.
#01
〝珈琲〟って呼ばれているんですよ、地上では。
そう呟いたドレミー・スイートは、カップに乗せたドリッパーに円を描くようにして湯を注ぎ入れた。稀神サグメは翼を揺らしながら、カップを満たしてゆく真っ黒な液体を注意ぶかく見つめていた。
「このフィルターは漂白されていないので」と獏(ばく)は続ける。「木の香りが珈琲に移ってしまうかもしれませんが、それもまた風情があってよろしいでしょう。……お嫌いでしたか」
サグメは首を曖昧に振った。「確認だけど」と訊ねた。「本当に飲んでも大丈夫なのよね? 穢れたり、しない?」
「あくまで精巧な紛い物ですよ。本物を持ってきたわけじゃありません」
「相変わらず便利な能力ね、――っ」
左手で口を塞いだ。ドレミーは眼を細めて、唇の端を歪めてみせた。
「今夜は、饒舌ですね。地上の文物に触れて、気持ちが昂ぶりましたか」
今度はハッキリと、サグメは首を振ってみせた。
最初に口に含んだとき、サグメは苦味のあまり噎(む)せた。ドレミーが清潔なナプキンを手渡してくれた。ふたたびカップに唇をつけ、時間をかけて飲みほした。如何でしたか、と獏が訊ねてきたが、答えは返さなかった。
「珈琲を飲むと寝つきが悪くなるそうですよ」彼女は手に持った夢魂をじっと見つめながら云った。「仕事が減るので、有り難いんですがね。疲れた時は私も頂いています。この味が胸のなかで焦げついて、離れてくれないんですよね」
「恋しくなるの?」
「そんなところです」
サグメは部屋を見渡した。動物の毛皮から作られた絨毯、時を刻み続ける柱時計、仄かな明かりをまとった暖炉。隅には衣装ダンスと本棚があった。本の背表紙に題名はなく、どれもが無地の装丁なので、まるで色とりどりのブロックが詰めこまれているように見えた。
「月の賢者様が……」
ドレミーが呟いた。夢魂が虹色に輝いたかと思うと、スライムのように形状を変えた。それは呼吸をしていた。獏は愛おしげに桃色の物体を手のひらでさすった。顔には微かな笑みが浮かんでいた。
サグメは足を組んで座り直した。「賢者が、どうしたって?」
「――他ならぬ月の賢者様が、地上世界に興味を示していると知ったら、玉兎たちは何て云うでしょうね」
「これも仕事のうちよ」
サグメは淡々と答えて、ドレミーにカップを差し出した。彼女は眉を上下させた。
「珈琲、もう一杯」
夢見がちな妖怪は口を半開きにして、肩をすくめた。
「やれやれ、驚きましたよ」
#02
レイセンが認証を済ませて部屋に入ったとき、月の賢者は窓から夜景を眺めていた。大小さまざまな形をしたビルディングが、整地された月の〝陸〟に横たわっていた。遠くには〝海〟がうかがえた。地球の淡い光が水上に映りこみ、〝海〟は複雑に模様を変える。その光に魅いられたかのように、賢者は動かない。
息を吸って、レイセンは敬礼した。「綿月依姫様より、ご報告を授かって参りました」
サグメは紅い瞳をこちらに向けた。デスクに投影された光ボードを片手で操作した。中空に浮かんでいるモニターに、打ちこまれた文章が忽然と姿を現した。
『貴方は?』
「し、失礼いたしました。レイセンと申します」
サグメは眼を細めた。『そんな名前だったかしら』
「今の名前は、綿月豊姫様に頂戴したもので――」
サグメは合点がいったように頷いた。『それで、今の仕事、餅搗きよりは長続きしそうかしら?』
「はい」レイセンは声が震えないよう努力した。「おかげ様で」
『訓練は順調?』
「……ぼちぼちです」
『そう、好かった』
サグメはデスクに頬杖を突き、手のひらの端っこで唇を隠した。片眉を上下させたので、レイセンは手短に報告を済ませた。
月の賢者は手元の書類に視線を落とした。『それじゃ、まだ戻っていないのね』
「こちらからの通信にも応答がありません。復帰は絶望的かと」
『それで、貴方はどう思う?』
おいでなすった、とレイセンは唇を湿らせた。
「彼女たちは、……運が悪かったんだと思います。地上の人間に負けて、穢れてしまいました。私はたまたま八意様にお逢いできたので、難を逃れることができました。本当に馬鹿なことをしてしまったと――」
『貴方の釈明は訊いていない』
「も、申し訳ありませんっ」
サグメは疲れたような笑みを浮かべた。
『イーグル・ラヴィも再編ね。鈴瑚は優秀な玉兎だったのに』
「ええ……」
『あるいは、優秀すぎたのか』
レイセンは黙っていた。天探女は片翼をひと払いすると、頭上に両腕を掲げ、鶴のように美しく伸びをした。それから口に手を当てて欠伸を漏らし、銀髪を揺らして意味ありげな視線を送ってきた。
『報告、ご苦労様。貴方にちょっと興味が湧いてきたわ』
「え」
『またいらっしゃい。綿月たちには私から断っておくから』
「えっ」
『地上でのお話、いろいろ聴かせてね』
「えっ、――えっ!?」
執務室を辞してエレヴェーターで地表に降り、通信制限が解除されると、仲間の玉兎たちが一斉に頭へなだれこんできた。レイセンは耳を押さえつけ、怒鳴るようにして応答した。五体満足であることが判明すると、彼女たちは好き勝手に議論を始めた。
『サグメ様が地球に関心を示すなんて』綿月邸に勤める同僚は云う。『この前の騒ぎで、何かあったのかな』
「私にだって分からないわよ」
『何だかんだで、最終的にアレを解決したのは人間なんでしょ?』薬搗き担当の〝元〟同僚が後を継いだ。『賢者様にもできなかったことをやってくれたんだもん。そりゃ興味を惹かれもするんじゃないかな』
「本人の前で云ってごらんなさい、それ」
『やなこった。皮を剥がされて追放されちゃう』
『清蘭のことは、何か分かった?』イーグル・ラヴィの帰還兵が割りこんだ。『私も残ってあげられたら好かったんだけど』
誰も答えられなかった。そこで興奮も冷めてしまい、仲間たちは三々五々に散って各々の任務へ戻った。レイセンは重い足取りで街路を通り抜けた。乗合船でクレーターに架けられた大橋を渡り、郊外の綿月邸に帰り着いた。迎えてくれた豊姫に頭をなでられても、レイセンは上の空だった。
#03
ヴォルテールに、サルトル。ディケンズに、トルストイ。さらには聖書から仏教の経典まで。サグメは夢を視ているあいだ、ドレミーが用意した〝書斎〟で地上の書物を読みふけった。安楽椅子に腰かけて、カベルネ・ソーヴィニヨンの赤ワインのグラスを口に運びながら。湖畔に建てられた屋敷は、今にも自然に同化してしまいそうなくらいに古ぼけている。背の高い窓を開け放てば、新緑の風といっしょに湖の香りが室内へ舞いこんでくる。天候は晴れ続きで、風のそよぎが絶えず水面を揺らしていた。
「お独りで過ごされるなら、これ以上は望めない環境ですよ」
ドレミーはそう請け合った。
本の内容が佳境に差し掛かると、サグメは姿勢を前のめりにし、翼を左右に揺らめかせて没頭した。次に顔を上げた時には、すでに陽は傾いていた。書斎のドアが独りでに開き、ドレミーがトレイを両手に持って入ってきた。いつも被っているナイト・キャップは外しており、深い海を思わせる群青色の髪が背中に垂れ下がっていた。
