Coolier - 新生・東方創想話

(LOVE and CRAZY)

2016/02/12 03:43:58
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おそらく私は、夢を見ているのだと思います。
見渡す限りの黒、一切の光源が見当たらない空間。
私以外に存在するのは、安楽椅子に偉そうに座る少年と、その向かいに用意された高そうなソファだけ。
光源が無いにも関わらず、黒の空間の中ではっきりと見えるそれらは、まるで宙に浮いているようにも見えました。
下を見ても上を見ても黒、黒、黒。
夢以外ではありえない光景なので、夢以外とは思いもしませんでした。
あらゆる境目が認識できない世界でしたが、私がこうして立てているということは、見えないだけで地面は存在しているようです。
戸惑う私をよそに、少年は分厚い本を持ち、ページを捲りながら、一切私の方を見ようとはしませんでした。
後ろを振り向いても、左右を見回しても、やはり少年とソファ以外には何も存在しません。
どうやら私に選択肢は無いようです。
気は乗らなかったのですが、ゆっくりと歩いてソファに近づき、偉そうな少年に負けじと大胆に、勢い良く腰を下ろしました。

「ひゃわっ!?」

しかし、さすがは高級ソファ、想像してたよりもずぼっと沈んでしまいます。
驚きのあまり思わず変な声が漏れて、慌てて口を抑えたのですが時すでに遅し。
少年にはしっかり聞かれてしまったようです。

「ふ、ふふふっ」

少年は、本で顔を隠しながら肩を震わせて笑いました。
今までさんざん無視したくせに、見るからに私より年下なのに感じ悪いなあ、
もう。

「ごめんごめん、睨まないでよ。
 僕だって笑いたかったわけじゃないんだ。
 いや、でもまあ、予定調和で終わるよりは少しの刺激があった方が楽しめるかな。
 そういう意味では、君はもう、今の時点で他の連中よりずっと価値のある存在だよ」

しかもやけに偉そうで、一体何様のつもりなのか。

「うん、悪く無さそうだ。少しだけ興味が出た。
 君だって喧嘩をするためにここに来たわけじゃないんだろう? だったら、いい加減睨むのはやめようよ」

喧嘩を売ってきたのはそっちのくせに。
しかし私は、どうしてこんな場所にやってきたのでしょうか。
思い出そうとしてもうまく思い出せません。
いや、そもそも理由なんてあったのかな。

「自分がどうしてここに居るのかわからない、って顔してるね。
 覚えていないのならそれでも構わないさ、それは大した問題じゃない。
 覚えていようが覚えてまいが、僕らがやることは変わらない、君が語る、僕が聞く、それだけのことだ」
「私は何を語ればいいんですか」
「君の歴史を」

歴史と呼ぶほど大した人生は歩んできていません。
それに、こいつに私の歴史を話す必要なんて無いはずです。
だから――話すつもりなんて無かったんです、本気で。
偉そうな態度にイラッとして、反発して、このまましばらく黙ってやろうと思っていました。
ですが不思議な事に、私の口は勝手に語り始めました。
誰にも語ったことのない、私だけが知る歴史を。

「自分の価値が、見つけられなかったんです。
 子供って好奇心の塊って言いますけど、私は子供の頃から”興味を持つ”ってことが出来ませんでした。
 私にとって、私を取り巻く全ての物が等しく無価値で、関心を寄せるに値しない物ばかりだったから。
 もちろん自分自身も、例外ではありません」

いつもは無口な私なのに、今ので一週間分ぐらい一気に喋ったんじゃないかってぐらいの饒舌っぷり。
それをこんな生意気な少年の前で披露することになるなんて、勿体無いですよね。
折角私がこんなに喋ってるのに、当の聞き手はそこまで興味無さそうですし。

「ふぅん、辛くなかった?」
「辛かったですよ。
 周囲と違う、共感できない、通じ合えない、馴染めない。
 両親はそんな私を変えようと色々頑張ってくれたみたいですが、またそれが辛くて辛くて仕方なかったんです。
 要は私を否定しているわけですから、それじゃあまるで私が出来損ないみたいじゃないですか。
 苦しくて、辛くて、痛くて。
 あらゆる物に興味が無いのなら、いっそ苦しみにも無頓着でいられたらよかったのに、苦痛だけは一人前に感じることが出来ました。
 幸福はこれっぽっちも手に入らないのに、苦痛だけが与えられる毎日が続きました」
「生き地獄だ」
「そう、だから私は、どうにかしてその地獄から抜けだそうと思ったんです。
 私は考えました。そして考えた末に、一つの方法にたどり着きました。
 私には価値の分からない物でも、他人から見て価値のある物を得ることが出来れば、少しは馴染むことができるし、出来損ない扱いもされないんじゃないかって思ったんです。
 他人から評価されて、私にもできそうなこと。
 それが、勉強でした。
 私の目論見は成功し、頑張れば頑張るほど、両親や周囲の人たちは褒めてくれたんです。
 ”何事にも興味がなく価値の無い私”から、”無価値なりに勉強ができる私”に変わると、私を慕ってくれる人すら現れました」
「良かったじゃないか、おめでとう」

少年は大げさに拍手してみせます。
あまりこういうことは言いたくないんですが、一挙手一挙手がいちいち鼻につくというか……親の教育はどうなってるんでしょう。
感情を表に出さないタイプの私が、つい眉をひそめてしまうほどです。
そんなに簡単に解決する問題なら、この歳になるまでうじうじ悩んだりはしません。
あなたはまだ解決していないことがわかっているから、わざとらしく拍手してみせたんでしょう?

「でも、どんなに他人に認められても私は嬉しくありません、むしろ虚しくなるだけ。
 だって認められたのは私自身ではなく、他人の価値観を借りた、他人のような私だったわけですから。
 勉強自体も特に好きなわけじゃなくて、でも期待に答えるためにはプライベートのほとんどの時間をそれに割くしか無くて。
 正直言って、勉強は苦痛でした。
 集中して取り組めばそのうち興味も出てくるんじゃないかと思ってたんですけど、結局、最期までぜんぜん興味なんて湧かなかったんです。
 好きでもなければ興味もない、退屈で辛いだけの時間がひたすら続いて……いつからか私は、全てを捨てて投げ出してしまいと思うようになりました」
「それで、耐え切れなくなったのかい?」
「いいえ、違います。
 苦しいだけの毎日で、全て投げ出したいと願ってはいましたが、死ぬのはもっと痛くて苦しいから、踏みきれなかったんです。
 生きてるのか死んでるのかわからない、今まで以上に無価値な日々が続きました。
 ですが……そんな中で、私はようやく見つけたんです。生まれて初めて、価値のある存在ってやつを」
「わお、急展開だ」

その通り、とんでもない急展開。
このまま人並みの幸せも得られずに朽ちていくのだろうと思っていた私にとって、その出会いはまさに革命と呼ぶべきものでした。

「大学で初めて”彼女”を見かけた瞬間、今までに感じたことのない感覚が全身に走りました。
 胸が高鳴り体が火照り、口の中はカラカラ、呼吸も上手くできなくなって、視界もゆがんで、まるで熱病に浮かされたようになったんです。
 なのに、視線だけはぶれずに、ただ一人の人間だけを捉えていました。
 彼女だけを、じっと、ずっと」
「恋しちゃったんだ」
「ええ、恋、だったんでしょうね。
 太陽のように眩しい恋でした。
 焼け果ててしまいそうなほど熱くもあり、そんな灼熱の恋慕に私の心は為す術もなく焼かれてしまったのです。
 無色の世界においてただ一人だけ鮮やかで、私の興味を引いた、唯一無二の女神様。
 私は初めて自分が人間として生まれ、視覚という機能を備えていたことに感謝しました。
 ああ神様、私を人間に生んでくれてありがとう、って」
「はは、いい心がけだね」

いちいち偉そうなコメントしなくてもいいのに。

「ええ、感謝したんですよ、あの時だけは。
 でも気付いてしまいました、私は所詮、私でしかないんだってことに。
 次に私は恨みました、ああ神様、どうして私を私として産み落としてしまったのですか、と」
「身勝手だね」
「おかげさまで。
 彼女に出会ったその瞬間に、私が今まで積み上げてきた、無価値だったあらゆる事象が価値を持ちました。
 まあ、積み上げてきたと言っても勉強ぐらいしか無かったんですけど。
 でも、それがあったからこそ彼女と出会えたわけで、人生で初めて”やってきてよかった”と思うことができたんです」
「それはそれは、めでたいじゃないか」

頭がおめでたいとでも言いたそうに、生意気な顔をしています。
実際、そうだったんですけどね。

「でも、世の中そう都合よく回ってくれないんです。
 表があれば裏もある、価値は希望、希望は絶望と隣合わせ、リスク無しでリターンは得られない。
 生まれた希望は、大きな絶望を産むことになりました。
 私は初めて自分の意思で、自分が欲しいと思う物に手を伸ばそうとしました。
 ですが同時に、どんなに手を伸ばしても無駄だってことに気付いてしまったんですよ」
「吊り合わなかったんだね。
 でも勉強を教えると言って近づくとか、手段はあったんじゃないの?」
「井の中の蛙でしか無かったんです。
 高校の時は一番でも、大学に入れば平均的な学生に過ぎなかった。
 それしか取り柄のなかった私は、もはや他人から認められる価値すら無かった。
 自分から近づくなんておこがましくて、とてもできません」
「ありがちな話だ。
 自分には価値が無いって言い訳して、自分を磨いてこなかったツケが回ってきたんだよ」
「残酷ですね」
「素直なだけさ」

よくもまあそこまで都合よく言葉を操れるものです。
私もそれぐらいの厚顔さがあれば、少しはマシな人生が送れたかもしれないのに。
羨ましい。

「それで、彼女とはどうなったの?」
「彼女は美人さんでしたから、男子学生が放っておく訳がありません。
 ほどなく食べられて、色のない世界の波に飲み込まれて、手を伸ばすどころか、憧れることすら許されない場所に行ってしまいました」

思い出すだけで胸が痛い。
悪い夢だと思いたかった。
でも今の私はすでに夢の中にいるんです、これ以上夢にはできません。

「やっぱりね」

少年の反応は予想通りでした。
それも当然のこと、だって私も同じように考えていたのですから。

「あなたの言うとおり、最初からわかりきってたんですよ。
 変に期待なんかしなければよかった。
 その時、私はようやく悟ることが出来たんです。
 きっと生まれた時から、ひょっとすると生まれる前から、私の人生は詰んでたんだなって」
「所詮は言い訳……って言ったって無駄か、君がそう認識しているのなら、きっとそうなんだろう」

本人の努力次第ってよく言うけど、努力できるのも才能。
生まれた場所、環境、そして取り巻く人々の影響を受けて人は成長していく。
だけど、それらを人は選ぶことは出来ません。
私が私として生まれた時点で、今の私になるのは決まっていたようなものなんです。

「でも、まだ諦めきれないって顔してるね」
「……」
「君じゃ無理だよ、引き際だ」

例え、全てが決まっていたとしても。
諦められるのなら、私は最初からこんな場所には来なかったでしょう。

「そんな言葉で引き下がれるほど簡単じゃないんです。
 最初で、最後だったんですから。
 楽しさも喜びも無い人生の中でようやく見つけた光明なのに……期待するのが間違いだったとしても、期待してしまうのが人間って物じゃないですか。
 もし手を伸ばしたのが間違いだったとしても、じゃあ手を伸ばさずにいられましたか? 幸福が人間の形をして歩いているのに、欲しいと思わない人間なんてこの世に居るんですか?
 ねえ、私は間違ってますか? 私なんかが幸せを求めるのは不相応だったんですか?」
「いいや、望む権利は誰にだってあるだろうね」
「そう、ですよね。そう、そのはずなんです。
 私は人間として当たり前のことを、他の人間より控えめに望んでいるだけ。
 好きな食べ物なんて無かった、おもちゃだってねだらなかった、規律だって破ったことは一度だって無かった。
 何も、求めてこなかったのに。
 そんな私が一度だけ、たった一度だけ求めたものが……どうして手に入らなかったのか。
 ねえ、私の何が悪かったんです? 私はどうしたら正しい道を歩けたんでしょう?
 黙ってないで答えてくださいよっ、あなたならわかるんでしょう!?」
「……さあ?」

本気で威圧しても、少年はそのスタンスを一切崩しません。
偉そうに、興味なさげに、まるで道化でも見るように、生意気ににやりと笑いました。
それでも私は止まらずに。
堰を切ったように想いが溢れ出るんです、止めようと思っても止められるものじゃありません。
今まで我慢してきた分を、激情として、全て吐き出すまではる。

「こんなのワガママのうちには入らない、望むだけなんだから身勝手でもない。
 欲しくて欲しくてたまらない、私の物にしたい、外側も内側も全部に触れて、全部を染めて、私以外誰も触れないように変えてしまいたい!
 あの子を、私が初めて見つけた、私自身が求めた、この世でたった一人の、金剛石のように気高く輝く彼女を!
 彼女を――私にとっての全てを――余すこと無く、一片残らず、何もかも、私の物にしてしまいたいんです!」

望みは、それが全てでした。
我ながら、長々と話した割には単純で下賤な望みだと思います。
要するに私は、一人の女を手籠めにしてしまいたいと、騒々しく叫んだだけなのですから。
私の話が終わると、少年が揺らしていた安楽椅子が止まりました。
彼は手に持っていた本をぱたんと閉じると、表情から笑顔を消して口を開きます。

「面白そうじゃん」

言葉とは裏腹に、少年は実に退屈そうでした。
それとも、今までは見た目の印象通り私をからかっていただけで、今の顔こそが素の表情なのでしょうか。

「いいよ、そうしたいならそうすればいい。
 君が納得できるまで、成功するまで、無様に足掻いてみな」

少年の言葉が終わると、私は強烈な目眩に襲われました。
一瞬で視界が歪み、私の世界がかき混ぜられていきます。
三半規管が狂い、視界が揺れると同時に体もゆらゆらと揺れ、ついには座っておくことすらできなくなりました。
ソファに倒れこむ私。
視界にはマーブル状の景色が映るだけで少年の顔はもう見えませんでしたが、おそらく相変わらず椅子に座ったまま、私の変化を歯牙にもかけず平然としているのでしょう。
つまりこれは、夢の終わり。
夢の世界で眠る私が、元いた場所、現実へと戻っていこうとしている。
あれ、でも……元いた場所って、どこだったっけ。
どうしてここに来たのか覚えていない私が、元の場所を覚えているわけもありません。
夢から還る先と言えば現実しかないので、おそらくは現実のどこかへと。
どちらにせよ、私は帰らなければならないのです、辛い辛い現実へ。
救いなど一つもない現実へ。
性懲りもなく、また絶望するために――





目覚まし時計のアラームが、私を現実に引き戻しました。
時計の頭に付いているスイッチを叩くと、騒音は事切れたようにピタリと止まります。
そのまま時計を掴み、目の前まで持ってきて時刻を確認。
朝の六時半。
日付は四月二日。
小鳥の囀り。
カーテンの隙間から差し込む陽の光。
エイプリルフールはとっくに過ぎているのに、まるで嘘のように、爽やかな朝でした。





……………





行きつけの喫茶店がアルバイトを募集していることに気付いたのは、夏休みが始まる三週間ほど前のことだった。
チェーン店ゆえに値段はそこそこ安く、でもその割には落ち着いた店内は落ち着いた雰囲気で、一人の時はよく愛用させてもらっている。
蓮子と一緒だとまた別の店に行くから、蓮子はこの店のことをあんまり知らないみたいだけど。
私は店内にあるアルバイト募集の張り紙の前に立ち止まって、募集要項をじっくりと観察する。
時給は中々に悪く無い。
フロアスタッフの経験は無かったけれど、未経験歓迎と書いてあるし、店員も女性が多く馴染みやすそうではある。
異邦人である自分を受け入れていれるかどうかについては、運としか言いようが無い。
留学生なので週あたりの就労時間に制限はあるものの、夏季休暇中なら一日で八時間までは働ける、時間に関しては心配することは無いはず。
日本での初めてのアルバイト、それも接客業ということもあって、不安は拭えない。
しかし、均衡するぐらいの好奇心だってある。
大体、不安なんて物はどんな職業に対しても言えることだ、尻込みしてたって始まらない。
……と言いつつも、結構な臆病者である私は中々応募に踏み切れず、刻々と時間は過ぎてしまった。
それから店を訪れるたび、私は張り紙の存在を確認するようになった。
明日残ってたら応募しよう、いいや明後日、いやいや明々後日――そうやってずるずると後回しにした挙句、実際に応募したのは、さらに二週間が経過した頃だった。
ここは首都京都、条件はそれなりで、しかも店舗は大学に近い場所にある。
二週間も募集が残り続けていたのは、複数人の募集という点を差し引いても奇跡と呼ぶべきだと思う。

