今年の春、こいしから薔薇の開花株を貰った。あいつの弾幕と同じハート型の花弁が特徴的な、ローブリッターという蔓薔薇だ。
「ドイツ語で『盗賊騎士』なんですって」その鉢を私に手渡すとき、こいしはそんなことを言ってえへへと舌を出してみせた。
薔薇には時折「貫生」と呼ばれる奇形が生じる。生殖器官である雄蕊と雌蕊が形成されないまま、花の中心から新たに茎が伸びていき、まるで成熟を拒絶するかのように生長期が反復される現象だ。
でも、それは本当に奇形なのだろうか?
*
大人になったら、あなたはあの子を忘れます。あの子は、あなたの少女時代にしか存在しない、空想上の友達なのです。
*
地底の異変以来、こいしは私の家をよく訪ねてくるようになった。クロロフィルを多量に含んでいるような草色の瞳と髪、胸にある第三の目はルリボシカミキリ属・ロザリアよりも深い青。異変の際に霊夢や私と出会ってこの目が少し緩んだそうだが、全くとんでもない話だ。覚り妖怪の気持ち悪い目玉なんかこれ以上地球上に要るものか。地面から出てくる生物は退治するに限る。
「こいしを泥(こひじ)まみれにしてやるぜ」
「あら、それじゃ自然でつまらないわ」ロザシアニンのような青空の下で、こいしは薔薇を一面に咲かせながらひらひらと飛び回る。「あなたの装備は炉が一個、だけど私の薔薇(そうび)は無限なの。棘より痛い花びらで森ごと不自然にしてあげる!」
だが私達の実力は拮抗していて、勝敗は半々といったところだった。これじゃ退治には程遠い。私はつい悔しくて、止め時を見失った。気が付くと夜が更けていた。それからは毎日のように現れるこいしと、一戦交えるのが習慣になった。
「お星様の魔法使いだけあって、黒星もお得意なのね」
「まあな、星の眩しさで胸の目も勝ち目も瞑っていろよ」
追い払うつもりが、会う理由を一つ増やしてしまった。
こいしは勝っても負けてもデタッチメントで、いつでもコンスタントに微笑んでいる。微笑は人間における最も原始的な表情だ。「生理的微笑」という無意識の笑顔は胎児期から生起する。生後数ヶ月に渡って継続し、その後は個々の近親者や状況を見分けて行う「社会的微笑」に取って代わられる。
こいつは未だに生理的で、社会化なんて更々する気がないように見える。ひたすら遊ぶことに集中している。文字通り無心にだ。無さが色めく。あどけない叙事詩になる。全身ではしゃぐ有り様は、うるさく澄んでいる。そういうこいしを見ていると、漂白される。勝つことと負けることの遠近法が一時、薄れる。空を駆ける純粋な速度でいられる。
「小石の癖に隅に置けない奴だ」
「あなたもあんまりスタティックじゃないみたい」
こうして二人は齢の近い子供同士のようにごっこ遊びに勤しんだ。他の子供達と違う点があったとすれば、それは二人の靴がほとんど磨り減らなかったことくらいだろう。
*
私達にとって大人になるということは、身体的な成長のみを意味するわけではありません。あなたも御存知でしょうが、妖怪は精神的な存在ですからね。私達が大人と言うとき、それはまず、強い社会性を有する者、を指すのです。
*
冬が欠伸をしている。
硬い夢とベッドを降りて、難儀しながら暖炉へ向かう。もつれる手で火を熾す。室内が暖まるのを辛抱強く待つ。
外で軽いものが降り落ちる音を耳にする。カーテンを開けて空を仰ぐと、雪ではなくて弾幕だった。落下する間に勢いを削がれた流れ弾が、朝陽と共に灌木の枝葉や地衣類を明るく濡らしては消えていく。やがて遠くで巨大な水滴の滴るような音がする。誰が誰にやられたのか、関心もなく暖炉に戻る。
ようやく寒さが丸まってくる。でも私はしばらくじっと動かずにいる。それどころか寧ろ悲しいような気分で、部屋を巡る気流を見守っている。暖気が満ちるというより、冷気を足蹴にして追い出しているといった方が相応しいような気分で。
それから緑茶を淹れるためにローテーブルへ移る。昨夜飲み残した白湯が湯飲みの底を重く冷やしている。氷水みたいだ。私は湯飲みを注意深く目の前に引き寄せる。その水が、夜気を偲ばせる最後の指紋であり、夜がついさっきまでこの家に羽を伸ばしていたことを示す、唯一の証拠であるかのように。
湯飲みの足元に目が行く。珪化木のテーブルの表面に、五つの小さな窪みがある。ナイフで軽やかに突かれて出来た、小人の足跡のような傷口だ。
こいし、と私は呟く。その名前は甘さのように舌に痛い。
あいつはナイフを愛用していた。以前、都市伝説を巡る異変が起きた折にメリーさんの怪異を選んでからというもの、あいつはそれをいつも懐へ加害者のように忍ばせて持ち歩いていた。
そしてある日、面白い遊びがあるのよと言って、このテーブルの上でそのナイフをすらりと開き、私に披露してみせた。何のことはない、私も知っている単純なゲームで、広げた五本の指の隙間に高速で切っ先を突き立てていくという、妖怪がやってもつまらないだろうと思われる類いのものだったが、こいしはそういうルールについて実に妖怪らしい勘違いをしていた。指の隙間ではなく、指本体が的だと思い込んでいたのだ。
「こっちの方が的が狭くて面白いのに」こいしは五本の指を鮮やかに汚しながら、そしてそれを泥遊びの汚れのように自分の服で無頓着に拭いながら、私の指摘を不服そうに聞いていた。
私はこいしの指の傷が、拭った端から瞬く間に塞がっていくのを、何だか花の閉じる様でも見るように、不思議に寂しく眺めていたものだった。
*
社会性というのは、他者との関係の豊富さや、当人が担っている責任の重さ、あるいは、期待の大きさ、などを包含した表現です。あなたは幼い頃に人里という社会を捨て、森で一人住まいを始めていますね。まさしく「複雑な人間関係を構築していない子供」として、あの子の目を引く条件は充分に満たしていたのでしょう。
*
「無意識の哲学」の著者エドゥアルト・フォン・ハルトマンは人間の幼年期を「幻想の第一期」と呼んだ。この時期における人間は幸福の存在を純粋に信じてこれを追求する。「幻想の第二期」は成年期であり、ここで人間は現世の幸福を断念し、宗教的な幸福、死後に齎される幸福を儚く願う。だがそうした希望も「幻想の第三期」すなわち老年期に至って潰え、もはや個人の具体的な幸福の実現はあり得ず、社会の発展という全体的で抽象的な可能性に思いを託す。そして結局のところ幸福は決して叶わないものだと悟り、そのとき遂に「幻想」は打ち砕かれる、彼はそう考えたのだった。
ハルトマンにとって人生とは、要するに失望の不可逆的な蓄積、幻想の徹底的な挫折に他ならなかった。彼によれば幸福に最も近いのは子供であり、幸福という観念は成長に従って止め処なく、絶対的に失われていくものでしかなかった。
*
しかしながら、あなたは最も早く大人になる人間の一人でもあるのです。何故なら霧雨魔理沙という存在は、今や幻想郷の人々にとって紛れもなく、英雄、なのですから。
*
いつかの夏。
こいしが木陰で眠っている。胸に抱き留められた帽子の鍔が、頬に強く押し当てられている。松露という茸があって、幼いうちは真っ白な卵の形をしていて触るとふんわり赤く染まる性質を持っているのだが、このままでは丁度そんな具合に痕が出来てしまうに違いない。
でも私は帽子を除けてやろうとはしない。その帽子の下で、こいしの柔らかな頬に一本の線がうっすらと引かれていく光景を、絵画の構想を練るように、息を凝らして想像する。まるでそれが引かれることによって、こいしの輪郭が保証され、こいしという存在がすっかり清書されるとでもいうように。
そこへ一匹の蜜蜂が飛んでくる。花と見間違えたのかこいしの頭上に降り立つような素振りをする。が、こいしのどこにも雄蕊と雌蕊がないのを見て取ると、今度は訝しげに周囲を旋回し始める。やがてどこかへ消えてしまう。
ある種の蜂は、女王と呼ばれる個体を中心に階級社会を構成する。大多数の個体は雌であり、女王を除いて生殖機能を一切持たない。それは言わば女王だけが大人になる世界だ。他の雌は死ぬまで成熟することなく女王のために働き続ける。永遠の少女達、と私は思う。
夏がくるりと寝返りを打つ。
*
数々の異変を解決してきたあなたの名は、幻想郷の全域に知れ渡っています。博麗の巫女に並ぶ人間の希望として、妖怪の脅威として。分かりますか、現在のあなたはあらゆる人妖から期待と責任を背負わされている身なのです。
あなたが大人になりたがらなくても、世間はもうじきあなたを社会の中枢に位置付けるでしょう。あなたは大人というドメインにカテゴライズされます。そしてあの子は不要になり、あなたから、失われます。
*
霧雨魔法店の裏庭には穴がある。どれほど深いのか私は知らない。子供が墜落するのにお誂えなくらいの幅で、正確な円形をしている。いかにもまっすぐ垂直に掘ってあるから、穴というよりは暗い柱めいてさえいる。
「地底まで掘ってここと繋げるの。そしたら簡単に行き来が出来るじゃない?」こいしは墓でも掘るような真剣さで言うのだった。「秘密の近道よ」
何年かかることやら、その前に雨水が溜まって池になってしまうだろう。私は一応穴の上に傘を差してやった。
今でも時々すりんすりんと土を掘り返す音が聴こえてくる。こいしにしては随分続いている方だ。あいつがいないときに裏庭へ行くと、穴は傘を差したまま黙って私を見上げている。何と言うか、ひょっこり動き出しそうな存在感がある。
穴の背丈は逆向きにだが、確実に伸びていく。
もしかしたらあいつも、この穴のように、私達には見えない仕方で成長しているのだろうか?
