグメさまが、今度は二度、頷いてみせた。瞳に理知の光が戻り始めている。うん。何とかなりそうだ。私は無礼を詫びつつ、サグメさまの身体から離れる。彼女がゆっくりと立ち上がり、形だけは凛とした立ち姿に戻る。口元に当てる左手は信じられないくらいに震えていたが、まあ良しとしよう。
「奴らはアナタに無礼を働いた。きっとまだ油断しているでしょう。現れたところで、順次蹴散らしてやればいい。それで何の問題もない。稀神サグメともあろう方が、妖精なんぞに負けるはずがないのです。そうでしょう?」
「その通りだ」
サグメさまが震えつつも頷いてきた。
「――私が妖精なんかに負けるはずがない<code:舌禍:Reverse:稀神サグメは妖精なんかに絶対負けたりしない:to:やっぱり妖精には勝てなかったよ>」
「おおおおおおおいッ!」
何やってんだこの人! 自分を鼓舞したかったんだか知らんがそんなことを言っちゃったりして!! さすがに運命がどう逆転したか私でも判るぞ! 落ち着いたように見えたのはポーズだったってことかよ! ド畜生め!
私が叫んだところで、サグメさまがハッとした風に口を抑える。だが、今さらそんなことをしたってもう遅いのだ。
「何やってんすか! 何やってんすかあッ! よりによってそんな物騒なこと喋ってくれやがって!」
「ごごご、ご、ごめんなさい……でで、でも、やっぱり怖くて……」
「ああああああもう判った! 判りましたから! お願いだからもう喋らないで! 口を開くという機能を忘却して! もういっそのこと唇を針と糸で縫ってください!」
地団太を踏む私。サグメさまは両手で口を塞いだまま、オロオロと周囲を見回していた。
……過ぎたことを責めても仕方がない。これでサグメさまが、妖精を蹴散らすという運命は消滅した。どんな逆転が起きたのかは判らんが、とにかくこの場で頼りになるのは私だけだ。
さっきの妖精の姿は、まだ見えない。周囲に居るのかもしれないし、サグメさまが逃げ回ったときに運よく見失ってくれたのかもしれない。だが、こんなところでウダウダしているわけにもいくまい。私は頭をフル回転させて、これから打つべき手を考える。
とにかく、永遠亭だ。
撤退という選択肢は、たぶん取れないだろう。さっきサグメさまは、槐安通路の管理人たるドレミー・スイートに助けを求めてしまっていた。となると、既にその運命は逆転していると見ていい。何らかの理由で、槐安通路は開かなくなっているはずだ。
私が妖精を蹴散らしつつ、永遠亭に行く。それしか方法はない。我武者羅に逃げ回って妖精に囲まれれば、トチ狂ったサグメさまが何を言い出すか知れたもんじゃないのだ。八意さまと逢えさえすれば、彼女も落ち着くはず。私はため息を吐きつつ、
「いいですか? 私がアナタを妖精から守りつつ永遠亭に向かいます。お願いだから、もう何も喋らないでください。絶対ですよ? フリじゃないですからね?」
コクリと頷いて見せるサグメさま。いまは彼女の理性を信じるしかない。さっき進んでいたルートからは離れてしまったが、一時の方向に進めば戻れるはずだ。
「それじゃ、行きますよ。妖精が出て来たら、私がぶっとばしますから――」
「――HQ,HQ」
不意に、サニーの声。サグメさまがビクリと身体を震わせるが、まだパニックにはなってないようで、何も言わずに周囲を見回し出す。
「どこだ! どこにいる!」
私も彼女と同様、周囲に妖精の姿がないかと探し回る。また姿を隠しているようで、周囲には誰の姿もない。だが、声が聞こえたからには近くに居るはずだ。
「――こちらHQ」
今度はルナとか呼ばれてた妖精の声。サニーの声よりも遠くから聞こえてきた。声の聞こえた方向からあたりを付けようとするも、ガサガサと竹の葉を踏み荒らす音に紛れてしまう。ひとつところに留まらないようにしているらしい。こいつは厄介だ。
「――対象に接近中。確認は完了した」
「――首尾は?」
「――白だった。白無地のパンツだ。色気の欠片もないな」
「!?」
まさか、とサグメさまの方を見る。顔面蒼白な彼女の奇抜なスカートが、ガバと後方でまくり上げられている光景が飛び込んできた。
相変わらず、妖精の姿は見えない。サグメさまのスカートが重力に逆らっているような、奇妙極まりない有様だ。
だが――
「そこかぁああああッ!!!」
即座に弾幕を発射する。人差し指から放った弾丸はサグメさまの足の間を抜けて、何もない空間でピチュンと弾けた。
「――ふぎゃッ!?」
ビンゴ。活発そうな妖精がパッと姿を現し、グルグルと目を回しながらその場に倒れ込む。つーか、さっきから何なんだこの妖精は。イタズラ好きったって、そっちの意味じゃないだろ。絶対に。
私はサニーから目を離す。さっきの会話から察するに、こいつらの姿が見えなかったのはこの妖精の仕業だったようだ。妖精の思考なんて単純なもんだ。味方がやられたとありゃ、次に彼女らが取る行為は――
「ちょっとサニー!」
「あわわわ……スター! サニーを助けなきゃ!」
またしてもビンゴ。スターとルナの二匹が、慌ててこちらに駆け寄ってくる。サニーがやられたことで、自分らの姿が隠れていないことにも気付いていない様子。
「おらあっ!」
慌てた妖精二匹の眉間へ間髪入れずに弾幕を叩き込む。ピチュン、ピチューン、ってな具合でスターもルナもぶっ倒れた。
「……ふぅ。サグメさま、これで安心です」
彫像みたいに固まったままの彼女に微笑みかける。こいつら三匹は、妖精側でもそこそこ実力のある奴らだったようだ。何より、姿を隠すという能力は厄介極まりなかった。どこから敵が襲って来るかわからないというのは、かなりの脅威だ。
しかし、もう安心。強敵は消えた。だいたい、敵さんはどう足掻いたところで妖精なんだ。落ち着いて対処さえすれば、負けるわけがない。
「……サグメさまー? おーい?」
微動だにしない彼女の前でヒラヒラと手を振る。それでようやくハッとした風に彼女が私を見てきた。サグメさまはそれから、キョロキョロと周囲を見回し、
「……ここはどこだ? 何故お前が居る? お前は穢土に残ったのでは?」
「記憶を飛ばしてらっしゃる……」
ため息。妖精からの襲撃が、ここまで彼女を追い詰めてしまうとは。だがまあ、パニックになってあーだこーだと喚かれるよりは百倍マシだ、と気を取り直して、