「まだ読んでいたんですか」
サグメは黙っていた。
「ホット・ミルクとビスケットです。お気に召して頂ければ好いのですが」
差し出されたミルクを、サグメは何のためらいもなく頂戴した。ビスケットも同様だ。その甘みや温かさは、集中力の切れかけた頭をほど好く癒してくれた。
獏は呆れたように唇を曲げた。「牛乳は、地上の生物の、体内に溜まっている分泌液を絞り出したものですよ。ビスケットの原料は小麦です。要するに植物ですね。牛のふんとかを堆肥として撒いているわけです。それに――」
ドレミーはなおも話し続けようとしたが、うなずきながらビスケットを味わっているサグメを見て、首を振った。
「……最初の貴方が嘘みたいだ」
「ごちそうさま」サグメはカップを置いた。「地上のお菓子も、なかなかイケるわね」
「そもそもっ!」ドレミーが喚いた。「ティー・タイムのお菓子は三分たらずで平らげるものじゃありませんよ! 私の分も創っておいたのに、それを貴方はお腹を空かせたペリカンみたいに――!」
サグメはハンカチで口元を拭うと、また本の続きを読み始めた。『アンナ・カレーニナ』の最終章に差し掛かっていたのだ。ドレミーは溜め息をついて、トレイを脇へ片づけた。食器やお皿は、部屋の空気に溶けこむようにして姿を消した。
「ところで、没頭されているところ申し訳ありませんが」獏は呼びかけた。「お代の請求に参りました。よろしくご査収ください」
サグメは肩を跳ねさせて、ドレミーが差し出した本の頁を見つめた。そこには丸っこい字で言葉や数式が箇条書きで記されていた。小説に栞(しおり)を挟んで両眼を閉じ、全身の力を抜いた。
「手早く済ませてね、できるだけ」
「今回はいろいろオプションが付いていますからね。少し高くつきますよ」ドレミーが安楽椅子の正面に回りこみながら云った。「特に、夢の時間を引き延ばすのはおすすめしません。前にも云いましたが、長い夢は心を蝕むのです。お忘れなきよう」
獏は前屈みになって、サグメと視線の高さを合わせた。陶器を取り扱うかのように銀色の前髪を慎重によけて、額をあらわにした。ドレミーの唇が触れたとき、サグメの指先に微かに力がこもった。頭の血液が抜かれていくような、酩酊にも似た眩暈(めまい)に襲われた。彼女の手が腰に回されるのを感じた。暖炉の炭がぱちっと鳴った。それを合図としたかのように、サグメの意識が一瞬だけ飛んだ。最初に戻ってきたのは嗅覚だった。ドレミーの髪の匂いだった。
「……貴方の悪夢、私が美味しく頂きました」
ドレミーが唇を離して云った。酔っぱらっているかのように、頬に朱が差していた。
「ま、――私は報酬さえ頂ければ何でも好いんですがね」
「だったら、邪魔しないでもらえるかしら」
吸い出したばかりの夢魂を愛おしげになでると、獏は咳払いして語った。「南柯(なんか)の夢、あるいは邯鄲(かんたん)の夢、目覚めてみれば、大槐安国は蟻の巣に過ぎず。貴方が望んでいるものは、儚い幻想に他なりません。〝これは夢だから〟なんて上澄みばかり啜っていると、いつか取り返しのつかないことになりますよ。……蟻の仲間入りをしたいと仰るのなら、話は別ですがね」
ナイト・キャップを被ると、ドレミーは振り返らずに去っていった。サグメは閉じられたドアの木目をしばらく見つめていたが、気を取り直して本の続きを読み始めた。右手を伸ばしてワインを飲みかけたが、グラスの中身は空だった。
#04
熾の火が爆ぜ、目の前に座っている清蘭が頭をもたげた。浅葱色の髪が、月光と熾火の照り返しを受けて複雑なグラデーションを描いていた。銃剣を装着したライフルが手元に置いてあることを確認してから、彼女はほっと息をついた。
「……寝ちゃってた?」
「まどろんでいただけ」鈴瑚は徳利から杯に酒を注ぎながら答えた。「団子も準備が整っているよ。――さ、食った食った」
清蘭は首を振った。「いらない」
「せっかく奮発して好い酒を用意したのに」
辺りの様子を窺った。地上に棲まう無数の虫が、背後の木立で喚いていた。魚が跳ねて、水音が上がった。湖畔で向かい合って腰かけている二匹の兎を、地上の生命が十重に二十重に取り囲んでいた。
「今の地上は、晩秋だね」鈴瑚は棒切れで熾を突きながら云う。「月を杯に映して一杯、団子といっしょに味わう。それをこっちでは〝風流〟と呼ぶらしい。湖上の月見だなんて贅沢じゃないか。飲まんと酒がもったいない」
「だったら、あんたが勝手に飲んでなさいよ」
「仮にも上司に向かって何だその口は」
「〝元〟上司でしょ。今さら偉ぶるんじゃないわよ」
まだ腐っているのかい、と云いそうになったが、そこはこらえた。清蘭は膝を抱えて頭を寝かせていた。耳に装着されたままの黄金色のタグが痛々しかった。鈴瑚も顔をうつむけて、近場からもぎ取ってきた柿の実を口にした。
「よくもまあ、そんな――」清蘭が熟れた果実を憎々しげに睨んだ。「地上の果物を遠慮なくかじれるもんね。恥を知りなさいよ」
「桃と似たようなもんさ。むしろ桃よりイケるね。これの皮をむいて干しとくと、甘みが増してとんでもなく美味いらしい、また今度、挑戦してみるつもり」
「食い意地ばかり張って。……いざ迎えが来たとき、帰れなくなっても知らないわよ」
半眼で浅葱色のイーグル・ラヴィを見た。
「もう何をしても手遅れだよ。私も、あんたもね」
「私は違うわ。団子と桃、――月の産品しか口にしてないもの」
「身体の方はどうなんだ? その癒えない傷は?」
清蘭の折れ曲がった耳を見ながら、鈴瑚は帽子の庇に手をかけた。
「ジャンケンで負けたんだっけ? 運が悪かったね。本当に希望があるのなら、今ごろあんたは月の宿舎でぐっすり眠ってる」
「…………」
「それに、私らは玉兎だ。月人じゃない。何を喰らおうが自由じゃないか。これ以上、穢れてしまうことはないんだから」
団子を口に詰めこんだ。柿や栗、キノコといった山の幸はむろんのこと、山女魚や鮎といった川魚にも手を出している。どれもが美味だった。秋の空は澄んでいて、実りは豊かだった。朝夕の冷えこみには辟易したが、かつての仲間たちが残してくれた簡易シェルターにこもっていれば、冬をしのぐことも難しくはないだろう。
作戦のため、犠牲となった兎への、せめてもの手向けだ。
ありがたく使わせてもらおうじゃないか。
「……私は、あんたとは違うもん」清蘭が消え入りそうな声で繰り返した。「ぜったい、ぜったいに還ってやるんだから」
「まぁ、飲みなよ」鈴瑚は杯を差し出す。「月にも酒はあったじゃないか。飲まないとやってらんないでしょ」
清蘭は差し出された誘いをじっと見ていた。月の光を溜めこんで、その瞳は潤んでいた。耳は聴こえもしない知らせを捉えようとするかのように、ぴくぴくと動いていた。奪い取るように杯を手にして、ひと息に飲みほした。
「無理するんじゃないよ」
咳きこんだ彼女の背をなでてやりながら、鈴瑚は呟いた。
