起床。
実質的な睡眠時間は2時間もないだろう。昨夜は遅くまで本を読んでいたし、色々と考え事もあったから。寝ぼけまなこを擦り、枕元にあるはずの眼鏡に手を伸ばす。
あれ、・・・んん、ほい。
ちょっと手の届かない位置にあったそれをサイコキネシス、念力で手元に飛ばす。万が一にも他人に見られたら、という危惧から、この力が目覚めてこのかた10年以上、こういう使い方はしないようにしていたのだけれど、最近は幻想郷で過ごす時間も増え、他人を気にせず能力を便利使いしてしまう悪い癖がついた。
制服のブラウスに袖を通しながら欠伸を噛み殺す。
私は寝ている時に何時も幻想郷に行っているわけではない。普通の夢を見ることもあるようだ。ようだ、というのは覚えていないからで、だからひょっとすると幻想郷に入っているけれど、それを忘れているだけということもあり得るのだけど。少なくともハッキリと幻想郷に行っている時には、自分がそういう状況にあることに自覚的だし、あっちで怪我すれば傷が残るし、なんなら何か食べるとおなかにたまっている感じすらあるから、覚えていないということは、きっと本当に夢でも見ているのだろう。
部屋を出て洗面所に向かう途中、Tシャツにトランクスというラフにすぎる格好でうろつく男に出くわす。
「……」
「……」
言葉を交わすこともなく擦れ違う。
私の兄に当たる人物である。
彼は、この頭脳明晰にして神秘を宿す特別な人間、否、人間を超えた存在である私、菫子の兄としては不適格なほど凡庸な人間だ。大学生になり、一人暮らしを希望しているが、家と大学の距離を考えて未だ実家暮らしを親に強いられている。成績も普通で、これといった特技もなく、容姿も十人並みだ。
……容姿に限っては私もヒトのことをとやかく言う立場にはないけれど。
洗顔を済ませ、ビフォーアフターに何の違いも見受けられない気休め程度の化粧を施し、黙って家を出る。両親がこの時間に家にいることは稀だ。母に当たる女は医療関係の仕事をしていて、私が家にいる時間には寝ているか、夜間勤務なりなんなりで職場にいる。父に当たる男は単身赴任中で、年に1度か2度、胡散臭いあの国特有のコピーブランドやへんてこなパンダグッズを土産に帰ってくるばかりだ。
朝食は何時も食べない。朝から何かを食べられる人間というのは、まあ世の中にはたくさんいるのだろうけど、私には同じ人間とは思えない。健康上、朝食を抜いてはいけないと、学校で多少はマシな人間であるところの養護教諭が何時も言っているが、小学校時代、まだ周囲に合わせて普通の人間を演じていたころに無理してトーストを一枚詰め込んで、学校で嘔吐した私としては、朝食なんて有害なものだと確信している。
まだ寒気の強い寒空の下、学校という集団生活適合者養成機関に向かう足取りは重く、飛んでいきたい気分に駆られるが、冬はまだマシな方だ。夏なんか本当に一歩歩くごとに真剣に帰宅を検討する。
冬の清冽な空気というのは、ひとの体温が苦手な私にとって、そう言った生命の存在感を離れられる季節なのだ。寒いのは苦手だけど。
教室に着くと、くだらなく日常を感じさせる喧騒が広がっていた。誰と言葉を交わすでもなく、ひと時自分の居場所と定められた席に座る。毎日毎日飽きもせず、青春という共同幻想を謳歌する彼らは、カテゴリ上は自分と同列の高校生である。しかしながら私は、彼らを自分と同じ生き物だなどと思ってはおらず、それゆえ心穏やかに見ていられる。
我ながら拗らせている感はあるが、私が人間の上位存在であることは、否、上位・下位の判断基準は脇においても、別種であることには疑いが無い。何より、彼らが自分と違う生き物であることに気付いたことで私の生活はだいぶん穏やかなものになった。彼らと同種の存在として関係を築こうとしていた小学校高学年から中学校時代は、それはもう思い出したくもない暗黒時代であった。それはひとえに、彼らが劣ってはいても、根っこの部分では同じ人間だという誤った認識を私が持っていたからであり、その誤解は私と彼ら、両方を不幸にしていたのだ。
きっと彼らは私のことを、自尊心をこじらせたかわいそうな人間として位置付けることでその対応にかかる膨大な労力を温存できているし、私は私で下等存在の彼らと上手くやっていく術を身につけたのである。
「もうすぐだねー」
「めぐは今年も凄いの作るの?」
姦しい会話に、今日が世間でいうところのバレンタイン直前の金曜日だということを知る。 他愛ない会話を、動物園の檻の外から微笑ましく観察する。
「今年は休日だからマジでちょっと困るよね」
「困るのあんただけでしょこの脳内お花畑」
「なにおう」
「私たちはみっちの家で交換会だもん」
「それはそれで色気がないなあ」
近年の流行りは専ら女子同士での友チョコとか言う習慣のようで、一部の女子には関係のなかったこのバレンタインというイベントを、広く女子社会が共有できるようになって、こうした姦しいやりとりも微笑ましさを増したように思う。元来のイベントにも近づいているようであるし、と、あくまでも傍観者。
退屈な授業にもいくつかあって、退屈な割に重要な授業だとか、退屈な割に生徒への縛りのきつい授業というのがあって、そういうものはホントにスイッチを切るようにして淡々と対応するしかない。
逆に、退屈でかつ生徒放任主義の授業というものがある。今教壇に立つ現国の山内教諭の授業などはその典型だ。
薄給からか慢性的人手不足のこの学校では、定年を迎えても再雇用という形で教職を継続中の教師がいくらかいて、山内はその筆頭格だ。齢七十を越え、もう殆ど生徒のようすなんか見えていないのではないかと噂される彼は、分厚い眼鏡が接触するほど教科書に顔を寄せて、イマドキ手書き作成コピー刷りの解説資料についてぶつぶつと呟いている。
生徒たちからおじいちゃんの催眠術とあだ名されるその講義は、私が幻想郷へと旅立つのにうってつけの時間なのである。特に日の照った冬の5限目なんかね。
眠りに着くと――あるいは目を覚ますと――そこはこれまであまり出現ポイントになったことのない場所のようだった。苔むした石畳から、恐らくは博麗神社参道だろうとあたりをつけ、霊夢の顔でも見に行くかとゆるい傾斜に沿って低空飛行を始める。
ほどなくして、何かの気配を感じ、地に足をつけて歩いていると、正面から10歳前後に見える、しかし恐ろしげな威圧感を放つ蒼髪の少女と、彼女に日傘を差し掛ける栗色の髪の少女、その隣には長身紅髪で中華風の出で立ちをした女性があるいてきた。
見る限り、人間ではない。
警戒をしつつ、しかし社会性のありそうな出で立ちを見て、いきなり襲われることもないだろうと算段を立てる。
適切な距離まで接近したときに、長身の女性が会釈をしてきた。私も返礼し、そのまま擦れ違うかと思ったが、蒼髪の少女は道を譲るそぶりもなく、というより擦れ違うつもりもなかったように、私の正面で止まった。
背中に嫌な汗が流れる。
幻想郷の妖怪たちが見た目からその実力を推し量るのが難しい存在であることは、既に十分すぎるほど承知していた。
「宇佐見菫子、だね?」
「……!」
少女の口から、見た目相応の華奢な声色で、しかし見た目にそぐわぬ迫力のある声が発せられた。それも、私の名前を呼んだ。
「そう驚かないで、と言っても無理でしょうけど」
何がおかしいのか、少女はきゃらきゃらと笑う。長身の女性はこちらの困惑を察してか、ちょっと困ったように微笑み、栗色の髪の少女は何も分かっていなさそうな顔でニコニコしていた。
「フフ、ごめんなさいね、実は私も驚いているのよ、だって……」
こういうのを、運命と呼ぶのだろうか?
