例えばこの何の変哲もない玉砂利が、匠の手にかかるとあら不思議。
凍らせるだけで、最高の玩具に変わるのです。
「きゃっほーい」
凍りついた玉砂利の上に寝そべって、あたいは全力で転がりまわった。
恥と照れを捨て、ワイルドに転がるのが白玉楼での嗜み。
そこの庭師が先程からじと目であたいを睨んでいるのだが、そんなのは全く気にならない。
匠の遊びを理解せぬ奴が悪い。
遊びとは、照れを忘れた、境地なり。
「なにー?妖夢もやりたいー?」
「はぁ……」
縁側から溜め息が返ってきて、げんなりした顔が左右に揺れる。
こやつめ、ははは、幽々子の許可をとってあると反撃が出来ないらしいわ。
あーひんやり気持ちいいー!
暫く転がりまわると、服や羽に小石が付いちゃうので、立ち上がって犬のように全身を震わせて弾き飛ばす。
また、その時に散らばる小石がぶつかり合い、音を出すパチパチというのが身の毛もよだつ快感なのだ。
要するに最高っ!
「チルノー……もう夕方よー?一体何時まで続けるのー?」
「まだ続けるよー。リグルとミスティアとの弾幕ごっこの時間までー」
「それ何時?」
「夜」
その一言が痛恨の打撃だったらしく、妖夢は頭を抱えて塞ぎこんだ。
この高尚な遊びを理解できぬとは、可哀想な奴。
さぁ、まだまだいくよ、必殺!チルノローリングー!
「きゃっほーい!」
「あらあら、チルノは元気がいいわねー。ねえ妖夢、見ててこっちも楽しくなるわよね?」
「嫌味ですかそれ……?」
「まぁまぁ、掃除の事を気にしているの?それなら心配ないわ、誰がすると思っているのよ?」
「え!?も、もしかして……幽々」
「妖夢よ」
その一言が致命傷だったらしく、妖夢は縁側に横向きに倒れた。
全く根性が無い奴は駄目だ。
「幽々子ー、ローリングするー?」
「ううん、皆で柿を食べようと思って持ってきたの」
「わっ!?柿!?」
転がるよりも食欲が優先された。
玉砂利がついたまま、お盆の上の柿目指してダッシュ。
「ちょ……!?や、やめてよっ、縁側まで汚す気なのー!?せめて砂利を落とせー!」
「大丈夫、大丈夫。誰が掃除するんだっけ?」
「私?」
「うん、だから大丈夫」
「チルノ。手ぐらい洗ってきたらどうかしら?少し不潔かもよ?」
「あ、凍らせてシャーベットにしちゃうから、問題ないよ」
「あら、冷凍殺菌ね」
「へへ、凄いでしょー。いただきまーす」
しゃくしゃくとした氷果の歯ごたえが、実に素晴らしい。
十分に咀嚼して水分を口に染渡らせる。
んー、マイルド。
口に残った異物を、勢い良く庭に飛ばす。
「あの種、生えるかなー?」
「生えないわね」
「そっかー」
「ほら、妖夢。いい加減復活しないと貴方の分まで食べちゃうわよ?」
「……え?あ、ああ、すみません!頂きます!」
明らかに一番小さい柿が残ったが、妖夢は何も言わず噛り付いた。
おそらく幽々子といると、おやつが残ってる方が珍しいのだろう。
「そういやさ、聞いてよ。最近ちょっと酷いんだよ」
「何が?」
「私とミスティアとリグルの三人がいるとさ、三馬鹿トリオって呼ばれちゃうの。失礼しちゃう」
確か最初にそう呼びだしたのは、えーりんとか言う奴だ。
その時、リグルは一緒にするなという顔をしていた。
ミスティアは、私だけは違うぞという顔をしていた。
全く、空気の読めない馬鹿はこれだから困る。
私はもちろん一番嫌そうな顔をしたよ!だって私は馬鹿じゃないからね!
ふと、横を見ると妖夢と幽々子が腹を抱えて笑っていた。
「な、なによー?」
「あっははははっ……いやいや、世の中には適切な言葉を当てはめる人が……ひー、駄目ー、苦しいわー」
「三馬鹿って、す、少しリグルが可哀想ですよね?ははっ、い、いや案外そうでもないのかな、くくくっ」
「チョット待ってよ!二人ともあたいが馬鹿だって言うの!?」
「だ、だって……ねぇ?」
「三馬鹿の筆頭じゃないの~」
「失礼なー!!」
憤慨だ理不尽だ言葉の暴力だ!何て見る目がない奴らなのかしら!
これだけ、賢い妖精は他にいないっての!
縁側に立ち上がって地団駄を踏む。
靴の裏の氷もペキペキと音を立てて抗議した。
「あたいは馬鹿じゃなーい!!」
「そ、そうよね、私達が悪かったわ……ぷっ……くく……トリオって……」
「幽々子様、それ以上笑うのはさすがに失礼ですよ」
とか言いながら妖夢、顔が引きつってるじゃないの!
おのれ、こやつら!
あたいが、頭のいいところ見せてギャフンといわせてやるわ!
外の世界のトンチにこんなのがあるよ!
「あたいに馬鹿があるっていうなら、その刀であたいの馬鹿だけを切ってみなさいよ!何でも切れるんでしょそれ!?」
「まぁ、一休みたいな展開よ」
「しかし、幾らなんでも形無い者は切れませんし、どうしましょうか?」
「いやいや、妖夢。チルノはあながち間違った事を言ってるわけでもないわ」
「そうなんですか?」
「大昔には霊剣で人の身に宿る鬼だけを切り捨てたって、伝説もあるくらいだし」
「例えば、この白楼剣がですか?」
「うーん、その刀はどうだったかしら??」
「さぁ、どうすんの!?馬鹿があるっていうなら、切ってみやがれっての!」
妖夢に背中を向けて、どすんと腰を降ろす。
さすがに妖夢だって、生身のあたいをばっさりって事はない。
かといって、何もないところ切ったってしょうがないだろうし。
この勝負、あたいの勝ち。
へへん。
「じゃ、試しに切りますか」
「そうね」
「ええええぇえええ!?」
「馬鹿と天才は紙一重っていいますし」
「薄く頭部を切れば、天才になるかもね」
「ま、待った!あんた達本気なの!?」
「あ、駄目駄目、チルノ動くと危ないから、動かないでね」
「うん……って違うって切るなって!危ないでしょ!?っていうかもう刀抜いてるしぃ!!」
「切れって言ったのはチルノじゃないの。ね、幽々子様いいですよね?」
「そうそう、馬鹿だけちゃんと切るから危なくないわ」
幽々子の目は訪れるあたいの不幸を笑っていた。
妖夢の目は……駄目だ、完全に復讐に燃えている。
「掃除するから!私が掃除するからー!妖夢ごめん仲直りー!」
「何のことやら~、それじゃ行くよチルノー!」
「わっ、解った。動かないから絶対切るなよ!切るなよー!?」
「せやっ!」
「ひゃあああっ!!」
剣が唸る。
頭の上を水平に剣が通過したらしい。
風圧で、髪が僅かに浮き上がった。
-プチッ
「ぷちっ??」
「なーんて、どうチルノ?馬鹿切れたかな?」
笑いながら妖夢が回り込んできて、あたいの顔を覗きこむ。
「あ、あれ?今、何か切れなかった?」
「え、嘘!?ちゃんと外したつもりなんだけど……大丈夫?」
「大丈夫よ、外れてたし髪も切れてないわ。幾ら妖夢でも友達を切ったりしないわよ」
「……じゃあ……さっきの音は何よ……?」
「音?風の音じゃないの?」
「風の音……ううん、違う……」
なんだか頭がくらくらするよ?
ちきしょー、何だっていうのよー。
これから楽しく激しい弾幕ごっこが待ってるのにー。
「あ、そうだ今何時かな?」
「ふむ、丁度六時ね」
私の声に、部屋の壁にかかる古時計を見上げて、幽々子が答えた。
「六時か、六は二の三倍ね」
「何を当たり前のことを言ってるの?」
「いや、何だか頭に浮かんできちゃって……どうしてかな?」
「チルノは何時までいられるのかしら?時間があるようならば、私たちと一緒にゆうげでもどう?」
「弾幕ごっこは二十時の約束だよ。二十は五のニ倍の二倍だね」
「また?本当に、どうかしたの?仕返しにからかってるつもり?」
「ち、違うよ。何だか勝手に数字が出てきたもん……」
「チルノ、126は?」
「126?七の三倍の三倍の二倍……ところで、何であたいってば数を分解してるわけ?」
「驚いた、この子、無意識に素因数分解してるわよ」
「素因数分解……ですか?」
「九九がやっとの子だと思ってたのに……まさか、本当に馬鹿が切れたんじゃ……ちょっと待ってなさい!」
部屋の奥へ消えていった幽々子が、戻ってきた時には一冊のドリルを手にしていた。
表紙の名前欄に魂魄妖夢と書かれている。
それ、ひょっとして、妖夢の子供の頃のかなぁ。
「なっ、幽々子様!?そのドリルは止めてくださいよ!」
「チルノ!6887は!?」
「6887ぁ?……6887は……うーん、ありゃ、浮かんでこないな?」
幽々子がほっと胸を撫で下ろす。
妖夢が首をひねっていた。
あたいには未だに何をやってるのかさえ掴めない。
「びっくりした、本当に天才になっちゃったのかと思ったわよ。チルノ、もう冗談は止しなさい」
「……あの、幽々子様。実は私も恥ずかしながら6887は分解できないのですが、ひょっとしてそのものが素数ですか?」
「いいえ、素数じゃないわ。ただ、これは少し意地悪でね……」
「あ、解った。6887は71の97倍だ!」
幽々子が絶句した。
―――――
いい気分。
とってもいい気分。
数字が頭に溶けていく~。
「もう、誰にも馬鹿だなんていわせないぞー!」
空に飛び出して大声で叫ぶと、そばにいた鴉がびっくりして逃げ出した。
あれからご飯待ちの間にドリルを暗記して、その内容を丸ごと一冊頭に叩き込んだ。
中身は程度の低い数学だったらしいが、初歩の微分積分あたりなら、もはや敵では無い。
ページ数から式から落書きまで一字一句逃さず、何時でも鮮明な映像が頭に出てくる。
しかも、記憶にかかった時間は、百ページ毎に五分くらいときたもんだ。
凄い、凄いぞあたいー!
