見上げた空は灰色に染まっている。
それは途切れること無く、彼方まで延々と続いていた。
太陽はすっかり隠れ、大地には影がさし、その景色を眺めているだけで気分まで曇ってしまいそうだ。
私は、曇り空が嫌い。
理由は沢山ある。
まとわりつくような湿気が不愉快、洗濯物だって乾きにくい、色合いが気に食わない。
些細な理由ならいくらでも。
けれど一番の理由は、たぶん、同族嫌悪だと思う。
希望を抱けず、絶望に陥ることも出来ず、自分の立ち位置すら決められない。
黒にも染まれず、白に寄ることも出来ない、つまりは灰色。
そんな私とよく似ている。
私は物心ついた頃から博麗の巫女として育てられ、巫女として相応しい人間になるために生きてきた。
つまり私の命は、幻想郷に捧げられたも同然。
生け贄と言うと聞こえは悪い。
でも、実際の所、生け贄以外に相応しい呼び方を私は知らない。
身寄りも無かったしね、捧げる犠牲としては適任だったんじゃないかな。
だけど、幻想郷を守るために育てられたと言っても、幻想郷を愛してるわけじゃない。
まあ、愛着が無いってわけではないんだけど、でも愛してるかって言われると微妙な所だ。
そういう風に育てられたから役目を全うしているだけで、幻想郷がピンチだと言われても、私個人の感想としては、いまいち危機感は湧いてこない。
もし私が幻想郷のためだけに戦ってるんだったら、命の危険が伴うような異変に自分から首を突っ込むことはないんじゃないかな。
だったらどうして危険な異変にも首を突っ込むんだって話なんだけど。
それは、この幻想郷で、私の好きな人たちが生きているから。
大切な人が居て、平和に暮らしてて、私がやらなきゃ彼女たちが傷ついてしまう。
そんなのは嫌だから、それなら多少は手を汚しても良いかなって、そう思ってる。
使命感なんて無い。
私は、酷く個人的で身勝手な欲望のために、今日も誰かの命を奪っている。
自分を正しいとは思わない。
どちらかと言えば、博麗の巫女と言う存在は間違っていると思っている。
幻想郷ってバランスが取れてるようで、酷く歪な世界だ。
現状維持を継続するために、妖怪のために妖怪を殺し、人間のために人間を殺す、そんな矛盾を何度も繰り返す。
楽園の形をした地獄郷、それが我らが幻想郷。
命を奪ってまで続ける意味があるのか、私には理解出来ない。
私が人間だからなのかもしれない。
けど、行為の必要性を考えるのは博麗の巫女じゃない。
もっと上の、紫みたいに賢い大妖怪様のお仕事だ。
私はただの末端。実行装置。赤く染まった、神々の指先に過ぎない。
血の匂いは、とっくの昔から日常だった。
大規模な異変解決や妖怪退治とはまた別の仕事として、幻想郷の安定のために命を奪わなければならない。
一枚壁を隔てた向こう側では私と大して年の変わらぬ少女が、楽しそうに友人と談笑しているというのに、一方で私は、こうして血に染まった手と、倒れた死体を眺めている。
今更、感傷なんて無い。
ただ、今更馴染むことなんて出来ないんだなって、そういう実感がある。
同じ幻想郷で生きて、違う世界に生きて。
私にもそういう可能性があったのかもしれない、なんてちょっぴり妄想してみたり。
ただ、それだけの事。
仕事を終えた私が屋外へ出ると、灰色の空が私を迎えてくれた。
いっそ雨が血を流してくれればよかったのに、曇天はやはり中途半端に、今日も空を覆い尽くしている。
冬が近づくにつれて、曇り空の頻度は増えていく。
今日も明日も、思わせぶりに曇っといて何も降らしはしない、何も洗い流してくれやしない。
命を奪う感触というのは、何度繰り返しても気持ち悪いものだ。
血の感触には慣れても、それだけは変わらない。
粘度の高い血液のような不快感が、胸のあたりにまとわりついている。
雨が流してくれないのなら、帰ってすぐにお風呂に入ろう。
汚れと一緒に、この不快感も、今日の記憶も、全て洗い流してしまおう。
しかし一方で、人殺しの感触を受け入れている私も居るのだ。
完全に拒絶することができない、心の一部が異様に高揚している。
やっぱり灰色だ。
高揚感の正体は、おそらく期待感だ。
”仕事”を終えた後、神社で待つあまりに甘美な”ご褒美”のせいで、私は命を奪う行為そのものに快感を覚えている。
条件反射で躾けられた犬のように。
いつか里の子供が言っていた、博麗の巫女は人間のために妖怪を退治する正義の味方らしい。
その正体が快楽殺人者なんて知ったら、みんなどんな顔するのかな。
神社に戻ると、見知った女性が縁側に座って、私の帰りを待っていた。
八雲紫。
彼女は私が汚れ仕事を終えた後、必ず神社で私の帰りを待っている。
例外なく、絶妙のタイミングで、まるで全てを監視していたかのように。
紫は優しい笑顔で私を迎えた。
その笑顔から演技めいた物は感じられない、それが余計に胡散臭かった。
「おかえりなさい」
私は紫の優しさを、これっぽっちも信用していない。
博麗の巫女は、所詮は消耗品に過ぎないのだ。
彼女が私に優しくするのは、私が役目を放棄して逃げないよう、縛り付けるためなのだろう。
云わば餌のようなもの。
ああ、だけど――信用していないとか言っておきながら、その薄っぺらい笑顔に心を動かされてるあたり、私にもまだ人間らしい部分は残ってるんだなって思う。
私を良く知る人間ほど意外だと思うかもしれない。
でもね、私って結構単純で、御しやすい生き物なのよ。
そしてそれは、彼女にとって都合の良いことでもある。
いっそ、誰の笑顔にも心を開かないぐらい冷淡な人間になれたらよかったのに。
あるいは他人を容易く信用出来る脳天気さがあれば、ここまで苦しむことも無かった。
ひょっとすると、私がこんなにも中途半端な人間になってしまったのは、私を博麗の巫女に仕立てあげた連中の狙い通りなのかもしれない。
操り人形として扱いやすい人間にするために。
なんて趣味の悪い。
「ただいま、紫」
嫌でも頬が緩む。
仮面の下には冷酷な顔があるのだと知った上で、それでも私は紫の優しさを拒絶出来ない。
例え偽りだったとしても、その本心を直接知ろうとしない限りは、偽りが証明されることはないのだから。
だったら、家畜は家畜らしく、大好物の餌に食らいついておけばいい。
無知は罪かもしれない、けれどそれが幸せだと言うのなら、誰が私を責められるだろう。
真実は必ずしも幸福と直結はしない、知らないほうがいいことだってある。
私は紫の前まで歩み寄る。
すると彼女は躊躇わず、血で汚れた私の手を取ろうとした。
私は慌てて手を引いた。
彼女の絹のように美しい肌を、こんなどこの馬の骨とも知れない奴の血で汚しちゃいけない。
「あら、それぐらい気にしなくていいのに」
「私が嫌なのよ。
先にお風呂入ってくるから、そのあとに……」
そのあとに――後に続く言葉を、私はうまく言葉に出来なかった。
本当は、対象を殺した時点で体は熱く火照っていたというのに。
我慢がきかなくなるぐらい、欲しがってるくせに。
――与えられる餌ならば、限界まで貪ってやろうと思った。
私が仕事を終えた時に限り、紫は私の頼みを断らない。
一切のタブー無しで、全てを受け入れてくれる。
全てが誰かの手のひらの上だったとしても、逆らって得るものが無いのだから、私に逆らう理由はない。
私に自由は認められていない。
選択の余地は、どんなダンスを踊るかだけ。
だから私は、今度こそ、躊躇わずに言った。
「私を、抱いてくれる?」
最初は冗談半分だったはずのその願いも、今ではすっかり本気になってしまった。
全身が熱い、爪先から頭の天辺まで血が沸騰したみたいに熱を帯びている。
たぶん私は、発情している。
誰の目から見てもわかるぐらい明らかに。
本格的に冬が来れば、紫は眠ってしまう、こうして触れ合えるのも今年は最後になるだろう。
そのせいもあってか、その火照りはいつもとは比べ物にならないほどだった。
それでも紫は、りんごのように赤く染まった私の顔を見て笑うことも無ければ、侮蔑することもなかった。
「わかったわ、それがあなたの望みなら」
いつもの笑顔を崩すこと無く、紫はそう言った。
幻想郷は、檻だ。
しかし檻に囚われていることを知っている”人間”は少ない。
例えば霧雨魔理沙、彼女はそれを知らずに生きている。
脳天気に笑って、がむしゃらに、無鉄砲に生きることが出来るのは、未だこの幻想郷に希望があると信じているから。
「今日は一段と憂鬱そうだな、嫌なことでもあったのか?」
何も知らない魔理沙が私にそう聞いてくる。
愚問だ。
