銀河。果てしなく続く銀河。光の速さでも、十万年も掛かる位の大きさの銀河。それだけで気が遠くなりそうな話なのに、この宇宙にはそれが無数にある。
肉眼で見る事の出来る最も遠くにある銀河、アンドロメダ星雲。肉眼でも見えるから最も近いと言われがちだが、実は250光年も離れているのだ。近く見えるのになのにとても遠い。行けそうで行けない。焦れったいものだ。
そしてアンドロメダより少し離れたところに位置する大マゼラン雲。偉大なる航海士、マゼランが観測していた事から名付けられた銀河。当時の人々の海は果てしなく、危険な所だと認知していた。今の私達と同じ状況かもしれない。いつか、宇宙旅行が普通な事になってしまうのかもしれない。
しかし、私達はまだ天の川銀河を出た事も、太陽系すらも出た事がなかった。それなのに私達はあれやらこれやらと星について議論をする。直接見た事がないものについて話し合う。
夢と希望と不思議と危険が織り混ざった果てしない宇宙を、一枚の紙に収めるなんて勿体無い。宇宙は紙に書いちゃいけないもの。今も成長し続けているその宇宙の範囲を、紙に書いて線引きしてはいけない。
ただの人間の烏滸がましい予想に、私は苛立っていた。
だが2012年、ボイジャー一号が太陽系を抜けたという報告が全世界に伝えられた。とうとう私達は太陽系を抜け、果てしない宇宙という大海原を、やっとの思いで漕ぎ始めたのだ。
私は、高揚感を隠しきれなかった。
出来れば私も、ボイジャー一号と共に旅をしたい。人類の歴史的発見を、この目で見てみたい。途中で通るであろうあのペルセウス座は、その腕で私を抱いてくれるのだろうか。あのケンタウルス座とともに、この宇宙を馬で駆けてみたい。
あの———
「……子。蓮子。ちょっと蓮子ってば。」
メリーの声に反応し、私はゆっくりと瞼を開く。視界が悪く、全てが滲んで見える。一つ、二つと瞬きをした後、大きく目を見開いた。
段々と鼓膜に人の喧騒が響き始める。人々で埋まるカフェに、私とメリーは向かい合って座っていた。太陽はもう既に傾き始め、夜が訪れることを知らせている。真っ赤な太陽が店内を照らしていた。
今や天下のお膝下の京都。都が遷都し、京都が首都になってから早数十年。東京は退廃し、今や『東国は田舎』と呼ばれ始める様になった今日この頃。宇宙旅行も日常化していき、何処ぞの鉄腕もそろそろ出来る頃合いだと騒がれている。
そんな近未来の京都の大学で非公式サークル『秘封倶楽部』の部長を私は務めている。部員は唯一無二の親友、マエリベリーハーンただ一人。
活動は『結界探し』。要は気になった怪奇現象を片っ端から検証する、一種のオカルトサークルである。この活動にも長い歴史があるそうだが、私はあまり気にはしていなかった。
「もう、しっかりしてよ。ここ数日は結界が結構見えるからさ。眠いのは分かるけど。」
ふぁあ、とマエリベリーハーンことメリーは一つの欠伸をした。つられて私も一つ、欠伸をした。どうやらいつの間にか寝てしまっていた様だ。目の前にある珈琲も、既に冷めてしまっている。丁寧に用意してくれたラテアートも、すでに原型を留めていない。うねうねとした模様に私は不思議と既視感を感じたが、直ぐにどうでもよくなった。
それよりも、目の前に置かれた珈琲の事が気になって仕方がない。目の前にある食べ物飲み物は、食さなければならない。美味しくないと分かっていても、食べなければ気になってしまう。貧乏性の性だ。
私は冷めてしまった珈琲を口に運んだ。
冷やされた本来の旨味が口の中で溶け出し、珈琲本来の味とは程遠くなっていた。苦味が一層に増し、カフェラテとはとても言えない。
「うげぇ、まじいな。メリー、どうして起こしてくれなかったんだ。」
飲めたものじゃなくなった珈琲に、私は大量の砂糖を入れる。勿論、飲み干すためだ。
いつの間にか紅茶とケーキのセットを頼んでいたメリーは、苺を美味しそうに頬張っていた。皿の上には手の付けていないケーキがある。美味しいものは最初に食べる派の様だ。
「だって、余りにも寝心地がよさそうだったの。だから起こすのも忍びないかなって。」
「へぇ、そんなにもガッツリ寝てたのか。」
おかしいな。昨日はそこまで寝不足だったというわけでもないのに。あまり寝付けなかったのかな?