んー、何もかもが新鮮。
眼下の一瞬の眺めが止まってるように頭の中に入ってきて、消えない映像を記憶として形成していく。
ああ、ミスティアやリグルが驚く顔が早く見たいなー。
私らのトリオもこれで三馬鹿脱出だよ。
きっと、二人ともあたいの出世に喜んでくれる。
そして、天才チルノ様を崇め奉るが良い。
青い闇の中、月は天に輝いていたが、山の辺りはまだまだ色が薄い。
もう少し時間があるなと、幻想郷の周りを鼻歌交じりで飛びまわった。
でも、弾幕ごっこ約束の時間に近づくにつれて、色んな事がどうでも良くなってきて、こういう結論だけが前に出てきた。
「今日から弾幕は頭脳だー!!絶対負けないぞー!」
―――――
「ぎゃふんっ!」
いきなり負けた。
「チルノは暗夜に敗北を~♪」
「あーあ、結局さっきのは大言壮語だったの?」
勝ったミスティアが笑いながら高らかに夜を歌う。
リグルが、やれやれといった表情でミスティアの手を持ち上げた。
「勝者ー、ミスティア~」
「いえーい♪」
「あ、あんたねー、僅差で勝っただけで偉そうにー!」
天才なのに、天才なのに、あんたたちよりずっと賢い、聡い、カッコイイ、の三拍子揃ったこのあたいがー!!
……って事は、素因数分解が出来ても弾幕ごっこには関係ないってことか。
弾幕は頭脳じゃないってことか。
残念だなぁ。
「やっぱり弾幕はフィーリングー!ミスティアもっかいやるよ!」
「えー、次は勝った方が私とやる約束だったよー?」
「五月蝿いリグル!天才のあたいが連勝してやるから、そこで見てなさい!」
「はいはい……ミスティア、いける?」
「もっちろん!」
秋の夜長に、弾幕ごっこは最適で。
夜雀と蛍は夜には強くて。
いつも、あたいが眠くなったところが終了の合図。
今日もいつも通り始まって、いつも通り終る予定だった。
一戦、二戦、三戦と。
試合をこなしていくうちに、何故か段々とミスティアが弱くなってきた。
五戦ぐらいからは、殆ど一方的な試合展開。
「また勝ったー!見たか天才チルノの力!」
「ふぇーん!な、何でー?どうしてー?」
「ミスティア、さっきの試合なんて一発もチルノに当たってないよ、真面目にやりなよー」
「やってるよー、夜だから全力を出してるよー」
「うーん、疲れがたまったのかな……そろそろ交代する?」
「おっかしいな、本当に全力なんだけど。疲れとか違うよ、何かチルノに不思議と弾が届かない」
「よーしチルノ!私が相手だー!」
「かかってこーい!」
リグルには最初から、僅差で何とか勝った。
ところが、一戦、二戦、三戦とこなしてくうちに、ミスティアと同じように段々とリグルも弱くなっていった。
五戦ぐらいからは、練習相手にもならなくなった。
「な、何なのよあんた達……?真面目にやりなさいよ、つまんないじゃないのさ」
「ま、待ってチルノ、も、もう息が続かない……はぁふぅ……」
「ねぇ、リグル?チルノに弾当たらないでしょ?」
「う、うん……何で?動きは今までと対して変わってないのに……」
とにかく、これじゃ全然面白くない。
「あんた達!二人一緒にあたいにかかってきなさい!」
「え、ええ?」
「一人じゃ相手にならないもの、弱すぎ!」
「言ったなー!」
それでも、弾が当たらない。
二人とも手加減してるのかと疑ったが、それは違うと解った。
癖だ。
撃つ時の癖、避ける時の癖、身体の傾き具合、弾の射出音、眉や唇の形、目線、羽音、声。
これだけはっきりとした弾の表情を見せれば、簡単にパターン化することが出来る。
後は、それぞれに応じて狂いの無い動作を、あたいが延々と続けるだけだ。
最後には二人同時にラストワードまで使ったが、やはり当たらない。
弾の数は全部で五百十二で、五百十二は二の九乗……。
「……つまんない……」
「ミスティアー!今度は右からお願い!」
「りょうか~い!」
「もういい!やめて!つまんないよ!」
あたいのその言葉で、静かに夜が帰ってきて、弾幕の喧騒がすっと引き、三人の姿が闇に浮かび上がる。
「………チ、チルノ?」
「……今日は、もういい。あたい帰る」
服すら汚れてなかった。
避ける事も勝つことも楽しみだったのに、これだけ続くと理不尽な気がしてならない。
自分と違う力みたいでつまらない。
「あ、わかった!インチキだ!」
「なに?」
「チルノがこんなに強いわけないもん!」
「あたいは元々強いよ!でも、今日はあんた達が弱すぎるんだ!」
「インチキだインチキだ!!」
「インチキじゃない!」
「ぜーったいインチキだーーー!!!」
「うるさい、黙れ黙れ黙れー!!」
騒ぎ立てるミスティアのブラウスに掴みかかった。
ミスティアは帽子が風に揺れて飛びそうになったのを押さえながら、あたいのほっぺをつねって反撃してきた。
当然あたいもほっぺをつねり返した。
「にゃにが、いんひきだ、このとりあたまー!」
「ちるのがいんひきだー!」
「あたいは賢い頭で弾幕を予測して避けてるんだってのー!」
「チルノは馬鹿じゃないと似合わなーい!」
「そんな事だれがきめたー!」
「わたしわたし~♪」
「ふざけろ、焼き鳥にしてやるー!」
「ほら、二人ともブレイクブレイク」
リグルが割って入ってきて、二人のおでこを押し返した。
あたいらは、一週間に三度はぶつかるので、リグルも慣れたものだ。
「はー、はーっ」
「ふー、ふーっ」
「……で、チルノ。本当に頭で予測してるの?」
「だからそう言ってるじゃん。天才チルノになったんだよ」
「ふーむ……」
「リグル騙されては駄目よ。『たすけてえーりん!ミスティアにいじめられたよーっ!凄い薬だしてー!』とかに決まってる!」
「永琳はそんなネコ型ロボットみたいに優しくないって、恐らく確実に実験台に回される」
「そう、リグルが正しい!」
「で、でもー!」
「でもじゃない。今日は私達の完敗だ。チルノも飽きたみたいだし、これ以上やっても仕様が無いよ」
「やだー、インチキだもーん!……むぐー!?むー!!」
リグルに口を塞がれて、反論できなくなったミスティアは、顔を真っ赤にして手と羽をバタつかせて抗議した。
「夜も遅いし、チルノはもう眠いだろう?今日はこの辺で解散しようか」
「うーん、あんまり眠くは無いけど、まー、これじゃつまんないし、解散しとく」
「ぷはっ……あ、明日は勝つからね!覚えときなさいよチルノー!」
「それは良い、せいぜい強くなって、チルノ様を楽しませなさい」
「むかーっ!今ここでボコボコにしてやるー!」
「ほらほら、帰るよ」
「覚えてろーっ!」
チンピラの撤退時のような台詞を残して、ミスティアとリグルが夜の月に上がって行く。
中途半端な丸の月は、しばらくして満月になるのだろう。
あたいは二人を見送った後、湖から少し離れた洞穴に向って飛んだ。
今のところの、あたいの寝床。
ここも飽きたから、そろそろ住処を変えようかなとか思っている。
自由気ままに、それが妖精の本質なのだ。
「あたい、本当に賢くなっちゃったのかなー?」
氷のベッドを作り出して、あたいはその上に寝転んだ。
こいつは、朝起きるのが遅れると溶けて尻餅をつくという、非常にデンジャラスなベッドだ。
しかし、それも妖精の遊び心故。
「あ、そうだ、明日は図書館に行ってみよう。本が一杯あればあたいの天才ぶりも、どの程度か解るはず!」
思いついた天才の策に、我ながら惚れ惚れしながら、あたいは満足して一日を終えた。
―――――
ヴワル魔法図書館。
薄暗くて気味が悪い、静かで気分が悪い、本だらけで視界も悪い。
ついでに言うと本を読むのに薄暗いのは目に悪い。
あたいとは縁の無い正反対の場所だったはずなのだが、今はこの静けさが落ち着く。
昔のあたいだったら、こんな陰険な場所、近づく事さえ嫌がるだろう。
これも賢くなった証拠かしら。
「ぜぇーったい汚したりしちゃ駄目ですからね?」
小悪魔がいちいち小言を言いながら、注文した本をあたいの前に置いていく。
図書館の一角に陣取ったあたいは、周りに本を積み上げてお勉強の真っ最中だ。
「まったく何でパチュリー様はこんな奴を入れたりするのかしら……」
「聞こえてるよ?」
「聞こえるように言ってるんです!」
「ふーん、そうなんだ。あ、注文から氷符文様学四巻と、反属性融合術のニ巻が抜けてるじゃない」
「ぐぬぬぬ……!わ、解りました少々お待ち下さい!」
床を踏み鳴らしながら小悪魔が本棚に戻っていく。
図書館では静かにと教わらなかったのか、うつけめ。
「それにしてもあたいって凄い……」
一冊の魔導書を暗記すれば、読み解けず諦めてた別の魔導書の式が理解できるようになってる。
連鎖的に読み進めていくうちに、あっという間に読破書は二十を越えた。
文章を読み進める間、余った脳が暇そうにしていたので、右脳に適当な式を与えてやると勝手に展開を始めた。
式が答えを求め、答えから新たな式を生み出して、そのうち魔導書に載ってない術や魔法まで、頭の中で理論を組み立てられる。
ある程度知識を手に入れたから、今度は辞書の暗記でもしようかしら。
「はぁはぁ……こ、これで全部!……ですよね?」
「ありがとー。あと氷術大全あるー?」
「まだ注文があるんですか!?そこに積んである本を先に読んでくださいよ!」
「あ、これもう読み終ったから。棚に戻しといて」
「うそーっ!?」
魔導書に没頭してるうちに、何時の間にか外は夕暮れ時。
最後に事典をばんっと勢い良く閉じると、あたいはにやりと笑った。
心がうずうずして仕方ない。
これだけ知識あがれば、湖の水で凄い事が出来そうだ。
さぁ、外に出て実践の時間!
天才チルノのショータイムだ!
―――――
「う、うわー……」
空気中から水分を抜き出して、遥か上空から氷の流星を降らす事など朝飯前だった。
水脈を利用して、地面から巨大な氷の壁を迫り出す事も楽勝。
鋭い氷のナイフを、何処にでも何本でも出現させ操る事が出来る。
紅魔館前の湖の水を利用すれば、なんと氷のサーペントを作り出す事ことに成功。
更に驚く事に、羽をつけてやれば氷龍となり、あたいの意のままに上空を飛んだ。
想像以上!
怖いくらい何もかもが上手くいく!
「やっほー!あたいの時代の到来だー!」
せっかくだから、この楽しみを皆に分けてあげよう。
妖精の本分とは悪戯である。
つまり、紅魔館の連中を、からかってやるのだ!
