或る恋文
最初の手紙
嗚呼、はっきり申し上げましょう、わたくしはあなたに恋をしているのです。無い頭を捻っては書き捻っては書きを繰り返してうまくお伝えしようとはしましたものの、やはり無いものは無い訳でして、このような直截なことばとなってしまいました。こうして手紙を差し上げますのも、幾度も逡巡した末のことでありまして、というのもこのような手紙を受け取ってあなたは気味悪がるのではないかと思うとなかなかためらわれることだったのです。しかしあなたへの思いをいつまでも胸の内に燻らせておいて、いつか張り裂けてしまう恐ろしさに怯えるよりも、あなたからきちんと拒絶されてしまった方がよほど楽なのではないかと思い至りました。それほどにわたくしはあなたに焦がれているのです。あの一瞬、そう、わたくしに微笑みかけてくれたあの一瞬がわたくしを狂わせたのです。どうぞ責任を取ってくださいな。責任を取ってわたくしを愛するか、あるいはぶっきらぼうに突き放してくださいな。勝手を申し上げているのは重々承知しております。承知のうえで、しかしわたくしはあなたにこの恋慕を押し付けてしまいたい。これは衝動なのです。いくら理性で考えたところで答えなど出すことはできませぬ。倫理など一切を打ち捨てて私は申し上げているのです。女が男を愛さねばならぬなどという法がどこにありますか。女が女を愛してはならぬなどという法がどこにありますか。あなたさえ許せばわたくしは救われるのです。いえ、許さなくてもいい。ただそのふくよかな唇で、いいえとささめいてくださればそれでもよいのです。わたくしがなにより苦しいのは、つらいのは、わずかであれ可能性が残されているあなたのことを毎夜のように思い出してしまうことなのです。あなたにこの苦しみがわかりますか。いいえわからないでしょうね。わからないから、こうしてただ微笑むばかりで答えを出さず、わたくしを痛めつけるのでしょう。嗚呼、なによりあなたが悪いのです。あなたが優しくしてくれたから──あの雨の日、家に帰ることができないでじっと森で雨宿りをしていたわたくしに傘を差し出してくださったあなた。わたくしははっきりと憶えております。降りしきる雨を厭うこともなく、ただ微笑ってわたくしを傘のもとへ招いてくださいました。震えるわたくしの肩を優しく抱いてくださいました。あなたにとってはどうということのない善意だったのかもしれません。でもそれがわたくしに虚しい期待を抱かせたのです。期待するに決まっているでしょう。取るに足らぬわたくしのような女がああして優しさに触れたなら恋もするでしょう。わたくしはあなたを恨んでおります。本当のところ、わたくしはあの日死んでしまうつもりでした。つまらぬ浮世を捨てて仏のもとへと──わたくしのような女が浄土へ辿り着けるのかは判りませんが──旅立つはずでした。それなのにあなたが──いえ、いくら恨み節を述べたところで意味は無いのでしょう。でもこの恨みは恋心の裏返し。いくら言葉を尽くして愛を語ったところでわたくしの気持ちは伝わらないのですから、こうして使い古された撞着で述べるほか無いのです。恨めしい、憎らしい、殺してしまいたいほどに、わたくしはあなたを想っています。理由を問われてもわたくし自身よく判りません。例えば鴉が啼くのに理由など無いでしょう。啼きたいから啼く、慕いたいから慕うのです。欲求というものは大抵果てのないものですが、わたくしのこれにはきちんと果てがあるのです。ですから、どうかお返事をくださいまし。その白くなめらかな指でわたくしを掬い取ってくださるか、あるいは路地裏の痩せた猫のごとくお捨てになってくださいまし。つまるところあなたにとって単純な二者択一なのです──わたくしにとっては生と死を分かつものなのですが──。あなたが決断なさるまでわたくしは生死を彷徨い続けなければなりません。もしこのまま微笑って有耶無耶にし続けるおつもりでしたら、あなたはとても残酷なお方なのでしょう。嗚呼可哀想なわたくし。刃で以って首の皮を薄く薄く削られるような痛みと恐ろしさをいつまで耐えなければならないのですか。このままではいずれ狂ってしまいます。狂気に任せるままあなたを殺してわたくしも死にます。でもわたくしはそんな結末を望んではおりません。ですから、どうかわたくしが正気でいる内に、あなたのお言葉を頂戴したく存じます。
