日が暮れたら夜空を見よう。
暑い日差しが照りつける紅魔館の庭で花に水やりをしていた美鈴は、ずっとそう考えていた。
ここ連日の猛暑にも負けない花達は、正午の光を目一杯浴びて、その美しい花弁を青空の下で咲かせている。庭園は誰に見せても恥ずかしくない。そんな花達を労うような気分で、館の住人たちと月星を眺めよう。加えるなら酒を。叶えば労働の意欲も湧いてこようというものだ。
撒いた水が虹を作る。その水の一部が花弁を濡らす。それも茎を伝って土へと流れていく。
ジリジリと照りつける太陽は、美鈴の頬に一筋の汗を流させる。軍手でそれを拭い、麦わら帽子のツバを上げて彼女は太陽を見上げた。
「全く、本日もお変りなく……」
降参するような笑みを浮かべて独りごちる。
太陽はいつまでも天頂から動かない。これからも動かないだろう。もういつまで太陽があの場に居座っているのか、外勤の彼女でもさすがに正確には覚えきれていなかった。
しかし恐らくだが、もう二ヶ月ほどは動いていないだろう。
お陰で主とその妹様は省エネモードで長らく棺桶から出られず、魔女殿は図書館の書斎に篭もりきりときた。これではこの紅魔館もろくに機能しない。館の顔も頭脳も参っているのでは、それは存在しないも同然だ。
美鈴は空っぽになった如雨露を定位置に掛けて、水をやった場所を指差し確認。
「左よーし右よーし、中央よーし。はい、水やり終わり」
この日差しの中で花達もよくやっている。まるで変わらぬその姿は、太陽と同じく時が止まっているかのようだ。
風も感じない。花もそよがない。涼も取れない。
この閉ざされた夏の世界の中で、美鈴はいつもと変わらずに業務を淡々とこなしていく。
また汗が顎下まで垂れてきた。それを再び軍手で拭って、麦わら帽子を脱いでラックに掛け、今度は掛けてあったいつもの帽子を被って門前まで飛んだ。 彼女は珍しく髪を動きやすいように縛り上げ、ポニーテールで纏めている。彼女の健康的な肌色のうなじを惜しげも無く外界へと晒していた。それもこれもこの暑さのせいだった。
最近は流石に炎天下の棒立ちもきつくなって、門前には彼女が設置したビーチパラソルと白い椅子とテーブルが置かれている。それらが作る避暑地に入って、美鈴は湖の方向をぼんやりと眺めた。
これから長らく、退屈な時間が始まる。
「……ふぅ」
溜息を含めるような小さな吐息を吐いて、美鈴は白い椅子に背中を預けた。
机上には透明な板とそれを立てかけているスタンドがあり、美鈴はその板に指を置いた。美鈴の指に反応し板上に文字や絵が浮かび上がる。なぞると板上の文字も動いていく。
これは紅魔館の魔女と河童が作り出したプレート型魔導器具だ。紅魔館限定で簡易的な文面連絡を取り合うなど、通話やその他諸々の用途で使用されている。
河童は〝グリフォン〟(グリモワール・フォン)と呼びたがっているが、魔女は認めておらず(仮)が取れない状態であった。
「定時報告はっと……」
現状、館内で主だって動いているものは美鈴と小悪魔のみだ。美鈴はそのグリフォン(仮)で小悪魔からの連絡を確認していた。特に問題はないという報告を見て、美鈴は視線を湖へと移す。
「う~ん……」
変わること無い景色、湖の向こう側には変わらぬ幻想郷の緑の連峰が見えている。この暑さだというのに湖の水面は涼々と漣を立てている。しかし魚が跳ねたり、それを狙う鳥も見えたりはしない。
この空間では、生物の気配を感じることが出来ない。
美鈴は能力の関係上そういった物の気配を探ることができる。が、現状その力は使えておらず、感知できるのも内部で対流する物のみであった。
探索もしてみたが、生物に出会うことはなかった。
そのついでに脱出も試みたが失敗した。
どれだけの距離を歩いても、どれだけの速度で飛んでも、誰が外を目指しても、最終的には館の方角を目指していた。まるで空間が捻れているかのように、現在この紅魔館は一定距離を何らかの方法で完全に封鎖されている。
閉ざされた空間に、暮れることのない日差しが振り注いでいる。
まるで牢獄。囚人は昼を嫌う妖怪たち。暑さと光と退屈で、身も心も擦り減らしていく。これほど妖怪に対して効果的な牢屋もないだろう。
これを作り出した者は、よほど妖怪に精通している。果たしてどんな感情を抱けば、これほどまでに壮大で完璧な牢獄を作れるのだろう。
などと詩人でもないのに。妖怪は一人で連綿とした無意味な思考を続けていた。
そうでもしないとやっていられない。視覚の刺激も、嗅覚の刺激も、聴覚も味覚も触覚も、もう麻痺しきてしまっている。新鮮味を求めて飢餓している。ともすればそれは理性すらも吹き飛ばし、妖怪の中の〝妖怪〟を引き摺り出すだろう。
それは拙い。それだけは拙い。
ただでさえ堪え性のいないこの館で、自分まで自制を失ってしまえば、本当に終わりだ。だから美鈴は、必死に下らないことを考えて心を乾かさないように努めていた。
「くぁ……」
そうしている内に眠くなってきて、欠伸が出た。こんなに暑くても午睡できるものだ。しかも同じ周期で睡魔は襲ってくる。おおよそ三時くらい。我ながらいい体内時計を持っているなと、美鈴は自嘲気味に口を曲げた。
「んー、ん?」
眠るまいとして体を伸ばしていると、湖の向こうから何かがやってくるのが見えた。
時間の進まないこの世界では珍しい――というより異変だった。
美鈴は思わず喜びの声を上げそうになった。けれどその欲求をぐっと堪える。気高き吸血鬼の館、高名なるスカーレットデビルの住まう紅魔館にやってくる来客に、見苦しい姿は見せられない。
やがて、やってきた客が、美鈴の前に降り立った。
彼女はいつも通りの巫女服に、紅白のリボン。手には大幣を携えて。
「ようこそ紅魔館へ、博麗霊夢様。随分と、遅いお付きで」
「呼ばれた覚えも無いけど来たわよ。これでも、かなり急いで来たほうだけどね」
口をへの字に曲げ、嫌そうな声音と表情でそう答えて、博麗の巫女はやってきた。
―――1―――
幻想郷。妖怪の巣窟。閉じた楽園。その世界における調停者、博麗霊夢。
「大体ね、アンタらは外に出なさすぎなのよ。だからこんな事になってるのに誰も心配しないんだわ」
到着早々、彼女はそんな愚痴を吐いた。美鈴は苦笑してその言葉に返す答えを探しながら、霊夢と館の廊下を歩いて行く。
「結構出てると思うんだけどねぇ。咲夜さんとか、買い出しにはよく行くし」
「人里じゃなくてさ、もっと別の所と繋げなさいよ。里の近くなら妖怪寺とか仙人廟とか、いくらでもあるじゃない」
「あの人達ともそれなりに顔見知りだけど、まず何より連絡しにくいのよねぇ、ウチって。立地とかいろいろ。来るとすれば本泥棒と文屋とたまに人形遣いと花妖怪とかくらいでさ」
「そうね。私も魔理沙に知らされて来たんだし」
「ふふ。元々うちのお嬢様はあんまり他人に対して気を許す方でもないし、今ぐらいで丁度いいわ。現に貴女がこうして来てくれたしね」
「ぐむ……」
そう。こうして博麗の巫女が出向いたということは、これが異変であると、また異変の芽であると彼女に判断されたのだ。
美鈴はまず彼女をこの館の主であるレミリア・スカーレットの元へと案内していた。客人を主の元へと案内するのは当然であるし、省エネ状態にある彼女の精神にも、多少の刺激になると考えたからだ。
それに、博麗の巫女がこうしてやって来たという事は優先して主であるレミリアに伝えなければならないと、美鈴はこの世界が創られてからずっと考えていた。
「そんな事より現状を教えなさいよ。まさか何もせずにだらだらしてたわけじゃないんでしょう?」
「まぁまぁ、楽しみは後に取っておきましょう」
焦らしつつ、美鈴たちはレミリアの寝室の前にやってきた。美鈴が小さく3回ノック、起きているかどうかを確認する。
「お嬢様、美鈴です。博麗の巫女が来ました」
「……いいわ、通して」
運の良いことに彼女は起きていた、それともこれも、彼女が握る運命の手繰り合わせだろうか。それは美鈴には図りかねることだった。
扉を開けると、そこには普段通りに(実際は普段着よりも幾分か気合の入った服装で)椅子に着いている吸血鬼が待っていた。
「失礼します……どうぞ」
先に美鈴が入室し、扉を開いて巫女の入室を促す。霊夢は導かれるままにレミリアの寝室へと踏み込んだ。
「うっわ、なにこれ。威厳もへったくれもないわね」
吸血鬼の寝室は、廊下の空気とは打って変わってひんやり冷えていた。魔法による空調機が動いているのだろう。窓は閉められているが光は遮られていない。よって部屋の状態が一瞬で見て取れる。だから霊夢は、呆れた顔で率直な感想を述べたのだった。
レミリア・スカーレットの部屋は荒れ果てていた。
ベッドの上の棺桶はまだ良いとして、普段はクローゼットに掛けられているであろう服の数々はよれて床に放置されている。読みかけの本は開いた状態でページを床に擦り付けられて放置。魔女が見れば卒倒物だろう。机には食べかけの食事に零したであろう紅茶の染みをつくられた書類が幾つか散らばっている。
酷い有様だ。まるで嵐の通った後だ。いくら服を取り繕った所で部屋がこれでは意味が無い。
けれどもそんな事は関係ないと涼しい顔をして、吸血鬼は水銀の髪の下で紅玉の瞳を光らせていた。
「ようこそ博麗の巫女。待ち詫びたよ、随分遅かったじゃない」
「あのね。そこの昼寝門番にも言ったけど、アンタらは外と連絡を取らなさすぎ。だから異常が合っても分からないのよ」
「え~、でも咲夜とか美鈴とか、結構人里には顔を出してるじゃない。私だって、宴会には出向いてるし」
「もっと密に取らないと、下手したら廃館になるわよ」
「大丈夫、貴女が死ぬ前に廃れるつもりはないから」
「ふん、どうだか」
レミリアは椅子から立ち上がる。ただ、その動作はゆったりとしていて、肘掛けに両手を着くという重々しさだ。彼女の容姿と相まって、それはか弱く細い物に思えた。
「お嬢様」
「ん……」
美鈴が彼女の側に寄り手を差し出した。それを掴んで立ち上がったレミリアはよろめき、彼女に寄り掛かるが、やがて自立する。
「まるで子供ね」
「全く、この空模様のお陰で力も出ないよ」
霊夢の揶揄にもレミリアは苦笑するだけ。一人で歩き出そうとするが、ふらりとよろめく。それを美鈴が支え、すぐに彼女を仰向けで抱き上げた。プライドの高い彼女でも、これを嫌がりはしなかった。ただ弱々しく自嘲的に笑うだけ。
しかしこれでは姫というより病人だ。
陽の光の毒に侵された、悲しい病弱な吸血鬼。
「じゃ、まぁ、見苦しいけど行こうか。こっちでも出来る限りで調べたんだ。それを伝えるまでは死んでも死にきれない」
「伝えてぽっくりなんてやめてよね。私が来た意味がなくなっちゃうわ」
「あれ? いつから妖怪の味方になったんですか?」
「ふん。勘違いしないで。この館にだって一応人間はいるじゃない。私は三六五日四六時中、人間の味方でしか無いわ」
「左様で」
そうだろう。だから困るのだ。そんな風に、美鈴とレミリアは同時に同様の感想を抱いていた。
想定されていた事態とはいえ、博麗霊夢がこの館に訪れることは、彼女たちにとっては好ましくはなかった。
いや好ましい面もあった。彼女が持つ天性の直感で事態を終息に導いてもらえるというならありがたい話だ。ただし最も彼女たちが望む形で、だが。それはレミリアたちの交渉次第だろう。
しかしやはり、彼女が来たという展開は、好ましくないという思いの方が強い。
廊下を進んでいく中で、美鈴はレミリアを見て困ったと言いたげに眉間を細める。彼女の主は変わらず苦い微笑みを浮かべて、首を横に降るだけだ。どうしようもないという諦めが、二人の中で共有されてしまう。
「元凶は突き止めているのね?」
「はい――いやまだ確証はないんですけどね。何せこの世界はひどく感覚が鈍りますから」
「あー、確かに」
美鈴の言葉に霊夢も頷く。彼女もここに来て以降、状態に違和感を覚えていた。暑さのせいか、意識がすっきりしない。霊夢は今、霊力や術も知覚できていない。
「なーんかぼんやりするのよねぇ。上手く集中も出来ないし」
「パチュリー様も周りの精霊を感知できないって嘆いてました。おかげで調査にも色々難儀しましたよ」
美鈴は詳しく聞かなかったが、おそらく霊夢が自身と似た状態であると考える。その上で彼女がどんな行動に出るか、美鈴には想像もつかなかった。大きな不安として、それは心に重く漂っていた。
「誰だってこの気候じゃ集中も出来なだろうに」
「そういう問題かしら?」
「まぁ、そういう訳で下手に手が出せないのが現状です」
「ふぅん……」
無難な説明にしては、霊夢の反応は奇妙であった。少し首を傾げて眉を顰めているのを見るに、何か思う所があるのかもしれない。
やがて美鈴は、廊下の中でも少し大きめな扉の前で足を止めた。深い茶色の木製で、面や取っ手には他とは違い豪華な装飾が施されている、両開きの扉だった。
「……ここにいるの?」
まるで封印でも施さているかの如くそれは重圧的に彼女たちの前に存在している。それに気圧されたわけでもあるまいに、声を抑えて聞いてくる霊夢に対し、美鈴は簡素に「ええ」とだけ答えた。
「逃げも隠れもしてないってわけ?」
「そういうことになるわね」
「で、泣く子も黙る吸血王女がそんな惨事になるまで黙ってたって、何かの冗談? それとも茶番かしら?」
「ふん。ある意味そうなのかもしれない。だとしたら、これは物凄くつまらない物だよ」
