面倒事は昔から好きではなかった。
そして今は、もっと嫌いである。
そもそも、面倒事に好き好んで顔を突っ込みたがる者が稀であるのだが。
興味と好奇心だけで大部分が構成されている生命は、言わずもがな破滅へと向かいやすいものである。
皆、知っているのだ。余計な事を行えば、事象は更に複雑に絡み合って、何とか理解できていた物事を分かりにくくするものであると。
そして、私は物事を分かりにくくする能力が突出してしまっているからこそ、面倒事が余計に嫌いなのだ。
舌禍、口に出した事象が意思に関わらず逆転してしまうという、どうしようもなく面倒な能力。
能力が働く瞬間は分かるが、始動の制御も事態の制御も不能で、加えて結果に蓋然性が無い。
謂わば、私自身も含めて、全てが面倒と感じるのである。
だというのに、月の者達は私を便利道具として使役する傾向がある。
確かに近年になってからは、自分の能力に振り回されるような初歩的なポカはしていないし、与えられた任務は適正にこなしている。傍から見れば、遺憾ながら優秀と評価されるであろう。
けれど、その評価は「私が新しい面倒事を呼び込まない」為に尽力した故であり、優秀の一言で終えられて、終わり無い職務に背中を追い回されるのは、私が望むところではない。
時には手抜きも必要なのだろうか? 失敗した事象を試しに思い浮かべてみるが、その顛末は総じて碌なものではなかった。
最近忙しくなったのは、月の民の天敵であり、粘着質な快楽主義者、純狐と名乗る神霊がいつもの周期で現れたからである。
彼女の姿を見て血相を変えるのは、中間管理職と実行部隊くらいである。
彼女が悪いわけではないのだが(悪いことを私の上司にしてはいるが、私に直接的に害があるわけでもない)、私も彼女の顔を見ると溜息の一つもつきたくなる。また面倒事が増える時期に入ったか、と。
月の民の天敵を自称する彼女であるが、都を襲う動機は事あるたびに純化していき、もはや今では習慣であり存在証明、自然現象みたいなことになっている。
本気で両陣営が血を見るようなことは無くなり、代わりに生半可な反撃の仕方では満足しなくなった。
月の民をいびる為だけに練った策を打ち破る知恵を見せれば、純狐という者は笑顔で帰っていくのだ。
別に知恵比べをお互いにしてもらうのは結構であるが、私を実行者としてその中に巻き込むのは迷惑千番というものである。そして、その度に振り回される中間管理職と実行部隊は、退職者が絶えない役職である。
今回の事件でも、何名かは「やってられない」と捨て台詞を残して去っているが、上の者達にとっては辞める者=純狐の今回の作戦規模、程度にしか感じていないのだろう。
時を持て余す者の退屈は理解できるが、その発散方法は私には理解できない。それなのに、隙あらば月を喰らわんとする純狐という存在がどうにも楽しそうに見え、嫉妬を覚えることもあった。
彼女の楽しみ方は至ってシンプル。そのスタイルを見習いたいところであるが、彼女のような純化された恨み、行動を起こす為の目的そのものが、私には存在しなかった。
そんな彼女の今回のコンセプトは「月を生命溢れる星へと変えよう」である。
月の都に近い静かの海は、今も生命力に溢れた妖精達で賑わっているらしい。
最初は武力で制圧しようと月兎の兵達が行軍したのだが、相手が生死を受け入れる穢れ持ちであった故に、前線の者達は一目散に逃げてきただとか。
月に住む者達にとって、定命の者は厳禁である。近づくことさえも許されない。
生きるということはそれだけで罪であり穢れが生じるものであるが、月の都は浄化を遥か昔から行っているため、街に穢れ自体が存在しない。故にそこに生まれ住まう者は例外なく不老に至る。
外部からの訪問者をいれず、下界した者を受け入れないのも、その都の自浄効果をより高くする為だ。
そんなゴミ一つない街に、外部から大量のゴミを持った移民達が無秩序を翳しながら迫ってきている。不老の者達が震え上がるのも納得がいく。老いないという絶対的利点が致命的欠点へと逆転したわけだ。
私からすれば、ケアを怠らない故に手に入る完璧など、何の価値も無いものであると思っている。そんなものに頼るのならば、明確な目的を持って不老不死の薬を飲むほうが、よほど賢いではないか。
不老を忌み嫌っているわけではない。自分がもう捨ててしまったものには興味が沸かないのだ。
今回の純狐の策は、私にとっては全く怖くなかった。私は既に純なる月の民とは異なる存在であるから。
そう、私の身体は既に“穢れというものに対応”している。故に不老ではなく、生命の躍動に恐れなど持たない。
私自身が月に迫る敵の相手をすることはできるが、解決に向かえないのにはいくつかの理由がある。
理由その1:相手である純狐にとって、その程度の策は想像の範疇であること。
策を無理やり破るのではなく、相手の欲求を満たすことが、争いを止めるための必須条件である。穢れ対策済みの私がのこのこ赴いたところで、当たり前すぎて「つまらない」と一蹴される可能性大。
理由その2:純狐という敵は穢れを持つ対象に、多大な攻撃補正が入る……らしい。
となると、穢れていない者以外では彼女の相手ができない、とも考えられる。
これは月に対する謎掛けだ。穢れが無く、穢れないまま私の元に辿り着けるモノはなぁに?
一見不可能。けれど、復讐よりも知恵比べを優先する彼女のことだ。穴はあり、屁理屈の効いた解答がどこかにあるのだろう。
理由その3:穢れを進行させると、月の世界に留まれなくなる。
ただでさえ、消えない穢れを持った故に、月の民に近づいてはならないこの身である。もう手遅れなのかもしれないが、これをきっかけに背中から「手遅れ、月に近付くな」と名言されることは十分にありえる。
いや、手遅れになるのも悪くはないかもしれない。私が月という場所に依存する理由は、考えてみれば何一つ見当たらないのだから。
そう、理由というものを見つけられなくなって、ただ任をこなし続け、永い年月が経っている。
私は誰の為に、何の為にこの場所にいるのか。他者は答えてくれても、私自身では解答は見つからなかった。
そんな相手の一手を見た後での月の一手であるが、それは“逃げ”であった。
完敗。完膚無きまでの敗北を自ら認める一手である。
そんな敗戦処理の先鋒が自分なのだから、やる気が起こらないのも当然、と正当化してみる……みたところで、仕事が消えるわけでもないと絶望。
先程からぐるぐると現状を整理しつつ、思考を引き摺り回しているが、未だ脳は身体を引き摺り回すのを拒絶している。
答えは一つしか無いのに、ありもしない理想解を探そうとする脳には恐れ入る。それこそ私が嫌う無意味な面倒そのものではないか。
「仕方ない」
椅子に寄りかかって思案した時間は、私の過ごしてきた時間と比較すれば、微々たるもの。自由な浪費こそ心の潤い……なのだけれど、思案が楽しいと思ったことは今までにあっただろうか。
これに代わる何かがあればいいのだけれど、身近に思い当たるものは仕事くらいだ。
テーブルに置いてあるカップを手に取り、ミルク入りの無糖の珈琲を喉へと流し込む。微温いどころか完全に冷め切っていた。
思考を張り巡らせたところで、やるべきことが消えるわけでもない。
別の行動に時間を追われているわけでもない。
強いて言うなれば、月の都の賢者達は私の背中を押してでも仕事に取り掛かってもらいたいと願っているだろう。
使者が私の家に何度も押し寄せて、急げ急げと念を入れに来るのも面倒である。
だったら、さっさと面倒事は済ませて、心の安らぎという形のない安心感を、少しの間であっても得るべきである。
外はいつも夜、明るい夜と暗い夜の違いはあれど、月に長年住めば然したる差は無いと感じるだろう。
季節は生きもせず死にもせず、そもそも存在すらしない。完璧で不変の世界、だから穢れも生まれず、つまらない世界。
今の私に預けられている任務の半分は獏という妖怪に会いに行くこと。そいつの居場所は分かっているから簡単である。
もう半分は、カツアゲである。
①
夜は続く、ここでは朝日すら昇らない。
夢が集まる場所なのだから、夜という時間帯が相応しいのは当たり前。
星の代わりに浮かんでいるフワフワした何かは、夢そのものなのだろうか?
柔らかそうな浮遊体をかわしつつ、飛翔のスピードを上げていく。
障害物と呼べるようなものはその浮遊体くらいしかないので、目を瞑っていても飛べるだろう。
月に比べると五月蝿いほどの極彩色が目の奥へと入り込み、自己主張を行ってくる。長時間ここにいたら、発狂する者もいるのでは。
私からすれば、頭のネジが切れている月の者達にとっては丁度良い環境に見える。月の誰かがこの世界に侵入して下調べをしたからこそ、私に任務が飛んできたのだろうか?
生物の不在、程良い狂気、月からの距離、確かに一度逃げるには良い場所である。
これだけの良い立地が早急に思いつくのならば、知恵比べの相手にもっと良い強行案をぶつけられた気がする。
どうせぶつけられるのは私とか、前線の兎兵士なんだろうが。
愚痴ったところで誰にも聞こえないし、何も変わらない。
こういう不憫なる運命こそ逆転させたいものだが、聞かせる相手がいないのだから無理である。
つくづく不便で使えない。
誰が名付けたか、舌禍とはまさしくその通りだ。
夢の世界にもどうやら家というものはあるらしいし、獏という妖怪は家を構えるらしい。
虹色と夜空と宇宙が混ざる中にぽつんと置かれているログハウス、可愛らしい丸太作りの家はこの世界にある唯一の正常なのかもしれない。
住んでいる者もまともだといいのだが。
獏に会うのは初めてであり、それがどのような生態を踏まえて生きているのか、そもそも話が通用するのか、隣人ながら不明点は多い。
簡単な話し合いをしに来たわけでもないし、良い返事が貰えないならば実力行使をせざるを得ない。
あまりしたくはないし、そもそも相手の力量も分からない。愚策ではあるが、使命達成の都合上の選択肢の一つとして、頭には留めておかなければならないだろう。
獏の他にも誰かがこの世界に住んでいる、なんてことはあるのだろうか? 家を訪れて他者でした、なんて具合では、少なくとも私は笑えない。
コンコン、と木製のドアをノックしてみると、乾いた木の音が私へと返ってきた。
返事はない、誰もいないのだろうか?
ドアに手を掛けて押してみると、鍵というものが存在しないと分かる。そもそも、ノブにも鍵を入れる場所が無い。
さてと、少し考えてみる。
まず、二度も訪ねるのは面倒であるからごめんである。帰ってまた来たら、かかる労力、走行距離は三倍である。
そもそも、相手は居留守を使っている可能性もある。
獏は夢の世界以外では凡庸な妖怪であるが、この空間にいる限りは創造神に近い存在である。そんな妖怪きっての内弁慶が、好き好んで外へと出張するとは思えない。
神を殺すことは苦労が伴うが、苦手ではないし、やればできることも知っている。
ならば、一度戻るよりも、進むのが吉。
悪い引きになったら、その時にでもまた考えてみることにしよう。
音を立てないようにゆっくりと開ける。泥棒にでもなった気分である。
外から見た家の大きさ通り、廊下などもない一部屋造り。見えるだけで三つの棚があり、そこに所狭しと円盤状のカラフルな何かが収納されている。
そして、獏と思われる妖怪も部屋の中にいた。
ソファーに寝転がって胸に片手を置き、健康的な生脚をだらりと降ろして、帽子で自分の視界を塞いでいた。
無防備で無警戒、代わりにこちらが過剰に警戒を持ってしまうくらいである。
赤白の帽子で顔は隠れてはいるが、無音に近い空間の中で柔らかい寝息だけが私の耳へと入ってくる。
藍色に染まった髪の毛は無作為にソファーへと広がり、艶かしく歪曲している。
「まさか本当に寝ているとは」
居留守は的中であったが、意図的にそうしているようには見えない。
これで餌を誘っているのならば、相当の策士である。
何故なら、私も既にその餌から目が離せない状態になっていたからだ。
たとえ同性であったとしても、見るなというのが無理な話である。
自分の呼吸の音すら五月蝿く感じる。静かにしていないと、彼女が起きてしまう気がしたから。
本来なら起きてもらって大いに結構な筈なのであるが、雑音で起こしてしまってはいけない、そんな気に囚われていた。
行動原理は既に破綻している。目はただ様子を見ていたいだけなのに、手が勝手に帽子へと伸びていく。
いや、欲望に忠実なだけだ。したい事をしているから、目も帽子のその先を見ようとしているのだ。
ゆっくりと、ゆっくりと、邪魔になる物をズラしていく。
呼吸の乱れが酷い。何かに追い回されているわけでもないのに、心拍の上がり方がうなぎ昇り状態。
何か変わるわけでもない、死に瀕しているわけでもない。
死地に身を置くのは慣れている。なのに、今の状況には全く慣れる気がしなかった。
唇に続いて目が見え始め、そして、目が合った。
「ひゃあ!!」
悲鳴を上げたのは私である。良からぬことを企てていた際に後ろから肩に手をかけられたかのように、口から心が飛び出そうになった。
頭の中にはあった罠という説、それを知っていて引っ掛かり、彼女は身体を起こして私の目を見て見定めている。
悪意や敵意が見えない分、余計に相手が何を考えているのかが理解できなかった。
一度間を置くようにして、彼女は目を逸らして馬鹿にしたような溜息を付き、沈黙は破られた。
「いや、いやいやいや……」
ブルブルと首を横に振ってみせる彼女は私よりも驚いて良いはずなのに、妙に落ち着いている。つまりはそういうことなのだろう。
そう思うと、色々と腹立たしい気分になった。相手にも、自分にも。
「叫びたいのはこっちなんですけど。人がお仕事をしている間に住居侵入、加えてあわよくば初対面の者の寝顔を拝借しようとする特殊性癖のお方と目が合ってしまう。これを不幸と呼ばず、何を不幸とするのやら」
獏は言葉の割にニコニコと笑顔で、私の先程の行為を振り返って言葉で罰してみせる。
取り敢えず、性格は月の者達と同様にひん曲がっているようである。
でも取り乱す事はない。性格が曲がっていない者と出会うほうが、私の世界では珍しい。
「寝たフリをして相手を窺っていた性悪に言われる筋合いはない」
「いや、“寝ていない”けど“起こされた”だけだから」
矛盾した言動の本意は見えないが、一つ自分が失態を犯したのを思い出す。
私は寝ていると彼女の前で発言していた。それによって事態が逆転した可能性がある。
急に睡魔が消えて、現実が戻ってきたのならば、恐らくは運命を変化させる強い力が働いたとも思える。
つまりは、完全に私の舌禍から来る失言? 自業自得?
いや……、おかしい。
私の言葉は聞き手がいなければ作用しない。
寝ているものに通常、聴覚の機能は作用しない。聞き手にはなりえないのだ。だとしたら事態の逆転は起こりにくい。
そして、自身の能力は感覚的には働いていない筈である。
つまり、この女はやはり寝たフリを、
「だって貴方、普通に玄関から入ってきたでしょ? そりゃあ起きるわよ。私がそういうふうにこの世界を構築しているんだから。そもそも獏は不眠」
「なら、ただソファーの上でだらけていただけということ?」
「違うから。夢の世界に深く潜っていただけ」
彼女曰く、獏は多くの夢をいっぺんに処理する場合、夢の世界に深く入り込んで直接食べる為に、意識を相手の世界に送り込むらしい。そのために、誰かの世界に入り込んでいる際は、まるで寝ているような無防備な状態になるのだとか。
それは寝ていると言うのではないだろうか、と指摘すると、一番疲れる仕事をしているのに寝ているのは語弊がある、と反論された。獏ではないので、私にはその気持ちはイマイチ分からない。
侵入者が入ってくることは多くはないらしいが、保身の為に夢世界で警鐘が鳴るようにしているとのこと。
「仕事中に変な奴に襲われたら、たまったもんじゃないでしょ?」
完全にお前のことだ、と彼女は顔で言っている。
それはまあいいとしてだ。だったら、私が家へと入ってきた瞬間に意識は戻っていた筈である。
なぜ直ぐに身体を起こさなかったのかを聞くと、「夢世界から戻ってきてすぐだと、意識を戻すのに少し時間が掛かる」とのこと。それでは、夢世界で警鐘を鳴らしても意味がない気がする。
別に襲う為に来たわけでもないし、獏が襲われようが私には一切関係がないので、別にいいのだが。
「貴方は月の民、よね? しかもその片翼。あの有名な稀神サグメさんかしら?」
「有名?」
「月の守護者でしょ? 貴方を恐れて魘される夢を見る者も少なくないから」
私程度を恐れているなら、そいつはまだまだ幸せなものだ。もし私でなく、依姫様などと対峙してしまったのならば、悪夢を見ることさえ叶わないだろう。
そんな私のことは置いておいていい。問題は私が彼女の家に来たことにある。
「それで、近くて遠い月の民のお偉いさんが、このしがない獏に一体なんの用でしょうか?」
さて、ここからである。
正直に物事を話してしまったら、能力発動により事態が悪くなる可能性が高い故、一つクッションを挟まないといけない。
頭をあれこれと回しながら物事を誘導した発言をしなければいけない時点で、この仕事は私には不適正であるというわけだ。
能力柄というのもあるけれど、私は言葉のみで相手から多くを引き出すのは苦手である。
なのに、譲歩もなくこんな不得手な仕事も、まず私に降ってくるのだ。
使者曰く、貴方は月兎よりは一枚も二枚も外交術に長けている、とか。
月の都の人材ならぬ、民材不足は深刻である。
優秀な者は多々いる、問題はそういう者達が揃いも揃って表舞台に出たがらないところにある。
「この夢が行き来する空間を、月の民達に無償で貸してほしい」
条件を厳しくして、私は目的を告げる。
これは舌禍が発動していると感覚で分かる。故に、運命は逆転する、可能性が高い。
どうやって、何から何に逆転するのか、そこが私の思うところであれば、交渉は上手くいく筈。
なんで、どうして、という理由の部分に派生するかなと思っていたが、意外にもそうはならなかった。
私の今までの行動により、それ以前の部分で引っ掛かってしまっていたのだ。
「でも、寝顔を見ようとしてくる変な奴だからなぁ」
口を菱形に窄めながら目を細めてこちらを見る姿、一流の挑発というものを知っているからこそできる表情である。
加えて、自分の状況的有利を確信している模様。
その認識に間違いはないが、私も今の自分の立場というものを知っているのだから、別に顔で知らしめる必要はない。
私の発言を待っているような目でこちらを見ているが、無駄口を叩くと運命的にも自己弁護的にも悪化しかしないだろう。何の感情も見せない表情でいるのが精一杯であり、私の最善手でもあった。
何も返ってこないと悟ったのか、獏はまた人前で溜息。礼儀というものを弁えていない妖怪であるようだ。
「……分かりました。条件付きではありますが、その依頼、承るとしましょう」
急な丁寧な口調、嘘のない返答。事態は“イエスノー”ではなく、“有償”という方向へと進み始めた。
自己の能力というものにもどうやら勝てたようである。
胸を撫で下ろすにはまだ早い、まだ彼女の回答の全貌は不透明であるから。
「条件は?」
「見ての通り、この世界は過剰な夢で埋まっている。だから、受け入れられるだけの場所を作るためにも大掃除が必要なわけ。それを受け入れる側の私だけが頑張るというのは酷な話でしょ?」
「手伝えと? 誰でもできるのか?」
「夢を処理するのは私にしかできないけど、それ以外に手伝えることがあるわ」
彼女の言動は十分に筋が通っている。要求内容も大それたものではない。
その中でわからないのは、必要な労力である。
「手はどれくらいに必要になる?」
「多ければ多いほどいいかな。逆に言えば、どれくらいの広さが必要なの?」
「都が一つ収まるくらいだ」
「都? 都市丸々一つ? 月の方は何やら大掛かりなことを考えているわね。まあ、でもそれくらいなら二、三名いれば一日でなんとかなりそう」
「いまいち規模と仕事量が結びつかないのだが」
「要は私の頑張り次第、すごく頑張れば一日でも都市一つ分くらいのスペースは処理できる」
「なら応援しよう。頑張れー、超頑張れー」
「一日ではとてもじゃないけど無理ね」
能力持たずとも、やはり口は禍の元である。
喋ると碌な事が無いというのは、能力も相俟って周知の事実。
冗談が通じる相手だろうと見定められたからいいものの、私が言うと本気で逆に受け取られかねないのだ。
話も普通に通じるし、初対面な者にも協力する意思を見せている。彼女は悪い者ではないようである。
「改めて、私は稀神サグメ。口に出した言葉で物事の方向を転換させる能力を持っている」
「うわぁ、なんか天変地異でも起こせそうな能力」
「そんな大それたものでは無い。何時でも事は起こるべくして起こるし、起こらないものは事態が逆転しようが起こらない。命運の輪は誰にも操作できない。けれど、その運動方向を変えることくらいは私にもできる」
「なんでも起こり得る私の夢とは真逆の能力みたいね」
彼女の言う通り、運命とは起こり得ることを必然に変える夢のない能力である。
そもそも、相手を滅する上では殆ど役に立たない能力であるし、加えて操作性が皆無なので、使い勝手が悪すぎる。
弾幕に使用するにもしづらく、扱いも良くないので、戦闘には符術やら呪術やらを多用していたり。
私にとって、この能力は自己に降りかかった呪いのようなものなのだから、仕方はないのだけれど。
「一応名前を聞いておいていいか?」
「悪用されそう」
「お私にどんなフィルターをかませて見ているんだ?」
「普通に対変態用フィルター」
「……もういい。契約に名など不必要なものだ」
早くも前言撤回。
どう転んでも、こいつは悪い者だ。もう間違えたりはしない。
本当にそう思っているのなら、まだ救いはあるのだが、単純に私を煽るのが愉快であるから次々と毒が吐きつけられるのだろう。
私が不機嫌になっているのを知って引き際を守ってくるのも、私と違い世渡り上手で嫌になる。
「ドレミーよ。私以外に誰もいないこの夢世界の支配者をしています」
「……それ、フルネーム?」
「えっ?」
「親しくもない余所者に名を教えるのがそこまで嫌なら、強要はしないけど」
非を見つけたので、ヘソを曲げたように半分の正当性で相手のその非を突く自分。
大人げないし、みっともないのだが、ずっとやられっぱなしだったのが兎に角気に食わなかった。
それにしても、自らも認める弱々しい抵抗である。
相手からすれば、ただもう一度名乗り直せばいいだけだから、ダメージがあるわけではない。
最初に犯してしまった失態は、もう取り戻せないのだ。
「……イート」
数分前の行動に対して脳内で反省していたのもあるが、彼女の声が今までになく小さかったので、その名は耳から入ってこなかった。
ちゃんとこちらを向いて話しているのなら、聞こえないという事態にはならないと思うのだが。
「……すまない。聞こえなかった」
「スイートよ! ドレミー・スイート!」
名乗っている方がキレ気味にフルネームを口にした。
獏、彼女の名前はドレミー・スイートと言うらしい。
ドレミーはまあ良しとしておいても、「スイート」というのは如何なものであろうか?
あれだけ、人の失態を小馬鹿にしたのだから、私も突っ込まれずにはいられない。
「ドレミー・スイート…………スイート……、ふっ」
「な・に・か、文句でも!?」
「文句も異論も無い、ふっ」
よし、これで一勝一敗、五分だ。
悲しい気持ちで満たされた感があるけれど、ぽっかり空いた穴よりもマシ。前を向いて生きていこう。
少なくともカツアゲはせずして、事態は成功へと動き始めているのだから。
そして、彼女の名はスイート。
「……最悪だわ。約束を撤回したい気分になってきたけど、それは義理にも反するし」
「約束は守る。だから心置きなく掃除を行ってくれ、ドレミー・スイート」
「わざとらしくフルネームで呼ぶな!」
「スイート」
「寝顔フェチになんか名乗るんじゃなかったわ……」
スイートのおかげもあって、相手の多少の揺さぶりには動じなくなった。
偉大なる彼女の名前に圧倒的感謝である。ありがとう、スイート。
真逆の能力、似た者同士、同族でもないけれど嫌悪。
月の都が危険に晒されているから、私と彼女との関係が生まれただけ。
きっと、それが深くなることはないだろう。
今までがそうであったように。
「文句は色々あるけど、月の皆様のお願いだから受け入れるわ。短い期間になると思うけどよろしく」
「不平はお互い様だ。別に仲良くしなければならないわけでもない、仕事と割り切ってもらえれば幸い」
そう、仕事。楽しくはないけれど、まだまだ続く不自由な時間を埋めてくれる面倒な暇つぶし。
その一瞬に獏という妖怪がただいただけ。たった、それだけ。
なのに、舌禍は発動し、事態は変化を伴い始めたらしい。
私達のお互いの印象は悪い。見えていない部分はあるだろうけれど、高々手伝い程度でその悪印象が埋まるとは思えない。
そんな中で言葉が招いた事態と命運の変動は、時として不可思議に見える結果を齎すこともある。
今の私には、数日後の未来の形すら全く見えていなかった。
②
珍しく夢を見ている。
でも、その夢はあまりに現実的、いや過去的とでも言うべきか。
その夢の内容を私は知っている。私が直に経験してきた過去を夢見ているのだから。
つくづく、夢というものと相性が悪い。今こうして夢世界に溺れているのも、彼女、ドレミーに会ったのが良くなかったからだろう。もしかしたら、彼女からの手痛い復讐なのかもしれないが、それを確信に持っていける何かは無かった。
思い出せないのは自分の都合、ただその記憶を紐解きたくないだけ。
けれども思い出してしまう。ここは命運に縛られない、ただの夢の世界、であるから。
私が国譲りの命を受けたのはいつのことだっただろうか?
少なくとも二千年ほどは経っていると思う。
下位でありながらも天津神に名を連ねる一族、天津国玉(あまつくにたま)様の御子である天之若日子(あめのわかひこ)様に仕える侍女というのが、私、天之佐具売(あめのさぐめ)という者の立場であった。
私自体も天津神の血は流れているが、家柄が下に下であった故に、上位の一族に仕える以外に存在する意義が無かった。
私が仕えた若日子様は直属の神の系譜には当たらないものの、思慮深き性格、勇猛な武勇、端正な顔立ちということもあって、神々からも一目置かれる存在であった。
優秀な存在、しかしながら失っても痛くもない遠い血統、若日子様は天津神の者達にとって、実に都合の良い駒であったのだと思う。そうでなければ、国津神の討伐などという名誉にもならない勅が、主に降りてくるわけもない。
天に住まう天津神が、下界で神を語る国津神達と定命の者達の地へと降り立ち、下界を秩序ある世界へと変える。宣われた勅の大義名分は最もではあるが、もっと単純に考えれば地上に対する宣戦布告である。
攻める者にとっては相応の理由があれど、攻められる者にとっては略奪者でしかなく、第三者から見れば揃って愚か者扱い。神とは言えど、その不見識な法則から足を離す事は出来ていなかった。
神々の系譜から少しばかり外れている若日子様からすれば、この勅を賜るのは間違いなく名誉ではあっただろう。けれど、下界して神の国を定命の地に作るのには相応の代償を要する。
天の世界、天津神達は不老である。生という存在から掛け離れた世界に住まうことによって穢れを取り除き、時という概念からも外れていく存在となる。
けれど、地上に降りて暮らそうものならば、穢れからは逃れられない。定命の者達の生で穢れた世界に踏み入れば、不老の身体ではなくなり、神の血統も犯されていく。勅が完了した頃には、神という扱いすらされない存在に成り代わってしまうだろう。
蔓延る穢れ故に部下を連れていくわけにもいかない。いくら天津神が強大であるとはいえど、国譲りという大掛かりな策謀を二人で行うというのならば、取れる行動さえも限られる。
若日子様の手伝いとして一緒に下界することを望んだ私、私のような末端も末端な者からすれば、神の名へと縋り付く必要など無い。けれど、若日子様のような有能な方が俗世に縛られ、天から追放に近い形でこのような任に就かれる境遇は不憫と呼ぶ他になかった。
私でさえもこの勅に不満を感じているのだから、若日子様は何も思う所が無いとは思えない。けれど、若日子様は何一つ言葉に出さず着々と地上へと降りる準備を始めていた。
若日子様は現状の境遇に疑問を抱いたりはしないのかと、私は直接尋ねたこともある。
「若日子様!」
「佐具売か、準備に滞りないか?」
「私は身軽な者、若日子様のように大きな使命を持つ者ではございません。大風吹けば飛ばされる身ではありますが、力の限り尽くしていく次第です」
「相変わらず佐具売はお堅いな。今から力を入れ過ぎると、地上に降りた頃には息切れしてしまうぞ」
若日子様は笑い飛ばすように私を宥める。気を使っている筈なのに、気が付くと気を使われている。何もかもが私よりも大きな方が、私の仕える御方であった。
「その地上の話なのですが」
「私もそこまで詳しくはないが、答えられるものならば答えよう」
「国津神の掃討について、若日子様は如何なるものと考えておりますか?」
「如何なる、とは?」
「地上に降り立つということは、神の座を捨てると同意。当然、不老は解け、定命の者と同じ運命を辿る事になるでしょう。私のような代わりある侍者はまだしも、若日子様のような聡明な方へとこのような任が下るとは、天津神の有力者が若日子様を畏れ、裏で糸を引いていたのではないかと」
どこに目や耳があるのか分からない中で、私は包み隠さず今回の勅に対する疑念を述べた。
おかしいものはおかしい、そしておかしな籤を意図的に引かされたのではないかと。
けれど、その疑念に対する回答は意外なものであった。
「私は今までに一度も地上に降りた事はない」
「それは当然かと思います。穢れのある世界に降りれば、神としての使命を全うできなくなるかもしれませんのですから」
「そして、私は今回の任で地上に降りる事を楽しみにしている」
「えっ?」
意外な言葉に驚きを隠しきれず、それは表情として出てしまっていた。
不老を捨て、天より追放される。それを楽しみと言いきった自分の主の思考を理解できずにいた。
「佐具売よ。天に住み続け永久にただ地を見つめるより、その生を縮めてでも地上に降り立ち、不死と定命の者の語り部に名を残すことのほうが、大義であるとは思わぬか?」
「死する事に名誉などありません。自身が感じられぬ名誉などに意味はありましょうか?」
「もし子ができれば、私の代わりにでも誇って貰うとしよう」
はっはっは、と笑って見せる若日子様の姿に、嘘は見受けられない。
負けず嫌いの言い訳、都合良く受け取ろうとする逃避、他者は色々な言葉を吐きかけるかもしれないけれど、若日子様は意に介さないだろう。
もう下界のこと以外は見ていないし、どのようにすれば勅を全うできるか考えており、雑念は捨てている。
未練を持っているのは当人ではなく、付き添うその従者であるのだから、笑えなかった。
若日子様の価値観は、創造者を謳う高位の天津神達とは異なっている。
それだけではなく、若日子様は今回の勅を好機として捉えているのだ。
若日子様は現状に納得しておられるのならば、私がとやかく口出しすることではない。
「満月の夜に地上へと降りる。もう一度聞くが、佐具売も本当に地上へと降りるのか?」
「小間使いという至らない身ではありますが、せめて志だけでも若日子様と一緒に……」
「そうだな。佐具売は見かけによらず頑固者だったな」
私の返事を笑い飛ばす姿は上機嫌そのものであった。
下界、定命の者達が欲望を満たす混沌の都。
そして穢れで溢れかえる忌むべき世界。
耳にした知識というものは、直感に劣る。
緑と水に溢れた生命の楽園。
山々から巡りゆく川の水は、全ての者達に平等に潤いを与える。
笑顔で農業に勤しんでいる定命の者達。
地上に広がる世界というのは完璧ではない故に、ただただ美しいものであった。
「若日子様、これは一体……」
「この任、想像以上に難しいものになるかもしれんな」
神だって嘘を付く。
完璧でないモノを完璧にする為に嘘を付く。
矛盾している、口にした者だってそれを知っている。
私達の歩みによって、天の欲望が地へと流れ始めた。
「こんにちわ、スイート」
仕事で身に付けた満面の愛想笑いを浮かべて対応したというのに、挨拶の後に即、玄関の扉を閉められた。心外である。
彼女との約束通り私は昨日の今日、日を改めて獏、ドレミーのログハウスを訪れたのだが、挨拶がお気に召さなかったらしく、彼女は一瞬で機嫌を損ねてしまった。
とはいっても、鍵が掛かっていないのは知っているので、家主に許可無く開けると、ドレミーは侵入者を気にもせずにソファーで背中を向けて寛いでいた。
相手に冗談を言うのは好きだけれど、冗談を言われるのは好きではない。私とどこか似ている部分がある。まあ、冗談を言われて喜ぶ者は少数派だと思うが。
部屋へと目を向けると、所見でも気になった棚以外にはあまり目に付くものはない。生活感はあるけれど、自分の住む場所くらいは綺麗にしているのか、夢環境と異なり目に優しい木造りの茶色い部屋である。
それなら、夢世界も普段から掃除しておけばいいのにと思いながら、私は木製のテーブルの上に置いてある珈琲に口を付けた。
湯気が出ていなかったので味には期待していなかったけれど、香りは上の上である。ホットでないのが勿体無い。
ことり、と陶器を机の上へと置く音を聞いたのか、ドレミーが振り返る。そして剣幕が一段と厳しくなった。
「あんたは何勝手に飲んでいるの?」
「そこに冷めた珈琲があったので」
「だから勝手に飲んだと。非常識極まりない」
「もう少し早く来れば良かった」
台所にもう一つ分準備されているコップを見ながら反省すると、ドレミーは顔を赤くしてわしゃわしゃと帽子を掻き毟った。なんだかんだで気を使ってくれてはいるようだ。
「不眠なのに珈琲を飲むのね」
「珈琲は長く生きる上で必要な成分よ」
「同意」
調子が狂うのか、ドレミーは私に何も言わずに立ち上がった。
早速、仕事開始といったところだろうか。
「さあ、さっさと始めるけど部下は?」
「見ての通り私一人」
「またひとりで来たの? 実は部下に信頼無いタイプ?」
「多くの者が都合により月から外へと出られない。だから、私がネゴしに来ている」
「成程。でも、そんな状態でこの場所に避難できるの? 多くの者が月から出られないんでしょ?」
「それは可能。あの御方によって都が“直接”ここにやってくる」
全てを直接移動させるのは難しいので、月の都の中枢である中央部の空間転移のみを試みる。
豊姫様の能力であっても、街全体を動かすような大規模な転移は不可であった。
まあ、中心部の転移だけでも十分凄いというか、規格外なのだけれど。
自身の肉体程度、個の空間操作を行う能力は月の民にしては珍しくない能力である。しかし、豊姫様レベルの空間操作となると、月には他にいない。
加えてあの操作の凄い所は、操作された相手に気が付かせない点にある。中心部に集まった月の民達は、何も知らずに月から夢の世界に入り込んで眠りにつき、狂夢を見ることになるだろう。
守りの一手にしては大規模であり、博打にも近い。今回の敵、純狐の一手はそれを迫る程に強烈だったのだろう。
「これまたぶっとんだ能力を持つ者が月にはいるものね。そんな連中が私ごときにヘルプを求めるのは根本的におかしいと思うけど」
彼女は賢い。
これが月にとってお遊びや暇つぶしの延長線上にしかない事に、もう気が付いているのではないだろうか?
そうなると勝手に付き合わされる身、私と同じ被害者でもある。
悪乗りが好きそうだから、私と違って楽しんでいそうだけど。
似ているようで似ていない、似ていないようで似ている。
近くて遠い存在。
「まあ、なんか色々聞くと質問攻めになっちゃいそうだから、追々聞くことにする。貴方の能力が働くと失敗しやすくなるだろうし」
やはり、彼女は賢い。月兎達もこれくらいの知見を持っていてくれれば、私に余計な仕事が降ってきたりはしないのだろう。生意気な部下はいらないけど。
さて、家の外に出て虹色の夜へと戻ってきたけれど、ここは部屋の中と違って何かフワフワとしたものが多数漂っている。
この銀色の物質が実体化した夢、というものなのだろうか?
一見柔らかそうであり、握ったりしたら潰れてしまいそう。
夢というものは悪夢でもない限りは毒にはならない筈だ。目の前をフワフワ漂っているそれはキラキラと光っているから、悪夢ではないだろう。もし悪夢を引いたら、それは単純に引きが悪かったと諦めよう。
手を伸ばしてみる。恐れはなく、その柔らかいものへと触れる。
何かを触っている感覚は無かった。代わりに触った時に視界が何かにジャックされる、それどころか視覚だけでなく他の感覚も映像に倣って働いていた。
悲鳴、包丁、血の匂い、赤く染まった障子。
呆然と壁に寄りかかる少女、その目だけが正常に働いている。
五感から得る感覚全てが異常だ。でも、彼女の両親を捕食する妖怪からすれば、いつもの光景であった。
頭痛と強烈な白い光により感覚が戻っていく。
その後は見慣れてきた虹色、手を伸ばした銀色のキラキラは相変わらず目の前を漂っている。
夢の中の少女の鼓動が移ったかのように、息が荒くなっていた。
目も極彩色の中から赤だけを抽出して、塗り潰していく。
視界に入る彼女の帽子も赤かった。
「どうだった? 良い夢見れた?」
「結果は言わなくても分かる、って顔している」
「好奇心を抑えずに先に触ったほうが悪いんじゃない?」
触るまで説明してくれたかどうかは別としても、こちらから言い返せる言葉は無かった。
彼女の顔を見るに、どうやら私が運悪く悪夢を引いてしまった、わけではないようだ。
さて、調理法が悪かったのか、そういうものしかない世界なのか、色で判別でもできるのか。
「ここに散らかっている夢魂もどき、夢の殆どが、生きている者が忘れたくても忘れられない悪夢。中には目で見た本物の映像を“悪夢”と思い込む事で、この場所に収納されてしまった真実もある」
「夢といっても皆が皆、悪夢ばかり見るわけでもないと思うけど」
「良い夢というものはすぐに忘れてしまう。私が食べなくたってね。だから残らないってわけ」
あそこに浮かんでるピンク色も向こうで輝いている金色も、闇に佇む黒い光沢も、全て悪夢であるそうだ。
見かけで詐欺を働いていると文句を言いたいが、言うべき相手がどこにもいないので、説明されても釈然としなかった。
仕方なく色について問い質してみると、
「私と貴方は違うでしょ? 夢にだってそれぞれ個性はあるって事」
やはり釈然としない答えが返ってくるのだった。
ここら辺に廃棄されている物質が見かけによらず悪夢であるのは理解したのだが、それに触れると極度の寒気と動機に襲われてしまう私に、できる仕事とは一体何であるというのか。
我慢しろと言われれば、それまでである。耐えがたき感覚故に、捗るとは到底思えないが。
「という事で、私は皆さんの頭から消えない悪夢を処理するので、貴方は悪夢をこの袋に集めて」
「素手は遠慮したい。そもそも、素手以外でも作用するのか?」
「夢は五感、特に触覚に作用する。要は直接触らなければいいって事。はい、グローブ」
安っぽい白地のグローブが渡される。隙間の無く、吸いつくような装着感は、チープな見た目に反して守備力が高そうである。
次に渡されたのは、聖夜の子供のプレゼントでも入っていそうな白い袋である。中は空であるが、密閉性も高そうに見えない為、外に漏れ出てきそうな気が。
全体的に安全な道具には見えず、不満を言いたくなる。
でも、見栄えだけで道具にあたるのは良くないので別の言いがかりを探した。
「これを先に渡してもらえれば、悪夢に侵入する事態は逆転し、触らずに済んだかもしれない」
「渡したってどうせ素手で触ったでしょ? 面白半分で」
「……柔らかそうでフワフワしているのが悪い」
文句を付けてみても、結果として悲しさと切なさしか残らなかった。
やりようのない気持ちは悪夢集めという作業に向けるしかなさそうだ。
「じゃあ、私は家で処理しているから宜しく」
「なっ!」
「だってそうでしょ? 貴方は悪夢の中に潜れない、私は潜って処理をできるからする。ほら、適所適材でしょ?」
悪夢採集という名のパシリ役というのが、私に与えられた役目である。
自分の居場所は自分で片付けろというのは当たり前ではある。ただ、綺麗になった場所に私がいないという事実だけが残る。
月の者達を恨めばいいのか、原因を作った外敵を憎めばいいのか、はたまた勝ち誇った顔で引き上げていく獏を闇討ちでもすればいいのか。
感情を抑え込むのは今に始まった事ではないし、苦手でもない。
黙々と目の前にある目標に取り組むのみ。そこに雑念を交えるから濁るのだ。
別に捕まえるものは逃げたりしないのだから、簡単で単純な仕事である。
「じゃあ、宜しくね」
「ちょっと待て」
と、簡単に割り切れるわけがない。
とにかく、ドレミーという女に翻弄されているという現実が不愉快なのだ。
一矢報いたい、どころか何本でもいい。どうせなら矢衾にしてやれればいいけれど、彼女はスイート以来、尻尾を見せていない。
「最初は処理する夢も無いのに、家に戻るのはおかしい」
「何もおかしくないわ。家の中には先に私が集めておいた悪夢が貯蓄されているから、まずそれを処理する。そもそも昨日だって私が処理していた所を見たでしょ? 断じてサボリではないから」
放った一矢は見事に私へと返ってきた。
きっちり約束も守っているし、私が来る前から下準備をしている。
彼女は思っている以上にきっちりしているし、苦労を背負い込んでいても、それなり以上に対応してくれる。
他者を弄る癖さえなければ、私の知り合いの中でも一、二位を争う真っ当な者である。
月にはまともな方はいないし、月兎は飽きやすいし我儘で論外。
交友関係が狭いくせに、周りにいるのは異常者ばかりなのは、事態として深刻である。
いずれ、時間がある時にでも解決の手段を探すとしよう。
「あっ、あと一つ」
言い忘れた事があるのか、今度は自主的にドレミーが振り向く。
「夢の世界に深く潜ると昨日のように外からの刺激を遮断する事になるから」
「質問は済んでいる。道具さえしっかりしていれば、私の作業自体に支障はないだろう」
「寝ているわけじゃないけど、できれば寝顔は見ないで欲しいんだけど……」
不意の言葉に思わず心が飛び跳ねる。
おちょくっていると分かっているのに、少し俯いて恥ずかしがってみせる彼女の演技に持っていかれそうになる。
月に使役する立場、周りにいる者は立場が上か下かのどちらか、こうやって対等に話せる者が少なかったから、耐性が無いのだと思う。
それもある、あるけれど……。寝顔と言われると瞳に焼き付いた昨日の画像を思い出してしまい、縛られるのだ。無防備でいて美しいと思ってしまった、あの隠されたままの顔を。続きからは始められないが、リセットは可能。
そんな妄想を余所に、私の反応に満足した彼女がニヤリと笑うのも早かった。
「貴方は肌が白いから、恥ずかしがると全く隠せないわね。羨ましいけど、ちょっと不便そう」
「うっ……」
「掌で顔を隠しても、見えるものは見えるから」
彼女の見えない寝顔を思い起こしている一番見られたくない姿だけは、何とか隠せている。
事ある度に思い出しているようでは、彼女の変態という言葉に反論さえできなくなる。
忘れよう、少なくとも頭から離そう。しかし、本人がここにいるのだからどうにもできない。
作業に入る前にとんだ置き土産である。
でも、この袋の中を満杯にして彼女の家に戻ったら、そこにあるのは……。
私の手は早速、無作為に浮かんでいるそれを手にとって、素早く袋の中に入れていた。
やましいモチベーションを糧にしている自分に溜息を付いてから、軽い袋を担ぎあげた。
必死になるだけの理由を見つけてしまった。
まるで人参をぶら下げられて走る馬だ。不意に仕掛けられた餌というものに完全に釣られている。
初めてやる事なのでどれくらいが速いのか、どの程度掛かると遅いのか、私の中には判断基準が無かったけれど、次にこの速度で悪夢なるものを集められる気はしなかった。
手袋も見かけを裏切った優秀な道具であり、直接触った時のような副作用が出ることは一度も無かった。袋も同様で、一度入れてしまえば、口さえ紐で縛っておけば中身が出てしまう事は無い。
ぎゅうぎゅう詰めにされた夢が満ちていても、重さは最初に持った時と変わらない。夢という物に柔らかさ、それ自体の触覚が感じ取れなかった故、質量というものが本当に無いのかもしれない。当然、同じ色を四つ集めたりしても、消えたりはしない。
存在するように見えていて存在しないモノ、精神にのみ作用する劇薬、そんなものを処理し続けている妖怪が意外にまともでいられるのも不思議なものである。
多分、彼女に直接聞いてみたら、「私はまともではない」と返ってくるだろう。
ドレミー・スイートという妖怪はそういうものなのだ。
一仕事を終えた私は、中に入っている夢を置きに行く為に一度、ログハウスへと戻る。
そうしなければ、これ以上悪夢を集めることが叶わないのだ。
別に悪い事をしているわけではないし、ましてや、やましい事など無い。真っ当な理由からである。
大体、私が扉を開ければ彼女は起きる。昨日そうだったように。
ならば、窓から入れば急襲できるのではないか? 他にもあの煙突からとか。
「……馬鹿馬鹿しい」
口だけでも否定してみせて、非常識を捨てる。
きっと何をしても彼女は起きるだろう。そうでなくては、獏は夢の世界にうかうか入っていられない。
心を落ち着かせてからドアを昨日と同じくノック、やはり返答は無いままだった。
勝手に入って勝手に置いていけという意志表示だろうか?
寝ている者を起こさないようにゆっくりと扉を開ける。ギイィ、と耳に残る音を立てた後に既視感を覚える光景。
彼女は再び眠っていた。少なくとも目を瞑っている事だけは、顔を隠していなかったので間違いなかった。
私が入ってきても気配には変化が無いまま、もし驚かそうとしているのならば、二度目ながらかなりの気の入れようである。
彼女は不必要な夢を処理すると言って眠りに着いた。
出会った時の様子から見るに、寝ているのとは異なるのかもしれない。けれど、夢の処理とやらに何の知識も持たない私から見れば、彼女はただ寝ているようにしか見えない。
目線を一度外して、袋を入口近くに置く。予備の袋がきっちり準備されているあたり、準備にはそつが無い。
満杯の袋をもう一度強く縛って、代わりの袋を手に取る。これにまた沢山悪夢をつぎ込めばいい。
もう一度彼女を見る。起きる様子は無く、大きな瞳は未だに開かれない。
お仕事に御執着なのか、それとも私を相変わらず試しているのか?
名残惜しさもあったものの、今は彼女に新しい弄りネタを提供すべきでないという常識じみた思考のほうがなんとか上回った。
踵を返して再び外へ、
「……ないで」
出るつもりだったのに、その小さな声に強制的に停止させられた。
ここには彼女と私しかいない。話しかけられたのは自分、それ以外に無い。
けれど、彼女は先程と同じまま、目を瞑っていた。
唯一異なった点は、その表情から安らぎが消えていた事。
「……ちがう、わたし、は……」
うわ言のように出てくる言葉、額には汗が滲んでいる。
これは獏にとって、ドレミーにとって正常なのだろうか?
私は夢に精通していないから、この状況が何を物語っているのかが分からなかった。
なら、一度起こして本人から聞けばいい。取り越し苦労だったなら、それでいいではないか。
「大丈夫?」
声を掛けながら彼女の肩を触った、その時であった。
電気が体中を掛け回り、脳まで到達する。
次元が白くなり、世界から世界へと飛んでいく先程感じた錯覚。
さっきと同じで夢の中に引きずり込まれる、そう思った時には意識が白く塗り潰されていた。
夢の中には全てがある。
たとえ不可能、未確認であっても、夢は全てを許容する。
夢は素晴らしいものでもありながら、現実をも超える悪夢ともなる。
どちらへと振り切れる切っ掛けは、私さえも分からない。
夢は自由、貴方の脳が赴くままの光景を見せつける。
そんな自由の世界の住人が私であった。
誰にでもなれて、何でもできる。この世界にいる限りは、私は神すら凌駕する。
けれども、そんなことには何の意味も無かったんだ。
最初は楽しかったのだろう。記憶が曖昧なのは、今の私には昔過ぎて、最初の感情がもう思い出せないから。
自分の世界の中にいれば、不自由は何一つない。私にできない事など無いのだから。
けれど、夢には必ず終わりがある。覚めない夢はありえないのだ。
私は夢世界で、この“自由で苦労の無い世界が見せる夢”から覚めてしまった。
それを気付かせてくれたのは孤独。
夢の中ではいかなる時でも一方通行。
私は誰とでも知り合いになれる、夢の中では。でも、そこから戻ってしまえば、全ては水泡へと消えて、必ず最後には相手が夢から覚めて私は独りになる。
これではまるで、結論が定められている悪夢ではないか?
他者から見れば、私は夢の一部でしかない。
忘れられるどころか、私はそもそも存在しない。
どんな夢の中にでもいる、名無しの万能エキストラ。
私という存在が消えても、誰も助けてはくれないし、誰も気が付きようがないと知った時に、夢は極彩色からグレーの世界へと変わった。
孤独を忘れる為に与えられた玩具、夢。
それでも、孤独に慣れることはない。それはいつも私の隣にいるのに、何も話してはくれない。
顔も知らない誰かへの依存心と、外の世界への探求心は、歪な形で大きくなった。
私がいることの意味を知りたい。誰かに私を認めてもらいたい。
そんな欲求に対する反証、夢の世界の外に出たとしたら、獏である私には一体何が残るのだろうか?
夢の中でしか何もできない、夢の中でのみ万能でいられる。
私という存在は、夢無しでは成り立たなかった。そして、それを否定してくれる存在が現実にいなかった。
夢に縛られているのに夢に依存するしかない、それが獏という妖怪の正体であり、私という妖怪であった。
夢を適正な形で忘れさせること、それが私の存在意義で、責務。
仕事に手が向くのは当然だ。
だって、それ以外には何も私の手に残らないのだから。
「……グメ」
なにか、きこえる。
私の名前?
それはおかしい、私の名を呼ぶ者などこの世界のどこにいるというのか?
上司からはそう呼ばれることもある。月兎なんかには“サグメ様”と、畏れを含んだ声で。
こんな、優しさを含んだ声ではない。
ならば、一体誰が?
