幻想郷を含めた各地では、皆が笑顔で新しい年の始まりを祝っている。
だが神霊廟の一角。神子は一人、そんな浮かれた人々の表情とは裏腹に何やら難しい顔を浮かべ、縁側からぼうっとどこかへ視線を飛ばしていた。
そこにふらっと布都がやって来て、主の顔が優れないのを見て取ったのか、そうっと声をかけた。
「太子様、どうされたのですか」
しばらく神子は何の反応も見せなかったが、はあと深いため息を吐き、こう答える。
「屠自古といちゃつきたい」
布都はあからさまに「なんだ」という表情を浮かべた。
「またですか」
「またとは何だまたとは。今年に入ってからは初めてじゃないか。それに前回、屠自古といちゃつきたいと思って、彼女の肩をそっと抱き寄せたらどうなったと思う」
神子は苦虫を噛み潰したように眉をきゅっと寄せて、
「落ちたよ」
「何がですか」
「雷だ」
その時の様子を表すかのように、右手に持っていた笏が一振りされた。
「いや、しかしあの時の屠自古の顔といったら、ふふふ……。もしかしたら落ちたのは雷ではなく恋だったのかもしれないね」
先ほどの顔はどこへやら、恍惚とした表情を浮かべる神子。
「太子様は屠自古に随分とご執心ですな」
「そうだ。私はすっかり彼女に心奪われているのだ。千四百年が経とうがそんなもんは関係ない。私は屠自古といちゃつきたい!」
空へ向かって思いの丈を高々とぶちまけた神子は、マントをばさりと揺れ動かし、
「そんなわけで、だ。布都よ。物部に賢人ありと言われた君の知恵を貸しなさい」
「はっ! 太子様の為ならば我はどんなことでもお力添えいたしますぞ」
「うむ! して、どうすれば良いと思う? 屠自古の守りは非常に堅い。なにせちょっとでも身体に触れただけで顔を真っ赤に染めて『いけません』などと言うからな。それがまた可愛らしいんだが……。積極的に行きすぎると電撃が飛んでくる。手の出しにくさは天下一品だ」
布都は袖の中に腕を差し込んで、「ふうむ」と唸り、
「寝込みを襲うというのは? 相手が油断している隙を突くというのは常套手段です」
「それはならん! 私はあくまで彼女の嫌がることはしたくない。相手の了承も得ないで自分の欲望を満たすのは暴漢と何も変わらん」
神子の信念として、屠自古の心情を無視して己の欲望を突き通すことは絶対にしない。なにより避けたいのが、彼女に嫌われることなのだ。
布都はさらに「ふうむ」と唸り、
「酒で酔わすというのはいかがですか? 酔ってしまえばガードも低くなるでしょう」
「良い案であるが、彼女は酒の弱さを自覚しているからな……。なかなか飲んでくれないのだ」
屠自古の酔った姿など神子でさえほとんど見たことがない。酒を勧めても軽くあしらわれてしまう。酔わせてしまえば何とかなるかもしれないが、そもそも酒を口にしてくれないのだから、あまり現実的な方法とはいえないだろう。
そこで笏を口元に当ててしばらく思案をしていた神子は、唐突に、
「……いや、待てよ。ある! 手段があるぞ! でかしたぞ布都よ。君のおかげで名案が浮かんだ」
「おお、左様ですか。太子様のお力になれたのでしたら、我も嬉しいですぞ!」
「今日の夜にでもさっそく実行に移すとしよう」
二人の「はっはっはっは」という笑い声が、神霊廟の敷地に高らかに響いた。
◇
その日の夜。
神子は屠自古を自室に呼び出した。
「太子様、何のご用でしょう」
「やあ良く来てくれた。さあ、こっちへ。ここに座ってくれないか」
部屋にやって来た屠自古を二人がけのソファへと案内する。ソファの前にはテーブルがあり、上には酒の入った銚子と盃が置かれている。
それを見た屠自古はわずかに表情を曇らせ、
「お酒ですか? 太子様も知っていると思いますが、私はお酒に弱いのです。せっかくお誘い頂いて申し訳ないのですが、私はお酒を注ぐ役に徹しましょう」