「つい今しがた、霊夢や魔理沙から、あなたの話を聞いていたところだったのよ」
レミリア・スカーレット、という少女の名は以前にも何度か聞いたことがあった。今まさに、こうして飛んでいるように、空から幻想郷を俯瞰したときに、嫌に目立つ建物が湖のほとりに建っていたものだから、霧雨魔理沙に尋ねたところ、その名を出されたのだ。
「運命がこうして二人を引き逢わせたのだから、御茶でもいかがかしら」
紅魔館へとやってきた私は、綺麗に日の差すテラスで――いいのか吸血鬼――美味しい紅茶を振る舞われている。先ほどの妖精のメイドと違って、今度は銀髪の人間らしきメイドさんがテキパキと働いている。
「昼にやってきた、ということは一時間もこっちにいられないわけね?」
「そんなことまで聞いているんですか?」
私がどういう仕組みでここにきているかも知っているようだ。
「今日は平日だろう。ん? いや、ウチは幻想郷には珍しい七曜カレンダーがあるもんでね。それにしても、外の高等教育機関は居眠りに寛容なのね」
「こちらがタイミングをはかっているだけです。それに、成績は良いですから」
吸血鬼の少女は何がそんなに面白いのか、私が何か話すたびに楽しそうに笑っている。運命を見るというこの吸血鬼には何が見えているのだろうか。
不信感が顔に出ていたのだろうか、レミリアは話題を変えるようにこんなことを持ちかけてきた。
「ところであなた、こっちもやれるんでしょう?」
そう言って彼女が懐から覗かせたのは、命名決闘法における事前宣言札、いわゆるスペルカードであった。
「ええ、まあ。それなりには」
「吸血鬼を前にフカすわね、面白い。結構自信があるみたいだし、どうかしら」
訓練場だという部屋に案内されると、先ほどの長身の女性、紅美鈴が待っていた。
「あれ、あなたと戦うんじゃないの?」
「ボスの前には中ボスと戦うのがお約束でしょう?RPGは好きじゃないの?」
「古い奴なら、まあ」
そう答えながら、考えてみれば幻想郷のRPGが第何世代なのか、そもそもRPGがあるのかを考えると、私のいう古いRPGが彼女らに上手く伝わったのかは良く分からない。
「それじゃあ時間も限られてるし、始めましょうか?」
レミリアは私と、美鈴に目配せをして、レフェリーのように告げた。
空中戦を挑むべきだった、と思ったのはあとの祭りで、美鈴という妖怪のステップワークはまさに変幻自在。白兵戦では勝ち目がないので、距離を置いての弾幕を中心に立ちまわる。手製のESPカードや、記憶のストックから具現化したガラクタの数々を雨あられと浴びせかけるうちに、疲れて記憶があいまいになってくる。
「フッ、セヤッ!」
「くらえっ、サイキック粗大ゴミ!」
もうサイキックあんまり関係なくなってきた。
客人向けの手加減なのか、これが彼女の実力なのかは判然としないが、とりあえず勝負は私の勝ちということになった。
「いやあ、女子高生とやらは、恐ろしい種族ですねえ」
「ちょっと美鈴、もうちょっとなんとかならなかったの?」
美鈴は、たははと笑いながら頭をかいている。余裕がありそうだ。教室にもいるコミュニケーション強者タイプの発展形のような人物らしい。いけすかないが相手をする労力がかからないのでそんなに嫌いでもないタイプである。
「あなたの方は大したものね。ちょっと人間の突然変異にしては強すぎるほどに強いわ」
「そうな、……です、か?」
外見年齢にひっぱられてタメ口をききそうになった。
「ええ、ちょっと見ないレベルよ」
レミリアはしきりに感心しながら頷いている。やはり私はこの幻想郷で、魑魅魍魎相手にも通用するレベルの異能力者らしい。帰ったら気持ちよく眠れそう……って、
「しまった、そろそろ起床時間だわ」
ちょっとはしゃぎ過ぎてしまった。山内教諭の授業が終わって、次の数学が始まる直前頃である。
そこでふと気付く、部屋に散らばるカードやゴミの山。特にゴミ……。
「あ、あわわ、すいませんもう行かなきゃ」
「あ、片付けなら大丈夫ですよ」
美鈴が優しく笑いかけてくれる。
私の物質具現化能力は全くの無から有を生み出すのではなく、実際存在するものを記憶から再現し物質化する、という能力で、具現化した物質は放っておいても便利に消えてくれたりしないのだということを早口で説明する。
「ああ、ごめんなさい。また今日の夜か、遅くても明日の昼にはきますか……」
視界に映るのはどたばた帰宅する私を笑って見送るレミリアと美鈴であった。
グッドでも無ければモーニングでもない。
そして数学の授業が始まった。
