[Moment]
真っ赤な花畑が広がっている。
彼女はその真ん中で、寂しそうに微笑んでいた。
私は走った。走った。走った。飛ぶことは出来なかった。
赤くて黒い花。血の色の花。
花の色に紛れてはいるが、彼女の体もまた血で染まっていた。全身至るところが、赤く黒く、染まっていた。唯一、その美しい金色の髪だけは、なお輝きを失っていない。
私は、ただ、走った。どこに向かっているのか、よくわからない。彼女に背を向けて、走った。
急いでいた。もう時間が無いことを知っていたから。
血の色をした花畑を抜けて、なお走る。
どこまで走っただろう。ゴールはどこだろう。
走り続けた私の体から、がくんと力が抜ける。
私を後押ししていた力が、消える。
このとき私は、彼女がついに息絶えたことを知った。
間に合わなかったのだ。
私は間に合わなかったのだ。
それでも私は歩いた。もう走る力は残っていない。歩いた。
どうして歩けるのかわからない。言葉どおり残った魂を削って歩いているのかもしれない。
一心に求めて歩き続けた。
歩き続けて、そして。
力尽き、倒れた。
魔法には絶対に出来ないことが二つある。
死者を生き返らせること。
そして、人を幸せにすることだ――
[Flowering Days]
――また、変な夢を見た。
魔理沙は軽く頭を振って、夢の後味を脳から追い払う。
朝日が部屋に射している。悪夢にうなされて起きたわけではない。目覚めは悪いわけではない。ただ、もやもやした感じが残る。
最近、こんな日が多い。
毎回同じような夢を見る。目を覚ましたときには「変な夢を見た」という感覚だけが残り、夢の内容はほとんど覚えてはいないのだが、同じような夢だということはわかる。
ベッドから起き上がり、窓のカーテンを開ける。
眩しさに目を細める。やがて光に目が順応して映ってくる視界には、これでもかと必死に咲き誇る花畑。
こんな夢を見るようになったのは、ちょうど花たちが急に元気に咲き始めた頃からだった。偶然ではないだろう。
花が元気なのは、ここに限った話ではない。幻想郷の至るところで同じ現象が起きている。そして、この「異変」は自然現象であり、特に気にする必要のあるものではないということもすでに明らかになっている。
だから、まあ、夢のこともそう気にすることはないだろう――それが魔理沙の出した結論だった。ぼんやりと窓の外の花畑を眺める。
と。
花畑の中に、人影を見つけた。
遠く。魔理沙は目の焦点を合わせて、その人影に注目する。
花畑の中でしゃがんでいる少女。それが誰であるかは、考えるまでもない。ここ魔法の森で魔理沙以外に見られる人影など一人しか心当たりがない。
魔理沙は窓から離れると、すぐさま洗面所に向かって、顔だけ簡単に洗うとまた部屋に戻ってきて、さっとパジャマを脱いで、普段着に着替える。普段着、すなわち黒を基調にしつつ白を織り交ぜる、魔理沙流の魔法使いコーディネートだ。魔法使いたるもの、いつでも魔法使いらしい格好を。譲れないこだわりだった。
鏡で軽く乱れがないかをチェックして、帽子を被る。もちろん、魔法使いらしい黒の三角帽。
身だしなみチェックが完了すると、部屋を飛び出して、玄関で箒を掴んで家の外まで出る。目覚めからここまでの間、約十分。あの着辛い魔女服をこれだけ早く着ることが出来るのは、経験の成果だ。
さて、あの人影がいる場所は、間違いなくこの霧雨邸の敷地内だ。今なら不法侵入の現行犯で捕まえることが出来る。魔理沙自身は日常的にその相手側の家にお邪魔しているわけだが、それはそれ、これはこれ、だ。
花畑を見回すと、件の少女はまだそこにいた。しゃがんだりうろうろとしたりと、何やら熱心に探し物をしているような様子だった。
ゆっくりと歩いて近づいていく。足音を消したりはしていないが、気付く気配はなかった。