「サグ……メ?」
「……おはよう」
彼女へと触れた際に、夢の世界へと誘われてしまった。だから、意識が現実から遠ざかっていたらしい。
眠る事はないと彼女は言っていた。そんな中で、私が見たものは獏という妖怪の心の世界。無機質で透明で壊れてしまいそうな水晶の中にあった赤裸々な心。
やはり、私とドレミーは似ている。境遇は違えど、この世界に対して辟易している部分は同じであった。
「涙……」
「えっ?」
「怖い夢を見ちゃったのね。なでなでしてあげましょうか?」
手でこっちに来るなとジャスチャーして見せると、彼女はにひひと笑って見せた後に、少し真面目な声へと切り替えた。
「それにしても、また悪夢に触ってしまったわけ? それ、生身の者が安々と繰り返していいことじゃないよ。一つ間違えれば精神世界に捕らわれて、夢から心が帰ってこれない器だけの存在になってしまうから」
「気を付ける」
「ここに来たのは袋の交換? それとも私が目当てかしら?」
笑ったり真面目に諭したり毒を口にしてみたりする彼女の顔を、私は呆けたままじっと見ていた。
彼女は今、普段とは異なる社交的な存在を演じているのだろうか? 普通とは別の顔を見せているのだろうか。
生々しい感情を見せつけられた故に、どうしても感傷的になってしまう。
他者の事など、ここ何百年以上考えることは無かった。今までの私には必要の無い思考であったから。
だから鈍くなる。他者が分からない。
自分自身のことすら良く分かっていないのだから、他者を理解できないのは当たり前なのかもしれない。
「それにしても短時間でよくこれだけ集めたね。夢を集める才能あるかも」
「別に逃げたりしない。真面目にやれば誰でもできる」
「袋が貯まらない様に私も真面目に取り組まなきゃいけないみたいね」
私が自発的に動かぬ物を集めているのに対して、彼女は得体の知れない悪夢の中へと潜り込んで、処理を行っている。
その処理とやらがどれほどの負担を伴うのか、私の採集よりは比較にならないほどにきついものなのだろう。
「一つ聞いてもいいかしら?」
「どうぞ」
「貴方はどうして、月の民の我儘を受け入れて、自分の場所を開けようと頑張ろうとする?」
「あんたが頼んだんでしょうが」
成程、確かに呆れられるような質問である。お前が聞くなという顔も理解できる。
それでも口にしたのは、自分が行ったことは恐喝まで考えた理不尽な要求と言うべきか、そう、彼女に利が全く無かったからである。
月に恩を作る、返ってくるかも分からないし、仇となるかもしれない恩。見返りの要求もない。
何も残らない無駄な労働そのもの。
ならば、理由は一つしかない。
「暇なのか?」
「うん、ぶん殴る」
真顔で拳を固くするのは、怖いのでやめてもらいたい。
お互いに続いていく冗談の連鎖を切ったのは彼女であった。
「理由は簡単。誰かに頼られているから、私は全力で応える」
「それが獏、ドレミー・スイートの存在意義ってこと?」
「そんな格好良いものではないよ。私がそうありたいだけ。いや嘘かな、相手もそうあって欲しいからなのかも」
獏という妖怪を知らない者は殆どいないし、それが夢と関連を持っている事も周知の事実として知られている。
彼女は強大な妖怪だ。夢の中では。
私は奇しくも知ってしまった。彼女が現実という自分の土俵でない場所で今尚苦しんでいる。
爽やかな笑顔を浮かべて言い放った彼女を見ても暗雲が晴れないのは、彼女の精神を覗いてしまったからだろう。
同情? 同調? するべき点はあるけど、私はドレミーではない。
だから、自分が今するべきことをするしかないし、最善が何であるのかも見えないまま。
彼女の心を覗き見てしまった事は、結局口にはできなかった。
本日の仕事量は袋三つ分、彼女の処理量は四袋分にのぼった。
それが多いのか少ないのかと言うと、「あと半日で移動できるスペースが確保できる」とのこと。お互いに予想以上の働きだったのは言うまでもない。
「今日は仕事したぁ、って感じするわ」
「私は真逆で全然ない」
二度目の夢覗きを行ってからは、私は無心になれるように夢を集め続けた。
けれど頭を使う事もない単純作業でそれを求めるのは無茶であり、脳に寄生した雑念は何度も脳内で咀嚼された。
いくら考えようが、想像の域を脱しえないので、ストレートに言うと無駄。無駄を無駄と言い切れるほどに割り切れていないから、何度も頭の中をぐるぐる回るのだろう。
今こうして会話している際にも、言葉を選んでいるフリをしているだけで、余計な思念に囚われている。
振り払いたくても、振り払えないのは、私の精神がそこまで強くはないから。
「では、今日はお疲れ様でした」
何のひねりもない挨拶であるけれど、挨拶を行う相手も限られている私には珍しい言葉であった。
立ち上がって椅子を机に押し入れ、彼女へと背中を向ける。
あくまで仕事と仕事の関係。共に他者の領域を侵さない者同士、稀有ながら短い付き合いに身を委ねるのも悪くない。
「明日もよろしくね……、サグメ」
背中越しに自分の名前を呼ばれて、また顔から熱が生まれる。
赤くなっているであろう顔を見られなくて本当に良かった。
見られてもいないのに癖で左手の掌で隠していたのは秘密である。
③
私達が降り立った場所は河内国と呼ばれる場所で、河内はいくつもの河が海へと流れ込む肥沃な土地であった。
豊富な淡水を活かした農業が盛んな地域で、水源が多いので人以外の動物も多く現れる。食料に困るような場所ではなかった。
大人や子供、様々な者達が住まう場所で、彼等には絶え間無く笑顔が見受けられる。
下界、国津神が支配する地上は悪魔の国であり、そこに住まう定命の者達を解放するのが、天から遣わされた私達の役目。
けれども、救うべき対象が地上にはいなかった。
「若日子様、街の中にも悪魔といえるような者はおりませぬ。地上の民達は生を満喫し、世界に満足しているように見受けられます」
「うむ、そうだな。私も楽しいぞ。天界と違い、何よりもモノが旨い」
地上は地の上だけでなく、水の世界、海からも恵みが得られる。
若日子様が食べている鮑も、海から獲れた産物であり、貴重な食料なのである。
我々からすれば、生の息吹を口にしなくても生きていく事はできる。神は不老であるので、他の生を奪わなくて良いのだ。むしろ食糧は清い身体を維持できなくなる毒とさえ言える。
そんな事情を気にせずに、若日子様は地上の暮らしというものに興味を持ち、降りてからは定命の者達と同じような生活を送っていた。それを行う事によって、彼等、この天の神々が影を潜める世界を理解しようとしていたのだ。
神がいない代わりに、彼等は自然信仰を行っていた。山と海には神が住まう、そして神は信仰深き定命の者達に恵みの幸福を与える、とのことだ。
確かに彼等を幸福にしているのは私達のような天に住まう者達ではなく、地上からの贈物であった。
要するに、この世界は天の助けなど、一片たりとも求めてはいなかったという事。
そして、神々は自身の事情のみを優先し、地上の一部の生命を祓うことで天孫降臨し、新たな神として信仰を集めようとしている。
地と天の事情はあまりに異なり、そして相反する。
必要とされていない神の存在を、彼等が容易く受け入れるとも思えない。
地上の制圧を目論んだ先鋒である私がそう思ってしまうのだから。
私達は天津神であることをひた隠し、地上の子等と同じような振る舞いをしながら、この河内国に住みついて地上の情勢を確認し続けた。
若日子様は狩猟者として獲物を仕留め、私はその獲物を捌いて、皮と肉を街で売る。若日子様の腕と弓によって、生活に困ることは無かった。
狩猟の腕というものは、どこにどのような獲物が生息するのか、自分の腕で仕留め切れるのか、その判断が難しいものであるが、若日子様にとっては獲物がいる場所さえ判ればよかった。矢の威力は神聖なる弓によって申し分ないものへと変わるからである。
神の丹力が無ければ、引く事すら敵わない天之鹿児弓(あめのかごゆみ)は神々が任の際に若日子様に与えた神器である。この弓から放たれた矢は、多くの野生の生物を遠矢であっても一撃で仕留める、そう若日子様より聞いた。
それが嘘でないのは、獲物を捌いている私が一番良くわかる。
矢傷が少ない故に、私が売り払う肉は良質な米と交換が出来たのだ。
この任によって神から授かった神器は弓だけではない。天之羽々矢(あめのはばや)と呼ばれる矢は、その威力故に天にまで届き、その矢を射れば百発百中と言われている。そんな矢を使わなければならない場面は、この穏やかな地では想像はできないものであるが。
私が市でものを売り払うほどに、名も知らぬ敏腕の狩猟者の存在は、河内国の間で広がっていった。
その日は珍しく若日子様の帰りが遅かった。
獲物が見つからない、今までにはそんなことは一度も無かったけれど、長く時を過ごせば天運が良くない日もきっとある。
無事で帰ってきてくれさえすればいい。そう考えながら待っていると、いつものような若日子様の帰宅の声が聞こえた。
急いで玄関を開けると、若日子様は獲物を手に持たず、人を背中に担いでいた。
「獲物として人を射った、わけはないかと思いますが?」
「はっはっは! 佐具売は相変わらず真面目な顔で面白い事を言う」
長い黒髪は短く縛っている私とは対照的な美しさ、髪を見ただけでこの方が美しい女子であることが分かってしまった。
おぶっていた彼女を、若日子様はゆっくりと下ろす。その気の使い方で、彼女がどこか怪我をしていることがわかる。
「本当に申し訳ございません」
申し訳なさそうに透き通った声で謝って見せる彼女は、煌びやかな光沢を持つ黒髪に全く引けを取らない美人であった。
二人にどのような出会いがあったのだろうと、お互いの顔を見比べていると、その様子を見ていた若日子様が再び笑い出した。
「佐具売よ。彼女の足首の手当、頼めるか?」
「あ、はっ、はい! 気が回らず、ただただお二人の美しゅう顔を見比べておりました」
「佐具売の感想はいいのだが、初対面の彼女を困らせてはいかんな」
恥ずかしそうに顔を赤らめる彼女を見て、私は冷やすことが必要だと思い立った。
勿論、彼女の顔ではない。
「申し訳ございません」
「いえいえ」
怪我をしているという足首には傷は無いものの、少し腫れが見られ、触ると痛みがあるというので、汲んできた河の水で冷やしている。
水汲みの苦労の労いを「申し訳ございません」という言葉で何度も頂いた。それだけ頭を下げられると、首も冷やさなくてはいけないんじゃないかと思えてくる。
「私、若日子様の小間使いをしております佐具売と申します」
「仕えていらっしゃるのですか? 差支えがなければ、若日子様についても教えて欲しいのですが」
正直に天から来た神の使い、と口にするわけにもいかないし、私が勝手に設定するわけにもいかないので、そこについては丁重にお断りした。
とはいっても、彼女の想像は止められないわけで、彼女の中では今、色々な推測が飛び交っているのだろう。そもそも狩猟者に侍女が付いている事自体、地の世界にとっては不可思議である。
そんな憶測を遮ってしまい申し訳ないのだが、一応現状に至った経緯について聞いてみた。
彼女が山菜や木の実を集めに山に入った際、大猪に見つかり、怯えていた所を若日子様が射抜いたそうだ。
彼女が言うに「恥ずかしながら腰に力が入らなくなり、倒れてしまった際に脚を痛めた」だとか。
丸腰で自分よりも大きな動物と対面しようものなら、背中を向けて逃げるのにも勇気がいるだろう。
定命の者達は神々のような絶対的な力を持ってはいないのだから。
「粗屋ではありますが、今宵は泊まっていったほうがいいでしょう」
「他人様にそこまで頼るわけにはいきません」
「その足で帰れる程にお家は近いのでしょうか? 若日子様の事ですから、再びおぶられながら、暗い夜道の中で家まで戻ることになるとは思います」
「むぅ……分かりました。痛みが引くまで大人しくします」
物分りは良い方であり、彼女も若日子様という方を理解し始めている模様。
このような節介焼きな出来事が何度もあったことを事例と共に伝えると、彼女は口を抑えて可愛らしく笑ってみせた。
綺麗であり可愛くもあり上品さも兼ねる姿。着物を見ても、畑を耕す者の娘には見えない。
聞いてみようか、失礼になるかもしれないから聞かぬが吉か?
考えていた故に沈黙、彼女は私の顔を覗き込んでいた。
「すっ、すいません。私の顔を見て思案なさっているように見えたので、つい覗き込んでしまいました」
「そう見えますか?」
「間違いなくそう見えました」
配慮が足りていないのは私の態度であった。
迷っていてまた思考の糸に絡み取られるのも良くはないので、真っ直ぐに聞いてみることにした。
「そのお召し物、高貴な位の方と存じ上げます」
「申し遅れました。私、下照(したてる)と申します。この河内国を治めている大国主(おおくにぬし)の娘、です」
「なっ!」
「驚くのも無理はないかと思いますが、嘘ではありません」
頭をゆっくりと下げて挨拶してみせる下照様は、上品さに満ちた雰囲気を纏っていた。
地上に降りてからの調査によって、大国主には息子である味耜高彦(あじすきのたかひこ)と娘、下照姫がいるのは知ってはいたが、その名を本人から聞くことになるとは思ってもいなかった。
狼狽するのは尚更にみっともないので、私には頭を下げる以外に何もできなかった。
「今までのご無礼、失礼いたしました。どうかお許しを」
「ふふっ、許さないです。だから佐具売様、罰として敬語禁止です」
「えっ?」
「私、佐具売様と若日子様のこともっと知りたいです。初めて顔を合わせたのに優しく接してくれたお二人の事を」
無礼を働いた私に科せられた二つの要求、一つはできそうではあるが、もう一つは勘弁してもらいたい。
「とはいっても、この佐具売、無知故に今以外の言葉使いを知りません。どうか、どうかご許し下さい」
「そんなことはない気がしますけど……」
「どうか、お許しを」
「分かりました。でも、その分沢山お話を聞かせてくださいね。夜は長いのですから」
早朝、私は遠くで鳴く鳥の声に起こされた。
隣のお布団には下照様が穏やかな寝息。私達の布団では固くて眠れないのでは、と心配ではあったけれど、彼女は意外と早く眠ってしまった。
まだ太陽が昇って間もないのか、外は薄暗く、冷たく湿った空気が辺りを包みこんでいる。
目が覚めてしまったので、外へと出る。水汲みは私の日課でもあった。
壁に立て掛けてある桶を手に取ったその時、自分の身に刺さる視線を感じ取った。
どこからか、誰かがただただ私を見ている。
「鳥?」
空を飛んでいるのは大型の雉で、私を見据えていたかのように目の前に着地してみせた。
鳥である故に目を見ても感情を把握できないのだが、それ以上にその鳥自体が何も感じていないように見えた。
地上の鳥ではないだろう、感じた矢先に彼女は話し始めた。
「先導者である佐具売様とお見受け致します。私は雉之鳴女(きぎしのなきめ)、神々の声を伝える使者でございます」
使者という言葉よりも、見張りという言葉のほうが正しい。血統が宜しくない我々に懐疑の目を向けていて、彼女がその目となっているのだろう。そして、口であり耳でもある。
自由にできる手足をこうして持っているのに、何故私達を地上に向けたのだろうか? 能力の差でもあるというのか。
私の思考など気にもせず、雉は勝手に自己の都合で話す。
「どうやら、娘を通じて大国主に近付けたようですね」
「全くの偶然ですが」
「強かさは必要なものです。別に恥じることはありません」
何も知らない使者ごときに言われたくはない。丁寧な言葉遣いに合わない内容に、思わず腹が立った。
けれど、いくら建前を述べたところで、私達も彼女と同じで騙している側の者でしかない。
心持ちが違かろうが、侵略者には変わりないし、身元を隠している故に尚のこと悪い。
結局、私達は目の前にいる雉と何も変わらない。
「大国主の娘に神の血でも入れれば、地上が神に屈服するのも早まるでしょう」
「若日子様を侮辱する言葉を吐く者は、神の使役者であろうが許しませんが?」
「これは失礼致しました。使者風情が出過ぎた真似を」
言葉とは裏腹に反省の姿は私には見られない。
傲慢な立ち振る舞いをこう見せられると、感情が動きやすい。
意図的に行っているのならば、それも一種の才能と言えるだろう。
しかし、彼女の揺さぶりは私が思っている以上に大きいもので、私よりも私をよく見ていた。
「神々もこの任の重要性、難解度を認識していらっしゃる。成功の暁には多大な恩赦があるでしょう」
「私達は恩赦の為に行っているわけではありませんが」
「貴女のその欲望も、満たしてもらえるよう、私から働きかけておきましょう」
「……えっ?」
私の欲、そんなものを彼女、それどころか誰かに口にした覚えは無かった。
更に言えば、自分でも心当たりすら思い浮かばなかった。
若日子様の為についてきた身、若日子様の幸せは私の幸せ。それ以上に望むことなど無い。
そう、その思いを歪んだ目で見られていたのだ。
従者として願ってはならない、私の秘めたる思いを。
雉之鳴女がどこかへと飛び去った後、私は河で水を汲んだ。
水面に映った自分の姿、それはきっと醜いもの。
私は仕える者、身丈以上の要求を行う事は許されず、主に仕える際は尊敬の念以上の感情を持ってはいけない。
私と若日子様が対等の立場になってしまったら、それはもう主従の関係とは言えない。
今のままでいい。それが私の唯一の幸せなのだから。
自分を納得させるように頭の中で言い聞かせながら、私は家まで帰ってきた。
家を出てから大分時間が経っていたらしく、二人とも既に目を覚ましていた。
下照様は足の調子も良くなったのか、特に違和感無く歩いている。それどころか、調理を自分から率先して行っている。気を使われるばかりなのが嫌だったのだろう。
そんな様子を後ろから見ている若日子様の顔は、いつも以上に穏やかであった。
足が完治して家へと帰った後も、彼女は頻繁に私達の前へと現れ、その綺麗な姿を見せてくれた。私達が彼女と話すのが楽しかったように、彼女も笑顔で応えてくれた。
けれど、若日子様が下照様と構築した関係は別のもの。
鳴女の預言通り、二人が恋仲になるまでにそこまで時間は掛からなかった。
三日掛けて片付けた夢世界から、ふわふわしたものは空間から消えていた。
所謂、掃除のしすぎであり、都が移ってきてもお釣りが出てくるくらいのスペースが確保されたらしい。
仕事につい熱を入れてしまう二名が揃ってしまったのが、働きすぎの理由の半分。もう半分は私自身、居心地が良かったからである。
故に都の夢世界へと移転が終わり、任が無事に完了したというのに、私は今日もこのログハウスを訪れているわけで。
そんな私に対して、文句を言う事もなく迎え入れてくれるドレミーも、私に対してそこまで悪い感情は持っていないようだ。
そのドレミーであるが、先程から文句が止まらない。その文句は私に向けられているものではないのだが、聞いている側にとってはあまり気分が良いものではない。
「奴らも掃除してしまおうかしら?」
ちらりとこちらを見る目、ご協力願えないかと言ったところだろう。
目を逸らした瞬間、間髪入れずに言葉が飛んでくる。
「場所代」
「さて、帰るとしよう」
「お願いだから愚痴だけでも聞いて……」
同情の余地はあるけれど、愚痴を聞いたところで問題は解決しない。
その問題、夢世界に入り込んだのが月の民だけでなく、別の異物である奴ら、妖精も入り込んでしまった。
入り込んだ妖精達との契約は、その親玉であるへカーティア・ラピスラズリと名乗った女とドレミーの間で行われていたのだが、夢世界に多人数を送り込み、これだけ煩く騒ぎ立てるのは、避難者だけでなく世界の支配者にとっても想定外であったようだ。
彼女が何者なのかは知らないが、純狐と通じている月の民の敵であるのは間違いないだろう。ここにいる妖精は、静かの海を占拠した妖精と相違無いのだから。
「全くどいつもこいつも私の場所を何だと思っているわけ?」
妖精達の騒がしい声は、防音機能のついていない木造りの家の中にも当然入ってくる。
別にここにいたところで楽しいことはないし、そもそも何もない場所である。騒ぎたくなる要素は私の見る限りはない。
妖精にとっては生きているだけで楽しい、とでもいうことなのだろうか。
加えてここに来ている妖精、地獄という生命不適合環境で育ってきた妖精だとか。
「それにしても、何で急に来訪者が増えたのだろう?」
「月の民がこの場所に来た。だから、生命力溢れる妖精達がこの場所に来たと考えられる」
「それってつまり、あんた達のせいって事じゃない!」
「打つ手が後手になっている。相手が一枚も二枚も上手ということね」
ドレミーの言葉に反応せずに別の一手があったのではないかと考えてはみるが、常識以上の思考を導き出せない私には難易度が高かった。
カップを置いてソファーに肢体を投げ出すドレミー、その姿態は隙だらけであり、長い脚はソファーからだらりとはみ出ている。
「契約詐欺だー!」
「騒ぐなって念を押していたの?」
「妖精が多数来るなんて聞いてないわ」
「なら、詐欺も何も無い」
「自分がこんなにも静寂に慣れていたとは思わなかったわ」
足をバタバタさせて、見えない何かに抵抗してみせるドレミー。我儘を言っても、聞いている私が困るだけである。まあ、こっちは行動を起こす気も無いから正直困らないけど。
「サグメは何もしなくていいわけ? そもそも、夢世界に移転したのは月に生命力の権化である妖精達が迫ってきたからでしょ? これじゃあ、移動しても何も変わりないじゃん」
「指示が特に無いから動かない。月にとって想定内なのかもしれないから」
言葉を口にした途中で違和感を覚えた。ああ、これは反転する。事態として動きつつあるのは指示、用は近々私に何かしらの指令が下されるか、自主的に判断して動かざるを得ない事態になるか。
どちらにしても、私からすれば好ましいものではなかった。
「そもそも、神の代行者が妖精を連れて歩くなんて思わないでしょ、普通」
「何を思って許可したの?」
「それは、えっと……」
捲し立てるように苛立ちをぶつけていたドレミーであるが、私の質問に対して急に歯切れが悪くなった。
振り返って私の顔を頻りに見ながら、時折ソファーに置いてあるクッションに顔を埋める。
ドレミーと交渉した相手の顔すら知らない私に、心当たりを探せというのが無理な話、違和感を覚えたまま顔を見返すの精一杯であった。
顔が赤いのは気のせいだろうか?
「……サグメが悪い!」
「何故!?」
「交渉した相手もサグメみたいに話が分かる奴だと思ったの!」
褒められていると認識するべきだろう。
そして、確かに恥ずかしい台詞である。お互いにとって。
顔を赤くしている同士が見つめ合う状況は宜しくはないだろう。同性同士で私にはその気も持っていないが。
「コホン。他者を信じるのも程々にって事ね」
「そう言っている貴方だって騙されやすいんじゃないの?」
「さあ、どうだか?」
相手はそもそも騙しているわけでもない。ただ、ドレミーの中での理想が高かっただけ。
別に好印象になるように立ち振る舞ったわけでもないし、ただ何も考えずに悪夢を捕まえただけである。
少なくとも煩くはしていないし、相手に嫌がられる事は……複数した気がするのだが、許容範囲だったらしい。
「まあ。取り敢えず妖精の事は置いておくわ。どうこうしても解決する手段が強行以外無いし、それを行うだけの大義名分も持っていない」
「自分に非がある事を認めている、ってことね」
「ええそうですよ! 世の中は夢と違って世知辛いですよ!」
不貞腐れている夢見がちなドレミーではあるが、現実逃避までは行っていないようである。
完璧で強い獏という妖怪は妄想でしかなく、不憫な部分と不器用な部分が垣間見える。
しかしながら、そんな彼女のほうが私にとっては愛着があった。
「サグメには月としての大義名分があるけどね」
「そんなもの無い。私は上の命令で動くだけの傀儡でしかないから」
「今ここにいるのも傀儡だから?」
「……さあ」
誤魔化すように目をそらすと、不機嫌などどこ吹く風、彼女は思わず笑い声を零していた。
「月の連中の夢ってやつはつまらないね」
「どうして?」
「空っぽで無味乾燥なのに、当人は何故か満たされていると感じている。正気の者が見る夢ではないよ」
夢をありきたりな言葉で表現することの意味をわかっていない私であっても、彼女の言わんとしていることについては理解できた。
同じ種族にあたる私からしても、彼等の嗜好というものは面白いものではない。
高尚な者の特権であるというのならばそれまでであるが、私に近い存在でもある純狐は嗜好自体は歪んでいても、それを喜怒哀楽を持って楽しんでいる。
どちらか選ぶとしたならば、私のスタンスは月より彼女に近いのではないだろうか?
そもそも、穢れを身体に招いた時点で、月の民とは一線を引いているとも言える。
「月の連中にとっては正気と狂気は分離対象ではないようね。夢に柔らかさが無く、ただの完璧な球体なのも頷ける」
「あの漂っているものは、内容と形状に関連があると」
「まあね。そもそも、悪夢の内容なんてひとそれぞれ、他者から見たらこれのどこが悪夢なのか分からないものであっても、当人にとっては負の象徴、なんてことがある。色や形が違うのは内容や、その夢に対する畏怖が異なる故。私から見れば、どれが美味しそうかとか、処理しにくそうかとかも分かる」
「食べ物の飾りつけと味が違うとか、それぞれの食べ物の好き嫌いみたいなものなのね」
「ちなみにこの棚に収納されているのが、消すのが勿体無いと感じた私のお気に入りの夢達。要は私の好きなものってわけ」
棚に入っているのはあのフワフワしている浮遊物ではなく、堅そうな円盤状で中央に穴が空いたものである。
引き出して何個か手に取ってみる。表面は様々な色をしているが、裏面に関しては光沢と光彩を持った銀色に統一されている。
月の都で見たことがある記憶媒体に似ているが、それがどのようなものでどう使う物なのかも想像はつかなかった。
「HD-DVDって呼ばれているもので、記憶をその小さな円盤に刻み付けることができる便利な代物。最近になって、外の世界から流れてきたものね」
「触っても追記憶が発動しないのだが」
「夢の状態で置いておくと、それは不安定で別のものへと変わってしまう。夢の記憶というものが曖昧なようにね。だから、完璧な形で別のものへと記憶させるから、それはもう夢と呼べるものではないわ。中身を見るには、ここに置いてある機器が必要」
他人様の夢に名を付けて保存するのは、あまり趣味が良いものではない。
妖怪なので悪趣味の一つや二つ持っていても驚かないし、獏という素性を考えるならば、夢に依存するのも当然と言えるかもしれない。
けど、どうしても気になってしまうことが一つ。
「表面がピンク色をした媒体がやたら多い気が」
「……えっ?」
彼女の顔が急に赤くなったので、予想は外れていなかったようである。
こうお互いに見合って気まずくなるのは今日二回目である。
日頃のコミュニケーション不足を感じる。自分にも、ドレミーにも、だ。
ログハウスでゆるりとした時を過ごした後に、月の都へと戻る。
都市機能は停止し、都市自体も凍結して、穢れを残さない細工をしている。そんな中に独りで誰も来ない場所を守るというのは、決して良い仕事とは言えないだろう。
それでも、誰かに変わってもらいたいとは思わなかった。孤独は立ち寄るリゾート地としては優秀だ、定住するには寂しい場所であるが。
綺麗になったアポロ経絡は、未だ禍々しい赤と青が混ざりきっていない色をしている。掃除した場合に景色までクリーンになるとしたら、もっと気合を入れて掃除できただろう。
「止まれ。月の僕、稀神サグメ」
遮る者はいないけれど、その声を聞き、私は静止する。
自分の上司に当たる者の声には無条件で反応する。仕事をこなしていくうちにそういう性質が身体へと染み付いてしまうのだ。
私を止めた者は姿を現さないが、それもいつものこと。私のことを穢れた駒と考えているのだろうから、敬意の一つだって表そうとしない。
神は偉い、それは比類無き傲慢さから伺える。
「類まれな働きご苦労。おかげでこちらも先が見通しやすい」
「凡庸な実行者から見ると、現状は上手く事を運べた故の状況であるとは思えませんが」
「いや、何一つ問題ない。我々の中では想定内だ」
本当にそうだとは思わなかった。月の賢者である八意永琳様が神の血族を連れて地上に堕ちてから、問題に対する方法が常識離れした最適ではなくなり、私の仕事は目に見えて無駄が増えた。
八意様という有能な者が去り、並の者が仕事を引き継ぐと、その差だけでなく、任に対する信頼さえも揺らぐ。誰が決定権を持っているのか、指示を出しているものはただの使者なのか、全貌は見えていないが、ハリボテじみた仕組みなのは明らかなので、見ないほうがいいだろう。
それでも、ただ指示に従って動いている方が楽なのは、変わらないのだから。
「次の指令だ。獏をこの世界から蹴落とせ」
楽、だと思い込んでいた。
だから、感情が今揺らいだのは、私が楽というものを随時、最優先にしている者ではなかったということ。
「…………おっしゃっていることの意味がわかりません」
「言葉通りだ。獏をアポロ経絡及び夢世界から追放せよ。さすれば、穢れが生じにくい世界がもう一つ手に入る」
月と夢世界は似ている。
生が殆ど存在せず、穢れを祓う必要がない。
そして、現れた妖精によって移動は制限されているものの、夢世界の居心地は月の民にとって評判であった。
移転という手段の必須条件、利がないのにそれを快く……はなかったけれど、受け入れたドレミー。そんな彼女の顔に泥を塗るだけでなく、背中を刺せというのが、月の総意だとでもいうのか?
巫山戯ている。正気じゃない。
知っている。月はそういうやり方を行ってきたのだから。
「都がいくつあっても、我々は構わない。遷都を考える際も候補がいくつもある方が絞込みもしやすく、実行しやすいものだ」
「純狐が迫っている状況で……」
「月の侵略者への防御手段として、もう一つの案が並行して進んでいる。お前が失敗した天孫降臨の再来だ。地上の生を殲滅し、新たな神の揺り篭とする。都を造るのも悪くはない」
「……月も手段を選ばない、ということでしょうか?」
「地上に縛りつけられる下賤の者に天の浄化というものを見せつけてやれば、忘却した畏怖や信仰を少しは思い出す。方法は単純、お前が過ちを犯した天孫降臨よりは楽な仕事だろう」
奥歯を噛み締め、なんとか表情を消した。
地上から穢れを祓う、月はそれだけの力を持ってはいるが、そうはしてこなかった。
天よりも遠い世界にある地上など、月にとって取るに足らない存在であり、相手が悪意を持って月にでも進行してこない限りは、地上への手出しは常識的にタブーとされていた。
一度、地の者達が月の都に侵攻したという噂は聞いたことがある。その際は私は別の任に趣いていて、綿月様達が丁重に対応したとか。
その事態を重く見たとでも?
「そもそも、我々神々の血族がこうも窮屈な思いをしているという事実。これは重大な問題だ。一刻も早い解決が必要だと思わぬか」
「八意様なら別の手段を!」
「裏切り者の名を口にするな。貴様も一度は同じことをしている、それでいて神々は貴様を許した。その寛大なる処置を受け入れて尚、地に堕ちた者と同じように掌を返すというのか?」
自己の姿を隠したままで凄んでみせても、私には効果は無かったし、忠誠を月に誓っていたわけでもない。ただ必要とされたからここにいて、相手は私を便利と認識したから今も使役している。
関係はシンプルでいて、つながりも薄い。それを“過去の不快な記憶”を思い起こしつつ、切っても切れない関係としている相手は、私、稀神サグメという者を微々たりとも理解はしていなかった。
「要するに純狐対策と、夢世界奪還は別件。策としては正当の逃げの一手しか思い浮かばなかった、という認識で宜しいでしょうか?」
「口が過ぎるぞ。穢れ者の異端者」
「申し訳ありません。現場で過ごすと、どうにも敬意だとか接待だとか名誉だとか、そういうものとは無関係になってしまいます。悪い癖ですね、ふふっ」
月のお偉いさんが大切にする何の役にも立たない三つを、とっく前にゴミ箱に捨て置いた私でも今の立場にいるのは、命令に忠実だったから。それだけだ。
でも、その唯一の利点さえ捨ててしまったらならば、私は月にすらいられなくなる。
存在意義だって無くしてしまうだろう。
月の命に従い、月を守り抜く。好きでもない役割にしか依存できなかった私、自己がここにいて、意志を持って、何かを判断するという当たり前の行為に自分がまだ依存している、その意味が自分でもわからなかった。
相手が話す内容は終わり、私からも本意の見えない質問を長く行おうとも思わない。
ただ、一つだけ聞くべきことがある。
「月の夢世界侵略案は、綿月様達も同意した意見なのでしょうか?」
「……そうだ」
真っ新な嘘であると私は見抜いたが、その証拠が掴めなければ意味はない。
こいつは自分の私利私欲を満たすことを第一に考えている。
夢世界は月の者にとっては生が死にきった“使える土地”、それを自分のものにできる意味は小さくない。
「任務成功の暁には土地の一つや二つ、与えるのも吝かではない」
「了解しました。結果を導く案を考えるので、私は月へと戻ります」
不愉快な笑い声を想像し、目眩を覚えた私。兎に角、話を切り上げて独りになりたかった。
天孫降臨、嫌でも思い出してしまう若日子様と下照様。
二人は私に優しく、私も二人を尊敬し、大切に思い、守りたいと思っていた。
けれど、少しだけ、本人にしか見えないくらいの棘が含まれていた。
その結果、私はどうなった?
脳が拒絶を覚え、結果から目を背ける。嫌だった過去は認めたくない、夢であったと思いたいのだ。
嗚呼、今日は悪夢を見るだろう。
その夢がドレミーに食べられないようにと思うばかりである。
④
本人は知らないかもしれないが、敵対関係にある大国主殿によって、私達は彼の家へと招かれた。
勿論、大国主殿を動かしたのは娘である下照様であり、彼女の強い要望によって、地上では特に良い身分でもなかった私達が、直接相手の顔を見るに至ったわけだ。
そして、拍子抜けする。大国主殿は雲の上での噂に聞いていた山脈のような大男ではなく、小柄な老体でしわくちゃな笑顔を私達に向ける、そんな人柄の良い初老の男であった。本当に地上に住まう土着の神であるのか、疑いを持ってしまうほどに。
下照様の問い掛けもあるだろうから私達は歓迎されているのだろう、そう思って気分軽く訪ねたのであるが、その姿と同じように彼は私達を見事なまでに騙しきっていた。
それに気が付けたのも、相手が正直に物事を告白したからである。
注がれたお酒を一杯、若日子様が飲み干したのを後、大国主殿はゆっくりと話し始めた。
「良い飲みっぷりですな。それとも、天を司る者にとっては酒はお水に等しいですかな?」
「……大国主殿、今の言葉は」
「お二人が何かしらの使命を持って、このしがない地へと降り立ったのは知っておりますよ。その目的もしがない頭ながら、ある程度は描けましょう」
「知っていて下照殿を我々の前に赴かせたと?」
「これも地を治める者の宿命故、何卒ご理解下さい。下照がこの場所にお二人を招いたということは、天は話を聞く耳すら持たない、ということではないようですが」
笑顔と穏やかな口調に隠されている強かさ、支配の頂点に立つものとなれば、そういう強さが無ければ自分の手では覆いきれない物を守ることはできないのかもしれない。
「して、若日子様。地上はいかがですかな?」
「人々の活気と笑顔、これが総てを物語っている」
「気に入って頂けて何より」
天は確かに完璧で完全な場所なのかもしれない。それ故に何も必要とせず、何も生み出さない。
地は生まれ出でた生命を筆頭に不完全、故にその欠落を補うために行動が生まれ、感情が湧き出て、完璧よりも美しい何かが得られる。
変化とは対比だ。不変を願い、一つの事象をただ見続けている天、日々多種の変化が起き、それに対応する地。短い期間でありながら、後者のほうが魅力的に見えてしまった私は、地に降りるべくして降りたのかもしれない。
天津神の祝福を必要とせずに地上は栄え、天はその場所を私欲にて奪い取ろうとしている。それが私、第三者から見た現状の略図であった。
そして、若日子様にとっても、地上は穢れが蔓延する不浄の地ではなかった。
若日子様の喜怒哀楽は、この地上に降りてから大きくなったのは、きっと天では殆ど見られなかった変化というものを目にした故。
百を聞くよりは一を知る。だからこそ、正直な言葉を地の支配者に口にできる。
「我々地上に張り付けられている者達は、天から見れば実に哀れで無力な者達に見えるかもしれません。しかし、それでいても私達には積み上げてきたものがあり、命を賭してでも守るべきものがあります」
「天と地ほどの力の差があるとしても」
「我々にとって、この地はかけがえのないものであるのです。私にしても、この地の信仰無しでは生きていけなくなるかもしれませんので」
大国主殿の言葉は相変わらず柔らかいものであったが、言葉の意味は天津神への徹底抗戦の布告に他ならなかった。
退路を消し、迷いを断ち切った者は恐ろしい。失う事を恐れない決意は、天の神々にとってどう映るのだろうか?
大きな溜息を付いて、若日子様は杯を呷った。
「天が苦戦する理由が垣間見えたか」
「私達が、ですか?」
まだ戦ってもいないだろう、と返され、それが私達に該当していないと分かった。
「佐具売は知らないだろうが、我々よりも先に同じ目的を持って地上へと降りた天津神の者がいる」
「天之穂日(あめのほひ)殿のことですな。彼は今は出雲国を統治しています。頭の回転が速く、優秀な御方だ」
「では、私達は先導の失敗があってこの場所にいると? そのような話は聞いていないのですが?」
「天津神に失敗はあってはいけない、故に伝えられない。神はいつであっても完璧でなければならず、名誉を重んじる」
「現実さえ認められない小さな名誉などに、本質が宿るわけもないというのに」
「その通りだ」
下照様の言葉に若日子様は同意し、私も首を縦に振る。
私達は迷っている。何が正しく何が間違っているかを判断できないまま、次々に情報が表れて、氾濫の渦へと巻き込まれていく。
空になった杯を置いて、若日子様はやっと本題に入った。
「私達を捕らえるか、そして殺すのか? 天は強大いえど、ぬけぬけと本拠に表れた二名を生け捕りにするくらいならば容易いことだろう」
「そのような野蛮な行為を行わずに済むかどうかを、下照に判断を委ねたのです。ここにいらっしゃった以上は、お二人は玄関を出るまではお客様です。ただし、次にどのような形で出会うのかは私にも分かりかねますが……」
「全ては我等の判断次第ということか」
大国主殿はこくりと笑顔で頷いて見せた。その顔は恐ろしいものではなかったけれど、覗き込む目は目線よりも奥の場所を見ているようで、嘘をつけるような雰囲気ではなかった。
逼迫し始めた空気を察して耐えられなくなったのか、下照様が本心を漏らした。
「どのような使命を持っていらっしゃろうとも、若日子様は義を重んじる素晴らしい御方です。助けて頂いた事、私の命の恩人でいらっしゃることは間違いございません」
どうか地上へついて下さいませ、そこまで言えるほどに下照様は愚かではない。
彼女は天での若日子様を知らないし、どのような命を背負ってきたかを知らない。
一押しまではしない、ただ支えるだけ。
それでも、若日子様の重大な決断の理由の一つにはなった。
「佐具売、天へと戻るか? この道、今よりも厳しいものとなり、茨はその身をも貫くかもしれぬ」
「この佐具売、何が起ころうともどんな道であろうとも、若日子様と歩む志を変える気はございません」
「……助かる」
安心をした表情を見せてくれたことで、私は若日子様を少しだけ支えられたと実感できた。
私がどこにいるかなんて関係はない。私が誰といるかが大切であったんだ。
一月後、大国主殿の了承を経て、二人は結ばれた。私達天津神の使いであると知っているのは、大国主殿、下照様の他にはいない。
この出来事は天津神達にとっては、策謀の順調な経過にでも見えたのだろうが、実状は大きく異なった。
これは天との決別を表し、地上との結びつきを固くする契り。天が仕向けた使者は二度目も裏切りの結果を導いたわけである。
私にとっても、二人が結ばれた事は喜びであり、安堵でもあった。
下照様は行動的すぎて少々御転婆な部分もありながら、美しく聡明で信頼できるお方。そして、若日子様を何よりも信じていらっしゃるのが、私が見ていても良く分かった。
このお方ならば若日子様をずっと支えられる、そして秘められた思いもきっと彼方へと忘れ去れるだろう、そう思えた。
目を逸らす事や忘れる事、難しい事ではなかったが、それは行えば行うほどに大きなものとなって返ってくる。
天が私達の動きを把握し、疑問を持ち始めるまで7年。不老である彼等にとっては、ほんの短い期間。しかし、私にとっては長く感じる年月であった。
大国主殿が隠遁すると言い始めたのは一年前、未だ隠居という立場に回れていないのは、後継ぎが誰になるのか決まっていなかったからである。
候補は二人、婿入りした若日子様だけではなかった。
「大国主殿の息子であり、武勇と名声に秀でている味耜高彦殿がいるではないか!」
「いや、あの下照様が選ばれた若日子様こそ相応しい!」
それぞれを支援する者達は火花を散らして討論を行っているが、お互いの主張は交わらずに議論は先に進んでいない。
国津神もそうであるが、神という者達は時間がある故に物事が適正に進まない傾向がある。
支援者達に祭り上げられている当の二人であるが、二人共にその位に興味を示さないのだから、更に事が進まないわけである。
若日子様と高彦様の仲はすこぶる良く、共に狩りが好きで一緒に鷹狩りに山へと入って競う事もしばしば。周りが焚きつけているせいもあって、ここ半年あたりは公に飲み交わしもできなくなったと、若日子様は嘆いていた。
お互いを認め合っている、故にお互いに相手が位を継げばいいと考えている。
不毛になるのは必然であった。
「……佐具売様、聞いていらっしゃいますか?」
「すいません。少し呆けていたようです」
「後継ぎのこと、でしょうか?」
表情に出ていたらしいので、反省しなくてはならない。
私は若日子様側の者と見られてはいるだろうけれど、正直に言ってしまえば関係が無かった。
天津神の為に位を簒奪する必要が無くなった以上、わざわざその地位に付くことは必要ないのではないかと思う。
けれど、下照様はそう他人事として処理はできない。若日子様を祭り上げる者達は、下照様の支援者達なのである。彼等の期待や欲、それを満たす為の努力と結果が求められている。そこに彼女の意思は存在しない。
立場的には意思を見せなければならないのだけど、彼女自身も位に依存はしていない。現状には不満があるようだが。
「全く、嫌になりますわ。兄上が継ぐと一言いってくれればいいものを。まるでこの空気、戦を彷彿とさせます」
「そうですね、当の本人達が気軽に構えている分、周りが空気を張り詰めさせているというか」
「こういう時に他人事を決め込むなんて、兄上も若日子様も父上には遠く及びません!」
頬を膨らませて現状の憂いを二人に押し付ける下照様から、怒りよりも可愛らしさを感じてしまう。
我慢はしてみたものの、思わず笑ってしまった。
「なっ、何で佐具売様が笑うんですか!」
「いえ、何というか、下照様が可愛らしく思えたので、ついですね。ふふふっ」
「私だって今の状況を真面目に憂いではいるんですからね!」
ご機嫌を損ねさせてしまったけれど、少しだけ自分が抱えていたものが薄れた気がした。
太陽のように明るくて、物事を正直に捉えられる下照様の空気には、若日子様だけでなく私も助けられている。
彼女を大切に思っている者は私も含めて沢山いる。
気が付くと味方を作っているのは、彼女のその天性の優しさと温かさに惹かれているからだろう。
色々な意見を言い合える相手でもあり、自身が仕えるべきもう一人の相手でもある。
下照様と私の関係は、若日子様と比べると、使用人というよりも歳の近い友の関係といえた。私が若日子様の侍婢として、彼女との適正な距離を保とうとした時に、下照様は悲しそうな顔を浮かべた事が思い出される。
息を抜ける話し相手がいなかったのはお互い様、私はそこまで必要としておらず、彼女は欲していた。そして、今の私は過去と違って認識を改めている。心を割って話せる相手がいることで、心の平穏は得られるものであると。
「そろそろ私は水汲みに出掛けますね」
「佐具売様が逃げようとしています」
「お話なら仕事が終わりましたら、いつでもお付き合いしますので……」
水汲みという仕事はあまり好きではなかった。
別に重い物を持つことに対して嫌な思いがあるわけではない。私が一人になって、誰もいない森の外を歩いているという状況が宜しくなかった。
この場所にはあいつが現れることがある。それを思い浮かべてしまったせいか、それは現実を見せ付けるが如く、私を待っていた。
緑と茶色の世界に似つかわしくない派手な羽、自然に適応しているのならばこんな目立ちやすい姿にはならなかった筈だ。
地上という常識から見て異端、だから彼女は天の使者なのであろう。
「雉之鳴女、仕事熱心なことね」
「働かない者を見張っているので、そうせざるを得ないのですよ」
手厳しい返し文句に思わず溜息が出る。
とは言っても、実際の所、私達が置かれている状況は、私の表情ほどに余裕は無い。
状況は最悪な上に、天と私達の亀裂の修繕は不可能である。
私はその亀裂を必死で隠そうとはしているが、それにも限界があるだろう。
大切なものを守りたいと思う気持ちは私の中にある。けれど、それが現状を誤魔化すという形でしか表現できないのが悔しかった。
「天孫降臨の為に、地上の穢れを一刻も早く祓うのです。その命、忘れたとは言わせませんよ」
「それは、この場所から生を根絶やしにしろということでしょうか? 神の名において人々から笑顔を奪えということでしょうか?」
「そうは申しておりません。ただこの場所に住まう者達を追放すればいいだけのこと。簡単ではありませんか」
口では簡単に言えるし、相手の事情や気持ちを知ろうとしていないから、そのような事を口にできる。
若日子様も私も知ってしまった。この地上で創られた大事な命の形、それを守ろうとする強い決意。
「もし追放したとして、彼等の家、生活、幸福は神が保証してくれるのですか?」
「そこまで行う義理も遑もないでしょう」
「天津神の事情のみしか考えていない傲慢そのものに基づいた勝手な命を、我らに押し付けるのですか?」
「傲慢なのは私達が創造した世界に勝手に住み着いた定命の者達ですよ」
管理不在のままに放置して、乗っ取られた後に自分のものであると主張しているのだから、どうしようもない。
最初から興味があったなら、誰かがこうならないように見張っておくべきだったのだ。
だから、尻拭いという形で私達が捨て駒にされた。
けれど、その駒が叛意ありとなるとは、未だに思っていないのだろう。
私達の真意を掴めていない、故に探りが彼女から入る。
「お家騒動が起きているようですが?」
「そんな大それたものではございません。いずれ大国主自ら後継者を指名するかと」
「その時の為に汚い仕事をこなして暗躍するのが、私達の役目ではないでしょうか?」
彼女の言っている事は使者として正しい。だが、それは私の目的と彼女の目的が一致していれば、の話である。
若日子様は私を信頼してくれている。だから、若日子様が嫌いな行動に手を染めるのはあり得ない。
彼女は物事を大きく俯瞰している。故に若日子様の本質、個々というものが見えていないのだ。
「息子である味耜高彦を亡きものにすれば、自然と選択肢は一つになる」
「暗殺など正気の判断とは思えませんが」
「我々天津神に正気などいりません。支配者として得るものは全て手に入れる、手段よりも結果ありきでは?」
天にとっての常識は今や私にとっての非常識。
地の生活が板についてしまった為、天の考えには明確な理由無しでは賛同しかねるし、理由を越える人々の素晴らしさがここにはある。
定命の美しさは神々が弄んでいいものではない。
ましてや、自分の知る者を蔑むような言葉には憤懣を覚える。
けれど、そんな私の沸点を試すような会話を天の使者は続けたのだ。
「ついでに若日子様の妻も消したらいかがでしょうか? さすれば、貴方の欲望にも……」
「その汚い嘴で囀るな」
「ふふっ、一体何を怒っているというのでしょうか?」
下照様を愚弄する言葉に、思わず体温が上昇してしまった。
相手にも驚きが見られる。私が急に強い口調になった理由が分かっていないのだろう。
「でも、貴方の目的を考えれば地上の妻は邪魔者」
「私の目的? 勝手に妄想を仕上げただけの虚言が目的などとは、冗談」
「本心を直向きに隠し続ける理由、それが地上の者達にあるとするのならば、事態も貴方の心も由々しき問題を抱えていると言えるでしょう」
今日はどうにも感傷的になって話し過ぎている。
いずれ来るべき時は来ると知ってはいたし、その時に私がしなければならない事も把握していた。
現状を理解している神の使いは、目の前にしかいない。
それがもし、消えるとなれば、神の認識は一度真っ白となるだろう。
結局、私がやろうとしている事は彼女が口にしていた事と同じ。ただ対象とする相手が違うだけだ。
「つまり、貴方は地上の者達への思い入れを強くし、崇高なる勅を蔑にしようとしている。その意味を……」
私からすればもう会話は必要無かった。嫌疑をかけられた以上、天に報告させるわけにはいかない。
御託を並べるその首を絞め落とす。私は踏み込んで飛びかかった。
けれど、そんな正面からの奇襲は失敗となった。そもそも、相手の頭に私の行動が想定されていたならば、奇襲にすらなり得ない。
かわすだけでなく、彼女が軽く羽ばたいて見せると、猛烈な突風が生じ、私の身体は宙に浮いたままに大木の幹へと叩きつけられた。
大きな音に驚いた地上の羽鳥達が止まり木から羽ばたいていく。それは、まるで天に向かって凶報を運んでいくようにも見えた。
「ふふっ、信用していないのはお互い様ですよ。私達は似ているのですから」
「くっ……」
「でも、致命的な違いが一つありますね。私は貴方のように欲望を抑え込んだりはしません。したいようにしますし、必要があれば嫌いな者は消しますので。まあ、神を裏切った者への当然の報い、といったところでしょう」
強い衝撃によって身体全体が麻痺している。指が少々動く程度では、抵抗一つできない。
そもそも、霊鳥を模している相手のほうが格上だった。神の力を殆ど持たない私が上手くできる根拠など一つも無かったのだ。
恐怖は迫っている、それでも足掻こうと思えたのは、この地上で長く暮らしてきたからだ。
人々は足掻き続け、今だって何かを求めて必死に生きている。
だからこそ、必然ではないにせよ報われることもあるのだ。
「言い残す事は?」
「……それは、私が言うべき言葉のようですが」
「えっ……」
放たれた矢の羽音はすさまじいもので、耳が破壊されたと錯覚を起こすほど。
そんな威力で放たれた矢、天之羽々矢は弦のようなしなりの軌道で相手だけを貫き、そのまま天空へと消えていってしまった。
雉が力無く倒れた事で、私の目が若日子様を捉える。
そして、私達が明確に天に弓を引いてしまったのだと認識したのだった。
雉の死骸は埋めて隠したが、天の目がどこにあるのかなど私達には想像がつかない。
若日子様が神器を使用した時点で、背いた事が公になってしまったとも言い切れない。
不安に駆られながら迎えたその夜は、雷を伴い、天は大粒の涙を地上に流した。
それは今世と別れた使者への手向けか、これから起こる出来事に対する兆候か。
心が掌に掴まれているような錯覚に陥り、闇が深くなっても眠気は襲ってこなかった。
大国主殿に事情を説明し、下照様の嘆願もあって、今は警備が厳しい大国主殿の屋敷に身を隠している。
青銅の武器を携えた者達が庭や屋敷内を歩き回る厳戒態勢、不審者の一人でも現れようものならば、たちまち取り押さえられるだろう。
でも、それは人が相手ならば、の話である。
神がもし本気になろうものならば、こんな屋敷の一つや二つ、壊滅させるのは安易だろう。問題は何をもってして、彼等が本気になるのかが私には分からなかったこと。
今や地上の定命の者達よりも、天で暮らす神々の方が異質で理解しがたいものに変わっていた。
「顔色が悪いな、早く寝床に入るといい」
他者に言えるほど若日子様の血色は良くない。若日子様は常日頃から健康的でいられる故、私よりも目立ってしまうのではないだろうか。
今日の若日子様も私も、下照様とは長く話さないほうがいいだろう。
私達の顔を見ただけで、彼女の実家へと連れ込まれたくらいだ。余程酷い顔をしていると見える。
できることはない。ならば、布団に入って闇と嵐を耐え忍ぼう。
雷が実に耳に障るが、落ちない限りは実害はないだろう。
地上では雷は神鳴、神々の荒ぶりとされている。本当にそうであるのか判断できない私達は、もはや神の血統とは呼べない存在だ。
外はまた強く光った。けれど、続けざまに音は聞こえない。
その代わりに入ってくる風を切断する鋭い音。
その耳鳴りを覚えるほどの音は日の光ある時に聞いていた、だから私は再び若日子様が弓を手に持ったと思ったのだ。
そうせざるを得ない事態となったならば深刻、今の私達にとっての敵は天なのだから。
温かくなりかけた布団から慌てて飛び出す。冷え切った空気を持ってしても、私の脳を侵す熱は取り切れなかった。
服装が乱れたまま、板間の廊下を走る。自分の足音すら煩わしく感じる。
騒ぎ声や武器が重なる音は聞こえない、雷の音は今だけは消えている。
そう、私の想定は悉く外れていた。
その音を奏でたのは若日子様ではなく、その音をこの場所で聞いた時点で物事は終結していた。
障子は破れ、大きな穴が開いている。それは何かが通った後のようにしか見えない。
先程の音、残った跡、嫌な汗は冷たく、私の体温を急激に奪っていく。
障子を開けるのが怖かった。その先に見える光景が嫌でも想像が付き、そして見たくないものであった。
開けても開けなくても事実は変わらない。選択肢は一つしかなかった。
観念して扉を開くと、視界よりも先に臭いが私を襲った。
獣の肉を捌いている時にいつも嗅いでいた臭い、生が失われた血と死の臭い。
血に染まった白い布団、白い装束も真っ赤に染まっている。夥しい赤は床まで広がり、まるで血抜きが終わった後のように見える。
若日子様は目を見開いたままで、何を、どこを見ているのかは分からない。いや、どこも見ていないのが正しいのだろう。
その胸には見覚えのある矢が突き刺さっていた。
天之羽々矢、天まで届いた矢は還し矢となって持ち主の場所にまで戻っていき、主を新しい獲物としたのだ。
目でしか状況は確認できていない。けれど、若日子様とはもう二度と話せないという事実だけは認識できてはいた。
震える身体に気が付いて、意識が覚醒した。
身体が冷えていて、指先が特に寒い。凍結された世界で寒さしか残らない悪夢を見ていたのだから、身も心も凍えるのも頷ける。
吐き出された息は白く、そして温かい。都市は死んでいるが、私は確かに生きているようである。
月の民が住む都であるが、中央がすっぽりと抜けてしまい、シンボルでもある高層建造物は見当たらない。
都の中心地は丸々夢世界へと移動し、最先端は田舎町へと変貌してしまった。
空に控えめな高さの住居用の建造物達は、軒下に垂れ下がる氷柱を多量に作り出し、入り口は氷柱のカーテンで遮断されている。
窓は結露した水が凍りつき、本来の透明さを失っている。硝子を覆った白は、氷というよりもこの場所には存在しない地上の雪を想起させる。
建物の周囲に広がる白造りの塀は、薄氷の張った道の左右に続き、交差点で一度途切れ、何事も無かったかのように再び配置、の繰り返し。無個性な家と道、風景のせいで、自分の居場所がどこなのか忘れそうになる。
氷の世界、動くものが存在しない、一枚の絵が視界に貼り付けられ、まるでこの場所だけ時間が停止しているような錯覚を覚える。
思考に耽るには丁度良い静寂。私と共にある静寂。
寒ささえなければ、であるが。
私自身、月の都に立ち入るのは久しぶりであった。
穢れを必要以上に溜め込んだ者は、自浄効果を狂わせる為に、月へと立ち入りができない。それは要職に就いている、と言われている者であっても例外にはならなかった。
都自体が変わったかというと、まるで変わっていない。中心部のみはぽっかりと何も無い空間が出来上がっているから判断できないが、少なくともその周囲の風景には進展も淘汰も無いままだった。
月に溢れる技術、オーバーテクノロジー、特異な能力者、神々の血脈。独自の文化と進化も、所詮は力ある者が集中的に事を行い、適応できぬ者は零れ落ちていく。力というものは一ヶ所に集まっていくような習性があるのか、力持つ者のみが更なる力を欲するのか。
凍結というのも不変の象徴。固化したものは変化を嫌う、月の民達も分類するならば保守的と言えるだろう。
歪な街の光景を見ながら、歪な者達の事を考えていると、とても自分が同属であるとは思えなかった。
ああ、遥か昔、地上に降りた時にもこんな結論に至った気がする。
本質的に変わらない部分というものがある。それは私が“サグメ”であり続ける限りは、変われないのだろう。
ドレミーと会ってから、少なくとも私の中に何かしらの変化は生じたのだと思う。不愉快などという感情に翻弄されず、ただただ効率的に任をこなしてきた私というものが、とても昔のことのように感じる。
この歯車がどのように回転していて、一体どこに行き着くのかは私には知りえない。なるようになるだろうと割り切れるあたりは、昔から変わらない点である。
その中で一つ、自分で決断しなければいけない部分がある。
新たな使命、月の陰謀、地上と第三の地の占領計画。
今の私の立ち位置は中途半端であり、長続きはしないだろう。
考えても現状は変わりえないが、回答を出せるのは私以外にはいない。限りある時間を活用する権利と、選択権があるだけマシと捉えるべきだろう。
一縷の思案は一つの気配によって切られた。
懐かしいようで異質な者。都に侵入してきた以上、カテゴリーとして敵であるのは間違いないが、それがどのような者であるのかは、気配だけでは想像が付かなかった。
面倒事に溜息を付いた後、立ち上がり宙へと飛び立つ。斥候の兎も含めて多くの兵達は地上へと駆り出し中、廃墟ともいえる都に残っているのは私だけ。全ては現場判断に任せる、とでもいったところだ。
利用できる権限が広い事は悪いことではないのだが、私の場合は勝手にやっておけという本音が滲み出ている。
信頼とは異なる扱い、それにも何も感じてはいなかった。
半端な知識を持って視界が広がると、現状への違和感が生じることがある。地上に降りた時も同じであった。
その結果、顛末だけは今も思い出したくはない。夢に勝手に出てくるのだから、現実くらいでは見ぬふりをしたかった。
けれど、そんな願望をあざ笑いながら、運命は私と彼女を引き合わせた。
「貴方は、サグメ様!?」
「兎……? 私を知っているのか?」
「月の守護者であるサグメ様を知らない者は前線にはいないと思います」
「前線の兵士か。難儀な仕事を選ぶ」
「私は特殊部隊所属だったので、消耗が激しい仕事はしていませんでしたが」
特殊部隊に配属される月兎は、何か特異な能力を持つ者であるか、よほど優秀であるかのどちらかである。
そんな兎であっても、成功率の低い任ばかりこなせば、数は減っていくし、日々受ける強いプレッシャーによって精神に異常を来たすものも出てくる。
長くできる仕事ではない故、彼女も過去形で話しているのだろう。
そんな対峙している兎の姿を見ていると、どこかで見たことがある気がした。
そう、特殊部隊に配属され、ステルスという愛称を持ち、その名の通りに月から消えてしまった兎が一羽いたのだ。
「追放者か」
「はい。私は天降りの兎です」
どれくらい前であったかは忘れたが、特殊部隊で秀でた能力を発揮していた月兎が、万全の防備網を突破して地上へと堕ちた話は、私だけではなく月の多くの者の耳に入っている。
今こうやって私と対峙しているのだから、その噂は本物であるか、あるいは過小評価なのだろう。
「要件は?」
「仕事で月の都を見てこいと楽な仕事っぽく言われました」
「八意様か。ならば何かの意味があるのだろう」
あの御方の思考は私程度では読み切れないが、その一割さえ理解できれば、私の態度も決まるはずである。
既に“この月の世界に一度地上に降りた兎が現れた”というヒントをもらっている。そこから何かが推測できる。
もう一つのヒント、この兎の地上の匂いは会話の内容くらいであり、地上で生きてきたというのに、穢れが全て落とされている。
目下地上を侵略中の月の者ではなく、被害者の地上から月を救う刺客、加えてそれが天降り者だというのだから笑ってしまう。
まるで昔の自分を思い出すようだ。
これから英雄になるであろう彼女と、英雄になれなかった私では比べるまでもないが。
「夢世界を通ってきたのか?」
「そうしなければ月には帰ってこれないですからね」
「ドレミーが通したというのか」
ドレミーは月の思惑も、隠蔽されている野望も知らない筈だ。それでいて彼女を月へと向かわせた。
自身の居場所を取られている状態を解決できるのが、この兎であると考えたのだろうか?
