<AM 07:00>
「ふわぁ……」
紅美鈴の朝は早い。
早すぎて夜との境界が曖昧なくらいである。
それでも彼女に上奏奉る権利はないし、あったとしても実行する気は微塵も無いだろう。
植えつけられた概念とはかくも恐ろしいものなのだ。
さて、普段は己の存在意義について数十回は考察する暇のある美鈴であったが、今日ばかりは勝手が違った。
今、彼女がいるのは紅魔館正門ではなく、その脇に設えられた特設テントである。
レミリア・スカーレット生誕502年記念式典とでかでかと書かれた看板に、
何処から届いたんですかと問いかけたくなるような花輪の数々。
それらに囲まれて一人椅子に座っていた美鈴だが、眠気に耐えられなくなったのか、次第に船を漕ぎ始めていた。
豊かな胸元には『受付係 紅美鈴』の名札が輝いている。
比喩ではない。
名前の部分がラメ加工により、本当に光り輝いているのだ。
もっともそのせいで、反射する光が邪魔となり名前が読めなくなっているのだが。
なお、本人が気付いていないのは言うまでもないだろう。
「こらっ、美鈴!」
「わひゃっ!? す、済みません咲夜さ……って、何だ、あんたか。脅かさないでよ」
「何だとはお言葉だな、折角朝食を持って来てやったというのに」
「え、本当?」
「でもそんな態度を取られたのではなぁ……」
「ごめんなさい。済みません。申し訳ありません。私が悪う御座いました。どうか御慈悲を……」
「うむ。ならばよし、だ」
からからと笑いながら隣へと座ったのは、紅魔館内小悪魔農場担当メイド、八雲藍。
ホワイトブリムからはみ出す耳と、スカートの形状を物理的に変えざるを得ない九本の尾が異彩を放っている。
最初に見た頃は、正直あまり似合っていないと感想を抱いたものだったが、
今となっては見慣れた姿となっていた。
「農場のほうは良いの?」
「ん? ああ、今日は休業だ。お前さんを手伝ってやれとの指示が来たもんでな」
「あー、納得」
良かった。と内心息を付く。
このまま一人で最後まで受付やってろ、と言われた日にはどうしたものかと悩んでいた所だったからである。
本来、この部署には門番隊として数名のメイドが配備されていたのだが、
それらの人員は別の準備とやらに借り出されて行ったのだ。
それでも、普段どおりに門を守るだけならまだ良かった。
が、今日の仕事には、招待客と乱入者の選別も含まれている。
そういう意味では、相当に顔が広く、かつ実力も備えている藍はうってつけの人材と言えた。
「……それと、もう一つ指示があった。いや、指示というよりは通告かな」
「?」
「ようやく補充人員の目処が立ったそうだ、明日には全員通常業務に戻れるらしい」
「え? って事は……」
「ああ。私達は、今日を最後にお役御免だ」
「そう、なんだ……」
私達とは、ここ一週間で臨時に雇われた人員の事を指しているのだろう。
そう、僅か一週間。
されども一週間だ。
この期間で、二人は何かしらの縁のようなものを感じ取るに至っていた。
一騎打ちという最悪の初対面からは想像も付かない……いや、これは正しくないだろう。
戦いを通じて結ばれる友情というのも確かに存在するのだ。
もっとも、彼女らの場合は、些か常軌を逸してはいたが。
「どうした、柄にもなく寂しいとか思ってるんじゃないだろうな」
からかうように顔を覗き込む藍。無論、冗談の意を存分に込めて。
が、美鈴はというと、まったくの真顔で、
「うん」
と、返したのだ。
これには流石の藍も面食らう。
妙な空気になりかけたところで、美鈴がぼそりと語り始めた。
「この仕事ってさ、本当に暇なのよね」
「ん?」
「あ、いや、それ自体は悪い事じゃないとは思ってるわよ。
私が暇だってことは、紅魔館が平和だって事でもあるし」
「ん、まぁ、確かにそうだが」
「それとは別に、不満みたいなものもあるのよ。……ううん、最近はそれにも慣れちゃったかな。
ずーっとここにいると、外の人たちとの出会いっていうのが決定的に少ないのよ。
だから、かな。ここ最近の騒動が、すっごく楽しかった……とか言うと怒られちゃいそうだけど。
でも、本当に楽しかった。
馬鹿みたいに強くて大食いの新人がやってきたり、門の前に猫が捨てられてたり、
精神面がかなり歪んでる狐が強行突破してきたりさ」
「その歪んだ狐とやらは私の事か」
「でもさ、それってやっぱり普通じゃないんだよ。
だから、本来あるべき姿へと修正されていくのもまた自然な事。
それには逆らうことは出来ないってのも分かってる」
「……」
「分かってるんだけど……それでも、感情の問題は別。
やっぱり、新しく増えた知り合いと離れるのは辛いし、寂しいよ。
……あはは、本当に柄でも無いね」
「違いない」
「って、そこは否定する所じゃないの?」
「自分で分かっているような事をどうして否定せにゃならんのだ」
「酷っ」
「……ま、安心しろ、私も同感だ。
だから偶には遊びにでも来るさ、橙もここが気に入ったみたいだしな。
もっとも、その時はメイドとしてではなく客としてだが。
……ん? そうなると私達は排除対象になるのかな?」
「どうかな。多分、私の気分次第」
「いい加減だな、門番」
「それくらいの特権はあっても良いでしょ」
紅魔館の門前に、二人の笑い声が木霊した。
「……ん?」
ひとしきり笑った所で、美鈴の表情が怪訝なものに変わる。
横に視線を向けると、藍もまた何かに感づいた様子が見受けられた。
「分かるか?」
「馬鹿にしないでよ、これくらい……」
美鈴は、言いながら席を立つと、両足を大きく開いた構えを取る。
組み合わされた両手に、目にはっきりと映る程の気が収束されて行く。
そして、最大限まで気が高まったところで、一気に発散。
「破っ!!」
四方八方へと拡散された気。
その意図は、直ぐに知ることとなる。
「わきゃっ!?」
どこか間の抜けた声が上がった。
何もいなかった筈の空間から、一つの影が姿を現す……否、強制的に露とされる。
ぽてり、と地面に落ちたのは、長く伸びる角が特徴的な、どこまでも小柄な少女。
萃まる夢、幻、そして百鬼夜行等といういかめしい二つ名を持っていたが、
実際は酔っ払い鬼やら乳臭さと酒臭さの境界、等と極めて適当に呼ばれる事が多い、伊吹萃香その人であった。
「あたた……もう、何すんのさ」
「何すんのさ、じゃないでしょ。不法侵入者を捕らえるのが私の仕事。当然の配慮よ」
「不法じゃないよ、ほら」
自信満々に、一枚の紙を突きつける。
でかでかと書かれた伊吹萃香様の文字。
紛うことなき、招待状である。
「こいつにまで届けたのか。節操が無いにも程があるぞ」
「私に言わないでよ。って、咲夜さんにも言わないでよ?」
「言わんよ。ロクな事にならないだろうしな。
……にしても、招待されてるなら普通に来れば良いだろうに。
どうしてわざわざ浸入に走るんだ」
「なんとなく、かな?」
「……言うと思った」
そもそも萃香がその気になれば、誰も気付かぬままに内部へ入る事など造作も無い筈である。
故に、なんとなくという言葉には、不思議なほど信憑性があった。
「大っぴらな宴会なんて久し振りだしさー、ちょっとは気が昂ぶるのも不思議じゃないでしょ」
「だからって、こんな早くに来られても困るんだけどね」
「だな。ともかく入るなら、台帳に名前を書いてからにしろ」
「はいはい」
萃香は、酒臭さを存分に振りまきつつ、すらすらと名前を書き上げる。
見かけによらず、中々に達筆であった。
と、書き終えた瞬間、正面に座っていた美鈴に向かって、びしりと指を突きつけた。
「あんたの事、知ってるよ。
ずっと……じゃ無いけど、少し見てきたもの。
宴会には殆ど来てなかったね。いや、呼んでもらえなかったのかな?