幻想郷は”嫌なこと”に満ちているのだから、例外なんて無い。
「いいえ、良いことがあったのよ」
「だったら相応に嬉しそうな顔したらいいだろ、天邪鬼じゃあるまいし」
「それを良いことだと思う自分が嫌いなの、だから落ち込んでるのよ」
「なんだそりゃ」
道が塞がれていることを知ったら、彼女はどんな顔をするだろう。
希望を抱くことが出来るのは、自分の行く末を知らないからだ。
ここは檻の中、右を見ても左を見ても行き止まりしか無い。
逃げようにも、監視者に見つかれば八つ裂きにされて殺されるだけ。
彼女は檻の中に潜んでいる。
仲間のふりをして、友達面して、裏切りの時を今か今かと待ち続けている。
そんな未来が嫌で。
そんな自分が嫌で。
けれど、ここが檻だと伝えることも許されない。
なぜならば、監視者もまた、檻に閉じ込められた家畜に過ぎないのだから。
彼女もその他大勢と同じように、檻の外を夢見ることは許されない。
「紫がね、褒めてくれたの。
巫女としてちゃんとお仕事できたねって、子供に言うようにして」
「紫って、あの八雲紫だよな?」
魔理沙は意外そうな顔をしながら言った。
幻想郷であの紫以外に紫の名を名乗る者が居たとすれば、とんだ肝っ玉の持ち主だ。
「もちろん」
「あいつでも霊夢のこと褒めたりするんだな、そういうキャラじゃないと思ってから少し驚いたよ。
でも……そうだよな、あいつのことよく知ってるのって霊夢か幽々子ぐらいのもんだし、私が知らない一面があって当然だ」
「私も魔理沙と同意見よ、褒めるとか、紫にそういうのは似合わないと思う」
「おいおい」
「どんなに付き合いが深くても、理解できる相手じゃないのよ。
深すぎるの。
そのくせ、うかつに覗きこめば引きこまれて、二度と戻って来られない」
私と魔理沙の抱く紫に対するイメージは、おそらくほとんど変わらない。
何を考えているか分からない、得体が知れない。
時折とぼけた一面を見せることはあっても、にじみ出る知性を隠しきれていなくて、私たちではとても敵わない、強大な力を持っていることも知っている。
そのせいか、理解は出来なくとも、なんとなくその言動が無条件で正しいような気がしてしまう。
存在自体が説得力を持っている、そんな存在だった。
「私はさ、紫が褒めるに値するようなことを成し遂げたつもりなんて無いの」
紫はただの人間である私よりも、一つ上の次元で生きている。
そんな彼女に本心から賞賛して欲しいと望むには、今の私はちっぽけすぎる。
何らかの意図を持って私をおだてているだけだ。
「けどあいつは、時折私を甘やかすようにして褒めてくれるわ」
「なるほど、明らかに社交辞令だってわかってるのに、喜ぶ自分が嫌なわけだな」
社交辞令とはまた辛辣な。
事実なだけに、余計に言葉が胸に突き刺さる。
いずれは屠られると知りながらも、社交辞令という餌で喜ぶ自分が嫌だ。
欲望に抗えず、自ら餌を貪る自分が嫌だ。
けれど一方で、実は紫が家畜を愛する変わり者であることを望む私も居る。
そう、心のどこかで、私を褒めてくれた紫の言葉が、全て本心であって欲しいと望んでいるのだ。
ありえないって知ってるくせに。
檻の中で、四方八方を囲まれていることを知りながらも、未だ希望を抱こうとしている。
他の家畜たちよりも、ずっとずっと愚かな私。
何よりそれが、一番嫌だった。
「効果的だってわかっているから紫も繰り返すんでしょうね」
「でも何でそんなことするんだろうな、飴と鞭ってやつか?」
「鞭なんてほとんど無いわよ、滅多に姿も見せないんだから。
飴だけ与えて、すぐに姿を消すのよ」
「そりゃ解せないな」
確かに解せない。
そんなことをしなくても、檻の中から逃げられないことぐらい知っているというのに。
保険だろうか。
それとも、弄んでいるだけなのだろうか。
「案外、純粋に霊夢に懐いてるだけだったりしてな」
「……だったらいいのにね」
つい、本音がぽろりと溢れる。
魔理沙は怪訝そうな顔をしながら、私を凝視した。
「熱でも出たか? 霊夢なら、”懐くなんて気持ち悪いこと言わないでよ”って感じで嫌がるかと思ってたんだが」
「熱病になら冒されてるわよ、かなり前から」
魔理沙への隠し事は多いが、紫への想いまで隠す必要は無い。
そろそろ一人で抱えるのも限界だから、いっそ話してしまおうと思った。
魔理沙は私の親友だ、抽象的な言葉ではあるが、これだけで私の意図を汲みとってくれるはず。
「そういう話だったのか。
もしかして、また”そんな自分が嫌だ”ってパターンか?」
「ええ、いい加減にしてほしいわよね、私にも」
「あー、そりゃ困ったもんだな、ご愁傷様だ」
ほら、ほんのこれしきで私の考えてることほとんど理解してくれるんだから。
やっぱり持つべきは理解の早い友人よね、勘が良すぎるのが玉に瑕だけど。
「あんまり言いたくはないんだが……」
「別に良いわよ、遠慮せずに言ってくれて」
何を言われるのか、大体目星はついてるから。
「人を見る目が無いな、いやこの場合は妖怪を見る目って言うべきか?」
「心の底から同意するわ。
できることなら、あいつに惚れてしまう自分の目を繰り抜いて、もっと出来の良い誰かの目と交換したい気分よ」
私は幻想郷に紫以上に美しい妖怪は居ないと思っている。
しかし紫に惚れる人間が私だけということは、それは好意によるフィルタリングの結果なのだろう。
「美人なのは否定しないがな」
「あんな悪意むき出しのハニートラップに引っかかる馬鹿なんて、私以外に居ないわよ」
「辛辣だな、気持ちはわからないでもないが。
普通ならおっかなくて恋愛対象にしようとは思わないだろうからな。
いっそ他の誰かを好きになっちまえば……」
それが出来るのなら苦労はしない。
「そうか、深みに引きずり込まれると二度と戻れない、だったな。
ちなみに霊夢自身はどうしたいんだ?」
「だから言ったじゃない、目を繰り抜いてしまいたいって。
無かったことにできれば、それ以上なんて無いわ」
その感情が博麗霊夢という魂の奥深くにまで縫い付けられている以上、今更目をどうこうした所で事が解決するとも思えないが。
脳をまるごと取り替えて人格ごと洗い流すとか、それぐらいしないと。
でも、それでも足りないのかもしれない。
体から抜けだして魂だけになった私が、それでもなお紫を求め続ける可能性だってあるのだから。
「ねえ魔理沙、都合よくこの感情だけを消せる魔法とか無いの?」
「無いな、あったとしても私の趣味じゃない」
魔理沙はきっぱりと言い切った。
世の理を壊すのが魔法の役目でしょうに、魔理沙ってば私が何言ってもポリシーは曲げないのよね。
「役立たずね」
「妖怪に恋する巫女に言われたくないぜ」
役立たず二人、似たもの同士だからこんなにも気が合うのかもしれない。
「ま、私は問題ないと思ってるけどな」
「何が問題ないの?」
「紫とお前が恋仲になることだよ。
趣味の悪さには目を瞑るとして、有りか無しかと言われれば有りだ。
もちろん、私の価値観に限った話ではあるが」
私の価値観でそれが許容できないことも、魔理沙は知っている。
知った上で、そう提案したのだ。
私が感情を断ち切れないことに気付いてしまったから。
あまりの自分の不甲斐なさに、私は肺を震わせながら大きく息を吐いた。
いずれ殺すかもしれない友人にそんな選択まで委ねて、それでも悩むなんて。
「霊夢なりに悩んでるんだろうが、その調子じゃいつまでも悩んだままで答えなんて出やしない。
すまんが、そこまで気持ちが固まってるならいっそ告白しちまえ、としか私には言えないな。
成功するにしろ失敗するにしろ、結果は出るだろうさ」
私だってわかってる、忘れられないというのなら、それしかないことぐらい。
わかってるくせに、どうしてそうしないのかと言えば――
「怖いのよ」
「振られるのが?」
「振られるだけで済めばいいわ、でももっと恐ろしいことがある。
それはね、今までのが全部嘘だったって、紫から聞かされること」
思い出も何もかも、無かったことにされるのが、怖くて仕方ない。
「霊夢自身も信じてないんじゃなかったのか?」
「信じてないわ、けど信じていたい。
本人から全てを聞くまでは、まだ信じる余地があるのよ」
「あー……つまり、何だ。
信じてないってのは建前で、本心では信じてるってことか?」
「……」
この場合、沈黙は肯定にしかならない。
認めたくはないが、そうなのだろう。
私は紫のことを信頼している。
口ではなんとでも言える、けれど本心だけは誤魔化せない。
抗うふりをして、拒絶する風を装って、それでも最後は、何だかんだで紫に全てを委ねてしまうのだ。