単なる気まぐれ、それとも直感。
何かを感じ取ったことだけは間違いない。
「もしかして生身?」
「えっ? はい……変な薬を師匠に飲まされましたが」
「地上に降りたというのに穢れが消えているのもそのせいか」
「すっごく不味かったんですけど、無理やり全部飲まされました」
「苦労しているな……」
「分かってくれますか? なら、タダで……」
「それはできぬ要望」
「ですよね」
純狐への刺客となり得るのか否か、実力を聞いたことはあったが、実際に肌で感じたことはない。
月を任せるのには荷が重いかもしれない。
ならば、ここで彼女に賭けるべきかどうか直に試すのは、月の守護者としての役目であり、本質的な仕事でもある。
「さて、そろそろ私も働くとしよう。お前に命運を逆に回す資格があるかどうか、見せてもらおうか」
「……やっぱりこうなるんですね。でも、あのサグメ様との手合わせなら、悪い気はしないです!」
月を裏切り地上に堕ちてまでして生きようとした兎、月も裏切れず地上にもいられず、ただただ漠然と二千年を過ごしてきたナニカ。
試すなどという偉そうな言葉を呟いてしまったが、結果など見るまでもなかった。
私は戦う前から彼女に負けているのだ。
それを肌身を持って知れたのは、彼女と近い境遇にいた私にとって、一つの収穫であったと思う。
「……もう十分だ」
「はぁ……、はぁ……」
お互いに呼吸を整える。
疲労状況だけ見れば五分に見えるかもしれないが、内容は完敗である。
私の腕が落ちた、彼女が強すぎる、それ以上に他の部分で差があった。
それは私だけが知っていればいいことである。
「貴方の力は分かったし、八意様の目的もきっちり見えた」
「実行者である私が分からないんですが……」
「地上に住まう貴方は月側の切り札」
救うと明言しそうになったが、そこに舌禍が関わると紛らわしくなるので、言葉選びは慎重に行った。
この行為が面倒だから、必然的に口を紡いでいることが多くなるわけだ。
「それにしても、今日のサグメ様は饒舌ですね」
「好きで無口をしているわけではない」
嘘である。
伝える内容が無いから無口しているし、そのほうが楽だと思っている。
周りだってすぐに逆転しようとする身勝手な命運に振り回されたくはないだろう。
「私はよく話す今のサグメ様のほうが素敵だと思いますよ。では忠言通り、静かの海へ行ってきます!」
けれど、少なくとも何かを口にしたほうが相手には意思が伝わる。
黙っているばかりでは楽しくないというのも、最近は身に染みて感じている。
口数が増える理由など明白であった。
「饒舌、か。アレの前ではいつも饒舌だ」
最近はよく話している気がするし、故に何が逆転したのかも分からなくなっている。
その隣にいるのはドレミー。間違いなくアイツのせいである。
喋る自分と無口な自分。
どちらが稀神サグメらしいのかドレミーに問いかけてみたら、どんな回答が返ってくるだろうか?
言うまでもなくあのニヤニヤした腹立たしい顔が私に向けられるのだろう。
彼女への問いかけ、反応をまず考えてしまう時点で、今の私が何を一番に優先すべきかは決まっていた。
彼女の世界は消える。私達、月の民によって。
それは許されない。稀神サグメにとって。
口には出さなくていい、私が自分の手でその命運を変えればいい。
その力が私にあるかどうか、私自身によって試されている。
私の最後の月への奉公は“正しい敗北”によって終わった。
今は月の要職でも守護者でもなく、私はただの稀神サグメでしかない。
疲れ知らずで颯爽と月の裏へと向かっていく兎の小さいながら頼もしい背中を見ながら、私は彼女の師匠に向かって素直に感謝した。
「八意様に救われた事で、私は一度でなく、二度までも天を裏切りました。これほどまでに出来の悪い者は他にいないと思いますが、八意様はきっと笑って許してくれるでしょう」
乾いた冷たい風が私を冷やす。今の発熱した身体には丁度良い冷たさであった。
⑤
硬直していた私の目に映っている光景を共有した侍女の悲鳴によって、屋敷内は騒然となり、辺りは畏怖と哀哭で包まれた。
天から射られた矢は正確無比に背く者を貫き、その命を容易く奪った。神の力を持ってすれば、神の眷属であろうと、厳重な守備があろうと、関係なく対象を消し去る。
定命の者達は勘違いをしていたと知る、自分達は生きているのではなく、生かされているのだと。
悲しみと恐怖で言語にならない声を上げる者ばかりの中で、私と下照様は表情を変えずに沈黙を貫いていた。
私はただただ混乱していて、湧き出てくる感情の整理さえできず、頭に浮かぶ疑問の解答を作り出すことさえもままならなかった。
どうして、何故、どうして、何故。
問題提起の無い疑問符の反芻が頭の中をぐちゃぐちゃに塗り潰していく。
「佐具売様、落ち着いて下さい」
よほど酷い顔をしていたのだろうか、私は下照様に抱きしめられていた。
彼女の温もりを認知したことで、疑問が溶けて混ざり合ったものによる脳の侵食が止まる。
どうやって落ち着けばいいのかすら忘れ去ってしまっていた私、正常な心を戻してくれた彼女の身体は小刻みに震えていた。
妻であった下照様の感情が、現状を認知して揺れ動かないなんてありえないのだ。それを必死で我慢しながらも、まだ地上に存在している私を気使ってくれている。
誰かに寄り掛かっているわけにはいかなかった。新たな執行が成される前に、私がするべきことが何か残っている筈。
「申し訳ありません、取り乱していました。もう、大丈夫です」
下照様の笑顔は、いつものものと異なり、見ていられるような温かいものではなかった。
お互いに心が壊れそうになっていて、なんとか支えあっている状態。
もう一つ何かがあったら、首の皮の一枚さえも千切れて落ちてしまう。
そんな私達の事情など、天津神にとっては路傍の石と同じ。
複数の使者を携えて忽然と庭に降り立った者達は、私もこの屋敷に住む者が誰も知らない者達であった。
今まで空を賑わしていた雷と大雨は、最初から無かったかのように去っている。
屋敷の衛兵達は一時の感情を忘却してまでして青銅の槍を構えるが、相手は全く動じない。
先頭に立っている男は貼り付けられたような笑顔で、私の天の名を呼んだ。
「天之佐具売様、お迎えに参上致しました」
若日子様と同様に死を賜る覚悟はできていたが、それをへし折る言葉が返ってくる。
言葉の意味は掴めても、真意は理解できない。私は天にとってはただの裏切り者であり、消すべき対象。殺す価値すら無いのならば、この場に現れたりはしないだろう。
話しかけられているのならば、疑問に答える用意もあると見て、心の内を吐露する。
「何故、天津神は裏切り者の私を若日子様と同じように裁こうとしないのですか?」
「裁く理由がございません」
「だから何故!」
「佐具売様の機転によって、天に仇成す者の醜き正体が判明致しました。鳴女に関しては残念としか言いようがありませんが」
理解する以外に方法が無かった。そして、天の捻じ曲がった真意が、私の紙一重をも無残に引き裂いた。
答えは簡単であり、単純。
彼らは最初の企みと同じように、全てを無かったことにしようとしていた。
叛意を抱いていた若日子様の行動を私が天に伝え、天は裁きを下した。そうすれば、私の真意を知っている天にも、裏切り者となった地にも、私の居場所はなくなる。
佐具売という存在は、肉体を殺されずして今、この瞬間に殺されたのだ。
これは神にとって失敗とはならない。異端者を裁く為の不可欠な犠牲であり、使者の行動により地上を背につけた血族の反乱の芽は絶たれた、そういう脚本。
実に素晴らしく、残酷な終焉だ。天を裏切る事の恐ろしさは、死よりも重いというのか。
「さあ、穢れた地から離れ、一度天へと帰るとしましょう。地上平定の話は天へ戻ってからでも遅くはありませぬ」
偽造された英雄を奉る笑顔の男、こいつを斬れば私は地より許されるのだろうか? 下照様は救われるのであろうか?
そのような振る舞いを見せたなら、地上は業火で数百年燃え続け、地上の者達の魂までも穢されてしまうかもしれない。
所詮、地上の平定など神々にとっては時間潰しでしかなく、命を弄ぶ為のお遊びだ。
飽きれば全て片付ける。それをいかなる時でもできるから、地上をただ見下ろしているだけ。
罰せられるべきは天でも地でもない、何の力も持たず、ただ運命を受け入れてしまった私。
「天へ戻る前に少しだけ待ってください」
「何か未練でも?」
「裁きを下したその矢を持ち帰らなければなりません」
是非を聞くこともなく、私は力が入らない足で若日子様の亡骸の傍に寄り、膝を曲げて屈み込む。
弓を失った使い捨ての矢、役割を終えたそれは私そのものを示していた。
佐具売という存在も、もう終わっている。ならば、別の何かに生まれ変わる必要があった。
そして、主と同じ物によって、自身も裁かれるべきと感じていた。
胸に刺さった矢を持ち、ゆっくりと引き上げていく。肉に引っ掛かる間隔も無く、力を入れなくても、私の手に吸い付くようにして若日子様の身体から引き抜かれた。
天之羽々矢、鳥の舌の形をした鏃から後の殆どが血で染まっており、矢羽だけが本来の白を維持している。
殺傷する力は殆ど残っていないのに、赤黒く毒々しい気を保っている。天を裏切った者の処分に使われた為に、強い呪いを帯びているのだろう。
この矢には若日子様の無念と未練が詰まっている。それは忘れてはならないものでもあり、地上に置いていって仇討ちに使われてもいけないもの。
この道具は処分される必要があるのだ。
だから、私は口を開けて、そのままその矢を鏃ごと飲み込んだ。
「なっ! 貴方は何を!」
静止など耳にしない、誰かの言葉を聞く耳があるのならば、こんな狂気じみた行為を行ったりはしないだろう。
口内が切れても噛み砕き、喉にへばり付いても身体へと押し込み、何もかも噛み千切り、誰の鉄の味なのかも分からないままに飲み込んで、身体で再び溶け合う。
誰が止めることなどできようか。神殺しの道具をそのまま取り込もうものならば、取り込んだ者だけでなく、近付いた者さえも強い呪縛に囚われるかもしれない。
血の味しかしなくなったものを吐き出さずに全て飲み込むと、身体の異変はすぐに現れた。
身体の中で第二の鼓動が私よりも強く脈打っている。
それはもう、五月蝿く、五月蝿く、身体が引き千切れんばかりに。
黒かった髪の色は見る見るうちに抜けていって真っ白に変わり、黄色を帯びた月の光を反射する。それも一瞬、地面に倒れ込み、言語とは程遠い音が口から漏れ出し、血溜りに身体を叩きつけながら悶えたせいで、髪は赤いもので染め上げられた。
背中が破れる。誰かが穴を空けたのか、自分で皮膚を剥いだのか、私の中の何かが生まれたのか、それすら分からない。身体の中が暴れているせいで、背中になどかまってはいられなかった。
新たな血溜りは私が作ったもの。口から出たのか、皮膚から流れたのか、穴という穴から噴出したのか、知る余地も無い。映像は入ってくるのに、痛みで考える余裕というものが存在しえなかった。
蟲が這いずっているような感覚は一体、身体のどの部分からするのだろう。一ヶ所なのか、全身からか、体内からか。不快な箇所を知れずに地面を爪で引っ掻いていた。
笑い声か泣き声か、絶叫なのか発狂なのか、入ってくるのは私の声、誰の声? 耳を塞ごうと思ったら、代わりに血が中に入ってきて耳の中で悲鳴を上げた。
どれだけ私は苦しんでいたのだろう?
痛みが治まってきたのだから、時はきっと経過していたのだろう。
周囲が私を見る目に、もはや感情は殆どこもっていなかった。唯一あるとするならば、理解しがたい存在に対する恐怖、とでも言ったところか。その目線は天の者も地の者にも変わりが無かった。
背中に生えた羽、非対称で血で染まった赤い片翼。新しく生まれ堕ちた自分を象徴しているかのように、幼い翼は地上の風を捉えている。
記憶もあるし今まで見てきた事実も変わらない、ただ私が発狂してもう戻れないほどにおかしくなっただけ。
おかしいから可笑しかった。
私ひとりだけ嗤っている。誰も私を理解できていない。分かってもらうつもりも始めから無かった。私は望んでひとりになろうとしていたのだから。
口から垂れていた自分のものかも分からない血を舌で拭い取って、私は宣言した。
「このサグメ、全てを裏切った愚物であります。烙印は二度と消えることのない歪な姿として刻まれました」
主であった若日子様に別れを告げて踵を返す。
衛兵達の武器は今や私へと構えられていたが、私は動こうとしない彼らの前を堂々と歩いて通過した。
行きましょう、笑顔の仮面が剥がれかけていた使者に小さく言うと、彼も本来の使命を思い出したようだ。
視線が突き刺さる。その感情は整理されずに私の背中に叩きつけられている。
裏切り者の宿命というもので、生きているだけで私は誰かにとっての罪なのだろう。
誰も私を許さないだろう。天にだって居場所は無いだろう。
全てを失い、私は侍女でなくなった。そして、佐具売であることさえも捨てた。
若日子様はそれを見てはいない。けれど、下照様の目の前でしてしまったのだ。
佐具売を捨てた私であっても、下照様の顔を見ることだけは、どうしてもできなかった。
道具となった私の新しい主は八意様であった。
彼女はサグメという存在を生かして幕を引こうと策を練った張本人であり、天津神の名誉を保つ為の最善の手段を取ったと、最初に私に言った。
殺してやる、というのが、私の正直な第一印象であった。
地上での時間は、私にとって守りたいものであった。確かに幸せなものであったのだ。
一番大切な気持ちは確かに隠してはいた、それでも河内での日々が大切なものであり、それが勅を実行せずに使者を口封じしたという、天が掲げた征伐の大義名分と共に、粉々に打ち砕かれた。
残っているものはなく、何をしようが直らない。直らないどころか私が狂ってしまった。だから、何も変わらないのを知っていて当り散らす以外に、方法は無かった。
それすら禁止した彼女は畜生であり、それだけの力の差が私との間にはあったということだろう。
完膚無きまでに返り討ちにされた後で、八意様は深々と頭を下げて私へと謝った。
そんなものはいらない。あの時間の続きを返して欲しい。叶うことのない願望を呟くのが壊れた私の精一杯であった。
神殺しの天之羽々矢を飲み込んだ代償は大きく、神器を噛み砕いた口さえも呪いに蝕まれた。
天へと届き、地へと還ってきた矢は、身体に取り込んだ者の発言さえもひっくり返すようになったのだ。
天邪鬼のような発言自体が意識的にひっくり返されているわけではない。私の言動が未来に作用し、現状の事態をひっくり返したのだ。
舌禍という新しい能力を手に入れてしまった為に、私は今までよりも言葉を慎むようになっていった。
最初は厄介な能力の発芽にも驚かず、ストレスを感じる事も少なかった。口を自発的に開ける必要性は、その時の私からは損なわれていたから。
八意様は私に「稀神サグメ」という名前を授けた。
神の道具を飲み込んで足りない神性を得た物珍しい神、私のような異端者にはお似合いの名前ですね、と自虐的に喜んでみせたら、違うと首を振られた。
希とは折り目が無い布地、細やかであり繊細さを表している。月に復帰して任に就く上で、色々な所に何かを感じられるように努めて欲しい、そういう意味で付けた。「希」ではなく「稀」という漢字を選んだのも、禾は実りや収穫を意味し、禾という文字自体が神性を持つこと、それと地上から感じ取った美しいものを忘れないで欲しいという意味で付けた、と説明された。
抜け殻だと自身でも思っていた私に、名前を付けて新しい魂を入れようとしてくれている。それはとても名誉な事であったと気が付けたのは、残念ながら名前を授かってから幾分先であった。
八意様は優秀という陳腐な言葉では表せないほどに、頭が回り、視界が広い御方であった。
そんな八意様は部下の私を特別として扱い、特別として鍛えた。
もし地上に行く前に八意様に会っていたら、彼女の門下に入ってから何度もそう思った事がある。
私と若日子様の旅は最悪の形で終わってしまったが、八意様がもし私達の味方になってくれていたのならば、と。
けれど、その想定に対する反応は悲劇的で、現実的なものであった。
「少なくとも今、貴方に出会うまでは、サグメという存在は私にとって特別ではなかった。歪ではなかった貴方が天界で目に付くとは思えないから、そもそも救うだけの理由が無い。存在しえない過去の選択肢に無意味な期待は持つものではないわ」
失った時間は戻らない。失った命も戻らない。
生ける者は前にしか進めない。たとえその先に何も無くてもだ。
私の口は重くなった。それは矢の呪いによる舌禍だけではない、話す事自体が苦痛を伴うようになっていったから。
感情がゆっくりと死んでいく感覚を覚えるのも、呪われた神器の影響なのだろうか? ただ欲していないから消えていくのか?
結論を出す前に諦めてしまうのも、私が無機質であるからだろう。
私は八意様の命を受けて、降りかかっていた汚名を他者の血の雨で注いだ。
天津神に仇成す者を悉く排斥した。
例え対象が自身の生命に犯され、穢れていようとも。
例え対象が帰還を夢見た、元月の民であったとしても。
例え対象が純なる善意を持っていようとも。
例え対象が私の百倍いようとも。
排斥、排斥。命に従い総てを排斥し続けた。
満たされない。何が私を満たしてくれるのかさえ知りえない。
それでも私は忙殺に身を置き、敵対する対象を排除する。月の驚異と判断された、それだけの理由で。深くは考えず、ただ効率的に。
私にこびりつく排除した者達の穢れは、既に月の自浄効果すら働かないものとなり、私は自分が守っている者の姿さえ見ることができない存在となっていた。
月の都からサグメという名は、自然に消滅したのだった。
そして、いつの間にか上司は変わり、八意永琳という名は月の都で口にしてはいけないものとなっていた。地上へと堕ちた話を部下から聞いたのも、同時期であった。
孤独に慣れる事は無い。でも、そいつはあの時以来、いつも私の隣にいた。
そこが稀神サグメの唯一の居場所であり、在り処であったのだから。
虚ろ虚ろな世界で漂っていると、悪夢の真実を思い出してしまう。
若日子様の血の匂い、神具の呪いに侵食される感触、歪な片翼が生えた理由。全てが夢であれば良かったのに、夢の中でも鮮明な感覚を覚えている。
何度も繰り返してこの夢を見て魘されていても慣れないのだから、これこそ正に悪夢だ。
そもそも夢と呼ぶのも間違い。生々しい感覚は、現実で感じ取った故に記憶や夢に反映されている。
血の匂いを忘れられるわけがない。任を実行したことで私の周りで流れ続けた血の匂いは、消える前に上書きされ、この身体にもこびりついてしまっている。
要職であろうと所詮は道具、性能が落ちたり壊れてしまえば挿げ変えられるだろうし、兎と同じで月にとっての消耗品でしかない。自らがそう強く思っていたのだから、間違いは無い筈だった。
思っているよりはまともだったのか、思っていた以上に壊れていたのか、少なくとも脳と心は乖離しているようである。
月の現状を整理しよう。
破竹の勢いで進んだ清純の天降り兎は、主犯格である純狐に出会い、彼女を半分敗北させた。荒ぶる生命達が静かの海から撤退した事によって、月の都の危機も半分は去ったわけである。
残る半分は純狐側の切り札、ドレミーと取引したとされる者、へカーティアによる夢世界の圧迫である。
夢世界にいる妖精達は未だに生の躍動を堪能し、喜びに満ち溢れている。故に月の都中心部も夢の中から帰っていない。
豊姫様の能力を使用すれば、行きと同じように元の場所には戻れるだろうけれど、再び月に妖精達が現れるのは目に見えている。
月と純狐の闘争の中で私の役割はもう存在しない。後はあの英雄が事件の未解決に気が付き、夢世界に再び現れるのを待つだけである。
結論としては私は今、暇を持て余しているという事であり、同様の境遇にあるのは、ドレミーも同じである。
自分の場所を双方に貸し出している故に、第三勢力を嗾ける以外にないのだが、そもそもあの兎は夢世界に姿を見せず、状況は見事に拮抗している。
一番の被害者でもあるドレミーが自発的に何もできないのは、全く持って不幸である。
昨日、彼女の家に行った際に不思議な事を口にしたのも、現状が切っ掛けになっているのかもしれない。
ドレミー曰く、「家でダラダラしているよりも、もっと生産性のある事をしたい」。
彼女が希望した月の都観光(中心部無し)が希望に該当するとは、私には思えなかった。まあ、決まってしまったものは仕方がないのであるが。
任務の為に寒い中で来ても欲しくない誰かを座って待っている時間が一週間ほど続いた。しかし今は、立った状態のままで、既に知っている者を待っている。
状況が変化しても意識の移ろいは相変わらずで、油断すると先程のように悪夢に引きずり込まれる日々が継続している。エキスパートにでも相談したら解決するだろうか?
なんて、彼女の事を考えてみたら、当人が姿を現した。
「ごめーん、待ったー? って、なんで待っているのよ! まだ30分前でしょ?」
そして、いきなりキレる。
現れた直後に不当な理由で怒られるとは、心外である。
私にとってここにいることが仕事の一環、便宜上仕方がないのだ。
好きで早くからここにいたわけではない、ということ。
取り敢えず他意はなく仕事で常にここにいることを説明してみたら、彼女は頷いてみせた。
「成程、待ち合わせ場所が良くなかったってことね」
私の説明と彼女が導いた結論が合致している気がしないのは、私の感性がおかしいのか、ドレミーが私の想定以上に異常だからか。
最初からボタンを掛け違えているようなズレがどこかにあるのでは?
「誰も待ち合わせに遅れない場所であるし、月観光するのだったら現場で待ち合わせるのが一番効率的だと」
「……ないね」
「何が?」
「浪漫」
彼女は待ち合わせに夢を見過ぎなのではないだろうか?
今日の目的は遊ぶ(ドレミー希望)ことにあるのだから、待ち合わせは手段でしかない。そんなところに拘りを持つこと自体が、私にとっては非効率的で無意味と思える。
心の訴えがドレミーに響いてしまったのか、彼女はそんな疑問に対する自身の答えを私に教えてみせた。
「楽しいことをする時は、相手を待っている時間さえも楽しく思える、ってね。私のお楽しみ時間を奪うとは、許すまじ」
確かに私も、待ち時間の一部をドレミーに費やそうとしていた。
行動で証明している故に言っていることは理解できた。けれど、結論としては理不尽な言いがかりであり、逆恨みもいいところである。
彼女と違って私は好きでこの寒さしかない世界の中で待っていたわけではないのだから。
そもそも、立ち止まっていては寒いし、頭も回らない。
夢心地なドレミーの妄想と現実には大きな隔たりがある。
それを直に知ってもらうのも一つの手。
「なら、一度帰ろうかしら?」
「どうせ帰る気も無いし、口にしているんだから帰る方向にも事態は進まないんでしょ?」
よく分かっていらっしゃる。
非効率的な行動は取りたくない。彼女の浪漫という名の無駄の為に労力を費やすのは、まっぴら御免である。
態度では諦めたドレミーであるが、口ではまだ未練という名の文句が出ている。
「次はちょっと遠くの待ち合わせ場所にしよっと、あと一時間前行動」
「面倒だから行かない」
「とか言って一時間半前に来ちゃうんでしょ、このロマンチストめ。そもそも、サグメって遅刻嫌いそうだから絶対しなそうだし」
「途中で間に合いそう、と口にしたら結果的に遅れるかも」
「いや、それ、どんな待ち合わせ場所に関わらず遅れるから」
確かに。
ドレミーの浪漫談義のせいで、せっかく早く来たのにその分の時間を1/3ほどロスしてしまった。
私は全く今日の計画というものに携わっていない、連れ回され役なのでまあ気楽でいいのだが、この調子だと計画通りにものが進む気はしなかった。
遊びというものは少なくとも私が進める任務とは違うもの。けれど、性格柄なのか、予定通り進めていかないと、どうにも心に鬱憤が溜まっていく体質に変化していたらしい。
「さあ、今日はいっぱい遊ぶわよ」
「遊ぶ、とは?」
「普通に」
普通に遊ぶ、というものを知らない私にとっては、既にそれは普通というものから掛け離れているので、こうやって聞いているのだが。
なので、普通が何たるかの説明が要である。
「優しいドレミーさんが説明してあげましょう」
尋ねたのに別に必要ない、と顔を見て反射的に本音を言いそうになったが、幸いにして普段の口の重さによって声が心の中から漏れずに済んだ。
彼女を拗ねさせてはいけない。取り敢えず、計画が破綻するのが私にとっての一番のストレスなのである。効率的に振る舞えば、多少の失敗があっても、面倒事は起こらないまま計画は成功に終わるだろう。
「外で遊ぶというのはね、ウインドウショッピングをして、カラオケに行って、アイスみたいな可愛いデザートを食べて、また明日、って感じ」
なんて甘ったれた思考は、彼女の理解できないワードによって崩れ去った。
私の辞書に登録されていない単語の連続故に意味も分からないし、それでは今後の行動に支障が出る。
恥を忍んで直球で聞いてみることに。
「ウインドウショッピングって?」
「欲しい物を見て満足する買い物」
「欲しい物が手に入らなければ、満足からは程遠い気が」
「実際にやってみなきゃ分からないでしょ? 夢では満足できたし」
夢基準では信用できない。
自分の顔をした精神世界の分身が、一人称視点で奇行に走ってご満悦な夢も少なくないのだ。
ドレミーの場合は夢を見る者達の一般的見解に該当しない、という可能性もあるけど。
「そもそも、売り手がいないんだから、買えないんじゃないの? 丁度いいじゃん」
「凍結して扉が開かないようになっているかも」
「ちょっと入るだけだから、物取らないから」
「そもそも治安維持の為に駐在している者が、窃盗に見間違えられる奇行に手を染めるわけにはいかないし、そういう事を助長するのも論外」
一般常識を語ってみるが、そもそも大きな問題は別にある。
「店なんて中心地にしかない。残っているのは見ての通り住宅ばかり」
「他の場所も?」
「同じ光景だからすぐ迷う」
「じゃあ、カラオケもアイスも没?」
アイス屋なんていう洒落た屋台は民が消えた街では当然経営していない。
そもそも、住宅地にそんなものはない。
カラオケ、というものが何であるかは分かりかねるが、ドレミーの反応を見るに、恐らく無いと思われる。
「ところで、カラオケとは?」
「個室で歌を歌う」
「歌いたいなら自宅で独りで歌えばいいと思うけど」
「みんなで歌うから楽しいの!」
「自宅に招けばいいと思うけど」
「マイク使うし、歌いたい曲がかけられないから無理だって」
どうにも自分には向いていなさそうなので、消極的な言葉ばかりが出てきてしまう。そもそも、楽しいと思えるポイントが一体どこにあるのかが分からない。考えてみても、苦痛と恥辱以外に思い浮かばない。
面白い部分はどこであるか聞いてみると、
「夢の中では滅茶苦茶盛り上がっていたし」
これまた夢オチである。
夢知識が正しいものかどうか、本当にした場合どう感じるのか、現実からの情報が一切無いのが不安要素だ。
まあ、一番の不安要素は計画が既に破綻してしまっていることだけれど。
でも、当人はまだ諦めていないようである。正直、カラオケなんていう舌禍ランダム発動試験なる危険な遊びはしたくないので、諦めてもらいたい。
「予定変更! 月の中心地に行こう!」
「私も貴方も穢れを落とさないと入れない」
「くっ! ひとの場所を借りているくせに、なんて閉鎖的な連中なんでしょうか!」
その認識は間違いなく正しい。
月の民は穢れを嫌う故に、異なるモノを認めず排他的な態度を取ることが多い。
まあそれはいいとして、
「もしかして、遊び慣れていないのでは?」
「外の世界で遊ぶのは初めて。夢の中では慣れているけどさ」
「夢なら何でもあるし、何でも楽しいんじゃないの?」
「夢は確かに何でもあるけど、何もかもが触れられないような壊れやすいもので出来ている。目が覚めればもうおしまい。だから、私は現実で遊びたいし、今こうしてサグメと一緒にいるわけ」
ログハウスで見てしまったドレミーの夢、心象世界を思い出す。
彼女は夢を処理するという使命故に、夢世界で会う誰に対しても一歩通行だ。
誰とでも知り合いになれる、自分の中では。
何にでもなれる、自分の中では。
何だって手に入る、自分の中では。
何だってできる、自分の中では。
どんなに楽しくたって、最終的に残るのは孤独だけ。
楽しいと思えた事について誰とも語れないから、それを事実として信じることさえもできなくなる。
だから、私が今、彼女の隣にいることは、きっと大事なことなのだと思う。
確かに私はここにいて、ドレミーも夢ではなくこの世界にいるのだから。
「私と相手、両方の記憶に残るのってさ、夢に生きている私にとっては奇跡なんだよ」
「現実に縛られている私には当たり前すぎて、つい忘れてしまう」
「私もいつか、それが常識になると信じていた。信じる者は救われるのかも? 救ってくれたのはサグメ?」
「恥ずかしいこと言っている自覚は?」
「恥ずかしいより嬉しいが優っているかな」
白い息を吐き出しながら、赤くなった顔でドレミーは言ってみせた。
ウインドウショッピングが行える店とカラオケ店を探す名義で歩き始めた私達であるが、見つからないものを探そうとするのは疲れるだけである。
無いものは無い、ドレミーも半分は諦めているのか、真剣に探しているようには見えなかった。
故に会話さえも脱線するのは仕方がないのである。
「男女だったら、これってデートって言うんだよね?」
「すいませんね女で」
思い出作りにしても、協力できることとできないことがある。
たとえ私が自分が女であると口にしたとしても、確定している事態は動きようがないわけで。
「一日、男のふりで」
「ドレミーのほうが似合うんじゃない?」
帽子を被っているから短いように見えるけれど、彼女の髪は私と同じくらいの長さはある。
あの不法侵入事件があった故に、私は知ってしまったわけである。
目を瞑っていた時のドレミーの姿は、できるだけ思い出さないようにはしている。普段から口でずばずばと斬ってくる彼女の無防備な姿は、精神の安定上宜しくない。
そもそも、口と行動があまり合っていないのがドレミーという存在である。変な嘘を付いたりはしないけれど、ふざけたり、おちゃらけた発言は多い。しかしながら、彼女の根は真面目そのもので、無駄に苦労を背負っている感もしばしば。
そして、たまに正直な心を私に直接ぶつけてきたりもするから、口下手からすると対応に困るわけだ。
けど、今回の場合は対応しやすいほうである冗談であった。
「私、夢に夢見る乙女だし」
「だから、主に言動が痛々しいのかしら」
痛い妖怪より、痛みの共有目的で肩を叩かれる。しかしながら、痛くはなかった。
軽いやり取りが普通になる関係は斬新だ。
従者であった時、そして月に復帰してからも上下関係ばかり構築してきた私にとっても、それは今までに感じたことの無いものだ。
一番それに近い関係にあった下照様であっても、お互いに踏み込み過ぎてはいけないという遠慮というものが存在していた。
ドレミーが私の領域に土足で入ってきている感覚を私は持っていないのだけれど、彼女は私という存在を一体どう感じているのだろう?
恥ずかしいので、聞くことはできないが、気にはなる。
彼女の顔は鼻の頭を筆頭に赤くなっている。水が凍る気温なのだから、厚着をしようが寒いものは寒いのである。
「温かいココアとかコーヒーが出る店はないのかな?」
「民のいない凍結された田舎町にとっては難易度が高い」
「全くこんな場所で遊ぼうと言ったのは誰かしら?」
突っ込むのが面倒なので無視したら、悲しそうな顔が返ってきた。これはこれで、私からすれば満足である。
これだけ道の両側の塀に所狭しと並んでいる氷柱や、凍結して開きそうもない窓を見ていると、やはり身が震えるものである。
「無視した罰。えいっ!」
手を腰にまわして抱きついてくる彼女、良い匂いがしたと感じたのは秘密である。
「サグメは温かいねぇ」
「ドレミーは重い」
「失礼な!」
「歩きずらい」
歩みを止めないので、自然と彼女を引きずっているような形になる。
流石に悪いと思ったのか、ドレミーも手を離して、再び私の横に並んで歩き始めた。
彼女がどのような顔をしているかは分からない。私は恥ずかしさを隠すので精一杯であったから。
「ああー、もう駄目、寒いし無理。夢に溺れて運動不足だわ、私」
「成程、重いわけね」
「うるさいから!」
歩き始めて30分、全く変わらない風景と身をも凍らせる寒さに痺れを切らせて、ドレミーが泣き言を言い始めた。
かくいう私も、この寒々しい住宅街の光景の連続には、一週間前から飽きている。
遊びというものは苦痛であってはいけないもの、そろそろ身の丈に合った方針変更が必要な時間帯である。
「ああ、暖かい場所で横になって牛になりたい……」
「願いは後半だけ叶っている」
「なんかさっきから扱い酷い気が」
さて、温かいかどうかは分からないけど、横になれる近場はあるかもしれない。
私自身、都から離れて幾許の時間が経っており、今の都を把握していないが、もしかしたら頭に描いた建物はまだ存在しているかもしれない。
「事態は前半も叶える方向に動いているかもしれない」
「えっ? 暖かくてリクライニングできる場所あるの?」
「行ってみないと分からないし、希望も満たせるかも不明」
「よし行こう、今行こう」
手を引っ張って飛び立つあたり、全然元気ではないかと思う次第。
とは言うものの、彼女はその場所を知らないから、上にしか動けないわけで、
ちなみに上空はもっと寒かった。
「どこどこ?」
「すぐそこ、あの建物」
「どう見ても民家にしか見えないんだけど」
「正真正銘民家。元私の家だから」
近場だったので急降下、飛んだ意味は無く、無駄に身体を冷やす結果となった。
例外なのは今も繋がれた掌、ドレミーの手は冷たかったけれど、こうやって握っていると温かくなってきた。
着地してから、私は手を離す。名残惜しい温かかったものは消えて、冷たい空気が温もりを奪っていく。
「誰か住んでいるかもしれない」
「口にしたから、これから出て行くんじゃない?」
「……聞いていないから大丈夫、多分……」
なんか悪いことをしてしまった感があるが、能力は発動していない……筈。
いるかどうかも分からない見知らぬ住人の事など全く気にしていないドレミーは、勝手に調査を始めている。
本当に家が恋しいらしい。
「誰も住み着いていないみたいなんだけど? カーテンやインテリアも無いし」
結露を手と息で溶かしつつ、中を覗き込んでいるドレミーは、私でない者が見ても、不審者にしか見えないだろう。他に誰もいないのだから、何をしても私が許せば許されるのであるが。
窓やベランダ側を探っている彼女には、これでもまだ遠慮があるのだろう。
元家主でもある私は無駄を省く。目の前には氷が張っているドアノブである。
触ると体温が根こそぎ奪われていくような金属特有の感覚に襲われる。寒い中にいるので好ましい感覚ではない。
ドアノブを回して押してみる。玄関の鍵もドレミーの家と同じように掛かってはおらず、扉は思いの外簡単に開いた。
「不法侵入者発見!」
「いや、幾年ぶりかの帰宅だ」
短い廊下とリビングへと続くドア、住んでいた時にも感じていた味気無さは、空き家になっても同じであった。
玄関に入り込んだことで共犯者となった者は、中のあらゆる箇所に目を向けている。目ぼしい物などどこにも置いていないのだが。
「埃とか溜まっていないということは、実は住人あり?」
「ここは月、半端な穢れが存在できる場所ではない」
「勝手に夢が溜まっていく場所とは正反対ね」
靴を脱がずに入っていく私に習って、ドレミーも続く。
残念なのは、外の空気と家の中の空気の差があまりないところである。
息の白さは、屋根付きの家の中に入っても改善はされなかった。
付属備品のソファーにぞっこんとなったドレミーは、早速そこを住処にして横になっている。
彼女の家に対する親和性の高さは、夢世界での長い一人生活によって培われてきたのだろう。
さて、結局、いつも通り家の中で落ち着いてしまっているあたり、無理をしてどこかに行かなくてもいい、という解答を突きつけられた気分である。
そもそもここは寒い、穢れた生命には優しくない場所であり、理想の遊び場所とも懸け離れている。
「暖炉は無いの?」
「そもそも煙突が付いていない」
「暖房……」
「電力は夢の中ね」
「よし、帰ろう!」
「構わないけど」
「じゃあ、帰らない方向で」
寒がりで強がりなドレミーは、私でなく舌禍に従順である。
正直、私としては何でも構わないけれど、こうテーブルの椅子に座ると、いつものようにホットコーヒーが欲しくはなる。
豆どころかお湯すらないので、過ぎた希望である。
「このままでは我が手が末端冷え性で大変なことに!」
知らんがな。
「もっといい家に住もう」
「もう住んでいない」
「どうせ今の家だって飾り気のないこの家と大して変わらないんでしょ?」
図星なので反論が口から出てこなかった。
「土地も余っているし、夢世界でいいなら家の一つや二つ、ドーンとプレゼントしちゃう」
「いらない」
「成程、欲しいのかぁ。前向きに検討しておこう」
私は言葉は天邪鬼とは違うのだが、結論としては、いつも通り事態は逆に動いている。
色々と勘違いをしているみたいだけれど、私の能力の誤解を取り除くのも疲れそうなので、放っておくことにした。
まだ寒いのか、彼女はソファーの上で丸まって暖を取ろうとしているが、気温が低いので、動かなければ寒くなる一方である。
私よりも幾分暖かそうな格好をしているけれど、当の本人が寒がりでは、その効果も薄くなるものである。
部屋を暖める方法として現実的なものはない。
そもそも、生命が好む熱が発生しないようにする為に都の住宅地は凍結されたのだ。簡単に熱を取り戻せるようになってはいない。
家に火でもつければ温かくはなるだろうが、そんなことをしたら温かさとか冷たさとかを感じられない存在にされる可能性が生じる。
冷たい木のテーブルに肘をついて考えていると、顔をこちらに向けた彼女が疑問を口にした。
「サグメってさ、いつも難しそうな顔しているよね。こうやって左手を顔に当てて、遠い所を見ながら鋭い眼差しで思案しているというか」
別に真似しなくて宜しい。
能力柄からか思ったことはそのまま口にできず、考えてから発言することが多くなるから、そう思われるのだろう。
左手は考えている所を人に見せるのは失礼であるから、少しでも隠そうとして生まれた癖で、今や無意識の手癖になってしまっている。
「そうかもしれない」
「私はサグメと逆。話してから考えるから、言葉の一つ一つが軽いんだろうね。もし間違っていたら、全部夢オチでしたーってな感じて」
私からすれば、舌禍と異なり便利な能力である。
一つの発言が迎えるべき真実を捻じ曲げてしまうかもしれない。それが自分にのみ作用するのだったらまだ許せるのだが、他者にも大いに影響を与えるのだから厄介なのだ。
無口と言われるのも慣れた。そうあったほうが、私の見る世界は正常でいられる。
そして、考えたふりを相手に見せるもう一つの要因。
そうしていれば、誰かから話し掛けられる機会が減るからである。
「でも、そう考えてばかりいるとさ、つい話し掛けたくなっちゃうよね」
「何故?」
なのに、真逆なことを普通に言ってみせるドレミー。
私にはドレミーの意見の真意が理解できなかった。
横たわったまま両手に作った拳の上に顔を置いて、ドレミーは言ってみせる。
「だって、心配になるでしょ?」
やはり、彼女の本質はお人好しだ。しかも病的なまでに。
皆は知らない。獏という妖怪が几帳面で、真面目で、冗談が好きで、賢くて、義理堅くて、それでいて寂しがり屋。
私の生きてきた時間の中で、彼女と共有してきた部分はあまりに短い。
なのに、私は彼女の多くを知ったと思うし、彼女は少なからず私という存在がどういうものであるか知っている。
あんなに長く一緒にいた八意様や部下の月兎達が好きなものなんて私はよく知らないし、私も自分の事を教えようと思う気さえ生まれなかった。
どうしてこんなにも心変わりしているのだろう?
理由は分からないけれど、悪い気分ではなかった。
言った後に楽しそうに笑ってみせるドレミーの顔は眩しく、少し身体が温かくなった気がする。
少しばかりの心地良い沈黙、破ったのはドレミーだった。
「実はサグメに隠していたことがあるの」
身体を起こして正面からこちらを見る彼女を見て、真面目な話をしようとしているのが分かった。
どのような理由であれど、誰かと色々な関係を築く際には、隠し事の一つや二つが生じるものである。
事実、私もドレミーにとても重要な隠し事をしているのだから。
それを口にすれば、今の関係が壊れてしまうような隠し事。
月を裏切ることは決めていたが、私が月の使者として近付いた事実は消えない。
ぐるぐると頭の中で回り出した私の現状を止めるように、ドレミーは私へと頭を下げた。
「私欲でサグメの夢を覗きました。ごめんなさい!」
最近見た夢、記憶とごっちゃになった昔の思い出。
夢故に多少の改竄はあれども、事実であるから獏であっても処理できないだろう。処理したところで、また私の記憶を軸にして同じ悪夢は生まれるのだろう。
別に夢を見られたという事実に関しては何も思う事は無かった。それは彼女が獏であり、与えられている特権なのだから、誰に行使しようと自由であると思う。
けれど、私が佐具売を捨ててサグメとなった経緯は、誰かに見せられるような美しいものではない。
「気分の悪いものを見せてしまったようね」
「処理したのにサグメが覚えているって事は、夢と記憶の混在」
「今の私を作り出してしまった夢にしたい過去の経験がアレを生み出した」
目線を下に落として神妙な顔つきをしているドレミーが、あの記憶を覗き見て何を感じたのか? 少なくとも良い印象は持たないだろう。
そう、そろそろ潮時であった。
私達の関係には偽りが多すぎる。いや違う、あの時と同じで私が一方的に偽っているだけ。
この関係が消滅してしまうものであったとしても、嘘を付いたまま終わるわけにはいかない。
気持ちを抱え込んだまま、何もできずに主を失った過去とは違う。
何かをすることができる力はあるのだから、同じ過ちだけは繰り返したくない。
こちらを見てくれていないドレミーを目に捉えて、私も彼女の告白に続いた。
「私も隠していたことがある」
不安げな表情を隠せずに、彼女は顔を上げる。
私の顔からも柔らかさは抜けきっているのだろう。それくらいの裏切り行為を口にしようとしている。
過去の過ち? 結局、過去と何も変わらない。
私は地上と天を裏切った時と同じで、再び全てから背を向けようとしている。
唯一の違いは自発的である事。
「月の者達は近日中に、貴方の居場所、夢世界の強奪を行う」
「……えっ?」
「その先鋒が私だった。だから、私は貴女の前に現れて、避難場所を借りれるようにまず交渉を試みた」
月の真意を途中まで知らなかった、なんて言えるわけが無い。
彼等は過去にも地上欲しさに身勝手な行動を試みた。一度見ている、実行しているというのに、それが夢世界に及ばないものだと決め付けていた者のほうが愚かだったということ。
同罪。過ちは繰り返す。
それでも、彼女を、大切な者を失ってしまうことだけは絶対に嫌であった。
「最初から協力的だったのも」
「仕事だから」
「私の家に頻繁に訪れたのも」
「仕事だから」
「今こうして隣にいるのも」
「仕事だから」
問い詰める内容の質問を流す回答で、彼女から納得を貰えるとは思っていない。
それでも突き放す以外には無かった。
ドレミーはこれ以上、月にも私にも関わらないほうがいい。
狙われたのは、選ばれた不幸として、今は諦めもらう。
私だけが諦めず、月から夢世界を守れればそれでいい。
巻き込めば、事故が起こることだってありえるのだから。
「だから、せめて争うことなくこの場所を……」
「嘘つき」
嘘があったから、隣にいられた。だから、彼女の言葉は正しいし、それを私は受け入れようと思っていた。
けれど、私と彼女の認識には大きな差があった。
どのような意味を持って、ドレミーが私を嘘つきと称したのか、まだ理解できていなかった。
「サグメは事態の詳細をわざと口にした。つまり、それは事態の逆転を表している。こうして隣にいるのは、仕事だから、じゃないんでしょ?」
心は見透かされていた。
気まずい空気を背負って視線を下げていたドレミーは消え、真っ直ぐに私の目を見据え、全てを見据えようとしている。
ちっぽけな私の決意も、彼女にはお見通しだった。
「サグメは私の事を理解した上で今の選択肢に至ったのかもしれないけれど、一つ致命的な欠落があると思う。私だって、この数日間で貴女の事を理解してきたんだから」
説法を説くように覇気を強めて言い放ったドレミーは、私に言い訳を考える時間すら与えずに、言葉を続ける。
「私はずっと孤独だった。夢の世界でしか一人前の妖怪でいられず、ここに居続ける事、皆の夢を集めて適正な形に戻すことが自分の唯一の存在意義だと信じていた。でも、ひとりは寂しかったし、頼れる何かも無かったから、唯一すら信じきれていなかったのだと思う。孤独に侵されて私の心に隙が出来上がっていたのは確かだし、話し相手が欲しいと思っていたのも事実だから」
やはり、あの夢のような彼女の叫びは、ドレミーの心であった。
だから、彼女が嘘偽りない感情で私に話をしてくれているのが分かる。
「そんな中でサグメはこの場所にきた。そして今も私の前にいる。サグメがここにいるのは夢じゃないから、過程や目的がなんであってもそれでよかった。夢じゃない、本物の現実」
水泡の如く全てが消える世界。
波に浚われて自分だけが残る世界。
そんな夢と共にドレミーはたったひとりで生きてきた。
そして、彼女は今、裏切り者である私を認めた上で頼ってくれている。
「サグメの存在は夢でも過去にするものでもない。その現実、他人様なんかに簡単に幕引きさせるつもりはないから」
夢の支配者は私ではなく、窓の外へと言い放って見せた。
ドレミーなりの宣戦布告だったのだろうか?
