はぁ、まさかこんなことになるなんて……。
とあるアパートの一室にて。私は目の前にちょこんと座っている相棒を見遣り、心の中で嘆息した。
暢気に周りをキョロキョロ見回している彼女は、宇佐見蓮子。我が秘封倶楽部の頼れる会長であり、私のかけがえのない親友だ。いや、「だった」と言うべきか。まぁ少なくとも、つい何時間か前まではそうだった。
では、今はどうかと言うと。
「へぇ~……ここが私の家なのね。なんだか貧乏くさい生活をしてたのねぇ、私って」
「……それ、自分で言う?」
「だって、しょうがないじゃない。何にも覚えてないんだもの」
自らの下宿であっけらかんとそんなことを言ってのける彼女は、
宇佐見蓮子は、記憶を失っていた。
異世界に通じていると噂の廃洋館を調査しよう――蓮子がそう言いだしたのは一昨日の午後のことだった。
件の場所がそう遠くないこともあって、調査決行は翌々日の日曜日という話になった。流石に急過ぎるのではないかという私の意見具申は、「何事も即断即決、善は急げよ」などという蓮子の持論の前に無かったことにされた。……まぁ、私も今日は暇だったし、悪い気はしなかったのだけれど。
周囲を鉄柵で囲われた敷地内に佇む、三階建ての古ぼけた建築物。昔日には厳かな威容を誇っていたのだろうその館は、今や壁は色あせ屋根は朽ち、窓という窓のガラスは全て割れて無くなり、まさしく廃墟然とした姿を月明かりの下に晒していた。
「遠くからだとよくわからなかったけれど、それなりに立派な建物だったのね」
「そうね。きっとそれなりの資産家の別荘だったのよ」
「かもしれないけど……でも、私はどっちかっていうと、あれを思い出しちゃった」
「あれって?」
「ほら、私が隔離されてた信州のサナトリウム。あそこもこんな感じだったでしょ?」
「なるほどね、言われてみれば確かにそんな感じかも」
既知のあらゆる病気が根絶された現代においては、サナトリウムはもっぱら未知の病原体をもつ患者を治療したり、人生に疲れた人間が精気を充填するための場所である。だが、かつてのサナトリウムは結核や精神疾患の患者などを、隔離・療養する施設だった。あるいはこの洋館も、そういった施設の一つだったのかもしれない。
「二十一時十三分」
蓮子が空を見上げて呟く。
「メリー、周囲に結界は?」
「今のところ見当たらないわ」
「オーケー、じゃあ中の探索に入りましょうか」
私と蓮子は鉄柵の壊れた箇所を見つけ、躊躇なく廃洋館の敷地内へと侵入する。
ちなみに夜の廃洋館、なんてキーワードに恐怖する感性を、私は持ち合わせていない。そんなものは秘封倶楽部の活動を始めてしばらくした頃には捨て去っていた。……捨てざるを得なかった、とも言うけれど。
「どう、メリー」
「ちょっと空間の揺らぎが強くなってる。噂通り、何かありそうね」
洋館の内部は、外観に負けず劣らず廃墟廃墟していた。
玄関から入ってすぐの天井まである吹き抜けのホールは、ガラスの無くなった天井窓から降り注いだであろう雨水によってか、床がすっかり腐り落ちていた。
「こりゃ酷いわね……メリー、気を付けてね。ほら、私の手をとって」
「う、うん。ありがとう、蓮子」
天然の落とし穴だらけのホールを、蓮子に手を引かれて抜ける。ホールの左右に伸びる長い廊下には、個室なのだろう、木製の扉が等間隔に並んでいた。
私たちは懐中電灯片手に、それらの部屋を一つ一つ調べていく。どこの部屋も似たような構造だった。ぼろぼろになった質素なベッドが一つと、同じくぼろぼろの机と椅子が一揃い。粉々に割れた窓ガラスが部屋中に飛び散っていたり、壁に何か引っ掻いた跡のようなものがあったりするのは、肝試しならば最高のシチュエーションだったろう。当然、私たちの活動には関係ないのだけれど。
「メリー、結界はあった?」
「ううん、やっぱりこの階にはなさそう」
「てことは、上よね」
調査できそうな一階の部屋を粗方調べ終えた私たちは、そろりそろりと階段を上る。
上りきった瞬間、
「……っ」
視界が歪んだ。一瞬、くらりとした感覚が私を襲った。
蓮子が心配そうな顔で振り向く。
「メリー、どうしたの? 大丈夫?」
「ええ、平気よ蓮子。……けど、間違いない。境界はこの階のどこかにあるわ」
確信を得た私の言葉に、蓮子は無言で頷いた。
二階の個室も、一階とほとんど同じ造りをしていた。
ただ、その代わり映えのしない部屋の中で、一つだけ、他の部屋とは雰囲気が違うものがあった。
館のちょうど真ん中あたりに位置していたその部屋は、
机も椅子も整然としていた。
ベッドも汚れていなかった。
窓ガラスも割れていなかった。
壁紙も白く張られたままだった。
先ほどまで誰かが生活していたのではと錯覚するほどに、その部屋は綺麗だった。綺麗過ぎた。
そして、決定的な違いとして、
その部屋にだけ、空っぽの本棚があった。
「何これ……この部屋だけ、まるで時間が止まってしまったみたい。結界の綻びがあるとすればここね。メリー、どうかしら?」
蓮子が少し興奮気味に訊いてくる。私はゆっくり頷くと、
「……ええ、あるわ。あそこに」
境界を見つけ出す私の眼は、確かに捉えていた。本棚の前に口を開ける、黒々とした裂け目を。
「向こう側がどうなっているかはわからないけど……確かに境界は視える」
「なるほどね、それじゃあ早速」
「待って」
意気揚々と本棚に突進しようとした相棒を引き留める。わかってはいたけれど、蓮子はちょっと危機意識が薄過ぎる気がする。
「向こう側がどんなところかわからないのに、考えなしに突貫するのは危険だわ」
「そうは言ったって、実際に行って見てみないと向こう側がどうなってるかなんて知りようがないんじゃないの?」
「じゃあ蓮子はここで待ってて。私が先に見てくるから」
「いーえ、だめよ。メリーはただでさえ『曖昧』なんだから、一人で向こう側に行って、帰ってこれなくなっちゃったら困るわ」
「蓮子は心配性ねぇ。なら、二人で行きましょうか」
「そう来なくっちゃね。二人で一つの秘封倶楽部、だもの」
私と蓮子はくすくすと笑い合う。そうしてお互いに手を取り合って、不自然なほど綺麗な部屋の、本のない本棚の前に歩み寄る。
