雨の降る山の一本道を、一人の女性が傘をさして歩いていた。
かなり深い山だというのに、和洋中合わせたドレスのような服という、軽装どころかおよそ山歩きに不釣り合いな格好で、急な山道を平然と歩いている。
幻想郷、それも強い妖怪がひしめく山でこんな事が出来るのは、彼女自身も強豪妖怪だからである。
やがて彼女は一軒の家屋にたどりつくと、傘を折りたたんで戸を開ける。
「藍、ただいま」
女性の妖怪の名は八雲紫。おそらく幻想郷の守護者のひとり。
この日、暇つぶしに結界の外を見回り、ある収穫を持って笑顔でマヨイガに戻ってきた。
「おかえりなさいませ、何か良いことでもあったのですか」
従者にして最愛の家族の一人の藍が聞いた。
九尾の狐である彼女は、主の笑顔に、嬉しさと不安が半分混ざった顔で紫の話を待つ。
紫さまの笑顔は美しい、だけど何か厄介事でも押し付けられるのでは、という意味である。
「別にあなたに厄介事を持ち込む気はないわ、新しい幻想の生息地域が見つかったの」
「本当ですか」
藍は夕食を作り終え、あとは配ぜんするだけのようだ。三人分あるという事は、今日は橙が居るのだろう。
「ええ、小さな世界に、妖怪とも妖精ともつかない存在が数個体いて、たまに人を驚かしたり、子供達の遊び相手になっているみたい。幻想郷を含めて、142番目の場所よ」
「ははあ、忘れ傘みたいですね。ところで、他の幻想地帯はどうでしたか」
食卓に座った紫の顔が曇る、なにか不幸な事を思い出したのか? 少しの間をおいて話し出す。
「ううん、62番だけどね、数ヘクタール残った森に存在の希薄な神様がいたんだけど、開発で消滅しちゃった。27番はビルの屋上の吹きだまりに小さな花の妖精がいたんだけど、その子を認識していた子供が引っ越しでいなくなっちゃって、それでただの草花に戻ったわ」
「それは……残念でしたね」
「でも悪い話ばかりじゃなくてね。113番は一帯がダムで沈んだんだけど、川の妖精がダムの妖精に転職したり、渇水の時に出てくる家屋や自動車の九十九神が誕生したりしてにぎやかさが戻ったの。それで新たな妖怪も生まれたわ」
海が干上がっても、窪地に水が残るように、人々が幻想を忘れ去っても、どこかにそのエネルギーが生き残っている場所が幻想郷以外にもあった。場合によってはただの幻想の生き残りではなく、外界の文明に適応して、新たな妖怪や妖精に変化する者も少なくはない。
藍がかまどをあけると、芳しい炊き込みごはんの匂いが部屋中に立ちこめてくる。
「どんな妖怪だと思う? ダム穴の妖怪よ」
「ダム穴?ですか」
「ダムの水位が必要以上に上がらないための水を逃がす大きなパイプなんだけど、そこがまるで奈落の底に通じているみたいな異様な迫力があって、まあ、ただの穴なんだけど。それが人々の幻想を刺激して生まれたみたいなの」
「すばらしい、今の外界にも新しい妖怪が生まれ得るのですね」
「イメージのせいか、『中二病』な言動が目立つ子だったけどね。異界へのワームホールが開かれようぞ、とか言っちゃって」
「うわあ、痛いですね」
「もっとも、私たちも神隠しの主犯とか傾城の美女とか言われるでしょ。それも知らない人たちから見たらアレよ、あら、今日はコーンポタージュもあるのね」
「和洋ごちゃまぜですが、紫さまが好きとおっしゃったので」
「和洋ごちゃまぜもこの国の特色だから良いわ、橙が来たら頂きましょう」
幻想郷外の幻想地帯には、今のところ幻想郷に匹敵する規模のものは見当たらず、そこに住む住人の魔法的な力も小さいものしかない。しかし、幻想の力というものは意外としたたかなようだ。
「この趣味を始めて良かったわ、私たちも一人ぼっちじゃないって分かったもの」
「同朋がどこかにいる、それだけで心強くなりますね」
戸が開く音がして、橙が猫形態で藍のしっぽに勢いよく飛び込んだ。モフモフ感を堪能した後、紫の膝の上に乗ってにゃあと愛情を込めて鳴いた。
