――切り裂きジャックこと『ジャック・ザ・リッパー』は19世紀末イギリスのロンドンで起きた、「連続殺人の起源」とも「劇場型犯罪の起源」ともされている一連の猟奇殺人事件の犯人である。犯人の動機は不明であり、凄惨な傷を負わせて次々に殺していくというその事件は前代未聞であり人々を震撼させた。そして誰が犯人か判明することなく、時と共に消えてしまった『ロンドンの亡霊』なのだ――
喉が渇いていた。乾燥した夜の空気が喉から体全体に周り、不快感で満たされている。彼女はナイフを持ち唸った、自分には己のこの衝動を抑えるすべも無ければ抑えたくも無いことを自覚していた――はやく、はやく――その足はムカデのように早まった。
――居た、あいつにしよう――誰でも良かったのだ、この欲求が満たされれば。彼女は背後から静かに近づき、ソレの背中にナイフを突き刺した。ソレは一瞬声を荒げたが、苦痛からそれ以上の声は出せなかった。抵抗できないことが分かると、ゆっくりと馬乗りになり、あらゆる箇所を切り裂いた。切り裂くたびに傷口から血が流れ出た――ああ、これこそが潤いだ――彼女は何度もナイフを突き刺した。もはやソレは壊れたゼンマイ人形でしかなかった。次第に動かなくなったソレから興味が薄れた彼女は、次の標的を見つけなけばいけない。夜は長い、彼女の喉はまだ求めていた。
紅魔館で働くメイドの姿が減った、その代わり動かなくなったメイドだけが増えた。凄惨な死体と化したそれらは見る者を驚愕させた。一体どうして、誰がこんなことを、と誰もが思ったのである――唯独りを除いて。
咲夜は冷静にその文章を見つめていた。なんとも簡潔で、滑稽で――ふざけた内容なのだろう! もしや
“真実はどこにあるか、あとに残るのは死体だけだ。
ただ、ジャック・ザ・リッパーは女しか狙わない――JTR”
“ロンドンの亡霊『ジャック・ザ・リッパー』”の名は咲夜には馴染み深いものであった、咲夜の生まれはロンドンであったからだ。その『ジャック・ザ・リッパー』の手紙を手にする事になろうとは咲夜自身は夢にも思わなかったことだろう。亡霊として消え2度と目にするまいと思っていた者が、実は幻想郷に逃れていたなんてショッキングな事実は。
――そういえば聞いたことがある、と咲夜は噂になった事実を思い出した。当時有名な探偵小説家であったアーサー・コナン・ドイル氏が『ジャック・ザ・リッパー』の犯人像についてこう言っていた。
“犯人は女装した男性、それでなければ女性だ”
幻想郷には女性が多い、少なくともここ――紅魔館においては女性しか居ない。犯人を見つけるのはとても骨が折れる、しかし見つけなければこれからもメイドは減り続けてしまう事も咲夜は同時に感じていた。
まだ館の主と図書館の主――レミリア・スカーレットとパチュリー・ノーレッジの耳には入っていないこの事件を、咲夜は重い気持ちで話すことにした。
犯人を見つけるように、と咲夜は淡々と命令された。レミリアは特に犯人に興味が無かったのだ。
“人間はそこらへんに、いっぱいいるでしょ。メイドが足りないなら調達してきなさい”
咲夜は自分の表現力の無さに悲しくなった。主人に、この恐怖たる亡霊の存在をしかとアピール出来なかったのだ。
“はっきり言えば、もう――犯人は予想できてるから”
咲夜は知識人の知識の豊富さに妬ましくなった。例え、それが偏屈な無駄知識であったとしても。
咲夜はパチュリーを問い詰めたが、重い口を閉ざし頑なに拒んだ。一体誰だと予想しているんだろうか、と気にはなったが例え知ってもそれが真実とは限らないのだ。それなら今出来ることをすべきだ、と考えた咲夜は彼女――『ジャック・ザ・リッパー』探索に取り掛かるのであった。
咲夜は紅魔館に6人のお客を招いた。犯人を捜すには多くの者からの情報を得たり知恵を集めねばならないと考えたのだ。
紅白の巫女、スキマ妖怪、黒白の魔法使い、七色の人形使い、半霊の剣士、亡霊の姫。どれもこの辺りでは有名人、見識も知恵も十分に備わっているだろう。
