Coolier - 新生・東方創想話

がんばれ秘封倶楽部 feat.そうなの怪

2016/01/11 21:00:48
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 今日も塾が長引いてこんな時間になってしまった。
 受験戦争は年々激化し、それに伴って子どもたちに求められる学力というものも増し増しされる一方である。
 現役中学生である私も例に漏れず、勉学に励み学問に勤しみ、偶のオシャレを生きがいとする毎日だ。
 月の無い深夜。すっかり人通りも無くなり、帰り道を急ぐ私の足音以外にはほとんど何も聞こえない。
 あと10分もすれば、大好きな俳優が出演するテレビ番組が始まってしまう。アレを見なければ私の英気をいったい誰が養ってくれるのか!
 家までは普通に向かって20数分。このままでは間に合わない!
 だがしかし、私には秘策があったのである。
 ある地点で私は足を止めた。左手には赤茶色に錆びついた鉄柵。
 この柵の向こうには、かつて小学校だった3階建ての校舎がそっと佇んでいる。私が小さな頃に廃校となってしまったこの校舎は、取り壊されることもなくそのままの状態で残されていた。
 どうして取り壊されなかったんだっけ……管理者がどうとか、市の体制がどうとか……私にはよくわからないが、ともかく壊されないままなのだ。
 私は鞄を柵の向こうへ放り投げ、手を掛け足を掛け柵を乗り越えた。当然ながら人の気配は無い。
 警備会社も手を引き、今や誰が侵入しようとおかまいなしの現状だ。いや、おかまいあるのかもしれないが、校舎にはそれを知る術は無いのであった。
 このまま校庭を突っ切り、裏の林を抜ければ家までは真っ直ぐ直線ルート。ノリマチくんの番組には十分間に合うって寸法さ。
 かつてここを駆けまわっていた小学生のように、全力で校庭を駆け抜ける。若干悪いことをしてるなあという罪悪感も背中を押し、素早く素早く駆け抜ける。
 が、校庭を抜け、林に差し掛かったところで私の足がはたと止まった。
 女の子だ。
 月明かりのない闇夜だったが、その子の輝く金の髪と真っ赤なリボンがよく目立って見えた。
 小学校低学年くらいだろうか、少なくとも私より年下であるのは間違いないだろう。そんな女の子が、力も無さげにうずくまって座っている。
 やめておけばいいのに、私は声をかけた。

「ねえ、そんなところでどうしたの?」

 返事は無い。仕方なしに、目の前まで近づいてみる。

「あなた一人?お母さんは?」
「……いない」
「いないってことはないでしょうに」

 迷子か、家出か。どちらにせよ面倒を抱えてしまいそうだ。ノリマチくんの番組には間に合わないだろう。

「だったら、とりあえず交番でも行こうか?こんなところにいつまでも居たら、変な人に襲われちゃうかもだし」

 少女の手を引いて立たせてみる。身長は120やそこらか。そういえばこのくらいの妹が欲しかった。

「おねえちゃんは……」
「ん?」

 俯いたまま少女が問う。

「おねえちゃんは、こんなところで何をしてるの?」
「何してるのって……今から帰るところだよ。ここはいつも通る道だし」

 さも当然のように答えてしまったが、うん。いつも通ってるんです。ミンナニハナイショダヨ……。
 なんて冗談を巡らせていると、少女がゆっくりと顔を上げ、私の脳は最大音量で警鐘を打ち鳴らした。

「そうなのかい?」

 真紅の瞳。わずかに覗く鋭い牙。違う。この子は普通じゃない。
 とっさに手を引こうとするものの、万力のような手が私を掴んで放さない。痛みのあまり、喉から絞り出された息が歯の隙間からぐうう、と漏れ出でる。
 万事休すかと思われたが、がむしゃらに振り回した私の鞄が少女の横っ面を叩くと、かすかに体制を崩したようだった。そのまま足を踏みつけてやると、少女はうぎゅっと怯み、手を放す。
 そうして私は体を翻し、とにかく走った。少女が追ってきていたのかどうか、私がどうやって柵を越えたのか、鞄はどうやって持っていたのか信号は何色だったのか、全く思い出せない。
 確実に言えるのは、無事にノリマチくんの番組には間に合ったことと、私が二度とあの廃校舎には近づかなくなったということである。


 ○ ○ ○ ○ ○


「と、いうお話なのよ」
「……うん」

 大学食堂に隣接して設置されたテラス。講義を終えた宇佐見蓮子、マエリベリー・ハーン(通称メリー)の両名はケーキセットと共に穏やかな午後を過ごしていた。
 なんの前口上も無しに始まったメリーの語りに対し、蓮子は特に口を挟むでもなくぼうっと聞いていた。途中、ケーキを頬張るのは発したい突っ込みを一緒に飲み込むためである。

「うん、じゃなくて。せっかく話したのだから何か感想が欲しいわ」
「ノリマチくんってのは趣味が悪いわね。私はベーカンのほうがかっこいいと思うなあ」
「へえ、蓮子ってばそういう方がいいの?」
「軽そうな人は無理だわー。どっしりがっしりしてくれてたほうが私も楽だし」
「善処します」
「ん?」

 蓮子は何か引っ掛かりを感じたが、暖かな午後の日差しがしっとりと体を包み、思考の邪魔をする。開いたまま行き場を失った口には、とりあえずミルクティーを流し込んでおいた。

「蓮子はどうせ信じてないし、もしかしたら私の作り話だなんて思ってるかもしれないけど」
「え?」
「これは疑いの無い怪事件であるし、事実、何人かが廃校舎周辺で行方不明になっているわ。たしか丁度一ヶ月前に一人目が消えて……四人、だったかしら。現時点で」
「んん?」

 だんだんとおかしくなっていく雲行きに、たまらず蓮子はうつら眼をしゃっきり開いた。疑いの無い怪事件ってなんなの。もうあやふやじゃないの。

「待ってメリー。今の話って事実、というか元があるの?」
「やっぱり期待を裏切ってくれないのね蓮子。最近この辺りで行方不明者が出ているのは知っているでしょう?それよ」

 行方不明者の話は知っている。友達と交わした「ツイーター」でのメッセージを最後に姿を消したとか、真面目なサラリーマンがある日突然蒸発したとか……。
 一時はお茶の間を騒がせたが、被害者の共通点が同じ市に住んでいることくらいしか無い上に、足取りを追える証拠が一切見つからないために事態は進展せず、他の芸能人のスキャンダルに埋もれ始めてきている事件だ。

「いつのまにか都市伝説になっちゃってるの?」
「半・都市伝説、ってところね。今ならまだ、しっぽを掴める」

 ケーキに乗っていた小さな板チョコを、ぱきりと音を立てながら口に入れるメリー。その不敵な笑みの真意を蓮子は段々と察していった。

「メリー……確かに秘封倶楽部はオカルトサークルという看板を下げているけれどね……そういうのはちょっと違うんじゃないかと」
「違くない。なんかこう……感じるのよ。ぴりぴりと」
「最近乾燥してきてるからね。私も上着を脱ぐときに感じるわ」
「いや、静電気とは違くて」

 メリーは髪も長いし大変だろうなあ。ただでさえ、ちょっともこもこした服が好きなんだから。
 と、余計な方向へ無理に思考をシフトしようとしても、蓮子にはメリーがつまり何を言いたいのかは分かってしまっていた。
 しかし、どうしてまた急にこんなことを言い出したのだろう。秘封倶楽部は元々活動をしてるのかしてないのか、というほどの不良サークルであるし、偶に行われる活動に関しても誘うのは大概蓮子の方からだ。メリーが進んで問題事、もといサークル活動に誘ってくるなんて、これはもう何かあるな。いや、月旅行のときはメリーも乗り気だったか。

「……なんでまた、急にそんな?」
「前々からあの廃校舎は臭いと思ってたのよ。きっと結界の境目が現れてるに違いないわ」
「根拠が有れば、一応聞いておくけど」
「がらんどうの建物っていうのは色んな物を呼び寄せちゃうのよ。まだ小学校として機能していて、人がたくさん出入りしていたのなら問題ないけれど、それが廃校になって、壊されもせず、かと言って人の出入りもほとんどなければ別のナニかが入り込むに決まってるじゃない。きっとその際に結界の裂け目みたいなのができちゃってるんだと思う」

 筋が通っているんだかいないんだか。少なくともメリーは確信しているようだった。
 メリーがそうだと言っているのなら、蓮子には疑う理由も無いし、断る理由も無い。お互いの能力を気味悪がりながらも、それが確かなものであると分かっているからだ。
 だが、今回蓮子がそれほど乗り気でないのはどうしてだろうか。

「それで、メリーはその結界の境目を見に行きたいのね?」
「ええ。手の届くところにあれば触ってみるつもりでもあるけど」
「きっと、決行は夜になるわよね?」
「そうね。いくら廃校と言っても白昼堂々はさすがにね」
「…………」

 夜の廃校。それだけでもちょっと勘弁したい要素は十分揃っているのだが……メリーは自分で話しておいて気付いていないのだろうか。

「その……じゃあ、出るんじゃないの?ほら、都市伝説の。いま話した」
「…………」

 蓮子の問いに、メリーは一瞬きょとんとした表情を見せた後に考える仕草を見せた。フォークをくるくると回しながら、んんむと唸っている。

「そのときはほら。逃げる?」
「そりゃ逃げるけどさあ!」
「へーきよ、へーき。私だって“向こう”で色んなのに追い掛け回されたのよ?蓮子は運動神経も良いし大丈夫だいじょうぶ」
「あ、7時からベーカンのドラマがあるからパスで」
「録画しておけばいいでしょ?」
「しまったー、今日はコンパの予定が入って」
「行ったことも誘われたことも無いでしょ?」

 蓮子は下唇をきゅっと噛むことで、渦巻くぷるぷるした感情を表してみせた。
 仕方ない、とにかく無事で済むように祈りながらいこう。だが何に祈ればいいのだろう。神も仏も向こう側だというのに。

