殺し合いとは、凄惨で陰惨で刺激的なものである。
――などというのは、妹紅に言わせれば素人考えだ。
死亡と殺害のプロフェッショナルである彼女らにとって、そんなもの大した刺激にはならない。
突こうが斬ろうが焼こうが溶かそうが何度でも生き返る者たちに殺し合いへの緊張感を保てというのが、土台無理な話なのである。
そういうわけだから、ここのところほぼ日課であった輝夜との殺し合いも穏やかな態様へと変わってきていた。殴り合いである。
殺されたら復活しなければならず、死んで復活するのはわりと疲れる。いうなれば自らを産み直すようなものだからだ。
そして、不死人にとって殺し合いも殴り合いも刺激の程度には大差ない。
『なら、お互いを死なせるところまでやるのは止めておこう』
そんな合意が一時的に成立した。
殴り合うだけであれば能力や術の活用も最小限ですむ。せいぜいが宙に浮くくらいなもので、これなら焼たけのこを量産することもない。
そのようにしておいてよかった、と。
妹紅も輝夜も、その日は心底思ったのであった。
◇ ◇ ◇
晩秋の風が吹きすさぶ、身も心も凍えそうな日のことだ。
例によって妹紅と輝夜は殴り合っていたのだが、その息詰まる攻防に関しては割愛する。
長年の研鑽による熟達の技の応酬にお互いがヒートアップした、ということだけ述べておこう。
重要なのは次の三点である。
一点目。白熱したふたりは空中戦を繰り広げ、いつの間にか永遠亭周辺から大きく離れていたということ。
二点目。輝夜のロイヤルビンタ《高貴なる一撃》のクリーンヒットにより、妹紅が勢いよく吹き飛ばされたということ。
三点目。妹紅が吹き飛ばされたその先に、マッチ工房が存在したということ。
工房の窓を突き破って行った妹紅がその術により炎に包まれていたとしたら。
あわや大惨事――というところであった。
ふたりはマッチ工房の主に大激怒されるだけで済んだ。
「――で、私がこいつらを売り捌いてこなきゃならないってわけなんだけど」
妹紅は歩きながら籠一杯のマッチ箱を眺めやり、ため息をつく。
吐いた息は白く風に流れていった。
なんでマッチ工房があんなところにあったんだ、などと言ってみても仕方がない。
何かの弾みで火事が発生したら危険だ。
そう考えると、人里の中に工房を置くよりも里の外れに置いたほうがいいに決まっている。
非があるのは、殴り合いで盛り上がるあまり自分らが今どこにいるのかを失念していた妹紅たちのほうだろう。
「にしても、なんで私なんだよ……」
妹紅のぼやきはとどまるところを知らない。
激おこぷんぷん丸と化した工房の主は、輝夜と妹紅に二つの選択肢を突き付けた。
一つは、めちゃくちゃになった工房内の片付けをするというもの。
もう一つは、被害を免れたマッチを里にて売り切ってくるというもの。
輝夜と妹紅は顔を見合わせた。
妹紅が口を開くより一瞬早く、輝夜は手をピシッと挙げる。
背筋もピッと伸びていて実に美しい姿勢であった。
――私が工房内の片付けをお引き受けいたしましょう。
――ちょ、おまっ……!
