Coolier - 新生・東方創想話

お月さん騒動

2016/01/25 23:10:15
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 赤蛮奇は夜の散歩を日課にしていて、大抵の場合それは里に留まらずに霧の湖や魔法の森の入り口辺りにまで及ぶ。白々とした月明かりの下で、虫の声なぞを聞きながら歩き回るのは彼女にとって楽しみであったが、ここの所は何か物足りない。それが何であるかイマイチ判然としないまま、その日も夕餉を済まし、風呂に入って、そうして夜が更けてから霧の湖まで散歩に出た。
 たっぷりと時間をかけて歩いて来た赤蛮奇は、ふうと息を突いて湖面を見やった。
 霧の湖は昼間こそ一面に霧が漂っているけれども、夜になるとその霧は何処へやら、ぴんと張りつめた水面が向こうの方まで広がっている。夜空を照り返すその様は、さながら大きな地の鏡といった様相である。
 吐いた息が白く漂った。
 空には散らかしたような星空が広がっている。しかし何かが物足りない。赤蛮奇がはてと思っていると、ぱしゃんと湖面に飛沫が一つ飛んだ。誰か泳いでいるらしい。人魚かと思っていると、どうもそうではない。

「おかしいな」

 赤蛮奇は首を傾げた。空には星しかないのに、湖面に映る夜空にはお月さんがある。そのお月さんは黄色くてまん丸で、そうしてどうも水の中を漂っているらしい、水面が風で揺れる度にゆらゆらと形を歪まして、それで時折飛沫を散らしているのであった。
 赤蛮奇はおもむろに石を拾って、湖を漂うお月さんに向かって放り投げた。しかし別に石を放るのが得意でないから、近くに落ちて飛沫を立て、波を起こす。一度外すと、何とか当ててやろうという気が起こるようで、赤蛮奇は続けざまにいくつか石を投げた。
 一向当たらないどころかかすりもしないので眉をひそめていると、岸の辺りの水の中からざばりと音をさして、人魚のわかさぎ姫が顔を出した。ぷうと頬を膨らましている。

「こら、夜中に石を投げるなんて非常識な」
「あ、ごめんよ」
「あら、誰かと思えば、ばんきっき」
「ばんきっきって呼ぶなよ、仲良いと思われるだろ」
「それで、何してるの? 貴女が無意味に石を投げてわたしの安眠を妨害するなんて」
「いや、ほら」

 と、赤蛮奇は漂うお月さんの方を指さした。わかさぎ姫はそちらを一瞥して、目をまん丸にした。

「あらまあ、大きな八朔だこと」
「八朔」
「きっと中から赤ん坊が出てくるのね」
「赤ん坊」
「そして鬼退治に出かけるに違いないわね」
「鬼退治」
「名前は桃太郎」
「えっ」
「まあ冗談はこれくらいにして、なぁに、あれ?」
「月じゃないかと思うのだけど」
「お月さまねえ」

 わかさぎ姫はお月さんを見、それから夜空を見、どうやら納得したように頷いた。

「そうね、光る八朔はないものね」
「どうしたらいいかしらね、あれ」
「空に月がないのも味気ないものねえ、よし、ちょっと待ってて」

 そう言うと、わかさぎ姫は身を翻してすいすいとお月さんの方へと泳いで行ったかと思うと、ざぶりとお月さんを抱えて再び戻って来た。

「はい」
「うわっと、と」

 咄嗟に受け取ったお月さんは、毬くらいの大きさで、水に浸かっていたせいかひんやりとして、固いとも柔らかいともつかぬ不思議な感触をしていた。そうしてぼやぼやと光っている。

「小さいのね、お月さまって」とわかさぎ姫が言った。
「だね」

 と二人が感想を共有していると、お月さんが喋った。

「親切なお嬢さん方、どうもありがとうございます」
「喋った」
「喋れるのね、お月さまって」
「ええ、月ですから」

 そういうものらしい。
 どうやらお月さんは数日前に足を滑らして落っこちたようで、水が冷たかったから随分縮んでしまったという。道理でここ数日は空が寂しかった筈だと赤蛮奇は納得した。それで空に戻る事も出来ず、途方に暮れて居た所を引き上げられて、そうして今は赤蛮奇の腕の中にある。

「冬の終わりの水は冷たかったですが、人の温かさに触れられて嬉しいです」
「わたしらは人間じゃないけどね」
「それで、どうしたらお空に帰れるの?」
「ひとまず温めていただけると……厚かましいお願いで恐縮ですが、お風呂に入れてもらえませんか」