「頼れるものは己と蓮子のみよ!」

 その場合、私は頼れるものがメリーより少なくなってしまうのだけれど。
 喉まで出かかった蓮子の言葉は、残りのケーキとミルクティーによって押し戻されていった。


 ○ ○ ○ ○ ○


「蓮子、今何時?」
「午前2時。場所はキャンパスからひと駅離れた廃校舎」
「お弁当と水筒を担いできました」

 いつもはありがたいメリーの気遣いも、今日に限っては異を唱えたい気分だった。ピクニック気分ですか。

「やっぱり調査は丑三つ時に限るわね。月も妙に明るいし、何かが起こりそう」
「あー……そう、ね。満月だものね」
「どうしたの蓮子。いつも眠そうにしているのに、今日は一段と眠そうじゃないの」
「私は良い子だからいつも11時には寝ることにしている」
「だからレポート提出が毎回ギリギリなのね」
「徹夜しなければ終わらない前提で課してくる教授が悪いのよ」

 いや、眠くないわけではないが、今日の蓮子の眼光が数ミリほど狭いのは別の方向からの負荷によるものである。
 サークル活動として怪奇漁りをする時は徹夜が常であるし、砂上の胡麻を探すがごとく体当たりで調査を行なうことも珍しくない。今回のように調査すべき対象がはっきりしているのは労力の観点から非常に有り難い。
 だけどなあ。なんでかなあ。今回は特に腰が重たいんだよなあ。
 それは学校に忍び込むという背徳感からか、家の録画機が壊れていたショックからか。
 いいえ、ここは飛んで火に入る夏の虫感、と言わせていただきましょう。

「蓮子?」
「んぁ、な、なに?」
「なにぼうっとしてるの。柵を乗り越えるから……その、おしりを押し上げてくれる?」

 以前に衛星を探検したときも危険な目に遭いはしたものの、あの時は夢の中だったし。
 人が何人か姿をくらます程度には危険な空間に、この身一つで乗り込むなんてナンセンスだわ。
 一応動きやすい格好はしてきたものの(メリーには「可愛くない」と言われた)、理系100%のこの体はいざという時にどれほどのパフォーマンスを発揮してくれるものか……。

「あいたぁー!!」
「ふえっ?どうしたのメリー。どうして寝技の体勢なの」
「蓮子がいつまでも押すから落っこちちゃったんでしょ!もういいって言ったのにい!」

 うーん、わかってはいたものの、メリーって運動神経はペケペケなのよね。
 不安に不安は重なり、もはやこれ以上は考えるだけ無駄だろう。半ば無理やり意識をシャットし、蓮子は校門の柵をひらりと乗り越えた。


 ○ ○ ○ ○ ○


 「それで?まずはどのあたりを調査するの?」

 無事に侵入を果たした二人は、駐車場を抜けて校庭を真っ直ぐ横断するように歩いていた。
 近頃の学校は校庭が芝生であったり、ゴム質の樹脂で覆われていたりするが、ここはどうやらそういった類が流行る前に廃校になっていたようだ。砂を蹴るたびに鳴るザッザッという音がなんだか懐かしい。

「ひとまず向こうに見える林を見てみるわ。目撃証言があったのはあそこだし」
「そういえば。メリーはどこでその話を聞いたの?やけに詳しかったじゃない」
「私が家庭教師で受け持っている子から聞いたの。蓮子に話す時はちょっと脚色を加えたけども」
「それって少女の」
「ノリマチくんの辺りね。たまたま昨日見たものだから」

 ふっと湧いた希望がいともたやすく打ち砕かれてしまった。
 それもそうか。核心部分が創作だったらそもそも何の話だったかわからないわ。

「ここね。確かに、何かが潜んでいてもおかしくない雰囲気だわ」

 メリーの言うとおり、立ち並ぶ木々のおかげで月明かりが届かず、この一帯だけが薄暗い。
 誰も手を入れないおかげで我が物顔でのさぼる雑草たちも、鬱蒼とした空気を助長していた。時期が時期なら、虫がすごいだろうなあ。

「メリー、ここを手当たり次第探すの?」
「ええ。金髪の少女の話が、目撃者の勉強ノイローゼが産んだ幻覚妄想でなければ、結界の境目、あるいは類似した何かがあるのは確かだからね」
「何もありませんように」
「オカルトサークルらしからぬ発言ね、蓮子」

 ぶつくさ言いながらも、蓮子は草むらをかき分けながら林を進んだ。
 とりあえず木の裏や草の中を覗いてはみるものの、それらしきものは見つからない。メリーはメリーで、持参した懐中電灯をあちらそちらへ振り回していた。

「メリー、どのへんが怪しいかな」
「色々見てみましょう。文字通り、草の根かき分けるのよ」
「境目、境目よーい」

 草の根かき分けてみた結果、もともとは花壇であっただろう空間が目に入った。
 平たい石がいびつなサークルを形成し、背の高い雑草を大切に守っていた。

「メリー、花壇があったよ」
「まだまだ音を上げてはダメよ。根を掘り葉を掘り探しましょう」
「うい」

 平たい石たちの目を覚まさせてやるため、丁重に守られている雑草を根っこから思い切り引き抜いてやった。
 どうだ、あなた達のお姫様は実は下賤の生まれなのよ。すました顔でも、土の下ではこんなにヒゲぼーぼーなのだよ。これに懲りたら次は双子葉植物を愛でることね。
 調子に乗っていくつか引っこ抜いてやると、土の下から泥まみれの軍手が片方顔を出した。おそらく花壇を作るときに落としてしまっていたのだろう。

「メリー、こんどは軍手があったよ」
「そうなのか?」

 聞きなれない少女の声。軍手を投げ捨て、林の外へ全速力で駆け出す。雑草遊びの際にしゃがんでいたため、意図せずして綺麗なクラウチングスタートを見せてしまった。

「メリー!メリー、どこ!?」

 走りながら肩越しに後ろを覗くと、蓮子の後ろを5mほど離れて少女が追ってきている。金の髪、赤いリボン。ドンピシャだ。そし浮いている。メリーの姿は無い。
 メリーを探さなくては。どこにいる。どこを探せばいい。私はどこへ向かって走っているのだろう。
 校門が見えてきたあたりで、突如目の前に少女が降り立った。慌てて蓮子もブレーキをかける。

「待ってよ。そんなに急いでどこに行くっていうの?」
「……友達を探しに行くの。あなた、知らない?」
「ううん、知らない。ご飯食べて戻ってきたらあなたがいたから」

 心臓がフル回転なのは全力疾走のみが原因ではないだろう。でも頑張れ心臓。今は少しでも脳に血を回しておくれ。会話が通じる相手なら、人外だろうとなんとかなるかもしれない。

「ご飯って、何を食べてきたの?」
「虫とか鳥とか。今夜は月が明るいからよく見えるんだ」

 ひとまず安堵だ。ここで「女の人」とか「変な帽子の人」とか言われていたら、もう私は動けなかっただろう。

「だけど本当に好きなのはお肉なの。あなたは、食べてもいい人間?」

 ターン&ラン。メリーが無事であるならば、いま最優先すべきは自身の安全だ。
 ここは現実だし、相手は食人生物。会話が通じる相手ではなかった。酷使してごめんね心臓。今度は足に血を回してください。
 入ってきた校門とは反対側、林を抜けた先の裏口を目指して走る。しかし、またもや目前に降り立つ影。

「お姉さん、かけっこ早いね。飛んだらどのくらい速いの?」
「私は飛べない!」

 蓮子は咄嗟に地を蹴り、砂ぼこりを少女の目に浴びせかけた。不意を突かれた少女は砂を直接被り、ぎゃっ、と悲鳴をあげて手で目を覆う。
 ノーモーションからの目潰し。幼少期、蓮子はこの技で何人もの男子を泣かせてきたのだが、それはまた別の話である。
 蓮子は目を擦る少女の脇を駆け抜け、再び林の中へ入っていった。
 しかし、林の中は視界が悪い上に雑草が多く、走りづらい。少女のスピードを考えると、裏門に着くまでに追いつかれてしまうだろう。と、なると。
 蓮子はさきほどの花壇の一部を形成していた石を取り上げると、校舎の一番近い窓ガラスまで駆け寄り、それを叩きつけた。
 割れたガラスで腕を切ってしまったが、気にする時間は無い。外から窓の鍵を開け、一気に飛び込んだ。
 遮蔽物の無い校庭に居ては、いつまでたっても逃げられない。この校舎内で少女を撒き、その間に逃げるしか道は残されていないだろう。
 メリーの所在も気になるが、少なくとも蓮子が化け物の相手をしている間は安全であるはずだ。メリーの安全が確認できるまでは、この化け物を引き受ける。
 廊下の角に身を隠しながら割れた窓の様子を窺うと、後を追って少女が侵入してくる様子が見えた。
 ここからはかくれんぼだ。蓮子は足音が立たないように、履いていた靴を脱いで小脇に抱えた。
 あまりに見つからないが故に何人もの女子を泣かせてきた、かくれんぼ蓮ちゃんの恐ろしさをあの化け物に教えてやろうではないか。

 
 ○ ○ ○ ○ ○


 そもそも結界の境目とはどういった場所に現れるのだろうか。
 まず前提として、結界の境目というものはそこかしこと何処にでも現れるようなものではないことが言える。
 おおよそのケースにおいて、そのような境目は何らかの干渉によって生じた世界のズレとして姿を見せたり、他の空間とは隔絶されたエリアが変則的に異世界と接続されてしまった際の玄関口として生じたりすることが多い。メリーの見解では、今回生じたと思われる境目は後者のケースであると見ている。
 つまり、もしも結界の境目が生じているのならば、それを見つけるためにこの廃校の敷地内で“異界”的な性質をもつエリア、隔絶された空間を探す必要があるということだ。
 メリーがはじめに林の中を捜索しようと提案したのも、学校の敷地内であって学校の属性にそぐわないこの場所が異界的であると考えたためである。
 だが、その結果は思わしくない。

「うーん、ダメね。ちっとも見えやしないわ」

 メリーが懐中電灯を振り回すこと数分。とりあえず林の端から端まで見回してみたものの、結界の境目はもとより、例の少女すら見つからない。それどころか、人工の光に誘われて勘違いした羽虫が集まってくる始末だった。