†
「紫様、お手紙が届きました」
八雲紫がふわあとあくびをしたとき、丁度その式神が手紙を持って縁側へとやってきた。夏が近づきつつあり少し汗ばむような陽気は人々の頭をぼうとさせていたが、紫も例外ではなかった。
「数日前にも届いたかと思うのですが、文通でもなさっているのですか」
「文通ではないと思うわ」
「思う?」
「わたしは返事をしていないもの」
「よろしいのですか」
さあ、と紫は首を傾げる。式神は少し戸惑ったような表情をして、手にした手紙を紫に渡した。
「ねえ藍」
去り際に紫は問う。
「あなたはあなたを愛せる?」
†
第二の手紙
わたくしは望まれぬ子なのです。人と妖の間に生まれた汚れた子なのです。母は人間の男を誘っては喰っていく女妖で、女狐と呼ばれて蔑まれておりました。父の方は判りませぬ。村の男の誰かなのでしょう。こんなわたくしが村で受け容れてもらえるわけもなく、外れにある小さな倉庫に押し込まれ、一日一度の食事で生かされておりました──というのも、尊い自由意志でわたくしは生きているのではなく、呪われた子をわざわざ自らの手を汚してまで処分しようと考える者がいなかっただけに、仕方なくわたくしは生きているのです。もちろん何度も死ぬことを考えましたが、しかし妖の血は自らを殺めることを許しませんでした。吐き気のするような生存欲求。何度この穢れた血を恨んだことか。それでも不思議と両親を恨んだことはあまりありませぬ。ただひたすらに生まれてきてしまった自分を恨むだけでした。何も自分の不幸のためだけに恨むわけではないのです。わたくしは母の影響か他の人に比べて幾分美しく生まれてしまったようで、幾度か殿方がわたくしのもとへ忍びやってくることがあったのですが、嗚呼わたくしは襲われるのだわと思い至るころにはどうやら既に彼らを喰ってしまっているのです。その後しばらく自分で自分が大変恐ろしく思われてがたがたと震えているのですが、ややもするとお腹が満たされた心地よさで眠りについてしまうのが嫌になります。食の本能はこうも軽々と理性を超越するのだと思うと、純粋な人間として生まれることができなかったことを大変に悔しく感じるのです。わたくしは妖のように何のためらいもなく生きるのでもなく、人間のように他者との調和の中に生きるのでもなく、ただ理性と本能という檻の中に囚われて孤独を生きるしかありません。果たしてこれは生きていると言えるのでしょうか。死も同然、あるいは死をも超える苦しみなのではないでしょうか。罪深き者から生まれ出たわたくしに対するこの罰は、きっと絶えることはないのだと、そう思っていました。しかしあなたは、あなただけはわたくしに笑いかけてくれた。あの瞬間わたくしは救われた気がしたのです。永遠と思われた罪の一角が小さく崩れる音を聞いたのです。その幸せがあなたに判るでしょうか。深淵の孤独に光が差し込む希望が判るでしょうか。あなたは、数百年の孤独を生きねばならぬわたくしが縋ることのできる唯一の光だったのです。どうかそのことをお知り置きください。あなたが考えている以上にわたくしはあなたの姿に依存しているのです。わたくしのくすんだ黄土いろとはまるで異なる、その美しい金の髪を毎晩眠る前に思い出します。その絹のような手触りを毎晩夢に見ます。しかし夢は夢なのであって、絹など生まれてこの方触れたことのないわたくしはあなたの髪に触れたところで何も感じることはなく、目が覚めて涙するのです。どうかわたくしに絹の感触をお教えください。そしてその花のかんばせをどうかもう一度お見せください──。良いお返事をお待ちしております。
†
「紫様、またお手紙が来ております」
「ご苦労様」
「お返事、やっぱりなさらないのですか」
ええ、と紫は気のない返事をした。まるで最初から何も届かなかったかのように手紙を無造作に放って、外をぼんやりと眺めていた。
「紫様、お返事はするべきです。こうして熱心に三通もお手紙を頂いているのですから、相手の方に失礼ですよ──」
