神霊廟の朝を、誰よりも早く迎えるのが私でした。
いつもこの時間だと太子様はまだ寝ておられますし、布都のやつはきっと食べ物の夢でも見ているに違いありません。
今朝も私はいつもそうするように、布団から這い出ますと窓を開きました。途端に眩い光が部屋を横切り、室内を隅々まで照らし出します。わずかに遅れて新鮮な風がひゅうっと吹き込んで来ました。
私はこの風が好きでした。この風を感じますと「ああ、一日が始まるのだな」と、まだ微かに残っていた昨日の残り香とでもいうべき物が、新鮮な空気に洗われすっと綺麗さっぱり消え去って行くのです。特に冬の風は澄んでおり、凍てつくような冷たさが私自身を研ぎ澄ましてくれるような気がしました。
さて窓の外ですが、そこにあった景色は、どうやら一夜にしてすっかり変貌していました。
どこまで見渡しても一面が雪に覆われ、陽の光を反射して白銀の輝きを放っているのです。こんなに世界とは眩しいものかと驚きました。一夜にして世界は真新しく生まれ変わってしまったのです。私はすっかり目を奪われ、しばらくの間眺めていましたが、唐突に寒さを思い出してそっと窓を閉めました。
いつもの深緑色の服に着替えを済ませ、私は自室から出ました。
私の足は自然と庭へと向かいました。もちろん、私に足はありませんので例えです。白状します。久しぶりに見た雪に子供心が私の中に湧き上がったことは疑いようがありません。
庭もすっかり雪が降り積もっていました。まだ誰の手にも汚されていない白さが、そのままの形で残っています。この秩序の保たれた状態を不意に壊してしまいたい、つまり自分の足跡を残してしまいたいという欲望が湧き上がりましたが、残念ながら私に足はありません。まことに残念なことです。
仕方なく私はそっと身をかがめ、雪に手の跡を残しました。小さくて、まるでもみじの葉みたいです。
満足した私がふと視線を持ち上げますと、南天の木が目に入りました。雪を纏った姿は、まるで粉砂糖をまぶした抹茶ケーキのようだと思い、その感想はまるで布都のようだとちょっぴり自己嫌悪に陥りましたが、白く塗りつぶされた景色の中でその南天の木はより一層映えて見え、私を強く惹きつけます。
特に私の目を引いたのが鮮やかに赤く育った実です。その実をもっと近くで見ようと、吸い寄せられるようにその木の下へと雪面の上を移動しました。
近くで見る南天の実はやはり綺麗で、雪を被りながらも自分を主張している様は健気に見えてとても可愛げです。
私がぼうっとその実に見とれていますと、突然背後で重たい音が響き渡りました。私は少しばかり驚き、背後を振り返ります。なんとそこには地面の雪に半分ほど体を埋めている太子様の姿がありました。
「た、太子様! どうしたのですか」
慌てて彼女の許へと駆け寄ります。
「はは、いやいや、参りました。あまりに綺麗な雪が目に入ったものですから、盛大に私の足跡を残してやろうと思ったのですが……」
太子様は顔に付いた雪を払いながら、はにかんだ笑みを浮かべ、
「勢い余って転んでしまいました」
そう言ってぺろっと舌を見せる彼女は、まるで童女のようです。彼女も私と同じように雪を見て子供心を思い出したのです。そのことが嬉しくて、そしてその顔が何よりも愛しく思えて、私はくすりと笑いそっと手を差し伸べました。
「どうぞ、お手を」
「ありがとう。いやはや、雪とはなんと冷たいものでしょう」
「本日はお早いお目覚めですね」
「昨日は早く寝付いたものですから」
立ち上がり体中に付着した雪を払いますと、太子様はまじまじと私の方へ視線を向けます。
「それで、屠自古は何を見ていたのかな?」
私は南天を見ていましたと答え、その木へと案内をします。背後でざくりざくりと音を立て、雪に深々と足跡を刻みつけながら太子様が続きます。
さて、南天の木まで来ますと彼女は「ふうむ」と声を漏らしました。
「いかがでしょうか。なかなか見応えがあると思うのですが。辺りが雪で白く見えるおかげで、葉の緑色と実の赤色が際立っていませんか」
彼女は私の立つ位置から二、三歩後ろに構え、何やら真剣な顔つきで眺めています。その目つきがあまりにも鋭いので、何か気に障ることでもあっただろうかと心配になりましたが、太子様は唐突にふっと相好を崩し、
「ふむ。確かに見応えがあります」
私はそれだけで何だか嬉しくなりまして、
「そうでしょう」
と少しだけ声を大きくして言いました。太子様と気持ちを共有できた。それだけで私の心は満たされてしまうのです。今日はきっと良い一日になるに違いありません。
しかし、太子様はそこで首を横に振り、「ああ、違うよ。南天も確かに見応えがあるけれど……」と言います。
「私が本当に見応えがあると思ったのは、君の方だ」
私はしばらくその言葉の意味が良くわかりませんでしたが、頭がついにその意味することを理解しますと、体の中に火が灯ったかのように熱が広がります。
「な、なにを……突然、そのようなことを……!」
「いや、雪の中に佇む君の姿は、本当に美しいと思ってね」
彼女はそう言って微笑むのです。
私はその顔をまっすぐ見られませんでした。今の私の顔は、南天の実よりも赤く染まっているに違いありません。私はただただ、うつむくことしかできません。
すると押し殺したような笑い声がそっと耳に届きます。
太子様は私がこういう反応を見せると知った上で、ああいったことを言ったに違いないのです。太子様は本当に意地悪なお方です。
私はうつむきながら恨めしげに視線を送ります。
彼女はただ可笑しそうに、だけど温かみのある笑みを浮かべ、柔らかな眼差しを私に投げかけていました。
流石は太子様です。
布都が居たら顔面からダイブしそう。
屠自古でなくとも惚れてしまいます
屠自古も可愛いし、とても尊い掌編でした。