そういう彼女に対して、神子は「まあまあ」と言う。
「早まるんじゃない。君と酒を酌み交わそうと思ったのは間違いではないが、これはただの酒ではない」
屠自古は首を傾げ、
「と申しますと?」
「屠自古は屠蘇というものを知ってるかな?」
「『とそ』ですか。いえ、知りませんが」
思った通りの返答が来て、「ではそこから説明しないといけませんね」と、神子はこほんと咳払いをひとつする。
「屠蘇、またはお屠蘇という。正月に行われる風習で、数種類の薬草を酒に漬け、これを飲むことで邪気を払い、長寿を願うといった意味を持つ。まあ、簡単に言えば縁起物だな」
屠自古は感心したように、
「そのような風習があったのですね」
「悪鬼を屠り、魂を蘇らせる。そんな意味もあるようだね。だから、『とそ』の字は『屠る』と『蘇る』という字を当てる。面白いことに、そのどちらも君の名に入っている」
神子はちらりと隣に座る屠自古へ視線を送ると、彼女はそっと微笑みを浮かべる。
「偶然ですね」
こほんともう一度咳払いをし、神子は言う。
「そんなわけだから、少し付き合ってくれるかな?」
「ええ、そうでしたら、断るわけにはいきません。ではお酒を注ぎましょう」
「おっと、待ちなさい」
酒器に向かって伸ばされた手を制する。
「年少者から飲むのが決まりだ。私がやろう」
神子はそう言って銚子の取っ手を掴むと、盃にそっと酒を注ぎ入れた。零れないように盃を屠自古へと渡す。
「さあ、飲みたまえ」
盃を受け取った屠自古は、いただきますと言ってゆっくりと口を付け、すぐに飲み干した。
「飲みやすい……」
「みりんを加えているからね。口当たりが優しくなる」
「そうでしたか。太子様もどうぞ」
神子も続いて屠蘇を口にする。さすがに良い酒を使っているだけあって味は満足のいくものだった。
「うむ。なかなかいけるな。屠蘇はまだまだ残っている。さあ、どんどん飲もうじゃないか」
「いえ、私は……。すぐに酔ってしまいますので」
「酔ってもいいじゃないか。なにより正月だ。めでたい時期に飲む酒はまたいいものだよ」
「お酒そのものは好きです。ただ、その……。あまり酔って乱れている姿を見られたくはないんです。恥ずかしいですから」
そんなことを言われては酔って乱れている姿を見たくなるというもの。そもそも今日、彼女をここへ誘ったのはいちゃつくためである。酔って乱れてくれるのなら万々歳である。
「大丈夫さ。みりんを加えていると言ったろう。その分、アルコール度数も低くなっているはずだよ。もう少しくらい飲んだって平気じゃないかな」
「そ、そうでしょうか。……では、もうちょっとだけ」
二杯目に口を付ける屠自古。その姿を、神子は不敵な笑みを浮かべて眺めている。
うまくいった。自分の思い通り計画が進み、思わず笑みを隠すことができなかった。
みりんを加えた分、度数も低くなっているなどと言ったがそれはほとんど嘘のようなものだ。なぜなら、今回使用した酒はあえてかなり強いやつを選んだからだ。みりんを加えたことで口当たりが良くなり、その強さが隠されてしまっていることに屠自古は気付いていない。
三杯目を口にした段階ですでに屠自古の頬はほんのりと桜色に染まっていた。雪のような白い肌と相まって、やたらと色っぽく見える。
彼女は上気した顔を少しでも冷まそうと、片手であおぐ。その仕草がまた神子にとってはたまらないほどぐっとくる。
「君は本当に美しいな……」
「まったく、太子様はその言葉をどれくらいの方に言われたのでしょうね」
「何を言う。私は君以外に軽々しくこんな言葉を吐いたりはしないよ」
屠自古は悪戯っぽい笑みを浮かべ、
「本当ですか?」