 そうなるとわかさぎ姫の出る幕ではない。水の底で風呂も何もあったものではないから、自然赤蛮奇がお月さんを預かり受ける羽目になった。
 自分の頭を脇に浮かして、代わりにお月さんを乗っけた赤蛮奇は、大あくびをするわかさぎ姫と別れて、てっくらもっくらと家路に付いた。足元が明るいので便利である。お月さんは赤蛮奇の頭の代わりに首の上に収まって、何だかもじもじしている。

「ばんきっきさん」
「ばんきっきって呼ぶなよ、仲良いと思われるだろ」
「私が首の上を占領してよかったのでしょうか」
「だってあんた意外に重いんだもの、腕が疲れるよ」
「首が疲れませんか」
「いつも自分の頭が乗ってるから、慣れてる」
「成る程」

 それでお月さんは納得したようであった。
 すっかりの灯の消えた里に帰ると、通りは静まり返って、その中で自分の首に乗っけたお月さんがぼんやりとそこいらに光を落としているのが面白い気がした。しかし誰かに出くわしたら面倒なので、赤蛮奇は足早に家まで戻り、お月さんを床の上に降ろした。するとお月さんが転がって玄関に落っこちた。赤蛮奇は慌ててお月さんを拾い上げ、今度は転げないように座布団の上に置いた。お月さんは恐縮したように縮こまった。

「すみません、丸いもので」
「いいよ。別に」

 赤蛮奇は慣れた手つきで風呂窯に火を入れた。里暮らしも長くなると、こういう日常の仕事も難なくこなせる。散歩に出る前に一度入った湯であるから、まだ少し温かい。水から炊くよりも早く沸くだろう。
 それにしても、夜空にいつも偉そうにふんぞり返っているお月さんがああも及び腰な態度で居ると、優越感というか自らを恃む気持ちというか、そういうものが湧いて来るのであった。
 しかし、だから横柄になろうとは思いも寄らない。そうして調子に乗って巫女に痛い目に会わされたのは記憶に新しい。
 ぬるま湯に火を入れたとはいえ、沸くまでは少しかかる。赤蛮奇は卓袱台を挟んでお月さんの向かいに腰を下ろした。お月さんは座布団の上でぼやぼやと光っている。まじまじと見ていると、お月さんは照れくさいらしい、光にうっすらと朱が差したように思われた。

「あまり見られると恥ずかしいです」
「何言ってるの、お月見とか、しょっちゅう見られるでしょうに」
「あれはですね、あんまり大勢ですから」
「大勢だから、なに」
「だから返って開き直るような気持ちになるのですが、こうやって差し向いにじろじろ見られるのは慣れていませんもので」
「ははあ」

 それは確かにそうかも知れない。すると夜空のお月さんはさながら舞台に立っているような気持ちで居るのかしらん? そう考えると妙に面白くて、ひとりでに頬が緩んだ。

「楽しそうですね、ばんきっきさん」
「ばんきっきって呼ぶなよ、仲良いと思われるだろ」
「そろそろお風呂が沸いたのではありませんか」

 お月さんが言うので振り向くと、風呂場の方から湯気が漂っているような気配である。見に行くと、まだ熱いというほどではないが、入るにはいい塩梅の沸き具合である。赤蛮奇は座敷に戻ってお月さんを抱え上げると、風呂場に持って行き、

「よいしょ」

 どぶんとお月さんを風呂桶に放り込んだ。お月さんはしばらくお湯の動きに任せるままに漂っていたが、やがて静かにお湯の中で光り出した。

「どう、お湯加減」
「とてもいい塩梅です」
「そう。よかった」

 湯加減を見るのに突っ込んだ手が温かくて気持ちが良い。自分ももう一度入りたいと思ったけれど、元々一人所帯であるから、お月さんが入っただけで一杯である。
 お月さんがお湯の中に沈んでいるのを、風呂桶に寄り掛かるようにして見ていた赤蛮奇だが、はて、次第にお月さんの体積が増して来るように思われた。湯の面からお月さんが顔を出した時にはおやと思ったのだが、それがずんずん大きくなって、ついには風呂桶に引っかかるくらいになった。お湯がふちから溢れてそこいらに湯気を撒き散らかした。