月は私達の言葉を聞いているかもしれないし、取るに足らないものと思っているかもしれない。
どう捉えられようと、私とドレミーの考え方と方向性は変わりそうもない。
「こう見えても夢の支配者なんだから。他に誰もいないけどね」
何も言葉に出せずにドレミーの感情と言動に圧倒されていた私であるが、ドレミーの身体は寒さ以外のもので少し震えていて、指を折りたたんで何かの感情を我慢している。
似たもの同士、寂しいもの同士、付き合い下手同士、気が合う理由は色々とあったのかもしれない。でも、そういう過程なんて確かにどうでもいいものである。
私は私の意志で今の選択を行い、ドレミーも同じ意志を持って一緒にいる。
それは夢でなく今、現実であったのだから。
「……で下さい」
「えっ?」
その大きな眼は確かに私を捉えてはいたけれど、不安や虞が表れていた。
私は一度、全てを失ったことがある。そんな現実を迎えることになると頭に全く想像しないままに、一瞬で何もかもが刈り取られた。
湧き上がる感情は何もできなかった私自身を壊さないと気が済まない程に増長し、死なない為に感情を抹殺した。
彼女にはそうなって欲しくない。笑顔を絶やさないでいて欲しい。切にそう思った。
「どうか……、私を独りにしないで下さい」
こんな時に気の利いた言葉を掛ける事さえ叶わないのが、舌禍というもの。
でも、口以外でも彼女に思いを伝えられる事を私は知っている。
今の私は笑顔でいられているのだろうか? 彼女を心の不安を少しでも取り除いてあげられたのだろうか?
私を見た後にはにかんだ笑顔を浮かべた彼女を見て、自分が救われた気がした。
彼女がいなくなったら、私もまた、独りになってしまうのだから。
⑥
純狐の協力者であるヘカーティア・ラピスラズリが敗れたのは、月の都観光を行った次の日であった。
八意様にヒントでも貰ったのか、楽園の兎は夢世界に現れ、最後の抵抗を行う二人を納得させるだけの勇を見せ付けたという。
これにより、純狐の本気度の低い月侵略計画は水泡へと還り、夢世界で騒ぎ立てていた妖精達も、あるべき場所に帰っていった。月、純狐、地球、三者で均衡が取れていたパワーバランスが崩れ去った。
これで月の者達の枷は外れて、地上侵略班の者達も都に帰還するだろう。新しい獲物である夢世界とドレミーに対して、お礼と言わんばかりに銃口を突きつける状態に変化してもおかしくない。
いつ動いてくるのか、私に命が下されるのか、変わりの者が派遣されるのか、元になるべき情報が未だに得られなかった。
上司からの指示はあれ以降、全く無いままだ。つまり、私は既に信用に足る部下でないと切り捨てられていると考えたほうが良いだろう。
最悪条件を想定しておくべきだ。賽の目とは悪い方向にばかり出るものである。
特に状況が大きく揺らいでいる今は、動くには最適な状況である。月にとっても、私にとっても。
地上組の合流を待ち、万全を期して編成し直すのであれば、ある程度の時間が必要になる。
月にとっては別に急ぐ理由は無いのだから、急襲の選択肢は無いと考えるべきか。
都の中心部自体も豊姫様によって元の月へと戻っている。空間移動による弊害の有無や、凍結の解除、都市機能の回復など、月にとってもやるべきことは少なくない。
油断をしていたわけではない。合理的に考えれば、可能性として低いと判断できた。
けれど、私はこの計画の概要について知らなかった。分からない部分を推定で補填していたことで、判断に鈍りが生じたのだ。
そんな失態をフォローしたのが月側だというのだから、笑うに笑えない。
「サグメ様、指令です」
起きてからゆったりと時を過ごし、コーヒーを飲み終えてからドレミーのところに行こう、そう考えていた矢先に聞き慣れない声が入ってきた。
窓の外に佇むは雉、昔を想起させる不吉の使者が私を待ち構えていた。
本来なら使者を家に入れて労いの一つでもしているだろうが、今日はそういう気分ではなかった。
上司が直接でもなく手紙でもない、まして使者はいつもの者ではなく因縁のあった雉ときた。
疑い深いものでないとしても、この境遇は何かが狂い始めていると考えるべきだ。
「正式に夢世界、獏の討伐指令が下されました。勿論占領には手段は問いませんが、もし抵抗するようならば力を示しても構わないとの事」
「承りました」
二つ返事で受け入れて見せても、使者は背を向けようとはしなかった。
懐疑的な視線、そいつは私の過去を知っているのだろう。
「本当に、ですか?」
鳴女という雉の血脈を目の前の鳥が引き継いでいても、何もおかしくはない。
こうして私のところに使者として来たのも、裏切り者であり、仇の顔を一度見てみたかったからかもしれない。
それでいても、使者としての役割は忘れていない。
「私はただの伝令ですが、その任すら行えないような役立たずにはなりたくありません。本当に受諾して頂けたのでしょうか?」
「……断る」
「貴女は正直者ですね。しかしながら、それ以外には褒めるべき点が一つも存在しません」
悪意を見せ始めたのは、私を月の敵と認知したからだろう。
伝令役でしかない雉では私を止めることはできない。それでいてこうやって伝えたのは、月が見せている余裕。それは間違えれば油断になるだろう。
「一度のみならず二度も忠義を反する。その行為、恥ずかしいと思わないのですか?」
自分の理念に反するならば、他者に泥を投げられても構わない。
誰かに後ろ指を指されようとも、私は自分の意志で動くと決めている。
「貴女のような者と一緒にいる者、貴女が仕えた者の器も知れましょう」
何とか焚き付けようと考えた雉の一言は、確かに的確であった。
私そのものではなく、他者を天秤に乗せて辱めをしてみせることで、私の中から冷静さが一瞬で失われた。
怒りを覚えたのは必然、雉はどいつもこいつも傍若無人だ。
窓越しに私の反応を見て、続けざまに何か言おうとしていたので、私は一言だけ呟いた。
「貴方も頓使い(ひたづかい)になりたいの?」
うるさい、それだけだった。
この時の私の顔は窓硝子に自分にも見える形で映っていた。相手の血の気が引く顔を見れたもの当然と言えるような、酷く歪んだ顔をしていた。
窓から離れた彼女が即座に逃げたのは必然。なぜなら“頓使いにはならない”方向に事態が動き始めたから。
あまりに滑稽な姿に、乾いた嗤いが出てしまった。
今日の私はいつにも増して性格が悪い。そして、いつにも増して血が騒いでいる。
身体に溶けた天之羽々矢が獲物を欲している。呪いとまでいわれる神の力を、神に見せ付けようとしている。
構わない、今日はそれが必要な日となるのだから。
愚者は戦地へと飛び立った。
愚か者で結構。自分が愚かと知れた事はきっと悪くない。
私は稀神サグメ。
月を守りし者にして、月を欺く者。
所詮、私は天邪鬼。
誰かの手の下で満足していられる性格ではなかったということ。
それだけの欲望にまみれた穢れた存在であったということ。
アポロ経絡はいつもと同じ風景で、何の気配も受け取れない。
新たに発生した夢魂もどきは、風もない世界をふわふわと漂い、虹色の光を時折反射する。
遠くに見える月、もう手が届かない場所になってしまった私の故郷、身が穢れた時からそうだったのかもしれない。
戻るべき場所はある。そこを守る為にも、私は戦わなくてはならない。
ログハウスはいつも通り、煙突から白い煙を吐き出している。
そんな家の前にいる兎達と月の者。
数としてはそこまで多くない。地上に手を割いていた為か、単純に甘く見積もられているだけか。
月兎の戦闘兵を率いて正面に立つ男、能面のような笑顔を全く崩さない顔から、私はその者と認識があることを思い出した。
「やはり来てしまったか」
「地上に現れた使者? どうしてここにいる?」
「私が作戦の指揮官であり、そして裏切り者の上司であるからだよ。稀神サグメ」
驚くようなことはもう無いであろうと勝手に思い込んでいたが、想定外の言葉によって見事崩される結果となる。
自分の上司が八意様から代わったことで、上に存在する者に対して興味を持たなくなっていたのは事実だ。加えて私の身体の事情により月に身を置けなくなった。
情勢が見えていないのは自認していたが、本当に何も見えていなかったらしい。
「まさか、貴方が私の上司になっていたとは思いませんでした。随分とご出世なさったのですね」
私のお世辞にも顔色一つ変えず、貼り付けた笑顔で一礼して対応してみせる。
数千年前から全く変わっていない丁寧な態度、だからこそ、地上にわざわざ訪れて自分の意志を全く見せないままに私を月へと連れ戻した使者と、こうして意志と野望を違えて対峙している事実に驚いた。
導入されている月兎の量は、私が指揮している量と同等といったところ。
つまりは私兵程度の数であり、月が全面的に協力しているのではなく、独断でこの場所に来ていると考えられる。
その中での唯一、そして最大の誤算は、月の強大戦力がこの場所に来ていた事。
「依姫様。まさか、貴方がこの場所にいるとは」
「久しいな、サグメ」
「月にとってそれ程の事という認識で宜しいのでしょうか?」
「信頼できる月の守護者に凶兆があった故、私がここにいる」
私の月からの離脱はどうやら依姫様を動かすまでの事態と判断されるらしい。道具にしては中々立派なものである。
依姫様は月の軍務を司る最高位の責任者であり、八意様から教えを受けていた私の上級生でもある。その戦闘力は月でも指折りであり、私よりも遥かに強い。
正攻法での防衛は難しくなったが、それ以外に手段が無いというのも事実ではあった。
「さて、この場所に来てしまったということは、雉の忠告をも聞かずに月を裏切り、再び仇成す存在となった証左である。月と無関係な君は一体何をしにこの場所に来たというのか?」
「月とこの世界も無関係」
「そうでもないな。現にこうして私達は話し合いに来ている」
砲弾外交とでもいったところか、銃口を向けての会話は話し合いとは言わない。それは支配である。
牙はもう見せているのだから、無駄な茶番を見せても誰も得しない。
そんな思考を余所に、上司は続けた。
「本当は力で抑え込もうと思ってはいたのだが、どうにも獏という妖怪は賢く懸命、無駄な戦闘を避けて条件を呑めばこの場所を譲渡するとのことでね」
話し合いの場を設けたのは、ドレミーのほうであった?
彼女の姿は未だにないまま、と思っていたら、何食わぬ顔でドアを開けて外に出てきた。
そして、対峙している私と月の勢力を見て、驚いている。
私よりも先に彼女は屈したとでもいうのか?
戦う相手では無いというのに、高揚した感情のままに私はドレミーに怒りをぶつけた。
「何でドレミーが先に諦めているわけ!」
「それは……まあ、大切なものを守る為に必要な犠牲というか、選択というか」
「ここはずっと貴方が居続けた場所、簡単に捨てていいものじゃない」
ドレミーが何か言いたそうにしていたが、私は掌を見せてそれを制した。
失う事に慣れてはいけないんだ。そうやって、感情は少しずつ自殺していく。
彼女の顔から笑顔が消えてしまうのは絶対に嫌であった。
「余所者が有意義な話し合いの場を荒らさないで貰いたいのだが」
感情的な私とは全く異なり、冷たい声で私の言葉を遮ろうとする。
でも、その言動には大きな間違いがあり、私はそれを修正しなければならない。
月から離れた私は部外者? 違う、私は月に仇成す加害者だ。
致命的な勘違いをしている愚かな侵略者達に、圧倒的な力を見せつける。
それが守護者の名を頂戴した私の役目。
「今すぐにこの世界から離れなさい、月の者達よ。この場所は貴方達が足を踏み入れていい場所ではありません」
ドレミーに右翼が生えた歪な背中を見せ、私は月との敵対を明確にした。
月兎の兵士達は顔見知りばかり、中には困惑している者もいる。
依姫様は少しだけ笑って見せた。彼女は私との手合わせではなく、それ以上の戦いを望んでいるのかもしれない。
全く変わらない笑顔でこちらを見ている。唯一受け取れた感情は憐れみ、といったところだろうか。
「部下の不始末を拭うのも上司としての勤め、か」
彼の前に飛び出てきたのは武装した月兎達、重火器を媒体に弾を撃つそのスタイルは、どんな敵であっても変わりはない。
その銃口が自分に向けられることになろうとは、ドレミーに会う前には脳裏に無かった。
別に恐怖を感じるわけではない、部下の融通の利かないやり方を私は良く知っている。
数には怯まない、もっと恐ろしい事を私は知っている。
「貴方達には生すら寄り付かない死んだ世界がお似合いでしょう」
「サグメ。その言葉、軽くはないぞ」
「知っていて口に出しております、依姫様」
「そうか、それは……残念だ」
依姫様の眼光が一つ鋭くなった。けれど、まだ刀には手を掛けていない。
彼女を臨戦態勢にさせるには、まだ邪魔が多い。
「生の穢れを拭えず、ついに血迷ったか?」
「生まれ出でた時より血迷っている天津神の血よりは真っ当と考えておりますが」
「天津神を一度だけでなく二度までも欺く暴虐の顛末、同族であった者の責として、その穢れきった身に刻んでくれよう!」
「口だけで何も見ず、自己の都合しか考えられぬ神など誰一人必要としていない。それを未だ知らぬは、箱庭世界の哀れな創造者のみ!」
決裂の言葉によって、火蓋は切られた。
上司の合図と共に隊列を組み、掃射準備。多人数だろうが一人だろうが、兎達は何も考えずに訓練通りの陣形になり、私へと銃を向ける。
私が指示しても誰が指示しても同じ。敵がどんな策を練ろうが、何名いようが同じ。
彼女達は自分で考えるのがすこぶる嫌いなのだ。
一斉に掃射が開始され、無駄玉が何個も通り過ぎていく。
運良く私を捉えた銃弾は、致命個所を防ぐ片翼では守りきれない脚や腕を貫き、非効率ながらも殲滅対象に損害を与える。でも私は、その度に走る激痛などに構っている暇も無かった。
彼女達は敵でなければ、もはや兵士でもない。ただ搾取される側にいる捨て駒、私と同じであった道具など眼中にもない。
まるで自分の亡霊を見ているようだ。その姿に哀れみしか覚えないのは、私の中に変化が生じているからなのだろう。
反撃として私が放った弾は彼女達の掃射に比べれば微々たる量。けれど、その因果を纏った矢からは逃れることはできない。呪われた神器の業は、術者の意思を汲み取ったが如く、復讐を鏃に秘めて、敵を定めて宙へと散開する。
かわす事はそもそも許されない。矢は自分に生と因縁を降ろしたかのごとく、逃げる対象を高速で追跡し、使役者を傷つけた者を悉く貫いていく。
耳障りであった銃声は悲鳴に変わり、そして止まる。
半数は矢で腕や脚を貫かれているが、無傷の半数は気が付いたのだろう。
自分達ではどうにもできない者に構えて、撃っているのだと。
月に住まう兎達には思考にさえ濁りがない故、できないことはしようとしない。
格を見せつければすぐに諦める。
そもそも、月兎達の士気はいつも高くない。だからこそ、へし折るのも簡単なもの。
泣き言を言い始めた兎達の前に出たのは、刀を鞘から抜いた依姫様である。
「還し矢、ですね」
私が取り込んだ天之羽々矢が持つ能力にして、若日子様を死に至らしめた竹箆返しの呪い。
天津神が作り出してしまった神の力を持つ武器が、天津神へと向けられている。
彼女には「還し矢」通用しないだろう。凛とした出で立ち、姿勢から見ても、反撃する遑さえ与えてくれる気がしない。
彼女が刀を私に構えたことにより、他者による横槍が入ることは無くなった。私を止められる者はここには彼女しかいないのだから、こうなるのは対峙した時点から自明の理。
知っていた故に私にはいくらかの時間が与えられたが、勝てる手札はこの短時間では見つからなかった。私の手は相手の一手に依存する、実力差によりそれ以外にはなかった。
今度の立場は逆である。依姫様の力は私にとって、どうにもできない者である。
兎達と異なる点は一つだけ、そして致命的に違う点。私が戦意を全く失っていない、ということだ。
「こうやって獲物を構えると、八意様の元で研鑽を進めた頃を思い出しますね」
「しかし、今回は手合わせではありません。必要ならば、その命さえも賭しましょう」
「本当ならば心躍るままに戦いたいのですが……、残念ながら今回のサグメの相手は私ではありません」
「依姫様以外に私を止められる者がいると?」
「実際に見れば、サグメも理解するでしょう」
私には彼女の言っている言葉の裏を見て取ることはできない。
自身の上司に当たる男にしても、使者故に軍事出身ではない筈なので、戦闘に関して秀でているとは思えない。
そして、他に敵対する者は誰もいない。
ならば、雑念は捨てて、目の前にいる者を撃ち果たして、この場所を守りきるのみ。
敵を包囲する為に、呪符を大量に展開する。
一つ一つの威力は大したものではないが、数だけ見れば180度を覆えるほど。一人に過剰な手数を用意しているのも、これでも足りないと感じる故だ。
無言で笑った依姫様の意図は汲み取れた。少なすぎるのではないか、と。
調子を確認する為の一刀でどれだけの符が裂けただろうか、それでも余った符は我先にと敵へと向かっていき、大きな爆発を起こす。爆発は爆発を巻き込み、煙によって何も見えなくなる。
この程度では致命傷どころか、損傷すら与えられていないかもしれない。
全部切り裂く技量はあった筈なのに、依姫様は大きくは動かなかった。それ故に発生して視界を遮る煙。
強さからくる油断があるのならば、勝機を手繰り寄せる機会はきっとどこかにある。
その空気を裂く嫌な音を聞くまでは、そう思っていた。
視界不良の煙から飛んできたのは矢であり、それは意志を持つように曲がりくねりながら私を目指してくる。
頭痛を起こす甲高い大きな音は、私が二度と聞きたくなかった主の終わりの音と同じ。
天之羽々矢によって迎え撃つと、それは最初から衝突する運命にあったかのように、お互いを引き裂いて、砕け散った。
私を狙っている矢は同じ天之羽々矢だ。間違いない。
依姫様の能力から考えると、この矢を放った者が誰であるのか、そして彼女の言葉の意味を理解した。
煙は消え、視界は晴れてくる。対峙する姿は依姫様のままである。
分かってはいたけれど、その懐かしい声は敵対する私に衝撃を与えた。
「まさか再びこの世に呼び戻されるとは。役目は終えても、我が身、未だ未練に囚われる、か」
刀を鞘へと仕舞い、細腕で構える大弓は天之鹿児弓、背中には天之羽々矢。依姫様の目は獲物を狙う狩猟者のものと変わらない。
それなのに、どこか優しさを持った目。
知っている、その目をよく知っているし、その御方がこの世界で二度と動かなくなったのも知っていた。
「さて、まさか数千の年月を経て、こうして親しき者に矢を向け合うことになるとは」
「嘘、ですよね……?」
「二千幾許の時の流れに捨て去ったか? 天之鹿児弓を持つ主の名を。さあ、答えるがいい佐具売よ」
彼女の能力は御霊を呼び出して自身に憑依させるもの。
普通なら呼び出した者の力を半分以下も引き出せないものであるが、日々から怠らない鍛錬によって、御霊は十二分にその力を発揮できるのだ。
そして何より、彼女は呼び出す者よりも恐らく強い。
つまり、これは彼女なりの手加減でもある。
「若日子……様? どうして?」
「術者である依姫殿に仇成す者を狩る為に、御霊として呼び出され、今はここにいる」
「私には若日子様と戦う理由など……」
「逃げるのか? ならば、狩り立てるのも難しくはなかろう」
自分を見るその目、捉えられているだけで過去からずっと収納されている自責の念を思い出す。
非の打ち所の無い素晴らしい御方であった。自分がそんな方に仕えられるのは、あの時の自分の何よりの誇りであった。
今だってそう。佐具売での経験があったからこそ、今の私、月と正面から向き合うサグメがここにいるのだ。
確かに驚き、うろたえはした。それでも、自分のするべきことは何一つ変わってはいない。
「迷いあるのならば、この場所から立ち去ると良い。さすれば、無益な戦も……」
「若日子様、お久しゅうございます。このような形で再開することは望んでいませんでした。貴方の術者と私、互いの目指す場所の隔たりは埋められるものではございません。故に私は全霊を持ってして、貴方、そして依姫様を討ち果たしましょう」
「……そうか」
「私はもう、自分の決断に迷う事はありません。私は守るべき者の為だけに戦い、立ちはだかる如何なる障害もこの矢で撃ち抜きましょう」
二千年以上、私を苛ませてきた呪縛、そして私が生き続ける限り、それは消えないのだろう。
けれど、目を背けて逃げるような事はもうしない。現実で起こってしまった悪夢を二度は起こさない為に、私はこの場所にいるのだから。
若日子様は現状を理解はしていないだろう。それでも、私の決意表明に満足し、それが何よりも愉快であったようだ。
「良い目をしている。そういう顔をされては、血が騒ぐというもの!」
矢が宙ですれ違い、お互いの頬を掠めていった。
元主、いや今も若日子様は私の主のままである。
そんな主従関係を結んだ者と殺し合いをしているのだから、やはり月は私も含めて正気ではない。
昔の私は主に肩を並べられるような強さなど持ってはいなかった。
強さを欲したのも、それを持っていなかったが故に全てを失ってしまったと思ったから。
でも、本当は違かったのだ。
あの時の私は、最初から自分を脇役の位置であると決め込んでいた。
自力で壇上に上がった今とは大いに異なる。
結果は同じか、はたまた変わるのか、命運は私にも見えていない。
挨拶代わりに放たれる若日子様の普通の矢の射撃は決して軽くはない。神の造り出した道具の一つ、天之鹿児弓より射出される矢は、その威力を倍増させて、防御符を貫きながら私へと襲いかかる。
矢の僅かな減速によってかわしてはいるが、これは本命の為の目くらましに過ぎない。
動く事で僅かに発生する風を翼で捉えながら飛翔して鏃を捌いてはいるが、これに慣れてしまえば本命の速さに対応できないだろう。
「その翼はどうしたのだ?」
「罪を背負って生き続ける者の咎でございます」
私が手に持った勾玉は三種の神器の模造品とはいえど、符よりは防御効果も高く、天之羽々矢と同じように敵を緩やかに追い詰めるもの。
そして、防御を貫く衝撃に対しては爆破で対応する。
機雷は穢れた相手に劇的に効果があるが、肉体である依姫様は月の者、単なる威力の高い爆発物でしかない。
近付く者を排除する爆弾の要塞、それを見て若日子様は少しだけ笑って見せた。
背中にある矢はあと4本、その一本を抜いてみせると、くるりと指で回して弦へと設置した。
背の丈ほどの弓は大きく歪曲し、その力を矢へと伝えていく。
見た目はただの木と糸でしかない。なのに、構えられている私はどうしてここまで威圧されているというのだろうか?
目の前にある爆弾と結界の壁など、射手は最初から見ていない。
「死ぬなよ、佐具売」
その言葉に反応し、私は天之羽々矢を具現化させた。
狩りによって発生する純粋な殺意を浴びた私も、自分の持つ最大の攻撃力を使わざるを得ない状況に追い込まれていた。
放たれた一撃は先程の耳障りな空気を切る音とは違う、雷撃が地上へと襲いかかる音を纏っていた。
小刻みに続く破裂音は的に向かうまでの障害全てを破壊する音、機雷の爆破音すら小さく感じるのは、こちらに向かってくる殺意を帯びた音が、脳内に警鐘を鳴らし続けているから。
弾幕の大矢、私の造り出した物も本物の天之羽々矢、なのに迫る一閃に比べると何もかもが足りていない。
前提が間違えているのだ。天之鹿児弓という神器を若日子様が用いている以上、単純な弾の威力では勝てるわけがなかった。
勢いを増していった神の矢は、私の手から離れた大矢ごと、月を落とす者を貫いていった。
旋回することもできず、何とか受け身だけは取ったが、左手から肩の感覚が狂っている。
目を向けると、脇腹から肋の部分の布、皮膚、そして肉が裂けていた。
身体から喉を通って込み上げてきた血を、何とか体内に戻す。唇から溢れ出た血を掬い取って、それを私が作り始めていた血溜まりに吐き捨てた。
こちらへと近付いてくる依姫様の姿をした若日子様には傷一つない。実力の差は未だにして天地ほどあるという現実。
弓も背中に、片手には刃。立ち上がって見せたものの、ただ歩いてくる相手に対して足止めすらできない。
「さて、まだ続けるか?」
私を捉えている刀、銀に光り輝く刀身は美しく、それが穢れた血で汚れてしまうのは惜しい。
口は開かなかった、代わりに返事として目を瞑った。
「何か言いたいことは?」
「良い夢は見られましたか?」
悪夢を終わらせる私のトリガーによって、血にまみれた佐具売は露に消えて、夢に作られた世界は崩壊していく。
先程まで消えていたドレミー、月兎達、野望を持つ者、彼等の存在も認知できる。
私は目の前ではなく、背後。
私の右手に浮かび上がる天之羽々矢は逃げる隙すらも与えずに敵を貫ける。誰が見ても詰んでいるのは理解できる状況であった。
状況に混乱しているのは若日子様だけ、だと思っていたが、彼も自分が何をされて、何を見せられたのかを把握し始めていた。
「私はいつから、夢を見せられていた?」
抵抗する気はないのか、神具の弓と獲物の刀から手から離した後に、若日子様は私が放った切り札のタイミングについて問い質した。
別に嘘をつく意味も無かったので、その質問に正直に答える。
「相手が若日子様と分かった時の初撃です」
「あの時に頬を掠めていった普通の矢に、何かの細工をしていたと?」
「私という存在にどう対抗するべきなのか、若日子様に何らかの迷いがあると考え、最初に切り札を使いました」
若日子様の弓の腕も、天之鹿児弓の威力も、依姫様の力も私は知っていた。
正攻法にぶつかれば、単純な力で押し切られてしまうだろう。
だからこそ、速攻での仕掛けを行う博打によって、活路を見出した。
「決意の差は道具の差を越えたか」
「それもありますが……、私も若日子様が持っていないものを一つ、持っていました」
私と若日子様の目線の先には、この場所に生き、この場所を捨てようとした、ひとりの妖怪がいる。
「彼女、信頼できる者から貰った切り札です」
鏃に練り込まれたものは、月の都で彼女から渡された悪夢。
獏が持っていたとびっきりの夢を譲り受け、彼女の力によって今が生まれている。
事態が逆転したのか、はたまた、なるべくして今を迎えているのかは分からない。
けれど、自分の心持ちが彼女に出会う前と同じだったならば、決して今を迎えるようなことは無かっただろう。
ドレミーから貰った夢はこれだけではない。彼女と過ごした時間は現実でありながらも、夢と同じような綺麗な色彩を帯びた時間であった。
私は今も、幸せの微睡みの中にいるのかもしれない。
若日子様は自分を納得させるように少し笑い、肩の力を抜いた。
「見違えるほどに強くなったのだな」
「私は強くなる以外に方法が無かったのです」
「私のせいで茨の道を歩ませてしまったか」
「たとえ茨の道であっても、終わりはありましょう」
「そして、優しくなった」
「主に似てきたのですよ」
二千年を経て再開した主と、まだ会話を行う時間はあるようだ。
依姫様による心遣いであるのは、勿論言うまでもないことである。
もし、本気で私を殺そうとしていたならば、こんな手の込んだ憑依など行う必要は無かったのだから。
「月における私の立場から考えれば、怨鎖に囚われた亡霊となって憑依することになっても、何らおかしくはなかった。憑代となってくれた依姫殿に感謝を言っておいてくれ」
「こうやって若日子様と話せるのも、依姫様と縁があったからのことなのでしょう」
若日子様、依姫様、そしてドレミー。
皆と繋がりがあったからこそ、今が導かれている。
「さて、親しき者とのやんちゃも終わったことだ、そろそろ代わるとしよう」
「代わる?」
「もう一人、どうしても佐具売に言葉を掛けたいと言ってきかない者がいてな」
顔が思い浮かんだけれど、そんなわけはないと、私は否定する。
何故なら、依姫様にとっても彼女は専門外である筈だ。
呼び起こせるのは天津神であって、いくら神であっても他は御霊とは言えない。
けれど、私の描いた者に間違えは無かった。
持っている雰囲気を完全に変えた依姫様の姿は、いつもとは違う煌びやかさを身に付けている。
全てを包み込む優しい空気は、感じたのが数千年前であったとしても忘れられなかった。
私にとって、若日子様と同じように大切な人であったから。
「下照様」
名前だけはすぐに出てきたけれど、それからの言葉は続かなかった。
合わせる顔も、用意できる言い訳も無かった。謝るという行為すら意味を成さない。
だから、待つしかなかった。
若日子様は言っていた。下照様は何か言葉を掛けたい、と。
それが罵詈雑言であったとしても、私には受け入れなければならない義務がある。
けれど、そうはならないと分かった。
勇気を持って見た依姫様、下照様の表情は緊張を持ちつつも穏やかであったから。
そして、透き通るあの声で一言だけ言ってみせた。
「ありがとうございます」
感謝の意、確かに目の前の下照様は頭を下げている。
意味がわかないどころか、本来私が頭を下げ、それを彼女が首ごと切り取ってもおかしくはない状況で、地上の物語は終演した筈だ。
続けるべき言葉が出ないまま呆然と彼女を見たまま固まっている私を見て、下照様は私に分かるように真意を伝えた。
「佐具売様が一時の感情に流されず、天の命に従った故に、私達は武器を手にとって天と争い、失意のままに討ち死にするようなことも無く、佐具売様より頂いたお時間で、国を譲る為の準備を行うことができました」
私達の天孫降臨の失敗の後、天は懲りもせずに再び地上に子等を送ったが、今度は殆ど抵抗をされることも無く、その地を手に入れた。
私は意図的に地上の情報を得ないように天で振る舞っていた為、失意のままに天に土地を譲ったのだと思い込んでいた。
けれど、そうではないと下照様は言う。
決断には時間は掛かったが、貴女のおかげで後悔のない判断が行えたのだと。
「私は恩を仇で返し、地を見捨てました。ただそれだけしかできなかった存在なのです」
「知っていましたよ、佐具売様。貴方の無念、感情、我慢」
一歩、彼女は私の目を見ている。
二歩、手が届きそうな位置。
三歩、距離は無くなった。
背中に手を回して抱き寄せる。依姫様の身体、下照様は温かかった。
「だって、同じ方を愛していたのですから、知らないわけがないですよ」
「あっ……」
目から込み上げてくるもの、喉から込み上げてくる言葉、どちらも飲み込むしかなかった。
簡単な事だった。彼女は今のドレミーと同じで、私のことを私以上に知ってくれていたんだ。
私は自分という存在が知られていないと思い込んでいた。
けれど、若日子様も下照様も佐具売という存在を理解してくれていたのだ。
今思えば簡単な事なのに、昔の私には気が付けないままだった。
そのことだけは謝らないといけないと思った。
ごめんなさい、ごめんなさい、何を謝っているのかも説明できずに、ただ泣きじゃくるように言葉を続ける私。下照様はそんな私の頭を優しく、大切そうに撫でてくれた。
自分勝手な私だけが、今もここにいる。
それでも、私はまだここにいていいんだと思えた。そう思わせてくれた。
佐具売という存在は意義を認めてもらったことで、本当の意味で役割を終えたのだと思う。
「慣れない事は……、するものではないわね……」
肩で息をするほどに消耗している依姫様。そんな姿を見るのは初めてであった。
彼女は御霊を口寄せできるが、自身とは懸け離れた国津神まで呼び寄せたまま私と戦った為、肉体も精神も相当に磨り減ってしまっているのだろう。
慣れない事を彼女に“させてしまった”。それは私の中では誇らしいことでもあった。
自分を見てくれている者は、月にもいたのだから。
「出来の悪い門弟でありながら、月を守り続けた功労者の新しい船出を、少しばかり祝いたいと思って来たのだけれど、疲れただけだったかも」
依姫様は殺気を完全に消しているので、この場にいる誰もが終結を理解した。
納得できるか否かは別の話であるが。
面目を潰された男にとって、今は納得ができる結果というものではなかった。
「依姫様、これは一体どういう……」
「夢の世界の制圧の命は受けたけれど、サグメを殺せという命は受けた覚えも無いし、言われても受け入れるつもりは無い」
「これでは先の目的すら果たせていないではないか!」
「いや、ここに我々が来た時点で、私の任、貴公の目的は果たしていると言える」
私は依姫様の言葉の意図を汲み取れていなかったが、ドレミーは別であった。
夢の世界の代表者として、私よりも一歩前に立って見せる彼女。
「それでは、話し合いの再開としましょうかね」
私の防衛戦を全く見ていなかったかのように、譲渡の為の交渉を再び開始させるドレミー。
依姫様に疲弊が見られている限り、状況は私達のほうが有利である。
なのに、彼女はわざわざ下手に出て、事を終わらせようとしている。
答えは簡単で、彼女のほうが私よりも視野を広く持っていた、それだけだった。
月の戦力はここにいるだけではない。地球に割り振られている戦力に加えて、今度は依姫様も全力で手加減してくれるようなことは無いだろう。
最初から詰んでいるのだ。けれど、依姫様の心変わりにより今日は詰まなかっただけ。
私は徹底的に抗戦してもいいとは考えていたけれど、ドレミーは良しとしなかった。
依姫様の手加減さえも脅威に感じたから、かもしれない。
上司の顔もいつもの笑顔に戻る。彼も冷静に考え、落ち着けるだけの根拠を現状から見出したようである。
「まず、そちらの要件を頂こう。月として呑めるかどうか、判断せねばならぬのでな」
実力行使で結果を手繰り寄せられる身に、無理難題を叩きつける事はできない。
ドレミーは一体何を考えて、どんな思いを持って言葉を絞りだそうとしているのだろうか?
彼女が降服を選択し、私は月と闘う意義を失った。こうなると、私には口出す権利も無い。
「一つ、溜まった悪夢は集めて、私の元に送付する事」
悪夢を処理できるのは獏だけ。
その仕事は、夢世界という居場所を失ったとしても、彼女にとっては捨て切れる仕事ではなかったらしい。
困るのは悪夢に魘される他者なのだから、別にやらなくたってドレミー自身には影響は無い筈であるのに。
彼女は相も変わらず律儀であり、顔も知らない相手すらも裏切らない。それが私の知るドレミー・スイートであった。
「一つ、もし場所を返却したくなった場合や手に負えない異変があった際は、私に連絡する事」
この要求も、結局は彼女がこの空間の生みの親である事を意味し、手放したとしても責任は放棄したりしないという彼女の特性を良く表している。
自分の守備範囲の困ったことは、放ってはおけないのだろう。
「共に受け入れよう。全く問題無い」
拒否する理由が無い故に、月側も受け入れる。
悪夢を集めなければならない手間は掛かるが、ゴミの処理は専門家がやってくれるというのだから、必要経費であろう。
奪われても尚、苦労を自ら背負い込んでいるあたり、彼女がドレミーである限りは直らない症状なのだろう。
「そして条件を一つ追加」
そろそろ、彼女は夢世界のルール説明でなく、我欲に忠実である真っ当な要求をするのだろうか?
そんな疑問を浮かべた私に一度視線を送ったドレミーの言葉は、確かに今度は要求ではあった。
「稀神サグメの所有権は私が頂きます」
真っ当、とは程遠いものであるが。
本人がこの場所にいるのに、私の意を介さずに月に要求するのはおかしいのでは?
言いたい事は色々と思い浮かぶけれど、それよりも先に回答が返ってきた。
「二度も月を裏切った者の所有権など、もはやどうでもよい。二度と顔を見せないで貰いたいものだ」
それは回答というよりも、正解とでもいうべきものだ。
どのみち、私はもう月にはいられないのだから、誰のものでもない存在になる筈だった。
なのに、何故が月よりドレミーに権利が譲渡されている。
私が気にしない限り、効果の無い権威の受け渡しであるが、行き場のない自分に一つの選択肢が与えられたと考えれば、悪いものではなかった。
少し表情が崩れていたのだろう。“元”上司が笑顔のままで、露骨に不愉快さを表現する。
「良かったではないか、定命の者とお友達になれて。地上に堕ちた上に、穢れに侵された月の部外者にはお似合いの顛末だと思うぞ」
夢世界をほぼ得たというのに、発言自体は負け犬のそれと変わりがない。
憐れな支配者に掛ける言葉など存在しない、と私は思っていたけれど、その挑発を聞いて、ドレミーは今日初めて苛立ちを見せた。
「友達? 違うから!」
彼女は私の首元から手を回し、身体を寄せてから間髪入れずに続ける。
「稀神サグメはドレミー・スイートにとって、この世界でたったひとりの親友」
初めて出会った時に、私は舌禍の発動を感じ取り、事態の逆転は始まった。
でも、今の彼女との関係は、舌禍が導いたものとは到底思えない。
彼女が私の考え方を変え、過ちをも受け入れ、お互いを知りたいと思い、今に至った。
そこには確かに私の意志があって、彼女の意志も私から見えた。
ならば、それは必然であると思う。たとえ切っ掛けが舌禍であったとしても。
こうして自分が守りたいと思った者と一緒にいられるのならば、その先掛かりとなった呪われた口も、悪いものではないと思えた。
恥ずかしい台詞を言ってのけたドレミーは、顔を赤くすることもなく続ける。
その声には、今までには見せなかった敵対者に対する殺意が籠っていた。
「それと……もしまた貴方が同じような言葉を私の前で口にするのでしたら、稀神サグメによって作られた月と獏との友好な関係は終わりにしますので」
初めて見る獏という妖怪として、敵意ある者を目に捉えた姿。
言葉が本気である事は、ここにいる誰よりも強い殺気から理解できる。
疲弊していた筈の依姫様も、相手の力量を正確に読めていなかったらしく、強敵ともう一戦手合わせしたいとうずうずし始めている。
彼女の強さは今まで知らなかったが、本気を出そうものならば、月とやりあうこともできたのではないかと恐れを抱く。少なくとも私よりは幾分上であり、私の所有権を主張するに足る力を持っている。
目が点になったまま動けないでいた私の手を引っ張る者、それは一人しかいない。
「じゃあ、いこっか」
「どこに」
「決めてないけど、なんとかなるでしょ」
その手に連れられるままに。
自分の意思は彼女と重なって。
私も彼女も今を捨てて、未来へと歩き出す。
より良い、二人の未来を夢見て。
エピローグ
今まで生きてきた世界から追放された私達が行ける場所は、全てを受け入れてくれる場所しかなかった。
地上の世界、生命の世界、幻想の世界である。
一体誰の所に挨拶をすればいいのか、知り合いが地上に全くいないと豪語してみせた悲しいドレミーに聞いても仕方がないので、私は唯一手を貸してくれそうな恩師の場所を目指した。
月へ再度攻め入った英雄の元月兎が住む屋敷、永遠亭である。
地理感も無いために、空行く者達に尋ねつつ、迷いながらも何とか目的地に辿り着き、今に至る。
通されたのは畳張りの和室。地上には穢れがあるので、家に入る際に靴を脱ぐ習慣がある。慣れなければならないだろう。
目の前にいるこれまた元上司は、昔と全く変わらぬ姿で私とドレミーを見定めている。
目的はまだ話していないが、私が地上に姿を見せた時点で検討はついているのだろう。
「まさかあのサグメが再び下界に降りてくるとはね。永く生きていても分からない事はあるものだわ」
「申し訳ございません。八意様の天に留まる為のお気遣いを蔑ろにしてしまいました」
「別にあっちの事情は気にしないわ。私だって貴方よりもずいぶんと前に隠匿した身ですもの」
月に住んでいない割に、純狐が策を持って現れた際に、向こうに住んでいる者達よりも的確な妙手を打てるあたり、まだまだ現役バリバリなのか、月が情けないのか、八意様が単純に規格外なのか。
まあ、どれも正解ではあるのだろう。
さて、八意様の目線を感じ取っていたドレミーであるが、八意様の顔を見てからはずっとムスッとした顔を浮かべている。
彼女と八意様が知り合いであるとは思えないし、初めて顔を合わせた程度でいきなり相手を嫌いになる理由がない。
言わずもがなドレミーには内弁慶の気質があり、月の街(凍結)が合わなかったという前例もある。地上アレルギーが早くも発症したのならば、事態は深刻である。
と、思い込んでいたのだが、どうやらドレミーは一歩通行の知識で八意様を知っていたようである。
「あらかじめ言っておきますが、私は貴女が嫌いです」
「あら? 初対面の何か嫌われることでもしたかしら?」
友好的な態度に定評があると、私が勝手に思っていたドレミーであるが、珍しく負の感情を露わにしている。
夢知識で勝手に八意様を悪人に仕立て上げているのならば、誤解を解く必要があるだろう。
いや、八意様は悪人でもあるか……。
「貴女が作った薬、アレを処理しなければならない身にもなってもらいたいものです」
「夢見るクスリのことかしら?」
「ええ。クドい上に苦い、夢とは思えない味」
「そんなに人工夢は獏によくないものなのかしら? この身に生まれてから、一度も夢を食べたことはありませんので」
八意様の趣味で作られた夢を意図的に見る薬、胡蝶夢丸はドレミーに不評であった。
本来、夢というものは記憶を整理する演算の残りカスだ。
無理矢理切り貼りされた断片の連続によって、整合性の無い演劇が作られ、いずれ脳からも捨てられる。
要は目的でなく手段というわけだ。
しかし、薬を呑んで夢を見るのは、手段でなく目的。故に、悪夢でなくても頭にこびりついて残る事もあるだろう。
更にドレミーを不快にさせたのは悪夢を見せる薬である。
「胡蝶夢丸ナイトメア」と呼ばれる夢見薬は、悪夢を自発的に楽しみたいという、頭がおかしい奴の為に開発された薬らしい。
忘れられない娯楽用悪夢、故に処理が大変だ、とドレミーは嘆き節で言う。
「固い煎餅みたいなもの?」
「固い石を歯で無理矢理噛み砕いている感じね」
夢の形をしているだけの異物、というのが、その薬が見せた物の正体なのだろう。
八意様はドレミーの申し立てについて、特に言い訳もせずにただ聞いていた。
そして言い分が一通り終わると一言だけ呟いた。
「今度は獏にも優しいお薬を作りますわ」
流石は八意様、辞める気は更々無いし、反省もどうやらしていないようである。
次はもっと上手くやってみせましょう、そう言っているけれど、ドレミーからすれば再び悪夢を処理する悪夢が待っているわけで。
「夢で遊ぶのは禁止! そもそも、深入りしすぎて夢魂が夢世界に迷い込むようなことがあったら、薬常用者は亡霊になってしまう可能性だってあるし」
「用法、用量を守っていただければ、大事には至らないわ」
「だから、それでも私が苦労するんだって、無駄に」
「丁度良いわ。改良に着手するから、後で色々聞かせて頂戴」
態度ですら引く気を見せない八意様を見て、ドレミーが先に諦める始末。
彼女は夢世界を出て行っても、苦労を背負い込む性には変化は無いようである。
「不完全であれば、それを完全に仕上げるまで暇を潰す余地があるという事。喜ばしいことよ」
「全く……、月の連中は本当に時間の浪費が上手いこと」
文句のつもりで言っているのだろうけれど、八意様はその通りと、受け入れている。
深く溜息を付く彼女は、夢世界のいつもの彼女であった。
さて、話題は地上に降りて来た私達の件へと戻る。
「でも、月がアポロ経絡を掌握してしまうとはね。近々、地上への再侵攻があるかも知れないわ」
月を救う一手を打った者が住まう世界を、月が侵略しようとしている。
神々というのは、恩を仇で返すのが余程上手なようである。
杞憂なのか近未来なのかも判別できない懸念、それを全否定したのは月に所有権を譲り渡した張本人、ドレミーである。
「いや、それは無いと言い切れる」
「何故かしら?」
「そもそも月はアポロ経絡を掌握していない。いや、できないと言ったほうが正しいかもしれない。何故なら―――」
男の貢献によって、新しい別荘を得た月。
この献策を立てた男が、夢世界の開発権利を得るのは至極当然と言えた。
そもそも、月自体が夢世界を欲していたわけではない。今回の侵攻案件を踏まえ、保険を持っておくのは悪くないと思い、男の野望に近い案件を通した。
月の中心はほぼ無関係、故に依姫も要件が完了すると都へと戻り、男の手駒のみがこの場所に残っている。
いわば、この場所は私有地である。別荘開拓という名目はありながらも、必要な時が来ない限りは使われない。色々な思惑を持つものとすれば、月からある程度の距離を置ける場所に、自分の家を構えられるのは都合が良かった。
仕事名義で建設資材を揃えて、穢れ無き都市を作り上げる。支配者を追い出す難所を越えた故に、事の全ては順調に進むと男も考えていたのだろう。
この場所に再び妖精達が現れるまでは。
夢世界に再び溢れ出した生命力。
我を忘れて狂って遊びまくる妖精達に、月の者達は見覚えがあった。
静かの海やこの夢世界に一度現れ、天敵純狐と共に消え去った。純狐の気まぐれな嫌がらせは、一度解決した後はいくらかの充電期間がある。
ならば、何故妖精達はここにいる? 実は彼女と関係が無かったとでも言うのか?
生命が現れた事によって、建設作業は中止せざるを得ない。それどころか、この空間の付加価値すら下がってしまう。
たとえ、妖精達を使い捨ての兎で撃退したとしても、再び妖精達がこの場所に現れるのならば、ここは穢れ多き地上と大して変わりは無い。
資材を持って狂いながら暴れまわる妖精達を見て舌打ちし、背を向ける。
とてもじゃないが、生が断続的に湧き出るこんな場所にはいられない、というのが穢れ無き月の民の一人である男の結論であった。
「まさか、夢から撤退した異界の者と同じような取引を行っていたとはね。私も一本取られたわ」
八意様だけでなく、私もである。
もし教えてくれていれば、私は依姫様に食ってかかることも無かったかもしれないというのに。
依姫様は私に気を使ってくれていたので、結果的には良かったのだけれど。
黙っていたほうが成功率は高くなるのは分かるし、あの時の血の気を垂れ流していた私が納得したかも別の話。
やるせないのは事実なので、恨み節の一つでも口にしてやろうと思ったけれど、舌禍が面倒なのでぐっと堪えた。
「別に譲ってもいいかなとは思っていたけど、少なくとも月側は頼む者の態度じゃなかったから、灸を据えとこうかなぁと」
残念ながら月の者達には、反省という風習を持つ者は多くない。
生まれながらにして特別故、それが元となって考え方が生まれる。
常識も反省も、必要が無いから持ち合わせないのである。
実際に見ているわけではないので何とも言えないところはあるけれど、私達は月の暴走に対して、それなりの抑止を行えたものと判断する。
「月も月の天敵もまあ……懲りないでしょうけど、暫くは静かにしていると思うわ」
八意様一言によって、やっと私の肩の荷が下りた気がした。
なんだかんだで長年続けてきた仕事、自主都合で辞めるにしても綺麗に終わらせたいという思いはあった。
月と私の間ではそれは無理だったけれど、事柄自体は一件落着してそうなのは救いだった。
話が落ち着くタイミングを見計らったかのように、襖が開く。
「お茶が入りました、げっ」
「露骨に嫌そうな顔されているわよ、サグメ」
「いや、これは貴方に向けての顔でしょ?」
今回の月面騒動の解決者である兎は、戦闘時に見せていた鋭く赤い眼光は無く、露骨に引きつった顔を浮かべていた。
私達が姿を現したことで、再び自分に身に災難が降り掛かってくるのではないかと邪推しているのだろう。
弾幕に関してはきっちり鍛えてもらっているようであるが、日常的な態度には月兎と同じように些か問題があるようである。
八意様の弟子なので仕方がないと割り切ろう。
「えーと、お二方は一体どのような要件で永遠亭へ?」
「使用人の割に話し合いに顔を突っ込もうとするなんて、ずいぶんとお偉いようね」
「自分の身を守る為に仕方なく、ですから」
ドレミーの弄りモードが私から逸れてくれたのは歓迎であるが、私に色々と切っ掛けを与えてくれた者が困っているのを見過ごすわけにもいかない。
簡単なのは本当の事を言う、であるが、舌禍上それでは鈴仙に面倒事が流れ始める可能性がある。
口は災いの元、それ以外の表現でしか示す事ができない。
ヘルプの目線を向けていた者ににこやかに笑いかけると、彼女の顔が何故か真っ青になっていく。
壮絶な誤解が生まれた気がしないでもない。
「私はもう緑色の薬は絶対に飲まないですからね! 悪巧みなら他者を巻き込まずに勝手にやっていて下さい!」
余裕とかをポイ捨てしつつ、彼女は逃げるように出て行ってしまった。
お礼の一つでも言いたかったのだけれど、どうやら今日はその日ではないようである。
ドレミーは怪訝な顔を浮かべたまま、彼女の師匠に単純な疑問を投げかけた。
「一体、何を飲ませたわけ?」
「ふふっ、秘密」
お茶は澄んだ緑色をしている。
彼女の置き土産のせいで、口を付けられる気がしなかった。
さて、夢世界にも時経てば平穏は戻りつつあるだろう、というのがドレミーの結論である。
ならば、さっさと元の世界、居場所に戻ればいいという流れになるものであるが、私達は幻想郷の永遠亭に来ている。
八意様もそれが一時避難ではなく、別の意味を持っていると理解してくれていたようだ。
「戻る気がないからここに来た、という認識で宜しいかしら?」
二人共に頷く、それが私達の答えであった。
見たい場所や住みたい場所、特定の欲求があったわけではない。
私達は別々の場所にはいたけれど、その場所に永く留まり過ぎていたのだ。
新しく何かを始めるのならば、新しい場所でするのは悪くない。
「こちらのほうが、退屈をしなくて済みそうですから」
「私は初めて来るけどね。夢のお陰でよく知っているけど」
まだ何も決まっていない、未来は白紙。それでも、筆を持つことができたのは、私にとっては大いなる一歩であり、一緒に絵を描いてくれる彼女が隣にいる。
生が移り行く幻想の世界は、きっと私達を導いてくれる。
「幻想郷は良い所よ。頭変なのは多いけど、それを差し引いても良い所」
先駆者である月の頭脳がこう口にしているのだから、お墨付きというものである。
言葉にはやや不安が残るけれど、私も一つ解答を持っている。
「大丈夫ですよ。月も八意様を筆頭に同じような方で溢れておりましたから」
「手厳しいわね、サグメ」
上品に笑って、八意様は首を縦に振って見せた。私に対しての同意である。
そういう者との付き合いばかりをしてきたのだから、今更になって気負いを持ったりはしない。
「貴方達の思いは理解したし、それを阻むような者は幻想郷にはいないわ。けれど、住む場所くらいは決まっていないと不安よね?」
今日来た大きな目的は二つ、幻想郷に来てお世話になるという報告。そして必要となる住居をどうにかして斡旋してほしいという依頼。
直接言葉にせずとも、八意様は汲み上げてくれている。
出会った時からずっと頼りっぱなしで申し訳ない気持ちはあるのだけれど、それでも嫌な顔はひとつせずに、もう慣れたものよと言いきって見せるのだから、八意様は自他共に認める特別な者なのだろう。
竹林に囲まれていた風景が一瞬途切れる場所、林を分かつようにして流れる小川は、まだ河と呼ぶには幼いものであるが、透き通るほどに澄んでいるので飲み水としては十分。
緑に囲まれた空気は湿っていて少し重いながらも、美味しく感じる。自分が呼吸をしているんだと感じられる。
日の光は河に隣接しているこの場所だけには差し込んでいる。竹林は日中でも暗いので、時間を感じやすい日光は歓迎である。
そんな場所にぽつりと一軒、風景に似合わない大きめの家が存在している。
永遠亭の所有する別荘とのことらしいが、同じ竹林の中にある故に使い道が無かっただとか。
「何でこんな所に家を?」
「私に聞いて分かるとでも?」
突っ込みたくてたまらない場所にある建造物について、この地上に初めて降りるドレミーに聞いたところで、答えは返ってくるわけもなく。
ちなみにであるが、八意様が斡旋としてこの場所を選んだのは苦肉の策でもあったらしい。
八意様曰く、本当ならば里にでも住居を用意できれば良かったのだけれど、流石に謎の妖怪がいきなり人里に住み始めるのは難易度が高かったらしい。人々の猜疑心を煽るのは、妖怪全体としての問題になりかねない。
すぐに用意できる場所としたらここと、里内の臨時診療所であるが、状況によって選択肢は一つになってしまったというわけだ。
「家をプレゼントするという約束はしたけど……、まさか家を第三者から借りる上に同居になるとはね」
ドレミーは現状に素直に驚いているが、私からすればそこまで驚くべきことではなかった。
自分は無力で何をしたとしても、想定内の出来事に収まってきた。けれど、今回は私が動いたことで今を勝ち取れたのだから、それは舌禍でも命運でもない。私とドレミーが掴み取った結果が今であり、絵を描ける白紙の未来なのだ。
「まあ、命運ってものはサグメの能力以上に分からない、ってことで」
世界から忘れられたような場所からの一歩、それでも一歩踏み出せた。
そして、その一歩は若日子様と下照様が守りたいと願ったこの地上で。
時には私の嫌いな面倒事もあると思うけれど、私の新しい夢見がちな親友と一緒に歩いていこう。
そして今は、もっと嫌いである。
そもそも、面倒事に好き好んで顔を突っ込みたがる者が稀であるのだが。
興味と好奇心だけで大部分が構成されている生命は、言わずもがな破滅へと向かいやすいものである。
皆、知っているのだ。余計な事を行えば、事象は更に複雑に絡み合って、何とか理解できていた物事を分かりにくくするものであると。
そして、私は物事を分かりにくくする能力が突出してしまっているからこそ、面倒事が余計に嫌いなのだ。
舌禍、口に出した事象が意思に関わらず逆転してしまうという、どうしようもなく面倒な能力。
能力が働く瞬間は分かるが、始動の制御も事態の制御も不能で、加えて結果に蓋然性が無い。
謂わば、私自身も含めて、全てが面倒と感じるのである。
だというのに、月の者達は私を便利道具として使役する傾向がある。
確かに近年になってからは、自分の能力に振り回されるような初歩的なポカはしていないし、与えられた任務は適正にこなしている。傍から見れば、遺憾ながら優秀と評価されるであろう。
けれど、その評価は「私が新しい面倒事を呼び込まない」為に尽力した故であり、優秀の一言で終えられて、終わり無い職務に背中を追い回されるのは、私が望むところではない。
時には手抜きも必要なのだろうか? 失敗した事象を試しに思い浮かべてみるが、その顛末は総じて碌なものではなかった。
最近忙しくなったのは、月の民の天敵であり、粘着質な快楽主義者、純狐と名乗る神霊がいつもの周期で現れたからである。
彼女の姿を見て血相を変えるのは、中間管理職と実行部隊くらいである。
彼女が悪いわけではないのだが(悪いことを私の上司にしてはいるが、私に直接的に害があるわけでもない)、私も彼女の顔を見ると溜息の一つもつきたくなる。また面倒事が増える時期に入ったか、と。
月の民の天敵を自称する彼女であるが、都を襲う動機は事あるたびに純化していき、もはや今では習慣であり存在証明、自然現象みたいなことになっている。
本気で両陣営が血を見るようなことは無くなり、代わりに生半可な反撃の仕方では満足しなくなった。
月の民をいびる為だけに練った策を打ち破る知恵を見せれば、純狐という者は笑顔で帰っていくのだ。
別に知恵比べをお互いにしてもらうのは結構であるが、私を実行者としてその中に巻き込むのは迷惑千番というものである。そして、その度に振り回される中間管理職と実行部隊は、退職者が絶えない役職である。
今回の事件でも、何名かは「やってられない」と捨て台詞を残して去っているが、上の者達にとっては辞める者=純狐の今回の作戦規模、程度にしか感じていないのだろう。
時を持て余す者の退屈は理解できるが、その発散方法は私には理解できない。それなのに、隙あらば月を喰らわんとする純狐という存在がどうにも楽しそうに見え、嫉妬を覚えることもあった。
彼女の楽しみ方は至ってシンプル。そのスタイルを見習いたいところであるが、彼女のような純化された恨み、行動を起こす為の目的そのものが、私には存在しなかった。
そんな彼女の今回のコンセプトは「月を生命溢れる星へと変えよう」である。
月の都に近い静かの海は、今も生命力に溢れた妖精達で賑わっているらしい。
最初は武力で制圧しようと月兎の兵達が行軍したのだが、相手が生死を受け入れる穢れ持ちであった故に、前線の者達は一目散に逃げてきただとか。
月に住む者達にとって、定命の者は厳禁である。近づくことさえも許されない。
生きるということはそれだけで罪であり穢れが生じるものであるが、月の都は浄化を遥か昔から行っているため、街に穢れ自体が存在しない。故にそこに生まれ住まう者は例外なく不老に至る。
外部からの訪問者をいれず、下界した者を受け入れないのも、その都の自浄効果をより高くする為だ。
そんなゴミ一つない街に、外部から大量のゴミを持った移民達が無秩序を翳しながら迫ってきている。不老の者達が震え上がるのも納得がいく。老いないという絶対的利点が致命的欠点へと逆転したわけだ。
私からすれば、ケアを怠らない故に手に入る完璧など、何の価値も無いものであると思っている。そんなものに頼るのならば、明確な目的を持って不老不死の薬を飲むほうが、よほど賢いではないか。
不老を忌み嫌っているわけではない。自分がもう捨ててしまったものには興味が沸かないのだ。
今回の純狐の策は、私にとっては全く怖くなかった。私は既に純なる月の民とは異なる存在であるから。
そう、私の身体は既に“穢れというものに対応”している。故に不老ではなく、生命の躍動に恐れなど持たない。
私自身が月に迫る敵の相手をすることはできるが、解決に向かえないのにはいくつかの理由がある。
理由その1:相手である純狐にとって、その程度の策は想像の範疇であること。
策を無理やり破るのではなく、相手の欲求を満たすことが、争いを止めるための必須条件である。穢れ対策済みの私がのこのこ赴いたところで、当たり前すぎて「つまらない」と一蹴される可能性大。
理由その2:純狐という敵は穢れを持つ対象に、多大な攻撃補正が入る……らしい。
となると、穢れていない者以外では彼女の相手ができない、とも考えられる。
これは月に対する謎掛けだ。穢れが無く、穢れないまま私の元に辿り着けるモノはなぁに?
