ーーー目を覚ました。
今日も変わらず、耳に聞こえてくるメイド妖精達の慌ただしい声。
鼻に香る上品な紅茶の香り。
変わらない。この目覚めを、何度繰り返しただろうか。
そう、どうしようもなく変わらないのだ。この日常は。
「お嬢様。朝食の準備が出来ております。」
いつの間にか、金箔で縁取られた木製のドアの内側に佇んでいた咲夜に、自らで膨らんだ布団越しの寝ぼけ眼を向ける。
「…あぁ。」
いつも通りのそれに態々形式ばった返事をする気にもなれず、気の抜けた相槌を漏らす。それに不満を唱える筈もなく、咲夜は短く"失礼しました"とだけ残して、ドアの向こう側へと消えた。
覚めたばかりの微睡みの甘美さに抗うのは何とも惜しく、もう少しこの心地良さに耽けることにした。
ーーーまだ、あなたは覚えているかしら。
ーーーあの時見上げた、新月の夜空を。
何となしに思考を走らせると、どうしてもそれを考えてしまう。
日々の喧騒に隠れ、しかし常に私の傍にあるもの。そして私がそれを忘れることは、永劫ないのだろう。
それもまた、きっと運命なのだ。
それはーーー
「ーーーねぇ、フラン。」
それは遠い、過去の記憶。
「フラン、何を見ているの?」
「…月。」
「今夜は新月よ?」
「そこに在るの。綺麗。」
「相変わらず。」
思わずくすりと苦笑した私に、フランは見惚れる様な綺麗な笑顔を返してくれる。
いつも、フランはよくわからないことを言う。そうして苦笑した私に、大好きなあの笑顔を浮かべるのだ。
フランの言うことがよくわからずとも、会話になっていなくとも。私はフランと過ごす時間が何よりも大切だった。
何をするでもなく、ただ二人寄りかかって、続かない会話を続ける。
吸血鬼らしく冷たい、しかし暖かな手を感じながら、気が向けば遊び、疲れれば眠る。そうして二人で笑いあって。
ーーー両親は嫌いではないが、好きでもなかった。
一日に一度、食事として紅い血のたっぷり入ったグラスを持ってくる以外、接点はなかった。
それもフランへの思いを加速させていたのかもしれない。
私の世界は、フランが全てだった。
ずっと一緒だった。
ーーーずっと、一緒だったのだ。
ある夜に、ふと聞こえた会話。
隣で眠るフランを愛おしく抱きしめながら、覚めない頭でぼうっと聞いていた両親の声。
もしも。
ーーーなぁ、やっぱりアレは失敗作だ。何度も試させたが、破壊にまるで指向性がない。無差別だ。
ーーー強い能力に代償は必要。それがアレの"自由"だっただけの話。ま、使えない事に変わりはないわね。
ーーーやはり次代の当主はレミリアだな。アレはもしもの時の最後の"剣"としよう。
ーーーそうね。
ーーーもしも私が、あの時会話の意味を理解することが出来たのなら。
私は、私の望む最良の運命を掴むことが出来たのだろうか。
いや、どの道幼き私の出来ることなんて殆どなかっただろう。
今が幸せでない等と贅沢は言わない。
それでも、それでも、何か。
悲劇の運命は、もうすぐそこだったーーー
最愛の妹は、ある日突然いなくなった。
"フランはどこ!?"
