Coolier - 新生・東方創想話

パレード

2016/03/16 17:21:11
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 夜半を過ぎて、家人が皆寝静まった頃に、絞った灯りの中で本を読むのが好きだ。その書物のページをめくる音を夜に溶かしこもうと、陽のある間ずっと読むのを我慢していたとっておきの一冊を楽しむのももちろん良いけれど、ほとんど意図しないうちにそうした時間を迎えているというのが最高だ。つまり、読んでいる本の魅力にも、夜の寒さにも抗えず、それらの力の増大のいわば当然の帰結として、顔と両手と本だけを前に出して布団に包まっている状態にいる自分にいつしか気付くという状態、しかもそこに至るまでの経緯を自分ではしっかりと思い返すことができないという状態だ。
 そういう時に私の周りに起こる出来事は、朝を迎えてから思い返しても、実際にあったことだと確信を持って言いきることがなかなかできない。それは夢の中で起こったことかもしれないし、本の中に書いてあったことかもしれない。あるいはそれは重ね合わさったその二つが、絞った部屋の灯りを遮って、私の薄れていく意識の前に投げかけた、単なる影にすぎなかったのかもしれない。
 そのような極めて曖昧な輪郭しか持たない記憶は、往々にしてそのもともとの色合いの淡さのせいで頭の中の深い部分にすぐに潜り込んでしまう。そのため、私がそれを思い返すのは、決まって数日が経ってからのことになる。その上それは、他者の言葉や記述の一片によって、いわば呼び水のようにして、あくまで間接的に想起されるのだ。
 午過ぎに阿求が本を返しに訪ねてきた。本棚から別の何冊かを取り出した彼女は、他に客もなく、私の両親も家の奥に引っ込んでいるのを良いことに、それらを胸の前に抱えてそのまま当たり前のような顔をして店のソファに座りこむ。上の一冊を取り上げて残りを横に置き、ページをぱらぱらとめくり始める彼女を横目に、私も頬杖をついて机の上に置いてあるうちの一冊を開いた。それは昨日眠り込む前に読んでいたはずの本で、そのためにどこまで読んでいてどこから読んでいないのか、自分でもよく分からない。夕食の後読んでいた、はっきりと覚えている部分から少しずつページを後ろの方へと繰っていく。しばらくすると、ここまでははっきりと読んだ記憶があるけれど、その先はそうではないという一文が見つかる。しかしながら、その先の不明瞭な部分もまったく未知のものというわけではなく、表す意味の像を頭の中に結ぶことができないまま幾度も読み返したのではないかと思われる部分が、どういうわけか幾行続く。それはもちろん眠る前の最後の数分に読もうと試みていた箇所だ。私はその意味を覚えていないのにも関わらず、その音を覚えている。文字の並びを覚えている。それはたとえばこういう一文だ。
『外からくる不運というものは存在しないのだが、不運はつねに内在する』
 もちろん今は、目覚めているこの私は、その文章の意味するところを充分に解することができるけれど、昨夜の最後の私はそうではなかった。でも、それらはどちらも同じ私であるはずなのだ。
 そういうことを考えながらその文を見ていると、私はなんだかぞくぞくしてくる。私たちは皆、ひどく壊れやすく、いつ踏み抜くかも分からないような薄氷の上でそれが当たり前のような顔をして生活しているのだ。
「ちょっと」と阿求が言った。ひやりと冷たい感覚が額にあった。
 彼女は私の眉間を人差し指で押さえていた。私は黙って顔を上げる。
「何考えてるの」
「別に」と私は言った。
 彼女は笑って近くに置いてある椅子を引いてきて、カウンターを挟んで私の向かいに腰かけた。
「幾つになっても嘘をつくのが下手だね」と彼女は言った。
「そう?」と私は言った。