「これから貴方達に一人の殺人鬼について話すわ。それについて何か感じたことを教えて欲しいの」
咲夜はあくまで今回の事件を伏せた上で、彼女が起こした昔の事件の事だけを伝えることにした。先入観を与えすぎては良い判断を得られない事を経験で知っていたからだ。
「当時――そう今から大分昔、通称“ロンドンの亡霊『ジャック・ザ・リッパー』”と呼ばれたその殺人鬼は、娼婦を狙った正体不明の連続殺人犯なのよ。その殺人鬼の手口はこう、夜道をうろつき独りで歩く標的を見つける。背後からこっそり近づき、悲鳴もあげられぬようナイフで首をこう――」
「止めれ!」
そう咲夜を制止したのは紅白の巫女だった。ああやっぱりそうなるのか、と咲夜は唇をこっそり曲げてひねくれてみた。
「私たちは美味しいお菓子が食べられるって言うから来たのよ。あんたからそんな話聞かされちゃ、せっかくのパイが不味くなる」
――仕方が無かったのだ。この6人を集めるにはそういった、時間を止めてチェスの駒をこっそりずらすような、姑息な手段に頼るしかなかったのだから。こんな事は今回限りにしよう、チェスは何度でもやるが――咲夜は自分にそう言い聞かせ、なだめた。
「まあいいじゃないか。こんだけ美味しいものを食べさせてもらってるんだから、話くらいは聞いてやろうぜ」
6人の中で一番節操無く食べ漁っている黒白の魔法使いが言った。
「そうね、このアップルパイ凄く美味しいわ。……生地を折り込んであるのね、今度自分でも作ってみようかしら」
七色の人形使いは、咲夜が作ったパフペイストリー生地にとても興味を示していた。
「それで、その殺人鬼さんはどうなったのですか? 今も何処かに居るんですか?」
唯一咲夜の話にしっかりと耳を傾けてくれたのは半霊の剣士だけだった。
「いやいや妖夢、とっくに死んでるでしょう。でなけりゃヨボヨボの老人よ」
亡霊の姫は口にパイを含みながら器用に喋っていた。
「……うん、美味しい」
スキマ妖怪は興味が有るのか無いのか分からないような、ひたすらのマイペースだった。外の世界との人間の関わりという問題においては一番何か知っていてもおかしくない者なのだ。しかし咲夜にはスキマ妖怪を相手に口を割らせる事が、成功するとはとても想像できなかった。
“人が、当時のように無残か、はたまたそれ以上に殺され続ける事実を知ればこの平和ボケも続かない”
一瞬考えて――事実を伝えることを――やっぱり止めた。この空気も決して居心地が悪くない、敢えて壊す必要も無いと咲夜は思った。そもそもこの事態に真に危機感を感じているのは咲夜だけなのだ。事実を知るレミリア、パチュリーは平然といつもの日々を過ごしている。これは杞憂なのだ、と咲夜は理解しはじめた。例えかつての殺人鬼が復活していようとも――それが模倣犯だったとしても、そう易々と逃れられるわけが無い。事件が起こればそのうち誰かが気づく、そして解決してしまう。それが咲夜でも、紅白の巫女であろうとも、平和を維持できる点においては何も代わりが無いのだから。
咲夜は思った、まずはメイドの補充よりパイの補充だ。二種類のパイは両方ともテーブルから消えうせていた。
薄暗い中、彼女は待っていた。人が通るのを待っていた。夜は長いのだ、月明かりに誘われ散歩をする者が居てもおかしくない――ほらまた一人、ああゾクゾクする――彼女は背後から近づき祈った。美しい髪、美しい肌、美しい命、それら全てをこの手で散らせることを誇りを持って宣言した。いつものように一瞬でケリをつける――お前の全ては私のもの――快感に震えながら、動かなくなった標的を激しく切り裂いていた。
咲夜はするべくして、この後悔に至ったのだ。メイド達への夜の戸締り、外出はやんわりと警告していた。自身でももちろん見回っていた。それでも、僅かな隙を彼女は逃さなかった。ほんの少し、独りで外に出たメイドを見つけ惨殺したのである。死体を一番最初に見つけたのは咲夜であったが、当然今まで居たメイドが消えれば誰もが勘付く。これはもう少しの猶予も無い、異常事態なのは間違いないのだから、と咲夜は唇を強く噛み自らに戒めた。