黒の境界はどんどん近づいてくる。正直、ちょっと不安。けど……蓮子が隣にいるのだもの。何も恐れることなんてない。
境界の黒が視界を埋め尽くす。そして――
私たちは、境界を越えた。
境界の向こうは、狭い部屋だった。
四方は壁に囲まれており、窓はない。天井には、一昔前の時代を思わせる室内照明が一つ。フローリングの床には花柄の絨毯が敷かれており、質素な部屋の情景に多少の可愛らしさを演出していた。真後ろには向こうと同じような空っぽの本棚と、今しがた通ってきた黒の境界があって、目の前の壁際には昔のアニメに出てくるような勉強机が一つ。そしてその上には、分厚い本が一冊載っていた。
「何ここ」
蓮子がぽつりと呟く。私だって同じことを言いたい。今までいろいろな境界を越えてきたけれど、ここまで殺風景なのは初めてだ。
「これが噂の異世界?」
「四畳半の異世界ね」
ここまで何もないとなると、私の興味は当然、机の上の本に向く。一体、あの本は何なのだろうか。まるで、あの本のためにこの空間が作られたようにも思えるけれど……
どうやら蓮子も同じ気持ちだったようで、彼女はその本に視線を向けながら、ニヤリと笑った。
「ま、これはこれで面白いかもね。なんだかRPGによくある隠し部屋みたいじゃない」
「なら、秘密のお宝はあの本かしら」
「ええ、そこはかとなく気になるわね。きっと値打ちものよ、ちょっと見てみましょう」
本は表紙を裏にして置いてあった。蓮子は躊躇なくそれを手に取り、
無造作に、適当なページを開いて、
「……ん」
小鳥の囀りが聞こえてきて、私は目を覚ました。
一番に目に入ったのは、汚れたコンクリート天井。続いて顔を横に向けて見れば、スース―と寝息をたてる蓮子の寝顔。どうして私は蓮子と寝ているのだろうと素朴な疑問を抱きながら体を起こしてみれば、そこは廃墟だった。
「……何が起こったのかしら」
どうやら、私はここで一晩を明かしてしまったらしい。寝起きでぼうっとしている頭を無理やり動かして、状況の分析をする。
昨日、私と蓮子はこの廃洋館に調査に来て、
ある不思議な一室に境界があるのを見つけて、
境界の先にあった本を蓮子が開いて、そうしたら……
「……そうしたら、どうなったんだっけ」
そこで、私の記憶は途絶えていた。けれど、どうやったのか、あの後私たちは異世界から無事に抜け出せたようだった。
そこまで整理して、未だに眠りこけている相棒を起こすことにする。
「蓮子、蓮子」
「…………」
「蓮子、ほら、起きて。メリーさんのモーニングコールよ」
「……うーん」
ゆさゆさと揺さぶると、蓮子はのろのろと目を開けた。そのまま緩慢な動作で身を起こすと、私の顔を焦点の定まらない目で見る。
「おはよう、蓮子」
「……おはよう、ございます」
「ねぇ蓮子、もう朝よ。私たち、この廃洋館で一泊してしまったみたい」
「…………」
「……まだ寝ぼけてるの? 蓮子ったら、ちょっと寝不足が過ぎるんじゃない?」
「…………」
「……蓮子?」
蓮子の様子がおかしい。
嫌な予感がした。もしかして、私が眠ってしまった後、蓮子に何かあったのではないか。
そんな私の不安な胸中を知ってか知らずか、蓮子はきょとんとした顔で、口を開く。
「ねぇ」
「……なぁに、蓮子」
「蓮子、というのが、私の名前なの?」
「――――えっ」
……今、彼女は何と言った?
「……蓮子。嫌な冗談は止して」
「……わからないの。私が誰なのか。貴女が誰なのか」
「そんな、嘘」
嘘だ。嘘に決まっている。
「嘘でしょう? そんなこと言って、私をからかおうって魂胆ね。お生憎様、その手には引っかからないわよ?」
なかなか真に迫っているけれど、私は絶対に騙されない。絶対に、絶対に絶対にぜったいに。
「……ねぇ、お願い蓮子。嘘って言って」
ぜったいに、
「蓮子……!」
うそに、きまって、
「……ごめんなさい」
「……っ!!」
――――心臓が、抉られた気がした。
「そん、な」
じわりと目の奥が熱くなる。ほどなくして溢れ出る、涙。涙、涙。涙――――
ぼやけた世界の中で、蓮子が申し訳なさそうな、それでいて困惑したような視線を向けてくるのがわかる。それでも、涙は止まらない。むしろ、ますます激しく、とめどなく流れ落ちていく。
私のかけがえのない親友は、
唯一無二の相棒は、
宇佐見蓮子は、こうして記憶を失った。
「……それじゃあ、何から話しましょうか」
眼前の蓮子に、そう問いかける。
記憶喪失とはいえ、原因が原因だけに、病院へは連れて行けない。頼るにしても、それは最終手段であるべきだ。今は私が出来る限りのことをして、蓮子の記憶を取り戻さなければならない。そのためには、どんな努力だって惜しむつもりはなかった。
いつどこでだったかは忘れたけれど、以前、記憶喪失というのはデータとしての記憶そのものが削除されたわけではなく、いわば記憶の入っている引き出しが壊れてしまい、中身をうまく取り出せない状態だと聞いたことがある。ならば外から記憶を取り出しやすいよう切っ掛けを与えてやれば、ひょっとしたら思い出してくれるかもしれない。その確率はあまり高くないのかもしれないけれど、少なくともこのまま何もしないよりはいいはずだ。
「ええと、とりあえず……私のことからお願い」
「わかったわ。まず、あなたの名前は蓮子よ。フルネームは、宇佐見蓮子」
「宇佐見、蓮子……」
蓮子が興味深そうに眉を吊り上げた。
「何か、ピンときた?」
「……ううん、続けてちょうだい」
「ええ、それじゃあ……蓮子、あなたは○○大学の理学部物理学科で、超統一物理学を専攻してるの」
「超統一物理学?」
小さく首を傾げる蓮子。
――まさか、私が蓮子に彼女の専門について教える時が来るなんてね。
内心苦笑しながら、私はかつて蓮子に聞いたことを(おぼろげながらに)思い出す。
「そうよ。私は蓮子から話を聞いているだけで、そんなに詳しいことは知らないんだけどね。なんでも、四つの力をまとめた学問で……今はひもの研究? をしてるとかなんとか」
「……なるほど、超ひも理論ってやつかしらね。それで、他には?」
「それで……ええと、そうだ、蓮子は東京出身なの」
「そういえば、ここは京都だったわね」