誰が好き好んで寒空の下、売れるかどうかもわからないマッチを売りたいというのか。
そういえば以前、某阿礼乙女と某貸本屋娘が、文芸の同人誌は売れにくいといった話で盛り上がっていたのを目にしたことがあるが、マッチもそれとどっこいくらいではあるまいか。
いや、それ以上に厳しいかも知れない。完売は絶望的だ。
しかしながら、後れを取ってしまった妹紅は圧倒的に不利な立場となり、あれよあれよという間にマッチ箱の大量に入った籠を持たされ、あれよあれよという間に送り出されてしまったのであった。
そして現在。
妹紅は人里の中央通りに立っていた。
正確に言えば、人里の中央通りから少しだけ外れたところで立ち尽くしていた。
輝夜と妹紅。
箱入り姫と深山育ちである。
一見すると後者のほうが、物を売るには向いているように思えなくもない。
が。
「まいったな……」
妹紅は頭をかく。
さっぱり売れない。
とりあえず近くを行き交う何名かに声を掛けてみたものの、すげなく断られてしまった。
「マッチ? 間に合っているよ」などと言われれば、大人しく引き下がるしかない。
やっぱそうだよな、売れないよな。私だっていらないもん。炎出せるし。
それ以上食い下がるだけの気力も、輝夜のような話術も、持ち合わせていないのだ。
今までの人生を概ね孤独に生きてきた彼女は、他者と会話する能力に著しく乏しかった。
近時こそ理解者も出てきて、竹林の送迎などを通して他人と接する機会も増えてきてはいるが、それでも野生児に毛が生えたようなものである。
妹紅が貴族の娘だったのは千三百年くらい前の話だ。平安トークで客を集めようとしても無理がある。
「寒い……」
普段なら燃えるか燃やすかすればいいが、あいにくここは人里だ。
客の目を惹くにしても、謎の人体発火現象が契機では困る。すぐに通報されてお縄だろう。
火術を得意とする妹紅が着火道具であるマッチを売ろうとしているのに、こうして寒さに身を震わせている。なんたる運命の皮肉であろうか。
「このままじゃまずいな。どうしたものかね」
――協力者を募る。
正直、その手を考えないではなかった。
妹紅とていつまでも孤独な一匹狼ではいられない。他者と協力して事に当たるという発想が欠落しているわけではないのだ。
それに人里には妹紅の数少ない理解者である慧音がいる。
上白沢慧音。歴史家のワーハクタクである。
最近、年少者向けの授業で時計の見方を教えていて、「チクタクハクタク」という一発ギャグが受けたんだと嬉しそうに語っていた、あの慧音である。
だが、ダメだ。
確かに慧音は妹紅よりはるかに人当たりもよく話もできそうで、ついでにコネもありそうである。
けれども今の時期は寺子屋稼業が忙しいはずなのだ。
秋が終わり、冬が間近に迫っている頃合いともなれば、収穫に駆り出されていた子供たちの時間が空く。だから晩秋から初冬にかけては授業の密度が濃くなる。
妹紅としては、教師という仕事にかける慧音の情熱を知っているだけに、彼女の邪魔をするような真似はしたくなかった。
「あああ、だけどこのままじゃ輝夜になんて言われるか……」
そもそもマッチ工房の主に申し訳が立たないではないか。
無論その考えは大きい。そこを履き違えてはいない。反省は大事だ。
とはいえ、ライバルにして宿敵である輝夜の目が気になるというのもまた偽りのない事実であった。
さりとて他に協力してくれそうな者の当てがあるわけでもない。
妹紅は思わず頭を抱えた。
ちなみに、先ほどから妹紅はただひたすら独り言を呟いたり、頭をかいたり頭を抱えたりといった行動しか取っていない。
傍から見れば完全に「関わり合いになってはイケナイひと」である。
通りを行く人びとがさり気なく彼女の周囲を避けていることに、しかし懊悩する妹紅だけは気付けなかったのであった。
◇ ◇ ◇
工房内の片付けはそれなりに順調に進んでいた。
輝夜は決して勤勉ではないが、不真面目なわけでもない。
やることはやる。ただしめったにやらない。
今日できることは明日もできる。気長にやろう。
こんな感じの座右の銘を持っている。
今回はさすがに「片付けは明日にしますわね、ほほほ」というわけにもいかなかったので、粛々と作業を進めていた。