面接は応募から三日後、平日の夜に行われた。
時間は私の希望ではなく、電話先の店長らしき男性からの提案だった。
どうやら面接を受けるのは私一人ではないらしく、一緒に受けることになったもう一人の都合で夜になったようだ。
多少の緊張はあったが、面接は滞り無く進み、スムーズに終えることができた。
翌日には結果の電話があり、無事採用が決定。
初出勤は夏休みの初日。
今年の夏は、去年とはひと味違うものになりそうな予感があった。

去年の夏休みは、とにかくずっと蓮子と一緒だった。
基本的には蓮子の部屋でだらだらと過す。
気分が向けば有名な結界破りの旅へ。
たまには遠出もしたりして……それなりに、充実した日々を過ごしたつもりだ。
そんな蓮子に内緒でバイトの話を進めてしまったのは申し訳ない気もする、
でも予め話してしまうと止めるように説得してくるだろうし、私も説得されたら逆らえないような気がしたから、あえて相談はしないでおいた。
意思が弱いわけじゃないのよ、私が蓮子に依存しすぎてるってだけで。
実際どうなるかはわからない。
蓮子がそこまで私を縛るとも思えないんだけど、なぜかそんな予感がしたから。
後から話すのも、それはそれで蓮子の怒りを買ってしまいそうなもんだけど、もう決まってしまったことなんだし、今更愚痴っても仕方が無い。

実際に蓮子にバイトのことを話したのは、夏休みに入る直前だった。
昼休みの食堂、昼食目当ての学生でごった返すそこで、私はいつ話を切り出すかタイミングを計る。
彼女は携帯端末をいじりながら京都の心霊スポットを調べているようで、ぶつぶつと独り言を言いながら画面に見入っている。
子供みたいに目を光らせているのは可愛いと言えば可愛いんだけど、巻き込まれるこっちとしては怖くもある。
たまにとんでもない所に連れて行かれたりするし。
それもまあ、今となっては楽しい思い出ではあるんだけど、当時は本当に怖かったんだから。
端末の画面に表示されている画像のいくつかには、私も見覚えがあった。
それもそのはず、何を隠そう、秘封倶楽部の活動場所のうちいくつかは、そのサイトから採用された物なのだから。
つまり私はその写真に見覚えがあるわけではなく、実際に行った場所だから覚えているというわけだ。
候補の目星が付いたのか、蓮子は何枚かの画像を私の前に表示させる。

「折角の夏休みだしちょっとした遠出もいいわよね。
 覚えてる? 前に行きたいって言ってた相楽の廃ホテルの話。
 自殺したオーナーの霊が出るってのは正直胡散臭いと思うんだけど、火のないところに煙は立たないって言うし。
 これだけ噂が広まってるんだもん、やっぱり何かが潜んでると思うのよね。
 でもこっちの神社も捨てがたいなー、霊よりやばい物が漂ってそうな予感があるのよねえ、武将の怨霊とか、むしろ神様とか!
 メリーはどう思う? 秘封倶楽部夏休みスペシャル第一弾、どっちに行きたい?」

第一弾ということは第二弾もあるということ、だったら二択を悩む必要なんか無いんじゃないかと思うんだけど。
蓮子にとっては”一番最初”という肩書が重要なんだと思う。
でも……蓮子には申し訳ないけど、今年は去年ほど蓮子と一緒に出かけたりは出来ないのよね。

「あのね、蓮子」
「あー、でもこっちもいいなあ、病院ってシチュエーションがゾクゾクしちゃうわ。
 ベタすぎて逆に盲点だったかな。
 血まみれの霊とかは勘弁して欲しいけど、一回ぐらいは見てみたい気もするわ」
「蓮子、聞いて」
「ま、これだと結界を暴くっていうよりただの肝試しになりそうだけど……肝試しも夏休みっぽくて良いわよね」
「蓮子っ!」
「ん、どっちか決まった?」
「違うのよ、蓮子に話しておかないといけないことがあって」
「えー、なになに? 急に改まっちゃってさあ」

蓮子のリアクションはどこか白々しく、故意に私の話を遮っていたようにも思えた。
実は私がアルバイトを始めようとしていたことを知っているとか?
それとも直感で、自分にとって良くない報せだと感じ取ったのか。
どちらにしても、蓮子の勘の鋭さには舌を巻くばかりだ。

「前もって蓮子に相談しなかったのは悪いと思ってるわ、でも自分のことは自分で決めるべきだと思って。
 その……今年の夏はね、バイトをしようと思ってるの」

バイトのことを、必ずしも友人に話す必要があるわけではない。
この罪悪感は個人的なもので、蓮子が私が話さなかったからと言ってネチネチと責めてくるような性格でないのは知っている。
知っているのだが――やはりどうにも気まずくて、私はそのことを伝えると同時に、逃げるように顔を伏せ、蓮子から目をそらした。
それに、わざわざ私の言葉を遮ろうとしたということは、蓮子は夏季休暇の秘封倶楽部の活動をそれだけ楽しみにしていたということ。
もし蓮子が私を責めなかったとしても、彼女は大いに落ち込むだろうし、夏季休暇の予定も大幅に変更しなければならない。
やっぱり、悪いのは私だ。
いっそ責めてくれた方が楽かもしれない。
私はそう思っていたのだけれど、蓮子は私が想像していたよりもあっさりと、あっけらかんとした表情で言った。

「そっか、メリーもついに金欠に耐え切れなくなったか」
「仕送りは十分にあるわよ。
 そうじゃなくて、日本に来た時点で一度はバイトをしておきたいと思ってたの」
「社会経験ってやつか、確かに留学生のメリーにとっては重要かもね。
 それで、職場はもう決まってるの?」

……あれ?
思った以上にあっさりとした蓮子のリアクションに、思わず呆気にとられる。
だったら、さっきのわざとらしく私の話を邪魔したのは一体何だったのだろう。
妙に緊張してた私が馬鹿みたいじゃない。

「ええ、大学の近くにある喫茶店なんだけど」
「あそこかあ、言われてみれば前を通りがかった時に募集の張り紙があった気がする、かな。
 メリーはスタイルいいし、金髪だし、ああいうウェイトレス服とか似合いそうだよね。
 うんうん、想像しただけでスカートめくりたくなるもん、天職なんじゃない?」
「そういうお店じゃないから!」
「あっはは、今度よかったらプライベートで着てみてね、お店じゃ出来ないだろうけど二人きりなら……」
「やらせるわけないでしょ」
「一緒にお風呂に入った仲なのに、パンツぐらい今更」
「脱線しすぎよ」
「えへへ、ごめんごめん」

その顔、絶対に反省してないな。
似合うって言ってくれるのは嬉しいし、蓮子の前で着るのはやぶさかではないけど、スカートめくりとかは絶対に許さないから。
絶対に!

「でも良かったじゃない、決まったなら。
 つまり今年は去年ほどヒマじゃないってことよね、これは活動場所を厳選しないと」

何だ、こんなもんなんだ。
もっと拒否反応を示してくれると思っていた私としては、ちょびっとだけ残念な気もしてたり。
けど、変に落ち込まれなくてよかったかな。
おかげでこれ以上罪悪感を抱く必要も無くなったわけだし。
まあ、そうだよね、たかがバイトだもん。
夏季休暇にバイトぐらい大学生なら普通のことだし、そこを束縛しあうほど、私達の距離って近くないもんね。

その後も蓮子に変わった様子はなく、シフトが決まったら蓮子に伝えること、休みの日には二人で出かけることを約束して、私たちは午後の講義へと向かった。
今日は私が5コマ目まで、蓮子が4コマ目まで講義が入ってたはずだから、蓮子には少し待ってもらって、合流して二人で出かける事になっている。
夜だからこそ行きたい場所もあるんだけど、今日はサークル活動の予定はない。
たぶん、二人で街をぶらぶらして終わりかな。
蓮子と二人だと、それでも楽しいからいいんだけどね。

幸い、今日の午後は私が好きな講義ばかりだったので、時間はあっという間に過ぎていった。
そして五限目が終わり、私が講義室を出ようと、鞄を手に持ち席を立った瞬間のことだった。
廊下の方から慌ただしい足音が聞こえてくる。
足音は講義室の前で止まり、勢い良く扉が開かれた。
現れた女性は、額に汗を浮かばせ、肩を上下させながら、けれど顔は青ざめていて。
あまりの騒々しさと、その必死の形相に、講義室中の視線がその女性に集中する。
しかし、当の彼女はそんな視線など意に介さず、誰かを探して視線を彷徨わせた。
私は、彼女を知っている。
目当てはおそらく……私、だと思う。他に誰も名乗りでないのなら、きっと私なのだろう。
彼女は私と蓮子の共通の知人で、一度か二度、三人で遊びに出かけたことがある。
と言っても私は蓮子経由で知り合ったようなものなので、普段から連絡を取り合うことはほとんど無いのだが――
その焦りっぷりは見ているこちらまで不安を覚えるほどで、彼女が伝えようとしている何かが、おそらく私にとって良くないニュースであることは間違いない。
それに、私と蓮子の共通の知人がわざわざ私を探しに来たのだ、おそらく蓮子絡みの報せであろうことは容易に想像出来てしまう。
ただの時間稼ぎにしかならないと知りながらも、彼女の口から伝えられる”何か”を知るのが怖くて、私は自ら彼女に近づこうとはしなかった。
だが、私の気持ちなど彼女が知る由もない。
いや、知っていたとしても、じゃあ諦めて帰る、とはならないだろう。
きっと彼女だって本当は私に伝えたくなんて無いはずだ、伝えないことで全て無かったことになるのならそうしただろう。
けれど、現実は私に都合よく形を変えてくれるわけじゃない、知りたくない事実だからこそ、知らなければならないこともある。
やがてその視線は無慈悲に私を見つけ出し、小走りでこちらへと近づいてくる。
さて、事故か、病気か、それとも犯罪に巻き込まれたのか、どちらにしろ蓮子が無事であればそれに越したことはない。
私の前までやってきた彼女が周囲を見回すと、怪訝な視線を向けていた連中は気まずそうに目をそらした。
同時に、しんと静まり返っていた講義室は、彼らの雑談によって再びざわめきだす。
聞き耳を立てる人間が居ないことを確認した彼女は、普段話すよりも幾分か顔を近づけ、しばしの逡巡の後、私にこう告げた。

「……蓮子が、飛び降りた」

正直言って、何を言っているのか理解出来なかった。
言葉は頭に入ってきた、しかし頭がその言葉を正常に処理出来ない。
知っている言葉のはずなのに、知らないふりで突き通そうとしている。
返事をすることもなく、その場で固まったまま私を見て彼女は聞き取れなかったと判断したのか、もう一度、荒い吐息と共にはっきりと告げる。

「蓮子がっ、ビルの屋上から飛び降りたの……じ、自殺、だって」

自殺。
その致命的な一言で、ようやく理解できた。
理解、出来てしまった。
体から体温がさっと消るような感覚と共に、視界がぐらりと揺らいで、手に力が入らなくなって、鞄がするりと地面に落ちる。
死体にでもなったような気分だった。
やがて、どうにか立ち続けていた体からも力が抜け、私は膝から崩れ落ちる。
脳内で、彼女の言葉が何度も反芻している。
飛び降りた。
自殺。
蓮子が。
さっきまで、楽しそうに、話していたのに。

混濁している。
思考が、視界が、世界が、黒と白が混ざって、色が消えて、撹拌されて、汚れていく。
遠くに、ざわめく大多数の声と、私の名前を呼ぶ女性の声が聞こえた。
しかしその声が私まで届くことはなく。
そのまま私は意識を失い――夢の中へと、堕ちていった。





……………





樹海に最も近いバス亭で降りた私は、思ったより冷静な自分に驚いていました。
ここまで来た以上は後戻り出来ないということを、自分自身で無意識のうちに理解しているのかもしれません。
私がわざわざ山梨まで足を運んだのは、高校一年ぐらいの頃に見ていたとあるサイトがきっかけでした。
『自殺の名所』なんてベタベタな検索ワードで辿り着いたそのサイトでは、日本全国津々浦々、ありとあらゆる自殺スポットが紹介されていました。
つまらない人生を終わらせる最後の手段として、昔から自殺に興味があった私は、いずれ訪れるであろうその時に備えて以前から調べていたのです。

最初は単純に自殺の名所を紹介するだけのサイトだったそこは、いつからか怪しげなおまじないを紹介するようになっていました。
管理人は実際に自殺の名所に足を運んで取材を行っていたようで、ひょっとすると死者の念が精神に悪い影響を与えてしまったのかもしれませんね。
ブログやコメント欄での書き込みに妄想じみた内容が増え、ついには常連の閲覧者すらも妄想で敵に見えるようになってきたのか、無差別に敵意をむき出しにし始めました。
誰の言葉も信じず、常に見えない敵の恐怖に怯え、自分すら信じられなくなった彼は、ある記事を書いたきり消息不明に。
もちろんサイトの更新もそれきりです。
管理人が自殺したからだと言われていますが、真実は定かではありません。
病院に入院したのかもしれませんし、失踪しただけでどこかで元気に生きているかもしれません。
しかし、噂や都市伝説が生まれるのに、必ずしも真実が必要なわけではありません。
人から人へ、有る事無い事語り継がれていくうちに、ネット上で管理人の死は真実ということになりました。
やがて遺されたサイトはカルト的人気を得るに至り、アクセス数は更新されていた当時よりも増す結果となってしまったのです。
サイトの方針がオカルトへと傾いていく中で、その内容を馬鹿馬鹿しいと切り捨てたのが高校一年の私。
久々に見たサイトの荒れっぷりには驚きましたが、かつて馬鹿にして言ってオカルトを切り捨てていた私が、最終的にをこのサイトあてにする羽目になるとは、全く世の中何が起きるかわからないものです。

バス停からしばらく歩くと、目当ての神社が見えてきました。
ここでお守りを買うことが、管理人いわく、神様に救ってもらう第一歩なのだと言います。
神社の説明には学業成就と書いてあった気がするのですが、これから死にゆく彼らにとっては、神様の都合などどうでもいいことなのでしょう。
神様の都合も考えず、一方的に救ってもらおうなどと、恥知らずもいいところですよね。
私もその恥知らずの一人である以上、他人を罵倒できる立場ではないのですが。

私は購入したお守りをリュックサックのポケットに詰め、再び歩き出します。
今度こそは樹海の入り口へ。

観光地なので、周囲の道はそれなりに整備されていました。
樹海自体も、道さえ外れなければ迷うことはありません。
ですが道を外れて二、三分も歩けば、そこはもう右も左も分からない森の中。
もっとも、自ら道を外れるのは、調子に乗った痴れ者か、自ら死を選ぶ私のような愚か者だけなのでしょうが。

樹海の入り口に向かう途中、いくつか自殺者に向けての看板を見かけました。
両親や友人が悲しむだとか、もう一度相談しろだとか。
看板を見た私は、気分が高揚するのを感じました。
ああ、いよいよ私は死ぬんだなという実感が、私の気分を高めていたのです。

遊歩道をしばらく歩いた私は、周囲に人が居ないのを確認すると、ロープフェンスを乗り越えて道無き道へと踏み出します。
舗装されていない森の中は、腐葉土が何重にも重なっているせいか、人が歩く道としては劣悪と呼ぶしか無い状況でした。
時折ぬかるみに足を取られつつ、木の蔓や集る虫を振り払いながら、ゆっくりと前へと進んでいきます。
三分ほど歩き、ふと後ろを振り向くと、もう遊歩道は見えなくなっていました。
目印も残していませんから、進行方向と逆に進んだとしても、元の場所に戻れるかどうか。
もう後戻りは出来ない。
そう告げられた気がして、何だか嬉しくなってしまいます。

それから十分ほど森の中を彷徨いました。
片方だけ落ちている靴、テントや缶詰などの人が暮らしていた形跡、そして木にぶら下がる朽ちたロープ。
人間が居た形跡を見つけるたび、その数だけ人の命が尽きていったのだと思うと感慨深いものがあります。
この樹海では、年間百体以上の死体が見つかるそうです。
つまり、きっとここは、世界で一番、死を身近に感じられる場所。
その感覚に嫌悪感を覚えるのなら、ここで引き返した方がいいのでしょう。死ぬにはまだ早すぎますから。
その感覚に心地よさを感じるのなら、もう手遅れなのだと思います。
ああ、良かった。
どうやら私は、もう手遅れのようです。