いつもお仕事ご苦労様です。
って言われても良いくらいだけど、実際はあんまり役に……んきゃー」
「お得意のプロファイリングはそこまでだ。客なら客らしく大人しくしてろ」
藍が萃香の首根っこを掴んでは持ち上げる。
少しは抵抗しても良さそうなものだが、それすら面倒だったのか、されるがままである。
むしろ、吊り上げられるのが気に入ったのかもしれない。
「じゃ私はこいつを連行してくる。少しの間、頼んだぞ」
「はいはい、よろしく」
「たびぃ~ゆけばぁ~っとくらぁ」
門の向こうへと消えてゆく、はぐれ酔っ払い鬼自然派。
記念すべき日のお客様第一号に相応しい相手だった。
「今日は忙しくなりそうだなぁ……」
<AM 11:00>
紅魔館、中庭。
式典の舞台……要するにパーティー会場となる場所である。
天候の変わりやすいこの時機にガーデンパーティーとは見上げた心意気だが、
この館には天候を自由に操れる輩が複数存在するので問題は無いのだった。
「そこ、もう少し右に寄せて。スペースは大きめに取るようにして」
世界の中心ならぬ庭園の中心で指揮を取るのは、紅魔館侍従長、十六夜咲夜。
今日のパーティーは、彼女の復帰の舞台でもあった。
つい先日までベッドで唸っていた身には、些か厳しい任務であったが、それを苦とはまったく感じていない。
思うはずもない。
主の為に働ける事は、彼女にとって最大の喜びなのだ。
「精が出るわね。メイド長完全復活って所かしら?」
「ええ、お陰様でね」
この台詞を皮肉抜きで出すのは久方ぶりだった。
すっかり見慣れたロングスカートに、どこまでも悠然とした態度。
メイド長代理補佐心得の座から降りた今も、それは変わらない。
「そろそろ気の早い連中が来る頃ね」
「もう数人来てるわよ。暇人の多い事」
「暇つぶしにメイドやってる奴が言うんじゃないの」
咲夜が復帰した時点で、永琳がここにいる理由は無くなっている。
むしろ、招待状を送った相手でもあるのだから、客として振舞っても当然だ。
だが、永琳はそれをよしとはせず、パーティーが終わるまでは手伝うと申し出ていたのだ。
相変わらず、意図は読めない。
が、そこに悪意が含まれてないことは、これまでの付き合いから読み取れていた。
故に、断る必要も無いのだ。
「どうせだから姫に私達の姿を見て驚いてもらいたいってのもあるわ」
「人の心を読まないでよ。
……っていうか、驚くのアレ? むしろ、喜んで状況を受け入れそうだけど」
「……そうかも。イナバ達にもメイド服を着せるとか言い出しそうね」
「……」
ああ、幻想郷全土に広がるメイドの輪。
レミリアもさぞかしご満悦だろう。
「どうも、お久し振りです」
「「あら」」
声がハモる。
それに気付いて顔を見合わせるも、また同時だった。
「仲が宜しいんですね」
「そうよ、大の仲良しさんなの」
「誰がよ……」
軽く舌打ちしつつ、相手へと向き直る咲夜。
小柄な身体に似つかわしくない二振りの刀を背負った一人の少女。
ボディチェックに引っ掛かりそうなものだが、この少女から刀を取った姿は想像が付かない。
だから、受付の二人を責める気は起きなかった。
「ようこそ紅魔館へ。心から歓迎するわ」
「い、いえ、こちらこそ。お招き頂きありがとうございます」
「……」
「……咲夜さん?」
「……貴方、妖夢?」
「へ? 確かに私は魂魄妖夢ですが。……他の誰かに見えますか?」
「い、いえ、そうじゃなくて、えーと……」
それっきり黙りこんでは、何やら考え込み出してしまう。
突然の奇行に困惑する妖夢であったが、そこに助け舟が入る。
「ああ、気にしないで。この子、病み上がりで少し変なのよ。元々変だけど」
「そ、そうですか……」
助け舟と言うには、さりげなくキツかった。
「それにしても、随分早いわね。
パーティーは夜からよ?」
「あ、はい、少しお手伝いをさせて貰おうかと思いまして」
「え? ええ、それは願ったりだけど……良いの?」
「はい。お客様に専念するというのはあまり性に合いませんので」
「貴方らしいわね。なら厨房の方を手伝って貰えるかしら。今頃ウドンゲが四苦八苦してる筈よ」
「鈴仙さんもですか……本当に皆さん侍従になっているんですね」
「……まぁ、色々と事情があってね」
決して、己の趣味でやらせているとは言えなかった。
「待った!」
メイド長、覚醒。
キッと目を見開いたかと思うと、真剣な瞳で妖夢に向き直る。
「な、なんですか?」
「妖夢。たとえ一時的であろうと、紅魔館で働く者には絶対的なルールが存在するの。貴方は守れる?」
「ど、どんなルールですか?」
「こんなルールよ」
もはや語るまでも無いだろうが、それでも記しておかねばならない。
それが私に課せられた使命である。
妖夢はメイド服を着せられていた。
以上。
「これがメイド服ってやつですか……」
「「……」」
いつも付けていたリボンを、ホワイトブリムへと変えた妖夢が、くるりとその場を回る。
背負われた刀がどこかアンバランスに見えて、それでいて調和しているという不思議なスタイルだった。
「なんだか、ヒラヒラしてるように見えて動きやすいですね。少し気に入りました」
「「……」」
「……? どうかしましたか?」
「「……」」
「あ、あの、やっぱり似合ってませんか?」
「「ネイン!!」」
何故かドイツ語で答える二人。
不思議な迫力に、妖夢は驚きすくみ上がる。
これで一ターンは動けまい。
「違う、違うのよ妖夢。
何と言ったら良いのかしら。とても大事な何かが、長い長い時を経て、
ようやくあるべきところに収まった……私は今、そんな感動を味わっているわ」
「良い表現ね……本当にそう。
もし、最初に来ていたのが貴方だったなら……いえ、止めましょう。
過去は振り返ってはいけないのよ。ファイトよ咲夜!」
「……」
いったい幽々子様は何をやらかしたんですか?