 彼女の見透かすような物言いのせいでこめかみの後ろの辺りが少し熱くなるのを感じて、私は茶を淹れに席を立った。
 ひどく冷える冬だった。店の前の通りに幾度も白い雪のベールがかかり、客足も(それはうちの店に限ったことではないけれど)途切れがちになった。寒さの中で誰もが、急ぎでない外出の用事を都合良く忘れたり先送りにしたりして、暖かく明るい屋内に引っ込んだ。どうしても先延ばしにはできない用件や、あまりに生活に深く根を張っているために気温や天候などでは揺らぎようのない習慣に関する時だけ、人々は僅かな建物と建物の間を星座のような正確さと親密さで足早に行き交った。
 紅茶は湯気がよく立った。阿求はカップを啜り、私が先程まで読んでいた本を手に取ってぱらぱらとページをめくる。推測のための手がかりとなる記述はそこには見つからなかったようで、彼女は微かに首を捻って机の上にそれを戻した。私はそれを見て少し安心してしまう。
 私が彼女に自分の考えていることをそのまま言わないのは、それが他者からの同意を求めるような性質の意見ではないだろう(あるいは、いかにも気恥ずかしいものだ)ということもあったが、それ以上に、私の認識と記憶の境界の曖昧さを用いたこの他愛のない遊びが、一度見たものを決して忘れることのない阿求からしてみれば、不十分な記憶力しか持たない者による愚行にしか見えないだろうと考えられることが大きかった。私は彼女が意義を感じないものから私が感銘を受けている姿を彼女に見られたくなかった。早い話が私は幻滅されたくなかったのだ。
 彼女はそのうち諦めて、彼女が普段するような、妖怪やその周りのものごとの噂話に切り替えた。彼女は月から新しくやって来た兎の話をした。私が自分の不実の埋め合わせにいつもよりもずいぶん愛想良く相槌を打つので、彼女は曖昧な笑みを浮かべた。けれど、私は彼女の発するその微細なメッセージを読み取ることができないふりをした。ポットの中の紅茶は次第に冷めていった。
 私たちが気付いた時には分厚く黒い雲の奥の日はほとんど沈んでいた。これ以上店を開けていても仕方がないことは明らかだった。私は表の暖簾を下ろしに戸を開け、吹き付ける雪混じりの冷たく強い風に顔をしかめる。肌を切りつけるような冷気のせいで、向かいの店が三途の川の彼岸よりも遠くに見える。冷え切った暖簾を店の中に入れる私を阿求はぼんやりと見ていた。
「髪が」と不意に彼女が言った。
「髪?」と私は訊き返した。「ああ」
 私は外の風に煽られて乱れた髪の毛を直す。
「泊まっていくでしょう?」と私は訊いた。阿求は黙って頷いた。

 夕餉を両親と彼女と四人で食べた。こういうことは時々ある。阿求はいつでもこういう時の立ち回りがほとんど病的に上手かった。もちろん私の両親は彼女が良家の当主であったり、幾度もの生まれ変わりを繰り返している上にそれぞれの代のすべての記憶を引き継いでいたりするということを知っている。けれど、彼女がひとたび目の前に座ってそうしたことについて話しだすと、彼らはそれらのことがまるで人が誰でも持っている他愛のない個性、たとえば髪が長いとか、爪を噛むとか、その程度のことであるように思い込まされてしまうのだ。
 彼女はそういう場面において、自身の性質を決して何か人間離れした、突出したものとは見せなかった。むしろそれらを有していること、またそのことが周知されていることが、彼女自身の人格にとってはある種の重荷であるという風に振る舞った。彼女は実際にそうであるよりも幼く、健気に振る舞った。自身のプロフィールを他人がどう受け取るのかを完全には理解していないような顔をして、それでもそのイメージと実際との目に見えるギャップに慄いているような振りをした。何しろ、彼女は私の両親から同情さえも引き出してみせたのだ。