「目撃証言があったのもここだし、明らかに怪しいと思ったのだけど……」

 メリーが林を抜け、小休止でもしようかと裏門の柵に寄りかかろうとしたそんな時。
 
「メリー!メリー、どこ!?」
「蓮子?」

 声はすれども姿は見えない。咄嗟に暗闇に電灯を向けるものの、裏門から見える範囲には蓮子を確認できなかった。
 急を要する声の様子から、恐らく蓮子は例の少女と接触してしまったに違いない。ならばすぐに駆けつけなければ、と勇むメリーの足が、ふいに止まった。
 逡巡。ここで私が駆けつけたところで、いったい何ができるのだろう。自他共に認めるどんくさガールの私が出て行ったとしても、それはもう、単なる足手まとい以外の何物でもないのでは。それならばむしろ結界の境目を探すことに尽力し、例の少女を押し込める算段でも立てていた方が良いのではないか。いやしかし……。
 思考の海に沈みかけていたメリーの意識は、突如耳を貫いたガラスの割れる音によって現実へ引き戻された。
 そうだ、今は悠長に考えている時間など無い。
 下げていた小さなショルダーバッグをしっかり抱え、メリーは音のした方向へ駆け寄っていった。
 境目を見つけるにしても、少女に抵抗するにしても、一人より二人のほうが良いに決まっている。何より、自分が目を離している間に蓮子が危険な目に遭ってしまっているという状況がメリーには許せなかった。蓮子の危機は私の危機である!
 メリーが校舎の割れた窓を見つけた時には、既に誰の姿も無かった。割れただけでなく鍵が開けられているところを見るに、蓮子と少女は校舎内へ入っていったのだろう。慌ててメリーも後を追って入っていく。
 校舎の中は、窓から入る月明かりのおかげで幾分か明るい。手にしていた懐中電灯をバッグにしまい、廊下の奥へ目を凝らしてみる。姿は無い。音も、目立つものは聞こえない。
 どうやら駆けまわって逃げているのではなく、静かに隠れながら動いているらしい。

「……どこに行ったのかしら」

 姿を隠さざるをえない明確な相手がいる以上、まさか声をあげて蓮子を探すわけにもいかない。果たして蓮子は2階へ上がっていったのか廊下を曲がっていったのか、はたまたどこかの教室に隠れてしまっているのか。

「かくれんぼって苦手なのよねえ。探すのも逃げるのも」

 だが、ただ立ち尽くすというのが最も悪い選択肢であろう。ひとまずメリーは、どこかで聞きかじった「左手の法則」に従って階段を上がって進むことにしたのだった。


 ○ ○ ○ ○ ○


 諸君、かくれんぼで鬼に見つからないための鉄則を知っているかい。
 それは単純明快。鬼から目を離さないこと、これだけ。
 素人がやりがちなのは、ここ!と決めた自分のベストプレイスに座り込んで石のように固まっちゃうことだ。それでは鬼の接近に気付けない。気付いた時には、もう逃げられない。
 蓮子に言わせてみれば、鬼がどこにいるのか、ということを常に把握していなければ逃げ続けることなんて不可能である。
 この廃校を舞台にした、命を賭けたかくれんぼにおいてもその鉄則は変わらない。
 蓮子は今、少女に追われるのではなく、少女の背後からその動向を監視する立場に居た。
 逃げる途中で適当な教室に入り、掃除用具ロッカーを軽く開けてから机の後ろに隠れると、案の定追ってきた少女は開いているロッカーへ向かっていった。その隙に教室を出ることで簡単に背後を取ることができた。
 どうやら少女は、かくれんぼというこの状況を楽しんでいるように見えた。かくれんぼに持ち込んだ段階で癇癪を起こして暴れられてはたまったものではなかったが、ゲームが成立している今、蓮子は少女に見つかる可能性は限りなくゼロに近いと考えていた。何しろ年季が違うのだ。
 あとはこの状態を維持しながらメリーと合流して逃げられれば……。
 そんな折、ほとんど不意打ちにも近い形で少女が振り向いた。

「もう一人、来たのかな」

 少女が呟く。

「黒いお姉さんは見つからないし……そっちの方がすぐ捕まえられるかも」

 月明かりが青白く染める廊下を、少女はわき目もふらず真っ直ぐ進む。息を殺してその様子を見ていた蓮子の額には、じんわりと冷や汗が滲んでいた。
 ――危なかった。コンマの世界で頭を引っ込めた蓮子は、少女の姿が見えなくなってから安堵の息を漏らした。

「メリーが危ない……」

 もう一人、とは十中八九メリーのことだろう。少女の姿を見失わないように後を追うと、上階へ向かう階段を上がって行くのが見えた。
 万が一あの少女とメリーが鉢合わせてしまったら、メリーが難を逃れる可能性は限りなく低い。なんとしてでも少女よりも先にメリーと合流しなければ。
 少女が登っていったのとは別の階段まで急ぎ足で向かい、蓮子も二階へと上がった。
 三階建ての校舎であるため、メリーと少女が二階ではなく三階に居る可能性もある。しかしまずは二階だ。どこに居るかわからない以上、虱潰し以外に選択肢は無い。
 少女と鉢合わせする事態にだけは注意を払い、目の前の教室から順に洗っていく。

「メリー、居る?」

 この状況で声を出すのはあまりにも危険であるように思われたが、メリーが隠れてしまっている場合のことを考えれば仕方のないことだった。むしろロッカーなどを開ける際の金属音のほうがよく響く。一つ一つの教室にあまり時間を掛けられないこともあって、蓮子はこの手段を取らざるを得なかった。
 二つ、三つと教室を進んでいくにつれて、次第に蓮子の緊張の糸は張り詰められていく。
 ただでさえ命がかかっているのに加えて、さらに蓮子の場合は鬼から目を離してしまっているという状況がそれに拍車をかけた。
 かくれんぼの際に鬼から目を離さない、というのは蓮子の中で定められている絶対的なルールであり、一種の行動論理のようなものでもあった。
 蓮子はよく友人に「堂々としている」や「頼りになる」といった評価を下されることがある。
 それは教授に対しても物怖じしない態度や、臆せずに間違いを正すことのできる性格などを受けての言葉であるのだが、蓮子のそのような振る舞いを根底で支えているのは「自分は間違っていない」という自信によるものが大きい。
 自分が納得しているのだからその行為に後悔は無い。自分がそうしたいのだから墓荒らしのまね事だってなんてことはない。
 だがしかし、いや、だからこそ。自分の行動論理にそぐわないと自分で気が付いてしまった時の蓮子は、あまりにも脆い。
 だからだろうか。

「あっ……」

 自分が入った教室に、先客が居たということに気が付かなかったのは。
 
「あれ。自分から出てきちゃったの?せっかく頑張って探してたのに」

 金髪の少女が残念そうな微笑を浮かべながらささやいた。窓からの月明かりを逆光で浴びながらも、リボンと瞳の赤色が鮮やかに映えている。
 これまでの邂逅からも少女の人間らしからぬ気配は察していたものの、この瞬間、蓮子は少女が人間ではないことをはっきりと理解した。
 この少女は、私を見ていない。私という一個人ではなく、人間というモノを見ている。少女にとっては私など、玩具、あるいは食べ物にカテゴライズされている何かでしかないのだ。
 逃げなければ、ここで死ぬしかない。
 
「来るなあ!」

 少女が飛びかかってくるよりも早く、蓮子は目の前の机を思い切り蹴飛ばして少女の足止めをしようと試みた。
 少女は余裕の表情で身を翻すと、頭の高さまで飛び上がって蓮子に襲いかかる。伸ばされた両手には、決して人間のものではない、肉食獣を思わせる爪が怪しい光を放っていた。
 殆ど本能的に身をかがめた蓮子の頭上で、鋭い爪がお気に入りの中折れ帽子を掠めていった。蓮子が飛び退いてから体勢を整えると、少女は蓮子の帽子をくるくると手で弄んでいる。
 今の一撃を避けられたのは運が良かった。だが、この攻防で互いの立ち位置が入れ替わってしまったおかげで出口を塞がれた。教室のもう一方の出口までは少し距離がある。
 帽子が引きちぎられるのと同時に、再び飛びかかってくる少女。蓮子ががむしゃらに放り投げた椅子も意に介せずといった様子で軽々弾き飛ばす。勢いの衰えぬまま真っ直ぐ向かってくる少女を相手に、続いて蓮子は天板を盾にするように学習机の下へ身を隠した。振り下ろされた少女の右腕は木製の天板を容易く引き裂き、スチールの底板に突き刺さる。目の前で歪に変形する机に怯みはしたものの、蓮子は全身のバネを思い切り稼働させ、突き刺さった爪が引き抜かれる前に少女ごと机を投げ飛ばした。
 人間離れした力の持ち主であっても、体重自体は少女のそれである。窓からたたき出す、とまではできなくとも、他の机に巻き込んで体勢を崩す程度ならば蓮子の力でも可能だ。
 横倒しに崩れた少女は自身の爪が刺さったままの机に下敷きにされ、むぎゅう、と声を漏らした。追い打ちを浴びせても良かったが、恐らく効果は微々たるものだろう。帽子に若干の未練は残るものの、そのまま蓮子は教室を飛び出した。
 とにかくどこかに身を隠さなければ。
 大股で走る、一歩、二歩。一瞬、紫色の閃光が廊下を染めたかと思うと、背後から空気が破裂する音と共に埃や木っ端が入り混じったグレーの風が押し寄せた。
 いまさら怪異の一つや二つには驚かないが、これは向こうも少々トサカに来ているということだろう。
 このまま真っ直ぐ視線が通る廊下に居ては直ぐに捕まってしまう。蓮子は一番近い扉に手を掛け、飛び込んだ。

「しまったぁ……」

 咄嗟に飛び込んだものだから、何の部屋であるかを確認する余裕は無かった。壁を覆うようにずらりと並べられたロッカー。職員用の更衣室だろうか、余計な物は何も置かれておらず窓の一つすら無い。逃げ場が無い。