「とりあえず、喋らないでくださいね。永遠亭に向かいますから」
「ん……あぁ……」
サグメさまが頷く。記憶が飛んでるなら飛んでるで構わない。とりあえず、落ち着きは取り戻しているようだから。目を回す妖精三人娘を置き去りにして歩き出す。サグメさまはそんな彼女らを見て何か言いたげだったが、自分の能力故か思い出してはいけない記憶だと考えてか、何も言わなかった。
ステルスを使う強敵は倒したが、いまだ完全に窮地を脱したわけではない。妖精は友達を連れてくると言っていた。つまり、第二波、第三波の襲撃があると考えるべきだ。順次、倒していけばいいだけなのは判るが、サグメさまがパニクってたときの言葉も気に掛かる。妙な具合に運命が逆転していない保証はない。気を引き締めよう。
とか考えた矢先に、
「――突撃ーーーッ!」
なんて喧しい声が上空から聞こえる。見上げれば、十匹近くの妖精がこちらに飛び掛かろうとしている光景が飛び込んできた。
来たか、と弾幕の準備。妖精の弱さは体験済みだ。端から撃墜してやれば、それで問題はない。こちとら仮にも元軍人なんだ。妖精なんぞにやられる道理はない。
「~~~~~~ッ!」
サグメさまが声なき悲鳴を上げる。やはり妖精恐怖症は健在なご様子だ。しかし、ぶっ倒してしまえば問題はない。私は彼女の方を振り向いて、
「ご安心を。私が端から叩き落してやりますよ」
「り、鈴瑚……」
恐怖と期待が綯交ぜになったような視線が向けられる。ここで良いところを見せておかにゃ、またぞろ彼女がパニックになりかねん。そういった意味では、私も必死だ。
「――月見酒『ルナティックセプテンバー』」
というわけで、最初から狂気的(ルナティック)にいかせて貰うことにする。周囲に無数の輪状弾幕を展開し、一気に破裂させる。結果として現れるのは、蟻の入り込む隙間すらない弾幕の嵐。馬鹿正直に突っ込んでくる妖精なんぞに、避けきれるわけはない。
――はずだった。
だが妖精たちは突如として機敏に動き回る。微かな隙間を見つけて身体を滑り込ませ、目にも留まらない速さで弾幕を避けまくる。一匹たりとも、私が展開した弾幕に被弾することなく。きゃははははは! なんてイカれた笑い声なぞ上げつつ。
「あぁ!? 何だありゃ!?」
自分の見ているモノが信じられない。こちとらほとんど全力を出してるんだぞ。妖精の一匹一匹が、地上の異変解決屋レベルの回避行動をするなんてありえない。相手は雑魚のはずだろう。だったらどうして、私の弾幕が避けられるんだ。
「――きゃはははは!」
一瞬だけ、私の弾幕の向こうに奇怪な格好の妖精が見えた。
アメリカ国旗みたいな服を纏って、松明を片手に掲げる金髪少女。なんだありゃ、と首を傾げかけた途端、ドサリと背後で妙な物音。
「あ、ああ、あれは……」
またも腰を抜かしたらしいサグメさまが、その場に尻餅を着いたままにガタガタ震え出す。私にはその理由が判らない。だが、妖精どもが私の弾幕を避けまくっていることといい、なにかとんでもなく良くない局面に立たされつつあるのは判った。
「……っ! この!」
弾幕を展開したまま、妖精どもに向かって弾丸を撃ちこんでいく。隙間の僅かな耐久弾幕に加え、高速自機狙い弾。こいつは弾幕ごっこじゃ完全に反則だ。さすがに避けきれないと見えて、一匹、二匹と撃墜されてくれる。
反則技に頼ったおかげで、最後の一匹も何とか叩き落す。それと同時にスペルブレイク。竹林から見上げる空を隠していた私の弾幕が掻き消えると、さっきのピエロみたいな少女が爛々と輝かせた目でこちらを見ながら、
「月の民! 月の民月の民月の民月の民月の民月の民月の民月の民ィ! きゃは! きゃはははは! ねぇねぇええええ!!?? なーんでこんなとこにいんのォ!? あたいと一緒かしらぁ! 月の生活が嫌になっちゃったぁ!? ピンク色の電気羊が雨と一緒にギターへ染み込むみたいにさぁ!? きゃははははぁ!」
アカン。
あれはアカン。完全にイっちゃってる人だ。
私の本能が全力で警鐘を鳴らしている。あれと関わり合いになるのはマズいよって。何とかして逃げ出さないと未来はないよって。話が通じる相手じゃないよって。
――だが、と私は腰を抜かすサグメさまを見やる。
ここで私が逃げるわけにはいかない。怯える彼女に頼れるところを見せにゃ、冗談じゃなく世界がヤバいのだ。
きっとアイツは、サニーやらスターやらルナやらよりも強い。しかし妖精なのは間違いなかろう。なら私が全力で戦えば、勝てないわけがない。
闘争心。己の中の野性を燃やせ。頭はクールに。心はヒートに。月に居たときでさえ、出したことのない本気の本気。それでもって、あの狂った妖精を打破する他にない。
「――お前が何者か知らないが」
帽子を被り直し、口の端に笑みを携えてやりながら上空の妖精を見上げる。感情の振りきれたギラギラの瞳が、私に向けられるのが判った。
「妖精なんぞに好き勝手やられて堪るもんか、だわ。穢れたとて、私は月の軍人だ。見てな。そのヘラヘラした顔を、すぐさま泣き顔に変えてやるよ」
「月の兎ぃ……!? お餅ペッタンペッタン!? きゃははは! アンタを泣かして遊べば、友人さまもご主人さまも喜ぶのよねぇ!?」
奇怪な妖精が、火の付いたままの松明をグルングルンとバトンのように回しながら、げらげらと笑う。私はギュッと拳を握り、開戦を間近に控えてピリピリとひりつく空気で精神を高揚させた。
「――負けたときの言い訳を考えときな。その、主人と友人とやらに説明する奴をさ」
ポキポキと指を鳴らし、背後のサグメさまに振り返る。ガタガタと震える彼女はしかし、私をしっかりと見据えていた。
私は彼女に微笑みかける。大丈夫。アナタに危害を加えさせやしません。そんな意を込めて。私の意図は伝わったのだろう。彼女は唇から少しだけ安堵を滲ませて、
「――勝て! 鈴瑚! お前の全身全霊をもってして、あの妖精を叩きのめせ! <code:舌禍: Reverse:全力を出した鈴瑚が、辛くもクラウンピースに打ち勝つ:to:クラピちゃんに勝てるわけないだろ相手は五ボスだよ?>」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおいッッッッ!!!!!!!?????」
何してんだこの人はーーーーーーーーーーーーッ!!??
