地上の人間の力を借りたあの危機以降も、私とドレミー・スイートの奇妙な親交は続いていた。性格の相性が一致したのか、或いは単に舌禍の及ばない夢の世界が私にとって都合の良い場所だったからか、恐らくそうした偶然の縁があったのだろう。私たちはほとんど毎夜のように顔を合わせていた。そしてその度毎に、彼女の持つ謎めいた本についての疑問は膨らみ続けた。この頃私が注意することのほとんどは、その問いをいかに封じ込めるかというところにあった。あの獏はときどき煙に巻くような言葉遣いをするので、尋ねるにしてもやはりその時期が重要に思われたのだ。しかも、私が何らかの疑問を問うときにはなおさらひどくその傾向が現れるので、それが無性に腹立たしく思えるというのもまた問いかけをしない理由の一つだった。
ゆえにその答えを知ったのは、まったく偶然の出来事だった。
「貴方は最近、悪夢を見ませんね」
「そう言われても、私には分からない。もし悪夢があっても、貴方が食べてくれるのだろうし」
獏はいつだって唐突に現れる。前にそうした文句を言ったことがあった。対する回答はごく普通のもので、そもそも向こうからしてみればむしろ私の方が突然現れる一夜の訪問客であり、彼女はこの広い箱庭の定住者なのだということを皮肉交じりに説かれた覚えがある。当時の私はあやうく納得しかけたが、今考えてみれば、獏の生き方は夢という究極に私秘的な空間を土足で横断するようなものであって、私の感じる不快は自然なもののはずだろう。いつかあの獏に関する何らかの秘密を暴いてやろうとひそかに企んでみたが、どうにも彼女は飄々としていて叶わない。しかも私は話術に長けている方ではないので、なおさら後手に回ってしまうのだった。
「貴方の悪夢はなかなか美味でしたので、私としては少し残念ですね」
改めて正面から視線を返してみれば、表情はいつもどおりの薄い笑みだった。
「何か良いことでもありましたか?」
「悪いことは一つ減ったわ」
「それは何より」
「だけど一つ増えているから、差し引きゼロね」
「私のことですか」
「貴方のことよ」
それから私たちは一しきり笑い終わると、それきり話題を失ってしまった。幸い、私もドレミーも長々と会話を持つ方ではないので、あの気まずい沈黙は感じなかった。
私の夢の風景は、いつも代わり映えのしない無味乾燥とした世界だった。不可思議に区切られた一室の中に、一組の椅子と机、一冊の本があって、それから穏やかに燃え続ける暖炉があらゆる光と熱と色とを発していた。夢を見る私はもっぱらそこで読書をするだけで、この部屋の外がどのようなものかということにはいっさい興味が湧かなかった。この部屋と外界を繋げるものは何もなく、あえて言うならば本がその窓の代わりをしているといった具合である。本の内容はまったく規定されておらず、私の興味にしたがってその姿を百にも千にも変化させる。そうしてこの想像力の世界に耽っていると、いつしか獏が現れて他愛のない会話が始まる。獏は私にとって唯一の気兼ねない話し相手だった。
「その本は、面白いのですか?」とドレミーは尋ねた。
「貴方はこの本の内容を、もう知っていると思っていたのだけれど」
「私が問題にしているのは、貴方の感想です」
「……それなりには、面白いと思う」
「そうですか」と彼女は言い、部屋の中にもう一つ椅子を作ってくつろいだ。彼女は夢の世界においてこうした創造を平然と行う。私はしばしばそれを羨ましく思った。この本も彼女の創造物なのだと思うと、それに対して「面白い」という感想をたやすく述べてしまったのはなんだか癪な気がしてくる。
暖炉の薪が爆ぜた。奇妙なことに、私はその音を初めて聞いたという錯覚を抱いた。普通に考えれば、薪などもう何度爆ぜたか分からないはずだというのに。
ドレミーの方へ視線をやると、彼女は何を考えているか知れない不透明な表情で暖炉を眺めていた。私はこれを彼女の仕業だと思ったのだが、どうも違う気がした。夢がまったく主観的なものならば、こうして薪の音が響く現象の理由は私の状態にあるのだろう。ドレミーが勝手に説明を施してくれないものかと期待したが、彼女はそのままじっとしていた。薪が再び鳴った。
私はこのときになってはじめて、本以外の要素に関心を示していた。読書をしている際にはそれ以外のいっさいは意識の外にあったので、この主観的な夢の世界が殺風景なのも当然のことだと悟っていた。私が興味を持たないものは、存在の根拠を失ってしまいかねないのだ。