「こういう場合、ロッカーに隠れるのってあまり良くないんだけど」

 入る部屋を間違えたとひしひし感じる蓮子だったが、入ってしまった以上はのこのこと出て行くわけにもいかない。悩むほどの猶予も無く、蓮子は「北島」と書かれたロッカーに己の命運を託すことにした。
 ロッカーにすっぽりと収まってしまうと、ひと時の静寂と暗闇が蓮子を包み込んだ。
 先ほどまでの自分はあまりにも冷静さを欠いていた。ここは一旦、頭を落ち着ける時間が必要だ。今一度、クレバーな蓮子を取り戻さなければ。
 だが、気分を落ち着けたことで、現在置かれている自分の状況が芳しくないということに否が応でも気付かされてしまう。
 袋小路に飛び込み、とりあえず目の前にあったロッカーに収まって震えている自分は、正にかくれんぼ素人さんそのものではないか。
 やはり出ようか、とロッカーの扉に手を掛けた瞬間、蓮子は背筋に凍えた電光が走るのを感じた。
 いる。
 あの少女は今、この更衣室の入口に立っている。狩りをする猛獣のように、舐めずる視線を部屋中に向けている。
 蓮子は口を塞ぎ、身を縮めて自身の気配を少しでも殺せるように構えた。呼吸もできるだけ静かに。髪の毛一本たりとも動かすな。
 きしっ、と入り口の敷居が踏まれ、静かな足音が空間を走る。
 入ってきた。
 いよいよ絶体絶命の状況が蓮子の心拍数を最大まで引き上げる。心臓の音すらも止めたいほどであったが、まさか直接掴んで止めるわけにもいかない。
 すんすんという鼻を鳴らす音が聞こえる。

(そうか……においで追ってきていたんだ)

 そういえばあの少女はメリーの存在に気が付いた時も鼻を鳴らしていた。
 しかし、少女がにおいで把握できるのは対象のおおまかな位置までであって、細かな場所を特定できるまでには至らないのだろう。もしもそれが可能ならば、とうの昔に蓮子は捕まっている。
 だからと言って、蓮子が絶対的危機に置かれているという現状はなんら変わりない。部屋が特定されてしまった以上、少女は順番にロッカーを開いていくだけで蓮子までたどり着けるのだ。
 この暗闇が暴かれるまで、あとどのくらいの猶予があるだろう。こんなことなら夕食はもっと匂いのしないものを食べておけば良かった。ギョーザライス380円(サラダ付き)が憎い。
 一番入り口に近いロッカーが開かれた。
 そもそもあのギョーザライスは小狡い。中身が野菜メインでシャキシャキ歯ごたえがたまらないし、ニンニクもたっぷりだからこれまたお箸が進む進む。
 二番目のロッカーが開かれた。三番目も開かれた。
 キャンパスから駅までの途中にお店があるというのもポイントが高い。講義を終えてへろへろな脳みそと胃袋ではあの香りは耐え難い。あまりにも学生を吸い込む気まんまんではないか。
 隣のロッカーが開かれた。
 あの匂いには私もメリーも勝てたためしが無いんだよなあ。メリーったらいつももつ煮込み定食ばっかり食べるんだから。そのくせ決まって人のギョーザを一個頂戴とか言い出すし。もつ一枚とギョーザ一個じゃ吊り合わないっていつも言ってるじゃない。ああ、またメリーと一緒にあのお店に行きたいなあ。メリー。そうだ、メリー。
 蓮子のロッカーに手が掛けられた。

「メリイイイイイイイイィィィィィ!!!」

 半ば体当たりのように唐突に開かれたロッカーの鉄扉が、今まさに開けんとしていた化物の額にしたたかに打ち付けられた。予想だにしなかった衝撃に襲われた少女は思い切り尻もちをつき、瞳をうるわせながら赤くなった額を押さえる。
 体は熱を帯びている。だが、頭は冷えている。もう自分を失ったりはしない。人食いの化物が相手であっても、黙って食われてなんてやるもんか。
 死ぬわけにはいかない。まだまだメリーと一緒にしたいことが山ほどある。話したいことが星の数ほどある。こんなところで秘封倶楽部の活動を終わらせはしない。これきりでメリーと会えなくなるなんてそんなのあんまりだ!
 少女との力量差を考えれば、蓮子はすぐにでもこの場を逃げ出さなければならない。しかし、蓮子は立ち止まり、相対する少女の瞳を真っ直ぐに睨みつけた。その視線は怯えたものではない。そこには確固たる意思があり、瞳を直接覗いた少女にしか見えない炎があった。
 少女にとっても、単なる捕食対象である蓮子にこうまで手こずるというのは全くの想定外の出来事であった。
 人間は弱い。人間は餌だ。迷い込んだ人間を捕らえ、殺し、食らうなんて何百、何千と繰り返してきた。力の無い人間のはずが、どうして、こうまで――。
 少女の脳裏で、紅白の衣装が音を立てて翻った。
 
「~~~~ッッ!」

 わなわなと身を震わし、少女の表情が怒りに歪んだ。

「もう私は帰らない!ここは天国なんだ!人間はいくらでも居るし、向こうと違って誰にも邪魔されない!私だってお腹いっぱい好きなだけ美味しいものを食べたい!」

 少女の叫びに呼応するようにその体から滲み出た黒色が、水中に落とされた絵の具のようにじわじわと空間を侵していく。まるでその周囲だけ重力を失くしたかのように彼女の体は浮かび上がり、ゆっくりとつま先が地面から離れていった。真っ直ぐ左右に伸ばされた両腕の先で獣の爪がぎらりと光る。

「黄金比を表しているつもり?その格好」
「聖者は十字架に磔にされる!無抵抗のまま私に食われろお!」

 少女がまるで翼をはためかせるように両手をまっすぐ蓮子の方へ振りぬくと、それまで少女の周囲を蠢いていた闇が弾丸のように一斉に放たれた。
 空間を駆ける黒弾は上下左右から大きな放物線軌道を描き、獲物を食らわんとその線上の全てを貪りながら襲いかかる。
 当然、蓮子には黒弾をどうこうする術は無く、猛攻を躱すために一目散に出口まで駆け出すほか無かった。
 弾幕に貪り食われ、次々となぎ倒されていくロッカーの破壊音を背中で感じながら更衣室を抜けると、廊下の右手側に頭から飛び込んで黒弾を避ける。
 そもそも追尾性を持ちえていなかったのか、黒弾は更衣室を抜けたまま校舎の壁を突き破り、夜の闇と混ざり合って消失した。
 まるで映画の世界ね、と軽口を叩きながらも、蓮子はすぐさま立ち上がり勢い良く地面を蹴りだした。

「どこへ行こうと同じよ!すぐに捕まえて頭からばりばり食ってやる!」

 ヒステリックな叫びが蓮子を追いかける。少女もいよいよ余裕が無くなってきたようで、滅茶苦茶に放たれた闇の塊や光弾が次々と壁を抉り、窓を破壊していく。中には蓮子の服を掠めて飛んで行くものもあったが、もしもそれが直撃した際、どの程度の衝撃であるかは、周囲の惨状を見れば瞭然である。
 とは言え、そろそろ走って逃げ続けるのは難しくなってきた。かくれんぼを放棄した結果、化物と織りなす深夜のゲームは、たんなる鬼ごっことなってしまった。スピードでは完全に負けているため、蓮子は角を曲がり、階段を上がり、障害物を利用し、騙し騙し切り抜ける。途中、五つの教室と一つのトイレ、そして図書室、PCルームが犠牲となった。おかげで体力的にも手札の数的にも限界が近い。
 蓮子がわざわざ逃げ場の少ない三階に上がったのはメリーを探すためだ。逃げながらも注意を払ったが、どうも二階には居ないらしい。三階も大方を洗ったがそれらしい気配は見えない。となれば、行き違ったか……。

「よりによってこんな時に放浪癖を発揮しないでよねっ」

 現在、蓮子は校舎三階の隅、音楽室のベランダに身をひそめていた。ダメで元々、あまり期待せずに放った消火器攻撃が予想以上の効果を上げ、しばらく少女の視界を奪うことに成功した。これ幸いと身を隠し、メリーと連絡が取れないかと携帯電話を確認した所、これが圏外。そんな気はしていたが。椅子や机は宙を舞い、窓ガラスは割れに割れたこの現状であれば、異変を嗅ぎつけた警察あたりが駆けつけても良い頃合いであるが、警察どころか近隣の住民が気付いた気配すら見えない。おそらく廃校の敷地内だけ外界から切り離された一種の隔絶空間と化してしまっているのだろう。もう驚かないが。
 で、あれば。メリーと合流するにはまた一階に戻る必要がありそうだ。これだけの騒ぎがメリーの耳に届いていないわけがなく、私を助けるために割って入って来なかったことを考えると、きっと結界の境目探しのために彼女なりに走り回っているのだろう。それさえ見つかれば、あの少女から逃げおおせるための新たな策を講じることができるかもしれない。

「見事な役割分担だわ……はぁーぁ」

 まるで自分が体力担当であるかのような役割に立たされていることに気が付き、蓮子は嘆息した。

「私もどちらかと言えばデスクワーク派なんだけどなあ」

 ここに来てから常に張り通しであった緊張の糸を少々緩め、体力回復に充てた僅かな猶予。その憩いの時間も、扉からではなく壁を突き破って現れた漆黒の影によって終わりを余儀なくされた。時間にしてはほんの十数秒ほどであったが、呼吸を整えるのには十分だ。蓮子は額の汗を袖で軽く拭い、再び影と相対した。

「やっと追い詰めた。いい加減、諦めてご飯になっちゃってよね」

 少女を取り巻く闇の塊からは幾本もの触手が伸びており、いよいよ獲物を追い詰めたことで涎を垂らすように、その先端からだらだらと黒色が流れ落ちて霧散していた。
 少女自身も先ほどまでの余裕の無い表情とは打って変わって、口元に得意気な笑みを浮かべていた。だが、軽く肩で息をしているところを見ると、彼女もまた体力を消耗してきているのだろう。化物とはいえ、これだけ暴れれば疲れるのも当然か。
 蓮子と少女との距離は8mほど。その間には音楽室とベランダとを隔てる薄いアルミ戸が一枚。これもあの黒弾を始めとする少女の攻撃が相手では一時的な盾代わりにもならないだろう。誰の目から見ても、蓮子がチェスや将棋で言う“詰み”の状態に嵌っているのは明らかであった。