*
あなたはあの子を瞑り、あの子に纏わる全てを脱ぎ捨てるのです。唐突に、ぷつんと電話が切れてしまうように。
*
昼過ぎにコートを羽織って外へ出る。木々の合間にちらつく空は目的論的に晴れ渡っている。地表を覆う分厚い変形菌を踏んで、裏庭へ回る。
今日はこいしも来ていないらしい。穴は素っ気なく空いている。壁際のローブリッターの鉢へ目を移す。
こっちは随分と葉を落としている。霜焼けのように赤味の差した枝は、いずれも支柱代わりの棒に緩く巻き付けてある。私はキッチングローブを装着する。これからしなければならないのは誘引だ。誘引とは枝を壁面やアーチなどの構造物に絡ませる作業だが、私は予めトレリスという小型の格子を自作していた。
トレリスを鉢の後ろに設置する。葉の残りと小枝を毟っていく。誘引する位置の見当を付ける。大事なのは枝を低く広げて曲げることよ、とこいしは言っていた。こうすると花付きがよくなるわ、反対に高く伸びた枝はほとんど咲かないの。
私はそれに従う。でも、そうやって花が子供の目線に合わせるような高さで咲くのは何故だろう。まるで友達のような近さで咲くのは。
一仕事終えて表へ引き返すと、郵便受けに天狗の新聞が突っ込まれている。一面にはこうある。「新たな異変に人里揺れる 巫女も苦戦か」私はそれを持ってドアを開ける。コートを放ってカウチに凭れる。
行かなくていいの?
一昨日、こいしに訊かれた。いつものように弾幕ごっこをしていたときだ。こいしは珍しく浮かない顔をして浮かんでいた。
「いいんだ」私は閉めるように言った。
「そっか」
「もう、いいんだ」
お花屋でも始めるつもり?
昨日、アリスに言われた。魔法陣より時間をかけてトレリスを組み立てている私に、呆れたような一瞥をくれて帰っていった。
花屋もいいかもしれない。
少なくとも、客もいない森の奥で花を売っていれば、社会性なんか押し付けられずに済むだろう。
手にした新聞を暖炉に投げ入れる。薪の山が薄っぺらな紙束に包まって炎の寝息を立てる。その寝相の悪い音に耳を傾けているうち、私も段々眠気が兆してくる。ベッドに布団と瞼を敷いて、一人分の夜へ降りていく。
*
私の知り合いにはこいしのことを知っている奴が大勢いる。幻想郷縁起や新聞にだってあいつのことは載っている。もし私があいつを忘れても、思い出す機会なんて幾らでもあるだろう。
あなたはそう考えていますね。
残念ですが、それは違います。
あの子を忘れるということは、あなたにとってあの子が、本物の小石になる、ということです。あの子の姿があなたの網膜に映らなくなるわけでもなければ、あの子に関する情報が遮断されるわけでもありません。
あの子に対してあなたが、一切の関心を持たなくなる、それだけのことなのです。
*
秋も半ばのある朝、私はこいしを連れて無縁塚に来ていた。特に目当てがあったわけではない。散歩のついでに何となく立ち寄ってみただけなのだが、こいしは妙に興味をそそられたらしかった。彼岸花の咲き零れている中を、そっと吹き抜けるように歩いていっては、そこかしこに落ちている外界のがらくたを拾い上げて矯めつ眇めつする。これは何かしら? 長い棒だろう。じゃあこれは? 短い棒。
「それならあれは?」
こいしが指し示したのは、彼岸花やがらくたに紛れて、点々と埃のようにうずくまっている石の一つだった。傍らに、つい最近供えられたらしい、新鮮な切り花の挿された花瓶が座っている。
「無縁仏だな」
「むえん?」
「誰とも縁がないってこと。こっちへ来て知り合いも出来ずに死んだ外来人なんかが埋葬されるんだ」
答えながら束の間、律儀に花を替えている香霖を目に浮かべた。そしていつだったかあいつから聞いた、一人の外来人のことが胸をよぎった。
いや、聞いた、という言い方は正しくない。香霖はその人物について何も語りたがらなかったし、実際のところ語れるようなことはほとんどなかったのだと思う。それは反応の端々から窺われた。つまり、香霖がその人物に出会ったとき、そいつは既に粗方「失われていた」のだ。僅かに食い残された骨と衣服が、辛うじてその人物の概要を保存していたに過ぎず、そいつの顔や名前や様々なディテールは、とうに世界から奪い去られていたのだった。
ふと肌寒さを感じて、こいしに目を向ける。こいしは身動ぎもせずに墓石を見詰めている。突然、自分がこいしの首筋に噛み付いている光景を想像する。私はばりばり音を立ててこいしの一部を食い千切る。こいしが倒れるとその上に跨りまた別の一部を食い千切る。こいしはどんどん減っていく。
「少し冷えてきたみたい」
こいしの身体はもはや胎児のように縮んでいる。こいしは嫌がりも抗いもしない。ただ弱々しく微笑んで私の目を覗き込んでいる。私は構わずこいしを食い続ける。胸を開き肋骨を手折ると薔薇色の小石のような心臓が現れる。私はそれを一口で飲み込んでしまう。そこで手が止まる。こいしはもうどこにもいない。私に食い尽くされてゼロになったのだ。
「帰りましょうか」
こんな風に、と私は思う。
「そうだな」
こんな風に、私はお前を忘れるのか?