「そうそう。蓮子は大学に通うために東京からこっちに上京してきて、この部屋で一人暮らしをしてるの」
「……ん?」
一瞬、蓮子が眉根を寄せる。何か、記憶の手がかりでも掴んだのだろうか。
「……? どうかした?」
「ああ、いや、なんでもないわ……でも、何か思い出せそうな気もするの。続けてもらえるかしら?」
「後は……そうね、先に私のことを話してもいいかしら?」
「ええ、お願いするわ」
「じゃあ……自己紹介から。私はマエリベリー・ハーン。蓮子と同じ大学に通っていて、専攻は相対性精神学。蓮子からは……メリーって呼ばれてるわ」
「じゃあ、貴女のことはそう呼んだ方がいいかしら?」
「……出来れば。けど、あなたの呼びたいように呼んでくれて構わないわ」
唯一無二の相棒であるはずの蓮子に、初対面のような自己紹介をする。そんなやるせない状況に、ふと思わず涙が出そうになる。けれど、私はそれをぐっと堪えて蓮子の反応を待つ。
「ふむ、貴女のことはとりあえずわかったわ。それで、貴女と――メリーと私は一体どういう関係なの? 話を聞く限り、同じ大学に通ってるってだけで接点なんてなさそうなものだけれど」
「……改めて、あなたからそれを言われるとキツイわね」
「ああ、ごめんなさい」
「いえ、いいわ。私と蓮子はね、あるサークルの一員なの。一員って言っても、メンバーは私と蓮子の二人だけなんだけどね」
「もしかして、あの時私たちが廃墟にいたのはその活動の一環だったりするのかしら」
「あら、よくわかったわね。そう、私たちはオカルトサークル。各地の不思議な噂を聞きつけては、それを調べてるの。というのもね、実は私の眼はちょっと特別で……結界の綻び、というか境目が見えるのよ」
「ふぅん……境界を見る能力、ね。それじゃあ、そのサークル活動はメリーの眼を使って行われていたというわけね」
蓮子の言葉に、私は頷く。
「あの廃墟に行ったのも、あそこが異世界に通じているという噂があったから。私たちの目的はね、境界の向こう側の世界を覗くことなの。結界という神秘のベールに包まれた、幻想の世界を夢見てね」
「…………」
「どう? ここまでで、何か思い出したことはある?」
私の質問に、蓮子は黙って首を横に振る。
ならば、と私は席を立ち、蓮子の机の引き出しを漁る。蓮子はいつも、それをそこにしまっていた。
「何をしているの?」
「ちょっと探し物をね。……ああ、あったわ。これよ」
目的のものは、すぐに見つかった。
私が引っ張りだしたのは、それなりの厚さの一冊の日誌。
私と蓮子にとって、とても大切な思い出たちが記録されているもの。
「それは?」
「私たちのサークルの日誌よ。これまでしてきた活動のことが、全部その中に書いてあるの」
「じゃあ、これを読めば私の記憶が復活するかもしれないってわけね」
私が差し出したそれを、蓮子は興味深そうに受け取る。そしておもむろにページを開こうと表紙に目をやって、
「……えっ?」
その目が、大きく見開かれた。
「どうかしたの?」
「ねぇ、この秘封倶楽部って……?」
「ああ、そういえばまだ言ってなかったわね。それが我らがオカルトサークルの名称よ。秘封倶楽部って、命名はあなたなんだけどね」
「……そんな、まさか」
消え入りそうなほど小さな声で呟く蓮子。
ひょっとして、命名が気に入らないとか言い出すんじゃないだろうか。記憶を失っているとはいえ、蓮子にそれを言われたら流石に泣き出す自信がある。私自身この名前を気に入っているし――なにより、蓮子との思い出の半分くらいは、この名前と共にあるのだから。
そんな私の不安を余所に、蓮子は震える手で日誌を開き、黙々とページを捲っていく。食い入るように日誌を読み進める蓮子の姿に、もしかしたら彼女の記憶は案外すぐに戻るかもしれないと、そんな希望的観測が私の中に芽生えてきていた。
それからしばらくの間、静かな部屋の中には、紙の擦れる音だけが響いていた。私は蓮子が私たちの軌跡を辿る間、ただ黙って彼女のことを見守っていた。記憶を失った彼女は、これまでの私たちのことを見て、どう思っているのだろうか。果たして好ましいものに感じてくれているだろうか……彼女のことを見守りながら、私はそんなとりとめのないことを考えていた。そうして気がつけば、もう空が茜色に染まる時間になっていた。
パタン、と日誌が閉じられた。
全文を読み終えたらしい蓮子は、長い溜息をついていた。
「蓮子」
「……なぁに、メリー」
「思い出せたのかしら?」
「残念ながら、ノーよ」
蓮子は、きっぱりとそう告げた。
「……そ、う」
沈黙が場を満たす。
まぁ、わかってはいた。そんなに簡単に記憶が戻るのなら苦労はない。事がそう都合よく運ぶはずもない。現実は甘くはないのだ、と。
けれど、頭ではわかっていても、秘封倶楽部の――私と蓮子の記録を見れば、きっと全てを思い出してくれるだろうと、心の底ではやはりある程度の期待があったのもまた事実であって。だからこそ、私はそれを聞いて少なからず落胆してしまった。その色を隠し切れなかった。世界が灰色になった気がした。
そんな私の気持ちを察したのだろうか、不意に蓮子が俯く。そして、おもむろに口を開いた。
「けどね」
「……?」
「きっと……もうすぐ、思い出せるわ」
そう、妙に自信ありげに言ってのける蓮子の表情は、窓から差し込む夕陽で陰になってしまっていて、よくわからなかった。
「……それじゃあ、私はそろそろお暇させてもらうわね。明日、また来るから」
私は席を立って帰り支度を始める。本当は泊まっていきたかったのだけれど、今の蓮子にとって私は赤の他人なのだ。いきなり寝食を共にする、というのも抵抗があるだろう。だから今日は一先ず帰って、どうすれば蓮子の記憶が戻るのか、一人で今後のことを考えるつもりだった。
「また明日、蓮子」
「……ええ、メリー。また明日」
簡単に別れの挨拶だけして、私は玄関の扉を開ける。
「ああ、ちょっと待って」
唐突に、蓮子に呼び止められた。
「何かしら?」
「日誌の感想なのだけれど、良かったわ」
「……え?」
「つ、月並みな表現で悪かったわね。……ええと、そうね。なんというか……すごく仲がいいのね、貴女たちって。最初から最後まで、貴女たちが活動を楽しんでるのがすごく良く伝わってきたわ。羨ましくなっちゃうくらいに」
