『有毒につき取扱注意』
毒とは、毒であることを認知された状態にあって初めて、防衛機構足り得る。
その点において、この黒い、まるで穢い地上の泥の底を煮詰めたような液体はまさしく毒物としては理想的だっただろう。部下に提出させたこのビンにはさらにこの上なく分かりやすいラベリングがしてあるが、一体誰がこのような液体を口にしたいと欲するのか。かつて月に攻めてきた地上人はこれを水のように呑むらしいが、地上の食物とは即ち月人には猛毒であり、故にあのエキセントリックな格好をした地獄の妖精が置き土産として残していったに違いない。
だが。サグメは底に黒い液体が僅かにたまるばかりのビンを見やった。この黒い水がどれほど穢れていようと関係無かった。元より半端なこの身体、穢れに滅法強いが故にいわゆる毒味係のような真似をすることもあった。
くっ、と腹の底から湧き上がったおくびを抑えた。鼻腔にわずかな甘い香気が舞い戻った。やはり、役得である。地上の食物をここまで自由にできる者などこの月の都においてそうはいない。そして穢れた食物は、往々にして月の桃より美味である。この美味という感覚を誰とも共有できないのは些か残念ではあるが、それ故の役得であるためにサグメは十分に満足していた。
あの純狐とかいうクレーマー紛いの輩は迷惑千万極まりなかったが、このコーラという飲み物をもたらしてくれたことだけには感謝した。
また、この飲み物だけでも置いていってくれないだろうか。
サグメは頭を振ってその欲求を消し去った。少なくとも、月の賢者としてはあまりよろしくない思考であった。
しかし、まだ未練があったのか。
左手の人差し指が、先程からずっとコーラの空きビンを往復していた。
あるいは、スポン、スポンと小気味良い音が耳に優しかったからか。もしかしたら、指をビンの口から抜くときの、吸い付く感触が癖になっていたのかもしれない。
右手でコンソールを操作し、左手は空きビンと戯れていた。人差し指とビンが生み出す音と感触は、書類仕事の最上の友であった。
ややあって、些細で退屈な雑事も終わろうとしていた頃合いであったか。
サグメの執務室をささやかに飾り立てていた音が、唐突に止んだ。
気持よくスポン、スポンと音を立てて抜けていた人差し指が、抜けない。
抜けない……?
そんなバカなことがあるか。左手でビンを押し出すようにして試してみる。
抜けない。
右手でビンを掴んで引っ張ってみる。
抜けない。
力をぐっと込める。
抜けない。
もっと力を入れて、勢いをつけて、引っ張る!
あがっ。
クールでクレバーな月の賢者が絶対に出してはいけないような音が口の端から漏れた。すごく痛かったのだ。
サグメはこの期に及んでようやく、どんなに間が抜けていようとこの事態が深刻かつ逼迫していることを認識し始めた。と同時に、幾百年かぶりに焦りというものが己の心の臓から全身にしみ出し始めているのを感じた。
指をできるだけ早くビンから抜かなければならない。
それは当然のこととして、問題は別にある。
こんなマヌケな姿は決して誰にも見られるわけにはいかないということだ。
ドクンドクンとビンの口に圧迫された指が脈打っている感触は確かに怖かった――指が腐り落ちるのではないかという不安を一層に駆り立てた――が、それ以上にこの無様を誰かに嗤われることのほうがずっと怖かった。
サグメはクールでクレバーな月の賢者である。その月の賢者が、コーラのビンで遊んでいて、指が抜けなくなって、挙句には半べそをかいていた。そんな醜聞が玉兎の通信網を席巻することを想像するだけでも肝が冷えた。
人の噂も七十五日。穢き地上ならそれですむかもしれないが、月人の噂は七十五年。コーラのビンが抜けなくなった賢者様、と後ろ指をさされてどうしてのうのうと生きていられようか!
あぁ。サグメは力なく嘆息した。まさしく悲しみのそれであった。
ようやくあの気狂いじみた復讐鬼を追い払ったことで慢心していたのだろうか。一難去ってまた一難とはいうが、些か間抜け過ぎる。己の阿呆らしさ加減を呪わずに入られなかった。
兎にも角にも、やらねばならぬことは明白である。
この左手人差し指にズッポン嵌ったコーラのビンを、誰かに見られる前に、抜かねばならぬ。
ビンを直接叩き割る、などという野蛮で粗野な選択肢は早々に排除した。
音が出るのはもちろんなこと、破片で指を怪我でもすればきっと理由を尋ねられるだろうし、そもそもいくら穢いとはいえ地上の産物はそれなりに貴重品だ。何も考えずに粉々にしてしまうことはあまりにも勿体無いように感ぜられた。第一、ビンそのものを粉砕したところで肝心要はビンの口。人差し指に嵌ったままのそれはきっとエキセントリックかつシュールな指輪としてサグメと添い遂げることになるだろう。それは大変よろしくない。
では如何様にするべきか。
クールでクレバーな方法にサグメはすでに思い至っていた。
何も難しい話ではない。油を差せば良いだけではないか。古来より、2つのものが擦れて動かなくなった時は油を差せばいいと決まっている。そう古事記にも書いてある。
そこで善は急げと腰を浮かしかけたところで、はた、と気づいた。
ここは月の都の執務室。油などあるはずもない。あるとすれば部屋を出て、廊下を抜け、階段を降りた先にある玉兎用の食堂くらいか。
そこまで誰にも鉢合わせすることなくたどり着くことができるだろうか。
否、否である!