結局、その夜は幻想郷に行くことが叶わなかった。
どういう仕組みなのか分からないんだけど、一つの推測としては、この夢幻病による異界旅行の間、私の体は睡眠と同水準の休息を得られていないのではないかということが挙げられる。
傷跡の件しかり、幻想郷における私の肉体は、現にこの世界で眠っている私の肉体とある程度リンクしている。つまり、向こうで活動している間、私の現実の体も若干の活性状態になり、普通に眠るほどには身体が休まっていない可能性があるのだ。
今日なんかも、向こうでスペルカード戦とはいえ、戦闘しているわけだから、ぐっすり眠れているとは言い難い。そういう時、私の体は幻想郷にたどり着かず、何処かにある夢の世界を漂っているのではないだろうか。
幻想郷に行き損ねた翌朝土曜日2月13日。
部屋で11時近くまでダラダラして、居間へ昼食を取りに行く。流しに溜まっていた食器が数を減らしたのを見て、どうやら母親に当たる人が帰宅していることを知る。部屋で寝ているのだろう。世間の水準と比較すれば稼いではいるようだが、何時も疲れている。
冷凍のラザニアをパクついてから、コップに水を汲み、最近ちょっと頻度の増えた睡眠導入剤をあおる。
飲みきって顔を下ろしたときに、兄と目が合った。
私はなんとなく見られたくないところを見られたような気がして、彼の横を足早にすれ違い自室へ向かった。
「菫子」
その背中に、数週間ぶりに聞く声がかけられる。
「……なに」
「それ、母さんのだろ。ほどほどにしとけよ」
薬のことのようだった。
「最近減りが早いって怪しんでたぞ」
「……あっそ」
私は部屋に戻って、自分で付け替えた遮光性の高い黒のカーテンを閉め、ベッドに入る。兄はああいう人間だ。あの程度の人間だ。波風を出来るだけ立てず、そのくせ中途半端に口を挟む。薬の持ち主である彼女に私のことを告げ口するでもなく、私の服用をハッキリと止めるわけでもない。私は兄のそういうところが……。
目を覚ますと、何とも都合よく深紅の門前に立っていた。
「おはようございます、……は使い方としてあってますかね?」
「こんにちは、昨日はすみません、美鈴さん」
彼女に伴われて、見た目より明らかに広い館の中を歩く。当主のレミリアは眠っているらしく、申し訳ないと謝られた。本来はこちらが謝るべきだろう。
「というか、レミリアさんがお休みになってるのに私を館に入れてもいいんですか?」
「ええ、なにしろ菫子さんは門番である私に決闘で勝ったわけで、何時でもこの紅魔館を自由に訪れていいのですから」
「え、ええ?いいん、ですか?それで」
「レミリアが中ボスだなんだと申しておりましたのは、まあ方便のようなもので、ハナっからあなたを客人として迎えるつもりだったようですよ。レミリアはことのほか自分の直感を大事にしますから」
どうやらそういうことらしい。
「それで、昨日の後片付けは……」
「こちらであらかた片付けてしまいました」
「ああ、すみません。ホントは私がやらなきゃいけないのに」
吸血鬼に借りを作るなんて、どんな目にあうか。
美鈴とともに、昨日訪れた訓練場に向かう。
ガチャリと扉を開けたそこは、私がぶちまけた瓦礫やカードの類がきれいに掃除され、
……?
ぱー、ぱーぽーぱーぱぽぽー、ぱーぱぱぱーぽぽぱぽぽーぱー……
夕暮れ時になっている古い信号機を思わせる「とおりゃんせ」のメロディーを鳴らしながら、白と黒のボディがゆっくりと動いていた。
「あーもう、勝手に乗っちゃだめって言ったでしょう。降りなさい、はんぺん!」
私が白兵戦における奇襲に使っていたパンダカーに乗っていた妖精(はんぺん?)は、きゃーきゃー言いながら美鈴から逃げて部屋を出ていった。
「まったく、すみませんね。昨日から屋敷中の妖精メイドが興味深々で」
「いえ、御気になさらず。……でも、処分されなかったんですね?」
勝手に色々置いてきてしまったから、全部あとかたもなく捨ててあるかと思った。仮にそうだとしても手間を掛けさせたことを詫びなければいけないのだけど。
「ああ、あからさまなゴミじゃないものは纏めてとってありますよ」
美鈴が指差す部屋の隅のテーブルには、私のESPカードなどが綺麗に整理されて置かれていた。心なしか綺麗になっている気がする。みがいてくれたのかな。
「それに、菫子さん言ってたでしょう? 物質具現化で出したものは、記憶に収納してあるって。だから、カードとかパンダとかは、何かあなたにとって大事なものなんじゃないかと思って」
何と言うか、実にお人よしの妖怪である。……ホントに妖怪か?