八雲紫は神社で霊夢と遊んだあと、今日は45番幻想世界を軽く訪れてみる事にした。
そこは地方都市を流れる川の中洲にある。
無論砂利が多いので肥えた土とはいえなかったが、一本のそこそこの背の樹木を中心にススキなどの草花が生えている。都市の真ん中にあるが、滅多に人が立ち寄らない事からかなりの幻想生物が平和に暮らしている。
深夜に紫が訪れると、一人の妖怪が彼女を見つけて、笑顔で駆け寄ってきた。
「こんにちは、ノハラちゃん」
「こんにちは、紫さん」
ノハラと呼ばれたススキの妖怪はぺこりとお辞儀をして彼女を歓迎した。この妖怪の背丈は人間の手のひらに乗る程度しかなく、力も幻想郷基準なら妖精程度のものだ。
紫は境界を操って、同じ背丈になって訪れる。
手の平ゆかりんである。
「みんな元気かしら」
「ええ、小さい世界ながら、みんなしぶとく生きています」
ノハラは紫を連れて、中州の中央付近の樹木へ案内した。月光浴をしている仲間達がささやかな宴会を楽しんでいる。
そよ風が吹き、枝葉を揺らしていった。
「どうぞ、草の実で作ったお団子です。月の光を浴びるとパワーが上がる設定のおかげで、いつもより甘いです」
「いただくわ、あら、前のより美味しくなってる」
「はい、紫さんが洒落で言った設定をなんとなく意識していたら、なんかそんな設定になっちゃったっぽいです」
幻想の力というのは文字通り幻想で生まれるもの、観測する紫や、この場所を眺めていろいろ空想する人間たちの思念の力で、結構変化増減する事もあるようだ。
ただその法則は紫にもよく分かっていない。
「いつもいつも、なにも用意できなくてすみません」
「いいのよ、こんな小さな世界じゃ、存続するだけで手いっぱいでしょうからね」
「でも、愛着のある世界ですよ」
「そうよね」
川の土手沿いの道路を、一代のトラックが走っていった。月夜に浮かぶ食品工場のシルエットからは、まだ煙が立ち上っている。
「こんな空気の汚い所でよく生きていられるわね」
「生まれたころからこんな感じですので、もう慣れっこです」
「あなたたちって、力は弱くても、そういう意味じゃタフなのね」
「紫さん達も、ここの空気に弱い代わりに、すごい力を持っているそうですね。一度行ってみたいなあ、その幻想郷に」
「あそこの住人は、貴方たち感覚では凶暴すぎる面もあるから、準備してそのうちご招待するわ」
「待っています」
「おーいノハラ~流木がまた流れ着いたぞ」
「うん、今行くわよ」
木に宿を持つ雀の妖怪がノハラを呼んだ。彼も実際の雀サイズである。
「紫さん、時々漂着した流木やゴミに妖精が憑いている事があるんです、保護してやらなくちゃ」
「立派ね、行ってらっしゃい」
「おい、聞いてんの……あっ紫ちゃん久し振り」
「ちゅんいち、紫さんに失礼だよ」
ちゅんいちと呼ばれた雀妖怪は紫に軽く一礼して、ノハラの手を引っ張っていった。
「ここはとりあえず安泰そうね」
紫は安心した表情で隙間を開き、幻想郷へ帰った。
『幻想郷は一つじゃない? 妖怪が暮らす世界が他にも?』
霊夢が古い天狗の新聞を整理していると、ふとその見出しが目にとまったので、倉の入り口に座ってもう一度紙面を広げてみた。
読まれなかった新聞が妖怪化して人を襲うという『紙舞』という妖怪の話はガセだと分かっていたが、その後もそれとなく記事に目を通す習慣がついていた。
「そういや、こんな記事もあったわねえ」
その記事にはここ幻想郷の他にも、幻想の生き物たちが住める空間があるかも知れないという、河童と天狗の調査記録について書かれていた。
だがそれによると、外界の都市の一角にわずかに妖精や妖怪の気が感じられる場所が複数あり、幻想の生物が暮らしていると推測されるものの、とても幻想郷の住人が移住できるほどの幻想のエネルギーはなく、もしある程度顔の知られた妖怪が移住しても、即消滅の可能性があるという。
「なあんだ、それじゃ意味ないじゃん」
「霊夢、何読んでるの?」