「本当だとも。見てご覧。この部屋にある数々の調度品を。どれも一級品だ。豪奢で煌びやかで、見た者をうっとりさせる。だがそんな中でも君の輝きが失せることはない。むしろその素朴で飾らない美しさは、この部屋にあるどの美しさとも違う。君だけが持つ美しさだ。私はそんな君に惹かれたのだよ」
「な、何を仰るんですか。本当に口がうまいんですから」
と言う屠自古はますます頬を赤くし、まるで恥ずかしさを誤魔化そうとするかのように、また酒を飲み下した。
いつもは頑なに飲もうとしない彼女が自分から酒を飲んでいる。一杯目さえ飲ませてしまえば何とかなるだろうと踏んでいたが、思った以上に事はうまく運んでいるようだった。
それから四半刻もしないうちに屠自古はすっかり出来上がってしまった。窓の外に浮かぶ月をぼうっとした顔で眺めている。
そろそろ頃合いだろう。神子は勝負に出る。
「屠自古、こっちを向いてくれないかな」
そう言うと、彼女はとろんとした目を神子へ向けた。
「伝えたいことがある。もう少し近くに来ておくれ」
すると屠自古は素直に言うことを聞き入れ、神子と体をくっつけ合わせるように座り直した。普段ならば考えられない。これはかなり酔っていると判断すべきだろう。
さらに予想外なことに、彼女は神子の太ももにそっと手を置いて、身体をぐいと乗り出し、お互いの息がかかるような距離まで顔を近づけると、
「伝えたいことですか?」
潤んだ瞳でじっと見つめてくる。
ああ、なんということだ。こんな間近に彼女の顔がある。睫毛の一本一本までもがはっきりと数えられる。新緑のように鮮やかな瞳に、自分の顔が映り込んでいるのが見て取れる。
ドクン、ドクン、と胸の鼓動が聞こえた。その音が自分から発せられたものであることに気付くまで時間はかからなかった。
神子は何も言葉を発せられず、ただその瞳を、まるでその奥に吸い込まれるような気持ちで眺めていた。
「太子様……?」
「ああいや、失礼。はは、私もどうやら酔っているようだ」
動揺している。馬鹿な、と神子は思う。聖徳王と言われた自分がまさか顔を近づけられただけで、心臓ばっくんばっくんで素直におしゃべりできないなんて、そんなことが――。
しかし、事実ここで彼女に向かって、「君といちゃつきたい。いちゃいちゃらぶらぶちゅっちゅちゅっちゅしたい」といつもなら簡単に言えるはずの言葉が、口から出てこない。
「大丈夫ですか? 気分が悪いのでしたら、すぐに水をお持ちしますが」
「いや、平気だ。むしろまだまだ飲み足りないくらいさ。うむ、そうだもっと飲もうかな」
ここは一度仕切り直そう。
屠自古の瞳から逃れるように、テーブルの上にあった盃へと手を伸ばした。が、ふと手が滑って、床へと落としてしまう。
「おっと」
それを拾おうとして前屈みになり、テーブルに右手をついた。と同時に、どうやら屠自古も盃を拾おうとしたらしく、同じように前屈みになって左手をついた。
お互いの小指が触れ合った。
「どうぞ、太子様」
「ああすまない。ありがとう」
そう言って盃を受け取ったが、気になるのは指先の感覚。屠自古の方も小指同士が触れ合っている事に気付いたらしく、あっという顔をし、それから気恥ずかしそうな表情を浮かべる。
手を引くのも何だかわざとらしく思えて、そのままにしておこうと決めた。が、やはりどうしても意識してしまう。
お互いまったく同じことを思っているのか、何ともいえない空気が二人の間に漂っている。
神子は気持ちを紛らわせるために、空っぽの盃を左手で遊んでいたが、ふとそこで、
まるで指切りでもするように、屠自古が、小指を絡めてきた。
あまりにも予想外の出来事だった。
もうそれだけで神子の思考はダメになってしまった。全身を電撃が駆けめぐるような衝撃があった。だって屠自古がこんなに自分から積極的になった事などまったくの初めてである。