 彼女の私の両親の前での振る舞いは、言うまでもなく私にとってありがたいものであるし、またもちろん彼女はある程度までは私のためにそうしていることは確かなので、私はそうしたことをたとえば狡猾だとか打算的だとか、そういう風に言いたいわけではない。ただ、そのようにして何というか、他人を口で丸め込んでいるような現場を見せられると、たとえそういう時間が終わった後に彼女が私にだけ見える笑みを浮かべて片目を瞑ったとしても、私は必ずしも心中穏やかではいられなかった。私だけが彼女の精神の内奥を知っているという風に、安易に自惚れることなどは到底できなかった。結局のところ、彼女にとって、私の両親と私の間に一体どれほどの違いがあるというのだろうか。
 彼女が私に対して打ち解けた態度を取ってくれればくれるほど、私は彼女のことがよく分からなくなった。一体彼女は私から何を得ているというのだろう。彼女が他者に求めるだけのものを、十全に示すことが私にできるとはどうにも思えなかった。
 私はただ私自身の中から、彼女が気に入りそうな部分を念入りに選び出して、恐々彼女の目の前に並べていくだけだった。私は臆病だろうか。そうかもしれない。ただ、それはまったく私のせいなのだろうか。
 私は風呂に入りながらそういうことを考えていた。多分劣等感とは少し違う。何が違うのかはよく分からない。
 風呂から出て部屋の襖を開ける。私がいつもならば床に入って次第に眠りながら本を読むような時間になっても阿求は起きて、私の部屋の窓越しに通りを見ていた。台所から砂糖菓子を拝借してきた私もそれに付き合って隣に座る。砂糖菓子を一つ渡すと、彼女は礼を言ってその小さな包みをぱりぱりという乾いた音をさせて開いた。
 湯上りでややぼんやりとしていた頭には、窓から発せられる冷気は確かに心地良かった。
「何か見える?」と私が何気無く訊くと、彼女は「昨日はね」と答える。
「昨日?」と私は訊いた。「何かが見えたの?」
「夜に……いや、多分笑うよ」
「笑ったら駄目?」と私は半ば本気で訊いた。
 彼女は笑った。
「良いよ。許す」と彼女は言った。
「ありがとう」と私は言った。
「昨日の夜こっそり外に出た時にね、通りを……紙が歩いていたんだ」
「紙?」
「うん」
「どうやって?」
「……変じゃない?」
「変って……変だけど、覚えてるんじゃないの」
「覚えてるよ。そりゃあね。けどそれが本当にあったことかどうかなんて分からないでしょう」
「?」
「雪は昨日も降っていたし」
「ああ、そういう」
 私は頷いた。彼女が言っているのはつまり、彼女の絶対的な記憶力が保証するのは、何かが起こったということではなくて、あくまで何かが起こっていると彼女が認識したということだけだということだ。
「自分が見たものに自信が持てない?」
「少し飲んでもいたし」
「ああ、うん」と私は笑って言った。「お転婆をしていたわけね」
「そう」
「何か気に食わないことでもあったの?」
「まさか」と彼女は言った。「腹いせにそんなことするなんて、低級でしょう」
「別に、何をどうしても高級にはならないと思うんだけど」
 彼女は笑ってもう一度窓の外を見た。私もじっと目を凝らして凍り付く通りを見た。
「紙の象がたくさん歩いていたんだ」と彼女はしばらくして、ようやく言った。「ぼんやりと光って」
「象」
「小さい頃に折ったことがあるでしょう?」
「まあね」
「本物を見たことがある?」
「ないよ」
「でしょうね」
「あんたは?」
「ないわね」
「地獄に来たことがない?」
「ないって」と言って彼女は笑った。「死んだ象が裁きを受けに来るの?」
「知らないけど」
 軽口を叩きながら、私は彼女の言葉が頭のどこかに引っかかっているのを感じていた。紙の象。起きている私は、その言葉からその言葉が表している意味を頭の中に立ち上げることができた。紙の象。それを私はどこかで見たことがあった。
 私は押し入れの襖を開け、中を探った。
「何、どうしたの」と阿求が訊いた。
「千代紙を」と私は言った。