何度聞いても、もはや夜が暗くあるかの如く、同じ答えが返って来るばかりだった。
"あの子は悪魔に攫われたの"
繰り返される無情に、泣きわめいてフランに会いたいと叫んだ。
そんな私を見つめる両親の瞳は限りなく冷たかった。
その日、私は両親が嫌いになった。
ーーー悪魔は一体、誰であったのか。
私はフランを待ち続けた。
フランの部屋で、フランのベッドで。
フランの鏡で、フランの人形で。
あの日フランが眺めていた様に何も無い空を見上げ、綺麗だと呟いた。
それでもフランは、帰って来なかった。
数百年の時が流れ、ベッドのサイズが合わなくなろうと、私はフランのベッドで毎晩眠り続けた。次に目が覚めた時は、隣にフランがいる。そう信じ続けて。
眠る。起きる。ーーーフランはいない。
眠る。起きる。ーーーしかし、フランはいない。
そうしていつしか、母はいなくなった。
用があると出掛けたきり、帰って来なかった。
次に父がいなくなった。
母を捜すと出掛けたきり、帰って来なかった。
私は"一人"になった。
ただ、レミリアという名前と、虚しい館のみが残った。
二人のことなど、もはやどうでも良かった。フラン、フラン。私のフラン。
私は、このまま…
最愛の名を呼ぶ自分の声のみが木霊する館で一人。壊れていく心を占める幸せな記憶。ーーーあぁ、あの笑顔。大好きな笑顔。フラン、フラーーー
唐突に、フランのいなくなった夜のことを思い出した。鮮烈に、脳裏に蘇る両親のある言葉。
ーーーそうだ。
ふらふらと、何かに導かれるように立ち上がる。
例えどれほど稚拙な考えでも、何か縋るものが欲しかったのだろう。
しかし、それは間違いではなかったのだ。
まさに、"運命に導かれる"かの如く。
フランの部屋を抜け出し、廊下を駆ける。ただただ無言で下へ下へと館の階段を降り始めた私は、ある種確信めいた感覚に歩を滑らせる。
ーーー"入ってはいけない部屋"。
あの日、両親にそう告げられた鋼の扉。
階段を降りて、降りて、その先に佇む不気味な部屋。
もしかして。
有り得ないと否定しつつも、皮肉にもあの冷たい両親の瞳がソレを信じさせる。
ギィ。重い扉は、抵抗もなく素直に開いた。鍵は掛かっていなかった。
世界を侵食する様な、濃厚な闇が広がった。夜目が効くこの吸血鬼の目ですら、見えない。一条の光もない世界。
ーーー怖い。
この先に待ち受ける未知がたまらなく怖い。しかし、けれど、それでも。
私には進まねばならない理由があった。
確かに聞こえる。あの子の呼ぶ声がーーー糸に引っ張られるかのごとく、私の足は一点を目指して歩きだした。
だだっ広い。何も無い鋼の空間。
コツン。コツン。ーーーグチャ。
踏みしめた床の上の何かから、湿っぽい音が跳ねた。
「ひっ…。」
情けない声が漏れる。
やっぱり引き返そうかーーーそんな考えは、一瞬で断たれた。
「…ぅー……ぅー…。」
びくりと反射的に顔を上げる。
確かに目線の先から声が聞こえる。
弱々しく、今にも途切れそうなこの声は、この声はーーー
「フ……ラン…?」
「……ぁー。」
もう恐れはなかった。
「フランッ!」
駆け寄る。無我夢中で駆ける。
足が縺れて転んだ。痛みは無視した。
起き上がりざまに走る。
「フラ……ン…。」
銀色に鈍く光る鎖に両手両足を縛られ、力なく呻き声を漏らす最愛の妹が、そこにいた。
鋼の壁に拘束する鎖の先は杭になっており、直接フランの手足を貫いている。
無惨に突き刺さった杭の淵から、濁った真っ黒の血が滲んでいた。
やせ細った身体は今にも脆く崩れ果てそうで、肋骨は痛いほど浮き出ている。
その体を覆うのは服などではなく、彼女自身の凝固した血液であった。
両手を吊り下げられ、内股にぺたりと座り込むフランの瞳に、生気はない。
「ぁー…っ……ぁー…。」
フランは、最愛の妹は、僅かに開いた口からただただ絶望を鳴らしていた。
疲労か、生きていた安堵か、フランの無惨な姿を見たショックからか、私はへなへなとその場に崩れ落ちた。