「あんたって乾物だったのね」
「そうでもありません」

 赤蛮奇はむくむく大きくなるお月さんを感心したような面持ちで眺めていたが、途中でお月さんが風呂桶に引っかかって、それ以上大きくならないらしい事が分かると、やれやれと首を振ってお月さんを風呂桶から引っ張り出した。そうして座敷に持って行こうとしたけれど、しかし風呂場の入り口につっかえて出られない。赤蛮奇は嘆息した。

「膨らむなら膨らむって言いなさいよ」
「面目ありません」
「むう」

 ひとまずお月さんを下ろす。下ろした拍子によろけて、お月さんの上にばふっと倒れ込んだ。お湯で膨らんだお月さんは湯気が立つほどあったかくて、ふくふくしていて、肌触りがとてもいい。思わずむぎゅうと抱き付くと、ふにふにと柔らかく赤蛮奇を受け止めた。このまま眠ってしまい様な柔らかさである。
 ぐりぐりと頭を押し付けていると、お月さんが言った。

「ばんきっきさん」
「うみゅう」
「お風呂が煮えたぎっていますよ」

 ビックリして見ると、少なくなったお湯がぐらぐらとあぶくを噴くくらい煮立っていた。赤蛮奇は慌てて外に飛び出して、窯の中でぼうぼう燃えている薪を引っ張り出して消した。慌てたせいか体だけが飛び出して、頭はお月さんの上に置いたままであった。風呂場の窓からお月さんと頭が体の働くのを見ている。頭は嘆息した。

「ふう」
「大丈夫ですか」
「平気」

 そうこうしているうちにお月さんは少し冷めたらしい、一回り小さくなっているように思われた。体が戻って来て、赤蛮奇の頭を元の通りに首の上に収めた。

「お湯に浸かって大きくなって、それからどうするの」
「するとですね、ふかりふかりと浮かび上がって空に帰れる筈なのです」

 それは面白そうである。
 さてどうしようかと考える。家の中の風呂ではつっかえる。ではもっと広くて、かつ入り口も大きければいい。ふかりふかりと浮かんで行くならば、いっそ露天風呂なら一々外に出す手間も省けるだろう。
 ひとまず風呂場から出せるくらいになったお月さんを抱えて、赤蛮奇は座敷に戻った。お月さんはまだほかほかしていて、膝に乗せているとあったかいので、座布団には乗せないで膝に乗っけたまま卓袱台に向かった。
 露天風呂は妖怪の山の地獄谷温泉である。しかし今から行くには時間が遅い。夜分に下手に近づいて天狗と揉めても面白くないし、第一眠い。赤蛮奇は妖怪であるが、里に紛れて暮らしているうちに、生活様式も人間に似て来たらしい。

 ぼやぼやと考えながらお月さんを抱きしめていたら、いつの間にか寝てしまったらしい、東向きに開いた窓から朝の陽光が差していて、外からはざわざわと朝の喧騒が聞こえて来る。寝ぼけ眼で抱きしめていた筈のお月さんを見ると、野球のボールくらいにまで縮んでいた。

「ずいぶん小っちゃくなっちゃったわね」
「お日様が昇って来ましたから」
「消えちゃわないよね?」
「それは平気ですが」
「そう」

 赤蛮奇はしわくちゃになった服と、くしゃくしゃになった髪の毛とを整えると、マントの内ポケットにお月さんを仕舞い込んで外に出た。ひんやりとした朝の空気が体を取り巻いた。
 赤蛮奇の住む長屋は裏通りにある。鶏が駆けだして、子供が鼻を垂らしていて、そこいら中から米の炊ける匂いだの味噌汁の匂いだのが漂っている。

「何処に行くのですか」

 とポケットの中でお月さんが言った。

「あっちのほう」

 と、赤蛮奇は山の方を指さして、てくてく歩き出した。
 通りは人が沢山居て、向かいから来る人にぶつからないように気を配っているだけで通り抜けてしまった。
 外に出て、緩やかな低い丘陵の連なる草原を歩いて行った。西側の斜面には日が当たらないから、そちらだけまだ霜が草の葉に残ってきらきら光っていたりする。
 昼間からぶらぶらするのは何だか久しぶりのような気がして、赤蛮奇は妙に愉悦を感じた。同時に陽の光で眉間の辺りがつんと痛むような心持にもなった。