ふらりと遊びにきたチルノを膝に座らせ、記事を読んでやった。
ちょっと寒くなったが。
「これね、幻想郷が他にもあるかも知れないって話」
「ああ、あたいそれ知ってるよ、アスファルトで敷き詰められた道路の隙間の、草が生えている部分とか、あたいそこの連中と話したことある」
「嘘言わないで、どうやって結界から出たのよ」
「結界に話して、通してもらった。博麗大結界、結構いい奴だった」
「まさか? 仮に出られたとして、存在を維持できないはずよ」
「うん、一緒に行った大ちゃんともども消えかけた。けどその小さな幻想郷みたいな場所の奴らに助けられたんだよ、体は縮んじゃったけど」
妖精は不思議な事を話すもんだなと思うが、かといって何となく嘘でもないような気がする。
ソースは妖精というのがネックだが。
「嘘にしてはすらすらと出てきたわね」
「だから、嘘じゃないって。そのあと紫が迎えに来たの」
「紫がねえ。まっ、信じる事にするわ」
「やったー」
霊夢が彼女の羽根をつんつんと突くと、ぷるぷると反応した。
「なあに?」
「ふふっ、なんでもない。妖精は無邪気ね」
多少の嘘が混じっていたとしても、妖精には人間とも妖怪とも違う世界が見えていて、そこに何らかの真実があるのだろう。
霊夢には、そんな妖精たちが少しうらやましく思えたり思えなかったりするのだ。
「何という事!」
45番幻想世界、川の中州のコミュニティを訪れた紫は言葉を失った。
先日からの大雨で、増水で中洲のほとんどが水に沈んでいたのだ。
水面から顔を出す木のてっぺんに妖精たちが避難していて、そのなかに雀の妖怪、ちゅんいちの姿もあった。
「ちゅんいち、ノハラ達はどうしたの」
「ああ、ノハラと一部の妖精は、流されちまった」
「そう、気の毒に……流された子たちはどうなるか分かるのかしら」
当然の事ながら、永く生きている紫は親しい者の死、あるいは消滅を何度も体験している。
しかし、つい最近まで笑っていた者がもういないというのは、何度経験しても心が揺さぶられるものだ。
それは妖怪の賢者と呼ばれる八雲紫も例外ではない。
「わからない。でも年に何回か、こういう事があるんだ」
「でも、上流のダムから新しい仲間が流れ着いてくるんですよ~」
妖精の一人が、のんびりした口調で言った。
「私も昔ここに流れ着いた身で、きっといつかどこかへ流れていく。そういうもんよ」
「慣れないうちはもにゃるけどね」
それはまさに輪廻転生を思わせる。
ちなみに、『もにゃる』とは整理しきれない思いを表わす時の独特の表現らしい。
ここの住人達は、時折やってくる出会いと別れを当然のように受け止めている。
無常さを感じ、紫はもう少しで泣き顔を見られそうになった。
「どうしたんですか?」
「何ともないわ、ありがとう、他を見て来るわ」
天界や月の都ほどではないものの、雲の上にある幻想の住み家。
そこにもやはり、妖精とも妖怪ともつかない、幻想的な生き物が暮らしている。
紫が見た感じだと、面積は100平方メートルぐらい、住人のサイズはやはりほかの幻想世界と同じ手のひら程。天国のミニチュア版のようなその小さな世界。
紫はそこを第6番世界と呼んでいる。
42番の後に訪れた紫は目を丸くした。
「あっ紫さん。お久しぶり」ノハラだった。
「ノハラ、それにあの中州にいた子たち、無事だったの」
「ええ、あの川の中洲コミュニティから流された幻想は、その後蒸発してここに昇天するみたいです。しばらくここですごした後、水を吸って重くなると、ダムの幻想地帯に戻っていくみたいなのです」
別の妖精が言う。
「私たち、何回もこのサイクルを体験しているらしいんです、でも記憶があやふやで、一回分の記憶しかない者が大半なんですけどね」
「ですから、わずかに残った記憶を持ち寄って、新しく来た仲間にいろいろ教えているんです。身を守る方法とか。もにゃらないように」