「フ、ラン…フラン…フランっ…フランっ!っあぁ…ううぅ…ぁぁあ!」
わけもわからず、押し寄せる感情の波に従って泣き叫んだ。
鋼の闇に、慟哭が響いた。
涙も喉も枯れ、ぐす、ひっくと不規則に息を荒らげる私に、光が降る。
「ぉ…ぉ、ねぇ…さま…?」
「…フラン?フランッ!あぁ、お姉様よ!」
重い腰を無理矢理上げて両手でフランの頬を優しく包む。色をなくした紅の瞳に僅かに光が差した。
私の泣きそうな顔を反射して写す。
「きて、くれた…。ず…っと…呼んでたの…。」
「ごめんなさい。ごめんね、フラン。もっと…もっと早くっ…ッ!」
悔しさにまた涙が溢れそうになる。
けれど今は、これ以上泣いて時間を潰している場合ではない。
早く助けないと、手遅れになる前に。
銀の鎖さえ外せば、吸血鬼元来の回復力でどうとでもなる。
「いい……の。うれしい…。」
「どうすれば…どうすれば…とりあえず、この銀の杭を引き抜いて…。」
「おねえさま…。」
「フラン?ごめんね、少し痛いわよ。けれど、すぐに助けてあげるから!」
「…あ、のね。」
「良いから、黙ってなさい。これ以上体力を使っちゃダメっ!」
フランの左手の肘を貫く杭を掴み、二の腕を支えて一気に引き抜く。
腐った血肉と錆の入り交じった異臭に吐きそうになる。
「っがぁ…!」
「ごめんね、ごめんねフラン。後3回、後3回だけ我慢して頂戴…。」
脳を焼く様な苦痛を訴える姿に激しく胸が痛む。しかし、やらなければいけないのだ。ごめんね、ごめんね。
「ひっ…ぁ…!」
右手。左足。唇を噛み締めて悲鳴を無視する。
「最後…。」
「いっ……はぁ、はぁ。」
右足の太股辺りに乱雑に突き刺された最後の銀杭を抜く。
銀の毒から解放されたフランの身体は徐々に再生を始める。
しかし、そのスピードはかなり遅い。やはり極限まで弱っている。
「フラン。…っ。」
自分の舌先を噛み切る。
瞬時に再生が始まるが、魔力を流して無理矢理再生を止める。
血が勢い良く口内に溢れかえる。
「ん…っ…。」
意味を察したのか顔を向けたフランの顎を掴み、無理矢理唇に唇を押し付ける。
血の流れ続ける舌を挿し込んで、フランの口の奥へと伸ばす。
「…んくっ…んくっ。」
フランが喉を鳴らして、溢れる私の血を飲み続ける。
吸血鬼にとって、他の、特に親族の吸血鬼の血は何よりも力に還元される。
弱ったフランの回復力を補うには、今はこれしか方法がなかった。
「…んっ…んくっ。」
そのまま血を与えながら、目だけを動かして傷の様子を見る。
再生の速度は徐々に上がっている。
力が回復してきている証拠だ。
与えすぎて私が枯渇しないように気をつけながら、震えるフランの身体を優しく抱き締めてやる。一瞬びくりと背中が跳ねたが、安心してくれたのかこちらへもたれかかるように体重を委ねてくれた。
「…んくっ。…ぷぁっ…はぁ、はぁ。」
「げほっ…。大丈夫か、フラン?」
口を離すと息を整え、魔力を止めて舌を再生する。
血が一気に抜けすぎたからか、少しくらくらするが何てことはない。
最愛の妹の為なら、命だって捧げてみせる。
「…うん。」
「フラン。フラン…。ごめんね。こんなに苦しんでいたのに、私は助けられなかった。」
「…助けてくれた。」
「でも、私はっ!」
不意に頭に回された手で胸に押し付けられ、言葉を中断させられる。
「来てくれるって、しんじてた。」
「当たり前じゃない。」
もし、このままフランを見つけられていなかったらと思うと、ゾッとする。
それこそ、世界の終わりだ。
フランのいない世界に何の意味がある。
「…ただいま、お姉様。」
「…おかえり、フラン。」
あぁ、この幸せが未来永劫。
悪魔か、神か。誰だか知らないが。
この運命は誰にも渡しやしない。
フランを、守り抜いてみせる。
ーーー自分が、"運命を操る程度の能力"を持っていると気がついたのは少し先のことだった。
「戻ろう、フラン。…私達の部屋へ。」
「…うん。」
未だふらつくフランの肩を支えて歩く。
此処に入るのは怖かったが、出るのは簡単だ。