「じゃああなたが書いたらいいわ」
「そんな、頂いたのは私ではないのですから──」
式神の言葉が終わらないうちに、紫はすっと手紙を差し出して言った。
「あなたがこれを読んで、あなたが貰ったということにして、お返事を書いてくださいな。私はもう内容を知っているから、読む必要もないわ」
†
第三の手紙
なぜお返事をくださらないのでしょう。何度も熱心にお送りしているのに、あなたは何が不満なのでしょうか──。わたくしはこうしてお手紙を差し上げるのにも大変苦労しているのです。やってくる殿方を殺さないよう自分を必死に抑えて、だらだらと続く行為の屈辱に耐えて、届くかもわからない手紙を渡す──。嗚呼、もしかすると今までお送りした手紙は届いていないのかもしれませんね。あの殿方達は皆、そんな愚劣な人間だったのかもしれませんね──。それでもわたくしはあなたからお返事を頂けるまで延々とお手紙を送り続けます。殿方達の捨てた手紙が山となるまで送り続けます。そうしたらきっと、気まぐれに吹いた風があなたの元まで手紙を運んでくれるでしょう。自然の気まぐれのほうが人間の良心なんかよりもずっと信用できるのかもしれません──。あなたには、良心はあるのでしょうか。もしもあの殿方達に良心があって、わたくしの手紙がすべてあなたに届いていたとしたら、あなたに良心がないのでしょう。結局どちらをとっても、人間には良心がないのですね。それとももしかすると、あなたはあたたかな心など持たぬ妖怪なのでしょうか? 血の凍るような冷酷なあやかしなのでしょうか? ──いえ、そんなはずはありません。あなたはあの日、わたくしに傘を差し出してくださったのですから。雨に濡れて頬に貼り付いた髪を払うこともなく、その微笑みを絶やさないままに手を差し伸べてくださったのですから。たった一夜のことですが、わたくしは永遠に忘れることはありません。何がそうさせるのはわからないのですが、とにかくあの夜のことが頭から離れないのです。まるで魔術でも掛けられたかようにあなたに惹かれてしまいました。わたくしがふと思うのは、かつて男を誘っては喰ったという母は、あなたのような人だったのではないかということです。一目見てその優しさに触れるだけで魅了されてしまう、悪魔のようなひと。そうすると女狐などという母の蔑称はまったく相応しくないように思えるのです。母やあなたが誘うのではなく、男やわたくしが誘われるのですから。愚かなのは、誘われる方なのです。甘い毒に騙される方なのです。それなのになにも知らぬものが女狐などという名をつけるのは腹立たしいことです。──こんなこと、あなたにお伝えすることではなかったかもしれません。でも、もしかしたら、と思ってしまうのです。もしかしたら、あなたは──
†
「紫様、このお手紙は、どういうことなのでしょう」
「そのままよ。字面通りのまま」
「私にはわかりません──」
式神は困惑した表情で手紙を手渡した。
「そりゃあそうよ、手紙なんて当人たちの間にしかわからないに決まってるじゃない」
「紫様は、この妄想だらけの文章がおわかりになるのですか?」
「果たして妄想なのかしらね」
「どういうことですか」
「きっとあなたには知る必要のないことよ」
†
第四の手紙
お返事を待つということにもすっかり慣れてしまいました。今やわたくしはひとつ手紙を書き終えて殿方に託すと、もう次の瞬間には新たに手紙を書き始めているのです。わたくしの目的はもはやお返事をいただくことよりも、あなたにこのお手紙を読んでいただきたいという気持ちばかりなのかもしれません──もちろん、お返事はずっとずっと待っております──。なぜこう熱心に手紙を送るのかとあなたはお思いになるかもしれません。他人の身の上話だのを読むのはきっとこの上なくつまらぬことでしょう。しかしわたくしはそのことを十分承知で何度もお手紙をお送りしています。いつか申し上げた通りわたくしはお手紙を差し上げることを随分躊躇いました。あなたに嫌われてしまうのではないかと恐れました。それでもこうして送り続けているのは、あなたに何かを感じずにはいられないからなのです。