「夜は永いんだから」
鈴瑚の膝に頭を横たえて、清蘭は眠っていた。微かな寝息を立てながら、火照った頬を夜風に冷ましていた。酒はとうに底をついてしまい、月が杯に映りこむこともなくなった。鈴瑚は溜め息を夜気に溶かした。迷いはあったが、勇気を振り絞って夜空を見上げた。本物の月を観たのだ。
しばらくの間、端っこがわずかに欠けた故郷の姿を見ていた。ここからでも静かの海はおぼろげながら確認できた。海の傍には都が広がっているはずだった。かつて暮らした古里(ふるさと)が。
「そっか」
思わず呟きが漏れていた。
「あんなに綺麗だったのか」
地上人が月に憧れる気持ちが、少しだけ分かった。
清蘭が寝言を云った。聞き取れなかったが、目尻から涙がこぼれ落ちた。その雫を拭うと、鈴瑚はハンチング帽を脱いで地面に置いた。久しぶりに耳を立ててみたが、月からの音信はなかった。ノイズさえもない。清蘭の寝息だけが傍にあった。鈴瑚は何も云わなかった。黙ってそこにある音に耳を澄ませていた。
#05
レイセンが物語る地上の話を、サグメは熱心に聞いてくれた。口元を手で押さえつつ、時おり質問を挟みながら。綿月姉妹が永琳に逢いにいった話をうっかりしてしまった時も、青ざめたレイセンのことは気にかけず、先を知りたがった。毒を喰らわば皿まで、依姫が落とし穴にはまった話をすると、声を立てて笑いもした。
そのような日々が何日か続いてから、サグメがある提案を持ちかけてきた。
「地上に?」
『ええ』
「私と、サグメ様で」
『お忍びでね』
「でも、……よろしいのですか?」
『私は以前にも地上に降りたことがあるのよ。例の厄介事が終わらなくて、仕方なく。他のみんなには内緒よ』
唇の前に人差し指を立てたサグメは、眼を細めて笑っていた。レイセンは口も利けなくなった。こんなに表情が豊かな彼女を見るのは初めてだ。まるで地上の妖怪のようだった。
『あの一件以来、地上に興味を持つ玉兎が増えているでしょう?』サグメは文章をタイプした。『イーグル・ラヴィの二人が還って来ないことが、却って彼の地への魅力を惹きたてているのね。地上で過ごした経験のある貴方は、彼女たちの間では大変な人気者になっている』
肩の筋肉に力が入った。この御方は、本当に何でもご存知なのだ。
サグメはしばらく指を留めてから、続きを打ちこんだ。『既に具体的な脱走の計画が練られているかもしれない。だから、釘を刺しておきたいと思ったの。そのためにも、先ずは件の二人と話をする必要がある。彼女たちの報告と、私の言葉があれば、禍いの芽を摘み取ることができるはず』
レイセンは腰を浮かせた。「――じゃあ、清蘭たちを月に戻せるのですね?」
『それは、まだ確定していない。だからこそ内密にしておきたいの。分かるでしょう?』
レイセンは大きく頷いた。サグメも小さく首を上下させた。重大な話をしている割に、彼女の表情は柔らかだった。何処となく観光気分のような軽さも伝わってきた。それだけ希望があるのだろう、と思い直し、レイセンはさっそく準備のために執務室を後にした。
#06
「――地上に?」
ドレミーはレイセンと同じ言葉を繰り返し、同じように眼を丸くした。「生身で?」と付け加えた。書斎の窓には雨が打ち付けている。「雨という天気がどんなものか知りたい」と、サグメが注文をつけたからだ。サグメは片手で文庫本を持ち、もう一方の手でホット・チョコレートが注がれたカップを手に持っていた。二人の間にはチェス盤が置かれ、盤面に午睡の気だるさが横たわっていた。
ドレミーはナイトを動かしてから、サグメを真っ直ぐに見つめた。
「とうとう、彼らの仲間入りをする準備ができたわけですね」
「違うちがう、そうじゃない。月の民として、見過ごせない事態が起こっているのよ」
事情を説明すると、ドレミーは鞭のように尻尾を振るった。
「何度も忠告したはずです」腕を組んで云った。「貴方の言霊は強すぎる。ですが万能ではないと。地上に堕ちた玉兎が原隊に復帰するなんて話は聞いたことがありません。不用意に喋ってごらんなさい、彼女たちにもっと不幸な結末が訪れるかもしれませんよ」サグメが駒を進めても、彼女は見向きもしなかった。「昔からそうでしたが、貴方には高慢なところがあります。普段は上手く隠してらっしゃいますが、ふとした時にそれが顔を出します。異変の時は〝月の都が救われさえすれば、地上はどうなっても好い〟といった風情だったくせに、今になって興味を示し出す。かと思えば、今度は同じく彼の地に惹かれる玉兎たちに釘を刺そうとしている――」
喋りながら立ち上がっていたドレミーは、ふと我に返ったように顔を伏せ、ソファに座り直した。尻尾はくたびれたように肘掛けに横たわっていた。ホット・チョコレートを舌で転がしてから、サグメはカップを置いた。
「……今日に限ってどうしたの。えらく突っかかってくるわね」
「突っかかってなんかいません」
「まだ、根に持っているの?」
「何をですか」
「偽の、月の都のこと」ひと呼吸を入れてから続ける。「確かに大がかりではあったけど、それに見合う対価は支払ったでしょう?」
ドレミーが恨めし気な視線を寄越してきた。
「……さんざん無茶振りされて、冷や冷やさせられて、用が済んだら〝ご苦労様〟で、はいお終い。時を置かずに今度は地上体験ツアーときた。――私は、貴方から感謝の言葉ひとつ頂いていない。そういうところが高慢だって云ってるんです」
手を止めて、無言で獏を見つめた。先に視線をそらしたのは彼女だった。
「ドレミー……、貴方」サグメは眉を持ち上げた。「〝報酬さえ貰えればそれで好い〟って、この前に云ったばかりじゃない」
「云いましたよ。云いましたけど――」彼女は繰り返した。「今回ばかりは、その、少しは労って欲しいなと思っただけです。これでも頑張ったんですよ。半年間も。貴方に負けない程度には」
ドレミーは顔をそらし続けていた。頬が赤みを帯びていた。憂いを宿した瞳に差しかかる、長い睫毛(まつげ)に視線を奪われた。いつも飄々とした笑みを浮かべている少女が、このように感情を表に出したところを見るのは、覚えている限りで初めてだった。
「ドレミー……」
サグメは言葉を探したが、生来の寡黙が災いした。柱時計が鳴った。時間は流れ続けた。誰もが挨拶のようにかけ合う感謝の言葉に、サグメは触れる機会を持たなかった。誰もが自分の前では言葉に慎重になった。目の前の少女以外は。
彼女だけは。
どんな言葉でも、好き嫌いせずに食べてくれたのだ。この場所で。夢のなかで。ずっと、ずっと。
好きなだけ語らえるように。
――サグメの、好きなだけ。
「今のは、……忘れてください」ドレミーは立ち上がって云った。「通路はご自由に使って頂いてけっこうです」
チェス盤を片づけると、足早に部屋を出て行った。ドアを閉める際に、呟くように言葉を結んだ。
「話すまでもありませんが、夢と現実は別物です。どうか、お気をつけて」
#07