ただ光を目指せばいいのだから。
何より、隣にフランがいる。
それが全てだ。
ーーーふと足元に目を向けて、先程踏んだモノが何かの死骸だということに気が付く。そしてそれがーーー
フランの震えが強くなった。
「あの、ね…私、私、お母様もお父様も」
「言わないで。わかってる。」
フランがあの時いなくなったのは、そして二人が帰って来ないのは、そういうことなのだろう。
両親…いや、アイツらこそが、フランをこんな目に合わせていた張本人なのだ。
そして眼下に散らばる肉塊は。
それをやったのは。
「壊しちゃった。私…」
「…言うな。」
フランがからからと乾いた嗤い声を晒す。
悪いのはアイツらだ。
あぁ、だから。
だからそれだけは言わないで。
フランは何も悪くない。
それだけは、絶対言ってはいけない。
思ってはいけない。
ダメだ、ダメ。
止めないと、止めないと。
この子が、フランが壊れていく。
「ーーー化け物なの。」
「フランッ!!」
"ごめんなさい"。
その言葉と共に崩れ落ちそうになるフランを支える。
あぁ、とにかく此処を出ないと。
これ以上、此処にいさせてはいけない。
力の抜けたフランの首の後ろと膝下に手を回し、抱き上げる。額に長めのキスを落として、揺らさない様に、しかし出来る限りのスピードで部屋を出る。
階段を上がって、フランの部屋を目指す。
ドアは開いたままだった。
そっと、ベッドの上に寝かせる。
「フラン。」
「……。」
「…お願い。私を見て。」
弱りきった双の紅が、私の双の紅と見つめ合う。
「フランがどれほど恐ろしい力を持っていたとしても。私はその力ごとフランを愛する。どんな運命からも守ってみせる。」
「……うん。」
「だから…。」
溢れる思いに耐えきれなくなって、フランに抱きついた。
きっと伝わった。
私の言いたいことは。
フランだから。フランなら、わかってくれたはずだ。
私は卑怯だ。我が儘で、傲慢だ。
それでも、それでもーーー
ーーーいなくならないで。
二人きり。
抱き合って泣いたこの日の夜空は。
いつかと同じ、新月の夜だった。
「…懐かしい、記憶。」
すっかり、語ってしまった。
朝食を終えて、聞きたいと言われたから話したものの。
少し、熱くなり過ぎた。
仕方ない、何しろフランのことなのだ。
それも特に大事な思い出の。
もうディナーの時間なのは、きっと仕方の無いこと。
「…なるほど。それで、妹様はああなった、と。」
「お嬢様と、妹様の間には誰も入り込めなさそうでございますね。」
パチェがはぁと考え込むように言うと、咲夜が同意するように頷いてそう言った。
当然。
「私とフランは、ずっと一緒よ。」
「…妹様…お嬢様…っ…。」
「な、何で泣いてるのよ、美鈴…。」
「すみません、感動してしまって…うぅ。」
「私としては、血を飲ませたところをもう少し詳しく聞きたいです。」
「小悪魔、黙ってなさい。」
「ぱ、パチュリー様ぁ、冗談ですよーっ!」
…あぁ、ディナーはフランと二人きりで食べよう。
それがいい。
「…咲夜。」
「はい。既に二人分の食事を、妹様のお部屋にお運びしました。」
「…どうも。」
察しが良いのはとても助かるが、行き過ぎると恥ずかしい。
何でも見通されているのかという気になってくる。
さて、フランのところへ行こうか。
「…察しがいいも何も、ディナーはいつも妹様と食べてるじゃない。」
パチェの言葉は、きっと聞こえなかった。
「…いらっしゃい、お姉様。」
「…こんばんは、フラン。今夜は新月ね。」
扉を開けると、フランがとてとてと可愛いらしく駆け寄って出迎えてくれる。
何て幸せなのだろう。
「ディナーの肴に、丁度いいわ。」
「そういえば、さっき皆に昔の話をしていたのよ。」
「昔の?」
「ええ。私達が、二人きりになった時の話。」
「…ふぅん。」
「あら、嫌だったかしら?」
「…余計に部屋から出たくなくなるじゃない。」
「出る気もないくせに?」
「…ふん。」
ぷっくりと頬を膨らませてむくれる姿が愛らしい。