 彼女は頷いた。千代紙の入った箱は少々埃を被っていたが、割とすぐに出てきた。私は埃を手で払ってそれを開ける。やや色褪せていたものの、短い月日では覆い隠しがたい繊細な模様で飾られた千代紙を私は一枚取り、机の上で折りはじめた。
 端と端がずれないようにぴしりと折り目をつける。角が指に刺さりそうになるほど鋭く精確に。千代紙で遊ぶような頃をもうずいぶん遠くまで通り過ぎた私でも、阿求のような絶対的な記憶力を持ち合わせていない私でも、ちゃんと象を完成させることができる。私の頭ではなく、指がそれを覚えている。そういったことというのは、どうやっても忘れないものだ。
「ああ、それ。それだよね」と私の手元をじっと覗いていた彼女は、紙がやがて四つの足と鼻を形作るとそう言った。
「閻魔様に怒られるような罪を犯すようにはちょっと見えないね」と私は言った。
「人は見かけによらないけどね」
「あんたさっきなんて言ってたっけ?」
「忘れた」と彼女は言った。
 私は笑った。彼女も笑った。
 私は象を完成させると机の上にそっと立たせた。
「これが通りを歩いていたの?」
「そう」と彼女は言った。「たくさんね」
 私は頷く。
 私はたくさんの紙の象が通りを闊歩する様を頭の中で思い描いた。それはもちろん奇妙な風景だった。しかし、まったく見たことのないものではない。
「支度をしようか」と私は言った。
「何の?」
「外に探しに行かないの」
「象?」
「そう」
「いや……」彼女は少しだけ迷う素振りを見せた。それから僅かに笑って首を横に振った。「良いよ、もう」
「今日はそのために来たんじゃないの?」
「あんた、そういうことずばずば言ってるとあんまり長生きしないよ」と言って彼女は苦笑いした。
「外は寒いからね」と私は言った。
「そう」
「窓から見ていたら充分?」
 彼女は頷いた。でも、それからしばらく私たちは窓の外を見ずに、私が折った紙の象を見ていた。それは実際、今にも動き出しそうに見えた。まるで私たちが二人とも見たことのない、大きな動物のように。私独りでは、決してそんな風には見えなかっただろう。

 私たちは二つの布団を敷いた。彼女は布団を被る。私も灯りを消して布団の中に潜り込んだ。しばらくそうして黙って暗闇の中にいた。彼女の布団からなかなか寝息は聞こえてこない。私も眠れないでいた。部屋の中はまったく何一つ音というものがしなかった。私は目を瞑ったり開いたりする。布団を頭まで被っていたので、どちらにしても何も見えない。
 何も見えないままに、私は今も机の上にいる紙の象のことを思い出していた。頭の中にまずその姿を思い描いて、それから千代紙のあの匂いを。匂いを手掛かりにして、私は紙の折り方を最初に習った頃のことを思い出そうとした。千代紙の匂いは本のページの匂いと似ているけれど、少し違う。少し違うその二つの匂いを知ったのは、しかしほとんど同じ頃で、私はその片方を今に至るまでずっと嗅ぎ続け、もう片方を押し入れの中に放り込んで埃を被らせていたのだ。それは考えようによっては奇妙なことだった。
 私は千代紙を押し入れに放り込む前のことを考えていた。想像上の匂いが呼び水となって、幾つかのことを思い出すことができた。音や景色、夕暮れの色合い……そういったことを。記憶は仄かに甘く懐かしく、少々滑稽で、そしてどこまでも不完全だった。これほどまでにおぼろげな思い出しか持たないのであれば、私ははっきり言ってこれまでの時間を生きていなかったも同然なのではないかと思われた。
 私はこの頃の自分の習慣のことを考えた。眠り込むその寸前まで曖昧な意識の中で本を読む、その悪習について。私は輪郭のぼやけた記憶を自ら進んで増やしていた。まったく狂気の沙汰だ。しかし、程度の差こそあれ、結局のところ極めて不完全な私の記憶なのだ。そうした戯れが一体どれほどの害になるというのだろうか?