「そんな、気を遣わなくてもよかったのに」
「そうですか? それに、パンダは同郷だし、捨てるに忍びなくて」
そう言って笑う彼女は、そう、確か大陸の出なのだとか。
別に遊んで構わないと伝えたところ、見る見るうちに妖精たちが集まってきて、列を為してパンダカーの順番を待っている。何とも微笑ましい。年端もいかない子どもは基本的にバカだから嫌いなのだけど、こうして見ている分には害がなくていい。
私は美鈴と休憩用のベンチに座ってその様子を見ていた。
「あ、お茶どうぞ」
美鈴から水筒を勧められる。飲んでみると、中身は暖かいプーアール茶だった。
「ありがとうごさいます。それにしても大人気ですね、パンダ」
「妖精たちはああいったものが大好きですから」
妖精の嗜好は概ね小学校入学前ぐらいから、中学1年生くらいのものらしい。
「よかったらお譲りしましょうか?妖精さんたちに」
あんなに喜んでもらえるならパンダも嬉しかろう。
「いいんですか?なにか大切なものなのでは?」
「え、いや別に……」
そう答えながら私はふと疑問に思った。
そもそもなぜパンダカーなのか、と。
あれを戦闘に使ったのは、……確か偶然のはずだ。
接近戦での奇襲攻撃として、跨って突進するバイクのようなものを思い浮かべて、咄嗟に具現化したのがパンダカーだったのだ。我ながらなんで、と思ったものだが、一度具現化したものは咄嗟の時にまた使いやすいから、それ以後もパンダカーを使っていた。
しかし本当に、なんでパンダカーなのか。
私はいつそれを記憶に仕舞い込んだっけ……。
記憶をたどっていると、灰色の空が視界に圧し掛かってくる。
間抜けなとおりゃんせのメロディを聞いているうちに、その記憶にどんどん色がついて、私の中に、まるで湯で戻した春雨のように広がった。
確かそう、それは街中のデパートに母に当たる女性と、兄と、私の三人で出かけたときのことだった。まだ私は、ちょうどあの妖精たちのような背恰好の子どもで、3つ年上の兄は小学校にあがったばかりだった。
私は家族というつながりが苦手だった。既にこの時から。
物ごころついた頃には、まだうまく操れないながら自分に超能力があることは分かっていた。そうして、どうやら周りの人間はそうではないらしいということが分かってきた頃だった。両親は私を気味の悪い娘だと思っていたのだろう。
その日、彼女は買い物の途中に仕事で緊急に呼び出され、私たち兄妹を置いて行ってしまったのだった。兄に幾らかの紙幣を握らせ、子ども二人を置いて行った。世間一般に見て彼女の行為がどう評価されるか分からないが、少なくとも今の私は彼女に特別な期待はしていないから何とも思わない。
兄は私を屋上遊園地へと連れていった。デパートの屋上にあったその施設は、今思えばスペースも決して広くなく、ちゃちな遊具ばかりだったはずだが、私は大いにはしゃいだ。もともと両親は私を連れて休日にレジャーに行くなんてことをしない人間だったから、音を出しながら動くだけのパンダカーも、素晴らしい体験だったのだろう。
100円で2分間動くパンダカーに、私は延々と乗り続けた。
子どもというのは不思議なもので、大したことのない同じ遊びを延々と繰り返しても飽きないのである。
そうして更に詳細に記憶をたどると、視界の隅に、ベンチに座ってじっとこっちを見ていた兄を思い出す。ちょうど今、私がしているように。
兄が何か別の場所で他の遊具を使っていた記憶は無い。2分が経過して、パンダカーが止まる度に、兄はやってきて100円を入れ続けた。今思えば、あのパンダカーが最も費用対時間の優れた遊具だったのだろう。
私たちは3時間そこに放っておかれた。
途中でベンチに座り、ソフトクリームを食べた以外に、私はずっとパンダカーに乗っていた。兄は資金の残量を確認し、私が飽きてしまわないようにずっと見ていたのだろう。
ずっと。
「菫子さん……?」
「は、あ、はい?」
十数年越しに思い出していた幼い日々から、私の意識は紅魔館の訓練室に戻った。
パンダカーには、妖精が5人まとめて乗っている。
ぱー、ぱーぽーぱーぱぽぽー、ぱーぱぱぱーぽぽぱぽぽーぱー……
「やっぱりごめんなさい、美鈴さん。しばらくはお貸ししますけど、またそのうち引き取りに来ますね、あのパンダ」
「ウチのメイドたちがすみません。壊さないように気をつけておきますね」
美鈴は困ったような顔で微笑んだ。
「やっぱり、大事なものだったんですか?」
「いえ、あれそのものはそんなに大事ではないんですけど……。でも久々に懐かしい思い出に浸れました」
基本的に、あちらの世界で自分と対等な関係を築くことができる人間がいるとは思えない。それはひとえに私の傲慢さ故なのだけれど。
でも、ずっと昔からそうだったわけじゃなくて、私にも無邪気に誰かに愛されていた時代があって、そうしてこの先のことは誰にもわからない。それこそ運命を操る吸血鬼でも無ければ。
「そろそろ、起きますね」
「そうですか。次は是非、レミリアが起きているときにも来てくださいね」
「ええ、是非」
とおりゃんせのメロディが遠くになって、私は目を覚ます。
日付は変わっていて、2月14日。時刻は午前1時過ぎ。
最近は夢幻病のせいもあって、特に休日は体内時計がぐちゃぐちゃになる。夕飯も食べていないから、空腹だ。
とはいえ、この時間に起きたって食卓に夕食が準備してあるわけでもない。そもそも一般家庭の食事時にだって、宇佐見家が食卓にそろうことなんて無いんだけれど。
ダウンジャケットを羽織って、歩いて5分のコンビニに行く。こんな時間でも弁当の類が幾らか棚にあるのが現代社会の恐ろしいところだと、私は最近痛感するようになった。そうしてレジに向かう途中、やたらとピンクの主張が強いコーナーの前を通る。
そういえばそうだったか。
バカバカしいと思いながら、ちょっとした気まぐれを起こす。こんなことでなにかかわるわけではないけれど。大した出費でもないのだから。
帰り道、寒さに首をすくめてふと自宅を見ると、2階の部屋に電気がついていた。
まだ起きているのか。
私が遅くに出歩くことを、最近はもう咎めなくなってしまった兄。
玄関を上がり、手袋やジャケットもそのままに、2階に上がる。私の部屋を通り過ぎて、一つ奥のドアをノックもせずに開けた。
「……え」
「……」
兄は、大学の課題だろうか、参考書らしき本を片手にパソコンに向かっていた。およそ物ごころついてから入ることのなかった兄の部屋に顔を出したことに、彼も困惑しているらしい。
「ん」
私は何にも言うことを考えていなくて、それに、考えたところで特にいうこともなくて、コンビニで買ったパンダ型のチョコビスケットを彼のベッドの上に投げた。
「なに……」
彼が何かを言う前に私はドアを閉めると、自分の部屋に戻って弁当の包装を開けた。
美鈴さんにもあのビスケット持って行ってあげよう。
きっと気に入ってくれるだろう。
実質的な睡眠時間は2時間もないだろう。昨夜は遅くまで本を読んでいたし、色々と考え事もあったから。寝ぼけまなこを擦り、枕元にあるはずの眼鏡に手を伸ばす。
あれ、・・・んん、ほい。