「ゆけっ!チルノドラゴン!」
紅魔館の真っ赤に燃え盛る花畑を指差してやると、チルノドラゴンは、湖の上空をゆっくりと進撃した。
やがて門番に迎撃されて、あっさり湖に崩れ落ちた。
「あ、弱……」
攻撃方法何も持たせてなかったし、やっぱこの程度か。
あたいが遠目に眺めてても、最後の方はふらついてたし。
どうも日光で溶けるみたいで、長距離の移動は厳しいらしい事が判明。
夕方より夜の方が、まだ強そう。
だが、迎撃されても氷が水に戻るだけなので、龍の資源は無限にある。
だから、もう一匹龍を作ってみた。
今度は牙と手足を生やしてみた。
戦ってる間に溶ける事が無いように、身体を冷気で何重にもコーティングしておく。
より立派なチルノドラゴンが完成した。
スペルカード無しで、ここまで出来るなんて信じられないや。
……なのに、何故だろう。
こんな凄いものが造れたってのに、さっきほどあたいの心が燃えていない。
「戦ってみればきっと燃えるさ。ゆけっ、チルノドラゴン!」
先程よりずっと速い速度で、ドラゴンは湖の上を飛ぶ。
門の前にぬぅと鼻っ面を出してやると、すぐに門番との戦闘が始まった。
今度のドラゴンは硬かった。
門番の気功程度ならびくともしない。
焦った門番が門の前から飛び出して、体術を交えて応戦し始める。
彼女の必死さがひしひしと伝わってくる。
恐らくドラゴンじゃなくて、館に控えるメイド長に睨まれるのが怖いのだろうが。
「さて、高みの見物といこうかな」
見付からない程度に距離をとって、芸術的な龍を迎撃する中国娘という中華風の戦闘を眺めた。
意図してたわけではないが、なかなか、赴き深い取り合わせではないの。
……でも、やっぱり燃えないなー。
しばらく放っておくと、館からメイド長が出てきた。
おお、これは少し面白くなるかも?
二対一の劣勢でもチルノドラゴンは粘ったが、そのうち龍は淡い橙の光にその身を輝かせながら湖に沈んだ。
気が付くと、夕陽はもう山に半分隠れていた。
「ふわぁぁあ……」
面白いはずなのに、面白くない。
あたい、こういう悪戯大好きだったのになー。
勝てないからつまらなかったのかな?
もっかい作ろうか。
湖から氷の塊を引っ張り上げる。
今度は首を三つ首にして、氷のブレスの噴射口を搭載して……。
「やーめた」
飽きて、龍を水に還す。
もったいない気もしたが、本当に強くてもつまらないと思った。
勝てるかどうかじゃない気がする。
どうしてか、心が悪戯を求めてこない。
つまらない。
何でだろう。
そういえば昨日の弾幕ごっこもつまらなかった。
「チールノー」
「おぉ?」
呼応して見上げれば、黒いマントがひらひらと、リグルが空から降りてくる。
「どうしたの?リグル」
「今日の弾幕ごっこの約束に来たんだよ」
律儀だなー、リグルは。
約束なんかなくても、あたいは何時も通り行くってば。
……あれ?
「見つけたよチルノー!今日は勝ーつ!」
変だな、今の今まで弾幕ごっこなんてすっかり忘れてたぞ。
三日坊主のあたいが、ずーっと続けてきた楽しみなのに。
「チルノ?チルノー?」
「え?あ、ミスティアまで来たの?」
「何よ、反応悪すぎー!」
弾幕ごっこ。
ルールに則った遊び。
擦り傷打ち身は耐えないが、文字通りあくまで遊び。
んー、あれの何が面白かったんだろう?
思い出せない。
弾幕ごっこの記憶は幾らでもあるんだけど……そこから感情が来ない。
「ねぇ、弾幕ごっこって何が面白かったっけ?」
「はぁ?何がって言われてもねぇ……」
「何言ってるの、チルノ一番楽しそうにしてたじゃない」
「そうだっけ?」
記憶の中のあたいは確かに楽しそうに笑っているのだけど。
その笑いが理解できない。
次第に自分の笑顔すら不愉快になってくる。
「むぅ、弾幕ごっこはいいや、あたいはパス」
「ど、どうして?昨日喧嘩したから?」
「喧嘩……喧嘩なんてしたっけ?」
「あ、解ったぞ!チルノは私に負けるのが怖いんだ!」
「……うーん?」
「やーい、チルノの弱虫ー!」
「あぁ……そうか」
「は?」
「もう、付き合うのが馬鹿らしいんだ」
「な、なに?」
「弾幕ごっこなんてつまらないって言ってるの」
「チルノ?」
「あたいは天才なんだ。もうそんな事が楽しい時期は終ったのよ」
「リ、リグル、何かチルノ変だよ?」
「二人でやればいいでしょ?あたいは本でも読んでた方が楽しい」
「つれないなー、ミスティアも私もチルノ撃破の為に夕方から特訓してたんだよ?」
「あ、リグル!いらないこと言うなー!」
「馬鹿にも解るようにはっきり言うとね、弾幕ごっこなんて子供のお遊戯に今更付き合ってられないって言ってるの」
「えぇ!?」
「そっか……今日のチルノは御機嫌斜めみたいだね」
「違うよ!チルノどっかおかしい!」
「じゃあさ、私達いつもの場所でやってるから、チルノもやりたくなったら何時でもお出でよ」
「リグル!違うっておかしいよ、何で解らないの!?」
「うん、解った」
その後もミスティアは動かず、何度も私に向けて喚いた。
それに取り合わず黙って聞き流してるうちに、リグルが先に飛び立った。
ミスティアはリグルとあたいを交互に見つめるも、やがてリグルを選び空に上がった。
最後に向けられた彼女の目は、意外にも心配そうにあたいを見ていた。
心配?
ふん、鳥頭があたいの心配するなんて百年早いってのよ。
自分の屋台の売れ行きでも心配してな。
明日もまた図書館に行こう。
あそこならあたいは楽しい。
氷のベッドも今日から止めだ。
あんな不便なだけの物、何が楽しかったのか今のあたいには解らない。
―――――
明くる日も、あたいは朝から図書館に向った。
本の森は私を楽しませてくれる。
積み上げられた魔導書の中で、私の知識は加速度的に増していった。
読んで日が暮れて、一人で帰って、寝て、起きて、また図書館へ。
そうやって、あたいは毎日、図書館に入り浸った。
しばらくすると、あれだけ楽しかった本にも飽きが来た。
あたい、どうも飽きっぽい性格になっちゃったらしい。
読む本の無い図書館なんて暇で仕方ないので、思い切ってパチュリーに話しかけてみた。
パチュリーは本の写しの途中だったが、快く会話に応じてくれた。
珍しいなー。
話してて解ったのだが、どうやらあたいの変化に興味を持ってるらしい。
パチュリーとの話は楽しかった。
さすがに知識の番人だ、魔導書に書いてないこともパチュリーの頭は知っている。
芸術を、数学を、物語を、何でも言葉巧みに紡いでくれる。
あたいは、自分の知識が役に立つ世界が嬉しかった。
それはパチュリーも同じだったらしく、私達は閉館まで夢中で話し合った。
幾つか本を読んで、その知識についてパチュリーと語り合うという日々が数日続いた。
目的意識の持った読書は楽しい、これで独りじゃなくなった。
そんな日々に、気になる事といえば、ミスティアが夜になると必ずあたいを弾幕ごっこに誘いに来る事だ。
幾らきつく断っても、毎日懲りずに来る。
あんな子供の遊び、やってられないって言ってるのに。
弾幕ごっこをしばらく離れている間に、その遊びはどんどん嫌いになっていった。
五日目に図書館に入館した折に、珍しく図書館の入り口に立つパチュリーが、あたいに話しかけてきた。
「チルノ、少しいいかしら?」
「どうしたのそんな場所で?」
「貴方は今の自分をどう思ってる?」
「どうって?」
「ここ数日話してみて、妙な事に気が付いたわ。ねえ、貴方は心がちぐはぐな時があるんじゃないの?」
「そんなことないよ」
「ミスティアや、リグルのことを今でも友達だと思ってる?」
「思ってるよ?」
「本当に?」
「……本当だってば」
実のところ、パチュリーの言葉には途惑っていた。
最近の彼女らに、友情を感じる事はもう無くなっている。
一緒にいて楽しくも無いし、話しててもつまらない。
それでも、まだ友達なんだろうか?
ふっと背筋を何かが駆け上がった。
……今度、今度また機会を作って二人とゆっくり話そう。
そうすればきっと解り合える。
だってあたい達は、友達なんだから。
「チルノ、冷や汗が凄いわ」
「!?」
「嘘よ。でもこれではっきりした。貴方は、やはりちぐはぐになってしまっている」
「な、何を」
「図書館にはもう来ない方がいい。今日から貴方の入館をパチュリー・ノーレッジが禁止します」
「ちょ、ちょっと!?」
「どんなに天才になっても、膨大な情報を蓄積しても、感情の幅が増えたわけじゃないの。貴方は感情のシフトについていけていない」
「いい加減にしてよ!何さ、いきなり勝手な事ばかり!」
「解ってチルノ。危険なのよ。価値観の違う脳に生まれ変わったのに、貴方は昔のままの自分だと信じようとしている」
「あたいはあたいだ!そんな事は馬鹿でも解る!」
「とにかく図書館へは入れられない。このままだと貴方の内にある違和感が、貴方自身を壊してしまう。一度自分の整理を……」
「いいわ!だったら魔理沙みたいに、強引に本を借りていってやるから!」
パチュリーを横から思い切り押しのける。
元々身体の弱いパチュリーは床に倒れた。
悔しかった。
パチュリーとは、友達になれたと思ってたのに。
向こうは、あたいをそんな風には見てたんだ。
ただの観測対象だったんだ……!
小悪魔は何処に居るのか知らないが、まだ騒動に気が付いてはいない。
パチュリーが体勢を立て直す前に、私は走り出す。
すぐに、パチュリーも立ち上がって私を追い始めた。
場所が場所なので、御互い弾幕は使えない。
「これと……!これとそれと!」
声と裏腹に本等選んでなどいなかった。
図書館を縦断し、目に付いた本を手当たり次第、腋に抱えていく。
何冊かの本が、床に落ちてページが捲れる。
落ちてくる本が肩に当たってパチュリーが呻いた。
「……ざ、ざまぁみろー!」
やがて本が腋に抱えきれなくなる辺りで、様子がおかしいのに気が付いた。
追われている気配が無くなった。
パチュリーの追ってくる音が聞こえない。
「パチュリー?」
振り返ると後方でパチュリーが蹲っていた。
もしかして、パチュリーは……。
換気の宜しくない部屋で走り回るなどというのは、気管支喘息にとって命取りだ。
走ってる最中に己の呼吸の異常に気付けないから、止まった後に酷い発作に気付く。
喘息とはいえ重い症状にもなると、死ぬ事もあるらしい。
ぜー、ひー、という短くて濁った呼吸音が、あたいの耳にはっきり聞こえてきた。
床に背中を丸め、必死に息を吸おうと口を大きく開けているが、顔面は既に蒼白だった。
何で気が付いてやれなかったんだろう……!