「なら、終わらせるに限るわね」
レミリアを一度地面へと降ろし、美鈴は把手に手をかける。これを開いたら、もう戻れないだろう。時計の針が進み出してしまう。この終わらない夏が終わりに向かって動き出す。
結末がどうなってしまうのか、美鈴には分からない。不安もある。だがこれがもしも運命であるのならば、それを手繰る御手を持つ主を信じよう。それがあるべき従者の姿だ。故に美鈴の中では既に覚悟は決まっていた。
「では、行きます」
そうして、美鈴はドアを押し込んだ。先導し、ドアを完全に開放する。レミリアが入室し、霊夢もそれに続いた。中は暗く、生き物の気配は感じない。
「暗いわね……」
「今、明かりを入れます」
美鈴は懐から魔法板を取り出した。
それを彼女は部屋に向かって横に振ると、小さな光の粒子を振り巻かれた。その粒は一瞬にして収縮、虚空へと消える。それから次いで、部屋の両脇で機械的な駆動音が響いた。
「なにこれ。この部屋こんな仕掛けがあったの?」
霊夢の呟きが駆動音に吸い込まれていく。
部屋に光が齎される。
紅魔館の窓を覆う鉄の雨戸が開かれていく。
やがて、その部屋は白昼の元へ晒される。
「な……!」
部屋の惨状に、さすがの博麗の巫女も息を呑んだ。
吸血鬼は手を広げ、穏やかな笑みを浮かべて巫女に告げる。
まるで自慢するように。
これが始まりなのだと。
「さぁ、解決しておくれ、霊夢。このふざけた茶番を、貴重な終わりなき夏の休暇を。貴女の手で、終わらせられるならば」
その部屋には大勢の横たわる者達がいた。
その中心にあるのは一つの椅子。
両膝を抱えて部屋が明るくなっても微動だにしない、十六夜咲夜の姿がそこにはあった。
―――2―――
その部屋はとても奇妙だった。
内装を見るに何度か霊夢も訪れたことがある、紅魔館でも一の広さを持つパーティーホール。
しかしそこは、とても奇妙で、不釣合いで、不可解で、不愉快だった。
霊夢は思わず眉を顰めて顔を歪め、反射的に口を手で覆った。
それが、霊夢の最初の行動だった。
「まぁ、そんな気はしてたけどね……」
うんざりするような声音で霊夢は呟く。
十六夜咲夜の周りに、多くの者が整然と横たわり、並べられていた。
横たわる者の多くはメイド服を着ていた。霊夢もよく目にする、この紅魔館で働く妖精メイドたちだ。中にはホフゴブリンの姿もあるが、皆が皆穏やかな顔で目を閉じており、腹の上で手を組んでホールに並べられている。その同一性が、まるで殉教者を思わせる。
しかもご丁寧に、全員十六夜咲夜に頭を向けているのだから、なおさらだ。
普段ならうるさいくらいに飛び回っている妖精メイドが一人もいないことは、霊夢も疑問として頭に置いていた。もちろんまるで気配のない"お世話係"の存在もだ。
その答えがこれだった。
「一応聞くけど、死んでないわよね?」
「妖精がですか? それともメイド長? はたまた両方?」
「ふざけないで。そこのお世話係の方よ。そもそも妖精は死んでたらこんな風になるはずないわ」
「そうですね、すみません。私もこの部屋は久しぶりで……」
そう言いつつ、美鈴はゆっくりとレミリアを適当な椅子を見繕いそれに座らせた。
この部屋をこのように内装したのは他でもない美鈴であるが、日が経ちすぎていた所為で少なからず動揺してしまっており、顔には出さないが口が滑りすぎたと内心自省した。
「一応、生きていると思います。死んでいたらそもそも貴女はここには来てないはずですし」
「まぁ、そうよね……でも一応って?」
「止まってるんです。呼吸も脈もないし、椅子もあそこから動かせません。感覚が鈍くなっているせいで、気がどんな風に流れてるかも分からないし……」
「なるほど」
霊夢も咲夜に近づき、様子を伺う。しかしそれでも触れるほどの距離ではない。この状況の中でそんな不用意な真似をしない辺り、さすがは博麗の巫女だ。
「最初からここに?」
「はい。初日に時計が止まってることに気付いてすぐに探したので、間違いないと思います」
「ふぅん。そういえば部屋の時計も止まっていたわね」
彼女はしばらく観察した後、今度は妖精たちの元へ。
「こっちは?」
「眠っています。呼吸もしてますし、何より現存していますから、死んでいるわけじゃありません」
「眠ってる、ねぇ……」
近づいて触診する。けれど霊夢は表情を歪める。妖精の様子を訝しんでいるようだ。霊感のはっきりしない今では、妖精の存在も上手く感知できないのかもしれない。
やがて諦めたように溜息を吐いて彼女は立ち上がった。
「この様子じゃ、もうずっと眠ってるみたいね」
「はい。具体的にはこの"時間"が始まってから、一人二人と徐々に意識を失っていて、最終的にこの有り様です」
「一斉にじゃないのね……それで、起きてるのはアンタたちと魔女だけ?」
「起きているというか、"起きれるのは"ですけどね。眠っても起きれます、まだ。あと妹様と小悪魔が。行動できる者はこれ以外にはいません」
「なるほど。それにしても悪趣味ね~、加害者と被害者を一緒に詰めるなんて」
「すみません。まぁ一人一人部屋で寝かすと何か変化を見逃すかもしれませんし、観察するのも手間がかかるので……」
「その割に明かりのない部屋だったみたいだけど」
「ここに彼女たちを集めて一ヶ月で、パチュリー様は図書館に籠もられました。もう見ることもないと。部屋を閉め切ったのは私です。日光除けと、まぁ留置所的な意味で」
「ふぅん……」
美鈴は霊夢にも椅子を用意して、手で着席を促した。レミリアと対面する位置だ。霊夢は渋ったが、すぐに折れてその椅子に着いた。
「紅茶も出せませんが、ご容赦を」
「入らないわ、血入りのお茶なんてね」
「ブランデーのほうがいいですか?」
「いいから、他に情報はないの?」
しかし対して、レミリアは不満げに答えを返す。
「そっちはどうなの? 外の様子も知りたいわ」
「知ってどうするのよ、何かの役に立つの?」
「情報の独占は油断を生み、齟齬を生むわ。でも共有は調整と確認の機会を生む。違くて?」
「勘違いしているようだけど別に共同歩調を取るつもりはないの。異変解決は私一人で十分。協力する気はないの? なら構わないけどね」
「そうは言ってないし、協力する気がないのは貴女の方でしょう」
霊夢は当然とでも言いたげに鼻を鳴らして口を結び、腕を組む。もう会話する気もないようだ。
「……じゃあ、大方の情報は出揃ったのかしら?」
妖怪たちは閉口し、沈黙でそれに答えた。霊夢はそれを肯定と受け取った。
「さて、この《夏の昼で止まった世界》だけど……でもこんなものを生み出せるのはあそこの〝お世話係〟以外いないでしょう」
これには美鈴とレミリアも同じ考えであり、頷く。ゆえにこの部屋は物理的に隔離してきたし、だからこそ霊夢を連れてきたのだから。
しかしレミリアたちにとって重要なのは、これからだ。二人は静かに気を張っていく。
そんなことは露も知らずに、霊夢は話を進めていく。
「こんな場所に逃げも隠れもせずに堂々と居座っている。お子様な吸血鬼やぐうたらな門番もほっといてどういうつもりか知らないけど、ならもう話は終わりでしょ」
席から立って、霊夢は十六夜咲夜に向かって歩いて行く。
美鈴は横目でレミリアの顔色を伺った。想定内の展開であるとはいえ、これからの行動についてどう考えているのか。
一方でレミリアは目を瞑り思案している様子だ。まだ決意を固まっていないか、それとも運命を視られておいでか。どちらにせよまだ動く時ではないようだと美鈴は考える。
霊夢は十六夜咲夜から五メートルほど距離を取り、彼女と対峙した。
「とりあえず、一時的に処置させてもらうわよ。力がなくなって消滅なんて、草臥儲な話は嫌だし」
いつもの切り離された袖の下から数枚、赤墨で印字された符をつまみ出した。
それを手慣れた手つきで投擲、咲夜の周囲に四枚、囲うように貼付される。
それから指でいくつか印を結び、最後に刀印を振り下す。
「…………」
しかし。
「あ?」
何も起こらない。何度刀印を降っても、何かが起こる気配はない。
霊夢は結界を張ろうとしたのだろう。その結界に十六夜咲夜の能力を封入すれば、停止している時間が動き出すと考えていたようだ。
しかしそれが上手くいかない。美鈴はレミリアに耳打ちした。
「やはり、パチュリー様のご推測通り……」
「ああ」
その言葉に反応して、霊夢が猛烈な勢いで振り返る。
「ちょっと! 聞こえたわよ! 何、推察って! 結界が張れないって分かってたの!?」
「あ、いや。ほらこの世界ってさっきも言ったとおり霊感も鈍るじゃない? だから弾幕とかも上手く出せないし、パチュリー様も結界を張ろうとしたんだけど失敗したんだよね。で、私は巫女ならもしかしたらと思ったんだけどね」
「むむむ! なんで私がやる前に言わないのよ!」
さすが巫女。まさか聞こえてしまうとは、あまりの地獄耳と気迫に美鈴はたじろいでしまう。レミリアは笑いを堪えつつ言い訳した。
「勝手に話を纏めて結界を張ろうとしたのは霊夢じゃないか。それに美鈴は一応貴女を信じてたんだから、あんまり攻めないでおくれよ」
「ぐぬぬ……」
「それにしても、博麗の技を持ってしても結界は展開不可能か。とんでもない拘束力が働いているようだな、この世界は」
「時が止まっている所為ですかね?」
「知らないわよ……」
霊夢はよろよろと椅子に力なく座り、膝を曲げて肘を立てる。珍しく行儀が悪い。まるで酒に酔っている時のようだ。
「まぁそう腐らないでよ。外の話でもして気分を変えてくれたまえ」
吸血鬼に促され、バツの悪いと表情で霊夢は押し黙る。幾ばくかの逡巡の末に、彼女は顔を引き締めて「そうね」と頷いた。先の勇み足に懲りたのだろう、その反応は美鈴にも茶化そうという気持ちを失くさせる。また余計な部分を突いて怒られても困る。
しかしレミリアだけが、笑みを浮かべて霊夢の解答を待っていた。
「この状況が発生したのが、具体的にいつなのかは分からないわ。ただ私の耳にも、それらしき話が入ってきてはいたの」
「具体的に?」
「この辺り周辺の話で限定して、九月始まり、大体一ヶ月半くらい前。最初はずっと霧が漂っているとか、妖怪経由で魚や動物があの辺りで道に迷っているとか、そんな感じだったの。でもそれくらいなら日常茶飯事でしょう?」
「そうですね。湖の辺りでもここは特に霧の深い場所ですし、迷子程度なら妖怪の小競り合いの影響なんてザラです」
「だから私も真面目に取り合わなかったわ。でもその話が段々増えてきて、それが魔理沙の耳に入って、私が誘われたのよ。異変だ、一緒に解決しないかって」
彼女自身は乗り気ではなかったそうだが、霧雨魔理沙のしつこい説得によって実態調査に乗り出したという。まぁ、霧雨魔理沙の性格から考えれば妥当だろうか。
「ということは、外は今10月の半ば頃か……」
「もうとっくに寒くなってきてるわよ」
「で、結界の外はどうなっているんだ? 内側は空間が捻れているようだぞ。いつの間にか進行方向が逆転しているんだ」
「外も同じようなものよ。どんなに進んでもここにはたどり着けなかった。霧がずっと立ち込めていて、知らないうちに元の場所に戻ってる。一寸先も見えない程の濃い霧で、目印も建てれない」
「こちらもです。館から湖の先は見えるんですが、一定距離を進んだ辺りで霧に包まれて、気づけば館へと向かっている。と、言った感じですね」
「なんで見えるのかしら……空間が狂ってるなら鏡みたいにこの館が見えないとおかしいし、狂ってなくても霧が見えないのはおかしいわ」
霊夢の疑問にレミリアたちも頷く。結果として脱出(侵入)不可能ということは共通として、問題はその原因だ。
「でもそんな閉鎖空間に、霊夢はどうやって入ってきたの?」
「夢想天生を使ったの」
夢想天生――博麗霊夢の奥義。彼女が持つ能力、空を飛ぶ程度の能力を最大限に活かした究極の秘術。発動すれば彼女は世界から浮き、あらゆる干渉を受け付けなくなる孤高の法。その上で、大量の弾幕をバラ撒くスペルでもある。
「あぁ、あれの発動状態だと侵入できるんですね」
「そう。あらゆる干渉を無視した結果がこの通りよ」
そうして、博麗霊夢はこの閉鎖空間に突入した。この終わらない夏の箱庭に。8月に置き去りにされたこの紅魔館に、逆行したのだ。まるで時を駆けるように。
さすが幻想郷きっての素敵巫女。何にも縛られない、空の体現者。彼女は時にだって縛られない。
「はぁ、面倒くさくなってきた。こんな事なら神社で掃除していた方がマシだったわ……」
そんな彼女でも指で頬を叩きながら思案している。妙案が浮かぶにはもうしばらく掛かりそうだった。
「どうします、パチュリー様をお呼びしますか?」
「やめておこう。打開策が閃くまで図書館を出ないと宣言して、あげくに貧血で倒れた女だぞ。その頑固者が、自分の推測通りに運んでいるこの状況に出向くはずがない」
「まぁそうでしょうね。ではあとで報告だけしておきましょう」
「さりとてどうしたものか……霊夢でも手が出せないとなると、この現象、一筋縄では解決しそうにないな」
吸血鬼も巫女を習って腕を組み、思案する。それを恨めしそうに見る霊夢は、不服そうに鼻を鳴らして背凭れに寄りかかる。重い、到底動かせそうにない重量を持った沈黙が、その場に立ち込める。
誰もが目を瞑り、出そうもない答えを探して迷宮を彷徨う。情報はある、だが閃きが足りない。