“形があれば壊れるかぎりすべてにおいてそれは美しい。
切り裂きは表現。それはあたかも美を追求する芸術家なのだ。――JTR”
またしてもその紙切れはあった。咲夜は、自らを芸術家と評する彼女は実はナルシストなのではないかと分析してみたくなった。自己主張が強いのは間違いないのだろう、その線で……調べてみようと思った。調べるべきところは咲夜には分かっていた、紅魔館だ。狙われているのは紅魔館のメイドばかりなのだから、メイド同士のいざこざだと考えるのが普通だろう――もし本物の彼女なら真に無差別殺人であり動機など無いも同然なのだが、彼女が今も生きているわけが無いのだから。メイド全員の出身、最近の行動、そしてその裏づけをこの大量のメイド達からしなければいけない。うんざりだ。でもしなければいけない、それがメイド長の責務なのだ。
「で、私からも聞く必要があるわけ?」
パチュリーのその言葉は、心底面倒くさそうに腹の底から出た言葉だ。元々周りの出来事に興味を示さない者がゆえに、その反応は至極冷たい。だが今回の件に関して何か勘付いてるという考えからは必ず意見はもらわなければいけない。メイドの事は全て調べ終わったうえでは、咲夜がこれ以上彼女の正体を絞る術はこのくらいしかない。
「そうねぇ、流石にあまりメイドを殺されすぎても困るのよね――明日にでも話すわ」
「明日、ですか」
「ええ。本と一緒にね」
その本が何よりの証拠じゃないかしら? とパチュリーは微笑んでみせた。正直不気味だった、何か含みがあるようにしか思えない笑みだ。――本というからには、この図書館に彼女に関する文献があったということなのだろうか?――流石にこの図書館の書物の内容を咲夜が把握しているわけも無い、パチュリーだからこそすぐに気づけたことなのだ。ただ心配なのは、ソレの信憑性だが。特にこれ以上何も聞き出せなかった咲夜は自室へと帰っていった。
“使いは邪魔。主人の為すり減れ、全てを捧げ従順となれ。
お前らの命に、それこそみじんの誇りも無い。――JTR”
日を重ね、調子付いてるのが目に見えて分かる文だった。
またもや外出したメイドを殺されたのだ、しかも今度は同時に十数人だった。これを単独でやっているのだとしたらかなりの力量の持ち主ということになる――確かにメイド達の中にはなかなか強い者も居たが、これほど鮮やかに殺せるものは咲夜には思い当たらなかった。このメイドを憎むかのような、忠誠の無いメイドを正すかのような文は、紅魔館の者以外に有り得るだろうか? 咲夜にはやっぱり思い当たらなかった、唇をこっそり曲げてみた。『紅魔館で以前メイドをやっていたが今は辞めている者』の調べもすべきなのだろうか、と考えただけでも骨が折れる気持ちだった。しかし外の人間が絡むというのなら――改めてあの6人から話を聞くべきなのかもしれない、善は急げだ。時を止める事が出来るメイド長にとってそれは、チェスに勝つことより簡単だった。
紅白の巫女とスキマ妖怪は神社に居た。
「単刀直入に聞くけど、この前話した“ロンドンの亡霊『ジャック・ザ・リッパー』”と同等の者がこの幻想郷に居るみたいなの。何か知らないかしら」
「いや別に知らないけど、ここ最近平和だしねぇ」
「うん、お茶が美味しい」
「ねえ、あなたは何か知ってるんじゃなくて?」
彼女の事を一番知っててもおかしくないのはこのスキマ妖怪なのだ、今日こそは喋ってもらうおうと咲夜は詰め寄った。
「いいえ、知らないわ。ああ、ロンドンの亡霊とやらは知ってるわよ、当時外の世界では有名だったし。でも誤解のないように、私は連れてきて無いわよ。もしこの世界に入り込んでたとしても、私は知らないし関係無いわ」
スキマ妖怪は彼女の存在を知っていたが、それ以上全く知らないのは確かなようだった。幻想郷にはそう簡単に外の世界の人間は入れない。スキマ妖怪が関与して無い以上、外から彼女がやって来る確率は低い――ゼロではないが。