サグメはぶるぶると身震いした。
彼女は月の賢者だった。
やはりこのような無様を他者に目撃される可能性を塵の一つっきりだろうと生じさせるわけにはいかなかった。訓練帰りの玉兎たちと遭遇してもみたらまさしく一巻の終わりである。よしんば、ビンと望まぬ相思相愛となったこの左手を隠し通せたとしても、好奇心旺盛で遠慮というものを知らない玉兎達の追求を逃れられる算段はつかなかった。
もはやどうにもならないのだろうか。
ドクンドクンと鼓動する人差し指はいつの間にか熱く、鈍くなっていた。サグメはそれが己の馴れ親しんだそれよりずっと膨れ上がっているような気分がしてたまらなく不安になった。一度意識してしまうと、もう抑えが効かなくなった。指を切り落とす羽目になるのではないか。腐ってぐずぐずになった指を医者がギコギコ切り落とすのだ。そしてビンごと手から裂かれた己の指を見ながらきっとこう言うのだ。賢者様とあろうお方が、随分と間抜けなことをしでかしたのですな、と!
あぁ!大げさな心配だということは分かっている――分かっているつもりだったが、心の底に張り付いた焦燥と陰鬱を溜息として吐き出さずに入られなかった。
あぁ。サグメは再び嘆息した。先程よりもずっと深く、切実な悲哀の表れだった。
もはやこれまでということか。
月の賢者は、地獄の使者が残していった置き土産に敗北したのだ。
悪魔がサグメを指差して笑った。絶望の黒い幕で心を閉ざした。愚かで哀れな月の賢者よ。お前はコーラビンのために未来を嘲笑と軽蔑の中に投げ捨てなければならぬ!お前はコーラビンのために過去を無価値と失望の彼方に追いやらねばならぬ!
瞬きのうちに目の前がふっと霞んだ。雫が頬を伝い、手の甲に落ちた。賢者は、己が泣いているということを知った。
サグメは笑った。声を上げて笑った。涙と同じくして不安とかそういったものが一斉に流れ落ちてしまったようだった。こんな下らないことで消沈している己が馬鹿馬鹿しくあった。こんな下らないことに涙を流さねばならなかった己が情けなかった。
ひとしきり笑って泣いて、片手で苦労しながらちり紙を繰り涙でずるずるになった鼻を一息にかむと、掻き消えていた知性の閃きがたちまちのうちに輝きを取り戻した。
稀神サグメは月の賢者である。どんな状況にあってもクールかつクレバーでなければならぬ。どれほど心を掻き乱されようと、廻り廻る運命の輪を止めるわけにはいかないのだ。
サグメはコクンと固く頷いた。無口な彼女の、精一杯の自己表現であった。
冷えた頭で状況を整理する。
求められることは、部屋から一歩も出ずに、かつ誰にも見られることもなく、この忌々しいコーラのビンと人差し指をやさしくソフトに引き離すような、そんなたった1つの冴えたやり方。
稀神サグメは月の賢者である。どんな事態にも冷静かつ沈着に対応し、必要とあれば運命の輪を逆転させることも厭わなかった。
だが、この場で己の呪われた能力に頼ることはあまりにも分の悪い賭けだった。どのような形で事態が変動するかわからない以上、第三者の介入を防ぐためには使わないという選択肢が最善となる。
ならば。
彼女はたった1つの冴えたやり方を導き出していた。
足りないのは、覚悟。
運命の輪を廻す、覚悟。
ふっと息を呑む。
ビンを机の上に横たえるようにして人差し指を置く。
右手は、そっとビンの上に。
さあ。
覚悟は決まった。細工は流々、後は仕上げをご覧じろ。
月の賢者が稀神サグメ。一世一代の大勝負。
引いてダメなら、もっと引け。
断末魔が、木霊した。
月の賢者が人差し指をコーラのビンに突っ込んで取れなくなった挙句に半べそをかいて病院に担ぎ込まれたと月の都で噂になるのはまた別の話である。
毒とは、毒であることを認知された状態にあって初めて、防衛機構足り得る。
その点において、この黒い、まるで穢い地上の泥の底を煮詰めたような液体はまさしく毒物としては理想的だっただろう。部下に提出させたこのビンにはさらにこの上なく分かりやすいラベリングがしてあるが、一体誰がこのような液体を口にしたいと欲するのか。かつて月に攻めてきた地上人はこれを水のように呑むらしいが、地上の食物とは即ち月人には猛毒であり、故にあのエキセントリックな格好をした地獄の妖精が置き土産として残していったに違いない。
だが。サグメは底に黒い液体が僅かにたまるばかりのビンを見やった。この黒い水がどれほど穢れていようと関係無かった。元より半端なこの身体、穢れに滅法強いが故にいわゆる毒味係のような真似をすることもあった。