ハイ逆転しました! 運命が完全に逆転しちゃいました! 残念! 鈴瑚は勝てないことが確定してしまった! おお、鈴瑚よ、戦う前から負けを確信するとは情けない! って、うるせー!! 馬鹿!! 完全に戦うテンションでカッコつけちゃった私が馬鹿みたいじゃんかああああああああ!!!
「馬鹿かーーーーーーーーーーーッ!! 何してんの何してんの何をしてくれちゃってんですかこの似非セフィ○スがあッ! アンタ自分の能力を何だと思ってんだこの局面でええええええええ!!!」
「ごご、ごめんなさいごめんなさい! で、でも完全にそういう空気だったわよね!? 私が応援して、アナタが奮い立つみたいな流れだったわよね!?」
「人選を考えてくださいよおおおおッ!! アンタ自分がそういうポジションじゃないって判ってるでしょーーーーーーーッッ!!??」
アカンアカン! もう駄目だこりゃ! 戦うって選択肢が潰えた! もういっそのことこの人置いてっちゃうか! 置いて逃げちゃうか! そっちの方がいいんじゃないかなもう! パニクる運命逆転屋さんとか見え見えの爆弾でしかないもんなぁ!
「――きゃはははは! 私を差し置いて面白いことしてるわね! 許せない! 私も混ぜてよーッ!」
星条旗の妖精がグルン、と松明を振るう。その途端、レーザーやら星形弾幕やらがグワッと上空に展開された。それはまるで小惑星の爆発。眩いばかりの弾幕が視界の全てを埋め尽くし、信じられないくらいの速度で私たちに迫ってくる。
……あれ? もしかしなくても私たち、死ぬんじゃね?
「ヤバいヤバいヤバいヤバい! サグメさま逃げますよ! 脱兎のごとくに逃げます! もうそれしか方法がない!」
あわあわとパニクるサグメさまの手をグイと掴み、どことも知れない場所へと走り出す。彼女の腰が現在進行形で抜けてしまっているせいか、半ばどころじゃなく彼女を引きずる形になる。しかし火事場の馬鹿力って奴のおかげか、それでもそれなりの速度で逃げることはできた。
「痛い痛い痛い! 鈴瑚! 物理的に私が穢れていく! 私の服に泥と葉っぱが!」
「言ってる場合か! 嫌なら自分の足で走ってください! ていうか喋らないで!」
「鈴瑚、飛んで逃げられない!?<code:舌禍:Reverse:鈴瑚と稀神サグメは飛行能力を持つ:to:不思議な理由で飛べなくなっちゃいました>……あ」
「ほらあ! そういうことになるからああああああもおおおおおおおおおお!!」
首を絞めるとかブン殴るとかでサグメさまを黙らせたい衝動に駆られるが、残念ながらそれを実行している暇はなかった。背後の竹がメキメキと音を立てて折れたり、地面が爆発するような音がひっきりなしに聞こえるからだ。
マジで何なんだあの妖精は! 妖精に許されるレベルを超越してるぞ! これじゃサグメさまが運命を逆転させてなかったとしても勝てるかどうか! もしくはさっきの逆転よりも前に何か変な具合で弄られてたのかもしれんが、考慮したところでどうにもならん!
とにかく、逃げることだ。逃げまくることだ。今はそれ以外にどうしようもない。
「きゃははははは!! きゃは! きゃはは! ねぇねぇ!! 逃げないでよぉおお!? あたいと遊ぼうよおおおおお!!?? きゃははははは!!!」
「いやああああああ!! 来ないで! 来ないでぇえええええッ!!<code:舌禍:Reverse:クラウンピースが疲れて帰る:to:クラピちゃんのスタミナは無尽蔵なのです!>ひいぃいいいいいいいッ!!」
国旗妖精が変な薬でもキメたみたいな笑い声をあげながら、エゲつない弾幕をブチ撒けてくる。その爆音に負けず劣らずの音量で、サグメさまが甲高い悲鳴を上げまくっていた。この世界にまともな奴が私だけみたいな気分になる。
どうする私。このままじゃジリ貧……っていうか、どう考えても蹴散らされるぞ。こちとら全力で逃げてて体力の限界も近いってのに、あちらさんはスタミナが切れる予兆すらない。
戦って勝つ運命は塗り潰された。
逃げても逃げても、相手の追跡が止まない。
これって私たち、詰んでない?