「こじらせてやがる、面倒だぞこりゃ」
「悪かったわね面倒で」
言われなくてもわかっている、とっくの昔に自覚は済ませているのだから。
でも面と向かって言われるとさすがに傷つく。
なのに魔理沙は、傷心の私に向かって容赦なく罵倒を続けた。
「ああ悪いな、悪いってわかってるくせに治す気がさらさら無いのが尚更悪い」
「じゃあどうしろって言うのよ」
「知らん」
「無責任だわ」
人のことを言えた義理ではないが。
「解決する気のない悩みをカミングアウトしたお前の方が無責任だろ。
とてもじゃないが解決出来ないね、私には愚痴を聞いてやることぐらいしかできん」
飴と鞭ってのはまさにこういうことを言うのだろう。
色々言いながらも最後にはきっちり善人らしく締めるんだからずるい。
これじゃあ魔理沙が友達で良かったって思うしか無いじゃない。
「ごめん」
「謝るな、まだ話し足りないんだろ?」
「ええ……もう少しだけ、愚痴を聞いてもらってもいいかしら」
「それで気が晴れるっていうんならな。
あ、もちろん酒は用意してくれるよな?」
とびきりの……とは言いがたいが、うちにある分ではそれなりに良い酒を用意するつもりだ。
こうして、真っ昼間から始まった愚痴大会。
酔いが回る内に、やがて魔理沙も愚痴るようになり、あまり良くない酔い方だと理解しつつもぐいぐいと酒は進み――
翌日の朝、神社には二日酔いで苦しむ二人の少女の姿があったとか。
……………
幻想郷の端っこにある八雲邸。
そのまた端の方にある藍の自室。
藍は部屋の真ん中に座布団を敷くと、その上に正座をし、目を閉じて意識を研ぎ澄ました。
自分から伸びる一本の糸を手繰り、その先にある別の誰かと、自分の意識を同調させる。
あくまでイメージではあるのだが、藍にははっきりとその糸と、糸の先に居る誰かの姿が見えていた。
それは他人の体、しかもかなり距離が離れている、共有できる感覚はそう多くない。
味覚、嗅覚、触覚は要らない、廃棄。
この際だ、視覚も必要ないだろう。
重要なのは聴覚。
感覚を絞ると、その一点だけが研ぎ澄まされる、彼の周囲の音がはっきりと聞こえてくる。
時折、藍の耳が何かに反応してぴくぴくと動く。
部屋の中は静まり返っていたが、藍の耳には確かに音が聞こえていた。
ここではないどこかに響く、”二人”の話し声が。
そんな集中する藍の居る部屋に、こっそりと入り込む影がひとつ。
彼女は音を立てないよう、忍び足でゆっくりと前に進み、少しずつ少しずつ藍に近づいていく。
そしてようやく手を伸ばせば藍に触れられる所まで近づいた、その時だった。
「っ……」
侵入者――橙が息を呑む。
完全に気配は殺していたはずなのに、藍の右目が開き、こちらを見ているではないか。
とっさに逃げようとも思ったが、あまりに近すぎる。
逃げて怒られるぐらいなら、この場で適度に怒られた方がマシだと判断した橙は、潔く諦めることにした。
しかし諦めたからと言って、気まずい空気が消えるわけではない。
耳を伏せ、バツの悪そうな顔をする橙を見て、藍は思わず苦笑いした。
「いくら気配を消した所で私を誤魔化せるわけがないだろう、イタズラを仕掛ける相手ぐらい選びなさい」
「むー、だって藍さまが油断してるように見えたから」
橙は不満気に頬を膨らます。
まるで子供のような仕草。
本来なら主として叱るべき所なのだろうが、ついつい頬が緩んでしまう。
橙を甘やかしてしまうのは藍の悪い癖だ。
自分を諌めつつ、藍は橙の額を軽く小突いた。
橙は怯えたように体をびくっと震わせたが、思ったより痛くなかったのか、拍子抜けしたような顔をしている。
まだまだお仕置きとしては甘すぎる。
しかし今の藍に、これ以上を望むことはできそうになかった。
「ところで藍さま、じっと座って何してたんです? 瞑想ですか?」
「配下の狐を使ってちょっとした調べ物をね」
「調べ物? 部屋でじっとしてただけですよね」
「聴覚を共有していたんだ、彼の聞いた内容が私の耳にも届くというわけだ」
「すごいですっ! そんなことできるんですか!?」
橙は目をキラキラと輝かせる。
あまりに純粋でストレートな感情表現に、藍は思わず顔をにやけさせた。
「ま、まあ、式の技術を応用して色々とな」
「さすが藍さま、私なんて猫たちに命令を出すだけで精一杯なのに。
調べ物ってことは、紫さまからの命令ですよね」
「違う、今回は私の独断だ。
だから、頼むから紫さまには言ってくれるなよ、こっぴどく怒られるだろうから」
「珍しいですね、紫さまに怒られるようなことを自分でやっちゃうなんて」
藍は基本的に優等生で通っている。
だからこそ紫も全幅の信頼を寄せており、冬の眠りに就いている間も安心して代理を任せているのだが、そんな彼女があえて主の意思に反するのには、深い理由があった。
「私にも思うところがあったんだよ。
以前から、中途半端に関わらない方が良いって忠告はしていたのに、紫様は私の言葉なんて聞こうとしないから。
……いや、今回の場合は、聞いた上で、わかった上でやってたのかもしれないが」
「関わるって、紫さまと誰のことです?」
「んー……橙にはまだ早すぎる話かもしれない。
大丈夫だよ、じきにわかるだろうから」
「そんな言い方されたら余計に気になりますよぉ」
「あはは、ごめんごめん、事が済んだら必ず話すよ」
藍は橙の機嫌を取ろうと頭を何度か撫でたが、それでも彼女の不満は消えなかった。
式なのだから、逆らうなと命じてしまえば良いだけの話なのだろうが、藍はそこまで割り切れない。
二人の関係は、主と部下というよりは、姉と妹と言った方が相応しい。
そんな藍を見て、紫は『まだまだ甘いわね』と偉そうに言うのだが、そう言われる度に藍は反論したくて仕方なかった。
『甘いのは紫様の方でしょう』、と。
藍がまだ式になったばかりの頃、ちょうど今の藍が橙に対してそうするように、さんざん甘やかしてきたのはどこの誰だったか。
藍が橙に甘やかしてしまうのは、そういう主の姿を見てきたからに違いない。
それに今回の件だって、紫の甘さが引き起こしたものと言い切ってしまってもいい。
彼女がもっと妖怪らしく、賢者らしく、我を殺して振る舞えば、霊夢との関係が拗れたりはしなかったはずなのだから。
「なあ、橙は紫様のこと、どう思ってる?」
例えば霊夢は、紫のことを得体の知れない、強大な力を持った大妖怪だと思っている。
配下の狐を通して聞こえてきた情報が正しければ、おそらく魔理沙も同じように思っているのだろう。
そしてそれは二人に限った話ではなく、紫が”幻想郷の賢者”として接してきた多くの人間、そして妖怪が共通して持つ、紫に対する”一般的な”印象だと思われる。
しかし、身内ならどうだろう。
いつも傍に居る幽々子や藍、そして橙は果たして同じような印象を抱いているのだろうか。
藍の問いに対して、橙は迷うこと無く即答した。
「紫さまは優しいです」
一番最初に出てきた言葉が、それだった。
藍ならこう言うだろう、『紫様は甘い』と。
幽々子ならこう言うだろう、『紫は優柔不断』と。
どれも意味は大体同じだ。
そこに博麗の巫女を簡単に切り捨てられる恐ろしい妖怪など居ない。
もちろん、幻想郷を守るためにある程度の犠牲を強いることはあるだろう。
頭も良い、強大な力も持っている、全く妖怪らしさが無いわけではない。
しかし、本来の紫は、彼女を知る多くの者達が持つ共通のイメージとは全く違うものなのである。
「あと、いつもだらけてる気がします。
コタツがあると、中に入ったまま、絶対に出ようとしませんよね。
冬なんてずーっと寝たままですし。
家事のほとんどは藍さまがやってる気がします」
「式神としては正しい使われ方なんだろうが……まあ、納得は行かないな」
半ば家族のように扱っておいて、都合の良い時だけ式扱いするのだから、藍の不満も仕方ないことなのかもしれない。
あるいは、元々亭主関白な気質なのかもしれないが。
「でも、私は藍さまがやってくれた方が安心して見てられます。
紫さまってああ見えて、意外とおっちょこちょいですから」
式の式にここまで言われていることを知ったら、紫はどんな顔をするだろう。
案外打たれ弱いハートの持ち主なので、三日三晩ぐらいは落ち込んで、外に出ようとしない可能性がある。
優しくて、怠け者で、おっちょこちょい。
この三つのワードが、霊夢の抱く紫のイメージに一つでも合致するだろうか。
いや、おそらくは掠ることも無いだろう。
「藍さま、どうしていまさら紫さまのことなんて聞いたんです?