しばらくして、その中で、霊夢だけが目を開けて、細めて、美鈴とレミリアの様子を伺った。二人はそれに気づいていないだろう。
「……はぁ」
そんな二人の様子に呆れて、霊夢は溜息を吐いて沈黙をやめる。
打開策が思いついたのかと妖怪たちが期待する目で見てくるが、そんな視線が益々霊夢の気を重くさせた。だがまぁ、黙っているだけで事態が解決するわけではない。
「今、一つだけ方法を思いついたわ」
「ほほう。ぜひお聞かせ願えるかな」
霊夢は立ち上がる。それから座るレミリアを見下ろして睥睨し、告げた。
「あれを殺す」
それを聞いた妖怪たちは顔色を変えはしなかった。予想していた展開であるのだから、覚悟はできていた。
それでも、美鈴は心臓を跳ねさせたが。一方でレミリアは視線を鋭く霊夢を見ている。
「どうやって? さっきも言ったがいかなる物理的干渉も受け付けなかったぞ」
「なんでもいい。とにかくこの空間を固定しているであろうあれを殺せば、時は動き出すはず」
「まさか貴女が殺すの? 人間の味方、妖怪の懲罰者が、人を?」
「異変を解決する。それが私の使命よ」
そう強く宣言して、霊夢は咲夜へ向かって歩を進める。
彼女は裾から一本の大幣を取り出す。いつの間にしまったのか、そこに入っていたのか、果たしてそれで人を殺せるのかと疑問に思う。しかし霊夢が言うのだから間違いはないだろう。
美鈴はもう一度レミリアの顔を伺った。
基本的に主の意向に添うのが従者の役目である。美鈴にとってもそれは前提だ。
何より性格に難があることは置いても、レミリアは美鈴よりも何百歳も年上の存在だ。その上彼女は今まで多くの運命を手繰り、解き、束ねてきた。
自身よりも深い見識を持つ主に勝るほど、美鈴は己の判断を過信していたりはしない。
しかしそんな従者の視線を気にもせず、レミリアは目を瞑るままだ。
その瞼の裏に運命は未だ視えていないのか。
それとも諦めて成り行きに任せているのか。
霊夢の足が一歩、また一歩と咲夜へ迫っていく。
そろそろ限界か。
美鈴も目を瞑った。瞬間的に今までの情報を想起し、利益損得を計算して、状況を再確認する。今取るべき行動を冷静に判断して――覚悟する。
そして、彼女は〝気〟を使った。
「待ってください」
跳躍――霊夢と咲夜との間に割りこみ、霊夢の進行を阻止するように、美鈴がその地点に着地する。レミリアの側からその着地点までの跳躍軌道には、見事に美しい虹色粒子が零れた。彼女が能力を使って跳躍した証だ。
赤い髪を大きく揺らして立ちはだかった妖怪に、博麗の巫女も驚いていた。が、すぐに目つきを鋭く妖怪を見据える。
「どういうつもりかしら?」
「貴女こそどういうつもりかしら? いつから巫女は人殺しに落ちたの? 調整者の貴女がそんなことをしちゃダメでしょうに」
霊夢は大幣を美鈴に向ける。その先端の紙垂がばさりと音を立てる。妖怪に有効な退魔の力を宿す道具だ。触れるだけでもどうなるか。けれど美鈴は臆さない。
「言ったでしょう。私は博麗霊夢、異変の解決者。その根本が人間であれば、人間も罰するわ。決闘が出来ないのなら、方法は変えるしかない」
「だから殺すってのは短絡的過ぎるでしょう。まぁ貴女が短絡的なのは今に始まったことじゃないけど……ともかく、彼女を殺されるのは困ります。別の方法を考えてください」
「無理。私は早く帰ってお茶の飲みたいの」
「お茶なら出しますから」
「血が入ってなくとも飲まないわ」
「……自分の事情を優先するために、人殺しをするような貴女でもないでしょう」
「異変解決のためなら何でもする女よ」
「人間の味方が聞いて呆れるわ。人命を尊びなさいよ」
「今、私という人命が脅かされているのだけれど?」
「己の命と他人の命を秤にかけて、自分を何より優先するような人には全然見えなかったけど、気のせいだった?」
どちらも退こうとはしない。睨み合う。視線をぶつけ合わせ、腹の中を探り合っている。目を背けることなく、息を呑むことなく、静けさだけがその場を支配していた。
言葉が失くなり、どれほどの時が経っただろう。やがて、美鈴はゆっくりと掌を霊夢へと向けた。それは霊夢に対して落ち着けという意思表示だ。
こちらに戦闘の意図はないと言外に告げる。そうした上で、美鈴は言う。
「……心配しなくても、お嬢様はまだ余力を残しているから」
予想外だったのか、霊夢は目を見開いて驚いたようだった。声こそ出さなかったが、悟らせないように口を噤む。けれどその仕草は美鈴に確信を与えた。
「気を使って先んじてくれたんでしょう? そうしなくちゃ手遅れになるかもしれないと思って。でも大丈夫、私達にはまだ猶予はあるわ。それに〝これ〟を貴女にしてもらうわけにはいかない。いざとなったら〝これ〟は――私がやるわ」
美鈴の言葉に揺らぎはない。まるで直刀のような鋭さを霊夢は感じていた。目と言葉に強い決意が宿っている。
「だから知恵を貸して。それが、貴女の閃きが、今唯一の、私達の希望なの」
美鈴は、懇願するように声音を弱めて、そう言った。実際彼女は願っていた。ここで彼女が手を引いてくれなければ終わりだ。全てが彼女の手によって終わるのだから。
ただ、そんな心配とは裏腹に、美鈴の言葉を聞いた霊夢は少しばかり不機嫌そうに眉を顰めて口を曲げていた。まるで、へそを曲げた子供のように。
「……本当にやれるの? 一応、同僚でしょうに」
「やれなかったら霊夢を止めたりしないわ。だって貴女を止めるのはそれと同じくらいに怖いことだから」
「もしも本当にやったとしても、この異変が解決してそれで私が貴女を見逃す理由にもならない。これも、解ってるわよね?」
「当然。その方があの人も寂しくないでしょ?」
「ふーん……」
冗談を聞いても(美鈴にとっては冗談ではないが)くすりともせず、霊夢は静かに鼻を鳴らして、美鈴を見定めていた。
そうしてしばらく眺めた後、大幣をばさりと大きく振るってその先を袖に仕舞い込み、霊夢は踵を返した。美鈴は静かに掌を降ろして、ほっと胸を撫で下ろす。
「まぁ、異変がこの館周辺で固定されているうちは人里に被害も出ないでしょう。新しい被害者も、あの捻れじゃ当面は現れないだろうし」
霊夢はそのまま、腕を組んで目を瞑り続けたレミリアの前に立つ。
何事かと目を開くレミリアに対して、霊夢は突如巫女服の襟を大きく下げて肌蹴させた。これにはさすがに齢500を超える吸血王女も目を向いて声を上げざるをえない。
「うぇっ! れ、れれ霊夢? さすがにこんな時間からは大胆過ぎないかしら……? 美鈴も見てるし、私的には夜の方が調子的にも精力的にもいいのだけれど……でもでも霊夢がその気なら私もっ……」
「何馬鹿なこと言ってるのよ」
対して霊夢はレミリアに蔑みと呆れの視線を送りながら首筋を強調するように突き出す。
「吸っておきなさい。巫女の血でも、多少はマシになるはずよ」
「あ、あぁ、そういうことね……」
だが、レミリアは首を振って笑い、これを断る。意外そうに目を開く霊夢、二人の方へ歩いていた美鈴もそれに驚いていた。
「知ってるでしょ? 私が吸血下手なの。小食だからね、それで得られるエナジーなんて、たかが知れてるわ」
「そう? 終わらない夏の休暇で腑抜けた吸血鬼には、良い気付け薬になるんじゃない?」
「もちろん貴女の首筋にマークを付けれるのは魅力的だけどね。今ウチの居候みたいに貧血になられても困るわ」
「あっそう……」
何か色々と起こりすぎて疲れ、呆れ返った霊夢は椅子に着席する。美鈴も彼女たちの前に到着する。もう、霊夢は行動を起こす気はないようで、美鈴はそのことに安堵していた。
「とりあえず一息入れるましょうか」
「そうね。私は緑茶がいいわ」
「ふふん、美鈴、飛び切りの茶菓子を用意しないさい。終わらない夏の昼にぴったりな、奇妙で奇怪なお茶会を開いて巫女をもてなすのよ」
相変わらず無茶な要求が好きな主だ。けれど霊夢の登場やこれからの行動にも指針が示され、少なからず彼女にも活力が戻ってきた様子。むしろ無茶苦茶でなければ困るぐらいだ。美鈴は苦笑した。
「畏まりました。では少々お待ちを」
ようやくお茶を飲んでくれることを許してくれた霊夢、元気なったレミリアに美鈴は嬉しさを感じつつ、扉へと歩いて行く。
「それにしてもこの部屋、すごい仕掛けがあったものね」
「パチェが河童と創ったのよ。吸血屋敷にはぴったりだったでしょう?」
「主が吸血鬼でもなければ使い道もなさそうだけどね」
「そうでもないよ。映写機を使えば映画館になれるし、居候も星読みが捗るって言って、倉庫から天象儀まで引っ張りだしたのよ? 暗闇に光を写せば、使いようはいくらでもあるわ」
「あぁ、確かにそういうのもある、わ、ね……」
不意に霊夢の語気が弱まった。
話していたレミリアは怪訝な表情を浮かべ、美鈴も歩みを止めて振り返る。霊夢は重そうに頭を支えており、目も霞んでいるようだった。
彼女が立ち上がろうとしたが、そこから崩れるようにして倒れてしまう。
「霊夢!」
レミリアと美鈴がすぐさま霊夢の元へ駆けつけるが、起き上がろうとして支える腕も震えており、上手く立ち上がれないようだ。
二人はすぐに、霊夢が何らかの攻撃を受けたのだと察した。見たところ外傷はない。音も、気配もなかった。しかし霊夢の意識が風前の灯火であることは誰の目にも明らかだった。
「ぐ、うぅ……」
「しっかりしなさい! くそっ、一体どこから!」
美鈴はすぐさま咲夜を見たが、彼女が動いた形跡はない。ならばどうして? どうやって? この時ほど自身の感覚が鈍っていることに酷い歯がゆさを覚えたことはない。折角の切り札が今、失われようとしているのだ。
霊夢は辛うじて顔を挙げて、咲夜を睨む。
「なる、ほどね……私は、〝招かれざる客〟ってことね……」
それを最後に、霊夢は地面へと伏してしまった。
―――3―――
紅魔館には庭を一望できるベランダが一つある。門からも見える、館正面に位置する物だ。その屋根は依然変わらずに降り注ぐ太陽光線を防ぎつつ、その下にいる吸血鬼を護っている。
そのベランダに、ワゴンを押して美鈴がやって来た。
「お疲れ様。で、どうだった?」
レミリアの労いの言葉に苦い笑みを浮かべながら、美鈴はこれまでの記録を想起し、答えを述べていく。
「ひとまず、霊夢はあの部屋に安置し、今もパチュリー様が診られています。私の検分した限りですが、症状は完全に他の者達と一致していました。どんな刺激にも反応せず、常に眠っているような状態で、呼吸、鼓動、体温脈拍はあります。しかしそれ以上の生理現象は認められません。体内の活動も睡眠状態に近いと考えていいと思います。まさか開腹することも出来ませんので、この辺りは触診による判断ですが」
「上等ね。人間のサンプルが手に入ったのは良いことだわ。出来る限り情報を集めて、じゃないと霊夢に申し訳が立たないでしょう」
「分かりました。それから、お嬢様」
美鈴は主の座る白いテーブルの上に、一つの小瓶を置いた。中には赤黒い液体で満たされており、ぴっちりとコルク栓がされている。
「念のため、採っておきました」
「……ふん。これならあの時噛み付いておけばよかったかな」
心底残念そうな溜息を一つ吐いて、レミリアはその小瓶を受け取り、宝石のように眺める。それからすぐにそれを握って、ポケットへと仕舞いこんだ。
「あとはパチェの検査が終わるのを待つだけね……貧血は平気そうだった?」
「自身の研究室で魔力充電に専念していらしたそうで、辛そうですがなんとか。小悪魔もついていますので、何かあれば連絡があるでしょう」
「そう。全く、久々にこの館も慌ただしくなってきたわね」
「あの巫女が来れば嫌でも慌ただしくなります」
美鈴が紅茶を入れていく。氷の入ったタンブラーグラスに、水滴を纏う金属のポットから冷たい紅茶が静かに注がれていく。
「入れますか?」
「……いいえ、いらないわ。折角霊夢の物があるんですもの。それまでは〝断血〟しないとね?」
「なるほど。ではストレートで」
コルクのコースターと共にレミリアの前に差し出される。グラスの周りはすぐに結露していた。その有り様が、あぁ夏だなぁとレミリアに思わせる。
風もない。鳥の鳴き声もしないこの世界でも、些細な事に季節が顕れている。そのことに気付いた時、レミリアは少しだけ感動したものだ。しかしそれが二ヶ月も続けば均される。
ひんやりとするグラスを手で掴んで、レミリアはそれに口を付けた。
「一息入れましょう。貴女も座って、パチェが来るまでチェスでもどう?」
「是非」
美鈴はワゴンから、駒の入ったチェス盤を取りだしてテーブルに置いた。それから対面に座って、チェス盤を開く。中には駒の詰められた箱と収められたクリスタルの駒。それらを一つ一つ、美鈴は慣れた手つきで丁寧に並べていく。陣を敷き終えたら、盤を逆転して自陣に取り掛かる。
やがて、整然と並べられた駒同士が相対した。
「チェスも久しぶりだわ」
「ルールは覚えておいでで?」
「試してみれば分かるでしょう」
初手。レミリアがポーンを動かす。美鈴も対応する。
「最近はデジタルゲームが多かったけど、やっぱりアナログも良いものね」
「こうしてお嬢様とボードを挟んで対面するのもずいぶん久しぶりに感じます。テレビゲームは画面と睨みっこなのが多かったですし」
「ここ数年でドカドカ流れてくるから飽きないけど、やっぱりこうして顔を突き合わせてやるゲームはいつまでも褪せないものだわ」