 妖怪の山まではそれなりに時間がかかる。
 飛んで行けば早いけれど、早く着いたところで太陽が空に居座っていてはお月さんがむくむく膨らんでも帰る場所がない。だから風景を楽しむついでに歩いている。
 次第に日が高くなって、朝の冷え冷えとした空気は陽光に温められた。ぽかぽかしていて、昼寝するには気持ちよさそうだと思っていると、向こうの方の、高くなった所で今泉影狼がごろごろとだらしなく仰向けに転がっていた。見つかったら面倒だと赤蛮奇はこっそり通り抜けようとしたが、風上に立っていたらしい、むくりと起き上った影狼と目が合った。

「あら」
「やあ。元気?」

 白々しく挨拶すると、影狼はにこにこ笑って近づいて来たが、途中で「ぎょえええ」と素っ頓狂な声を上げて、背中やら胸元やらを押さえて跳ね回った。

「なにゆえなにゆえっ? 昼間なのに、おのれーっ」
「何してんの」
「え、いや、ちょっと、まあ、ね」

 影狼は何かを隠すようにそそくさと赤蛮奇から距離を取った。すると不思議そうな顔をして背中やら胸元やらをさすり、首を傾げて、気を取り直したように赤蛮奇の方に近づいて来たが、途中でまた変に顔をしかめて胸元やら背中やらをさすり遠ざかる。ある程度離れたら、また不思議そうに首を傾げて近づく。そうして途中でまた変な顔をして離れる。
 面白そうな顔をしてその様子を眺めていた赤蛮奇を見て、影狼は口を尖らした。

「ばんきっき、あんた何か変じゃない?」
「いや、別にわたしは変じゃないぞ。あとばんきっきって呼ぶなよ、仲良いと思われるだろ」
「だってあんたに近づくと毛が……」
「怪我?」
「う、とにかく変だもん!」

 変なのはそちらの方ではあるまいか。そう思ったけれども口には出さず、赤蛮奇は首を傾げた。普段と違う所というと、懐に仕舞ったお月さんの他はない。となると、お月さんが影狼に何かしら影響を与えているのであろう。赤蛮奇はポケットからお月さんを取り出した。

「これのせいかしら」
「なによ、それ」
「お月さま」
「な、なんだと。あっ、しかもまん丸! それのせいだったのね!」
「そういえばあんた狼女だったわね。なに、変身でもするの?」
「当たらずとも遠からずという感じだけど……というか凄く疲れる、この会話」

 内容がではなく、遠くに居るから互いに声を張り上げているのである。今影狼が立っている辺りが、お月さんが彼女に影響を与えないぎりぎりの距離らしい。

「だったらこっちに来ればいいじゃない」
「やだよ、伸びるもん」
「なんだって」
「だから毛が……」
「じれったいね、怪我がなんだっていうのよ」
「いいよ、もう! 何でばんきっきが満月を持ってるかとか、それを持って何処に行くのかとか、凄く気になるけど今度聞く!」
「ああ、そう」

 影狼は服の上から体を掻き掻き何処かへ行った。お月さんが面白そうに言った。

「愉快なお友達ですね」
「友達か。まあ、そうだね、友達だね」
「きっと毛深くなるのですね」
「誰が」
「狼女さんです。お友達の」
「ああ、そういう事か……遠かったからよく聞き取れなかった」
「首だけ飛ばせばよかったのでは」
「……その手があったわね」

 赤蛮奇はその後も歩き続けて、午後に差し掛かった頃に地獄谷の入り口に差し掛かった。秋には切り立った谷の急な斜面に生えた大小のもみじが、燃え立つように染まってため息が出る程美しいのだが、睦月の終わりとあっては木も丸裸で、何処となく寂しい感じがする。
 両側を崖に挟まれて、窮屈そうな青空の下を歩いて行った。良いお天気で、かすかに春の気配も感ぜられるのだが、風はまだ冷たい。ぴゅうぴゅうと吹き付ける度に、赤蛮奇はもそもそと口元までマントの襟に顔をうずめた。
 空に湯気が立ち上っているのが見えた。あちこちから柱のように噴き出していて、それが風に煽られて色々に形を変えている。