ちょっと手の届かない位置にあったそれをサイコキネシス、念力で手元に飛ばす。万が一にも他人に見られたら、という危惧から、この力が目覚めてこのかた10年以上、こういう使い方はしないようにしていたのだけれど、最近は幻想郷で過ごす時間も増え、他人を気にせず能力を便利使いしてしまう悪い癖がついた。
制服のブラウスに袖を通しながら欠伸を噛み殺す。
私は寝ている時に何時も幻想郷に行っているわけではない。普通の夢を見ることもあるようだ。ようだ、というのは覚えていないからで、だからひょっとすると幻想郷に入っているけれど、それを忘れているだけということもあり得るのだけど。少なくともハッキリと幻想郷に行っている時には、自分がそういう状況にあることに自覚的だし、あっちで怪我すれば傷が残るし、なんなら何か食べるとおなかにたまっている感じすらあるから、覚えていないということは、きっと本当に夢でも見ているのだろう。
部屋を出て洗面所に向かう途中、Tシャツにトランクスというラフにすぎる格好でうろつく男に出くわす。
「……」
「……」
言葉を交わすこともなく擦れ違う。
私の兄に当たる人物である。
彼は、この頭脳明晰にして神秘を宿す特別な人間、否、人間を超えた存在である私、菫子の兄としては不適格なほど凡庸な人間だ。大学生になり、一人暮らしを希望しているが、家と大学の距離を考えて未だ実家暮らしを親に強いられている。成績も普通で、これといった特技もなく、容姿も十人並みだ。
……容姿に限っては私もヒトのことをとやかく言う立場にはないけれど。
洗顔を済ませ、ビフォーアフターに何の違いも見受けられない気休め程度の化粧を施し、黙って家を出る。両親がこの時間に家にいることは稀だ。母に当たる女は医療関係の仕事をしていて、私が家にいる時間には寝ているか、夜間勤務なりなんなりで職場にいる。父に当たる男は単身赴任中で、年に1度か2度、胡散臭いあの国特有のコピーブランドやへんてこなパンダグッズを土産に帰ってくるばかりだ。
朝食は何時も食べない。朝から何かを食べられる人間というのは、まあ世の中にはたくさんいるのだろうけど、私には同じ人間とは思えない。健康上、朝食を抜いてはいけないと、学校で多少はマシな人間であるところの養護教諭が何時も言っているが、小学校時代、まだ周囲に合わせて普通の人間を演じていたころに無理してトーストを一枚詰め込んで、学校で嘔吐した私としては、朝食なんて有害なものだと確信している。
まだ寒気の強い寒空の下、学校という集団生活適合者養成機関に向かう足取りは重く、飛んでいきたい気分に駆られるが、冬はまだマシな方だ。夏なんか本当に一歩歩くごとに真剣に帰宅を検討する。
冬の清冽な空気というのは、ひとの体温が苦手な私にとって、そう言った生命の存在感を離れられる季節なのだ。寒いのは苦手だけど。
教室に着くと、くだらなく日常を感じさせる喧騒が広がっていた。誰と言葉を交わすでもなく、ひと時自分の居場所と定められた席に座る。毎日毎日飽きもせず、青春という共同幻想を謳歌する彼らは、カテゴリ上は自分と同列の高校生である。しかしながら私は、彼らを自分と同じ生き物だなどと思ってはおらず、それゆえ心穏やかに見ていられる。
我ながら拗らせている感はあるが、私が人間の上位存在であることは、否、上位・下位の判断基準は脇においても、別種であることには疑いが無い。何より、彼らが自分と違う生き物であることに気付いたことで私の生活はだいぶん穏やかなものになった。彼らと同種の存在として関係を築こうとしていた小学校高学年から中学校時代は、それはもう思い出したくもない暗黒時代であった。それはひとえに、彼らが劣ってはいても、根っこの部分では同じ人間だという誤った認識を私が持っていたからであり、その誤解は私と彼ら、両方を不幸にしていたのだ。
きっと彼らは私のことを、自尊心をこじらせたかわいそうな人間として位置付けることでその対応にかかる膨大な労力を温存できているし、私は私で下等存在の彼らと上手くやっていく術を身につけたのである。
「もうすぐだねー」
「めぐは今年も凄いの作るの?」
姦しい会話に、今日が世間でいうところのバレンタイン直前の金曜日だということを知る。 他愛ない会話を、動物園の檻の外から微笑ましく観察する。
「今年は休日だからマジでちょっと困るよね」
「困るのあんただけでしょこの脳内お花畑」
「なにおう」
「私たちはみっちの家で交換会だもん」
「それはそれで色気がないなあ」
近年の流行りは専ら女子同士での友チョコとか言う習慣のようで、一部の女子には関係のなかったこのバレンタインというイベントを、広く女子社会が共有できるようになって、こうした姦しいやりとりも微笑ましさを増したように思う。元来のイベントにも近づいているようであるし、と、あくまでも傍観者。
退屈な授業にもいくつかあって、退屈な割に重要な授業だとか、退屈な割に生徒への縛りのきつい授業というのがあって、そういうものはホントにスイッチを切るようにして淡々と対応するしかない。
逆に、退屈でかつ生徒放任主義の授業というものがある。今教壇に立つ現国の山内教諭の授業などはその典型だ。
薄給からか慢性的人手不足のこの学校では、定年を迎えても再雇用という形で教職を継続中の教師がいくらかいて、山内はその筆頭格だ。齢七十を越え、もう殆ど生徒のようすなんか見えていないのではないかと噂される彼は、分厚い眼鏡が接触するほど教科書に顔を寄せて、イマドキ手書き作成コピー刷りの解説資料についてぶつぶつと呟いている。
生徒たちからおじいちゃんの催眠術とあだ名されるその講義は、私が幻想郷へと旅立つのにうってつけの時間なのである。特に日の照った冬の5限目なんかね。
眠りに着くと――あるいは目を覚ますと――そこはこれまであまり出現ポイントになったことのない場所のようだった。苔むした石畳から、恐らくは博麗神社参道だろうとあたりをつけ、霊夢の顔でも見に行くかとゆるい傾斜に沿って低空飛行を始める。
ほどなくして、何かの気配を感じ、地に足をつけて歩いていると、正面から10歳前後に見える、しかし恐ろしげな威圧感を放つ蒼髪の少女と、彼女に日傘を差し掛ける栗色の髪の少女、その隣には長身紅髪で中華風の出で立ちをした女性があるいてきた。
見る限り、人間ではない。
警戒をしつつ、しかし社会性のありそうな出で立ちを見て、いきなり襲われることもないだろうと算段を立てる。
適切な距離まで接近したときに、長身の女性が会釈をしてきた。私も返礼し、そのまま擦れ違うかと思ったが、蒼髪の少女は道を譲るそぶりもなく、というより擦れ違うつもりもなかったように、私の正面で止まった。
背中に嫌な汗が流れる。
幻想郷の妖怪たちが見た目からその実力を推し量るのが難しい存在であることは、既に十分すぎるほど承知していた。
「宇佐見菫子、だね?」
「……!」
少女の口から、見た目相応の華奢な声色で、しかし見た目にそぐわぬ迫力のある声が発せられた。それも、私の名前を呼んだ。
「そう驚かないで、と言っても無理でしょうけど」
何がおかしいのか、少女はきゃらきゃらと笑う。長身の女性はこちらの困惑を察してか、ちょっと困ったように微笑み、栗色の髪の少女は何も分かっていなさそうな顔でニコニコしていた。
「フフ、ごめんなさいね、実は私も驚いているのよ、だって……」
こういうのを、運命と呼ぶのだろうか?