それは月並みな言葉で言えば恋心なのでしょうが、本当はもっとどろりとして、一筋縄では行かないもののようにも思えます。きっと触れたら絡め取られて閉じ込められてしまいそうな、深く果てない闇の淵のようななにか。覗いてはいけない深淵があるようにも思えるのです。でもそういうものこそ甘い香りを発して人を引き寄せるものです。わたくしはそういうおそろしいものを恋心と見做して──口触りの良いもので包んで──すっかり飲み込んでしまおうと考えているのでしょう。世の中そんなに甘いモノではないと存じてはおりますが、例え嚥下することができなくても、わたくしは口にしたいと思うのです。要するになにを申し上げたいかといいますと、あなたが何者なのかということなのです。そしてわたくしはどうしても、何の根拠もないのですが、あなたがわたくしの母なのではないかと思ってしまうのです。その金の髪も、紫の瞳も、陶器のように白い肌も、偶然の共通とは思えないのです。わたくしのそれはあなたのそれを受け継いだものなのではないかという疑念が拭えないのです。気味の悪い妄想だとお思いになるかもしれません。しかし、もはやわたくしは妄想によって救われることしか出来ないのです。あなたがお返事をくださらないなら、わたくし自身にあなたを見出すしか無いのです。黄土いろの軋む髪を撫で、闇のように淀んだ紫の瞳を閉じ、色のない肌をした身体をかき抱いて、あなたを求める。これほど虚しいことがありましょうか──。嗚呼! お母様! わたくしをお救いください──この罪に塗れたわたくしを、どうぞ愛してください──
†
ざあざあと雨が降っていた。
私は傘をさしてゆっくりと森の中を歩いていた。冬の夜の雨は刃のように冷たく、触れたものを切り刻むかのようだった。その冷たさを感じることのない木々は、ただその風に葉と葉を擦り合わせてざわめいていた。暗い闇の中で、触覚と聴覚が感覚のすべてを支配していた。
しばらく歩いて私はふと足を止めた。大樹の影に一人の子どもが──氷雨に切り刻まれ、葉の喧騒に脅かされた子どもが──座っていた。その髪はくすんだ金、虚空を見つめる瞳は紫、しとりと湿った肌は白。錆びた容姿の中に、しかし褪せぬ美しさが忍んでいた。
私は子どもに傘を差し出した。空から降る冷たい刃が私の身体を切り裂いたが、そんなことは気にかけることではなかった。その焦点を失った瞳に微笑みかけると、一瞬褪せた紫に煌きが走った。すくりと立ち上がって傘の元へと歩み寄った彼女の肩を抱くと、止まった時が動き出したようにふるふると震え始めた。
そのままずっと、私はかつての私を抱きしめていた。
†
最後の手紙
結局、最後まであなたは返事をくださいませんでした。わたくしの望みがいくら身勝手であるにしても、ひとことの返事も寄越してくださらぬというのはたいへん悲しく思います。一体何が足りなかったのでしょう? 頭の悪さゆえの言葉の不足でしょうか? それとも数でしょうか? わたくしには一向に見当がつきません──嗚呼、もしかすると、あなたも半妖を嫌っているのですね。穢れた血を嫌うのですね。あの夜わたくしに見せてくださった優しさも結局のところ薄っぺらな偽りごとでしかなく、わたくしはそれにも気付かず一縷の望みと思って縋り続けた大馬鹿者だったのですね──。あなたの気持ちは大いにわかりました。もう二度とお手紙を差し上げることもないでしょう。何度も何度も見苦しくお手紙をお送りしてしまったことをお詫び申し上げます。ただその代わり、わたくしはあなたを永遠に恨み続けます。想いが呪いへと変わるまでずっとずっと、恨み続けます。わたくしがあなたと一緒になって幸せになれないのならば、わたくしが不幸になってあなたも道連れにします。どこか地獄の隅で、血の雨に濡れて肩を震わせながらしゃがみこんでいるあなたに傘を差し出しに行きましょう──あなたと同じ、ひとを惑わす魔性の微笑みを湛えて。
それではさようなら、愛しくも残酷なお方──
†
「藍、ひとは誰かを恨んで恨んで恨みきれないほど恨んだとき、妖怪になるのよ」
最初の手紙