蟻の巣のように入り組んだ槐安通路を抜けて、レイセンとサグメは地上に降り立った。天探女は地上の空気を吸いこむと、周りを取り囲む木々に渋い顔をした。
「大丈夫ですよ、すぐ近くです」レイセンは励ますように云った。「幻想郷でいちばん高い山にある、大きな湖。そこに前線基地の跡地があります。座標通りです」
レイセンは水音を目指して歩き始めた。違和感を覚えて振り返ると、木立の入り口でサグメが佇んでいた。彼女の前には、腰の丈ほどの高さがある群生した雑草。口元に手を当てて、ためらっている様子だった。
「サグメ様、行きましょう」
「…………」
まばらに差しこんだ月明かり。虫の合唱や草の匂い。粘ついた空気の感触。都で暮らしてきた賢者は、地上の夜を知らないようだ。レイセンはヘルメットを被り直し、ライフル銃の装填を確かめてから道を戻った。彼女の手を引いて、獣道をかき分けるようにして進んだ。サグメの手は冷たかった。地上で生きている者には持ちえない、氷のような体温だった。
林を抜けて、湖畔に出た。対岸に明かりらしきものが見えた。
「あれです」
空を飛ぶことを思い出したレイセンは土を蹴ろうとして、手首を強く引っ張られた。サグメの翼は委縮しており、地上の湖を前にして、脚は後ずさりを始めていた。手からは微かな震えが伝わってきた。
「どうされたのですか、サグメ様。〝地上には前にも訪れたことがある〟と、仰っていたではないですか」
サグメは唇に指を当てたまま首を振った。何かを伝えようとしていた。見た目通りの少女のように、その姿は弱々しく見えた。お忍びで、と悪戯っぽく笑ったあの快活さは、何処に行ってしまったのだろう。
「もしかして……」レイセンは思いついたことを口にした。「〝生身〟では、初めてなのですか?」
天探女は何度か頷いた。
「今から戻るわけには――」
レイセンは意を決して、サグメの背中と膝裏に手を回した。その場を飛び立って、湖上を突っ切った。彼女が頼りない力で制服を握ってくる。紅い瞳は閉じられていて、眉間に皺が寄っている。対岸に辿り着いて降ろしてやると、足元が覚束ないのか、二、三歩進んだところで寄りかかってきた。
「サグメ様、しっかり」
焚き火の前で胡坐をかいていた兎が立ち上がる。「探女様、それに……」
「レイセンよ。綿月邸の」
「そっか。あんたが」
「ええ」
「始末しにきたの?」
「え?」
「私たちを」
「違うわ。その逆よ。助けに来たの」
鈴瑚の瞳が揺れた。脱力したようにその場に尻餅をつく。「そっか、本当に消されるのかと思った」
「驚かせて、ごめん」
「……私は、もう駄目だよ。戻れない。見れば分かるでしょ」
レイセンは改めて鈴瑚を観察した。服は汚れが目立ち、指先は酷使のために傷ついていた。隣のサグメが息を呑む音が伝わってきた。湖から釣り上げたらしき魚の残骸が、一箇所に固めて置かれていた。地上の果物の芯も転がっていた。
鈴瑚は視線を合わせずに云った。「私のことは好いんだ。清蘭を見てやって。今、あっちで眠っているから」立ち上がって、背後の木立に足を向ける。「たぶん、あの子も難しいと思うけど……」
本来は銀色の塗装が施されたシェルターは、追従迷彩が機能して、木立に溶けこむように色を変えていた。鈴瑚に続いて、レイセンとサグメも入り口である膜を通り抜けた。調整された空気は澄んでいて、混じり気がない。清蘭はシェルターの一室でぐっすりと眠っていた。レイセンは、毛布を抱いて丸くなっている清蘭をじっと見ていた。その場の誰もが無言だった。
シェルターの外に出てから、鈴瑚が呟いた。
「やっぱり、駄目なのかな」
レイセンは首を振った。「そんなことない」
「もう終わってしまったことだもの。私らの運命は決したんだ。そうでしょう、探女様?」
サグメは何も云わなかった。首を振ることもなかった。
「こんなところまで迎えに来るなんて思わなかったよ」鈴瑚は頷いた。「私らは大丈夫だ。今のところは上手くやれている。住めば都って云うしね」
レイセンは彼女の手を取った。「私も何か方法を考えるよ。サグメ様だっている。皆で知恵を絞りましょう」
「繰り返すけど、私のことは好いんだ。どのみち限界だったし。――でも、本当に何か方法があるのなら、清蘭のことは頼んだよ。ジャンケンに負けたせいで居残り組じゃ、あまりに報われないだろ」
それから、鈴瑚はサグメに視線を移した。様々な感情が紅い瞳を通り過ぎた。何度か口を開いては閉じ、そのどれもが言葉にならなかった。長い沈黙の末に、彼女は云った。
「探女様、……こんな私のためにご足労くださり、感謝いたします」
今まで、ありがとうございました。
鈴瑚はレイセンの肩を叩くと、焚き火に水をかけて消し、シェルターの中へ戻っていった。一度も振り返らなかった。気温が急激に下がったように感じられ、レイセンは身震いした。サグメも震えていた。消えてしまった熾火の焦げた匂いが、鼻孔をつんと突いた。月明かりが差す湖畔で、二人は長い間、その場に立ち尽くしていた。
#08
夢の屋敷は跡形もなく姿を消した。木々はゼリーのように溶け崩れ、空はガラスの破片となって舞い落ち、虹色の水が全てを飲みこんだ。二人が過ごした書斎は、館に溜めこまれた想い出を巻き添えにして、泥土の底に沈んでいった。ドレミー・スイートは然したる感慨を抱くこともなく、砂塵のように吹き荒れ、そして散ってゆく世界の終焉を眺めていた。
地上から戻ってきたサグメは、以前にも増して無口になっていた。夢のなかでも同様だ。ひと言、ふた言の指示を残したほかは、何も語らなかった。ドレミーも訊ねることはしなかった。夢と現実は別物。賢者でさえ誘惑には打ち克てず、見誤ってしまうことはあるのだ。サグメが初めてではない。何百回、何千回と見届けてきた末路だった。
それから数週間は、管理が疎かになっていた区域の補修に回った。綻びをいくつか繕った。手遅れになってしまいかねない危うい箇所も散見された。サグメとの付き合いに、予想以上にのめりこんでしまっていた自分に気がついた。これではいかんな、と活を入れて、仕事に打ちこんだ。
時どき、クラゲのようにふらふらと彷徨っている彼女の姿を見かけた。首を左右に巡らせていた。自分を探しているのだろうか、と思った。声をかけるべきか迷ったが、そんな義理はないと思い直し、無視した。
ある夜のことだった。異変が終わり、今ではすっかり無人となった〝偽の月の都〟で、ドレミーはサグメと顔を合わせた。彼女は独りで街を見回っていた。まるで、今も都の凍結が続いているかのように。
気配を察したサグメが顔を上げ、二人の視線が交わった。逃げる機会を逸したドレミーは、仕方なく隣に降り立った。
「如何なさいました、こんな所で」
サグメは翼をひらひらさせるばかりで答えない。
「どうにも消しづらくて、残しておいたんです。なんせ私にとっては大仕事でしたから」
街路に転がる石のひとつひとつまで再現された月の都を、ドレミーは眺め渡した。答えを促すために、尻尾の先でサグメの足に触れることまでした。それでも彼女は黙っていた。