あぁ、けれどいつか。
きっと紅魔館全員で食卓を囲める日がくる。そう信じているのだ。
決意を新たに頷いていると、フランがじっと見つめてくる。
「フラン、何を見ているの?」
「…月。」
「今夜は新月よ?」
「そこに在るの。綺麗。」
「相変わらず。」
「ええ。相変わらず、愛おしい紅い月。」
「…やっと、意味がわかったわ。」
そうして私が照れながらも苦笑すると、フランは見惚れる様な大好きなあの笑顔を浮かべてくれた。
ーーーまだ、覚えているかしら。
ーーーあの時見上げた、新月の夜空を。
訊ねる必要は、やはりなかった。
何となしに思考を走らせると、どうしてもそれを考えてしまう。
日々の喧騒に隠れ、しかし常に私の傍にあるもの。そして私がそれを忘れることは、永劫ないのだろう。
それもまた、きっと運命なのだ。
それはーーー幸せだということ。
「ーーーねぇ、フラン。」
「ーーーねぇ、お姉様。」
ーーーーーー大好き。
今日も変わらず、耳に聞こえてくるメイド妖精達の慌ただしい声。
鼻に香る上品な紅茶の香り。
変わらない。この目覚めを、何度繰り返しただろうか。
そう、どうしようもなく変わらないのだ。この日常は。
「お嬢様。朝食の準備が出来ております。」
いつの間にか、金箔で縁取られた木製のドアの内側に佇んでいた咲夜に、自らで膨らんだ布団越しの寝ぼけ眼を向ける。
「…あぁ。」
いつも通りのそれに態々形式ばった返事をする気にもなれず、気の抜けた相槌を漏らす。それに不満を唱える筈もなく、咲夜は短く"失礼しました"とだけ残して、ドアの向こう側へと消えた。
覚めたばかりの微睡みの甘美さに抗うのは何とも惜しく、もう少しこの心地良さに耽けることにした。
ーーーまだ、あなたは覚えているかしら。
ーーーあの時見上げた、新月の夜空を。
何となしに思考を走らせると、どうしてもそれを考えてしまう。
日々の喧騒に隠れ、しかし常に私の傍にあるもの。そして私がそれを忘れることは、永劫ないのだろう。
それもまた、きっと運命なのだ。
それはーーー
「ーーーねぇ、フラン。」
それは遠い、過去の記憶。
「フラン、何を見ているの?」
「…月。」
「今夜は新月よ?」
「そこに在るの。綺麗。」
「相変わらず。」
思わずくすりと苦笑した私に、フランは見惚れる様な綺麗な笑顔を返してくれる。
いつも、フランはよくわからないことを言う。そうして苦笑した私に、大好きなあの笑顔を浮かべるのだ。
フランの言うことがよくわからずとも、会話になっていなくとも。私はフランと過ごす時間が何よりも大切だった。
何をするでもなく、ただ二人寄りかかって、続かない会話を続ける。
吸血鬼らしく冷たい、しかし暖かな手を感じながら、気が向けば遊び、疲れれば眠る。そうして二人で笑いあって。
ーーー両親は嫌いではないが、好きでもなかった。
一日に一度、食事として紅い血のたっぷり入ったグラスを持ってくる以外、接点はなかった。
それもフランへの思いを加速させていたのかもしれない。
私の世界は、フランが全てだった。
ずっと一緒だった。
ーーーずっと、一緒だったのだ。
ある夜に、ふと聞こえた会話。
隣で眠るフランを愛おしく抱きしめながら、覚めない頭でぼうっと聞いていた両親の声。
もしも。
ーーーなぁ、やっぱりアレは失敗作だ。何度も試させたが、破壊にまるで指向性がない。無差別だ。
ーーー強い能力に代償は必要。それがアレの"自由"だっただけの話。ま、使えない事に変わりはないわね。
ーーーやはり次代の当主はレミリアだな。アレはもしもの時の最後の"剣"としよう。
ーーーそうね。
ーーーもしも私が、あの時会話の意味を理解することが出来たのなら。
私は、私の望む最良の運命を掴むことが出来たのだろうか。
いや、どの道幼き私の出来ることなんて殆どなかっただろう。
今が幸せでない等と贅沢は言わない。
それでも、それでも、何か。
悲劇の運命は、もうすぐそこだったーーー
最愛の妹は、ある日突然いなくなった。
"フランはどこ!?"