そう問いかけるのは簡単だ。
だが、妖夢には出来なかった。
そんな簡単に尋ねていいほど軽い出来事ではなかったというのが、咲夜の表情から分かってしまったからだ。
もっとも、それによりますます疑念は深まるのだが。
「あ、あの、それじゃ私、行きますね」
「ええ、お願いするわ」
「程々で切り上げなさいね、貴方はあくまでもお客様なんだから」
「はい」
ぱたぱたと走り去っていく妖夢を、しばし呆然と眺めていた二人。
年の功か、先に動き出したのは永琳だった。
「まったく、己を知らないにも程があるわ。
もしレミリアに見られたら、そのままお持ち帰りされかねないわね」
「人の主人を変態扱いしないで……否定できないけど。
それよりも、ちょっと聞きたい事があるの」
「何?」
「……妖夢って、あんなに礼儀正しい子だったかしら?」
「はあ?」
質問の意図が今ひとつ飲み込めなかったのか、気の抜けた返事を返す永琳。
が、咲夜の表情は至って真剣だった。
「言葉通りよ。真面目に答えて」
「んー、私の知る限りでは普段からあんな感じだった気がするけど……違うの?」
「違うわね。もっとこう、ぶっきらぼうというか……そうね、以前なら、
『ああ咲夜、人手が足りないのか? お願いするなら手伝っても良いぞ』とでも言ったんじゃないかしら」
「そ、そうなの」
この発言には、永琳のほうが驚きを感じていた。
固すぎるほど固く、礼儀正しすぎるくらい礼儀正しい、正に今を生きる侍。
妖夢に対してそんなイメージを持っていただけに、にわかに信じがたいことだった。
ついでに言えば、声色が似すぎていたのも驚きだった。
「それって、軽く見られていただけじゃないのぉ?」
能天気、と評するに相応しい口調だった。
「……そういえば貴方も招待してたっけ」
「あらま、自分で呼んでおいて酷い言い草ね」
紫は手にしていた日傘をくるりと回す。
突然現れた事は何ら不思議ではない。
そういう相手なのだ。
「妖夢と一緒に来ていたの? 珍しい組み合わせね」
「そんな事無いわよ。既に私と妖夢はステディな関係ですもの」
「「!?」」
メイド長及び元代理補佐心得、絶句。
それだけに留まらず、互いの頬を抓ろうと試み、勢い余ってクロスカウンターをかます始末である。
「あら、そんなに衝撃的な事実だったかしら。
最近は物を教える事も大層な部類に入るのね。奥ゆかしい世界になったこと」
「って、それはスタディでしょうが! 発音も用途も微妙なのよ!」
即座に復活して突っ込む咲夜。
あまりにも早い復活は、時間を止めていたからだという噂もある。
どこの噂かは知らないが。
「ま、別に良いじゃないの、今は違うって事なんだし。
妖夢だってまだ小さいんだから、少しくらい精神面で成長しても不思議は無いでしょう。
男子三日会わざれば刮目して見よって言うじゃない」
「女子じゃないの」
「それはそれ、これはこれよ」
わけの分からない答えを返すと、紫はスキマを展開し始めた。
「む、何処へ行くつもり?」
「ないしょ。今日の私は色々と忙しいのよ」
「って貴方、また妙な事を企んでるんじゃ……」
問いかけが終わる前に、スキマの中へと消える紫。
時間を止める暇もない早業だった。
「八雲紫、か。怪しいわね」
「アレはいつだって怪しいわよ……それにしても困ったものね」
「ええ、絶対に何か仕出かすわ。あの目は、そういう類の目よ」
「……貴方が言うと説得力があるわね」
「そんなに褒めないでよ」
冗談めかして言う永琳だが、その目は笑ってはいなかった。
「(その時は……やるしか無いか)」
<AM 11:30>
かりかりかりかりかりかりかりかりかりかり。
某オンラインゲームの日常ではない。
鈴仙・優曇華院・イナバの置かれた実情を、擬音にして表現したものである。
「……うー……終わんないよぅ……」
今、彼女が従事しているのは、料理の下ごしらえの一つ、野菜の皮剥き。
シンプル極まりない仕事であるが、問題はその量にあった。
何しろ、咲夜がばら撒いた招待状の数と来たら半端なものではない。
故に、用意される料理の量も、また膨大である。
唯一の救いは、幽々子が客ではないという事くらいだろう。
「にんじん……じゃがいも……ぴーまん……くれそん……」
ピーマンやクレソンは剥かないだろう、との突っ込みも入らない。
今の彼女は一人っきり。
その閉鎖された空間が、一層欝を加速させる。
「せろり……もろへいや……もういや……もういやああああああああああ!!」
ついに鈴仙は壊れた。
この数日間で溜めに溜め込んだストレスが爆発したのだ。
その原因が紅魔館の住人であるのなら、まだ問題は少なかったろう。今日が最後の日なのだから。
だが、彼女のストレスの供給源となっていたのは、一に幽々子で二に永琳である。
まさに悲劇だ。
「れ、鈴仙さん!?」
丁度そこに、妖夢が現れた。
タイミングが良いのやら悪いのやらだ。
「嫌い嫌い! みんな大ッ嫌い!」
包丁を片手に暴れまわる鈴仙。
鍋を断ち割り、おたまを弾き飛ばし、大根の皮は見事な千切りに変貌を遂げる。
「くっ!」
妖夢の判断は早かった。
瞬時に鈴仙へと駆け寄ると、凶器を奪い取らんと手を伸ばす。
が、今の鈴仙には、何も見えていなかった。
問答無用で、包丁を振り下ろしたのだ。
「……ふっ!」
「!?」
狂気の包丁は、妖夢の頭上わずか数センチの所で停止した。
正確には、妖夢の手によって止められていた。
俗に言う真剣白刃取りである。
熟練者同士の立会いならともかく、素人が振り回す刃物を受け止める程度は、妖夢にとっては造作もない事だった。
そのまま両手で挟み込んだ包丁ごと身体を捻る。
勢いを流された形となった鈴仙は、自然と前方へと転がされた。
「もう、危ないじゃないですか。一体どうしたって言うんですか?」
「……よーむ……」
ぺたりと床に座り込んだ鈴仙が、虚ろな瞳で妖夢を見上げる。
次第にその瞳に、じわりと涙が浮かび上がる。
決壊までは、ほんの一瞬だった。
「うわあああああああああああああああああああああ!!」
飛びつくように妖夢へと縋り付いた鈴仙は、本能のままに大声で泣き叫ぶ。
「……」
しばし呆然としていた妖夢であったが、目線を合わせるように自ら腰を下ろすと、
鈴仙の小さい背中を、その両手でぎゅっと抱きしめる。
「わ、わたっ、こ、こんな、がんばって、のにっ、どうし、てっ、