「……半年間も、独りきりで無人の街を護っていたのです。精神的に参ることもあったでしょう」群青色の前髪を指で梳きながら、ドレミーは云った。「少々、疲れていたのではないですか。それで、あんな現実逃避みたいな真似を? 重責から解放されたんです、肩の力を抜いて、別の世界を体験してみたくなったのだとしたら、無理もないことだと私は思います」
彼女がこちらを振り返った。瞳には縋るような憂いが秘められていた。
「だから、……ええ、そうですね」
これは、口にすべきではないかもしれない。
それでも、ドレミーは語りかけた。
「――貴方は頑張りましたよ、サグメ。この私が保証します」
でも、今回のような無茶はもう、そう云いかけたところで、ドレミーは動けなくなった。抱えていた本が地面に落っこちた。数秒間、そのままの姿勢で凍りついてから、手を上げて、胸元に顔を埋めているサグメの髪をなでた。彼女は姿勢を崩して、地面に膝を突いた。ドレミーも背を曲げた。言葉もなく、嗚咽もなく、翼を震わせながら、少女は啼いていた。
……労って欲しいのは、私の方だったのにな。
嘆息しながらも、ドレミーはサグメの背中をさすりながら、幻の都が少女に魅せた夢について、想いを馳せていた。
#09
鈴瑚が朝食の用意をしていると、籠を背負った清蘭が木立から這い出るようにして姿を現した。籠のなかは熟れた柿のほか、大小様々な木の実で半分くらい埋まっていた。彼女は笑みを浮かべてそれを鈴瑚の前に置き、腰に手を当ててみせた。
「どう、恐れ入った?」
「……必要な分だけ採る方が賢明だよ。天狗に眼をつけられる」
「ちょっとは褒めてくれたって好いじゃない」
山菜を入れたもち米に、ほぐしたイワナの身を混ぜこんで、蒸し上げたものが朝食だ。鈴瑚の料理の腕前は日に日に上達していたが、清蘭は口につけなかった。茶碗の中身をかきこむ鈴瑚を、傍で見ているだけだった。
いつもと違うのは、ずっと笑顔を浮かべていたことだ。
「今日は何だか機嫌が好いじゃない」朝食を終えてから、鈴瑚は訊ねてみた。「どうしたのさ」
「あっ、やっぱり聞きたい? 聞きたいよね?」
この野郎、と思ったが、先を促した。
「昨日の夢にね、サグメ様が出てきたんだよ」
「探女様が?」
「他にも、イーグル・ラヴィの皆がいたっけ。必死になって、私たちを助ける方法を探してた。これってさ、吉兆じゃないかと思って。夢兆とも云うのかな。とにかく、そうであれば好いなって思ったんだよ。――ま、落ちこんでいても仕方ないよね」
清蘭の耳には、黄金色のタグが今も着けられたままだった。陽光を受けて輝いていた。鈴瑚の眼には眩しかった。
「そうだな」湯呑みを啜った。「そうなれば好い」
「あ、信じてないでしょ。やだやだ、すっかり地上の兎になっちゃって。私はあんたとは違うんだからね」
以前の同じ言葉とは、勢いに雲泥の差があった。鈴瑚は自然と微笑んでいた。
「それでこそ、我が部隊の鉄砲玉だよ」
「また馬鹿にしてくれちゃって」
清蘭は舌を出して、その場から飛び去った。何処に行くのかは知れない。彼女にとっての潜入捜査は、まだ終わっていないらしい。視線を移すと、青空に有明の月が浮かんでいた。鈴瑚は熟れた柿を掲げて、月に見立ててみせた。それから首を左右に振り、甘い果実に勢い好くかじりついた。
#10 Epilogue
入室の許可を求めるクリアランス・コールが鳴った。稀神サグメはモニターに映し出されたレイセンの姿を確認すると、羽根ペンやインク壺、書きかけの手紙を引き出しの奥に隠した。入室したレイセンは一礼し、綿月依姫からの報告を口頭で述べた。サグメが発した肉声は、レイセンの耳を通じて全ての兎に伝わっていた。口にしたのはその眼で確かめた事実だけだったが、玉兎たちの間を翔け抜けた地上世界への熱気は下火になりつつあった。
危機は去った、とレイセンは報告を結んだ。
サグメは手元のボードを操作した。『ご苦労様。悪かったわね、電信で済むところを、何度も呼び出してしまって』
「いえ」
『依姫にも伝えて。保安上の処置は必要なくなった。明日からは今まで通り、通常回線を使ってくれて構わないと』
「はい」
『ありがとう』
「は、――はい」
レイセンは敬礼して、部屋を後にしようとした。数歩、足を進めたところで振り返った。
「サグメ様」
玉兎はうつむき加減にこちらを見ていた。
「清蘭と鈴瑚の件では、本当にお世話になりました」
『私は、何もしていない。何もできなかった。あれから、二人の件に進展はあったの?』
「いえ、……それは、特に」
『そう、厳しいわね』
「――サグメ様」
『何?』
「私こそ、お礼を云わせて下さい。都のことです。私たちは何も知らずに日々を過ごしていました。全てを知ったのは、全てが終わった後でした。サグメ様がどれほど苦心して事態の収拾に当たっていたのか。それに思い至ったのは本当にごく最近のことでした。私のような兎では、お礼を申し上げることさえ失礼かもしれませんが、それでも――」
『レイセン』
「はい」
『好いのよ、言葉にしなくても』
「はい」
『充分に伝わったから』
「……はい」
『お礼なら、八意様と、あの地上人たちに伝えるべきね。私は言葉を添えただけ。大したことは何もしていない。いつもそう。誤解されやすいんだけど、私の力は万能じゃない。いつだって崖っぷちの状況で生きてる。最善だと思って講じた策が、翌日には悪手に化けていることもある。自分の言葉にさえ振り回されながら生きている。時には痛い目を見ることだってある』
「…………」
『下がって好いわ。こちらこそ、世話になったわね』
レイセンが再び頭を下げた。顔を上げたとき、その眼に涙が溜まっているのが分かった。彼女は退室した。サグメは動くことなく、レイセンが立っていた床の模様を見つめていた。
今のは、誰のための涙なのだろう。何のための。……言葉にならない気持ちの分だけ、瞳から零れ落ちてしまうものなのだろうか。彼女に、――ドレミーに縋りついた私のように。
執務を終えたサグメは、伸びをしてから立ち上がった。ウィンドウに片手を突いて、月面に横たわる都の、眠ることを知らない色とりどりの明かりや、静かの海、郊外に広がるクレーター群を眺めた。それからデスクの引き出しを開けて書き上げた手紙を取り出すと、隣室のベッドの枕元に置いた。自身も倒れこむようにシーツへ潜り、泥のような眠りに落ちた。
夢の世界に辿り着いたサグメは、左右を見渡した。どうして、という言葉が口をついて出た。
「あら、いらしていたのですか」
ドレミー・スイートが草の絨毯に降り立った。右手には本を、左手には手紙を持っていた。
「お便り、確かに受け取りましたよ」
「ドレミー、これは一体?」
「何となく、惜しくなってしまって。誠に勝手ですが、創り直しました」
古ぼけた屋敷こそ無かったが、そこは彼女と短い季節を過ごした、あの湖畔だった。湖の至るところに無数の白鷺(しらさぎ)がいた。深緑に色づいた森や、青みがかった湖面の色に包まれて、真っ白な翼はひときわ美しく見えた。