見事な循環の輪。幻想郷とは異なる幻想の世界が、管理者無しにここまで維持されている。その事に紫は感嘆を禁じえなかった。
完全に前のサイクルの記憶が失われれば、この世界や自分を守る方法をその都度、試行錯誤で見つけなければならない。逆に全ての記憶が継承されても、価値観が凝り固まってしまい、やはり滅び易くなる、なにより退屈さに息詰まってしまう。加えて、たまに新種の妖怪や妖精や神々(ここでは3者の区分は曖昧で、正直な話幻想郷基準ではみなモブ妖精程度の霊力しかないけど)も加わる事もあって、新陳代謝が行われている。
『もにゃる』という言葉も中洲からここに伝えられていた。
紫が雲の地面に座り、妖精たちを頭や膝に乗せて遊んでいると、外界のジェット旅客機がその雲上の世界を知らずに突っ切っていくではないか。
「危ない!」
助ける暇もなく、そのエンジンの中に妖精たちが吸い込まれてしまう。
乗客の中に顔見知りがいたような感触がしたが、そんな事はどうでもいい。
存在が希薄なため、ジェット機には何の損傷もないが、妖精たちは切り刻まれ、吹き飛ばされ、小さな雲の大地は文字通り雲散霧消してしまった。
「なんてこと! せっかくの姉妹郷が」
「安心して下さい」 ノハラの声がした。
しばらくすると、また雲が集まってもとの大きさになり、飛び散った妖精も集まってきた。エンジンに切り裂かれたはずの住人も徐々に再生して、元通りになった。
(あれ?)
(どうしたの?)
(今何か、境界を突っ切ったような……)
(まさかあ)
「ぷはー、紫さん、今わざとあの筒に吸い込まれて再生するのが流行なんですよ」
細切れにされて復活したての妖怪が言う。
「流行ですって!?」
「ええ、誰かが故郷のダムで、わざと放水時に流れていく遊びを覚えていて、それを真似たみたい」
先ほどまで泣きそうになっていた自分がひどく滑稽に思えた。
紫はため息をつきながら微笑んだ。
「まったく、ものすごい子達」
でもその眼は、我が子を見守る母親のような温かさに満ちている。
その日の夜、紫は藍と橙の寝顔を眺めながら、いろいろな小世界に思いをはせた。
中には消滅してしまったところもあったが、多くの場所で、小さくもたくましい住人が今も生を営んでいる。
紫はこれらの世界を見つけた時、住人達を守ってやらねばと思った。それは今も変わらない、しかし……
「ちょっと上から目線過ぎたようね」
ただ保護対象としてしか彼らを見ていなかった事に、少し申し訳なさを感じる。
紫は月を見上げ、静かに祈りをささげるのだった。
この幻想郷と、その姉妹郷に住む者全てに幸あれ、と。
文々。新聞 号外
幻想郷に匹敵か? 北米大陸に高濃度の幻想地帯発見。高等妖怪存在の可能性も。
最近、域外幻想地帯(幻想郷以外の妖怪などが居住可能な領域)の探索が新たな暇つぶしとして流行し始めている。その多くは毛玉程度しか住めない場所が大半だが、今回、かなりの幻想が息づいていると思しき場所が発見された。
発見者は当記者の知人兼友人兼ペットの犬走椛さん(白狼天狗)。千里眼であちこちを見渡していたところ、北米合衆国サンアンドレアス州付近に高濃度の妖力を感知し、さらに協力者の川城にとりさん(河童)の助けで精度を上げたところ、幻想郷のような世界が存在する可能性が濃いとの事。これに対して犬走さんは語る。
「もしかしたら攻撃的な文明でかも知れず、有事に真っ先に対応する立場としては複雑な心境です。接触を図るべきか否かは妖怪賢者も交えた協議が必要だと思います。ただ私個人としては、自分たちが一人ぼっちではないと判ったのは嬉しい事ですし、いつかあちらの達人と平和的に手合わせしてみたいですね」
もし、二つの幻想郷が交流する日が来るとしたら、私たちの生活は、価値観はどのように変化するだろうか、それを考えるとわくわくする反面、少し怖い気もするというのが正直な感想だが、読者諸兄はどう思われるだろうか。