嗚呼、はっきり申し上げましょう、わたくしはあなたに恋をしているのです。無い頭を捻っては書き捻っては書きを繰り返してうまくお伝えしようとはしましたものの、やはり無いものは無い訳でして、このような直截なことばとなってしまいました。こうして手紙を差し上げますのも、幾度も逡巡した末のことでありまして、というのもこのような手紙を受け取ってあなたは気味悪がるのではないかと思うとなかなかためらわれることだったのです。しかしあなたへの思いをいつまでも胸の内に燻らせておいて、いつか張り裂けてしまう恐ろしさに怯えるよりも、あなたからきちんと拒絶されてしまった方がよほど楽なのではないかと思い至りました。それほどにわたくしはあなたに焦がれているのです。あの一瞬、そう、わたくしに微笑みかけてくれたあの一瞬がわたくしを狂わせたのです。どうぞ責任を取ってくださいな。責任を取ってわたくしを愛するか、あるいはぶっきらぼうに突き放してくださいな。勝手を申し上げているのは重々承知しております。承知のうえで、しかしわたくしはあなたにこの恋慕を押し付けてしまいたい。これは衝動なのです。いくら理性で考えたところで答えなど出すことはできませぬ。倫理など一切を打ち捨てて私は申し上げているのです。女が男を愛さねばならぬなどという法がどこにありますか。女が女を愛してはならぬなどという法がどこにありますか。あなたさえ許せばわたくしは救われるのです。いえ、許さなくてもいい。ただそのふくよかな唇で、いいえとささめいてくださればそれでもよいのです。わたくしがなにより苦しいのは、つらいのは、わずかであれ可能性が残されているあなたのことを毎夜のように思い出してしまうことなのです。あなたにこの苦しみがわかりますか。いいえわからないでしょうね。わからないから、こうしてただ微笑むばかりで答えを出さず、わたくしを痛めつけるのでしょう。嗚呼、なによりあなたが悪いのです。あなたが優しくしてくれたから──あの雨の日、家に帰ることができないでじっと森で雨宿りをしていたわたくしに傘を差し出してくださったあなた。わたくしははっきりと憶えております。降りしきる雨を厭うこともなく、ただ微笑ってわたくしを傘のもとへ招いてくださいました。震えるわたくしの肩を優しく抱いてくださいました。あなたにとってはどうということのない善意だったのかもしれません。でもそれがわたくしに虚しい期待を抱かせたのです。期待するに決まっているでしょう。取るに足らぬわたくしのような女がああして優しさに触れたなら恋もするでしょう。わたくしはあなたを恨んでおります。本当のところ、わたくしはあの日死んでしまうつもりでした。つまらぬ浮世を捨てて仏のもとへと──わたくしのような女が浄土へ辿り着けるのかは判りませんが──旅立つはずでした。それなのにあなたが──いえ、いくら恨み節を述べたところで意味は無いのでしょう。でもこの恨みは恋心の裏返し。いくら言葉を尽くして愛を語ったところでわたくしの気持ちは伝わらないのですから、こうして使い古された撞着で述べるほか無いのです。恨めしい、憎らしい、殺してしまいたいほどに、わたくしはあなたを想っています。理由を問われてもわたくし自身よく判りません。例えば鴉が啼くのに理由など無いでしょう。啼きたいから啼く、慕いたいから慕うのです。欲求というものは大抵果てのないものですが、わたくしのこれにはきちんと果てがあるのです。ですから、どうかお返事をくださいまし。その白くなめらかな指でわたくしを掬い取ってくださるか、あるいは路地裏の痩せた猫のごとくお捨てになってくださいまし。つまるところあなたにとって単純な二者択一なのです──わたくしにとっては生と死を分かつものなのですが──。あなたが決断なさるまでわたくしは生死を彷徨い続けなければなりません。もしこのまま微笑って有耶無耶にし続けるおつもりでしたら、あなたはとても残酷なお方なのでしょう。嗚呼可哀想なわたくし。刃で以って首の皮を薄く薄く削られるような痛みと恐ろしさをいつまで耐えなければならないのですか。このままではいずれ狂ってしまいます。狂気に任せるままあなたを殺してわたくしも死にます。でもわたくしはそんな結末を望んではおりません。ですから、どうかわたくしが正気でいる内に、あなたのお言葉を頂戴したく存じます。