「つい今しがた、霊夢や魔理沙から、あなたの話を聞いていたところだったのよ」
レミリア・スカーレット、という少女の名は以前にも何度か聞いたことがあった。今まさに、こうして飛んでいるように、空から幻想郷を俯瞰したときに、嫌に目立つ建物が湖のほとりに建っていたものだから、霧雨魔理沙に尋ねたところ、その名を出されたのだ。
「運命がこうして二人を引き逢わせたのだから、御茶でもいかがかしら」
紅魔館へとやってきた私は、綺麗に日の差すテラスで――いいのか吸血鬼――美味しい紅茶を振る舞われている。先ほどの妖精のメイドと違って、今度は銀髪の人間らしきメイドさんがテキパキと働いている。
「昼にやってきた、ということは一時間もこっちにいられないわけね?」
「そんなことまで聞いているんですか?」
私がどういう仕組みでここにきているかも知っているようだ。
「今日は平日だろう。ん? いや、ウチは幻想郷には珍しい七曜カレンダーがあるもんでね。それにしても、外の高等教育機関は居眠りに寛容なのね」
「こちらがタイミングをはかっているだけです。それに、成績は良いですから」
吸血鬼の少女は何がそんなに面白いのか、私が何か話すたびに楽しそうに笑っている。運命を見るというこの吸血鬼には何が見えているのだろうか。
不信感が顔に出ていたのだろうか、レミリアは話題を変えるようにこんなことを持ちかけてきた。
「ところであなた、こっちもやれるんでしょう?」
そう言って彼女が懐から覗かせたのは、命名決闘法における事前宣言札、いわゆるスペルカードであった。
「ええ、まあ。それなりには」
「吸血鬼を前にフカすわね、面白い。結構自信があるみたいだし、どうかしら」
訓練場だという部屋に案内されると、先ほどの長身の女性、紅美鈴が待っていた。
「あれ、あなたと戦うんじゃないの?」
「ボスの前には中ボスと戦うのがお約束でしょう?RPGは好きじゃないの?」
「古い奴なら、まあ」
そう答えながら、考えてみれば幻想郷のRPGが第何世代なのか、そもそもRPGがあるのかを考えると、私のいう古いRPGが彼女らに上手く伝わったのかは良く分からない。
「それじゃあ時間も限られてるし、始めましょうか?」
レミリアは私と、美鈴に目配せをして、レフェリーのように告げた。
空中戦を挑むべきだった、と思ったのはあとの祭りで、美鈴という妖怪のステップワークはまさに変幻自在。白兵戦では勝ち目がないので、距離を置いての弾幕を中心に立ちまわる。手製のESPカードや、記憶のストックから具現化したガラクタの数々を雨あられと浴びせかけるうちに、疲れて記憶があいまいになってくる。
「フッ、セヤッ!」
「くらえっ、サイキック粗大ゴミ!」
もうサイキックあんまり関係なくなってきた。
客人向けの手加減なのか、これが彼女の実力なのかは判然としないが、とりあえず勝負は私の勝ちということになった。
「いやあ、女子高生とやらは、恐ろしい種族ですねえ」
「ちょっと美鈴、もうちょっとなんとかならなかったの?」
美鈴は、たははと笑いながら頭をかいている。余裕がありそうだ。教室にもいるコミュニケーション強者タイプの発展形のような人物らしい。いけすかないが相手をする労力がかからないのでそんなに嫌いでもないタイプである。
「あなたの方は大したものね。ちょっと人間の突然変異にしては強すぎるほどに強いわ」
「そうな、……です、か?」
外見年齢にひっぱられてタメ口をききそうになった。
「ええ、ちょっと見ないレベルよ」
レミリアはしきりに感心しながら頷いている。やはり私はこの幻想郷で、魑魅魍魎相手にも通用するレベルの異能力者らしい。帰ったら気持ちよく眠れそう……って、
「しまった、そろそろ起床時間だわ」
ちょっとはしゃぎ過ぎてしまった。山内教諭の授業が終わって、次の数学が始まる直前頃である。
そこでふと気付く、部屋に散らばるカードやゴミの山。特にゴミ……。
「あ、あわわ、すいませんもう行かなきゃ」
「あ、片付けなら大丈夫ですよ」
美鈴が優しく笑いかけてくれる。
私の物質具現化能力は全くの無から有を生み出すのではなく、実際存在するものを記憶から再現し物質化する、という能力で、具現化した物質は放っておいても便利に消えてくれたりしないのだということを早口で説明する。
「ああ、ごめんなさい。また今日の夜か、遅くても明日の昼にはきますか……」
視界に映るのはどたばた帰宅する私を笑って見送るレミリアと美鈴であった。
グッドでも無ければモーニングでもない。
そして数学の授業が始まった。