「そのあなたたちの一人はあなたなのだけれど」
「そうね。本当、こんなに楽しそうな記憶を思い出せないなんて、自分が嫌になっちゃうわ」
そう言って、蓮子はからからと笑う。……彼女が何を思ってそれを伝えてくれたのかはわからない。けれどそんな彼女の言葉に、私はどこか心の荷が軽くなるのを感じていた。
「まぁ、最後に言いたかったのはそれだけ。引き留めたりしちゃってごめんなさい」
「……ええ。じゃあ、今度こそさようなら、蓮子」
「さようなら、メリー」
今度こそ、私は蓮子の家を後にする。
去り際に「ごめんなさい」と。蓮子がか細い声で謝るのを聞いた気がした。
翌朝、私はインターホンがけたたましく鳴る音で目が覚めた。
時計を見れば、まだ六時にもなっていない。全く、誰だろうかこんな朝早く……そうぶつぶつ文句を言いながら寝ぼけた頭で出てみれば、目の前に映し出されたのは、
『メリー! ああ良かった、無事だったのね!』
「……蓮子?」
いつもの白いシャツに、黒のロングスカート。トレードマークの黒の帽子。
どこかほっとした様子の、宇佐見蓮子の姿だった。
「こんな時間にどうしたのよ……あなたの記憶のことなら、私があなたの所に行くって話だったでしょう?」
『私の記憶? そんなことどうでも……あー、よくはないけど、今はいいのよ! とにかく早く入れて頂戴!』
「わ、わかったわよ……」
蓮子の剣幕に圧されて、マンションのドアロックを解除する。ほどなくして扉がノックされ、鍵を開けると同時に蓮子が部屋に雪崩れ込んできた。
「わ、ちょ、蓮子!?」
「良かった、メリーが無事で本当に良かった……!」
私を抱きしめながらそんなことを言う蓮子。かすかに焦げたような匂いが鼻孔を掠めた。
一体何がどうなっているのだろうか。私が無事で良かった? 蓮子は何の話をしているのだろう。まだ寝起きなこともあってか、状況の把握が出来ない。
とりあえず、蓮子を引きはがして椅子に座らせる。
「ちょっと、落ち着いて蓮子。まず私にわかるように説明してくれる?」
「……私たちが、あの廃洋館に行ったのは覚えてるわよね?」
「ええ、もちろん」
「それで、中を探索して、二人で境界を越えて、本を見つけて読んで。それで気づいたら、私、自分の部屋にいたのよ。あの後どうなったのか、どうやって帰ったのか、全然記憶にないの」
「……え?」
「びっくりして、とりあえずメリーと連絡を取ろうと思ったら、全然反応がないし……それで、ひょっとして境界の向こう側に行ったまま、帰ってこれなくなっちゃったんじゃないかって心配になって」
「ちょっと待って」
強烈な違和感を感じ、その正体を探るべく寝ぼけた頭をフル回転させる。
蓮子の話は、おかしい。あの後蓮子は記憶喪失になって、私と一緒に帰ったはずだ。それを覚えていないなんて、いくらなんでも忘れっぽすぎる――
――違う、そうじゃない。そうだ、どうやって蓮子はここまでやって来たのだろうか。昨日まで記憶喪失だったのだから、当然蓮子は私の家なんて知らないわけで――
――いや、そもそも今、蓮子は何と言った? 「廃洋館を探索して」「二人で境界に入って」「本を見つけて読んだ」……まさに、私たちの当日の行動そのままだ。どこにも違和感なんて感じない。むしろどうして蓮子がそれを覚えているのか不思議なくらいだ。
どうして蓮子が、それを覚えているのか。
蓮子が、それを覚えている。
――――っ!?
「……蓮子、あなた、もしかして記憶が戻ったの……?」
「ええ? いや、どっちかって言うと記憶が飛んだっていうか……さっきも言ったけど、私、どうやって帰ってきたのか覚えてなくって」
「蓮子、私は誰?」
「……? メリーでしょ、何を言っているの?」
「蓮子にとって、私は何?」
「それ、真顔で訊いちゃう……? ええっと、大切な親友で、最高の相棒……とか」
「蓮子っ!!」
「うぇっ!?」
今度は、私が蓮子に抱きつく番だった。
「良かった……! 蓮子、あなたは蓮子なのよね? 私のことわかるわよね? 秘封倶楽部のこと、覚えてるわよね?」
「きゅ、急にどうしたの? そりゃあ私は私だし、この私が――宇佐見蓮子さんがメリーや秘封倶楽部のことを忘れたりするわけないでしょう?」
「ああ、蓮子、良かった、蓮子……!」
その戸惑いながらも自信に満ち溢れた言葉を聞いて、私は更に強く蓮子を抱きしめる。
どんな奇跡が起こったのかはわからない。いや、そもそも蓮子が記憶喪失になったということ自体が、ひょっとしたら私の夢の中の出来事だったのかもしれない。
けれど、もうそんなことはどうでも良かった。蓮子が秘封倶楽部のことを覚えていて、私のことを覚えていて、大切な存在に思ってくれていて……それだけで、私は。
「はぁ……何だかよくわからないけど、メリーが無事ならもうそれでいいわ」
「私もよ。蓮子が蓮子なら、それでいい」
「……メリーはよく私のことを変人って言うけれど、今日の貴女の方がよっぽどおかしいわよ」
「なら変人同士、私たちはお似合いってことね。悪い気はしないわ」
そんなやり取りをして、お互いにしばし見つめあってから、やがてどちらからともなく笑いだす。
「……ちなみに蓮子、さっきから気になってたんだけど、あなたなんだか焦げ臭いわよ。動揺しすぎて卵焼きでも焦がしたの?」
「まさか。動揺し過ぎて朝食を食べるって選択肢すら思い浮かばなかったわ。……あ、でも考えてみればちょうどいいわね! メリー、ご馳走になっていってもいい?」
「ちょうどいいって……まったくもう、蓮子ったら調子いいんだから。言っておくけど、昨日の残りものとか、簡単なのしかないわよ?」
「メリーの簡単は簡単じゃないし、大歓迎よ」
いつもと全く変わりのない、私たち二人の日常がそこにあった。
秘封倶楽部日誌に新しいページが書き込まれたのは、その日の午後のことだった。
とあるアパートの一室にて。私は目の前にちょこんと座っている相棒を見遣り、心の中で嘆息した。
暢気に周りをキョロキョロ見回している彼女は、宇佐見蓮子。我が秘封倶楽部の頼れる会長であり、私のかけがえのない親友だ。いや、「だった」と言うべきか。まぁ少なくとも、つい何時間か前まではそうだった。