何度聞いても、もはや夜が暗くあるかの如く、同じ答えが返って来るばかりだった。
"あの子は悪魔に攫われたの"
繰り返される無情に、泣きわめいてフランに会いたいと叫んだ。
そんな私を見つめる両親の瞳は限りなく冷たかった。
その日、私は両親が嫌いになった。
ーーー悪魔は一体、誰であったのか。
私はフランを待ち続けた。
フランの部屋で、フランのベッドで。
フランの鏡で、フランの人形で。
あの日フランが眺めていた様に何も無い空を見上げ、綺麗だと呟いた。
それでもフランは、帰って来なかった。
数百年の時が流れ、ベッドのサイズが合わなくなろうと、私はフランのベッドで毎晩眠り続けた。次に目が覚めた時は、隣にフランがいる。そう信じ続けて。
眠る。起きる。ーーーフランはいない。
眠る。起きる。ーーーしかし、フランはいない。
そうしていつしか、母はいなくなった。
用があると出掛けたきり、帰って来なかった。
次に父がいなくなった。
母を捜すと出掛けたきり、帰って来なかった。
私は"一人"になった。
ただ、レミリアという名前と、虚しい館のみが残った。
二人のことなど、もはやどうでも良かった。フラン、フラン。私のフラン。
私は、このまま…
最愛の名を呼ぶ自分の声のみが木霊する館で一人。壊れていく心を占める幸せな記憶。ーーーあぁ、あの笑顔。大好きな笑顔。フラン、フラーーー
唐突に、フランのいなくなった夜のことを思い出した。鮮烈に、脳裏に蘇る両親のある言葉。
ーーーそうだ。
ふらふらと、何かに導かれるように立ち上がる。
例えどれほど稚拙な考えでも、何か縋るものが欲しかったのだろう。
しかし、それは間違いではなかったのだ。
まさに、"運命に導かれる"かの如く。
フランの部屋を抜け出し、廊下を駆ける。ただただ無言で下へ下へと館の階段を降り始めた私は、ある種確信めいた感覚に歩を滑らせる。
ーーー"入ってはいけない部屋"。
あの日、両親にそう告げられた鋼の扉。
階段を降りて、降りて、その先に佇む不気味な部屋。
もしかして。
有り得ないと否定しつつも、皮肉にもあの冷たい両親の瞳がソレを信じさせる。
ギィ。重い扉は、抵抗もなく素直に開いた。鍵は掛かっていなかった。
世界を侵食する様な、濃厚な闇が広がった。夜目が効くこの吸血鬼の目ですら、見えない。一条の光もない世界。
ーーー怖い。
この先に待ち受ける未知がたまらなく怖い。しかし、けれど、それでも。
私には進まねばならない理由があった。
確かに聞こえる。あの子の呼ぶ声がーーー糸に引っ張られるかのごとく、私の足は一点を目指して歩きだした。
だだっ広い。何も無い鋼の空間。
コツン。コツン。ーーーグチャ。
踏みしめた床の上の何かから、湿っぽい音が跳ねた。
「ひっ…。」
情けない声が漏れる。
やっぱり引き返そうかーーーそんな考えは、一瞬で断たれた。
「…ぅー……ぅー…。」
びくりと反射的に顔を上げる。
確かに目線の先から声が聞こえる。
弱々しく、今にも途切れそうなこの声は、この声はーーー
「フ……ラン…?」
「……ぁー。」
もう恐れはなかった。
「フランッ!」
駆け寄る。無我夢中で駆ける。
足が縺れて転んだ。痛みは無視した。
起き上がりざまに走る。
「フラ……ン…。」
銀色に鈍く光る鎖に両手両足を縛られ、力なく呻き声を漏らす最愛の妹が、そこにいた。
鋼の壁に拘束する鎖の先は杭になっており、直接フランの手足を貫いている。
無惨に突き刺さった杭の淵から、濁った真っ黒の血が滲んでいた。
やせ細った身体は今にも脆く崩れ果てそうで、肋骨は痛いほど浮き出ている。
その体を覆うのは服などではなく、彼女自身の凝固した血液であった。
両手を吊り下げられ、内股にぺたりと座り込むフランの瞳に、生気はない。
「ぁー…っ……ぁー…。」
フランは、最愛の妹は、僅かに開いた口からただただ絶望を鳴らしていた。
疲労か、生きていた安堵か、フランの無惨な姿を見たショックからか、私はへなへなとその場に崩れ落ちた。
「フ、ラン…フラン…フランっ…フランっ!っあぁ…ううぅ…ぁぁあ!」
わけもわからず、押し寄せる感情の波に従って泣き叫んだ。
鋼の闇に、慟哭が響いた。
涙も喉も枯れ、ぐす、ひっくと不規則に息を荒らげる私に、光が降る。
「ぉ…ぉ、ねぇ…さま…?」
「…フラン?フランッ!あぁ、お姉様よ!」