色々な気がかりな事を胸にしまいこみ、私はカップを回し、珈琲が揺れ動くのをぼんやりと見ていた。くるくると不規則に揺れ動く。まるで私の心の様だった。
「さて、もうそろそろかな。」
メリーが腕時計を確認する。それと同時に私は窓の外を見る。太陽は既に地平線へと入り、反対側からうっすらと月が出てきている。もうじき夜だ。
「結界が出てくるのは八時頃だからもうちょっとだね。」
そう言ってメリーは店を出る準備をした。私も席を立とうとするが、どうにも力が入らない。腕に精一杯の力を込めるが、どうにも立つ事が出来ない。立つ気力がもうないのか。
「何をしているのよ。疲れたのはもう分かったから。」
メリーは私を急かす。けど力が入らずに私は座ったままでいた。
「どうしても力が入んないな… どうしたんだろ?」
自分の置かれている状況に困惑している私を見て、メリーは呆れていた。
「どうもこうもあなたの身体でしょう?医者は結界を見終えたら連れてってあげるから。私が先に下見して来るわよ。」
「ゴメンな、メリー。」
いいのよ、とメリーは言い残し、カフェから出て行った。カランカランと音が店内に響く。その音が私の心に響く。メリーに対する申し訳なさの気持ちだろうか。
いつの間にか他の客も出て行き、店には私とおばあさんだけが残っていた。急に静かになったカフェには、お洒落なジャズの音色しか聞こえない。
妙に居心地が悪かった。
一時間程経っても私の力は戻らない。それどころか、力がどんどん抜けて行くのを感じた。私の目の前の珈琲はどんどん冷えていき、ラテアートも既に溶けてなくなっていた。
私はする事もなく、おばあさんの方に視線を向ける。
意外にも、私の思っている程おばあさんではなかった。金色のロングヘアーに奇妙な帽子、メリーが好きそうな帽子だ。どうやら珈琲は頼まず、紅茶とケーキのセットを頼んでいた。またもやメリーが好きなセットだ。横には大きな傘。使う用途が全然わからない程の大きさだ。
一見、私の母親の様な位の年齢のようだ。だけど違う気がする。私の母からは感じれない、狂気的な何かを感じる。
もっと年を食っている様な気がする。
私の視線に気付いたのだろうか、その女はそっとフォークを置き、一つ溜息をついた。思っていたよりも深く、長い溜息。でも少し笑みが入った溜息。何かあったのだろうか———
「私に気が付いたの?」
今まで静かだったカフェテラスに突如響く声。少なからず私はびっくりし、慌てて店内を見回した。店中には私とあの女の人のみ。不思議にもウェイターさんも、マスターも居ない。
まるで仕組まれた様だった。
「御機嫌よう、宇佐見さん。」
突然、あの女の人が私の目の前に立った。妖気かつ艶かしい目でこちらを見る。気持ちが悪い。背筋が凍る。
今まであの女の人が座っていた所を見ると、そこには何もなかった。紅茶も、ケーキセットも。
あれを瞬間的に片付けれる事なんて出来ない。そもそも音を立てずに移動出来るなんておかしい。これは夢なのか?
それに何で私の名前を?