ししょ、もっ、ゆゆごさんも、わたしっ、おもちゃっ、くらい、しか、おもってっ、うくっ」
支離滅裂な言葉であったが、それでも鈴仙が何を言いたいのかは理解できた。
要は、散々に弄られたという事だろう。
それ自体は別に珍しくはない。言い方は悪いが、ただの日常風景である。
が、それも、紅魔館という異質な場所。しかも幽々子まで関与してるとなると話は変わる。
急激な環境の変化は、精神面に絶大な影響を及ぼすのだ。
「うっく、へぐっ、ひっく、うぐっ」
「……」
また、常日頃から幽々子に弄られるものとして、鈴仙の気持ちは痛いほど分かる。
付き合いの浅いであろう彼女には、到底耐えられるものではなかったのだろう。
「(それくらい、幽々子様だって分かってる筈なのに……)」
先程の咲夜の反応と良い、ここに来て幽々子の行動に疑念が生じる。
無論、幽々子が何を考えているのかなど分からない。
妖夢のみならず、誰も分からないだろう。
だがそれでも、紅魔館での幽々子の行動は、どこか危うさのようなものが感じられたのだ。
「……ありがとう、もう、大丈夫」
鈴仙が、鼻をすすりつつ顔を上げる。
瞳は真っ赤に染まっているが、これは涙のせいではなく素である。
「その、ごめん。貴方は関係無いのに」
「……そんなことはありません。主人の不始末は私の責任でもあります」
「そんな大袈裟なものじゃないよ。……私が弱いだけだから」
「……その、少し擁護をさせてもらいますと。
別に幽々子様は鈴仙さんの事が憎くてやってる訳では無いと思います。
あの方は、どうでもいい相手なら無視しますし、本当に憎く思っているのなら、
それこそ筆舌に尽くし難い陰惨な責めを行う筈ですから」
「……好かれてるって言いたいの?」
「はい」
「そっか……あんまり嬉しくないなぁ」
言葉とは真逆に、鈴仙の表情がいくらか柔らかいものへと戻ったのが分かる。
単純と言うなかれ、これこそが彼女の美徳なのだ。
「お仕事しましょうか。私も手伝いますから」
「……うん」
かりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかり。
継続される皮剥きバトル。
戦力が二倍になった事により、速度もまた二倍に上がっている。
この分なら何とかなりそうだと思ったところで、野菜の山が追加されるというパターンが続いていた。
何のいやがらせか、と言う暇も無い。皆必死なのだ。
「ふぅ、本当に凄い量ですね」
「そうだね……こんなに料理作って大丈夫なのかな」
口は開いても手の動きは些かも鈍る事は無い。
特殊スキル『皮剥き』を取得済みの二人だからこそ出来るのである。
「どうでしょうね。間違いなく一番の消費量を誇る人が……あ、そうだ」
「?」
「幽々子様が何をしているのか、ご存知ありませんか?」
そう言った途端に、鈴仙の表情が曇る。
「何、かぁ……私をからかうことかなぁ……」
「失礼、言葉が足りませんでした。今現在どこで何をしているのかです」
「……ああ、そっちの意味ね。多分、妹様の所だと思う」
「妹様?」
「うん、レミリアさんの妹。
遊び相手に任命されたとか言ってたけど……どっちかって言うと遊んでるっぽいわね」
「……左様で」
さもありなん。
妖夢は今だ見ぬ妹様とやらに深い同情を覚えた。
もっとも、同情が通じるような相手でも無いのだが。
「や、鈴仙」
「あっ、妹紅さん」
にこやかに現れつつ、おいすーと手を上げる少女。
ワイシャツにサスペンダー付きのもんぺという実に微妙な服装である。
パーティーだろうと何だろうと己を貫き通す強固な意志の持ち主なのか。
はたまた只の面倒くさがりかは判別が付かない。
「どうしたんですか? こんな所で」
「いや、何か苦労してるって聞いたんで助太刀に来たんだけど……にしてもあんた、凄い格好してるねぇ」
「あああ言わないで下さいよぅ、せっかくもう慣れたっていう自己催眠が完了しそうだったのに……」
「うわぁ、凄い逃避」
赤面してスカートを抑える鈴仙を眺めつつ、けらけらと笑いを上げる妹紅。
なお、両の手は既にポケットの中である。
「不良さんですか?」
ついそんな台詞が口をつく。
確かに、ヤンキー座りに煙草を咥えさせればこれ以上似合う人材はいないだろう。
「……初対面の第一声がそれなの? ま、否定はしないけど」
「す、済みません」
「あれ? 会った事無かったっけ?」
「え?」
鈴仙の言葉に、妖夢は記憶を探り出す。
が、いかに脳内ハードディスクを検索しようとも、この人物が出てくることは無かった。
「ほら、いつもウチの姫と殺し合いしてる人よ」
「酷い紹介ね……んじゃま、自己紹介と行きますか。
私は藤原妹紅、千年とちょっと蓬莱人やってます」
「ああ、貴方が……始めまして、魂魄妖夢と申します」
ぺこり、と頭を下げつつ、ようやく検索条件と一致した事に安堵する。
いつだったか輝夜の主催で肝試しを行った際に、文字通り肝となって立ちはだかった人物。
といっても、そんな事があったと聞いただけで、妖夢は直接は会っていない。
肝試しの完遂を果たしたのは、レミリアと咲夜のチームだったからだ。
そういう意味では、紅魔館と関係が深い人物であると言えない事もない。
今日、招待されているのも、その流れがあったからなのだろう。
もっとも、二桁に渡って殺されるという、まっとうとは言い難い関係である。
そんな相手を招待する咲夜も咲夜だし、やってくる妹紅も妹紅だ。
世界は広い。
「そんで、私は何をすれば良いのかな?」
「あ、それじゃ私と妖夢で剥いた野菜から、リストの通りに切っていってください」
「ん、了解」
「!?」
その瞬間、妖夢が驚愕に固まる。
視線の先にあるのは、包丁を手に取った妹紅。
それが驚きなのではない、問題はそこに至る過程だ。
ポケットに手を突っ込んだ体制から、包丁を構えるに至るまでの途中経過がまったく見えなかったのだ。
気が付けばそうなっていた、としか言いようが無い。
目を逸らしてはいない。一部始終を見ていた筈である。
なら、時間でも止めたのかとも思うが、それが出来るのは幻想郷広しと言えども、咲夜くらいのものだろう。
だとするならば……。
「(そうか……ポケットから手を抜いたんじゃない。
手からポケットを抜いたんだ。
この人……出来る!)」
そう妖夢は結論付けた。