一見不可能。けれど、復讐よりも知恵比べを優先する彼女のことだ。穴はあり、屁理屈の効いた解答がどこかにあるのだろう。
理由その3:穢れを進行させると、月の世界に留まれなくなる。
ただでさえ、消えない穢れを持った故に、月の民に近づいてはならないこの身である。もう手遅れなのかもしれないが、これをきっかけに背中から「手遅れ、月に近付くな」と名言されることは十分にありえる。
いや、手遅れになるのも悪くはないかもしれない。私が月という場所に依存する理由は、考えてみれば何一つ見当たらないのだから。
そう、理由というものを見つけられなくなって、ただ任をこなし続け、永い年月が経っている。
私は誰の為に、何の為にこの場所にいるのか。他者は答えてくれても、私自身では解答は見つからなかった。
そんな相手の一手を見た後での月の一手であるが、それは“逃げ”であった。
完敗。完膚無きまでの敗北を自ら認める一手である。
そんな敗戦処理の先鋒が自分なのだから、やる気が起こらないのも当然、と正当化してみる……みたところで、仕事が消えるわけでもないと絶望。
先程からぐるぐると現状を整理しつつ、思考を引き摺り回しているが、未だ脳は身体を引き摺り回すのを拒絶している。
答えは一つしか無いのに、ありもしない理想解を探そうとする脳には恐れ入る。それこそ私が嫌う無意味な面倒そのものではないか。
「仕方ない」
椅子に寄りかかって思案した時間は、私の過ごしてきた時間と比較すれば、微々たるもの。自由な浪費こそ心の潤い……なのだけれど、思案が楽しいと思ったことは今までにあっただろうか。
これに代わる何かがあればいいのだけれど、身近に思い当たるものは仕事くらいだ。
テーブルに置いてあるカップを手に取り、ミルク入りの無糖の珈琲を喉へと流し込む。微温いどころか完全に冷め切っていた。
思考を張り巡らせたところで、やるべきことが消えるわけでもない。
別の行動に時間を追われているわけでもない。
強いて言うなれば、月の都の賢者達は私の背中を押してでも仕事に取り掛かってもらいたいと願っているだろう。
使者が私の家に何度も押し寄せて、急げ急げと念を入れに来るのも面倒である。
だったら、さっさと面倒事は済ませて、心の安らぎという形のない安心感を、少しの間であっても得るべきである。
外はいつも夜、明るい夜と暗い夜の違いはあれど、月に長年住めば然したる差は無いと感じるだろう。
季節は生きもせず死にもせず、そもそも存在すらしない。完璧で不変の世界、だから穢れも生まれず、つまらない世界。
今の私に預けられている任務の半分は獏という妖怪に会いに行くこと。そいつの居場所は分かっているから簡単である。
もう半分は、カツアゲである。
①
夜は続く、ここでは朝日すら昇らない。
夢が集まる場所なのだから、夜という時間帯が相応しいのは当たり前。
星の代わりに浮かんでいるフワフワした何かは、夢そのものなのだろうか?
柔らかそうな浮遊体をかわしつつ、飛翔のスピードを上げていく。
障害物と呼べるようなものはその浮遊体くらいしかないので、目を瞑っていても飛べるだろう。
月に比べると五月蝿いほどの極彩色が目の奥へと入り込み、自己主張を行ってくる。長時間ここにいたら、発狂する者もいるのでは。
私からすれば、頭のネジが切れている月の者達にとっては丁度良い環境に見える。月の誰かがこの世界に侵入して下調べをしたからこそ、私に任務が飛んできたのだろうか?
生物の不在、程良い狂気、月からの距離、確かに一度逃げるには良い場所である。
これだけの良い立地が早急に思いつくのならば、知恵比べの相手にもっと良い強行案をぶつけられた気がする。
どうせぶつけられるのは私とか、前線の兎兵士なんだろうが。
愚痴ったところで誰にも聞こえないし、何も変わらない。
こういう不憫なる運命こそ逆転させたいものだが、聞かせる相手がいないのだから無理である。
つくづく不便で使えない。
誰が名付けたか、舌禍とはまさしくその通りだ。
夢の世界にもどうやら家というものはあるらしいし、獏という妖怪は家を構えるらしい。
虹色と夜空と宇宙が混ざる中にぽつんと置かれているログハウス、可愛らしい丸太作りの家はこの世界にある唯一の正常なのかもしれない。
住んでいる者もまともだといいのだが。
獏に会うのは初めてであり、それがどのような生態を踏まえて生きているのか、そもそも話が通用するのか、隣人ながら不明点は多い。
簡単な話し合いをしに来たわけでもないし、良い返事が貰えないならば実力行使をせざるを得ない。
あまりしたくはないし、そもそも相手の力量も分からない。愚策ではあるが、使命達成の都合上の選択肢の一つとして、頭には留めておかなければならないだろう。
獏の他にも誰かがこの世界に住んでいる、なんてことはあるのだろうか? 家を訪れて他者でした、なんて具合では、少なくとも私は笑えない。
コンコン、と木製のドアをノックしてみると、乾いた木の音が私へと返ってきた。
返事はない、誰もいないのだろうか?
ドアに手を掛けて押してみると、鍵というものが存在しないと分かる。そもそも、ノブにも鍵を入れる場所が無い。
さてと、少し考えてみる。
まず、二度も訪ねるのは面倒であるからごめんである。帰ってまた来たら、かかる労力、走行距離は三倍である。
そもそも、相手は居留守を使っている可能性もある。
獏は夢の世界以外では凡庸な妖怪であるが、この空間にいる限りは創造神に近い存在である。そんな妖怪きっての内弁慶が、好き好んで外へと出張するとは思えない。
神を殺すことは苦労が伴うが、苦手ではないし、やればできることも知っている。
ならば、一度戻るよりも、進むのが吉。
悪い引きになったら、その時にでもまた考えてみることにしよう。
音を立てないようにゆっくりと開ける。泥棒にでもなった気分である。
外から見た家の大きさ通り、廊下などもない一部屋造り。見えるだけで三つの棚があり、そこに所狭しと円盤状のカラフルな何かが収納されている。
そして、獏と思われる妖怪も部屋の中にいた。
ソファーに寝転がって胸に片手を置き、健康的な生脚をだらりと降ろして、帽子で自分の視界を塞いでいた。
無防備で無警戒、代わりにこちらが過剰に警戒を持ってしまうくらいである。
赤白の帽子で顔は隠れてはいるが、無音に近い空間の中で柔らかい寝息だけが私の耳へと入ってくる。
藍色に染まった髪の毛は無作為にソファーへと広がり、艶かしく歪曲している。
「まさか本当に寝ているとは」
居留守は的中であったが、意図的にそうしているようには見えない。
これで餌を誘っているのならば、相当の策士である。
何故なら、私も既にその餌から目が離せない状態になっていたからだ。
たとえ同性であったとしても、見るなというのが無理な話である。
自分の呼吸の音すら五月蝿く感じる。静かにしていないと、彼女が起きてしまう気がしたから。
本来なら起きてもらって大いに結構な筈なのであるが、雑音で起こしてしまってはいけない、そんな気に囚われていた。
行動原理は既に破綻している。目はただ様子を見ていたいだけなのに、手が勝手に帽子へと伸びていく。
いや、欲望に忠実なだけだ。したい事をしているから、目も帽子のその先を見ようとしているのだ。
ゆっくりと、ゆっくりと、邪魔になる物をズラしていく。
呼吸の乱れが酷い。何かに追い回されているわけでもないのに、心拍の上がり方がうなぎ昇り状態。
何か変わるわけでもない、死に瀕しているわけでもない。
死地に身を置くのは慣れている。なのに、今の状況には全く慣れる気がしなかった。
唇に続いて目が見え始め、そして、目が合った。
「ひゃあ!!」
悲鳴を上げたのは私である。良からぬことを企てていた際に後ろから肩に手をかけられたかのように、口から心が飛び出そうになった。
頭の中にはあった罠という説、それを知っていて引っ掛かり、彼女は身体を起こして私の目を見て見定めている。
悪意や敵意が見えない分、余計に相手が何を考えているのかが理解できなかった。
一度間を置くようにして、彼女は目を逸らして馬鹿にしたような溜息を付き、沈黙は破られた。
「いや、いやいやいや……」
ブルブルと首を横に振ってみせる彼女は私よりも驚いて良いはずなのに、妙に落ち着いている。つまりはそういうことなのだろう。
そう思うと、色々と腹立たしい気分になった。相手にも、自分にも。
「叫びたいのはこっちなんですけど。人がお仕事をしている間に住居侵入、加えてあわよくば初対面の者の寝顔を拝借しようとする特殊性癖のお方と目が合ってしまう。これを不幸と呼ばず、何を不幸とするのやら」
獏は言葉の割にニコニコと笑顔で、私の先程の行為を振り返って言葉で罰してみせる。
取り敢えず、性格は月の者達と同様にひん曲がっているようである。
でも取り乱す事はない。性格が曲がっていない者と出会うほうが、私の世界では珍しい。
「寝たフリをして相手を窺っていた性悪に言われる筋合いはない」
「いや、“寝ていない”けど“起こされた”だけだから」
矛盾した言動の本意は見えないが、一つ自分が失態を犯したのを思い出す。
私は寝ていると彼女の前で発言していた。それによって事態が逆転した可能性がある。
急に睡魔が消えて、現実が戻ってきたのならば、恐らくは運命を変化させる強い力が働いたとも思える。
つまりは、完全に私の舌禍から来る失言? 自業自得?
いや……、おかしい。
私の言葉は聞き手がいなければ作用しない。
寝ているものに通常、聴覚の機能は作用しない。聞き手にはなりえないのだ。だとしたら事態の逆転は起こりにくい。
そして、自身の能力は感覚的には働いていない筈である。
つまり、この女はやはり寝たフリを、
「だって貴方、普通に玄関から入ってきたでしょ? そりゃあ起きるわよ。私がそういうふうにこの世界を構築しているんだから。そもそも獏は不眠」
「なら、ただソファーの上でだらけていただけということ?」
「違うから。夢の世界に深く潜っていただけ」
彼女曰く、獏は多くの夢をいっぺんに処理する場合、夢の世界に深く入り込んで直接食べる為に、意識を相手の世界に送り込むらしい。そのために、誰かの世界に入り込んでいる際は、まるで寝ているような無防備な状態になるのだとか。
それは寝ていると言うのではないだろうか、と指摘すると、一番疲れる仕事をしているのに寝ているのは語弊がある、と反論された。獏ではないので、私にはその気持ちはイマイチ分からない。
侵入者が入ってくることは多くはないらしいが、保身の為に夢世界で警鐘が鳴るようにしているとのこと。
「仕事中に変な奴に襲われたら、たまったもんじゃないでしょ?」
完全にお前のことだ、と彼女は顔で言っている。
それはまあいいとしてだ。だったら、私が家へと入ってきた瞬間に意識は戻っていた筈である。
なぜ直ぐに身体を起こさなかったのかを聞くと、「夢世界から戻ってきてすぐだと、意識を戻すのに少し時間が掛かる」とのこと。それでは、夢世界で警鐘を鳴らしても意味がない気がする。
別に襲う為に来たわけでもないし、獏が襲われようが私には一切関係がないので、別にいいのだが。
「貴方は月の民、よね? しかもその片翼。あの有名な稀神サグメさんかしら?」
「有名?」
「月の守護者でしょ? 貴方を恐れて魘される夢を見る者も少なくないから」
私程度を恐れているなら、そいつはまだまだ幸せなものだ。もし私でなく、依姫様などと対峙してしまったのならば、悪夢を見ることさえ叶わないだろう。
そんな私のことは置いておいていい。問題は私が彼女の家に来たことにある。
「それで、近くて遠い月の民のお偉いさんが、このしがない獏に一体なんの用でしょうか?」
さて、ここからである。
正直に物事を話してしまったら、能力発動により事態が悪くなる可能性が高い故、一つクッションを挟まないといけない。
頭をあれこれと回しながら物事を誘導した発言をしなければいけない時点で、この仕事は私には不適正であるというわけだ。
能力柄というのもあるけれど、私は言葉のみで相手から多くを引き出すのは苦手である。
なのに、譲歩もなくこんな不得手な仕事も、まず私に降ってくるのだ。
使者曰く、貴方は月兎よりは一枚も二枚も外交術に長けている、とか。
月の都の人材ならぬ、民材不足は深刻である。
優秀な者は多々いる、問題はそういう者達が揃いも揃って表舞台に出たがらないところにある。
「この夢が行き来する空間を、月の民達に無償で貸してほしい」
条件を厳しくして、私は目的を告げる。
これは舌禍が発動していると感覚で分かる。故に、運命は逆転する、可能性が高い。
どうやって、何から何に逆転するのか、そこが私の思うところであれば、交渉は上手くいく筈。
なんで、どうして、という理由の部分に派生するかなと思っていたが、意外にもそうはならなかった。
私の今までの行動により、それ以前の部分で引っ掛かってしまっていたのだ。
「でも、寝顔を見ようとしてくる変な奴だからなぁ」
口を菱形に窄めながら目を細めてこちらを見る姿、一流の挑発というものを知っているからこそできる表情である。
加えて、自分の状況的有利を確信している模様。
その認識に間違いはないが、私も今の自分の立場というものを知っているのだから、別に顔で知らしめる必要はない。
私の発言を待っているような目でこちらを見ているが、無駄口を叩くと運命的にも自己弁護的にも悪化しかしないだろう。何の感情も見せない表情でいるのが精一杯であり、私の最善手でもあった。
何も返ってこないと悟ったのか、獏はまた人前で溜息。礼儀というものを弁えていない妖怪であるようだ。
「……分かりました。条件付きではありますが、その依頼、承るとしましょう」
急な丁寧な口調、嘘のない返答。事態は“イエスノー”ではなく、“有償”という方向へと進み始めた。
自己の能力というものにもどうやら勝てたようである。
胸を撫で下ろすにはまだ早い、まだ彼女の回答の全貌は不透明であるから。
「条件は?」
「見ての通り、この世界は過剰な夢で埋まっている。だから、受け入れられるだけの場所を作るためにも大掃除が必要なわけ。それを受け入れる側の私だけが頑張るというのは酷な話でしょ?」
「手伝えと? 誰でもできるのか?」
「夢を処理するのは私にしかできないけど、それ以外に手伝えることがあるわ」
彼女の言動は十分に筋が通っている。要求内容も大それたものではない。
その中でわからないのは、必要な労力である。
「手はどれくらいに必要になる?」
「多ければ多いほどいいかな。逆に言えば、どれくらいの広さが必要なの?」
「都が一つ収まるくらいだ」
「都? 都市丸々一つ? 月の方は何やら大掛かりなことを考えているわね。まあ、でもそれくらいなら二、三名いれば一日でなんとかなりそう」
「いまいち規模と仕事量が結びつかないのだが」
「要は私の頑張り次第、すごく頑張れば一日でも都市一つ分くらいのスペースは処理できる」
「なら応援しよう。頑張れー、超頑張れー」
「一日ではとてもじゃないけど無理ね」
能力持たずとも、やはり口は禍の元である。
喋ると碌な事が無いというのは、能力も相俟って周知の事実。
冗談が通じる相手だろうと見定められたからいいものの、私が言うと本気で逆に受け取られかねないのだ。
話も普通に通じるし、初対面な者にも協力する意思を見せている。彼女は悪い者ではないようである。
「改めて、私は稀神サグメ。口に出した言葉で物事の方向を転換させる能力を持っている」
「うわぁ、なんか天変地異でも起こせそうな能力」
「そんな大それたものでは無い。何時でも事は起こるべくして起こるし、起こらないものは事態が逆転しようが起こらない。命運の輪は誰にも操作できない。けれど、その運動方向を変えることくらいは私にもできる」
「なんでも起こり得る私の夢とは真逆の能力みたいね」
彼女の言う通り、運命とは起こり得ることを必然に変える夢のない能力である。
そもそも、相手を滅する上では殆ど役に立たない能力であるし、加えて操作性が皆無なので、使い勝手が悪すぎる。
弾幕に使用するにもしづらく、扱いも良くないので、戦闘には符術やら呪術やらを多用していたり。
私にとって、この能力は自己に降りかかった呪いのようなものなのだから、仕方はないのだけれど。
「一応名前を聞いておいていいか?」
「悪用されそう」
「お私にどんなフィルターをかませて見ているんだ?」
「普通に対変態用フィルター」
「……もういい。契約に名など不必要なものだ」
早くも前言撤回。
どう転んでも、こいつは悪い者だ。もう間違えたりはしない。
本当にそう思っているのなら、まだ救いはあるのだが、単純に私を煽るのが愉快であるから次々と毒が吐きつけられるのだろう。
私が不機嫌になっているのを知って引き際を守ってくるのも、私と違い世渡り上手で嫌になる。
「ドレミーよ。私以外に誰もいないこの夢世界の支配者をしています」
「……それ、フルネーム?」
「えっ?」
「親しくもない余所者に名を教えるのがそこまで嫌なら、強要はしないけど」
非を見つけたので、ヘソを曲げたように半分の正当性で相手のその非を突く自分。
大人げないし、みっともないのだが、ずっとやられっぱなしだったのが兎に角気に食わなかった。
それにしても、自らも認める弱々しい抵抗である。
相手からすれば、ただもう一度名乗り直せばいいだけだから、ダメージがあるわけではない。
最初に犯してしまった失態は、もう取り戻せないのだ。
「……イート」
数分前の行動に対して脳内で反省していたのもあるが、彼女の声が今までになく小さかったので、その名は耳から入ってこなかった。
ちゃんとこちらを向いて話しているのなら、聞こえないという事態にはならないと思うのだが。
「……すまない。聞こえなかった」
「スイートよ! ドレミー・スイート!」
名乗っている方がキレ気味にフルネームを口にした。
獏、彼女の名前はドレミー・スイートと言うらしい。
ドレミーはまあ良しとしておいても、「スイート」というのは如何なものであろうか?
あれだけ、人の失態を小馬鹿にしたのだから、私も突っ込まれずにはいられない。
「ドレミー・スイート…………スイート……、ふっ」
「な・に・か、文句でも!?」
「文句も異論も無い、ふっ」
よし、これで一勝一敗、五分だ。
悲しい気持ちで満たされた感があるけれど、ぽっかり空いた穴よりもマシ。前を向いて生きていこう。
少なくともカツアゲはせずして、事態は成功へと動き始めているのだから。
そして、彼女の名はスイート。
「……最悪だわ。約束を撤回したい気分になってきたけど、それは義理にも反するし」
「約束は守る。だから心置きなく掃除を行ってくれ、ドレミー・スイート」
「わざとらしくフルネームで呼ぶな!」
「スイート」
「寝顔フェチになんか名乗るんじゃなかったわ……」
スイートのおかげもあって、相手の多少の揺さぶりには動じなくなった。
偉大なる彼女の名前に圧倒的感謝である。ありがとう、スイート。
真逆の能力、似た者同士、同族でもないけれど嫌悪。
月の都が危険に晒されているから、私と彼女との関係が生まれただけ。
きっと、それが深くなることはないだろう。
今までがそうであったように。
「文句は色々あるけど、月の皆様のお願いだから受け入れるわ。短い期間になると思うけどよろしく」
「不平はお互い様だ。別に仲良くしなければならないわけでもない、仕事と割り切ってもらえれば幸い」
そう、仕事。楽しくはないけれど、まだまだ続く不自由な時間を埋めてくれる面倒な暇つぶし。
その一瞬に獏という妖怪がただいただけ。たった、それだけ。
なのに、舌禍は発動し、事態は変化を伴い始めたらしい。
私達のお互いの印象は悪い。見えていない部分はあるだろうけれど、高々手伝い程度でその悪印象が埋まるとは思えない。
そんな中で言葉が招いた事態と命運の変動は、時として不可思議に見える結果を齎すこともある。
今の私には、数日後の未来の形すら全く見えていなかった。
②
珍しく夢を見ている。
でも、その夢はあまりに現実的、いや過去的とでも言うべきか。
その夢の内容を私は知っている。私が直に経験してきた過去を夢見ているのだから。
つくづく、夢というものと相性が悪い。今こうして夢世界に溺れているのも、彼女、ドレミーに会ったのが良くなかったからだろう。もしかしたら、彼女からの手痛い復讐なのかもしれないが、それを確信に持っていける何かは無かった。
思い出せないのは自分の都合、ただその記憶を紐解きたくないだけ。
けれども思い出してしまう。ここは命運に縛られない、ただの夢の世界、であるから。
私が国譲りの命を受けたのはいつのことだっただろうか?
少なくとも二千年ほどは経っていると思う。
下位でありながらも天津神に名を連ねる一族、天津国玉(あまつくにたま)様の御子である天之若日子(あめのわかひこ)様に仕える侍女というのが、私、天之佐具売(あめのさぐめ)という者の立場であった。
私自体も天津神の血は流れているが、家柄が下に下であった故に、上位の一族に仕える以外に存在する意義が無かった。
私が仕えた若日子様は直属の神の系譜には当たらないものの、思慮深き性格、勇猛な武勇、端正な顔立ちということもあって、神々からも一目置かれる存在であった。
優秀な存在、しかしながら失っても痛くもない遠い血統、若日子様は天津神の者達にとって、実に都合の良い駒であったのだと思う。そうでなければ、国津神の討伐などという名誉にもならない勅が、主に降りてくるわけもない。
天に住まう天津神が、下界で神を語る国津神達と定命の者達の地へと降り立ち、下界を秩序ある世界へと変える。宣われた勅の大義名分は最もではあるが、もっと単純に考えれば地上に対する宣戦布告である。
攻める者にとっては相応の理由があれど、攻められる者にとっては略奪者でしかなく、第三者から見れば揃って愚か者扱い。神とは言えど、その不見識な法則から足を離す事は出来ていなかった。
神々の系譜から少しばかり外れている若日子様からすれば、この勅を賜るのは間違いなく名誉ではあっただろう。けれど、下界して神の国を定命の地に作るのには相応の代償を要する。
天の世界、天津神達は不老である。生という存在から掛け離れた世界に住まうことによって穢れを取り除き、時という概念からも外れていく存在となる。
けれど、地上に降りて暮らそうものならば、穢れからは逃れられない。定命の者達の生で穢れた世界に踏み入れば、不老の身体ではなくなり、神の血統も犯されていく。勅が完了した頃には、神という扱いすらされない存在に成り代わってしまうだろう。
蔓延る穢れ故に部下を連れていくわけにもいかない。いくら天津神が強大であるとはいえど、国譲りという大掛かりな策謀を二人で行うというのならば、取れる行動さえも限られる。
若日子様の手伝いとして一緒に下界することを望んだ私、私のような末端も末端な者からすれば、神の名へと縋り付く必要など無い。けれど、若日子様のような有能な方が俗世に縛られ、天から追放に近い形でこのような任に就かれる境遇は不憫と呼ぶ他になかった。
私でさえもこの勅に不満を感じているのだから、若日子様は何も思う所が無いとは思えない。けれど、若日子様は何一つ言葉に出さず着々と地上へと降りる準備を始めていた。
若日子様は現状の境遇に疑問を抱いたりはしないのかと、私は直接尋ねたこともある。
「若日子様!」
「佐具売か、準備に滞りないか?」
「私は身軽な者、若日子様のように大きな使命を持つ者ではございません。大風吹けば飛ばされる身ではありますが、力の限り尽くしていく次第です」
「相変わらず佐具売はお堅いな。今から力を入れ過ぎると、地上に降りた頃には息切れしてしまうぞ」
若日子様は笑い飛ばすように私を宥める。気を使っている筈なのに、気が付くと気を使われている。何もかもが私よりも大きな方が、私の仕える御方であった。
「その地上の話なのですが」
「私もそこまで詳しくはないが、答えられるものならば答えよう」
「国津神の掃討について、若日子様は如何なるものと考えておりますか?」
「如何なる、とは?」
「地上に降り立つということは、神の座を捨てると同意。当然、不老は解け、定命の者と同じ運命を辿る事になるでしょう。私のような代わりある侍者はまだしも、若日子様のような聡明な方へとこのような任が下るとは、天津神の有力者が若日子様を畏れ、裏で糸を引いていたのではないかと」
どこに目や耳があるのか分からない中で、私は包み隠さず今回の勅に対する疑念を述べた。
おかしいものはおかしい、そしておかしな籤を意図的に引かされたのではないかと。
けれど、その疑念に対する回答は意外なものであった。
「私は今までに一度も地上に降りた事はない」
「それは当然かと思います。穢れのある世界に降りれば、神としての使命を全うできなくなるかもしれませんのですから」
「そして、私は今回の任で地上に降りる事を楽しみにしている」
「えっ?」
意外な言葉に驚きを隠しきれず、それは表情として出てしまっていた。
不老を捨て、天より追放される。それを楽しみと言いきった自分の主の思考を理解できずにいた。
「佐具売よ。天に住み続け永久にただ地を見つめるより、その生を縮めてでも地上に降り立ち、不死と定命の者の語り部に名を残すことのほうが、大義であるとは思わぬか?」
「死する事に名誉などありません。自身が感じられぬ名誉などに意味はありましょうか?」
「もし子ができれば、私の代わりにでも誇って貰うとしよう」
はっはっは、と笑って見せる若日子様の姿に、嘘は見受けられない。
負けず嫌いの言い訳、都合良く受け取ろうとする逃避、他者は色々な言葉を吐きかけるかもしれないけれど、若日子様は意に介さないだろう。
もう下界のこと以外は見ていないし、どのようにすれば勅を全うできるか考えており、雑念は捨てている。
未練を持っているのは当人ではなく、付き添うその従者であるのだから、笑えなかった。
若日子様の価値観は、創造者を謳う高位の天津神達とは異なっている。
それだけではなく、若日子様は今回の勅を好機として捉えているのだ。
若日子様は現状に納得しておられるのならば、私がとやかく口出しすることではない。
「満月の夜に地上へと降りる。もう一度聞くが、佐具売も本当に地上へと降りるのか?」
「小間使いという至らない身ではありますが、せめて志だけでも若日子様と一緒に……」
「そうだな。佐具売は見かけによらず頑固者だったな」
私の返事を笑い飛ばす姿は上機嫌そのものであった。
下界、定命の者達が欲望を満たす混沌の都。
そして穢れで溢れかえる忌むべき世界。
耳にした知識というものは、直感に劣る。
緑と水に溢れた生命の楽園。
山々から巡りゆく川の水は、全ての者達に平等に潤いを与える。
笑顔で農業に勤しんでいる定命の者達。
地上に広がる世界というのは完璧ではない故に、ただただ美しいものであった。
「若日子様、これは一体……」
「この任、想像以上に難しいものになるかもしれんな」
神だって嘘を付く。
完璧でないモノを完璧にする為に嘘を付く。
矛盾している、口にした者だってそれを知っている。
私達の歩みによって、天の欲望が地へと流れ始めた。
「こんにちわ、スイート」
仕事で身に付けた満面の愛想笑いを浮かべて対応したというのに、挨拶の後に即、玄関の扉を閉められた。心外である。
彼女との約束通り私は昨日の今日、日を改めて獏、ドレミーのログハウスを訪れたのだが、挨拶がお気に召さなかったらしく、彼女は一瞬で機嫌を損ねてしまった。
とはいっても、鍵が掛かっていないのは知っているので、家主に許可無く開けると、ドレミーは侵入者を気にもせずにソファーで背中を向けて寛いでいた。
相手に冗談を言うのは好きだけれど、冗談を言われるのは好きではない。私とどこか似ている部分がある。まあ、冗談を言われて喜ぶ者は少数派だと思うが。
部屋へと目を向けると、所見でも気になった棚以外にはあまり目に付くものはない。生活感はあるけれど、自分の住む場所くらいは綺麗にしているのか、夢環境と異なり目に優しい木造りの茶色い部屋である。
それなら、夢世界も普段から掃除しておけばいいのにと思いながら、私は木製のテーブルの上に置いてある珈琲に口を付けた。
湯気が出ていなかったので味には期待していなかったけれど、香りは上の上である。ホットでないのが勿体無い。
ことり、と陶器を机の上へと置く音を聞いたのか、ドレミーが振り返る。そして剣幕が一段と厳しくなった。
「あんたは何勝手に飲んでいるの?」
「そこに冷めた珈琲があったので」
「だから勝手に飲んだと。非常識極まりない」
「もう少し早く来れば良かった」
台所にもう一つ分準備されているコップを見ながら反省すると、ドレミーは顔を赤くしてわしゃわしゃと帽子を掻き毟った。なんだかんだで気を使ってくれてはいるようだ。
「不眠なのに珈琲を飲むのね」
「珈琲は長く生きる上で必要な成分よ」
「同意」
調子が狂うのか、ドレミーは私に何も言わずに立ち上がった。
早速、仕事開始といったところだろうか。
「さあ、さっさと始めるけど部下は?」
「見ての通り私一人」
「またひとりで来たの? 実は部下に信頼無いタイプ?」
「多くの者が都合により月から外へと出られない。だから、私がネゴしに来ている」
「成程。でも、そんな状態でこの場所に避難できるの? 多くの者が月から出られないんでしょ?」
「それは可能。あの御方によって都が“直接”ここにやってくる」
全てを直接移動させるのは難しいので、月の都の中枢である中央部の空間転移のみを試みる。
豊姫様の能力であっても、街全体を動かすような大規模な転移は不可であった。
まあ、中心部の転移だけでも十分凄いというか、規格外なのだけれど。
自身の肉体程度、個の空間操作を行う能力は月の民にしては珍しくない能力である。しかし、豊姫様レベルの空間操作となると、月には他にいない。
加えてあの操作の凄い所は、操作された相手に気が付かせない点にある。中心部に集まった月の民達は、何も知らずに月から夢の世界に入り込んで眠りにつき、狂夢を見ることになるだろう。
守りの一手にしては大規模であり、博打にも近い。今回の敵、純狐の一手はそれを迫る程に強烈だったのだろう。
「これまたぶっとんだ能力を持つ者が月にはいるものね。そんな連中が私ごときにヘルプを求めるのは根本的におかしいと思うけど」
彼女は賢い。
これが月にとってお遊びや暇つぶしの延長線上にしかない事に、もう気が付いているのではないだろうか?
そうなると勝手に付き合わされる身、私と同じ被害者でもある。
悪乗りが好きそうだから、私と違って楽しんでいそうだけど。
似ているようで似ていない、似ていないようで似ている。
近くて遠い存在。
「まあ、なんか色々聞くと質問攻めになっちゃいそうだから、追々聞くことにする。貴方の能力が働くと失敗しやすくなるだろうし」
やはり、彼女は賢い。月兎達もこれくらいの知見を持っていてくれれば、私に余計な仕事が降ってきたりはしないのだろう。生意気な部下はいらないけど。
さて、家の外に出て虹色の夜へと戻ってきたけれど、ここは部屋の中と違って何かフワフワとしたものが多数漂っている。
この銀色の物質が実体化した夢、というものなのだろうか?
一見柔らかそうであり、握ったりしたら潰れてしまいそう。
夢というものは悪夢でもない限りは毒にはならない筈だ。目の前をフワフワ漂っているそれはキラキラと光っているから、悪夢ではないだろう。もし悪夢を引いたら、それは単純に引きが悪かったと諦めよう。
手を伸ばしてみる。恐れはなく、その柔らかいものへと触れる。
何かを触っている感覚は無かった。代わりに触った時に視界が何かにジャックされる、それどころか視覚だけでなく他の感覚も映像に倣って働いていた。
悲鳴、包丁、血の匂い、赤く染まった障子。
呆然と壁に寄りかかる少女、その目だけが正常に働いている。
五感から得る感覚全てが異常だ。でも、彼女の両親を捕食する妖怪からすれば、いつもの光景であった。
頭痛と強烈な白い光により感覚が戻っていく。
その後は見慣れてきた虹色、手を伸ばした銀色のキラキラは相変わらず目の前を漂っている。
夢の中の少女の鼓動が移ったかのように、息が荒くなっていた。
目も極彩色の中から赤だけを抽出して、塗り潰していく。
視界に入る彼女の帽子も赤かった。
「どうだった? 良い夢見れた?」
「結果は言わなくても分かる、って顔している」
「好奇心を抑えずに先に触ったほうが悪いんじゃない?」
触るまで説明してくれたかどうかは別としても、こちらから言い返せる言葉は無かった。
彼女の顔を見るに、どうやら私が運悪く悪夢を引いてしまった、わけではないようだ。
さて、調理法が悪かったのか、そういうものしかない世界なのか、色で判別でもできるのか。
「ここに散らかっている夢魂もどき、夢の殆どが、生きている者が忘れたくても忘れられない悪夢。中には目で見た本物の映像を“悪夢”と思い込む事で、この場所に収納されてしまった真実もある」
「夢といっても皆が皆、悪夢ばかり見るわけでもないと思うけど」
「良い夢というものはすぐに忘れてしまう。私が食べなくたってね。だから残らないってわけ」
あそこに浮かんでるピンク色も向こうで輝いている金色も、闇に佇む黒い光沢も、全て悪夢であるそうだ。
見かけで詐欺を働いていると文句を言いたいが、言うべき相手がどこにもいないので、説明されても釈然としなかった。
仕方なく色について問い質してみると、
「私と貴方は違うでしょ? 夢にだってそれぞれ個性はあるって事」
やはり釈然としない答えが返ってくるのだった。
ここら辺に廃棄されている物質が見かけによらず悪夢であるのは理解したのだが、それに触れると極度の寒気と動機に襲われてしまう私に、できる仕事とは一体何であるというのか。
我慢しろと言われれば、それまでである。耐えがたき感覚故に、捗るとは到底思えないが。
「という事で、私は皆さんの頭から消えない悪夢を処理するので、貴方は悪夢をこの袋に集めて」
「素手は遠慮したい。そもそも、素手以外でも作用するのか?」
「夢は五感、特に触覚に作用する。要は直接触らなければいいって事。はい、グローブ」
安っぽい白地のグローブが渡される。隙間の無く、吸いつくような装着感は、チープな見た目に反して守備力が高そうである。
次に渡されたのは、聖夜の子供のプレゼントでも入っていそうな白い袋である。中は空であるが、密閉性も高そうに見えない為、外に漏れ出てきそうな気が。
全体的に安全な道具には見えず、不満を言いたくなる。
でも、見栄えだけで道具にあたるのは良くないので別の言いがかりを探した。
「これを先に渡してもらえれば、悪夢に侵入する事態は逆転し、触らずに済んだかもしれない」
「渡したってどうせ素手で触ったでしょ? 面白半分で」
「……柔らかそうでフワフワしているのが悪い」
文句を付けてみても、結果として悲しさと切なさしか残らなかった。
やりようのない気持ちは悪夢集めという作業に向けるしかなさそうだ。
「じゃあ、私は家で処理しているから宜しく」
「なっ!」
「だってそうでしょ? 貴方は悪夢の中に潜れない、私は潜って処理をできるからする。ほら、適所適材でしょ?」
悪夢採集という名のパシリ役というのが、私に与えられた役目である。
自分の居場所は自分で片付けろというのは当たり前ではある。ただ、綺麗になった場所に私がいないという事実だけが残る。
月の者達を恨めばいいのか、原因を作った外敵を憎めばいいのか、はたまた勝ち誇った顔で引き上げていく獏を闇討ちでもすればいいのか。
感情を抑え込むのは今に始まった事ではないし、苦手でもない。
黙々と目の前にある目標に取り組むのみ。そこに雑念を交えるから濁るのだ。
別に捕まえるものは逃げたりしないのだから、簡単で単純な仕事である。
「じゃあ、宜しくね」
「ちょっと待て」
と、簡単に割り切れるわけがない。
とにかく、ドレミーという女に翻弄されているという現実が不愉快なのだ。
一矢報いたい、どころか何本でもいい。どうせなら矢衾にしてやれればいいけれど、彼女はスイート以来、尻尾を見せていない。
「最初は処理する夢も無いのに、家に戻るのはおかしい」
「何もおかしくないわ。家の中には先に私が集めておいた悪夢が貯蓄されているから、まずそれを処理する。そもそも昨日だって私が処理していた所を見たでしょ? 断じてサボリではないから」
放った一矢は見事に私へと返ってきた。
きっちり約束も守っているし、私が来る前から下準備をしている。
彼女は思っている以上にきっちりしているし、苦労を背負い込んでいても、それなり以上に対応してくれる。
他者を弄る癖さえなければ、私の知り合いの中でも一、二位を争う真っ当な者である。
月にはまともな方はいないし、月兎は飽きやすいし我儘で論外。
交友関係が狭いくせに、周りにいるのは異常者ばかりなのは、事態として深刻である。
いずれ、時間がある時にでも解決の手段を探すとしよう。
「あっ、あと一つ」
言い忘れた事があるのか、今度は自主的にドレミーが振り向く。
「夢の世界に深く潜ると昨日のように外からの刺激を遮断する事になるから」
「質問は済んでいる。道具さえしっかりしていれば、私の作業自体に支障はないだろう」
「寝ているわけじゃないけど、できれば寝顔は見ないで欲しいんだけど……」
不意の言葉に思わず心が飛び跳ねる。
おちょくっていると分かっているのに、少し俯いて恥ずかしがってみせる彼女の演技に持っていかれそうになる。
月に使役する立場、周りにいる者は立場が上か下かのどちらか、こうやって対等に話せる者が少なかったから、耐性が無いのだと思う。
それもある、あるけれど……。寝顔と言われると瞳に焼き付いた昨日の画像を思い出してしまい、縛られるのだ。無防備でいて美しいと思ってしまった、あの隠されたままの顔を。続きからは始められないが、リセットは可能。
そんな妄想を余所に、私の反応に満足した彼女がニヤリと笑うのも早かった。
「貴方は肌が白いから、恥ずかしがると全く隠せないわね。羨ましいけど、ちょっと不便そう」
「うっ……」
「掌で顔を隠しても、見えるものは見えるから」
彼女の見えない寝顔を思い起こしている一番見られたくない姿だけは、何とか隠せている。
事ある度に思い出しているようでは、彼女の変態という言葉に反論さえできなくなる。
忘れよう、少なくとも頭から離そう。しかし、本人がここにいるのだからどうにもできない。
作業に入る前にとんだ置き土産である。
でも、この袋の中を満杯にして彼女の家に戻ったら、そこにあるのは……。
私の手は早速、無作為に浮かんでいるそれを手にとって、素早く袋の中に入れていた。
やましいモチベーションを糧にしている自分に溜息を付いてから、軽い袋を担ぎあげた。
必死になるだけの理由を見つけてしまった。
まるで人参をぶら下げられて走る馬だ。不意に仕掛けられた餌というものに完全に釣られている。
初めてやる事なのでどれくらいが速いのか、どの程度掛かると遅いのか、私の中には判断基準が無かったけれど、次にこの速度で悪夢なるものを集められる気はしなかった。
手袋も見かけを裏切った優秀な道具であり、直接触った時のような副作用が出ることは一度も無かった。袋も同様で、一度入れてしまえば、口さえ紐で縛っておけば中身が出てしまう事は無い。
ぎゅうぎゅう詰めにされた夢が満ちていても、重さは最初に持った時と変わらない。夢という物に柔らかさ、それ自体の触覚が感じ取れなかった故、質量というものが本当に無いのかもしれない。当然、同じ色を四つ集めたりしても、消えたりはしない。
存在するように見えていて存在しないモノ、精神にのみ作用する劇薬、そんなものを処理し続けている妖怪が意外にまともでいられるのも不思議なものである。
多分、彼女に直接聞いてみたら、「私はまともではない」と返ってくるだろう。
ドレミー・スイートという妖怪はそういうものなのだ。
一仕事を終えた私は、中に入っている夢を置きに行く為に一度、ログハウスへと戻る。
そうしなければ、これ以上悪夢を集めることが叶わないのだ。
別に悪い事をしているわけではないし、ましてや、やましい事など無い。真っ当な理由からである。
大体、私が扉を開ければ彼女は起きる。昨日そうだったように。
ならば、窓から入れば急襲できるのではないか? 他にもあの煙突からとか。
「……馬鹿馬鹿しい」
口だけでも否定してみせて、非常識を捨てる。
きっと何をしても彼女は起きるだろう。そうでなくては、獏は夢の世界にうかうか入っていられない。
心を落ち着かせてからドアを昨日と同じくノック、やはり返答は無いままだった。
勝手に入って勝手に置いていけという意志表示だろうか?
寝ている者を起こさないようにゆっくりと扉を開ける。ギイィ、と耳に残る音を立てた後に既視感を覚える光景。
彼女は再び眠っていた。少なくとも目を瞑っている事だけは、顔を隠していなかったので間違いなかった。
私が入ってきても気配には変化が無いまま、もし驚かそうとしているのならば、二度目ながらかなりの気の入れようである。
彼女は不必要な夢を処理すると言って眠りに着いた。
出会った時の様子から見るに、寝ているのとは異なるのかもしれない。けれど、夢の処理とやらに何の知識も持たない私から見れば、彼女はただ寝ているようにしか見えない。
目線を一度外して、袋を入口近くに置く。予備の袋がきっちり準備されているあたり、準備にはそつが無い。
満杯の袋をもう一度強く縛って、代わりの袋を手に取る。これにまた沢山悪夢をつぎ込めばいい。
もう一度彼女を見る。起きる様子は無く、大きな瞳は未だに開かれない。
お仕事に御執着なのか、それとも私を相変わらず試しているのか?
名残惜しさもあったものの、今は彼女に新しい弄りネタを提供すべきでないという常識じみた思考のほうがなんとか上回った。
踵を返して再び外へ、
「……ないで」
出るつもりだったのに、その小さな声に強制的に停止させられた。
ここには彼女と私しかいない。話しかけられたのは自分、それ以外に無い。
けれど、彼女は先程と同じまま、目を瞑っていた。
唯一異なった点は、その表情から安らぎが消えていた事。
「……ちがう、わたし、は……」
うわ言のように出てくる言葉、額には汗が滲んでいる。
これは獏にとって、ドレミーにとって正常なのだろうか?
私は夢に精通していないから、この状況が何を物語っているのかが分からなかった。
なら、一度起こして本人から聞けばいい。取り越し苦労だったなら、それでいいではないか。
「大丈夫?」
声を掛けながら彼女の肩を触った、その時であった。
電気が体中を掛け回り、脳まで到達する。
次元が白くなり、世界から世界へと飛んでいく先程感じた錯覚。
さっきと同じで夢の中に引きずり込まれる、そう思った時には意識が白く塗り潰されていた。
夢の中には全てがある。
たとえ不可能、未確認であっても、夢は全てを許容する。
夢は素晴らしいものでもありながら、現実をも超える悪夢ともなる。
どちらへと振り切れる切っ掛けは、私さえも分からない。
夢は自由、貴方の脳が赴くままの光景を見せつける。
そんな自由の世界の住人が私であった。
誰にでもなれて、何でもできる。この世界にいる限りは、私は神すら凌駕する。
けれども、そんなことには何の意味も無かったんだ。
最初は楽しかったのだろう。記憶が曖昧なのは、今の私には昔過ぎて、最初の感情がもう思い出せないから。
自分の世界の中にいれば、不自由は何一つない。私にできない事など無いのだから。
けれど、夢には必ず終わりがある。覚めない夢はありえないのだ。
私は夢世界で、この“自由で苦労の無い世界が見せる夢”から覚めてしまった。
それを気付かせてくれたのは孤独。
夢の中ではいかなる時でも一方通行。
私は誰とでも知り合いになれる、夢の中では。でも、そこから戻ってしまえば、全ては水泡へと消えて、必ず最後には相手が夢から覚めて私は独りになる。
これではまるで、結論が定められている悪夢ではないか?
他者から見れば、私は夢の一部でしかない。
忘れられるどころか、私はそもそも存在しない。
どんな夢の中にでもいる、名無しの万能エキストラ。
私という存在が消えても、誰も助けてはくれないし、誰も気が付きようがないと知った時に、夢は極彩色からグレーの世界へと変わった。
孤独を忘れる為に与えられた玩具、夢。
それでも、孤独に慣れることはない。それはいつも私の隣にいるのに、何も話してはくれない。
顔も知らない誰かへの依存心と、外の世界への探求心は、歪な形で大きくなった。
私がいることの意味を知りたい。誰かに私を認めてもらいたい。
そんな欲求に対する反証、夢の世界の外に出たとしたら、獏である私には一体何が残るのだろうか?
夢の中でしか何もできない、夢の中でのみ万能でいられる。
私という存在は、夢無しでは成り立たなかった。そして、それを否定してくれる存在が現実にいなかった。
夢に縛られているのに夢に依存するしかない、それが獏という妖怪の正体であり、私という妖怪であった。
夢を適正な形で忘れさせること、それが私の存在意義で、責務。
仕事に手が向くのは当然だ。
だって、それ以外には何も私の手に残らないのだから。
「……グメ」
なにか、きこえる。
私の名前?
それはおかしい、私の名を呼ぶ者などこの世界のどこにいるというのか?
上司からはそう呼ばれることもある。月兎なんかには“サグメ様”と、畏れを含んだ声で。
こんな、優しさを含んだ声ではない。
ならば、一体誰が?