わざわざ聞かなくても、ずっと一緒に居るんですから、知ってるんじゃないですか」
「一応聞いておきたかったんだ、私だけがそう思ってるんじゃないかと心配になって」
霊夢たちの話す八雲紫と、藍の知る八雲紫の間にあまりに大きな隔たりがあったから、実は自分の知る紫こそ幻覚なのではないかと、少しだけ疑ってしまったのだ。
だが、橙がそういうのならもはや疑う余地はない。
正しいのは藍で、間違っているのは霊夢なのだ。
そしておそらく紫は、その間違いを利用しようとしている。
紫が霊夢にとって理解し難い存在であるうちは、霊夢が”こちら側”に踏み込んでくることは無いと、そう楽観しているのだ。
「やっぱり私がやるしかない、か」
橙にも聞こえないぐらいの小さな声で、藍は覚悟を決める。
紫が、おそらく自分から一歩踏み出すことは無いことを藍は知っているし、何の因果か霊夢も紫に似て、人間関係に関しては思い切りの良い方ではない。
外部からの干渉が無ければ、事態が硬直状態のまま進まないのは明らかだった。
だが藍には予感があった。
このまま中途半端な関係を続けていけば、いずれ不幸な結末が訪れる、そんな予感が。
情けない主ではあるが、藍は紫のことを慕っている。彼女以外に仕える自分を全く想像できない程度には。
そんな紫が悲しむ姿を見たいとは思わない。
ならば、全ての事情を知る藍が、外から刺激を与えてやるしか無いのだ。
……………
昼になっても二日酔いは抜けない。
私はちゃぶ台に突っ伏して、襲い来る頭痛と必死に戦っていた。
酒に強い方だと自負していたが、まさか愚痴があそこまで酒を進ませるとは、想像以上だった。
目を覚ました時、私と魔理沙の周囲に転がる瓶の数は、とても二人で消化した数だとは思えないほど。
途中からの記憶も曖昧で、魔理沙が上半身だけ下着姿になった経緯も、ひときわ大量の瓶が倒れたその中央に陰陽玉が落ちていた理由も、どう頭を捻っても思い出せそうに無かった。
一通り部屋の片付けが終わると、魔理沙は頭を抑えながら、自分の家へと帰っていった。
今頃は、ベッドの上で私と同じように頭痛と戦っているのかもしれない。
「ほら霊夢、二日酔いに効く薬だ、そんなにきついなら飲むと良い」
「ありがと……」
突然聞こえてきた他人の声。
思わず礼を言ってしまったが、相手の声は神社の常連の誰とも一致しない。
しかし知らない声というわけではない。
私はゆっくりと頭を上げた。
さっきまで空白だった真正面の席には、藍がしっぽを揺らしながら座っている。
そしてちゃぶ台の上には、何やら粉末の入った袋が置かれていた。
「誰かと思えば藍じゃない。
また珍しい奴が来たわね、見ての通り、今日は相手出来ないわよ……うぅ、喋るたびに頭がガンガンするぅぅ……」
「それは困る、一刻を争う話だからな。
そのためにそこそこ良い薬を持ってきてやったんだ。
水は――適当に台所にある湯のみに注いでいいのか?」
「……勝手にしていいわ、私は動けないから、って言うか動かない、動きたくない」
彼女が自分に危害を加える妖怪ではないことを知っている。
本来ならば、妖怪が勝手に神社に上がり込み、あまつさえ台所に侵入しようとしたら、力づくでも止める所だ。
でも、藍ならまあ大丈夫だろう。
とは言え、力づくで止めると言っても、私が正常な状態だった場合に限るのだが。
今の私なら、そこまで信用していない相手でも気にせず台所に通してしまうかもしれない。
それほどまでに、酷い二日酔いだった。
藍が台所に行っている間に、私は再び顔を伏せて、「うー、うー」と唸りながら頭痛に抗い続ける。
「しゃきっとしろ、博麗の巫女ともあろう者が情けない姿を見せるんじゃない」
戻ってきた藍は、苦言を呈しながら水の入ったお湯のみを私の傍らに置いた。
まるで母親のような説教に、私は顔を伏せたまま、藍に反論する。
「文句ならあんたの主に言いなさいよ」
「なぜ紫様のせいになるんだ?」
「しらばっくれないで、私が二日酔いだってことを知ってた時点で大体察してるわ」
薬を持ってきたということは、予め今の私の状態を知っていたということ。
藍ほどの妖怪が近づけば、いくら二日酔いだったととしても、その気配は簡単に察知出来る。
しかし、日付が変わってから今まで、藍以外は誰も神社に近づいていなかった。
つまり私が二日酔いだという情報を得るためには、魔理沙から直接聞くか、それか他の方法を使って自ら情報を得るしかないのである。
その魔理沙も、今は自分の家のベッドで頭痛と戦っているはず。
ってことは、自ずと答えが見えてくる。
「昨日の私たちの話、どうせ聞いてたんでしょう? この盗聴犯め」
「さすが鋭いな、だったら話は早い。
とりあえず薬を飲んでくれないか、正常な判断ができないお前と話しても意味が無いからな」
そう言われ、私はしぶしぶ薬を飲みほした。
盗聴されていたことは気に食わないが、薬に関しては感謝するしかない。
粉末を水と一緒に飲み込むと、不快な苦味が喉にまとわりつく。
あまり良い味とはいえないけど、確かに効果のありそうな味はしている。
少しだけ頭痛が軽くなった気がした。
そこまで即効性は無いはずだし、ただのプラシーボ効果の可能性も捨てきれないけどさ。
もっとも、藍の話を聞いてしまえば、また別の頭痛の種ができるんだろうけど。
「それで? 種明かしでもしてくれるのかしら。
今まで紫が私に優しくしてくれたのは、実は演技でしたって。
だったら安心なさい、それぐらいとっくに気付いてるから」
そうは言いながらも、藍の口から本当に”演技だった”と語られれば、私は大きな心の傷を負って、二度と立ち上がれなくなると思う。
つまり、これは予防線なのだ。
最初から悲観的に構えることで、自らが負う傷を少しでも軽くしようとしている。
臆病な私なりの、自己防衛方法。
「どこから話したものか、急に結論から話しても信じて貰えそうにないからな」
「もったいぶらないで、まどろっこしいのは嫌いよ」
「だったらまず、博麗の巫女の末路から語ろうか」
「末路ぉ?」
末路という言葉からハッピーエンドは想像出来ない。
博麗の巫女も人間だ、遅かれ早かれいずれ死ぬ。
その覚悟はできていたつもりなんだけど、それでも藍の口から語られようとする真実が怖くて仕方ない。
ちゃぶ台の下で強く拳を握る。
手のひらは、じとりと汗ばんでいた。
「話す前に霊夢に聞いておきたい。
先代までの巫女は博麗の巫女をやめたあと、どうなったと思っている?