「小悪魔っ!パチュリーが!」
あたいの叫びで状況を察した子悪魔が飛び出した。
小悪魔はすぐに薬を持ってきて、パチュリーの口にあてがい噴霧する。
懸命に薬の霧を吸い続けるうちに、しばらくしてパチュリーは平静を取り戻した。
小悪魔の行動が早かったのは助かった。
「パ、パチュリー……大丈夫?」
「ごめんなさい、チルノ。迷惑かけたわね……小悪魔、有難う……」
「あ、あの、こっちこそごめん」
「チルノ、もう一度言っておくわ。今は知識を求めるのを止めておいた方がいい」
「パチュリー様、お身体に障ります。ベッドの方へ」
「待って小悪魔。チルノ、お願い聞いて。貴方の脳は急激な変化に取捨選択を始めているのよ。
チルノはそれが自分で解っていない。これは相当に危険な事よ。切り捨てられた方の自分を、今でも自分の実像だと勘違いしてしまう」
「何を言ってるのか解らないよ……」
「とにかく気持ちを整理して。戻るか、進むか、はっきり決めた方がいい」
「戻る?進む?」
「天才の自分を受け入れるか、無邪気な妖精に戻りたいか。もう道は一本しか残されてないのかもしれないけど……」
「あ、あたいはそんな」
「それと、どういう結果になっても、自分を愛する事は忘れないで。でないと、とても不幸になるわ」
「………」
そこまで一気に喋ってから、パチュリーは小悪魔に肩を借りてベッドに向い始めた。
「チルノ、今まで、楽しかったわ……また話せるといいね」
その背中にかけてやる言葉も見当たらずに、あたいは、呆然としてその場に立つだけだった。
―――――
湖上を小さな妖精たちが鬼ごっこをしている。
遊ぶでもなく、からかうでもなく、脅かすでもなく、あたいはそれを湖に浮かべた氷の上から眺めていた。
昔のあたいなら、からかうがもっとも優先順位が上だったろう。
最後に来るのが、眺めるか。
そして、あたいは今、眺めている。
図書館が使えなくなって、いよいよ行くところがなくなった。
かといって、あのように皆に混ざって遊ぶという行為が面白いとは思えない。
それでは何も満たされない。
恐らく程度が低すぎるものに対して、あたいの脳が刺激を感じなくなっているんだ。
あたいは、こんな内省的な性格だっただろうか。
何であれ積極的に外部と関わりにいって、楽しさを維持していた気がするが……。
なるほど、パチュリーが言いたかった事はこういう事かな。
昔のあたいと今のあたいが混在して、価値観の違いに心の方が途惑っているんだ。
自分はこうだったはずだ、なのに今は違う、何故か。と。
「はっ、大した事無いじゃないの」
あたいを嘗めるな。
そんな事、生きてる限り誰だってあるよ。
このくらい上手くコントロールしてみせる。
傾斜が急すぎて、一時的に心が傾きすぎただけでしょう?
一時的だよ、一時的。
きっかけさえあれば、妖精たちはもちろん、リグルやミスティアとだって、きっとまた楽しく遊べるよ。
よぉし、今日は弾幕ごっこをやろう!
三人でまた月の下で踊るんだ!思う存分遊ぶんだ!
前向きに、前向きに、威勢のいい言葉を頭に並べてみた。
楽しく笑いながら、激しく怒りながら、弾幕ごっこに興ずる自分を思い浮かべる。
とても近くて簡単で、すぐにでも戻れそうな場所にある。
当たり前なあたいの日常に戻ろう。
冬になれば、レティだって帰ってくる。
そういやあいつ、冬の妖精のくせに、暖かいほっぺをしてるんだよね。
戻ってきたら、あのほっぺを、ぎゅーって引き伸ばしてやろう。
きっと気持ちいい。
どうしてか……未だに感情の針が動かない。
正確に思い出せるのに、その思い出から感慨が一切わいてこない。
心が物凄く冷え切っている。
立ち上がって両手で頬を二発叩いて、気合を入れる。
痛みだけが残った、まだ昂ぶらない。
「大丈夫!全部うまくいくよ!」
言葉が空回りしてる事を、無理に感じないようにして、あたいは空に飛び上がった。
弾幕ごっこまで時間はたっぷりある。
少しずつ取り戻していこう。
あたいが好きだった事を、一つずつ思い出そう!
「そうだ、あの沼がいいや!冷凍蛙を蘇生させまくってやる!」
―――――
「32匹目……」
また一つ凍らせた蛙を解凍させ、池のほとりに並べる。
32連続成功か……。
この遊びにより勢いづく予定だったのに、昔とのギャップに気持ちは萎える一方だった。
こんなのはもう息をするようなもので、失敗など有り得ない事がわかった。
これの、何が楽しかったかというのは、やはり思い出せない。
脳が空いてる時間を持て余し、小さな沼に群生する蓮の葉を数える事で遊び始めた。
蓮の葉は大小合わせて1268枚で1268は317の2倍の2倍……凍らせた蛙は既に36を越える。
あたいは、もう楽しさを思い出すという目的は放棄していた。
ただこうしていれば、また奴に会えるんじゃないかと、それを期待して続けている。
あいつなら、あたいを死の恐怖におびえさせたあの大蝦蟇なら、この高くなった鼻を圧し折ってくれるのではないか。
そうして、あたいは何かを取り戻すきっかけを……。
纏わりつくような蝦蟇の妖気を背後に感じた。
来た!
振り向いた、背後に黒い空間があった。
見えてるだけでも、あたいの身長の三倍は固い。
沼の主が大口を開けて、そこからぬらぬらとした赤い舌が見えた。
赤く巨大な舌が私に伸びる。
そいつは器用に身体に巻きついてきて、ぎりぎりと締め上げてきた。
私は反射的に氷で抵抗した。
それは、驚かして舌から逃げるための、ささやかな冷気のつもりだった。
とにかく体勢を立て直して……。
蝦蟇の舌が根元まで凍りついた。
「え……?」
凍りついた舌が信じられなくて、何事かと手で触れると、そこからパンッと音を立てて氷が割れた。
痛みを感じる間もなかっただろう。
完全に凍りついた舌は綺麗な切断面を見せて分断され、沼に茂る植物の上に鈍い音を立てて落ちた。
力の行き場を無くした蝦蟇が後ろにぐらついた。
「しっかりしてよ!」
どうして私が蝦蟇を応援しなきゃいけないんだ。
しかし、さすがに沼の主だった、舌を失っても蝦蟇は戦意を失っていない。
すぐに、あたい目掛けて、ヒレのついた右手で薙ぎ払う。
この勢いと重量なら、当たれば私なんて一溜まりも無いだろう。
避けるためにささやかな氷の壁を呼んだ、意に反して巨大な霜柱が地面より突き出て、蝦蟇の右手の勢いを殺した。
真っ白な霜柱が散って、蝦蟇の右手を傷つけていく。
白い霧に赤い華が散った。
苦しそうに呻いて、蝦蟇は後に下がる。
「……あんたは強いんだろ!私なんかよりずっとずっと強いはずだろ!」
腹の底から叫んだ。
蝦蟇は、今度は口から大量の酸の液を私に向けて飛ばした。
届く前に勝手に凍りついて落ちた。
右手で私を上から押しつぶそうとして失敗し、左手を無茶苦茶に振り回した。
霧の中で結晶化した氷の棘が、でたらめに突っ込む蝦蟇の身体を切り刻んでいく。
最後に、巨体の体重を全て乗せた捨て身の突進を繰り出してきた。
それすら、分厚い氷の壁に阻まれた。
ぼろぼろになった宿敵は、透明な壁の向こうに巨体を眠るように横たえた。
やってみれば……。
私は一歩も動かないうちに終わりを迎えようとしている……。
「は、ははは……」
昂ぶらないはずだ。
今の自分なら、この蝦蟇の血液を一瞬で凝固させる事だって可能だった。
考えないようにしてただけで、結果は最初から見えていた。
蝦蟇も舌を凍らされた時点で、勝てないのは解っていたはず。
それでも逃げず、捨て身の体当たりまでかました蝦蟇を誉めてやりたい。
あんたは立派だった。
あんたを利用しようとしてただけの妖精なんかより、ずっと立派だったよ。
池に返してやろう……。
地面に手を置いて、蝦蟇の巨躯に下に氷の皿を作る。
土を凍らせて、水を凍らせて、池の真ん中まで氷の橋を作る。
そっと力を加えて皿を押してやると、蝦蟇は氷の道をゆっくりと進み始めた。
池は一緒に凍りついた蓮のせいで、でこぼこしていたが、池の中央まで淀みなく進めそうだった。
蝦蟇の外傷は、舌の傷以外は、それほど深くない。
その舌でさえ大蝦蟇程の者ならば、半年もあれば再生するんだろう。
押す途中、ふと自分がどんな顔をしてるのか気になって、光る氷を見下ろしてみた。
「誰よあんた……?」
真っ白い百合のような頬に、生気の無い暗い瞳。
私が顔をしかめると、氷に映る厭世的で疲れ切った顔も歪んだ。
私と違う。
こんな顔は今までした事が無い。
私はいつも楽天的で、もっと弾けるような……私……?
あれ?
私の一人称はあたいじゃなかったか?
何時から変わってたんだろう?
記憶の中の映像を再生する、確かにあたいだ。
ああ、変わったのはどうやら沼に来て戦い出してからだ。
少しは私も緊張してたという事か?
ほっとした。
私も……あ、まただ、もう、やだなー…あたいも……あたい……
――何だこの違和感。
「嘘っ!?あたい、あたい、あたい……!」
噛み切るように何度も呟いた。
気持ち悪いくらい喉に引っ掛る。
心が受け付けない。
自分を指している気が全くしない。
ほんの少し前まで呼んでいた一人称がどうして!?
「やだっ!助けてっ!」
酷く冷える身体を両手で擦った。
もはや、のっぴきならない事態になっている。
何とかして一刻も早く、元の自分に戻らないと、とんでもない事になる。
私は白玉楼に飛んだ、あそこがきっかけなら、解決法だってあそこにあるかもしれない。
蝦蟇はもう池の中に消えていた。
また、あいつが怖いと思える日が来るだろうか。
もう、知識も力も、いらないから。
戻りたい。
―――――
凍らせるだけで、最高の玩具に変わるのです。
「きゃっほーい」
凍りついた玉砂利の上に寝そべって、あたいは全力で転がりまわった。
恥と照れを捨て、ワイルドに転がるのが白玉楼での嗜み。
そこの庭師が先程からじと目であたいを睨んでいるのだが、そんなのは全く気にならない。
匠の遊びを理解せぬ奴が悪い。
遊びとは、照れを忘れた、境地なり。
「なにー?妖夢もやりたいー?」
「はぁ……」
縁側から溜め息が返ってきて、げんなりした顔が左右に揺れる。
こやつめ、ははは、幽々子の許可をとってあると反撃が出来ないらしいわ。
あーひんやり気持ちいいー!