「硫黄の匂いがしますね」とお月さんが言った。
「もう着くよ。ちょっと早く着き過ぎたかな」
「温泉とはいい考えです」
「そうでしょう」

 温泉の周辺は横丁といってもいいくらいに茶店や土産屋が並んでいる。日陰になっているからか、一か所に先日振った雪が残っていた。あるいは道や軒先の雪をそこに集めたから、それが溶け残っているのかも知れなかった。
 お天気は良いし、温泉には着いたし、何もする事がない。お月さんを風呂に入れるのは日が暮れてからである。まだ時間があるから、赤蛮奇は暇を持て余す。
 温泉横丁は妖怪の山にあるだけあって、妖怪のお客も多い。だから赤蛮奇も人里程無駄に気を張らなくて済む。だから茶屋の軒先に腰かけて、お茶だけ頼んでぼんやりする。お月さんは転げないように脇の座布団の上に置いた。昼間だからか、お月さんの輝きはさっぱり分からない。

 お茶をすすって、考えた。
 お月さんのせいで影狼の毛が伸びて変身するなら、お月さんを持ったまま寺子屋の半獣に近づくと角が生えるのかしらん? そうしてまたお月さんを持ったまま離れてみたら角がするすると引っ込むのかしら。想像すると試してみたいような気がする赤蛮奇だったが、もう温泉に居るのだし、そんな事をしたら面倒事を誘発するに違いないから、考えるだけでよしておこうと決めた。

「お月さまはいつも空では何をしてるの」
「大体決まった道をずっと歩いております」
「退屈じゃないの」
「いえ、地上の色々が見えますから、面白いものです。そのせいでつい足を滑らして落っこちてしまったのですが」
「難儀ね」
「しかしこうしてばんきっきさん方の親切に触れられましたから、落っこちてみるのも悪くはないものです」
「ばんきっきって呼ぶなよ、仲良いと思われるだろ」

 3杯目のお茶を飲み干した辺りで、そこいらがにわかに薄暗くなって、並んだ店の軒先に明かりが灯り出した。無暗に下げられた提燈がそこいらを淡い橙色で照らしている。吐く息が白くなって、それを見たせいだか知らないが、不思議と身を震わすように寒くなったように感ずる。
 薄紅の空が紫色になって、そろそろ良いだろうと赤蛮奇は淡く光り出したお月さんを持って、温泉の方へふらふらと歩いて行った。あまりお客は居ないようである。受付に薄ら笑いの天狗が座っていた。

「へいっ、らっしゃいまーせー」
「入りたいのだけど」
「そりゃもちろん。一緒に晩酌はいがか?」
「晩酌」
「そう、温泉に浸かりながら夜空を肴に一献。乙なものですよぉ?」

 成る程、悪くない。赤蛮奇は幻想郷の妖怪の例に漏れず酒好きである。たまには悪くあるまいと二合徳利を頼んで盆に乗せて露天に出た。
 他にお客は居ないらしい、温泉は岩風呂になっていて、水面はぴしりと張りつめたように真っ平らで、そこから湯気がもうもうと漂っている。少し白濁した、しかし底が見えぬほどではないお湯である。うっすらと硫黄の匂いがする。
 赤蛮奇はひとまず懐からお月さんを取り出した。転げないように、マントを脱いでその上にお月さんを置くと、自分もいそいそと服を脱ぐ。

「う、さむ……」

 寒空の下で裸体を晒しているのは流石に寒い。そそくさと湯船のふちまで行って、そっと指を付けて温度を見る。少し熱めなのか、指先が冷えているからか、指先がぴりぴりする。

「ちょっと熱めかも」
「構いませんよ、入れてください」

 お月さんが言うので、赤蛮奇は手に持ったお月さんをお湯の中に放り込んだ。お月さんはぷかりとお湯に浮いた。そうして気持ちよさそうに漂っている。

「いい塩梅です」
「熱好きなのね」
「はい」

 赤蛮奇は桶に汲んで少し冷ましたお湯でざぶざぶと何度かかけ湯をして、そうして足先からそうっとお湯に入った。初めは熱くて、ぴりぴりして、思わず立ち上がりそうになったけれど、次第に指先から体がほぐれるようになって、するとあれだけ熱いと思っていたお湯が非常に心地よく感ぜられるのだった。
 とろんとした心持で、宙に漂う湯気が形を変えるのをぼんやりと眺めていると、いつの間にか独りでに日が暮れて、夜空に星が光っている。ふと目をやるとお月さんが大きくなっていた。