さらに二十分ほど歩くと、開けた広場に着きました。
あたりを見回しても、人の居た形跡はありません。
どうせ死ぬのだから場所にこだわる必要は無いはずなのに、いざ死を目前にするとこだわりたくなってしまって、結構深い所まで来てしまいました。
ようやく理想の場所を見つけた私はリュックサックを下ろすと、中から小さめのレジャーシートを取り出し、地面に敷きます。
シートの上に腰掛けた私は、さらに中からコンビニで買ったメロンパンを取り出しました。
最後の晩餐を何にするか考えた時、すぐに思い浮かんだのがこれだったんです。
食事に対しても執着することが無かった私にとって、最大限の贅沢だったってことなのでしょう。
女の子としてどうなんですかね、菓子パンって思ってる以上にカロリーの塊なのに。
けれど、どうせ死ぬと思うと何だって出来てしまいます。
ちょうど空腹だった私はそのパンを一気に頬張りました。
しかし、飲み物を買わなかったのは失敗でしたね。口の中がぱさぱさです。
苦労しつつ口の中のパンを全て飲み込んだ私は、丁寧に手を合わせ、ごちそうさまでしたと宣言して、人生最後の食事を終えました。
次にリュックサックから取り出したのは、ホームセンターで購入したロープと、小さく畳むことの出来る携帯はしご。
こんな小さいはしごでもそれなりの耐久性があるあたりに、技術の進歩を感じます。
まずは、はしごを傍にあった太めの木の幹に立てかけ、登り、これまた太めの枝にロープを巻き付けます。
ロープの巻き方なんて知らないので適当に固結びすることしか出来ませんでしたが、何度か引っ張って、十分に体重を支えられることは確認済みです。
ロープのもう一方に頭が入る程度の輪っかを作り、輪っかに緩衝材代わりのハンカチを4枚ほど巻きつけて、準備完了。
遺書は……近くに置いておくか迷った挙句、雨や風でボロボロになられてもこまるので、そのままリュックサックに入れておくことにしました。
最初は書かずに逝く予定だったんだけど、遺書が無いと変死扱いになって色々面倒なんだとか。
だから、遺書には一言、『自ら命を絶ちます』とだけ書いておきました。これで安心です。

死を目前にして、さすがの私も感傷的にならざるを得ません。
浮かぶ思い出はどれもつまらない物で、自殺を踏みとどまらせるに足る物ではありませんでしたが。

大学に入って、初めて”彼女”を見かけた瞬間、私は『女神って本当に居るんだな』と思いました。
けれど、私は唯一の取り柄が無ければ、カースト最下位に位置する底辺でしかない。
対して、憧れの彼女は歩くだけで羨望の目を向けられる天の上の存在。
私は遠くから眺めることしか出来ず、無情にも日々は過ぎていきました。
元から何のために生きているのか自分でもわからない私でしたが、大学に入って唯一の取り柄すら失ってからは、その思いは余計に強くなる一方。
そんな私にトドメを刺すように、先日、彼女が見知らぬ男と歩いている所を見かけました。
手を繋いで、じゃれあって、女神だったが彼女が酷く汚され、台無しにされた気がしたんです。
気持ち悪いですよね。
勝手に神格化して、勝手に彼女は他の連中とは違うと思い込んで、そして勝手に裏切られた気になって。
会話を交わしたこともなく、それどころか目を合わせたことすらない、そんな相手の色恋沙汰に一喜一憂してたんですよ、どこのストーカーだよって言いたくなってしまいますよね。
それでも、自分が気持ち悪いからって彼女に対する憧れが消えるわけじゃありません。
突きつけられた事実に私はショックを隠しきれませんでした。
落ち込んで、へこんで、泣いて、一周回って笑ったりして。
それでようやく気づいたんです。
ああ、これって恋だったんだなって。私ったら大学生にもなって初恋してたんだなって。
私にとってそれは”興味”って言う未知の感覚でしたから、今までそれが恋だなんて想像すらしてなかったんです。
そりゃ笑いますよ、だって鏡見たらすぐにわかるじゃないですか。
こんな地味で、根暗で、勉強以外何の取り柄もない――いや、大学に入った今ではその勉強ですら取り柄じゃない――私が、どうして彼女みたいな美人さんとお近づきになれると思ったのか。
期待することも、夢見ることすら愚かだった、ただそれだけの話。
愚か者が一人で死んで、誰も悲しまない、そんな、笑いも泣きも出来ない、つまらない話。

躊躇う理由なんてありませんでした。
再びハシゴを上り、首にロープをかけます。
こんな私でも、多少なりとも死に対する恐怖感はあったのか、今更になって心音がうるさく鼓動しはじめました。
死を躊躇わせるほどではありませんが。
念のため気持ちを落ち着けようと、二度ほど大きく深呼吸します。
何を恐れることがあるというのでしょう。
私自身が無価値で、周囲から与えられる世界はマイナスで、辛いことばかりで、楽しい事なんて何一つ無くて、だったら死んでゼロになった方がずっと楽じゃありませんか。
これは罰ではなく、救いなんです。
早く、早く、私はゼロになってしまいたい!
そう望んだから私はここに来たんでしょう?
だったら飛びましょうよ、すぐに、迷うこと無く、楽になるために。
大きく息を吸い、足にぐっと力を込めて、少し膝を曲げて、歯を食いしばって――

力任せにハシゴを蹴飛ばし、私の体は宙を舞いました。

ロープが頸動脈に食い込んでいきます。
全体重を首だけで支える状況であるにもかかわらず、痛くはありませんでした。
緩衝材のおかげでもあるのだと思います。
しかし、痛みがない最大の理由は、苦痛が来るよりも先に意識が朦朧とし始めたから。
視界が消えるまでに十秒とかかりませんでした。
まるで貧血のようにふわりと意識が飛び、全身から力が抜けていきます。
次に意識が戻った瞬間、昼寝から目覚めた時のように何事も無く世界が続いていくのではないか。
そう錯覚してしまうほどあっけなく、首吊りは成功し――

私は死にました。
全身の穴から排泄物を垂れ流して。
汚らしく、醜く、まるでこの世界と同じような姿形をして。





……………





私は医務室のベッドの上で目を覚ました。
見慣れない天井、いまいちはっきりしない意識に、あやふやな記憶。
何が現実で、何が夢だったのか、できれば私に都合よく、九割形が夢であって欲しいのだけど。
けれど瞬時に、九割どころか、全てが現実なんだと思い知る。

「マエリベリーさん、大丈夫?」

心配そうに私に寄り添っていたのは、蓮子の自殺を私に伝えに来た”彼女”だった。
意識を失う前に見た姿に比べると随分とまともな顔になっているが、相変わらず顔色は悪い。
それが、何よりの証拠だった。

「……蓮子は?」

聞いた所で無駄だとわかってはいるけれど、急に死んだと言われてすぐに受け入れられるわけがない。

「さっき友達から連絡があって……あの、マエリベリーさん、本当にごめんっ!
 私の早とちりだったっぽくてさ。
 いや、早とちりって言い方もおかしいんだけど……」
「もしかして、生きてるの!?」
「うん、奇跡的に、植木に引っかかって減速したおかげでどうにか命は無事だったらしいの。
 家族が居ないと容体とかは聞けないんだけど」
「生きて、るんだ……蓮子が、生きてる……。
 あぁ……良かった」

思わず、安堵の吐息が漏れる。
とりあえず、生きてくれている。
諸々の問題はまだ残っていたが、蓮子とまた会える、今生の別れなんてことは無い。
それだけで、どれほど救われたことか。

「そういえば……病院は? どこに運び込まれたの?」
「中央病院、今はまだ処置室にいるから会えないと思うけど。
 もし病室に運ばれたとしても、自殺するような精神状態だし、しばらくは面会出来ないかもよ?」

それでも構わない。
とにかく今は、蓮子の近くにいたい。
彼女は”早とちり”と言ったが、それは蓮子が生きていたことに対してであって、蓮子が飛び降りたことを否定したわけじゃない。
つまり、彼女が自殺を試みたことは紛れも無い事実なのだ。
悩みがあるなんて聞いてなかった。
死にたいなんて一度だって言ったことも無いし、その素振りだって見せなかった。
直前まで、いつもと変わらず笑っていた。
何が蓮子を自殺にまで追い込んだのか、正直私には全く分からない。
私は、蓮子に一番近い人間だと思っていた。
大学に入ってからは家族よりも長い時間一緒に居たし、その時間の分だけお互いに理解し合えたと思っていた。
なのに、こんなことになって、私が蓮子のこと何もわかってなかったって気付かされて。
こんなの、じっとなんてしれられない。
まだ頭はくらくらするけれど、私の体調なんて後回しだ。
私は、例え這いつくばってでも蓮子の元へと向かわなければならない。





幸いにも、タクシーは大学の近くですぐに見つかった。
病院へと直行した私たちは、真っ先に窓口に向かい、蓮子について問い合わせる。
冷静になればすぐにわかることなんだけど、ただの友人である私達が聞いて、満足行く答えが帰ってくるはずもない。
興奮のあまりフロントの女性を困らせてしまったけれど、一緒に来てくれた彼女がたしなめてくれたおかげで、どうにか落ち着くことが出来た。
私たちは二人、隣合わせでロビーの椅子に座り、大きく息を吐く。
個人情報保護って名目がある以上、正しいのは病院に間違いないんだけど、どうにも納得出来ない。
私以上に蓮子に近い人間なんているもんかー! と、冷静さを取り戻した今でも、どこかにムキになっている自分が居た。

「マエリベリーさんって、意外と感情を表に出すタイプなんだ」
「私自身も以外だったわ、こんなに必死になったこと今まで無かったから」
「やっぱ親友だから?」

親友という一言で片付けられるほど単純な感情かは別として。
今はとりあえず、イエスと答えておいた方が無難だろう。

「うん、こんなに仲の良い友達初めてだから、きっと親友って呼ぶべきなんでしょうね。
 それがまさか、故郷じゃなくて日本で出来るとは思っていなかったわ。
 堂々と親友って呼ぶのは、今でもちょっと気恥ずかしいけど」
「羨ましい」
「あなただって蓮子と仲良いじゃない」
「マエリベリーさんとは扱いが違うんだよ。
 きっと蓮子にとって特別な存在なんじゃないかな、寝ても覚めてもマエリベリーさんのことしか考えてない感じ」

他人から聞かされると、現実味があってさらに恥ずかしい。
でも、嬉しかった。
どんなに私が蓮子のことを親友だと思っていても、相手がそう思ってるかどうかは私の主観じゃ判別出来無い。
それを他人から聞けたおかげで、少しだけ自信を持つことが出来た。
けど、もし蓮子が私のことばかりを考えているのが事実だとしたら――

「やっぱり、私のせいなのかな」
「いやいや考えすぎだって」
「でも、一番近くにいた私が気付けなかったのは、私自身に原因があったからって考えるのが自然な気がして」
「……もしかして、心当たりがある?」
「最後に話したのは、バイトの話だったから違うと思うんだけど……」
「バイトって?」
「大学のそばの喫茶店でバイトするから、去年ほど夏季休暇は遊べないって、そう伝えたの」
「ああ、あそこかあ。
 話がちょっとずれちゃうんだけど、ひょっとしてマエリベリーさん、背が高くてやたら気さくな男と会わなかった?」
「たぶん、会ったと思う。男の人は少なかったから印象に残ってるわ。
 あっちから話しかけてきて、と言っても話した時間は五分にも満たないんだけどね。
 もしかして知り合い?」
「あー、うん、高校時代からの知り合いなんだけど、今もたまに連絡取り合ってるぐらいの仲」

名前は聞いてないが、とても感じのいい男性だった。 
背も高いし、顔も悪くないし、性格だって良さそうだ。
けど、何より私が惹かれたのは――

「もしかしたら、私の勘違いかもしれないから否定してくれても構わないんだけど……あの男の人、蓮子に似てなかった?」
「言われてみれば。
 しゃべり方かな、それとも雰囲気? うまく説明できないけど、確かに似てるかも」

そう、蓮子に似ていること。
初対面の男性に対してある程度警戒心を抱いてしまう私が、急に話しかけられても平気だったのはそういう理由があったからかもしれない。

「でもバイトかあ、中学生とかならまだしも、高校大学でバイト始めたからってそんなにショック受けるようなことかな。
 ましてや自殺なんて、動機としては弱すぎると思う。
 その話をして、蓮子は何か変なリアクションしてた?」

普通と言えば普通で、だからこそ変と言えば変だった。
いつもの蓮子だったらもっと感情を表に出しそうな物なのに。

「やけに、素直だったかな。
 落ち込むと思ったからなかなか切り出せなかったのに」
「落ち込んで欲しかったんだ?」
「なっ……べ、別にそんなわけじゃないわよっ!」
「やーいやーいツンデレー」
「もうっ、違うってば」

これじゃ”そうです”と言ってるようなものだ。
そうだ、私はたぶん落ち込んで欲しかった、私と一緒に居られない事を嘆いて欲しかったんだ。

「蓮子も大概だけど、マエリベリーさんもなかなかだね。
 あーあ、相思相愛って羨ましいなあ」
「だからぁ、私たちはそんなのじゃないの!」

こんな状況でからかうなんて……気を使ってくれてるのかな。
おかげで、随分と心が軽くなった。
一人で塞ぎこんでるよりはずっといい。

「蓮子から聞いたけど、ご両親にも挨拶したんだって?」
「挨拶って、ただ遊びに行っただけよ」
「わざわざ東京の実家まで二人で遊びに行くなんて普通ありえないって。
 ほんとにただの友達なのぉ?
 ってそうだ、蓮子のご両親には連絡行ってるのかな?」
「あっ、蓮子の母親の連絡先なら知ってるわ」
「だからなんで友達の母親の連絡先を知ってるのよ……」
「それは……今はいいでしょ!
 とにかく電話して聞いてみるから、蓮子の容体も聞けるかもしれないし」

娘がビルから飛び降りたと聞かされた両親に連絡をするのも気が引けるが、背に腹は変えられない。
心配しているのは私達だって一緒なんだ、それに病院に居る私達にしか出来ないことだってあるかもしれない。
私はロビーから電話可能区域に移動し、アドレス帳から”蓮子の母”という文字を探しだす。
やがて流れだすコール音。
手のひらに汗を滲ませながら、私はいつもより強く端末を握りしめた。





……………





きっと彼女は知らないだろうけど、私はメリーという名前を呼ぶたびに、万感の思いに駆られるのだ。
メリーに出会うまでの人生全てを束ねても、メリーという言葉一つに敵わないぐらいに。
喜びも悲しみも、私の全てがその言葉に込められていたから。
まあ、元がゼロなわけだから、ゼロと比較したらそりゃあ何だって上になるのは当然の話なんだけど。

「メリー」
「なにー?」
「呼んでみただけ」
「だと思った」

そんなやり取りを何度も繰り返してしまうのは、そういう理由があるから。
名前を呼ぶだけでも十分だった。
だから、メリーが私の部屋に居る今の状況は十五分ぐらいあって。
肩を寄せてくれるシチュエーションまで含めると二十分ぐらいあるんじゃないかな。
それで満足しちゃえばいいのに、満ちれば満ちるほど、私はわがままになっていく。
その先を、さらにその先を。
私はわがままな自分に慣れていないから、自分を抑える術を知らず、欲望に抗えない。

「きゃんっ!?」

突然抱きしめられたメリーは、可愛らしく声をあげた。
柔らかくて、いい匂いがする。
人肌の温もりってこんなに心地よかったんだ。
やだなあ、これじゃあもう離したくなくなっちゃうよ。

「もう、何やってるのよ!
 このっ、このっ!」
「痛い痛いっ、ごめんってば、急にメリーが欲しくなったの」

本当はそんなチョップなんて痛くもなんともない。
メリーも本気で嫌がってるわけじゃなくて、恥ずかしがり屋だからそういうフリをしているだけ。
そっか、抱きつくぐらいは大丈夫なんだ。

「ほ、欲しいとかっ、そういう言葉使わないでっていつも言ってるじゃない」
「嫌よ嫌よも……」
「嫌いのうちです!」
「メリーの反応が可愛すぎるのが悪いんだって、ついついいじわるしたくなっちゃうし」
「かわいいって……」
「顔を真っ赤にして恥ずかしがるメリーが可愛くないわけがないじゃない、もう大好き」
「~~っ!」

てれれれーん、メリーの好感度が30上がった!
……ってな感じのアナウンスが流れそうなほどメリーは悶えてて。
ついに耐え切れなくなったのか、無理やり私を引き剥がして部屋を出て行ってしまった。

「どこいくの?」
「トイレっ!」

あの様子じゃ、頭が冷えるまでしばらく出てこないだろう。
部屋に一人残された私は、未だ体に残るメリーの温もりを噛み締めていた。



肩を寄せ合うのは許されて、手をつなぐのも許されて、抱きしめるのも許されて、けれどキスは許されない。
同性の境界線はそこにあった。
いくらメリーの好感度を稼いでも、許されない絶対の境界線が。
一度、酔っ払った勢いで無理やり迫ったことがあったんだけど、全力で拒否された挙句、思いっきしビンタされたことがある。
あとでメリーは謝ってくれたけど、実は本気だったって言ったら許してくれないんだろうな。
いっそ全部カミングアウトして、怒るメリーを見て楽しむってのも面白そうだけど。
だって、怒っても可愛いんだもん。
怒っても可愛い、笑っても可愛い、恥じらっても可愛い、泣いても可愛い、怯えても可愛い、壊れても可愛い。
どこを切っても可愛いってすごいよね。
金太郎飴と違ってそれぞれ違う形をしているのに、私の心を掴んで離さない。
その切断面すら、愛おしい。