では、今はどうかと言うと。
「へぇ~……ここが私の家なのね。なんだか貧乏くさい生活をしてたのねぇ、私って」
「……それ、自分で言う?」
「だって、しょうがないじゃない。何にも覚えてないんだもの」
自らの下宿であっけらかんとそんなことを言ってのける彼女は、
宇佐見蓮子は、記憶を失っていた。
異世界に通じていると噂の廃洋館を調査しよう――蓮子がそう言いだしたのは一昨日の午後のことだった。
件の場所がそう遠くないこともあって、調査決行は翌々日の日曜日という話になった。流石に急過ぎるのではないかという私の意見具申は、「何事も即断即決、善は急げよ」などという蓮子の持論の前に無かったことにされた。……まぁ、私も今日は暇だったし、悪い気はしなかったのだけれど。
周囲を鉄柵で囲われた敷地内に佇む、三階建ての古ぼけた建築物。昔日には厳かな威容を誇っていたのだろうその館は、今や壁は色あせ屋根は朽ち、窓という窓のガラスは全て割れて無くなり、まさしく廃墟然とした姿を月明かりの下に晒していた。
「遠くからだとよくわからなかったけれど、それなりに立派な建物だったのね」
「そうね。きっとそれなりの資産家の別荘だったのよ」
「かもしれないけど……でも、私はどっちかっていうと、あれを思い出しちゃった」
「あれって?」
「ほら、私が隔離されてた信州のサナトリウム。あそこもこんな感じだったでしょ?」
「なるほどね、言われてみれば確かにそんな感じかも」
既知のあらゆる病気が根絶された現代においては、サナトリウムはもっぱら未知の病原体をもつ患者を治療したり、人生に疲れた人間が精気を充填するための場所である。だが、かつてのサナトリウムは結核や精神疾患の患者などを、隔離・療養する施設だった。あるいはこの洋館も、そういった施設の一つだったのかもしれない。
「二十一時十三分」
蓮子が空を見上げて呟く。
「メリー、周囲に結界は?」
「今のところ見当たらないわ」
「オーケー、じゃあ中の探索に入りましょうか」
私と蓮子は鉄柵の壊れた箇所を見つけ、躊躇なく廃洋館の敷地内へと侵入する。
ちなみに夜の廃洋館、なんてキーワードに恐怖する感性を、私は持ち合わせていない。そんなものは秘封倶楽部の活動を始めてしばらくした頃には捨て去っていた。……捨てざるを得なかった、とも言うけれど。
「どう、メリー」
「ちょっと空間の揺らぎが強くなってる。噂通り、何かありそうね」
洋館の内部は、外観に負けず劣らず廃墟廃墟していた。
玄関から入ってすぐの天井まである吹き抜けのホールは、ガラスの無くなった天井窓から降り注いだであろう雨水によってか、床がすっかり腐り落ちていた。
「こりゃ酷いわね……メリー、気を付けてね。ほら、私の手をとって」
「う、うん。ありがとう、蓮子」
天然の落とし穴だらけのホールを、蓮子に手を引かれて抜ける。ホールの左右に伸びる長い廊下には、個室なのだろう、木製の扉が等間隔に並んでいた。
私たちは懐中電灯片手に、それらの部屋を一つ一つ調べていく。どこの部屋も似たような構造だった。ぼろぼろになった質素なベッドが一つと、同じくぼろぼろの机と椅子が一揃い。粉々に割れた窓ガラスが部屋中に飛び散っていたり、壁に何か引っ掻いた跡のようなものがあったりするのは、肝試しならば最高のシチュエーションだったろう。当然、私たちの活動には関係ないのだけれど。
「メリー、結界はあった?」
「ううん、やっぱりこの階にはなさそう」
「てことは、上よね」
調査できそうな一階の部屋を粗方調べ終えた私たちは、そろりそろりと階段を上る。
上りきった瞬間、
「……っ」
視界が歪んだ。一瞬、くらりとした感覚が私を襲った。
蓮子が心配そうな顔で振り向く。
「メリー、どうしたの? 大丈夫?」
「ええ、平気よ蓮子。……けど、間違いない。境界はこの階のどこかにあるわ」
確信を得た私の言葉に、蓮子は無言で頷いた。
二階の個室も、一階とほとんど同じ造りをしていた。
ただ、その代わり映えのしない部屋の中で、一つだけ、他の部屋とは雰囲気が違うものがあった。
館のちょうど真ん中あたりに位置していたその部屋は、
机も椅子も整然としていた。
ベッドも汚れていなかった。
窓ガラスも割れていなかった。
壁紙も白く張られたままだった。
先ほどまで誰かが生活していたのではと錯覚するほどに、その部屋は綺麗だった。綺麗過ぎた。
そして、決定的な違いとして、
その部屋にだけ、空っぽの本棚があった。
「何これ……この部屋だけ、まるで時間が止まってしまったみたい。結界の綻びがあるとすればここね。メリー、どうかしら?」
蓮子が少し興奮気味に訊いてくる。私はゆっくり頷くと、
「……ええ、あるわ。あそこに」
境界を見つけ出す私の眼は、確かに捉えていた。本棚の前に口を開ける、黒々とした裂け目を。
「向こう側がどうなっているかはわからないけど……確かに境界は視える」
「なるほどね、それじゃあ早速」
「待って」
意気揚々と本棚に突進しようとした相棒を引き留める。わかってはいたけれど、蓮子はちょっと危機意識が薄過ぎる気がする。
「向こう側がどんなところかわからないのに、考えなしに突貫するのは危険だわ」
「そうは言ったって、実際に行って見てみないと向こう側がどうなってるかなんて知りようがないんじゃないの?」
「じゃあ蓮子はここで待ってて。私が先に見てくるから」
「いーえ、だめよ。メリーはただでさえ『曖昧』なんだから、一人で向こう側に行って、帰ってこれなくなっちゃったら困るわ」
「蓮子は心配性ねぇ。なら、二人で行きましょうか」
「そう来なくっちゃね。二人で一つの秘封倶楽部、だもの」
私と蓮子はくすくすと笑い合う。そうしてお互いに手を取り合って、不自然なほど綺麗な部屋の、本のない本棚の前に歩み寄る。
黒の境界はどんどん近づいてくる。正直、ちょっと不安。けど……蓮子が隣にいるのだもの。何も恐れることなんてない。
境界の黒が視界を埋め尽くす。そして――
私たちは、境界を越えた。
境界の向こうは、狭い部屋だった。