「お姉さん、人間にしては随分しぶとい方だよ。でも結局はただのにんげ――」

 揺るぎない勝利の確信から、普段よりも饒舌になった少女であったが、その口上は直ぐに止めざるを得なかった。なぜならば、口上とは聞かせる相手が居なければならないからだ。
 聞き手である蓮子がベランダから飛び降りたとあっては、開かれた口から言葉が失われるのも已むを得ない。

「なっ……え、えっ?」

 まさか、食われるくらいならと身を投げたか。なんて勿体無い、転落してぐしゃぐしゃになってしまっては美味しさも何もあったものではない。肉が弾け飛んで風味が損なわれるし、何より悲鳴という最高のスパイスが無くなってしまうじゃないか!
 少女は慌ててベランダから身を乗り出し、蓮子の死体を確認しようと目を凝らしたが、音楽室の真下は丁度裏門前の林が広がっている。月明かりがあるとはいえ、夜の闇のせいでよく見えない。
 仕方なしに、少女も後を追って林に降りてみたものの、死体らしきものはどこにも見えない。木に引っかかっているのかと思えば、それも違うらしい。そもそも血の匂いがしない。はて、いったい何がどうなって?やはりあの人間は一般人などではなく、巫女かもしくは魔法使いであったのだろうか?
 そんなはずは、と意識を鼻に向ける。注意して匂いを辿ると、人間の匂いがひとつ、ふたつ。確かに校舎の中に感じ取ることができた。
 飛び降りたと見せかけて、どこかに潜んでいたのか?林からもう一度三階のベランダに目を向けてみたが、隠れている気配は感じられない。

「うーん……」

 目を閉じ、思考してみるも答えが浮かばない。少女の結論は、「考えても仕方ない」という点に落ち着いた。
 いずれにせよ人間たちは校舎の中に居るのだ。たくさん運動して、頭も使って、流石にそろそろお腹が減った。もうじき夜も明けてくる頃だろう。サクッと食事を済ませて眠るとしよう。
 再び狩りを開始すべく、一階の窓から校舎内へ侵入する。随分時間を食わされてしまった。とっくにあの人間は姿をくらませてしまったに違いない。となると探すのは面倒だ……。
 そんな折、都合よく少女の視界に映ったのは、もう一人の人間の姿であった。
 

 ○ ○ ○ ○ ○


 先ほどまで断続的に轟いていた破壊音が止んだことで、メリーの心は焦る一方だった。
 蓮子を追って校舎へ侵入したものの、結界の境目はおろか、蓮子の姿さえ見つけることができない。そんな折にメリーの耳をつんざいた衝撃は最悪の結末さえ浮かばせたが、逆にそれは蓮子の無事を意味する。いや、「無事」と言うには少々語弊があるかもしれなかったが、少なくとも生きて怪物から逃げおおせているのだろう。すぐにでも駆けつけたい思いはあったが、音から察するにやはり自分が出て行ったところで足手まとい以外の何物でもない。ここは蓮子を信じて、自分は一刻も早く結界の境目を見つけるべきか。境目さえ見つけることができれば、後は怪物を帰すなり自分たちが逃げ込むなり、打開策はそれなりに見つかる。
 だが、その境目が見つからない。
 はじめに調べた三階は手がかり無し。三階を調べきった後にメリーが二階に降りた時には、そこは既に荒れ果てていた。教室はまるで局所台風でも吹いたのではと思われるほど凄惨な様相を呈し、廊下は無理やり10tトラックでも通ったかのように壁が崩れ、ひしゃげた鉄骨が所々むき出しになっている。これでは校舎が崩れ落ちるのも時間の問題か。メリーは無造作に放られた、かつて机や椅子であった物を掻き分けながら一通り目を通したが、ここにも結界の境目は視えない。
 メリーは一階に降り、引き続き探索を行った。
 結界の境目が存在しそうな――すなわち“異界”としての性質を備えている――場所と言えばどんなところだろう。職員室、音楽室、PCルーム、保健室、その他の特殊教室は全て洗ったが気配を感じ取ることはできなかった。もちろん、可能性は低いと思ったが通常の教室も通りがかりに覗いてはいる。やはり特筆すべき点は無かった。

「ひょっとして、校舎の中には無かったのかしら」

 となれば、外?目撃証言があった最初の林では視えなかった。すると、敷地内のどこか別な……。
 窓から身を乗り出し、きょろきょろと景色を見渡すメリーの目が、とある一点でぴたと止まった。校舎と遜色ないほど巨大で、弓なりのアーチ屋根が特徴的な、学校であって異なる性質を携えた施設。

「そうか……体育館!」

 おばけと言えば夜は運動会をするものだったわね、とメリーは一人得心いったように手をぽんと打った。
 ここに蓮子が居たならば「おばけの運動会なら墓場でしょ」と突っ込みを入れたかもしれないし、その上で「そもそも運動会ならむしろ校庭」と異を唱えたかもしれない。
 確かに結界の境目が校庭に存在する可能性も無いわけではないが、“境目”である以上、何も無くだだっ広い空間にぽつんと出現する可能性は極めて低い。何かしらの規格外の力が加えられて開いたものならばともかく、自然発生したものであるならば有り得ない、と断言しても良いだろう。何より、校庭の隅々まで探しまわっている時間は無い。
 辺りが静かになってから五分以上が経過している。蓮子の安否を確認したい気持ちを奥歯で噛み殺し、メリーは校舎と体育館を結ぶ渡り廊下のすのこを踏みしめぽこぽこ駆けた。
 不思議なことに、体育館には鍵が掛かっていなかった。鉄製の重い引き戸を開き、中をのぞき込んだが、いつの間にか月が雲に隠れてしまっていたせいで真っ暗で何も見えない。仕方なくバッグから懐中電灯を取り出して中を照らすと、その異常はすぐに見つかった。

「ひっ……!」

 体育館の一角に広げられたブルーシートと、その上に無造作に放られている潰れたダンボール。恐らくはこの辺りを根城としたホームレスが居たのだろう。扉の鍵が開いていたのもそのせいか。
 だが、メリーの目を見開かせたのはそこではなく。ブルーシートとダンボールにべっとりと貼り付いたドス黒い赤色。
 何かの間違いであると、メリーはダンボールの近くまで寄ってみたものの、近づけば近づくほど疑惑は確信へと変わっていく。血だ。それも間違いなく致死量の。
 メリーは自身の顔から体温が失われていくのを感じた。
 危険であることは分かっていた。相手にしているものが人外の化物であることも感づいていた。
 だが、こうして「死」を目の前に突きつけられた今、己の甘さというものを改めて認識させられたように思われた。「きっとなんとかなる」と思い込み、奥底へ沈めていた現実を、恐怖を、無理やり引きずり出されてしまった。
 メリーは無意識に服の裾を握りしめていた。いつもそばに居てくれる蓮子は、今は居ない。
 ダンボールにこびり付いていた血の乾き具合から、それが昨日今日のものではないことは確かだ。少なくとも、蓮子の血ではないだろう。しかし……。
 こうしてはいられないとメリーが探索を再開しようとした瞬間、背後からの刺すような空気の震撼がメリーの体を震わせた。
 体を反転させて電灯を向けると、視界に入ったのは力任せに閉じられたせいでひしゃげてしまった鉄扉。無論、人間の力が為せる業ではない。その扉の前に立っている少女が紛れも無く人外の怪物であると、哀れな扉がメリーへ訴えかけていた。

「たっくさん運動したからお腹が減っちゃったよ。あなたは食べられる人間?」
 
 少女の問いかけに、メリーは答えない。都市伝説(と言ってもまだ噂話レベルだが)によれば、少女は問いかけに相手が答えた途端に襲いかかってくるという。ならば、正しい答えは「沈黙」――!

「まっ、いーか。食べてみれば分かることよね」

 一歩、少女が足を踏み出すと、それを合図にメリーは転身して少女とは反対方向の出口へ駆け出した。
 極度の緊張と、目の前まで迫っていた死の恐怖。それらが十歳やそこらにしか見えない少女によってもたらされているという、現実との乖離感が都合よく作用したことでメリーは足が凍りつく前に走りだすことができた。恐らく、少女があと一歩進んでいたならばメリーは完全に逃げる機を失っていたことだろう。
 少女は逃げるメリーを慌てて追うことはせず、にんまりとした笑みを浮かべながらゆっくりと距離を詰めていた。飛びついて動きを止めてしまうのは簡単だが、敢えてそれをしなかったのは……。

「あ……あ、ぁ……!」

 入り口とは真逆に位置する壁まで辿り着き、取り付けられていた木製の引き戸を思い切り引き開けたメリーを、絶望の表情が迎えた。
 戸の向こう側からも、誰かが入ってこようとしている。その人物はメリーと同じ服を来て、メリーのお気に入りのショルダーバッグを抱え、メリーと同じ顔をしていた。

「かがみ……だ……」

 ダンスか何かの練習用だろうか、そこには出口など存在せず、戸を引いたスペースいっぱいに嵌めこまれた鏡が存在するのみであった。
 後方で、少女が堪え切れないようにとうとう吹き出した。

「あはっ、あはははははは!」

 腹を抱え、目尻に涙を浮かべながら笑い転げる少女を、メリーは鏡を介してただ見つめていた。
 この少女は知っていた。もはや逃げ場など無いことを。ここに足を踏み入れた時点で既にメリーの運命は決まっていたことを。

「あーおっかし。残念だったね、あんたはその鏡からは出られないんだよねえ。だからさ、諦めておとなしくしててよね」

 雲間から月が顔をのぞかせ、鏡越しに少女と目が合う。その瞳には先程までけらけら笑っていた外見相応のあどけなさなどとっくに無く。腹を空かせた肉食獣の、今にも獲物に飛びかからんと狙いを定めたそれであった。