ある日、メリーの首を折りたいと思った。
秘封倶楽部の活動という名目でメリーを工場に誘い込んで、ある機械に巻き込ませた。
鈍い音とねじれていく体、断末魔の叫び声すらなく、あの綺麗なメリーの喉から、屠殺場の牛のような声が漏れる。
見たかった光景とは少しずれていたけれど、普段のメリーとのギャップに、私の興奮は最高潮。
とにかくメリーで頭がいっぱいになって、自分を制御できなくなって、私も一緒に機械の中に飛び込んだ。
痛かったけど、メリーと混ざり合う感覚がとても心地よかったことを覚えている。

とにかく言いたかったのは、私は誰も知らないメリーの魅力を沢山知ってるってこと。
首に手をかけた時の反応とか、不意打ちで裏切られた時の絶望した顔、胸にナイフを突き立てた時の感触、目の前で死んでみせた時の悲しげな表情とかも、全部。
どこが弱くて、どこが平気なのか、体の外から内側まで、本当に全部の全部。

汚くても、腐っても、メリーはやっぱりメリーだった。
可愛い。綺麗。淫靡で、愛おしい。
知れば知る程好きになって、深入りするほど逃げられなくなっていく。
まるで底なし沼のように誘い込むものだから、私はメリーに溺れてしまっている。



体に残っていたメリーの感触は消えてしまったのに、未だメリーは戻ってこない。
暇していた私の前には、メリーの携帯端末が。
もちろん中を見たりはしない、友人のプライバシーは尊重しないとね。
けど、たまたま目に入ってしまった物にまで責任は持てない。
ちょうどメールか何かを受信したのだろうか、画面が点灯し、部屋に着信音が鳴り響く。
本文までは見えない。
しかし表示されるタイトルだけで、その内容をなんとなく理解出来てしまった。
トイレの方から音がする、そろそろメリーが戻ってくる頃だ。
私はキッチンの方に向かうと、引き出しからアイスピックを取り出す。
そして戻ってきたメリーが私の名前を呼ぼうとした瞬間――その先端を、メリーの喉元に突きつけた。

赤い花弁が舞い散る。
花になってもメリーはやっぱりメリーで。
この世のどんな花よりも、美しかった。





……………





私たちが病院に到着してから二時間後、蓮子の両親が病院にやってきた。
電話先では落ち着いていたけれど、蓮子の父の顔はいつになく神妙で、母の顔は血の気が引いて真っ青になっていた。
ロビーで私を見つけた二人は、重い足取りでこちらに近づいてくる。
電話でのやり取りで、蓮子の怪我が足の骨折と、軽い打撲だけで済んだことは知っている。
風が強かったせいで飛び降りるはずだった場所から随分と流されてしまったらしく、植木に引っかかり、しかも落下地点が植木の下の土だったおかげで、骨折程度で済んだとのこと。
ビルの八階から飛び降りてその程度の怪我で済んだのは、本当に奇跡としか言いようが無い。

「おばさん、大丈夫ですか?」
「メリーちゃん……ごめんなさいね、うちの蓮子が迷惑かけて……」
「おばさんが謝る必要なんてありません。
 今はとにかく、蓮子の顔を見に行きましょう」

蓮子の怪我の処置はすぐに終わり、意識はまだ戻っていないが、すでに病室に運ばれているらしい。
部外者である私も、家族同伴なら面会できるとのこと。
ここまで付き添ってくれた彼女にも一緒に来るよう言ったのだけれど、

「やっぱマエリベリーさんは特別なんだね。
 大丈夫、私はあとで元気になった時に会いに来るから。
 今は私が行くべきタイミングじゃ無さそうだし」

そんな事を言って、辞退してしまった。
私は蓮子の両親と面識があるから平気だけど、確かに普通は友人の両親と一緒っていうのは気まずい物なのかもしれない。

「ここまでありがとう」
「礼はいいって、蓮子が元気になったらまた一緒に遊びに行こうね」

そう約束して、彼女は病院を後にした。
ここまで一緒に来てくれたのに、今更仲間はずれにするのは気が引ける。
だけど彼女の好意を無碍にするわけにもいかない、これ以上引き止めるのは逆に失礼だろう。

彼女を見送った後、私は蓮子の両親に連れられて病室へと向かう。
病室は605号室、つまり六階にある。
首都なだけあって病院は非常に広く、たどり着くまでそこそこ時間がかかる。
だけどそれまでの間、蓮子の父は一度も口を開かなかった。
母親は何度か私に話しかけてくれたけれど、その会話も長くは続かない。
私も蓮子の両親と同じで、気が気じゃなかったから、話なんてできる状態じゃなかった。
病室の前にたどり着くと、緊張感は最高潮に達する。
父親が大きく息を吐き、扉の取っ手に手をかける。
部屋は四人部屋。
扉を開けた先、左手前が蓮子のベッドだ。
個々のベッドを遮るカーテンは最初から開いていて、その先にはベッドの上に座る蓮子の姿があった。

「あ、来た来た。
 看護師さんが両親に連絡取ったって言ってたから、そろそろかと思ってたよ」
「れ、蓮子……?」

思った以上に元気そうな姿に、私は思わず呆けてしまう。
それは蓮子の両親も動揺に。
とても自殺を試みたあととは思えないその姿に、あんぐりと口を開けている。

「え、なにその反応。
 まるで幽霊でも見るような顔しちゃってさ、私が元気なのが悪いみたいじゃない」
「蓮子、大丈夫なの!? ビルの屋上から飛び降りたって聞いたわよ?」
「お母さんったら何言ってるのよ。
 私は落ちただけで、飛び降りたりしてないって。
 そんなこと誰から聞いたの?」
「……へ?」

脳で処理出来る情報量を越えてしまったのか、蓮子の母親はその場でフリーズしてしまった。
確かに、自殺かどうかなんて遺書でもない限りは本人にしかわからないのに、意識を失っていた時点で自殺という情報が広まっていたのは妙な話だ。
私は友人の友人から聞いただけで、直接知ったわけではない。
両親も最初から自殺したこと前提で話を進めていたが、詳しい事情を知らない病院が両親に事態を伝える際に、わざわざ”自殺した”と言うだろうか。
おそらく、ビルの屋上から落下して怪我をしたと、そういう伝え方をしたはずだ。

「じゃ、じゃあ、自殺じゃ……ないの?」
「メリーまで、直前まで一緒に居たのになんでそうなるかなあ。
 あの時の私が自殺するように見えた? いつも通り、愛しのメリーと楽しくガールズトークしてたはずだけど。
 あ、あとお父さんの顔がすごいことになってるから、お母さん正気に戻してあげてよ」

蓮子に名指しされ再び動き出した母親は、父親の肩をもって激しく前後させる。
人形のようにガクンガクンと首が振れる父親を見て蓮子はケラケラと笑っていた。
およそ五秒ほど脳をシェイクされた結果、ようやく意識を取り戻した蓮子の父親は、気を取り直して蓮子に話しかける。

「はっ……す、すまない、少し意識が遠くに言っていたようだ。
 ビルの屋上から落下したと聞いたから、完全に飛び降りたものだと思っていたよ」
「やだなあほんと。
 お父さんも、一家の大黒柱なんだから冷静に状況を判断しないとね。
 人に騙されやすいのはお母さんだけで十分だよ」
「ああ、済まない。
 それにしても……蓮子が無事でよかった、本当に、本当にっ……うぅ……」
「あなた……」

目元を抑える父親は、泣いているように見えた。
そんな父親の方をさする母親の目にも涙が浮かぶ。
私も思わず泣きそうになってしまった所を、どうにかこらえた。
嗚咽でまともに話せない二人に変わって、私は最大の疑問点について質問を投げかける。

「でも、どうして蓮子はビルの屋上なんかに?」

自殺でないと言うのなら、相応の理由があるはずだ。

「私、景色がいいところ好きなんだよね。
 最近はなかなか屋上に入れるビルも無いし、あそこは私がようやく見つけた穴場だったってわけ。
 あーあ、私が落ちちゃったせいであの場所も使えなくなっちゃうんだろうなあ」
「まずは生きてたことを感謝しろ、この馬鹿娘!」
「あっはは、ごめんねおとーさん」

事故だろうが故意だろうが、助かったのが奇跡であることに違いはない。
風が強くなければ、飛び降りた場所が1メートル違っていれば、もう二度と蓮子とこうして話すことはなかったのだから。

「おかげさまで命に関わるような怪我もないみたいだから、二週間か三週間ぐらい入院したら退院できるってさ。
 しっかし、折角の夏休みなのに、いきなりこんな形で出鼻をくじかれるとはね。
 ごめんねメリー、バイト関係なしに、今年の夏はほとんど活動できそうにないよ」
「そんなこと言ってる場合じゃないわよ! まずはちゃんと休んで、リハビリ頑張って、怪我を直さないと」
「うん、そうさせてもらうわ」

やけに軽い蓮子の態度に違和感を覚えつつも、今は彼女が無事生きていることの安心感で胸がいっぱいだった。
その後、私たちはしばらく雑談を楽しんだ。
会話の中で蓮子が不自然な素振りを見せることはなく、両親はすっかり彼女の言い分を信じきっているようだ。
しかし私の中では、未だ違和感が拭えないでいた。
バイトの話を切り出した時も感じた、”あまりに軽すぎる”、その違和感を。



ビルで落下事故が起きたとなれば、最も損をするのはそのビルの管理者だ。
そのため、彼らは自己防衛のために自殺対策を施す。
それは私の故郷でも変わらず、屋上に入れないようにしたり、乗り越えられないフェンスを設置したり、様々な対策が講じられた。
田舎なら、未だに自殺対策が施されていないビルもあるかもしれない。
だが、この京都においてそんなに都合よく、何の安全対策もとられていないビルを見つけることができるだろうか。

過去、京都では若者の自殺が多発した。
かつての東京がそうだったように、人口密集地域において、人口の増加に比例して自殺数が増加するのは仕方ないことだ。
しかし異常だったのは、若者の割合が圧倒的に多かったこと。
未来ある若者が自ら死を選ぶ現状に頭を悩ませた議会は、突発的な自殺を防ぐために、とある条例を公布した。
ざっくり説明すると、高層建築物における自殺対策。
駅のホームにはフェンスが設けられ、自殺はほぼ不可能になっている。
最も割合の多い首吊り自殺や、薬物、練炭等を使った自殺は防ぐのが難しい。
その結果、消去法で決まったのが高層建築物からの飛び降り自殺対策。
議会は対策をしたというポーズを示すために、屋上への立ち入り禁止、あるいは自殺防止用フェンスの設置を”義務化”したのである。
その対策は、微小ながらも効果を発揮した。
少なくとも高層建築物からの飛び降り自殺は減少したのである。
もっとも、飛び降り自殺の割合自体が一割にも満たない程度なので、大した成果は無かったようだけど。

はて、蓮子はそんな京都の中で、どうやって飛び降りられるビルを見つけたのだろうか。
私がその条例を知らないとでも思っていたのだろうか。
それとも、知った上でわざとそう振舞っているのか。
とにかく、私にはとても蓮子の転落がうっかりミスによる物だとは思えない。
そもそも彼女は――



一旦蓮子の病室から引き上げ、私たちは三人で病院近くにあるレストランに足を運んだ。
五限目の講義が終わってからすでに三時間近く経過している、とっくにいつもの夕食の時間は過ぎていた。
だが、あまり食欲は湧かない。
それは私と向かい合わせに座った二人も変わらないようで、それぞれいつもより控えめに、量の少ないメニューを一つずつ注文することにした。
流れるのは重々しい空気。
突然、病院からかかってきた電話にはさぞ驚いたことだろう。
それから休みもせずに、東京から京都までやってきたのだ、疲れるのも当然だった。
あまり良い雰囲気とは言えなかったが、私も疲れているのであえて沈黙を破ることはしない。
そんな中、一番最初に口を開いたのは蓮子の母だった。

「あの子、高所恐怖症だったのよ。
 小さいころに遊園地に連れて行った時は、子供用のジェットコースターにも怯えるぐらいでね。
 大きくなってからも、旅行先で展望台に登っただけで嫌そうな顔をしていたわ」

私が抱いた違和感を、今まで育ててきた両親が気付かないわけがない。
それは私が蓮子と共に実家のある東京に向かった時にも聞いた話で、私の抱いた違和感の根拠の一つでもあった。

「蓮子は変わったわよね」
「私も初めて今の蓮子を見た時は驚いたよ」
「きっとメリーちゃんのおかげなんでしょうね、以前とは比べ物にならないぐらい明るくなったわ。
 ふふ、ひょっとすると高所恐怖症が治ったのもメリーちゃんのおかげなのかしら。
 こう言うのも何だけど、以前の蓮子はね、自ら命を絶ってしまいそうな危うさが……」
「やめなさい、ここで話すことじゃないだろう」
「……お父さん」
「マエリベリーさんには申し訳ないことをした、うちの娘の馬鹿に付きあわせてしまって。
 心の底から、お詫びしたい」

蓮子の父は深々と頭を下げる。
付き合ったつもりなんてない、私は自分の意志で、心の底から心配して蓮子の傍にいるのだから。
むしろ申し訳ないのはこちらの方で、仮に飛び降りた理由が自殺で無かったとしても、ビルの屋上に入り込むなんて馬鹿げたことを止められなかった私に責任がある。

「頭を上げてくださいっ、謝ることなんて何もありませんから!」
「私の気が済まないんだ」
「うぅ……」

こういうのは、苦手だ。
というか得意な人なんているのかしら。

「君のような子が娘の友達になってくれて良かった」
「そんな大げさですよ」
「大げさなんかじゃないわ。
 もしよければ、これから先も蓮子のことをお願いね」
「それは、言われなくてもそうするつもりです」

大の大人二人に頭を下げられるってシチュエーションは、何というか、とても困る。
料理が運ばれてこなければ延々と続いていたのかと思うとぞっとする。
ここまで感謝されるなんて、一体私に出会う前の蓮子はどんなに暗い女の子だったのだろう。
蓮子の実家で見せてもらった昔の写真は、確かに今では考えられないぐらい暗くて地味な少女だったけど。

……。
……本当は、全て、洗いざらい話してしまいたい気分だった。

感謝されるようなことはしていない。
それは本心からの言葉で、謙遜でも何でも無い。
”私のおかげで蓮子が明るくなった”なんて事実、この世に存在しないのだから。



私と蓮子の出会いは、前期授業が始まった初日、つまり四月六日のことだった。
講義室の場所がわからず、端末に写しだした地図とにらめっこしていた私に話しかけてきたのが蓮子だったのである。
初対面の割にやけに馴れ馴れしく話しかけてくる人だな、と思って最初は警戒していたのだけど、少し話しただけで警戒心はすぐに消え失せた。
相性が良かったのだろう。
初対面とは思えないほどに会話が噛み合い、すぐに私達は意気投合した。
特にオカルト関連の話については大いに盛り上がり、まだまだ話し足りなかった私たちは、その日の夕方に再び会う約束をした。
それが、秘封倶楽部結成前夜の出来事。
母親の話によれば、入学式――つまり四月一日の時点では、以前の蓮子と何も変わらなかったのだそう。
私の出会いまではたったの五日しか無い。
五日の間に蓮子に何が起きたのか、何が蓮子を変えたのか――今まで私は深く考えようとしなかったが、そこに蓮子が自殺するに至った原因があるような気がしてならない。
秘封倶楽部を名乗りながら、身近に潜む最大のミステリーから目を背けるなど名前負けもいいところだ。
私だって、その謎の主が蓮子でさえ無ければ向かい合いたかった。
好奇心より蓮子を失う恐怖の方が勝ってしまったのだ。
きっとそれは、踏み込めば後戻りできない闇。
先には私の理解を超えた事実が待っている、そんな予感があったから。





……………





気付けば全ては作業に成り下がって、ひたすらに考証と実験を行う日々が続く。
分岐条件。
好感度が百を超えると一年目の春を突破出来る。
次は三百、その次は千、さらにその次は……条件は時を経るたびに厳しくなる。
彼が容易く乗り越えるその壁を、私は血反吐を吐きながら、命をかけて、ようやく乗り越えることが出来た。
私の程度の低さを、見せつけられている気がした。

いくつかの壁を乗り越えて、望んだものを手に入れても、満ち溢れても、私の皿は空っぽのままだった。
私は無価値、何で塗り固めても、どんな仮面を被っても、ゼロにxを足してもxにしかならない。
無価値は、無価値のままだ。

全てを捨ててしまいたいとも思った。
こんなにつらい思いをするぐらいなら消え去ってしまいたい、と。
だが、お守りは気付けば枕元に置いてあった。
嫌になって破っても、切り裂いても、燃やしても、海に捨てたって、気付けば枕元に戻ってくる。
耳元に近づけると、中から少年の無邪気な笑い声が聞こえる気がした。
私の惨めな様は、彼らにとってさぞ楽しいショウなのだろう。

私が正気を失ったのはいつのことだったろう
ターニングポイントは覚えていない、そんなものは無かったのかもしれない。
逃げられないと気付き、それでも希望と絶望を捨てられない自分を悲観し、涙を流し、嘆いた。
やがて心は徐々に摩耗していき、正しい形を失っていく。
崩壊は、自分でも気付かないうちに徐々に進行していたのである。