四方は壁に囲まれており、窓はない。天井には、一昔前の時代を思わせる室内照明が一つ。フローリングの床には花柄の絨毯が敷かれており、質素な部屋の情景に多少の可愛らしさを演出していた。真後ろには向こうと同じような空っぽの本棚と、今しがた通ってきた黒の境界があって、目の前の壁際には昔のアニメに出てくるような勉強机が一つ。そしてその上には、分厚い本が一冊載っていた。
「何ここ」
蓮子がぽつりと呟く。私だって同じことを言いたい。今までいろいろな境界を越えてきたけれど、ここまで殺風景なのは初めてだ。
「これが噂の異世界?」
「四畳半の異世界ね」
ここまで何もないとなると、私の興味は当然、机の上の本に向く。一体、あの本は何なのだろうか。まるで、あの本のためにこの空間が作られたようにも思えるけれど……
どうやら蓮子も同じ気持ちだったようで、彼女はその本に視線を向けながら、ニヤリと笑った。
「ま、これはこれで面白いかもね。なんだかRPGによくある隠し部屋みたいじゃない」
「なら、秘密のお宝はあの本かしら」
「ええ、そこはかとなく気になるわね。きっと値打ちものよ、ちょっと見てみましょう」
本は表紙を裏にして置いてあった。蓮子は躊躇なくそれを手に取り、
無造作に、適当なページを開いて、
「……ん」
小鳥の囀りが聞こえてきて、私は目を覚ました。
一番に目に入ったのは、汚れたコンクリート天井。続いて顔を横に向けて見れば、スース―と寝息をたてる蓮子の寝顔。どうして私は蓮子と寝ているのだろうと素朴な疑問を抱きながら体を起こしてみれば、そこは廃墟だった。
「……何が起こったのかしら」
どうやら、私はここで一晩を明かしてしまったらしい。寝起きでぼうっとしている頭を無理やり動かして、状況の分析をする。
昨日、私と蓮子はこの廃洋館に調査に来て、
ある不思議な一室に境界があるのを見つけて、
境界の先にあった本を蓮子が開いて、そうしたら……
「……そうしたら、どうなったんだっけ」
そこで、私の記憶は途絶えていた。けれど、どうやったのか、あの後私たちは異世界から無事に抜け出せたようだった。
そこまで整理して、未だに眠りこけている相棒を起こすことにする。
「蓮子、蓮子」
「…………」
「蓮子、ほら、起きて。メリーさんのモーニングコールよ」
「……うーん」
ゆさゆさと揺さぶると、蓮子はのろのろと目を開けた。そのまま緩慢な動作で身を起こすと、私の顔を焦点の定まらない目で見る。
「おはよう、蓮子」
「……おはよう、ございます」
「ねぇ蓮子、もう朝よ。私たち、この廃洋館で一泊してしまったみたい」
「…………」
「……まだ寝ぼけてるの? 蓮子ったら、ちょっと寝不足が過ぎるんじゃない?」
「…………」
「……蓮子?」
蓮子の様子がおかしい。
嫌な予感がした。もしかして、私が眠ってしまった後、蓮子に何かあったのではないか。
そんな私の不安な胸中を知ってか知らずか、蓮子はきょとんとした顔で、口を開く。
「ねぇ」
「……なぁに、蓮子」
「蓮子、というのが、私の名前なの?」
「――――えっ」
……今、彼女は何と言った?
「……蓮子。嫌な冗談は止して」
「……わからないの。私が誰なのか。貴女が誰なのか」
「そんな、嘘」
嘘だ。嘘に決まっている。
「嘘でしょう? そんなこと言って、私をからかおうって魂胆ね。お生憎様、その手には引っかからないわよ?」
なかなか真に迫っているけれど、私は絶対に騙されない。絶対に、絶対に絶対にぜったいに。
「……ねぇ、お願い蓮子。嘘って言って」
ぜったいに、
「蓮子……!」
うそに、きまって、
「……ごめんなさい」
「……っ!!」
――――心臓が、抉られた気がした。
「そん、な」
じわりと目の奥が熱くなる。ほどなくして溢れ出る、涙。涙、涙。涙――――
ぼやけた世界の中で、蓮子が申し訳なさそうな、それでいて困惑したような視線を向けてくるのがわかる。それでも、涙は止まらない。むしろ、ますます激しく、とめどなく流れ落ちていく。
私のかけがえのない親友は、
唯一無二の相棒は、
宇佐見蓮子は、こうして記憶を失った。
「……それじゃあ、何から話しましょうか」
眼前の蓮子に、そう問いかける。
記憶喪失とはいえ、原因が原因だけに、病院へは連れて行けない。頼るにしても、それは最終手段であるべきだ。今は私が出来る限りのことをして、蓮子の記憶を取り戻さなければならない。そのためには、どんな努力だって惜しむつもりはなかった。
いつどこでだったかは忘れたけれど、以前、記憶喪失というのはデータとしての記憶そのものが削除されたわけではなく、いわば記憶の入っている引き出しが壊れてしまい、中身をうまく取り出せない状態だと聞いたことがある。ならば外から記憶を取り出しやすいよう切っ掛けを与えてやれば、ひょっとしたら思い出してくれるかもしれない。その確率はあまり高くないのかもしれないけれど、少なくともこのまま何もしないよりはいいはずだ。
「ええと、とりあえず……私のことからお願い」
「わかったわ。まず、あなたの名前は蓮子よ。フルネームは、宇佐見蓮子」
「宇佐見、蓮子……」
蓮子が興味深そうに眉を吊り上げた。
「何か、ピンときた?」
「……ううん、続けてちょうだい」
「ええ、それじゃあ……蓮子、あなたは○○大学の理学部物理学科で、超統一物理学を専攻してるの」
「超統一物理学?」
小さく首を傾げる蓮子。
――まさか、私が蓮子に彼女の専門について教える時が来るなんてね。
内心苦笑しながら、私はかつて蓮子に聞いたことを(おぼろげながらに)思い出す。
「そうよ。私は蓮子から話を聞いているだけで、そんなに詳しいことは知らないんだけどね。なんでも、四つの力をまとめた学問で……今はひもの研究? をしてるとかなんとか」
「……なるほど、超ひも理論ってやつかしらね。それで、他には?」
「それで……ええと、そうだ、蓮子は東京出身なの」
「そういえば、ここは京都だったわね」
「そうそう。蓮子は大学に通うために東京からこっちに上京してきて、この部屋で一人暮らしをしてるの」
「……ん?」
一瞬、蓮子が眉根を寄せる。何か、記憶の手がかりでも掴んだのだろうか。
「……? どうかした?」
「ああ、いや、なんでもないわ……でも、何か思い出せそうな気もするの。続けてもらえるかしら?」