もうあと十歩ほども行けば捕まえることができるといったあたりで、少女の様子を観察する。
少女はもちろん、予想通りに、アリスだ。いつもより少し簡素な装いで、密集する花の間にしゃがみこんでは一つ一つの花を観察している。時折ぶつぶつと何やら独り言が聞こえてきたりもする。これはなんとかの花、原産地はどこ、季節は、花言葉は――どうやら、花についての情報を記憶から取り出しながら確認しているようだ。
魔理沙はその様子を近くからずっと眺めていたのだが、放っておくといつまでも気付きそうにない。それくらい集中している。魔理沙は、こほんとひとつ咳払いをしてみる。アリスは気付かない。
やれやれ。ため息をついて、もう一歩だけ踏み出す。
「あー。知らないでいるかもしれないから一応言ってやろうか。ここは私の家の敷地内だ」
「きゃっ……!」
背中からの声に、アリスはびくっと反応して、小さく悲鳴をあげる。
振り向いて魔理沙の顔を確認してから、丸くしていた目を少しずつ細めていく。
「……驚かせないでよ。今忙しいんだから」
「おい。今の私の言葉、聞いてなかったのか?」
「魔理沙の家だってことでしょ。それがどうしたのよ。いつも私の部屋の中まで平気で上がってくるくせに」
「私は特例で許されるんだ」
「私も特例ね。じゃ、そういうことで」
くるり。
それだけ言うと、アリスはまた花を調べ始める。
もう魔理沙の存在など気にしていないように、夢中になってぶつぶつと独り言を再開する。
「……ま。いいけどな」
魔理沙は軽く肩をすくめる。
別に本気で追い出すつもりだったわけでもない。なんとなく邪魔したかっただけだ。不法侵入も何も今更だというは確かに共通認識ではあった。
それにしてもここまで簡単にあしらわれるとは思っていなかったが。
一体アリスは何にそこまで夢中になっているのか。
「何やってるんだ?」
「情報収集」
一応、魔理沙の質問にはすぐに答えが返ってきた。無視するつもりではないらしい。
答えになっているかどうかはさておくとして。
「何の」
「見ればわかるでしょ。花畑で花を観察してる人が今宇宙誕生の神秘について調べていますなんて言ったら信じるの?」
「信じる信じない以前にとりあえず立ち去るぜ、私は」
「……例えが少し不適切だったかもしれないけど。つまり、花を見てるのよ」
アリスは喋りながらも、次々に場所を変えてまたしゃがんで次の花を見て……と繰り返している。
「はあ。人形に花に、ずいぶんと少女趣味だな」
呆れ声で言うと、アリスはくるっと魔理沙のほうに顔だけ振り向く。
「何言ってるのよ。魔法使いがただお花好きで花を見てるとでも思うの?」
「アリスなら似合いそうだぜ」
「っ……と、とにかくもちろん、ちゃんとした意図はあるわよ。さっき人形って言ったでしょ。その繋がりよ」
「繋がり?」
きょとんとして、首を傾げる。
人形と花の繋がり。
――想像すれば色々と類似点はありそうだが、魔法使いという言葉を持ち出した以上は、ただ可愛い繋がりとかそういう話ではあるまい。
魔理沙が考えている間にも、アリスはまた移動を始める。よく見るとスカートはかなり土で汚れている。だから、いつもよりも地味な格好なのだろう。それならもっとボロでもいいだろうにと思うものだが、アリスはどんなどきでも少女全開の可愛らしいファッションをやめない。魔理沙が魔法使いらしい格好にこだわるのと同じようなものだろうか。
「おまえ、いつからここでそんなことやってるんだ?」
「まだ三時間くらいじゃないかしら」
「……それは日が昇る前からなんじゃないか」
「明るくはなっていたわよ。魔理沙の朝が遅いだけ」
「むぅ」
細かい時間はともかく、相当熱心にやっているということは確かだ。そして、当分続きそうだ。
実際、自分の家の中で宝探しのようなことをされるととても気になる。何かいい物を見つけたのなら当然魔理沙がそれを受け取る権利があるわけだ。勝手に持っていかれても困る。魔理沙が知らないような宝物が眠っているのなら教えてもらわなければ。