もっとも料理には完膚なきまでに関係なかったが。
事実、妹紅の包丁捌きは、感嘆に値するだけのものがあった。
それなりに自信があった妖夢だが、妹紅と比べるとどうしても見劣りしてしまう。
ちなみに、胸の話ではない。
「ん、どしたの?」
「いえ、凄いなぁ、と」
「そうかな? まぁ長いことやってりゃこれくらい出来るようになるって」
「そういえば妹紅さんって昔からお料理好きでしたよね」
「ま、時間だけは腐るほどあったからねぇ」
成る程、とは思う。
料理の世界は、才能云々だけでどうにかなるようなものではない。
それまでに積んだ経験が大きなウェイトを占めるのだ。
「料理は良いよ。どれだけの歳月を賭けても、決して終わりが見える事は無いから」
「……そうですね」
永遠の時を生きる蓬莱人である妹紅が言うだけに、その言葉は重かった。
料理だけではない、剣の道もまた同じである。
自分はまだ、先を見る段階にも達してはいないだろう。
でも、それが問題だとは思わない。
逆を返せば、それだけ成長できる余地が残されているとも言えるのだから。
だが……。
「(幽々子様は……どうなんだろう……)」
<PM 02:30>
「……」
暗く、長い階段を、一歩一歩降りる小さな影。
紅魔館の主、レミリア・スカーレットその人である。
この場所を訪れるのは数日振り。
妹の遊び相手を幽々子へと任せてからは初めての事だった。
だから、か。
期待と不安がない交ぜになった不思議な感覚をレミリアは覚えていた。
勿論、幽々子からの報告は受けている。
「概ね上手くいってます」
だそうだ。
だが、それを素直に受け取るほど、レミリアは幽々子を信用してはいない。
となれば、後は自らの目で確かめる以外に手は無い。
特に、今日が特別な一日であることを考えると、タイミングは今以外に有り得ない。
だからこそ、こうして早起きをしてまで訪れたのだ。
昼過ぎのどこが早起きやねんと言うなかれ、レミリアにとってはまだ夜明け程度の時間帯である。
『……かな?』
『……よ』
扉の前まで辿りついたところで、会話らしき音が耳に入る。
フランドールの部屋には、弾幕ごっこ対策として、内向きの防音結界が張られているのだが、
その程度の障壁は、五感をフルに発揮したレミリアの前には無力だった。
「(それだけ気を張っていたという事かしら。……馬鹿馬鹿しい、たかだか妹に会いに来たってだけじゃないの)」
心の中で言い訳をする。
が、聴覚をより一層研ぎ澄まそうとしている辺り、説得力が皆無だった。
『ねぇ、変じゃない?』
『いやいやフランちゃん、今の貴方はまさに至高の妹よ。海原雄山だって諸手を挙げるわ』
『あ、うん、ありがと。……って、誰それ』
「(……フランちゃん?)」
聞きなれない……というか初めて耳にする呼び名だった。
にも関わらず、これ以外に何があるのかと言わんばかりの説得力が感じられる。
が、今問題とすべきはそこではない。
幽々子がフランドールと対等の立場で接しているであろう事が問題なのだ。
これが最後であるとは言え、今日一日が過ぎ去るまで、幽々子は紅魔館のメイドである。
即ち、当主の妹であるフランドールは、自分と同じように敬意をもって接するべき存在なのだ。
「(……って、あいつが敬意を払った試しなんて無かったか)」
少なくとも、スリッパで後頭部を引っ叩く行為に敬意は感じられない。
馬鹿らしくなったのか、レミリアはため息混じりに扉へと手をかけた。
「フラン、入るわよ」
それは奇跡と言えた。
宇宙の誕生とも称して不思議は無いだけの閃光がレミリアを包み込む。
奇跡を起こした相手は、愛すべき妹フランドール。
あまりにその存在は眩しく、到底直視など出来る筈もない。
だが、それでも視線は逸らさない。
それがレミリアに課せられた使命。
というより本能。
だが、それに耐え切れるかどうかは別の次元の話。
行き場を失った思想は、あるのか無いのか今ひとつはっきりしない脳内を盛大に駆け巡った挙句、
鼻腔を直撃するという結末を迎えたのだった。
「ふぼっふ!」
等と大袈裟な表現をしてみたが。
要は、レミリアが盛大に鼻血を吹いたというだけである。
「お、お姉様!?」
「あー、ここまで効果覿面とはねぇ」
血の海に沈む吸血鬼。
スカーレットデビルの二つ名に相応しい姿ではあるが、原因が己の鼻血では救えまい。
幽々子は動揺するフランドールを制止しつつ、倒れたレミリアへと歩み寄り、
その鼻へとティッシュを詰め込んだ。
「だ、大丈夫、なの?」
「んー、平気でしょ。鼻血の専門家を呼ぶ程のものでもないわ」
「専門家って誰の事よ……!」
むくりと起き上がり、幽々子へ詰め寄らんとするレミリア。
が、どうにもふらふらと、危なっかしい足取りである。
余程多くの血が抜けたのだろう。
「ごきげんようレミリア様。此度は如何なさいましたか?」
「如何なさいましたか? じゃないでしょ! よくもいけしゃあしゃあと……」
勢い込んで胸倉を掴み上げた所で、レミリアの動きがピタリと止まる。
「(……どう問い詰めれば良いのよ)」
今のレミリアの行動を客観的に見れば、部屋に入ったところで勝手に鼻血を吹いて倒れたというだけである。
それは責められこそすれども、何ら攻撃材料とはならない。
ましてや、フランドールの前と来れば尚更である。
「そうよ、フラン……ぐっ」
視線を動かした瞬間、再びイケナイ物が込み上げてくる。
些か複雑な感情が入り混じっているとは言え、基本的にレミリアはフランドールを溺愛していた。
が、それは決して邪な感情では無い。
……と、思っていたのだが、どうも説得力に欠ける気がした。
妹の幼き身体と、一般指定ギリギリのデザインをしたメイド服の、夢のコラボレーション。
一部の者は、あざといと嘲笑うかもしれない。
だが、レミリアにしてみれば、それこそがお笑い種だ。
あざとかろうと何だろうと、良いものは良いのだ。
ふわりとした金髪にホワイトブリムの白が映えているではないか。
胸元のリボンがきちんと結べていないのが、より良きアクセントとなっているではないか。
見えそうで見えない絶対領域に至っては、言語に尽くし難い。
ロングも良いがミニも良い。
フランドールはそのかけがえの無いものを教えてくれた……。
この良さが分からない愚か者には、魂付きのグングニルを叩きつけてくれよう。
ビバ、メイド!