黒白の魔法使いと七色の人形使いは森に居た。
「単刀直入に聞くけど、この前話した“ロンドンの亡霊『ジャック・ザ・リッパー』”と同等の者がこの幻想郷に居るみたいなの。何か知らないかしら」
「なんだって? そりゃあ物騒な話じゃないか。私は何も知らんが……アリスはどうなんだ?」
「私も知らないわよ」
「本当に? 何か些細なことでも気づいたことは無いかしら」
彼女のどんな些細なことでも、情報を集めて、事件を止めなければいけない使命が咲夜にはあるのだ。
「知らないって。彼女の風貌か何か少しでも情報があれば別だけど、貴女から聞いた話以外の情報は無いしね」
「ん、私もだな。昨日が初耳なんだ、今まで気にしてたわけじゃないしなぁ……実験に明け暮れてる毎日だからな」
そう、彼女についての情報は全く無い。現在の事件においても目撃証言が無い。これでは二つを結びつけることすら難しいのが現状だった。彼女の正体が仮に、目立つような存在の人間という可能性も大いに有りうるということになる。
半霊の剣士と亡霊の姫は冥界に居た。
「単刀直入に聞くけど、この前話した“ロンドンの亡霊『ジャック・ザ・リッパー』”と同等の者がこの幻想郷に居るみたいなの。何か知らないかしら」
「なんですって! それは大変じゃないですか」
「…………」
「どうしたの?」
彼女の事を聞いたとき、亡霊の姫は押し黙ってしまった。何かを知っているのだろうか――
「知っているわ、メイドが殺されたのね。私の元へ来てたもの」
「ああ、なるほど……って! それならメイド達から何かを聞き出せないかしら?」
「目撃証言、という訳ね? 残念ながらそれは無理よ」
「どうして!」
「多くのものが相手を認識する前に殺されていた。もしくは見ていたようだけど……恐怖で壊れてしまった子も居たわ」
「……」
「安らかに成仏出来るよう、貴女も祈ってあげて」
「……ええ」
咲夜は静かに黙祷した。半霊の剣士もそれに習った。亡霊の姫は、二人が目を瞑ったのを確認してから、冷たい声でこう言った。
「手口から判断するに、犯人は“ロンドンの亡霊『ジャック・ザ・リッパー』”その者よ」
「『頭』の前提、『ジャック自身』、そして『十二番目の鏡』。3つの
咲夜が証言を自室でノートに記しながら唸っているところに、ノックもせずパチュリーは入ってきた。
「……パチュリー様、部屋に入るときには出来れば――」
「はい、これ。じゃあ帰るから」
咲夜は一つの紙切れ、そして一つのカード、そして数冊の本を押し付けられた。当人はさっさと帰ってしまったのである。
「この本は……」
咲夜が幼かった頃に読んでいた愛読書本である。それは外の世界の本なので、自分が持っているよりはいいだろう、と図書館――パチュリーに提供したのである。
紙切れには2つの文が書いてあった。
'So she wondered away, through the wood, carrying the ugly little thing with her. And a great job it was to keep hold of it, it wriggled about so. But at last she found out that the proper way was to keep tight hold of itself foot and its right ear'
'She wriggled about so! But at last Dodgson and Bayne found a way to keep hold of the fat little whore. I got a tight hold of her and slit her throat, left ear to right. It was tough, wet, disgusting, too. So weary of it, they threw up - jack the Ripper.'