他愛無い話も久しぶりだ。この異変が始まって吸血鬼二人は休眠状態で体力を温存しなければならず、ほとんど会話することもなかったのだから。
美鈴が駒を進める。狙いを察して、レミリアも駒を動かす。
駒を取り、取られ、盤面は一進一退。
「キャラクターは6種16個、ステージは8×8の一つだけ。なのに、今まで忘れ去られずに多くの人間がこれで遊んできた。チェスってすごいゲームね」
「その簡素さ故に親しまれてきたのやもしれません。簡単だということは、それだけ誰にでも知られやすいということです」
「そう。そして簡単過ぎるせいでプレイヤーの精神を露見する。するとどうだ、ゲームには様々な思想が、意志が、流れが宿った。それがゲームに深みを与えた。プレイスタイルは複雑化し、幾つもの派生物が生まれては消え、知名度は爆発し長期間愛され、時間の長さがさらに魅力になった」
「まるで我々のようですね。根源とする出来事を核に恐怖を纏う。知名度と時間が糧となる。出来事は単純なことが多いというのは、正しくその通りですけど」
「自分を知らない妖怪がよく言う。妖怪の正体見たれり枯れ尾花って? けどそれは間違いじゃないかな。チェスは言うなれば神だ。人々はそれを夢想し、信仰し、奥ゆかしさを生み出す」
「悪魔が神を語りますか」
「どちらも似たようなものじゃない? それに私はただの悪魔ではない。外界の裏世界で猛威を振るい、幻想郷にすら傷跡を残した伝説の吸血鬼だぞ? 言うなれば魔神だ」
「いつから神話になられたので?」
「時間の問題だ。その内なるさ……チェック」
ビジョップにキングが狙われ、美鈴は黙る。どうすればいいかを考える。防ぐが、逃げるか。
久しぶりという割に、レミリアの手は鋭い。全く鈍っていない。こうやって困らせるのが好きだというのは美鈴も承知の上だ。
手は決まった。けれどもう少し留める。そうしなければ疲弊して喰われる。
「結果的に、制限時間は縮んでしまいましたね」
「ん? 何が?」
「今回の異変です」
美鈴は自分でグラスに氷と紅茶を入れて、一口含んだ。注がれる琥珀の液体がブランデーであれば、どれだけ良かっただろうか。そんな未練を流すように。
「……博麗の巫女を抱えてしまった以上、早急な解決が必要でしょう」
「正直言ってそれが今一番の悩みの種なんだよなぁ」
「すみません。あそこで止めてしまったばっかりに」
「いや、あれは助かった。止めようと思ったが上手い言葉が思い浮かばなくてさ。あの状態じゃ挑む前に消されて終わりだった」
「冗談でしょう? とはいえ、所詮は延命です。このままにすればいずれ外からの強制介入があるでしょう。そうなれば、私達は彼女を殺すよりも酷い選択を迫られるのでは?」
それすなわち、十六夜咲夜を異変の元凶として突き出すこと。
博麗霊夢すら解決できなかった異変の首謀者。再挑戦の効かなかった異例の異変――その首謀者として。
十六夜咲夜は喜んで身を差し出すだろう。何せ完璧で瀟洒な、最高の従者なのだから。
しかし制裁を甘んじて受けるとしても、けれど咲夜を差し出すような真似は、さしものレミリア・スカーレットでも出来ない相談である。
現状被害者は紅魔館の面々と博麗霊夢のみ。そんな状態でこれを謎の異変だなんだと騒がれるのは納得のいかない話だった。
「いっその事霊夢と一緒にバイバイってどう?」
「最高ですね。問題はその前に必ず介入されることと咲夜さんに手が出せないことぐらいですか。その場合も彼女を置き去りにしたという栄誉ある罪業が閻魔様に告げられるわけですが」
「あーごめんごめん、冗談だって……」
「いや、実際いいと思いますよ。最悪はその手で行きましょう。問題の処理はパチュリー様と検討します」
「そんな暇があるならちゃんとした方法を考えてくれ」
美鈴が駒を動かす。キングを守るように、ナイトが出てきた。
今度はレミリアの手が止まる番だった。
吸血鬼は静かに紅茶を飲んで、それから一息吐く。
「……正直、本当に正直な話、本当に助かったと思ってる。あれはヤバかった。久しぶりに心臓が跳ねたよ」
「どの辺りでですか?」
「殺すって言われた時」
美鈴も同様だったので、納得するように「あー」と声を漏らした。それだけ、あの時の霊夢には殺気と意志が込められていた。博麗の巫女だからという事を含めないでも、霊夢にはそれだけの力が宿っていることを二人は知っていた。
「あれには私も肝を冷やしました。一度決めたら絶対に曲げないかとも思ってたので」
「貴女が跳んでいった時はあ、やられたなって思ったけどね」
「滅茶苦茶後悔しながら跳びましたよ、はい」
レミリアがビジョップを動かし、ナイトを取り上げた。再びチェック。
「でも運命の女神は微笑んだ」
「ええ。今でも微笑んでおられる」
さて、どうしようか。
美鈴は黙考する。盤面を射抜くように見つめながら、口元は拳を当てて隠して、眉を曲げて考える。レミリアはそれを許すように微笑んでいる。
美鈴の頭の中で、異変の事、博麗の事、咲夜の事。色々な情報が回っている。
こうしている間にもタイムリミットは迫っている。
セミの音の聞こえない偽りの夏の日差しが、毒のように妖怪たちの力を削ぎ、蝕んでいる。
加えて外では巫女を心配する黒白の魔法使いが何かを企んでいるに違いない。
まずは、パチュリー・ノーレッジの意見を待とう。そう落ち着かせる心と、それで間に合うのかという逸る気持ちが鬩ぎ合う。その狭間で、美鈴の意志は沈黙している。
時間を忘れるくらいに考えたかもしれない。
彼女の意識を再び引き戻したのは、主の囁くような小さな言葉だ。
「……咲夜は、私が嫌いだったのかな」
子供相応の声音で、美鈴ははっとして視線を上げた。
「まぁ、そうだろうな。年頃の子供を、薄暗い屋敷に置いてずっと働かせてきたんだ。まるで童話の意地悪な継母じゃないか」
「お嬢様……」
「これも童話通りじゃないか? 意地悪なバケモノが、夏の茹だる鍋で、今なおぐつぐつと煮込まれている」
美鈴は口を挟めない。いつもなら冗談の一つでも言えたであろうに、精神的に疲弊しているがゆえ、咄嗟にそこまで頭が回らなかった。ただ呆然と、主の言葉を耳に通すのだけで精一杯だ。
「吸血鬼の館を夏の昼で包み込むとは、なるほど復讐としては丁度いい。あの子の人生を狂わせた、これは罰だろうか。ふふ、洒落が利いているじゃないか」
どうなのだろう。美鈴は必死に考える。
否定したい。十六夜咲夜はどう見たってレミリア・スカーレットに恨みなど抱いてはいなかった。常に笑顔で、彼女の後ろに付き従って、彼女を支えてきた。
それが嘘で、今までずっと隠して恨んでいたというのなら、それは尋常でない憎悪である。
でも、その強い憎悪の顕現がこの《終わらない夏》だと言われてしまうと、頷けてしまう。
「そういえば昔、あの子にプレゼントしたテーブルナイフがあったよな? 冗談めかして、教会から分捕った聖なる食器だかなんだか。殺す時はあれを使ってくれると私も嬉しいなぁ」
否定しなければならない。主を励まして奮起させねばならない。だがその根拠は? この世界が彼女の殺意の表れでないと証明する根拠は何処だ?
美鈴はまず自身を恨んだ。ここにいるのが彼女の親友であるならば、その脳に刻まれた億の知識と言葉から、適切な解を導き出すだろうに。残念ながら己にそんな脳はない。だから思いつく言葉が正しいかも分からないし、曖昧だなとすら思う。
再度の沈黙。言葉が消え、二人の視線は交わらない。
「……もし」
弱々しい声だった。掠れているような気さえした。顔は依然として微笑んでいるのに。
「もしも〝その時〟が来たら――」
あぁ、と察してしまう。この後に続く言葉が何通りか、自分の頭の中に思い浮かんできてしまう。その中でも最悪な言葉が、美鈴の中で不安を膨らませる。
止めようとして、言葉が出ない。思い浮かばない。どんな思いでその言葉を紡いでいるのかを考えてしまって、胸が苦しくなる。
レミリアは目を瞑り、言葉を止める。きっと逡巡している。そうして言葉を選んでいる。
やがて目を開けた時、その紅玉の瞳は、妖怪の暗さを宿していた。
「私がやろう」
その言葉は。
「私が咲夜を殺そう」
その言葉はあまりに力強く、美鈴の耳朶を打った。
「それが主の務めという奴だろう?」
ニヤリと笑う。悪どく笑う。何をも恐れない。全てが怖れる吸血鬼の笑みだ。
夏の空の下でさえ、その笑みには闇が漂う。
美鈴のぽかんとした表情を見て、彼女はまた別の、少女然とした笑みを浮かべた。
「ふふ、どうした、馬鹿みたいに口を開けて。まさか私が投げると思ったか?」
「……いえ」
さすがだと思う。美鈴が考えた〝最悪の言葉〟を、彼女はやはり選び取ったのだから。
不安は的中する。これほど心を持つ者に厳しい法則はない。
疲労も吹っ飛ぶくらいの刺激だった。いつものように思考が回り出す。
「むしろそっちの方がまだ良かったです。投げてくだされば私はむしろ張り切りますからね。お嬢様に信用されてるって」
「信用しているよ、庭師の昼寝門番くん」
「では進言しますが、ダメです」
美鈴ははっきりと主の言葉を否定した。
ダメージが計り知れないからだ。
最も信頼し、信頼される従者を手に掛ける――それは必ず心に傷を残す。
埋まることのない溝を自分から作る。勝手に死なれるより酷い傷痕を負うだろう。そしてその傷はじわじわと心に毒を回し、錆びさせ、粉塵となって風化する。
吸血鬼が灰となるように、心も塵になる。心が塵となれば、妖怪も靄となる。
何よりまず、博麗の巫女が黙っていない。咲夜に手を出せば制裁は必ずある。
そしてレミリアが咲夜を手にかけたことを周囲が知れば、どんな目を向けられるかも分からない。
だからこそ美鈴は否定する。しなければならない。
美鈴が危惧するのは、何よりレミリア・スカーレットの消滅なのだから。
彼女が消えたら紅魔館は終わりだ。彼女は軸であり、顔であり、要であり、枷。それを失えば紅魔館も空中分解。全員路頭に迷う。
バッドエンド。
しかし美鈴はこれを正直に言おうとは思わなかった。
「お嬢様に上げるくらいなら私がいただきます」
「え、いやそこは主に譲ろうよ」
「ダメです、勿体無い」
「勿体ないってどーゆーことだ!」
「いえいえ、恐れ多くて献上できないという意味で」
「嘘つけ嘘つけ! 絶対惜しんでるだろ!」
「だって絶対余らせるじゃないですか~」
「誰が喰うか!」
落ち着きを取り戻して、吸血鬼は腕を組んだ。全く、と呆れ半分疲れ半分な顔色を浮かべながら、溜息を吐いて紅茶を飲む。それから笑う。
「なるべく綺麗にやってやるさ。何なら竹林の医者に直させる。それで葬儀は知り合い全員を集める。盛大に惜しんでやるんだ。それこそもったいないって」
「いいですねぇ。それでしこたま酒を飲みましょう。とろけるくらいに」
「ばーか。そこは静かに良いワインで月でも見ながら乾杯だろ」
「どうします? 秘蔵のワイン掘り出して、恨んで出たら」
「魂を人形にぶち込んでさらにこき使ってやれ」
「あはは、閻魔様や死神が黙っていませんよ」
「そうしたら戦争だ」
どちらにせよバットエンドだった。
吸血鬼を倒すために幻想郷中の水を使って天に登る滝を造られても困る。
いつの間にか重苦しい空気は流れ、下らない話を咲かせるくらいには緩んでいる。もうそろそろ魔女の鑑識結果もでるだろう。チェスも終わらせる頃合いだ。
「さてはて、どうしたものか……」
美鈴は控えていたクイーンを取り上げようとして、けれど手を止めて別の方向を向いた。
指し手に迷ったか。吸血鬼は嫌らしそうに笑みを浮かべて口を開くが、直後美鈴が自身の口に指を当てて静かにと示したので、その口を噤む。
そうして静かな世界の中で、美鈴は耳を澄ました。
「……どうした」
美鈴は沈黙を保ったが、少ししてレミリアに質問で答える。
「念の為に聞きますけど、今音が聞こえませんでしたか?」
「音? どんな音だ?」
「何か金属的な音、遠い、それがぶつかるような……」
「すまんが今の弱体化した私ではお前ほど耳が良くない」
「私もさしてお嬢様とは変わりませんよ」
美鈴は音の方向を見ながら立ち上がる。
実際、聞こえたというのは空耳かもしれない。振動もなかった。だのにこの胸騒ぎは何だ。先程よりも重い、こびりつくような不安が頭のなかに残る。
「すみませんお嬢様。チェスの続きは後になりそうです」
「そうか。まぁのんびり百手先くらいまで考えているさ」
「たはは……まぁ駒を並べ直す前にはパチュリー様のお話が聞けると思いますよ」
立ち上がり退室する美鈴に、吸血鬼は言った。
「頼んだぞ」
畏まりましたと一言残し、美鈴は館へと消えた。
―――4―――
別に最初はどうでも良かったの。
暑いのは嫌いだけど地下は涼しいし、それほど不自由はなかったわ。
昼も好きよ? 庭の花がこれでもかと気持ちよさそうに咲き誇る姿は見ていて飽きないわ。
でもずっと昼は嫌だわ。だって私吸血鬼じゃない?基本夜型なのよ、私。
まぁ、時間に縛られているわけではないけどね。
いや、現在は縛られているけどね?
私、縛られるの嫌いなの、時間に。
急かされるのは好きかも。他者に縛られるのはね。
他者の意識によって縛られると、その存在を明確に象ってくれるから。
時間は違うわ。
時間を感じる存在はそれを限りなく同じ数値で共有できても感覚を共有できない。
意識が違うから。
肉体が別だから。
魂が別だから。
だから私、時間って嫌い。
見えないし分からないから。あはは、まるで妖怪みたいよね?