*
あなたにこのことを話したのは、あの子と距離を置いて頂きたいからです。あの子はこれまで数多の子供達の遊び相手になり、そして忘れられてきました。想像出来ますか、昨日まで半身のように時間を共にしていた友人が、挨拶に応えてくれなくなる瞬間を。その視線が自分をすり抜けていく感覚を。決して自分の前に立ち止まることのない足音を。私はもうあの子に、忘れられることの酷薄な色を見せたくはないのです。
妹の交友関係に干渉するなんてトキシックペアレント(毒親)みたいだ、ですか。あなたは親子というものに複雑な思いを抱いているようですね。ええそうです、トランスペアレント(透明)な妹の姉は、妹の分まで濁ってあげなくては釣り合いが取れないでしょう。
別に私の要望を汲んで下さらなくても、手荒な手段に訴えるつもりはありません。ただ覚えていて頂きたいのです、逆さまに植えられた花は、青空ではなく地獄に向かって咲くのだということを。
*
こいしが私を地霊殿に招いたのは秋の入り口の頃だった。既に何度か滞在しているから勝手は分かる。地獄は中々居心地がいい。何しろ気象学的には天国より温暖なのだ。
地獄の気温が高いのは、怨霊の怨みのせいだという。
あるとき宛てがわれた部屋を抜け出して、金目のものでも落ちていないか、もしくは厳重に保管されていないかと、館内を抜き足差し足ぶらついていたら、地下で罪人の処刑室を見付けた。その部屋が処刑室だというのは後でこいしに聞いて知ったことだ。聞かなければ絶対に分からなかっただろう。
それは石造りの大聖堂だった。
数百人は収容出来そうな会衆席を左右に配した身廊は、天井が高く、かなりの奥行きがあり、突き当たりの内陣には祭壇が設けられていた。西側の壁に天使と聖母の描かれた薔薇窓が嵌め込まれていて、そこから差し込む光が唯一の光源だった。光は灼熱地獄のものらしい。つまり、ここはその真横に位置していることになる。地獄の隣に天国の門か、味噌汁にパンみたいで気味が悪いなと思った。ひどく静かで、金目どころか虫の目一つありそうにない。私は探索を早々に切り上げ、寒々とした暖かな地下室から退散した。
「あの聖堂に、罪人と大量の怨霊を閉じ込めてしばらく放置するの。怨霊は神聖なものを恐れるから、薔薇窓のステンドグラスで浄化された光を避けようとして、罪人の体内に殺到するのね。妖怪が怨霊に取り憑かれると精神を乗っ取られて別の妖怪に変化するという話は、あなたも宗教家さん達の座談会で聞いたことがあるでしょう。それなら、一遍に何百匹もの怨霊に取り憑かれたらどうなるかしら。一つの心に沢山の心が寄生したら。それをお姉ちゃんは実験したの。結果はね、皆、妖怪ではなくなってしまったわ。やっぱり心が壊れて存在を保てなくなるみたい。一人残らず、心のないものに形を変えたわ、例えば体格のいい鬼のおじさんがいたんだけど、あっという間に水色の、名前もない、こじんまりした寂しい花になってしまったのよ」
熱くて柔らかい怨霊達の前で、私は冷えて固まった。こいつらはどう見ても憑くより搗かれる方がお似合いだと思うのだが。
今回は、そんな怨霊共を顎と目で使役しているさとりから、呼び出された。
さとりについては、極力出くわさないように避けていた。勿論心を読まれるのが嫌だからだが、何より読まれた心がさとりの口からこいしの耳に入るかもしれないこと、それが怖かった。私はこいしが信じているほどいい人間ではないだろうから。ずるさや卑怯さは手足のように私の一角を占めていて、私はそれで数え切れない人達の優しさや情けを叩いたり蹴ったりしてきたのだ。
でもこいしは、人嫌いの姉が積極的に誰かに会いたがっているのはいい傾向だと喜んでいた。お姉ちゃんと仲よくしてあげてねと手を握られた。これでは逃げるわけにもいかない。指定された場所は、中庭の薔薇園だった。
そこは水の匂いで満ちていた。薔薇の木々は暗闇の下で輝かしく翳りながら無秩序なまでに密生し、所々で枝を束ねているアーチやオベリスクを、森に取り残された古代の遺構のように見せていた。いつか本で読んだルネサンスの庭園を連想した。ロカイユ(小石)という名のその様式では、樹林の中に装飾として石の洞窟を作ったそうだ。このさとりの庭園は、逆だ。地底という巨大な洞窟の内部に、薔薇の森を築き上げたのだ。
一本の小道が点線のように心許なく走っていた。辿っていくと、庭の中心らしい開けた空間に出た。どこからか仄かにせせらぎが聴こえる。流血のような、落涙のような、淡い流れだった。その一隅にひっそりと東屋が建っていて、蔓薔薇の絡んだベンチに腰かけているさとりの姿が見えた。
さとりは膝元の薔薇の枝に目を落としていた。葉はどれも黄変しているようだった。黒い斑点を滲ませているものもあった。
「黒星病ですよ」やり切れないというように首を振る。「薔薇の大敵だわ」
私は肩を竦めた。「そもそも本当に薔薇なのか?」
「死刑囚の成れの果てなどではありませんから、御心配なく」肺が片方しかないような、穏やかに霞んだ声だった。
「そうか、っておい」私はあるものに目を留めて思わず後ずさった。さとりの手にナイフが握られていたのだ。
「ああこれですか。フローリストナイフといって、花を切るための刃物です」
よく見るとこいしのナイフに似ていた。ひょっとすると、あいつが指を切ったナイフは、「ええこれと同じものよ。私が与えたのです。あなたは今、薔薇を切るナイフであの子の身体が切られる、というイメージを綺麗だと考えていますね。これであの子の指を一本ずつ切り落としたら、手が花束のようになってさぞかし素敵だろうと。断絶は開花でもあるという思い付き。それを気になる子に対して行使してみる夢想。あなたの心はいかにも乙女らしい残酷さに溢れていて、私は好きですよ」
「囚人を竹の棒でぶちのめすっていう拷問があるんだが」私はさとりから最も遠い席に腰を下ろしながら言った。「執行人はエキスパートで、受刑者の皮膚には傷とか全然出来ないらしくて、身体の内側だけをピンポイントで破壊するって話だ。で、その練習には豆腐が使われる。豆腐を棒で打つんだ。外から見ても豆腐に変化は一切ないのに、中身は崩れ切って液状化する。お前といると自分がそういう豆腐みたいなものになっていく気がするよ」
分かります、頷いてさとりは、唯心論的に微笑んだ。
「それで用って何だよ」
さとりは笑みを絶やさず、真正面から私を見据えた。「半麻酔、というものを御存知ですか?」
「いや、知らないな」
「これは出産時の痛みを抑制出来るということで評判の高かった、無痛分娩の手法の一つです。しかしもう使われなくなって久しい。というのも、実のところこの半麻酔は、痛みを抑制するのではなく、スコポラミンの投与によって人為的に健忘状態を引き起こし、痛みがあったことを出産者の記憶から削除するというものだったからです。端的に言えば、痛みは忘れられたのです」
何だ? こいつは何の話をしてるんだ?