結局、その夜は幻想郷に行くことが叶わなかった。
どういう仕組みなのか分からないんだけど、一つの推測としては、この夢幻病による異界旅行の間、私の体は睡眠と同水準の休息を得られていないのではないかということが挙げられる。
傷跡の件しかり、幻想郷における私の肉体は、現にこの世界で眠っている私の肉体とある程度リンクしている。つまり、向こうで活動している間、私の現実の体も若干の活性状態になり、普通に眠るほどには身体が休まっていない可能性があるのだ。
今日なんかも、向こうでスペルカード戦とはいえ、戦闘しているわけだから、ぐっすり眠れているとは言い難い。そういう時、私の体は幻想郷にたどり着かず、何処かにある夢の世界を漂っているのではないだろうか。
幻想郷に行き損ねた翌朝土曜日2月13日。
部屋で11時近くまでダラダラして、居間へ昼食を取りに行く。流しに溜まっていた食器が数を減らしたのを見て、どうやら母親に当たる人が帰宅していることを知る。部屋で寝ているのだろう。世間の水準と比較すれば稼いではいるようだが、何時も疲れている。
冷凍のラザニアをパクついてから、コップに水を汲み、最近ちょっと頻度の増えた睡眠導入剤をあおる。
飲みきって顔を下ろしたときに、兄と目が合った。
私はなんとなく見られたくないところを見られたような気がして、彼の横を足早にすれ違い自室へ向かった。
「菫子」
その背中に、数週間ぶりに聞く声がかけられる。
「……なに」
「それ、母さんのだろ。ほどほどにしとけよ」
薬のことのようだった。
「最近減りが早いって怪しんでたぞ」
「……あっそ」
私は部屋に戻って、自分で付け替えた遮光性の高い黒のカーテンを閉め、ベッドに入る。兄はああいう人間だ。あの程度の人間だ。波風を出来るだけ立てず、そのくせ中途半端に口を挟む。薬の持ち主である彼女に私のことを告げ口するでもなく、私の服用をハッキリと止めるわけでもない。私は兄のそういうところが……。
目を覚ますと、何とも都合よく深紅の門前に立っていた。
「おはようございます、……は使い方としてあってますかね?」
「こんにちは、昨日はすみません、美鈴さん」
彼女に伴われて、見た目より明らかに広い館の中を歩く。当主のレミリアは眠っているらしく、申し訳ないと謝られた。本来はこちらが謝るべきだろう。
「というか、レミリアさんがお休みになってるのに私を館に入れてもいいんですか?」
「ええ、なにしろ菫子さんは門番である私に決闘で勝ったわけで、何時でもこの紅魔館を自由に訪れていいのですから」
「え、ええ?いいん、ですか?それで」
「レミリアが中ボスだなんだと申しておりましたのは、まあ方便のようなもので、ハナっからあなたを客人として迎えるつもりだったようですよ。レミリアはことのほか自分の直感を大事にしますから」
どうやらそういうことらしい。
「それで、昨日の後片付けは……」
「こちらであらかた片付けてしまいました」
「ああ、すみません。ホントは私がやらなきゃいけないのに」
吸血鬼に借りを作るなんて、どんな目にあうか。
美鈴とともに、昨日訪れた訓練場に向かう。
ガチャリと扉を開けたそこは、私がぶちまけた瓦礫やカードの類がきれいに掃除され、
……?
ぱー、ぱーぽーぱーぱぽぽー、ぱーぱぱぱーぽぽぱぽぽーぱー……
夕暮れ時になっている古い信号機を思わせる「とおりゃんせ」のメロディーを鳴らしながら、白と黒のボディがゆっくりと動いていた。
「あーもう、勝手に乗っちゃだめって言ったでしょう。降りなさい、はんぺん!」
私が白兵戦における奇襲に使っていたパンダカーに乗っていた妖精(はんぺん?)は、きゃーきゃー言いながら美鈴から逃げて部屋を出ていった。
「まったく、すみませんね。昨日から屋敷中の妖精メイドが興味深々で」
「いえ、御気になさらず。……でも、処分されなかったんですね?」
勝手に色々置いてきてしまったから、全部あとかたもなく捨ててあるかと思った。仮にそうだとしても手間を掛けさせたことを詫びなければいけないのだけど。
「ああ、あからさまなゴミじゃないものは纏めてとってありますよ」
美鈴が指差す部屋の隅のテーブルには、私のESPカードなどが綺麗に整理されて置かれていた。心なしか綺麗になっている気がする。みがいてくれたのかな。
「それに、菫子さん言ってたでしょう? 物質具現化で出したものは、記憶に収納してあるって。だから、カードとかパンダとかは、何かあなたにとって大事なものなんじゃないかと思って」
何と言うか、実にお人よしの妖怪である。……ホントに妖怪か?