最初は男を殺した。
突発的に、仲睦まじい二人の姿を見て、強い殺意を抱いてしまったから。
近くにあったコンビニでカッターナイフを購入して、バイト終わりで一緒に帰る二人の元へと向かう。
ルートはいつも同じだったから、すぐに追いつくことが出来た。
とりあえず手っ取り早く、憎くて憎くてしかたないあいつを殺した。
背後から近づいて、首に何度も何度もカッターを突き刺して。
これでメリーは私の物、そう思っていたのに、あろうことかメリーは端末を取り出し、警察を呼ぼうとした。
仕方ないので、私はメリーに掴みかかる。
拉致して監禁して躾ければこちらの物だ、あとはどうとでもなる。
だが抵抗は思ってた以上に激しく、揉み合いの末、彼女を地面に突き飛ばしてしまう。
メリーが倒れた方向にはちょうど階段があった。
こういうシーン、サスペンスドラマで見たことがある。
人間がそんなに簡単に死ぬものかと、見ていた当時は笑っていたけれど、あれは案外正しい描写だったのかもしれない。
人間は脆い、私が思っている以上に。
地面に倒れ伏したメリーは頭から血を流し、二度と動かなかった。
私はメリーを殺してしまったのだ。
怖くなって、メリーと男の死体を放置したまま、その場から逃げ出した。
息が切れ、肺が痛くなり、上手く呼吸できなくなっても、私は止まることは無かった。
荒い呼吸音が私の耳にまとわりつく、それを聞く度にもみ合っていた時のメリーの必死な形相が思い起こされた。
元から体力のない私が、そう長く走れるはずもない。
足がもつれ何度も地面に膝をつく、それでも四つん這いになって、とにかく遠くへ遠くへ逃げようとした。
たどり着いたのは、見知らぬ公園。
汗でべたつく顔を手で拭うと、手のひらは赤く染まった。
男の返り血が、私の顔を赤く染めていたのだ。
べたついていたのは汗などではない、血液だったである。
それを認識した瞬間、血の気が引き、全身が一気に粟立つ。
せめて顔だけでも洗い流そうと、公園にあるトイレへ向かった。
洗面台の鏡に映し出されていたのは、全身が返り血に塗れた、”あの男と似た姿をした女”。
ああ、なんて、醜いのだろう。
もちろん殺した。
首にカッターを刺して、何度も何度も突き刺して。
痛かったけど、殺さなくちゃならなかったから、鏡が血で見えなくなるまでそれを繰り返す。
死んだのは私だった。
首を裂いた私は、噴水のように頸動脈から血液を吹き出しながら、笑って地面に倒れ伏した。

それ以来、私の理性のタガは壊れたままだ。
殺したいと思えば殺す、抱きたいと思えば抱く、死にたいと思えば死ぬ。
時には神様の思惑に乗って、ゲームを楽しむこともある。
全ては気まぐれ、欲望に忠実に、憎悪に忠誠を近い、底辺まで堕落して。
最初の頃はメリーの死を嘆くこともあった、けれどいつの間にかそれすらも平気になって、何も感じなくなって、ついに彼女の命すら無価値になってしまったことに気づく。
私が無価値で、世界が無価値で、彼女が無価値だと言うのなら、私はどこに価値を見い出せばいいのだろう。
逃避すら許されず、今日も彼の笑い声が、まとわりつくように耳元に響く。
死んだ私を嗤う。
殺した私が笑う。
死ねなかった私も、誰かに嗤われている。

ああ、私は今日も、道化だった。





……………





食事を終えレストランを出た私たちは、その場で解散することにした。
私は自分の部屋へと戻り、蓮子の両親は病室へと戻る。
今日を含めて二日ほど泊まっていく予定らしい。
彼らにも仕事があるので、ただの転落事故だとわかった以上、それ以上京都に留まるのは難しいのだそうだ。
母親はそれでも残りたそうにしていたが、察した蓮子に拒否されてしまったんだとか。
明日は警察からの詳しい聞き取りがあるとかで、私は蓮子に会えそうにない。
再び会うことが出来るのは明後日だろうか。
それまでの間、彼女の無事が不安でしかたなかった。
解き明かすのなら早いうちでなければならない。
私の予感が正しければ――おそらく蓮子は、再び自殺を試みるはずだから。
明日は両親と警察による拘束があるため、早くても明後日だろうか。
残された時間は多くない。

部屋に戻ってすぐ、端末で検索エンジンを開き、とある神社の名前を入力する。
それは、彼女が常に身に着けているお守りの裏に書かれた名前だった。
ただのお守りに手がかりがあるとは思えないが、こんな夜に、部屋の中で調べられる範囲なんてたかが知れている。
まずは思いついたものから、片っ端に調べていくしか無い。
表示される検索結果、神社の所在地は――

「山梨県って、いつの間にそんなところに」

それに最寄りの駅からもあまり近くはないようだ。
蓮子の両親との会話の中で、不自然に思われない範囲で、聞けることは聞いておいた。
もちろんお守りについても。
母親によると、蓮子が東京を出るまでの間にそんなお守りを大事にしている様子は無かったとのこと。
何せ蓮子は京都に来る前、オカルトに興味なんてこれっぽっちも無かったのだから、当然のことといえる。
神社のご利益が学業成就なので、これからの大学生活に不安を抱いたためにお守りを買いに行ったのだと思えば不自然な点は無い。

「でもなー……もっと良い神社が京都にあるでしょうに」

山梨だって霊峰富士山のお膝元、ありがたみが無いとは言わないが、わざわざ足を運ぶほどだろうか。
入学式から最初の講義までに多少時間があるとはいえ、間にはガイダンスだってある。
暇どころかむしろ忙しいぐらいだったのに。
山梨へ向かった動機はこれしきの情報では推測できっこない。
さらなる手がかりを求めて、検索結果をスクロールしていく。
すると、神社の情報以上に気になるサイトを発見した。

「自殺名所案内、か。
 生きてるからこそ更新できるくせに、なんてとこ紹介してんのよ。
 ……って、更新止まってるし、洒落にならないわ」

管理人への突っ込みもほどほどにして。
なぜ神社の検索結果にこんな物騒なサイトが出てきたのか、蓮子の飛び降りと無関係とは思えないけど。
難航すると思っていた手がかり探しが思いの外順調なことに若干の不安を覚える。
いや、死のうと思っている人間だからこそ、余裕が無いから単純な手段に頼ろうとするのかもしれない。
サイトを開いた先にあったのは、自殺の名所として、とある樹海を紹介している文章だった。
いわゆる富士の樹海というやつだ。
海外に住んでいた私でも知っている、その筋では有名な自殺スポット。
けど、実際は樹海ツアーがあったり、ど真ん中に村があって民宿が立ち並んでたりと、割と普通の観光地だったりする。
もちろんコースを外れて森へと足を踏み込めば遭難してしまう場所ではあるが、ガイドさえ居れば迷うことだってないのだ。
結局、彼の地を自殺の名所足らしめているのは、こういった都市伝説じみた逸話を紹介するサイトだったり、本だったりするのかもしれない。
無責任ったらありゃしない。
ま、責任感があればこんな馬鹿げた与太話を書けたりはしないか。

「ふうん、お守りを持って死ねば神様が救いの手を差し伸べてくれるんだ。
 学業成就のお守りを持って樹海で死ねば、生まれ変わって人生をやり直せるって、一体どんな理屈なのかしら」

樹海で自殺は方法が限られる。
おそらく、そのほとんどが樹の幹にロープを巻き付け、首を吊って死んだのだろう。
縊死っていうのは、全身の穴から体液を垂れ流す、それはそれは汚い死に方だと聞いたことがある。
本人は楽らしいけど、そんな汚い死体を神様のテリトリーに晒しておいて、それで神様が喜んでくれると本気で思っているのだろうか。
私だったら怒り狂って、死ぬより辛い目に合わせると思う。
他のサイトを調べてみても、同じようなおまじないは見つからない。
つまりこれは、ここの管理人が勝手に考えた都市伝説とも呼べない妄想なのだろう。
だと、しても。
蓮子がこの神社のお守りを持っていたのは紛れも無い事実、そして自殺願望を持っていることも事実なのだとしたら、こんな与太話ですら信じてしまう可能性だって無いわけじゃない。
何せ自殺したいと思うほど追い詰められているのだから、与太話だろうが何だろうが縋り付きたいと思うのが人間って物じゃないだろうか。

「生まれ変わり、人生をやり直す……」

そして私も、与太話に飲み込まれる愚か者のうちの一人のようで。
私だってこんな神様を馬鹿にしたような話、信じたいわけじゃない。
けど、しっくり来てしまったのだ。
大学入学を境とした蓮子の異様なまでの変貌。
そして自らの死すらも笑って済ませる軽さ。
それが、おまじないの――神様の力なのだとしたら。

「……どこのSFよ、それ」

宇佐見蓮子は、同じ時間を何度も繰り返している、という仮説。
しかし、他に上手い辻褄合わせを思いつかないのも事実。
もし蓮子が、自分の意思で、地味な自分から脱却して、明るく人に好かれる人間に変わろうとしていたとしよう。
私に声をかけたのは、そのための第一歩だったのかもしれない。
それでもだ、付け焼き刃の変化じゃいずれボロが出てしまう、どこかに以前の形跡が残っているはずだ。
その点、私の出会った蓮子は一切そんなボロを見せることはなかった。
しかも、高校卒業までオカルトに興味が無かった割には、幼少期からオカルトを趣味としてきた私の知識を凌駕していた。
一週間やそこらの期間で取り繕った急造品とは思えない。
それを可能にする仮定はいくつかある。
宇宙人に出会って改造された。
寄生虫によって脳を冒されてしまった。
時間を引き伸ばされ、人より数百倍長い数日を過ごしていた。
新開発の機械によって無理やり記憶を植え付けられてしまった。
そして、同じ時間を、何度もループしてしまった。

「どっちにしたってフィクションの世界じゃないのよー!」

誰に向かってでもなく、自分自身に愚痴るように叫んだ。
どう足掻いても、一番確率が高いのはループ説だ。
現代の科学技術をもってしてもタイムマシンを実現するには至っていない。
だけど、科学に再現出来ない物が現実に存在しないのかと言われると、それはノーであって。
現にここにいるのだ、結界の境目が見える、そんな規格外の目を持った例外が。
科学を超えた力がこの世に存在することを、私自身が体現しているのだから、科学で無理だからと言って全てを否定することは出来ない。
もしあのサイトに書いてあるおまじないが事実だとしたら。
本当に神様が存在して、蓮子に力を貸しているのだとしたら。
私にもっと賢い脳みそがあれば、もっと現実味のある仮説が導き出せたのかもしれない。
けど今は、ループ説が事実だと仮定して考察を進めるしか無い。

私の妄想が正答である可能性は、限りなくゼロに近い。
とんだ妄言だ、はっきり言って考えるだけ無駄だと思う。
それでも可能性を捨てたくなかったのは、私なりに蓮子に出来ることを探したかったから。
ループしようと、自殺願望があろうと、たった一人の、誰よりも大切な親友であることに違いはない。
正直言って、親友って言葉も適当なのかわからないぐらいに好きだ。
出会った時から、一緒に居るだけで楽しかった。
話しかけられた瞬間から、大事な人になる予感が会った。
時に強引なこともあったけれど、引かれる手に従って付いて行くだけで、私の好奇心をどこまでも満たしてくれる。
私の欠けた部分を的確に埋めてくれる。
云わば、道標のような存在。
それが蓮子だった。
そして何より私が彼女に惹かれたのは――底抜けの明るさ、一見して曇り一つ無い笑顔の奥底に潜む、仄暗い正体不明の感情だ。
蓮子のブラックボックスとも呼ぶべきそれは、私の気のせいではないかと思うほど微かに、極稀に見え隠れするだけの存在。
名前も正体も知らない、大切な人に潜むその闇に、私の好奇心が強烈に心惹かれてしまっている。

「私も人のことは言えないわよね」

そんな闇に惹かれる自分自身が、私にとっての闇でもあった。
親友が自殺しようとしているのに、心の何処かで、蓮子に関する謎が解けそうな事を喜ぶ自分がいる。
蓮子の闇に充てられて生まれた物なのか、それとも元から私が有していたものなのか。
自分でも信じたくは無いが、次第に肥大化していることは間違いない。
ループ説を考察しながら私の体が熱くなっているのは、おそらく興奮のせいだ。
人の死を喜ぶなんて狂気的だと思う。
けど、今はその狂気を利用するべきだ。
自己正当化だろうが構わない、立ち止まってうじうじしているよりも、そっちのがずっと時間を無駄遣いしないで済む。

まず最初に、ループの条件について。
それは間違いなく、蓮子の死だ。
だからこそ蓮子は自らの死を恐れなかった、何度も繰り返してきたことを恐れる理由はない。
両親の前でも平気な顔をしていたのもそれなら説明できる。
自殺によって生まれる罪悪感は、自分の死によって遺された人に悲しみや苦労を背負わせることから来る物だ。
だが蓮子の場合は、死んだらまたやり直すだけ。
世界が繰り返されるのか、蓮子だけが再構成されるのかはわからないが、再び蘇ることは間違いないのだから、罪悪感など抱く必要はない。
再び自殺を試みる予感があったのも、一度目の自殺に失敗した蓮子が、次のループに移行するために、できるだけ早く二度目を試みたいと思うのは自然なことだろう。
だって彼女にとってこの世界は、もう捨てた物なのだから。

ならば、なぜ蓮子はこの世界を捨てようとしたのだろうか。
それは蓮子のループの目的を明かすことにも繋がる。
心当たりがあるとすれば、私がアルバイトの話をしたこと、だろうか。
食堂での昼食の後、私と別れて講義を受けている途中で何かを聞いてしまった、あるいは見てしまった可能性もあるが、それは私の計り知る所ではない。
だったら考えるだけ無駄だ、今は私の話が原因だった方向で考えてみよう。
なんで私がバイトを始めるからって蓮子が”今回”を諦める必要があるのだろう。
夏季休暇を一緒に過ごせないから?
それともバイト先に、何か、蓮子にとって都合の悪い物があるのだろうか。

『あの男の人、蓮子に似てるよね』

ふと、数時間前の、自分の言葉を思い出す。
確かに彼は蓮子によく似ていた、一緒に居る時の空気感というか、雰囲気が。
だがかつての、つまりループ前の蓮子は、母親の話や卒業文集、そして当時の写真から推測する限り、もっと暗くてネガティブな性格をしていたはずだ。
少なくともあの男の人と似た性格で、友達が多かったとは思えない。

「あの男が似てた……いや、でも昔の蓮子はもっと暗くて、地味だったはずよね。
 似たんじゃなくて、似せていったんじゃ?」

最初の頃の蓮子は彼に似ていないのだから、蓮子”に”似てると言うのは正しい表現じゃない、蓮子”が”似てたんだ。
彼に似て蓮子が得るものは何だろう。
そういえば、オカルト知識を得たのもおそらくループの後なのだから、それも織り込んで考える必要がある。
蓮子が最も求めているもの、長い時間をかけて得ようとしたもの。
私が初対面でも警戒感を抱かない男性。
私を凌駕するオカルト知識。
……いくら想像を巡らせても、答えは一つしか出てこない。
考え過ぎ、かな。

「うう、何顔赤くしちゃってんのよ私っ」

でも、どう考えてもやっぱり答えは変わらない。

「私、だよね」

しかも、近づくのだけが目的だとしたら、今の時点で十分に目的は果たしてるはずだ。
つまり、蓮子はまだ足りないと思っている。
友達にしては過剰なぐらいスキンシップして、一緒にお風呂入ったり、一緒の布団で寝たりしてるのに、まだ足りないって。
蓮子は一体、私に何を求めてるんだろう。

「いやいや、無い無い、それは無いからっ」

そう言いながらも、私の顔はさらに熱くなっていく。
一から十まで私の妄想なのに、勝手に思い込んで恥じらうなんて、そんなふしだらな子に育った覚えなんてないんだから!

もう、夜も遅いし、今日はここまで。やめにしておこう。
こんなの私にとって都合の良い妄想だ、考察でも何でもない。
何がループだ、何が私のためだ。
蓮子のことは、会って直接話したらいい。
明後日、面会時間になったら真っ先に会いに行こう。
講義をサボることになるのは痛いけど、蓮子の命がかかってるかもしれないんだから、それに比べたらどうってことない。
そして笑いながら、冗談っぽく聞いてみよう。
同じ時間を繰り返していること。
実は私のこと好きなんじゃないかってこと。
違ったら笑って終わり。
正解なら……正解なら、どうしようか。
蓮子の深い部分に踏み込むことになるんだろうけど、あの闇を、私が背負いきれるだろうか。
もし蓮子に好きとか、愛してるとか言われたらどうしよう。
抱きしめられるのは平気でも、それ以上なんて想像もしたことがない。
……。
……私は、蓮子のことが、好きだ。
あくま親友として、だけど、いやそれよりはちょっと上だけど、でも親友以上に相応しい言葉が見つからないぐらいの”好き”であって。
まあ、でも……好きって言葉が一緒なら、同じようなものだ。
ハグ以上って、つまりキスだろう。それ以上もあるかもしれない。
キスしたから何だ、キス以上があるから何だ。
蓮子を失うぐらいなら、それでもいい。
親友以上だろうがなんだろうが上等よ、受けて立ってやろうじゃない!