咲夜には一つ目の文の正体はすぐに分かった。これは自分の愛読書のうち一つ『子供部屋』の話の一節であったからだ。後者は分からなかったが、彼女の犯行声明文のようであった。 だが何度か読み直しているうちに一つの仮定に気づいた。そう、これはアナグラムだった。咲夜の愛読書のうち一つ『鏡』の話はアナグラムで有名だった。これがパチュリーの言っていた一つの
(パチュリー様はもしかして――)
咲夜はとりあえずその思考を他所に置き、目の前のアナグラムを見てみた。とんだ暇人も居るものだ、と失礼なことを考えた。咲夜は念のためにとアナグラムであるかを確かめるためアルファベットの数を数えることにした。ノートにA~Zまで書き記し、それぞれの語をカウントしていった。しばらくして2つの文の語を数え終わると照らし合わせてみた。それらは確かに符合していた。……そこでようやく、“彼女”に注目した。
(まさか……)
咲夜は“ジャック”を見つめて独りつぶやいた、全てに合点がいったのだ。
「そういう事だったのね」
たまには無駄知識も役に立つのね、とまた失礼なことを考えた。
ついに理想の標的を見つけた。彼女は深夜に紅魔館に忍び込み、その標的の部屋へ入った。すっかり安全そうな顔で寝ている――なんと美しい娘なのか、次の作品は決まりだ――彼女は真上から口の中にナイフを勢い良く捻じ込み絶命させた。突然のことに意識ばかりか体の反応すらおぼつかないその様子は実に滑稽だ、と笑いがこみあげてきた。
「ジャック!」
突然、ソレは部屋のドアを勢い良く開けて入ってきた――マズい、姿だけは見られてはいけない――彼女は咄嗟にベッドの陰に隠れたが、そこからすぐさま窓から飛び出て脱出を計ろうとした。
「逃げても無駄よ、もう貴女の正体は割れてるわ」
彼女は吐き気を覚えた――私の正体がバレた? そんなはずはない、この美しい犯行に隙など無かったのだから――彼女はソレに酷く嫌悪感を抱いた。
「あら、信じられないの?」
彼女は信じなかった、そして暗闇から姿を見せずに答えてみせた。
「いい加減な事を言うやつは殺す」
ソレは臆することなく、2つの文を口にした。
「――。この文は、とある本の一節と、それをアナグラムとして犯行声明文に置き換えたものよ」
「へえ、つまりその本の作者“Dodgson”が犯人だと?」
「そうね、普通はそう読むかもしれない」
「つまり貴女は普通じゃない方だったと」
「ええそうね。この文――使われたアルファベットの数が多い順に11個――、そう“ジャック”の数だけ並べると『T』『O』『E』『A』『H』『I』『R』『D』『G』『S』『L』になるわ。これを並び替えると『Ghost Die』という文が出来るわ」
「ちょっと、『A』と『R』と『L』が抜けてるわよ」
「『L』は“Ghost”や貴女の活躍した国を考えればすぐ分かるわ、“London”ね。『R』は“Ripper”なのも容易に連想されるわね。さて、そうなるとAに犯人の名前が当てはまるわけだけど――」
「……」
彼女の名前のスペルは……Aだ。
「――さて、ところでこの本、なんてシリーズ作品だか当然知ってるわよね?」
当然彼女は知っていた。
「『不思議の国のアリス』」
「“ロンドンの亡霊『切り裂きアリス』”は死んで、不思議の国――幻想郷に来ていたのね。そりゃ妖怪なら今でも生き続けてるわね」
咲夜は、アリスの居る物陰を睨み続けた。
「作者と主人公の境界って曖昧ね。作者を主人公と対称に捉える手法もあるし……、何より作者が自分のことを書くこともあるのよね。この作品のアリスは作者自身だったのかしら? それとも作者が身近な存在を題材にしたのかしら? いやもしかしたらアリスは作者が生み出した――」
観念したのかアリスは立ち上がって咲夜に対して堂々姿を見せた。
「まったく、無茶なアナグラム解読ねぇ。例えそんなんでも、私だとそこまで自信もって睨まれてしまったら同じなんだけどね。こんなフザけた証拠じゃ、現行犯じゃない限り私は捕まえられなかったでしょうに」
アリスは自虐的な笑みを投げかけた、皮肉のつもりなのだろうが咲夜にはそれが通じなかった。
「あら、これはただのきっかけよ。これが無くても私は貴女だと確信したわ」
アリスのプライドが傷ついたのだろう、笑みが消え咲夜を貫くような眼差しで瞬き無く睨んだ。
「最初にちょっと不思議だったのよね。貴女がパフペイストリー生地のパイに凄い感嘆してたことに。あれって凄く普通の作り方なのよ――イギリス以外ではね。本場イギリスではショートクラストを使ってるから」
「なるほど、つまりそこで私が『イギリスのパイしか食べことない』、要するに『イギリスで過ごしていた事がある』と解釈したわけね。まあそれも大して決――」
「――“ジャック”よ」
「ジャック?」
咲夜は一枚のカードをアリスに投げつけた。
「トランプのジャックでもそうだけど……ジャックと聞いて連想するのは、“男性”よね。私は“ジャック”を殺人鬼と呼称はしたけど、女性ということは匂わせてすら居ないわ。なのに貴女ははっきり言った。『彼女の風貌か何か少しでも――』、全く知らないと言い張る貴女がどうして“ジャック”が“女性”だと知り得たのかしら」
場は沈黙した。完全主義であったアリスが、完全に敗北してしまったのだ。その決定的なミスを突きつけた咲夜が勝者となったのだ。だからアリスは――
「……フフフ……アハハ」
――笑うしかなかったのだ。
ザザァッ!!