「そんな、気を遣わなくてもよかったのに」
「そうですか? それに、パンダは同郷だし、捨てるに忍びなくて」
そう言って笑う彼女は、そう、確か大陸の出なのだとか。
別に遊んで構わないと伝えたところ、見る見るうちに妖精たちが集まってきて、列を為してパンダカーの順番を待っている。何とも微笑ましい。年端もいかない子どもは基本的にバカだから嫌いなのだけど、こうして見ている分には害がなくていい。
私は美鈴と休憩用のベンチに座ってその様子を見ていた。
「あ、お茶どうぞ」
美鈴から水筒を勧められる。飲んでみると、中身は暖かいプーアール茶だった。
「ありがとうごさいます。それにしても大人気ですね、パンダ」
「妖精たちはああいったものが大好きですから」
妖精の嗜好は概ね小学校入学前ぐらいから、中学1年生くらいのものらしい。
「よかったらお譲りしましょうか?妖精さんたちに」
あんなに喜んでもらえるならパンダも嬉しかろう。
「いいんですか?なにか大切なものなのでは?」
「え、いや別に……」
そう答えながら私はふと疑問に思った。
そもそもなぜパンダカーなのか、と。
あれを戦闘に使ったのは、……確か偶然のはずだ。
接近戦での奇襲攻撃として、跨って突進するバイクのようなものを思い浮かべて、咄嗟に具現化したのがパンダカーだったのだ。我ながらなんで、と思ったものだが、一度具現化したものは咄嗟の時にまた使いやすいから、それ以後もパンダカーを使っていた。
しかし本当に、なんでパンダカーなのか。
私はいつそれを記憶に仕舞い込んだっけ……。
記憶をたどっていると、灰色の空が視界に圧し掛かってくる。
間抜けなとおりゃんせのメロディを聞いているうちに、その記憶にどんどん色がついて、私の中に、まるで湯で戻した春雨のように広がった。
確かそう、それは街中のデパートに母に当たる女性と、兄と、私の三人で出かけたときのことだった。まだ私は、ちょうどあの妖精たちのような背恰好の子どもで、3つ年上の兄は小学校にあがったばかりだった。
私は家族というつながりが苦手だった。既にこの時から。
物ごころついた頃には、まだうまく操れないながら自分に超能力があることは分かっていた。そうして、どうやら周りの人間はそうではないらしいということが分かってきた頃だった。両親は私を気味の悪い娘だと思っていたのだろう。
その日、彼女は買い物の途中に仕事で緊急に呼び出され、私たち兄妹を置いて行ってしまったのだった。兄に幾らかの紙幣を握らせ、子ども二人を置いて行った。世間一般に見て彼女の行為がどう評価されるか分からないが、少なくとも今の私は彼女に特別な期待はしていないから何とも思わない。
兄は私を屋上遊園地へと連れていった。デパートの屋上にあったその施設は、今思えばスペースも決して広くなく、ちゃちな遊具ばかりだったはずだが、私は大いにはしゃいだ。もともと両親は私を連れて休日にレジャーに行くなんてことをしない人間だったから、音を出しながら動くだけのパンダカーも、素晴らしい体験だったのだろう。
100円で2分間動くパンダカーに、私は延々と乗り続けた。
子どもというのは不思議なもので、大したことのない同じ遊びを延々と繰り返しても飽きないのである。
そうして更に詳細に記憶をたどると、視界の隅に、ベンチに座ってじっとこっちを見ていた兄を思い出す。ちょうど今、私がしているように。
兄が何か別の場所で他の遊具を使っていた記憶は無い。2分が経過して、パンダカーが止まる度に、兄はやってきて100円を入れ続けた。今思えば、あのパンダカーが最も費用対時間の優れた遊具だったのだろう。
私たちは3時間そこに放っておかれた。
途中でベンチに座り、ソフトクリームを食べた以外に、私はずっとパンダカーに乗っていた。兄は資金の残量を確認し、私が飽きてしまわないようにずっと見ていたのだろう。
ずっと。
「菫子さん……?」
「は、あ、はい?」
十数年越しに思い出していた幼い日々から、私の意識は紅魔館の訓練室に戻った。
パンダカーには、妖精が5人まとめて乗っている。
ぱー、ぱーぽーぱーぱぽぽー、ぱーぱぱぱーぽぽぱぽぽーぱー……
「やっぱりごめんなさい、美鈴さん。しばらくはお貸ししますけど、またそのうち引き取りに来ますね、あのパンダ」
「ウチのメイドたちがすみません。壊さないように気をつけておきますね」
美鈴は困ったような顔で微笑んだ。
「やっぱり、大事なものだったんですか?」
「いえ、あれそのものはそんなに大事ではないんですけど……。でも久々に懐かしい思い出に浸れました」
基本的に、あちらの世界で自分と対等な関係を築くことができる人間がいるとは思えない。それはひとえに私の傲慢さ故なのだけれど。
でも、ずっと昔からそうだったわけじゃなくて、私にも無邪気に誰かに愛されていた時代があって、そうしてこの先のことは誰にもわからない。それこそ運命を操る吸血鬼でも無ければ。
「そろそろ、起きますね」
「そうですか。次は是非、レミリアが起きているときにも来てくださいね」
「ええ、是非」
とおりゃんせのメロディが遠くになって、私は目を覚ます。
日付は変わっていて、2月14日。時刻は午前1時過ぎ。
最近は夢幻病のせいもあって、特に休日は体内時計がぐちゃぐちゃになる。夕飯も食べていないから、空腹だ。
とはいえ、この時間に起きたって食卓に夕食が準備してあるわけでもない。そもそも一般家庭の食事時にだって、宇佐見家が食卓にそろうことなんて無いんだけれど。
ダウンジャケットを羽織って、歩いて5分のコンビニに行く。こんな時間でも弁当の類が幾らか棚にあるのが現代社会の恐ろしいところだと、私は最近痛感するようになった。そうしてレジに向かう途中、やたらとピンクの主張が強いコーナーの前を通る。
そういえばそうだったか。
バカバカしいと思いながら、ちょっとした気まぐれを起こす。こんなことでなにかかわるわけではないけれど。大した出費でもないのだから。
帰り道、寒さに首をすくめてふと自宅を見ると、2階の部屋に電気がついていた。
まだ起きているのか。
私が遅くに出歩くことを、最近はもう咎めなくなってしまった兄。
玄関を上がり、手袋やジャケットもそのままに、2階に上がる。私の部屋を通り過ぎて、一つ奥のドアをノックもせずに開けた。
「……え」
「……」
兄は、大学の課題だろうか、参考書らしき本を片手にパソコンに向かっていた。およそ物ごころついてから入ることのなかった兄の部屋に顔を出したことに、彼も困惑しているらしい。
「ん」
私は何にも言うことを考えていなくて、それに、考えたところで特にいうこともなくて、コンビニで買ったパンダ型のチョコビスケットを彼のベッドの上に投げた。
「なに……」
彼が何かを言う前に私はドアを閉めると、自分の部屋に戻って弁当の包装を開けた。
美鈴さんにもあのビスケット持って行ってあげよう。
きっと気に入ってくれるだろう。
全体的な構成が素晴らしいですね。
枯れた砂漠の中で蜃気楼のオアシスを思い出すような、ほんの少し温かいお話でした。
妹菫子かあ
別世界の人間になってしまったと思ってしまうこともあるけど、やっぱり家族だなと思うこともある。
季節はずれな暖かさに溶けるチョコレートみたいな菫子の変化がいいですね。
とても楽しめました。
いい…