「う〜ん、怖がらせちゃった見たいね。安心して。少なくとも貴女に危害は加えない。」
どうやら私の怯えた態度を見たのだろう。安心感を与えようとしたらしいが、今の私にはそんな事を考えてる暇はない。
取り敢えず逃げなきゃ。
私は勢いよく立ち上がろうとしたが、力がまだ入らない。バンッと机を叩くだけで腕が使い物にならなくなった。
机から転げ落ち、パリンッと割れたコーヒーカップは、冷たいカフェラテを床にブチまけていった。砂糖がたっぷりと入り、ドロドロになった珈琲が私の足元へと流れていく。
女は、私の様子をまじまじと見て言った。
「貴女、力が入らない理由って分かる?」
女の発した言葉に、私は驚愕した。理由があるって事は意図的にこうさせたって事なのか?
「じゃあ、全部貴女の仕業ってわけ?」
私は女を鋭い目で睨んだ。それなのに、あの女は飄々としている。まるで蛇のように私に纏わりつく女に、次第に畏怖感を感じた。
「その通りよ。でも厳密に言えばまだ第三者が居る。その女が首謀者よ。」
私をこんな目に合わすなんて、私を余程嫌っているのだろう。心当たりは腐る程いる。秘封倶楽部という非公式で、活動しているかどうかも定かではないサークルだ。恨みなんていくらでも買っている。
しかし、明らかに人外であるこの女と連絡をとり、私を虐める事までする人は居ないはずだ。少なくとも、メリーはこんな事は出来ないだろう。
「勘違いしてるかも知れないけど、別にその子は貴女の事を嫌ってなんかいない。それにその子と貴女とは友人以上の関係があるわ。」
女の言葉に、私は動揺を隠せなかった。じゃあ尚更分からなくなってしまう。身内にそんな事をする人なんていない。じゃあ誰だ?
段々と、頭が痛くなってきた。
「犯人探しは今は置いといて。それは重要な話じゃない。」
すると女は懐から一通の手紙を手に取り、私の目の前にそっと置いた。ご丁寧にシールまでつけ、宛先には『宇佐見蓮子様』と書かれている。
「貴女に向けた依頼主からの手紙よ。私が依頼を受けたのはここまで。失礼するわね。」
女は傘を持ち、私の横を通っていこうとした。コツコツとブーツの音が次第に遠のいていく。その後を、私は追いかける事が出来なかった。
でもどうしても、どうしても聞かなければならない事がある。何処となくメリーに似ているその姿。聞かなければ後悔してしまう。
女が出口のドアノブに手を掛けた瞬間、私は口を開けた。
「貴女は…貴女は誰なの?」
女は艶かしい目付きでこちらを見る。背筋が凍りそうなのをぐっと堪え、前を見続ける。先程の畏怖感は、もう消えた。
真っ直ぐに女を睨む私を見て、女はにこりと笑った。
「私は、ただの———」
「…客様、お客様。どうなさいましたか?」
誰かの声が聞こえ、頭にガンガンと響きわたる。その痛みに苛立ちながらも、私は目を開けた。視界が悪く、全てがボヤけて見える。一つ、二つと瞬きした後に前を見る。そこには誰も居らず、ラテアートがまだ残っているカフェラテだけがあった。
そうだ、あの女は何処へいった?