そう気付いた次の瞬間に、世界はたちまち彩られた。肌触りのなめらかな絨毯と、柔らかな光を放つ照明とが室内の色を変えていた。机の上には種々の筆記具と便箋、それから数冊の本が加わっていた。机の背後、大きな窓の外には燦然と草原が開けていた。一方の壁では幾何学的な美しさを持つ機械仕掛けの巨大な時計が針の音を刻んでおり、もう一方には抽象的な絵画の色彩があった。絵画はある規律に沿っているように厳格だった。それは人間的個性の世界から脱した、極端な構造の世界だった。
ドレミーはその絵画のそばにある豪奢なソファーに腰かけていた。自分の仕事を誇っているという風ではなかった。それは自然な微笑みだった。
「貴方がしたの?」
私は尋ねた。
「いいえ。貴方が、です」
ドレミーはまったく冷静だった。この夢の部屋に関する私の仮定はどうやら当たっていたらしい。
私は様変わりした部屋を再び眺めた。そうして間もなく最も大きな変化に気が付いた。ドレミーもその発見――或いは私が発見をしたこと――を察したらしく、独特の薄い笑みで私と、私の視線の先を交互に見やった。部屋にはドアが現れていた。
「外に出てみませんか」とドレミーは言った。
私は頷いた。
ドアを開けると、巨大な図書館が現れた。
より正確に言うならば、私たちが巨大な図書館の中に現れた。てっきりあの草原に出るものかと思っていたが、何とも夢らしい無秩序の連続である。ドレミーは、「そういうこともあります」とだけ言って追及をかわした。
図書館は薄暗かった。だが、その薄暗さは何らかの不足を示すものではなく、むしろ必要十分の照明であると私は理解していた。先程の部屋のような絢爛とは正反対の、図書館というイメージの端的な具現と呼ぶべき空間がそこにはあった。
私は本を手に取るよりもまず、この図書館の構造を理解するべきだと思った。というのも、ここはいかにも奇怪な構造物に感じられたからである。もちろん、ドレミーに尋ねてみれば自ら確かめるまでもなく真相は判明したのかもしれない。しかし私はそうしなかった。はじめからそうするのはまさしく夢のない話だと思ったのだ。
そして私たちはしばらく数部屋を歩き回り、様々のことを知った。
図書館は、縦横無尽に連なる無数の六角形の部屋とそれらを繋ぐ通路から成っている。部屋の中心部分はまた六角形の孔の吹き抜けで、天を見上げても地を見下ろしてもまったく果ては見えなかった。六角形の部屋の向かい合う二辺は通路との連絡部分であり、残りの四辺には本棚があった。本棚には、ドレミーの持っているのと同じような本がほとんど隙間なく収められていた。すべて景色は一様であり、差異があるとすれば数々の本の内容くらいのものだろう。八意様風に言えば、この図書館は六角形のフラクタルだった。
こうした構造の推測はあまりに遠大で理解しがたいものだが、肝心の本の記述も図書館に劣らず意味不明のものだった。およそ夢というものが他者にとってはまったく荒唐無稽であるように、その本の記述もまた支離滅裂な文字の羅列だった。もしかすると何かしらの規則があるのかもしれないが、その解読表を私はどこにも持ち合わせていない。
一通りのことが分かると、私はこれが途方もない徒労のように思い始めていた。本棚一つ分の本に目を通しても、それらは各々の支離滅裂を見せるのみだった。私はようやくドレミーに尋ねる決心をした。
「これ、読めるの?」
「私は読めますよ」
ほとんど間を置くことなく、彼女は答えた。私はうなだれた。
手近な本を引き寄せるべく手を伸ばすと全身が軋むのを感じた。最も下の段を最後に回して長く座り込む羽目になったせいだろう。凝り固まった身体をほぐしながら、私はその本の半ばを開いた。
「じゃあ、たとえばここには何が書いてあるっていうの」
やれやれ、とでも言いたげにドレミーは私の後ろまでやって来た。
「どこですか?」
耳元にかかるドレミーの声に私は一瞬身じろいだが、すぐに紙上を指した。
「『あらゆるものを包括する宇宙はあらゆるものを包括する宇宙を包括する』」
気だるげに私の背後から手を回し、黒い活字を指でなぞりながらドレミーはすらすらと読み上げた。
「じゃあこっちは」
「『われわれはその外部よりいっさいの時間を眺めうる』」
「本当に?」
「主張の真偽は分かりませんが、記述自体はそうしたものです」
しばらく考えた後に、「そう」とだけ返事をして私は本を閉じた。どうにも今の体勢がまるでドレミーに抱かれるような形になっていたので、早く切り上げたくなったのだ。
私は、このような不明の羅列が秩序だった意味を持ちうることを到底信じられなかったが、同時に、ドレミーが嘘を吐いているとも思えなかった。とにかくドレミーの言葉をもとに何らかの規則性を見出そうとしてみたものの、やはりすべての視点に対して本は何の手掛かりも示さない。