「あ」
どうしたものかとアリスを眺めているうちに、ようやく魔理沙はアリスの行動の意味に思い当たった。
「人形と花。あいつか。アリスも実際に会ってきたのか?」
アリスはまた、魔理沙のほうに振り向く。
振り向くと振り向かないときの違いは、自分が話したい内容かどうかなのだろう。
「ええ。話も聞いてきたわ。毒の力だとか――簡単には納得しがたい内容だったけどね」
「でもそこからヒントを得て、今何か探し物してるわけだろ?」
「残念ながら、そこまでの段階じゃないというのが本音ね。今はヒントを探しているだけ。鈴蘭の花が関係しているのは間違い無さそうだし、花について調べるなら今が六十年に一度の大チャンスだし。その程度よ、今は」
「なるほどな。で、なんで私の家なんだ? 今なら幻想郷のどこにでも花は咲いてるぜ」
「魔理沙の家なら変な魔法の道具がいっぱいあるし、影響受けてちょっと突然変異した面白い花があるんじゃないかって思ったのよ」
「私の家は放射能汚染地域扱いかよ……」
突然変異とは言わないまでも、今は、本来咲く季節ではない時期、または本来咲く場所ではないような場所に花が咲いているという例はどこにでも見られる。多少は変なものが混ざっていても不思議に思わないのではないか。
アリスが実際のところ、どこまで考えて調べものをしているのかはわからないが、かなり本気であることは違いない。
そして、アリスの調査が、魔理沙に何か宝物をもたらす可能性は極めて低いということも同時に明らかになった。魔理沙は自立人形になど興味はない。正しくは、まったくないわけではないが、アリスが何か完成させたならそれを見ればいい、くらいのものだ。
そうとわかれば、アリスの動きに注目している必要もない。好きなようにさせればいいだろう。
「ま、頑張れよ」
一言だけ言うと、魔理沙は歩き去る。魔理沙は魔理沙でいつもの一日があるのだ。
「ありがと」
背中から、同じように一言だけ返ってきた。
堂々と不法侵入しているくせに、正式に許可が出たとなると一応でも礼を言う律儀さが、アリスの不思議なところだった。
魔理沙は隠れて笑いながら、花畑をあとにした。
[Alice in bloom I]
その後もアリスは毎日、魔理沙の花畑に通いつめてきた。
魔理沙はたまに暇つぶしに声をかける程度で、それに干渉はしない。
よく毎日飽きないなあと思う。こんなに通いつめていてちゃんと家事など出来ているのだろうか。などと心配になるが、考えてみれば魔理沙はもっと長い間家を空けることも珍しくない。しっかり者のアリスなら何も問題はないのだろう。
魔理沙は花のことは気にせず、普通の日常を送っていた。
ふと、アリスが家を空けているということは、今ならアリスの家に勝手にお邪魔して何でも盗りたい放題なのではないかと思ったりもしたが、犯人がすぐにバレる以上あまり意味がないと気付いた。同じバレるなら目の前で堂々と奪っていくほうが好きだ。
何か間違っているような気もするが、それが魔理沙なりのプライドだった。
というわけで、アリスは魔理沙の家に毎日訪れているのに会話を交わすことはあまり多くないという奇妙な日々が続いて――
アリスの様子が変わってきたことに気付いたのは、初めてアリスを目撃してからちょうど十日目のことだった。
真剣な表情で一つ一つの花をじっくり観察していたアリスが、最近は妙に晴れやかな笑顔でやってきている。
何かいいものでもあったのだろうかと、ある日気になって近づいてみると、アリスは花畑の一箇所でしゃがみこんでいた。昨日と、一昨日と、同じ場所だ。
相変わらず魔理沙が近づいても気付かないようで、魔理沙はそのままアリスがしゃがんでいる場所のすぐ隣まで行って、立ち止まる。アリスはその場所で、一つの花をずっと観察していた。