……………





母は昔から純粋な人で、ころっと騙される。
例えば電話でのセールス。
相手がちょっと口の上手い人だとすぐに返事をして、要らない水とか、よくわからない健康食品が届くことがあった。
父が居なければ、うちはとっくに破産していたかもしれない。
そんな母だから、私は気兼ねなく頼むことが出来た。
父は何やら医者と長話をしている、しばらくは大丈夫だろう。

「お母さん、私りんごが食べたいな」

私の思惑通り、母は近くのスーパーからりんごと、果物ナイフを買ってきた。
あとは簡単だった。
母が席を外している間に果物ナイフを枕の下に隠す。
両親が帰ったあと、看護師に見つからないようこっそり取り出して、引き出しに仕舞い込んだ。
痛み止めは飲んでいるが、それでも足は痛む。
この状態では移動もままならない、飛び降りなんて以ての外だ。
だが、手元にナイフがあるのなら話は別。
いつでも死ねる。
いつでも殺せる。
手元に刃物があるだけでこんなにも心が落ち着くことがあるなんて、最初に死んだ頃は思いもしなかった。

今回は、なかなか頑張った方だと思う。
なにせ二年目の夏までたどり着いたのだから、今までで最高記録だ。
メリーとの関係も良好だった、これ以上無いぐらいに。
とは言え、バイトに行くことが決まってしまったわけだし、これ以上の長居は無用かな。
どうぶち壊してやろう。
順調に育んできた友情ってやつを裏切る形で壊すのも楽しいかもしれない。
今までで一番仲がいいのだから、今までで一番絶望に満ちた表情を見せてくれるはずだ。
想像するだけで、興奮で痛いほどに胸が高鳴る、吐き気がするほどに脳が覚醒する。
よし決めた、殺そう。
殺して、終わりにしよう。
きっとメリーのことだ、明日の朝には顔を見せてくれるだろうから、その時実行しよう。
ああ楽しみだなあ。
今回は長かったから、感慨深いものがある。
せっかくだし、どうせなら記憶に残る、素敵な死に様にしたいものだ。





……………





カーテン越しに、蓮子の息遣いが聞こえる。
病室は四人部屋なのに、蓮子の向かいに居た女性が退院してから、この部屋には蓮子一人だけになってしまった。
息遣いが聞こえるというのは誇張でも何でもない、静まり返った部屋の中で、いつもより少し荒い呼吸音が聞こえるのだ。

「メリーなの?」

カーテンの前で一歩を踏み出せないでいた私に、蓮子が声をかける。
逃げ場を失った私は、覚悟を決めて私達を遮っていた幕を開いた。

「おはよう、蓮子」
「おはようメリー、来てくれると思ってた」
「大学をサボってまで来たのに、もっと驚いてくれてもいいんじゃないの?」
「私を驚かせたいなら、もっと意外性のあることをしないと。
 豪華絢爛なおみやげを持ってきたり、際どい衣装で迫ってみたり」
「退院したら水着ぐらいなら着てあげるわよ」
「私は全裸の方がいいかな。あ、靴下だけは脱がないでね?」
「調子いいんだから……病人が興奮したら、治る怪我も治らないわよ」
「興奮で新陳代謝が活性化して自然治癒が加速するって先生が」
「はいはい、脳内医師の話はほどほどにね」

いつもと変わらないやり取り。
蓮子の言葉や笑顔に裏があるようには思えない、やはり何もかも私の考えすぎだったんだろうか。

「立ったまま話をするのも何だし、そこに座ったら?」

蓮子に言われた通り、ベッドの横に置かれた簡易イスに腰掛ける。
変わった様子は、無い。
明るい笑顔と、笑顔の下に闇を潜ませた、いつも通りの蓮子だ。
けれど、いつもよりも闇が色濃く見える気がする。
手を伸ばせば触れられるほど、近くまで浮上しているような。

「それで、要件は何?」
「お見舞いが要件よ」
「本当に? メリー、一昨日の私の話も全然信じてなかったよね」
「わかってたんだ」
「付き合い長いからね。
 メリーが疑り深いことも、頭が良いことも、それ以外のことも、大体知ってるわ」
「でしょうね。
 だったら私からも言わせてもらうけど、私だって蓮子のこと結構知ってるのよ」
「例えば?」

蓮子に前回会ったのは一昨日のことだ。
昨日一日、私はお見舞いにも来なかった。
その一日を無駄に過ごしたわけじゃない、私なりに、妄想以外の手がかりを得ようと動いていたのである。

「実は手癖が悪い、とかかな」
「何の話してるんだか」

蓮子はとぼけてみせる。
演技をしているようには見えないが、私はすでに証拠を掴んでいる。

「蓮子が落ちたビルの管理人さんに話を聞いてきたわ。
 屋上は鍵がかかっていて入れないはず、鍵は管理人室にあるから紛失した覚えはないって。
 今も管理人室に鍵はあるし、別物にすり替えられたわけでもない、スペアキーを作ったこともないとか」
「まず勝手に入り込んだ私が悪いって所は認めるしか無いわ、昨日おまわりさんにもさんざん絞られたもの。
 でも、あのビルも条例を守ってなかったんだし、言い訳ぐらいするでしょうね」
「本当に言い訳かしら?
 私がちょっとおだてたら、こっそりと教えてくれたわ。
 いつも昼になると近くのコンビニに昼食を買いに行く、面倒だから管理人室は施錠してなかったってね」
「まさか、私が盗んだとでも言いたいの? それで手癖が悪いって?
 そこまでして景色を見たいとは思わないわよ」
「そう、景色を見るためだったらそこまでしないと思うのよ。
 鍵を盗むのなら、もっと明確な――例えば飛び降り自殺するために、セキュリティの緩いビルを探してた、ぐらいの理由が無いとね」
「疑り深いなあ、だから飛び降りじゃないってば」
「付き合い長いって言ったでしょ。
 嘘かそうじゃないかぐらいすぐに見抜けるわ」

蓮子は呆れたように、あるいは諦めたようにため息を吐いた。

「……かなわないわね」
「私を誰だと思っているの? 秘封倶楽部のマエリベリー・ハーンよ、宇佐見蓮子のことは何でもお見通しだわ」
「なにその私が言いそうな台詞」
「ちょっと真似してみただけよ、案外恥ずかしかったわ」
「メリーのそういうとこ、すっごく可愛いくて、愛おしいわ」
「ありがと、嬉しい」

いつもだったら可愛い止まり。
だから愛おしいというフレーズが、蓮子の気持ちが揺らいでいることを証明していた。
図星、かな。

「たぶん蓮子は、管理人さんが外出してる間に鍵をすり替えたんじゃないのかな」
「すり替えられたわけじゃないって言ったばかりなのに?」
「蓮子の言うとおり、あのビルの管理は適当だったのよ、建物自体も古かったしね。
 屋上は施錠確認をするだけで、毎日鍵を差し込んで見回りをしているわけでもなかった。
 それを知っていた蓮子は、一日だけならすり替えてもバレないと思い、鍵についていたタグを付け替えて、予め用意しておいた別の鍵を管理人室に戻した。
 いくら管理人とはいえ、いちいち鍵の形なんて覚えてるわけがないものね、普段使わない鍵なら一日ぐらいなら誤魔化せるんじゃないかしら。
 そして翌日、スペアキーを作った蓮子は再び管理人室を訪れ、管理人室から入れ替えた鍵を回収し、本物の鍵を元の場所に戻した」
「それで私の手元には作ったばかりのスペアキーが残った、と」
「どうかな、私の推理」
「推理ってほど大した物じゃないとは思うけど……」

蓮子は上半身を捻り、ベッドの傍らにある引き出しに手を伸ばす。
中から取り出したしたのは、小さな銀色の鍵だった。

「正解よ、全部メリーの予想通り」
「本当は自殺だったって所まで?」
「……かなわないわ、ほんとに。
 ええ、メリーの言う通りよ、私は死にたかったの、死んでるはずだったの」

ついに、認めた。
相変わらず蓮子は笑ったままだったが、闇はさらに色濃くなる。
真相に迫っている、その実感があった。

「もしかしてメリー、私が自殺しようと思った理由まで気付いてる?」
「今から仮説を披露しようと思っているけど、ジュブナイル小説じゃないんだからって笑われそうで不安になっているわ」
「ああ、なるほどね。
 すっごいなあ、まいっちゃうなあ。
 メリーってさ、頭は良いし優等生タイプなんだけど、それでいて柔軟性もあるんだよね。
 オカルトは全て科学の力で証明出来るなんて言い出さないし、理解できない現象に対しても拒絶反応を示さない。
 だからこそ、かな。うん、たぶんそれ正解だよ」

ジュブナイル小説というフレーズでピンときたのか、内容を話すよりも前に、蓮子は断言した。
宇佐見蓮子ループ説は、正解であると。

「そうやって肯定されると困るわ。
 私自身、笑われること前提で話すつもりだったんだけど」
「笑われるかもしれないって思ったのに、どうして話そうと思ったの?」
「蓮子のこと、もっと知りたかったから」
「私の、どんな?」
「奥底にある、闇を」

そこで初めて、蓮子の笑顔が崩れる。
ちょうど私と蓮子の両親が元気な蓮子の姿を見た時のように、驚きのあまり大きく目を見開いて。
すぐに笑顔は戻った。
だがそれは以前とは違う、口を歪ませたという表現が相応しい、不気味な笑顔だった。

「そこまで気付いてくれたのは、今回のメリーが初めてだよ」
「たぶん、私が気付けたわけじゃない。
 蓮子が隠せなくなっただけだわ」
「あー……そういうこと、ついに普通のフリをすることすらできなくなったってことか。
 だったら、もう隠したって無駄かな」

蓮子は布団に腕を突っ込むと、何かを探るようにもぞもぞと動かし、探し当てたそれを握りしめ、勢い良く手を引き抜いた。
それがナイフであると気づいた時にはすでに遅かった。
鈍色の刃が、私の首に触れている。
息が止まる。
体が固まる。
予想だにしていなかった展開に脳内回路は完全に空転する。
まともに思考ができず、私はただ、変わらず笑い続ける蓮子を見ることしかできなかった。

「びっくりした?」
「びっくり、してるわ。現在進行形よ」
「その割には冷静じゃない」
「一周回って落ち着いてるのよ、心臓だけ冗談みたいにバクバク言ってるわ」

言葉に嘘はない。
今にも破裂しそうなほど心臓は強く鳴り響き、背中から冷や汗がぶわっと吹き出す。
蓮子の表情からは、殺意はおろか悪意すら読み取れない。
私が闇と称したその感情ははっきりと表に出ていたが、それは殺意でもなければ憎悪でも無い。
初めて見る、蓮子の形だった。

「さあメリー、大体何を言われるか想像ついてるけど、仮説ってやつを話してみてよ。
 せっかくだし、答え合わせってことで」
「話し終えたらどうする? 私を殺すの?」
「うん、殺す。
 大丈夫、そのあと私も死ぬから」
「死んで、どうするの?」
「死んで……どうする? 何言ってるのメリー、死んだら終わりだよ。
 それとも、メリーは何か知って――ああそっか、もう答え合わせは始まってるってわけね」

最初は、まともに会話すら出来ないだろうと思っていた。
恐怖はあって、体も震えている。
それでも淀むこと無く、すらすらと話せているのはなぜなんだろう。
恐怖を凌駕する別の感情が、私を支配しているとでも言うのだろうか。
だったらその感情の名前は、一体――

「死んでも、また最初から繰り返すのよね」
「イエス」
「私と出会う前から」
「イエース」

蓮子は私の答えに対して、イエスと一言だけ、場違いな陽気さで答えた。
少しでも言葉が止まると、刃の冷たい感触がさらに強く首に押し付けられる。
話し終えても殺す。
話さなければ殺す。
無言で理不尽な要求を突きつけられているのに、私は、あろうことか……喜んでいた。
憧れだった蓮子の闇を目の前にして、蓮子と不思議を探したあの夜のように、いいやそれ以上に、私の心は満たされている。

「動機は何だと思う?」
「……私?」

自意識過剰と言われないか心配になりながら、小さな声で答える。

「せいかーい。
 私はさ、この物語での立ち位置はただの通行人Aに過ぎなかったの。
 台詞すらない、存在意義も無い、エキストラ以下の、たまたまカメラに写り込んでしまった一般人。
 何の取り柄もない、外にも自分にも興味を持てない、無価値な木偶の坊。
 でもね、そんな通行人Aがいっちょ前にメリーに恋しちゃったわけよ、失恋しただけで死にたくなるぐらい重い重い恋を、脇役のくせにね」

恋だと、はっきり言われてしまった。
これでもう親友だと言い訳することも出来ない。
いや、それはもうどうでもいいことだ、蓮子に会いに来た時点で覚悟は決めていたのだから。

「私も、蓮子が好きよ」
「メリーならそう言ってくれると思ってた。
 最初の頃の私ならそれでも納得したのかもしれないけどね、今はもう、駄目なのよ。
 気付いてしまったの、私を評価して、私を好きだと言ってくれる人たちは、みーんな私のことなんて見てないんだってことに。
 どうしてかわかる?」
「彼を、模倣したから?」

喫茶店で働く、あの男を。

「そう、その通り! そこまで気付いてくれるなんて、本当に愛おしいよメリー!
 私はメリーに近づくために、好みに最も近いあの男を真似しようと思い立ったわ。
 何度も何度も繰り返していく内に、模倣の精度は上がっていき、私は私を消すことに成功した。
 精巧な仮面を被って、やがてあの男よりも先にメリーに近づけるようになった。
 あの時は嬉しかったなあ、やっと私もこの地獄から解放されるんだって早とちりして、小躍りするぐらい喜んでた。
 ほんと道化よね、オーディエンスたちも大爆笑してくれたんじゃないかしら。
 どうしてすぐに気づかなかったんだか、私が女で、あいつが男だってことに。そしてレプリカは所詮レプリカでしかないんだってことに」

たぶん私は、蓮子を友人以上として見ようとはしなかった。
蓮子を友達として傍に置いて、あの男と近づき、恋人になっていた。
今回だってそうだ、自殺という非日常が無ければ、蓮子の心に踏み込もうとは思わなかっただろう。
私がバイトを始めるということは、あの男と私の距離が近づくということを意味する。
それだけで諦める必要があるのかと疑問を投げかけたいが、そこには蓮子の経験則があるんだと思う。
きっと、バイトを始めた時点でもう手遅れなんだ。運命のように、私とあの男が結ばれることが確定してしまう。

「本当に憎たらしい。
 あの男さえ居なければ、っていつも思ってるんだけど、あの男が居なければ私がメリーに近づくこともなかったかもしれないのよね。
 とんだジレンマだわ」
「もしかして、だけど」

蓮子の吐き捨てるような言葉、そして私の首に密着するナイフの刃を見て、私は一つの仮定にたどり着く。

「彼も、殺したの? こうやって、ナイフを突きつけて」
「ナイフとは限らないでしょう?
 一度や二度じゃない、数えるのが億劫になるぐらい、何度も、何度も殺してきたんだから。
 さすがの私も刺殺だけでは飽きてしまうから、退屈しのぎに色とりどりの殺害方法を試してきたわ」
「そんなに、そこまで……」
「あの男にそこまでしなくても、ってメリーは言いたいの?」
「違うわ。
 そこまでして……人を殺してまで得るような価値が、私にあるのかと思って」

あの男は、正直どうでもいい。
初対面で多少話しただけで、それだって”蓮子と似ていたから”という理由あってのことだ。
留学生というちょっと変わった立場ではあるけれど、はっきり言って私は、そこまで男性に言い寄られたりはしない。
あの男は馴れ馴れしく話しかけてきたけれど、あんなの初めてで、例外中の例外だ。
魅力的な人間なら他にいくらでも居ると思うし、どうして私でなければならないのか、その理由が私には理解できなかった。
すると蓮子はまた驚いた顔をして、またすぐに笑い出した。
今度は声をあげて、肩を震わせながら。

「10月のある日、私が学食でA定食を頼むとね、メリーは通りすがりの男子学生とぶつからずに済むの」
「……?」
「11月のある日、暇だった私がメリーの講義に紛れ込むと、不思議な事にメリーが飲み会に誘われることは無かった」
「ど、どういうこと?」