暫く転がりまわると、服や羽に小石が付いちゃうので、立ち上がって犬のように全身を震わせて弾き飛ばす。
また、その時に散らばる小石がぶつかり合い、音を出すパチパチというのが身の毛もよだつ快感なのだ。
要するに最高っ!
「チルノー……もう夕方よー?一体何時まで続けるのー?」
「まだ続けるよー。リグルとミスティアとの弾幕ごっこの時間までー」
「それ何時?」
「夜」
その一言が痛恨の打撃だったらしく、妖夢は頭を抱えて塞ぎこんだ。
この高尚な遊びを理解できぬとは、可哀想な奴。
さぁ、まだまだいくよ、必殺!チルノローリングー!
「きゃっほーい!」
「あらあら、チルノは元気がいいわねー。ねえ妖夢、見ててこっちも楽しくなるわよね?」
「嫌味ですかそれ……?」
「まぁまぁ、掃除の事を気にしているの?それなら心配ないわ、誰がすると思っているのよ?」
「え!?も、もしかして……幽々」
「妖夢よ」
その一言が致命傷だったらしく、妖夢は縁側に横向きに倒れた。
全く根性が無い奴は駄目だ。
「幽々子ー、ローリングするー?」
「ううん、皆で柿を食べようと思って持ってきたの」
「わっ!?柿!?」
転がるよりも食欲が優先された。
玉砂利がついたまま、お盆の上の柿目指してダッシュ。
「ちょ……!?や、やめてよっ、縁側まで汚す気なのー!?せめて砂利を落とせー!」
「大丈夫、大丈夫。誰が掃除するんだっけ?」
「私?」
「うん、だから大丈夫」
「チルノ。手ぐらい洗ってきたらどうかしら?少し不潔かもよ?」
「あ、凍らせてシャーベットにしちゃうから、問題ないよ」
「あら、冷凍殺菌ね」
「へへ、凄いでしょー。いただきまーす」
しゃくしゃくとした氷果の歯ごたえが、実に素晴らしい。
十分に咀嚼して水分を口に染渡らせる。
んー、マイルド。
口に残った異物を、勢い良く庭に飛ばす。
「あの種、生えるかなー?」
「生えないわね」
「そっかー」
「ほら、妖夢。いい加減復活しないと貴方の分まで食べちゃうわよ?」
「……え?あ、ああ、すみません!頂きます!」
明らかに一番小さい柿が残ったが、妖夢は何も言わず噛り付いた。
おそらく幽々子といると、おやつが残ってる方が珍しいのだろう。
「そういやさ、聞いてよ。最近ちょっと酷いんだよ」
「何が?」
「私とミスティアとリグルの三人がいるとさ、三馬鹿トリオって呼ばれちゃうの。失礼しちゃう」
確か最初にそう呼びだしたのは、えーりんとか言う奴だ。
その時、リグルは一緒にするなという顔をしていた。
ミスティアは、私だけは違うぞという顔をしていた。
全く、空気の読めない馬鹿はこれだから困る。
私はもちろん一番嫌そうな顔をしたよ!だって私は馬鹿じゃないからね!
ふと、横を見ると妖夢と幽々子が腹を抱えて笑っていた。
「な、なによー?」
「あっははははっ……いやいや、世の中には適切な言葉を当てはめる人が……ひー、駄目ー、苦しいわー」
「三馬鹿って、す、少しリグルが可哀想ですよね?ははっ、い、いや案外そうでもないのかな、くくくっ」
「チョット待ってよ!二人ともあたいが馬鹿だって言うの!?」
「だ、だって……ねぇ?」
「三馬鹿の筆頭じゃないの~」
「失礼なー!!」
憤慨だ理不尽だ言葉の暴力だ!何て見る目がない奴らなのかしら!
これだけ、賢い妖精は他にいないっての!
縁側に立ち上がって地団駄を踏む。
靴の裏の氷もペキペキと音を立てて抗議した。
「あたいは馬鹿じゃなーい!!」
「そ、そうよね、私達が悪かったわ……ぷっ……くく……トリオって……」
「幽々子様、それ以上笑うのはさすがに失礼ですよ」
とか言いながら妖夢、顔が引きつってるじゃないの!
おのれ、こやつら!
あたいが、頭のいいところ見せてギャフンといわせてやるわ!
外の世界のトンチにこんなのがあるよ!
「あたいに馬鹿があるっていうなら、その刀であたいの馬鹿だけを切ってみなさいよ!何でも切れるんでしょそれ!?」
「まぁ、一休みたいな展開よ」
「しかし、幾らなんでも形無い者は切れませんし、どうしましょうか?」
「いやいや、妖夢。チルノはあながち間違った事を言ってるわけでもないわ」
「そうなんですか?」
「大昔には霊剣で人の身に宿る鬼だけを切り捨てたって、伝説もあるくらいだし」
「例えば、この白楼剣がですか?」
「うーん、その刀はどうだったかしら??」
「さぁ、どうすんの!?馬鹿があるっていうなら、切ってみやがれっての!」
妖夢に背中を向けて、どすんと腰を降ろす。
さすがに妖夢だって、生身のあたいをばっさりって事はない。
かといって、何もないところ切ったってしょうがないだろうし。
この勝負、あたいの勝ち。
へへん。
「じゃ、試しに切りますか」
「そうね」
「ええええぇえええ!?」
「馬鹿と天才は紙一重っていいますし」
「薄く頭部を切れば、天才になるかもね」
「ま、待った!あんた達本気なの!?」
「あ、駄目駄目、チルノ動くと危ないから、動かないでね」
「うん……って違うって切るなって!危ないでしょ!?っていうかもう刀抜いてるしぃ!!」
「切れって言ったのはチルノじゃないの。ね、幽々子様いいですよね?」
「そうそう、馬鹿だけちゃんと切るから危なくないわ」
幽々子の目は訪れるあたいの不幸を笑っていた。
妖夢の目は……駄目だ、完全に復讐に燃えている。
「掃除するから!私が掃除するからー!妖夢ごめん仲直りー!」
「何のことやら~、それじゃ行くよチルノー!」
「わっ、解った。動かないから絶対切るなよ!切るなよー!?」
「せやっ!」
「ひゃあああっ!!」
剣が唸る。
頭の上を水平に剣が通過したらしい。
風圧で、髪が僅かに浮き上がった。
-プチッ
「ぷちっ??」
「なーんて、どうチルノ?馬鹿切れたかな?」
笑いながら妖夢が回り込んできて、あたいの顔を覗きこむ。
「あ、あれ?今、何か切れなかった?」
「え、嘘!?ちゃんと外したつもりなんだけど……大丈夫?」
「大丈夫よ、外れてたし髪も切れてないわ。幾ら妖夢でも友達を切ったりしないわよ」
「……じゃあ……さっきの音は何よ……?」
「音?風の音じゃないの?」
「風の音……ううん、違う……」
なんだか頭がくらくらするよ?
ちきしょー、何だっていうのよー。
これから楽しく激しい弾幕ごっこが待ってるのにー。
「あ、そうだ今何時かな?」
「ふむ、丁度六時ね」
私の声に、部屋の壁にかかる古時計を見上げて、幽々子が答えた。
「六時か、六は二の三倍ね」
「何を当たり前のことを言ってるの?」
「いや、何だか頭に浮かんできちゃって……どうしてかな?」
「チルノは何時までいられるのかしら?時間があるようならば、私たちと一緒にゆうげでもどう?」
「弾幕ごっこは二十時の約束だよ。二十は五のニ倍の二倍だね」
「また?本当に、どうかしたの?仕返しにからかってるつもり?」
「ち、違うよ。何だか勝手に数字が出てきたもん……」
「チルノ、126は?」
「126?七の三倍の三倍の二倍……ところで、何であたいってば数を分解してるわけ?」
「驚いた、この子、無意識に素因数分解してるわよ」
「素因数分解……ですか?」
「九九がやっとの子だと思ってたのに……まさか、本当に馬鹿が切れたんじゃ……ちょっと待ってなさい!」
部屋の奥へ消えていった幽々子が、戻ってきた時には一冊のドリルを手にしていた。
表紙の名前欄に魂魄妖夢と書かれている。
それ、ひょっとして、妖夢の子供の頃のかなぁ。
「なっ、幽々子様!?そのドリルは止めてくださいよ!」
「チルノ!6887は!?」
「6887ぁ?……6887は……うーん、ありゃ、浮かんでこないな?」
幽々子がほっと胸を撫で下ろす。
妖夢が首をひねっていた。
あたいには未だに何をやってるのかさえ掴めない。
「びっくりした、本当に天才になっちゃったのかと思ったわよ。チルノ、もう冗談は止しなさい」
「……あの、幽々子様。実は私も恥ずかしながら6887は分解できないのですが、ひょっとしてそのものが素数ですか?」
「いいえ、素数じゃないわ。ただ、これは少し意地悪でね……」
「あ、解った。6887は71の97倍だ!」
幽々子が絶句した。
―――――
いい気分。
とってもいい気分。
数字が頭に溶けていく~。
「もう、誰にも馬鹿だなんていわせないぞー!」
空に飛び出して大声で叫ぶと、そばにいた鴉がびっくりして逃げ出した。
あれからご飯待ちの間にドリルを暗記して、その内容を丸ごと一冊頭に叩き込んだ。
中身は程度の低い数学だったらしいが、初歩の微分積分あたりなら、もはや敵では無い。
ページ数から式から落書きまで一字一句逃さず、何時でも鮮明な映像が頭に出てくる。
しかも、記憶にかかった時間は、百ページ毎に五分くらいときたもんだ。
凄い、凄いぞあたいー!
んー、何もかもが新鮮。
眼下の一瞬の眺めが止まってるように頭の中に入ってきて、消えない映像を記憶として形成していく。
ああ、ミスティアやリグルが驚く顔が早く見たいなー。
私らのトリオもこれで三馬鹿脱出だよ。
きっと、二人ともあたいの出世に喜んでくれる。
そして、天才チルノ様を崇め奉るが良い。
青い闇の中、月は天に輝いていたが、山の辺りはまだまだ色が薄い。
もう少し時間があるなと、幻想郷の周りを鼻歌交じりで飛びまわった。
でも、弾幕ごっこ約束の時間に近づくにつれて、色んな事がどうでも良くなってきて、こういう結論だけが前に出てきた。
「今日から弾幕は頭脳だー!!絶対負けないぞー!」
―――――
「ぎゃふんっ!」
いきなり負けた。
「チルノは暗夜に敗北を~♪」
「あーあ、結局さっきのは大言壮語だったの?」
勝ったミスティアが笑いながら高らかに夜を歌う。
リグルが、やれやれといった表情でミスティアの手を持ち上げた。
「勝者ー、ミスティア~」
「いえーい♪」
「あ、あんたねー、僅差で勝っただけで偉そうにー!」
天才なのに、天才なのに、あんたたちよりずっと賢い、聡い、カッコイイ、の三拍子揃ったこのあたいがー!!