くっ、と腹の底から湧き上がったおくびを抑えた。鼻腔にわずかな甘い香気が舞い戻った。やはり、役得である。地上の食物をここまで自由にできる者などこの月の都においてそうはいない。そして穢れた食物は、往々にして月の桃より美味である。この美味という感覚を誰とも共有できないのは些か残念ではあるが、それ故の役得であるためにサグメは十分に満足していた。
あの純狐とかいうクレーマー紛いの輩は迷惑千万極まりなかったが、このコーラという飲み物をもたらしてくれたことだけには感謝した。
また、この飲み物だけでも置いていってくれないだろうか。
サグメは頭を振ってその欲求を消し去った。少なくとも、月の賢者としてはあまりよろしくない思考であった。
しかし、まだ未練があったのか。
左手の人差し指が、先程からずっとコーラの空きビンを往復していた。
あるいは、スポン、スポンと小気味良い音が耳に優しかったからか。もしかしたら、指をビンの口から抜くときの、吸い付く感触が癖になっていたのかもしれない。
右手でコンソールを操作し、左手は空きビンと戯れていた。人差し指とビンが生み出す音と感触は、書類仕事の最上の友であった。
ややあって、些細で退屈な雑事も終わろうとしていた頃合いであったか。
サグメの執務室をささやかに飾り立てていた音が、唐突に止んだ。
気持よくスポン、スポンと音を立てて抜けていた人差し指が、抜けない。
抜けない……?
そんなバカなことがあるか。左手でビンを押し出すようにして試してみる。
抜けない。
右手でビンを掴んで引っ張ってみる。
抜けない。
力をぐっと込める。
抜けない。
もっと力を入れて、勢いをつけて、引っ張る!
あがっ。
クールでクレバーな月の賢者が絶対に出してはいけないような音が口の端から漏れた。すごく痛かったのだ。
サグメはこの期に及んでようやく、どんなに間が抜けていようとこの事態が深刻かつ逼迫していることを認識し始めた。と同時に、幾百年かぶりに焦りというものが己の心の臓から全身にしみ出し始めているのを感じた。
指をできるだけ早くビンから抜かなければならない。
それは当然のこととして、問題は別にある。
こんなマヌケな姿は決して誰にも見られるわけにはいかないということだ。
ドクンドクンとビンの口に圧迫された指が脈打っている感触は確かに怖かった――指が腐り落ちるのではないかという不安を一層に駆り立てた――が、それ以上にこの無様を誰かに嗤われることのほうがずっと怖かった。
サグメはクールでクレバーな月の賢者である。その月の賢者が、コーラのビンで遊んでいて、指が抜けなくなって、挙句には半べそをかいていた。そんな醜聞が玉兎の通信網を席巻することを想像するだけでも肝が冷えた。
人の噂も七十五日。穢き地上ならそれですむかもしれないが、月人の噂は七十五年。コーラのビンが抜けなくなった賢者様、と後ろ指をさされてどうしてのうのうと生きていられようか!
あぁ。サグメは力なく嘆息した。まさしく悲しみのそれであった。
ようやくあの気狂いじみた復讐鬼を追い払ったことで慢心していたのだろうか。一難去ってまた一難とはいうが、些か間抜け過ぎる。己の阿呆らしさ加減を呪わずに入られなかった。
兎にも角にも、やらねばならぬことは明白である。
この左手人差し指にズッポン嵌ったコーラのビンを、誰かに見られる前に、抜かねばならぬ。
ビンを直接叩き割る、などという野蛮で粗野な選択肢は早々に排除した。
音が出るのはもちろんなこと、破片で指を怪我でもすればきっと理由を尋ねられるだろうし、そもそもいくら穢いとはいえ地上の産物はそれなりに貴重品だ。何も考えずに粉々にしてしまうことはあまりにも勿体無いように感ぜられた。第一、ビンそのものを粉砕したところで肝心要はビンの口。人差し指に嵌ったままのそれはきっとエキセントリックかつシュールな指輪としてサグメと添い遂げることになるだろう。それは大変よろしくない。
では如何様にするべきか。
クールでクレバーな方法にサグメはすでに思い至っていた。
何も難しい話ではない。油を差せば良いだけではないか。古来より、2つのものが擦れて動かなくなった時は油を差せばいいと決まっている。そう古事記にも書いてある。
そこで善は急げと腰を浮かしかけたところで、はた、と気づいた。
ここは月の都の執務室。油などあるはずもない。あるとすれば部屋を出て、廊下を抜け、階段を降りた先にある玉兎用の食堂くらいか。
そこまで誰にも鉢合わせすることなくたどり着くことができるだろうか。
否、否である!