蓮子が何を主張したいのかが掴めない。

「私が彼女と友だちになったのもそう、必要だからそうしたの。
 可能な限りメリーが他人と接触しない選択肢を私が選んできたってだけの話よ。
 放っておくとすぐに私以外の所に行こうとするんだから、ここまでたどり着くのに苦労したわ」
「蓮子が、コントロールしてたってこと?」
「そうよ、だってメリーの価値を知っているのは私だけでいいんだから。
 人を殺してまで得るような価値があるか、ですって?
 ふふ、ふふふ、あはははははっ! 愚問よ、笑わせないで、メリーはどれだけ自分を過小評価するつもりなの!?」

私と他人との接触を断とうとした時、操る必要があるのは私だけじゃない。
もちろん蓮子に人間を操る能力などあるわけもなく、単純にそれだけの回数を繰り返し、積み上げられた経験によって適した選択を繰り返してきたんだろう。
それにしたって、一体どれだけの試行回数を繰り返せば、そこまでの大人数をコントロール出来るのだろう。
百回や二百回程度でどうにかなる物なのだろうか。
千回、あるいは何万回と繰り返してようやくたどり着ける境地。
それだけの年月、私だけに執着して繰り返すなんて、まともな精神をしているとは思えない。
狂っている。
ああ、そっか。
蓮子の奥底に潜み、私を惹きつけてやまないその闇の正体は……狂気、だったんだ。

「私まで殺そうとするのは……」
「死んだ後の世界で、メリーが私以外の物になるのは嫌だから」
「殺して、きたんだ」
「ええ、おかげで私は、メリーのハラワタすら愛せるようになった」

蓮子は私の胸へと視線を向けた。
私の心臓をくり抜いた時のことでも思い出しているのだろうか、その視線はいつになく熱っぽい。
私の胸も、蓮子の視線を受けて熱く滾っていた。

「全部神様のおかげだわ、ほんと、感謝してもしきれないぐらい」
「あのサイトに乗ってたおまじないね」
「そっか、あのサイト見たんだ。
 馬鹿げた話だって思ったでしょ?
 私も最初は信じてなかったの、万が一にでも、奇跡に事実だったらラッキーかなって、それぐらいの考えで実行したの。
 あの胡散臭いおまじないで神様なんて呼べるわけ無いって思うじゃない、普通。
 まさか本当に、神様と会えるとは思ってなかったわ」
「会ったの?」
「会っちゃったの。
 性格も悪ければ趣味も悪い、残酷極まりない樹海の神様。
 でも、ある意味で人間に近いとも言えるのかな。
 だって考えてみてよ、首吊死体って、全身の穴という穴から体液や排泄物を垂れ流しにするのよ?
 そんな産業廃棄物以下の代物を見せつけられて、それでいて”助けてくれ、人生をやり直したい”って頼まれるなんて、私だったら全力で拒否するわ」

でも、神様は蓮子の願いを叶えた。
人智を超えた力を使って、おまじない通り、蓮子の人生をやり直させた。
何度でも、何度でも。

「百回ぐらい繰り返した頃だったかな、馬鹿だった私はようやく気付いたわ。
 神様は願いを叶えたんじゃない、叶わない願いだからこそ、私たちにチャンスを与えた。
 樹海に汚らしいオブジェをぶら下げた私への罰ってわけ。
 善意で助けたわけじゃない、あいつらは、足掻く私を見て笑ってるの。
 今もどっかで私達のやり取り見て、下品にゲラゲラと笑ってるはずよ。
 ね、私に負けないぐらい悪趣味でしょ?」

叶わない願いなんてあるはずない――そう伝えたかったけど、生き証人がそれを許してはくれない。
蓮子の痛みを理解できていない私がありきたりな言葉で説得したところで、蓮子を納得することはできやしない。
殺されて、終わりになるだけだ。
それでも止めたいって言うんなら、私は私の言葉で、想いを伝えるしか無い。
ハリボテなんかじゃない、蓮子の根底に潜んでいた、闇に向けて。

「神様は知ってたの、過程はどうであれ、メリーが必ずあの男と結ばれるってことを」
「運命なんて存在しないわ」
「人間に死って概念がある以上、絶対の運命なんて存在しないでしょうね。
 でも私は知っている、人間をある方向へ向けて導く力の存在を、そしてそれこそが私達人間が運命と呼ぶ力であることを」
「私はそんなものに動かされないから」
「もう遅いって、私が何度試してきたと思ってるの?
 私とメリーが出会ったあの日、あと1分でも声をかける時間がずれていたら、メリーは私ではなくあの男と出会う。
 それだけじゃない、私が講義をサボらなければメリーはあの男と出会うこともあれば、私が風邪を引かなければあの男と出会うパターンもあったわね。
 きっと、私とこうして話してる事こそがイレギュラーなのよ。
 歪んでいる、幸せじゃない、メリーがあの男と結ばれることこそが正しいありかたで――」
「私には関係ないっ!」

少なくとも、今の私には。
蓮子しか見てないのに、蓮子のことしか考えてないのに、どうしてあの男と結ばれるなんてことがあるだろうか。
でも、私がどんなに熱を込めて蓮子に語りかけたって、その心には届かなかった。
ナイフは以前、首に触れたままだ。

「私はしっかり蓮子のを事を見てるのにっ」
「色んなことに自信が持てずに生きてきた私だけどさ、一つだけはっきり言い切れることがあるのよ。
 それはね、本来の私を愛してくれる人間なんて誰も居ない、ってこと」
「そんなのは、見せてくれないとわからないじゃない」
「見せたわ、見せてきたのよ、メリーにたどり着くまでの人生で何度も、何度も!
 だから誰よりも知っているの、友人も両親も、本当の私自身には興味なんてこれっぽっちもないんだってことを!
 メリーにたどり着いてからも何万回と見せてきたわ。
 最初のうちは繰り返せば私でもなんとかなるんじゃないかと思って、痛い思いして、苦しい思いして、何度も何度も死んで生きて死んで生きてっ、その度に見せつけてきたのっ!
 なのにっ、なのにメリーはっ、一度だって振り向いてくれなかったじゃない!
 元のっ、仮面をつけてない私じゃ会話を交わすことすらかなわなかったの!
 無視して、他の連中と同じように指差して、気持ち悪いって馬鹿にしてきたこともあったくせに……くせにぃっ、偉そうなこと言うなよおぉぉぉぉぉっ!」

叫び声が、病室だけでなく廊下にまで響いた。
今、私が見ている蓮子は、狂っていて美しい。必死で可愛い。
けれど違う生き方をした私が今の蓮子を見て、果たして同じように蓮子を尊く思えるだろうか。
答えはノーだ。
あるいは、私が蓮子を馬鹿にする未来だってあったのかもしれない。
陰口を全く叩かないで生きていけるほど、私は綺麗な人間じゃない。
教授の悪口なんかは、蓮子と一緒に愚痴る途中で何度も繰り返してきた。
蓮子はそんな私を見るたびに、私に罵倒された過去を思い出しているのだろうか。
強い愛情を感じる。
けれどその中に、憎しみというエッセンスが一滴混じることで、感情は穢れてしまった。
狂気を、孕んでしまった。
申し訳ないとは思う、けれど違う世界の私の罪まで償うことはできない。
そんな私では、蓮子の爆ぜる感情をぶつけられ、立ち尽くすことしかできなかった。
立ち尽くして、黙りこんで、うっとりと、蓮子の狂気に惹かれることしか。

異常を察知したのか、足音がこちらに近づいてくるのが聞こえた。
この状況を見られるのは、まずい。
警察でも呼ばれようものなら、蓮子は間違いなく自ら命を絶ちリセットするだろう。
だが、蓮子は看護師が近づいているのに気づいていない。
気付いていたとしても、まともにたしなめられそうにない。
だったら、私が止めるか、誤魔化すしかない。
そんなのどうやって――首にはナイフがあてられ、蓮子は狂乱していて話を聞いてくれそうにないってのに。
しかも一歩間違えれば、私は死ぬ極限の状況だ。
私自身も冷静な判断を下せる状態じゃないってのに、この状況で正しい判断なんて、とてもとても出来そうにない。

「私がどんなに自分自身を殺したって、メリーはあの男の元に行っちゃうのよっ!
 触れることすら許されなかった唇を容易く許して、見ることも許されなかった股ぐらを淫らに開いて、汚らわしいあの男と獣のように愛し合うの!
 メリーも獣になって、湿った音と体液を撒き散らして…ああぁ、気持ち悪いっ、気持ち悪いっ、気持ち悪いぃっ!
 うぅ、やだ、いやだ、そんなの嫌だっ! 思い出したくもない、あんなおぞましい光景、記憶から消してしまいたいッ!
 なのに、忘れらんないのぉ! なんで? どうしてぇっ!?
 幸せな記憶なんてすぐに消えるくせにっ、沢山残しておきたいのに気付いたらどっかに飛んで行くくせにっ、なんでこんなものだけ残るのよおぉぉっ!
 ねえ、こんなの嫌だよね? 私も嫌、メリーも嫌、でしょ? 汚物よりも男なんかとまぐわうなんてっ!」

嫌だ。
私だって、そんなのは嫌だ。
名前も知らない、一度会話を交わしただけの男に体を許すほど安い女じゃない。
そんなどこの馬の骨と交わるぐらいなら、蓮子と交わった方が――
――いや、違う。
仕方なしにじゃない。
私は蓮子が好きだ、友達としてでなく、親友としてでもなく、劣情を抱いてしまうほどに恋をしている。
だって、蓮子に狂った眼差しを向けられた、私の体はこんなに熱く疼いているのだから。
私だけの、私のための、繰り返しの果てに生み出された、そのあまりに強い狂気が、心の底から愛おしい。
狂ってまで私を愛してくれる蓮子の、全てが欲しい。
それは他の誰も持っていない、誰の真似でもない、世界でたった一つの、蓮子だけが持つ価値だ。

「嫌って、言って。
 言ってよぉっ……なんで言わないの、どうして黙ってるの?
 言って、言って、ねえメリー――言えよぉっ、言ええええぇぇぇっ!」

蓮子のボルテージが最高潮に達する。
ナイフを握る手にぐっと力がこもり、今にも刃が私の皮膚を切り裂きそうになる――その瞬間、私は動いた。

「むぐっ!?」

私は蓮子の手首を掴み、抵抗されるよりも前に、その唇を塞ぐ。
もちろん、唇で。
ガチッと前歯が衝突し、上唇が熱さと痛さが広がる。
もっと柔らかい、唇の感触が味わえると思ってたのに、前歯がぶつかるなんてそんなの聞いてない。
泣きたいぐらい痛かったけど、泣いてる場合じゃない。
すっかり正気を失った蓮子に私の気持ちが届くかはわからないけど、やるしかないんだから。
ナイフを突き付けていた腕から力が抜けていく。
看護師はもうすぐそこまで来ている。
私は蓮子の手を掴むと、ナイフが私の体の影に入るように引っぱった。

「宇佐見さ……えっ」

部屋の様子を確認しにきた看護師の声が途中で止まる。
顔は見えないが、おそらく呆然と立ち尽くしているのだろう。
だが私たちはお構いなしにキスを続ける。
それどころか、蓮子は何を考えているのか口内に舌を滑り込ませてきた。
そのまま、血の味が特に強い前歯と、その周辺の唇に舌を這わせる。
まるで私の血液を味わうように。

「えっと、あの、うさ……みさん?」

あたふたと慌てる看護師をよそ目に、私達のキスはさらに熱を帯びていく。
私の負けじと蓮子の口内に舌をねじ込むと、血の味が舌先にじんわりと広がった。
お互いに血を求め合う異様なシチュエーションに、私の感情は今までにないほど高ぶっている。
私、目以外はまともな人間だと思ってたんだけど、どうも違うみたい。
蓮子の狂った表情に惹かれて、自分の血とは少し違う味に酩酊ように体を熱くして。
どうしよっか、蓮子。どうやら私達、お似合いみたいだよ。
蓮子ほどじゃないかもしれないけど、私も中々どうしていかれちゃってるみたい。

「……し、失礼しましたっ」

気まずさに耐え切れなくなったのか、ついに看護師は部屋から去っていった。
これ以上誤魔化す必要は無いので、一旦顔を離そうとすると、蓮子の手が私の後頭部に回される。
そのままがっちりとホールドされて、自由に顔を離すことすらできなくなってしまった。
再び、ねっとりと唾液の絡んだ舌が私の口の中に入り込んでくる。

「ん、ふっ」

思わず声が漏れてしまうほどの甘い痺れが、絡まった舌をねっとりと包んだ。
まだ話したいことがたくさんあるんだけど……まあ、いっかな。私も、もっとキスしてたいし。
想いが通じた以上、話なんて後回しでもいいんだから。

病室に湿った水音が響く。
その音は、二人が落ち着きを取り戻すまでの数分間、止まることは無かった。





……………





「ファーストキスは、メリーの死体とだったわ」

どうせ繰り返すのなら、一度ぐらいめちゃくちゃに犯してしまえばいい。
正常だった私は、その発想には至らなかったどころか、無理やり唇を奪うことすらしなかった。
我ながら優しすぎると思う、どうせリセットできるのだから好き勝手やればいいのに。
そんなこんなで、私とメリーがキスをしたのは、メリーを二度目に殺した時だ。
あの時は、男を殺した後に狂乱するメリーをスタンガンで眠らせようと思っていたのだけれど、結局非力な私ではどうしようもなくて、もみ合いの末につい殺してしまったのだ。
部屋に連れ込んで好き勝手しようと思っていたのに、だ。
後の展開を期待してか、私の体はとっくに熱く火照っていた。
冷ます方法を探して、だったら”これ”を使えばいいと考え、私は欲望に従った。
その時、私はメリーと初めてのキスをしたのである。

「そんなのノーカウントよ」
「生きてるメリーとも何度もキスをしてきたわ」
「同意は?」
「無かった」
「い、一回ぐらいは」
「あるわけないじゃない」
「うわあ、ガード硬いわね私、今なら何されても構わないのに。
 そうだ、だったら、今のがファーストキスでいいでしょう?」

血の匂いがするという点では死体とのキスと一緒だったけれど、その感触は、私が今まで交わしてきたどんなキスよりも濃厚で、官能的だった。
メリーの死体を眺めて興奮してたのが馬鹿みたいに体が熱くて、しばらく戻りそうにない。
今だって本当は、すぐにでもメリーを押し倒して襲いたい気分だった。
この足さえ無ければ。
私の馬鹿野郎、なんで飛び降りなんてしたんだか。
合法的にメリーの唇が奪える貴重な機会だったのに。

「その前に、聞かせて」
「蓮子のことを愛してるかってこと?」
「そう。だって、どうせ……」

どうせ、明るくていつも傍に居てくれる宇佐見蓮子が好きだとか、そんなありきたりな言葉しかくれないんでしょう?