もちろん妖怪に殺された場合や、若くして病に倒れた場合は除いてな」
「一生巫女を続けるんじゃないの?」
「人間はやがて衰える、最低限の仕事も出来ない人間に博麗の巫女は任せられない」
死以外のなんて、想像したこともなかった。
本当にあるのだろうか。
しかし、”無い”と言い切られるも怖かったので、これ以上はあえて聞こうとは思わなかった。
それに、仮に役目を全うして生き残ったとしても、まともな結末が待っているとは思えなかったから。
「始末される、とか?」
「ぶふっ……」
私は至極真面目に解答したつもりだったのに、なぜか藍は吹き出して笑っている。
何よそのリアクション、聞かれたから答えただけなのに。
急に私は恥ずかしくなって、それが納得いかなくて、身を乗り出しながら藍に抗議した。
「な、なんで笑うのよっ!」
博麗の巫女が背負わされた役目は重い。
ただの人間、それも年頃の少女の身でありながら、妖怪だけでなく人間の命も奪わなくてはならないのだから。
私の意思も関係なしにそんな役目を押し付けられたんだもの、その末路が死だったとしても特に不自然なことなんてない。
「ふ、ふふっ……いや、すまん、まあ私の話を聞けばわかるさ。
人里に、亀屋って老舗の和菓子屋があるのを知っているか?」
「知ってるに決まってるわ、よくお世話になってるから。
でもそれと博麗の巫女に何の関係が……」
「あるに決まっている。
何せあの店の初代店主は元博麗の巫女だからな」
「え、えぇ?」
冗談抜きで、本気で始末されると思っていた私にとって、それは考えもしなかった可能性だった。
博麗の巫女の末路が、里のお菓子屋さんなんて。
「嘘よ、そんなの。
ありえないし、無理だわ」
さんざん妖怪から恨みを買ってきた人間が、のん気にお菓子屋なんて出来るはずがない。
どうせ口から出任せだ。
狐ってのは人を化かすのが得意な生き物なんだから、絶対に信じるもんか。
「巫女稼業から足を洗ったあと、どうやって生きていくかは巫女自身に委ねられるんだ。
店を構えるも善し、玉の輿を狙うも善し、人間として生きていくならどんな望みでも構わない、我々はそれを叶えるための支援を惜しまない。
今まで人生を捧げてもらったんだからな、対価としては安いぐらい……というのが紫様の考え方さ」
「そんなの全然聞いたこと無いわよ!?」
「いつもならギリギリまで隠してるからな。
常に死の危険と隣り合わせなんだ、悔いを残して死んで、悪霊にでもなられたら色々と面倒だろう?」
「だとしても、今更普通の人間として生きていくなんてっ」
「人里に馴染む分には問題無いだろう、博麗の巫女と言えば妖怪退治のエキスパート、人間にとっての最後の切り札ってことになってるんだからな。
協力してくれる人間ならいくらでもいる。
妖怪に狙われる心配も必要ない、引退した巫女を狙えば紫様を筆頭に幻想郷の賢者たちが許さないだろう。
大妖怪を敵に回して生きていけるほど幻想郷は甘い場所じゃない」
「そんな、馬鹿なことが……」
ありえない、ありえない。
残酷で冷酷な世界だと思い込むことで、色んな物を諦めてきたのに、今更希望に満ちた話を聞かされても信じられるわけがない。
それに、藍はこう言っていた。
”人間として生きていくならどんな望みだっていい”と。
つまりそれは、人間の範疇を超えた望みは叶わないことを意味する。
私の望みなんて一つしかない。
紫の傍に居たい、紫が欲しい、紫の物になりたい。
その望みが叶わないのなら、他の全てが叶ったとしても価値なんてない。
「おや、少しは喜んでもらえるかと思ったんだが、あてが外れたようだ」
確かにそれは、私自身も思ったことだ。
博麗の巫女として、これから一生、他者の命を奪って生きていくしか無いと思っていた。
それが当たり前のことで、そして私は当たり前のように不幸な結末を迎えると思い込んでいた。
なのに、博麗の巫女としてではなく、人間らしく幸せになる可能性が示されたのだ。
少しぐらい喜んでもよかったのかもしれない。
でも……私の望みは、人間らしく生きることなんかじゃないから。
「だって、紫って普通だったら手の届かない存在なのよ。
どんなに普通の人間が望んだって、会うことすら叶わない。
それが博麗の巫女で居る間だけは、顔を見せてくれる、望めば触れてくれる。
こんなに幸せなこと、他には無いわ」
私はとっくに人間らしく生きていくという選択肢を放棄していたということだ。
あるいはもっと早く知ることができれば、違う感想を持つこともできたのかもしれない。
でも、もう手遅れだ。
私はとっくに、溺れてる、他の道なんて選べなくなっている。
「引退など考えたくはないということか」
「会えなくなるぐらいなら、幸せな思い出を抱いたまま死んだほうがマシよ」
何なら、退治に失敗して妖怪に食われたって構わない、病に倒れたって良い。
悲劇の死が紫の心に少しでも傷跡を残すのなら、これほど嬉しいことは無い。
「霊夢が死んだら、紫様はさぞ悲しむだろうな」
「どうだか、すぐに次の巫女のことを考えるだけじゃないの」
私は吐き捨てるようにそう言った。
使い捨ての道具に過ぎないことはわかっている。
もし紫の記憶に残ったとしても、それはほんの微かな、『ああそういえば昔にそんな巫女も居たな』って、その程度の記憶だと思う。
それでも、構わない。
どうせ私は紫にとってちっぽけな存在に過ぎないのだから。
私は所詮人間、身の程はわきまえているつもりだ、相応の居場所さえ与えてくれたのなら、高望みはしない。
「ふむ……どうやら霊夢の頭の中では、紫様はとんでもない極悪人に仕立てあげられているらしい、まあ話を聞いた時点でわかってはいたんだが」
「こんなにも歪な楽園を作り出した張本人なのよ? 善人と思う方が無理な話だわ」
幻想郷は妖怪の妖怪による妖怪のための楽園。
紫が悪人に見えるのは私が人間だからであって、妖怪たちにとっては恩人みたいなものなのかもしれない。
結局、私たちを隔てているのは、妖怪と人間という立場の違いだ。
その溝は、一生かけたって、私が人間であるかぎり埋められそうにない。
「確かに人間に対しては残酷な一面を見せることもあるだろう、何せ妖怪だからな。
とは言え、今の博麗の巫女の制度を考えたのは紫様なわけだから、人間に対する優しさが無いわけでもないんだぞ。
もちろん、引退後の処遇も含めてな」
「嘘でしょ?」
「そう言うと思ったよ」
「だって、そんなの――」
「自分の中にある紫様のイメージと一致しないと、そう言いたいんだろう?
今日はその間違った認識を正しに来たんだ。
と言うより、紫様がそう思われるように振舞っているだけなんだが……今回に関しては、それが徹底できていないから、こんなことになってしまったんだ」
今回と言うのは、今回の博麗の巫女ということだろうか。
私だけが、例外。特別。
それが事実なら、どんなに私は救われることか。
「はっきり言おう、紫様は過去の巫女と比べ物にならないのほど、お前のことを贔屓している。
今までは滅多に巫女と顔を合わせることは無かったし、中には一度も会わないまま役目を終える巫女も居た。
それがどうだ、今回は自ら神社に出向き、挙げ句の果てには望まれるがままに抱く、ときたもんだ。
どう思う? 自分の感情を抜きにして、過去の巫女と比較した時、今の博麗霊夢という巫女はどういう扱いを受けているように見えるか?」
「……特別、大事にされてる?」
「その通り、そして紫様のその行動は演技でも何でもない。
本来なら妖怪と巫女が密接な関係になるのは望ましくない、紫様だってわかってるはずだ。
わかった上で、手を出してしまった。
結局、紫様は自分の欲望を我慢できなくなってしまっただけなんだよ。
霊夢の事が好きで好きで仕方なくて、本当は触れたくて仕方ないのに、立場がそれを許さない。
そんな時に、霊夢が自ら触れて欲しいと望んできた。
その瞬間に紫様の理性は吹き飛んだんだろうさ。
気付いた時には腕の中、もう後戻りできない状態まで進んでしまっていた。
しかし許されない関係であることに違いはない、だから紫様は言い訳を考える必要があった。
”望まれたのなら仕方ない”、自分の意志でそうしたんじゃない、これは仕事の対価にすぎない。
そうやって言い訳を重ねることで、紫様は自分は間違ったことをしていないと、思い込もうとしている。
つまり、自分の保身のために、お前の感情を利用したってわけだ」
彼女は紫の式だ、その言葉を果たしてどこまで信用していいものか、私には判断出来ない。
紫が自分への信頼を回復するために、式を遣わせたのだろうか。
しかし、自分の式なんて使ったら、私に疑われるのは目に見えている。
紫なら、裏に自分が存在していることすら気づかないように、もっとうまくやるはずだ。
それにいくら自分の命令だとは言え、ここまで式に貶されることを望むとは思えない。
いや、ほんと、いくらなんでも言い過ぎじゃない? 一応あんたの主なのよね?
「優しくて、怠け者で、おっちょこちょい」
「何よそれ」
「橙が紫様を評した時の言葉さ。
私の言葉で言い換えれば、ちょろ甘で、へたれで、天然ボケだな。
まあ見方によっては、可愛いと言ってもいいのかもしれない」
確かに藍の言ってることが事実なら、とんでもないへたれだとは思うけど……式が主にそんなこと言っていいのだろうか。
もし聞かれたら、処分されちゃったりしないのかな。
「なんだその微妙な顔は、まさか心配してくれているのか?
大丈夫に決まってるじゃないか、紫様はこの程度で怒るほど器の小さい人じゃないからな」
『紫様に私を処分する度胸なんて無い』と言っているようにしか聞こえなかった。
「想像できないのも仕方ない、でも家ではいつもそんな感じなんだ。
家事は私に全部押し付けるし、たまに料理を運んでくれたと思ったらこけるし、橙のイタズラはすぐに許すし」
私の中の紫のイメージが粉々に砕かれていく。
そんな紫の姿、実際に見たって信じられないかもしれない。
「朝は全然起きないし、たまに食べ過ぎて自分の体重気にしてるし、甘いものに目がなくてたまに人里の和菓子屋に変装して並んだりしてるし」
「ま、待って、待ってよ! そんなにまくし立てられても、理解が追いつかないわっ」
「理解しなくたって良い、言葉そのままの意味なんだから。
それに、まだ極めつけがあるぞ」
さんざん極められて、意識が朦朧としそうなのに、さらに極めつけなんて。
聞かされたら私、今度こそ気絶してしまう。
聞きたくない、耳を塞ぎたい……でも、紫のことは知りたい。
その欲求は他の全てを上回っている。
拒みたくても拒めない、紫を好きな気持ちだけが、今の私を突き動かしている。
「いいのか? 聞いたらもう、今まで通りには行かないぞ」
「いい、教えて。
紫のことはなんだって知りたいの。
私の中の紫のイメージとは一致しないけど、それでも……やっぱり、好きだから」
「ふっ……」
「いちいち笑うなっての!」
「いや、すまん、ほんと……ふふっ、でも、誰よりも一番イメージと違うのはお前だな、間違いなく」
「失礼なやつね、これでも私は中身は普通の人間なの、だからこそこんなに悩んでんのよ!
