ある秋の白昼の事だ。
今日も今日とて神社の境内に降り立った霧雨魔理沙は、どうも普段と様子が違うことに
懸念していた。
「霊夢ー?」
紅葉の葉も落ちに落ちた頃だ。白黒魔女は自身の全力疾走を余すことなく落ち葉へ激突
させたため、神社の主がそれなりに頑張って掃き集めた葉を完膚なきまでに吹き飛ばして
しまう――はずだった。
ここ“幻想郷の境界線”、博麗神社の巫女を怒らせるのは得策ではない。
何故なら巫女は強いからだ。極端なまでに。
ところが魔理沙はいつも憤慨する巫女――博麗霊夢を、なあなあで包めてしまう。
そんじょそこらの妖怪ではとてもじゃないが――灰燼も残りそうにない。
「なんだよこの静かさは……」
ところが、だ。そもそも“掃き集められた落ち葉”というものが存在しないことに、魔
理沙は今更気付く。「掃除してないのか?」と。
散乱する紅緑黄の落ち葉を眺め、いつぞいつぞと霊夢の登場を待つ魔理沙。
快活なイメージの拭いきれない笑顔を湛えた表情が、少し鈍る。どうしたことか、神社は
妙に静寂に包まれている。
「悲しくなるから上がらせてもらうぜー」
仕方なしに縁側から上がらせてもらうことに。
魔法使いの白いソックスが畳をやわらかく叩いてゆく。
小走りに襖をいくつか抜けると、すぐに目的へあたる事ができた。
「……なにやってんだ霊夢」
「見てわからないかしら、風邪ひいたのよ風邪」
最早慣れた突然の来客へ、巫女である博麗霊夢は邪険に諭した。
艶のあるとも言える黒髪は枕の上に散乱していて、なぜか普段着の装束のまま布団へ入
っている。
「風邪ぇ? 霊夢が風邪、こりゃ面白いな!」
「うっさいわね、私が病気にかかったら、ごほ、何か面白いわけ!?」
さりげなく病気全般ひっくるめた霊夢は、その紅潮した顔をいっそう引きつらせ、熱に
潤んだ眼で魔理沙をにらみつける。
しかし相当苦しいのか、布団から置き出すまでには至らない。
「本当に大丈夫じゃなさそうだな、なんか変な事やったのか?」
「いや別に……ごほ、どっかの狐みたいに半裸で踊り狂ったりはしないわよっごほっ」
「博麗の巫女がそんなんでいいのか? なんかパチュリー並に危ういぜ」
と、魔理沙はそっと腰を下ろす。
その片手を霊夢の額にそっと乗せる。んー、とわずかに唸って。
「普通に熱あるじゃないか、冷やさないと」
「やけに献身的ね。うつるわよ」
「ほっとけないだろ」と人懐っこい笑みを見せ、魔理沙は氷嚢になるものを探しに飛び
出ていった。
「ほれ」
「うわ」
数分後、魔理沙が持ち帰ってきたのは、
「いや予想はしてたけど」
首根っこを掴まれた、青の服に青の髪、氷の羽を持った氷精のチルノだった。
既に観念しているようで、普段のような活発さはどこにもなかったが。
「チルノ、霊夢の頭に合うくらいの氷解作ってくれ」
「……あいよー……」
厚さのある手拭いで覆った氷を、そっと霊夢の額の上へ置く魔理沙。
チルノはチルノで黙ってその様子を観察している。
「んー、これはいい気持ちだわ、けほ、チルノもなんか大人しいし」
霊夢はいつもの笑顔だ。いつもの余裕と無邪気に溢れた笑顔。
それが魔理沙には何故か、痛々しく見えた。
「……で、チルノはなんでそんな静かなんだ?」
魔理沙はかぶりを振ると、先ほどから黙りっぱなしの氷精へと声を掛ける。
チルノは頭上の深い青の大きなリボンをふらふら揺らし、魔理沙の事に今更気付いたか
のように返事を返す。
「はっ? あ、ごめんボーっとしてたわ」
「普通なら自分から言いたい事言い放題なチルノがあんな風になってるぜ霊夢」
「なんで私に振るのよ、あんたが脅してるんじゃないの?」
「いや、おまえの風邪が早速うつったのかと」
「げほ、知るか!」
咳混じりに叫ぶと、ごろんと横へ転がる霊夢。額から氷嚢が落ちる。
「ほら、仰向けにしとけって」
「私左向きじゃないと眠れないのよ……」
そういうんなら仕方ない、と魔理沙は頭を掻いた。
日が少し傾いた頃だ。
「いつまでも寝てるわけにもいかないだろ、薬でも貰ってくるぜ」
「いや良いわよ……寝てれば治るわこんなの」
少し喉が悪くなったのか、声が枯れてくる霊夢。
魔理沙が「見てられないな」、と掌を顔に翳していると、また不機嫌な顔に戻る。
「あー、チルノ」
「何よ?」
「霊夢の様子見ててくれ、私は少し出かけてくる」
「は!?」
声を上げたのは霊夢だった。