「出産者にとって、果たして痛みは起こったと言えるのでしょうか? 忘れられる、ということは、存在しない、ということと一体どう違うのでしょう?」
何かが私を駆け回っている。
「さあな、同じようなもんだろう」
私がそう答えると、さとりは不意に、表情を消した。
全身に鳥肌が立つのを感じた。さとりの顔はどんな表情もしていなかった。無表情ですらなかった。突然、何もかもから自分をすっぱり切断したような段落があった。顔というより、滑らかな断面図のようだった。
大人になったら、あなたはあの子を忘れます、とさとりは言った。あの子は、あなたの少女時代にしか存在しない、空想上の友達なのです。
*
この燃え盛る灼熱地獄で、私達は凍っています。少女のまま、気が遠くなるような年月を過ごしてきました。私達は進めません。あなたは、進みます。
*
夢を見た。こいしが初めて私の家にやって来た日の夢だ。雪が歴史のように降り積もった朝だった。こいしは玄関ではなく窓辺に立って私を呼んだ。手袋も嵌めずに冬を握り締めていた。あべこべの雪、地殻の下から昇ってきた一片の雪のようだった。
「ええと、何かの妹じゃなかったか、お前」
「私はお姉ちゃんの妹よ」
「腰だか肘だかそんな名前だったな」
「古明地こいしです! 私のハートはちょっぴりロック、あなたのハートを完全ロック!」
「ロックと言えば知ってるか、菌根菌という種類の茸は石を溶かしてミネラルを奪い取るんだぜ」
「手癖が悪いのね?」
「生きるのに必死なんだ、無機物と違ってな」
「そう言えばあなたは努力家なんですってね。皆褒めていたわ、あいつは地に足の着いた地道な修業で空を飛んでるって」
「皮肉にしか聞こえないぜ」
そういうわけで私達は弾幕ごっこを始めた。暗くなるまで続けて、お互いもう飛べないほど疲れて、仕方なく地上で出来る遊びに切り替えた。雪合戦だ。私は最後に一勝してやろうと雪球の中に弾幕を仕込んで投げた。あいつはあいつで同じことを考えたらしく、私達は仲よく同時に被弾したのだった。
悪魔のように優しくて、反逆者のように正しくて、能面のように活発で、宇宙人のように確かな、お前との日々をなかったことになんかしたくないよ、なあ、こいし。
*
魔理沙さん、どうか胸を張ってあの子を、忘れてあげて下さい。
*
目を覚ますと、闇が瞼に重かった。読書灯を点けて時計を確かめる。針は九時に座り込んでいる。私は起き上がらない。ぼんやり黒ずみながら、着古した悲しみの皺を伸ばす。
「何の夢を見ていたの?」
ウィンザーチェアの背に顎を載せたこいしが私を見下ろしている。
お前の夢だよ。
とは言わなかった。「来てたのか」
「いけなかった?」
「いいけど、灯り点けろよ、暗いだろう」
「だって魔理沙寝てたんだもの」
私はどうにか上半身を起こし、溜め息と嘘を吐く。「空を飛ぶ夢だったよ」
「夢のない夢ねえ」
「私が飛ぶんじゃないんだ、人里の奴らとかが普通に皆飛んでるんだよ。どうも未来のことみたいで、飛行能力は進化の過程で幻想郷の人間全員が持つようになったらしい。それでもう誰も地上を歩かないんだな。買い物にしても妖怪から逃げるにしても、飛んだ方が速いし便利だもんな。
だから私は、あ、私自身は神の視点みたいな感じで幻想郷を俯瞰してるんだが、私はいずれ人間の脚は退化するだろう、と予測する。鯨だって元々は脚があったのに退化して消失したんだ。人間の脚も要らなくなったらなくなる筈だ。
脚がなくなると何が変わるか知ってるか? 骨盤がでかくなるんだよ。人間は直立二足歩行をするせいで骨盤の大きさが制限されていて、産道が狭いから、赤ん坊が未熟なうちに生まれてくるっていう特徴がある。本来なら二年近く胎児でいるべきだと言われているが、その半分の期間で誕生する。つまり人間は幼年期を、自然状態より一年長く経験する生き物なんだ。
それが、脚の消失によって終わりを迎える。骨盤と産道が拡大して、胎児は完全に育つ二年目まで子宮から出てこなくなる。夢の私はそのことを想像して凄く寂しがってるんだ。空を飛ぶという行為が、最終的に私達の子供時代を一年分短くしてしまう、ってことを」
私は束の間口を噤み、微笑のような代物を浮かべる。
「なんて、ただの夢の話だ。それよりお前に言われた薔薇の誘引、やってみたよ。上手く出来てるか見てくれないか」
「さっき見てきたわ、大丈夫、園芸家になれるくらいよ。泥棒さんは手先が器用なのね」
こいしはそう言って、一瞬、躊躇うような仕草をする。「魔理沙」
「うん?」
「ちょっと一緒に来てくれる?」
「今からか? どこ行くんだ」
「あのね、私ね、魔理沙の真似して泥棒をしたの」
空には雲一つなく、クラフトパンチで型抜きしたような星がまばらに出ていた。私の一歩先を飛ぶこいしの肌は底抜けに青白くて、自分と世界の境界を忘れかけているみたいだった。
いや、私だ。私がこいしと世界の境界を、忘れかけているのだ。
「おい、教えてくれよ、何を盗ったんだ?」
「地球で初めて視覚を獲得した生物を知っているかしら」
「あ?」
「それはね、三葉虫なの」
こいしは速度を緩めて私と並んだ。
「三葉虫の目は炭酸カルシウムの結晶で作られていたそうよ。つまり最初の目は石だったというわけ。それなら私達よりずっと目がよかったのね、だっていつか化石になってしまう自分達の未来を、生まれた瞬間から見ることが出来たんですもの」
私は出し抜けに箒を止めた。
遠い前方に、星のような光球の軌道が幾条も瞬いていた。霊夢と、見知らぬ妖怪の弾幕だった。
「私が盗んだのは」
クリアでクリスタルな声が囁いた。
「あなたよ、幻想郷の英雄さん」
こいしは箒の後部に横座りして、私の背中に頭を預けた。でもね、と漂うように言った。私は立派な泥棒じゃないから、もう返してあげるの。幻想郷の皆にね。英雄は皆のものだから、独り占めにするのはいけないことでしょう?
雪が降ればいいのに、と私は思った。雪がどこまでも積もって、こんなにくっきり声が響く世界を埋め立ててくれればいいのに。
見て魔理沙、星がとっても綺麗ね。星の光は何千年もかけて今夜に届く、って聞いたことがあるわ。だから、ああやって夜空に浮かんでいる星は、夜が見ている夢なのよ。夜は毎晩、ずっと昔の星の姿を思い出しているの。
霊夢の夢想封印が、夜を縁取るように迸った。ガキの頃、冬になるといつも神社の森で霊夢と雪合戦をやっていた。あれはきっと、弾幕ごっこの原型だったのだろうと、ふと思った。
私もあなたの夢を見るわ。何千年経っても、今夜のあなたと夢で遊ぶの。あなたが私を忘れても、私があなたの分まで覚えているわ。
私達は夜、あなたは星。恋焦がれるような光で、いつまでも私達を照らしてね。
頬に感触があった。柔らかいナイフで皮膚をすうっと切り裂かれるような。そんな優しい痛みは、しかしすぐに遠のいていった。
「かっこいいぜ、飛んでる魔理沙は」
私が振り向くより先に、箒は軽くなっていた。
もしかしたらこいしは心を、なくしたんじゃなくて持ち過ぎたのかもしれない。私達の身体に仕舞い込まれている心が、目には見えないように、こいしの身体は大きな心の内側に仕舞い込まれて、私達の目に映らなくなってしまうんじゃないのか?
弾幕の花開く音がする。霊夢が戦っている。全く、異変の一つや二つ片付けるのに何日かけるつもりなんだ。やっぱり霊夢は私がいないと駄目なのか。
私はあそこに行くのだろうか。あの異変に挑むのだろうか。あれを解決したときが、私とこいしの最後になるかもしれない。その瞬間から私は二度とこいしを生きない。こいしは二度と私に住まない。こいしがいないことを着て私は進んでいかなければならない。
それでも、私は箒の柄を握る。小石のように可愛らしくて強かな、あいつのくれた大きな力で。
*
春になったら、あなたの家にもローブリッターが咲きますね。外界では春が来ると、花を象ったコサージュを心臓の位置に飾って執り行う式典があるそうです。花にはしばしば薔薇の形が用いられるとか。その式典に象徴される一つの期間の終わりを、人は「卒業」と呼ぶのです。
「ドイツ語で『盗賊騎士』なんですって」その鉢を私に手渡すとき、こいしはそんなことを言ってえへへと舌を出してみせた。
薔薇には時折「貫生」と呼ばれる奇形が生じる。生殖器官である雄蕊と雌蕊が形成されないまま、花の中心から新たに茎が伸びていき、まるで成熟を拒絶するかのように生長期が反復される現象だ。
でも、それは本当に奇形なのだろうか?