「しっかし、いったい何があったんだね? あんたらみたいな女の子が」
好奇心をいだいたのか、工房の主が聞いてくる。
たしかに、輝夜も妹紅も美少女の部類に入る。というか、輝夜はかつて絶世の美女とまで謳われたのだ(今は美少女力を調整しているため、工房の主をその意に反して魅了してしまうようなことにはなっていない)。
そんなふたりがボロボロの姿になって、あまつさえひとりは窓から叩き込まれてきたのである。
これで素性や事情がまったく気にならないとしたらよほどの大物であろう。
「ええと、ちょっとした淑女の嗜みですわ、うふふ」
少なくともふたりの殴り合いはちょっとしたものではなく、淑女の嗜みでもないので、輝夜の言は「ええと」と「うふふ」を除き、全てデタラメである。
工房の主もあからさまに胡散臭そうな目つきで輝夜を見てきたが、そこはそれ。月人にして蓬莱人となった輝夜の肝は太い。何せ食べたら不死になるくらいの逸品なのだから。
「ところで……私は詳しくないのですけれども、マッチというのはどれほど売れるものなのでしょうか」
さり気なくそうやって話題を変えるのは、輝夜にとってお手のものである。
とはいえ実際に気になったことでもあった。
商売として成り立っているからには、それなりに売れはするのだろう。
だが、輝夜は屋敷内でマッチが活躍しているのを見たことはなかった。
「ふむ、そうですな。慣れた者なら数刻もあれば――今の時期なら、まあ最長でも半日は掛かるまいよ」
すると最短でも半日ちょっとは掛かるな、というのが輝夜の内心での見立てである。
だが、それでいいのだ。
きっとそれが彼女には必要だろう。
ふと輝夜は悪戯な気分になる。
少々意地悪く、主に聞いてみた。
「信じられるのですか、彼女を」
「うん?」
「いきなり窓から飛び込んできた素性も知れぬ輩に、大切な商品を委ねてよかったのか、と」
商品を持ち逃げされるかも知れないし、売り上げを持ち逃げされるかも知れない。
せめて下働きの小僧を見張りにつけるとか、そういったことをしなくてよかったのか。
輝夜の、ある意味当然ともいえる問いは、しかし。
「はっはっは!」
主の豪快な笑い声で返された。
目を丸くする輝夜に主は言う。
「いや、おっしゃるとおり。疑い出したらキリがない。ですが、そういった諸々のことを信じられなけりゃ、ここで商売はやっていられません」
「そう、でしょうか」
「それに逃げ出すつもりがあるなら、その機会はいくらでもあったでしょうしな」
輝夜にせよ妹紅にせよ、主が向かってくる前に退散することは可能であっただろう。
空を飛んで逃げればたいていの者は追って来ることなどできまい。
「まあ、約束を違えて姿を眩ますような奴かどうかは目を見ればわかりますよ」
自信満々な様子で胸を張る主に、輝夜は思わずくすりと笑みをこぼした。
なんだかんだと直情的な、あの焼き鳥女のことだ。
おそらくは逃げ出そうという考えなんて頭に浮かびもしないのではないか。
◇ ◇ ◇
「ううう、寒い。逃げ出したい。というかこいつら燃やしてしまいたい」
とまあ、ご覧の有様である。
気温はどんどん下がり、冷たい風は容赦なく吹き付け、行き交う人びとは足を止めることもせず、ついでにマッチは一箱も売れていない。
先ほど意を決して、再度「マッチいかがですかー」と声掛けをしてみたものの、近くの店の主人に「商売の邪魔になるから別の場所でやってくんないか」と言われる始末であった。
「くそっ、輝夜め! くそくそっ!!」
中央通りを歩きながら悪態が口から漏れ出てくるが、これはわりといつものことだ。
とりあえず何かままならぬことがあれば輝夜が悪いということにしてしまえばいい。
いや、今回の件については実際に奴が悪いのではないか。
輝夜があの凶悪な鞭打を繰り出してこなければ、自分はあのマッチ工房へ吹っ飛ばされることもなかった。
輝夜が工房内の片付け作業を早い者勝ちで奪わなければ、自分が片付けのほうに志願していた。
要するに。
「輝夜が悪い。輝夜のせいだ」
うむ、と頷いた。
そもそも山育ち竹林暮らしの自分に、物を売りつけるなどという壁は険し過ぎる。
道行く人びとにぼんやりと目をやりつつ妹紅は思う。