怖いわよねぇ時間って、いつでもそこにあって、誰もが知っていて、見えないのに、平等に存在している。共通認識って奴? ある意味神様じゃん、それ。
悪魔は神様が嫌い。
分からないのは嫌い。
吸血鬼は日光が嫌い。
私はこの止まった世界が大っ嫌い。
「じゃあもう、ぶっ壊すしないじゃん。ねぇ、そうでしょ? パチェ」
――プレシャス・ヴァカンス(後)に続く
暑い日差しが照りつける紅魔館の庭で花に水やりをしていた美鈴は、ずっとそう考えていた。
ここ連日の猛暑にも負けない花達は、正午の光を目一杯浴びて、その美しい花弁を青空の下で咲かせている。庭園は誰に見せても恥ずかしくない。そんな花達を労うような気分で、館の住人たちと月星を眺めよう。加えるなら酒を。叶えば労働の意欲も湧いてこようというものだ。
撒いた水が虹を作る。その水の一部が花弁を濡らす。それも茎を伝って土へと流れていく。
ジリジリと照りつける太陽は、美鈴の頬に一筋の汗を流させる。軍手でそれを拭い、麦わら帽子のツバを上げて彼女は太陽を見上げた。
「全く、本日もお変りなく……」
降参するような笑みを浮かべて独りごちる。
太陽はいつまでも天頂から動かない。これからも動かないだろう。もういつまで太陽があの場に居座っているのか、外勤の彼女でもさすがに正確には覚えきれていなかった。
しかし恐らくだが、もう二ヶ月ほどは動いていないだろう。
お陰で主とその妹様は省エネモードで長らく棺桶から出られず、魔女殿は図書館の書斎に篭もりきりときた。これではこの紅魔館もろくに機能しない。館の顔も頭脳も参っているのでは、それは存在しないも同然だ。
美鈴は空っぽになった如雨露を定位置に掛けて、水をやった場所を指差し確認。
「左よーし右よーし、中央よーし。はい、水やり終わり」
この日差しの中で花達もよくやっている。まるで変わらぬその姿は、太陽と同じく時が止まっているかのようだ。
風も感じない。花もそよがない。涼も取れない。
この閉ざされた夏の世界の中で、美鈴はいつもと変わらずに業務を淡々とこなしていく。
また汗が顎下まで垂れてきた。それを再び軍手で拭って、麦わら帽子を脱いでラックに掛け、今度は掛けてあったいつもの帽子を被って門前まで飛んだ。 彼女は珍しく髪を動きやすいように縛り上げ、ポニーテールで纏めている。彼女の健康的な肌色のうなじを惜しげも無く外界へと晒していた。それもこれもこの暑さのせいだった。
最近は流石に炎天下の棒立ちもきつくなって、門前には彼女が設置したビーチパラソルと白い椅子とテーブルが置かれている。それらが作る避暑地に入って、美鈴は湖の方向をぼんやりと眺めた。
これから長らく、退屈な時間が始まる。
「……ふぅ」
溜息を含めるような小さな吐息を吐いて、美鈴は白い椅子に背中を預けた。
机上には透明な板とそれを立てかけているスタンドがあり、美鈴はその板に指を置いた。美鈴の指に反応し板上に文字や絵が浮かび上がる。なぞると板上の文字も動いていく。
これは紅魔館の魔女と河童が作り出したプレート型魔導器具だ。紅魔館限定で簡易的な文面連絡を取り合うなど、通話やその他諸々の用途で使用されている。
河童は〝グリフォン〟(グリモワール・フォン)と呼びたがっているが、魔女は認めておらず(仮)が取れない状態であった。
「定時報告はっと……」
現状、館内で主だって動いているものは美鈴と小悪魔のみだ。美鈴はそのグリフォン(仮)で小悪魔からの連絡を確認していた。特に問題はないという報告を見て、美鈴は視線を湖へと移す。
「う~ん……」
変わること無い景色、湖の向こう側には変わらぬ幻想郷の緑の連峰が見えている。この暑さだというのに湖の水面は涼々と漣を立てている。しかし魚が跳ねたり、それを狙う鳥も見えたりはしない。
この空間では、生物の気配を感じることが出来ない。
美鈴は能力の関係上そういった物の気配を探ることができる。が、現状その力は使えておらず、感知できるのも内部で対流する物のみであった。
探索もしてみたが、生物に出会うことはなかった。
そのついでに脱出も試みたが失敗した。
どれだけの距離を歩いても、どれだけの速度で飛んでも、誰が外を目指しても、最終的には館の方角を目指していた。まるで空間が捻れているかのように、現在この紅魔館は一定距離を何らかの方法で完全に封鎖されている。
閉ざされた空間に、暮れることのない日差しが振り注いでいる。
まるで牢獄。囚人は昼を嫌う妖怪たち。暑さと光と退屈で、身も心も擦り減らしていく。これほど妖怪に対して効果的な牢屋もないだろう。
これを作り出した者は、よほど妖怪に精通している。果たしてどんな感情を抱けば、これほどまでに壮大で完璧な牢獄を作れるのだろう。
などと詩人でもないのに。妖怪は一人で連綿とした無意味な思考を続けていた。
そうでもしないとやっていられない。視覚の刺激も、嗅覚の刺激も、聴覚も味覚も触覚も、もう麻痺しきてしまっている。新鮮味を求めて飢餓している。ともすればそれは理性すらも吹き飛ばし、妖怪の中の〝妖怪〟を引き摺り出すだろう。
それは拙い。それだけは拙い。
ただでさえ堪え性のいないこの館で、自分まで自制を失ってしまえば、本当に終わりだ。だから美鈴は、必死に下らないことを考えて心を乾かさないように努めていた。
「くぁ……」
そうしている内に眠くなってきて、欠伸が出た。こんなに暑くても午睡できるものだ。しかも同じ周期で睡魔は襲ってくる。おおよそ三時くらい。我ながらいい体内時計を持っているなと、美鈴は自嘲気味に口を曲げた。
「んー、ん?」
眠るまいとして体を伸ばしていると、湖の向こうから何かがやってくるのが見えた。
時間の進まないこの世界では珍しい――というより異変だった。
美鈴は思わず喜びの声を上げそうになった。けれどその欲求をぐっと堪える。気高き吸血鬼の館、高名なるスカーレットデビルの住まう紅魔館にやってくる来客に、見苦しい姿は見せられない。
やがて、やってきた客が、美鈴の前に降り立った。
彼女はいつも通りの巫女服に、紅白のリボン。手には大幣を携えて。
「ようこそ紅魔館へ、博麗霊夢様。随分と、遅いお付きで」
「呼ばれた覚えも無いけど来たわよ。これでも、かなり急いで来たほうだけどね」
口をへの字に曲げ、嫌そうな声音と表情でそう答えて、博麗の巫女はやってきた。
―――1―――
幻想郷。妖怪の巣窟。閉じた楽園。その世界における調停者、博麗霊夢。
「大体ね、アンタらは外に出なさすぎなのよ。だからこんな事になってるのに誰も心配しないんだわ」
到着早々、彼女はそんな愚痴を吐いた。美鈴は苦笑してその言葉に返す答えを探しながら、霊夢と館の廊下を歩いて行く。
「結構出てると思うんだけどねぇ。咲夜さんとか、買い出しにはよく行くし」
「人里じゃなくてさ、もっと別の所と繋げなさいよ。里の近くなら妖怪寺とか仙人廟とか、いくらでもあるじゃない」
「あの人達ともそれなりに顔見知りだけど、まず何より連絡しにくいのよねぇ、ウチって。立地とかいろいろ。来るとすれば本泥棒と文屋とたまに人形遣いと花妖怪とかくらいでさ」
「そうね。私も魔理沙に知らされて来たんだし」
「ふふ。元々うちのお嬢様はあんまり他人に対して気を許す方でもないし、今ぐらいで丁度いいわ。現に貴女がこうして来てくれたしね」
「ぐむ……」
そう。こうして博麗の巫女が出向いたということは、これが異変であると、また異変の芽であると彼女に判断されたのだ。
美鈴はまず彼女をこの館の主であるレミリア・スカーレットの元へと案内していた。客人を主の元へと案内するのは当然であるし、省エネ状態にある彼女の精神にも、多少の刺激になると考えたからだ。
それに、博麗の巫女がこうしてやって来たという事は優先して主であるレミリアに伝えなければならないと、美鈴はこの世界が創られてからずっと考えていた。
「そんな事より現状を教えなさいよ。まさか何もせずにだらだらしてたわけじゃないんでしょう?」
「まぁまぁ、楽しみは後に取っておきましょう」
焦らしつつ、美鈴たちはレミリアの寝室の前にやってきた。美鈴が小さく3回ノック、起きているかどうかを確認する。
「お嬢様、美鈴です。博麗の巫女が来ました」
「……いいわ、通して」
運の良いことに彼女は起きていた、それともこれも、彼女が握る運命の手繰り合わせだろうか。それは美鈴には図りかねることだった。
扉を開けると、そこには普段通りに(実際は普段着よりも幾分か気合の入った服装で)椅子に着いている吸血鬼が待っていた。
「失礼します……どうぞ」
先に美鈴が入室し、扉を開いて巫女の入室を促す。霊夢は導かれるままにレミリアの寝室へと踏み込んだ。
「うっわ、なにこれ。威厳もへったくれもないわね」
吸血鬼の寝室は、廊下の空気とは打って変わってひんやり冷えていた。魔法による空調機が動いているのだろう。窓は閉められているが光は遮られていない。よって部屋の状態が一瞬で見て取れる。だから霊夢は、呆れた顔で率直な感想を述べたのだった。
レミリア・スカーレットの部屋は荒れ果てていた。
ベッドの上の棺桶はまだ良いとして、普段はクローゼットに掛けられているであろう服の数々はよれて床に放置されている。読みかけの本は開いた状態でページを床に擦り付けられて放置。魔女が見れば卒倒物だろう。机には食べかけの食事に零したであろう紅茶の染みをつくられた書類が幾つか散らばっている。
酷い有様だ。まるで嵐の通った後だ。いくら服を取り繕った所で部屋がこれでは意味が無い。
けれどもそんな事は関係ないと涼しい顔をして、吸血鬼は水銀の髪の下で紅玉の瞳を光らせていた。
「ようこそ博麗の巫女。待ち詫びたよ、随分遅かったじゃない」
「あのね。そこの昼寝門番にも言ったけど、アンタらは外と連絡を取らなさすぎ。だから異常が合っても分からないのよ」
「え~、でも咲夜とか美鈴とか、結構人里には顔を出してるじゃない。私だって、宴会には出向いてるし」
「もっと密に取らないと、下手したら廃館になるわよ」
「大丈夫、貴女が死ぬ前に廃れるつもりはないから」
「ふん、どうだか」
レミリアは椅子から立ち上がる。ただ、その動作はゆったりとしていて、肘掛けに両手を着くという重々しさだ。彼女の容姿と相まって、それはか弱く細い物に思えた。
「お嬢様」
「ん……」
美鈴が彼女の側に寄り手を差し出した。それを掴んで立ち上がったレミリアはよろめき、彼女に寄り掛かるが、やがて自立する。
「まるで子供ね」
「全く、この空模様のお陰で力も出ないよ」
霊夢の揶揄にもレミリアは苦笑するだけ。一人で歩き出そうとするが、ふらりとよろめく。それを美鈴が支え、すぐに彼女を仰向けで抱き上げた。プライドの高い彼女でも、これを嫌がりはしなかった。ただ弱々しく自嘲的に笑うだけ。
しかしこれでは姫というより病人だ。
陽の光の毒に侵された、悲しい病弱な吸血鬼。
「じゃ、まぁ、見苦しいけど行こうか。こっちでも出来る限りで調べたんだ。それを伝えるまでは死んでも死にきれない」
「伝えてぽっくりなんてやめてよね。私が来た意味がなくなっちゃうわ」
「あれ? いつから妖怪の味方になったんですか?」
「ふん。勘違いしないで。この館にだって一応人間はいるじゃない。私は三六五日四六時中、人間の味方でしか無いわ」
「左様で」
そうだろう。だから困るのだ。そんな風に、美鈴とレミリアは同時に同様の感想を抱いていた。
想定されていた事態とはいえ、博麗霊夢がこの館に訪れることは、彼女たちにとっては好ましくはなかった。
いや好ましい面もあった。彼女が持つ天性の直感で事態を終息に導いてもらえるというならありがたい話だ。ただし最も彼女たちが望む形で、だが。それはレミリアたちの交渉次第だろう。
しかしやはり、彼女が来たという展開は、好ましくないという思いの方が強い。
廊下を進んでいく中で、美鈴はレミリアを見て困ったと言いたげに眉間を細める。彼女の主は変わらず苦い微笑みを浮かべて、首を横に降るだけだ。どうしようもないという諦めが、二人の中で共有されてしまう。
「元凶は突き止めているのね?」
「はい――いやまだ確証はないんですけどね。何せこの世界はひどく感覚が鈍りますから」
「あー、確かに」
美鈴の言葉に霊夢も頷く。彼女もここに来て以降、状態に違和感を覚えていた。暑さのせいか、意識がすっきりしない。霊夢は今、霊力や術も知覚できていない。
「なーんかぼんやりするのよねぇ。上手く集中も出来ないし」
「パチュリー様も周りの精霊を感知できないって嘆いてました。おかげで調査にも色々難儀しましたよ」
美鈴は詳しく聞かなかったが、おそらく霊夢が自身と似た状態であると考える。その上で彼女がどんな行動に出るか、美鈴には想像もつかなかった。大きな不安として、それは心に重く漂っていた。
「誰だってこの気候じゃ集中も出来なだろうに」
「そういう問題かしら?」
「まぁ、そういう訳で下手に手が出せないのが現状です」
「ふぅん……」
無難な説明にしては、霊夢の反応は奇妙であった。少し首を傾げて眉を顰めているのを見るに、何か思う所があるのかもしれない。
やがて美鈴は、廊下の中でも少し大きめな扉の前で足を止めた。深い茶色の木製で、面や取っ手には他とは違い豪華な装飾が施されている、両開きの扉だった。
「……ここにいるの?」
まるで封印でも施さているかの如くそれは重圧的に彼女たちの前に存在している。それに気圧されたわけでもあるまいに、声を抑えて聞いてくる霊夢に対し、美鈴は簡素に「ええ」とだけ答えた。
「逃げも隠れもしてないってわけ?」
「そういうことになるわね」
「で、泣く子も黙る吸血王女がそんな惨事になるまで黙ってたって、何かの冗談? それとも茶番かしら?」
