目の前の彼女はのんびりと煙草を燻らしながら、ノートに鉛筆で何かを書き込んでいる。それは数字だった。アラビア数字と英文字があり、そこには私ではもはやちんぷんかんぷんな小宇宙が形成されていた。
「凄いわねえ」
そういう私は、この喫茶店でのお気に入りである紅茶に口をつける。目の前の女性――宇佐見蓮子はきょとんとした顔でこちらを向いた。
「何が」
「何って、それよ。その紙に書いているの」
ああ、これ。
そう言って、ぴらりとつまんで私にそれを見せてくる。改めて見たとしても、それが何を意味しているのかはさっぱり分からない。英数文字で構成された方程式は文系の大敵だ。理系である蓮子はサッパリと言い放った事がある。これは要するにパズルなの。かっちりはめ込んだ時が快感なの。
訳の分からない感覚だ。私の感覚ではたとえパズルだったとしても、そのピースが何処にはまるのか。それが果たして必要なものなのか。それ自体がさっぱり分からないから理解が追い付かないのだろう。
「なんで理系の人って、そんな訳の分からないものが好きなのかしらねぇ」
「なんでって?それじゃあ教えてあげませう、マエレベレイ」
「マエリベリー」
わざとではないかと思うような舌足らず具合を見せて、私の名前で遊ぶ。蓮子は舌に使う筋肉を脳みそに移してしまったのではないかとひそかに思っている。からかい文句だが。
「そ。メリー」
「……で、教えてくれるの?」
舌の筋肉が足りない彼女は、私の事を勝手にメリーと呼んでいる。由来はイメージだそうだ。羊だとでもいうのではあるまいな。
「そう、そうそう。それはね。構築と名の付くものは全て方程式で成り立たせることが出来るからなの」
「どんなものでも?」
「そうよ。そうね。例えばこのこぢんまりとした喫茶店でも、しっかりとした方程式の元に成り立っているのよ。あそこの柱にかかる体重αに対してとかね」
「そうかなあ」
何となく創造の付きやすいものをたとえにしてくれたのだろうけど。それでも私には分からない。そりゃ創造程度なら分からないでもないけれど。それを想像だけでなく実行するにはそれなりの頭脳が必要になるという訳だ。蓮子ならお菓子の家でも作れるに違いない。チョコレートの柱にかかる負担にクッキーの屋根を選ぶのは果たして適格かとかいったりして。
ああ、またか。私はこうしてとりとめのない空想を好む性質だ。文系で、空想好き。社会でなら夢見がちの役立たずとなるかもしれない。しかし楽しいのでやめようとは思わないのだが。
蓮子は実務的だ。その実務的な彼女は、現実的な思考から飛躍した発想をする。彼女は大学に入ってからずっと続けてきた陸上を辞め、今ではこうしたとりとめのない会話と、不思議なオカルトを研究するというけったいなサークルを主催している。
オカルトという空想的要素を、実務的な視点から研究するのが、今の蓮子の熱中していることなのだろう。その割には色々なところからその手の噂を集めてくるのも彼女である。私のようにいつも根っこが生えたように喫茶店にいる私と違い、フットワークも軽い。
「メリーはもっともっと数学に興味を持つべきよ。素晴らしい世界なの。なにせ」
ルーズリーフを取り出して、軽くさらさらと何かを書き込んで私に見せてくる。
「このちいさな白い紙の中にでも、宇宙の公式の一片を表すことが出来るのよ。どう、凄いでしょう?」
「それは凄いけれど、私にはとても想像のつかない話ね」
宇宙の一片をあらわすことは確かに素晴らしいかもしれないけど、私にとってはその宇宙にどのような生物がいるかという事を考えた方が楽しい。
「想像力なら文系のメリーの本分だと思うけど」
「そうかしら。張りぼて式の、中身の伴わない空想だけなら売るほどあるけど」
例えば、いや言うのは止そう。我ながら中身のない空想と言う奴は止めどころがなくて困る。空想をしたとしても、それは蓮子に言わせれば方程式のない安産のようなもので、答えだけを先に出しているというものだろう事は予想がつく。
蓮子はふうんと、そこまでの興味を示さない呟きを残すと懐から出した煙草に火をつけた。
「マスター、コーヒー」
カウンター席の向こうでのんびりと読書をしていたらしい大柄な店主は、低い声で返事をした。
「ねえ、蓮子」
「ん」
吸おうとしていたのか咥え煙草の気の抜けた声で、彼女はこちらを伺う。
「聞いても良い?」
「なにを?」
「ここの居心地の良さの良しあしを決める方程式」
ぽろりと煙草を落とした。動揺しているのかもしれない。
「分からないわよ。そんなの」
「構築しているものは方程式で表すことが出来るのでしょう?」
「それは」
「信頼関係、人間関係、そうしたものをつくることも、構築という言葉を用いて表せるわ」
つやのある木目のテーブルをなぞって嗤う。目の前の彼女は、紅潮した顔で煙草を咥えなおす。できるわけない、顔がそう言っている。
「コーヒーです……どうかなされたので?」
大柄なマスターは、最近ようやく口をきいてくれるようになった。夫婦で営んでいるこの喫茶店の店主で、街中で会えば注目を集めてしまうだろうほど威圧感のある顔をしている。きょとんとした顔はどこかクマのようだった。
「ええ、数学者の卵を少し虐めていたんです」
「ほお」
どこか感心したように、マスターは私を一瞥し視線を蓮子に移す。
蓮子は馬鹿らしいとばかりに、ふてくされたような顔で煙草をふかしていた。
「なるほど、数学を専攻とは大したお方ですな」
嫌味気のない口調でそうしたことを言うのは大したものだと思う。
「マスターは数学?」
「嫌いですな。英文字があるだけでご勘弁願います」
私と似たようなものらしい。
「なんでも、この数学者の卵さんは、構築物は数式で表せるという理論を持っているらしいんですが、どうです?」
「どう、ですか」
少しだけ考えるふりをして、マスターは答えた。
「味気ないですね。それでは」
「あじ?」
蓮子が反復する。
「そうです。数式だけでものをはじき出すのなら、あんまり無駄がなさすぎますね」
言うなれば、喫茶店はあってもなくても構わない店の代表格のようなものですからね。
そう言って店主はカウンターの奥に消えた。
「……説を変えましょう」
蓮子は、苦笑いしながら煙草を灰皿に擦り付けた。
「方程式にない無駄も結構楽しいものね」
無駄を嫌った彼女は、コーヒーを啜った。
とは言え、互いに相容れるのも難しそうですね。蓮子さん、その気持ち本当に分かりますよ……!