不思議な花だった。背は低く、肘を立てた程度の全長。葉は根元だけに生えており、硬そうな葉が数枚、ぴんと立っている。
そして何より特徴的なのは、葉より上の部分にびっしりと生えている花だった。赤い花弁、より正確にはやや黒ずんだ赤の小さな花弁が六枚で一つの花を成しており、その花が一つの茎に無数に密集している。
そして、その花は、そこにある一つ以外は周囲のどこにも見られなかった。淡い色彩の花に囲まれて、こうして一つだけぽつんと明らかに存在が浮いている。
「これ、なんて花なんだ?」
魔理沙はアリスの隣に座って、一緒にそれを眺めてみる。
「あ、触っちゃダメよ」
魔理沙の声でやっと気付いたアリスの、第一声はそれだった。
伸ばしかけていた手を止める。
「毒でもあるのか?」
「ううん。いえ、わからないけれど。あってもおかしくはないかも」
「ん? なんだ。この花がなんだか分かってるわけじゃないのか」
「いいえ。それははっきりしてるわ」
アリスは目を輝かせて、魔理沙の顔を正面から見つめる。
嬉しそうに、笑っている。
すぐに花のほうにまた視線を戻して、言葉を続ける。
「これは、今ここに咲いていること自体が奇跡なのよ」
花を指差して。
「形の特徴、そしてこの色。間違いないわ。これは自然界には存在しないはずの花。どこかの魔法使いが作った人工の花よ」
「魔法使いが……花を?」
「ええ。何の意図で作られたかは知らないけど、記録にはそう書いてあるわ。ある魔法使いが作った花。用途不明。ただし失敗作で、呪われた花になってしまったため後に当人によって全て処分された。そのため現在はどこにも存在していない、ってね」
「存在していないって……じゃあ、これは違うんじゃないか?」
「この花の特徴は、血の色をした花弁がびっしりと密集していること。――間違いないでしょ」
なるほど。
言われてみれば、この花の色は間違いなく血の色だった。もちろん、人間の血の色。
そう思うと、呪われた花だというのはいかにもだ。わかりやすい。
「じゃ、なんで咲いてるんだ」
「さあ。全部処分したつもりになってたけど種が残ってたんじゃない? で、他の花がいっせいに咲き出す今の時期になってひょこっと顔を出したとか」
「人工の花なんだから種も何もないだろ?」
「あるわ。確認したもの。慎重に調査したから、まず間違いないわ」
アリスは、もう一度魔理沙の顔を見る。
力強い口調で、続ける。
「重要なのは、とにかく今ここにあるってこと。魔法使いが作った呪われた花――いかにもじゃない。人形と呪いとは切っても切り離せない関係よ。私は、この花を足がかりにしてみせる」
ああ。魔理沙は納得する。
最近アリスが元気だった理由は、簡単なことだった。まさに探していた何かを見つけていたのだ。すでに。
無論、それっぽいヒントになりそうな花を見つけたというだけの話であって、これで自分で動く人形が完成するなんて話ではないだろうが。
「それで、花の名前だったわね」
アリスの声はますます弾んでいる。
こんなに上機嫌なアリスを見るのは久しぶりかもしれない。
「ブラッディ・ドール。これが花の名前よ。――どう、素敵じゃない? まるで私に発見されるのを待っていたみたい。私がこの花を見つけたのは、運命なのよ」
同意を求めるように、ぐっと魔理沙に迫る。
目はきらきらと輝いている。
「あ……ああ。いや、面白い偶然だな」
「偶然? 運命よ。こんな偶然はないわ」
燃えている。
そうまで言われると、魔理沙も否定する気はなかった。実際、何らかの力が働いているのかもしれない。
呪われた花。
もう一度よく眺めてみる。
――どこかで見たような気もする。
少しだけ気になったが、魔法使いが作った花ということで、どこかで情報を手にしていたのだろうと。
このときはそれ以上は特に考えなかった。
[Magician's...]