†
「紫様、お手紙が届きました」
八雲紫がふわあとあくびをしたとき、丁度その式神が手紙を持って縁側へとやってきた。夏が近づきつつあり少し汗ばむような陽気は人々の頭をぼうとさせていたが、紫も例外ではなかった。
「数日前にも届いたかと思うのですが、文通でもなさっているのですか」
「文通ではないと思うわ」
「思う?」
「わたしは返事をしていないもの」
「よろしいのですか」
さあ、と紫は首を傾げる。式神は少し戸惑ったような表情をして、手にした手紙を紫に渡した。
「ねえ藍」
去り際に紫は問う。
「あなたはあなたを愛せる?」
†
第二の手紙
わたくしは望まれぬ子なのです。人と妖の間に生まれた汚れた子なのです。母は人間の男を誘っては喰っていく女妖で、女狐と呼ばれて蔑まれておりました。父の方は判りませぬ。村の男の誰かなのでしょう。こんなわたくしが村で受け容れてもらえるわけもなく、外れにある小さな倉庫に押し込まれ、一日一度の食事で生かされておりました──というのも、尊い自由意志でわたくしは生きているのではなく、呪われた子をわざわざ自らの手を汚してまで処分しようと考える者がいなかっただけに、仕方なくわたくしは生きているのです。もちろん何度も死ぬことを考えましたが、しかし妖の血は自らを殺めることを許しませんでした。吐き気のするような生存欲求。何度この穢れた血を恨んだことか。それでも不思議と両親を恨んだことはあまりありませぬ。ただひたすらに生まれてきてしまった自分を恨むだけでした。何も自分の不幸のためだけに恨むわけではないのです。わたくしは母の影響か他の人に比べて幾分美しく生まれてしまったようで、幾度か殿方がわたくしのもとへ忍びやってくることがあったのですが、嗚呼わたくしは襲われるのだわと思い至るころにはどうやら既に彼らを喰ってしまっているのです。その後しばらく自分で自分が大変恐ろしく思われてがたがたと震えているのですが、ややもするとお腹が満たされた心地よさで眠りについてしまうのが嫌になります。食の本能はこうも軽々と理性を超越するのだと思うと、純粋な人間として生まれることができなかったことを大変に悔しく感じるのです。わたくしは妖のように何のためらいもなく生きるのでもなく、人間のように他者との調和の中に生きるのでもなく、ただ理性と本能という檻の中に囚われて孤独を生きるしかありません。果たしてこれは生きていると言えるのでしょうか。死も同然、あるいは死をも超える苦しみなのではないでしょうか。罪深き者から生まれ出たわたくしに対するこの罰は、きっと絶えることはないのだと、そう思っていました。しかしあなたは、あなただけはわたくしに笑いかけてくれた。あの瞬間わたくしは救われた気がしたのです。永遠と思われた罪の一角が小さく崩れる音を聞いたのです。その幸せがあなたに判るでしょうか。深淵の孤独に光が差し込む希望が判るでしょうか。あなたは、数百年の孤独を生きねばならぬわたくしが縋ることのできる唯一の光だったのです。どうかそのことをお知り置きください。あなたが考えている以上にわたくしはあなたの姿に依存しているのです。わたくしのくすんだ黄土いろとはまるで異なる、その美しい金の髪を毎晩眠る前に思い出します。その絹のような手触りを毎晩夢に見ます。しかし夢は夢なのであって、絹など生まれてこの方触れたことのないわたくしはあなたの髪に触れたところで何も感じることはなく、目が覚めて涙するのです。どうかわたくしに絹の感触をお教えください。そしてその花のかんばせをどうかもう一度お見せください──。良いお返事をお待ちしております。
†
「紫様、またお手紙が来ております」
「ご苦労様」
「お返事、やっぱりなさらないのですか」
ええ、と紫は気のない返事をした。まるで最初から何も届かなかったかのように手紙を無造作に放って、外をぼんやりと眺めていた。
「紫様、お返事はするべきです。こうして熱心に三通もお手紙を頂いているのですから、相手の方に失礼ですよ──」
「じゃああなたが書いたらいいわ」