かなり深い山だというのに、和洋中合わせたドレスのような服という、軽装どころかおよそ山歩きに不釣り合いな格好で、急な山道を平然と歩いている。
幻想郷、それも強い妖怪がひしめく山でこんな事が出来るのは、彼女自身も強豪妖怪だからである。
やがて彼女は一軒の家屋にたどりつくと、傘を折りたたんで戸を開ける。
「藍、ただいま」
女性の妖怪の名は八雲紫。おそらく幻想郷の守護者のひとり。
この日、暇つぶしに結界の外を見回り、ある収穫を持って笑顔でマヨイガに戻ってきた。
「おかえりなさいませ、何か良いことでもあったのですか」
従者にして最愛の家族の一人の藍が聞いた。
九尾の狐である彼女は、主の笑顔に、嬉しさと不安が半分混ざった顔で紫の話を待つ。
紫さまの笑顔は美しい、だけど何か厄介事でも押し付けられるのでは、という意味である。
「別にあなたに厄介事を持ち込む気はないわ、新しい幻想の生息地域が見つかったの」
「本当ですか」
藍は夕食を作り終え、あとは配ぜんするだけのようだ。三人分あるという事は、今日は橙が居るのだろう。
「ええ、小さな世界に、妖怪とも妖精ともつかない存在が数個体いて、たまに人を驚かしたり、子供達の遊び相手になっているみたい。幻想郷を含めて、142番目の場所よ」
「ははあ、忘れ傘みたいですね。ところで、他の幻想地帯はどうでしたか」
食卓に座った紫の顔が曇る、なにか不幸な事を思い出したのか? 少しの間をおいて話し出す。
「ううん、62番だけどね、数ヘクタール残った森に存在の希薄な神様がいたんだけど、開発で消滅しちゃった。27番はビルの屋上の吹きだまりに小さな花の妖精がいたんだけど、その子を認識していた子供が引っ越しでいなくなっちゃって、それでただの草花に戻ったわ」
「それは……残念でしたね」
「でも悪い話ばかりじゃなくてね。113番は一帯がダムで沈んだんだけど、川の妖精がダムの妖精に転職したり、渇水の時に出てくる家屋や自動車の九十九神が誕生したりしてにぎやかさが戻ったの。それで新たな妖怪も生まれたわ」
海が干上がっても、窪地に水が残るように、人々が幻想を忘れ去っても、どこかにそのエネルギーが生き残っている場所が幻想郷以外にもあった。場合によってはただの幻想の生き残りではなく、外界の文明に適応して、新たな妖怪や妖精に変化する者も少なくはない。
藍がかまどをあけると、芳しい炊き込みごはんの匂いが部屋中に立ちこめてくる。
「どんな妖怪だと思う? ダム穴の妖怪よ」
「ダム穴?ですか」
「ダムの水位が必要以上に上がらないための水を逃がす大きなパイプなんだけど、そこがまるで奈落の底に通じているみたいな異様な迫力があって、まあ、ただの穴なんだけど。それが人々の幻想を刺激して生まれたみたいなの」
「すばらしい、今の外界にも新しい妖怪が生まれ得るのですね」
「イメージのせいか、『中二病』な言動が目立つ子だったけどね。異界へのワームホールが開かれようぞ、とか言っちゃって」
「うわあ、痛いですね」
「もっとも、私たちも神隠しの主犯とか傾城の美女とか言われるでしょ。それも知らない人たちから見たらアレよ、あら、今日はコーンポタージュもあるのね」
「和洋ごちゃまぜですが、紫さまが好きとおっしゃったので」
「和洋ごちゃまぜもこの国の特色だから良いわ、橙が来たら頂きましょう」
幻想郷外の幻想地帯には、今のところ幻想郷に匹敵する規模のものは見当たらず、そこに住む住人の魔法的な力も小さいものしかない。しかし、幻想の力というものは意外としたたかなようだ。
「この趣味を始めて良かったわ、私たちも一人ぼっちじゃないって分かったもの」
「同朋がどこかにいる、それだけで心強くなりますね」
戸が開く音がして、橙が猫形態で藍のしっぽに勢いよく飛び込んだ。モフモフ感を堪能した後、紫の膝の上に乗ってにゃあと愛情を込めて鳴いた。
八雲紫は神社で霊夢と遊んだあと、今日は45番幻想世界を軽く訪れてみる事にした。
そこは地方都市を流れる川の中洲にある。