「すみません!私の向かいの席に居た女は何処へ行ったか分かりますか?」
私は勢いよく立ち上がり、横に居たウェイターに問いかけた。物凄い形相だったのだろう、ウェイターは少したじろいでいた。
「お連れ様なら先程出て行かれましたよ。」
「いえ、大きな傘を持った女の人です。」
メリーが出て行ったのは記憶にある。問題はあの女の行き先だ。
ウェイターは少し考えてたが
「すみませんが記憶に御座いません。お言葉ですが、何か勘違いをしていらっしゃるのではないでしょうか?」
と期待していた返事とは裏腹な返事が帰ってきた。
私はどうしようもなく、また椅子に座り直した。あれは本当に夢だったのか?現に珈琲カップも割れていないし、床も濡れていない。
私はふぅ、と大きな溜息を一つついた。馬鹿らしい、自分は夢にまでも惑わされるようになったか、と自分を軽蔑する様な溜息だった。
と、同時にポケットに違和感を感じた。ポケットの中を弄ってみると一通の手紙が。ご丁寧にシールを貼られ、『宇佐見蓮子様』と宛名書きされていたあの手紙だ。
夢じゃない、本当に起こった事だ。
そう確信した私は手紙を握り締め、大急ぎでカフェから飛び出した。
肉眼で見る事の出来る最も遠くにある銀河、アンドロメダ星雲。肉眼でも見えるから最も近いと言われがちだが、実は250光年も離れているのだ。近く見えるのになのにとても遠い。行けそうで行けない。焦れったいものだ。
そしてアンドロメダより少し離れたところに位置する大マゼラン雲。偉大なる航海士、マゼランが観測していた事から名付けられた銀河。当時の人々の海は果てしなく、危険な所だと認知していた。今の私達と同じ状況かもしれない。いつか、宇宙旅行が普通な事になってしまうのかもしれない。
しかし、私達はまだ天の川銀河を出た事も、太陽系すらも出た事がなかった。それなのに私達はあれやらこれやらと星について議論をする。直接見た事がないものについて話し合う。
夢と希望と不思議と危険が織り混ざった果てしない宇宙を、一枚の紙に収めるなんて勿体無い。宇宙は紙に書いちゃいけないもの。今も成長し続けているその宇宙の範囲を、紙に書いて線引きしてはいけない。
ただの人間の烏滸がましい予想に、私は苛立っていた。
だが2012年、ボイジャー一号が太陽系を抜けたという報告が全世界に伝えられた。とうとう私達は太陽系を抜け、果てしない宇宙という大海原を、やっとの思いで漕ぎ始めたのだ。
私は、高揚感を隠しきれなかった。
出来れば私も、ボイジャー一号と共に旅をしたい。人類の歴史的発見を、この目で見てみたい。途中で通るであろうあのペルセウス座は、その腕で私を抱いてくれるのだろうか。あのケンタウルス座とともに、この宇宙を馬で駆けてみたい。
あの———
「……子。蓮子。ちょっと蓮子ってば。」
メリーの声に反応し、私はゆっくりと瞼を開く。視界が悪く、全てが滲んで見える。一つ、二つと瞬きをした後、大きく目を見開いた。
段々と鼓膜に人の喧騒が響き始める。人々で埋まるカフェに、私とメリーは向かい合って座っていた。太陽はもう既に傾き始め、夜が訪れることを知らせている。真っ赤な太陽が店内を照らしていた。
今や天下のお膝下の京都。都が遷都し、京都が首都になってから早数十年。東京は退廃し、今や『東国は田舎』と呼ばれ始める様になった今日この頃。宇宙旅行も日常化していき、何処ぞの鉄腕もそろそろ出来る頃合いだと騒がれている。
そんな近未来の京都の大学で非公式サークル『秘封倶楽部』の部長を私は務めている。部員は唯一無二の親友、マエリベリーハーンただ一人。
活動は『結界探し』。要は気になった怪奇現象を片っ端から検証する、一種のオカルトサークルである。この活動にも長い歴史があるそうだが、私はあまり気にはしていなかった。
「もう、しっかりしてよ。ここ数日は結界が結構見えるからさ。眠いのは分かるけど。」
ふぁあ、とマエリベリーハーンことメリーは一つの欠伸をした。つられて私も一つ、欠伸をした。どうやらいつの間にか寝てしまっていた様だ。目の前にある珈琲も、既に冷めてしまっている。丁寧に用意してくれたラテアートも、すでに原型を留めていない。うねうねとした模様に私は不思議と既視感を感じたが、直ぐにどうでもよくなった。
それよりも、目の前に置かれた珈琲の事が気になって仕方がない。目の前にある食べ物飲み物は、食さなければならない。美味しくないと分かっていても、食べなければ気になってしまう。貧乏性の性だ。
私は冷めてしまった珈琲を口に運んだ。
冷やされた本来の旨味が口の中で溶け出し、珈琲本来の味とは程遠くなっていた。苦味が一層に増し、カフェラテとはとても言えない。
「うげぇ、まじいな。メリー、どうして起こしてくれなかったんだ。」
飲めたものじゃなくなった珈琲に、私は大量の砂糖を入れる。勿論、飲み干すためだ。
いつの間にか紅茶とケーキのセットを頼んでいたメリーは、苺を美味しそうに頬張っていた。皿の上には手の付けていないケーキがある。美味しいものは最初に食べる派の様だ。
「だって、余りにも寝心地がよさそうだったの。だから起こすのも忍びないかなって。」
「へぇ、そんなにもガッツリ寝てたのか。」
おかしいな。昨日はそこまで寝不足だったというわけでもないのに。あまり寝付けなかったのかな?