ソレは咲夜の目の前、右側、左側、背後、真上、真下、あらゆるところから現れた。
「操符“乙女文楽”、逃れる術は無いわ」
アリスが十数のメイドを一瞬にして惨殺した術はまさにこれだったのだ。一瞬にして囲まれた咲夜は大量の人形から一斉に狙われ――
「……秘技“殺人ドール”」
――咲夜は瞬時に全ての人形を千のナイフを使い沈黙させた。
「……チェックメイト」
咲夜はアリスの喉元にナイフを突きつけ、勝利を宣言した。
「なるほど、強い……わね。で、殺さないの?」
「……」
「フフフ……どうして私が殺せないの?」
「貴女を殺す前に、今までの殺人の動機が聞きたいだけよ」
「動機ですって? そんなの、人を殺すのが気持ちいいからよ。でもね、やりすぎるとどんどん居場所が無くなってくる、だから幻想郷に篭って人形作りに勤しむ方向でこの衝動を発散することにしたの。でも最近人形作りのアイデアが出なくてねえ……、ほら人形のモデルが尽きちゃったからまた殺さないと、ね。今日はとてもいい収穫だったわ、このメイドはこれから私の忠実な僕として生まれ変わるのよ」
「結局人の命を弄ぶのは変わらないのね、もういいから地獄に落ちなさい」
「あらあら酷い言い様じゃない、同じよしみなんだから見逃してくれないかしら……“ジャック”」
ドガァッ!!
咲夜は不覚にもよけることが出来なかった。いや、例え万全の状態でも防ぎきれなかっただろう、アリスは目にも留まらぬ蹴り技で咲夜は吹き飛ばしたのだ。
「私には分かるわ、あなたはとても辛い人生を歩んできた――そうね、虐待かしら?」
アリスは咲夜に自らナイフで斬りかかっていた、咲夜はそれを抵抗することなく――抵抗できずに避ける事しか出来なかった。
「貴女は己の精神が壊れそうになった。救いの無い貴女にはそのまま壊れ行くか、もう一つの選択しかなかった。そして貴女は選んだのよ――狂気に堕ちる選択を」
咲夜はナイフを上手くいなしつつも傷は増えていった。体こそなんとか大丈夫だったが、心はズタズタに切り裂かれていた。
「自己が確立していないものは他人の存在を投影するしかない、そこで貴女は光栄にも私を選んでくれた。私の狂気に中てられた“ジャック・ザ・ルビドレ”の誕生ね」
――母親はいつでも毅然と振舞う瀟洒な貴人だった。私は有る時自分の時を止めるという異能力に目覚めてしまい、そのせいで周囲から怖れられた。同じ年の子から、大人から、迫害され苛められた。それでも母親だけは私の味方だった。誰にも臆することなく堂々と私を庇い、そして私が普通の子だと主張し続けてくれた。ある日母親は、人々を一つの部屋に呼んで、私の事について話し合った。母親はどんなに罵声を浴びせられても挫けなかった、その甲斐あって場の空気も少し穏やかになり始めていたのである。そんな時に突如とドアから乱入者が現れたのである。その者はナイフを持ってふらふらとヨタつきながらこちらに近寄ってきた、狂人だ。勇敢な者が真っ先に飛び掛ったが、狂人は思いのほか強くあっというまに返り討ちに合い殺されてしまった。人々は恐怖におののき部屋の端へと逃げていった、それは逆に追い詰められている以外に無かったのに。そんな時に誰かがこんな言葉を発した。
『このガキのせいだ』『こいつが呼び寄せやがったんだ』『悪魔の狗め!』
人々は全て私のせいにした、そして私を狂人の前に投げ出して囮にして逃げようとしたのだ。私の目の前には狂人が居た、怖かった。私は普通の人間なのだから、こんな者を前にしたら怖くて当然なのだ。だから目を瞑った、死を認識したくないから。生暖かい物がシャワーのように降りかかってきた、これは何だろう、と不思議になって目を開けてみた。それは母親の血だった、私の前に立ちふさがり庇ってくれたのだ。唯一の味方だった母親が、目の前で殺されていた。何も出来ずに呆然と見つめていた、母親を失った事は自分の死よりも耐え難い事だった。ふと周りの人間を見てみると、すでに逃げ出し始めていた。
『当然の報いだぜ』
そんな声が私の耳に聞こえた。
(報い、何を言ってるんだこいつは? 報いを受けるのはお前らじゃないのか? 何故お前らが助かる? 何故目の前の狂人は私を狙っている? 逃げたやつを追わないのか? 間違ってる、死ぬべきなのは全ての人間だ)
時が止まり――動き始めたときに私の眼下に広がったのは大量の惨殺死体だった。私が殺したという実感は無かった、確かなのは手に大量の血がこびりついたナイフを持っていたことだ。皆が死んだ、母親が死んだ、私も死んだ、そして誰も居なくなった。
(じゃあ今ここに居る私は何者なの? 狂人になってしまったの?)