きゅっとほんのわずかに力を込められた小指は、少し手を動かしてしまえば簡単にふりほどけそうではあったが、神子には南京錠よりも強いものに感じられた。
そして、もう一度いうが、神子の思考はダメになってしまったのである。
もう頭の中は『欲』という言葉で埋め尽くされ、理性なんてどこかへ吹っ飛んだ。
「屠自古……」
「は、はい……」
神子は小指を強く握り返し、そのまま手を引き寄せる。
「屠自古よ……」
「た、太子様……?」
そして、神子は覆い被さるように屠自古を押し倒すと、
「屠自古、屠自古、とじこぉぉおおおおおお!!!!! 好きだーーー!! うわあああ屠自古愛してる~~~!!」
「た、たた太子様ちょっと落ち着いて……!」
「可愛いぞ屠自古可愛い! 日出ずる処の天使か君は! この国の誰よりも君は可愛いいぞ屠自古ぉおおおおおお! 十七条憲法の内容すべてを君の名前で上書きしたい!」
「何をわけのわからないこと言ってるんですかあ!?」
「ああ、もう辛抱たまらん! このまま二人だけの豪族乱舞へと洒落込もうじゃないかーー!!」
「や、めてください……。落ち着いて……。お願いですから!」
神子はもうすでに己の欲望のままに動くだけの獣に成り果て、そんな神子の魔の手から逃れようと屠自古は四苦八苦する。
「ええい、詔を承けては必ず慎めえええええええ!!!」
「ちょ……、太子様、本当に落ち着いてくださ……。ひゃあどこ触って……! ちょっと! ああもう……!」
暴走する神子。
そして、「これはもう言葉ではどうにもならないな」と判断した屠自古はついに、
「この~~、エロ太子ーーー!!!」
神霊廟の一角に特大の雷が落ちた。
後日、神子は黒こげになった姿で布都に発見されることとなったが、その表情はなぜか満足げであったという。
完
だが神霊廟の一角。神子は一人、そんな浮かれた人々の表情とは裏腹に何やら難しい顔を浮かべ、縁側からぼうっとどこかへ視線を飛ばしていた。
そこにふらっと布都がやって来て、主の顔が優れないのを見て取ったのか、そうっと声をかけた。
「太子様、どうされたのですか」
しばらく神子は何の反応も見せなかったが、はあと深いため息を吐き、こう答える。
「屠自古といちゃつきたい」
布都はあからさまに「なんだ」という表情を浮かべた。
「またですか」
「またとは何だまたとは。今年に入ってからは初めてじゃないか。それに前回、屠自古といちゃつきたいと思って、彼女の肩をそっと抱き寄せたらどうなったと思う」
神子は苦虫を噛み潰したように眉をきゅっと寄せて、
「落ちたよ」
「何がですか」
「雷だ」
その時の様子を表すかのように、右手に持っていた笏が一振りされた。
「いや、しかしあの時の屠自古の顔といったら、ふふふ……。もしかしたら落ちたのは雷ではなく恋だったのかもしれないね」
先ほどの顔はどこへやら、恍惚とした表情を浮かべる神子。
「太子様は屠自古に随分とご執心ですな」
「そうだ。私はすっかり彼女に心奪われているのだ。千四百年が経とうがそんなもんは関係ない。私は屠自古といちゃつきたい!」
空へ向かって思いの丈を高々とぶちまけた神子は、マントをばさりと揺れ動かし、
「そんなわけで、だ。布都よ。物部に賢人ありと言われた君の知恵を貸しなさい」
「はっ! 太子様の為ならば我はどんなことでもお力添えいたしますぞ」
「うむ! して、どうすれば良いと思う? 屠自古の守りは非常に堅い。なにせちょっとでも身体に触れただけで顔を真っ赤に染めて『いけません』などと言うからな。それがまた可愛らしいんだが……。積極的に行きすぎると電撃が飛んでくる。手の出しにくさは天下一品だ」
布都は袖の中に腕を差し込んで、「ふうむ」と唸り、