どうしろってんだ。戦っても駄目、逃げても駄目ときちゃ、全面降伏しかないのか? あの狂った妖精がジュネーヴ条約を理解しているなんて思えないんだけど。ヤバい。そろそろ体力の限界。サグメさまを引きずって走るなんて無理があった。両足は痛いし、サグメさまを掴む腕が悲鳴を上げてる。たぶん、半狂乱のサグメさまが私の腕に爪を立ててるせいだ。めっちゃ痛い。
やはり、サグメさまを捨てて逃げる他にないのか。
そんな後ろ向きな思いが去来した途端、私の右足に何かが引っ掛かる。
「――うわわっ!」
足がもつれたせいで、私はその場に転んでしまう。地面に手を突こうとするとっさの反射神経。しかし、突いたはずの手は地面よりも下へズボッと抜けてしまう。
「ッ!?」
何が起きたのか判らない。走っていた。そして転んだ。なら、バランスを崩した私の身体は地面に叩き付けられるはず。だが、私の身体はサグメさま諸共、頭から地上の重力に従って地面の中へと呑みこまれる。私たちが居た場所から、すさまじい爆音と圧倒的な熱が湧き上がるのが判った。
「っぐぁ!」
不可思議な浮遊の時間は、そう長くは続かなかった。身体がひんやりとした土に叩き付けられる。意識がぶっ飛んでしまいそうな痛み。
「……げふっ!?」
何が起きたかと自問するよりも早く、上から降ってくる衝撃。サグメさまが私の上に落下したらしい。これで死んでたっておかしくない。そう思えるってことは、どうやらまだ死んではいないらしい。そんなことを他人事みたいに考えた。
「痛い痛いッ! イヤ! もうイヤだよぉおおお! 帰る! もう帰りたい! 誰でもいいから無事に帰らせて!!<code:舌禍:Reverse:稀神サグメと鈴瑚が用事を終わらせて無事に帰る:to:稀神サグメも鈴瑚も、無事では竹林から帰れない> 助けて八意さま!<code:舌禍:Reverse:物音に気付いた八意永琳が様子を見に来る:to:八意永琳は来ない。現実は非情である>神様仏様! 月の兎たちぃいいいいいい!!<code:舌禍:Reverse:稀神サグメの帰りが遅いことを心配した月からのコンタクトがある:to:月の兎が助けに来ることはない。現実は(以下略)> 助けてぇええええ! ふわあぁあああんッ!」
「サ、サグメさま……ちょっと、黙って……!」
私の上で子どものように泣くサグメさまに、蚊の鳴くような声で懇願する。たぶん今ので八意さまはもちろん、神様仏様や元同僚の兎が助けに来てくれる可能性も無くなった。この人がパニクるたびに、どうしようもない境地へと叩き込まれてしまう。泣きたいのはこっちだぞ畜生。
死にそうなくらいの激痛に苛まれつつも、周囲を見回す。土しか見えない。どうも落とし穴のトラップに嵌ってしまったらしい。これも妖精の仕業か? いや、アイツらにそんな知能があるとは思えない。だが、サグメさまの能力の影響かもしれないので、何とも言えない。重要なのは、このトラップを仕掛けた奴について考えることじゃなく、あの国旗妖精がどうなったかだ。
「ひっく……うぐ……うぅううう……ひぐ……ふえぇ……」
サグメさまの嗚咽のせいでよく判らないけれど、さっきまでの爆発音やら何やらは聞こえなかった。あの妖精は私たちを見失ったか? はたまた、さっきの爆発に巻き込まれて木端微塵になったと思ってくれたか? もしくは周囲を探してるのか? 何にせよ、サグメさまの泣き声を聞き付けられたらヤバい。
「ちょっと、サグメさま……! いまは泣いてる場合じゃ……!」
言いつつ彼女のお尻の下から抜け出そうともがく。土を掻くように両手をバタバタさせてたところで、右手の指先が妙に硬質な感触を伝えてくる。何だこりゃ? 石か? そんな風に考えようとした途端、カチリと音がして、指先が一センチほど沈んだ。
ははーん。判った。
これ、何かのボタンだ。
まったくもって嫌な予感というのは当たってくれるもので、その変なボタンを押してしまった途端に、私たちの身体が急激に上へと跳ねあげられる。落とし穴の底から姿を現した網によって、釣り上げられるみたいに。
「いやあああああああッ! 今度はなに!? なんなの!? もう嫌ぁあああああああああああッ!!」
網に絡め取られた私たちは、気付けば落とし穴から五メートルほど上の地点に垂れ下がっていた。網は竹か何かに吊り下げられているのか、ビヨンビヨンとヨーヨーみたいに上下する。さっきからうつ伏せのままな私の目には、近付いたり遠ざかったりを繰り返す地面が丸見えで、実に心臓に良くない。
なんだ。なんなんだこの竹林は。
もう誰か助けてくれ。マジで。
「――あ、居たぁ」
国旗妖精の嬉しそうな声が、私たちの上から聞こえてくる。ああ、万事休すだこれは。こっちは訳の判らんトラップのせいで身動きすらとれないというのに。
「何してんのー? 楽しそうねぇ、それぇ! きゃははは!」
網の向こうから私たちを見る国旗妖精の顔が、それはそれは楽しそうに歪んでいる。ピエロみたいな彼女を間近に見たサグメさまが「ヒィ……っ!」と悲鳴をあげた。
もう私たちに打つ手なんか、ひとつだって残ってない。
「きゃはははは! 月の民ぃ捕まえちゃったぁ! どうしよっかなぁ!? どうしちゃおうかなぁ!? とーりーあーえーずー……こうだぁ!」
国旗妖精が空中でほんの少しだけ身体を引き、私たちに体当たりをしてくる。網で吊られている私たちは、当然のことながら趣味の悪すぎるブランコみたいに大きく左右に振り回される。
「きゃあああああああああああああ!! やめて!<code:舌禍:Reverse:クラウンピースが網を揺らす遊びに飽きてやめる:to:クラウンピースがこの遊びを気に入って、もっと続ける> やめなさい! もうイヤだあああああああッ!」
「きゃはははは! それそぉれ! もっと泣けー! もっと叫べー! ほぉらもっともっと揺らしちゃうわよー! きゃははっ! きゃははははははは!!」
妖精が体当たりを仕掛けるたびに、網の揺れは強くなるばかりだった。私の視界に空が映ったかと思えば、瞬く間に地面が映り、そして笑い転げる妖精の顔が映る。何かの拍子に網ごと地面に落っこちる気がして、私は無様にも声すら出せない有様だった。元気に泣き喚いているのはサグメさまばかり。
「イヤ! イヤァアアアアアアアアアアアッ! お願いだからもうやめて!」
「きゃはははははは! 月の民が泣いてる! 月の民が泣いてるよぉおお! きゃはははは! 楽しい! 気持ちいいいいいいいいいいいい! ねぇねぇえええええ! 見てますかぁ!? ご主人さまぁ! ご友人さまぁ! きゃははははははははははは!」
「……っこの! 調子に乗りやがって妖精ごときが! こんなことしてただで済むと思うな!?」
「きゃははは! 聞こえなーい! 兎なんか怖くないよーだ! アンタも泣いてよぉ! 涙で顔をグチャグチャにしながらあたいに許しを請えー! きゃはははははは!」
「っく……!」
歯軋り。悔しいが、こんな体たらくじゃ虚勢を張ったって効くわけがない。景色が目まぐるしく変わって、重力の方向があちこちに向いて、酔ってしまいそうなくらいだった。
どうすればこの状況を抜け出せる?