「時間は無限にあります。そして図書館も」とドレミーは呟いた。本棚の上段左端から順に一冊取り出してはその数百ページの記述――記述と呼ぶにはあまりに無秩序なものだが――に目を通し、また次を取り出しては目を通し……。すべてこの反復で、そして反復はまた同じ感想しかもたらさなかった。徒労である。いよいよこの試みは無謀なものに思われた。
この果てのない作業の繰り返しに、やがて二度目のうんざりがやってきた。ドレミーはいつの間にか姿を消していた。別の部屋に行ったのか、そもそももうこの図書館から出て行ってしまったのか、見当はつかなかった。
部屋の中央、六角形の孔を囲う低い柵に腰を預け、一面に並べられた本と空になった本棚たちを眺めた。何しろ巨大な図書館なので、本棚の一つ二つが失われたとしても全体としての損失は零に等しい。私のしていることは虚無を積み立てているのと同義かもしれないと思った。
こうした精神状態のときにこそ会話が必要だというのに、いったいドレミーはどこへ消えたのだろう。いやしくも彼女はこの夢の世界の管理者なのだ。私の今の状況だって把握しているはずなのに。
一度名前を呼んでみたが、彼女は現れなかった。二度目、三度目も同様で、それ以上は続ける気が起きなかった。私は彼女への不信とわずかな憎悪を覚えた。それは翻って、この無限の図書館に対する不安の証左でもあった。
そうして次に私が起こした行動は、まさしく魔が差した、という表現が適切なのだろう。巨大な図書館に取り残された私は、ふとこの図書館の中でまったく調べていなかった存在を発見した――部屋の中央を貫く六角形の孔である。
気付けば私はそこに一冊の本を投げ込んでいた。本はみるみる小さくなり、あっという間に見えなくなった。続けて二冊、三冊……結局、私はこの部屋すべての本を六角形の空虚に投じた。最後に放たれた本の姿も、いっさい確かめられなくなった。
これら一連の空虚への投棄は、終わってみればまた無為なものだと判明した。途中でドレミーが咎めに現れるか、或いは空虚の底が感知できるか――どちらも期待していたが、どちらも叶うことはなかった。それは耐えがたい苦痛だった。
――そして、私は柵を飛び越えた。いっさいの浮力を零にして、自ら空虚への自由落下を始めたのだ。
落下しながら、私はまた上下と左右を観察した。上下にはやはり果てはなく、左右にはひたすら一様の部屋が繰り返されるばかりだった。私は空虚の速度で墜落し、六角形の各部屋は同じ速度で浮上を繰り返した。薄暗いが確かに仄かな灯りを示す各階層が、私の目指す方とは逆の空虚へ駆けて行く。あの支離滅裂たちが目まぐるしい速度で完全な黒に呑まれるのだ。灯りが次々と闇に消える。灯りが次々と闇から昇ってゆく。私はかつてドレミーが夢で見せてきた映画を思い出していた。記憶はもはや朧気だが、確か筋書きは滅茶苦茶で、率直に言ってとても良い評価を下せるものではなかった。しかし、地上と決別し、古き地下の国へ帰る最後の場面だけは印象的だった。地上の空へ昇る白い光たちを見送りながら、暗い通路を降下する主人公……。地上は彼を忘れてしまい、地下だけが彼を覚えている。零れるのは別れの言葉ではなく、再会の挨拶――。空虚に灯りが消える度、次々と映画の場面が想起された。切れ切れの、等間隔の幻灯……。それは知性の光だと感じた。恐るべき文字の知性が、為す術なく空虚に溶けてゆくのだ……。
この無限とさえ思える幻想は、しかし突然に終わった。片翼が左右の均衡を崩したのか、或いはこの図書館が空虚の引力方向に対して完全な垂直ではなかったのか、とにかくそうした微細の誤差によって無限の落下は有限になった。
不意の着地だったため、腰をしたたかに打ってしまい、起き上がるまでには少々の時間を要した。
痛みが引いたところで辺りを見渡したが、予想通り変化のない六角形の部屋である。ドレミーは未だに現れない。私は仕切り直しの意味を込めて、目の前にあった棚の本を一冊開いた。私は驚いた。
……永琳、今夜は満月よ。
満月など、今更珍しがるものでもないでしょうに。
いつでも一月に一度だから良いのよ。
確かに地上から見た月は綺麗ね。瑕疵が見えないから。
月が欠けるのはむしろ地上の方ではなくて。
そういう意味ではないわ、輝夜。……
ふと手に取った本の一ページ目は、奇跡的な秩序を保っていた。しかも、単なる記述ではない――それは八意様とお姫様の会話だった。この偶然の事実は私の背筋に冷たいものを感じさせた。恐らく、底知れない畏怖と静かな歓喜だった。