次笑ったらぶっ飛ばすから。
ほら、いいから話しなさいよ、いつまで焦らすつもりよ」
「わかったわかった、と言ってもお前もとっくにわかってることだろうが」
藍はニヤニヤと笑ったまま言った。
「紫様はヘタレなんだよ、だから好きな人間に自分から手をだすことも無い」
「好きな人間って、誰?」
「博麗霊夢以外に居るわけがないだろう。
好きだから特別扱いする、好きだから贔屓する、好きだから抱く。
全部、当たり前のことだ、むしろ今まで気づかなかった方が異常なぐらいだ」
妖怪の価値観なんて人間に理解できる物でもないのだから、例え私を抱いてくれたとしても、相思相愛だなんて思えるわけがない。
どんなにそれが当たり前のことでも、確証を得るまでは私の妄想でしか無い。
私は妄想を信じることなんて出来なかった。
けれどその確証は、探しても見つからない、手を伸ばしても届かない。
藁の中から針を探すようなもので、その針が存在するかもわからない。
けれど私は今、その針の存在を、そしてその所在を知ることができたのだ。
これがどんな奇跡か、どんなに嬉しいことか、私以外にわかるだろうか。
「……冗談じゃ、無いのよね」
声が震えていた。
こいつの前で泣くのは癪だから、歯を食いしばって、必死で涙を堪える。
でも、無理かも。
もう視界が歪んでいる、涙は今にも零れそうだ。
「冗談かどうかを決めるのはお前自信だよ、信じれば事実、信じなければ冗談」
「あんたが信用出来る相手なら良かったんだけど」
「信用出来ないって言うんなら、試してみればいい。
そうだな……博麗の巫女を辞めたいとでも伝えてみればいいんじゃないか? すぐに化けの皮が剥がれるだろう」
「そんなこと言ったら、私……」
「はは、殺されるかもしれないって?」
藍は半笑いでそう言った。
「呆れたよ、ここまで言ってまだ殺されるなんて発想ができるとは。
言葉で説得出来ないのなら実際に見てもらうしかあるまい。
百聞は一見にしかずだ、今から家に帰って紫様を呼んでこよう」
「なっ、まっ、待ってよ! そんな急に言われたって、心の準備だってできてないし!」
「その心の準備とやらはいつ終わるんだ? 待っていたら百年あっても足りないだろう、人間の寿命じゃその前にくたばって終わりじゃないか。
こういう時は、外野が強引に話を進めないとまとまらないんだ。
というわけで、私は帰るからな」
そそくさと立ち上がると、私が手を伸ばすよりも早く、藍は外へと飛び出す。
「待ちなさいっ、待って、待てって言ってるじゃないのよぉっ!」
慌てて結界を張ってももう間に合わない。
それでもどうにか止めたい私は、懐から札や針を片っ端から取り出し、がむしゃらに投げつける。
しかし適当に投げたそれらが藍に当たることはなく、踊るように容易く躱されてしまった。
手持ちの武器も尽き、万事休すの私に対して藍は小悪魔な笑顔を私に一瞬だけ向けると、加速してあっという間に見えなくなってしまった。
残されたのは、肩を上下させながら荒い呼吸を繰り返す私一人。
「……どうすんのよ」
私が呼んでいると言えば、紫は間違いなくここに来るだろう。
「どうしろって言うのよ」
彼女の能力を使えば、家から神社までは一瞬で移動できる。
藍が家に帰るまでの時間はあるものの、あのスピードだと、猶予と呼べるほどの余裕は無さそうだ。
つまり、もう、逃げ場はない。
やるしかないのだ。
ろくに覚悟も決まっていないのに、怖くて怖くて足が震えるぐらいなのに、暴くしか無いのだ、全ての思惑を、紫の考えを。
「どうなるのよぉ……っ」
がくんと、膝から地面に崩れ落ちる。
そんなことをしている間にも、時計の針は動き続けている。
わかっている。
時間がないことぐらい、私だってわかってるの。
なのに、体も、頭も、どこもかしこもまともに動く様子はなくて、動力の無い絡繰人形のように、視線を虚空に彷徨わせることしか出来ない。
確かに藍から紫の話は聞いた、私のことを好きだって可能性もあるのかもしれない。
でもそれとこれとは話が別じゃない!
告白するにしたって色々準備することがあるし、成功するかどうかもわかんないし。
失わない保証なんて、どこにもないのに。
それでも時は過ぎる。
五分、十分、十五分。
ちらりと時計に視線を向ける度、時間は飛び飛びになったかのように、残酷に、あっという間に過ぎていった。
気付けば、頭痛はすっかり消えていた。
薬のおかげとはいえ、ここまで綺麗に完治するとは、よほどいい薬だったのだろう。
いっそ痛みで気を紛らわせていた方が楽だったかもしれない。
私は三度ちゃぶ台に突っ伏して、紫が来るのを待っていた。
秒針が時を刻む音だけが私の耳に届いている。
あれからしばらく、時計を確認していない。時間の感覚もあやふやだった。
三十分は経ったのだろうか、それとも案外十分も過ぎていないのかもしれない。
どちらにしろ、時が過ぎていくのだけは変わりようのない事実。
避けようのない選択の時は、刻一刻と、逃げようもなく近づいている。
そしてそれは、いつだって前触れなんて無かった。
そう、いつもいつも、気配も無く、突然に訪れる。
私の驚く顔を期待しているかのように。
「大事な話があると言うから来たのだけれど……大丈夫かしら、具合でも悪いの?」
姿は見えないが、紫は私の背後から現れ、そして突っ伏す私の隣に腰を下ろした。
そして頭に手を置くと、髪を梳くように何度か撫でる。
暖かく、柔らかな感触。
嘘なんかじゃない。
優しさは確かに、そこにあった。
「紫……」
「んー?」
紫は絶えず私の頭を撫で続ける。
今ならまだ、”ただ呼んだだけ”と言えば誤魔化せるかもしれなかった。
でも、藍の言うことも間違っちゃ居ない。
今やらなきゃ、きっと私は、死ぬまで紫に気持ちを伝えられない。
終わらない、確実に手に入る優しい嘘を求めるのか。
それとも、失う可能性があっても、愛しい現実を手に入れようとするのか。
「……っ」
言葉は、あと少し力を込めるだけで、喉を通り過ぎ音になるはずだ。
今のままじゃ、曇り空は晴れないまま。
人間は衰え老いる生き物、いずれ私だって博麗の巫女で居られなくなる時が来ることぐらい気付いていたはず。
そしたら、私たちの関係は決定的に切れてしまう。
二度と会えず、もし紫が本当に私のことを好きだったとしても、嘘ってことになって、終わってしまう。
逃げ続けても引き延ばすだけで、いずれ終わりはやってくる。
終われば、綺麗な思い出になんて出来ない。
きっと始まりもしなかったそれは、私にとって一生の悔いになる。
死ぬまで……ううん、死んでも消えない、私の人生の汚点になる。
だったら、だったら私は――
お腹にぐっと力を込めて、怖気づく私を踏み越え、私は喉を震わせた。
「私、博霊の巫女……やめようと思う」
言ってやった。
言ってしまった。
藍の思惑に乗っかって、後戻りのできない一言を。
紫の手が止まる。
しばし反応は無かった。
静かな呼吸音だけが耳に届いてくる、その呼吸が乱れる様子は無い。
「急に、何を言い出すのかと思えば。
どうしたのかしら、嫌なことでもあったの?」
「嫌なことだらけよ、博霊の巫女なんて。
終わりの見えない、どす黒い底なし沼みたいなものだわ」
ただしその泥沼は、どうやら砂糖でできているようで、溺れていても心地よいのが問題なのだが。
ならいっそ全身浸かって、二度と這い上がれないようになれたらいいのに、人間という立場がそれを許してくれない。
半端に溺れて、半端に顔を上げて、そこから抜け出す努力をしなければならないのだ。
それが幻想郷における、人間という生き物のルールだから。
「殺すのが嫌だったの?」
「別にそれはどうでもいいわ」
「一人で神社に暮らすのが寂しいとか」
「特に問題は無いわ」
「でしたら」
「とにかく、嫌なものは嫌なのよ。
もう限界なの、だから……お願い、やめさせて」
「霊夢……」
再び紫は口を閉ざした。
どう絆すか、次の策を考えているのだろうか。
しかし、藍の言ったように、紫が取り乱しているようには思えない。