「魔法使いとは、何だ?」
「え……えっと……魔法を使って、魔法を極める人。……かな?」
「魔法の力であらゆる障害を打破しながら生きていく存在。それが魔法使いだ。しかし――」
魔法使いは少女に向かって言う。
何度も繰り返してきた言葉を。
「魔法には絶対に不可能なことが二つある」
「うん……わかってる。死者を生き返らせることと、人を幸せにすること」
「ちゃんと理解していればいい。魔法で人を幸せにしようなどと絶対に考えてはいけない。魔法は自分のためだけに使え。いや、どんな無駄な使い方でも構わない。人のために使うなどと考えなければ。大切なものを失いたくなければ、これだけは必ず守るんだ」
「何回も聞いたよ。でも魔法は人を守ることだってできるはずで……」
「守るのはいい。――まだ難しいかもしれないが、幸せにするということは、違うんだ。人を幸せにするものは、決して魔法ではない。死者を生き返らせたいと願ってはいけない。人を幸せにしたいと願ってはいけない。いずれも、魔法使いには手が届きそうなことのように思えてしまうからこそ危険なんだ」
「うーん」
少女は少しだけ納得いかない表情を見せるが、それ以上逆らったりはしない。
「いいか。おまえは必ず強い魔法使いになる。今の瞳で真っ直ぐ突き進め。自分勝手でいい。優しくなくていい。強くあればいい」
「……うん」
「よし。いい子だ……魔理沙」
魔法使いの声は厳しくもあり穏やかでもあり。
部屋に日が射してきて――
そこで、目が覚めた。
意識を現実に戻すと、魔理沙は右手を天井に向かって伸ばしていた。何かを求めるように。
「……あ……なんだ……」
夢。
最近見る不思議な夢と違って、今度はしっかりと内容を覚えていた。
「なんだよ……おじいちゃん……もう、しつこく聞いたって……」
天井が目に入る。
もう古くなった部屋の汚れた天井。
夢は過去の記憶。魔法使いは、魔理沙の実の祖父。少女は魔理沙本人。
その会話が交わされたのは、まさに、この部屋だった。
昔、幼い頃は何度もこの夢を見た。成長と共に見なくなっていた。実家を飛び出して、祖父が一人で住んでいたこの家に住み始めたそのときでさえもうこの夢は見なかったというのに。
今更何を伝えたいというのか。
「ちゃんと、言われたとおりやってるぜ……心配か?」
開いている目が、熱くなる。目を閉じると、目尻に溜まっていた涙が頬を伝わって枕に流れ落ちる。
今にして思えば、無茶苦茶な遺言だった。優しくなくていい、自分勝手に生きろ。本人は、それが自分の最後の言葉になることを知っていたのだろうか――知っていたのだろう。魔理沙にはまったく何の前兆も見せないまま、もっとも言いたい言葉を遺したのだ。
祖父は一人実家を離れてこの広い家で暮らしていた。森の中で暮らしていた。そんな祖父のもとに遊びに行くのは魔理沙くらいのものだった。唯一の友達だったと言っていい。その魔理沙にさえ死に際は見せなかった。一人でひっそりと去ってしまった。
指の根元で涙を拭う。
本当に、今更だった。祖父が今の魔理沙の姿を求めていたのかどうかはわからないが、少なくともその教えはしっかりと覚えている。文句はそれほどないはずだ。
ベッドからのろのろと立ち上がり、ゆっくり顔を洗って。
鏡をぼんやりとしばらく眺めて。
ふるふると顔を振る。
「……よし!」
気合を入れなおした。
そして、なんとなく天井をもう一度眺める。
「ああ、もしかしたら一人で寂しがってるかもしれないってわざわざ出てきてくれたのか? ありがとな、おじいちゃん。でもすぐ近くに友達もいるから心配すんなって。嫌なやつだけどいいやつだぜ。……あー、それじゃわけわからんか。まあ、そんな感じだ。大人しく寝ててくれていいから、無理すんな」
それだけを伝えて。
また、いつもどおりの一日を始める。
[My little friend]
アリスはその後も毎日花畑に通っては、花を観察し――
というより、むしろ、花の世話をしにきていた。
魔理沙は以前、アリスが人形の世話をしている様子を目撃したことがあったが、そのときと同じくらい、楽しそうな表情と雰囲気だった。