 私はそういうことを暗闇の中で考えていた。私は眠りかけていた。眠りかけている私の頭の中で、仕舞い込まれ折り畳まれていた記憶が、その間にずいぶん褪せて滲んだ記憶が、牽連され、相互に引っかかりながら、静かに展開されていた。そして、そのうちの一つはまさに今の私に必要なものだった。私はそれを見て驚き、また納得もしたのが、既に眠ってしまっていた。

 肩を揺さぶられる。
「なに……?」と私は呻いた。
 誰かが私の手を引いた。しばらくするとちゃんと目が覚めて、それが阿求だと分かる。
「なに」と私はもう一度訊いた。
「良いから」と彼女は言った。
 私は手を引かれて寝間着のまま窓の前に連れていかれる。彼女は少し興奮していた。しかし実際のところ、そこで何が起こっているのか、私は見る前にもう大体分かっていた。
 窓の結露を阿求が拭き取った穴のようなところからは、眠る前と同じく通りが見えた。そしてそこでは何十匹もの紙の象が歩いていた。それらは一匹一匹が様々な色と模様をしていて、ぼんやりとした光を放ち、隊列を組み、規則正しく通りを進んでいた。私はじっとそれを見た。千代紙で折られた象も、普通の色紙で折られた象もいた。新聞紙で折られた大きな象も。
 それは異様で、しかしどこか牧歌的な光景だった。
「ね?」と阿求は言った。「やっぱり本当にいたでしょう」
「そうね」と私は言った。
「全然驚かないね」と彼女は言った。
「初めから疑っていなかったから」
 私の言葉を聞いて、彼女は嬉しそうな表情をした。もう少し正確に言うと、口元が緩んでいるのを私に見られまいとして、唇の端を噛んでいた。私は思わず少し笑ってしまう。しかし、心の片隅が微かに痛んでもいた。私は嘘をついたわけではないが、かといって自分が考えていることすべてを話したわけでもないからだ。
 今だからこそ確信を持って言えるのだが、昨夜阿求が見たというこの象のパレードを、私もまた見ていた。もちろんそれは彼女のように、表に出て遭遇したというのではない。私はそれを、本を読みながら眠り込むという悪癖の途中で、いつの間にか目にしていたのだ。私は眠りながら窓の外を眺め、眠りながら象を見た。それは夢の中の光景と区別がつかず、夢の中の光景と同様に忘れやすいもので、実際に私はついさっき、眠り込む寸前までそのことを忘れていたくらいだ。そのおぼろげな体験は、当初私が望んだ通り、私がそれと意図しないままに煙のような、影のようなものとなっていて、阿求の示唆によって初めてその実体を表した。私は初めに阿求にそのことを言われた時に、そのことを正直に言うべきだったのかもしれない。しかし、そうしなかったことを責められもしないだろう。何しろそれはただの夢の中の光景に過ぎなかったのかもしれないのだ。他人に夢の話を聞かされて喜ぶ人間なんていない。
 今からでもそういうことを阿求に言うことができるだろうかと、少しの間考えた。けれどそれは不可能というものだった。当たり前だ。私は彼女から最初にそのことを聞いて、自分もそれを見たことがあるとは言わなかったのだ。そして、まさに今通りを象が歩いている。彼女の主張が証明されたのにもかかわらず、私と阿求との間の、この微かな齟齬をなお埋めようとする必要がどこにあるだろうか。
 私はもう一度窓から象を見ようとした。窓は少しの時間のうちに曇っていて、私は寝間着の袖でそれを拭いなおす。阿求が袖で拭った窓を拭いなおした私は、その薄いガラスを通して通りを歩く紙の象を見た。隣にいる阿求の目を通して、阿求が昨日見た紙の象を見た。自分の不確かな記憶を通して、昨日自分が眠りながら見た象を見た。紙の象を通して本物の象を見ようとした。私も阿求も本物の象など知らなかった。私たちが知っているのは千代紙の匂いと本のページの匂いの間の微かな差異だけだった。
「あんた、今まで自分が見た夢も全部覚えてる?」と私は訊いてみた。
「覚えてるよ」と彼女はこともなげに言った。
「だろうね」と私は言った。「そうだと思った」