 ○ ○ ○ ○ ○


 蓮子は体育館裏の倉庫へよじ登りながら、直前まで行われていた苛烈な逃走劇を思い返していた。
 明らかに自分の手には負えない人外の存在と顔を突き合わせ、絶命すれすれの攻防を繰り広げた。帽子は引き裂かれたし、爪を掠めた肩からは血が滲んでいるし、服の裾は所々焼け焦げたような跡が残っている。三階のベランダから雨水用の排水配管を滑り降りた際には両手の平を擦りむいてしまった。
 あの時、音楽室のベランダに追い詰められた蓮子は、飛び降りた振りをしてその実、外から二階に飛び込んで身を隠していた。上手く少女を撒いた蓮子は再び校舎内の探索を開始した……のだが。

「まさかメリーを狙ってくるなんてね……!」

 捕まえやすい方を狙う。当然といえば当然であるのだが、それでも蓮子は少女が躍起になって自分を追いかけてくるものであると思い込んでしまった。渡り廊下を駆けるメリーと、それを追う少女を見つけて急いで後を追ったものの、蓮子が着いた時には既に扉は歪にひしゃげ、蓮子の力では到底開けることは不可能であった。一階の窓には鉄柵が備わっていたので、二階の窓から侵入を試みようと考え、そして今に至る。
 思えば、今夜だけで一生分の修羅場を経験したような気がする。
 自分がまだ立っていられるのは相当に運が良かったとしか思えないし、もう一度同じことをしろと言われても心から無理と言える。あの化物とまた遭遇して、また生き延びられる可能性は極めて低い。だけど、それでも尚、蓮子はこうして自ら死地へ赴こうとしている。
 理由は言うまでもない。

「全部済んだら絶対奢らせてやる」

 窓のへりに手を掛け、一気に体を持ち上げて登る。こうして窓にべったり張り付いている姿はきっと随分と間抜けに見えるだろうな、と若干の恥ずかしさを感じながらも、蓮子は予め工務室から拝借しておいたガムテープを窓に貼り、その上からガラスをトンカチで叩き割った。慣れた手つきで鍵を開けて二階のギャラリーへ滑り込む。
 今夜の調査を始めて何時間経過しただろうか、夜の闇がいくらか薄らいでいたものの、月が隠れてしまっていたために一階の様子はよく見えない。
 なるべく音が出ないように配慮したものの、先ほど窓ガラスを割った時にこちらの侵入は気付かれているかもしれない。いや、あの少女は匂いで標的の存在を感知することができる。既に気付かれていると考えて良いだろう。
 ギャラリーには人の気配が無い。一階の入り口から入って、そのままフロアを駆けて逃げたというのが妥当か。
 ステージ裏の用具室を抜けて一階に降りた蓮子を、妙に静まり返った空気が迎えた。おかしい。メリーはどこに?あの子のことだ、運動不足の体を引きずりながらどたばた走って絞られたカエルみたいに泣いていてもおかしくないというのに、逃げる足音すら聞こえないなんて。

「あれ?お姉さん、いつの間に入ってきてたの?」

 突如かけられた言葉に慌てて身構える。声の主は例の少女。だが、これまで相対してきた時と比べて声のトーンが幾分か明るいのは何故だろう。
 少女はしきりに指先を舐めながら言葉を続けた。

「ご飯中だったから全然気が付かなかったよ。だけど、丁度今からそっちに向かうつもりだったから助かったなあ」

 蓮子の心臓がそれまでの規則的な鼓動を無視し、跳ねるように大きく脈を打った。
 ご飯だって?この、おおよそ食べ物らしきものが何もない体育館で、人食いの化物が、いったい、何を食べていたと?

「それにしても、よくここまで来られたね。邪魔が入らないようにしっかり扉を閉めておいたんだけどなあ」

 心臓が内側から胸を突き破ろうとしている。うまく呼吸をすることができない。視点が定まらない。足に力が入らない。自分を支えていたテグスの糸が今にも切れてしまいそうな、そんな感覚が蓮子を襲う。
 奴の口元にへばりついているものはなんだ?どうして指を舐めている?確かめようにも、直視することができない。知ってしまうのが、怖い。
 だが、それでも確かめないわけにはいかなかった。震える体をひしと抑え、蓮子はやっとのことで声を絞り出した。

「メ、メリー……は……?」
「んー?」

 少女は蓮子の言葉の意味をしばらく掴みかねていたようだが、口周りをぺろりと一舐めすると漸く合点がいったようだった。

「ああ、金髪の方のお姉さんのこと?」
 
 蓮子は僅かに頷くことで肯定する。

「そっかあ……そのためにわざわざ追いかけてきたんだね」

 少女は改めて真っ直ぐ蓮子の方へ向き直り、にやにやと値踏みをするような視線を注いだ。少女が特に気にしているのは瞳の奥。そこを見れば、人間の“鮮度”は一目で分かる。そして、少女は確信を得た。
 メリーとかいう人間も中々食べごろだったが、こっちのはそれ以上だ。あと一手間、ほんの少しだけエッセンスを加えてやれば滅多に味わうことのできない極上の食事を堪能できるだろう。

「お姉さん、すっごいよ。私の想像以上」
「……そんなことは、どうでもいい。メリー……メリーは、あの子はどこ!?」
「さあね」

 興奮が収まらない。胸の奥から熱い気持ちが湧き上がって、舌は期待に踊り、口の端から涎がつつと走った。
 少女はそれを袖で拭い、その手で腹をぽんぽんと叩きながら蓮子の問いに答える。

「さっきまで居たんだけど、いつの間にかいなくなっちゃった。いったいどこに行ったんだか」

 その瞬間、蓮子の瞳から希望の色が抜け、少女は凶悪に破顔した。少女の高笑いがフロアを埋め尽くし、反響しながら蓮子へ襲いかかる。
 やめておけばよかった。こんなところ来なければよかった。メリーを守れなかった。どうしてメリーを止めなかった。メリーがいない世界なんて意味があるのか。
 おびただしいほどの感情が一瞬で脳内を暴れまわったことで、蓮子は僅かな間だけ気を失った。
 思考が感情に追いつかない。もはや自分の頭で体を制御することができず、それでもまだ立っていられたのは自分が今にも崩れ落ちそうなことすらも忘れてしまっていたからだろう。気付いた時には少女の胸ぐらを掴み上げ、ぼろぼろと涙をこぼしながら言葉にならない何かを浴びせかけていた。どのくらいの間そうしていたのか蓮子には分からない。一分に満たない時間かもしれないし、一時間以上そうしていたかもしれない。少女はそんな蓮子の様子を、ただじっと、最高のタイミングは今か今かと見守っていた。

「お姉さん」

 少女は縋りつく蓮子の手を振りほどき、その肩をそっと押してやった。もはや蓮子には体を支えるだけの力など残っておらず、軽く力を入れただけの衝撃で崩れ落ちてしまう。少女は仰向けに倒れた蓮子を追って覆いかぶさるように膝を折り、両手首を掴んで完全に押さえ込んだ。

「私ね、本当に美味しいご飯って食べるだけじゃなくて見てるだけでも幸せになれるって思うの。お姉さんがそうだよ。今のお姉さん、とっても美味しそうで、とっても魅力的」

 泣き濡れた頬にそっと舌を這わせると、蓮子は小さく震えた。

「人間にも一番美味しい時期ってのがあってね、ただ生きてるだけの人間じゃダメなの。信念とか覚悟とかをしっかり持って、希望に突き動かされている時の人間が良いの。その希望が、夢が、私の手で粉々にされて絶望に満ちた瞬間の人間が最高に美味しいの」

 少女の目が、紅く爛々と輝く。そこに映る絶望しきった表情が自分のものであると、蓮子はすぐには理解することができなかった。

「ねえお姉さん、今どんな気持ち?最後に直接、お姉さん自身の口から聞きたいなあ」

 私が今どんな気持ちか、だって?そんなの一言で言えるわけないじゃない。メリーが居なくなっちゃって、もう二度と会えなくて、今まさに私も化物に食われようとしている。自分が今どんな状況に置かれているかの現状把握はできているけれども、頭の中は撹拌されているみたいにぐるぐるしていて、何を考えていいのかわからない。まるでぐちゃぐちゃになった大脳がそのまま溢れているみたいに涙が止まらない。

「お姉さん、聞いてる?もう待ちきれないよお」

 この化物はどうしても私の絶望の声を聞きたいらしい。恐らく、化物のために何かを発すれば、それが私の最期の言葉になるだろう。結局のところ、私にはこの状況を打開できる手段は無い。このまま馬鹿みたいに泣きじゃくりながら好きに貪り食われるに違いない。でも。だからといって――。
 意を決した蓮子は、組み伏せられた体勢のまま頭だけを思い切り起こした。蓮子の息がかかるほどの至近距離にあった少女はそれを避ける事も出来ず、力任せの一撃を額に叩きこまれた。鐘を打ったような衝撃。だが、もろに頭突きを食らいながらも少女の手は蓮子を掴んで離さなかった。初めて林で出くわした時の少女であれば、ロッカールームで不意打ちを浴びせた少女であれば、この一撃でもって撃退できていたかもしれない。しかし、今や少女に油断は無く、窮鼠が噛めども獅子には通じない。
 この頭突きは残された力を全て振り絞った、渾身の一撃。と同時に、蓮子は肺に残った最後の息を少女へぶつけた。

「最悪の気分よ、化物」
「……最ッ高」

 いつの間にか蓮子の涙は止まっていた。とある生物学者曰く、涙は感情的緊張を流し出すものであるらしい。蓮子はさんざっぱらぐるぐる泣いた。おかげで自分を取り戻すことが出来た。だから、最後に一矢報いることができた。宇佐見蓮子曰く、涙は反骨の狼煙であるのだ!その額の痛みを忘れるな!これから先、人間を食らうたびに思いだせ!
 そうして蓮子は目を閉じ、最期の瞬間を待った。
 数瞬の後、まぶたの裏の暗黒を閃光が塗りつぶしたかと思うと、それまで蓮子の体を押さえつけていた圧迫感が消え、代わって柔らかな温もりが包み込んだ。
 ああ、死ぬってこういう感じなのね。だけど、こんなにあったかくて優しいなんて、ひょっとしたら極楽に行けたのかしら。安心した、けっこう人に言えないような些細な悪事もそこそこ働いてきてたからなあ。

――――“蓮子!蓮子起きて!”