「サグ……メ?」
「……おはよう」
彼女へと触れた際に、夢の世界へと誘われてしまった。だから、意識が現実から遠ざかっていたらしい。
眠る事はないと彼女は言っていた。そんな中で、私が見たものは獏という妖怪の心の世界。無機質で透明で壊れてしまいそうな水晶の中にあった赤裸々な心。
やはり、私とドレミーは似ている。境遇は違えど、この世界に対して辟易している部分は同じであった。
「涙……」
「えっ?」
「怖い夢を見ちゃったのね。なでなでしてあげましょうか?」
手でこっちに来るなとジャスチャーして見せると、彼女はにひひと笑って見せた後に、少し真面目な声へと切り替えた。
「それにしても、また悪夢に触ってしまったわけ? それ、生身の者が安々と繰り返していいことじゃないよ。一つ間違えれば精神世界に捕らわれて、夢から心が帰ってこれない器だけの存在になってしまうから」
「気を付ける」
「ここに来たのは袋の交換? それとも私が目当てかしら?」
笑ったり真面目に諭したり毒を口にしてみたりする彼女の顔を、私は呆けたままじっと見ていた。
彼女は今、普段とは異なる社交的な存在を演じているのだろうか? 普通とは別の顔を見せているのだろうか。
生々しい感情を見せつけられた故に、どうしても感傷的になってしまう。
他者の事など、ここ何百年以上考えることは無かった。今までの私には必要の無い思考であったから。
だから鈍くなる。他者が分からない。
自分自身のことすら良く分かっていないのだから、他者を理解できないのは当たり前なのかもしれない。
「それにしても短時間でよくこれだけ集めたね。夢を集める才能あるかも」
「別に逃げたりしない。真面目にやれば誰でもできる」
「袋が貯まらない様に私も真面目に取り組まなきゃいけないみたいね」
私が自発的に動かぬ物を集めているのに対して、彼女は得体の知れない悪夢の中へと潜り込んで、処理を行っている。
その処理とやらがどれほどの負担を伴うのか、私の採集よりは比較にならないほどにきついものなのだろう。
「一つ聞いてもいいかしら?」
「どうぞ」
「貴方はどうして、月の民の我儘を受け入れて、自分の場所を開けようと頑張ろうとする?」
「あんたが頼んだんでしょうが」
成程、確かに呆れられるような質問である。お前が聞くなという顔も理解できる。
それでも口にしたのは、自分が行ったことは恐喝まで考えた理不尽な要求と言うべきか、そう、彼女に利が全く無かったからである。
月に恩を作る、返ってくるかも分からないし、仇となるかもしれない恩。見返りの要求もない。
何も残らない無駄な労働そのもの。
ならば、理由は一つしかない。
「暇なのか?」
「うん、ぶん殴る」
真顔で拳を固くするのは、怖いのでやめてもらいたい。
お互いに続いていく冗談の連鎖を切ったのは彼女であった。
「理由は簡単。誰かに頼られているから、私は全力で応える」
「それが獏、ドレミー・スイートの存在意義ってこと?」
「そんな格好良いものではないよ。私がそうありたいだけ。いや嘘かな、相手もそうあって欲しいからなのかも」
獏という妖怪を知らない者は殆どいないし、それが夢と関連を持っている事も周知の事実として知られている。
彼女は強大な妖怪だ。夢の中では。
私は奇しくも知ってしまった。彼女が現実という自分の土俵でない場所で今尚苦しんでいる。
爽やかな笑顔を浮かべて言い放った彼女を見ても暗雲が晴れないのは、彼女の精神を覗いてしまったからだろう。
同情? 同調? するべき点はあるけど、私はドレミーではない。
だから、自分が今するべきことをするしかないし、最善が何であるのかも見えないまま。
彼女の心を覗き見てしまった事は、結局口にはできなかった。
本日の仕事量は袋三つ分、彼女の処理量は四袋分にのぼった。
それが多いのか少ないのかと言うと、「あと半日で移動できるスペースが確保できる」とのこと。お互いに予想以上の働きだったのは言うまでもない。
「今日は仕事したぁ、って感じするわ」
「私は真逆で全然ない」
二度目の夢覗きを行ってからは、私は無心になれるように夢を集め続けた。
けれど頭を使う事もない単純作業でそれを求めるのは無茶であり、脳に寄生した雑念は何度も脳内で咀嚼された。
いくら考えようが、想像の域を脱しえないので、ストレートに言うと無駄。無駄を無駄と言い切れるほどに割り切れていないから、何度も頭の中をぐるぐる回るのだろう。
今こうして会話している際にも、言葉を選んでいるフリをしているだけで、余計な思念に囚われている。
振り払いたくても、振り払えないのは、私の精神がそこまで強くはないから。
「では、今日はお疲れ様でした」
何のひねりもない挨拶であるけれど、挨拶を行う相手も限られている私には珍しい言葉であった。
立ち上がって椅子を机に押し入れ、彼女へと背中を向ける。
あくまで仕事と仕事の関係。共に他者の領域を侵さない者同士、稀有ながら短い付き合いに身を委ねるのも悪くない。
「明日もよろしくね……、サグメ」
背中越しに自分の名前を呼ばれて、また顔から熱が生まれる。
赤くなっているであろう顔を見られなくて本当に良かった。
見られてもいないのに癖で左手の掌で隠していたのは秘密である。
③
私達が降り立った場所は河内国と呼ばれる場所で、河内はいくつもの河が海へと流れ込む肥沃な土地であった。
豊富な淡水を活かした農業が盛んな地域で、水源が多いので人以外の動物も多く現れる。食料に困るような場所ではなかった。
大人や子供、様々な者達が住まう場所で、彼等には絶え間無く笑顔が見受けられる。
下界、国津神が支配する地上は悪魔の国であり、そこに住まう定命の者達を解放するのが、天から遣わされた私達の役目。
けれども、救うべき対象が地上にはいなかった。
「若日子様、街の中にも悪魔といえるような者はおりませぬ。地上の民達は生を満喫し、世界に満足しているように見受けられます」
「うむ、そうだな。私も楽しいぞ。天界と違い、何よりもモノが旨い」
地上は地の上だけでなく、水の世界、海からも恵みが得られる。
若日子様が食べている鮑も、海から獲れた産物であり、貴重な食料なのである。
我々からすれば、生の息吹を口にしなくても生きていく事はできる。神は不老であるので、他の生を奪わなくて良いのだ。むしろ食糧は清い身体を維持できなくなる毒とさえ言える。
そんな事情を気にせずに、若日子様は地上の暮らしというものに興味を持ち、降りてからは定命の者達と同じような生活を送っていた。それを行う事によって、彼等、この天の神々が影を潜める世界を理解しようとしていたのだ。
神がいない代わりに、彼等は自然信仰を行っていた。山と海には神が住まう、そして神は信仰深き定命の者達に恵みの幸福を与える、とのことだ。
確かに彼等を幸福にしているのは私達のような天に住まう者達ではなく、地上からの贈物であった。
要するに、この世界は天の助けなど、一片たりとも求めてはいなかったという事。
そして、神々は自身の事情のみを優先し、地上の一部の生命を祓うことで天孫降臨し、新たな神として信仰を集めようとしている。
地と天の事情はあまりに異なり、そして相反する。
必要とされていない神の存在を、彼等が容易く受け入れるとも思えない。
地上の制圧を目論んだ先鋒である私がそう思ってしまうのだから。
私達は天津神であることをひた隠し、地上の子等と同じような振る舞いをしながら、この河内国に住みついて地上の情勢を確認し続けた。
若日子様は狩猟者として獲物を仕留め、私はその獲物を捌いて、皮と肉を街で売る。若日子様の腕と弓によって、生活に困ることは無かった。
狩猟の腕というものは、どこにどのような獲物が生息するのか、自分の腕で仕留め切れるのか、その判断が難しいものであるが、若日子様にとっては獲物がいる場所さえ判ればよかった。矢の威力は神聖なる弓によって申し分ないものへと変わるからである。
神の丹力が無ければ、引く事すら敵わない天之鹿児弓(あめのかごゆみ)は神々が任の際に若日子様に与えた神器である。この弓から放たれた矢は、多くの野生の生物を遠矢であっても一撃で仕留める、そう若日子様より聞いた。
それが嘘でないのは、獲物を捌いている私が一番良くわかる。
矢傷が少ない故に、私が売り払う肉は良質な米と交換が出来たのだ。
この任によって神から授かった神器は弓だけではない。天之羽々矢(あめのはばや)と呼ばれる矢は、その威力故に天にまで届き、その矢を射れば百発百中と言われている。そんな矢を使わなければならない場面は、この穏やかな地では想像はできないものであるが。
私が市でものを売り払うほどに、名も知らぬ敏腕の狩猟者の存在は、河内国の間で広がっていった。
その日は珍しく若日子様の帰りが遅かった。
獲物が見つからない、今までにはそんなことは一度も無かったけれど、長く時を過ごせば天運が良くない日もきっとある。
無事で帰ってきてくれさえすればいい。そう考えながら待っていると、いつものような若日子様の帰宅の声が聞こえた。
急いで玄関を開けると、若日子様は獲物を手に持たず、人を背中に担いでいた。
「獲物として人を射った、わけはないかと思いますが?」
「はっはっは! 佐具売は相変わらず真面目な顔で面白い事を言う」
長い黒髪は短く縛っている私とは対照的な美しさ、髪を見ただけでこの方が美しい女子であることが分かってしまった。
おぶっていた彼女を、若日子様はゆっくりと下ろす。その気の使い方で、彼女がどこか怪我をしていることがわかる。
「本当に申し訳ございません」
申し訳なさそうに透き通った声で謝って見せる彼女は、煌びやかな光沢を持つ黒髪に全く引けを取らない美人であった。
二人にどのような出会いがあったのだろうと、お互いの顔を見比べていると、その様子を見ていた若日子様が再び笑い出した。
「佐具売よ。彼女の足首の手当、頼めるか?」
「あ、はっ、はい! 気が回らず、ただただお二人の美しゅう顔を見比べておりました」
「佐具売の感想はいいのだが、初対面の彼女を困らせてはいかんな」
恥ずかしそうに顔を赤らめる彼女を見て、私は冷やすことが必要だと思い立った。
勿論、彼女の顔ではない。
「申し訳ございません」
「いえいえ」
怪我をしているという足首には傷は無いものの、少し腫れが見られ、触ると痛みがあるというので、汲んできた河の水で冷やしている。
水汲みの苦労の労いを「申し訳ございません」という言葉で何度も頂いた。それだけ頭を下げられると、首も冷やさなくてはいけないんじゃないかと思えてくる。
「私、若日子様の小間使いをしております佐具売と申します」
「仕えていらっしゃるのですか? 差支えがなければ、若日子様についても教えて欲しいのですが」
正直に天から来た神の使い、と口にするわけにもいかないし、私が勝手に設定するわけにもいかないので、そこについては丁重にお断りした。
とはいっても、彼女の想像は止められないわけで、彼女の中では今、色々な推測が飛び交っているのだろう。そもそも狩猟者に侍女が付いている事自体、地の世界にとっては不可思議である。
そんな憶測を遮ってしまい申し訳ないのだが、一応現状に至った経緯について聞いてみた。
彼女が山菜や木の実を集めに山に入った際、大猪に見つかり、怯えていた所を若日子様が射抜いたそうだ。
彼女が言うに「恥ずかしながら腰に力が入らなくなり、倒れてしまった際に脚を痛めた」だとか。
丸腰で自分よりも大きな動物と対面しようものなら、背中を向けて逃げるのにも勇気がいるだろう。
定命の者達は神々のような絶対的な力を持ってはいないのだから。
「粗屋ではありますが、今宵は泊まっていったほうがいいでしょう」
「他人様にそこまで頼るわけにはいきません」
「その足で帰れる程にお家は近いのでしょうか? 若日子様の事ですから、再びおぶられながら、暗い夜道の中で家まで戻ることになるとは思います」
「むぅ……分かりました。痛みが引くまで大人しくします」
物分りは良い方であり、彼女も若日子様という方を理解し始めている模様。
このような節介焼きな出来事が何度もあったことを事例と共に伝えると、彼女は口を抑えて可愛らしく笑ってみせた。
綺麗であり可愛くもあり上品さも兼ねる姿。着物を見ても、畑を耕す者の娘には見えない。
聞いてみようか、失礼になるかもしれないから聞かぬが吉か?
考えていた故に沈黙、彼女は私の顔を覗き込んでいた。
「すっ、すいません。私の顔を見て思案なさっているように見えたので、つい覗き込んでしまいました」
「そう見えますか?」
「間違いなくそう見えました」
配慮が足りていないのは私の態度であった。
迷っていてまた思考の糸に絡み取られるのも良くはないので、真っ直ぐに聞いてみることにした。
「そのお召し物、高貴な位の方と存じ上げます」
「申し遅れました。私、下照(したてる)と申します。この河内国を治めている大国主(おおくにぬし)の娘、です」
「なっ!」
「驚くのも無理はないかと思いますが、嘘ではありません」
頭をゆっくりと下げて挨拶してみせる下照様は、上品さに満ちた雰囲気を纏っていた。
地上に降りてからの調査によって、大国主には息子である味耜高彦(あじすきのたかひこ)と娘、下照姫がいるのは知ってはいたが、その名を本人から聞くことになるとは思ってもいなかった。
狼狽するのは尚更にみっともないので、私には頭を下げる以外に何もできなかった。
「今までのご無礼、失礼いたしました。どうかお許しを」
「ふふっ、許さないです。だから佐具売様、罰として敬語禁止です」
「えっ?」
「私、佐具売様と若日子様のこともっと知りたいです。初めて顔を合わせたのに優しく接してくれたお二人の事を」
無礼を働いた私に科せられた二つの要求、一つはできそうではあるが、もう一つは勘弁してもらいたい。
「とはいっても、この佐具売、無知故に今以外の言葉使いを知りません。どうか、どうかご許し下さい」
「そんなことはない気がしますけど……」
「どうか、お許しを」
「分かりました。でも、その分沢山お話を聞かせてくださいね。夜は長いのですから」
早朝、私は遠くで鳴く鳥の声に起こされた。
隣のお布団には下照様が穏やかな寝息。私達の布団では固くて眠れないのでは、と心配ではあったけれど、彼女は意外と早く眠ってしまった。
まだ太陽が昇って間もないのか、外は薄暗く、冷たく湿った空気が辺りを包みこんでいる。
目が覚めてしまったので、外へと出る。水汲みは私の日課でもあった。
壁に立て掛けてある桶を手に取ったその時、自分の身に刺さる視線を感じ取った。
どこからか、誰かがただただ私を見ている。
「鳥?」
空を飛んでいるのは大型の雉で、私を見据えていたかのように目の前に着地してみせた。
鳥である故に目を見ても感情を把握できないのだが、それ以上にその鳥自体が何も感じていないように見えた。
地上の鳥ではないだろう、感じた矢先に彼女は話し始めた。
「先導者である佐具売様とお見受け致します。私は雉之鳴女(きぎしのなきめ)、神々の声を伝える使者でございます」
使者という言葉よりも、見張りという言葉のほうが正しい。血統が宜しくない我々に懐疑の目を向けていて、彼女がその目となっているのだろう。そして、口であり耳でもある。
自由にできる手足をこうして持っているのに、何故私達を地上に向けたのだろうか? 能力の差でもあるというのか。
私の思考など気にもせず、雉は勝手に自己の都合で話す。
「どうやら、娘を通じて大国主に近付けたようですね」
「全くの偶然ですが」
「強かさは必要なものです。別に恥じることはありません」
何も知らない使者ごときに言われたくはない。丁寧な言葉遣いに合わない内容に、思わず腹が立った。
けれど、いくら建前を述べたところで、私達も彼女と同じで騙している側の者でしかない。
心持ちが違かろうが、侵略者には変わりないし、身元を隠している故に尚のこと悪い。
結局、私達は目の前にいる雉と何も変わらない。
「大国主の娘に神の血でも入れれば、地上が神に屈服するのも早まるでしょう」
「若日子様を侮辱する言葉を吐く者は、神の使役者であろうが許しませんが?」
「これは失礼致しました。使者風情が出過ぎた真似を」
言葉とは裏腹に反省の姿は私には見られない。
傲慢な立ち振る舞いをこう見せられると、感情が動きやすい。
意図的に行っているのならば、それも一種の才能と言えるだろう。
しかし、彼女の揺さぶりは私が思っている以上に大きいもので、私よりも私をよく見ていた。
「神々もこの任の重要性、難解度を認識していらっしゃる。成功の暁には多大な恩赦があるでしょう」
「私達は恩赦の為に行っているわけではありませんが」
「貴女のその欲望も、満たしてもらえるよう、私から働きかけておきましょう」
「……えっ?」
私の欲、そんなものを彼女、それどころか誰かに口にした覚えは無かった。
更に言えば、自分でも心当たりすら思い浮かばなかった。
若日子様の為についてきた身、若日子様の幸せは私の幸せ。それ以上に望むことなど無い。
そう、その思いを歪んだ目で見られていたのだ。
従者として願ってはならない、私の秘めたる思いを。
雉之鳴女がどこかへと飛び去った後、私は河で水を汲んだ。
水面に映った自分の姿、それはきっと醜いもの。
私は仕える者、身丈以上の要求を行う事は許されず、主に仕える際は尊敬の念以上の感情を持ってはいけない。
私と若日子様が対等の立場になってしまったら、それはもう主従の関係とは言えない。
今のままでいい。それが私の唯一の幸せなのだから。
自分を納得させるように頭の中で言い聞かせながら、私は家まで帰ってきた。
家を出てから大分時間が経っていたらしく、二人とも既に目を覚ましていた。
下照様は足の調子も良くなったのか、特に違和感無く歩いている。それどころか、調理を自分から率先して行っている。気を使われるばかりなのが嫌だったのだろう。
そんな様子を後ろから見ている若日子様の顔は、いつも以上に穏やかであった。
足が完治して家へと帰った後も、彼女は頻繁に私達の前へと現れ、その綺麗な姿を見せてくれた。私達が彼女と話すのが楽しかったように、彼女も笑顔で応えてくれた。
けれど、若日子様が下照様と構築した関係は別のもの。
鳴女の預言通り、二人が恋仲になるまでにそこまで時間は掛からなかった。
三日掛けて片付けた夢世界から、ふわふわしたものは空間から消えていた。
所謂、掃除のしすぎであり、都が移ってきてもお釣りが出てくるくらいのスペースが確保されたらしい。
仕事につい熱を入れてしまう二名が揃ってしまったのが、働きすぎの理由の半分。もう半分は私自身、居心地が良かったからである。
故に都の夢世界へと移転が終わり、任が無事に完了したというのに、私は今日もこのログハウスを訪れているわけで。
そんな私に対して、文句を言う事もなく迎え入れてくれるドレミーも、私に対してそこまで悪い感情は持っていないようだ。
そのドレミーであるが、先程から文句が止まらない。その文句は私に向けられているものではないのだが、聞いている側にとってはあまり気分が良いものではない。
「奴らも掃除してしまおうかしら?」
ちらりとこちらを見る目、ご協力願えないかと言ったところだろう。
目を逸らした瞬間、間髪入れずに言葉が飛んでくる。
「場所代」
「さて、帰るとしよう」
「お願いだから愚痴だけでも聞いて……」
同情の余地はあるけれど、愚痴を聞いたところで問題は解決しない。
その問題、夢世界に入り込んだのが月の民だけでなく、別の異物である奴ら、妖精も入り込んでしまった。
入り込んだ妖精達との契約は、その親玉であるへカーティア・ラピスラズリと名乗った女とドレミーの間で行われていたのだが、夢世界に多人数を送り込み、これだけ煩く騒ぎ立てるのは、避難者だけでなく世界の支配者にとっても想定外であったようだ。
彼女が何者なのかは知らないが、純狐と通じている月の民の敵であるのは間違いないだろう。ここにいる妖精は、静かの海を占拠した妖精と相違無いのだから。
「全くどいつもこいつも私の場所を何だと思っているわけ?」
妖精達の騒がしい声は、防音機能のついていない木造りの家の中にも当然入ってくる。
別にここにいたところで楽しいことはないし、そもそも何もない場所である。騒ぎたくなる要素は私の見る限りはない。
妖精にとっては生きているだけで楽しい、とでもいうことなのだろうか。
加えてここに来ている妖精、地獄という生命不適合環境で育ってきた妖精だとか。
「それにしても、何で急に来訪者が増えたのだろう?」
「月の民がこの場所に来た。だから、生命力溢れる妖精達がこの場所に来たと考えられる」
「それってつまり、あんた達のせいって事じゃない!」
「打つ手が後手になっている。相手が一枚も二枚も上手ということね」
ドレミーの言葉に反応せずに別の一手があったのではないかと考えてはみるが、常識以上の思考を導き出せない私には難易度が高かった。
カップを置いてソファーに肢体を投げ出すドレミー、その姿態は隙だらけであり、長い脚はソファーからだらりとはみ出ている。
「契約詐欺だー!」
「騒ぐなって念を押していたの?」
「妖精が多数来るなんて聞いてないわ」
「なら、詐欺も何も無い」
「自分がこんなにも静寂に慣れていたとは思わなかったわ」
足をバタバタさせて、見えない何かに抵抗してみせるドレミー。我儘を言っても、聞いている私が困るだけである。まあ、こっちは行動を起こす気も無いから正直困らないけど。
「サグメは何もしなくていいわけ? そもそも、夢世界に移転したのは月に生命力の権化である妖精達が迫ってきたからでしょ? これじゃあ、移動しても何も変わりないじゃん」
「指示が特に無いから動かない。月にとって想定内なのかもしれないから」
言葉を口にした途中で違和感を覚えた。ああ、これは反転する。事態として動きつつあるのは指示、用は近々私に何かしらの指令が下されるか、自主的に判断して動かざるを得ない事態になるか。
どちらにしても、私からすれば好ましいものではなかった。
「そもそも、神の代行者が妖精を連れて歩くなんて思わないでしょ、普通」
「何を思って許可したの?」
「それは、えっと……」
捲し立てるように苛立ちをぶつけていたドレミーであるが、私の質問に対して急に歯切れが悪くなった。
振り返って私の顔を頻りに見ながら、時折ソファーに置いてあるクッションに顔を埋める。
ドレミーと交渉した相手の顔すら知らない私に、心当たりを探せというのが無理な話、違和感を覚えたまま顔を見返すの精一杯であった。
顔が赤いのは気のせいだろうか?
「……サグメが悪い!」
「何故!?」
「交渉した相手もサグメみたいに話が分かる奴だと思ったの!」
褒められていると認識するべきだろう。
そして、確かに恥ずかしい台詞である。お互いにとって。
顔を赤くしている同士が見つめ合う状況は宜しくはないだろう。同性同士で私にはその気も持っていないが。
「コホン。他者を信じるのも程々にって事ね」
「そう言っている貴方だって騙されやすいんじゃないの?」
「さあ、どうだか?」
相手はそもそも騙しているわけでもない。ただ、ドレミーの中での理想が高かっただけ。
別に好印象になるように立ち振る舞ったわけでもないし、ただ何も考えずに悪夢を捕まえただけである。
少なくとも煩くはしていないし、相手に嫌がられる事は……複数した気がするのだが、許容範囲だったらしい。
「まあ。取り敢えず妖精の事は置いておくわ。どうこうしても解決する手段が強行以外無いし、それを行うだけの大義名分も持っていない」
「自分に非がある事を認めている、ってことね」
「ええそうですよ! 世の中は夢と違って世知辛いですよ!」
不貞腐れている夢見がちなドレミーではあるが、現実逃避までは行っていないようである。
完璧で強い獏という妖怪は妄想でしかなく、不憫な部分と不器用な部分が垣間見える。
しかしながら、そんな彼女のほうが私にとっては愛着があった。
「サグメには月としての大義名分があるけどね」
「そんなもの無い。私は上の命令で動くだけの傀儡でしかないから」
「今ここにいるのも傀儡だから?」
「……さあ」
誤魔化すように目をそらすと、不機嫌などどこ吹く風、彼女は思わず笑い声を零していた。
「月の連中の夢ってやつはつまらないね」
「どうして?」
「空っぽで無味乾燥なのに、当人は何故か満たされていると感じている。正気の者が見る夢ではないよ」
夢をありきたりな言葉で表現することの意味をわかっていない私であっても、彼女の言わんとしていることについては理解できた。
同じ種族にあたる私からしても、彼等の嗜好というものは面白いものではない。
高尚な者の特権であるというのならばそれまでであるが、私に近い存在でもある純狐は嗜好自体は歪んでいても、それを喜怒哀楽を持って楽しんでいる。
どちらか選ぶとしたならば、私のスタンスは月より彼女に近いのではないだろうか?
そもそも、穢れを身体に招いた時点で、月の民とは一線を引いているとも言える。
「月の連中にとっては正気と狂気は分離対象ではないようね。夢に柔らかさが無く、ただの完璧な球体なのも頷ける」
「あの漂っているものは、内容と形状に関連があると」
「まあね。そもそも、悪夢の内容なんてひとそれぞれ、他者から見たらこれのどこが悪夢なのか分からないものであっても、当人にとっては負の象徴、なんてことがある。色や形が違うのは内容や、その夢に対する畏怖が異なる故。私から見れば、どれが美味しそうかとか、処理しにくそうかとかも分かる」
「食べ物の飾りつけと味が違うとか、それぞれの食べ物の好き嫌いみたいなものなのね」
「ちなみにこの棚に収納されているのが、消すのが勿体無いと感じた私のお気に入りの夢達。要は私の好きなものってわけ」
棚に入っているのはあのフワフワしている浮遊物ではなく、堅そうな円盤状で中央に穴が空いたものである。
引き出して何個か手に取ってみる。表面は様々な色をしているが、裏面に関しては光沢と光彩を持った銀色に統一されている。
月の都で見たことがある記憶媒体に似ているが、それがどのようなものでどう使う物なのかも想像はつかなかった。
「HD-DVDって呼ばれているもので、記憶をその小さな円盤に刻み付けることができる便利な代物。最近になって、外の世界から流れてきたものね」
「触っても追記憶が発動しないのだが」
「夢の状態で置いておくと、それは不安定で別のものへと変わってしまう。夢の記憶というものが曖昧なようにね。だから、完璧な形で別のものへと記憶させるから、それはもう夢と呼べるものではないわ。中身を見るには、ここに置いてある機器が必要」
他人様の夢に名を付けて保存するのは、あまり趣味が良いものではない。
妖怪なので悪趣味の一つや二つ持っていても驚かないし、獏という素性を考えるならば、夢に依存するのも当然と言えるかもしれない。
けど、どうしても気になってしまうことが一つ。
「表面がピンク色をした媒体がやたら多い気が」
「……えっ?」
彼女の顔が急に赤くなったので、予想は外れていなかったようである。
こうお互いに見合って気まずくなるのは今日二回目である。
日頃のコミュニケーション不足を感じる。自分にも、ドレミーにも、だ。
ログハウスでゆるりとした時を過ごした後に、月の都へと戻る。
都市機能は停止し、都市自体も凍結して、穢れを残さない細工をしている。そんな中に独りで誰も来ない場所を守るというのは、決して良い仕事とは言えないだろう。
それでも、誰かに変わってもらいたいとは思わなかった。孤独は立ち寄るリゾート地としては優秀だ、定住するには寂しい場所であるが。
綺麗になったアポロ経絡は、未だ禍々しい赤と青が混ざりきっていない色をしている。掃除した場合に景色までクリーンになるとしたら、もっと気合を入れて掃除できただろう。
「止まれ。月の僕、稀神サグメ」
遮る者はいないけれど、その声を聞き、私は静止する。
自分の上司に当たる者の声には無条件で反応する。仕事をこなしていくうちにそういう性質が身体へと染み付いてしまうのだ。
私を止めた者は姿を現さないが、それもいつものこと。私のことを穢れた駒と考えているのだろうから、敬意の一つだって表そうとしない。
神は偉い、それは比類無き傲慢さから伺える。
「類まれな働きご苦労。おかげでこちらも先が見通しやすい」
「凡庸な実行者から見ると、現状は上手く事を運べた故の状況であるとは思えませんが」
「いや、何一つ問題ない。我々の中では想定内だ」
本当にそうだとは思わなかった。月の賢者である八意永琳様が神の血族を連れて地上に堕ちてから、問題に対する方法が常識離れした最適ではなくなり、私の仕事は目に見えて無駄が増えた。
八意様という有能な者が去り、並の者が仕事を引き継ぐと、その差だけでなく、任に対する信頼さえも揺らぐ。誰が決定権を持っているのか、指示を出しているものはただの使者なのか、全貌は見えていないが、ハリボテじみた仕組みなのは明らかなので、見ないほうがいいだろう。
それでも、ただ指示に従って動いている方が楽なのは、変わらないのだから。
「次の指令だ。獏をこの世界から蹴落とせ」
楽、だと思い込んでいた。
だから、感情が今揺らいだのは、私が楽というものを随時、最優先にしている者ではなかったということ。
「…………おっしゃっていることの意味がわかりません」
「言葉通りだ。獏をアポロ経絡及び夢世界から追放せよ。さすれば、穢れが生じにくい世界がもう一つ手に入る」
月と夢世界は似ている。
生が殆ど存在せず、穢れを祓う必要がない。
そして、現れた妖精によって移動は制限されているものの、夢世界の居心地は月の民にとって評判であった。
移転という手段の必須条件、利がないのにそれを快く……はなかったけれど、受け入れたドレミー。そんな彼女の顔に泥を塗るだけでなく、背中を刺せというのが、月の総意だとでもいうのか?
巫山戯ている。正気じゃない。
知っている。月はそういうやり方を行ってきたのだから。
「都がいくつあっても、我々は構わない。遷都を考える際も候補がいくつもある方が絞込みもしやすく、実行しやすいものだ」
「純狐が迫っている状況で……」
「月の侵略者への防御手段として、もう一つの案が並行して進んでいる。お前が失敗した天孫降臨の再来だ。地上の生を殲滅し、新たな神の揺り篭とする。都を造るのも悪くはない」
「……月も手段を選ばない、ということでしょうか?」
「地上に縛りつけられる下賤の者に天の浄化というものを見せつけてやれば、忘却した畏怖や信仰を少しは思い出す。方法は単純、お前が過ちを犯した天孫降臨よりは楽な仕事だろう」
奥歯を噛み締め、なんとか表情を消した。
地上から穢れを祓う、月はそれだけの力を持ってはいるが、そうはしてこなかった。
天よりも遠い世界にある地上など、月にとって取るに足らない存在であり、相手が悪意を持って月にでも進行してこない限りは、地上への手出しは常識的にタブーとされていた。
一度、地の者達が月の都に侵攻したという噂は聞いたことがある。その際は私は別の任に趣いていて、綿月様達が丁重に対応したとか。
その事態を重く見たとでも?
「そもそも、我々神々の血族がこうも窮屈な思いをしているという事実。これは重大な問題だ。一刻も早い解決が必要だと思わぬか」
「八意様なら別の手段を!」
「裏切り者の名を口にするな。貴様も一度は同じことをしている、それでいて神々は貴様を許した。その寛大なる処置を受け入れて尚、地に堕ちた者と同じように掌を返すというのか?」
自己の姿を隠したままで凄んでみせても、私には効果は無かったし、忠誠を月に誓っていたわけでもない。ただ必要とされたからここにいて、相手は私を便利と認識したから今も使役している。
関係はシンプルでいて、つながりも薄い。それを“過去の不快な記憶”を思い起こしつつ、切っても切れない関係としている相手は、私、稀神サグメという者を微々たりとも理解はしていなかった。
「要するに純狐対策と、夢世界奪還は別件。策としては正当の逃げの一手しか思い浮かばなかった、という認識で宜しいでしょうか?」
「口が過ぎるぞ。穢れ者の異端者」
「申し訳ありません。現場で過ごすと、どうにも敬意だとか接待だとか名誉だとか、そういうものとは無関係になってしまいます。悪い癖ですね、ふふっ」
月のお偉いさんが大切にする何の役にも立たない三つを、とっく前にゴミ箱に捨て置いた私でも今の立場にいるのは、命令に忠実だったから。それだけだ。
でも、その唯一の利点さえ捨ててしまったらならば、私は月にすらいられなくなる。
存在意義だって無くしてしまうだろう。
月の命に従い、月を守り抜く。好きでもない役割にしか依存できなかった私、自己がここにいて、意志を持って、何かを判断するという当たり前の行為に自分がまだ依存している、その意味が自分でもわからなかった。
相手が話す内容は終わり、私からも本意の見えない質問を長く行おうとも思わない。
ただ、一つだけ聞くべきことがある。
「月の夢世界侵略案は、綿月様達も同意した意見なのでしょうか?」
「……そうだ」
真っ新な嘘であると私は見抜いたが、その証拠が掴めなければ意味はない。
こいつは自分の私利私欲を満たすことを第一に考えている。
夢世界は月の者にとっては生が死にきった“使える土地”、それを自分のものにできる意味は小さくない。
「任務成功の暁には土地の一つや二つ、与えるのも吝かではない」
「了解しました。結果を導く案を考えるので、私は月へと戻ります」
不愉快な笑い声を想像し、目眩を覚えた私。兎に角、話を切り上げて独りになりたかった。
天孫降臨、嫌でも思い出してしまう若日子様と下照様。
二人は私に優しく、私も二人を尊敬し、大切に思い、守りたいと思っていた。
けれど、少しだけ、本人にしか見えないくらいの棘が含まれていた。
その結果、私はどうなった?
脳が拒絶を覚え、結果から目を背ける。嫌だった過去は認めたくない、夢であったと思いたいのだ。
嗚呼、今日は悪夢を見るだろう。
その夢がドレミーに食べられないようにと思うばかりである。
④
本人は知らないかもしれないが、敵対関係にある大国主殿によって、私達は彼の家へと招かれた。
勿論、大国主殿を動かしたのは娘である下照様であり、彼女の強い要望によって、地上では特に良い身分でもなかった私達が、直接相手の顔を見るに至ったわけだ。
そして、拍子抜けする。大国主殿は雲の上での噂に聞いていた山脈のような大男ではなく、小柄な老体でしわくちゃな笑顔を私達に向ける、そんな人柄の良い初老の男であった。本当に地上に住まう土着の神であるのか、疑いを持ってしまうほどに。
下照様の問い掛けもあるだろうから私達は歓迎されているのだろう、そう思って気分軽く訪ねたのであるが、その姿と同じように彼は私達を見事なまでに騙しきっていた。
それに気が付けたのも、相手が正直に物事を告白したからである。
注がれたお酒を一杯、若日子様が飲み干したのを後、大国主殿はゆっくりと話し始めた。
「良い飲みっぷりですな。それとも、天を司る者にとっては酒はお水に等しいですかな?」
「……大国主殿、今の言葉は」
「お二人が何かしらの使命を持って、このしがない地へと降り立ったのは知っておりますよ。その目的もしがない頭ながら、ある程度は描けましょう」
「知っていて下照殿を我々の前に赴かせたと?」
「これも地を治める者の宿命故、何卒ご理解下さい。下照がこの場所にお二人を招いたということは、天は話を聞く耳すら持たない、ということではないようですが」
笑顔と穏やかな口調に隠されている強かさ、支配の頂点に立つものとなれば、そういう強さが無ければ自分の手では覆いきれない物を守ることはできないのかもしれない。
「して、若日子様。地上はいかがですかな?」
「人々の活気と笑顔、これが総てを物語っている」
「気に入って頂けて何より」
天は確かに完璧で完全な場所なのかもしれない。それ故に何も必要とせず、何も生み出さない。
地は生まれ出でた生命を筆頭に不完全、故にその欠落を補うために行動が生まれ、感情が湧き出て、完璧よりも美しい何かが得られる。
変化とは対比だ。不変を願い、一つの事象をただ見続けている天、日々多種の変化が起き、それに対応する地。短い期間でありながら、後者のほうが魅力的に見えてしまった私は、地に降りるべくして降りたのかもしれない。
天津神の祝福を必要とせずに地上は栄え、天はその場所を私欲にて奪い取ろうとしている。それが私、第三者から見た現状の略図であった。
そして、若日子様にとっても、地上は穢れが蔓延する不浄の地ではなかった。
若日子様の喜怒哀楽は、この地上に降りてから大きくなったのは、きっと天では殆ど見られなかった変化というものを目にした故。
百を聞くよりは一を知る。だからこそ、正直な言葉を地の支配者に口にできる。
「我々地上に張り付けられている者達は、天から見れば実に哀れで無力な者達に見えるかもしれません。しかし、それでいても私達には積み上げてきたものがあり、命を賭してでも守るべきものがあります」
「天と地ほどの力の差があるとしても」
「我々にとって、この地はかけがえのないものであるのです。私にしても、この地の信仰無しでは生きていけなくなるかもしれませんので」
大国主殿の言葉は相変わらず柔らかいものであったが、言葉の意味は天津神への徹底抗戦の布告に他ならなかった。
退路を消し、迷いを断ち切った者は恐ろしい。失う事を恐れない決意は、天の神々にとってどう映るのだろうか?
大きな溜息を付いて、若日子様は杯を呷った。
「天が苦戦する理由が垣間見えたか」
「私達が、ですか?」
まだ戦ってもいないだろう、と返され、それが私達に該当していないと分かった。
「佐具売は知らないだろうが、我々よりも先に同じ目的を持って地上へと降りた天津神の者がいる」
「天之穂日(あめのほひ)殿のことですな。彼は今は出雲国を統治しています。頭の回転が速く、優秀な御方だ」
「では、私達は先導の失敗があってこの場所にいると? そのような話は聞いていないのですが?」
「天津神に失敗はあってはいけない、故に伝えられない。神はいつであっても完璧でなければならず、名誉を重んじる」
「現実さえ認められない小さな名誉などに、本質が宿るわけもないというのに」
「その通りだ」
下照様の言葉に若日子様は同意し、私も首を縦に振る。
私達は迷っている。何が正しく何が間違っているかを判断できないまま、次々に情報が表れて、氾濫の渦へと巻き込まれていく。
空になった杯を置いて、若日子様はやっと本題に入った。
「私達を捕らえるか、そして殺すのか? 天は強大いえど、ぬけぬけと本拠に表れた二名を生け捕りにするくらいならば容易いことだろう」
「そのような野蛮な行為を行わずに済むかどうかを、下照に判断を委ねたのです。ここにいらっしゃった以上は、お二人は玄関を出るまではお客様です。ただし、次にどのような形で出会うのかは私にも分かりかねますが……」
「全ては我等の判断次第ということか」
大国主殿はこくりと笑顔で頷いて見せた。その顔は恐ろしいものではなかったけれど、覗き込む目は目線よりも奥の場所を見ているようで、嘘をつけるような雰囲気ではなかった。
逼迫し始めた空気を察して耐えられなくなったのか、下照様が本心を漏らした。
「どのような使命を持っていらっしゃろうとも、若日子様は義を重んじる素晴らしい御方です。助けて頂いた事、私の命の恩人でいらっしゃることは間違いございません」
どうか地上へついて下さいませ、そこまで言えるほどに下照様は愚かではない。
彼女は天での若日子様を知らないし、どのような命を背負ってきたかを知らない。
一押しまではしない、ただ支えるだけ。
それでも、若日子様の重大な決断の理由の一つにはなった。
「佐具売、天へと戻るか? この道、今よりも厳しいものとなり、茨はその身をも貫くかもしれぬ」
「この佐具売、何が起ころうともどんな道であろうとも、若日子様と歩む志を変える気はございません」
「……助かる」
安心をした表情を見せてくれたことで、私は若日子様を少しだけ支えられたと実感できた。
私がどこにいるかなんて関係はない。私が誰といるかが大切であったんだ。
一月後、大国主殿の了承を経て、二人は結ばれた。私達天津神の使いであると知っているのは、大国主殿、下照様の他にはいない。
この出来事は天津神達にとっては、策謀の順調な経過にでも見えたのだろうが、実状は大きく異なった。
これは天との決別を表し、地上との結びつきを固くする契り。天が仕向けた使者は二度目も裏切りの結果を導いたわけである。
私にとっても、二人が結ばれた事は喜びであり、安堵でもあった。
下照様は行動的すぎて少々御転婆な部分もありながら、美しく聡明で信頼できるお方。そして、若日子様を何よりも信じていらっしゃるのが、私が見ていても良く分かった。
このお方ならば若日子様をずっと支えられる、そして秘められた思いもきっと彼方へと忘れ去れるだろう、そう思えた。
目を逸らす事や忘れる事、難しい事ではなかったが、それは行えば行うほどに大きなものとなって返ってくる。
天が私達の動きを把握し、疑問を持ち始めるまで7年。不老である彼等にとっては、ほんの短い期間。しかし、私にとっては長く感じる年月であった。
大国主殿が隠遁すると言い始めたのは一年前、未だ隠居という立場に回れていないのは、後継ぎが誰になるのか決まっていなかったからである。
候補は二人、婿入りした若日子様だけではなかった。
「大国主殿の息子であり、武勇と名声に秀でている味耜高彦殿がいるではないか!」
「いや、あの下照様が選ばれた若日子様こそ相応しい!」
それぞれを支援する者達は火花を散らして討論を行っているが、お互いの主張は交わらずに議論は先に進んでいない。
国津神もそうであるが、神という者達は時間がある故に物事が適正に進まない傾向がある。
支援者達に祭り上げられている当の二人であるが、二人共にその位に興味を示さないのだから、更に事が進まないわけである。
若日子様と高彦様の仲はすこぶる良く、共に狩りが好きで一緒に鷹狩りに山へと入って競う事もしばしば。周りが焚きつけているせいもあって、ここ半年あたりは公に飲み交わしもできなくなったと、若日子様は嘆いていた。
お互いを認め合っている、故にお互いに相手が位を継げばいいと考えている。
不毛になるのは必然であった。
「……佐具売様、聞いていらっしゃいますか?」
「すいません。少し呆けていたようです」
「後継ぎのこと、でしょうか?」
表情に出ていたらしいので、反省しなくてはならない。
私は若日子様側の者と見られてはいるだろうけれど、正直に言ってしまえば関係が無かった。
天津神の為に位を簒奪する必要が無くなった以上、わざわざその地位に付くことは必要ないのではないかと思う。
けれど、下照様はそう他人事として処理はできない。若日子様を祭り上げる者達は、下照様の支援者達なのである。彼等の期待や欲、それを満たす為の努力と結果が求められている。そこに彼女の意思は存在しない。
立場的には意思を見せなければならないのだけど、彼女自身も位に依存はしていない。現状には不満があるようだが。
「全く、嫌になりますわ。兄上が継ぐと一言いってくれればいいものを。まるでこの空気、戦を彷彿とさせます」
「そうですね、当の本人達が気軽に構えている分、周りが空気を張り詰めさせているというか」
「こういう時に他人事を決め込むなんて、兄上も若日子様も父上には遠く及びません!」
頬を膨らませて現状の憂いを二人に押し付ける下照様から、怒りよりも可愛らしさを感じてしまう。
我慢はしてみたものの、思わず笑ってしまった。
「なっ、何で佐具売様が笑うんですか!」
「いえ、何というか、下照様が可愛らしく思えたので、ついですね。ふふふっ」
「私だって今の状況を真面目に憂いではいるんですからね!」
ご機嫌を損ねさせてしまったけれど、少しだけ自分が抱えていたものが薄れた気がした。
太陽のように明るくて、物事を正直に捉えられる下照様の空気には、若日子様だけでなく私も助けられている。
彼女を大切に思っている者は私も含めて沢山いる。
気が付くと味方を作っているのは、彼女のその天性の優しさと温かさに惹かれているからだろう。
色々な意見を言い合える相手でもあり、自身が仕えるべきもう一人の相手でもある。
下照様と私の関係は、若日子様と比べると、使用人というよりも歳の近い友の関係といえた。私が若日子様の侍婢として、彼女との適正な距離を保とうとした時に、下照様は悲しそうな顔を浮かべた事が思い出される。
息を抜ける話し相手がいなかったのはお互い様、私はそこまで必要としておらず、彼女は欲していた。そして、今の私は過去と違って認識を改めている。心を割って話せる相手がいることで、心の平穏は得られるものであると。
「そろそろ私は水汲みに出掛けますね」
「佐具売様が逃げようとしています」
「お話なら仕事が終わりましたら、いつでもお付き合いしますので……」
水汲みという仕事はあまり好きではなかった。
別に重い物を持つことに対して嫌な思いがあるわけではない。私が一人になって、誰もいない森の外を歩いているという状況が宜しくなかった。
この場所にはあいつが現れることがある。それを思い浮かべてしまったせいか、それは現実を見せ付けるが如く、私を待っていた。
緑と茶色の世界に似つかわしくない派手な羽、自然に適応しているのならばこんな目立ちやすい姿にはならなかった筈だ。
地上という常識から見て異端、だから彼女は天の使者なのであろう。
「雉之鳴女、仕事熱心なことね」
「働かない者を見張っているので、そうせざるを得ないのですよ」
手厳しい返し文句に思わず溜息が出る。
とは言っても、実際の所、私達が置かれている状況は、私の表情ほどに余裕は無い。
状況は最悪な上に、天と私達の亀裂の修繕は不可能である。
私はその亀裂を必死で隠そうとはしているが、それにも限界があるだろう。
大切なものを守りたいと思う気持ちは私の中にある。けれど、それが現状を誤魔化すという形でしか表現できないのが悔しかった。
「天孫降臨の為に、地上の穢れを一刻も早く祓うのです。その命、忘れたとは言わせませんよ」
「それは、この場所から生を根絶やしにしろということでしょうか? 神の名において人々から笑顔を奪えということでしょうか?」
「そうは申しておりません。ただこの場所に住まう者達を追放すればいいだけのこと。簡単ではありませんか」
口では簡単に言えるし、相手の事情や気持ちを知ろうとしていないから、そのような事を口にできる。
若日子様も私も知ってしまった。この地上で創られた大事な命の形、それを守ろうとする強い決意。
「もし追放したとして、彼等の家、生活、幸福は神が保証してくれるのですか?」
「そこまで行う義理も遑もないでしょう」
「天津神の事情のみしか考えていない傲慢そのものに基づいた勝手な命を、我らに押し付けるのですか?」
「傲慢なのは私達が創造した世界に勝手に住み着いた定命の者達ですよ」
管理不在のままに放置して、乗っ取られた後に自分のものであると主張しているのだから、どうしようもない。
最初から興味があったなら、誰かがこうならないように見張っておくべきだったのだ。
だから、尻拭いという形で私達が捨て駒にされた。
けれど、その駒が叛意ありとなるとは、未だに思っていないのだろう。
私達の真意を掴めていない、故に探りが彼女から入る。
「お家騒動が起きているようですが?」
「そんな大それたものではございません。いずれ大国主自ら後継者を指名するかと」
「その時の為に汚い仕事をこなして暗躍するのが、私達の役目ではないでしょうか?」
彼女の言っている事は使者として正しい。だが、それは私の目的と彼女の目的が一致していれば、の話である。
若日子様は私を信頼してくれている。だから、若日子様が嫌いな行動に手を染めるのはあり得ない。
彼女は物事を大きく俯瞰している。故に若日子様の本質、個々というものが見えていないのだ。
「息子である味耜高彦を亡きものにすれば、自然と選択肢は一つになる」
「暗殺など正気の判断とは思えませんが」
「我々天津神に正気などいりません。支配者として得るものは全て手に入れる、手段よりも結果ありきでは?」
天にとっての常識は今や私にとっての非常識。
地の生活が板についてしまった為、天の考えには明確な理由無しでは賛同しかねるし、理由を越える人々の素晴らしさがここにはある。
定命の美しさは神々が弄んでいいものではない。
ましてや、自分の知る者を蔑むような言葉には憤懣を覚える。
けれど、そんな私の沸点を試すような会話を天の使者は続けたのだ。
「ついでに若日子様の妻も消したらいかがでしょうか? さすれば、貴方の欲望にも……」
「その汚い嘴で囀るな」
「ふふっ、一体何を怒っているというのでしょうか?」
下照様を愚弄する言葉に、思わず体温が上昇してしまった。
相手にも驚きが見られる。私が急に強い口調になった理由が分かっていないのだろう。
「でも、貴方の目的を考えれば地上の妻は邪魔者」
「私の目的? 勝手に妄想を仕上げただけの虚言が目的などとは、冗談」
「本心を直向きに隠し続ける理由、それが地上の者達にあるとするのならば、事態も貴方の心も由々しき問題を抱えていると言えるでしょう」
今日はどうにも感傷的になって話し過ぎている。
いずれ来るべき時は来ると知ってはいたし、その時に私がしなければならない事も把握していた。
現状を理解している神の使いは、目の前にしかいない。
それがもし、消えるとなれば、神の認識は一度真っ白となるだろう。
結局、私がやろうとしている事は彼女が口にしていた事と同じ。ただ対象とする相手が違うだけだ。
「つまり、貴方は地上の者達への思い入れを強くし、崇高なる勅を蔑にしようとしている。その意味を……」
私からすればもう会話は必要無かった。嫌疑をかけられた以上、天に報告させるわけにはいかない。
御託を並べるその首を絞め落とす。私は踏み込んで飛びかかった。
けれど、そんな正面からの奇襲は失敗となった。そもそも、相手の頭に私の行動が想定されていたならば、奇襲にすらなり得ない。
かわすだけでなく、彼女が軽く羽ばたいて見せると、猛烈な突風が生じ、私の身体は宙に浮いたままに大木の幹へと叩きつけられた。
大きな音に驚いた地上の羽鳥達が止まり木から羽ばたいていく。それは、まるで天に向かって凶報を運んでいくようにも見えた。
「ふふっ、信用していないのはお互い様ですよ。私達は似ているのですから」
「くっ……」
「でも、致命的な違いが一つありますね。私は貴方のように欲望を抑え込んだりはしません。したいようにしますし、必要があれば嫌いな者は消しますので。まあ、神を裏切った者への当然の報い、といったところでしょう」
強い衝撃によって身体全体が麻痺している。指が少々動く程度では、抵抗一つできない。
そもそも、霊鳥を模している相手のほうが格上だった。神の力を殆ど持たない私が上手くできる根拠など一つも無かったのだ。
恐怖は迫っている、それでも足掻こうと思えたのは、この地上で長く暮らしてきたからだ。
人々は足掻き続け、今だって何かを求めて必死に生きている。
だからこそ、必然ではないにせよ報われることもあるのだ。
「言い残す事は?」
「……それは、私が言うべき言葉のようですが」
「えっ……」
放たれた矢の羽音はすさまじいもので、耳が破壊されたと錯覚を起こすほど。
そんな威力で放たれた矢、天之羽々矢は弦のようなしなりの軌道で相手だけを貫き、そのまま天空へと消えていってしまった。
雉が力無く倒れた事で、私の目が若日子様を捉える。
そして、私達が明確に天に弓を引いてしまったのだと認識したのだった。
雉の死骸は埋めて隠したが、天の目がどこにあるのかなど私達には想像がつかない。
若日子様が神器を使用した時点で、背いた事が公になってしまったとも言い切れない。
不安に駆られながら迎えたその夜は、雷を伴い、天は大粒の涙を地上に流した。
それは今世と別れた使者への手向けか、これから起こる出来事に対する兆候か。
心が掌に掴まれているような錯覚に陥り、闇が深くなっても眠気は襲ってこなかった。
大国主殿に事情を説明し、下照様の嘆願もあって、今は警備が厳しい大国主殿の屋敷に身を隠している。
青銅の武器を携えた者達が庭や屋敷内を歩き回る厳戒態勢、不審者の一人でも現れようものならば、たちまち取り押さえられるだろう。
でも、それは人が相手ならば、の話である。
神がもし本気になろうものならば、こんな屋敷の一つや二つ、壊滅させるのは安易だろう。問題は何をもってして、彼等が本気になるのかが私には分からなかったこと。
今や地上の定命の者達よりも、天で暮らす神々の方が異質で理解しがたいものに変わっていた。
「顔色が悪いな、早く寝床に入るといい」
他者に言えるほど若日子様の血色は良くない。若日子様は常日頃から健康的でいられる故、私よりも目立ってしまうのではないだろうか。
今日の若日子様も私も、下照様とは長く話さないほうがいいだろう。
私達の顔を見ただけで、彼女の実家へと連れ込まれたくらいだ。余程酷い顔をしていると見える。
できることはない。ならば、布団に入って闇と嵐を耐え忍ぼう。
雷が実に耳に障るが、落ちない限りは実害はないだろう。
地上では雷は神鳴、神々の荒ぶりとされている。本当にそうであるのか判断できない私達は、もはや神の血統とは呼べない存在だ。
外はまた強く光った。けれど、続けざまに音は聞こえない。
その代わりに入ってくる風を切断する鋭い音。
その耳鳴りを覚えるほどの音は日の光ある時に聞いていた、だから私は再び若日子様が弓を手に持ったと思ったのだ。
そうせざるを得ない事態となったならば深刻、今の私達にとっての敵は天なのだから。
温かくなりかけた布団から慌てて飛び出す。冷え切った空気を持ってしても、私の脳を侵す熱は取り切れなかった。
服装が乱れたまま、板間の廊下を走る。自分の足音すら煩わしく感じる。
騒ぎ声や武器が重なる音は聞こえない、雷の音は今だけは消えている。
そう、私の想定は悉く外れていた。
その音を奏でたのは若日子様ではなく、その音をこの場所で聞いた時点で物事は終結していた。
障子は破れ、大きな穴が開いている。それは何かが通った後のようにしか見えない。
先程の音、残った跡、嫌な汗は冷たく、私の体温を急激に奪っていく。
障子を開けるのが怖かった。その先に見える光景が嫌でも想像が付き、そして見たくないものであった。
開けても開けなくても事実は変わらない。選択肢は一つしかなかった。
観念して扉を開くと、視界よりも先に臭いが私を襲った。
獣の肉を捌いている時にいつも嗅いでいた臭い、生が失われた血と死の臭い。
血に染まった白い布団、白い装束も真っ赤に染まっている。夥しい赤は床まで広がり、まるで血抜きが終わった後のように見える。
若日子様は目を見開いたままで、何を、どこを見ているのかは分からない。いや、どこも見ていないのが正しいのだろう。
その胸には見覚えのある矢が突き刺さっていた。
天之羽々矢、天まで届いた矢は還し矢となって持ち主の場所にまで戻っていき、主を新しい獲物としたのだ。
目でしか状況は確認できていない。けれど、若日子様とはもう二度と話せないという事実だけは認識できてはいた。
震える身体に気が付いて、意識が覚醒した。
身体が冷えていて、指先が特に寒い。凍結された世界で寒さしか残らない悪夢を見ていたのだから、身も心も凍えるのも頷ける。
吐き出された息は白く、そして温かい。都市は死んでいるが、私は確かに生きているようである。
月の民が住む都であるが、中央がすっぽりと抜けてしまい、シンボルでもある高層建造物は見当たらない。
都の中心地は丸々夢世界へと移動し、最先端は田舎町へと変貌してしまった。
空に控えめな高さの住居用の建造物達は、軒下に垂れ下がる氷柱を多量に作り出し、入り口は氷柱のカーテンで遮断されている。
窓は結露した水が凍りつき、本来の透明さを失っている。硝子を覆った白は、氷というよりもこの場所には存在しない地上の雪を想起させる。
建物の周囲に広がる白造りの塀は、薄氷の張った道の左右に続き、交差点で一度途切れ、何事も無かったかのように再び配置、の繰り返し。無個性な家と道、風景のせいで、自分の居場所がどこなのか忘れそうになる。
氷の世界、動くものが存在しない、一枚の絵が視界に貼り付けられ、まるでこの場所だけ時間が停止しているような錯覚を覚える。
思考に耽るには丁度良い静寂。私と共にある静寂。
寒ささえなければ、であるが。
私自身、月の都に立ち入るのは久しぶりであった。
穢れを必要以上に溜め込んだ者は、自浄効果を狂わせる為に、月へと立ち入りができない。それは要職に就いている、と言われている者であっても例外にはならなかった。
都自体が変わったかというと、まるで変わっていない。中心部のみはぽっかりと何も無い空間が出来上がっているから判断できないが、少なくともその周囲の風景には進展も淘汰も無いままだった。
月に溢れる技術、オーバーテクノロジー、特異な能力者、神々の血脈。独自の文化と進化も、所詮は力ある者が集中的に事を行い、適応できぬ者は零れ落ちていく。力というものは一ヶ所に集まっていくような習性があるのか、力持つ者のみが更なる力を欲するのか。
凍結というのも不変の象徴。固化したものは変化を嫌う、月の民達も分類するならば保守的と言えるだろう。
歪な街の光景を見ながら、歪な者達の事を考えていると、とても自分が同属であるとは思えなかった。
ああ、遥か昔、地上に降りた時にもこんな結論に至った気がする。
本質的に変わらない部分というものがある。それは私が“サグメ”であり続ける限りは、変われないのだろう。
ドレミーと会ってから、少なくとも私の中に何かしらの変化は生じたのだと思う。不愉快などという感情に翻弄されず、ただただ効率的に任をこなしてきた私というものが、とても昔のことのように感じる。
この歯車がどのように回転していて、一体どこに行き着くのかは私には知りえない。なるようになるだろうと割り切れるあたりは、昔から変わらない点である。
その中で一つ、自分で決断しなければいけない部分がある。
新たな使命、月の陰謀、地上と第三の地の占領計画。
今の私の立ち位置は中途半端であり、長続きはしないだろう。
考えても現状は変わりえないが、回答を出せるのは私以外にはいない。限りある時間を活用する権利と、選択権があるだけマシと捉えるべきだろう。
一縷の思案は一つの気配によって切られた。
懐かしいようで異質な者。都に侵入してきた以上、カテゴリーとして敵であるのは間違いないが、それがどのような者であるのかは、気配だけでは想像が付かなかった。
面倒事に溜息を付いた後、立ち上がり宙へと飛び立つ。斥候の兎も含めて多くの兵達は地上へと駆り出し中、廃墟ともいえる都に残っているのは私だけ。全ては現場判断に任せる、とでもいったところだ。
利用できる権限が広い事は悪いことではないのだが、私の場合は勝手にやっておけという本音が滲み出ている。
信頼とは異なる扱い、それにも何も感じてはいなかった。
半端な知識を持って視界が広がると、現状への違和感が生じることがある。地上に降りた時も同じであった。
その結果、顛末だけは今も思い出したくはない。夢に勝手に出てくるのだから、現実くらいでは見ぬふりをしたかった。
けれど、そんな願望をあざ笑いながら、運命は私と彼女を引き合わせた。
「貴方は、サグメ様!?」
「兎……? 私を知っているのか?」
「月の守護者であるサグメ様を知らない者は前線にはいないと思います」
「前線の兵士か。難儀な仕事を選ぶ」
「私は特殊部隊所属だったので、消耗が激しい仕事はしていませんでしたが」
特殊部隊に配属される月兎は、何か特異な能力を持つ者であるか、よほど優秀であるかのどちらかである。
そんな兎であっても、成功率の低い任ばかりこなせば、数は減っていくし、日々受ける強いプレッシャーによって精神に異常を来たすものも出てくる。
長くできる仕事ではない故、彼女も過去形で話しているのだろう。
そんな対峙している兎の姿を見ていると、どこかで見たことがある気がした。
そう、特殊部隊に配属され、ステルスという愛称を持ち、その名の通りに月から消えてしまった兎が一羽いたのだ。
「追放者か」
「はい。私は天降りの兎です」
どれくらい前であったかは忘れたが、特殊部隊で秀でた能力を発揮していた月兎が、万全の防備網を突破して地上へと堕ちた話は、私だけではなく月の多くの者の耳に入っている。
今こうやって私と対峙しているのだから、その噂は本物であるか、あるいは過小評価なのだろう。
「要件は?」
「仕事で月の都を見てこいと楽な仕事っぽく言われました」
「八意様か。ならば何かの意味があるのだろう」
あの御方の思考は私程度では読み切れないが、その一割さえ理解できれば、私の態度も決まるはずである。
既に“この月の世界に一度地上に降りた兎が現れた”というヒントをもらっている。そこから何かが推測できる。
もう一つのヒント、この兎の地上の匂いは会話の内容くらいであり、地上で生きてきたというのに、穢れが全て落とされている。
目下地上を侵略中の月の者ではなく、被害者の地上から月を救う刺客、加えてそれが天降り者だというのだから笑ってしまう。
まるで昔の自分を思い出すようだ。
これから英雄になるであろう彼女と、英雄になれなかった私では比べるまでもないが。
「夢世界を通ってきたのか?」
「そうしなければ月には帰ってこれないですからね」
「ドレミーが通したというのか」
ドレミーは月の思惑も、隠蔽されている野望も知らない筈だ。それでいて彼女を月へと向かわせた。
自身の居場所を取られている状態を解決できるのが、この兎であると考えたのだろうか?