「私のために狂ってくれた蓮子が好き。
 死んでまで愛してくれる蓮子が好き。
 死体まで愛してくれる蓮子が好き。
 ……それじゃ、満足できない?」
「なに、それ」

わけがわからない。
狂っていて、命を狙っていて、そんな私が好きって、メリーは頭がいいんだから、もっとも上手い方弁は見つからなかったのだろうか。
ああ、それならそれでもいい。
好きって言ってくれるのならお望み通り、殺して、死んでやろうじゃないか。

「今まで蓮子が見てきた私の行動もね、気持ちはわかるのよ。
 たぶん私にとっての蓮子は、オカルト仲間で、最大の理解者で、一番の親友だった。
 そこまででしかなかったの」
「今だって変わらない」
「いいえ、決定的な違いが一つあるわ」
「一体どんな? 私が納得出来るようなこと?」

メリーは鼻と鼻が触れる距離まで顔を近づけると、まっすぐに私の目を見てこう言った。

「蓮子の目よ」
「目?」
「揺れているわ」
「それは、さっきまで叫んでたから、疲れてるだけよ」
「違うの、出会った時から、その大きさは違っても本質は変わってない。
 人懐っこくて、明るくて、いつも笑顔を忘れない、私が知っている蓮子はそんな人間だったけど、ただ一点、曇っている場所があった。
 それが――蓮子の目、だったの。
 表面上は明るく振舞っているくせに、奥底では正体不明の暗い感情を抱えている。
 とても不思議だと思わない? 私はそんなあなたに、強烈に興味を惹かれたわ」
「そんなの、おかしいわ。こんな物に興味があるなんて」
「ええ、私はおかしいのよ。
 蓮子に狂わされたのか、それとも元から狂っていたのかはわからない。
 けれど、二人一緒におかしくなったおかげで蓮子の虜になることができたんだから、こんなに嬉しいことはないわ」

メリーの瞳が濡れている。
さらに体も火照っているのか、肌と肌が触れている部分だけがやけに熱い。
その熱は、下手な言葉よりもずっと説得力があった。

「ああ、蓮子……」

メリーの人差し指が私の下顎に触れる。
次は中指、そして薬指と、絡めるように指先を私の肌に当て、その指は輪郭に沿って次第に上へ上へと這いずり上がっていく。
蛇に睨まれたように身動きが取れず、恐れと喜びの混じった、寒気にも似た快楽が、ぞくりと背筋に走る。
やがてメリーの手は私の頬を覆い、その人差し指で、耳たぶを愛撫するようにくすぐった。
こそばゆい感覚に吐息を漏らし、軽く下唇を噛むと、想いが溢れだしたかのように、メリーの口から熱い吐息がこぼれた。

「私が愛したその狂気は、間違いなく蓮子だけの物よ。
 誰のものでもない、何度も同じ日々を繰り返す中で生まれたあなたのためだけの価値」
「私だけの、価値……」

メリーだけが私にとっての価値だった。
メリーが認めてくれた私だけが価値を持った。
オカルト趣味も、あの男の真似事も、メリーは認めてくれたけど、私はそれを自分の持ち物だと思えなかった。
だから私はいつまでも満たされなかったんだ。
好きな人のために趣味を変える人間なんていくらでもいる、性格を変えようと努力する人間だっていただろう。
私がそれらを私の価値だと受け入れられなかったのは、有り体に言えば、ただのわがままなんだと思う。
言い換えれば、プライド。ゴミクズみたいな私だけど、私は私で居たいという、強欲な自己愛。

「もう、終わりにしましょう。
 ここが、永い永い旅の末にあなたがたどり着いた終着点なのよ。
 あとは私を信じてくれれば、それで終わり」

こつんと、私の額にメリーの額が触れる。
私には勿体無いぐらい、優しい暖かさだった。
メリーも大概興奮してるくせに、こんな時にまで私のこと考えてくれるんだから。
ほんと、つくづく高嶺の花だったんだなって思い知らされる。

「メリー、信じる前に一言言っておきたいことがあるんだけど」

世界は理不尽と妥協で溢れている。
みんな我慢して生きている。
適応できない生物は淘汰されるのが自然の摂理、だから私は正常に死のうとした。
だけど、死ねなかった。
狂ったのはその結果だ、耐え切れず死ねないのなら狂うしか無い。
だが皮肉にも、私はその狂気に救われた。

「私に?」
「ううん、神様に」

白状してしまえば、今でもメリーのことを殺したいと思っている。
メリーの言うとおり、もはや私にとってメリーへの想いと狂気は切って切れない関係になってしまっていた。
今更あの感触を忘れろと言われても無理な話だし、メリーを殺した回数と同じぐらい彼女を抱かなければ、この欲求も消えないだろう。
それに骨折はしばらく治らないだろうし、今年の夏休みが半分ほど短くなってしまったことは紛れもない事実。
必ずしも幸せな結末とは呼べない状態だ。
でも、彼らの期待は裏切ってみせた。
だから――

「ざまあみろ、ってさ」

高らかに、ひとつの区切りとして、勝利宣言でもしてみようと思ったのだ。
私がにやりと笑うと、メリーも釣られたように肩を震わせて笑った。
ちょうど、神様が私を笑ったあの時のように。





……………





「はぁ、面倒な話なら後にして欲しいんだけど」
「久しぶりに姿を見せてあげたのに、その反応は無いんじゃないかな。
 今の仕草と言い口調と言い、昔の君の方が女性らしさがあって魅力的だったよ」
「メリー以外の目なんて無価値よ、私はメリーが愛してくれる今の自分の方が気に入ってるわ」
「そーですか」

少年は相変わらず安楽椅子に深々と座り、本を読んでいる。

「前の時も思ってたんだけど、それ何を読んでるの?」
「見る? エロ本だけど。
 ちなみにこっちは夢破れたおじさんが再起をかけて戦う小説、こっちは偉そうな講釈垂れてるいわゆる自己啓発本ってやつ」

少年が手をかざすと、どこからともなく本が沸いて出てくる。
どれもブックカバーがかけてあるため中身は見えないが、あまり綺麗なようには見えない。
 
「そんでこっちが――」
「もしかしてそれ、遺品?」
「そ、死んだ連中がどんな本を読んでたのか暇つぶしに使ってやろうと思ってね。
 最期に読んだ本がこんな淫猥な本ってのも、人間らしいというか、獣じみてるというか」

初体験のあとにそんなこと聞かされて私はどうしたらいいんだか。
ようやく病院を退院し、部屋に戻ってきた私はさっそくメリーを呼び、お泊り会を開いたのだ。
恋人になった二人が、しかも三週間近くおあずけされた状態でお泊り。
これで何も起きないわけがない。
私としては、いつも通りだらだらと過ごして、一緒にお風呂入りつつ徐々に盛り上がって、最終的にお布団の中で燃え上がる、みたいな展開を予定してたんだけど、予想外にメリーが盛っちゃってて。
朝っぱらからうちに来た時点で鼻息が荒くって、ああこれはもう夜まで保たないなあと思ってたんだけど、案の定。
これはこれで、中々良い経験になったな、とは思うんだけどね。
幸せだったし、楽しかったし、何より……気持ちよかったから。

「死ぬのは勝手だけど、こんな本をばら撒いて死ぬぐらいなら別の場所でやってくれればいいのに……って、露骨に興味無さそうな顔するんだね、まあいいけど」

まあいいけどと言いながらも、少年は不機嫌そうだ。
やはり私が予定外にループを突破してしまったことが不満なのだろうか。
いくら生意気だったとは言え、自分より見た目だけ年下の少年が落ち込んでるのを見ていると、さすがに私も申し訳ない……と思うわけもなく、むしろ大喜び。大好物です。
私は少年に向けて、挑発的ににんまりと笑ってみる。

「ほんと、可愛げなくなったよね」
「おかげさまで」
「……ふん、まあいいや、暇つぶしにはなったからね、一人ぐらいはこういう想定外があった方が面白い」
「他にも居るんだ」
「僕の管理してる土地の中で毎年百人近く死んでるんだ、例のおまじないとやらを実践してる人間も、大体年間五人ぐらいはいるかな」
「その中でも絶対に叶わない未練を抱いてる人間だけを選ぶってわけね」
「人の部屋をゴミで汚したんだ、相応の報いさ。
 特に言い出しっぺは中々に面白い有様を見せてくれているよ」

おまじないの言い出しっぺ、つまり例のサイトの管理人のことだろうか。
確かに、いつからか更新は止まっていたけれど、死んだかどうかまでは定かではなかった。
だが少年がそう言うということは、私と同じように、あの樹海でお守りを持って自殺したのだろう。

「彼には友人もおらず、家族も残っていない、要するに孤独だった。
 孤独を癒やすためだけに例のほぉむぺぇじとやらを管理していたらしい。
 そんな彼の望みは、孤独から抜け出すこと、つまり有名になることだった」
「有名になれば、ループから抜けられるの?」
「そう、一見簡単に見えるけど、彼には無理なんだよ。
 一度目の時点ですでに精神を病んでいたし、今はもっと酷い有様だ、あの状態じゃロクな記事なんて書けやしない。
 それに……死なないと有名になれない”運命”みたいだしね」

少年の言うとおり、例のページが有名になったのは彼が更新を止めてから、つまり死んだ後だ。
更新停止の一年ほど前からは、以前のような自殺の名所めぐりをすることも無くなってしまい、意味不明な記事が増えだした
誰かに監視されているだとか、お前らは敵だとか。
そんな調子で、アクセス数はみるみるうちに下がっていった。
要するに、死ななければ有名になれない運命なんだろう。
そんな彼が生きて有名になろうと足掻いているというのだから、こんなに虚しい話はない。

「今も頑張って戦ってるよ、見えない敵とね」

彼には病院に連れて行ってくれる知り合いも居ない。
ひたすらに摩耗し、壊れて、再び蘇ってを繰り返すだけだ。
そんなみじめな男の生き様を見て、一体何が楽しいというのか。

「あんたって、人間に理解できる生き物じゃないわね」
「人間だってそうだろう、僕たちには理解できないね。
 おかげで今回はハッピーエンドなんて柄にも無いものを与えてしまった、今度からはおもちゃにする相手は慎重に選ぶことにするよ。
 ……っと、そうそう、こんな無駄話をするために呼んだわけじゃないんだ、例のお守り、返してもらえるかな。
 胸ポケットに入ってるはずだよ。
 大往生の末にもう一度最初から、なんて羽目にはなりたくないだろう?」
「良かった、いつも監視されてるみたいで気持ち悪かったのよね、これ」

いつの間にか上着の胸ポケットに入っていたお守りを取り出すと、少年に手渡しする。
お守りは少年の手に触れた瞬間、光の粒になって消えてしまった。

「善し、君との縁もこれでおしまいだ」
「清々するわね」
「感謝の一言ぐらいあっていいんじゃないのかい」
「悪意に対して感謝するほど信心深くないわよ、感謝して欲しいんなら善行を積んでからにしなさい」
「それが助けてもらった神に対して言う言葉かい?」
「だったらもうちょっとらしい格好したら」
「ったく、最後まで減らずを叩いてくれてまあ。
 いいよもう、帰れ帰れ」

言われずとも、と返事するよりも前に私の意識がぼやける。
いつか感じたことのある、貧血にも似た感覚。
かつて、私が最初に死んだ時にもおなじようなことがあった。
懐かしくもあり、怖くもある。
全てゼロに返ってしまうのではないかと。
目が覚めたら、またあの日の朝に戻っていたら、今度こそ私の心は完全に折れてしまうだろう。
この生意気な神様ならやりかねない。
しかし、私のようなちっぽけな人間程度が神に逆らえるはずもない。
私はただただメリーの元に返れることを祈りながら、意識を手放していった。





さわさわと、私の肩を柔らかな何かが触れている。
くすぐったいが、眠りから覚めるほどではない。
その感覚を認識出来ているのは、単純にすでに意識が半分ほど覚醒しているからだ。
しばらくは、指か何かで軽く触っているだけだったが、次に触れたのは暖かく、ぬめりのある感触だった。
舌、だろうか。
私の肩から甘い蜜でも出ているとでもいうのか。
やけに熱心に、ねちっこく舌を這わせている。
舌のぬるりとした感触がそこを舐めるたび、私の肩にはちくりと、針で刺されたような痛みが走った。
それで思い出す。
昨晩、メリーを抱いた時のことだ。
彼女は、ファーストキスの時の血の味が恋しいと言い出した。
言われるまで私も忘れていたが、思い出すと急激に欲しくなり、お互いの体に傷をつけることになったのだ。
そしてまるで吸血鬼のように、互いの肩に噛み付いて、傷跡を残した。
メリーから与えられた痛みだと思うと、それすら快感に変えることが出来た。
そっか、それでメリーは、昨日の傷跡を舐めて血を味わってたのかな。
確かに私たちにとっては蜜みたいなものかもしれない。

「……メリー」
「んちゅ……おはよ、蓮子」

返事は戻ってきたが、舐めるのを辞める様子はない。
私もその感触が心地よかったので、止めようとはしなかった。
メリーが飽きるまで傷跡を舐めると、次は私の番。
結局、目が覚めてからベッドを出るまでに、十五分ほど時間を使うことになってしまった。

今日は、最低の夢を無かったことに出来るぐらい最高の目覚めだった。
あれが夢だったのか、それとも現実だったのかはわからないが、捨てても捨てても枕元に戻ってきていた例のお守りは、もう存在していない。
一通りいちゃついてベッドから出た私たちは、軽くシャツを纏うと、二人で並んでお茶をすすった。
メリー、留学生のくせに緑茶好きなんだよね。
私も嫌いじゃないんだけど、メリーに関してはコーヒーの方が画になると常々思っている。

「そういえば、寝てる間に神様に会ってきたよ」
「な、なによそれ、知り合いに会ってきたような感覚で言うのね。
 神様って、例のお守りの?」
「そう、例のお守りはもう無いけどね」

私の言葉を聞いて、メリーの視線が枕元に向けられる。
もちろんそこにお守りは無い。

「……あ、本当だ。
 蓮子が目的達成しちゃったから、回収していったってこと?」
「じゃないかな、それぐらいしか神様がわざわざ私に会いに来る理由なんて無いから」

そういえば、少年は自分から一度だって神様と名乗ったことは無かった。
神社にいるからって本当に神様かどうかは定かではないし、性格も悪かったら、実は悪魔だったりするのかもしれない。
あの見た目じゃあ、どっからどうみても学業のご利益があるようには見えなかったし。

「それにしても、神様に、死んでも死なない無限ループかあ。
 こんな不思議に巻き込まれたんじゃ、今後蓮子はちょっとやそっとの怪奇現象じゃ驚きそうにないわね」
「喜ぶべきなのか嘆くべきなのかわからないわね。
 現状を見る限りじゃ喜んでいいんでしょうけど」
「私がいるから?」
「それ以外にあると思う?」
「蓮子に関しては、ありえないわね」
「わかってるなら聞く必要もないじゃない」

無言で唇を塞いでくれれば、答えとしてはそれで十分だ。
言葉は要らない。
今は不要な言葉が付いたから減点で、九十五点ってとこかな。
言葉が無ければ百二十点だった。
緑茶の味がする、何とも色気のないキスだったけれども、そこは減点対象にはしていない。
メリーを介したら、私にとっては何だって価値のある物になるのだから。





結局、メリーはバイトの採用を辞退した。
断る時に一悶着あったらしいのだけど、「恋人が自殺未遂を起こしたのでそれどころではありません」と伝えると、さすがに相手も引き下がってくれたらしい。
これでメリーがあの男と結ばれる運命は消えたかと言うと、微妙な所だ。
メリーの気持ちを疑っているわけじゃない。
でも、私は何千、何万回にも及ぶ繰り返しの中で、メリーとあいつとの繋がりの強さを知ってしまったから、果たしてメリーが私の狂気に惚れ込んでくれた所で、完全に奪いきれるものなのだろうかと、つい不安になってしまうのだ。
彼女がそんな私の不安に気付かないわけがない。

「もし少しでも私があの男に興味を示すような素振りを見せたら、その時は私を殺してよ」

メリーは笑いながらそう言った。
私も笑いながらこう返す。

「その時は一緒に、私のことも殺してね」

私もメリーも本気だった。
本当にその時が来たら、私たちは互いに、まぐわうようにして胸にナイフを突き立てあって、命果てるのだろう。
きっと正しくはない。
許されもしない。

運命に逆らった、歪な形をした私たちの愛情は、きっと世間から爪弾きにされてしまうと思う。
あの男がメリーと結ばれていれば、今より沢山の人が幸せになっていたかもしれない。
私たちの愛情は色んな人を不幸にしてしまうかもしれない。
間違っている。
別れるべきだ。
”正しさ”は私をそうやって説得してくる。

ああ、まったく。
だから、どうしたというのか。

幸いな事に、私にとって価値のある物はメリーに関わった物だけだ。
メリーが笑っている。
私も笑っている。
それでいいじゃないか。
私たちの幸せのせいで世界に住む私たち以外の全てが不幸になったとしても、それで構わない。
不幸になってしまえ。
死ぬなら死んでしまえ。
邪魔をするなら殺してしまえ。
価値の無い物が何を言おうが関係ない。

だって、私たちは幸せなのだから。
その他の必要事項なんて、この世には存在しない。
中二感を意識して書いてみました。
それにしても蓮子なんですぐ死ぬん?
kiki
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コメント



0.800簡易評価
1.80奇声を発する程度の能力削除
何かこういう蓮メリ良いですね
4.100名前が無い程度の能力削除
バッドかハッピーかドキドキしながら、一気に最後まで読ませて頂きました。
危うさを孕んだ濃い秘封を久しぶりに読む事が出来ました。本当にありがとうございます!!
6.100名前が無い程度の能力削除
朱に交われば赤くなる
自分の人格と他人との繋がりは密接に関係している
朱に交わりたければ赤くなればいいし、赤くなりたければ朱に交わればいいし逆に言うとそうしないといけないしそうなってしまう
んで何かに染まったり誰かに交わったりするということは他の誰かに交わらなかったり他の何かに染まらないということ

これメリーからしたら少し病んでたところがあったけどバイトしだして
まともな彼氏を作って真人間になるはずだとたところを変なきしょい女に心の弱みをつけいられて染められてもたってことよね
本人は染まってもたからそれもまた幸せって感じだろうけど

人間関係の可能性と人格の可能性と人生の可能性はわりと共通するかも
9.80名前が無い程度の能力削除
こういうのすこ。
最初は多重人格なんかなぁと思ったら外れた。無間地獄に落ちたも同然だったのに、イレギュラーであり続けた結果無数にある未来から幸せのひとつを掴めたけど、いびつだと自覚してる幸せの形と経緯でも歩もうとするふたりがどうなるのか、想像が膨らむ終わりかた好きです。
頭のねじ外れん子も狂気感染しちゃってるメリーも大好物なんだけど、ちょっとずれてる昔の蓮子の描写も個人的には欲しかったかなぁ、わがままですけど。
とても楽しめました。
14.100Yuya削除
具体的な言葉にできないけど、満たされました
15.無評価Yuya削除
自殺に失敗してるけどさ、その前にメリーを殺そうとしてなかったの何で。自分が居ない世界であいつと結ばれるのが嫌だったんじゃないの?
17.100名前が無い程度の能力削除
やべえよやべえよ……。
20.100名前が無い程度の能力削除
よかったです
22.100名前が無い程度の能力削除
良い、最高、いっきに読んじゃった