「そんな、頂いたのは私ではないのですから──」
式神の言葉が終わらないうちに、紫はすっと手紙を差し出して言った。
「あなたがこれを読んで、あなたが貰ったということにして、お返事を書いてくださいな。私はもう内容を知っているから、読む必要もないわ」
†
第三の手紙
なぜお返事をくださらないのでしょう。何度も熱心にお送りしているのに、あなたは何が不満なのでしょうか──。わたくしはこうしてお手紙を差し上げるのにも大変苦労しているのです。やってくる殿方を殺さないよう自分を必死に抑えて、だらだらと続く行為の屈辱に耐えて、届くかもわからない手紙を渡す──。嗚呼、もしかすると今までお送りした手紙は届いていないのかもしれませんね。あの殿方達は皆、そんな愚劣な人間だったのかもしれませんね──。それでもわたくしはあなたからお返事を頂けるまで延々とお手紙を送り続けます。殿方達の捨てた手紙が山となるまで送り続けます。そうしたらきっと、気まぐれに吹いた風があなたの元まで手紙を運んでくれるでしょう。自然の気まぐれのほうが人間の良心なんかよりもずっと信用できるのかもしれません──。あなたには、良心はあるのでしょうか。もしもあの殿方達に良心があって、わたくしの手紙がすべてあなたに届いていたとしたら、あなたに良心がないのでしょう。結局どちらをとっても、人間には良心がないのですね。それとももしかすると、あなたはあたたかな心など持たぬ妖怪なのでしょうか? 血の凍るような冷酷なあやかしなのでしょうか? ──いえ、そんなはずはありません。あなたはあの日、わたくしに傘を差し出してくださったのですから。雨に濡れて頬に貼り付いた髪を払うこともなく、その微笑みを絶やさないままに手を差し伸べてくださったのですから。たった一夜のことですが、わたくしは永遠に忘れることはありません。何がそうさせるのはわからないのですが、とにかくあの夜のことが頭から離れないのです。まるで魔術でも掛けられたかようにあなたに惹かれてしまいました。わたくしがふと思うのは、かつて男を誘っては喰ったという母は、あなたのような人だったのではないかということです。一目見てその優しさに触れるだけで魅了されてしまう、悪魔のようなひと。そうすると女狐などという母の蔑称はまったく相応しくないように思えるのです。母やあなたが誘うのではなく、男やわたくしが誘われるのですから。愚かなのは、誘われる方なのです。甘い毒に騙される方なのです。それなのになにも知らぬものが女狐などという名をつけるのは腹立たしいことです。──こんなこと、あなたにお伝えすることではなかったかもしれません。でも、もしかしたら、と思ってしまうのです。もしかしたら、あなたは──
†
「紫様、このお手紙は、どういうことなのでしょう」
「そのままよ。字面通りのまま」
「私にはわかりません──」
式神は困惑した表情で手紙を手渡した。
「そりゃあそうよ、手紙なんて当人たちの間にしかわからないに決まってるじゃない」
「紫様は、この妄想だらけの文章がおわかりになるのですか?」
「果たして妄想なのかしらね」
「どういうことですか」
「きっとあなたには知る必要のないことよ」
†
第四の手紙
お返事を待つということにもすっかり慣れてしまいました。今やわたくしはひとつ手紙を書き終えて殿方に託すと、もう次の瞬間には新たに手紙を書き始めているのです。わたくしの目的はもはやお返事をいただくことよりも、あなたにこのお手紙を読んでいただきたいという気持ちばかりなのかもしれません──もちろん、お返事はずっとずっと待っております──。なぜこう熱心に手紙を送るのかとあなたはお思いになるかもしれません。他人の身の上話だのを読むのはきっとこの上なくつまらぬことでしょう。しかしわたくしはそのことを十分承知で何度もお手紙をお送りしています。いつか申し上げた通りわたくしはお手紙を差し上げることを随分躊躇いました。あなたに嫌われてしまうのではないかと恐れました。それでもこうして送り続けているのは、あなたに何かを感じずにはいられないからなのです。それは月並みな言葉で言えば恋心なのでしょうが、本当はもっとどろりとして、一筋縄では行かないもののようにも思えます。