「今回は、ちょっとした趣向を用意しましてね」
ドレミーが指を鳴らすと、白鷺はいっせいに飛び立った。青空に、渦を巻くようにして広がっているちぎれ雲の階段。それを翔け上がるようにして、白鷺の群れは昇っていった。羽ばたきの音、葉擦れのさざめき、風の唄声。あらゆる音がサグメの胸に迫った。片翼の羽根、一枚いちまいが共鳴するように開いていった。両手を胸に引き寄せて、サグメは白鷺たちを見守っていた。彼らが青空に溶けゆくまで。
視線を隣に戻すと、ドレミーが手紙から顔を上げていた。
「サグメ、この手紙、その……」彼女は拗ねたように唇を曲げた。「もっと、情感が欲しいと云いますか。あまりに事務的で、素直に喜べないのですが」
「最初に云い出したのは貴方じゃない。〝口にできないのなら、せめてお手紙で〟って」
「私が恥ずかしい想いをした分だけ、貴方も勇気を振り絞るべきでしょう」
「恥ずかしいのはどっちよ。啼いたのなんて、それこそ何年ぶりだか……」
ドレミーは溜め息をついて、手紙を本に挟んだ。「まぁ、あの時のしおらしい貴方の姿を思い返すだけでも、しばらくは食べていけそうです」
「また減らず口を」
「……サグメ」
獏はサグメの銀髪を透き通った指で梳いた。
「夢は、上手に使って下さいね。この前みたいに心配させられるのは、二度と御免ですからね」
サグメは頷いた。「分かってる」
「全ては儚いからこそ美しいのですよ。でも、貴方が疲れてしまった時は、いつでもいらっしゃって結構ですから」
「……ええ」
「私は待っていますからね、サグメ。おやすみなさい」
獏は姿を消そうとした。反射的にその手を握った。ドレミィ、と呼びかけた。
「あ、――ありがとう」
喉がつっかえたが、サグメは云い切った。ドレミーは眼を細めて幸せそうに笑った。そして風にさらわれるようにして消えてしまった。跡形もなく。――それでも、サグメの手のひらにはドレミーの体温が残っていて、それは宙に放り出されることなく胸に留まっていた。彼女が創り出した全ての風景、彼女が運んだ全ての香り、彼女がくれた全ての温もり。それらの多くは夢だったが、サグメのなかではどれもが本物として息づいており、次に彼女と巡り逢う夜まで、大事に取っておかなければならないものなのだ。
(引用元)
Truman Capote:Master Misery, the first story in Capote's Collection;A Tree of Night and Other Stories, Random House, 1949.
川本三郎 訳(邦題『夢を売る女』),短編集『夜の樹』所収,新潮文庫,1994年。
.
Good Night, the World
「誰もこの人を逮捕なんか出来ません」シルヴィアは叫んだ。「道化師を逮捕するなんて出来ないわ!」彼女は、彼らに十ドル紙幣を投げつけたが、警官は見向きもしなかったので、テーブルを叩き始めた。店中の目が彼女に集まった。支配人がもみ手をしながら走ってきた。警官がオライリーに立つようにいった。「わかりましたよ」オライリーはいった。「ただ、もっと大物の泥棒が大手を振っているというのに、私がやったようなつまらない犯罪にわざわざみなさんが出てくるというのは、驚きですがね。たとえば、ここにいる可愛い女の子は」――彼は警官のあいだに割って入ると、シルヴィアのほうを指さした。――「彼女は、最近、大泥棒にやられたんですよ。可哀そうに、そいつに魂を盗まれてしまった」
――トルーマン・カポーティ『夢を売る女』より。
#01
〝珈琲〟って呼ばれているんですよ、地上では。
そう呟いたドレミー・スイートは、カップに乗せたドリッパーに円を描くようにして湯を注ぎ入れた。稀神サグメは翼を揺らしながら、カップを満たしてゆく真っ黒な液体を注意ぶかく見つめていた。
「このフィルターは漂白されていないので」と獏(ばく)は続ける。「木の香りが珈琲に移ってしまうかもしれませんが、それもまた風情があってよろしいでしょう。……お嫌いでしたか」
サグメは首を曖昧に振った。「確認だけど」と訊ねた。「本当に飲んでも大丈夫なのよね? 穢れたり、しない?」
「あくまで精巧な紛い物ですよ。本物を持ってきたわけじゃありません」
「相変わらず便利な能力ね、――っ」
左手で口を塞いだ。ドレミーは眼を細めて、唇の端を歪めてみせた。
「今夜は、饒舌ですね。地上の文物に触れて、気持ちが昂ぶりましたか」
今度はハッキリと、サグメは首を振ってみせた。
最初に口に含んだとき、サグメは苦味のあまり噎(む)せた。ドレミーが清潔なナプキンを手渡してくれた。ふたたびカップに唇をつけ、時間をかけて飲みほした。如何でしたか、と獏が訊ねてきたが、答えは返さなかった。
「珈琲を飲むと寝つきが悪くなるそうですよ」彼女は手に持った夢魂をじっと見つめながら云った。「仕事が減るので、有り難いんですがね。疲れた時は私も頂いています。この味が胸のなかで焦げついて、離れてくれないんですよね」
「恋しくなるの?」
「そんなところです」
サグメは部屋を見渡した。動物の毛皮から作られた絨毯、時を刻み続ける柱時計、仄かな明かりをまとった暖炉。隅には衣装ダンスと本棚があった。本の背表紙に題名はなく、どれもが無地の装丁なので、まるで色とりどりのブロックが詰めこまれているように見えた。
「月の賢者様が……」
ドレミーが呟いた。夢魂が虹色に輝いたかと思うと、スライムのように形状を変えた。それは呼吸をしていた。獏は愛おしげに桃色の物体を手のひらでさすった。顔には微かな笑みが浮かんでいた。
サグメは足を組んで座り直した。「賢者が、どうしたって?」
「――他ならぬ月の賢者様が、地上世界に興味を示していると知ったら、玉兎たちは何て云うでしょうね」
「これも仕事のうちよ」
サグメは淡々と答えて、ドレミーにカップを差し出した。彼女は眉を上下させた。
「珈琲、もう一杯」
夢見がちな妖怪は口を半開きにして、肩をすくめた。
「やれやれ、驚きましたよ」
#02
レイセンが認証を済ませて部屋に入ったとき、月の賢者は窓から夜景を眺めていた。大小さまざまな形をしたビルディングが、整地された月の〝陸〟に横たわっていた。遠くには〝海〟がうかがえた。地球の淡い光が水上に映りこみ、〝海〟は複雑に模様を変える。その光に魅いられたかのように、賢者は動かない。
息を吸って、レイセンは敬礼した。「綿月依姫様より、ご報告を授かって参りました」
サグメは紅い瞳をこちらに向けた。デスクに投影された光ボードを片手で操作した。中空に浮かんでいるモニターに、打ちこまれた文章が忽然と姿を現した。
『貴方は?』
「し、失礼いたしました。レイセンと申します」
サグメは眼を細めた。『そんな名前だったかしら』
「今の名前は、綿月豊姫様に頂戴したもので――」