……って事は、素因数分解が出来ても弾幕ごっこには関係ないってことか。
弾幕は頭脳じゃないってことか。
残念だなぁ。
「やっぱり弾幕はフィーリングー!ミスティアもっかいやるよ!」
「えー、次は勝った方が私とやる約束だったよー?」
「五月蝿いリグル!天才のあたいが連勝してやるから、そこで見てなさい!」
「はいはい……ミスティア、いける?」
「もっちろん!」
秋の夜長に、弾幕ごっこは最適で。
夜雀と蛍は夜には強くて。
いつも、あたいが眠くなったところが終了の合図。
今日もいつも通り始まって、いつも通り終る予定だった。
一戦、二戦、三戦と。
試合をこなしていくうちに、何故か段々とミスティアが弱くなってきた。
五戦ぐらいからは、殆ど一方的な試合展開。
「また勝ったー!見たか天才チルノの力!」
「ふぇーん!な、何でー?どうしてー?」
「ミスティア、さっきの試合なんて一発もチルノに当たってないよ、真面目にやりなよー」
「やってるよー、夜だから全力を出してるよー」
「うーん、疲れがたまったのかな……そろそろ交代する?」
「おっかしいな、本当に全力なんだけど。疲れとか違うよ、何かチルノに不思議と弾が届かない」
「よーしチルノ!私が相手だー!」
「かかってこーい!」
リグルには最初から、僅差で何とか勝った。
ところが、一戦、二戦、三戦とこなしてくうちに、ミスティアと同じように段々とリグルも弱くなっていった。
五戦ぐらいからは、練習相手にもならなくなった。
「な、何なのよあんた達……?真面目にやりなさいよ、つまんないじゃないのさ」
「ま、待ってチルノ、も、もう息が続かない……はぁふぅ……」
「ねぇ、リグル?チルノに弾当たらないでしょ?」
「う、うん……何で?動きは今までと対して変わってないのに……」
とにかく、これじゃ全然面白くない。
「あんた達!二人一緒にあたいにかかってきなさい!」
「え、ええ?」
「一人じゃ相手にならないもの、弱すぎ!」
「言ったなー!」
それでも、弾が当たらない。
二人とも手加減してるのかと疑ったが、それは違うと解った。
癖だ。
撃つ時の癖、避ける時の癖、身体の傾き具合、弾の射出音、眉や唇の形、目線、羽音、声。
これだけはっきりとした弾の表情を見せれば、簡単にパターン化することが出来る。
後は、それぞれに応じて狂いの無い動作を、あたいが延々と続けるだけだ。
最後には二人同時にラストワードまで使ったが、やはり当たらない。
弾の数は全部で五百十二で、五百十二は二の九乗……。
「……つまんない……」
「ミスティアー!今度は右からお願い!」
「りょうか~い!」
「もういい!やめて!つまんないよ!」
あたいのその言葉で、静かに夜が帰ってきて、弾幕の喧騒がすっと引き、三人の姿が闇に浮かび上がる。
「………チ、チルノ?」
「……今日は、もういい。あたい帰る」
服すら汚れてなかった。
避ける事も勝つことも楽しみだったのに、これだけ続くと理不尽な気がしてならない。
自分と違う力みたいでつまらない。
「あ、わかった!インチキだ!」
「なに?」
「チルノがこんなに強いわけないもん!」
「あたいは元々強いよ!でも、今日はあんた達が弱すぎるんだ!」
「インチキだインチキだ!!」
「インチキじゃない!」
「ぜーったいインチキだーーー!!!」
「うるさい、黙れ黙れ黙れー!!」
騒ぎ立てるミスティアのブラウスに掴みかかった。
ミスティアは帽子が風に揺れて飛びそうになったのを押さえながら、あたいのほっぺをつねって反撃してきた。
当然あたいもほっぺをつねり返した。
「にゃにが、いんひきだ、このとりあたまー!」
「ちるのがいんひきだー!」
「あたいは賢い頭で弾幕を予測して避けてるんだってのー!」
「チルノは馬鹿じゃないと似合わなーい!」
「そんな事だれがきめたー!」
「わたしわたし~♪」
「ふざけろ、焼き鳥にしてやるー!」
「ほら、二人ともブレイクブレイク」
リグルが割って入ってきて、二人のおでこを押し返した。
あたいらは、一週間に三度はぶつかるので、リグルも慣れたものだ。
「はー、はーっ」
「ふー、ふーっ」
「……で、チルノ。本当に頭で予測してるの?」
「だからそう言ってるじゃん。天才チルノになったんだよ」
「ふーむ……」
「リグル騙されては駄目よ。『たすけてえーりん!ミスティアにいじめられたよーっ!凄い薬だしてー!』とかに決まってる!」
「永琳はそんなネコ型ロボットみたいに優しくないって、恐らく確実に実験台に回される」
「そう、リグルが正しい!」
「で、でもー!」
「でもじゃない。今日は私達の完敗だ。チルノも飽きたみたいだし、これ以上やっても仕様が無いよ」
「やだー、インチキだもーん!……むぐー!?むー!!」
リグルに口を塞がれて、反論できなくなったミスティアは、顔を真っ赤にして手と羽をバタつかせて抗議した。
「夜も遅いし、チルノはもう眠いだろう?今日はこの辺で解散しようか」
「うーん、あんまり眠くは無いけど、まー、これじゃつまんないし、解散しとく」
「ぷはっ……あ、明日は勝つからね!覚えときなさいよチルノー!」
「それは良い、せいぜい強くなって、チルノ様を楽しませなさい」
「むかーっ!今ここでボコボコにしてやるー!」
「ほらほら、帰るよ」
「覚えてろーっ!」
チンピラの撤退時のような台詞を残して、ミスティアとリグルが夜の月に上がって行く。
中途半端な丸の月は、しばらくして満月になるのだろう。
あたいは二人を見送った後、湖から少し離れた洞穴に向って飛んだ。
今のところの、あたいの寝床。
ここも飽きたから、そろそろ住処を変えようかなとか思っている。
自由気ままに、それが妖精の本質なのだ。
「あたい、本当に賢くなっちゃったのかなー?」
氷のベッドを作り出して、あたいはその上に寝転んだ。
こいつは、朝起きるのが遅れると溶けて尻餅をつくという、非常にデンジャラスなベッドだ。
しかし、それも妖精の遊び心故。
「あ、そうだ、明日は図書館に行ってみよう。本が一杯あればあたいの天才ぶりも、どの程度か解るはず!」
思いついた天才の策に、我ながら惚れ惚れしながら、あたいは満足して一日を終えた。
―――――
ヴワル魔法図書館。
薄暗くて気味が悪い、静かで気分が悪い、本だらけで視界も悪い。
ついでに言うと本を読むのに薄暗いのは目に悪い。
あたいとは縁の無い正反対の場所だったはずなのだが、今はこの静けさが落ち着く。
昔のあたいだったら、こんな陰険な場所、近づく事さえ嫌がるだろう。
これも賢くなった証拠かしら。
「ぜぇーったい汚したりしちゃ駄目ですからね?」
小悪魔がいちいち小言を言いながら、注文した本をあたいの前に置いていく。
図書館の一角に陣取ったあたいは、周りに本を積み上げてお勉強の真っ最中だ。
「まったく何でパチュリー様はこんな奴を入れたりするのかしら……」
「聞こえてるよ?」
「聞こえるように言ってるんです!」
「ふーん、そうなんだ。あ、注文から氷符文様学四巻と、反属性融合術のニ巻が抜けてるじゃない」
「ぐぬぬぬ……!わ、解りました少々お待ち下さい!」
床を踏み鳴らしながら小悪魔が本棚に戻っていく。
図書館では静かにと教わらなかったのか、うつけめ。
「それにしてもあたいって凄い……」
一冊の魔導書を暗記すれば、読み解けず諦めてた別の魔導書の式が理解できるようになってる。
連鎖的に読み進めていくうちに、あっという間に読破書は二十を越えた。
文章を読み進める間、余った脳が暇そうにしていたので、右脳に適当な式を与えてやると勝手に展開を始めた。
式が答えを求め、答えから新たな式を生み出して、そのうち魔導書に載ってない術や魔法まで、頭の中で理論を組み立てられる。
ある程度知識を手に入れたから、今度は辞書の暗記でもしようかしら。
「はぁはぁ……こ、これで全部!……ですよね?」
「ありがとー。あと氷術大全あるー?」
「まだ注文があるんですか!?そこに積んである本を先に読んでくださいよ!」
「あ、これもう読み終ったから。棚に戻しといて」
「うそーっ!?」
魔導書に没頭してるうちに、何時の間にか外は夕暮れ時。
最後に事典をばんっと勢い良く閉じると、あたいはにやりと笑った。
心がうずうずして仕方ない。
これだけ知識あがれば、湖の水で凄い事が出来そうだ。
さぁ、外に出て実践の時間!
天才チルノのショータイムだ!
―――――
「う、うわー……」
空気中から水分を抜き出して、遥か上空から氷の流星を降らす事など朝飯前だった。
水脈を利用して、地面から巨大な氷の壁を迫り出す事も楽勝。
鋭い氷のナイフを、何処にでも何本でも出現させ操る事が出来る。
紅魔館前の湖の水を利用すれば、なんと氷のサーペントを作り出す事ことに成功。
更に驚く事に、羽をつけてやれば氷龍となり、あたいの意のままに上空を飛んだ。
想像以上!
怖いくらい何もかもが上手くいく!
「やっほー!あたいの時代の到来だー!」
せっかくだから、この楽しみを皆に分けてあげよう。
妖精の本分とは悪戯である。
つまり、紅魔館の連中を、からかってやるのだ!