「ふん。ある意味そうなのかもしれない。だとしたら、これは物凄くつまらない物だよ」
「なら、終わらせるに限るわね」
レミリアを一度地面へと降ろし、美鈴は把手に手をかける。これを開いたら、もう戻れないだろう。時計の針が進み出してしまう。この終わらない夏が終わりに向かって動き出す。
結末がどうなってしまうのか、美鈴には分からない。不安もある。だがこれがもしも運命であるのならば、それを手繰る御手を持つ主を信じよう。それがあるべき従者の姿だ。故に美鈴の中では既に覚悟は決まっていた。
「では、行きます」
そうして、美鈴はドアを押し込んだ。先導し、ドアを完全に開放する。レミリアが入室し、霊夢もそれに続いた。中は暗く、生き物の気配は感じない。
「暗いわね……」
「今、明かりを入れます」
美鈴は懐から魔法板を取り出した。
それを彼女は部屋に向かって横に振ると、小さな光の粒子を振り巻かれた。その粒は一瞬にして収縮、虚空へと消える。それから次いで、部屋の両脇で機械的な駆動音が響いた。
「なにこれ。この部屋こんな仕掛けがあったの?」
霊夢の呟きが駆動音に吸い込まれていく。
部屋に光が齎される。
紅魔館の窓を覆う鉄の雨戸が開かれていく。
やがて、その部屋は白昼の元へ晒される。
「な……!」
部屋の惨状に、さすがの博麗の巫女も息を呑んだ。
吸血鬼は手を広げ、穏やかな笑みを浮かべて巫女に告げる。
まるで自慢するように。
これが始まりなのだと。
「さぁ、解決しておくれ、霊夢。このふざけた茶番を、貴重な終わりなき夏の休暇を。貴女の手で、終わらせられるならば」
その部屋には大勢の横たわる者達がいた。
その中心にあるのは一つの椅子。
両膝を抱えて部屋が明るくなっても微動だにしない、十六夜咲夜の姿がそこにはあった。
―――2―――
その部屋はとても奇妙だった。
内装を見るに何度か霊夢も訪れたことがある、紅魔館でも一の広さを持つパーティーホール。
しかしそこは、とても奇妙で、不釣合いで、不可解で、不愉快だった。
霊夢は思わず眉を顰めて顔を歪め、反射的に口を手で覆った。
それが、霊夢の最初の行動だった。
「まぁ、そんな気はしてたけどね……」
うんざりするような声音で霊夢は呟く。
十六夜咲夜の周りに、多くの者が整然と横たわり、並べられていた。
横たわる者の多くはメイド服を着ていた。霊夢もよく目にする、この紅魔館で働く妖精メイドたちだ。中にはホフゴブリンの姿もあるが、皆が皆穏やかな顔で目を閉じており、腹の上で手を組んでホールに並べられている。その同一性が、まるで殉教者を思わせる。
しかもご丁寧に、全員十六夜咲夜に頭を向けているのだから、なおさらだ。
普段ならうるさいくらいに飛び回っている妖精メイドが一人もいないことは、霊夢も疑問として頭に置いていた。もちろんまるで気配のない"お世話係"の存在もだ。
その答えがこれだった。
「一応聞くけど、死んでないわよね?」
「妖精がですか? それともメイド長? はたまた両方?」
「ふざけないで。そこのお世話係の方よ。そもそも妖精は死んでたらこんな風になるはずないわ」
「そうですね、すみません。私もこの部屋は久しぶりで……」
そう言いつつ、美鈴はゆっくりとレミリアを適当な椅子を見繕いそれに座らせた。
この部屋をこのように内装したのは他でもない美鈴であるが、日が経ちすぎていた所為で少なからず動揺してしまっており、顔には出さないが口が滑りすぎたと内心自省した。
「一応、生きていると思います。死んでいたらそもそも貴女はここには来てないはずですし」
「まぁ、そうよね……でも一応って?」
「止まってるんです。呼吸も脈もないし、椅子もあそこから動かせません。感覚が鈍くなっているせいで、気がどんな風に流れてるかも分からないし……」
「なるほど」
霊夢も咲夜に近づき、様子を伺う。しかしそれでも触れるほどの距離ではない。この状況の中でそんな不用意な真似をしない辺り、さすがは博麗の巫女だ。
「最初からここに?」
「はい。初日に時計が止まってることに気付いてすぐに探したので、間違いないと思います」
「ふぅん。そういえば部屋の時計も止まっていたわね」
彼女はしばらく観察した後、今度は妖精たちの元へ。
「こっちは?」
「眠っています。呼吸もしてますし、何より現存していますから、死んでいるわけじゃありません」
「眠ってる、ねぇ……」
近づいて触診する。けれど霊夢は表情を歪める。妖精の様子を訝しんでいるようだ。霊感のはっきりしない今では、妖精の存在も上手く感知できないのかもしれない。
やがて諦めたように溜息を吐いて彼女は立ち上がった。
「この様子じゃ、もうずっと眠ってるみたいね」
「はい。具体的にはこの"時間"が始まってから、一人二人と徐々に意識を失っていて、最終的にこの有り様です」
「一斉にじゃないのね……それで、起きてるのはアンタたちと魔女だけ?」
「起きているというか、"起きれるのは"ですけどね。眠っても起きれます、まだ。あと妹様と小悪魔が。行動できる者はこれ以外にはいません」
「なるほど。それにしても悪趣味ね~、加害者と被害者を一緒に詰めるなんて」
「すみません。まぁ一人一人部屋で寝かすと何か変化を見逃すかもしれませんし、観察するのも手間がかかるので……」
「その割に明かりのない部屋だったみたいだけど」
「ここに彼女たちを集めて一ヶ月で、パチュリー様は図書館に籠もられました。もう見ることもないと。部屋を閉め切ったのは私です。日光除けと、まぁ留置所的な意味で」
「ふぅん……」
美鈴は霊夢にも椅子を用意して、手で着席を促した。レミリアと対面する位置だ。霊夢は渋ったが、すぐに折れてその椅子に着いた。
「紅茶も出せませんが、ご容赦を」
「入らないわ、血入りのお茶なんてね」
「ブランデーのほうがいいですか?」
「いいから、他に情報はないの?」
しかし対して、レミリアは不満げに答えを返す。
「そっちはどうなの? 外の様子も知りたいわ」
「知ってどうするのよ、何かの役に立つの?」
「情報の独占は油断を生み、齟齬を生むわ。でも共有は調整と確認の機会を生む。違くて?」
「勘違いしているようだけど別に共同歩調を取るつもりはないの。異変解決は私一人で十分。協力する気はないの? なら構わないけどね」
「そうは言ってないし、協力する気がないのは貴女の方でしょう」
霊夢は当然とでも言いたげに鼻を鳴らして口を結び、腕を組む。もう会話する気もないようだ。
「……じゃあ、大方の情報は出揃ったのかしら?」
妖怪たちは閉口し、沈黙でそれに答えた。霊夢はそれを肯定と受け取った。
「さて、この《夏の昼で止まった世界》だけど……でもこんなものを生み出せるのはあそこの〝お世話係〟以外いないでしょう」
これには美鈴とレミリアも同じ考えであり、頷く。ゆえにこの部屋は物理的に隔離してきたし、だからこそ霊夢を連れてきたのだから。
しかしレミリアたちにとって重要なのは、これからだ。二人は静かに気を張っていく。
そんなことは露も知らずに、霊夢は話を進めていく。
「こんな場所に逃げも隠れもせずに堂々と居座っている。お子様な吸血鬼やぐうたらな門番もほっといてどういうつもりか知らないけど、ならもう話は終わりでしょ」
席から立って、霊夢は十六夜咲夜に向かって歩いて行く。
美鈴は横目でレミリアの顔色を伺った。想定内の展開であるとはいえ、これからの行動についてどう考えているのか。
一方でレミリアは目を瞑り思案している様子だ。まだ決意を固まっていないか、それとも運命を視られておいでか。どちらにせよまだ動く時ではないようだと美鈴は考える。
霊夢は十六夜咲夜から五メートルほど距離を取り、彼女と対峙した。
「とりあえず、一時的に処置させてもらうわよ。力がなくなって消滅なんて、草臥儲な話は嫌だし」
いつもの切り離された袖の下から数枚、赤墨で印字された符をつまみ出した。
それを手慣れた手つきで投擲、咲夜の周囲に四枚、囲うように貼付される。
それから指でいくつか印を結び、最後に刀印を振り下す。
「…………」
しかし。
「あ?」
何も起こらない。何度刀印を降っても、何かが起こる気配はない。
霊夢は結界を張ろうとしたのだろう。その結界に十六夜咲夜の能力を封入すれば、停止している時間が動き出すと考えていたようだ。
しかしそれが上手くいかない。美鈴はレミリアに耳打ちした。
「やはり、パチュリー様のご推測通り……」
「ああ」
その言葉に反応して、霊夢が猛烈な勢いで振り返る。
「ちょっと! 聞こえたわよ! 何、推察って! 結界が張れないって分かってたの!?」
「あ、いや。ほらこの世界ってさっきも言ったとおり霊感も鈍るじゃない? だから弾幕とかも上手く出せないし、パチュリー様も結界を張ろうとしたんだけど失敗したんだよね。で、私は巫女ならもしかしたらと思ったんだけどね」
「むむむ! なんで私がやる前に言わないのよ!」
さすが巫女。まさか聞こえてしまうとは、あまりの地獄耳と気迫に美鈴はたじろいでしまう。レミリアは笑いを堪えつつ言い訳した。
「勝手に話を纏めて結界を張ろうとしたのは霊夢じゃないか。それに美鈴は一応貴女を信じてたんだから、あんまり攻めないでおくれよ」
「ぐぬぬ……」
「それにしても、博麗の技を持ってしても結界は展開不可能か。とんでもない拘束力が働いているようだな、この世界は」
「時が止まっている所為ですかね?」
「知らないわよ……」
霊夢はよろよろと椅子に力なく座り、膝を曲げて肘を立てる。珍しく行儀が悪い。まるで酒に酔っている時のようだ。
「まぁそう腐らないでよ。外の話でもして気分を変えてくれたまえ」
吸血鬼に促され、バツの悪いと表情で霊夢は押し黙る。幾ばくかの逡巡の末に、彼女は顔を引き締めて「そうね」と頷いた。先の勇み足に懲りたのだろう、その反応は美鈴にも茶化そうという気持ちを失くさせる。また余計な部分を突いて怒られても困る。
しかしレミリアだけが、笑みを浮かべて霊夢の解答を待っていた。
「この状況が発生したのが、具体的にいつなのかは分からないわ。ただ私の耳にも、それらしき話が入ってきてはいたの」
「具体的に?」
「この辺り周辺の話で限定して、九月始まり、大体一ヶ月半くらい前。最初はずっと霧が漂っているとか、妖怪経由で魚や動物があの辺りで道に迷っているとか、そんな感じだったの。でもそれくらいなら日常茶飯事でしょう?」
「そうですね。湖の辺りでもここは特に霧の深い場所ですし、迷子程度なら妖怪の小競り合いの影響なんてザラです」
「だから私も真面目に取り合わなかったわ。でもその話が段々増えてきて、それが魔理沙の耳に入って、私が誘われたのよ。異変だ、一緒に解決しないかって」
彼女自身は乗り気ではなかったそうだが、霧雨魔理沙のしつこい説得によって実態調査に乗り出したという。まぁ、霧雨魔理沙の性格から考えれば妥当だろうか。
「ということは、外は今10月の半ば頃か……」
「もうとっくに寒くなってきてるわよ」
「で、結界の外はどうなっているんだ? 内側は空間が捻れているようだぞ。いつの間にか進行方向が逆転しているんだ」
「外も同じようなものよ。どんなに進んでもここにはたどり着けなかった。霧がずっと立ち込めていて、知らないうちに元の場所に戻ってる。一寸先も見えない程の濃い霧で、目印も建てれない」
「こちらもです。館から湖の先は見えるんですが、一定距離を進んだ辺りで霧に包まれて、気づけば館へと向かっている。と、言った感じですね」
「なんで見えるのかしら……空間が狂ってるなら鏡みたいにこの館が見えないとおかしいし、狂ってなくても霧が見えないのはおかしいわ」
霊夢の疑問にレミリアたちも頷く。結果として脱出(侵入)不可能ということは共通として、問題はその原因だ。
「でもそんな閉鎖空間に、霊夢はどうやって入ってきたの?」
「夢想天生を使ったの」
夢想天生――博麗霊夢の奥義。彼女が持つ能力、空を飛ぶ程度の能力を最大限に活かした究極の秘術。発動すれば彼女は世界から浮き、あらゆる干渉を受け付けなくなる孤高の法。その上で、大量の弾幕をバラ撒くスペルでもある。
「あぁ、あれの発動状態だと侵入できるんですね」
「そう。あらゆる干渉を無視した結果がこの通りよ」
そうして、博麗霊夢はこの閉鎖空間に突入した。この終わらない夏の箱庭に。8月に置き去りにされたこの紅魔館に、逆行したのだ。まるで時を駆けるように。
さすが幻想郷きっての素敵巫女。何にも縛られない、空の体現者。彼女は時にだって縛られない。
「はぁ、面倒くさくなってきた。こんな事なら神社で掃除していた方がマシだったわ……」
そんな彼女でも指で頬を叩きながら思案している。妙案が浮かぶにはもうしばらく掛かりそうだった。
「どうします、パチュリー様をお呼びしますか?」
「やめておこう。打開策が閃くまで図書館を出ないと宣言して、あげくに貧血で倒れた女だぞ。その頑固者が、自分の推測通りに運んでいるこの状況に出向くはずがない」
「まぁそうでしょうね。ではあとで報告だけしておきましょう」
「さりとてどうしたものか……霊夢でも手が出せないとなると、この現象、一筋縄では解決しそうにないな」
吸血鬼も巫女を習って腕を組み、思案する。それを恨めしそうに見る霊夢は、不服そうに鼻を鳴らして背凭れに寄りかかる。重い、到底動かせそうにない重量を持った沈黙が、その場に立ち込める。
誰もが目を瞑り、出そうもない答えを探して迷宮を彷徨う。情報はある、だが閃きが足りない。
しばらくして、その中で、霊夢だけが目を開けて、細めて、美鈴とレミリアの様子を伺った。二人はそれに気づいていないだろう。
「……はぁ」