何も策はないのか?
まさか、もうこのまま、この妖精から良いようにされるしかないのか……?
これまで張りつめていた気力が、弱々しく萎えていく。捨て鉢な気分、諦めにも似たマイナスの感情。そうしたどうしようもないやるせなさが、私の中でどんどんその大きさを増していく。
――もう、駄目だ、と。何もかも諦めて、目を閉じようとした、そのときだった。
ふと、振り回される視界の片隅に見覚えのないシルエット。ピンクのワンピースに、あれは……ウサ耳か? そんな少女が私たちを見上げている光景が、ほんの一瞬だけ私の視界を通り過ぎる。
「――うーわ、なにあれ。怖い」
サグメさまの悲鳴と妖精の狂った笑い声を掻き分けて、ドン引きしたような少女の声。ウサ耳の少女……イーグルラヴィの誰かか? それとも、月から助けでもきた? いや、そんなわけはない。助けが来る運命は、サグメさまがことごとく逆転させた。
それじゃ、あれは誰だ……?
いや、誰だって構わない。
このまま妖精の玩具にされ続けるよりは、ずっとマシだ。
「――おい! そこのアンタ! 助けてくれ!」
グルグルとダウジングの振り子みたいに振り回されつつも、助けを乞うてみる。視界が定まらないせいで、ウサ耳の少女に声が届いたかどうかは判らない。
だが、少なくとも国旗妖精にはしっかりと聞かれていたようだ。嬉々として私たちに体当たりを続けていた妖精が、体当たりをやめ、地面の方へと視線を向ける。慣性の法則に従って私たちの揺れが少しずつ収まり、やがてウサ耳少女が視界から外れなくなる。
「兎だー! ねぇねぇ! アンタも月の兎ぃ!?」
国旗妖精が松明を振り回しながら、少女に問いかける。この隙に何とか抜け出せないかともがいてみるが、網が私たちを解放してくれる予兆はない。私の上のサグメさまは過呼吸にでも陥ってしまったのか、悲鳴とも嗚咽ともつかない呼吸を繰り返していた。ほんとこの人、竹林に入ってから良いところないな。
「地上の兎だよ」
少女が面倒臭そうに国旗妖精に返す。私たちに視線を移した彼女は、ははんと小馬鹿にするみたいに鼻を鳴らして、
「性懲りもなく罠にかかる鈴仙ちゃんを笑いに来たってのに、なんだかヤバげな雰囲気だね。網で捕まった奴らの前に、松明を掲げるへんちくりん? いつから迷いの竹林は、密着! アマゾンの神秘! ってな具合のディスカバリーチャンネルの舞台になったのかな?」
「私らは月からの使者だ! 八意さまに逢いに来た!」
状況が判ってないらしい――というよりは妙に余裕な態度の地上の兎に告げる。
少女の口から鈴仙ちゃんの名が出た。つまり、彼女は鈴仙ちゃんの知り合いの兎だ。となると、永遠亭の関係者である可能性が高い。永遠亭側は、もうサグメさまが来ることを知っているはず。
「あーらら。そりゃ、マズい」
こっちの話は通じてくれたらしく、少女はやれやれと肩を竦める。彼女は周囲の様子を確認でもするみたいにキョロキョロと視線を移ろわせると、
「それじゃ、アンタらを放って帰るわけにはいかないね。首を突っ込んだらヤバそうだったから、帰りたかったのに。なぁ、アンタら。お師匠さまには、因幡てゐが助けてくれたと言ってちょうだいね? ああ、因みに、その罠を仕掛けたのは私じゃないからね? 嘘じゃないよ? 私は嘘なんか吐いたことがない。それもこれも全部、乾巧って奴の仕業なんだ」
いや、嘘を吐くな。誰だそれは。現れたタイミングとか最初の口ぶり的にアンタだろ。どう考えても。
なんて水を差してる場合じゃないとか思ってたら、
「アンタは私の邪魔をする気なんだ!」
と、ルナティック合衆国国旗が地上の兎――てゐに敵意を向ける。
妖精の域を脱したコイツの強さを、私たちは身を持って体験している。八意さまの関係者とは言え、地上の兎に勝てる相手とは思えない。このままじゃ、せっかく幸運にも訪れてくれた助けが無駄になっちまう。
考えろ、考えろ。サグメさまが逆転させまくった運命に縛られている今、私たちの最適解とは何だ。絡まった運命の糸を選り分けるように、現状を解き明かせ。八意さまを呼んで貰う? 駄目だ。あの方がやってくることは、きっとない。てゐとやらが、国旗妖精と真正面から戦うこと。それは避けなくちゃならない。
なら、兎にも角にも、私たちを拘束から解いてもらうこと。
そして、永遠亭へと案内してもらうこと。
それしかない。それがベストだ。永遠亭にさえ着ければ、何とかなる運命はまだ逆転していないはずだ。その目的を達成するまで、サグメさまに黙ってもらわにゃならんが……。
「――鈴瑚……もしかして、アレって……?」
スンスンすすり泣きながら、サグメさまがポツリと呟く。ヤバいヤバいヤバい、サグメさまがてゐを見つけちまった。またぞろパニックで何か言い出す前に黙らせないと!