*
大人になったら、あなたはあの子を忘れます。あの子は、あなたの少女時代にしか存在しない、空想上の友達なのです。
*
地底の異変以来、こいしは私の家をよく訪ねてくるようになった。クロロフィルを多量に含んでいるような草色の瞳と髪、胸にある第三の目はルリボシカミキリ属・ロザリアよりも深い青。異変の際に霊夢や私と出会ってこの目が少し緩んだそうだが、全くとんでもない話だ。覚り妖怪の気持ち悪い目玉なんかこれ以上地球上に要るものか。地面から出てくる生物は退治するに限る。
「こいしを泥(こひじ)まみれにしてやるぜ」
「あら、それじゃ自然でつまらないわ」ロザシアニンのような青空の下で、こいしは薔薇を一面に咲かせながらひらひらと飛び回る。「あなたの装備は炉が一個、だけど私の薔薇(そうび)は無限なの。棘より痛い花びらで森ごと不自然にしてあげる!」
だが私達の実力は拮抗していて、勝敗は半々といったところだった。これじゃ退治には程遠い。私はつい悔しくて、止め時を見失った。気が付くと夜が更けていた。それからは毎日のように現れるこいしと、一戦交えるのが習慣になった。
「お星様の魔法使いだけあって、黒星もお得意なのね」
「まあな、星の眩しさで胸の目も勝ち目も瞑っていろよ」
追い払うつもりが、会う理由を一つ増やしてしまった。
こいしは勝っても負けてもデタッチメントで、いつでもコンスタントに微笑んでいる。微笑は人間における最も原始的な表情だ。「生理的微笑」という無意識の笑顔は胎児期から生起する。生後数ヶ月に渡って継続し、その後は個々の近親者や状況を見分けて行う「社会的微笑」に取って代わられる。
こいつは未だに生理的で、社会化なんて更々する気がないように見える。ひたすら遊ぶことに集中している。文字通り無心にだ。無さが色めく。あどけない叙事詩になる。全身ではしゃぐ有り様は、うるさく澄んでいる。そういうこいしを見ていると、漂白される。勝つことと負けることの遠近法が一時、薄れる。空を駆ける純粋な速度でいられる。
「小石の癖に隅に置けない奴だ」
「あなたもあんまりスタティックじゃないみたい」
こうして二人は齢の近い子供同士のようにごっこ遊びに勤しんだ。他の子供達と違う点があったとすれば、それは二人の靴がほとんど磨り減らなかったことくらいだろう。
*
私達にとって大人になるということは、身体的な成長のみを意味するわけではありません。あなたも御存知でしょうが、妖怪は精神的な存在ですからね。私達が大人と言うとき、それはまず、強い社会性を有する者、を指すのです。
*
冬が欠伸をしている。
硬い夢とベッドを降りて、難儀しながら暖炉へ向かう。もつれる手で火を熾す。室内が暖まるのを辛抱強く待つ。
外で軽いものが降り落ちる音を耳にする。カーテンを開けて空を仰ぐと、雪ではなくて弾幕だった。落下する間に勢いを削がれた流れ弾が、朝陽と共に灌木の枝葉や地衣類を明るく濡らしては消えていく。やがて遠くで巨大な水滴の滴るような音がする。誰が誰にやられたのか、関心もなく暖炉に戻る。
ようやく寒さが丸まってくる。でも私はしばらくじっと動かずにいる。それどころか寧ろ悲しいような気分で、部屋を巡る気流を見守っている。暖気が満ちるというより、冷気を足蹴にして追い出しているといった方が相応しいような気分で。
それから緑茶を淹れるためにローテーブルへ移る。昨夜飲み残した白湯が湯飲みの底を重く冷やしている。氷水みたいだ。私は湯飲みを注意深く目の前に引き寄せる。その水が、夜気を偲ばせる最後の指紋であり、夜がついさっきまでこの家に羽を伸ばしていたことを示す、唯一の証拠であるかのように。
湯飲みの足元に目が行く。珪化木のテーブルの表面に、五つの小さな窪みがある。ナイフで軽やかに突かれて出来た、小人の足跡のような傷口だ。
こいし、と私は呟く。その名前は甘さのように舌に痛い。
あいつはナイフを愛用していた。以前、都市伝説を巡る異変が起きた折にメリーさんの怪異を選んでからというもの、あいつはそれをいつも懐へ加害者のように忍ばせて持ち歩いていた。
そしてある日、面白い遊びがあるのよと言って、このテーブルの上でそのナイフをすらりと開き、私に披露してみせた。何のことはない、私も知っている単純なゲームで、広げた五本の指の隙間に高速で切っ先を突き立てていくという、妖怪がやってもつまらないだろうと思われる類いのものだったが、こいしはそういうルールについて実に妖怪らしい勘違いをしていた。指の隙間ではなく、指本体が的だと思い込んでいたのだ。
「こっちの方が的が狭くて面白いのに」こいしは五本の指を鮮やかに汚しながら、そしてそれを泥遊びの汚れのように自分の服で無頓着に拭いながら、私の指摘を不服そうに聞いていた。
私はこいしの指の傷が、拭った端から瞬く間に塞がっていくのを、何だか花の閉じる様でも見るように、不思議に寂しく眺めていたものだった。
*
社会性というのは、他者との関係の豊富さや、当人が担っている責任の重さ、あるいは、期待の大きさ、などを包含した表現です。あなたは幼い頃に人里という社会を捨て、森で一人住まいを始めていますね。まさしく「複雑な人間関係を構築していない子供」として、あの子の目を引く条件は充分に満たしていたのでしょう。
*
「無意識の哲学」の著者エドゥアルト・フォン・ハルトマンは人間の幼年期を「幻想の第一期」と呼んだ。この時期における人間は幸福の存在を純粋に信じてこれを追求する。「幻想の第二期」は成年期であり、ここで人間は現世の幸福を断念し、宗教的な幸福、死後に齎される幸福を儚く願う。だがそうした希望も「幻想の第三期」すなわち老年期に至って潰え、もはや個人の具体的な幸福の実現はあり得ず、社会の発展という全体的で抽象的な可能性に思いを託す。そして結局のところ幸福は決して叶わないものだと悟り、そのとき遂に「幻想」は打ち砕かれる、彼はそう考えたのだった。
ハルトマンにとって人生とは、要するに失望の不可逆的な蓄積、幻想の徹底的な挫折に他ならなかった。彼によれば幸福に最も近いのは子供であり、幸福という観念は成長に従って止め処なく、絶対的に失われていくものでしかなかった。
*
しかしながら、あなたは最も早く大人になる人間の一人でもあるのです。何故なら霧雨魔理沙という存在は、今や幻想郷の人々にとって紛れもなく、英雄、なのですから。
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いつかの夏。
こいしが木陰で眠っている。胸に抱き留められた帽子の鍔が、頬に強く押し当てられている。松露という茸があって、幼いうちは真っ白な卵の形をしていて触るとふんわり赤く染まる性質を持っているのだが、このままでは丁度そんな具合に痕が出来てしまうに違いない。
でも私は帽子を除けてやろうとはしない。その帽子の下で、こいしの柔らかな頬に一本の線がうっすらと引かれていく光景を、絵画の構想を練るように、息を凝らして想像する。まるでそれが引かれることによって、こいしの輪郭が保証され、こいしという存在がすっかり清書されるとでもいうように。
そこへ一匹の蜜蜂が飛んでくる。花と見間違えたのかこいしの頭上に降り立つような素振りをする。が、こいしのどこにも雄蕊と雌蕊がないのを見て取ると、今度は訝しげに周囲を旋回し始める。やがてどこかへ消えてしまう。
ある種の蜂は、女王と呼ばれる個体を中心に階級社会を構成する。大多数の個体は雌であり、女王を除いて生殖機能を一切持たない。それは言わば女王だけが大人になる世界だ。他の雌は死ぬまで成熟することなく女王のために働き続ける。永遠の少女達、と私は思う。
夏がくるりと寝返りを打つ。
*
数々の異変を解決してきたあなたの名は、幻想郷の全域に知れ渡っています。博麗の巫女に並ぶ人間の希望として、妖怪の脅威として。分かりますか、現在のあなたはあらゆる人妖から期待と責任を背負わされている身なのです。
あなたが大人になりたがらなくても、世間はもうじきあなたを社会の中枢に位置付けるでしょう。あなたは大人というドメインにカテゴライズされます。そしてあの子は不要になり、あなたから、失われます。
*
霧雨魔法店の裏庭には穴がある。どれほど深いのか私は知らない。子供が墜落するのにお誂えなくらいの幅で、正確な円形をしている。いかにもまっすぐ垂直に掘ってあるから、穴というよりは暗い柱めいてさえいる。
「地底まで掘ってここと繋げるの。そしたら簡単に行き来が出来るじゃない?」こいしは墓でも掘るような真剣さで言うのだった。「秘密の近道よ」
何年かかることやら、その前に雨水が溜まって池になってしまうだろう。私は一応穴の上に傘を差してやった。
今でも時々すりんすりんと土を掘り返す音が聴こえてくる。こいしにしては随分続いている方だ。あいつがいないときに裏庭へ行くと、穴は傘を差したまま黙って私を見上げている。何と言うか、ひょっこり動き出しそうな存在感がある。
穴の背丈は逆向きにだが、確実に伸びていく。
もしかしたらあいつも、この穴のように、私達には見えない仕方で成長しているのだろうか?