これなら山へ行って鹿を十頭ばかり狩ってこいと言われるほうがまだマシだっただろう。
「あ」
ひらり、と目の前を白い何かが落ちていった。
思わず天を仰ぎ見る。
「雪、か……」
初雪であった。
浪漫の欠片もない状況ではあったが、それでも雪は降り注ぐ。
秋は過ぎ去り、こうして冬がやって来る。
毎年、毎年。
それが歓迎すべきことなのか、それとも嘆くべきことなのか、それすらも今の自分にはわからない――。
「なんて浸っている場合じゃないよなァ」
降雪の影響もあってか、辺りは少々薄暗くなってきた。
こうなると帰り支度を始める者も多いだろう。心なしか人びとの足が速まってきているようにも思える。
今でさえ一つも売れていないというのに、このままではまずい。
妹紅の心に冷たいものが、じわりと沁み込んで来つつあった。
貴族の娘として屋敷の奥深く生きていた頃とも、身を隠して深い山で暮らしていた頃とも、迷いの竹林で息を潜めるようにして過ごしてきた頃とも違う。
それは群衆の中の孤独であった。
――などと言えばもっともらしいが、要するに居た堪れない気持ちが込み上げてきたということである。
誰もいないところで一人でいるより、他に多くの者がいるところで独りでいるほうが、よりキツいのだ。
「ううう、ど、どうしよ……」
妹紅は籠の中のマッチ箱に話し掛けるが、マッチ箱たちは何も応えてくれない。
◇ ◇ ◇
「ふぅ……気持ちがよいものね。こうして片付いていくと」
「元はと言えば、あんたらがぐちゃぐちゃにしたんだがね」
「あらまあ」
満足感に浸る輝夜の後ろで、笑みを浮かべつつ物申す工房の主。
この人ちょっと永琳に似ているかも。
そんなことを輝夜はちらっと思った。
「だが、思ったよりちゃんと働いてくれるのには感心しましたよ」
「私たちの責任ですもの」
元来、輝夜は好奇心の強いタイプである。
そうでなければ好事家は務まるまい。
ゆえにこうして片付けや掃除をしながら地上の民の工房というものを観察するのも、彼女にとっては娯楽と言えた。
事実、マッチというものがどのように作られ、商品として出来上がっているのかを見るのは、非常に興味深いことだった。
屋敷では、誰も輝夜に雑事を任せようとはしない。せいぜい永琳が時々ちょっとした用事を頼んでくるくらいのことだ。それにしたって、輝夜が退屈そうにしているのを察した上でのことだというくらいはわかっていた。
結局、特にやることもなければ書を読むか、妹紅と殴り合うくらいしかできない。
それはそれでスッキリするけれども、屋敷内に灯る火がいかにして点けられているのかも知らないというのはきっと情けないことなのだろう、と輝夜は思った。
「あのお嬢さんが燐寸を売り切って戻って来るのと、ここが完全に片付くのと、さて。どちらが早いかな」
「どうでしょうねぇ」
輝夜は微かに首を傾げたが、無論内心ではこちらのほうが圧倒的に早いだろうと思っている。
何せ妹紅は妹紅なのだから。
内弁慶ならぬ敵弁慶。彼女が敵にしか強く出られない人見知りであることを輝夜はよくよく承知していた。
片付けを終えたところで迎えに行くのも悪くない。
大量の在庫を抱えて半ベソをかいている妹紅の姿は、さぞかし見ものだろう。
輝夜はひそかにほくそ笑んだ。
◇ ◇ ◇
生命というのは自然にとって異常な現象である。
そんなことを何かで読んだ覚えがあった。
生まれる前の状態。死んでいる状態。
それらと、生きて活動している状態のどちらが時間としては長いか。
人間であればせいぜいが数十年。その前も後も永遠に近い。
すなわち永遠の中の例外的な数十年こそが生命の営みなのだ、と。
――ならばこの自分はいったい何なのか。
妹紅としてはそのように思わざるを得ない。
通りを行く人びとはどこからともなく現れ、そしてどこかへと去ってゆく。
あのひとりひとりがマッチの炎なのだ、と妹紅は思った。
川を流れてゆく灯篭のような。流し雛のような。
遠くない未来にいつかは消えゆく、つかの間の輝き。
ひらひらと舞い落ちる雪に覆い隠されてゆく、淡く小さな光。
自分だけが、いつだって現在に取り残されている。
何が言いたいかというと。
「一箱も売れないンだが、どうなってるンだこれは」
自分に商才がある方だなんて間違っても思ってはいなかったが、さすがにこれはどうなのか。