重い腰を無理矢理上げて両手でフランの頬を優しく包む。色をなくした紅の瞳に僅かに光が差した。
私の泣きそうな顔を反射して写す。
「きて、くれた…。ず…っと…呼んでたの…。」
「ごめんなさい。ごめんね、フラン。もっと…もっと早くっ…ッ!」
悔しさにまた涙が溢れそうになる。
けれど今は、これ以上泣いて時間を潰している場合ではない。
早く助けないと、手遅れになる前に。
銀の鎖さえ外せば、吸血鬼元来の回復力でどうとでもなる。
「いい……の。うれしい…。」
「どうすれば…どうすれば…とりあえず、この銀の杭を引き抜いて…。」
「おねえさま…。」
「フラン?ごめんね、少し痛いわよ。けれど、すぐに助けてあげるから!」
「…あ、のね。」
「良いから、黙ってなさい。これ以上体力を使っちゃダメっ!」
フランの左手の肘を貫く杭を掴み、二の腕を支えて一気に引き抜く。
腐った血肉と錆の入り交じった異臭に吐きそうになる。
「っがぁ…!」
「ごめんね、ごめんねフラン。後3回、後3回だけ我慢して頂戴…。」
脳を焼く様な苦痛を訴える姿に激しく胸が痛む。しかし、やらなければいけないのだ。ごめんね、ごめんね。
「ひっ…ぁ…!」
右手。左足。唇を噛み締めて悲鳴を無視する。
「最後…。」
「いっ……はぁ、はぁ。」
右足の太股辺りに乱雑に突き刺された最後の銀杭を抜く。
銀の毒から解放されたフランの身体は徐々に再生を始める。
しかし、そのスピードはかなり遅い。やはり極限まで弱っている。
「フラン。…っ。」
自分の舌先を噛み切る。
瞬時に再生が始まるが、魔力を流して無理矢理再生を止める。
血が勢い良く口内に溢れかえる。
「ん…っ…。」
意味を察したのか顔を向けたフランの顎を掴み、無理矢理唇に唇を押し付ける。
血の流れ続ける舌を挿し込んで、フランの口の奥へと伸ばす。
「…んくっ…んくっ。」
フランが喉を鳴らして、溢れる私の血を飲み続ける。
吸血鬼にとって、他の、特に親族の吸血鬼の血は何よりも力に還元される。
弱ったフランの回復力を補うには、今はこれしか方法がなかった。
「…んっ…んくっ。」
そのまま血を与えながら、目だけを動かして傷の様子を見る。
再生の速度は徐々に上がっている。
力が回復してきている証拠だ。
与えすぎて私が枯渇しないように気をつけながら、震えるフランの身体を優しく抱き締めてやる。一瞬びくりと背中が跳ねたが、安心してくれたのかこちらへもたれかかるように体重を委ねてくれた。
「…んくっ。…ぷぁっ…はぁ、はぁ。」
「げほっ…。大丈夫か、フラン?」
口を離すと息を整え、魔力を止めて舌を再生する。
血が一気に抜けすぎたからか、少しくらくらするが何てことはない。
最愛の妹の為なら、命だって捧げてみせる。
「…うん。」
「フラン。フラン…。ごめんね。こんなに苦しんでいたのに、私は助けられなかった。」
「…助けてくれた。」
「でも、私はっ!」
不意に頭に回された手で胸に押し付けられ、言葉を中断させられる。
「来てくれるって、しんじてた。」
「当たり前じゃない。」
もし、このままフランを見つけられていなかったらと思うと、ゾッとする。
それこそ、世界の終わりだ。
フランのいない世界に何の意味がある。
「…ただいま、お姉様。」
「…おかえり、フラン。」
あぁ、この幸せが未来永劫。
悪魔か、神か。誰だか知らないが。
この運命は誰にも渡しやしない。
フランを、守り抜いてみせる。
ーーー自分が、"運命を操る程度の能力"を持っていると気がついたのは少し先のことだった。
「戻ろう、フラン。…私達の部屋へ。」
「…うん。」
未だふらつくフランの肩を支えて歩く。
此処に入るのは怖かったが、出るのは簡単だ。
ただ光を目指せばいいのだから。
何より、隣にフランがいる。
それが全てだ。
ーーーふと足元に目を向けて、先程踏んだモノが何かの死骸だということに気が付く。そしてそれがーーー
フランの震えが強くなった。
「あの、ね…私、私、お母様もお父様も」
「言わないで。わかってる。」
フランがあの時いなくなったのは、そして二人が帰って来ないのは、そういうことなのだろう。
両親…いや、アイツらこそが、フランをこんな目に合わせていた張本人なのだ。
そして眼下に散らばる肉塊は。
それをやったのは。
「壊しちゃった。私…」
「…言うな。」