目の前の死んだ狂人の体を調べてみるとあちこちから、雑誌、新聞の切り抜きが見つかった。見出しは『ジャック・ザ・リッパー』、有名な無差別殺人鬼だ。
(いや、違うわ。私は人を殺して生きる、殺人鬼として生まれ変わったのよ)
自然と私の口に笑みがこぼれた――
アリスは弱りきった咲夜への追撃を止め、手を水平にかざし無防備な状態を示した。
「私は色んな世界で暗躍してきた、ブカレスト、上海、パリ、アムステルダム……。そして全ての世界の人間がこの私に魅せられ、狂気に堕ち、真の渇望を見つけ生きているのよ」
アリスの自己陶酔な演説は、決して咲夜の耳に止まることなく流れていた。
今しかない。咲夜は思った、何の躊躇いも無く時を止め――アリスの心臓に銀のナイフを刺した。
「――」
「…………喋りすぎよ」
「――」
ニヤリ、とそれは笑った。
ドォォォォンッッ!!
咲夜は鼓膜が裂けるかと思った。ソレは絶命したかと思えば、突如音を立てて爆発したのだった。
「げほっげほっ……!」
かろうじて直撃は免れたが、右腕がやられてしまった。これではナイフを操ることは咲夜には不可能だ。
「流石ね、心臓をここまで正確に狙えるなんて素晴らしいわ」
アリスは窓の淵に立っていた。咲夜はようやく、今刺したものが人形であったことに気づいた。
「でも美しく無いわ。つまらないわね、そろそろ消えてもらおうかしら……さあ、人形達よ。グランギニョ――」
絶体絶命。今殺しに来られたら咲夜には迎え撃つ手段は無い、おそらく敗北してしまうだろう。だからこそ、突然殺気を消したアリスが何を考えているのか気になった。
「――邪魔が入ったわ。まあ貴女も私も互いに邪魔な存在ではないはずよ、ここはこれで閉幕としましょう――さようなら“ジャック”」
「……さようなら“ジャック”、二度と会いたく無いわ」
瞬きをして、言葉を全て吐き出す前にアリスの姿は何処にもなくなっていた。
「咲夜どうしたの、何かあった?」
「お嬢様。いいえ……何もありません」
いつのまにか来ていたレミリアは今の惨状に本当に何も気づかなかったのだろうか、しかし咲夜は疲れていたので考えるのを辞めた。
「おはようございます、パチュリー様」
「おはよう“ジャック”、事件は解決したみたいで良かったわ」
あの後一日療養した後、咲夜は現場に復帰した。一連の事件が潰えた事を皆に伝え、ようやく紅魔館に本来の姿が戻ったのである。そして咲夜はパチュリーから、予想通りの言葉をかけられていた。
咲夜は思っていた――パチュリー様の推理はほとんど当たっていたのだ、私が生粋の『殺人鬼』である前提を見抜き、“ジャック”である事も突き止めていた。そして私にアナグラムを突きつけた。惜しむらくは私が彼女本人ではなくて偽者、すなわち模倣犯であったことだ。パチュリー様は私が真犯人だと思ってしまったのだ――喉の奥先がチリチリした、喉が乾いているみたいだ。
「失礼します、私はお嬢様と出かけますのでよろしくお願いします」
パチュリーは咲夜を見送りながら思った、十一番目の鏡との決着は付いたのだと。
――吸血鬼は言った。
「今日からお前は私の従者になりなさい」
殺人鬼となった私は決して他の者と相容れることは無かった、この幻想郷でもそれは変わらなかった。人間なんて好きじゃなかった、興味もない。だから目の前の異質な存在に憧れたのかもしれない。この吸血鬼に対しても同様の殺意を持って襲い掛かったが、失敗してしまった。私は当然殺されるかと思ったのだが、こんな言葉を投げかけられたのでこう答えた。
「分かりました、これから貴女――お嬢様の元で仕えさせていただきます」
とても不思議な感覚だった――
深夜、外には霧が出ていた。
見通しが悪い中、木々、建物の陰が重なり合いいくつもの幻を見せていた。