単なる気まぐれ、それとも直感。
何かを感じ取ったことだけは間違いない。
「もしかして生身?」
「えっ? はい……変な薬を師匠に飲まされましたが」
「地上に降りたというのに穢れが消えているのもそのせいか」
「すっごく不味かったんですけど、無理やり全部飲まされました」
「苦労しているな……」
「分かってくれますか? なら、タダで……」
「それはできぬ要望」
「ですよね」
純狐への刺客となり得るのか否か、実力を聞いたことはあったが、実際に肌で感じたことはない。
月を任せるのには荷が重いかもしれない。
ならば、ここで彼女に賭けるべきかどうか直に試すのは、月の守護者としての役目であり、本質的な仕事でもある。
「さて、そろそろ私も働くとしよう。お前に命運を逆に回す資格があるかどうか、見せてもらおうか」
「……やっぱりこうなるんですね。でも、あのサグメ様との手合わせなら、悪い気はしないです!」
月を裏切り地上に堕ちてまでして生きようとした兎、月も裏切れず地上にもいられず、ただただ漠然と二千年を過ごしてきたナニカ。
試すなどという偉そうな言葉を呟いてしまったが、結果など見るまでもなかった。
私は戦う前から彼女に負けているのだ。
それを肌身を持って知れたのは、彼女と近い境遇にいた私にとって、一つの収穫であったと思う。
「……もう十分だ」
「はぁ……、はぁ……」
お互いに呼吸を整える。
疲労状況だけ見れば五分に見えるかもしれないが、内容は完敗である。
私の腕が落ちた、彼女が強すぎる、それ以上に他の部分で差があった。
それは私だけが知っていればいいことである。
「貴方の力は分かったし、八意様の目的もきっちり見えた」
「実行者である私が分からないんですが……」
「地上に住まう貴方は月側の切り札」
救うと明言しそうになったが、そこに舌禍が関わると紛らわしくなるので、言葉選びは慎重に行った。
この行為が面倒だから、必然的に口を紡いでいることが多くなるわけだ。
「それにしても、今日のサグメ様は饒舌ですね」
「好きで無口をしているわけではない」
嘘である。
伝える内容が無いから無口しているし、そのほうが楽だと思っている。
周りだってすぐに逆転しようとする身勝手な命運に振り回されたくはないだろう。
「私はよく話す今のサグメ様のほうが素敵だと思いますよ。では忠言通り、静かの海へ行ってきます!」
けれど、少なくとも何かを口にしたほうが相手には意思が伝わる。
黙っているばかりでは楽しくないというのも、最近は身に染みて感じている。
口数が増える理由など明白であった。
「饒舌、か。アレの前ではいつも饒舌だ」
最近はよく話している気がするし、故に何が逆転したのかも分からなくなっている。
その隣にいるのはドレミー。間違いなくアイツのせいである。
喋る自分と無口な自分。
どちらが稀神サグメらしいのかドレミーに問いかけてみたら、どんな回答が返ってくるだろうか?
言うまでもなくあのニヤニヤした腹立たしい顔が私に向けられるのだろう。
彼女への問いかけ、反応をまず考えてしまう時点で、今の私が何を一番に優先すべきかは決まっていた。
彼女の世界は消える。私達、月の民によって。
それは許されない。稀神サグメにとって。
口には出さなくていい、私が自分の手でその命運を変えればいい。
その力が私にあるかどうか、私自身によって試されている。
私の最後の月への奉公は“正しい敗北”によって終わった。
今は月の要職でも守護者でもなく、私はただの稀神サグメでしかない。
疲れ知らずで颯爽と月の裏へと向かっていく兎の小さいながら頼もしい背中を見ながら、私は彼女の師匠に向かって素直に感謝した。
「八意様に救われた事で、私は一度でなく、二度までも天を裏切りました。これほどまでに出来の悪い者は他にいないと思いますが、八意様はきっと笑って許してくれるでしょう」
乾いた冷たい風が私を冷やす。今の発熱した身体には丁度良い冷たさであった。
⑤
硬直していた私の目に映っている光景を共有した侍女の悲鳴によって、屋敷内は騒然となり、辺りは畏怖と哀哭で包まれた。
天から射られた矢は正確無比に背く者を貫き、その命を容易く奪った。神の力を持ってすれば、神の眷属であろうと、厳重な守備があろうと、関係なく対象を消し去る。
定命の者達は勘違いをしていたと知る、自分達は生きているのではなく、生かされているのだと。
悲しみと恐怖で言語にならない声を上げる者ばかりの中で、私と下照様は表情を変えずに沈黙を貫いていた。
私はただただ混乱していて、湧き出てくる感情の整理さえできず、頭に浮かぶ疑問の解答を作り出すことさえもままならなかった。
どうして、何故、どうして、何故。
問題提起の無い疑問符の反芻が頭の中をぐちゃぐちゃに塗り潰していく。
「佐具売様、落ち着いて下さい」
よほど酷い顔をしていたのだろうか、私は下照様に抱きしめられていた。
彼女の温もりを認知したことで、疑問が溶けて混ざり合ったものによる脳の侵食が止まる。
どうやって落ち着けばいいのかすら忘れ去ってしまっていた私、正常な心を戻してくれた彼女の身体は小刻みに震えていた。
妻であった下照様の感情が、現状を認知して揺れ動かないなんてありえないのだ。それを必死で我慢しながらも、まだ地上に存在している私を気使ってくれている。
誰かに寄り掛かっているわけにはいかなかった。新たな執行が成される前に、私がするべきことが何か残っている筈。
「申し訳ありません、取り乱していました。もう、大丈夫です」
下照様の笑顔は、いつものものと異なり、見ていられるような温かいものではなかった。
お互いに心が壊れそうになっていて、なんとか支えあっている状態。
もう一つ何かがあったら、首の皮の一枚さえも千切れて落ちてしまう。
そんな私達の事情など、天津神にとっては路傍の石と同じ。
複数の使者を携えて忽然と庭に降り立った者達は、私もこの屋敷に住む者が誰も知らない者達であった。
今まで空を賑わしていた雷と大雨は、最初から無かったかのように去っている。
屋敷の衛兵達は一時の感情を忘却してまでして青銅の槍を構えるが、相手は全く動じない。
先頭に立っている男は貼り付けられたような笑顔で、私の天の名を呼んだ。
「天之佐具売様、お迎えに参上致しました」
若日子様と同様に死を賜る覚悟はできていたが、それをへし折る言葉が返ってくる。
言葉の意味は掴めても、真意は理解できない。私は天にとってはただの裏切り者であり、消すべき対象。殺す価値すら無いのならば、この場に現れたりはしないだろう。
話しかけられているのならば、疑問に答える用意もあると見て、心の内を吐露する。
「何故、天津神は裏切り者の私を若日子様と同じように裁こうとしないのですか?」
「裁く理由がございません」
「だから何故!」
「佐具売様の機転によって、天に仇成す者の醜き正体が判明致しました。鳴女に関しては残念としか言いようがありませんが」
理解する以外に方法が無かった。そして、天の捻じ曲がった真意が、私の紙一重をも無残に引き裂いた。
答えは簡単であり、単純。
彼らは最初の企みと同じように、全てを無かったことにしようとしていた。
叛意を抱いていた若日子様の行動を私が天に伝え、天は裁きを下した。そうすれば、私の真意を知っている天にも、裏切り者となった地にも、私の居場所はなくなる。
佐具売という存在は、肉体を殺されずして今、この瞬間に殺されたのだ。
これは神にとって失敗とはならない。異端者を裁く為の不可欠な犠牲であり、使者の行動により地上を背につけた血族の反乱の芽は絶たれた、そういう脚本。
実に素晴らしく、残酷な終焉だ。天を裏切る事の恐ろしさは、死よりも重いというのか。
「さあ、穢れた地から離れ、一度天へと帰るとしましょう。地上平定の話は天へ戻ってからでも遅くはありませぬ」
偽造された英雄を奉る笑顔の男、こいつを斬れば私は地より許されるのだろうか? 下照様は救われるのであろうか?
そのような振る舞いを見せたなら、地上は業火で数百年燃え続け、地上の者達の魂までも穢されてしまうかもしれない。
所詮、地上の平定など神々にとっては時間潰しでしかなく、命を弄ぶ為のお遊びだ。
飽きれば全て片付ける。それをいかなる時でもできるから、地上をただ見下ろしているだけ。
罰せられるべきは天でも地でもない、何の力も持たず、ただ運命を受け入れてしまった私。
「天へ戻る前に少しだけ待ってください」
「何か未練でも?」
「裁きを下したその矢を持ち帰らなければなりません」
是非を聞くこともなく、私は力が入らない足で若日子様の亡骸の傍に寄り、膝を曲げて屈み込む。
弓を失った使い捨ての矢、役割を終えたそれは私そのものを示していた。
佐具売という存在も、もう終わっている。ならば、別の何かに生まれ変わる必要があった。
そして、主と同じ物によって、自身も裁かれるべきと感じていた。
胸に刺さった矢を持ち、ゆっくりと引き上げていく。肉に引っ掛かる間隔も無く、力を入れなくても、私の手に吸い付くようにして若日子様の身体から引き抜かれた。
天之羽々矢、鳥の舌の形をした鏃から後の殆どが血で染まっており、矢羽だけが本来の白を維持している。
殺傷する力は殆ど残っていないのに、赤黒く毒々しい気を保っている。天を裏切った者の処分に使われた為に、強い呪いを帯びているのだろう。
この矢には若日子様の無念と未練が詰まっている。それは忘れてはならないものでもあり、地上に置いていって仇討ちに使われてもいけないもの。
この道具は処分される必要があるのだ。
だから、私は口を開けて、そのままその矢を鏃ごと飲み込んだ。
「なっ! 貴方は何を!」
静止など耳にしない、誰かの言葉を聞く耳があるのならば、こんな狂気じみた行為を行ったりはしないだろう。
口内が切れても噛み砕き、喉にへばり付いても身体へと押し込み、何もかも噛み千切り、誰の鉄の味なのかも分からないままに飲み込んで、身体で再び溶け合う。
誰が止めることなどできようか。神殺しの道具をそのまま取り込もうものならば、取り込んだ者だけでなく、近付いた者さえも強い呪縛に囚われるかもしれない。
血の味しかしなくなったものを吐き出さずに全て飲み込むと、身体の異変はすぐに現れた。
身体の中で第二の鼓動が私よりも強く脈打っている。
それはもう、五月蝿く、五月蝿く、身体が引き千切れんばかりに。
黒かった髪の色は見る見るうちに抜けていって真っ白に変わり、黄色を帯びた月の光を反射する。それも一瞬、地面に倒れ込み、言語とは程遠い音が口から漏れ出し、血溜りに身体を叩きつけながら悶えたせいで、髪は赤いもので染め上げられた。
背中が破れる。誰かが穴を空けたのか、自分で皮膚を剥いだのか、私の中の何かが生まれたのか、それすら分からない。身体の中が暴れているせいで、背中になどかまってはいられなかった。
新たな血溜りは私が作ったもの。口から出たのか、皮膚から流れたのか、穴という穴から噴出したのか、知る余地も無い。映像は入ってくるのに、痛みで考える余裕というものが存在しえなかった。
蟲が這いずっているような感覚は一体、身体のどの部分からするのだろう。一ヶ所なのか、全身からか、体内からか。不快な箇所を知れずに地面を爪で引っ掻いていた。
笑い声か泣き声か、絶叫なのか発狂なのか、入ってくるのは私の声、誰の声? 耳を塞ごうと思ったら、代わりに血が中に入ってきて耳の中で悲鳴を上げた。
どれだけ私は苦しんでいたのだろう?
痛みが治まってきたのだから、時はきっと経過していたのだろう。
周囲が私を見る目に、もはや感情は殆どこもっていなかった。唯一あるとするならば、理解しがたい存在に対する恐怖、とでも言ったところか。その目線は天の者も地の者にも変わりが無かった。
背中に生えた羽、非対称で血で染まった赤い片翼。新しく生まれ堕ちた自分を象徴しているかのように、幼い翼は地上の風を捉えている。
記憶もあるし今まで見てきた事実も変わらない、ただ私が発狂してもう戻れないほどにおかしくなっただけ。
おかしいから可笑しかった。
私ひとりだけ嗤っている。誰も私を理解できていない。分かってもらうつもりも始めから無かった。私は望んでひとりになろうとしていたのだから。
口から垂れていた自分のものかも分からない血を舌で拭い取って、私は宣言した。
「このサグメ、全てを裏切った愚物であります。烙印は二度と消えることのない歪な姿として刻まれました」
主であった若日子様に別れを告げて踵を返す。
衛兵達の武器は今や私へと構えられていたが、私は動こうとしない彼らの前を堂々と歩いて通過した。
行きましょう、笑顔の仮面が剥がれかけていた使者に小さく言うと、彼も本来の使命を思い出したようだ。
視線が突き刺さる。その感情は整理されずに私の背中に叩きつけられている。
裏切り者の宿命というもので、生きているだけで私は誰かにとっての罪なのだろう。
誰も私を許さないだろう。天にだって居場所は無いだろう。
全てを失い、私は侍女でなくなった。そして、佐具売であることさえも捨てた。
若日子様はそれを見てはいない。けれど、下照様の目の前でしてしまったのだ。
佐具売を捨てた私であっても、下照様の顔を見ることだけは、どうしてもできなかった。
道具となった私の新しい主は八意様であった。
彼女はサグメという存在を生かして幕を引こうと策を練った張本人であり、天津神の名誉を保つ為の最善の手段を取ったと、最初に私に言った。
殺してやる、というのが、私の正直な第一印象であった。
地上での時間は、私にとって守りたいものであった。確かに幸せなものであったのだ。
一番大切な気持ちは確かに隠してはいた、それでも河内での日々が大切なものであり、それが勅を実行せずに使者を口封じしたという、天が掲げた征伐の大義名分と共に、粉々に打ち砕かれた。
残っているものはなく、何をしようが直らない。直らないどころか私が狂ってしまった。だから、何も変わらないのを知っていて当り散らす以外に、方法は無かった。
それすら禁止した彼女は畜生であり、それだけの力の差が私との間にはあったということだろう。
完膚無きまでに返り討ちにされた後で、八意様は深々と頭を下げて私へと謝った。
そんなものはいらない。あの時間の続きを返して欲しい。叶うことのない願望を呟くのが壊れた私の精一杯であった。
神殺しの天之羽々矢を飲み込んだ代償は大きく、神器を噛み砕いた口さえも呪いに蝕まれた。
天へと届き、地へと還ってきた矢は、身体に取り込んだ者の発言さえもひっくり返すようになったのだ。
天邪鬼のような発言自体が意識的にひっくり返されているわけではない。私の言動が未来に作用し、現状の事態をひっくり返したのだ。
舌禍という新しい能力を手に入れてしまった為に、私は今までよりも言葉を慎むようになっていった。
最初は厄介な能力の発芽にも驚かず、ストレスを感じる事も少なかった。口を自発的に開ける必要性は、その時の私からは損なわれていたから。
八意様は私に「稀神サグメ」という名前を授けた。
神の道具を飲み込んで足りない神性を得た物珍しい神、私のような異端者にはお似合いの名前ですね、と自虐的に喜んでみせたら、違うと首を振られた。
希とは折り目が無い布地、細やかであり繊細さを表している。月に復帰して任に就く上で、色々な所に何かを感じられるように努めて欲しい、そういう意味で付けた。「希」ではなく「稀」という漢字を選んだのも、禾は実りや収穫を意味し、禾という文字自体が神性を持つこと、それと地上から感じ取った美しいものを忘れないで欲しいという意味で付けた、と説明された。
抜け殻だと自身でも思っていた私に、名前を付けて新しい魂を入れようとしてくれている。それはとても名誉な事であったと気が付けたのは、残念ながら名前を授かってから幾分先であった。
八意様は優秀という陳腐な言葉では表せないほどに、頭が回り、視界が広い御方であった。
そんな八意様は部下の私を特別として扱い、特別として鍛えた。
もし地上に行く前に八意様に会っていたら、彼女の門下に入ってから何度もそう思った事がある。
私と若日子様の旅は最悪の形で終わってしまったが、八意様がもし私達の味方になってくれていたのならば、と。
けれど、その想定に対する反応は悲劇的で、現実的なものであった。
「少なくとも今、貴方に出会うまでは、サグメという存在は私にとって特別ではなかった。歪ではなかった貴方が天界で目に付くとは思えないから、そもそも救うだけの理由が無い。存在しえない過去の選択肢に無意味な期待は持つものではないわ」
失った時間は戻らない。失った命も戻らない。
生ける者は前にしか進めない。たとえその先に何も無くてもだ。
私の口は重くなった。それは矢の呪いによる舌禍だけではない、話す事自体が苦痛を伴うようになっていったから。
感情がゆっくりと死んでいく感覚を覚えるのも、呪われた神器の影響なのだろうか? ただ欲していないから消えていくのか?
結論を出す前に諦めてしまうのも、私が無機質であるからだろう。
私は八意様の命を受けて、降りかかっていた汚名を他者の血の雨で注いだ。
天津神に仇成す者を悉く排斥した。
例え対象が自身の生命に犯され、穢れていようとも。
例え対象が帰還を夢見た、元月の民であったとしても。
例え対象が純なる善意を持っていようとも。
例え対象が私の百倍いようとも。
排斥、排斥。命に従い総てを排斥し続けた。
満たされない。何が私を満たしてくれるのかさえ知りえない。
それでも私は忙殺に身を置き、敵対する対象を排除する。月の驚異と判断された、それだけの理由で。深くは考えず、ただ効率的に。
私にこびりつく排除した者達の穢れは、既に月の自浄効果すら働かないものとなり、私は自分が守っている者の姿さえ見ることができない存在となっていた。
月の都からサグメという名は、自然に消滅したのだった。
そして、いつの間にか上司は変わり、八意永琳という名は月の都で口にしてはいけないものとなっていた。地上へと堕ちた話を部下から聞いたのも、同時期であった。
孤独に慣れる事は無い。でも、そいつはあの時以来、いつも私の隣にいた。
そこが稀神サグメの唯一の居場所であり、在り処であったのだから。
虚ろ虚ろな世界で漂っていると、悪夢の真実を思い出してしまう。
若日子様の血の匂い、神具の呪いに侵食される感触、歪な片翼が生えた理由。全てが夢であれば良かったのに、夢の中でも鮮明な感覚を覚えている。
何度も繰り返してこの夢を見て魘されていても慣れないのだから、これこそ正に悪夢だ。
そもそも夢と呼ぶのも間違い。生々しい感覚は、現実で感じ取った故に記憶や夢に反映されている。
血の匂いを忘れられるわけがない。任を実行したことで私の周りで流れ続けた血の匂いは、消える前に上書きされ、この身体にもこびりついてしまっている。
要職であろうと所詮は道具、性能が落ちたり壊れてしまえば挿げ変えられるだろうし、兎と同じで月にとっての消耗品でしかない。自らがそう強く思っていたのだから、間違いは無い筈だった。
思っているよりはまともだったのか、思っていた以上に壊れていたのか、少なくとも脳と心は乖離しているようである。
月の現状を整理しよう。
破竹の勢いで進んだ清純の天降り兎は、主犯格である純狐に出会い、彼女を半分敗北させた。荒ぶる生命達が静かの海から撤退した事によって、月の都の危機も半分は去ったわけである。
残る半分は純狐側の切り札、ドレミーと取引したとされる者、へカーティアによる夢世界の圧迫である。
夢世界にいる妖精達は未だに生の躍動を堪能し、喜びに満ち溢れている。故に月の都中心部も夢の中から帰っていない。
豊姫様の能力を使用すれば、行きと同じように元の場所には戻れるだろうけれど、再び月に妖精達が現れるのは目に見えている。
月と純狐の闘争の中で私の役割はもう存在しない。後はあの英雄が事件の未解決に気が付き、夢世界に再び現れるのを待つだけである。
結論としては私は今、暇を持て余しているという事であり、同様の境遇にあるのは、ドレミーも同じである。
自分の場所を双方に貸し出している故に、第三勢力を嗾ける以外にないのだが、そもそもあの兎は夢世界に姿を見せず、状況は見事に拮抗している。
一番の被害者でもあるドレミーが自発的に何もできないのは、全く持って不幸である。
昨日、彼女の家に行った際に不思議な事を口にしたのも、現状が切っ掛けになっているのかもしれない。
ドレミー曰く、「家でダラダラしているよりも、もっと生産性のある事をしたい」。
彼女が希望した月の都観光(中心部無し)が希望に該当するとは、私には思えなかった。まあ、決まってしまったものは仕方がないのであるが。
任務の為に寒い中で来ても欲しくない誰かを座って待っている時間が一週間ほど続いた。しかし今は、立った状態のままで、既に知っている者を待っている。
状況が変化しても意識の移ろいは相変わらずで、油断すると先程のように悪夢に引きずり込まれる日々が継続している。エキスパートにでも相談したら解決するだろうか?
なんて、彼女の事を考えてみたら、当人が姿を現した。
「ごめーん、待ったー? って、なんで待っているのよ! まだ30分前でしょ?」
そして、いきなりキレる。
現れた直後に不当な理由で怒られるとは、心外である。
私にとってここにいることが仕事の一環、便宜上仕方がないのだ。
好きで早くからここにいたわけではない、ということ。
取り敢えず他意はなく仕事で常にここにいることを説明してみたら、彼女は頷いてみせた。
「成程、待ち合わせ場所が良くなかったってことね」
私の説明と彼女が導いた結論が合致している気がしないのは、私の感性がおかしいのか、ドレミーが私の想定以上に異常だからか。
最初からボタンを掛け違えているようなズレがどこかにあるのでは?
「誰も待ち合わせに遅れない場所であるし、月観光するのだったら現場で待ち合わせるのが一番効率的だと」
「……ないね」
「何が?」
「浪漫」
彼女は待ち合わせに夢を見過ぎなのではないだろうか?
今日の目的は遊ぶ(ドレミー希望)ことにあるのだから、待ち合わせは手段でしかない。そんなところに拘りを持つこと自体が、私にとっては非効率的で無意味と思える。
心の訴えがドレミーに響いてしまったのか、彼女はそんな疑問に対する自身の答えを私に教えてみせた。
「楽しいことをする時は、相手を待っている時間さえも楽しく思える、ってね。私のお楽しみ時間を奪うとは、許すまじ」
確かに私も、待ち時間の一部をドレミーに費やそうとしていた。
行動で証明している故に言っていることは理解できた。けれど、結論としては理不尽な言いがかりであり、逆恨みもいいところである。
彼女と違って私は好きでこの寒さしかない世界の中で待っていたわけではないのだから。
そもそも、立ち止まっていては寒いし、頭も回らない。
夢心地なドレミーの妄想と現実には大きな隔たりがある。
それを直に知ってもらうのも一つの手。
「なら、一度帰ろうかしら?」
「どうせ帰る気も無いし、口にしているんだから帰る方向にも事態は進まないんでしょ?」
よく分かっていらっしゃる。
非効率的な行動は取りたくない。彼女の浪漫という名の無駄の為に労力を費やすのは、まっぴら御免である。
態度では諦めたドレミーであるが、口ではまだ未練という名の文句が出ている。
「次はちょっと遠くの待ち合わせ場所にしよっと、あと一時間前行動」
「面倒だから行かない」
「とか言って一時間半前に来ちゃうんでしょ、このロマンチストめ。そもそも、サグメって遅刻嫌いそうだから絶対しなそうだし」
「途中で間に合いそう、と口にしたら結果的に遅れるかも」
「いや、それ、どんな待ち合わせ場所に関わらず遅れるから」
確かに。
ドレミーの浪漫談義のせいで、せっかく早く来たのにその分の時間を1/3ほどロスしてしまった。
私は全く今日の計画というものに携わっていない、連れ回され役なのでまあ気楽でいいのだが、この調子だと計画通りにものが進む気はしなかった。
遊びというものは少なくとも私が進める任務とは違うもの。けれど、性格柄なのか、予定通り進めていかないと、どうにも心に鬱憤が溜まっていく体質に変化していたらしい。
「さあ、今日はいっぱい遊ぶわよ」
「遊ぶ、とは?」
「普通に」
普通に遊ぶ、というものを知らない私にとっては、既にそれは普通というものから掛け離れているので、こうやって聞いているのだが。
なので、普通が何たるかの説明が要である。
「優しいドレミーさんが説明してあげましょう」
尋ねたのに別に必要ない、と顔を見て反射的に本音を言いそうになったが、幸いにして普段の口の重さによって声が心の中から漏れずに済んだ。
彼女を拗ねさせてはいけない。取り敢えず、計画が破綻するのが私にとっての一番のストレスなのである。効率的に振る舞えば、多少の失敗があっても、面倒事は起こらないまま計画は成功に終わるだろう。
「外で遊ぶというのはね、ウインドウショッピングをして、カラオケに行って、アイスみたいな可愛いデザートを食べて、また明日、って感じ」
なんて甘ったれた思考は、彼女の理解できないワードによって崩れ去った。
私の辞書に登録されていない単語の連続故に意味も分からないし、それでは今後の行動に支障が出る。
恥を忍んで直球で聞いてみることに。
「ウインドウショッピングって?」
「欲しい物を見て満足する買い物」
「欲しい物が手に入らなければ、満足からは程遠い気が」
「実際にやってみなきゃ分からないでしょ? 夢では満足できたし」
夢基準では信用できない。
自分の顔をした精神世界の分身が、一人称視点で奇行に走ってご満悦な夢も少なくないのだ。
ドレミーの場合は夢を見る者達の一般的見解に該当しない、という可能性もあるけど。
「そもそも、売り手がいないんだから、買えないんじゃないの? 丁度いいじゃん」
「凍結して扉が開かないようになっているかも」
「ちょっと入るだけだから、物取らないから」
「そもそも治安維持の為に駐在している者が、窃盗に見間違えられる奇行に手を染めるわけにはいかないし、そういう事を助長するのも論外」
一般常識を語ってみるが、そもそも大きな問題は別にある。
「店なんて中心地にしかない。残っているのは見ての通り住宅ばかり」
「他の場所も?」
「同じ光景だからすぐ迷う」
「じゃあ、カラオケもアイスも没?」
アイス屋なんていう洒落た屋台は民が消えた街では当然経営していない。
そもそも、住宅地にそんなものはない。
カラオケ、というものが何であるかは分かりかねるが、ドレミーの反応を見るに、恐らく無いと思われる。
「ところで、カラオケとは?」
「個室で歌を歌う」
「歌いたいなら自宅で独りで歌えばいいと思うけど」
「みんなで歌うから楽しいの!」
「自宅に招けばいいと思うけど」
「マイク使うし、歌いたい曲がかけられないから無理だって」
どうにも自分には向いていなさそうなので、消極的な言葉ばかりが出てきてしまう。そもそも、楽しいと思えるポイントが一体どこにあるのかが分からない。考えてみても、苦痛と恥辱以外に思い浮かばない。
面白い部分はどこであるか聞いてみると、
「夢の中では滅茶苦茶盛り上がっていたし」
これまた夢オチである。
夢知識が正しいものかどうか、本当にした場合どう感じるのか、現実からの情報が一切無いのが不安要素だ。
まあ、一番の不安要素は計画が既に破綻してしまっていることだけれど。
でも、当人はまだ諦めていないようである。正直、カラオケなんていう舌禍ランダム発動試験なる危険な遊びはしたくないので、諦めてもらいたい。
「予定変更! 月の中心地に行こう!」
「私も貴方も穢れを落とさないと入れない」
「くっ! ひとの場所を借りているくせに、なんて閉鎖的な連中なんでしょうか!」
その認識は間違いなく正しい。
月の民は穢れを嫌う故に、異なるモノを認めず排他的な態度を取ることが多い。
まあそれはいいとして、
「もしかして、遊び慣れていないのでは?」
「外の世界で遊ぶのは初めて。夢の中では慣れているけどさ」
「夢なら何でもあるし、何でも楽しいんじゃないの?」
「夢は確かに何でもあるけど、何もかもが触れられないような壊れやすいもので出来ている。目が覚めればもうおしまい。だから、私は現実で遊びたいし、今こうしてサグメと一緒にいるわけ」
ログハウスで見てしまったドレミーの夢、心象世界を思い出す。
彼女は夢を処理するという使命故に、夢世界で会う誰に対しても一歩通行だ。
誰とでも知り合いになれる、自分の中では。
何にでもなれる、自分の中では。
何だって手に入る、自分の中では。
何だってできる、自分の中では。
どんなに楽しくたって、最終的に残るのは孤独だけ。
楽しいと思えた事について誰とも語れないから、それを事実として信じることさえもできなくなる。
だから、私が今、彼女の隣にいることは、きっと大事なことなのだと思う。
確かに私はここにいて、ドレミーも夢ではなくこの世界にいるのだから。
「私と相手、両方の記憶に残るのってさ、夢に生きている私にとっては奇跡なんだよ」
「現実に縛られている私には当たり前すぎて、つい忘れてしまう」
「私もいつか、それが常識になると信じていた。信じる者は救われるのかも? 救ってくれたのはサグメ?」
「恥ずかしいこと言っている自覚は?」
「恥ずかしいより嬉しいが優っているかな」
白い息を吐き出しながら、赤くなった顔でドレミーは言ってみせた。
ウインドウショッピングが行える店とカラオケ店を探す名義で歩き始めた私達であるが、見つからないものを探そうとするのは疲れるだけである。
無いものは無い、ドレミーも半分は諦めているのか、真剣に探しているようには見えなかった。
故に会話さえも脱線するのは仕方がないのである。
「男女だったら、これってデートって言うんだよね?」
「すいませんね女で」
思い出作りにしても、協力できることとできないことがある。
たとえ私が自分が女であると口にしたとしても、確定している事態は動きようがないわけで。
「一日、男のふりで」
「ドレミーのほうが似合うんじゃない?」
帽子を被っているから短いように見えるけれど、彼女の髪は私と同じくらいの長さはある。
あの不法侵入事件があった故に、私は知ってしまったわけである。
目を瞑っていた時のドレミーの姿は、できるだけ思い出さないようにはしている。普段から口でずばずばと斬ってくる彼女の無防備な姿は、精神の安定上宜しくない。
そもそも、口と行動があまり合っていないのがドレミーという存在である。変な嘘を付いたりはしないけれど、ふざけたり、おちゃらけた発言は多い。しかしながら、彼女の根は真面目そのもので、無駄に苦労を背負っている感もしばしば。
そして、たまに正直な心を私に直接ぶつけてきたりもするから、口下手からすると対応に困るわけだ。
けど、今回の場合は対応しやすいほうである冗談であった。
「私、夢に夢見る乙女だし」
「だから、主に言動が痛々しいのかしら」
痛い妖怪より、痛みの共有目的で肩を叩かれる。しかしながら、痛くはなかった。
軽いやり取りが普通になる関係は斬新だ。
従者であった時、そして月に復帰してからも上下関係ばかり構築してきた私にとっても、それは今までに感じたことの無いものだ。
一番それに近い関係にあった下照様であっても、お互いに踏み込み過ぎてはいけないという遠慮というものが存在していた。
ドレミーが私の領域に土足で入ってきている感覚を私は持っていないのだけれど、彼女は私という存在を一体どう感じているのだろう?
恥ずかしいので、聞くことはできないが、気にはなる。
彼女の顔は鼻の頭を筆頭に赤くなっている。水が凍る気温なのだから、厚着をしようが寒いものは寒いのである。
「温かいココアとかコーヒーが出る店はないのかな?」
「民のいない凍結された田舎町にとっては難易度が高い」
「全くこんな場所で遊ぼうと言ったのは誰かしら?」
突っ込むのが面倒なので無視したら、悲しそうな顔が返ってきた。これはこれで、私からすれば満足である。
これだけ道の両側の塀に所狭しと並んでいる氷柱や、凍結して開きそうもない窓を見ていると、やはり身が震えるものである。
「無視した罰。えいっ!」
手を腰にまわして抱きついてくる彼女、良い匂いがしたと感じたのは秘密である。
「サグメは温かいねぇ」
「ドレミーは重い」
「失礼な!」
「歩きずらい」
歩みを止めないので、自然と彼女を引きずっているような形になる。
流石に悪いと思ったのか、ドレミーも手を離して、再び私の横に並んで歩き始めた。
彼女がどのような顔をしているかは分からない。私は恥ずかしさを隠すので精一杯であったから。
「ああー、もう駄目、寒いし無理。夢に溺れて運動不足だわ、私」
「成程、重いわけね」
「うるさいから!」
歩き始めて30分、全く変わらない風景と身をも凍らせる寒さに痺れを切らせて、ドレミーが泣き言を言い始めた。
かくいう私も、この寒々しい住宅街の光景の連続には、一週間前から飽きている。
遊びというものは苦痛であってはいけないもの、そろそろ身の丈に合った方針変更が必要な時間帯である。
「ああ、暖かい場所で横になって牛になりたい……」
「願いは後半だけ叶っている」
「なんかさっきから扱い酷い気が」
さて、温かいかどうかは分からないけど、横になれる近場はあるかもしれない。
私自身、都から離れて幾許の時間が経っており、今の都を把握していないが、もしかしたら頭に描いた建物はまだ存在しているかもしれない。
「事態は前半も叶える方向に動いているかもしれない」
「えっ? 暖かくてリクライニングできる場所あるの?」
「行ってみないと分からないし、希望も満たせるかも不明」
「よし行こう、今行こう」
手を引っ張って飛び立つあたり、全然元気ではないかと思う次第。
とは言うものの、彼女はその場所を知らないから、上にしか動けないわけで、
ちなみに上空はもっと寒かった。
「どこどこ?」
「すぐそこ、あの建物」
「どう見ても民家にしか見えないんだけど」
「正真正銘民家。元私の家だから」
近場だったので急降下、飛んだ意味は無く、無駄に身体を冷やす結果となった。
例外なのは今も繋がれた掌、ドレミーの手は冷たかったけれど、こうやって握っていると温かくなってきた。
着地してから、私は手を離す。名残惜しい温かかったものは消えて、冷たい空気が温もりを奪っていく。
「誰か住んでいるかもしれない」
「口にしたから、これから出て行くんじゃない?」
「……聞いていないから大丈夫、多分……」
なんか悪いことをしてしまった感があるが、能力は発動していない……筈。
いるかどうかも分からない見知らぬ住人の事など全く気にしていないドレミーは、勝手に調査を始めている。
本当に家が恋しいらしい。
「誰も住み着いていないみたいなんだけど? カーテンやインテリアも無いし」
結露を手と息で溶かしつつ、中を覗き込んでいるドレミーは、私でない者が見ても、不審者にしか見えないだろう。他に誰もいないのだから、何をしても私が許せば許されるのであるが。
窓やベランダ側を探っている彼女には、これでもまだ遠慮があるのだろう。
元家主でもある私は無駄を省く。目の前には氷が張っているドアノブである。
触ると体温が根こそぎ奪われていくような金属特有の感覚に襲われる。寒い中にいるので好ましい感覚ではない。
ドアノブを回して押してみる。玄関の鍵もドレミーの家と同じように掛かってはおらず、扉は思いの外簡単に開いた。
「不法侵入者発見!」
「いや、幾年ぶりかの帰宅だ」
短い廊下とリビングへと続くドア、住んでいた時にも感じていた味気無さは、空き家になっても同じであった。
玄関に入り込んだことで共犯者となった者は、中のあらゆる箇所に目を向けている。目ぼしい物などどこにも置いていないのだが。
「埃とか溜まっていないということは、実は住人あり?」
「ここは月、半端な穢れが存在できる場所ではない」
「勝手に夢が溜まっていく場所とは正反対ね」
靴を脱がずに入っていく私に習って、ドレミーも続く。
残念なのは、外の空気と家の中の空気の差があまりないところである。
息の白さは、屋根付きの家の中に入っても改善はされなかった。
付属備品のソファーにぞっこんとなったドレミーは、早速そこを住処にして横になっている。
彼女の家に対する親和性の高さは、夢世界での長い一人生活によって培われてきたのだろう。
さて、結局、いつも通り家の中で落ち着いてしまっているあたり、無理をしてどこかに行かなくてもいい、という解答を突きつけられた気分である。
そもそもここは寒い、穢れた生命には優しくない場所であり、理想の遊び場所とも懸け離れている。
「暖炉は無いの?」
「そもそも煙突が付いていない」
「暖房……」
「電力は夢の中ね」
「よし、帰ろう!」
「構わないけど」
「じゃあ、帰らない方向で」
寒がりで強がりなドレミーは、私でなく舌禍に従順である。
正直、私としては何でも構わないけれど、こうテーブルの椅子に座ると、いつものようにホットコーヒーが欲しくはなる。
豆どころかお湯すらないので、過ぎた希望である。
「このままでは我が手が末端冷え性で大変なことに!」
知らんがな。
「もっといい家に住もう」
「もう住んでいない」
「どうせ今の家だって飾り気のないこの家と大して変わらないんでしょ?」
図星なので反論が口から出てこなかった。
「土地も余っているし、夢世界でいいなら家の一つや二つ、ドーンとプレゼントしちゃう」
「いらない」
「成程、欲しいのかぁ。前向きに検討しておこう」
私は言葉は天邪鬼とは違うのだが、結論としては、いつも通り事態は逆に動いている。
色々と勘違いをしているみたいだけれど、私の能力の誤解を取り除くのも疲れそうなので、放っておくことにした。
まだ寒いのか、彼女はソファーの上で丸まって暖を取ろうとしているが、気温が低いので、動かなければ寒くなる一方である。
私よりも幾分暖かそうな格好をしているけれど、当の本人が寒がりでは、その効果も薄くなるものである。
部屋を暖める方法として現実的なものはない。
そもそも、生命が好む熱が発生しないようにする為に都の住宅地は凍結されたのだ。簡単に熱を取り戻せるようになってはいない。
家に火でもつければ温かくはなるだろうが、そんなことをしたら温かさとか冷たさとかを感じられない存在にされる可能性が生じる。
冷たい木のテーブルに肘をついて考えていると、顔をこちらに向けた彼女が疑問を口にした。
「サグメってさ、いつも難しそうな顔しているよね。こうやって左手を顔に当てて、遠い所を見ながら鋭い眼差しで思案しているというか」
別に真似しなくて宜しい。
能力柄からか思ったことはそのまま口にできず、考えてから発言することが多くなるから、そう思われるのだろう。
左手は考えている所を人に見せるのは失礼であるから、少しでも隠そうとして生まれた癖で、今や無意識の手癖になってしまっている。
「そうかもしれない」
「私はサグメと逆。話してから考えるから、言葉の一つ一つが軽いんだろうね。もし間違っていたら、全部夢オチでしたーってな感じて」
私からすれば、舌禍と異なり便利な能力である。
一つの発言が迎えるべき真実を捻じ曲げてしまうかもしれない。それが自分にのみ作用するのだったらまだ許せるのだが、他者にも大いに影響を与えるのだから厄介なのだ。
無口と言われるのも慣れた。そうあったほうが、私の見る世界は正常でいられる。
そして、考えたふりを相手に見せるもう一つの要因。
そうしていれば、誰かから話し掛けられる機会が減るからである。
「でも、そう考えてばかりいるとさ、つい話し掛けたくなっちゃうよね」
「何故?」
なのに、真逆なことを普通に言ってみせるドレミー。
私にはドレミーの意見の真意が理解できなかった。
横たわったまま両手に作った拳の上に顔を置いて、ドレミーは言ってみせる。
「だって、心配になるでしょ?」
やはり、彼女の本質はお人好しだ。しかも病的なまでに。
皆は知らない。獏という妖怪が几帳面で、真面目で、冗談が好きで、賢くて、義理堅くて、それでいて寂しがり屋。
私の生きてきた時間の中で、彼女と共有してきた部分はあまりに短い。
なのに、私は彼女の多くを知ったと思うし、彼女は少なからず私という存在がどういうものであるか知っている。
あんなに長く一緒にいた八意様や部下の月兎達が好きなものなんて私はよく知らないし、私も自分の事を教えようと思う気さえ生まれなかった。
どうしてこんなにも心変わりしているのだろう?
理由は分からないけれど、悪い気分ではなかった。
言った後に楽しそうに笑ってみせるドレミーの顔は眩しく、少し身体が温かくなった気がする。
少しばかりの心地良い沈黙、破ったのはドレミーだった。
「実はサグメに隠していたことがあるの」
身体を起こして正面からこちらを見る彼女を見て、真面目な話をしようとしているのが分かった。
どのような理由であれど、誰かと色々な関係を築く際には、隠し事の一つや二つが生じるものである。
事実、私もドレミーにとても重要な隠し事をしているのだから。
それを口にすれば、今の関係が壊れてしまうような隠し事。
月を裏切ることは決めていたが、私が月の使者として近付いた事実は消えない。
ぐるぐると頭の中で回り出した私の現状を止めるように、ドレミーは私へと頭を下げた。
「私欲でサグメの夢を覗きました。ごめんなさい!」
最近見た夢、記憶とごっちゃになった昔の思い出。
夢故に多少の改竄はあれども、事実であるから獏であっても処理できないだろう。処理したところで、また私の記憶を軸にして同じ悪夢は生まれるのだろう。
別に夢を見られたという事実に関しては何も思う事は無かった。それは彼女が獏であり、与えられている特権なのだから、誰に行使しようと自由であると思う。
けれど、私が佐具売を捨ててサグメとなった経緯は、誰かに見せられるような美しいものではない。
「気分の悪いものを見せてしまったようね」
「処理したのにサグメが覚えているって事は、夢と記憶の混在」
「今の私を作り出してしまった夢にしたい過去の経験がアレを生み出した」
目線を下に落として神妙な顔つきをしているドレミーが、あの記憶を覗き見て何を感じたのか? 少なくとも良い印象は持たないだろう。
そう、そろそろ潮時であった。
私達の関係には偽りが多すぎる。いや違う、あの時と同じで私が一方的に偽っているだけ。
この関係が消滅してしまうものであったとしても、嘘を付いたまま終わるわけにはいかない。
気持ちを抱え込んだまま、何もできずに主を失った過去とは違う。
何かをすることができる力はあるのだから、同じ過ちだけは繰り返したくない。
こちらを見てくれていないドレミーを目に捉えて、私も彼女の告白に続いた。
「私も隠していたことがある」
不安げな表情を隠せずに、彼女は顔を上げる。
私の顔からも柔らかさは抜けきっているのだろう。それくらいの裏切り行為を口にしようとしている。
過去の過ち? 結局、過去と何も変わらない。
私は地上と天を裏切った時と同じで、再び全てから背を向けようとしている。
唯一の違いは自発的である事。
「月の者達は近日中に、貴方の居場所、夢世界の強奪を行う」
「……えっ?」
「その先鋒が私だった。だから、私は貴女の前に現れて、避難場所を借りれるようにまず交渉を試みた」
月の真意を途中まで知らなかった、なんて言えるわけが無い。
彼等は過去にも地上欲しさに身勝手な行動を試みた。一度見ている、実行しているというのに、それが夢世界に及ばないものだと決め付けていた者のほうが愚かだったということ。
同罪。過ちは繰り返す。
それでも、彼女を、大切な者を失ってしまうことだけは絶対に嫌であった。
「最初から協力的だったのも」
「仕事だから」
「私の家に頻繁に訪れたのも」
「仕事だから」
「今こうして隣にいるのも」
「仕事だから」
問い詰める内容の質問を流す回答で、彼女から納得を貰えるとは思っていない。
それでも突き放す以外には無かった。
ドレミーはこれ以上、月にも私にも関わらないほうがいい。
狙われたのは、選ばれた不幸として、今は諦めもらう。
私だけが諦めず、月から夢世界を守れればそれでいい。
巻き込めば、事故が起こることだってありえるのだから。
「だから、せめて争うことなくこの場所を……」
「嘘つき」
嘘があったから、隣にいられた。だから、彼女の言葉は正しいし、それを私は受け入れようと思っていた。
けれど、私と彼女の認識には大きな差があった。
どのような意味を持って、ドレミーが私を嘘つきと称したのか、まだ理解できていなかった。
「サグメは事態の詳細をわざと口にした。つまり、それは事態の逆転を表している。こうして隣にいるのは、仕事だから、じゃないんでしょ?」
心は見透かされていた。
気まずい空気を背負って視線を下げていたドレミーは消え、真っ直ぐに私の目を見据え、全てを見据えようとしている。
ちっぽけな私の決意も、彼女にはお見通しだった。
「サグメは私の事を理解した上で今の選択肢に至ったのかもしれないけれど、一つ致命的な欠落があると思う。私だって、この数日間で貴女の事を理解してきたんだから」
説法を説くように覇気を強めて言い放ったドレミーは、私に言い訳を考える時間すら与えずに、言葉を続ける。
「私はずっと孤独だった。夢の世界でしか一人前の妖怪でいられず、ここに居続ける事、皆の夢を集めて適正な形に戻すことが自分の唯一の存在意義だと信じていた。でも、ひとりは寂しかったし、頼れる何かも無かったから、唯一すら信じきれていなかったのだと思う。孤独に侵されて私の心に隙が出来上がっていたのは確かだし、話し相手が欲しいと思っていたのも事実だから」
やはり、あの夢のような彼女の叫びは、ドレミーの心であった。
だから、彼女が嘘偽りない感情で私に話をしてくれているのが分かる。
「そんな中でサグメはこの場所にきた。そして今も私の前にいる。サグメがここにいるのは夢じゃないから、過程や目的がなんであってもそれでよかった。夢じゃない、本物の現実」
水泡の如く全てが消える世界。
波に浚われて自分だけが残る世界。
そんな夢と共にドレミーはたったひとりで生きてきた。
そして、彼女は今、裏切り者である私を認めた上で頼ってくれている。
「サグメの存在は夢でも過去にするものでもない。その現実、他人様なんかに簡単に幕引きさせるつもりはないから」
夢の支配者は私ではなく、窓の外へと言い放って見せた。
ドレミーなりの宣戦布告だったのだろうか?