サグメは合点がいったように頷いた。『それで、今の仕事、餅搗きよりは長続きしそうかしら?』
「はい」レイセンは声が震えないよう努力した。「おかげ様で」
『訓練は順調?』
「……ぼちぼちです」
『そう、好かった』
サグメはデスクに頬杖を突き、手のひらの端っこで唇を隠した。片眉を上下させたので、レイセンは手短に報告を済ませた。
月の賢者は手元の書類に視線を落とした。『それじゃ、まだ戻っていないのね』
「こちらからの通信にも応答がありません。復帰は絶望的かと」
『それで、貴方はどう思う?』
おいでなすった、とレイセンは唇を湿らせた。
「彼女たちは、……運が悪かったんだと思います。地上の人間に負けて、穢れてしまいました。私はたまたま八意様にお逢いできたので、難を逃れることができました。本当に馬鹿なことをしてしまったと――」
『貴方の釈明は訊いていない』
「も、申し訳ありませんっ」
サグメは疲れたような笑みを浮かべた。
『イーグル・ラヴィも再編ね。鈴瑚は優秀な玉兎だったのに』
「ええ……」
『あるいは、優秀すぎたのか』
レイセンは黙っていた。天探女は片翼をひと払いすると、頭上に両腕を掲げ、鶴のように美しく伸びをした。それから口に手を当てて欠伸を漏らし、銀髪を揺らして意味ありげな視線を送ってきた。
『報告、ご苦労様。貴方にちょっと興味が湧いてきたわ』
「え」
『またいらっしゃい。綿月たちには私から断っておくから』
「えっ」
『地上でのお話、いろいろ聴かせてね』
「えっ、――えっ!?」
執務室を辞してエレヴェーターで地表に降り、通信制限が解除されると、仲間の玉兎たちが一斉に頭へなだれこんできた。レイセンは耳を押さえつけ、怒鳴るようにして応答した。五体満足であることが判明すると、彼女たちは好き勝手に議論を始めた。
『サグメ様が地球に関心を示すなんて』綿月邸に勤める同僚は云う。『この前の騒ぎで、何かあったのかな』
「私にだって分からないわよ」
『何だかんだで、最終的にアレを解決したのは人間なんでしょ?』薬搗き担当の〝元〟同僚が後を継いだ。『賢者様にもできなかったことをやってくれたんだもん。そりゃ興味を惹かれもするんじゃないかな』
「本人の前で云ってごらんなさい、それ」
『やなこった。皮を剥がされて追放されちゃう』
『清蘭のことは、何か分かった?』イーグル・ラヴィの帰還兵が割りこんだ。『私も残ってあげられたら好かったんだけど』
誰も答えられなかった。そこで興奮も冷めてしまい、仲間たちは三々五々に散って各々の任務へ戻った。レイセンは重い足取りで街路を通り抜けた。乗合船でクレーターに架けられた大橋を渡り、郊外の綿月邸に帰り着いた。迎えてくれた豊姫に頭をなでられても、レイセンは上の空だった。
#03
ヴォルテールに、サルトル。ディケンズに、トルストイ。さらには聖書から仏教の経典まで。サグメは夢を視ているあいだ、ドレミーが用意した〝書斎〟で地上の書物を読みふけった。安楽椅子に腰かけて、カベルネ・ソーヴィニヨンの赤ワインのグラスを口に運びながら。湖畔に建てられた屋敷は、今にも自然に同化してしまいそうなくらいに古ぼけている。背の高い窓を開け放てば、新緑の風といっしょに湖の香りが室内へ舞いこんでくる。天候は晴れ続きで、風のそよぎが絶えず水面を揺らしていた。
「お独りで過ごされるなら、これ以上は望めない環境ですよ」
ドレミーはそう請け合った。
本の内容が佳境に差し掛かると、サグメは姿勢を前のめりにし、翼を左右に揺らめかせて没頭した。次に顔を上げた時には、すでに陽は傾いていた。書斎のドアが独りでに開き、ドレミーがトレイを両手に持って入ってきた。いつも被っているナイト・キャップは外しており、深い海を思わせる群青色の髪が背中に垂れ下がっていた。
「まだ読んでいたんですか」
サグメは黙っていた。
「ホット・ミルクとビスケットです。お気に召して頂ければ好いのですが」
差し出されたミルクを、サグメは何のためらいもなく頂戴した。ビスケットも同様だ。その甘みや温かさは、集中力の切れかけた頭をほど好く癒してくれた。
獏は呆れたように唇を曲げた。「牛乳は、地上の生物の、体内に溜まっている分泌液を絞り出したものですよ。ビスケットの原料は小麦です。要するに植物ですね。牛のふんとかを堆肥として撒いているわけです。それに――」
ドレミーはなおも話し続けようとしたが、うなずきながらビスケットを味わっているサグメを見て、首を振った。
「……最初の貴方が嘘みたいだ」
「ごちそうさま」サグメはカップを置いた。「地上のお菓子も、なかなかイケるわね」
「そもそもっ!」ドレミーが喚いた。「ティー・タイムのお菓子は三分たらずで平らげるものじゃありませんよ! 私の分も創っておいたのに、それを貴方はお腹を空かせたペリカンみたいに――!」
サグメはハンカチで口元を拭うと、また本の続きを読み始めた。『アンナ・カレーニナ』の最終章に差し掛かっていたのだ。ドレミーは溜め息をついて、トレイを脇へ片づけた。食器やお皿は、部屋の空気に溶けこむようにして姿を消した。
「ところで、没頭されているところ申し訳ありませんが」獏は呼びかけた。「お代の請求に参りました。よろしくご査収ください」
サグメは肩を跳ねさせて、ドレミーが差し出した本の頁を見つめた。そこには丸っこい字で言葉や数式が箇条書きで記されていた。小説に栞(しおり)を挟んで両眼を閉じ、全身の力を抜いた。
「手早く済ませてね、できるだけ」
「今回はいろいろオプションが付いていますからね。少し高くつきますよ」ドレミーが安楽椅子の正面に回りこみながら云った。「特に、夢の時間を引き延ばすのはおすすめしません。前にも云いましたが、長い夢は心を蝕むのです。お忘れなきよう」
獏は前屈みになって、サグメと視線の高さを合わせた。陶器を取り扱うかのように銀色の前髪を慎重によけて、額をあらわにした。ドレミーの唇が触れたとき、サグメの指先に微かに力がこもった。頭の血液が抜かれていくような、酩酊にも似た眩暈(めまい)に襲われた。彼女の手が腰に回されるのを感じた。暖炉の炭がぱちっと鳴った。それを合図としたかのように、サグメの意識が一瞬だけ飛んだ。最初に戻ってきたのは嗅覚だった。ドレミーの髪の匂いだった。
「……貴方の悪夢、私が美味しく頂きました」
ドレミーが唇を離して云った。酔っぱらっているかのように、頬に朱が差していた。
「ま、――私は報酬さえ頂ければ何でも好いんですがね」
「だったら、邪魔しないでもらえるかしら」
吸い出したばかりの夢魂を愛おしげになでると、獏は咳払いして語った。「南柯(なんか)の夢、あるいは邯鄲(かんたん)の夢、目覚めてみれば、大槐安国は蟻の巣に過ぎず。貴方が望んでいるものは、儚い幻想に他なりません。〝これは夢だから〟なんて上澄みばかり啜っていると、いつか取り返しのつかないことになりますよ。……蟻の仲間入りをしたいと仰るのなら、話は別ですがね」