そんな二人の様子に呆れて、霊夢は溜息を吐いて沈黙をやめる。
打開策が思いついたのかと妖怪たちが期待する目で見てくるが、そんな視線が益々霊夢の気を重くさせた。だがまぁ、黙っているだけで事態が解決するわけではない。
「今、一つだけ方法を思いついたわ」
「ほほう。ぜひお聞かせ願えるかな」
霊夢は立ち上がる。それから座るレミリアを見下ろして睥睨し、告げた。
「あれを殺す」
それを聞いた妖怪たちは顔色を変えはしなかった。予想していた展開であるのだから、覚悟はできていた。
それでも、美鈴は心臓を跳ねさせたが。一方でレミリアは視線を鋭く霊夢を見ている。
「どうやって? さっきも言ったがいかなる物理的干渉も受け付けなかったぞ」
「なんでもいい。とにかくこの空間を固定しているであろうあれを殺せば、時は動き出すはず」
「まさか貴女が殺すの? 人間の味方、妖怪の懲罰者が、人を?」
「異変を解決する。それが私の使命よ」
そう強く宣言して、霊夢は咲夜へ向かって歩を進める。
彼女は裾から一本の大幣を取り出す。いつの間にしまったのか、そこに入っていたのか、果たしてそれで人を殺せるのかと疑問に思う。しかし霊夢が言うのだから間違いはないだろう。
美鈴はもう一度レミリアの顔を伺った。
基本的に主の意向に添うのが従者の役目である。美鈴にとってもそれは前提だ。
何より性格に難があることは置いても、レミリアは美鈴よりも何百歳も年上の存在だ。その上彼女は今まで多くの運命を手繰り、解き、束ねてきた。
自身よりも深い見識を持つ主に勝るほど、美鈴は己の判断を過信していたりはしない。
しかしそんな従者の視線を気にもせず、レミリアは目を瞑るままだ。
その瞼の裏に運命は未だ視えていないのか。
それとも諦めて成り行きに任せているのか。
霊夢の足が一歩、また一歩と咲夜へ迫っていく。
そろそろ限界か。
美鈴も目を瞑った。瞬間的に今までの情報を想起し、利益損得を計算して、状況を再確認する。今取るべき行動を冷静に判断して――覚悟する。
そして、彼女は〝気〟を使った。
「待ってください」
跳躍――霊夢と咲夜との間に割りこみ、霊夢の進行を阻止するように、美鈴がその地点に着地する。レミリアの側からその着地点までの跳躍軌道には、見事に美しい虹色粒子が零れた。彼女が能力を使って跳躍した証だ。
赤い髪を大きく揺らして立ちはだかった妖怪に、博麗の巫女も驚いていた。が、すぐに目つきを鋭く妖怪を見据える。
「どういうつもりかしら?」
「貴女こそどういうつもりかしら? いつから巫女は人殺しに落ちたの? 調整者の貴女がそんなことをしちゃダメでしょうに」
霊夢は大幣を美鈴に向ける。その先端の紙垂がばさりと音を立てる。妖怪に有効な退魔の力を宿す道具だ。触れるだけでもどうなるか。けれど美鈴は臆さない。
「言ったでしょう。私は博麗霊夢、異変の解決者。その根本が人間であれば、人間も罰するわ。決闘が出来ないのなら、方法は変えるしかない」
「だから殺すってのは短絡的過ぎるでしょう。まぁ貴女が短絡的なのは今に始まったことじゃないけど……ともかく、彼女を殺されるのは困ります。別の方法を考えてください」
「無理。私は早く帰ってお茶の飲みたいの」
「お茶なら出しますから」
「血が入ってなくとも飲まないわ」
「……自分の事情を優先するために、人殺しをするような貴女でもないでしょう」
「異変解決のためなら何でもする女よ」
「人間の味方が聞いて呆れるわ。人命を尊びなさいよ」
「今、私という人命が脅かされているのだけれど?」
「己の命と他人の命を秤にかけて、自分を何より優先するような人には全然見えなかったけど、気のせいだった?」
どちらも退こうとはしない。睨み合う。視線をぶつけ合わせ、腹の中を探り合っている。目を背けることなく、息を呑むことなく、静けさだけがその場を支配していた。
言葉が失くなり、どれほどの時が経っただろう。やがて、美鈴はゆっくりと掌を霊夢へと向けた。それは霊夢に対して落ち着けという意思表示だ。
こちらに戦闘の意図はないと言外に告げる。そうした上で、美鈴は言う。
「……心配しなくても、お嬢様はまだ余力を残しているから」
予想外だったのか、霊夢は目を見開いて驚いたようだった。声こそ出さなかったが、悟らせないように口を噤む。けれどその仕草は美鈴に確信を与えた。
「気を使って先んじてくれたんでしょう? そうしなくちゃ手遅れになるかもしれないと思って。でも大丈夫、私達にはまだ猶予はあるわ。それに〝これ〟を貴女にしてもらうわけにはいかない。いざとなったら〝これ〟は――私がやるわ」
美鈴の言葉に揺らぎはない。まるで直刀のような鋭さを霊夢は感じていた。目と言葉に強い決意が宿っている。
「だから知恵を貸して。それが、貴女の閃きが、今唯一の、私達の希望なの」
美鈴は、懇願するように声音を弱めて、そう言った。実際彼女は願っていた。ここで彼女が手を引いてくれなければ終わりだ。全てが彼女の手によって終わるのだから。
ただ、そんな心配とは裏腹に、美鈴の言葉を聞いた霊夢は少しばかり不機嫌そうに眉を顰めて口を曲げていた。まるで、へそを曲げた子供のように。
「……本当にやれるの? 一応、同僚でしょうに」
「やれなかったら霊夢を止めたりしないわ。だって貴女を止めるのはそれと同じくらいに怖いことだから」
「もしも本当にやったとしても、この異変が解決してそれで私が貴女を見逃す理由にもならない。これも、解ってるわよね?」
「当然。その方があの人も寂しくないでしょ?」
「ふーん……」
冗談を聞いても(美鈴にとっては冗談ではないが)くすりともせず、霊夢は静かに鼻を鳴らして、美鈴を見定めていた。
そうしてしばらく眺めた後、大幣をばさりと大きく振るってその先を袖に仕舞い込み、霊夢は踵を返した。美鈴は静かに掌を降ろして、ほっと胸を撫で下ろす。
「まぁ、異変がこの館周辺で固定されているうちは人里に被害も出ないでしょう。新しい被害者も、あの捻れじゃ当面は現れないだろうし」
霊夢はそのまま、腕を組んで目を瞑り続けたレミリアの前に立つ。
何事かと目を開くレミリアに対して、霊夢は突如巫女服の襟を大きく下げて肌蹴させた。これにはさすがに齢500を超える吸血王女も目を向いて声を上げざるをえない。
「うぇっ! れ、れれ霊夢? さすがにこんな時間からは大胆過ぎないかしら……? 美鈴も見てるし、私的には夜の方が調子的にも精力的にもいいのだけれど……でもでも霊夢がその気なら私もっ……」
「何馬鹿なこと言ってるのよ」
対して霊夢はレミリアに蔑みと呆れの視線を送りながら首筋を強調するように突き出す。
「吸っておきなさい。巫女の血でも、多少はマシになるはずよ」
「あ、あぁ、そういうことね……」
だが、レミリアは首を振って笑い、これを断る。意外そうに目を開く霊夢、二人の方へ歩いていた美鈴もそれに驚いていた。
「知ってるでしょ? 私が吸血下手なの。小食だからね、それで得られるエナジーなんて、たかが知れてるわ」
「そう? 終わらない夏の休暇で腑抜けた吸血鬼には、良い気付け薬になるんじゃない?」
「もちろん貴女の首筋にマークを付けれるのは魅力的だけどね。今ウチの居候みたいに貧血になられても困るわ」
「あっそう……」
何か色々と起こりすぎて疲れ、呆れ返った霊夢は椅子に着席する。美鈴も彼女たちの前に到着する。もう、霊夢は行動を起こす気はないようで、美鈴はそのことに安堵していた。
「とりあえず一息入れるましょうか」
「そうね。私は緑茶がいいわ」
「ふふん、美鈴、飛び切りの茶菓子を用意しないさい。終わらない夏の昼にぴったりな、奇妙で奇怪なお茶会を開いて巫女をもてなすのよ」
相変わらず無茶な要求が好きな主だ。けれど霊夢の登場やこれからの行動にも指針が示され、少なからず彼女にも活力が戻ってきた様子。むしろ無茶苦茶でなければ困るぐらいだ。美鈴は苦笑した。
「畏まりました。では少々お待ちを」
ようやくお茶を飲んでくれることを許してくれた霊夢、元気なったレミリアに美鈴は嬉しさを感じつつ、扉へと歩いて行く。
「それにしてもこの部屋、すごい仕掛けがあったものね」
「パチェが河童と創ったのよ。吸血屋敷にはぴったりだったでしょう?」
「主が吸血鬼でもなければ使い道もなさそうだけどね」
「そうでもないよ。映写機を使えば映画館になれるし、居候も星読みが捗るって言って、倉庫から天象儀まで引っ張りだしたのよ? 暗闇に光を写せば、使いようはいくらでもあるわ」
「あぁ、確かにそういうのもある、わ、ね……」
不意に霊夢の語気が弱まった。
話していたレミリアは怪訝な表情を浮かべ、美鈴も歩みを止めて振り返る。霊夢は重そうに頭を支えており、目も霞んでいるようだった。
彼女が立ち上がろうとしたが、そこから崩れるようにして倒れてしまう。
「霊夢!」
レミリアと美鈴がすぐさま霊夢の元へ駆けつけるが、起き上がろうとして支える腕も震えており、上手く立ち上がれないようだ。
二人はすぐに、霊夢が何らかの攻撃を受けたのだと察した。見たところ外傷はない。音も、気配もなかった。しかし霊夢の意識が風前の灯火であることは誰の目にも明らかだった。
「ぐ、うぅ……」
「しっかりしなさい! くそっ、一体どこから!」
美鈴はすぐさま咲夜を見たが、彼女が動いた形跡はない。ならばどうして? どうやって? この時ほど自身の感覚が鈍っていることに酷い歯がゆさを覚えたことはない。折角の切り札が今、失われようとしているのだ。
霊夢は辛うじて顔を挙げて、咲夜を睨む。
「なる、ほどね……私は、〝招かれざる客〟ってことね……」
それを最後に、霊夢は地面へと伏してしまった。
―――3―――
紅魔館には庭を一望できるベランダが一つある。門からも見える、館正面に位置する物だ。その屋根は依然変わらずに降り注ぐ太陽光線を防ぎつつ、その下にいる吸血鬼を護っている。
そのベランダに、ワゴンを押して美鈴がやって来た。
「お疲れ様。で、どうだった?」
レミリアの労いの言葉に苦い笑みを浮かべながら、美鈴はこれまでの記録を想起し、答えを述べていく。
「ひとまず、霊夢はあの部屋に安置し、今もパチュリー様が診られています。私の検分した限りですが、症状は完全に他の者達と一致していました。どんな刺激にも反応せず、常に眠っているような状態で、呼吸、鼓動、体温脈拍はあります。しかしそれ以上の生理現象は認められません。体内の活動も睡眠状態に近いと考えていいと思います。まさか開腹することも出来ませんので、この辺りは触診による判断ですが」
「上等ね。人間のサンプルが手に入ったのは良いことだわ。出来る限り情報を集めて、じゃないと霊夢に申し訳が立たないでしょう」
「分かりました。それから、お嬢様」
美鈴は主の座る白いテーブルの上に、一つの小瓶を置いた。中には赤黒い液体で満たされており、ぴっちりとコルク栓がされている。
「念のため、採っておきました」
「……ふん。これならあの時噛み付いておけばよかったかな」
心底残念そうな溜息を一つ吐いて、レミリアはその小瓶を受け取り、宝石のように眺める。それからすぐにそれを握って、ポケットへと仕舞いこんだ。
「あとはパチェの検査が終わるのを待つだけね……貧血は平気そうだった?」
「自身の研究室で魔力充電に専念していらしたそうで、辛そうですがなんとか。小悪魔もついていますので、何かあれば連絡があるでしょう」
「そう。全く、久々にこの館も慌ただしくなってきたわね」
「あの巫女が来れば嫌でも慌ただしくなります」
美鈴が紅茶を入れていく。氷の入ったタンブラーグラスに、水滴を纏う金属のポットから冷たい紅茶が静かに注がれていく。
「入れますか?」
「……いいえ、いらないわ。折角霊夢の物があるんですもの。それまでは〝断血〟しないとね?」
「なるほど。ではストレートで」
コルクのコースターと共にレミリアの前に差し出される。グラスの周りはすぐに結露していた。その有り様が、あぁ夏だなぁとレミリアに思わせる。
風もない。鳥の鳴き声もしないこの世界でも、些細な事に季節が顕れている。そのことに気付いた時、レミリアは少しだけ感動したものだ。しかしそれが二ヶ月も続けば均される。
ひんやりとするグラスを手で掴んで、レミリアはそれに口を付けた。
「一息入れましょう。貴女も座って、パチェが来るまでチェスでもどう?」
「是非」
美鈴はワゴンから、駒の入ったチェス盤を取りだしてテーブルに置いた。それから対面に座って、チェス盤を開く。中には駒の詰められた箱と収められたクリスタルの駒。それらを一つ一つ、美鈴は慣れた手つきで丁寧に並べていく。陣を敷き終えたら、盤を逆転して自陣に取り掛かる。
やがて、整然と並べられた駒同士が相対した。
「チェスも久しぶりだわ」
「ルールは覚えておいでで?」
「試してみれば分かるでしょう」
初手。レミリアがポーンを動かす。美鈴も対応する。
「最近はデジタルゲームが多かったけど、やっぱりアナログも良いものね」
「こうしてお嬢様とボードを挟んで対面するのもずいぶん久しぶりに感じます。テレビゲームは画面と睨みっこなのが多かったですし」
「ここ数年でドカドカ流れてくるから飽きないけど、やっぱりこうして顔を突き合わせてやるゲームはいつまでも褪せないものだわ」
他愛無い話も久しぶりだ。この異変が始まって吸血鬼二人は休眠状態で体力を温存しなければならず、ほとんど会話することもなかったのだから。
美鈴が駒を進める。狙いを察して、レミリアも駒を動かす。
駒を取り、取られ、盤面は一進一退。
「キャラクターは6種16個、ステージは8×8の一つだけ。なのに、今まで忘れ去られずに多くの人間がこれで遊んできた。チェスってすごいゲームね」