 メリー?あなたもこっちに来てたのね……良かった、メリーは腹黒いからてっきり地獄行きかと。

「バカなこと言ってないで起きなさい!」
「ほえ?」

 ぴしゃりと頬を打たれ、ようやく蓮子の意識は覚醒した。場所は先程までと変わらず、薄闇の体育館。蓮子の体はメリーにしっかり抱きかかえられており、視界の脇では見知らぬ長身の女性が一点を見据えていた。その視線の先で金髪の少女が苦しげに体を押さえながら膝をついている。

「慧音さん、蓮子は無事です!目立った外傷もありません!」

 慧音と呼ばれた女性は、体を少女へ向けたまま視線だけを蓮子へ向けて微笑んだ。

「やあ、さっきの頭突きは中々良かったぞ。だけど、あまり無茶をするのは褒められないな。君が死んで悲しむ人間もいるのだから」
「え、あ……す、すみませんでした」
「わかればよろしい。あとは私に任せて、少し休んでいなさい」

 言い終えると、慧音は真っ直ぐな姿勢のまま、つかつかと金髪の少女の方へ歩み寄っていった。呆気にとられた蓮子は不安げにメリーに視線を送ると、メリーは小さく頷いて慧音の動向を見守った。

「大丈夫よ蓮子。あの女の子のことは慧音さんに任せましょう」

 大丈夫と言われても。
 ともあれ、蓮子自身も指一本動かせないほど疲れきっている以上、もはやあの慧音さんとやらに命運を託す他無かった。
 慧音は蓮子たちと少女を遮るように仁王立ちになり、苦々しく慧音を睨みつける少女をじっと見つめ返した。

「しばらく見ないと思っていたが、まさかこっちに来ていたとはな。あの鏡のことをどうやって知った?」
「さあ?うさぎを追いかけてたら迷い込んじゃったのかもね」
「……これからはより厳重にしまっておくことにしよう。さあ戻るぞ、ルーミア」

 慧音が差し伸べた手を、少女――ルーミアという名らしい――ははたいて返すことで意思を示した。ルーミアは無言のまま立ち上がり、数歩後ずさって慧音との距離を置く。

「私は戻らないよ。こっちなら向こうと違ってルールに縛られること無く好きにできる。誰にも邪魔されずにお腹いっぱい人間を食べられる!」
「そんなことを言っていられるのも今だけだぞ」
「どうして?あんたが邪魔をするから?だったらあんたを殺して万事解決ね」

 ルーミアのまるで見当違いな解答に、慧音は呆れたように目を伏せ、ふうと小さなため息を一つ吐いた。
 そんな様子を察したのであろう、ルーミアもまさに放たんとしていた妖気の出力を抑えて慧音へ訝しげな視線を注ぐ。

「メリー嬢から話は聞いた。ルーミア、お前は今自分がどんな状況にあるのか分かっていないのか?」

 慧音の問いに、ルーミアは答えることができなかった。
 自分は今、余るほどの人間に囲まれて好きなだけ人間を食うことができている。こっちの世界には巫女も魔法使いもおらず、実に気ままな生活を送っている……はずであるのだが。
 しかし、そうではないと慧音の表情が語っている。

「やはり分かっていないようだから教えてやる。お前は今、“都市伝説の妖怪”になりかけているんだ」
「とし……でんせつ?」

 聞きなれない言葉に更に困惑の色を深めるルーミアに対し、慧音は教師が生徒に物を教えるようなトーンで説明を続けた。

「噂のようなもの、と思っていい。お前はこちらの世界でこの場所……廃校舎を根城に活動を続けたおかげで人間の間では“廃校舎の怪”として認知されつつある」
「それがどうかしたのさ。人間が怖がって近づかなくなるから飢えて死ぬってこと?馬鹿らしい」
「それもあるだろうが……その前に人間も何らかの解決策を練るはずだ。実際に被害者も出ていることだしな。そうなればこの廃校舎も取り壊しになるかもしれん」
「だったら場所を変えるだけだよ。べつにこの場所に思い入れがあるわけでもないしね」

 やれやれ、と首を振る慧音。その仕草に自分が馬鹿にされていると感じたルーミアは癇癪を起こし、顔をリボンとお揃いの真っ赤に燃え上がらせて地団駄を踏んだ。

「何が言いたいのさ!言いたいことはさっさと言え!」
「廃校舎を去れば、“廃校舎の怪”たるお前は急速に力を失うだろう。そうして時間が経ち、いつしか被害者たちの失踪の原因にもっともらしい説明付けが為された時点で……“都市伝説の妖怪”は完全に――」

 慧音が言い切るよりも早く、幾つもの漆黒の弾丸が慧音に襲いかかった。慧音は両手から放つ光の帯でルーミアの猛攻を受け止め、蓮子とメリーへ少し下がるように顎で促す。

「私が!死ぬって!?つまらない話は寺子屋の中だけで十っ!分っ!だああああ!」

 ルーミアは喚き散らしながら慧音へ向けた弾幕の勢いを一層強めていく。慧音は全ての弾幕を受け止めるのは不可能であると判断し、床を蹴って蓮子たちの居ない方向へ駆け出した。

「幻想郷が何を目的として作られたか思いだせ!くだらない理由でこっちに固執していては本当に消滅しかねないぞ!」
「だあまれえええええええええ!」

 慧音を追走しながら闇弾を発射するルーミア。放たれた闇は床を穿ち壁を穿ち、フロアを破壊しながら慧音を追い詰めていく。嵐のように襲い来る弾幕の全てを躱し切るのは困難であり、慧音は要所要所を傍らに浮かべた青銅色の神鏡でしのいでいた。慧音の繰る鏡と闇弾がぶつかる度に閃光が散り、慧音の青色がかった銀髪が薄闇に舞う。
 ルーミアの力は慧音の知るそれを遥かに凌駕していた。幻想郷におけるルーミアの力量は決して高いものではなく、人間を襲うことはできても慧音のように心得のある者であれば容易に対処ができたはずだった。しかし、今のルーミアが相手では些細な油断が命取りにもなりかねない。
 不可解なパワーアップ。理由としては“廃校舎の怪”のホームグランドたるこの場所がルーミアの有利に作用していると見て間違いないだろう。そして、それは同時に慧音の仮説が真実であるということをも告げている。ルーミアはこの事に気付いているのだろうか。
 自身が都市伝説の妖怪へと変容しているということも、それによって消滅してしまいかねないということも、ルーミアにとっては荒唐無稽な作り話でしかない。不愉快な話を聞かされた怒りと、それを完全に否定しきれない苛立ちや不安とが全て目の前の慧音への憎悪となってその身を駆り立てていた。呼吸は荒く、肺を経た息は闇がそのまま漏れ出でたかのように深淵へ溶けて混ざっていく。ただ、闇を纏った彼女の中でも瞳だけは紅々と輝いて慧音を決して逃さない。
 いつまでも捉えられない慧音に業を煮やしたのか、ルーミアは弾幕をはたと止めると両腕を大きく左右に伸ばして高く飛び上がった。ルーミアの周りの空気の流れが渦を成し、彼女へと収束するかのように闇が蠢く。

「あいつが本気になったポーズだ!もっと激しいやつがくる!」

 その様子に見覚えのあった蓮子は危険を察知し、咄嗟に声を張り上げていた。
 ただでさえ防戦一方の慧音であるのに、果たして更に激しくなったルーミアの攻撃を耐え切れるのだろうか。メリーも不安になったのか、蓮子の手を強く握りながらはらはらと慧音を見守っている。
 しかし、当の慧音は二人の思いを知ってか知らずか、神鏡を胸の前へ浮かべると静かに目を閉じてしまった。
 先ほどまでの猛攻が嘘であるかのように、フロアには一時の静寂が訪れた。互いに次の一手への準備。
 先に動いたのは、ルーミアであった。
 
「ディマーケイション!」

 術の宣言と同時に、ルーミアを中心とした波動が一気に放たれて次々に空間を埋め尽くしていった。幻想郷の弾幕ごっこにおいてもルーミアは同名のスペルを使用するが、今回のそれはスペルカードルールの範疇には収まらない出力だ。それはまるで子供が墨で辺り一面を滅茶苦茶に塗りつぶしていくかのような、暴力的なまでの黒。その黒は視界をも奪い、もはや伸ばした自身の手も確認できないほどであった。
 重い。
 すっかり闇に包まれてしまった蓮子とメリーは次第に息苦しさを感じ始めた。空気そのものが重くなり、重力さえも増してしまったかのような感覚。このまま全員潰されてしまうのではないか。そんな不安までもが頭をよぎる。完全な闇は音すらも遮断してしまうのか、耳も全く働かない。目と耳を塞がれ、今や蓮子が認識できるものは自分を支えているメリーの体温のみであった。
 慧音はどうなった。ルーミアは?
 あの化物には鼻がある。例え闇の中だろうと、この閉じられた空間の中では相手の場所を把握するできるかもしれない。このままでは――。

「光符」

 空気の振動すらも許さぬはずの暗黒の中で、慧音の凛と通る声がその場の全員の耳を刺した。

「――アマテラス」

 静かであるが、はっきりと存在感のある宣言だった。
 その宣言の直後、太陽が地上に降りてきたかと錯覚するほどの光が体育館を一瞬で支配し、あまりの光量に蓮子とメリーは思わず目を瞑る。彼女たちが恐る恐る目を開けた頃には、押しつぶすような闇も焼き尽くすような光も無く、元の薄闇が何事も無かったかのようにそこに存在していた。

「っがあああああああああ!」

 獣の咆哮のようなルーミアの叫び声がこだまする。

「やってくれたな半人め!晴らしてくれたな!私の、私の闇を、あろうことかスペルカードで!」

 ルーミアのディマーケイションは正真正銘の最大出力であった。その闇に晒され続けた獲物は直接ルーミアが手を下す必要すら無く精気を呑まれて絶命していたはずの術。それを慧音は光符を用いて破った。ルール外の必殺の一撃を、ごっこ遊びのスペルカードで対処されてしまった。真剣勝負においてこれほどの侮辱は無く、ルーミアの怒りももっともであるように思われた。