「(って、それじゃダメじゃないの!)」
心の中で突っ込みつつ、頭を振って邪念を逸らす。
だが、それでも溢れ出る衝動と鼻血を抑える事が出来ない。
ああ、恨めしい。
メイドフェチなる呪いともいうべき趣味を持ってしまった自分が恨めしい。
「お姉様、大丈夫?」
姉の奇行に耐えられなかったのか、フランドールがレミリアへと歩み寄る。
それがかえって逆効果となるとも知らずに。
当然、レミリアはフランドールが近寄った分だけ、後退する。
本心は飛び掛りたいくらいだったが、まだ今は理性が勝っていた。
「え、ええ、私は平気よ。だから、もう少し離れて……」
「ほら、フランドール様。レミリア様が困っていらっしゃいますよ」
「あんたが言うんじゃないのっ」
キッ、と睨みつけてはみるが、幽々子はまるで涼しい顔だった。
どう見ても、この状況を楽しんでいるとしか思えない。
「(……こいつは……)」
幽々子は間違いなく自分の趣味について知っている。
情報源は考えるまでもなく、フランドールだろう。
だが、何の悪気も無かったであろう妹を責める気にはなれない。
かと言って、ここで幽々子を問い詰めるのも拙い。
恥を自ら晒してしまう行為であるからだ。
しかも、それに加え、フランドールが幽々子に懐いてる節も見受けられる。
即ち、ここで起こすあらゆる行為は、墓穴を掘る事に他ならないという訳だ。
すべて計算づくだとしたら、恐ろしいとしか言い様が無い。
ともあれ、この部屋に留まるのは精神的にも体力的にも好ましくない。
そう判断したレミリアは、鼻のティッシュを魔力で原子単位まで分解しつつ口を開く。
「……花子、少し話があるの。ちょっと上まで来て」
「はい、分かりました。
ではフランドール様、また後ほど」
「え? あ、うん」
疑問符を浮かべっぱなしのフランドールを置いて、二人は部屋から出て行った。
床へと飛び散った鮮血もそのままに。
「……これ、どうしよ」
「(面白かったけど……流石にちょっとばかり拙いかしら)」
一歩前を歩くレミリアを眺めつつ、ゆっくりと階段を上る幽々子。
その後姿からは、感情の度合いは読み取れない。
が、先程の出来事から考えれば、怒気を押し殺しているであろうとは推測が付く。
ついでに鼻血も。
とは言え、このまま黙っているわけにもいかない。
幽々子は意を決して声をかけた。
「それで話とは何でしょうか?」
階段は長い。話をするくらいの時間は十分あった。
レミリアは振り向くことなく、前を向いたまま口を開く。
「……どうやら、遊び相手は上手く勤めたようね。ご苦労様、花子」
「あ、有難う御座います」
レミリアの言葉の響きからは、他意は感じられなかった。
故に、幽々子もそれを素直に受け取る。
「あの子は、ね。生まれてから一度も紅魔館を出た事が無いの。
それどころか、部屋を出た事も稀。
理由は……分かるでしょう?」
「……はい」
この数日間を通じて、フランドールの危険性は嫌という程理解していた。
幸い、経験の差もあってか、幽々子が遅れを取った事はない。
が、それも、あの狭い部屋での弾幕ごっこという範疇があってこそ。
屋外で思う存分力を振るわれれば、どうなるかは分からない。
そして、彼女にはそれを制御するだけの常識は与えられていない。
否、身に着ける事が出来ないのだ。
レミリアにはそれが最初から分かっていたのだろう。
だからこそ、このような地下へと閉じ込めた。
そこから出ない事が貴方の自然な日常だ。と植え付けたのだ。
事実、フランドールが自ら表へ出たがる様子は見受けられなかった。
そこまでせずとも、とは言えない。
何かが起きたとき、一番悲しむのは、誰あろうフランドール自身なのだろうから。
彼女は決して、ただの狂人ではない。
平常と異常の境界が無い。それ故の悲劇だった。
「でも……それも限界なのかもね」
「……」
幽々子は何も言えなかった。
500年近くに及ぶ苦悩は、容易く言葉にして良いほど軽いものではないだろう。
だが、それでもいくらか感じ取れたものはある。
確かにフランドールが館の外へ出たがる事は無かった。
しかし、それと興味が無いのとは、同義ではないのだ、と。
「それはそれとして……」
再びレミリアが口を開いたのは、階段の終着点。
即ち、二人が紅魔館の一階へまで上り切った瞬間だった。
「……?」
この時、幽々子は明らかな空気の変貌を感じ取っていた。
それまでの重い空気から一転して、ウクレレの響きの如き軽快な空気へと。
言うなればそれは、ドリフ時空。
何があっても不思議ではなく、何が起ころうとも許される恐怖のショータイムだ。
「どさくさに紛れて、余計な知識ばっかり与えるんじゃないっ!!!」
「!?」
振り向きざまに放たれる左のストレート。
完全に虚を突いたタイミングに加え、吸血鬼の身体能力を存分に発揮した一撃である。
到底、常人の見切れるものではない。
が、残念な事に、攻撃対象たる幽々子は常人とは言いがたかった。
「(……見える!)」
速度、軌道、狙い、全てをコンマ以下の時間で読み取る。
後は読み通りに回避するだけで事は足りるのだが、幽々子はそれを是としなかった。
「正当防衛っ!」
左ストレートに被せるように、フック気味の右を打ち放つ。
レミリアの一撃が強力であればあるほど、幽々子の攻撃も比例して強力となる。
正に電光石火のクロスカウンター。
それは狙い違わずレミリアを打ち抜……けなかった。
手ごたえが無い。
レミリアを直撃するはずの拳は、まるで明後日の方向へと向き、空気を打ち抜くに留まっていたのだ。
何故? と考える暇は、幽々子には与えられなかった。
「デストロォオオオオオオオオオオオオオオオオイ!!」
ロックな断末魔を上げつつ、幽々子は吹き飛んだ。
壁をぶち抜き、天高くへと。
それは一筋の流れ星とも言えた。
ルパンではない。
鳥人間コンテスト動力無し部門なら不滅の大記録を達成していただろう。
「……」
レミリアはパンチを打ち抜いた姿勢のまま固まっていた。
伸びた手は……右。
そう、最初に放った左ストレートそのものが罠だったのだ。
誘いに乗った幽々子がカウンターを放ったところを、左の肘を曲げる事によって軌道を逸らす。
そして、がら空きになった顔面に渾身の右の一撃。
これぞスカーレット流拳闘奥義、ブラッディクロスである。
「お嬢様! 今の音は……って!?」
騒動を聞きつけ、いち早く駆けつけたのは咲夜。
だが、目の前に広がった異常極まりない光景に、思わず声を詰まらせる。
フランドールの地下室へと続く階段の前という微妙な場所で、
手を真っ直ぐ伸ばしたまま硬直しているレミリア。
しかも、全身血塗れである。
手の方向に視線を送ってみると、綺麗に人型にぶち抜かれた壁が見える。
古の漫画にしか有り得ないと思われた現象は、果たして現実に起こりえたのだ。
混沌には慣れたとは言え、物には限度というものがある。
「何があったのですか! 暴漢の仕業ですか!?」
「……」
「外傷は……無いですね。それにしても何処の不届き者が……」
「……さくや……」
「はい、咲夜です。私が来たからにはご安心……」
聞いているのかいないのか、レミリアは台詞を遮るようにくるりと振り向くと、
「えへへ……やっちゃった」
等と、言い放ったのだ。
響きとは裏腹に、後悔の念がまるで感じられない。
どこまでも清清しい笑みだった。
「……くっ!」
思わず鼻血が吹き出そうになるのを、鼻腔の粘膜の時間を止めるという荒業で押さえ込む。
このタイミングでやらかしてしまえば、間違いなくレミリアは血のシャワーを浴びるだろう。
それはそれで美しいんじゃないかと思いもしたのだが、
その後に訪れるだろうカタストロフと天秤に掛けると、実行は到底不可能であった。
最悪なのは五年前の今岡で十分だ。
ともあれ、咲夜は今世紀最大のビッグウェーブを奇跡的に乗り越えたのだ。
「……という事よ」
と、そうこうしている内に、レミリアは状況説明を始めていた。
というか、既に締めくくりに入っている。
「はぁ……」
殆ど聞いていなかったのだが、それでも大体の経緯は理解できた。
それくらい出来なければ、瀟洒の称号は与えられないのだ。
要するに、我慢の限界が来たんで幽々子をブン殴りました。という事らしい。
無論、咲夜にはそれを責めるつもりは無い。
むしろ、よくぞここまで我慢したとナデナデ&頬擦りしたいくらいだった。
が、一抹の不安が残るのも事実である。
あの幽々子が、大気圏外まで吹っ飛ばされた程度で懲りるだろうか。
程度の一言で済む問題でもないのだが、あの亡霊ならば軽く乗り越える気がする。
そして、これを機会に、何かしらの謀を企てかねないとも。
「……あのお馬鹿には私からもお仕置きを与えておきます。
と、それはともかく、一端お部屋へと戻りましょう。
そろそろ準備をなさらないといけませんわ」
咲夜は不安を心の奥底へと閉じ込め、今成すべき事を口にする。
幽々子一人にかまけている暇など、ありはしないのだ。
「あら、もうそんな時間なのね」
「はい、招待客も続々と訪れております」
「主役が来ない事には始まらない、か。行くわよ咲夜」
くるりと踵を返し歩き出すレミリア。
どうやら普段の調子を取り戻したようである。
咲夜は安堵の息を吐きつつ、レミリアの後を追う。
「何事も無く行くと良いんだけど……無理でしょうね」
思わず、そんな独り言が漏れた。
<PM 04:00>
「パチュリーさぁん、あったよー!」
「OK。よくやったわ。ご褒美にベラドンナエキス配合のクッキーをあげましょう」
「当たり前のように毒を与えないで下さいよ」
振りの橙に、ボケのパチュリーに、突っ込みの小悪魔。
既に当たり前となった図書館でのやりとりは、一大イベントの日でも、何ら変わる事は無かった。
が、周囲までその通りかというと話は別だ。
「おお、知らない間に、随分と賑やかになったもんだな。
あの埃臭くて辛気臭い図書館はどこへ行ってしまったんだ?