サグメはぶるぶると身震いした。
彼女は月の賢者だった。
やはりこのような無様を他者に目撃される可能性を塵の一つっきりだろうと生じさせるわけにはいかなかった。訓練帰りの玉兎たちと遭遇してもみたらまさしく一巻の終わりである。よしんば、ビンと望まぬ相思相愛となったこの左手を隠し通せたとしても、好奇心旺盛で遠慮というものを知らない玉兎達の追求を逃れられる算段はつかなかった。
もはやどうにもならないのだろうか。
ドクンドクンと鼓動する人差し指はいつの間にか熱く、鈍くなっていた。サグメはそれが己の馴れ親しんだそれよりずっと膨れ上がっているような気分がしてたまらなく不安になった。一度意識してしまうと、もう抑えが効かなくなった。指を切り落とす羽目になるのではないか。腐ってぐずぐずになった指を医者がギコギコ切り落とすのだ。そしてビンごと手から裂かれた己の指を見ながらきっとこう言うのだ。賢者様とあろうお方が、随分と間抜けなことをしでかしたのですな、と!
あぁ!大げさな心配だということは分かっている――分かっているつもりだったが、心の底に張り付いた焦燥と陰鬱を溜息として吐き出さずに入られなかった。
あぁ。サグメは再び嘆息した。先程よりもずっと深く、切実な悲哀の表れだった。
もはやこれまでということか。
月の賢者は、地獄の使者が残していった置き土産に敗北したのだ。
悪魔がサグメを指差して笑った。絶望の黒い幕で心を閉ざした。愚かで哀れな月の賢者よ。お前はコーラビンのために未来を嘲笑と軽蔑の中に投げ捨てなければならぬ!お前はコーラビンのために過去を無価値と失望の彼方に追いやらねばならぬ!
瞬きのうちに目の前がふっと霞んだ。雫が頬を伝い、手の甲に落ちた。賢者は、己が泣いているということを知った。
サグメは笑った。声を上げて笑った。涙と同じくして不安とかそういったものが一斉に流れ落ちてしまったようだった。こんな下らないことで消沈している己が馬鹿馬鹿しくあった。こんな下らないことに涙を流さねばならなかった己が情けなかった。
ひとしきり笑って泣いて、片手で苦労しながらちり紙を繰り涙でずるずるになった鼻を一息にかむと、掻き消えていた知性の閃きがたちまちのうちに輝きを取り戻した。
稀神サグメは月の賢者である。どんな状況にあってもクールかつクレバーでなければならぬ。どれほど心を掻き乱されようと、廻り廻る運命の輪を止めるわけにはいかないのだ。
サグメはコクンと固く頷いた。無口な彼女の、精一杯の自己表現であった。
冷えた頭で状況を整理する。
求められることは、部屋から一歩も出ずに、かつ誰にも見られることもなく、この忌々しいコーラのビンと人差し指をやさしくソフトに引き離すような、そんなたった1つの冴えたやり方。
稀神サグメは月の賢者である。どんな事態にも冷静かつ沈着に対応し、必要とあれば運命の輪を逆転させることも厭わなかった。
だが、この場で己の呪われた能力に頼ることはあまりにも分の悪い賭けだった。どのような形で事態が変動するかわからない以上、第三者の介入を防ぐためには使わないという選択肢が最善となる。
ならば。
彼女はたった1つの冴えたやり方を導き出していた。
足りないのは、覚悟。
運命の輪を廻す、覚悟。
ふっと息を呑む。
ビンを机の上に横たえるようにして人差し指を置く。
右手は、そっとビンの上に。
さあ。
覚悟は決まった。細工は流々、後は仕上げをご覧じろ。
月の賢者が稀神サグメ。一世一代の大勝負。
引いてダメなら、もっと引け。
断末魔が、木霊した。
月の賢者が人差し指をコーラのビンに突っ込んで取れなくなった挙句に半べそをかいて病院に担ぎ込まれたと月の都で噂になるのはまた別の話である。
面白かったです。
いいやクールでクレバーなサグメ様のことだ……何か考えあってやらなかったに違いない。
実にかわいいサグメ様でした。
大笑いさせてもらいました。
天才とバカは紙一重とはよく言ったもので(笑)