通りで立ち止まって売るのは、立ち並ぶ店の営業妨害になるらしい。
歩き回りながら売ればセーフだというのでそうすることにしたのだが。
「マッチ! まっち! 燐寸! いかがですかー!」
今更気後れしていても仕方がないと大声を張り上げてみる。
妹紅が大声を張り上げるのなんて、獣を威嚇する時か、輝夜を威嚇する時くらいなものだ。
その貴重な大声を張り上げ、されどマッチは一箱も減ってゆかない。
思わず哲学の妹紅になりそうにもなろうというものだ。
「マッチ、はぁ……マッチ、はぁ……」
売り言葉にもため息が混じる始末。もはや何をどうしたいのだかわからない。どこに出しても恥ずかしくない不審者である。
その時であった。
「あっ、お姉さんマッチ屋さん?」
妹紅が顔を上げると、そこには年のころ七、八つといった童がいた。
駆けてきたのか少し息が上がっているようだ。
「マッチ一箱、くださいな」
嬉しい。
と思う前に、妹紅は不審に思った。
こんな幼い子供がマッチを何に使うというのか。売るのはいいが、それで貸本屋に放火でもされては堪らない。
「何に使うつもりなんだい?」
そう聞くと童も妹紅の不審げな表情に気付いたようで、慌てたように首を振る。
「あいや、違いますっ! 父ちゃんが煙草の火種を切らしちまって、そんで!」
妹紅は童の瞳をじっと見つめた。
相手が嘘をついているかどうかくらいは目を見ればわかる。相手が幼子であれば、なおさらだ。
「んー……。うん、疑って悪かったよ。ほら、一箱こんだけだ」
妹紅は疑いを解き、マッチの値段を示してやる。
童は安心したように笑って、握り締めていた小銭を差し出してきた。
体温が移ったのだろう、ほのかに温かいそれをゆっくり数える。
息を止めてゆっくり数え、頷く。
「確かに」
「ありがとう! それじゃ!」
童はそう言うと、通りを駆けていった。
小さいその背中が人ごみに完全に紛れて見えなくなってしまったのを確認して。
「はぁー……!」
妹紅は大きく深いため息をついた。
肺の中の空気を全て吐き出してしまうくらいの、でっかいやつを。
たぶん童からはそう見えなかっただろうけれども、妹紅は緊張していた。
輝夜と対峙する時にも覚えなくなった大きな緊張感。
人波の中、まったく売れないマッチの入った籠を持ちひたすらさまよっていると、自分の存在が薄れていくような心持がした。
世界がどこまでも自分から遠ざかってゆくような。
社会を構成する歯車から決定的に弾き出されてしまっているような。
そんな心許なさが。
童と言葉を交わし、温かな小銭を受け取った瞬間、すっと消えていった。
薄れかけていた自分の存在の輪郭が俄かにくっきりとした。
「……まあ、頑張るか」
妹紅は軽く頬を叩き、再びマッチ売りの声を張り上げるのだった。
◇ ◇ ◇
マッチ工房内は、ようやく片付いたところであった。
輝夜は数年ぶりくらいの達成感に上機嫌となり、思わず工房の主とハイタッチなんぞ交わしてみた。
「さすがに気分が高揚するわね」
片付いた工房の中を輝夜は見渡す。
窓や一部の器具などは壊れたままだが、それについては後日補償すると約束してある。
輝夜はいちいち現金を持ち歩かないので、支払いは永琳任せとなるのだ。
永琳は渋い顔をするだろうが、殴り合いの必要経費と思えば安いものだろう。
むしろ他者の生命・身体を巻き込まなかったのは不幸中の幸いといえる。
「さて、後はもうひとりのお嬢さんが戻って来れば約束は果たされるわけなんだが」
主が壁に備え付けられていた時計に視線を向けた。
片付けを始めてから数刻ほど経っている。慣れた者ならば完売御礼の札を掲げながら意気揚々と凱帰してきてもおかしくないくらいの時間だ。
だが、言うまでもなく妹紅は戻って来ない。
「……まあ、そうなるかしら」
粉々に砕け散った窓は応急処置として新聞紙で塞いである。
その隙間から細雪の舞う曇天が垣間見えた。
輝夜は、なんとなく当てが外れたような気持ちになっている自分に気付く。
彼女がすぐには戻って来ないことなんてわかっていたはずなのに。
――ふっふっふ、どうだ。全部売ってきたぞ! おや? おやおやぁ? そっちはまだ片付けが終わってないのか? んんー?