色々な気がかりな事を胸にしまいこみ、私はカップを回し、珈琲が揺れ動くのをぼんやりと見ていた。くるくると不規則に揺れ動く。まるで私の心の様だった。
「さて、もうそろそろかな。」
メリーが腕時計を確認する。それと同時に私は窓の外を見る。太陽は既に地平線へと入り、反対側からうっすらと月が出てきている。もうじき夜だ。
「結界が出てくるのは八時頃だからもうちょっとだね。」
そう言ってメリーは店を出る準備をした。私も席を立とうとするが、どうにも力が入らない。腕に精一杯の力を込めるが、どうにも立つ事が出来ない。立つ気力がもうないのか。
「何をしているのよ。疲れたのはもう分かったから。」
メリーは私を急かす。けど力が入らずに私は座ったままでいた。
「どうしても力が入んないな… どうしたんだろ?」
自分の置かれている状況に困惑している私を見て、メリーは呆れていた。
「どうもこうもあなたの身体でしょう?医者は結界を見終えたら連れてってあげるから。私が先に下見して来るわよ。」
「ゴメンな、メリー。」
いいのよ、とメリーは言い残し、カフェから出て行った。カランカランと音が店内に響く。その音が私の心に響く。メリーに対する申し訳なさの気持ちだろうか。
いつの間にか他の客も出て行き、店には私とおばあさんだけが残っていた。急に静かになったカフェには、お洒落なジャズの音色しか聞こえない。
妙に居心地が悪かった。
一時間程経っても私の力は戻らない。それどころか、力がどんどん抜けて行くのを感じた。私の目の前の珈琲はどんどん冷えていき、ラテアートも既に溶けてなくなっていた。
私はする事もなく、おばあさんの方に視線を向ける。
意外にも、私の思っている程おばあさんではなかった。金色のロングヘアーに奇妙な帽子、メリーが好きそうな帽子だ。どうやら珈琲は頼まず、紅茶とケーキのセットを頼んでいた。またもやメリーが好きなセットだ。横には大きな傘。使う用途が全然わからない程の大きさだ。
一見、私の母親の様な位の年齢のようだ。だけど違う気がする。私の母からは感じれない、狂気的な何かを感じる。
もっと年を食っている様な気がする。
私の視線に気付いたのだろうか、その女はそっとフォークを置き、一つ溜息をついた。思っていたよりも深く、長い溜息。でも少し笑みが入った溜息。何かあったのだろうか———
「私に気が付いたの?」
今まで静かだったカフェテラスに突如響く声。少なからず私はびっくりし、慌てて店内を見回した。店中には私とあの女の人のみ。不思議にもウェイターさんも、マスターも居ない。
まるで仕組まれた様だった。
「御機嫌よう、宇佐見さん。」
突然、あの女の人が私の目の前に立った。妖気かつ艶かしい目でこちらを見る。気持ちが悪い。背筋が凍る。
今まであの女の人が座っていた所を見ると、そこには何もなかった。紅茶も、ケーキセットも。
あれを瞬間的に片付けれる事なんて出来ない。そもそも音を立てずに移動出来るなんておかしい。これは夢なのか?
それに何で私の名前を?
「う〜ん、怖がらせちゃった見たいね。安心して。少なくとも貴女に危害は加えない。」
どうやら私の怯えた態度を見たのだろう。安心感を与えようとしたらしいが、今の私にはそんな事を考えてる暇はない。
取り敢えず逃げなきゃ。
私は勢いよく立ち上がろうとしたが、力がまだ入らない。バンッと机を叩くだけで腕が使い物にならなくなった。
机から転げ落ち、パリンッと割れたコーヒーカップは、冷たいカフェラテを床にブチまけていった。砂糖がたっぷりと入り、ドロドロになった珈琲が私の足元へと流れていく。
女は、私の様子をまじまじと見て言った。
「貴女、力が入らない理由って分かる?」
女の発した言葉に、私は驚愕した。理由があるって事は意図的にこうさせたって事なのか?