実験器具を使って慎重に水の量を測りながら水をやっていたり、近くの土を掘って何か埋めていたりと、実験なのか栽培なのかよくわからないことを毎日繰り返している。
時折見覚えのないよくわからない測定器のようなものを持ち出しているところを見ると、やっぱり魔法が絡む実験をしているんだというのがわかるが、そうでなければただのお花好き少女になっていた。
毎日やってきては花の世話をして、時には話しかけたりもしている。
花に関する情報はアリスが魔理沙に話した程度の内容が全てで、栽培方法などの情報もまったくなかった。すでに存在していないはずのものと書かれている以上は当然なのだろう。アリスはたった一つの花を慎重に時間をかけて根気よく調べ続けている。
普段はインドア派のアリスなだけに、毎日これだけ姿を見るということは今までにはなかった。今やっていることが果たしてアウトドアなのかどうかはやや疑問点ではあるが。
アリスは花を育て、魔理沙はそれを横目に変わらない日常を送る。
そして、ある日。
「魔理沙! 見て! 見て!」
家を出て花畑の様子をちらりと覗きにきた魔理沙に、アリスは大きな声で呼びかけた。
顔もまだはっきり見えないほどの距離だが、何かいいことでもあったのだろうと、その声だけでわかるほど弾んだ声だった。ゆっくりと歩いて近づいていくと、アリスは待ちきれないのか、ねえ、とか、はやくー、とか、そんな言葉を投げかけてくる。
こっちこっちと手を振るアリスに、別に見えてるから振らなくてもいいとよほど言いたくなったが、無意味に機嫌を損ねることもあるまいとここは堪える。
「ほら! 見て!」
魔理沙がそこに到着すると、アリスは興奮顔で花を指差す。
「?」
覗きこむと、そこには、例の花があった。
……何度か見たとおりに、そのままに。
別に花が巨大化しているとか増殖しているということもなく。色が青くなっていたりすることもなく。
「……? 何を見ろって?」
魔理沙には、何の変化も感じ取れなかった。毎日見ているアリスならわかる程度の違いなのか。
「もう、気付かないの? その花の隣!」
「ん……」
花の隣。
何があるというのか。
「あ。あった」
そこにちょこんと、小さな芽が生えていた。確かにこんなものは、以前に見たときにはなかった。
アリスは、満足そうに頷く。
「間違いなくこの花の芽よ。栽培に成功したの! もう育て方もわかったわ。ちょっと手がかかる子だけど、なんとかなる。私はこの子をしっかり育ててみせるわ」
「そうか。よかったな」
「……感動が少ないわねえ。結構凄いことしたつもりなのよ?」
「ああ。そうなんだろうな。凄いと思うぜ」
「むー……まあ、いいけど。それでね、もう育て方もわかったし、あとはどこででも育てられるわ。ずっとここにお邪魔するのも効率も悪いし、これからは自分の家で育てようと思うの」
新しい芽を見つめて。
きらきらと目を輝かせながら言う。これからの期待と希望に胸が一杯という様子だ。
しばらく経ってから、魔理沙を見て。
「ありがとう。長い間お邪魔して悪かったわ。この芽は貰って帰るけど、いい?」
「ああ。別に邪魔でもなかったし。芽だけじゃなくてその花ごと持っていってもいいぜ」
「ううん。これは、ここにそっとしておくわ。きっとそのほうがいいから」
「そうか。まあ、あとは頑張ってくれ」
「うん、ありがとう。成果が出たらすぐに教えてあげるわ」
「期待しないで待ってるぜ」
「もうっ」
アリスは立ち上がる。
花畑を包み込もうとするかのように、両手を広げる。
「お世話になったお礼に、一ついいこと教えてあげる」
「お? そっちは期待するぜ」
「この子はね、成長するにも生命を維持するにも、魔力の欠片を必要とするの」
「ふんふん。そりゃなかなか面倒なやつだな」
「でね。ここで咲いていたっていうことは……たぶん何か、埋まってるわよ。この辺に。この子をひっそりとずっと生き延びさせてきた魔力の素がね」
両手を広げたまま、くるりと半回転。ふわりとスカートが舞う。
このへん、というのを指し示しているのだろう。
「なかなか魅力的な話だな。教えないでこっそり探して持って帰ればよかったんじゃないか?」