「その簡素さ故に親しまれてきたのやもしれません。簡単だということは、それだけ誰にでも知られやすいということです」
「そう。そして簡単過ぎるせいでプレイヤーの精神を露見する。するとどうだ、ゲームには様々な思想が、意志が、流れが宿った。それがゲームに深みを与えた。プレイスタイルは複雑化し、幾つもの派生物が生まれては消え、知名度は爆発し長期間愛され、時間の長さがさらに魅力になった」
「まるで我々のようですね。根源とする出来事を核に恐怖を纏う。知名度と時間が糧となる。出来事は単純なことが多いというのは、正しくその通りですけど」
「自分を知らない妖怪がよく言う。妖怪の正体見たれり枯れ尾花って? けどそれは間違いじゃないかな。チェスは言うなれば神だ。人々はそれを夢想し、信仰し、奥ゆかしさを生み出す」
「悪魔が神を語りますか」
「どちらも似たようなものじゃない? それに私はただの悪魔ではない。外界の裏世界で猛威を振るい、幻想郷にすら傷跡を残した伝説の吸血鬼だぞ? 言うなれば魔神だ」
「いつから神話になられたので?」
「時間の問題だ。その内なるさ……チェック」
ビジョップにキングが狙われ、美鈴は黙る。どうすればいいかを考える。防ぐが、逃げるか。
久しぶりという割に、レミリアの手は鋭い。全く鈍っていない。こうやって困らせるのが好きだというのは美鈴も承知の上だ。
手は決まった。けれどもう少し留める。そうしなければ疲弊して喰われる。
「結果的に、制限時間は縮んでしまいましたね」
「ん? 何が?」
「今回の異変です」
美鈴は自分でグラスに氷と紅茶を入れて、一口含んだ。注がれる琥珀の液体がブランデーであれば、どれだけ良かっただろうか。そんな未練を流すように。
「……博麗の巫女を抱えてしまった以上、早急な解決が必要でしょう」
「正直言ってそれが今一番の悩みの種なんだよなぁ」
「すみません。あそこで止めてしまったばっかりに」
「いや、あれは助かった。止めようと思ったが上手い言葉が思い浮かばなくてさ。あの状態じゃ挑む前に消されて終わりだった」
「冗談でしょう? とはいえ、所詮は延命です。このままにすればいずれ外からの強制介入があるでしょう。そうなれば、私達は彼女を殺すよりも酷い選択を迫られるのでは?」
それすなわち、十六夜咲夜を異変の元凶として突き出すこと。
博麗霊夢すら解決できなかった異変の首謀者。再挑戦の効かなかった異例の異変――その首謀者として。
十六夜咲夜は喜んで身を差し出すだろう。何せ完璧で瀟洒な、最高の従者なのだから。
しかし制裁を甘んじて受けるとしても、けれど咲夜を差し出すような真似は、さしものレミリア・スカーレットでも出来ない相談である。
現状被害者は紅魔館の面々と博麗霊夢のみ。そんな状態でこれを謎の異変だなんだと騒がれるのは納得のいかない話だった。
「いっその事霊夢と一緒にバイバイってどう?」
「最高ですね。問題はその前に必ず介入されることと咲夜さんに手が出せないことぐらいですか。その場合も彼女を置き去りにしたという栄誉ある罪業が閻魔様に告げられるわけですが」
「あーごめんごめん、冗談だって……」
「いや、実際いいと思いますよ。最悪はその手で行きましょう。問題の処理はパチュリー様と検討します」
「そんな暇があるならちゃんとした方法を考えてくれ」
美鈴が駒を動かす。キングを守るように、ナイトが出てきた。
今度はレミリアの手が止まる番だった。
吸血鬼は静かに紅茶を飲んで、それから一息吐く。
「……正直、本当に正直な話、本当に助かったと思ってる。あれはヤバかった。久しぶりに心臓が跳ねたよ」
「どの辺りでですか?」
「殺すって言われた時」
美鈴も同様だったので、納得するように「あー」と声を漏らした。それだけ、あの時の霊夢には殺気と意志が込められていた。博麗の巫女だからという事を含めないでも、霊夢にはそれだけの力が宿っていることを二人は知っていた。
「あれには私も肝を冷やしました。一度決めたら絶対に曲げないかとも思ってたので」
「貴女が跳んでいった時はあ、やられたなって思ったけどね」
「滅茶苦茶後悔しながら跳びましたよ、はい」
レミリアがビジョップを動かし、ナイトを取り上げた。再びチェック。
「でも運命の女神は微笑んだ」
「ええ。今でも微笑んでおられる」
さて、どうしようか。
美鈴は黙考する。盤面を射抜くように見つめながら、口元は拳を当てて隠して、眉を曲げて考える。レミリアはそれを許すように微笑んでいる。
美鈴の頭の中で、異変の事、博麗の事、咲夜の事。色々な情報が回っている。
こうしている間にもタイムリミットは迫っている。
セミの音の聞こえない偽りの夏の日差しが、毒のように妖怪たちの力を削ぎ、蝕んでいる。
加えて外では巫女を心配する黒白の魔法使いが何かを企んでいるに違いない。
まずは、パチュリー・ノーレッジの意見を待とう。そう落ち着かせる心と、それで間に合うのかという逸る気持ちが鬩ぎ合う。その狭間で、美鈴の意志は沈黙している。
時間を忘れるくらいに考えたかもしれない。
彼女の意識を再び引き戻したのは、主の囁くような小さな言葉だ。
「……咲夜は、私が嫌いだったのかな」
子供相応の声音で、美鈴ははっとして視線を上げた。
「まぁ、そうだろうな。年頃の子供を、薄暗い屋敷に置いてずっと働かせてきたんだ。まるで童話の意地悪な継母じゃないか」
「お嬢様……」
「これも童話通りじゃないか? 意地悪なバケモノが、夏の茹だる鍋で、今なおぐつぐつと煮込まれている」
美鈴は口を挟めない。いつもなら冗談の一つでも言えたであろうに、精神的に疲弊しているがゆえ、咄嗟にそこまで頭が回らなかった。ただ呆然と、主の言葉を耳に通すのだけで精一杯だ。
「吸血鬼の館を夏の昼で包み込むとは、なるほど復讐としては丁度いい。あの子の人生を狂わせた、これは罰だろうか。ふふ、洒落が利いているじゃないか」
どうなのだろう。美鈴は必死に考える。
否定したい。十六夜咲夜はどう見たってレミリア・スカーレットに恨みなど抱いてはいなかった。常に笑顔で、彼女の後ろに付き従って、彼女を支えてきた。
それが嘘で、今までずっと隠して恨んでいたというのなら、それは尋常でない憎悪である。
でも、その強い憎悪の顕現がこの《終わらない夏》だと言われてしまうと、頷けてしまう。
「そういえば昔、あの子にプレゼントしたテーブルナイフがあったよな? 冗談めかして、教会から分捕った聖なる食器だかなんだか。殺す時はあれを使ってくれると私も嬉しいなぁ」
否定しなければならない。主を励まして奮起させねばならない。だがその根拠は? この世界が彼女の殺意の表れでないと証明する根拠は何処だ?
美鈴はまず自身を恨んだ。ここにいるのが彼女の親友であるならば、その脳に刻まれた億の知識と言葉から、適切な解を導き出すだろうに。残念ながら己にそんな脳はない。だから思いつく言葉が正しいかも分からないし、曖昧だなとすら思う。
再度の沈黙。言葉が消え、二人の視線は交わらない。
「……もし」
弱々しい声だった。掠れているような気さえした。顔は依然として微笑んでいるのに。
「もしも〝その時〟が来たら――」
あぁ、と察してしまう。この後に続く言葉が何通りか、自分の頭の中に思い浮かんできてしまう。その中でも最悪な言葉が、美鈴の中で不安を膨らませる。
止めようとして、言葉が出ない。思い浮かばない。どんな思いでその言葉を紡いでいるのかを考えてしまって、胸が苦しくなる。
レミリアは目を瞑り、言葉を止める。きっと逡巡している。そうして言葉を選んでいる。
やがて目を開けた時、その紅玉の瞳は、妖怪の暗さを宿していた。
「私がやろう」
その言葉は。
「私が咲夜を殺そう」
その言葉はあまりに力強く、美鈴の耳朶を打った。
「それが主の務めという奴だろう?」
ニヤリと笑う。悪どく笑う。何をも恐れない。全てが怖れる吸血鬼の笑みだ。
夏の空の下でさえ、その笑みには闇が漂う。
美鈴のぽかんとした表情を見て、彼女はまた別の、少女然とした笑みを浮かべた。
「ふふ、どうした、馬鹿みたいに口を開けて。まさか私が投げると思ったか?」
「……いえ」
さすがだと思う。美鈴が考えた〝最悪の言葉〟を、彼女はやはり選び取ったのだから。
不安は的中する。これほど心を持つ者に厳しい法則はない。
疲労も吹っ飛ぶくらいの刺激だった。いつものように思考が回り出す。
「むしろそっちの方がまだ良かったです。投げてくだされば私はむしろ張り切りますからね。お嬢様に信用されてるって」
「信用しているよ、庭師の昼寝門番くん」
「では進言しますが、ダメです」
美鈴ははっきりと主の言葉を否定した。
ダメージが計り知れないからだ。
最も信頼し、信頼される従者を手に掛ける――それは必ず心に傷を残す。
埋まることのない溝を自分から作る。勝手に死なれるより酷い傷痕を負うだろう。そしてその傷はじわじわと心に毒を回し、錆びさせ、粉塵となって風化する。
吸血鬼が灰となるように、心も塵になる。心が塵となれば、妖怪も靄となる。
何よりまず、博麗の巫女が黙っていない。咲夜に手を出せば制裁は必ずある。
そしてレミリアが咲夜を手にかけたことを周囲が知れば、どんな目を向けられるかも分からない。
だからこそ美鈴は否定する。しなければならない。
美鈴が危惧するのは、何よりレミリア・スカーレットの消滅なのだから。
彼女が消えたら紅魔館は終わりだ。彼女は軸であり、顔であり、要であり、枷。それを失えば紅魔館も空中分解。全員路頭に迷う。
バッドエンド。
しかし美鈴はこれを正直に言おうとは思わなかった。
「お嬢様に上げるくらいなら私がいただきます」
「え、いやそこは主に譲ろうよ」
「ダメです、勿体無い」
「勿体ないってどーゆーことだ!」
「いえいえ、恐れ多くて献上できないという意味で」
「嘘つけ嘘つけ! 絶対惜しんでるだろ!」
「だって絶対余らせるじゃないですか~」
「誰が喰うか!」
落ち着きを取り戻して、吸血鬼は腕を組んだ。全く、と呆れ半分疲れ半分な顔色を浮かべながら、溜息を吐いて紅茶を飲む。それから笑う。
「なるべく綺麗にやってやるさ。何なら竹林の医者に直させる。それで葬儀は知り合い全員を集める。盛大に惜しんでやるんだ。それこそもったいないって」
「いいですねぇ。それでしこたま酒を飲みましょう。とろけるくらいに」
「ばーか。そこは静かに良いワインで月でも見ながら乾杯だろ」
「どうします? 秘蔵のワイン掘り出して、恨んで出たら」
「魂を人形にぶち込んでさらにこき使ってやれ」
「あはは、閻魔様や死神が黙っていませんよ」
「そうしたら戦争だ」
どちらにせよバットエンドだった。
吸血鬼を倒すために幻想郷中の水を使って天に登る滝を造られても困る。
いつの間にか重苦しい空気は流れ、下らない話を咲かせるくらいには緩んでいる。もうそろそろ魔女の鑑識結果もでるだろう。チェスも終わらせる頃合いだ。
「さてはて、どうしたものか……」
美鈴は控えていたクイーンを取り上げようとして、けれど手を止めて別の方向を向いた。
指し手に迷ったか。吸血鬼は嫌らしそうに笑みを浮かべて口を開くが、直後美鈴が自身の口に指を当てて静かにと示したので、その口を噤む。
そうして静かな世界の中で、美鈴は耳を澄ました。
「……どうした」
美鈴は沈黙を保ったが、少ししてレミリアに質問で答える。
「念の為に聞きますけど、今音が聞こえませんでしたか?」
「音? どんな音だ?」
「何か金属的な音、遠い、それがぶつかるような……」
「すまんが今の弱体化した私ではお前ほど耳が良くない」
「私もさしてお嬢様とは変わりませんよ」
美鈴は音の方向を見ながら立ち上がる。
実際、聞こえたというのは空耳かもしれない。振動もなかった。だのにこの胸騒ぎは何だ。先程よりも重い、こびりつくような不安が頭のなかに残る。
「すみませんお嬢様。チェスの続きは後になりそうです」
「そうか。まぁのんびり百手先くらいまで考えているさ」
「たはは……まぁ駒を並べ直す前にはパチュリー様のお話が聞けると思いますよ」
立ち上がり退室する美鈴に、吸血鬼は言った。
「頼んだぞ」
畏まりましたと一言残し、美鈴は館へと消えた。
―――4―――
別に最初はどうでも良かったの。
暑いのは嫌いだけど地下は涼しいし、それほど不自由はなかったわ。
昼も好きよ? 庭の花がこれでもかと気持ちよさそうに咲き誇る姿は見ていて飽きないわ。
でもずっと昼は嫌だわ。だって私吸血鬼じゃない?基本夜型なのよ、私。
まぁ、時間に縛られているわけではないけどね。
いや、現在は縛られているけどね?
私、縛られるの嫌いなの、時間に。
急かされるのは好きかも。他者に縛られるのはね。
他者の意識によって縛られると、その存在を明確に象ってくれるから。
時間は違うわ。
時間を感じる存在はそれを限りなく同じ数値で共有できても感覚を共有できない。
意識が違うから。
肉体が別だから。
魂が別だから。
だから私、時間って嫌い。
見えないし分からないから。あはは、まるで妖怪みたいよね?
怖いわよねぇ時間って、いつでもそこにあって、誰もが知っていて、見えないのに、平等に存在している。共通認識って奴? ある意味神様じゃん、それ。
悪魔は神様が嫌い。
分からないのは嫌い。
吸血鬼は日光が嫌い。
私はこの止まった世界が大っ嫌い。
「じゃあもう、ぶっ壊すしないじゃん。ねぇ、そうでしょ? パチェ」
――プレシャス・ヴァカンス(後)に続く
チャプター2序盤で「腹の上でを組んで」みたいな脱字(「手」?が抜けている)、後半で路頭に迷うが「露頭」になってました
続き読んできます
美鈴、日が照ってる時は花に
直接水かけちゃあかんやで