*
あなたはあの子を瞑り、あの子に纏わる全てを脱ぎ捨てるのです。唐突に、ぷつんと電話が切れてしまうように。
*
昼過ぎにコートを羽織って外へ出る。木々の合間にちらつく空は目的論的に晴れ渡っている。地表を覆う分厚い変形菌を踏んで、裏庭へ回る。
今日はこいしも来ていないらしい。穴は素っ気なく空いている。壁際のローブリッターの鉢へ目を移す。
こっちは随分と葉を落としている。霜焼けのように赤味の差した枝は、いずれも支柱代わりの棒に緩く巻き付けてある。私はキッチングローブを装着する。これからしなければならないのは誘引だ。誘引とは枝を壁面やアーチなどの構造物に絡ませる作業だが、私は予めトレリスという小型の格子を自作していた。
トレリスを鉢の後ろに設置する。葉の残りと小枝を毟っていく。誘引する位置の見当を付ける。大事なのは枝を低く広げて曲げることよ、とこいしは言っていた。こうすると花付きがよくなるわ、反対に高く伸びた枝はほとんど咲かないの。
私はそれに従う。でも、そうやって花が子供の目線に合わせるような高さで咲くのは何故だろう。まるで友達のような近さで咲くのは。
一仕事終えて表へ引き返すと、郵便受けに天狗の新聞が突っ込まれている。一面にはこうある。「新たな異変に人里揺れる 巫女も苦戦か」私はそれを持ってドアを開ける。コートを放ってカウチに凭れる。
行かなくていいの?
一昨日、こいしに訊かれた。いつものように弾幕ごっこをしていたときだ。こいしは珍しく浮かない顔をして浮かんでいた。
「いいんだ」私は閉めるように言った。
「そっか」
「もう、いいんだ」
お花屋でも始めるつもり?
昨日、アリスに言われた。魔法陣より時間をかけてトレリスを組み立てている私に、呆れたような一瞥をくれて帰っていった。
花屋もいいかもしれない。
少なくとも、客もいない森の奥で花を売っていれば、社会性なんか押し付けられずに済むだろう。
手にした新聞を暖炉に投げ入れる。薪の山が薄っぺらな紙束に包まって炎の寝息を立てる。その寝相の悪い音に耳を傾けているうち、私も段々眠気が兆してくる。ベッドに布団と瞼を敷いて、一人分の夜へ降りていく。
*
私の知り合いにはこいしのことを知っている奴が大勢いる。幻想郷縁起や新聞にだってあいつのことは載っている。もし私があいつを忘れても、思い出す機会なんて幾らでもあるだろう。
あなたはそう考えていますね。
残念ですが、それは違います。
あの子を忘れるということは、あなたにとってあの子が、本物の小石になる、ということです。あの子の姿があなたの網膜に映らなくなるわけでもなければ、あの子に関する情報が遮断されるわけでもありません。
あの子に対してあなたが、一切の関心を持たなくなる、それだけのことなのです。
*
秋も半ばのある朝、私はこいしを連れて無縁塚に来ていた。特に目当てがあったわけではない。散歩のついでに何となく立ち寄ってみただけなのだが、こいしは妙に興味をそそられたらしかった。彼岸花の咲き零れている中を、そっと吹き抜けるように歩いていっては、そこかしこに落ちている外界のがらくたを拾い上げて矯めつ眇めつする。これは何かしら? 長い棒だろう。じゃあこれは? 短い棒。
「それならあれは?」
こいしが指し示したのは、彼岸花やがらくたに紛れて、点々と埃のようにうずくまっている石の一つだった。傍らに、つい最近供えられたらしい、新鮮な切り花の挿された花瓶が座っている。
「無縁仏だな」
「むえん?」
「誰とも縁がないってこと。こっちへ来て知り合いも出来ずに死んだ外来人なんかが埋葬されるんだ」
答えながら束の間、律儀に花を替えている香霖を目に浮かべた。そしていつだったかあいつから聞いた、一人の外来人のことが胸をよぎった。
いや、聞いた、という言い方は正しくない。香霖はその人物について何も語りたがらなかったし、実際のところ語れるようなことはほとんどなかったのだと思う。それは反応の端々から窺われた。つまり、香霖がその人物に出会ったとき、そいつは既に粗方「失われていた」のだ。僅かに食い残された骨と衣服が、辛うじてその人物の概要を保存していたに過ぎず、そいつの顔や名前や様々なディテールは、とうに世界から奪い去られていたのだった。
ふと肌寒さを感じて、こいしに目を向ける。こいしは身動ぎもせずに墓石を見詰めている。突然、自分がこいしの首筋に噛み付いている光景を想像する。私はばりばり音を立ててこいしの一部を食い千切る。こいしが倒れるとその上に跨りまた別の一部を食い千切る。こいしはどんどん減っていく。
「少し冷えてきたみたい」
こいしの身体はもはや胎児のように縮んでいる。こいしは嫌がりも抗いもしない。ただ弱々しく微笑んで私の目を覗き込んでいる。私は構わずこいしを食い続ける。胸を開き肋骨を手折ると薔薇色の小石のような心臓が現れる。私はそれを一口で飲み込んでしまう。そこで手が止まる。こいしはもうどこにもいない。私に食い尽くされてゼロになったのだ。
「帰りましょうか」
こんな風に、と私は思う。
「そうだな」
こんな風に、私はお前を忘れるのか?