「それはそれで素敵だけど。でも、この場の魔力だけだと新しいこの子を育てる力まではなかったみたいだから、掘り返して探すほどのものでもないわ。今の私にとってはね」
魔力の素が埋まっているということは、いくつかの可能性が考えられる。
このへんの土が魔力を帯びているという場合。
魔力を発することそれ自体を目的とした何かがそこにある場合。
そして、強力な魔法道具が埋まっていて、そこから魔力が漏れ出ている場合。
無論、後者になるほどその価値は高い。三番目の可能性も十分にある以上は、魅力的な話であることに違いはない。
それをアリスは、わざわざ探すだけの価値はないと言い切った。それは、少なくとも感じ取れる魔力だけでは花を育てるには足りないから。アリスの価値の判断基準は、すでに花を育てることができるかどうかだけが全てになっている。
「もともと魔理沙の家だしね。探して持っていったとしても、泥棒になっちゃうし」
「わかった。ありがたく受け取っておくぜ」
アリスは一度家に帰って、色々と細かい道具を持ってまた戻ってきた。
そして、新しい芽を土ごと掘り返して、小さな鉢に入れ替える。
この日、その鉢を持って帰って以降、アリスがこの花畑に足を踏み入れることはなくなった。
このときまでに、魔理沙には花のことを思い出すための時間は十分にあったはずだ。
後から思えば、このときが与えられた最後の機会だったのだ。
――呪いから、逃れるための。
[Treasure]
霧雨邸は広い。
魔法の森の一部を借りて建てられているこの家は、魔理沙一人が住むには広すぎるほどだった。洋風建築であり、建てられてからすでに数十年は経過している古い家だったが、問題なく住むことができている。夏に湿気が篭ってしまうことが最大の欠点だったが、そこさえ我慢すれば快適に住めるほうだと言える。
もともとは、魔理沙の祖父がやはり一人で住んでいた家だった。魔理沙が幼い頃に祖父が逝ってから、実家を飛び出した魔理沙がこの家で暮らし始めるまでの間は、誰も住まない空き家となっていた。
広い家の中は、多種多様な魔法の道具で溢れかえっている。そのほとんどが、魔理沙がどこかから持ち込んだものだ。もとからこの家にあったものはごくわずかしかない。この家に残っていた、おそらくは祖父が遺したと思われる貴重な道具の数々は全て実家の人間が回収してしまった。持ち帰るだけの価値がないと判断されたものだけがそのまま残された。
回収された、とはいえ。地面を掘り返してまで必死で探したりはしなかっただろう。実家の者も。
つまり、地面の中に何か大切なものが隠されているという可能性はありえない話ではない。魔法使いが住んでいた家に常識的な感覚を持ち込むのは間違いだ。それこそ壁の中にでも何かが塗りこまれていたところでおかしくはない。
魔理沙は花畑に立つ。幼い頃、まだここが自分の家ではなかった頃、この花畑にももちろん来たことがあった。今みたいに狂ったように花が咲いているということはなく、密やかに小さな花が、短い間だけ咲き誇るだけの普通の花畑だった。
さて、何かが埋まっているとする。当然、真っ先に探す場所は、魔力の欠片で育つという花が咲いていたまさにその場所だ。ここを掘って何も見つからなければ、そのときまた考えればいい話だ。
スコップを持ってきて、例の花の根を傷つけないように気をつけながら、花の周囲を掘り始める。
どこまで掘ればどんなものが出てくるのか、それとも出てこないのか、何の情報もないため、まずはゆっくりと花の周囲を円で囲むように、深さをほぼ均等にしながら少しずつ奥へと掘っていく。
小さなスコップで地面を掘り進めるのは、思った以上に時間がかかる。体力も使う。根を傷つけないようにと神経も使う。
焦る必要はない。根がもう無さそうだと判断したあたりで、花を一度地面から抜く予定だった。そして一時的に移植してしまえば、あとはもう少し豪快に掘っていくことができる。
花を囲む円を、二十センチほどまで掘り進めた。掘った土が大きな山を作っている。