そんな得意満面な彼女のウザい表情も見てみたかっただなんて。
思ったりなんか、しているわけじゃないけれど。
「心配かね? お友達のことが」
主の言葉に輝夜は内心で思わず苦笑する。
お友達、という響きが妙に暢気なものに感じられたのだ。
殺し合って、その後に殴り合うようになって、この先自分たちがどういう関係になるのかはわからない。
ただ。
「さて、どうでしょうね」
笑みを深めた輝夜に、主は顎を撫でる。
「では提案というか、頼みがあるんだが――」
◇ ◇ ◇
先ほど童に一箱のマッチを売ってから、流れが来た。
今や中央通りのマッチ売りは押すな押すなの大盛況!
完売どころか新たな予約注文が山のように飛び込んでくる始末である……!
――などということは全くなかった。
妄想はマッチの火よりも儚く霧散し、妹紅はうなだれてため息をつく。
「はぁ……」
雪は次第に降り方が強まっているように感じられる。
やはりさっきの一箱は例外的な売り上げだったのだと認めざるを得ない。
マッチを売りに来てからどれくらい経ったのかはわからないが、体感としてはもう一日中こうして歩き回っているような気がした。
妹紅は通りに立ち並ぶ店を眺めやり、また自分と同じように歩き回って何かしらの品物を売っているらしい商人たちに目を向ける。
どこもそれなりに客がついているように見えた。
今までこうして周りに目を向ける余裕もなかったのだと思い、妹紅は苦い笑みを浮かべた。
他の物売りにはどんどん客がついているのに、こちらは未だ一箱しか売れていない。その違いが否応にも見て取れて、心に灯りかけた火が小さくなってゆく。
(――もう戻ろうかな)
マッチ工房の主には申し訳ないが、このままここに突っ立っていても売り上げが伸びるとは思えない。
それなら一度戻って売り方のコツなどを聞いた上で、また日を改めて来るというのも手なのではないか。
きっと輝夜には馬鹿にされるだろう。この無能、うつけ、たわけ、間抜け、たくらんけ、根性なし、話下手、焼き鳥女、パッパラパー、乱暴者、にぶちん、すっとこどっこい……。
「……いや、言い過ぎだろ」
ひとを罵る語彙は無駄に豊富な奴なのだ。かつては歌のやり取りが社交だったのだから語彙が貧弱では困るのだが、だからといってそのスキルを駆使して面罵されても腹立たしい。
前門の売り上げゼロ、後門の輝夜といったところである。妹紅は今日何度目か忘れたが頭を抱えた。
「――おや、貴女はもしかして」
「えっ?」
不意に掛けられた声に、妹紅は顔を上げる。
そこにいたのは…………おっさんだった。
小太りの、見てくれのイマイチさえないおっさんである。
どこにでもいそうな感じの、よく見ると愛嬌がなくもないかなというおっさんだ。
「やっぱりそうだ。その節はどうもお世話になりました」
さえないおっさんは頭を下げる。
だが、妹紅は知っていた。
彼が里の小料理屋の店主であるということを。
彼は妻に先立たれ、一人娘と暮らしているということを。
彼がその一人娘を深く愛し、とても大切にしているということを。
彼がその一人娘のためなら自分の命すら懸ける覚悟を持っているということを。
なぜならば。
今年の春先に、高熱でぐったりとした一人娘を抱えた彼を永遠亭まで案内したのが妹紅だったからだ。
陽が落ちようという頃に、薄暗い竹林の雪融け水でぬかるんだ地面を、共に懸命に駆けた仲だったからだ。
気が動転した彼を落ち着かせるために、彼の家族への想いを、頷きながら聴いてやったからだ。
「見るところ、ずいぶんと長い間、外にいらっしゃるようですが」
妹紅の頭や肩に雪が薄らと積もっているのに気付いたのか、彼は首を傾げる。
そして真剣な顔で言った。
「何か事情がおありなのでしたら、協力させて頂けませんか」
「ありがとうございましたー」
妹紅は小銭を確認し、頭を下げる。
これで籠の中のマッチは半分ほど減った。
場所を移してからのマッチの売れ行きはそこそこであった。
何より寒風の中を当てもなく歩き回らなくてもよくなったのが大きい。
ひさしの下にいれば降雪も気にならない。
「いやぁ、人生ってのは何がどうなるかわからないものだな、本当に」
籠を軽く振り、しみじみと妹紅はひとりごちた。
そう、先ほどのことだ。
マッチ売りをすることになった経緯を妹紅がおっさんへ簡単に説明すると、彼は頷いてあっさりと言った。
――では私がその籠の中のマッチを全て買い取らせて頂く、というのはいかがでしょう。
――えっ?