*
あなたにこのことを話したのは、あの子と距離を置いて頂きたいからです。あの子はこれまで数多の子供達の遊び相手になり、そして忘れられてきました。想像出来ますか、昨日まで半身のように時間を共にしていた友人が、挨拶に応えてくれなくなる瞬間を。その視線が自分をすり抜けていく感覚を。決して自分の前に立ち止まることのない足音を。私はもうあの子に、忘れられることの酷薄な色を見せたくはないのです。
妹の交友関係に干渉するなんてトキシックペアレント(毒親)みたいだ、ですか。あなたは親子というものに複雑な思いを抱いているようですね。ええそうです、トランスペアレント(透明)な妹の姉は、妹の分まで濁ってあげなくては釣り合いが取れないでしょう。
別に私の要望を汲んで下さらなくても、手荒な手段に訴えるつもりはありません。ただ覚えていて頂きたいのです、逆さまに植えられた花は、青空ではなく地獄に向かって咲くのだということを。
*
こいしが私を地霊殿に招いたのは秋の入り口の頃だった。既に何度か滞在しているから勝手は分かる。地獄は中々居心地がいい。何しろ気象学的には天国より温暖なのだ。
地獄の気温が高いのは、怨霊の怨みのせいだという。
あるとき宛てがわれた部屋を抜け出して、金目のものでも落ちていないか、もしくは厳重に保管されていないかと、館内を抜き足差し足ぶらついていたら、地下で罪人の処刑室を見付けた。その部屋が処刑室だというのは後でこいしに聞いて知ったことだ。聞かなければ絶対に分からなかっただろう。
それは石造りの大聖堂だった。
数百人は収容出来そうな会衆席を左右に配した身廊は、天井が高く、かなりの奥行きがあり、突き当たりの内陣には祭壇が設けられていた。西側の壁に天使と聖母の描かれた薔薇窓が嵌め込まれていて、そこから差し込む光が唯一の光源だった。光は灼熱地獄のものらしい。つまり、ここはその真横に位置していることになる。地獄の隣に天国の門か、味噌汁にパンみたいで気味が悪いなと思った。ひどく静かで、金目どころか虫の目一つありそうにない。私は探索を早々に切り上げ、寒々とした暖かな地下室から退散した。
「あの聖堂に、罪人と大量の怨霊を閉じ込めてしばらく放置するの。怨霊は神聖なものを恐れるから、薔薇窓のステンドグラスで浄化された光を避けようとして、罪人の体内に殺到するのね。妖怪が怨霊に取り憑かれると精神を乗っ取られて別の妖怪に変化するという話は、あなたも宗教家さん達の座談会で聞いたことがあるでしょう。それなら、一遍に何百匹もの怨霊に取り憑かれたらどうなるかしら。一つの心に沢山の心が寄生したら。それをお姉ちゃんは実験したの。結果はね、皆、妖怪ではなくなってしまったわ。やっぱり心が壊れて存在を保てなくなるみたい。一人残らず、心のないものに形を変えたわ、例えば体格のいい鬼のおじさんがいたんだけど、あっという間に水色の、名前もない、こじんまりした寂しい花になってしまったのよ」
熱くて柔らかい怨霊達の前で、私は冷えて固まった。こいつらはどう見ても憑くより搗かれる方がお似合いだと思うのだが。
今回は、そんな怨霊共を顎と目で使役しているさとりから、呼び出された。
さとりについては、極力出くわさないように避けていた。勿論心を読まれるのが嫌だからだが、何より読まれた心がさとりの口からこいしの耳に入るかもしれないこと、それが怖かった。私はこいしが信じているほどいい人間ではないだろうから。ずるさや卑怯さは手足のように私の一角を占めていて、私はそれで数え切れない人達の優しさや情けを叩いたり蹴ったりしてきたのだ。
でもこいしは、人嫌いの姉が積極的に誰かに会いたがっているのはいい傾向だと喜んでいた。お姉ちゃんと仲よくしてあげてねと手を握られた。これでは逃げるわけにもいかない。指定された場所は、中庭の薔薇園だった。
そこは水の匂いで満ちていた。薔薇の木々は暗闇の下で輝かしく翳りながら無秩序なまでに密生し、所々で枝を束ねているアーチやオベリスクを、森に取り残された古代の遺構のように見せていた。いつか本で読んだルネサンスの庭園を連想した。ロカイユ(小石)という名のその様式では、樹林の中に装飾として石の洞窟を作ったそうだ。このさとりの庭園は、逆だ。地底という巨大な洞窟の内部に、薔薇の森を築き上げたのだ。
一本の小道が点線のように心許なく走っていた。辿っていくと、庭の中心らしい開けた空間に出た。どこからか仄かにせせらぎが聴こえる。流血のような、落涙のような、淡い流れだった。その一隅にひっそりと東屋が建っていて、蔓薔薇の絡んだベンチに腰かけているさとりの姿が見えた。
さとりは膝元の薔薇の枝に目を落としていた。葉はどれも黄変しているようだった。黒い斑点を滲ませているものもあった。
「黒星病ですよ」やり切れないというように首を振る。「薔薇の大敵だわ」
私は肩を竦めた。「そもそも本当に薔薇なのか?」
「死刑囚の成れの果てなどではありませんから、御心配なく」肺が片方しかないような、穏やかに霞んだ声だった。
「そうか、っておい」私はあるものに目を留めて思わず後ずさった。さとりの手にナイフが握られていたのだ。
「ああこれですか。フローリストナイフといって、花を切るための刃物です」
よく見るとこいしのナイフに似ていた。ひょっとすると、あいつが指を切ったナイフは、「ええこれと同じものよ。私が与えたのです。あなたは今、薔薇を切るナイフであの子の身体が切られる、というイメージを綺麗だと考えていますね。これであの子の指を一本ずつ切り落としたら、手が花束のようになってさぞかし素敵だろうと。断絶は開花でもあるという思い付き。それを気になる子に対して行使してみる夢想。あなたの心はいかにも乙女らしい残酷さに溢れていて、私は好きですよ」
「囚人を竹の棒でぶちのめすっていう拷問があるんだが」私はさとりから最も遠い席に腰を下ろしながら言った。「執行人はエキスパートで、受刑者の皮膚には傷とか全然出来ないらしくて、身体の内側だけをピンポイントで破壊するって話だ。で、その練習には豆腐が使われる。豆腐を棒で打つんだ。外から見ても豆腐に変化は一切ないのに、中身は崩れ切って液状化する。お前といると自分がそういう豆腐みたいなものになっていく気がするよ」
分かります、頷いてさとりは、唯心論的に微笑んだ。
「それで用って何だよ」
さとりは笑みを絶やさず、真正面から私を見据えた。「半麻酔、というものを御存知ですか?」
「いや、知らないな」
「これは出産時の痛みを抑制出来るということで評判の高かった、無痛分娩の手法の一つです。しかしもう使われなくなって久しい。というのも、実のところこの半麻酔は、痛みを抑制するのではなく、スコポラミンの投与によって人為的に健忘状態を引き起こし、痛みがあったことを出産者の記憶から削除するというものだったからです。端的に言えば、痛みは忘れられたのです」
何だ? こいつは何の話をしてるんだ?