「ゆけっ!チルノドラゴン!」
紅魔館の真っ赤に燃え盛る花畑を指差してやると、チルノドラゴンは、湖の上空をゆっくりと進撃した。
やがて門番に迎撃されて、あっさり湖に崩れ落ちた。
「あ、弱……」
攻撃方法何も持たせてなかったし、やっぱこの程度か。
あたいが遠目に眺めてても、最後の方はふらついてたし。
どうも日光で溶けるみたいで、長距離の移動は厳しいらしい事が判明。
夕方より夜の方が、まだ強そう。
だが、迎撃されても氷が水に戻るだけなので、龍の資源は無限にある。
だから、もう一匹龍を作ってみた。
今度は牙と手足を生やしてみた。
戦ってる間に溶ける事が無いように、身体を冷気で何重にもコーティングしておく。
より立派なチルノドラゴンが完成した。
スペルカード無しで、ここまで出来るなんて信じられないや。
……なのに、何故だろう。
こんな凄いものが造れたってのに、さっきほどあたいの心が燃えていない。
「戦ってみればきっと燃えるさ。ゆけっ、チルノドラゴン!」
先程よりずっと速い速度で、ドラゴンは湖の上を飛ぶ。
門の前にぬぅと鼻っ面を出してやると、すぐに門番との戦闘が始まった。
今度のドラゴンは硬かった。
門番の気功程度ならびくともしない。
焦った門番が門の前から飛び出して、体術を交えて応戦し始める。
彼女の必死さがひしひしと伝わってくる。
恐らくドラゴンじゃなくて、館に控えるメイド長に睨まれるのが怖いのだろうが。
「さて、高みの見物といこうかな」
見付からない程度に距離をとって、芸術的な龍を迎撃する中国娘という中華風の戦闘を眺めた。
意図してたわけではないが、なかなか、赴き深い取り合わせではないの。
……でも、やっぱり燃えないなー。
しばらく放っておくと、館からメイド長が出てきた。
おお、これは少し面白くなるかも?
二対一の劣勢でもチルノドラゴンは粘ったが、そのうち龍は淡い橙の光にその身を輝かせながら湖に沈んだ。
気が付くと、夕陽はもう山に半分隠れていた。
「ふわぁぁあ……」
面白いはずなのに、面白くない。
あたい、こういう悪戯大好きだったのになー。
勝てないからつまらなかったのかな?
もっかい作ろうか。
湖から氷の塊を引っ張り上げる。
今度は首を三つ首にして、氷のブレスの噴射口を搭載して……。
「やーめた」
飽きて、龍を水に還す。
もったいない気もしたが、本当に強くてもつまらないと思った。
勝てるかどうかじゃない気がする。
どうしてか、心が悪戯を求めてこない。
つまらない。
何でだろう。
そういえば昨日の弾幕ごっこもつまらなかった。
「チールノー」
「おぉ?」
呼応して見上げれば、黒いマントがひらひらと、リグルが空から降りてくる。
「どうしたの?リグル」
「今日の弾幕ごっこの約束に来たんだよ」
律儀だなー、リグルは。
約束なんかなくても、あたいは何時も通り行くってば。
……あれ?
「見つけたよチルノー!今日は勝ーつ!」
変だな、今の今まで弾幕ごっこなんてすっかり忘れてたぞ。
三日坊主のあたいが、ずーっと続けてきた楽しみなのに。
「チルノ?チルノー?」
「え?あ、ミスティアまで来たの?」
「何よ、反応悪すぎー!」
弾幕ごっこ。
ルールに則った遊び。
擦り傷打ち身は耐えないが、文字通りあくまで遊び。
んー、あれの何が面白かったんだろう?
思い出せない。
弾幕ごっこの記憶は幾らでもあるんだけど……そこから感情が来ない。
「ねぇ、弾幕ごっこって何が面白かったっけ?」
「はぁ?何がって言われてもねぇ……」
「何言ってるの、チルノ一番楽しそうにしてたじゃない」
「そうだっけ?」
記憶の中のあたいは確かに楽しそうに笑っているのだけど。
その笑いが理解できない。
次第に自分の笑顔すら不愉快になってくる。
「むぅ、弾幕ごっこはいいや、あたいはパス」
「ど、どうして?昨日喧嘩したから?」
「喧嘩……喧嘩なんてしたっけ?」
「あ、解ったぞ!チルノは私に負けるのが怖いんだ!」
「……うーん?」
「やーい、チルノの弱虫ー!」
「あぁ……そうか」
「は?」
「もう、付き合うのが馬鹿らしいんだ」
「な、なに?」
「弾幕ごっこなんてつまらないって言ってるの」
「チルノ?」
「あたいは天才なんだ。もうそんな事が楽しい時期は終ったのよ」
「リ、リグル、何かチルノ変だよ?」
「二人でやればいいでしょ?あたいは本でも読んでた方が楽しい」
「つれないなー、ミスティアも私もチルノ撃破の為に夕方から特訓してたんだよ?」
「あ、リグル!いらないこと言うなー!」
「馬鹿にも解るようにはっきり言うとね、弾幕ごっこなんて子供のお遊戯に今更付き合ってられないって言ってるの」
「えぇ!?」
「そっか……今日のチルノは御機嫌斜めみたいだね」
「違うよ!チルノどっかおかしい!」
「じゃあさ、私達いつもの場所でやってるから、チルノもやりたくなったら何時でもお出でよ」
「リグル!違うっておかしいよ、何で解らないの!?」
「うん、解った」
その後もミスティアは動かず、何度も私に向けて喚いた。
それに取り合わず黙って聞き流してるうちに、リグルが先に飛び立った。
ミスティアはリグルとあたいを交互に見つめるも、やがてリグルを選び空に上がった。
最後に向けられた彼女の目は、意外にも心配そうにあたいを見ていた。
心配?
ふん、鳥頭があたいの心配するなんて百年早いってのよ。
自分の屋台の売れ行きでも心配してな。
明日もまた図書館に行こう。
あそこならあたいは楽しい。
氷のベッドも今日から止めだ。
あんな不便なだけの物、何が楽しかったのか今のあたいには解らない。
―――――
明くる日も、あたいは朝から図書館に向った。
本の森は私を楽しませてくれる。
積み上げられた魔導書の中で、私の知識は加速度的に増していった。
読んで日が暮れて、一人で帰って、寝て、起きて、また図書館へ。
そうやって、あたいは毎日、図書館に入り浸った。
しばらくすると、あれだけ楽しかった本にも飽きが来た。
あたい、どうも飽きっぽい性格になっちゃったらしい。
読む本の無い図書館なんて暇で仕方ないので、思い切ってパチュリーに話しかけてみた。
パチュリーは本の写しの途中だったが、快く会話に応じてくれた。
珍しいなー。
話してて解ったのだが、どうやらあたいの変化に興味を持ってるらしい。
パチュリーとの話は楽しかった。
さすがに知識の番人だ、魔導書に書いてないこともパチュリーの頭は知っている。
芸術を、数学を、物語を、何でも言葉巧みに紡いでくれる。
あたいは、自分の知識が役に立つ世界が嬉しかった。
それはパチュリーも同じだったらしく、私達は閉館まで夢中で話し合った。
幾つか本を読んで、その知識についてパチュリーと語り合うという日々が数日続いた。
目的意識の持った読書は楽しい、これで独りじゃなくなった。
そんな日々に、気になる事といえば、ミスティアが夜になると必ずあたいを弾幕ごっこに誘いに来る事だ。
幾らきつく断っても、毎日懲りずに来る。
あんな子供の遊び、やってられないって言ってるのに。
弾幕ごっこをしばらく離れている間に、その遊びはどんどん嫌いになっていった。
五日目に図書館に入館した折に、珍しく図書館の入り口に立つパチュリーが、あたいに話しかけてきた。
「チルノ、少しいいかしら?」
「どうしたのそんな場所で?」
「貴方は今の自分をどう思ってる?」
「どうって?」
「ここ数日話してみて、妙な事に気が付いたわ。ねえ、貴方は心がちぐはぐな時があるんじゃないの?」
「そんなことないよ」
「ミスティアや、リグルのことを今でも友達だと思ってる?」
「思ってるよ?」
「本当に?」
「……本当だってば」
実のところ、パチュリーの言葉には途惑っていた。
最近の彼女らに、友情を感じる事はもう無くなっている。
一緒にいて楽しくも無いし、話しててもつまらない。
それでも、まだ友達なんだろうか?
ふっと背筋を何かが駆け上がった。
……今度、今度また機会を作って二人とゆっくり話そう。
そうすればきっと解り合える。
だってあたい達は、友達なんだから。
「チルノ、冷や汗が凄いわ」
「!?」
「嘘よ。でもこれではっきりした。貴方は、やはりちぐはぐになってしまっている」
「な、何を」
「図書館にはもう来ない方がいい。今日から貴方の入館をパチュリー・ノーレッジが禁止します」
「ちょ、ちょっと!?」
「どんなに天才になっても、膨大な情報を蓄積しても、感情の幅が増えたわけじゃないの。貴方は感情のシフトについていけていない」
「いい加減にしてよ!何さ、いきなり勝手な事ばかり!」
「解ってチルノ。危険なのよ。価値観の違う脳に生まれ変わったのに、貴方は昔のままの自分だと信じようとしている」
「あたいはあたいだ!そんな事は馬鹿でも解る!」
「とにかく図書館へは入れられない。このままだと貴方の内にある違和感が、貴方自身を壊してしまう。一度自分の整理を……」
「いいわ!だったら魔理沙みたいに、強引に本を借りていってやるから!」
パチュリーを横から思い切り押しのける。
元々身体の弱いパチュリーは床に倒れた。
悔しかった。
パチュリーとは、友達になれたと思ってたのに。
向こうは、あたいをそんな風には見てたんだ。
ただの観測対象だったんだ……!
小悪魔は何処に居るのか知らないが、まだ騒動に気が付いてはいない。
パチュリーが体勢を立て直す前に、私は走り出す。
すぐに、パチュリーも立ち上がって私を追い始めた。
場所が場所なので、御互い弾幕は使えない。
「これと……!これとそれと!」
声と裏腹に本等選んでなどいなかった。
図書館を縦断し、目に付いた本を手当たり次第、腋に抱えていく。
何冊かの本が、床に落ちてページが捲れる。
落ちてくる本が肩に当たってパチュリーが呻いた。
「……ざ、ざまぁみろー!」
やがて本が腋に抱えきれなくなる辺りで、様子がおかしいのに気が付いた。
追われている気配が無くなった。
パチュリーの追ってくる音が聞こえない。
「パチュリー?」
振り返ると後方でパチュリーが蹲っていた。
もしかして、パチュリーは……。
換気の宜しくない部屋で走り回るなどというのは、気管支喘息にとって命取りだ。
走ってる最中に己の呼吸の異常に気付けないから、止まった後に酷い発作に気付く。
喘息とはいえ重い症状にもなると、死ぬ事もあるらしい。
ぜー、ひー、という短くて濁った呼吸音が、あたいの耳にはっきり聞こえてきた。
床に背中を丸め、必死に息を吸おうと口を大きく開けているが、顔面は既に蒼白だった。
何で気が付いてやれなかったんだろう……!