いっそう顔を紅くさせて魔理沙へ掴みかかる。
魔理沙の長い金髪が思い切り揺れる。
「あんたどういう神経、ごほ、してるのよ? こいつ妖精なんだから置いておいたら拙い
じゃないのよ!」
「うおお落ち着け霊夢! 確かに今霊夢を置いていくのは拙いよな、うん」
「……あたいは信用ないなぁ」
氷精が物凄くガラでない事を言った気がする。
「あれ? なんで魔理沙がここに?」
ふと、魔理沙、霊夢共に聞きなれた少女の声。
またも縁側から不法侵入したのは、
「ん、アリスか」
肩の上に人形を一つ従えた、アリス・マーガトロイド。
通りすがった、という彼女は霊夢の様子を見て顔を赤らめ、口を開けた。
「って霊夢になんて事を! 昨日の夜は遊びだったわけね!」
「待て、この状況をどう見たらそうなるんだ?」
「んもー……こほげほ、あんたら煩いわね」
なんだかんだで風邪と言ったら素直に信じたアリスは、魔理沙と並んで霊夢の様子を見
る事にしていた。
「なんかさっきから気配を感じるんだけど」
「あいつの事か?」
きょろきょろと首を動かす人形遣い。
アリスが霊感で察知したのは、部屋の角で壁に向かってうずくまるチルノだった。
「……あの妖精なにやってんの?」
「氷嚢の維持にな、つれてきた」
「はぁ、どうせまた脅迫でしょうに」
「おまえら人の事をなんだと……と、とにかく私はやっぱり薬を」
「強奪してくるの?」
人形遣いは魔理沙の心を代弁した。してないようにも見えたが。
少しだけ不機嫌になる魔砲使い。
「……アリスは霊夢を見ててくれよ、よろしくな。じゃ私はチルノを連れていってくる」
突然名指しされて肩を跳ね上がらせる氷精。
「なんであたいが霊夢の事なんかで……」
「チルノを残すと色々心配なんだ……よっ」
「本当信用ないなって首掴まないでうわあぁぁぁ」
魔理沙とチルノ――首根っこを再び掴まれた――は、夕日の彼方へと飛び立っていった。
夜の帳が降りた頃だ。
「ほら、梅肉の御粥」
お勝手を借りていたアリスが持ってきたのは、薄い桃色がかった粥だった。ちなみに器
は黒鉄色の小さな鍋、漆塗りの盆の上に乗せられている。
部屋を照らすのはガスを用いたランプ。これ一つでも十分な明かりが得られる。
「……霊夢、起きれる?」
アリスが肩を少し揺すると、呻き声を上げて霊夢は上体を起こした。
掛け布団が擦り落ち、剥き出しになった肩が露出する。どうにもこの季節には不釣合い
で、風邪になるのも無理はないとアリスは思った。
――なんと言っても上気した表情と相まって、なんというか……
「何見てんのよアリス」
ジト目にアリスの瞳を覗く霊夢。
何気なしに話をそらす。
「気にしない。そんな事よりご飯は食べれる?」
「食欲は全然あるのよ。ん、ありがとうアリス」
「どういたしましてっと。もう治りかけだわね、咳もないみたいだし」
肩の上の人形――金の長髪と真っ赤なリボンが特徴的な上海人形が、器用な事に浮遊し
ながら粥の乗った盆を霊夢の傍らへと置いた。
「……? アリス、その右手どうしたの?」
「え? ああ、これねぇ――」
アリスはそっと、青いドレスの、わずかに糸のほつれた袖を捲くる。
霊夢は繁々と眺める。すぐには気付かなかったが、その右手首には、わずかに血が滲ん
でいるようだ。
それはよく見れば、小さな傷がアーチ状に並ぶ――
「――噛まれたのよ」
歯形だった。
「物好きな妖怪もいるもんねぇ」
「妖怪でもないわよ……」
頭を振って、金髪のショートカットに埋もれた髪留めを撫でるアリス。
「いいえ、確かに妖怪なんだけど、普段とは何かが違ったわ。理性的じゃないとかそうい
う意味じゃなくてね」
「魔法の森の?」
蓮華に盛られた粥をひょい、と口へ運ぶ霊夢。咳は大分よくなったようだ。
「空中散歩の道中でね、どこだっけ。とにかく発狂したような奴で」
「ふむふむ……今日って満月だっけ」
“それだったらありうるわ”と考える霊夢。
「いいえ」
アリスは軽く口へ指を当てて考える仕草。ややあって、
「二十六夜月」
とはアリスの弁。
「むしろ満月から遠いわね」
霊夢は肩を竦めた。
ランプの炎が少しゆらめく。
はぁ、と溜息のアリス。ぽつぽつと語り出される経歴。
「最初は莫迦な妖怪と思ったわ」
「んで突然弾幕ごっこ」
「“ごっこ”じゃないわ、間違い無く“殺す”ための弾幕」
「でもそれは普通じゃないの」