無論砂利が多いので肥えた土とはいえなかったが、一本のそこそこの背の樹木を中心にススキなどの草花が生えている。都市の真ん中にあるが、滅多に人が立ち寄らない事からかなりの幻想生物が平和に暮らしている。
深夜に紫が訪れると、一人の妖怪が彼女を見つけて、笑顔で駆け寄ってきた。
「こんにちは、ノハラちゃん」
「こんにちは、紫さん」
ノハラと呼ばれたススキの妖怪はぺこりとお辞儀をして彼女を歓迎した。この妖怪の背丈は人間の手のひらに乗る程度しかなく、力も幻想郷基準なら妖精程度のものだ。
紫は境界を操って、同じ背丈になって訪れる。
手の平ゆかりんである。
「みんな元気かしら」
「ええ、小さい世界ながら、みんなしぶとく生きています」
ノハラは紫を連れて、中州の中央付近の樹木へ案内した。月光浴をしている仲間達がささやかな宴会を楽しんでいる。
そよ風が吹き、枝葉を揺らしていった。
「どうぞ、草の実で作ったお団子です。月の光を浴びるとパワーが上がる設定のおかげで、いつもより甘いです」
「いただくわ、あら、前のより美味しくなってる」
「はい、紫さんが洒落で言った設定をなんとなく意識していたら、なんかそんな設定になっちゃったっぽいです」
幻想の力というのは文字通り幻想で生まれるもの、観測する紫や、この場所を眺めていろいろ空想する人間たちの思念の力で、結構変化増減する事もあるようだ。
ただその法則は紫にもよく分かっていない。
「いつもいつも、なにも用意できなくてすみません」
「いいのよ、こんな小さな世界じゃ、存続するだけで手いっぱいでしょうからね」
「でも、愛着のある世界ですよ」
「そうよね」
川の土手沿いの道路を、一代のトラックが走っていった。月夜に浮かぶ食品工場のシルエットからは、まだ煙が立ち上っている。
「こんな空気の汚い所でよく生きていられるわね」
「生まれたころからこんな感じですので、もう慣れっこです」
「あなたたちって、力は弱くても、そういう意味じゃタフなのね」
「紫さん達も、ここの空気に弱い代わりに、すごい力を持っているそうですね。一度行ってみたいなあ、その幻想郷に」
「あそこの住人は、貴方たち感覚では凶暴すぎる面もあるから、準備してそのうちご招待するわ」
「待っています」
「おーいノハラ~流木がまた流れ着いたぞ」
「うん、今行くわよ」
木に宿を持つ雀の妖怪がノハラを呼んだ。彼も実際の雀サイズである。
「紫さん、時々漂着した流木やゴミに妖精が憑いている事があるんです、保護してやらなくちゃ」
「立派ね、行ってらっしゃい」
「おい、聞いてんの……あっ紫ちゃん久し振り」
「ちゅんいち、紫さんに失礼だよ」
ちゅんいちと呼ばれた雀妖怪は紫に軽く一礼して、ノハラの手を引っ張っていった。
「ここはとりあえず安泰そうね」
紫は安心した表情で隙間を開き、幻想郷へ帰った。
『幻想郷は一つじゃない? 妖怪が暮らす世界が他にも?』
霊夢が古い天狗の新聞を整理していると、ふとその見出しが目にとまったので、倉の入り口に座ってもう一度紙面を広げてみた。
読まれなかった新聞が妖怪化して人を襲うという『紙舞』という妖怪の話はガセだと分かっていたが、その後もそれとなく記事に目を通す習慣がついていた。
「そういや、こんな記事もあったわねえ」
その記事にはここ幻想郷の他にも、幻想の生き物たちが住める空間があるかも知れないという、河童と天狗の調査記録について書かれていた。
だがそれによると、外界の都市の一角にわずかに妖精や妖怪の気が感じられる場所が複数あり、幻想の生物が暮らしていると推測されるものの、とても幻想郷の住人が移住できるほどの幻想のエネルギーはなく、もしある程度顔の知られた妖怪が移住しても、即消滅の可能性があるという。
「なあんだ、それじゃ意味ないじゃん」
「霊夢、何読んでるの?」
ふらりと遊びにきたチルノを膝に座らせ、記事を読んでやった。
ちょっと寒くなったが。
「これね、幻想郷が他にもあるかも知れないって話」