「膨らんだね」
「はい、おかげさまで。もう少しで帰れそうです、ありがとうございます」
「そう」

 赤蛮奇は思い出したように、温泉で燗を付けていた二合徳利を盆に乗せて湯船に浮かべた。

「飲む?」
「いいでしょうか」

 では一献と、赤蛮奇は自分の猪口とお月さんの猪口とに注いで一口。良い具合に燗の付いたお酒が、アルコールを散らかしながら喉を落ちる。

「はふぅ」
「うまいですね」
「うん」
「しかし風呂に浸かりながらだと回りが早いですね」

 お月さんは眠そうな声で言った。

「眠い?」
「ええ、あまりに良い気持ちなもので。天にも昇る気持ちとはよく言ったものです」
「だからふかふか浮いて帰るわけか。あはは、変なの」

 酒のせいだかいつもより気分が高揚する。赤蛮奇が良い気持ちで傾けていると、段々お月さんが湯の中に沈んでいるらしかった。仕舞にはとぷんと音をさして完全に沈んでしまった。ぼんやりと眺めていた赤蛮奇だが、いつまでもお月さんが浮いて来ないので、流石に心配になって立ち上がってそばまで行った。

「ちょっと大丈夫」

 とお湯の中を手で探るが、何の手ごたえもない。おかしいなと思って辺りを見回すと、そこいらが不思議に明るく感ぜられる。ふと空を見ると、まん丸のお月さんが元からずっとそこに居たような顔をして光っていた。

「飛んで行くんじゃなかったのか……」

 赤蛮奇は何だか拍子抜けしたような、裏切られたような、片付かない気持ちでお月さんを睨めつけた。

「嘘つき」

 と悪態をついたものの、空に居るお月さんにはもう聞こえないようで、何の返事もない。ふてくされて、猪口に酒を注いで含んだ。うまい。

「まあ、いいか」

 考えてみれば、お別れこそ素っ気なかったけれど、元ある形に戻ったのだし、それなりに面白かった。態のいい暇つぶしをさせてもらったと考えれば、悪い気はしない。
 赤蛮奇は猪口に注いだ酒に映ったお月さんを見て、笑った。

「乾杯、とね」

 そうして一息に口に含んだが、かちんと何かが歯に当たった。はて、おかしいなと思って口の中でころころ転がる何かを手のひらに吐き出した。それは蜻蛉玉みたいな大きさのお月さんであった。

「……なにやってるの、あんた」
「恥ずかしながら、また足を滑らせまして」

 お月さんは照れ臭そうにはにかんだ。赤蛮奇もつられて笑った。

「お酒、追加しようか」
「いいですか」

 再び月のなくなった夜空の下で、ささやかな酒宴はもう少しだけ続きそうである。
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コメント



0.1490簡易評価
3.100名前が無い程度の能力削除
幻想郷らしい不思議なこの感じ、とても良いですね。引き込まれるような文章も読み易くて素晴らしいです。
5.100名前が無い程度の能力削除
こういう雰囲気の作品好きだわ、面白かった
6.100名前が無い程度の能力削除
こういう奇譚ほんと好き
それと、ばんきっきと仲良しに思われたい
7.100奇声を発する程度の能力削除
良かったです
10.100大根屋削除
こういうお話は心が洗われるようで、とても素敵です……
ばんきちゃんと仲良しになりたい
16.8019削除
おとぎ話のような夢のあるお話でした。良かったです。
20.100名前が無い程度の能力削除
この何とも不思議な幻想的世界観が素晴らしい
23.100とーなす削除
ばんきっきや他のキャラたち、そしてお月さんとのやり取りが何とも温かく微笑ましい、心温まるお話でした。
この世界観では月の都とかどうなってんだろう、とちょっと思わないでもないですが、まあそれはそれ。
とりあえず、ばんきっきと呼んで、まんざらでもない感じで「ばんきっきって呼ぶなよ、仲良いと思われるだろ」と文句を言われる関係に私もなりたい。
24.100名前が無い程度の能力削除
 楽しませていただきました。
26.80名前が無い程度の能力削除
文体は硬いのだけど、雰囲気は柔らかい。

いいお話でした。
34.100名前が無い程度の能力削除
タルホ的で素晴らしいお話でした
39.100名前が無い程度の能力削除
昔、国語の教科書に載っていたお話のような、
授業をそっちのけで読み耽ったあれらのお話のような感じが懐かしく、
赤蛮奇よろしく、温かいお湯にとっぷり浸かったような気持ちになれました。

最後の場面、「酒 杯中に落つれば月 先に入る」ってやつですかねぇ……
お月様も中々どうしてお茶目な所があるもんだ。
42.100ジャク削除
宮沢賢治みたいな話で好き。