下天は夢か? 汝の隣人を愛せよ?」
「訳の分からないこと言わないの……お邪魔するわ」
等と好き放題言いながら現れたのは、魔理沙とアリス。
先に中に入っておいて、お邪魔するも何も無いのだが、そこには誰も突っ込まない。
「あら、久し振りに見る顔ね。ここはパーティー会場じゃないわよ?」
「それくらい分かってる。始まるまでちっと時間潰しでもしようと思ってな」
「……ま、似たようなものね」
「ここは休憩所でも何でも無いんだけどね……小悪魔、橙、お茶の用意を」
「「はーい」」
「お構いなくだぜ」
「私が飲みたいのよ」
「……左様で」
始められる午後のティータイム。
女三人寄れば姦しいとはよく言うが、五人も集まればより一層騒がしい。
普段ならこういった状況にダメを出す立場のパチュリーも、今日は自然と輪に加わっていた。
今日は特別な日だから、だそうだ。
それは、レミリアの誕生日である事を指していたのか。
或いは……。
「それにしてもなぁ。
聞いてはいたけど、本当にメイド服着てるのを見るとインパクトが大きいな」
魔理沙は視線をちらりと橙に向ける。
やはり猫だけはあって猫舌なのか、カップを抱え込むように持っては、
それこそ舐めるように恐る恐る口へと運んでいる。
「そうかしら、私はもう慣れたけど」
「あれだけ立て続けに何人もいらっしゃれば慣れもするでしょう」
「……そうかもね」
多少、事情を知っているからか、アリスが相槌を打った。
実際は、それ以上に増えているのだが。
「ま、直ぐに当たり前の光景に見えてくるわ」
「……? どういう意味だ?」
「言葉通りよ。橙にはずっとここで働いてもらうわ」
「「「「にゃに?」」」」
見事な四重奏だった。
面子に橙本人まで含まれているのは愛嬌か。
「それは……あいつが黙ってないんじゃないの?」
アリスが思い出したかのようにぼそりと呟く。
あいつとは誰なのかを考える必要は無かった。
何故なら、門の方角から、殺意の波動がびりびりと伝わってきていたからである。
愛の成せる技か、変態魂の成せる技か、判別に苦しむところだが。
「も、問題無いわ。話し合えばきっと分かってくれる筈よ。
人はその為に言葉を与えられたのだから」
「パチュリー様、それ本人の前で一度言いました。
またあの惨劇を呼び起こしたいんですか?」
「「……」」
押し黙るパチュリー。
当時の光景を思い出したのか、アリスまでも言葉を失う。
「まぁ、なんだ。こういう時は本人の意思を聞いてみるもんじゃないか?」
滞った流れを押し出すかの如く、魔理沙が視線を橙へと向けた。
「え、わたし?」
それに反応した橙は、驚いたようにびくリと顔を上げる。
「んむ。お前はどうなんだ? ここに残りたいって思ってるのか?」
「……」
「「「「……」」」」
考え込み出した橙を、一同は固唾を呑んで見守る。
無論、それぞれに思う物は違うのだろうが。
そして、沈黙が流れる事、数秒。
「……うん」
小声ではあったが、はっきりと全員が聞き取っていた。
「決まりね。なら後は……小悪魔、スペルカードをありったけ用意なさい。
これから、あの変態狐を実力で制するわよ」
パチュリーは勢い良く立ち上がると、びしりと指をさして宣言する。
冗談かと思いきや、目の色が本気だった。
ちなみに本気と書いてマジと読む。
サジでもバーツでも無いので注意だ。テストに出るぞ!
「あ、あの、パチュリー様。お気持ちは、ほんのごく僅かだけ分かりますけど、
これからパーティーだって事を忘れてませんか?」
「そんなもの、もうどうでもいいわ。
100から先だって覚えていないご時世に、502回目を祝うなんて馬鹿馬鹿しい」
「うわ……誰もが気にしていながら口に出来なかった事を、平然と言ってのけやがった……!」
「痺れも憧れもしないけどね……」
よくわからない妄言を垂れ流しながら、すわ戦争かと意気上がる一同。
が、それを押し止めたのもまた、橙だった。
「……でも、私は帰ります」
「え?」
パチュリーが、驚きに顔を上げる。
「図書館で働くのは本当に楽しいし、もっとここで勉強したいとも思うけど。
……それでも私は、藍様の式だから」
「だから今から……」
不意に言葉が途切れた。
パチュリーは色々と問題も多いが、基本的には聡明な人物である。
故に、橙の表情を見たその瞬間に、すべてを理解してしまった。
本当に戻りたくないのなら、そんなにも嬉しそうに名前を出す筈が無いのだ、と。
「……そう、ね。貴方がそう決めたのなら無理強いはしないわ」
意図的に温和な表情に戻して、言う。
傍目には殆ど変わっていないだろうけど、その微妙な変化を理解して貰える程度には親交を暖めた自信はあった。
「パチュリーさん……その、ごめんなさい」
「謝るような事では無いでしょう?