「サグメさま、いいですか!? 落ち着いて! そうですそうです! 見ての通り助けに来てくれた兎です! もう大丈夫ですから、絶対に何も言わないでください! フリじゃないですからね!? ここで運命が逆転したら、もう終わりですから!」
「そこの兎さん! 私たちを助けて!」
「終わったあああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!!」
聞けやーーーーーーーーーーーーーッ!!!!! 私のアドバイスを! 私の! 私の! 私の話を聞けぇーーーーーーーーッ!!!
駄目じゃん! もう駄目じゃん! あの兎が私たちを助けてくれる運命までもが潰えた! はい! 私たちの新たな転職先が決まりました! 妖精の玩具です! チャチャチャ、玩具のチャ・チャ・チャ!!!
「何してんすかーーーーーーーッ!!!! 助けを求めるな! あの兎について言及すんな! もう運命引っ繰り返ったじゃないですかあああああああああああッ!!!! このワンピース手羽先女がーーーーーッ!!!」
「――鈴瑚」
サグメさまが、いつになく真剣な声音で私の名を呼んでくる。
……まさか、何か策があってワザワザ助けを求めるような真似を?
そっか。そうだよね。サグメさまが、何度も何度も同じような失敗を繰り返すわけがない。もしかしたら、てゐと国旗妖精の力の差を見越した上で、敢えて言及し、てゐが我々を助けることができないという運命を逆転させたとか――
「ごめんなさい」
「期待して損したあああああああああああああああああああああああああッ!!!」
学習能力ゼロなのかアンタは! ここまで繰り返したらプラナリアでも学習すんぞ! まして自分の能力でしょうが!! トラウマごときに振り回されてどうすんだマジで!!
はーい。私たちの旅路はこちらで終点になりまーす。お疲れさまでしたー。今後の余生は、きゃはは妖精から体当たりされたり突っつかれたりで、いっぱいいっぱい穢される素敵な日常が待ってまーす。妖精以下という斬新な身分を楽しんで逝ってねー。
私、泣いて良いかな?
「――なんか、勘違いしてるみたいだけど」
国旗妖精とにらみ合いをしていたらしいてゐが、ため息を吐いてから告げてくる。眼下では一触即発な空気が流れつつあったが、もう諦めてしまった私にとってはどうでもいい。
「私は何もしないよ。私が助けるんじゃない。アンタらが勝手に助かるんだ。まあ、見てなって。ここから先は馬鹿馬鹿しくなるくらい、アンタらにとって都合の良いこと『しか』起こらないから」
「……は?」
どういう意味だろう。てゐが言わんとしていることは、よく判らなかった。運命なんてものは気の持ちようでしかないんですよー、みたいな楽観的な自己啓発だろうか。そんな慰めなんて、サグメさまの舌禍の前じゃ通用しないんだけど。
「月の民は渡さないんだからねー!!」
国旗妖精が、ブンと松明を振るって弾幕展開の準備に入る。狙いはもちろん、私たちを見上げてニヤニヤしている因幡てゐ。
「笑ってられるのも今の内なんだからね!! アンタも泣き叫べー!!」
国旗妖精が、バトンのように松明をクルクル振り回す。空中に展開される魔法陣。そこから飛び出すのは、私たちを散々追い掛けてきた高密度のレーザー。果たして地上の兎に、それを避けるような技量があるのか――
そう思っていた途端に、何の前触れもなく突風が吹く。
燃え盛る松明の炎が、私たちを吊り上げていた縄に引火する。
「――え?」
火が点いた縄一本で、私とサグメさまの体重を支えられるはずもない。プツン、と音がして私たちは地上へと落下していく。思わず悲鳴を上げる私とサグメさま。突風に煽られたせいか落下地点は落とし穴からズレて、『たまたま』密集した竹の葉のクッションの上に落ちた。
「――ぐえッ!」
とはいえそれなりに位置エネルギーはあったわけで、地面にぶつかった衝撃は、なかなかのものだった。だが、あの高さから落ちて骨の一本も折れていないのは僥倖だろう。きゃーきゃーわーわーと喚くサグメさまの下で、なんとか体勢を立て直そうとする。
「あー! 月の民が!」
さすがの国旗妖精も、突如として降りかかった偶然の積み重ねに慌てふためく。彼女はてゐから視線を逸らし、私たちに松明を向けて、
「フン! 地面に落ちたくらいじゃ、あたいからは逃げられないもんねー! 網から出る前に、丸焼けになっちゃえ!」
さっきまでてゐに向いていた魔法陣が、こちらに照準を定める。さきほど燃えたのは、私たちを宙吊りにしていた縄の一本だけ。つまり、網から逃れられたわけじゃない。レーザーが射出されるより前に、抜け出さないと……
「おやおや、突風に流されちゃったか。可哀想に」
てゐが頭の後ろで両手を組み、見世物でも見物してるみたいに言う。なんのこっちゃ、と彼女の視線を辿る。風に任せるがまま中空を滑ってくるのは、どうも看板か何かのようだった。
んなアホな。
この竹林で竹に引っかからず、ここまで飛んでくるなんてどんな偶然だ。
「――ぎゃあ!!」
看板が、国旗妖精の後頭部にヒットする。もはや意味が判らな過ぎて、変な笑いさえこみ上げてきた。突然の痛みに怯んだか、彼女が展開していた魔法陣が消える。松明を持ったまま、半泣きで後頭部を抱える妖精は、しかし闘志を無くしたわけじゃないようで、
「いったぁい……! うぐぐぐ……! こんなことで泣くあたいじゃないもん! 月の民をやっつけてやるんだから!」
「仕掛けた罠はひとつだけじゃないんだよねー」