貴女は娘の恩人でもありますから、とおっさんは笑うが、妹紅としてはそれどころではない。
こんなに呆気なく完売してしまっていいのか。何か自分は狐か何かに化かされているのではないか。どうだ見たか輝夜やったぜ。
そんな疑問が胸中をぐるぐると廻る。
妹紅はとっさに自分の右頬を思いっきり殴りつけてみた。めっちゃ痛い。
いきなりの奇行におっさんがぎょっとしたような顔をするが、これで申し出が夢ではないようだということはわかった。
――あ、あの、大丈夫でしょうか。
たぶん頬のことを言っているのだろう。優しいおっさんである。
妹紅は頬を押さえながら頷きを返しつつ、手元に視線を落とした。
この籠ごと渡してしまえば作戦終了だ。今から戻っても片付けは終わっているかも知れないが、全く売れずに帰るよりははるかによいだろう。
そうなのだが、何故か妹紅にはそれができなかった。
妹紅は今日、里の中央通りへやって来てからの自分を思った。
妹紅はしばらく前に童から渡された、小銭の温もりを思った。
妹紅は自分を送り出す時の工房の主と、輝夜の顔を思った。
ここでおっさんに全ての在庫を引き渡してそれで済ませてしまうのが、どうしてもいいことだとは思えなかったのだ。
別に満足感や達成感を得たいわけではない。元はと言えばマッチ工房の主に掛けた迷惑の償いのための仕事であった。
しかしそれだけではないような気もした。
だから妹紅はおっさんに言った。
申し出はありがたいけれども、そうまでして頂くのも悪い。
可能ならマッチを求める方々に売りたいのだが、知恵を貸しては貰えないか、と。
そうして現在に至る。
おっさんは場所と知恵を貸してくれた。
小料理屋の前で商いをすることを快諾してくれ、どうすれば往来での物売りが上手くいくのかの助言をくれたのである。
すなわち、売りたい物を必要としている客を見分ける方法や声の掛け方、話の持っていき方などだ。
おっさんもマッチ売りの経験があるわけではないが、さすがに商売人ではある。妹紅とは比べ物にならないくらいの技術を持っていた。
また、自分の店を訪れる客たちに声を掛け、マッチの購入も勧めてくれた。
ついでに娘さんがおにぎりと熱いお茶を出してくれたことも付け加えておこう。
「はい、ありがとうございましたー」
一箱、また一箱とマッチは減っていき、当初はほとんど不可能にすら思えていた完売も視野に入ってきた。
別にマッチの入った籠が重かったわけでもないが、それでも次第に軽くなる籠と共に気持ちも軽くなっていくようだった。
「ああ、藤原さん。先の夏には大変お世話になりました」
「いえいえ、どういたしまして……」
嬉しかったのは、妹紅が竹林を案内した相手が何人か客として訪れてくれたことである。
これもおっさんが話を回してくれたのだろうか。
妹紅にはわからなかったが、いずれにしても彼ら彼女らは妹紅にとって顔のない人びとではなかった。
家族があり日々の生活があり、泣いたり笑ったり安堵したりする、紛れもない人間たちだった。
籠は軽くなり懐の小銭は増えてゆく。
その度に妹紅は自分の足が地に着いてゆくような、そんな気がした。
そしていよいよマッチが残り一箱となった、ちょうどその時である。
妹紅はタイミングよく目の前に現れた者の姿に思わず苦笑してしまった。
◇ ◇ ◇
「――マッチ売りの姿が板に付いているようね」
「……輝夜」
目の前にいたのは、その黒髪と肩に雪を薄らと積もらせた蓬莱山輝夜だった。
吐く息がやや荒く、白い。
「工房の片付け、終わったんだな」
「当然。さっくさくよ、あのくらい」
「それで私を笑いに来たってわけか」