「後は……そうね、先に私のことを話してもいいかしら?」
「ええ、お願いするわ」
「じゃあ……自己紹介から。私はマエリベリー・ハーン。蓮子と同じ大学に通っていて、専攻は相対性精神学。蓮子からは……メリーって呼ばれてるわ」
「じゃあ、貴女のことはそう呼んだ方がいいかしら?」
「……出来れば。けど、あなたの呼びたいように呼んでくれて構わないわ」
唯一無二の相棒であるはずの蓮子に、初対面のような自己紹介をする。そんなやるせない状況に、ふと思わず涙が出そうになる。けれど、私はそれをぐっと堪えて蓮子の反応を待つ。
「ふむ、貴女のことはとりあえずわかったわ。それで、貴女と――メリーと私は一体どういう関係なの? 話を聞く限り、同じ大学に通ってるってだけで接点なんてなさそうなものだけれど」
「……改めて、あなたからそれを言われるとキツイわね」
「ああ、ごめんなさい」
「いえ、いいわ。私と蓮子はね、あるサークルの一員なの。一員って言っても、メンバーは私と蓮子の二人だけなんだけどね」
「もしかして、あの時私たちが廃墟にいたのはその活動の一環だったりするのかしら」
「あら、よくわかったわね。そう、私たちはオカルトサークル。各地の不思議な噂を聞きつけては、それを調べてるの。というのもね、実は私の眼はちょっと特別で……結界の綻び、というか境目が見えるのよ」
「ふぅん……境界を見る能力、ね。それじゃあ、そのサークル活動はメリーの眼を使って行われていたというわけね」
蓮子の言葉に、私は頷く。
「あの廃墟に行ったのも、あそこが異世界に通じているという噂があったから。私たちの目的はね、境界の向こう側の世界を覗くことなの。結界という神秘のベールに包まれた、幻想の世界を夢見てね」
「…………」
「どう? ここまでで、何か思い出したことはある?」
私の質問に、蓮子は黙って首を横に振る。
ならば、と私は席を立ち、蓮子の机の引き出しを漁る。蓮子はいつも、それをそこにしまっていた。
「何をしているの?」
「ちょっと探し物をね。……ああ、あったわ。これよ」
目的のものは、すぐに見つかった。
私が引っ張りだしたのは、それなりの厚さの一冊の日誌。
私と蓮子にとって、とても大切な思い出たちが記録されているもの。
「それは?」
「私たちのサークルの日誌よ。これまでしてきた活動のことが、全部その中に書いてあるの」
「じゃあ、これを読めば私の記憶が復活するかもしれないってわけね」
私が差し出したそれを、蓮子は興味深そうに受け取る。そしておもむろにページを開こうと表紙に目をやって、
「……えっ?」
その目が、大きく見開かれた。
「どうかしたの?」
「ねぇ、この秘封倶楽部って……?」
「ああ、そういえばまだ言ってなかったわね。それが我らがオカルトサークルの名称よ。秘封倶楽部って、命名はあなたなんだけどね」
「……そんな、まさか」
消え入りそうなほど小さな声で呟く蓮子。
ひょっとして、命名が気に入らないとか言い出すんじゃないだろうか。記憶を失っているとはいえ、蓮子にそれを言われたら流石に泣き出す自信がある。私自身この名前を気に入っているし――なにより、蓮子との思い出の半分くらいは、この名前と共にあるのだから。
そんな私の不安を余所に、蓮子は震える手で日誌を開き、黙々とページを捲っていく。食い入るように日誌を読み進める蓮子の姿に、もしかしたら彼女の記憶は案外すぐに戻るかもしれないと、そんな希望的観測が私の中に芽生えてきていた。
それからしばらくの間、静かな部屋の中には、紙の擦れる音だけが響いていた。私は蓮子が私たちの軌跡を辿る間、ただ黙って彼女のことを見守っていた。記憶を失った彼女は、これまでの私たちのことを見て、どう思っているのだろうか。果たして好ましいものに感じてくれているだろうか……彼女のことを見守りながら、私はそんなとりとめのないことを考えていた。そうして気がつけば、もう空が茜色に染まる時間になっていた。
パタン、と日誌が閉じられた。
全文を読み終えたらしい蓮子は、長い溜息をついていた。
「蓮子」
「……なぁに、メリー」
「思い出せたのかしら?」
「残念ながら、ノーよ」
蓮子は、きっぱりとそう告げた。
「……そ、う」
沈黙が場を満たす。
まぁ、わかってはいた。そんなに簡単に記憶が戻るのなら苦労はない。事がそう都合よく運ぶはずもない。現実は甘くはないのだ、と。
けれど、頭ではわかっていても、秘封倶楽部の――私と蓮子の記録を見れば、きっと全てを思い出してくれるだろうと、心の底ではやはりある程度の期待があったのもまた事実であって。だからこそ、私はそれを聞いて少なからず落胆してしまった。その色を隠し切れなかった。世界が灰色になった気がした。
そんな私の気持ちを察したのだろうか、不意に蓮子が俯く。そして、おもむろに口を開いた。
「けどね」
「……?」
「きっと……もうすぐ、思い出せるわ」
そう、妙に自信ありげに言ってのける蓮子の表情は、窓から差し込む夕陽で陰になってしまっていて、よくわからなかった。
「……それじゃあ、私はそろそろお暇させてもらうわね。明日、また来るから」
私は席を立って帰り支度を始める。本当は泊まっていきたかったのだけれど、今の蓮子にとって私は赤の他人なのだ。いきなり寝食を共にする、というのも抵抗があるだろう。だから今日は一先ず帰って、どうすれば蓮子の記憶が戻るのか、一人で今後のことを考えるつもりだった。
「また明日、蓮子」
「……ええ、メリー。また明日」
簡単に別れの挨拶だけして、私は玄関の扉を開ける。
「ああ、ちょっと待って」
唐突に、蓮子に呼び止められた。
「何かしら?」
「日誌の感想なのだけれど、良かったわ」
「……え?」
「つ、月並みな表現で悪かったわね。……ええと、そうね。なんというか……すごく仲がいいのね、貴女たちって。最初から最後まで、貴女たちが活動を楽しんでるのがすごく良く伝わってきたわ。羨ましくなっちゃうくらいに」
「そのあなたたちの一人はあなたなのだけれど」
「そうね。本当、こんなに楽しそうな記憶を思い出せないなんて、自分が嫌になっちゃうわ」