やはり嘘だったのだろうか。
「どうしても、駄目?」
「無理よ」
情に訴える作戦だろうか。
何を言われたって、紫に言動に変化が起きるまで折れるつもりはない。
諦めて私を見捨てるなり、始末するというのならそれでもいい。
それはそれで、はっきりとした答えが得られるのだから。
「頑張りましょう、今よりもっと私も協力するわ」
「頑張れないわ」
「う、即答……わかりましたわ、だったら!」
紫は立ち上がり、私から離れる。
最後の紫の言葉は、いつもの優しい雰囲気とはどこか違っていた。
本気の、とでも言えばいいのだろうか、気を引き締め、何やら決意を固めたように感じられたのだ。
ああ、ようやく諦めてくれたのか。
藍は化けの皮が剥がれると言っていたが、はてさて鬼が出るか蛇が出るか。
どちらにしても、やはり私にとっていい結果が出る予感はしない。
そんなことを考えている間も、紫は私の背後でもぞもぞと動き、何やら準備をしているようだった。
焦らすぐらいなら、いっそ一思いに殺してくれればいいのに。
紫の体温が私の背中に触れた瞬間、そのまま心臓を貫いてくれるのかと期待してしまった。
しかしその感触は想像していたよりもずっと柔らかく、温かい。
紫は私を背後から抱きすくめたのだ。
肌が密着する。幾度と無く肌で感じてきた体温が私の背中を包む。
「好きに、していいわ」
声を震わせ、今にも消えそうな程か細く、懇願するように耳元で囁く。
紫の優しさを信用できなかった私だけど、その声を信用しないなんて、あまりに冷酷すぎる。
突き放そうにも、私の良心が耐え切れなかった。
その弱さすら演技だと言うのなら、私は素直に白旗をあげよう。
騙されるのも仕方ない。だってこんなの、気付けるはずがない。
「霊夢が欲しがるもの全部。
心も、体も、好きにしても構いませんわ。
だから……だから、ね? 辞めるなんて、言わないで」
もう言うつもりは無かった。
今すぐにも紫の体を抱きしめて、わかった辞めない、絶対に離れないって言いたかった。
けど、まだ足りないの。
博麗の巫女ではなく、博麗霊夢を求めているという証拠を得ていないから。
だから少しだけ、私は私を殺して、自分のために、わがままに、残酷になろうと決めた。
「……ごめん」
罪悪感が私の胸を苛む。
吐きそうなほど強い痛みだったけれど、気合でそれを飲み込んだ。
顔を伏せていてよかった。
こんな顔を見られてたら、紫にはすぐ感づかれていただろうから。
「どうしたら、良いのかしら」
「……」
「どうしたら、辞めないでくれる?」
「……」
「どうしたら、離れないでくれるの?」
辞めたりなんてしない、離れたりなんてしない、そう言いたい気持ちをぐっと飲み込んで、無言を貫き通す。
紫の化けの皮が徐々に剥がれていくのがわかった。
彼女の言葉に感情が溢れだすにつれて、対象的に、私の心は歓喜に沸いた。
嘘なんて無い。悪意もない。
博麗の巫女でなく、私に対しての言葉だと、考えるまでもなく理解できたから。
「ねえ霊夢、答えて。お願いよ。
でないと私……」
「答えないと、どうなるの?」
「それは……」
私を抱きしめる腕に、さらに力が篭もる。
明らかに早い心音が、微かに背中で感じられる。
体は熱を帯び、紫の甘い匂いがいつもより強く香る。
その苦悩が、言葉だけでなく、触覚からも読み取れる気がした。
「だ、駄目よ、それだけは言えないわ」
「言えないなら辞める」
「嫌っ! 辞めないで、お願いだから、何だってするからっ」
「じゃあ答えて、私が居なくなったら、紫はどうなるの?」
「うっ……うぅ、ううぅぅっ」
紫は苦悩の声をあげながら、私の肩に額を押し付ける。
気持ちはわかる。
人間と妖怪の境界を守るのが博麗の巫女の役目でもあるのに、その巫女と、巫女を管理するべき立場の妖怪がその境界を超えてしまって良いわけがない。
許されない。でも許さず、罰を下すのは、他でもない自分自身。
これは、幻想郷と私とを天秤にかける行為。
私を選ばない可能性だってまだ残っている。
でもその時どうするかはすでに決めている。
潔く諦めよう、そして紫に頼もう。
”私を殺して欲しい”と。
一番の望みが叶わない世界に未練なんてない、けれどどうせ死ぬのなら、紫に殺された方が、清々しい気持ちで死ねるだろうから。
「うぅ、ううぅ……」
声に嗚咽が混じり始める。
泣いてる? あの紫が?
体の震え方から言っても、泣いているとしか思えない。
確かに化けの皮を剥がすとは言ったけども、まさか泣くほどだったなんて。
「……霊夢の、バカ」
「ば、バカ?」
紫らしからぬ言葉に、驚いてオウム返しすることしかできない。
いや、確かに紫に恋するバカかもしれないけど、そんな率直に言わなくたって。
「どうして、そんなにいじわるするのよぉ……なんで、わかってくれないのよぉっ!」
「痛っ、ちょ、痛いっ、痛いってば!」
紫の拳が容赦なく背中に降り注ぐ。
女の子の力ならまだしも、妖怪である紫の力で殴られると本気で痛い。
思わず勢い良く起き上がり紫を制止するのだが、やめる様子はない。
「わかりなさいよぉ!
触れて、抱いて、キスして、あれだけやったのよ、言わなくたってわかるでしょうがっ!」
「ったた……こっちだってね、心を読めるわけじゃないんだから、言われないとわからないわよ!」
妖怪で、千年以上生きてるって言うんだもの。
私を手玉に取るぐらい簡単にやってみせて、百年ぽっちしか生きられない人間なんて眼中にも無いんだって、そう思っちゃったの!
わかって欲しいって言うんなら、変に澄ました態度なんて取らないでよっ、抱いた後も私が眠ってる間に勝手に帰るなぁっ!」
「私はそんなに器用な妖怪じゃありませんわっ!
それに、朝まで残ってたら……口を滑らせて、とんでもないことを言ってしまいそうだったから」
「気付いて欲しいなら口ぐらいいくらでも滑らせればいいでしょう!?」
「私は妖怪で、霊夢は人間なのよ? そんなの、許されるわけが無い」
許されないのに、わかってほしいと思ってたわけ?
何よその矛盾、だったら最初から近づいてこなければよかったのに。
ああ……そっか、藍もそんなこと言ってたっけ。
我慢できなかったって。
規律よりも欲望の方が勝っちゃったんだって。
この場合、怒るべきなのかな、それとも喜ぶべきなのかしら。
「わかってるわよ、私だって、自分がおかしなことやってるってことぐらい。
でも、霊夢に抱いて欲しいなんて言われて……そっか、そうよ、霊夢が悪いのよ、人の気も知らないで、あんなふしだらな、とんでもないお願いをするからっ」
「何でもやるって言ったのは紫じゃない。
あの時に拒んでくれれば、私だって諦めがついてた。
なのにあんたは簡単に引き受けて見せてさ。
あんまりあっさりだったから、ああ博麗の巫女を操るためだったらこれぐらいやっちゃうんだって、そりゃ思うに決まってるわよ。
だって大妖怪様なんだもの、人間とは価値観がぜんっぜん違う、別の世界に住んでる雲の上の存在なんだから!」
「大妖怪としての私ではなく、八雲紫って個人を見て欲しかったのよぉ」
「そんなのただのわがままじゃない!
自分の方から高嶺の花を気取っておいて、手が届かないって錯覚させたくせに!」
紫は私のことバカって言ったけどさ、気づかなかったことに関してバカ呼ばわりしたのなら、それは受け入れられない。
私がバカなら人類全てバカよ。
そんなハードルの高さを無理くり押し付けられたって、応えられるわけがない。
「なによ……なによぉ、私ばっかり責めて。
私だって辛かったのよ? 苦しかったのよ?」
「私の方が辛かったに決まってるじゃない。
あんたは自分の気まぐれで私に会いにこれるけど、私はどんなに望んでも自分から会うことは出来なかったんだから」
「仕方ないわ、そういう立場だったんだから」
「わかってるなら、最初から抱くなぁっ!」
「仕方ないわ、好きで、好きで、どうしようもなかったんだからっ」
「だったらもっと早く好きって言いなさいよぉっ!
そしたら私だって百回も千回も好きって言って、死ぬほど甘えられたのにっ!