「出産者にとって、果たして痛みは起こったと言えるのでしょうか? 忘れられる、ということは、存在しない、ということと一体どう違うのでしょう?」
何かが私を駆け回っている。
「さあな、同じようなもんだろう」
私がそう答えると、さとりは不意に、表情を消した。
全身に鳥肌が立つのを感じた。さとりの顔はどんな表情もしていなかった。無表情ですらなかった。突然、何もかもから自分をすっぱり切断したような段落があった。顔というより、滑らかな断面図のようだった。
大人になったら、あなたはあの子を忘れます、とさとりは言った。あの子は、あなたの少女時代にしか存在しない、空想上の友達なのです。
*
この燃え盛る灼熱地獄で、私達は凍っています。少女のまま、気が遠くなるような年月を過ごしてきました。私達は進めません。あなたは、進みます。
*
夢を見た。こいしが初めて私の家にやって来た日の夢だ。雪が歴史のように降り積もった朝だった。こいしは玄関ではなく窓辺に立って私を呼んだ。手袋も嵌めずに冬を握り締めていた。あべこべの雪、地殻の下から昇ってきた一片の雪のようだった。
「ええと、何かの妹じゃなかったか、お前」
「私はお姉ちゃんの妹よ」
「腰だか肘だかそんな名前だったな」
「古明地こいしです! 私のハートはちょっぴりロック、あなたのハートを完全ロック!」
「ロックと言えば知ってるか、菌根菌という種類の茸は石を溶かしてミネラルを奪い取るんだぜ」
「手癖が悪いのね?」
「生きるのに必死なんだ、無機物と違ってな」
「そう言えばあなたは努力家なんですってね。皆褒めていたわ、あいつは地に足の着いた地道な修業で空を飛んでるって」
「皮肉にしか聞こえないぜ」
そういうわけで私達は弾幕ごっこを始めた。暗くなるまで続けて、お互いもう飛べないほど疲れて、仕方なく地上で出来る遊びに切り替えた。雪合戦だ。私は最後に一勝してやろうと雪球の中に弾幕を仕込んで投げた。あいつはあいつで同じことを考えたらしく、私達は仲よく同時に被弾したのだった。
悪魔のように優しくて、反逆者のように正しくて、能面のように活発で、宇宙人のように確かな、お前との日々をなかったことになんかしたくないよ、なあ、こいし。
*
魔理沙さん、どうか胸を張ってあの子を、忘れてあげて下さい。
*
目を覚ますと、闇が瞼に重かった。読書灯を点けて時計を確かめる。針は九時に座り込んでいる。私は起き上がらない。ぼんやり黒ずみながら、着古した悲しみの皺を伸ばす。
「何の夢を見ていたの?」
ウィンザーチェアの背に顎を載せたこいしが私を見下ろしている。
お前の夢だよ。
とは言わなかった。「来てたのか」
「いけなかった?」
「いいけど、灯り点けろよ、暗いだろう」
「だって魔理沙寝てたんだもの」
私はどうにか上半身を起こし、溜め息と嘘を吐く。「空を飛ぶ夢だったよ」
「夢のない夢ねえ」
「私が飛ぶんじゃないんだ、人里の奴らとかが普通に皆飛んでるんだよ。どうも未来のことみたいで、飛行能力は進化の過程で幻想郷の人間全員が持つようになったらしい。それでもう誰も地上を歩かないんだな。買い物にしても妖怪から逃げるにしても、飛んだ方が速いし便利だもんな。
だから私は、あ、私自身は神の視点みたいな感じで幻想郷を俯瞰してるんだが、私はいずれ人間の脚は退化するだろう、と予測する。鯨だって元々は脚があったのに退化して消失したんだ。人間の脚も要らなくなったらなくなる筈だ。
脚がなくなると何が変わるか知ってるか? 骨盤がでかくなるんだよ。人間は直立二足歩行をするせいで骨盤の大きさが制限されていて、産道が狭いから、赤ん坊が未熟なうちに生まれてくるっていう特徴がある。本来なら二年近く胎児でいるべきだと言われているが、その半分の期間で誕生する。つまり人間は幼年期を、自然状態より一年長く経験する生き物なんだ。
それが、脚の消失によって終わりを迎える。骨盤と産道が拡大して、胎児は完全に育つ二年目まで子宮から出てこなくなる。夢の私はそのことを想像して凄く寂しがってるんだ。空を飛ぶという行為が、最終的に私達の子供時代を一年分短くしてしまう、ってことを」
私は束の間口を噤み、微笑のような代物を浮かべる。
「なんて、ただの夢の話だ。それよりお前に言われた薔薇の誘引、やってみたよ。上手く出来てるか見てくれないか」
「さっき見てきたわ、大丈夫、園芸家になれるくらいよ。泥棒さんは手先が器用なのね」
こいしはそう言って、一瞬、躊躇うような仕草をする。「魔理沙」
「うん?」
「ちょっと一緒に来てくれる?」
「今からか? どこ行くんだ」
「あのね、私ね、魔理沙の真似して泥棒をしたの」
空には雲一つなく、クラフトパンチで型抜きしたような星がまばらに出ていた。私の一歩先を飛ぶこいしの肌は底抜けに青白くて、自分と世界の境界を忘れかけているみたいだった。
いや、私だ。私がこいしと世界の境界を、忘れかけているのだ。
「おい、教えてくれよ、何を盗ったんだ?」
「地球で初めて視覚を獲得した生物を知っているかしら」
「あ?」
「それはね、三葉虫なの」
こいしは速度を緩めて私と並んだ。
「三葉虫の目は炭酸カルシウムの結晶で作られていたそうよ。つまり最初の目は石だったというわけ。それなら私達よりずっと目がよかったのね、だっていつか化石になってしまう自分達の未来を、生まれた瞬間から見ることが出来たんですもの」
私は出し抜けに箒を止めた。
遠い前方に、星のような光球の軌道が幾条も瞬いていた。霊夢と、見知らぬ妖怪の弾幕だった。
「私が盗んだのは」
クリアでクリスタルな声が囁いた。
「あなたよ、幻想郷の英雄さん」
こいしは箒の後部に横座りして、私の背中に頭を預けた。でもね、と漂うように言った。私は立派な泥棒じゃないから、もう返してあげるの。幻想郷の皆にね。英雄は皆のものだから、独り占めにするのはいけないことでしょう?
雪が降ればいいのに、と私は思った。雪がどこまでも積もって、こんなにくっきり声が響く世界を埋め立ててくれればいいのに。
見て魔理沙、星がとっても綺麗ね。星の光は何千年もかけて今夜に届く、って聞いたことがあるわ。だから、ああやって夜空に浮かんでいる星は、夜が見ている夢なのよ。夜は毎晩、ずっと昔の星の姿を思い出しているの。
霊夢の夢想封印が、夜を縁取るように迸った。ガキの頃、冬になるといつも神社の森で霊夢と雪合戦をやっていた。あれはきっと、弾幕ごっこの原型だったのだろうと、ふと思った。
私もあなたの夢を見るわ。何千年経っても、今夜のあなたと夢で遊ぶの。あなたが私を忘れても、私があなたの分まで覚えているわ。
私達は夜、あなたは星。恋焦がれるような光で、いつまでも私達を照らしてね。
頬に感触があった。柔らかいナイフで皮膚をすうっと切り裂かれるような。そんな優しい痛みは、しかしすぐに遠のいていった。
「かっこいいぜ、飛んでる魔理沙は」
私が振り向くより先に、箒は軽くなっていた。
もしかしたらこいしは心を、なくしたんじゃなくて持ち過ぎたのかもしれない。私達の身体に仕舞い込まれている心が、目には見えないように、こいしの身体は大きな心の内側に仕舞い込まれて、私達の目に映らなくなってしまうんじゃないのか?
弾幕の花開く音がする。霊夢が戦っている。全く、異変の一つや二つ片付けるのに何日かけるつもりなんだ。やっぱり霊夢は私がいないと駄目なのか。
私はあそこに行くのだろうか。あの異変に挑むのだろうか。あれを解決したときが、私とこいしの最後になるかもしれない。その瞬間から私は二度とこいしを生きない。こいしは二度と私に住まない。こいしがいないことを着て私は進んでいかなければならない。
それでも、私は箒の柄を握る。小石のように可愛らしくて強かな、あいつのくれた大きな力で。
*
春になったら、あなたの家にもローブリッターが咲きますね。外界では春が来ると、花を象ったコサージュを心臓の位置に飾って執り行う式典があるそうです。花にはしばしば薔薇の形が用いられるとか。その式典に象徴される一つの期間の終わりを、人は「卒業」と呼ぶのです。
素晴らしい
綺麗な言い回しにも惹かれました。
落ちまでストンと読めて切ない読了感に浸れた
キレイに終わっていてとても良かったです
断片的に散文的に語られる魔理沙とこいしのやり取りや会話と、その途中でさし込まれるさとりの諭すような言葉の数々と、張り巡らされた伏線や、布石の数々が上手い具合に作品全体にツタのように絡みついて、もうね。
とても良かったです。