こんな中に外出する人間が居るわけも無く、人々は皆して家の中でじっと過ごしているのだった。
「久しぶりの狩りね」
「久しぶりの狩りですね」
「美しい夜ね」
「美しい夜です」
「血が欲しいわ」
「血が見たいです」
「さあ行くわよ」
「ええ行きましょう」
咲夜は自分の衝動を満たせるこの場に立って、快感に浸れない一つの疑念があった。果たして自分は今のままで良いのだろうか。風に吹かれる草のように、流されるように狂気に堕ちた醜い“ルビドレ”でしか無いのだろうか。そんな疑念も、レミリアの姿を見れば一気に吹き飛ぶのであった。
“いや、違う。今の私は誇れる『夜霧の幻影殺人鬼』よ”
そういうわけで早々にネタばらし。
「『頭』の前提、『ジャック自身』、そして『十二番目の鏡』。3つの謎々遊びシャレードね」
“”文をの頭を繋げると『真犯人は人形使い』。
JTRが書いた“”の紙切れの11文字目を拾うと『ありす』
“”文の全ての行の12文字目を拾うと『とッれ―かすありみれ』(これを左右逆から読む)ということでした。
面白い作品を期待して読んでいただいてる方には恥ずかしい限りですが、精一杯頑張りますので、いつの日かその時を――
バラシちゃー駄目ー。
ま、パズルの苦手にゃオイラには無理だけど。
咲夜さんがジャックという解釈は多々あれど、この話のような目新しい
考察は非常に興味深かったです。
しかしルイスキャロルも、ロリコンやら殺人鬼やら色々言われているん
ですなー
これからも色んな世界を見せて下さいませ。
11番目の鏡、とか何とか、そう言う地点で、どこかでひっくり返すんだろうと思っていましたが……
小説の中に縦読みを使う、という発想は私も考えたことがありますし、何度か見聞きしたものでありますが、実際やってみて、ここまでのものを書き上げるのはなかなか。
1つ目の縦読みは何とかわかりましたが、その先まではわかりませんでした。
文章も面白かったし、いろいろな遊び要素を取り入れたこのSSはとても素敵だと思います。怪盗さんに見事に時間を盗まれました。
第一関門の歴史上の人物登場も、少なくとも私には抵抗無かったです。
暗めの話になる第二関門で、好みが分かれちゃうかもしれませんが…。
ちなみに私は、第二関門で引っかからなければ迷わず満点つけてましたよ。
でもあんまりレーティングとか気にしないで、是非このまま頑張ってください~。
謎解きはゼンゼンワカラナカッタノデスガ。
推理物は好きなんですけど当たったためしがない…。
ともあれ、面白い作品でした。
次回作をお待ちしてます。
>>床間たろひ氏
ごめんね、ばらしてごめんね
>>銀の夢氏
ルイスキャロル氏の作品『鏡の国のアリス』を少しでも引き合いに出した以上
敬意の意味でも言葉遊びの要素は入れようと思った次第です。
>>aki氏
謎解きが分からず、それでいて答えに納得してもらうのが推理物の成功だと思います。今回のポイントは『彼女』の人称ですが、地の文で『彼女』を連呼させまくることでアリスの発言を目立たなくしています。その点に「おお~」とか少しでも思っていただけると作者はニヤニヤ出来ます。
>>名前を伏せている能力の氏
大変有難うございます。結果的に点数は1000点を超え、レートは一応7点を超えることになりましたが、やはりこれは6点級の作品なんだと認識しています。既存の自分の作品を楽しんでくれる僅かな方はとても感謝しています、そしてその方々に恥じぬよう己を高めてこれからも楽しんでもらうため頑張ろうという所存です。
今回大変有難うございました。
こんな圧倒されたお話は初めてでした。素晴らしい。
縦書き云々を知ったのはコメントを読んでからという鈍さ。
面白かったです。ありがとうございました。