そう言って、蓮子はからからと笑う。……彼女が何を思ってそれを伝えてくれたのかはわからない。けれどそんな彼女の言葉に、私はどこか心の荷が軽くなるのを感じていた。
「まぁ、最後に言いたかったのはそれだけ。引き留めたりしちゃってごめんなさい」
「……ええ。じゃあ、今度こそさようなら、蓮子」
「さようなら、メリー」
今度こそ、私は蓮子の家を後にする。
去り際に「ごめんなさい」と。蓮子がか細い声で謝るのを聞いた気がした。
翌朝、私はインターホンがけたたましく鳴る音で目が覚めた。
時計を見れば、まだ六時にもなっていない。全く、誰だろうかこんな朝早く……そうぶつぶつ文句を言いながら寝ぼけた頭で出てみれば、目の前に映し出されたのは、
『メリー! ああ良かった、無事だったのね!』
「……蓮子?」
いつもの白いシャツに、黒のロングスカート。トレードマークの黒の帽子。
どこかほっとした様子の、宇佐見蓮子の姿だった。
「こんな時間にどうしたのよ……あなたの記憶のことなら、私があなたの所に行くって話だったでしょう?」
『私の記憶? そんなことどうでも……あー、よくはないけど、今はいいのよ! とにかく早く入れて頂戴!』
「わ、わかったわよ……」
蓮子の剣幕に圧されて、マンションのドアロックを解除する。ほどなくして扉がノックされ、鍵を開けると同時に蓮子が部屋に雪崩れ込んできた。
「わ、ちょ、蓮子!?」
「良かった、メリーが無事で本当に良かった……!」
私を抱きしめながらそんなことを言う蓮子。かすかに焦げたような匂いが鼻孔を掠めた。
一体何がどうなっているのだろうか。私が無事で良かった? 蓮子は何の話をしているのだろう。まだ寝起きなこともあってか、状況の把握が出来ない。
とりあえず、蓮子を引きはがして椅子に座らせる。
「ちょっと、落ち着いて蓮子。まず私にわかるように説明してくれる?」
「……私たちが、あの廃洋館に行ったのは覚えてるわよね?」
「ええ、もちろん」
「それで、中を探索して、二人で境界を越えて、本を見つけて読んで。それで気づいたら、私、自分の部屋にいたのよ。あの後どうなったのか、どうやって帰ったのか、全然記憶にないの」
「……え?」
「びっくりして、とりあえずメリーと連絡を取ろうと思ったら、全然反応がないし……それで、ひょっとして境界の向こう側に行ったまま、帰ってこれなくなっちゃったんじゃないかって心配になって」
「ちょっと待って」
強烈な違和感を感じ、その正体を探るべく寝ぼけた頭をフル回転させる。
蓮子の話は、おかしい。あの後蓮子は記憶喪失になって、私と一緒に帰ったはずだ。それを覚えていないなんて、いくらなんでも忘れっぽすぎる――
――違う、そうじゃない。そうだ、どうやって蓮子はここまでやって来たのだろうか。昨日まで記憶喪失だったのだから、当然蓮子は私の家なんて知らないわけで――
――いや、そもそも今、蓮子は何と言った? 「廃洋館を探索して」「二人で境界に入って」「本を見つけて読んだ」……まさに、私たちの当日の行動そのままだ。どこにも違和感なんて感じない。むしろどうして蓮子がそれを覚えているのか不思議なくらいだ。
どうして蓮子が、それを覚えているのか。
蓮子が、それを覚えている。
――――っ!?
「……蓮子、あなた、もしかして記憶が戻ったの……?」
「ええ? いや、どっちかって言うと記憶が飛んだっていうか……さっきも言ったけど、私、どうやって帰ってきたのか覚えてなくって」
「蓮子、私は誰?」
「……? メリーでしょ、何を言っているの?」
「蓮子にとって、私は何?」
「それ、真顔で訊いちゃう……? ええっと、大切な親友で、最高の相棒……とか」
「蓮子っ!!」
「うぇっ!?」
今度は、私が蓮子に抱きつく番だった。
「良かった……! 蓮子、あなたは蓮子なのよね? 私のことわかるわよね? 秘封倶楽部のこと、覚えてるわよね?」
「きゅ、急にどうしたの? そりゃあ私は私だし、この私が――宇佐見蓮子さんがメリーや秘封倶楽部のことを忘れたりするわけないでしょう?」
「ああ、蓮子、良かった、蓮子……!」
その戸惑いながらも自信に満ち溢れた言葉を聞いて、私は更に強く蓮子を抱きしめる。
どんな奇跡が起こったのかはわからない。いや、そもそも蓮子が記憶喪失になったということ自体が、ひょっとしたら私の夢の中の出来事だったのかもしれない。
けれど、もうそんなことはどうでも良かった。蓮子が秘封倶楽部のことを覚えていて、私のことを覚えていて、大切な存在に思ってくれていて……それだけで、私は。
「はぁ……何だかよくわからないけど、メリーが無事ならもうそれでいいわ」
「私もよ。蓮子が蓮子なら、それでいい」
「……メリーはよく私のことを変人って言うけれど、今日の貴女の方がよっぽどおかしいわよ」
「なら変人同士、私たちはお似合いってことね。悪い気はしないわ」
そんなやり取りをして、お互いにしばし見つめあってから、やがてどちらからともなく笑いだす。
「……ちなみに蓮子、さっきから気になってたんだけど、あなたなんだか焦げ臭いわよ。動揺しすぎて卵焼きでも焦がしたの?」
「まさか。動揺し過ぎて朝食を食べるって選択肢すら思い浮かばなかったわ。……あ、でも考えてみればちょうどいいわね! メリー、ご馳走になっていってもいい?」
「ちょうどいいって……まったくもう、蓮子ったら調子いいんだから。言っておくけど、昨日の残りものとか、簡単なのしかないわよ?」
「メリーの簡単は簡単じゃないし、大歓迎よ」
いつもと全く変わりのない、私たち二人の日常がそこにあった。
秘封倶楽部日誌に新しいページが書き込まれたのは、その日の午後のことだった。
文章が読みやすくて、良かったです。
背景の描写など丁寧でとても読みやすかったです。
しかしそれなら記憶喪失の蓮子とは・・・
謎が謎を呼ぶ不思議体験こそが秘封倶楽部なのだと思いました
面白かったです
きっと作者様なりに書きたいものがあったと思うのですが、それをもう少しわかりやすくしてくれたらもっとよくなると思うので、なんともおしい作品です。
種を明かすだけではバッドエンド(実は乗っ取られてるよ、な怖さや悲壮感は)、いまいち得られなかったのが残念でした
解決か苦悩かのどちらかがあれば、深さは作れたかもしれません