「いいや、私も今のはギリギリだったよ。確かにスペルカードは使用したが、随分と妖力を持って行かれた」

 そう言いのけた慧音の言葉に嘘は無かった。力を増しているルーミア相手に余力を残しておけるほどの余裕は無い。その証拠に慧音の額には大粒の汗が浮かんでいるし、先程からずっと肩で息をしている。
 一歩間違えばやられてしまっていたかもしれない瀬戸際の攻防。慧音が敢えてそんな状況でスペルカードを使用したのは、傷つけることが目的ではなくあくまでルーミアを救おうとしているという意思表示のつもりであったのだが。開ききった瞳孔で睨みつけてくるルーミアの様子を見る限り、残念ながらそんな慧音の思いは届かなかったのだろう。

「まだまだ私も、未熟者か」

 これでルーミアが戦意を喪失してくれれば最善だったのだが。
 しかしそうはならなかったということは……やはり、自分にはコレしか無いということか。
 小さなため息を一つこぼし、慧音は帽子を脱いでそっと床へ置いた。
 警戒しているのか、手を出せずにいるルーミアの様子を確認すると、慧音は離れた二人へ問いかけた。

「おうい、お二方。こうした厄介事は慣れているそうだね?」

 突然声を掛けられて戸惑ったものの、動けない蓮子の代わりにメリーが小さく頷いて示した。

「なら、お願いだからどうか悲鳴を上げたりはしないでほしい。私もあまり人様に見せたくはないし、怖がられるとそれなりにショックだからな」

 メリーと蓮子には慧音が言っていることの意味は分からなかったが、どうやらルーミアには通じたらしい。ルーミアが慌てて2階へ目を向けると、ルーミアの背後、慧音の正面には青々と輝く真円が窓の向こう側にはっきりと確認できた。

「つっ、月……!」
「私が来てからすぐに月を隠したな?光符で闇を払わなければずっと隠れたままだったろう」

 月の光を一身に浴び、慧音の銀髪は一層美しく輝いた。しかし、そこに居たのはそれまで蓮子とメリーの知っていた慧音ではなかった。月の狂気に充てられた瞳は紅に燃え上がり、青みがかった髪は光を浴びた箇所から徐々にエメラルドグリーンに染まり、獣を思わせる牙は控えめながらも確かな存在感を示している。そして何よりも目を引いたのは、慧音の頭頂から雄々しく伸びる二本の角。牡牛を連想させ、今まさに月をも貫かんばかりに高々とそそり立つその角はまるで闇を断ち切る白銀の刃。そして、それが単なる見掛け倒しでないことは、後ずさるルーミアはもちろん、人間である蓮子とメリーにも十分感じられた。

「これが妖怪……」
「そう、私はとっても強い妖怪だ。但し、満月の夜だけね」

 思わず発せられた蓮子のつぶやきを慧音が拾い、そのままにっこりと笑ってみせる。
 慧音が蓮子たちに笑顔を向けた瞬間、ルーミアは視線が自身から外れたことを確認すると猛スピードで慧音へと突進を繰り出した。二人の距離は瞬く間に縮み、ルーミアの右手で闇が渦巻きながら槍の形を成して慧音に襲いかかる。だが、その槍が慧音に届くことはなかった。

「悪いけど、そんな歴史は認められないよ」

 ルーミアの体はまるで金縛りに遭ったかのように静止していた。見ると、達筆の文字のような黒い文様がルーミアの足にまとわり付いていた。それらの文様は蠢きながら徐々に体を侵食し、ルーミアを縛りつけていった。苦しそうに声を漏らすルーミアの頬に慧音がそっと手を伸ばす。かと思うと、そのまま両手でがっちりとルーミアの頭を固定する。

「辛いだろう。今、楽にしてやるからな」
「や、め……!」

 次の瞬間、月の光よりも、慧音のスペルよりも眩い火花が体育館を埋め尽くし、形容しがたい轟音が窓という窓を叩き割った。
 隕石同士が衝突するときっとこんな音がするのだろう――――後に蓮子はこう語ったそうな。


 ○ ○ ○ ○ ○


 都市伝説といえば鏡の話がつきものだ。鏡は時に残酷な未来を映し、時に幸福な過去を映し、時に異なる世界を映す。今回もその類であった。
 忘れ去られた廃校の大鏡は長い時を経て、ひょんなきっかけから異界の門と成り果てた。
 その門の先は幻想郷。慧音の経営する寺子屋にある古鏡と繋がってしまったのだ。
 宵闇の妖怪ルーミアは、悪友たちと寺子屋に忍び込んで遊んでいるうちに古鏡に触れ、蓮子たちの世界へ迷い込んだ。邪魔する者のいない楽園はルーミアの腹と欲望を満たし、都市伝説の怪を生んだ。

「向こうの古鏡は私の方で処分しておく。私の管理の不行き届きのせいで大変な迷惑を掛けてしまった。申し訳ない」

 完全に気を失ったルーミアを脇に抱えながら、慧音は深々と頭を下げた。

「そんな、謝らないで下さい。慧音さんのおかげで助かったんですから」

 慌ててメリーが慧音に頭をあげるよう促す。

「しかし、なぜ鏡は妖力も魔力も無いメリー嬢に反応したのだろうな。血相を変えて教室に飛び込んでこられたのには驚いたぞ」

 ルーミアから逃げようとメリーが鏡に手をついた瞬間、鏡はメリーをまるごと飲み込んだ。何もなければ沈黙したままの鏡がメリーを幻想郷へ導いたのはなぜか。

「メリーは結界の境目を見たり触れたりできるんです。だから反応したんじゃないかと」
「結界に?まさか博麗の巫女以外にそんな人間がいるとは……」
「しがない学生です、はい」

 ううむ、と慧音は首をかしげてしまった。

「信じがたいが、目のあたりにしてしまった以上信じるしかないなあ。八雲殿も管理者を名乗るならもっと結界の管理をしっかりしてくれないものか」

 ぶつぶつ呟きながら、慧音はルーミアを鏡の向こうへ放り投げた。鏡は湖面に石を投げ入れたように波打ち、ルーミアの姿をすっかり隠してしまった。

「さて、あまりこちらに長居はできない。メリー嬢、勝手な忠告だが能力を濫用するのは止めておきなさい。過ぎた力は必ず身に害を及ぼすだろう。特にその力は人間の身に余る。蓮子嬢、君の勇気と行動力は見上げたものだ。だが時に無謀を知りなさい。今回は本当に運が良かったのだから」

 慧音は軽く手を振りつつ、鏡の中へ足を踏み入れた。多少説教臭いのは彼女の職業柄だろうか。思わず蓮子とメリーの背筋も伸びる。

「本当にありがとうございました、メリーを助けてくれて」
「蓮子を助けてくれてありがとうございます!」
「こちらこそ、世話になった。それでは失礼するよ」

 慧音が完全に姿を消してから数秒。体育館の大鏡に巨大な亀裂が走り、異界の門はその役目を終えた。
 こうして、真夜中のかくれんぼ、廃校舎の怪は幕を閉じたのだった。


 ○ ○ ○ ○ ○


 蓮子とメリーが校門を出た頃には、既に空は明るみ始めていた。ひんやりと冷たい空気が二人の頬をなで、蓮子は背を軽く震わせた。

「なんで生きてんだろうね、ほんとのところ。私生きてる?実はメリー死んでない?」
「その可能性は有るわね。もしかしたら私たちどっちも妖怪の腹の中だったり」
「お腹と言えば」

 ぐうう、と蓮子のお腹が大きな音を立てる。いったい今晩だけで何カロリー消費したことか。体は疲弊しきっており、お腹と背中は近づきすぎてもはや入れ替わってしまいそうだ。

「とりあえず何か食べに行こうよ。こんな時間にお店がやってるかわかんないけど、座って休みたいし」
「あ、それなら」

 メリーが自分のバッグの中をごそごそ探し始めた。そういえばお弁当なんか準備していたっけ。食べる暇なんて無かったものの。

「あーっ!」

 メリーの悲痛な叫び。声に驚いた周囲の小鳥が一斉に飛び立っていった。

「どうしたのよ一体」
「見てこれ蓮子!私のお弁当が食べられちゃってるよお!」

 メリーの手には黄色い小さな弁当箱。しかしそこにあったはずのオムライス?だったらしいものは無残に食い荒らされ、たっぷりのケチャップが弁当箱の外まで飛び散ってしまっている。はて、メリーが食べたのでなければいったい誰が……。
 合点がいった。
 ――ケチャップ。そうか。ケチャップか。
 蓮子は体から力が抜けていくのを感じた。はふう、と思わずその場に座り込んでしまう。

「蓮子?どうしたの、蓮子!」
「もういいや、なんでもいいや……あはははははは……」

 ともかく今回も無事に二人で帰ってこられた。秘封倶楽部として活動を続けていく限り、今後も少なからず似たような危機に遭遇してしまうこともあるだろう。
 それでも、なんとかうまく切り抜けていけばいい。メリーと二人で怪奇に挑み続けよう。二人で喜びを分かち合おう。二人で他愛の無い話をしよう。

「蓮子!しっかりして!」
「うーん、ギョーザライス食べたい……むにゃむにゃ」

 蓮子とメリー、二人で秘封倶楽部。今後は活動に体力向上トレーニングも取り入れていこうか。
 ほどよく脂肪のついたメリーの柔らかい腕に揺さぶられながら、蓮子はそう思った。
蓮子をいじめたかっただけのお話。負けるな蓮子。戦え蓮子。
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コメント



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ルーミアからしたら幻想郷は自由とプライドを制限する刑務所や動物園の類いだったんだろうな
面白かったです
5.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
6.100名前が無い程度の能力削除
よかったです
9.90名前が無い程度の能力削除
メリー死んだかと思いました
まさかの慧音登場には燃えた
11.100名前が無い程度の能力削除
ルーミアって人喰い属性が強いせいかこういう役回りが多い気がする。