「寝込みを襲うというのは? 相手が油断している隙を突くというのは常套手段です」
「それはならん! 私はあくまで彼女の嫌がることはしたくない。相手の了承も得ないで自分の欲望を満たすのは暴漢と何も変わらん」
神子の信念として、屠自古の心情を無視して己の欲望を突き通すことは絶対にしない。なにより避けたいのが、彼女に嫌われることなのだ。
布都はさらに「ふうむ」と唸り、
「酒で酔わすというのはいかがですか? 酔ってしまえばガードも低くなるでしょう」
「良い案であるが、彼女は酒の弱さを自覚しているからな……。なかなか飲んでくれないのだ」
屠自古の酔った姿など神子でさえほとんど見たことがない。酒を勧めても軽くあしらわれてしまう。酔わせてしまえば何とかなるかもしれないが、そもそも酒を口にしてくれないのだから、あまり現実的な方法とはいえないだろう。
そこで笏を口元に当ててしばらく思案をしていた神子は、唐突に、
「……いや、待てよ。ある! 手段があるぞ! でかしたぞ布都よ。君のおかげで名案が浮かんだ」
「おお、左様ですか。太子様のお力になれたのでしたら、我も嬉しいですぞ!」
「今日の夜にでもさっそく実行に移すとしよう」
二人の「はっはっはっは」という笑い声が、神霊廟の敷地に高らかに響いた。
◇
その日の夜。
神子は屠自古を自室に呼び出した。
「太子様、何のご用でしょう」
「やあ良く来てくれた。さあ、こっちへ。ここに座ってくれないか」
部屋にやって来た屠自古を二人がけのソファへと案内する。ソファの前にはテーブルがあり、上には酒の入った銚子と盃が置かれている。
それを見た屠自古はわずかに表情を曇らせ、
「お酒ですか? 太子様も知っていると思いますが、私はお酒に弱いのです。せっかくお誘い頂いて申し訳ないのですが、私はお酒を注ぐ役に徹しましょう」
そういう彼女に対して、神子は「まあまあ」と言う。
「早まるんじゃない。君と酒を酌み交わそうと思ったのは間違いではないが、これはただの酒ではない」
屠自古は首を傾げ、
「と申しますと?」
「屠自古は屠蘇というものを知ってるかな?」
「『とそ』ですか。いえ、知りませんが」
思った通りの返答が来て、「ではそこから説明しないといけませんね」と、神子はこほんと咳払いをひとつする。
「屠蘇、またはお屠蘇という。正月に行われる風習で、数種類の薬草を酒に漬け、これを飲むことで邪気を払い、長寿を願うといった意味を持つ。まあ、簡単に言えば縁起物だな」
屠自古は感心したように、
「そのような風習があったのですね」
「悪鬼を屠り、魂を蘇らせる。そんな意味もあるようだね。だから、『とそ』の字は『屠る』と『蘇る』という字を当てる。面白いことに、そのどちらも君の名に入っている」
神子はちらりと隣に座る屠自古へ視線を送ると、彼女はそっと微笑みを浮かべる。
「偶然ですね」
こほんともう一度咳払いをし、神子は言う。
「そんなわけだから、少し付き合ってくれるかな?」
「ええ、そうでしたら、断るわけにはいきません。ではお酒を注ぎましょう」
「おっと、待ちなさい」
酒器に向かって伸ばされた手を制する。
「年少者から飲むのが決まりだ。私がやろう」
神子はそう言って銚子の取っ手を掴むと、盃にそっと酒を注ぎ入れた。零れないように盃を屠自古へと渡す。
「さあ、飲みたまえ」
盃を受け取った屠自古は、いただきますと言ってゆっくりと口を付け、すぐに飲み干した。
「飲みやすい……」
「みりんを加えているからね。口当たりが優しくなる」
「そうでしたか。太子様もどうぞ」
神子も続いて屠蘇を口にする。さすがに良い酒を使っているだけあって味は満足のいくものだった。
「うむ。なかなかいけるな。屠蘇はまだまだ残っている。さあ、どんどん飲もうじゃないか」