もういいだろう。今度は、より花に近い地面の土を少しずつ削っていく。花を持ち上げるときに少しでも軽くするためだ。出来る限り下の方で今まで掘った穴同士が繋がって、花の根のある部分の土だけが周辺の土から分離されるようにする。完全にはもちろんできないが、出来る範囲までやっておけばよい。
その作業も終わると、いよいよ花の茎を手に持って、地面から土ごと引き抜きにかかる。もちろん素手ではなく、穴を掘り始めたときから軍手をつけている。よほど強力なものでない限り、毒があったとしても問題はない。
力を込めて、根や茎を切らないようにゆっくりと、持ち上げる。
重みは感じられたが、特に大きな抵抗はなく持ち上がる。どうやら根は掘った範囲より深い位置までは届いていないようだ。安心して、そのまま持ち上げて地面から離し、花についた土の塊を手で払う。
それは、実にあっさりと姿を現した。
宝探しというにはあまりに簡単すぎたのではないかと思ってしまうほどに。
花の根元の土を払っていると、その土の中からぽろりと零れ落ちる紅い何かを見つけた。
指輪だった。そして指輪の先には小さな丸い宝石。
魔理沙はその指輪を一度土が盛られていない地面に移すと、手に持った花を再び地面に簡単に埋める。
「こいつは……」
魔理沙はそれを知っている。知識として。
実際に見るのは初めてだったが、有名なアイテムだからおそらく間違いはないだろう。
「継承の証、か」
有名なアイテム。間違いない。とはいえ、そうそう目撃できるものでもない。
相当な貴重品だ。その中身によっては計り知れない価値を産むものとなる。中身がまだないものであれば、それはそれで極めて貴重な存在である。
継承の証。この小さな指輪の中には、人の意思、言葉、知識、その他無形財産――そういった情報を閉じ込めることができる。知識がそのまま武器となる魔法使いにとっては、書物よりも何よりも強力な自己存在証明とすることができ、同時に後継者に直接的に自らの知識を与えることができる。
一度誰かの情報を入れる道具として使われると、その人以外に「記録」はできなくなる。情報を引き出すことは、誰でも可能である。記録者が設定した解放の言葉さえわかれば。
通常は、後継者に指輪を渡し、解放の言葉を教え、使用させた後は廃却するのが慣例だ。しっかりと、壊してから。だから、普通はこのようにどこかから発掘されるということは、まずない。
霧雨家の花畑に埋められているということは――
「……おじいちゃん?」
まさか。とも思う。
それならば自分が直接手渡されていたはずだ。埋められている理由がわからない。
となれば、もっと昔からここに埋まっていたか。
魔法使いのものであることは間違いないだろう。魔力を放出していたアイテムはこれだ。何らかの意思を持ってこの継承の証が魔力を解き放っていた。その力で花は育っていた。そういうことになる。
「この花を育てるために埋めた……のか?」
首を傾げる。
そうとも考えられるし、単に埋めたところに花が咲いただけとも考えられる。後者のほうが自然だろう。魔力を放出するだけなら、何もこんな貴重品を使う理由などはないのだ。
何であれ、魔理沙は解放の言葉などもちろん知らない。これが誰の者であるかがわからないことには推測もできない。
となれば、持っていても仕方ない。もう一度それを土に戻して、同じ場所に花を植えなおす。
これでまた花は生き残り続けるだろう。
継承の証のことは、また機会があれば調べてみればいい。また今度でもいいだろう。
今は、あるべき場所に、そのままに。
続きが激しく気になります
アリスもちょっと様子がおかしかったような…………
続きを期待してます
続きを期待して待ってますヨ♪
どう関係しているのか激しく気になります
謎だ……
現段階ではまだ導入部ということなので、続きに期待しつつ。
連作が上手な人はこういう作りや運びが上手ですねぇ。
期待してます!
呪いへの発展が大変楽しみです。
続きを期待して……ってもう続き来てるー!?
早速、読んできます。
花の異変は、魔法の森には及んでいなかったような気が…
あと、誤字っぽいものを
アリスはどんなどきでも→どんな時でも