「小悪魔っ!パチュリーが!」
あたいの叫びで状況を察した子悪魔が飛び出した。
小悪魔はすぐに薬を持ってきて、パチュリーの口にあてがい噴霧する。
懸命に薬の霧を吸い続けるうちに、しばらくしてパチュリーは平静を取り戻した。
小悪魔の行動が早かったのは助かった。
「パ、パチュリー……大丈夫?」
「ごめんなさい、チルノ。迷惑かけたわね……小悪魔、有難う……」
「あ、あの、こっちこそごめん」
「チルノ、もう一度言っておくわ。今は知識を求めるのを止めておいた方がいい」
「パチュリー様、お身体に障ります。ベッドの方へ」
「待って小悪魔。チルノ、お願い聞いて。貴方の脳は急激な変化に取捨選択を始めているのよ。
チルノはそれが自分で解っていない。これは相当に危険な事よ。切り捨てられた方の自分を、今でも自分の実像だと勘違いしてしまう」
「何を言ってるのか解らないよ……」
「とにかく気持ちを整理して。戻るか、進むか、はっきり決めた方がいい」
「戻る?進む?」
「天才の自分を受け入れるか、無邪気な妖精に戻りたいか。もう道は一本しか残されてないのかもしれないけど……」
「あ、あたいはそんな」
「それと、どういう結果になっても、自分を愛する事は忘れないで。でないと、とても不幸になるわ」
「………」
そこまで一気に喋ってから、パチュリーは小悪魔に肩を借りてベッドに向い始めた。
「チルノ、今まで、楽しかったわ……また話せるといいね」
その背中にかけてやる言葉も見当たらずに、あたいは、呆然としてその場に立つだけだった。
―――――
湖上を小さな妖精たちが鬼ごっこをしている。
遊ぶでもなく、からかうでもなく、脅かすでもなく、あたいはそれを湖に浮かべた氷の上から眺めていた。
昔のあたいなら、からかうがもっとも優先順位が上だったろう。
最後に来るのが、眺めるか。
そして、あたいは今、眺めている。
図書館が使えなくなって、いよいよ行くところがなくなった。
かといって、あのように皆に混ざって遊ぶという行為が面白いとは思えない。
それでは何も満たされない。
恐らく程度が低すぎるものに対して、あたいの脳が刺激を感じなくなっているんだ。
あたいは、こんな内省的な性格だっただろうか。
何であれ積極的に外部と関わりにいって、楽しさを維持していた気がするが……。
なるほど、パチュリーが言いたかった事はこういう事かな。
昔のあたいと今のあたいが混在して、価値観の違いに心の方が途惑っているんだ。
自分はこうだったはずだ、なのに今は違う、何故か。と。
「はっ、大した事無いじゃないの」
あたいを嘗めるな。
そんな事、生きてる限り誰だってあるよ。
このくらい上手くコントロールしてみせる。
傾斜が急すぎて、一時的に心が傾きすぎただけでしょう?
一時的だよ、一時的。
きっかけさえあれば、妖精たちはもちろん、リグルやミスティアとだって、きっとまた楽しく遊べるよ。
よぉし、今日は弾幕ごっこをやろう!
三人でまた月の下で踊るんだ!思う存分遊ぶんだ!
前向きに、前向きに、威勢のいい言葉を頭に並べてみた。
楽しく笑いながら、激しく怒りながら、弾幕ごっこに興ずる自分を思い浮かべる。
とても近くて簡単で、すぐにでも戻れそうな場所にある。
当たり前なあたいの日常に戻ろう。
冬になれば、レティだって帰ってくる。
そういやあいつ、冬の妖精のくせに、暖かいほっぺをしてるんだよね。
戻ってきたら、あのほっぺを、ぎゅーって引き伸ばしてやろう。
きっと気持ちいい。
どうしてか……未だに感情の針が動かない。
正確に思い出せるのに、その思い出から感慨が一切わいてこない。
心が物凄く冷え切っている。
立ち上がって両手で頬を二発叩いて、気合を入れる。
痛みだけが残った、まだ昂ぶらない。
「大丈夫!全部うまくいくよ!」
言葉が空回りしてる事を、無理に感じないようにして、あたいは空に飛び上がった。
弾幕ごっこまで時間はたっぷりある。
少しずつ取り戻していこう。
あたいが好きだった事を、一つずつ思い出そう!
「そうだ、あの沼がいいや!冷凍蛙を蘇生させまくってやる!」
―――――
「32匹目……」
また一つ凍らせた蛙を解凍させ、池のほとりに並べる。
32連続成功か……。
この遊びにより勢いづく予定だったのに、昔とのギャップに気持ちは萎える一方だった。
こんなのはもう息をするようなもので、失敗など有り得ない事がわかった。
これの、何が楽しかったかというのは、やはり思い出せない。
脳が空いてる時間を持て余し、小さな沼に群生する蓮の葉を数える事で遊び始めた。
蓮の葉は大小合わせて1268枚で1268は317の2倍の2倍……凍らせた蛙は既に36を越える。
あたいは、もう楽しさを思い出すという目的は放棄していた。
ただこうしていれば、また奴に会えるんじゃないかと、それを期待して続けている。
あいつなら、あたいを死の恐怖におびえさせたあの大蝦蟇なら、この高くなった鼻を圧し折ってくれるのではないか。
そうして、あたいは何かを取り戻すきっかけを……。
纏わりつくような蝦蟇の妖気を背後に感じた。
来た!
振り向いた、背後に黒い空間があった。
見えてるだけでも、あたいの身長の三倍は固い。
沼の主が大口を開けて、そこからぬらぬらとした赤い舌が見えた。
赤く巨大な舌が私に伸びる。
そいつは器用に身体に巻きついてきて、ぎりぎりと締め上げてきた。
私は反射的に氷で抵抗した。
それは、驚かして舌から逃げるための、ささやかな冷気のつもりだった。
とにかく体勢を立て直して……。
蝦蟇の舌が根元まで凍りついた。
「え……?」
凍りついた舌が信じられなくて、何事かと手で触れると、そこからパンッと音を立てて氷が割れた。
痛みを感じる間もなかっただろう。
完全に凍りついた舌は綺麗な切断面を見せて分断され、沼に茂る植物の上に鈍い音を立てて落ちた。
力の行き場を無くした蝦蟇が後ろにぐらついた。
「しっかりしてよ!」
どうして私が蝦蟇を応援しなきゃいけないんだ。
しかし、さすがに沼の主だった、舌を失っても蝦蟇は戦意を失っていない。
すぐに、あたい目掛けて、ヒレのついた右手で薙ぎ払う。
この勢いと重量なら、当たれば私なんて一溜まりも無いだろう。
避けるためにささやかな氷の壁を呼んだ、意に反して巨大な霜柱が地面より突き出て、蝦蟇の右手の勢いを殺した。
真っ白な霜柱が散って、蝦蟇の右手を傷つけていく。
白い霧に赤い華が散った。
苦しそうに呻いて、蝦蟇は後に下がる。
「……あんたは強いんだろ!私なんかよりずっとずっと強いはずだろ!」
腹の底から叫んだ。
蝦蟇は、今度は口から大量の酸の液を私に向けて飛ばした。
届く前に勝手に凍りついて落ちた。
右手で私を上から押しつぶそうとして失敗し、左手を無茶苦茶に振り回した。
霧の中で結晶化した氷の棘が、でたらめに突っ込む蝦蟇の身体を切り刻んでいく。
最後に、巨体の体重を全て乗せた捨て身の突進を繰り出してきた。
それすら、分厚い氷の壁に阻まれた。
ぼろぼろになった宿敵は、透明な壁の向こうに巨体を眠るように横たえた。
やってみれば……。
私は一歩も動かないうちに終わりを迎えようとしている……。
「は、ははは……」
昂ぶらないはずだ。
今の自分なら、この蝦蟇の血液を一瞬で凝固させる事だって可能だった。
考えないようにしてただけで、結果は最初から見えていた。
蝦蟇も舌を凍らされた時点で、勝てないのは解っていたはず。
それでも逃げず、捨て身の体当たりまでかました蝦蟇を誉めてやりたい。
あんたは立派だった。
あんたを利用しようとしてただけの妖精なんかより、ずっと立派だったよ。
池に返してやろう……。
地面に手を置いて、蝦蟇の巨躯に下に氷の皿を作る。
土を凍らせて、水を凍らせて、池の真ん中まで氷の橋を作る。
そっと力を加えて皿を押してやると、蝦蟇は氷の道をゆっくりと進み始めた。
池は一緒に凍りついた蓮のせいで、でこぼこしていたが、池の中央まで淀みなく進めそうだった。
蝦蟇の外傷は、舌の傷以外は、それほど深くない。
その舌でさえ大蝦蟇程の者ならば、半年もあれば再生するんだろう。
押す途中、ふと自分がどんな顔をしてるのか気になって、光る氷を見下ろしてみた。
「誰よあんた……?」
真っ白い百合のような頬に、生気の無い暗い瞳。
私が顔をしかめると、氷に映る厭世的で疲れ切った顔も歪んだ。
私と違う。
こんな顔は今までした事が無い。
私はいつも楽天的で、もっと弾けるような……私……?
あれ?
私の一人称はあたいじゃなかったか?
何時から変わってたんだろう?
記憶の中の映像を再生する、確かにあたいだ。
ああ、変わったのはどうやら沼に来て戦い出してからだ。
少しは私も緊張してたという事か?
ほっとした。
私も……あ、まただ、もう、やだなー…あたいも……あたい……
――何だこの違和感。
「嘘っ!?あたい、あたい、あたい……!」
噛み切るように何度も呟いた。
気持ち悪いくらい喉に引っ掛る。
心が受け付けない。
自分を指している気が全くしない。
ほんの少し前まで呼んでいた一人称がどうして!?
「やだっ!助けてっ!」
酷く冷える身体を両手で擦った。
もはや、のっぴきならない事態になっている。
何とかして一刻も早く、元の自分に戻らないと、とんでもない事になる。
私は白玉楼に飛んだ、あそこがきっかけなら、解決法だってあそこにあるかもしれない。
蝦蟇はもう池の中に消えていた。
また、あいつが怖いと思える日が来るだろうか。
もう、知識も力も、いらないから。
戻りたい。
―――――
これから即効続きを読んできます。
まさか、そんな……
チルノがあの化け物と同じ器を持っている訳ない。
強いチルノ…うーん、面白い。
では早速、後編を読んできます。
アルジャーノンを初め、英知を得たが故の悲しみの物語は数多く見てきたが、
それがチルノというだけで、ここまで心臓がキリキリ痛むとは……
後編読む前に、お茶でも飲んで落ち着こう……
いやはや、時間を忘れて没頭していました。
すでに世界に引き込まれているようなので後編を読ませていただきます!
後篇期待してます。
”アルジャーノンに花束を”にすごく似ている気が...
後編行ってきます。
後編読んできます。
レティは、妖精ではなく、妖怪だったと思います。
あとヴワル魔法図書館ではなく、紅魔館の地下の図書館だったと思います。
まあ強いチルノが見れたからよし。