月は私達の言葉を聞いているかもしれないし、取るに足らないものと思っているかもしれない。
どう捉えられようと、私とドレミーの考え方と方向性は変わりそうもない。
「こう見えても夢の支配者なんだから。他に誰もいないけどね」
何も言葉に出せずにドレミーの感情と言動に圧倒されていた私であるが、ドレミーの身体は寒さ以外のもので少し震えていて、指を折りたたんで何かの感情を我慢している。
似たもの同士、寂しいもの同士、付き合い下手同士、気が合う理由は色々とあったのかもしれない。でも、そういう過程なんて確かにどうでもいいものである。
私は私の意志で今の選択を行い、ドレミーも同じ意志を持って一緒にいる。
それは夢でなく今、現実であったのだから。
「……で下さい」
「えっ?」
その大きな眼は確かに私を捉えてはいたけれど、不安や虞が表れていた。
私は一度、全てを失ったことがある。そんな現実を迎えることになると頭に全く想像しないままに、一瞬で何もかもが刈り取られた。
湧き上がる感情は何もできなかった私自身を壊さないと気が済まない程に増長し、死なない為に感情を抹殺した。
彼女にはそうなって欲しくない。笑顔を絶やさないでいて欲しい。切にそう思った。
「どうか……、私を独りにしないで下さい」
こんな時に気の利いた言葉を掛ける事さえ叶わないのが、舌禍というもの。
でも、口以外でも彼女に思いを伝えられる事を私は知っている。
今の私は笑顔でいられているのだろうか? 彼女を心の不安を少しでも取り除いてあげられたのだろうか?
私を見た後にはにかんだ笑顔を浮かべた彼女を見て、自分が救われた気がした。
彼女がいなくなったら、私もまた、独りになってしまうのだから。
⑥
純狐の協力者であるヘカーティア・ラピスラズリが敗れたのは、月の都観光を行った次の日であった。
八意様にヒントでも貰ったのか、楽園の兎は夢世界に現れ、最後の抵抗を行う二人を納得させるだけの勇を見せ付けたという。
これにより、純狐の本気度の低い月侵略計画は水泡へと還り、夢世界で騒ぎ立てていた妖精達も、あるべき場所に帰っていった。月、純狐、地球、三者で均衡が取れていたパワーバランスが崩れ去った。
これで月の者達の枷は外れて、地上侵略班の者達も都に帰還するだろう。新しい獲物である夢世界とドレミーに対して、お礼と言わんばかりに銃口を突きつける状態に変化してもおかしくない。
いつ動いてくるのか、私に命が下されるのか、変わりの者が派遣されるのか、元になるべき情報が未だに得られなかった。
上司からの指示はあれ以降、全く無いままだ。つまり、私は既に信用に足る部下でないと切り捨てられていると考えたほうが良いだろう。
最悪条件を想定しておくべきだ。賽の目とは悪い方向にばかり出るものである。
特に状況が大きく揺らいでいる今は、動くには最適な状況である。月にとっても、私にとっても。
地上組の合流を待ち、万全を期して編成し直すのであれば、ある程度の時間が必要になる。
月にとっては別に急ぐ理由は無いのだから、急襲の選択肢は無いと考えるべきか。
都の中心部自体も豊姫様によって元の月へと戻っている。空間移動による弊害の有無や、凍結の解除、都市機能の回復など、月にとってもやるべきことは少なくない。
油断をしていたわけではない。合理的に考えれば、可能性として低いと判断できた。
けれど、私はこの計画の概要について知らなかった。分からない部分を推定で補填していたことで、判断に鈍りが生じたのだ。
そんな失態をフォローしたのが月側だというのだから、笑うに笑えない。
「サグメ様、指令です」
起きてからゆったりと時を過ごし、コーヒーを飲み終えてからドレミーのところに行こう、そう考えていた矢先に聞き慣れない声が入ってきた。
窓の外に佇むは雉、昔を想起させる不吉の使者が私を待ち構えていた。
本来なら使者を家に入れて労いの一つでもしているだろうが、今日はそういう気分ではなかった。
上司が直接でもなく手紙でもない、まして使者はいつもの者ではなく因縁のあった雉ときた。
疑い深いものでないとしても、この境遇は何かが狂い始めていると考えるべきだ。
「正式に夢世界、獏の討伐指令が下されました。勿論占領には手段は問いませんが、もし抵抗するようならば力を示しても構わないとの事」
「承りました」
二つ返事で受け入れて見せても、使者は背を向けようとはしなかった。
懐疑的な視線、そいつは私の過去を知っているのだろう。
「本当に、ですか?」
鳴女という雉の血脈を目の前の鳥が引き継いでいても、何もおかしくはない。
こうして私のところに使者として来たのも、裏切り者であり、仇の顔を一度見てみたかったからかもしれない。
それでいても、使者としての役割は忘れていない。
「私はただの伝令ですが、その任すら行えないような役立たずにはなりたくありません。本当に受諾して頂けたのでしょうか?」
「……断る」
「貴女は正直者ですね。しかしながら、それ以外には褒めるべき点が一つも存在しません」
悪意を見せ始めたのは、私を月の敵と認知したからだろう。
伝令役でしかない雉では私を止めることはできない。それでいてこうやって伝えたのは、月が見せている余裕。それは間違えれば油断になるだろう。
「一度のみならず二度も忠義を反する。その行為、恥ずかしいと思わないのですか?」
自分の理念に反するならば、他者に泥を投げられても構わない。
誰かに後ろ指を指されようとも、私は自分の意志で動くと決めている。
「貴女のような者と一緒にいる者、貴女が仕えた者の器も知れましょう」
何とか焚き付けようと考えた雉の一言は、確かに的確であった。
私そのものではなく、他者を天秤に乗せて辱めをしてみせることで、私の中から冷静さが一瞬で失われた。
怒りを覚えたのは必然、雉はどいつもこいつも傍若無人だ。
窓越しに私の反応を見て、続けざまに何か言おうとしていたので、私は一言だけ呟いた。
「貴方も頓使い(ひたづかい)になりたいの?」
うるさい、それだけだった。
この時の私の顔は窓硝子に自分にも見える形で映っていた。相手の血の気が引く顔を見れたもの当然と言えるような、酷く歪んだ顔をしていた。
窓から離れた彼女が即座に逃げたのは必然。なぜなら“頓使いにはならない”方向に事態が動き始めたから。
あまりに滑稽な姿に、乾いた嗤いが出てしまった。
今日の私はいつにも増して性格が悪い。そして、いつにも増して血が騒いでいる。
身体に溶けた天之羽々矢が獲物を欲している。呪いとまでいわれる神の力を、神に見せ付けようとしている。
構わない、今日はそれが必要な日となるのだから。
愚者は戦地へと飛び立った。
愚か者で結構。自分が愚かと知れた事はきっと悪くない。
私は稀神サグメ。
月を守りし者にして、月を欺く者。
所詮、私は天邪鬼。
誰かの手の下で満足していられる性格ではなかったということ。
それだけの欲望にまみれた穢れた存在であったということ。
アポロ経絡はいつもと同じ風景で、何の気配も受け取れない。
新たに発生した夢魂もどきは、風もない世界をふわふわと漂い、虹色の光を時折反射する。
遠くに見える月、もう手が届かない場所になってしまった私の故郷、身が穢れた時からそうだったのかもしれない。
戻るべき場所はある。そこを守る為にも、私は戦わなくてはならない。
ログハウスはいつも通り、煙突から白い煙を吐き出している。
そんな家の前にいる兎達と月の者。
数としてはそこまで多くない。地上に手を割いていた為か、単純に甘く見積もられているだけか。
月兎の戦闘兵を率いて正面に立つ男、能面のような笑顔を全く崩さない顔から、私はその者と認識があることを思い出した。
「やはり来てしまったか」
「地上に現れた使者? どうしてここにいる?」
「私が作戦の指揮官であり、そして裏切り者の上司であるからだよ。稀神サグメ」
驚くようなことはもう無いであろうと勝手に思い込んでいたが、想定外の言葉によって見事崩される結果となる。
自分の上司が八意様から代わったことで、上に存在する者に対して興味を持たなくなっていたのは事実だ。加えて私の身体の事情により月に身を置けなくなった。
情勢が見えていないのは自認していたが、本当に何も見えていなかったらしい。
「まさか、貴方が私の上司になっていたとは思いませんでした。随分とご出世なさったのですね」
私のお世辞にも顔色一つ変えず、貼り付けた笑顔で一礼して対応してみせる。
数千年前から全く変わっていない丁寧な態度、だからこそ、地上にわざわざ訪れて自分の意志を全く見せないままに私を月へと連れ戻した使者と、こうして意志と野望を違えて対峙している事実に驚いた。
導入されている月兎の量は、私が指揮している量と同等といったところ。
つまりは私兵程度の数であり、月が全面的に協力しているのではなく、独断でこの場所に来ていると考えられる。
その中での唯一、そして最大の誤算は、月の強大戦力がこの場所に来ていた事。
「依姫様。まさか、貴方がこの場所にいるとは」
「久しいな、サグメ」
「月にとってそれ程の事という認識で宜しいのでしょうか?」
「信頼できる月の守護者に凶兆があった故、私がここにいる」
私の月からの離脱はどうやら依姫様を動かすまでの事態と判断されるらしい。道具にしては中々立派なものである。
依姫様は月の軍務を司る最高位の責任者であり、八意様から教えを受けていた私の上級生でもある。その戦闘力は月でも指折りであり、私よりも遥かに強い。
正攻法での防衛は難しくなったが、それ以外に手段が無いというのも事実ではあった。
「さて、この場所に来てしまったということは、雉の忠告をも聞かずに月を裏切り、再び仇成す存在となった証左である。月と無関係な君は一体何をしにこの場所に来たというのか?」
「月とこの世界も無関係」
「そうでもないな。現にこうして私達は話し合いに来ている」
砲弾外交とでもいったところか、銃口を向けての会話は話し合いとは言わない。それは支配である。
牙はもう見せているのだから、無駄な茶番を見せても誰も得しない。
そんな思考を余所に、上司は続けた。
「本当は力で抑え込もうと思ってはいたのだが、どうにも獏という妖怪は賢く懸命、無駄な戦闘を避けて条件を呑めばこの場所を譲渡するとのことでね」
話し合いの場を設けたのは、ドレミーのほうであった?
彼女の姿は未だにないまま、と思っていたら、何食わぬ顔でドアを開けて外に出てきた。
そして、対峙している私と月の勢力を見て、驚いている。
私よりも先に彼女は屈したとでもいうのか?
戦う相手では無いというのに、高揚した感情のままに私はドレミーに怒りをぶつけた。
「何でドレミーが先に諦めているわけ!」
「それは……まあ、大切なものを守る為に必要な犠牲というか、選択というか」
「ここはずっと貴方が居続けた場所、簡単に捨てていいものじゃない」
ドレミーが何か言いたそうにしていたが、私は掌を見せてそれを制した。
失う事に慣れてはいけないんだ。そうやって、感情は少しずつ自殺していく。
彼女の顔から笑顔が消えてしまうのは絶対に嫌であった。
「余所者が有意義な話し合いの場を荒らさないで貰いたいのだが」
感情的な私とは全く異なり、冷たい声で私の言葉を遮ろうとする。
でも、その言動には大きな間違いがあり、私はそれを修正しなければならない。
月から離れた私は部外者? 違う、私は月に仇成す加害者だ。
致命的な勘違いをしている愚かな侵略者達に、圧倒的な力を見せつける。
それが守護者の名を頂戴した私の役目。
「今すぐにこの世界から離れなさい、月の者達よ。この場所は貴方達が足を踏み入れていい場所ではありません」
ドレミーに右翼が生えた歪な背中を見せ、私は月との敵対を明確にした。
月兎の兵士達は顔見知りばかり、中には困惑している者もいる。
依姫様は少しだけ笑って見せた。彼女は私との手合わせではなく、それ以上の戦いを望んでいるのかもしれない。
全く変わらない笑顔でこちらを見ている。唯一受け取れた感情は憐れみ、といったところだろうか。
「部下の不始末を拭うのも上司としての勤め、か」
彼の前に飛び出てきたのは武装した月兎達、重火器を媒体に弾を撃つそのスタイルは、どんな敵であっても変わりはない。
その銃口が自分に向けられることになろうとは、ドレミーに会う前には脳裏に無かった。
別に恐怖を感じるわけではない、部下の融通の利かないやり方を私は良く知っている。
数には怯まない、もっと恐ろしい事を私は知っている。
「貴方達には生すら寄り付かない死んだ世界がお似合いでしょう」
「サグメ。その言葉、軽くはないぞ」
「知っていて口に出しております、依姫様」
「そうか、それは……残念だ」
依姫様の眼光が一つ鋭くなった。けれど、まだ刀には手を掛けていない。
彼女を臨戦態勢にさせるには、まだ邪魔が多い。
「生の穢れを拭えず、ついに血迷ったか?」
「生まれ出でた時より血迷っている天津神の血よりは真っ当と考えておりますが」
「天津神を一度だけでなく二度までも欺く暴虐の顛末、同族であった者の責として、その穢れきった身に刻んでくれよう!」
「口だけで何も見ず、自己の都合しか考えられぬ神など誰一人必要としていない。それを未だ知らぬは、箱庭世界の哀れな創造者のみ!」
決裂の言葉によって、火蓋は切られた。
上司の合図と共に隊列を組み、掃射準備。多人数だろうが一人だろうが、兎達は何も考えずに訓練通りの陣形になり、私へと銃を向ける。
私が指示しても誰が指示しても同じ。敵がどんな策を練ろうが、何名いようが同じ。
彼女達は自分で考えるのがすこぶる嫌いなのだ。
一斉に掃射が開始され、無駄玉が何個も通り過ぎていく。
運良く私を捉えた銃弾は、致命個所を防ぐ片翼では守りきれない脚や腕を貫き、非効率ながらも殲滅対象に損害を与える。でも私は、その度に走る激痛などに構っている暇も無かった。
彼女達は敵でなければ、もはや兵士でもない。ただ搾取される側にいる捨て駒、私と同じであった道具など眼中にもない。
まるで自分の亡霊を見ているようだ。その姿に哀れみしか覚えないのは、私の中に変化が生じているからなのだろう。
反撃として私が放った弾は彼女達の掃射に比べれば微々たる量。けれど、その因果を纏った矢からは逃れることはできない。呪われた神器の業は、術者の意思を汲み取ったが如く、復讐を鏃に秘めて、敵を定めて宙へと散開する。
かわす事はそもそも許されない。矢は自分に生と因縁を降ろしたかのごとく、逃げる対象を高速で追跡し、使役者を傷つけた者を悉く貫いていく。
耳障りであった銃声は悲鳴に変わり、そして止まる。
半数は矢で腕や脚を貫かれているが、無傷の半数は気が付いたのだろう。
自分達ではどうにもできない者に構えて、撃っているのだと。
月に住まう兎達には思考にさえ濁りがない故、できないことはしようとしない。
格を見せつければすぐに諦める。
そもそも、月兎達の士気はいつも高くない。だからこそ、へし折るのも簡単なもの。
泣き言を言い始めた兎達の前に出たのは、刀を鞘から抜いた依姫様である。
「還し矢、ですね」
私が取り込んだ天之羽々矢が持つ能力にして、若日子様を死に至らしめた竹箆返しの呪い。
天津神が作り出してしまった神の力を持つ武器が、天津神へと向けられている。
彼女には「還し矢」通用しないだろう。凛とした出で立ち、姿勢から見ても、反撃する遑さえ与えてくれる気がしない。
彼女が刀を私に構えたことにより、他者による横槍が入ることは無くなった。私を止められる者はここには彼女しかいないのだから、こうなるのは対峙した時点から自明の理。
知っていた故に私にはいくらかの時間が与えられたが、勝てる手札はこの短時間では見つからなかった。私の手は相手の一手に依存する、実力差によりそれ以外にはなかった。
今度の立場は逆である。依姫様の力は私にとって、どうにもできない者である。
兎達と異なる点は一つだけ、そして致命的に違う点。私が戦意を全く失っていない、ということだ。
「こうやって獲物を構えると、八意様の元で研鑽を進めた頃を思い出しますね」
「しかし、今回は手合わせではありません。必要ならば、その命さえも賭しましょう」
「本当ならば心躍るままに戦いたいのですが……、残念ながら今回のサグメの相手は私ではありません」
「依姫様以外に私を止められる者がいると?」
「実際に見れば、サグメも理解するでしょう」
私には彼女の言っている言葉の裏を見て取ることはできない。
自身の上司に当たる男にしても、使者故に軍事出身ではない筈なので、戦闘に関して秀でているとは思えない。
そして、他に敵対する者は誰もいない。
ならば、雑念は捨てて、目の前にいる者を撃ち果たして、この場所を守りきるのみ。
敵を包囲する為に、呪符を大量に展開する。
一つ一つの威力は大したものではないが、数だけ見れば180度を覆えるほど。一人に過剰な手数を用意しているのも、これでも足りないと感じる故だ。
無言で笑った依姫様の意図は汲み取れた。少なすぎるのではないか、と。
調子を確認する為の一刀でどれだけの符が裂けただろうか、それでも余った符は我先にと敵へと向かっていき、大きな爆発を起こす。爆発は爆発を巻き込み、煙によって何も見えなくなる。
この程度では致命傷どころか、損傷すら与えられていないかもしれない。
全部切り裂く技量はあった筈なのに、依姫様は大きくは動かなかった。それ故に発生して視界を遮る煙。
強さからくる油断があるのならば、勝機を手繰り寄せる機会はきっとどこかにある。
その空気を裂く嫌な音を聞くまでは、そう思っていた。
視界不良の煙から飛んできたのは矢であり、それは意志を持つように曲がりくねりながら私を目指してくる。
頭痛を起こす甲高い大きな音は、私が二度と聞きたくなかった主の終わりの音と同じ。
天之羽々矢によって迎え撃つと、それは最初から衝突する運命にあったかのように、お互いを引き裂いて、砕け散った。
私を狙っている矢は同じ天之羽々矢だ。間違いない。
依姫様の能力から考えると、この矢を放った者が誰であるのか、そして彼女の言葉の意味を理解した。
煙は消え、視界は晴れてくる。対峙する姿は依姫様のままである。
分かってはいたけれど、その懐かしい声は敵対する私に衝撃を与えた。
「まさか再びこの世に呼び戻されるとは。役目は終えても、我が身、未だ未練に囚われる、か」
刀を鞘へと仕舞い、細腕で構える大弓は天之鹿児弓、背中には天之羽々矢。依姫様の目は獲物を狙う狩猟者のものと変わらない。
それなのに、どこか優しさを持った目。
知っている、その目をよく知っているし、その御方がこの世界で二度と動かなくなったのも知っていた。
「さて、まさか数千の年月を経て、こうして親しき者に矢を向け合うことになるとは」
「嘘、ですよね……?」
「二千幾許の時の流れに捨て去ったか? 天之鹿児弓を持つ主の名を。さあ、答えるがいい佐具売よ」
彼女の能力は御霊を呼び出して自身に憑依させるもの。
普通なら呼び出した者の力を半分以下も引き出せないものであるが、日々から怠らない鍛錬によって、御霊は十二分にその力を発揮できるのだ。
そして何より、彼女は呼び出す者よりも恐らく強い。
つまり、これは彼女なりの手加減でもある。
「若日子……様? どうして?」
「術者である依姫殿に仇成す者を狩る為に、御霊として呼び出され、今はここにいる」
「私には若日子様と戦う理由など……」
「逃げるのか? ならば、狩り立てるのも難しくはなかろう」
自分を見るその目、捉えられているだけで過去からずっと収納されている自責の念を思い出す。
非の打ち所の無い素晴らしい御方であった。自分がそんな方に仕えられるのは、あの時の自分の何よりの誇りであった。
今だってそう。佐具売での経験があったからこそ、今の私、月と正面から向き合うサグメがここにいるのだ。
確かに驚き、うろたえはした。それでも、自分のするべきことは何一つ変わってはいない。
「迷いあるのならば、この場所から立ち去ると良い。さすれば、無益な戦も……」
「若日子様、お久しゅうございます。このような形で再開することは望んでいませんでした。貴方の術者と私、互いの目指す場所の隔たりは埋められるものではございません。故に私は全霊を持ってして、貴方、そして依姫様を討ち果たしましょう」
「……そうか」
「私はもう、自分の決断に迷う事はありません。私は守るべき者の為だけに戦い、立ちはだかる如何なる障害もこの矢で撃ち抜きましょう」
二千年以上、私を苛ませてきた呪縛、そして私が生き続ける限り、それは消えないのだろう。
けれど、目を背けて逃げるような事はもうしない。現実で起こってしまった悪夢を二度は起こさない為に、私はこの場所にいるのだから。
若日子様は現状を理解はしていないだろう。それでも、私の決意表明に満足し、それが何よりも愉快であったようだ。
「良い目をしている。そういう顔をされては、血が騒ぐというもの!」
矢が宙ですれ違い、お互いの頬を掠めていった。
元主、いや今も若日子様は私の主のままである。
そんな主従関係を結んだ者と殺し合いをしているのだから、やはり月は私も含めて正気ではない。
昔の私は主に肩を並べられるような強さなど持ってはいなかった。
強さを欲したのも、それを持っていなかったが故に全てを失ってしまったと思ったから。
でも、本当は違かったのだ。
あの時の私は、最初から自分を脇役の位置であると決め込んでいた。
自力で壇上に上がった今とは大いに異なる。
結果は同じか、はたまた変わるのか、命運は私にも見えていない。
挨拶代わりに放たれる若日子様の普通の矢の射撃は決して軽くはない。神の造り出した道具の一つ、天之鹿児弓より射出される矢は、その威力を倍増させて、防御符を貫きながら私へと襲いかかる。
矢の僅かな減速によってかわしてはいるが、これは本命の為の目くらましに過ぎない。
動く事で僅かに発生する風を翼で捉えながら飛翔して鏃を捌いてはいるが、これに慣れてしまえば本命の速さに対応できないだろう。
「その翼はどうしたのだ?」
「罪を背負って生き続ける者の咎でございます」
私が手に持った勾玉は三種の神器の模造品とはいえど、符よりは防御効果も高く、天之羽々矢と同じように敵を緩やかに追い詰めるもの。
そして、防御を貫く衝撃に対しては爆破で対応する。
機雷は穢れた相手に劇的に効果があるが、肉体である依姫様は月の者、単なる威力の高い爆発物でしかない。
近付く者を排除する爆弾の要塞、それを見て若日子様は少しだけ笑って見せた。
背中にある矢はあと4本、その一本を抜いてみせると、くるりと指で回して弦へと設置した。
背の丈ほどの弓は大きく歪曲し、その力を矢へと伝えていく。
見た目はただの木と糸でしかない。なのに、構えられている私はどうしてここまで威圧されているというのだろうか?
目の前にある爆弾と結界の壁など、射手は最初から見ていない。
「死ぬなよ、佐具売」
その言葉に反応し、私は天之羽々矢を具現化させた。
狩りによって発生する純粋な殺意を浴びた私も、自分の持つ最大の攻撃力を使わざるを得ない状況に追い込まれていた。
放たれた一撃は先程の耳障りな空気を切る音とは違う、雷撃が地上へと襲いかかる音を纏っていた。
小刻みに続く破裂音は的に向かうまでの障害全てを破壊する音、機雷の爆破音すら小さく感じるのは、こちらに向かってくる殺意を帯びた音が、脳内に警鐘を鳴らし続けているから。
弾幕の大矢、私の造り出した物も本物の天之羽々矢、なのに迫る一閃に比べると何もかもが足りていない。
前提が間違えているのだ。天之鹿児弓という神器を若日子様が用いている以上、単純な弾の威力では勝てるわけがなかった。
勢いを増していった神の矢は、私の手から離れた大矢ごと、月を落とす者を貫いていった。
旋回することもできず、何とか受け身だけは取ったが、左手から肩の感覚が狂っている。
目を向けると、脇腹から肋の部分の布、皮膚、そして肉が裂けていた。
身体から喉を通って込み上げてきた血を、何とか体内に戻す。唇から溢れ出た血を掬い取って、それを私が作り始めていた血溜まりに吐き捨てた。
こちらへと近付いてくる依姫様の姿をした若日子様には傷一つない。実力の差は未だにして天地ほどあるという現実。
弓も背中に、片手には刃。立ち上がって見せたものの、ただ歩いてくる相手に対して足止めすらできない。
「さて、まだ続けるか?」
私を捉えている刀、銀に光り輝く刀身は美しく、それが穢れた血で汚れてしまうのは惜しい。
口は開かなかった、代わりに返事として目を瞑った。
「何か言いたいことは?」
「良い夢は見られましたか?」
悪夢を終わらせる私のトリガーによって、血にまみれた佐具売は露に消えて、夢に作られた世界は崩壊していく。
先程まで消えていたドレミー、月兎達、野望を持つ者、彼等の存在も認知できる。
私は目の前ではなく、背後。
私の右手に浮かび上がる天之羽々矢は逃げる隙すらも与えずに敵を貫ける。誰が見ても詰んでいるのは理解できる状況であった。
状況に混乱しているのは若日子様だけ、だと思っていたが、彼も自分が何をされて、何を見せられたのかを把握し始めていた。
「私はいつから、夢を見せられていた?」
抵抗する気はないのか、神具の弓と獲物の刀から手から離した後に、若日子様は私が放った切り札のタイミングについて問い質した。
別に嘘をつく意味も無かったので、その質問に正直に答える。
「相手が若日子様と分かった時の初撃です」
「あの時に頬を掠めていった普通の矢に、何かの細工をしていたと?」
「私という存在にどう対抗するべきなのか、若日子様に何らかの迷いがあると考え、最初に切り札を使いました」
若日子様の弓の腕も、天之鹿児弓の威力も、依姫様の力も私は知っていた。
正攻法にぶつかれば、単純な力で押し切られてしまうだろう。
だからこそ、速攻での仕掛けを行う博打によって、活路を見出した。
「決意の差は道具の差を越えたか」
「それもありますが……、私も若日子様が持っていないものを一つ、持っていました」
私と若日子様の目線の先には、この場所に生き、この場所を捨てようとした、ひとりの妖怪がいる。
「彼女、信頼できる者から貰った切り札です」
鏃に練り込まれたものは、月の都で彼女から渡された悪夢。
獏が持っていたとびっきりの夢を譲り受け、彼女の力によって今が生まれている。
事態が逆転したのか、はたまた、なるべくして今を迎えているのかは分からない。
けれど、自分の心持ちが彼女に出会う前と同じだったならば、決して今を迎えるようなことは無かっただろう。
ドレミーから貰った夢はこれだけではない。彼女と過ごした時間は現実でありながらも、夢と同じような綺麗な色彩を帯びた時間であった。
私は今も、幸せの微睡みの中にいるのかもしれない。
若日子様は自分を納得させるように少し笑い、肩の力を抜いた。
「見違えるほどに強くなったのだな」
「私は強くなる以外に方法が無かったのです」
「私のせいで茨の道を歩ませてしまったか」
「たとえ茨の道であっても、終わりはありましょう」
「そして、優しくなった」
「主に似てきたのですよ」
二千年を経て再開した主と、まだ会話を行う時間はあるようだ。
依姫様による心遣いであるのは、勿論言うまでもないことである。
もし、本気で私を殺そうとしていたならば、こんな手の込んだ憑依など行う必要は無かったのだから。
「月における私の立場から考えれば、怨鎖に囚われた亡霊となって憑依することになっても、何らおかしくはなかった。憑代となってくれた依姫殿に感謝を言っておいてくれ」
「こうやって若日子様と話せるのも、依姫様と縁があったからのことなのでしょう」
若日子様、依姫様、そしてドレミー。
皆と繋がりがあったからこそ、今が導かれている。
「さて、親しき者とのやんちゃも終わったことだ、そろそろ代わるとしよう」
「代わる?」
「もう一人、どうしても佐具売に言葉を掛けたいと言ってきかない者がいてな」
顔が思い浮かんだけれど、そんなわけはないと、私は否定する。
何故なら、依姫様にとっても彼女は専門外である筈だ。
呼び起こせるのは天津神であって、いくら神であっても他は御霊とは言えない。
けれど、私の描いた者に間違えは無かった。
持っている雰囲気を完全に変えた依姫様の姿は、いつもとは違う煌びやかさを身に付けている。
全てを包み込む優しい空気は、感じたのが数千年前であったとしても忘れられなかった。
私にとって、若日子様と同じように大切な人であったから。
「下照様」
名前だけはすぐに出てきたけれど、それからの言葉は続かなかった。
合わせる顔も、用意できる言い訳も無かった。謝るという行為すら意味を成さない。
だから、待つしかなかった。
若日子様は言っていた。下照様は何か言葉を掛けたい、と。
それが罵詈雑言であったとしても、私には受け入れなければならない義務がある。
けれど、そうはならないと分かった。
勇気を持って見た依姫様、下照様の表情は緊張を持ちつつも穏やかであったから。
そして、透き通るあの声で一言だけ言ってみせた。
「ありがとうございます」
感謝の意、確かに目の前の下照様は頭を下げている。
意味がわかないどころか、本来私が頭を下げ、それを彼女が首ごと切り取ってもおかしくはない状況で、地上の物語は終演した筈だ。
続けるべき言葉が出ないまま呆然と彼女を見たまま固まっている私を見て、下照様は私に分かるように真意を伝えた。
「佐具売様が一時の感情に流されず、天の命に従った故に、私達は武器を手にとって天と争い、失意のままに討ち死にするようなことも無く、佐具売様より頂いたお時間で、国を譲る為の準備を行うことができました」
私達の天孫降臨の失敗の後、天は懲りもせずに再び地上に子等を送ったが、今度は殆ど抵抗をされることも無く、その地を手に入れた。
私は意図的に地上の情報を得ないように天で振る舞っていた為、失意のままに天に土地を譲ったのだと思い込んでいた。
けれど、そうではないと下照様は言う。
決断には時間は掛かったが、貴女のおかげで後悔のない判断が行えたのだと。
「私は恩を仇で返し、地を見捨てました。ただそれだけしかできなかった存在なのです」
「知っていましたよ、佐具売様。貴方の無念、感情、我慢」
一歩、彼女は私の目を見ている。
二歩、手が届きそうな位置。
三歩、距離は無くなった。
背中に手を回して抱き寄せる。依姫様の身体、下照様は温かかった。
「だって、同じ方を愛していたのですから、知らないわけがないですよ」
「あっ……」
目から込み上げてくるもの、喉から込み上げてくる言葉、どちらも飲み込むしかなかった。
簡単な事だった。彼女は今のドレミーと同じで、私のことを私以上に知ってくれていたんだ。
私は自分という存在が知られていないと思い込んでいた。
けれど、若日子様も下照様も佐具売という存在を理解してくれていたのだ。
今思えば簡単な事なのに、昔の私には気が付けないままだった。
そのことだけは謝らないといけないと思った。
ごめんなさい、ごめんなさい、何を謝っているのかも説明できずに、ただ泣きじゃくるように言葉を続ける私。下照様はそんな私の頭を優しく、大切そうに撫でてくれた。
自分勝手な私だけが、今もここにいる。
それでも、私はまだここにいていいんだと思えた。そう思わせてくれた。
佐具売という存在は意義を認めてもらったことで、本当の意味で役割を終えたのだと思う。
「慣れない事は……、するものではないわね……」
肩で息をするほどに消耗している依姫様。そんな姿を見るのは初めてであった。
彼女は御霊を口寄せできるが、自身とは懸け離れた国津神まで呼び寄せたまま私と戦った為、肉体も精神も相当に磨り減ってしまっているのだろう。
慣れない事を彼女に“させてしまった”。それは私の中では誇らしいことでもあった。
自分を見てくれている者は、月にもいたのだから。
「出来の悪い門弟でありながら、月を守り続けた功労者の新しい船出を、少しばかり祝いたいと思って来たのだけれど、疲れただけだったかも」
依姫様は殺気を完全に消しているので、この場にいる誰もが終結を理解した。
納得できるか否かは別の話であるが。
面目を潰された男にとって、今は納得ができる結果というものではなかった。
「依姫様、これは一体どういう……」
「夢の世界の制圧の命は受けたけれど、サグメを殺せという命は受けた覚えも無いし、言われても受け入れるつもりは無い」
「これでは先の目的すら果たせていないではないか!」
「いや、ここに我々が来た時点で、私の任、貴公の目的は果たしていると言える」
私は依姫様の言葉の意図を汲み取れていなかったが、ドレミーは別であった。
夢の世界の代表者として、私よりも一歩前に立って見せる彼女。
「それでは、話し合いの再開としましょうかね」
私の防衛戦を全く見ていなかったかのように、譲渡の為の交渉を再び開始させるドレミー。
依姫様に疲弊が見られている限り、状況は私達のほうが有利である。
なのに、彼女はわざわざ下手に出て、事を終わらせようとしている。
答えは簡単で、彼女のほうが私よりも視野を広く持っていた、それだけだった。
月の戦力はここにいるだけではない。地球に割り振られている戦力に加えて、今度は依姫様も全力で手加減してくれるようなことは無いだろう。
最初から詰んでいるのだ。けれど、依姫様の心変わりにより今日は詰まなかっただけ。
私は徹底的に抗戦してもいいとは考えていたけれど、ドレミーは良しとしなかった。
依姫様の手加減さえも脅威に感じたから、かもしれない。
上司の顔もいつもの笑顔に戻る。彼も冷静に考え、落ち着けるだけの根拠を現状から見出したようである。
「まず、そちらの要件を頂こう。月として呑めるかどうか、判断せねばならぬのでな」
実力行使で結果を手繰り寄せられる身に、無理難題を叩きつける事はできない。
ドレミーは一体何を考えて、どんな思いを持って言葉を絞りだそうとしているのだろうか?
彼女が降服を選択し、私は月と闘う意義を失った。こうなると、私には口出す権利も無い。
「一つ、溜まった悪夢は集めて、私の元に送付する事」
悪夢を処理できるのは獏だけ。
その仕事は、夢世界という居場所を失ったとしても、彼女にとっては捨て切れる仕事ではなかったらしい。
困るのは悪夢に魘される他者なのだから、別にやらなくたってドレミー自身には影響は無い筈であるのに。
彼女は相も変わらず律儀であり、顔も知らない相手すらも裏切らない。それが私の知るドレミー・スイートであった。
「一つ、もし場所を返却したくなった場合や手に負えない異変があった際は、私に連絡する事」
この要求も、結局は彼女がこの空間の生みの親である事を意味し、手放したとしても責任は放棄したりしないという彼女の特性を良く表している。
自分の守備範囲の困ったことは、放ってはおけないのだろう。
「共に受け入れよう。全く問題無い」
拒否する理由が無い故に、月側も受け入れる。
悪夢を集めなければならない手間は掛かるが、ゴミの処理は専門家がやってくれるというのだから、必要経費であろう。
奪われても尚、苦労を自ら背負い込んでいるあたり、彼女がドレミーである限りは直らない症状なのだろう。
「そして条件を一つ追加」
そろそろ、彼女は夢世界のルール説明でなく、我欲に忠実である真っ当な要求をするのだろうか?
そんな疑問を浮かべた私に一度視線を送ったドレミーの言葉は、確かに今度は要求ではあった。
「稀神サグメの所有権は私が頂きます」
真っ当、とは程遠いものであるが。
本人がこの場所にいるのに、私の意を介さずに月に要求するのはおかしいのでは?
言いたい事は色々と思い浮かぶけれど、それよりも先に回答が返ってきた。
「二度も月を裏切った者の所有権など、もはやどうでもよい。二度と顔を見せないで貰いたいものだ」
それは回答というよりも、正解とでもいうべきものだ。
どのみち、私はもう月にはいられないのだから、誰のものでもない存在になる筈だった。
なのに、何故が月よりドレミーに権利が譲渡されている。
私が気にしない限り、効果の無い権威の受け渡しであるが、行き場のない自分に一つの選択肢が与えられたと考えれば、悪いものではなかった。
少し表情が崩れていたのだろう。“元”上司が笑顔のままで、露骨に不愉快さを表現する。
「良かったではないか、定命の者とお友達になれて。地上に堕ちた上に、穢れに侵された月の部外者にはお似合いの顛末だと思うぞ」
夢世界をほぼ得たというのに、発言自体は負け犬のそれと変わりがない。
憐れな支配者に掛ける言葉など存在しない、と私は思っていたけれど、その挑発を聞いて、ドレミーは今日初めて苛立ちを見せた。
「友達? 違うから!」
彼女は私の首元から手を回し、身体を寄せてから間髪入れずに続ける。
「稀神サグメはドレミー・スイートにとって、この世界でたったひとりの親友」
初めて出会った時に、私は舌禍の発動を感じ取り、事態の逆転は始まった。
でも、今の彼女との関係は、舌禍が導いたものとは到底思えない。
彼女が私の考え方を変え、過ちをも受け入れ、お互いを知りたいと思い、今に至った。
そこには確かに私の意志があって、彼女の意志も私から見えた。
ならば、それは必然であると思う。たとえ切っ掛けが舌禍であったとしても。
こうして自分が守りたいと思った者と一緒にいられるのならば、その先掛かりとなった呪われた口も、悪いものではないと思えた。
恥ずかしい台詞を言ってのけたドレミーは、顔を赤くすることもなく続ける。
その声には、今までには見せなかった敵対者に対する殺意が籠っていた。
「それと……もしまた貴方が同じような言葉を私の前で口にするのでしたら、稀神サグメによって作られた月と獏との友好な関係は終わりにしますので」
初めて見る獏という妖怪として、敵意ある者を目に捉えた姿。
言葉が本気である事は、ここにいる誰よりも強い殺気から理解できる。
疲弊していた筈の依姫様も、相手の力量を正確に読めていなかったらしく、強敵ともう一戦手合わせしたいとうずうずし始めている。
彼女の強さは今まで知らなかったが、本気を出そうものならば、月とやりあうこともできたのではないかと恐れを抱く。少なくとも私よりは幾分上であり、私の所有権を主張するに足る力を持っている。
目が点になったまま動けないでいた私の手を引っ張る者、それは一人しかいない。
「じゃあ、いこっか」
「どこに」
「決めてないけど、なんとかなるでしょ」
その手に連れられるままに。
自分の意思は彼女と重なって。
私も彼女も今を捨てて、未来へと歩き出す。
より良い、二人の未来を夢見て。
エピローグ
今まで生きてきた世界から追放された私達が行ける場所は、全てを受け入れてくれる場所しかなかった。
地上の世界、生命の世界、幻想の世界である。
一体誰の所に挨拶をすればいいのか、知り合いが地上に全くいないと豪語してみせた悲しいドレミーに聞いても仕方がないので、私は唯一手を貸してくれそうな恩師の場所を目指した。
月へ再度攻め入った英雄の元月兎が住む屋敷、永遠亭である。
地理感も無いために、空行く者達に尋ねつつ、迷いながらも何とか目的地に辿り着き、今に至る。
通されたのは畳張りの和室。地上には穢れがあるので、家に入る際に靴を脱ぐ習慣がある。慣れなければならないだろう。
目の前にいるこれまた元上司は、昔と全く変わらぬ姿で私とドレミーを見定めている。
目的はまだ話していないが、私が地上に姿を見せた時点で検討はついているのだろう。
「まさかあのサグメが再び下界に降りてくるとはね。永く生きていても分からない事はあるものだわ」
「申し訳ございません。八意様の天に留まる為のお気遣いを蔑ろにしてしまいました」
「別にあっちの事情は気にしないわ。私だって貴方よりもずいぶんと前に隠匿した身ですもの」
月に住んでいない割に、純狐が策を持って現れた際に、向こうに住んでいる者達よりも的確な妙手を打てるあたり、まだまだ現役バリバリなのか、月が情けないのか、八意様が単純に規格外なのか。
まあ、どれも正解ではあるのだろう。
さて、八意様の目線を感じ取っていたドレミーであるが、八意様の顔を見てからはずっとムスッとした顔を浮かべている。
彼女と八意様が知り合いであるとは思えないし、初めて顔を合わせた程度でいきなり相手を嫌いになる理由がない。
言わずもがなドレミーには内弁慶の気質があり、月の街(凍結)が合わなかったという前例もある。地上アレルギーが早くも発症したのならば、事態は深刻である。
と、思い込んでいたのだが、どうやらドレミーは一歩通行の知識で八意様を知っていたようである。
「あらかじめ言っておきますが、私は貴女が嫌いです」
「あら? 初対面の何か嫌われることでもしたかしら?」
友好的な態度に定評があると、私が勝手に思っていたドレミーであるが、珍しく負の感情を露わにしている。
夢知識で勝手に八意様を悪人に仕立て上げているのならば、誤解を解く必要があるだろう。
いや、八意様は悪人でもあるか……。
「貴女が作った薬、アレを処理しなければならない身にもなってもらいたいものです」
「夢見るクスリのことかしら?」
「ええ。クドい上に苦い、夢とは思えない味」
「そんなに人工夢は獏によくないものなのかしら? この身に生まれてから、一度も夢を食べたことはありませんので」
八意様の趣味で作られた夢を意図的に見る薬、胡蝶夢丸はドレミーに不評であった。
本来、夢というものは記憶を整理する演算の残りカスだ。
無理矢理切り貼りされた断片の連続によって、整合性の無い演劇が作られ、いずれ脳からも捨てられる。
要は目的でなく手段というわけだ。
しかし、薬を呑んで夢を見るのは、手段でなく目的。故に、悪夢でなくても頭にこびりついて残る事もあるだろう。
更にドレミーを不快にさせたのは悪夢を見せる薬である。
「胡蝶夢丸ナイトメア」と呼ばれる夢見薬は、悪夢を自発的に楽しみたいという、頭がおかしい奴の為に開発された薬らしい。
忘れられない娯楽用悪夢、故に処理が大変だ、とドレミーは嘆き節で言う。
「固い煎餅みたいなもの?」
「固い石を歯で無理矢理噛み砕いている感じね」
夢の形をしているだけの異物、というのが、その薬が見せた物の正体なのだろう。
八意様はドレミーの申し立てについて、特に言い訳もせずにただ聞いていた。
そして言い分が一通り終わると一言だけ呟いた。
「今度は獏にも優しいお薬を作りますわ」
流石は八意様、辞める気は更々無いし、反省もどうやらしていないようである。
次はもっと上手くやってみせましょう、そう言っているけれど、ドレミーからすれば再び悪夢を処理する悪夢が待っているわけで。
「夢で遊ぶのは禁止! そもそも、深入りしすぎて夢魂が夢世界に迷い込むようなことがあったら、薬常用者は亡霊になってしまう可能性だってあるし」
「用法、用量を守っていただければ、大事には至らないわ」
「だから、それでも私が苦労するんだって、無駄に」
「丁度良いわ。改良に着手するから、後で色々聞かせて頂戴」
態度ですら引く気を見せない八意様を見て、ドレミーが先に諦める始末。
彼女は夢世界を出て行っても、苦労を背負い込む性には変化は無いようである。
「不完全であれば、それを完全に仕上げるまで暇を潰す余地があるという事。喜ばしいことよ」
「全く……、月の連中は本当に時間の浪費が上手いこと」
文句のつもりで言っているのだろうけれど、八意様はその通りと、受け入れている。
深く溜息を付く彼女は、夢世界のいつもの彼女であった。
さて、話題は地上に降りて来た私達の件へと戻る。
「でも、月がアポロ経絡を掌握してしまうとはね。近々、地上への再侵攻があるかも知れないわ」
月を救う一手を打った者が住まう世界を、月が侵略しようとしている。
神々というのは、恩を仇で返すのが余程上手なようである。
杞憂なのか近未来なのかも判別できない懸念、それを全否定したのは月に所有権を譲り渡した張本人、ドレミーである。
「いや、それは無いと言い切れる」
「何故かしら?」
「そもそも月はアポロ経絡を掌握していない。いや、できないと言ったほうが正しいかもしれない。何故なら―――」
男の貢献によって、新しい別荘を得た月。
この献策を立てた男が、夢世界の開発権利を得るのは至極当然と言えた。
そもそも、月自体が夢世界を欲していたわけではない。今回の侵攻案件を踏まえ、保険を持っておくのは悪くないと思い、男の野望に近い案件を通した。
月の中心はほぼ無関係、故に依姫も要件が完了すると都へと戻り、男の手駒のみがこの場所に残っている。
いわば、この場所は私有地である。別荘開拓という名目はありながらも、必要な時が来ない限りは使われない。色々な思惑を持つものとすれば、月からある程度の距離を置ける場所に、自分の家を構えられるのは都合が良かった。
仕事名義で建設資材を揃えて、穢れ無き都市を作り上げる。支配者を追い出す難所を越えた故に、事の全ては順調に進むと男も考えていたのだろう。
この場所に再び妖精達が現れるまでは。
夢世界に再び溢れ出した生命力。
我を忘れて狂って遊びまくる妖精達に、月の者達は見覚えがあった。
静かの海やこの夢世界に一度現れ、天敵純狐と共に消え去った。純狐の気まぐれな嫌がらせは、一度解決した後はいくらかの充電期間がある。
ならば、何故妖精達はここにいる? 実は彼女と関係が無かったとでも言うのか?
生命が現れた事によって、建設作業は中止せざるを得ない。それどころか、この空間の付加価値すら下がってしまう。
たとえ、妖精達を使い捨ての兎で撃退したとしても、再び妖精達がこの場所に現れるのならば、ここは穢れ多き地上と大して変わりは無い。
資材を持って狂いながら暴れまわる妖精達を見て舌打ちし、背を向ける。
とてもじゃないが、生が断続的に湧き出るこんな場所にはいられない、というのが穢れ無き月の民の一人である男の結論であった。
「まさか、夢から撤退した異界の者と同じような取引を行っていたとはね。私も一本取られたわ」
八意様だけでなく、私もである。
もし教えてくれていれば、私は依姫様に食ってかかることも無かったかもしれないというのに。
依姫様は私に気を使ってくれていたので、結果的には良かったのだけれど。
黙っていたほうが成功率は高くなるのは分かるし、あの時の血の気を垂れ流していた私が納得したかも別の話。
やるせないのは事実なので、恨み節の一つでも口にしてやろうと思ったけれど、舌禍が面倒なのでぐっと堪えた。
「別に譲ってもいいかなとは思っていたけど、少なくとも月側は頼む者の態度じゃなかったから、灸を据えとこうかなぁと」
残念ながら月の者達には、反省という風習を持つ者は多くない。
生まれながらにして特別故、それが元となって考え方が生まれる。
常識も反省も、必要が無いから持ち合わせないのである。
実際に見ているわけではないので何とも言えないところはあるけれど、私達は月の暴走に対して、それなりの抑止を行えたものと判断する。
「月も月の天敵もまあ……懲りないでしょうけど、暫くは静かにしていると思うわ」
八意様一言によって、やっと私の肩の荷が下りた気がした。
なんだかんだで長年続けてきた仕事、自主都合で辞めるにしても綺麗に終わらせたいという思いはあった。
月と私の間ではそれは無理だったけれど、事柄自体は一件落着してそうなのは救いだった。
話が落ち着くタイミングを見計らったかのように、襖が開く。
「お茶が入りました、げっ」
「露骨に嫌そうな顔されているわよ、サグメ」
「いや、これは貴方に向けての顔でしょ?」
今回の月面騒動の解決者である兎は、戦闘時に見せていた鋭く赤い眼光は無く、露骨に引きつった顔を浮かべていた。
私達が姿を現したことで、再び自分に身に災難が降り掛かってくるのではないかと邪推しているのだろう。
弾幕に関してはきっちり鍛えてもらっているようであるが、日常的な態度には月兎と同じように些か問題があるようである。
八意様の弟子なので仕方がないと割り切ろう。
「えーと、お二方は一体どのような要件で永遠亭へ?」
「使用人の割に話し合いに顔を突っ込もうとするなんて、ずいぶんとお偉いようね」
「自分の身を守る為に仕方なく、ですから」
ドレミーの弄りモードが私から逸れてくれたのは歓迎であるが、私に色々と切っ掛けを与えてくれた者が困っているのを見過ごすわけにもいかない。
簡単なのは本当の事を言う、であるが、舌禍上それでは鈴仙に面倒事が流れ始める可能性がある。
口は災いの元、それ以外の表現でしか示す事ができない。
ヘルプの目線を向けていた者ににこやかに笑いかけると、彼女の顔が何故か真っ青になっていく。
壮絶な誤解が生まれた気がしないでもない。
「私はもう緑色の薬は絶対に飲まないですからね! 悪巧みなら他者を巻き込まずに勝手にやっていて下さい!」
余裕とかをポイ捨てしつつ、彼女は逃げるように出て行ってしまった。
お礼の一つでも言いたかったのだけれど、どうやら今日はその日ではないようである。
ドレミーは怪訝な顔を浮かべたまま、彼女の師匠に単純な疑問を投げかけた。
「一体、何を飲ませたわけ?」
「ふふっ、秘密」
お茶は澄んだ緑色をしている。
彼女の置き土産のせいで、口を付けられる気がしなかった。
さて、夢世界にも時経てば平穏は戻りつつあるだろう、というのがドレミーの結論である。
ならば、さっさと元の世界、居場所に戻ればいいという流れになるものであるが、私達は幻想郷の永遠亭に来ている。
八意様もそれが一時避難ではなく、別の意味を持っていると理解してくれていたようだ。
「戻る気がないからここに来た、という認識で宜しいかしら?」
二人共に頷く、それが私達の答えであった。
見たい場所や住みたい場所、特定の欲求があったわけではない。
私達は別々の場所にはいたけれど、その場所に永く留まり過ぎていたのだ。
新しく何かを始めるのならば、新しい場所でするのは悪くない。
「こちらのほうが、退屈をしなくて済みそうですから」
「私は初めて来るけどね。夢のお陰でよく知っているけど」
まだ何も決まっていない、未来は白紙。それでも、筆を持つことができたのは、私にとっては大いなる一歩であり、一緒に絵を描いてくれる彼女が隣にいる。
生が移り行く幻想の世界は、きっと私達を導いてくれる。
「幻想郷は良い所よ。頭変なのは多いけど、それを差し引いても良い所」
先駆者である月の頭脳がこう口にしているのだから、お墨付きというものである。
言葉にはやや不安が残るけれど、私も一つ解答を持っている。
「大丈夫ですよ。月も八意様を筆頭に同じような方で溢れておりましたから」
「手厳しいわね、サグメ」
上品に笑って、八意様は首を縦に振って見せた。私に対しての同意である。
そういう者との付き合いばかりをしてきたのだから、今更になって気負いを持ったりはしない。
「貴方達の思いは理解したし、それを阻むような者は幻想郷にはいないわ。けれど、住む場所くらいは決まっていないと不安よね?」
今日来た大きな目的は二つ、幻想郷に来てお世話になるという報告。そして必要となる住居をどうにかして斡旋してほしいという依頼。
直接言葉にせずとも、八意様は汲み上げてくれている。
出会った時からずっと頼りっぱなしで申し訳ない気持ちはあるのだけれど、それでも嫌な顔はひとつせずに、もう慣れたものよと言いきって見せるのだから、八意様は自他共に認める特別な者なのだろう。
竹林に囲まれていた風景が一瞬途切れる場所、林を分かつようにして流れる小川は、まだ河と呼ぶには幼いものであるが、透き通るほどに澄んでいるので飲み水としては十分。
緑に囲まれた空気は湿っていて少し重いながらも、美味しく感じる。自分が呼吸をしているんだと感じられる。
日の光は河に隣接しているこの場所だけには差し込んでいる。竹林は日中でも暗いので、時間を感じやすい日光は歓迎である。
そんな場所にぽつりと一軒、風景に似合わない大きめの家が存在している。
永遠亭の所有する別荘とのことらしいが、同じ竹林の中にある故に使い道が無かっただとか。
「何でこんな所に家を?」
「私に聞いて分かるとでも?」
突っ込みたくてたまらない場所にある建造物について、この地上に初めて降りるドレミーに聞いたところで、答えは返ってくるわけもなく。
ちなみにであるが、八意様が斡旋としてこの場所を選んだのは苦肉の策でもあったらしい。
八意様曰く、本当ならば里にでも住居を用意できれば良かったのだけれど、流石に謎の妖怪がいきなり人里に住み始めるのは難易度が高かったらしい。人々の猜疑心を煽るのは、妖怪全体としての問題になりかねない。
すぐに用意できる場所としたらここと、里内の臨時診療所であるが、状況によって選択肢は一つになってしまったというわけだ。
「家をプレゼントするという約束はしたけど……、まさか家を第三者から借りる上に同居になるとはね」
ドレミーは現状に素直に驚いているが、私からすればそこまで驚くべきことではなかった。
自分は無力で何をしたとしても、想定内の出来事に収まってきた。けれど、今回は私が動いたことで今を勝ち取れたのだから、それは舌禍でも命運でもない。私とドレミーが掴み取った結果が今であり、絵を描ける白紙の未来なのだ。
「まあ、命運ってものはサグメの能力以上に分からない、ってことで」
世界から忘れられたような場所からの一歩、それでも一歩踏み出せた。
そして、その一歩は若日子様と下照様が守りたいと願ったこの地上で。
時には私の嫌いな面倒事もあると思うけれど、私の新しい夢見がちな親友と一緒に歩いていこう。
サグドレの雰囲気ほんとすき