「そうね。笑いに来た」
輝夜は両膝に手をつきながら、憎まれ口を叩く。
妹紅は肩をすくめた。
「笑えよ。こっちはまだ完売していない。あと一箱だったんけどね」
「……そう」
輝夜は俯き、軽く頭を振った。
積もっていた雪がはらはらと落ちる。
そして大きく息を吸った。
「――やーいやーい妹紅の無能、うつけ、たわけ、間抜け、たくらんけ、根性なし、話下手、焼き鳥女、パッパラパー、乱暴者、にぶちん、すっとこどっこいっ!!」
「うわぁ……」
実に腹立たしい表情だった。
やっぱりこいつはムカつく、と改めて妹紅は確信する。宿敵だ。怨敵だ。絶対許さない。
そして一息で妹紅を面罵し終えると、輝夜は片手を差し出してきた。
「ん」
「うん……?」
意味がわからず妹紅が首を傾げると。
「マッチよマッチ! 見てわかんないの!? 寒いからマッチの火で暖まりたいのよ!」
「え、あ……は?」
マッチを、買いたいということなのだろうか。
思考が停止した妹紅に業を煮やしたのか、輝夜は妹紅の持つ籠から最後のマッチ箱をひったくるようにして取り上げた。
そして、べっと舌を出す。
「これで完売ね」
その顔に思わず見とれてしまったわけではないが。
妹紅はぽかんと口をあけ、固まってしまった。
輝夜はむうっと口を尖らせる。
「何よ。何か文句でもあるの?」
「い、いや」
妹紅が首を横に振ると、輝夜は満足そうに笑った。
勝者の笑みであろうか。
「最後の一つを買ったんだから、これで私の勝ちね」
得意満面な表情でそんなことを言う。
一方の妹紅は悔しそうな顔を――してはいなかった。
真面目くさった顔つきである。
そして言った。
「輝夜、お前マッチ代持ってるのか?」
「…………あ」
◇ ◇ ◇
『改めて、ご迷惑をお掛けいたしました』
マッチ工房の主に売上金を引き渡し、改めて妹紅と輝夜は頭を下げる。
主は目を細め、「もう済んだことだ」と笑った。
そうしてマッチ箱を取り出すと一つずつ手渡してきた。
「これは」
「うちの大事な商品さ。手伝ってくれたお礼にね」
妹紅は輝夜と顔を見合わせた。
どちらからともなく、笑った。
それから。
妹紅と輝夜の関係が大きく変わった、ということはない。
相変わらず顔を合わせれば殴り合う仲だ。
少しだけ変わったことがあるとすれば、次の三点であろう。
一点目。自分たちがどこで殴り合っているのかに気を配るようになったこと。
二点目。妹紅が輝夜のロイヤルビンタに一段と気を付けるようになったこと。
三点目。妹紅の煽り言葉に「マッチ代あるか?」というものが加わったこと。
ちなみに、妹紅の私生活に関してはもう一つ。
火を使いたい時、たまにマッチを使うようになったこと。
指をパチンと鳴らせば火なんて簡単に生み出せる。
だけど、それでもマッチを擦ることに何か意味があるのかも知れない。
もちろん意味なんてないのかも知れないが、妹紅は別に構わなかった。
マッチを擦る時の手応えが、なんとなく気に入ったからである。
おそらくはそんなものなのだろう。
―― 了 ――
しかも読者をきちんと納得させる表現も多く、オチもスッキリしていました
平安トークじゃ客は来ないとか、敵弁慶とか語彙が豊富だから罵倒のレベルも高い等、「確かにそうだよなぁ」といちいち頷きながら楽しめました
しかし輝夜と妹紅が高額な請求書と
マッチをもって永遠亭に帰るとなんか
どっかのバカ高いキャバクラか
スナックにでも行ったかのようですな
永琳が素敵な勘違いをせんかと
想像しました
私も妹紅のマッチ買いたいです。
そう思わせられました。
心が落ち着くお話は素敵です……