てゐが手頃な竹の根元に腰を下ろし、足を組みながらウキウキと言う。私は網の隙間から、彼女の視線を観察していた。どうもてゐは、先ほど妖精の頭を強打した看板の行く先を眺めているらしい。不自然な風は『霧雨魔法店』と書かれているらしい看板をゴロゴロと転がし、地面のとある地点に激突する。
その途端、地面が大爆発を引き起こした。吹き荒んでいた風を押し返すほどの爆風と、目の奥が痛くなるほど眩い爆炎。国旗妖精をも含めた私たちが、思わず呆然と立ち尽くす。
「えぇー……」
地雷か? あれ? 怖ッ。イタズラで済むレベルを超越してるぞ。普通に踏んだら死ぬじゃんか。ある意味、私たちが掛かったのが落とし穴と釣り上げ網だけで幸運だったのかもしれない。
爆風によって竹の梢の向こう側まで打ち上げられた看板が、錐揉み回転をしながらこちらに戻ってくる。あぁ、なんとなく、これからどうなるのか予想がついた。ご愁傷様って感じだ。
思った通り、看板は国旗妖精を目掛けて一直線に降ってくる。しかし、看板の行く末を見ていたのは妖精も同様。さすがに彼女が見えている飛来物に対応できないわけもないようで、
「あたいの頭をぶった悪い看板め!! 二度もぶつけられて堪るか!!」
グルン、と松明を回した妖精が、弾幕を発射して看板を打ち落とす。哀れ、看板はレーザーに貫かれ、星型弾にもみくちゃにされ、バラバラになる。危機を切り抜けた、とばかりに妖精が胸を張り、ドヤァとばかりに笑みを浮かべた。
その瞬間、
「――ウチの看板に何しやがる!!」
遠くから聞き覚えのある恐ろしい声。突風なんか比じゃないくらいの速度で飛び込んでくるのは、懐かしい白黒のシルエットだった。猛スピードで突っ込んで来た箒乗りの魔法使いが、ドヤ顔妖精に激突する。
「っきゃあああああああッ!!??」
跳ね飛ばされた国旗妖精が上空に吹っ飛び、先ほどぶっ壊された看板よろしくクルクルと落ち葉のように回転しながら堕ちてくる。
「今は取り込み中だ!! 後でもう一回ぶっ飛ばしに来るからそこで待ってろ!」
言って、彼女を轢いた白黒の姿は、あっという間に竹林の向こうに消えていった。
とか思っていたら今度は、
「――魔理沙さん! まだ勝負は終わってませんよ!! 看板が飛んでったくらいで逃げないでください!」
とか叫びつつ、白黒が飛来した方向からエキセントリック緑巫女の姿。ああ、いきなりの突風はコイツのせいだったか。どうも弾幕ごっこの最中だったらしく、彼女はレーザーやら星形弾幕やらを、やたらめったらに撒き散らしながら白黒の後を追う。
白黒が行ってしまった方向は、向かって左。
右からやってくる緑巫女が弾幕を放つ方向もそちら。
その両者の間に、国旗妖精が降って来るわけで――
「ギャアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!????」
当然、緑巫女の弾幕は、国旗妖精にヒットする。わぁ、もう見てらんない。ちょっと可哀想になってきた。さんざっぱら被弾の憂き目に逢った妖精が、地面に落ちてからピクリとも動かなくなる。
「なんなんですか!? 邪魔しないでくださいよ!! 魔理沙さんをやっつけたらまた来ますから、そこで待っててくださいよ!?」
緑巫女は、弾幕ごっこに巻き込まれた哀れな妖精に無慈悲な言葉を吐き捨てて、白黒の行ってしまった方へと消えていく。それに伴って、吹き荒んでいた風が止んだ。
怒涛の勢いで押し寄せたご都合主義の数々に、私の頭じゃ着いていけない。あまりに幸運が過ぎると変な笑いを浮かべて呆気にとられる他にないんだなー、なんて。なんだか他人事のように感じた。
「――さて」
どうやら再起不能になったらしい国旗妖精を眺めていたら、どっこらしょ、と立ち上がったてゐが尻の辺りをポンポンと叩いて言う。
「永遠亭まで案内しましょうかね」
「……アナタは、いったい……? 運命を操れるとでも言うの? 地上の兎に、そんな力が……?」
やっとのことで、(マジ、やっとのことで!) 落ち着きを取り戻してくれたらしいサグメさまが、平然顔で私たちを見るてゐに問いかける。
それを受けたてゐは、チ、チ、と指を振りつつ、
「私はただ、幸運を与えるだけだよ。運命を山あり谷ありの行程と定義するなら、幸運は山も谷も強引に迂回させて、なだらかな道だけを進ませる案内人みたいなものってこと。たとえ運命が逆転したところで、幸運の加護は全ての災難を消しちゃうのさ」
と、底知れない笑みを浮かべつつ言うのだった。
◆
「――まぁまぁ、サグメ。よく来てくれたわね」
てゐの案内に従って竹林を歩くこと十数分。私たちは呆気ないくらいに永遠亭に行き当たり、八意さまに迎えられる。サグメさまは彼女の姿を見るや否や感極まったのか、八意さまに抱き付いた。
「~~~~~~~~~~っ!!」
「あらあら。しょうがない子ね。こんなに汚れて、可哀想に」
半泣きで八意さまによしよしされる彼女を眺めつつ、やれやれとため息を吐く。まぁ、ここまでの道中で色々あったしね。本当に。いろいろ。死ぬかと思った。割とマジで。
とか思ってると、屋敷の奥から鈴仙ちゃんが出てくる。彼女は私を見て首を傾げた。
「あー、やっと着いたんだ。ちょっと遅くな――ウボァ!?」
とりあえず、鳩尾に正拳突きを喰らわせる。お腹を抑えてへたり込む彼女を見て、てゐがゲラゲラと笑い転げた。
「ゲフッ……な、なぜ……?」
「アンタの不手際の罰だよコンチクショウ」
パンパン、と手を叩いて吐き捨てる。殴られたお前も痛いんだろうが、殴った私の拳だって痛いんだ。そもそも鈴仙ちゃんがしっかりしてれば、私はああも振り回されずに済んだんだからな。
……ともかく、これでミッション・コンプリートだ。