霊夢はそのままの意味で取る。アリスは意思が伝わったであろう事に頷く。
「でも。いくら避けても、いくら弾を当てても、疲労もないし怯みもしないの。こっちが
消耗してきた時、突然間合いを詰めてきて」
「噛まれた。と」
「噛み千切られるかと思ったわ……すぐにおっぱらったけど」
再び右腕をもたげるアリス。霊夢がふと、アリスの小さな唇が傷口を沿い動くのを見た。
薄目にそれを観察していた霊夢は、なにげなしに、なにげなしに、口を開いた。
「殺した?」
物騒な事を言う人間だ。とアリスは思った。
「んな夢見悪い事しないわよ……ちょーっと動けないようにはしてやったけど」
アリスの口元が不気味に吊りあがった、ような気がした。
怪訝そうに、だが、霊夢は少し気を遣う。
「……で、それ。消毒したほうがいいんじゃないの?」
そこに救急箱あるから、と隣の箪笥の一番下の段を指差した。
丑三つ時を迎えようという頃だ。
「あんた、汗かいてる? 大丈夫?」
上半身を起こしたままに、いぶかしむように問い掛ける病人。
「うん、ごめん……霊夢の風邪がうつったかも」
おどけたように答えるも、その細い眉が寄せられるのを隠せない人形遣い。
「あんたまでそういうか。妖怪にうつるわけないでしょ――」
――あまり心配をかけるわけにもいくまい。
包帯を巻いた右腕が酷く痛むのを、我慢する。
「魔理沙遅いわね」
「妖怪に襲われてたり……なんて」
アリスは半ば冗談に言う。
「やだ、縁起でもない。早く薬持ってきてよ魔理沙ー、頭ガンガンするのよー」
――熱の反動かしら?
「どれどれ……?」
アリスはそっと自らの額を霊夢の額へ寄せた。それが恥ずかしいのか、わずかに瞳を逸
らす二人。
「熱はもう下がってるわね、よかった」
アリスはそっと自身の胸に手を当て、正座へ戻る。
「そう、おっかしいわねー、何か喉がムズムズするし」
「治りかけなのよ、たぶん」
「そういえば、霊夢っていつから風邪になったの?」
「昨日よ……」
「あれ、上海……? おかしいわね、魔力の供給ができてないわ、動かない」
「……そう……」
「おかしいな、本当調子悪いかも……」
――――
アリスは一瞬気を失っていた。なぜか分からなかった。
「っ!? あれ、あ、霊夢? れいむ起きてる?」
返事はない。
いつのまにかガスランプの火は随分と小さくなっている。
上海人形は横たわったまま。
「寝てる……の……?」
霊夢はアリスに背を向けて、身体を左向きに横たえていた。
恐る恐るアリスは霊夢の肩へ手を掛ける。
「きゃっ……」
仰向けになった顔。瞼は半開きだ。両目とも。
――生きてる。
一瞬、アリスは何故かそう考えてしまった事に一抹の不安を抱く。
「た……、あ、アリす……」
「ちょっ、霊夢? すごい汗じゃないの!」
霊夢の顔は顔面蒼白、額からは脂汗の嵐。わずかなランプの灯りだけが霊夢の姿を映し
出している。必死でアリスは自身の袖で汗を拭う。その荒い息はおさまらない。
最早血の通ってない、そう思わせる腕がアリスの肩を掴む。
それをアリスは両手で掴み返す。アリスは困惑に顔を顰めるばかりだった。
「はー……はー…………ぁ」
霊夢の息が途絶えた。
両手でアリスが必死に掴む霊夢の手には、もう力が篭っていなかった。
「うそ」
――なんで風邪なんかで!なんでよ!
「ちょっと霊夢っ!? 目を開けてよ!!」
「おい、アリス!!」
バン、と襖を蹴破る人影。白と黒のエプロンドレスのコントラストが、今は特に映える。
「ま、魔理沙! どこいってたのよ、霊夢が、れいむが」
「霊夢は……霊夢は死んでるわけじゃない、でも今はどうする事もできないらしい」
「どう、どうするのよ、死んでないって、」
アリスの混乱と不安が入り混じった涙は、既に彼女の下瞼に留まらず、頬を伝う。
「いいから!!」
必死にアリスの肩を掴み、仰向けの霊夢から目を逸らさせる。
箒を翻す魔理沙。アリスの腰を片腕で巻き取ると、畳を蹴って正面の襖を粉砕、箒全体
は膨大な魔力“そのもの”へと変化し、歪な月へ昇華する一つの流星となり、境内を飛び
出していた。
気が付けば、アリスは魔理沙と共に、夜の帳へと飛び出していたのだ。
「逃げるんだよ、どこでもいい、一緒に!!」
その叫びに慟哭の声が混ざっている事には、困惑に溺れるアリスに気付けただろうか?
思い浮かんだものがあったわけですがw
取り敢えずはこの先に期待で