「じゃあ、全部貴女の仕業ってわけ?」
私は女を鋭い目で睨んだ。それなのに、あの女は飄々としている。まるで蛇のように私に纏わりつく女に、次第に畏怖感を感じた。
「その通りよ。でも厳密に言えばまだ第三者が居る。その女が首謀者よ。」
私をこんな目に合わすなんて、私を余程嫌っているのだろう。心当たりは腐る程いる。秘封倶楽部という非公式で、活動しているかどうかも定かではないサークルだ。恨みなんていくらでも買っている。
しかし、明らかに人外であるこの女と連絡をとり、私を虐める事までする人は居ないはずだ。少なくとも、メリーはこんな事は出来ないだろう。
「勘違いしてるかも知れないけど、別にその子は貴女の事を嫌ってなんかいない。それにその子と貴女とは友人以上の関係があるわ。」
女の言葉に、私は動揺を隠せなかった。じゃあ尚更分からなくなってしまう。身内にそんな事をする人なんていない。じゃあ誰だ?
段々と、頭が痛くなってきた。
「犯人探しは今は置いといて。それは重要な話じゃない。」
すると女は懐から一通の手紙を手に取り、私の目の前にそっと置いた。ご丁寧にシールまでつけ、宛先には『宇佐見蓮子様』と書かれている。
「貴女に向けた依頼主からの手紙よ。私が依頼を受けたのはここまで。失礼するわね。」
女は傘を持ち、私の横を通っていこうとした。コツコツとブーツの音が次第に遠のいていく。その後を、私は追いかける事が出来なかった。
でもどうしても、どうしても聞かなければならない事がある。何処となくメリーに似ているその姿。聞かなければ後悔してしまう。
女が出口のドアノブに手を掛けた瞬間、私は口を開けた。
「貴女は…貴女は誰なの?」
女は艶かしい目付きでこちらを見る。背筋が凍りそうなのをぐっと堪え、前を見続ける。先程の畏怖感は、もう消えた。
真っ直ぐに女を睨む私を見て、女はにこりと笑った。
「私は、ただの———」
「…客様、お客様。どうなさいましたか?」
誰かの声が聞こえ、頭にガンガンと響きわたる。その痛みに苛立ちながらも、私は目を開けた。視界が悪く、全てがボヤけて見える。一つ、二つと瞬きした後に前を見る。そこには誰も居らず、ラテアートがまだ残っているカフェラテだけがあった。
そうだ、あの女は何処へいった?
「すみません!私の向かいの席に居た女は何処へ行ったか分かりますか?」
私は勢いよく立ち上がり、横に居たウェイターに問いかけた。物凄い形相だったのだろう、ウェイターは少したじろいでいた。
「お連れ様なら先程出て行かれましたよ。」
「いえ、大きな傘を持った女の人です。」
メリーが出て行ったのは記憶にある。問題はあの女の行き先だ。
ウェイターは少し考えてたが
「すみませんが記憶に御座いません。お言葉ですが、何か勘違いをしていらっしゃるのではないでしょうか?」
と期待していた返事とは裏腹な返事が帰ってきた。
私はどうしようもなく、また椅子に座り直した。あれは本当に夢だったのか?現に珈琲カップも割れていないし、床も濡れていない。
私はふぅ、と大きな溜息を一つついた。馬鹿らしい、自分は夢にまでも惑わされるようになったか、と自分を軽蔑する様な溜息だった。
と、同時にポケットに違和感を感じた。ポケットの中を弄ってみると一通の手紙が。ご丁寧にシールを貼られ、『宇佐見蓮子様』と宛名書きされていたあの手紙だ。
夢じゃない、本当に起こった事だ。
そう確信した私は手紙を握り締め、大急ぎでカフェから飛び出した。