「ああ、あたいそれ知ってるよ、アスファルトで敷き詰められた道路の隙間の、草が生えている部分とか、あたいそこの連中と話したことある」
「嘘言わないで、どうやって結界から出たのよ」
「結界に話して、通してもらった。博麗大結界、結構いい奴だった」
「まさか? 仮に出られたとして、存在を維持できないはずよ」
「うん、一緒に行った大ちゃんともども消えかけた。けどその小さな幻想郷みたいな場所の奴らに助けられたんだよ、体は縮んじゃったけど」
妖精は不思議な事を話すもんだなと思うが、かといって何となく嘘でもないような気がする。
ソースは妖精というのがネックだが。
「嘘にしてはすらすらと出てきたわね」
「だから、嘘じゃないって。そのあと紫が迎えに来たの」
「紫がねえ。まっ、信じる事にするわ」
「やったー」
霊夢が彼女の羽根をつんつんと突くと、ぷるぷると反応した。
「なあに?」
「ふふっ、なんでもない。妖精は無邪気ね」
多少の嘘が混じっていたとしても、妖精には人間とも妖怪とも違う世界が見えていて、そこに何らかの真実があるのだろう。
霊夢には、そんな妖精たちが少しうらやましく思えたり思えなかったりするのだ。
「何という事!」
45番幻想世界、川の中州のコミュニティを訪れた紫は言葉を失った。
先日からの大雨で、増水で中洲のほとんどが水に沈んでいたのだ。
水面から顔を出す木のてっぺんに妖精たちが避難していて、そのなかに雀の妖怪、ちゅんいちの姿もあった。
「ちゅんいち、ノハラ達はどうしたの」
「ああ、ノハラと一部の妖精は、流されちまった」
「そう、気の毒に……流された子たちはどうなるか分かるのかしら」
当然の事ながら、永く生きている紫は親しい者の死、あるいは消滅を何度も体験している。
しかし、つい最近まで笑っていた者がもういないというのは、何度経験しても心が揺さぶられるものだ。
それは妖怪の賢者と呼ばれる八雲紫も例外ではない。
「わからない。でも年に何回か、こういう事があるんだ」
「でも、上流のダムから新しい仲間が流れ着いてくるんですよ~」
妖精の一人が、のんびりした口調で言った。
「私も昔ここに流れ着いた身で、きっといつかどこかへ流れていく。そういうもんよ」
「慣れないうちはもにゃるけどね」
それはまさに輪廻転生を思わせる。
ちなみに、『もにゃる』とは整理しきれない思いを表わす時の独特の表現らしい。
ここの住人達は、時折やってくる出会いと別れを当然のように受け止めている。
無常さを感じ、紫はもう少しで泣き顔を見られそうになった。
「どうしたんですか?」
「何ともないわ、ありがとう、他を見て来るわ」
天界や月の都ほどではないものの、雲の上にある幻想の住み家。
そこにもやはり、妖精とも妖怪ともつかない、幻想的な生き物が暮らしている。
紫が見た感じだと、面積は100平方メートルぐらい、住人のサイズはやはりほかの幻想世界と同じ手のひら程。天国のミニチュア版のようなその小さな世界。
紫はそこを第6番世界と呼んでいる。
42番の後に訪れた紫は目を丸くした。
「あっ紫さん。お久しぶり」ノハラだった。
「ノハラ、それにあの中州にいた子たち、無事だったの」
「ええ、あの川の中洲コミュニティから流された幻想は、その後蒸発してここに昇天するみたいです。しばらくここですごした後、水を吸って重くなると、ダムの幻想地帯に戻っていくみたいなのです」
別の妖精が言う。
「私たち、何回もこのサイクルを体験しているらしいんです、でも記憶があやふやで、一回分の記憶しかない者が大半なんですけどね」
「ですから、わずかに残った記憶を持ち寄って、新しく来た仲間にいろいろ教えているんです。身を守る方法とか。もにゃらないように」
見事な循環の輪。幻想郷とは異なる幻想の世界が、管理者無しにここまで維持されている。その事に紫は感嘆を禁じえなかった。