サグメさまは八意さまのもとに送り届けたし、鈴仙ちゃんの鳩尾を抉るのも終わった。月の要人を送り届けるだけで、信じられないくらいに疲れた。だが、全てが終わってくれた今、もう死ぬような目には逢わなくて済む。
「――鈴瑚?」
八意さまの胸から顔を離したサグメさまが、私に振り向く。彼女は泣き腫らした目を遠慮がちに俯かせ、
「迷惑を掛けて、ごめんなさい」
「あぁ、良いんですよ。もう。終わったことです」
肩を竦めてそう答える。
……まあ、確かに死ぬほど迷惑は掛けられたさ。
だけど、このタイミングでそれをウジウジ言うのも野暮だろ? 道中で色々あったが、サグメさまは八意さまに逢うことができた。それでいいじゃないか。
八意さまからのお礼は魅力的だ。しかし、八意さまに逢えて心の底から喜ぶサグメさまを見るだけでも、かなり満たされてるんだ。苦労した甲斐があった……と言うには、ちょっと苦労し過ぎた感は強いが。
私の返答に安心したのか、サグメさまが小さく微笑む。そして、目元に浮かんでいた涙を指で拭って、
「私は、お前に感謝してる。せめて、この穢土でも健やかに」
「えぇ。もう会う機会もないかもしれませんがね」
「鈴瑚……と言うのね?」
サグメさまの頭を撫でつつ、八意さまが私を見る。
「あ、はい」
「アナタにも、後日お礼をしなくちゃね。今日はサグメと話をしなきゃいけないから、難しいのだけど……」
「ああ、いえ。大丈夫です。また伺います」
「うん。よろしくね? それじゃサグメ、中へどうぞ。てゐ、一緒に来てちょうだい?」
「はいはーい」
八意さまはてゐをお供に添え、サグメさまの肩を抱きつつ屋敷の中へ。永遠亭の前庭には、お腹を抑えて震える鈴仙ちゃんと私だけが残された。
「うっく……うぐぅ……何も、殴らなくたって……」
「うっせぇ。アンタがきちんと手筈を整えてりゃ、こんな竹林で死にかけなくて済んだんだよこっちは。私がどんな目に遭ったか、逐一聞かせようか?」
もう、本当に大変だったんだこっちは。サグメさまったら、口を開く度に運命を逆転させる癖に、パニックになって要らんことばかり言うせいで――
……ん?
何だろう。なんか、引っ掛かる。
まだ何か、サグメさまが逆転させちまった事柄が残ってたような? なんだろう。さっきまでは私だって相当にテンパってたから、あの方の話を全部覚えてるわけじゃないのだけど……。
――あの人、帰るとか帰りたいとか、そんなヤバいことを喋ってなかったっけ?
「――鈴仙ちゃん? 大丈夫?」
と、不意に聞き覚えのない声。鈴仙ちゃんが蹲る方から。驚いて振り向けば、ひとりの女の人が鈴仙ちゃんを介抱している姿。金髪、黒を基調とした中華風の衣服、陽炎のように揺らめく薄紫のオーラ。
「そこの兎にやられたのね? そうなのね? 聞いてたもの。そこの兎が、鈴仙ちゃんを殴ったのよね? ああ、なんて可哀想な鈴仙ちゃん。こんなに可愛らしい女の子だというのに、暴力を振るわれるなんて酷すぎるわ」
ゆらーり、と。金髪さんが私の方を見る。その目の色が、私の心臓を握り潰す。据わった目。千年を超えて恨み続ける怨敵でも前にしたような目。
「じゅ、純狐さん……あまり、手荒な真似は……その子は、月での同僚で……」
「庇ってるのね? なんて優しい子なんでしょう。そんな子を殴るなんて、普通の神経をしてたら無理よね。やっぱり、月の民というのは兎に至るまで酷い人ばかり。可哀想な鈴仙ちゃん。アナタはこんなにも純粋で優しいのに、そんなアナタが不当な暴力にさらされるなんて、この世はどうしてこんなにも残酷なの――
――この私がッ!!! 鈴仙ちゃんに暴力を振るった輩をッ!! 許すと思うなッ!!! 私は貴様を許さないッ!! 貴様が犯した罪ッ!! その命を持って償って貰おうかッ!!!」
うわーーーーーーーーこれはヤバいヤバいヤバい!!!! 完全にイッちゃってる人だ!! 通常時とお怒りモードの転換速度が半端じゃない!!
と、とりあえず飛んで逃げよう――うわ、駄目だ飛べない! くっそ! サグメさまのせいだ!! 走って逃げるしかない!!
「逃がすかッ!! 憎き怨敵めッ!! 鈴仙ちゃんを傷つけたッ!!! 嫦娥の手先ッ!! それだけで貴様を殺す幾万の理由に足るッ!! 見てるか嫦娥ッ!! 貴様が育てた尖兵はッ!! 貴様と同様に性根が腐っているぞッ!!!!
――鈴仙ちゃん? あとで一緒にお茶しましょうね? 美味しい焼き菓子を持って来たのよ? アナタの口に合うと良いのだけど……」
ダッシュで逃げる私を追跡しつつ、純狐は怒り狂って叫んだり鈴仙ちゃんに優しく語り掛けたりと忙しない。つーか純狐って。よく考えたら嫦娥さまを付け狙うヤバい罪人じゃねーか。そんなのとお友達してるとか、鈴仙ちゃんは正気か。
ああ、何かに引っかかってた理由が判った。あの人が帰るとか帰りたいとか言えば、そりゃ私たちが帰るっつー運命が色々と捻じ曲がっちまうよな。
無事に帰れる運命から、無事に帰れない運命に!
なんてことしてくれるんだあの女神は!!!
「ふふふ……地上に居ながら、嫦娥の手先を始末する機会に恵まれるなんて、今日は運のいい日なのね。日頃の行いに感謝しなきゃね。
逃げるな兎ッ!!! その生意気な身体ッ!! この手で八つ裂きにしてくれるッ!!」
「誰か助けてええええええええええええええッ!!!」
ダレカ……タスケテ……。
Fin
鈴瑚ちゃん不憫すぎです。生きろ
ことあるごとに悲鳴をあげる鈴瑚がすごく笑えました
流れるようなテンポで一気に読めてしまいました
サグメ様の可愛いレベルがメキメキ上がっていって顔がにやけっぱなしでした。面白かったです!