「いえ、私は……。すぐに酔ってしまいますので」
「酔ってもいいじゃないか。なにより正月だ。めでたい時期に飲む酒はまたいいものだよ」
「お酒そのものは好きです。ただ、その……。あまり酔って乱れている姿を見られたくはないんです。恥ずかしいですから」
そんなことを言われては酔って乱れている姿を見たくなるというもの。そもそも今日、彼女をここへ誘ったのはいちゃつくためである。酔って乱れてくれるのなら万々歳である。
「大丈夫さ。みりんを加えていると言ったろう。その分、アルコール度数も低くなっているはずだよ。もう少しくらい飲んだって平気じゃないかな」
「そ、そうでしょうか。……では、もうちょっとだけ」
二杯目に口を付ける屠自古。その姿を、神子は不敵な笑みを浮かべて眺めている。
うまくいった。自分の思い通り計画が進み、思わず笑みを隠すことができなかった。
みりんを加えた分、度数も低くなっているなどと言ったがそれはほとんど嘘のようなものだ。なぜなら、今回使用した酒はあえてかなり強いやつを選んだからだ。みりんを加えたことで口当たりが良くなり、その強さが隠されてしまっていることに屠自古は気付いていない。
三杯目を口にした段階ですでに屠自古の頬はほんのりと桜色に染まっていた。雪のような白い肌と相まって、やたらと色っぽく見える。
彼女は上気した顔を少しでも冷まそうと、片手であおぐ。その仕草がまた神子にとってはたまらないほどぐっとくる。
「君は本当に美しいな……」
「まったく、太子様はその言葉をどれくらいの方に言われたのでしょうね」
「何を言う。私は君以外に軽々しくこんな言葉を吐いたりはしないよ」
屠自古は悪戯っぽい笑みを浮かべ、
「本当ですか?」
「本当だとも。見てご覧。この部屋にある数々の調度品を。どれも一級品だ。豪奢で煌びやかで、見た者をうっとりさせる。だがそんな中でも君の輝きが失せることはない。むしろその素朴で飾らない美しさは、この部屋にあるどの美しさとも違う。君だけが持つ美しさだ。私はそんな君に惹かれたのだよ」
「な、何を仰るんですか。本当に口がうまいんですから」
と言う屠自古はますます頬を赤くし、まるで恥ずかしさを誤魔化そうとするかのように、また酒を飲み下した。
いつもは頑なに飲もうとしない彼女が自分から酒を飲んでいる。一杯目さえ飲ませてしまえば何とかなるだろうと踏んでいたが、思った以上に事はうまく運んでいるようだった。
それから四半刻もしないうちに屠自古はすっかり出来上がってしまった。窓の外に浮かぶ月をぼうっとした顔で眺めている。
そろそろ頃合いだろう。神子は勝負に出る。
「屠自古、こっちを向いてくれないかな」
そう言うと、彼女はとろんとした目を神子へ向けた。
「伝えたいことがある。もう少し近くに来ておくれ」
すると屠自古は素直に言うことを聞き入れ、神子と体をくっつけ合わせるように座り直した。普段ならば考えられない。これはかなり酔っていると判断すべきだろう。
さらに予想外なことに、彼女は神子の太ももにそっと手を置いて、身体をぐいと乗り出し、お互いの息がかかるような距離まで顔を近づけると、
「伝えたいことですか?」
潤んだ瞳でじっと見つめてくる。
ああ、なんということだ。こんな間近に彼女の顔がある。睫毛の一本一本までもがはっきりと数えられる。新緑のように鮮やかな瞳に、自分の顔が映り込んでいるのが見て取れる。
ドクン、ドクン、と胸の鼓動が聞こえた。その音が自分から発せられたものであることに気付くまで時間はかからなかった。
神子は何も言葉を発せられず、ただその瞳を、まるでその奥に吸い込まれるような気持ちで眺めていた。
「太子様……?」
「ああいや、失礼。はは、私もどうやら酔っているようだ」