完全に前のサイクルの記憶が失われれば、この世界や自分を守る方法をその都度、試行錯誤で見つけなければならない。逆に全ての記憶が継承されても、価値観が凝り固まってしまい、やはり滅び易くなる、なにより退屈さに息詰まってしまう。加えて、たまに新種の妖怪や妖精や神々(ここでは3者の区分は曖昧で、正直な話幻想郷基準ではみなモブ妖精程度の霊力しかないけど)も加わる事もあって、新陳代謝が行われている。
『もにゃる』という言葉も中洲からここに伝えられていた。
紫が雲の地面に座り、妖精たちを頭や膝に乗せて遊んでいると、外界のジェット旅客機がその雲上の世界を知らずに突っ切っていくではないか。
「危ない!」
助ける暇もなく、そのエンジンの中に妖精たちが吸い込まれてしまう。
乗客の中に顔見知りがいたような感触がしたが、そんな事はどうでもいい。
存在が希薄なため、ジェット機には何の損傷もないが、妖精たちは切り刻まれ、吹き飛ばされ、小さな雲の大地は文字通り雲散霧消してしまった。
「なんてこと! せっかくの姉妹郷が」
「安心して下さい」 ノハラの声がした。
しばらくすると、また雲が集まってもとの大きさになり、飛び散った妖精も集まってきた。エンジンに切り裂かれたはずの住人も徐々に再生して、元通りになった。
(あれ?)
(どうしたの?)
(今何か、境界を突っ切ったような……)
(まさかあ)
「ぷはー、紫さん、今わざとあの筒に吸い込まれて再生するのが流行なんですよ」
細切れにされて復活したての妖怪が言う。
「流行ですって!?」
「ええ、誰かが故郷のダムで、わざと放水時に流れていく遊びを覚えていて、それを真似たみたい」
先ほどまで泣きそうになっていた自分がひどく滑稽に思えた。
紫はため息をつきながら微笑んだ。
「まったく、ものすごい子達」
でもその眼は、我が子を見守る母親のような温かさに満ちている。
その日の夜、紫は藍と橙の寝顔を眺めながら、いろいろな小世界に思いをはせた。
中には消滅してしまったところもあったが、多くの場所で、小さくもたくましい住人が今も生を営んでいる。
紫はこれらの世界を見つけた時、住人達を守ってやらねばと思った。それは今も変わらない、しかし……
「ちょっと上から目線過ぎたようね」
ただ保護対象としてしか彼らを見ていなかった事に、少し申し訳なさを感じる。
紫は月を見上げ、静かに祈りをささげるのだった。
この幻想郷と、その姉妹郷に住む者全てに幸あれ、と。
文々。新聞 号外
幻想郷に匹敵か? 北米大陸に高濃度の幻想地帯発見。高等妖怪存在の可能性も。
最近、域外幻想地帯(幻想郷以外の妖怪などが居住可能な領域)の探索が新たな暇つぶしとして流行し始めている。その多くは毛玉程度しか住めない場所が大半だが、今回、かなりの幻想が息づいていると思しき場所が発見された。
発見者は当記者の知人兼友人兼ペットの犬走椛さん(白狼天狗)。千里眼であちこちを見渡していたところ、北米合衆国サンアンドレアス州付近に高濃度の妖力を感知し、さらに協力者の川城にとりさん(河童)の助けで精度を上げたところ、幻想郷のような世界が存在する可能性が濃いとの事。これに対して犬走さんは語る。
「もしかしたら攻撃的な文明でかも知れず、有事に真っ先に対応する立場としては複雑な心境です。接触を図るべきか否かは妖怪賢者も交えた協議が必要だと思います。ただ私個人としては、自分たちが一人ぼっちではないと判ったのは嬉しい事ですし、いつかあちらの達人と平和的に手合わせしてみたいですね」
もし、二つの幻想郷が交流する日が来るとしたら、私たちの生活は、価値観はどのように変化するだろうか、それを考えるとわくわくする反面、少し怖い気もするというのが正直な感想だが、読者諸兄はどう思われるだろうか。
サンアンドレアス州…GTA…。なんだかヤバそうな感じがします。幻想遍在、夢があって良いですねー。
あちらも楽しく読ませていただきました!
こんな現代にもまだまだ幻想が残ってると思うとワクワクしますね