きっと触れたら絡め取られて閉じ込められてしまいそうな、深く果てない闇の淵のようななにか。覗いてはいけない深淵があるようにも思えるのです。でもそういうものこそ甘い香りを発して人を引き寄せるものです。わたくしはそういうおそろしいものを恋心と見做して──口触りの良いもので包んで──すっかり飲み込んでしまおうと考えているのでしょう。世の中そんなに甘いモノではないと存じてはおりますが、例え嚥下することができなくても、わたくしは口にしたいと思うのです。要するになにを申し上げたいかといいますと、あなたが何者なのかということなのです。そしてわたくしはどうしても、何の根拠もないのですが、あなたがわたくしの母なのではないかと思ってしまうのです。その金の髪も、紫の瞳も、陶器のように白い肌も、偶然の共通とは思えないのです。わたくしのそれはあなたのそれを受け継いだものなのではないかという疑念が拭えないのです。気味の悪い妄想だとお思いになるかもしれません。しかし、もはやわたくしは妄想によって救われることしか出来ないのです。あなたがお返事をくださらないなら、わたくし自身にあなたを見出すしか無いのです。黄土いろの軋む髪を撫で、闇のように淀んだ紫の瞳を閉じ、色のない肌をした身体をかき抱いて、あなたを求める。これほど虚しいことがありましょうか──。嗚呼! お母様! わたくしをお救いください──この罪に塗れたわたくしを、どうぞ愛してください──
†
ざあざあと雨が降っていた。
私は傘をさしてゆっくりと森の中を歩いていた。冬の夜の雨は刃のように冷たく、触れたものを切り刻むかのようだった。その冷たさを感じることのない木々は、ただその風に葉と葉を擦り合わせてざわめいていた。暗い闇の中で、触覚と聴覚が感覚のすべてを支配していた。
しばらく歩いて私はふと足を止めた。大樹の影に一人の子どもが──氷雨に切り刻まれ、葉の喧騒に脅かされた子どもが──座っていた。その髪はくすんだ金、虚空を見つめる瞳は紫、しとりと湿った肌は白。錆びた容姿の中に、しかし褪せぬ美しさが忍んでいた。
私は子どもに傘を差し出した。空から降る冷たい刃が私の身体を切り裂いたが、そんなことは気にかけることではなかった。その焦点を失った瞳に微笑みかけると、一瞬褪せた紫に煌きが走った。すくりと立ち上がって傘の元へと歩み寄った彼女の肩を抱くと、止まった時が動き出したようにふるふると震え始めた。
そのままずっと、私はかつての私を抱きしめていた。
†
最後の手紙
結局、最後まであなたは返事をくださいませんでした。わたくしの望みがいくら身勝手であるにしても、ひとことの返事も寄越してくださらぬというのはたいへん悲しく思います。一体何が足りなかったのでしょう? 頭の悪さゆえの言葉の不足でしょうか? それとも数でしょうか? わたくしには一向に見当がつきません──嗚呼、もしかすると、あなたも半妖を嫌っているのですね。穢れた血を嫌うのですね。あの夜わたくしに見せてくださった優しさも結局のところ薄っぺらな偽りごとでしかなく、わたくしはそれにも気付かず一縷の望みと思って縋り続けた大馬鹿者だったのですね──。あなたの気持ちは大いにわかりました。もう二度とお手紙を差し上げることもないでしょう。何度も何度も見苦しくお手紙をお送りしてしまったことをお詫び申し上げます。ただその代わり、わたくしはあなたを永遠に恨み続けます。想いが呪いへと変わるまでずっとずっと、恨み続けます。わたくしがあなたと一緒になって幸せになれないのならば、わたくしが不幸になってあなたも道連れにします。どこか地獄の隅で、血の雨に濡れて肩を震わせながらしゃがみこんでいるあなたに傘を差し出しに行きましょう──あなたと同じ、ひとを惑わす魔性の微笑みを湛えて。
それではさようなら、愛しくも残酷なお方──
†
「藍、ひとは誰かを恨んで恨んで恨みきれないほど恨んだとき、妖怪になるのよ」
よくまとまってる、良いショートショート。
手紙の主は誰? という謎解き要素も面白いし、何より妄執的で病気的で痛切な思いに満ち満ちた手紙にぐいぐい引っ張られました。