私は逸る気持ちを抑えきれずページを捲った。しかし、そこには例の無秩序な羅列しかなかった。深い落胆だった。その次のページも、また次も。結局、この一ページ目だけが私にとって燦然と輝く秩序なのだと分かった。
溜息を吐き、再び最初のページを読み返す。八意様と、お姫様と、例の脱走した兎と、地上の兎と……そこに現れたのはそれだけだった。あのお二方を除いて、月の民はいっさい出てこなかったし、舞台ももっぱら地上の話のようだった。
それから私はかすかな可能性を信じてこの部屋すべての本をまた確かめることにした。この図書館には秩序だった文章も確かにあるのだ。私は既にその証拠を見つけてしまったので、どうしても希望を諦めることができなかった。だが、結果はまったく残酷で、希望はたちまち失望に変わった。残ったのは、どうして私があの記述の中にいないのだろうというきわめて幼稚な憤りだけだった。
じっとしていてもひたすら切ないだけだったので、そのまま半ばやけで隣接する二部屋もあらかた調べた。やはり無駄だった。もはや何の感動もなかった。
「長い夢は精神を蝕みますよ」
いつかのドレミーの言葉が思い出された。果たして私の胸が苦しいのは、長い夢のせいなのだろうか。そうとは信じられなかった。八意様もドレミーも、今や私のそばにはいない。ありきたりな被害妄想だと分かってはいるが、私はこのことが耐えがたい裏切りに思えてならないのだ。舌禍の運命を背負うこの私に、きっとあの二人だけが正対してくれたのだから……。
図書館が朧に霞み、急いで目を擦った。それではじめて私は泣いているのだと分かった。涙が落ちる度に図書館はいっそう暗くなり、やがて何も見えなくなった。
「ああ、気付きましたか?」
ドレミーの声がして、私は彼女の膝の上で眠っていたのだと気付いた。恥ずかしくてすぐに起き上がろうとしたが、まるで密度の高い水の中にあるように四肢はひどい倦怠感に包まれていた。
「ドレミー……どうして」
どうして――その後は何を言おうとしたのか、私も分からなかった。何を問いたいのだろう。何なら問うても許されたのだろう。言葉を発するとき、私は常に迷っていた。それは能力のせいだけではなかった。
ドレミーは黙って私の髪を一撫でした。それはいつもの彼女には似つかわしくない繊細な指先だった。なぜか八意様のことを思い出した。私はやっと落ち着いた。
視線を巡らしてみれば、辺りはもう六角形の図書館でも、元の部屋でもなかった。そこは恐らく円形の空間だった。私たちのいるこの表面だけが淡い光を帯びていて、他はすべて暗く不透明だった。
「良くなりましたか」
「うん」
私は答えた。声はほとんど掠れていた。
「とにかく、今は目覚めましょう。貴方はそうとう無理をしました」
ドレミーの手が再び髪に触れた。そして私は、私の頭と彼女の掌の間に一冊の本が形成されつつあるのを辛うじて目撃した。信じがたい光景だった。
「ご心配なく。これは貴方の悪夢にすぎません」
驚愕がそのまま表情に現れていたのだろう、ドレミーはつとめて明るく答えた。
「……貴方がいつも持っている本と同じだったから」
「外装は変わりません。中身が重要なのです」
そう言うと、彼女はいつもの本と、今しがた作った本とを両手に持ってみせた。確かに同じだった。ならばあの図書館の本たちも恐らく夢なのだろう。まったくの不可抗力だが、私は獏の共犯者になっていたのだと思い至る。
「それ、どうするの」
この罪悪感めいた気持ちに耐えかねて私は思わず尋ねていた。何かを話していなければ、いっそう自省に陥るだけだと感じたのだ。
「食べますよ。獏ですからね」
平然と獏は返す。私の動揺には気付いていない様子だった。私はひとまず安心した。
「でも、本でしょ」
「そうですが」
「山羊みたい」
自分で言った言葉が無性におかしく感じられて、私はとにかく笑った。ドレミーは怒っているのか、呆れているのか、ただ微妙な表情で「まあ、あながち間違いでもないかもしれませんが」と零していた。
「ありがとう」
しばらくしておかしさが収まると、私はお礼を言った。
「どういたしまして」
今度はドレミーも頬を緩めた。
「また夜に会いましょう」
そう言うと、本はドレミーの手の中に消えてゆく。同時に倦怠感がやわらいで、私は自然に起き上がることができた。
いっさいの景色が曖昧になり、まっさらな粒子にほどけていくのが見えた。私も、この世界も、すべて朝に帰るときが来たのだ。
私は目を開けた。朝の光がいっぺんに流れ込んできた。
よかった
ボルヘスの図書館の静けさが身にしみます。