フランがからからと乾いた嗤い声を晒す。
悪いのはアイツらだ。
あぁ、だから。
だからそれだけは言わないで。
フランは何も悪くない。
それだけは、絶対言ってはいけない。
思ってはいけない。
ダメだ、ダメ。
止めないと、止めないと。
この子が、フランが壊れていく。
「ーーー化け物なの。」
「フランッ!!」
"ごめんなさい"。
その言葉と共に崩れ落ちそうになるフランを支える。
あぁ、とにかく此処を出ないと。
これ以上、此処にいさせてはいけない。
力の抜けたフランの首の後ろと膝下に手を回し、抱き上げる。額に長めのキスを落として、揺らさない様に、しかし出来る限りのスピードで部屋を出る。
階段を上がって、フランの部屋を目指す。
ドアは開いたままだった。
そっと、ベッドの上に寝かせる。
「フラン。」
「……。」
「…お願い。私を見て。」
弱りきった双の紅が、私の双の紅と見つめ合う。
「フランがどれほど恐ろしい力を持っていたとしても。私はその力ごとフランを愛する。どんな運命からも守ってみせる。」
「……うん。」
「だから…。」
溢れる思いに耐えきれなくなって、フランに抱きついた。
きっと伝わった。
私の言いたいことは。
フランだから。フランなら、わかってくれたはずだ。
私は卑怯だ。我が儘で、傲慢だ。
それでも、それでもーーー
ーーーいなくならないで。
二人きり。
抱き合って泣いたこの日の夜空は。
いつかと同じ、新月の夜だった。
「…懐かしい、記憶。」
すっかり、語ってしまった。
朝食を終えて、聞きたいと言われたから話したものの。
少し、熱くなり過ぎた。
仕方ない、何しろフランのことなのだ。
それも特に大事な思い出の。
もうディナーの時間なのは、きっと仕方の無いこと。
「…なるほど。それで、妹様はああなった、と。」
「お嬢様と、妹様の間には誰も入り込めなさそうでございますね。」
パチェがはぁと考え込むように言うと、咲夜が同意するように頷いてそう言った。
当然。
「私とフランは、ずっと一緒よ。」
「…妹様…お嬢様…っ…。」
「な、何で泣いてるのよ、美鈴…。」
「すみません、感動してしまって…うぅ。」
「私としては、血を飲ませたところをもう少し詳しく聞きたいです。」
「小悪魔、黙ってなさい。」
「ぱ、パチュリー様ぁ、冗談ですよーっ!」
…あぁ、ディナーはフランと二人きりで食べよう。
それがいい。
「…咲夜。」
「はい。既に二人分の食事を、妹様のお部屋にお運びしました。」
「…どうも。」
察しが良いのはとても助かるが、行き過ぎると恥ずかしい。
何でも見通されているのかという気になってくる。
さて、フランのところへ行こうか。
「…察しがいいも何も、ディナーはいつも妹様と食べてるじゃない。」
パチェの言葉は、きっと聞こえなかった。
「…いらっしゃい、お姉様。」
「…こんばんは、フラン。今夜は新月ね。」
扉を開けると、フランがとてとてと可愛いらしく駆け寄って出迎えてくれる。
何て幸せなのだろう。
「ディナーの肴に、丁度いいわ。」
「そういえば、さっき皆に昔の話をしていたのよ。」
「昔の?」
「ええ。私達が、二人きりになった時の話。」
「…ふぅん。」
「あら、嫌だったかしら?」
「…余計に部屋から出たくなくなるじゃない。」
「出る気もないくせに?」
「…ふん。」
ぷっくりと頬を膨らませてむくれる姿が愛らしい。
あぁ、けれどいつか。
きっと紅魔館全員で食卓を囲める日がくる。そう信じているのだ。
決意を新たに頷いていると、フランがじっと見つめてくる。
「フラン、何を見ているの?」
「…月。」
「今夜は新月よ?」
「そこに在るの。綺麗。」
「相変わらず。」
「ええ。相変わらず、愛おしい紅い月。」
「…やっと、意味がわかったわ。」
そうして私が照れながらも苦笑すると、フランは見惚れる様な大好きなあの笑顔を浮かべてくれた。
ーーーまだ、覚えているかしら。
ーーーあの時見上げた、新月の夜空を。
訊ねる必要は、やはりなかった。
何となしに思考を走らせると、どうしてもそれを考えてしまう。
日々の喧騒に隠れ、しかし常に私の傍にあるもの。そして私がそれを忘れることは、永劫ないのだろう。
それもまた、きっと運命なのだ。
それはーーー幸せだということ。
「ーーーねぇ、フラン。」
「ーーーねぇ、お姉様。」
ーーーーーー大好き。