帰る家、ホームがあるという事実は幸せに繋がるわ。良いことよ」
「何よ、そのどこかで聞いたことがあるような台詞」
「……五月蝿いわね、言ってみたかったのよ」
「人外かつ、心の壁がやたら固いという意味では似てるかもしれないなぁ」
無遠慮に入る横槍にも、あまり悪い気はしなかった。
このどこまでも活発な化猫には、暗い雰囲気は似合わない。
ならば、最後まで馬鹿な空気を貫いてやるのも一興だと思ったのだ。
「(我ながら甘いわね……)」
自覚はあるが、自己非難はしない。
その証拠とばかりに、思いつきで台詞を放つ。
「私も少し、外に出てみようかしら」
何気ない、本当に何気ない一言であった。
だが、その言葉が及ぼした影響は、余りにも絶大だった。
ぶふぉお、と盛大に紅茶を吹き出す魔理沙。
その直撃を受けて、反射的に蹴りを繰り出すも、
何故か落ちていたバナナの皮に足を取られ転倒するアリス。
脳から全ての血液が降り、直立不動の体制のままでぶっ倒れる小悪魔。
よく分かっていない橙。
ただの一言、されど一言。
大惨事の出来上がりだ。
「な、何よそのリアクション。そんなに変な事言った?」
流石にここまで盛大な反応があるとは思わなかったのだろう、パチュリーは気色ばんで見せる。
「言った。十二分に言った。
何より、自分で変な事だと理解していない辺りが最高に変だ」
最初に立ち直ったのは魔理沙だった。
もっとも、手元のカップがカタカタと震えているあたり、まだ動揺が収まりきっていないのかもしれない。
「変って、私だって少し出歩くくらい……」
「……私に対しての謝罪の言葉は無いの?」
「おお、いたのかアリス。水もしたたるいい女とはまさにこの事だな」
「いやだ、いい女だなんて……って言うとでも思ったの?」
「思う。私の知っているアリスとはそういう奴だ。
もし違うと言うんなら、それは価値観の変化という奴だな。
悲しいが現実として受け止めにゃならん……」
「ああ、もういいわ。魔理沙から謝罪の言葉を求めるなんて所詮は無駄な行為だったのね」
「分かってるじゃないか」
「あんたが言うなっ!」
「うーあー……光がぁ……広がっていきますー……」
「ああっ! 小悪魔さんが酸素欠乏症に!?」
「……無視しないでー」
パチュリーの願いは聞き遂げられなかった。
というか誰も聞いてはいない。
ついには肉弾戦に突入する詠唱組に、延々とガンダムごっこを展開する小悪魔と橙。
地震でもないのに本棚は揺れているし、椅子は独力でフラメンコを踊り出す。
ヴワル魔法図書館は、純ログルス直撃の如き惨状に陥りつつあった。
「……」
パチュリー・ノーレッジは考える。
己の軽口が招いてしまった悲劇を収拾する手段について。
流石は知識人とでも言うべきか、すぐさま候補が灰色っぽい脳細胞に浮かび上がる。
だが、残念なことに、内容を吟味するだけの精神的余裕が足りていなかった。
「……ロイヤルフレア!!!」
爆発オチも、むべなるかな。
紅魔館は炎上した。
……というのは、ほんのユダヤ風ジョークである。
紅の館はスペルカード一枚程度で崩れるほど柔な出来はしていないのだ。
とは言え、流石に被害ゼロとは行かなかったようで、
正気を取り戻した一同は、散らかりきった図書館の整理に忙殺されていた。
「……ったく、酷い目に合ったぜ」
「まったくね。これがお客様に対する仕打ちかしら」
ぶつぶつと愚痴を漏らす魔理沙とアリス。
もっとも、手はきちんと動いている辺り、多少は罪悪感もあるらしい。
「あ、パチュリー様。そろそろお時間ですよ」
「……仕方ないわね、続きは後にしましょう」
「後って、まだ手伝わせる気なの……」
「ああほら、この際ややこしい事は忘れちまえ。酒だ、酒!」
わいのわいのと騒ぎ立てながら、一同は図書館を後にする。
ただ、一人を除いて。
「……ちょっと早いけど……」
橙は、全員が外へ出た事を確認すると、扉の前でくるりと振り返った。
まだ多少、魔法の被害が残ってはいたもの、基本的な外観はまったく変わっていない。
視界を埋め尽くす、本棚の森。
それに収まりきらず、いくつもの山を形成している数々の書物。
どこか薄暗さを残した魔術による照明。
たった今まで、皆で談笑を交わしていた応接セット。
そして、いつもパチュリーや小悪魔が向かっていた机。
それら全ての光景を、脳裏へと刻み込む。
珍しいかどうかと言えば、規模を除けば特に珍しくもない図書館だろう。
それでも橙にとっては、これまでに経験した事のない、新しい世界そのものだった。
もちろん紅魔館そのものが、未知の空間であったのは確かである。
しかし、橙の心に一番残った場所はというと、やはりこの図書館だった。
時間にすれば、ほんの数日の事である。
長い年月を生きるであろう橙にとっては、一瞬の出来事に過ぎないのかもしれない。
だが、それでも。
いや、だからこそ、掛け替えの無い時間だった。
「……」
目を閉じる。
思い出すのは、騒がしくも楽しかった色々な出来事。
でも、それもここで終わり。
あと数時間もすれば、自分は八雲藍の式として、マヨヒガの住人へと戻る。
少し寂しくはあるけれど、悲しくは無い。
自分が得られたものは、それ以上に大きかったのだから。
「……うん」
だから、万感の思いを込めて言う。
誰でもない、このヴワル魔法図書館へ向けて。
「……ありがとうございました」
橙は言い終わると同時に、ぱっと頭を上げ、勢い良く表へと飛び出して行く。
そう、まだ祭りは始まってすらいないのだ。
『いえいえ、どう致しまして。またいつでもおいでなさい、式のお嬢さん』
<続劇>
え、ちがう?いや、そのうち鈴仙が肉持って「上手に焼けました~」とか言うのかと(ry
楽しみにしてたこのシリーズも…そろそろ終わりですか…
イマオカモナーって、オイw
サジマジバーツにやられた・・・
次回も楽しみにしてますー。
サジ、マジ、バーツは思わず吹き出しました。
不思議なポッケで構えてくれるんですね。
そこでレミリャが一句詠んでたら実にアレでしたね。
次回は嵐の予感ですかしら?
やっぱりよーむにはメイド服がとてもとても似合うと思います(*´д`)ハァハァ
そして最後の図書館の台詞にちょっとしんみり。
あと、オンラインゲームでモンハンとかROとかではなく、速攻でUOを連想したのは
俺だけですかそうですかorz
変態鬼畜能天気悪趣味冥土'sの活躍は決して忘れることの出来ない一幕を私たちに見せ付けてくれるでしょう。
さぁ、最後の舞台へ私たちを導いてください~。
デストロォオオオオオオオオオオオオオオオオイ!!に笑いました
エイミー・トムスン?
相変わらず幅広いネタをお持ちで素晴らしく笑わせて頂いて要するにGJ。
てかフランにメイド服を着せるとはw
手からポケットを抜いたんだ。
この人……出来る!)」
・・・それ、なんて中国z「caved!!」
なんと面白い。なんと愉快。それでいて落とすべきところはきっちりと落とす。
すばらしい。尊敬します。
これが一番ツボでした(笑
ドイツ語の発音としては「ナイン」が正しいと思います。
確かにドイツ語はローマ字読みが基本ですが、eiはアイと発音します。
そんなことは無かった!