動揺している。馬鹿な、と神子は思う。聖徳王と言われた自分がまさか顔を近づけられただけで、心臓ばっくんばっくんで素直におしゃべりできないなんて、そんなことが――。
しかし、事実ここで彼女に向かって、「君といちゃつきたい。いちゃいちゃらぶらぶちゅっちゅちゅっちゅしたい」といつもなら簡単に言えるはずの言葉が、口から出てこない。
「大丈夫ですか? 気分が悪いのでしたら、すぐに水をお持ちしますが」
「いや、平気だ。むしろまだまだ飲み足りないくらいさ。うむ、そうだもっと飲もうかな」
ここは一度仕切り直そう。
屠自古の瞳から逃れるように、テーブルの上にあった盃へと手を伸ばした。が、ふと手が滑って、床へと落としてしまう。
「おっと」
それを拾おうとして前屈みになり、テーブルに右手をついた。と同時に、どうやら屠自古も盃を拾おうとしたらしく、同じように前屈みになって左手をついた。
お互いの小指が触れ合った。
「どうぞ、太子様」
「ああすまない。ありがとう」
そう言って盃を受け取ったが、気になるのは指先の感覚。屠自古の方も小指同士が触れ合っている事に気付いたらしく、あっという顔をし、それから気恥ずかしそうな表情を浮かべる。
手を引くのも何だかわざとらしく思えて、そのままにしておこうと決めた。が、やはりどうしても意識してしまう。
お互いまったく同じことを思っているのか、何ともいえない空気が二人の間に漂っている。
神子は気持ちを紛らわせるために、空っぽの盃を左手で遊んでいたが、ふとそこで、
まるで指切りでもするように、屠自古が、小指を絡めてきた。
あまりにも予想外の出来事だった。
もうそれだけで神子の思考はダメになってしまった。全身を電撃が駆けめぐるような衝撃があった。だって屠自古がこんなに自分から積極的になった事などまったくの初めてである。
きゅっとほんのわずかに力を込められた小指は、少し手を動かしてしまえば簡単にふりほどけそうではあったが、神子には南京錠よりも強いものに感じられた。
そして、もう一度いうが、神子の思考はダメになってしまったのである。
もう頭の中は『欲』という言葉で埋め尽くされ、理性なんてどこかへ吹っ飛んだ。
「屠自古……」
「は、はい……」
神子は小指を強く握り返し、そのまま手を引き寄せる。
「屠自古よ……」
「た、太子様……?」
そして、神子は覆い被さるように屠自古を押し倒すと、
「屠自古、屠自古、とじこぉぉおおおおおお!!!!! 好きだーーー!! うわあああ屠自古愛してる~~~!!」
「た、たた太子様ちょっと落ち着いて……!」
「可愛いぞ屠自古可愛い! 日出ずる処の天使か君は! この国の誰よりも君は可愛いいぞ屠自古ぉおおおおおお! 十七条憲法の内容すべてを君の名前で上書きしたい!」
「何をわけのわからないこと言ってるんですかあ!?」
「ああ、もう辛抱たまらん! このまま二人だけの豪族乱舞へと洒落込もうじゃないかーー!!」
「や、めてください……。落ち着いて……。お願いですから!」
神子はもうすでに己の欲望のままに動くだけの獣に成り果て、そんな神子の魔の手から逃れようと屠自古は四苦八苦する。
「ええい、詔を承けては必ず慎めえええええええ!!!」
「ちょ……、太子様、本当に落ち着いてくださ……。ひゃあどこ触って……! ちょっと! ああもう……!」
暴走する神子。
そして、「これはもう言葉ではどうにもならないな」と判断した屠自古はついに、
「この~~、エロ太子ーーー!!!」
神霊廟の一角に特大の雷が落ちた。
後日、神子は黒こげになった姿で布都に発見されることとなったが、その表情はなぜか満足げであったという。
完
…良い時代になったものですね!
人間の煩悩ってすごいよな、ってしみじみおもった今日この頃