 私たちはもう一度眠りなおした。彼女は自分の見た夢を覚えていたが、残念ながら私はそうではなかった。
 日が昇ってから、軽い朝餉を食べて彼女は帰っていった。私の両親の前で彼女は、昨夜より少しだけ普段通りに、私がそれが本当の彼女だと思っている彼女のように、振る舞っているように見えた。
 阿求が帰り、店を開ける準備を半分ほどした後で、何かが気になって私は一度自室に戻る。
 私は机の上を見た。そこには昨日折った象はもういなかった。
 立ち止まって少しの間考える。象は昨夜のパレードに加わったのだろうか。それとも阿求に持って帰られたのだろうか。私にそれを知る術はなかった。足元には昨日押し入れから出した千代紙の箱があった。もちろん私は、そうしようと思えばもう一頭の象を折ることができる。しかし、それはいかにも馬鹿げたことだった。
 私は店先に戻って暖簾を出す。今日はまだ昨日よりは少し暖かくなりそうだ。
 本の続きを読みながら店番をしているうちに、私はまた昨夜のことを思い出していた。夜の通りを歩く紙の象たちのことを。それはまだ、今のところは私にとっても確かな記憶だった。
 一体、象たちはどこに向かっていたのだろうか。それもやはり私には分からないことだ。阿求が見たことはないと言っていたので、少なくとも地獄ではないだろうと思うのだが。
忘れ方を知らなくても
長久手
http://na9akute.web.fc2.com/
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雰囲気も良く良かったです
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静かな雰囲気で面白かったです。
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いいあきゅすずだ
雰囲気が最高でした
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良かった
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面白かったです
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関係性と情景がよかったです
13.100名前が無い程度の能力削除
 楽しませて頂きました。
14.100南条削除
すげー面白かったです
15.80名前が無い程度の能力削除
最初の一文を見て、ずるい、と思った。こんなの目に入れたら読んじゃうに決まってるじゃないですか!(ンモー!)
私が思う小鈴って現代っ子みたいなところがあって、冒頭の彼女はまさにそれでした。早いうちに感情移入に近い共感を持てたのは、同じように眠りこけるまで携帯いじってるからでしょうね、明るめなイメージが勝っているなかで物静かな小鈴の語り部は幻想郷らしい不思議な一端に浸らせてくれました。
淡白で余韻を残す締め方も素敵、とても楽しめました。
それと、推敲漏れかどうかが判断に迷ったのですが、以下の点をひとつだけご報告して終わりたいと思います↓
>吹き付ける雪混じりの冷たく強い風に顔をしかめる。
「吹き付ける」と「強い風」が重なっていました。また、「肌を切りつけるような冷気のせいで」と続く一文にも前述の「冷たさ」が重なっています(こちらは強調の意図が汲めるのですが一応)。
以上です。よいひとときを楽しませていただきました、ありがとうございます。
17.100名前が無い程度の能力削除
なんかものを読んだあと、感じてるものを形にして表すことができないことが多いので悔しい(コナミ)
22.100名前が無い程度の能力削除
考える小鈴もいいですね
繊細で淡い雰囲気が印象的です
26.100名前が無い程度の能力削除
いいなあ。心に染みこむような、素敵なお話でした
29.100サク_ウマ削除
幻想でした。良かったです。