……って今、あんた好きって……私に好きって、言ったの?」
「あっ……」
それだけは言えないと自分で言っておいて、自分から言ってしまうなんて。
確かに藍や橙の言うとおり、おっちょこちょいだ。
紫のうっかり顔を見たい所だけど、こうも背中からがっちりホールドされていると、振り向くことさえままならない。
「紫、一回離れてもらってもいい? 顔を見て話をしたいの」
「やだ。
こんな顔、とてもじゃないけど見せられませんわ」
「そんなのお互い様よ、今の私の顔も酷いもんなんだから」
相手が紫じゃなかったら、絶対に見せたくない顔だった。
でも紫なら構わない。
紫が一旦私から離れると、私は体を反転させ、紫と向かい合った。
紫は真っ赤な目に涙を浮かばせていた。
ついでにほっぺたや鼻の先っぽまで真っ赤にして、ぐずついた子供みたいだ。
「ふ、ふふっ」
「ね、言ったでしょ」
「ええ、そうね。酷い顔だわ」
ひどい顔同士を突き合わせて、私たちはお互いに笑いあった。
おかげで緊張がほぐれ、熱を帯びた感情も随分と落ちついた。
「さて、これ以上抵抗しても無駄だってことはわかってるわよね。
聞いちゃったもの、私のこと好きだって」
「聞かれてしまったわね、必死に隠してきたのに。
どうするのかしら、これが他の人間や妖怪に知られたら大変なことになってしまうわよ」
「どうにかなるわよ、愛の力で」
「随分楽観的ですわね、らしくもない」
「紫と一緒に居られる、それだけで何もかも満たされ過ぎてて、他がどうなっても構いやしないって思ってるから。
楽観的なんじゃない、最初から見向きもしてないの」
自然と笑みが溢れる。
生まれて初めて、晴れた心を見た。
中途半端に、何者にもなれなかった私が初めて得た自分自身の居場所。
たぶん最初で最後の私が生きるべき場所を手に入れたのだから、他の場所が眼中に入るわけがない。
世界は狭くたって構わない。
重要なのは、そこで私が満たされるかどうかなのだから。
「広い視野を持って、多くの人と出会って、博麗の巫女を育てる身としては、そういうのを目指すべきなんでしょうけど。
ふふ、もう手遅れね。
霊夢が私だけを見てくれると聞いて、飛び上がるほど嬉しいのだから」
「一般論なんてどうでもいいのよ。
大事なのは、今ここに居る自分が幸せかどうかじゃない」
「賢者として同意するべきなのかしら」
「肩書きは捨てて、紫としての言葉を聞かせてよ。
八雲紫って個人を見て欲しいなら、自分から見せてもらわないと」
紫は私の左手を握り、指を絡めた。
「選ぶまでもないわね」
ふれあう指先が甘く痺れる。
今まで抱かれたどんな時よりも、今の方が幸せだと感じられる。
”ご褒美”の名目が無ければ、触れることすらかなわなかった。
それがこれからは、求めた分だけ触れることが出来る、その実感が私の心に大きな幸せを注いでいる。
感極まって、胸から何かが溢れ、せり上がってくる。
こらえようと下唇を噛むけれど、そんなの抵抗にもならない。
こみ上げた熱は瞳から溢れ、涙となってこぼれ落ちた。
「霊夢、泣いてるわよ」
ただでさえ酷い顔してるのに、さらに泣いたら、今度こそ大笑いされるに違いない。
そう思っていたのに、なぜか紫の瞳まで潤みはじめる。
そして臨界点を超えた感情が溢れ、紫の目からも涙のしずくがこぼれ始める。
「あんただって、泣いてるじゃない」
「あら、本当。
駄目ねえ、年をとると涙もろくなってしまいますわ」
「私まで巻き込まないでよ……もう」
一度流れ始めると、堤防はもはや意味をなさなかった。
加えて、悲壮な記憶ばかりが引き出しから出てきて、私を泣かそうとしてくる。
「やだなあ、もう」
抗うすべを無くした私は、その記憶をノーガードで受け続けるしかない。
瞳から、滾々と湧き出る泉のように、さらに涙を流れ出した。
「なんでっ……こんな、無駄に涙が出てきちゃうかなぁ」
曇りきった私の心を洗い流すための、禊のようなものなのだろう。
嫌な記憶は全部ここで吐き出して、生まれ変わって、憂いなく紫と愛し合うための通過儀礼。
「ふ、ふふっ、ひどい顔だったのが、更にひどくなって、ますわよ?」
「だからっ、あんただって…変わんないじゃないのよぉ……っ」
「だって、こんなに……こんなに、嬉しいことは、初めてなんですもの。
仕方ない、のよ。
仕方ない……っ、泣くに決まってるわ、こんなの、ごんなのぉ……っ。
ようやく、届いたんでずものっ……絶対にでに入らないって、おぼってたものがぁっ、でに入ったからぁっ……!
うぅ、うぁぁぁああ……あぁ……っ」
「なによそれ、紫ったら子供みたいに……子供、みたいに……泣いちゃってさぁっ……。
んなの見せられたらぁっ、わらし、らって……っ……ずずっ。
どうすんのよぉ、これ、涙、どまんないじぃっ、もうむりよこんなのぉっ…むり、むりぃっ!
ゆかり……ゆかりぃ、ゆかり、ゆかり、ゆかりっ!
ひっく、うぅぅ……うっ、うわああぁぁぁっ!」
私たちは手を繋いだままで、ボロボロと大量の涙を流しながら、顔をぐちゃぐちゃにして泣きじゃくった。
人に見られるとか、そんなの可能性すら考えない。
ただただ感情に任せて、今まで溜め込んできたものを、全部吐き出してやった。
神社からは、しばらく大きな泣き声が響いていた。
やがて泣きつかれた私たちは、その場に寝転んで、目を真っ赤に腫らしながら大笑いした。
いろんな事が、バカバカしくて。
何を悩んでいたんだろう、何をためらっていたんだろう。
今まで私は、あまりに無駄な回り道をしてきた。
博麗の巫女は消耗品に過ぎないとか、繋ぎ止めるために抱いてくれたとか、優しさも全部嘘っぱちだとか、ぜーんぶ私の思い込み。
全てをあるがままに受け止めていれば、何も問題は起きなかった。
最初から両思いだったのに、一言”好き”って言えば全部解決したのに、それすらできなかったのだから、そんなの笑うに決まっている。
あの頃の私たちにとっては重大な悩みだったんだろうけど、今となっては、この想いに比べればあまりにちっぽけな物だ。
もう、曇り空を見上げる必要もない。
差し込む太陽が、私たちを明るく照らしてくれるはずだから――。
八雲邸、藍の自室。
部屋の真ん中には二枚の座布団が敷かれている。
藍と橙の二人は、正座で座布団の上に座り、目を閉じて神経を研ぎ澄ましている。
しかし橙の方はうまく集中できていないようで、しっぽが左右にゆらゆらと揺れていた。
それでも”音声”はしっかり耳に届いているようで、二人の泣き声が響くたび、藍と橙の二人の耳はほぼ同時にぴくぴくと動いていた。
そして”向こう側”から聞こえる泣き声がある程度落ち着いた頃、橙が口を開く。
「藍さま藍さま」
「ん?」
「これ、盗み聞きしてていいやつなんですか?」
藍の配下の狐は、博麗神社の近辺に待機したままであった。
こんなに面白いネタを藍が逃すわけがない。
主にバレたらお仕置きは逃れられないが、取り乱した二人がその気配に気づくはずもなかった。
「私は二人のキューピッドだぞ。
これは駄賃のようなものだ、気にしないでいい」
「はぁ」
さすがの橙もこれが良くないことだとは気付いていたが、藍がそういうのなら、と納得することにした。
元よりその技術に興味があったし、紫が霊夢との関係に決着をつけると聞いて、家族である橙が気にならないはずがない。
「それにしても上手くまとまってくれて良かったよ、これで二人の関係にやきもきする必要も無くなりそうだ」
「紫さまって、あんなに涙もろかったんですね」
「あれはさすがに私も初めて聞いたよ。
それほどまでに霊夢に惚れていたということだろう、ほんと世話のかかる主人だ」
家での話題が霊夢に関する物ばかりだったので、紫がすっかり霊夢の虜になっていることは、藍も橙も知ってはいた。
しかし、さすがにここまで感情をむき出しにするとは二人共想像できなかったらしい。
「誰かに惚れたりしたら、私もああなっちゃうんでしょうか」
「惚れ方にもよるだろうなあ。
紫様の場合は持ち前の性格のせいで面倒なことになってたから、感動もひとしおなんだろう」
「はぁ……そんなもんなんですね」
「そんなもんなんだろう、私にもよくわからんが」
橙はいまいち理解出来ていない様子で、釈然としない表情をしている。
藍は理解できないことは無かったが、大の大人があそこまで号泣するほどなのか、そこまでは理解が及ばないようだ。
「感動とかしなかったか?」
「あらすじだけを聞けば感動的だとは思うのですが……でも」
「でも?」
橙は表情を一切変えず、冷たく言い放った。
「ああいう、こじらせた大人だけにはなりたくないなって、そう思いました」
「橙、紫様が聞いたら泣くぞ」
「もう泣いてますよ」
「……そうだな」
数時間後、目を真っ赤に腫らした紫が家に帰ってくると、橙はいつもと変わらない様子で無邪気に駆け寄っていった。
その姿はどこからどう見ても、邪念の無い、純粋な子供にしか見えず、先程までの辛辣な言葉を吐いていた橙と同一人物とは思えない。
演技をしているのか、それとも素の状態なのか。
藍は橙の将来に末恐ろしい物を感じつつも、
「冷酷に罵る橙も悪くないな」
と薄ら笑いを浮かべながら、やがて訪れる未来に思いを巡らすのであった。
ご馳走様でした
なら逆に楽観的で他罰的で殺すな生きたいという霊夢ならどうなっていたのか?
いや作者さんはそんな霊夢をどうしていたのか?
霊夢が殺しをしなきゃならん事実はこれからも変わらないわけだし
殺し殺されを強要するのがこれからの色な気がする
でも大好物