ナイト・キャップを被ると、ドレミーは振り返らずに去っていった。サグメは閉じられたドアの木目をしばらく見つめていたが、気を取り直して本の続きを読み始めた。右手を伸ばしてワインを飲みかけたが、グラスの中身は空だった。
#04
熾の火が爆ぜ、目の前に座っている清蘭が頭をもたげた。浅葱色の髪が、月光と熾火の照り返しを受けて複雑なグラデーションを描いていた。銃剣を装着したライフルが手元に置いてあることを確認してから、彼女はほっと息をついた。
「……寝ちゃってた?」
「まどろんでいただけ」鈴瑚は徳利から杯に酒を注ぎながら答えた。「団子も準備が整っているよ。――さ、食った食った」
清蘭は首を振った。「いらない」
「せっかく奮発して好い酒を用意したのに」
辺りの様子を窺った。地上に棲まう無数の虫が、背後の木立で喚いていた。魚が跳ねて、水音が上がった。湖畔で向かい合って腰かけている二匹の兎を、地上の生命が十重に二十重に取り囲んでいた。
「今の地上は、晩秋だね」鈴瑚は棒切れで熾を突きながら云う。「月を杯に映して一杯、団子といっしょに味わう。それをこっちでは〝風流〟と呼ぶらしい。湖上の月見だなんて贅沢じゃないか。飲まんと酒がもったいない」
「だったら、あんたが勝手に飲んでなさいよ」
「仮にも上司に向かって何だその口は」
「〝元〟上司でしょ。今さら偉ぶるんじゃないわよ」
まだ腐っているのかい、と云いそうになったが、そこはこらえた。清蘭は膝を抱えて頭を寝かせていた。耳に装着されたままの黄金色のタグが痛々しかった。鈴瑚も顔をうつむけて、近場からもぎ取ってきた柿の実を口にした。
「よくもまあ、そんな――」清蘭が熟れた果実を憎々しげに睨んだ。「地上の果物を遠慮なくかじれるもんね。恥を知りなさいよ」
「桃と似たようなもんさ。むしろ桃よりイケるね。これの皮をむいて干しとくと、甘みが増してとんでもなく美味いらしい、また今度、挑戦してみるつもり」
「食い意地ばかり張って。……いざ迎えが来たとき、帰れなくなっても知らないわよ」
半眼で浅葱色のイーグル・ラヴィを見た。
「もう何をしても手遅れだよ。私も、あんたもね」
「私は違うわ。団子と桃、――月の産品しか口にしてないもの」
「身体の方はどうなんだ? その癒えない傷は?」
清蘭の折れ曲がった耳を見ながら、鈴瑚は帽子の庇に手をかけた。
「ジャンケンで負けたんだっけ? 運が悪かったね。本当に希望があるのなら、今ごろあんたは月の宿舎でぐっすり眠ってる」
「…………」
「それに、私らは玉兎だ。月人じゃない。何を喰らおうが自由じゃないか。これ以上、穢れてしまうことはないんだから」
団子を口に詰めこんだ。柿や栗、キノコといった山の幸はむろんのこと、山女魚や鮎といった川魚にも手を出している。どれもが美味だった。秋の空は澄んでいて、実りは豊かだった。朝夕の冷えこみには辟易したが、かつての仲間たちが残してくれた簡易シェルターにこもっていれば、冬をしのぐことも難しくはないだろう。
作戦のため、犠牲となった兎への、せめてもの手向けだ。
ありがたく使わせてもらおうじゃないか。
「……私は、あんたとは違うもん」清蘭が消え入りそうな声で繰り返した。「ぜったい、ぜったいに還ってやるんだから」
「まぁ、飲みなよ」鈴瑚は杯を差し出す。「月にも酒はあったじゃないか。飲まないとやってらんないでしょ」
清蘭は差し出された誘いをじっと見ていた。月の光を溜めこんで、その瞳は潤んでいた。耳は聴こえもしない知らせを捉えようとするかのように、ぴくぴくと動いていた。奪い取るように杯を手にして、ひと息に飲みほした。
「無理するんじゃないよ」
咳きこんだ彼女の背をなでてやりながら、鈴瑚は呟いた。
「夜は永いんだから」
鈴瑚の膝に頭を横たえて、清蘭は眠っていた。微かな寝息を立てながら、火照った頬を夜風に冷ましていた。酒はとうに底をついてしまい、月が杯に映りこむこともなくなった。鈴瑚は溜め息を夜気に溶かした。迷いはあったが、勇気を振り絞って夜空を見上げた。本物の月を観たのだ。
しばらくの間、端っこがわずかに欠けた故郷の姿を見ていた。ここからでも静かの海はおぼろげながら確認できた。海の傍には都が広がっているはずだった。かつて暮らした古里(ふるさと)が。
「そっか」
思わず呟きが漏れていた。
「あんなに綺麗だったのか」
地上人が月に憧れる気持ちが、少しだけ分かった。
清蘭が寝言を云った。聞き取れなかったが、目尻から涙がこぼれ落ちた。その雫を拭うと、鈴瑚はハンチング帽を脱いで地面に置いた。久しぶりに耳を立ててみたが、月からの音信はなかった。ノイズさえもない。清蘭の寝息だけが傍にあった。鈴瑚は何も云わなかった。黙ってそこにある音に耳を澄ませていた。
#05
レイセンが物語る地上の話を、サグメは熱心に聞いてくれた。口元を手で押さえつつ、時おり質問を挟みながら。綿月姉妹が永琳に逢いにいった話をうっかりしてしまった時も、青ざめたレイセンのことは気にかけず、先を知りたがった。毒を喰らわば皿まで、依姫が落とし穴にはまった話をすると、声を立てて笑いもした。
そのような日々が何日か続いてから、サグメがある提案を持ちかけてきた。
「地上に?」
『ええ』
「私と、サグメ様で」
『お忍びでね』
「でも、……よろしいのですか?」
『私は以前にも地上に降りたことがあるのよ。例の厄介事が終わらなくて、仕方なく。他のみんなには内緒よ』
唇の前に人差し指を立てたサグメは、眼を細めて笑っていた。レイセンは口も利けなくなった。こんなに表情が豊かな彼女を見るのは初めてだ。まるで地上の妖怪のようだった。
『あの一件以来、地上に興味を持つ玉兎が増えているでしょう?』サグメは文章をタイプした。『イーグル・ラヴィの二人が還って来ないことが、却って彼の地への魅力を惹きたてているのね。地上で過ごした経験のある貴方は、彼女たちの間では大変な人気者になっている』
肩の筋肉に力が入った。この御方は、本当に何でもご存知なのだ。
サグメはしばらく指を留めてから、続きを打ちこんだ。『既に具体的な脱走の計画が練られているかもしれない。だから、釘を刺しておきたいと思ったの。そのためにも、先ずは件の二人と話をする必要がある。彼女たちの報告と、私の言葉があれば、禍いの芽を摘み取ることができるはず』
レイセンは腰を浮かせた。「――じゃあ、清蘭たちを月に戻せるのですね?」
『それは、まだ確定していない。だからこそ内密にしておきたいの。分かるでしょう?』
レイセンは大きく頷いた。サグメも小さく首を上下させた。重大な話をしている割に、彼女の表情は柔らかだった。何処となく観光気分のような軽さも伝わってきた。それだけ希望があるのだろう、と思い直し、レイセンはさっそく準備のために執務室を後にした。
#06
「――地上に?」
ドレミーはレイセンと同じ言葉を繰り返し、同じように眼を丸くした。「生身で?」と付け加えた。書斎の窓には雨が打ち付けている。「雨という天気がどんなものか知りたい」と、サグメが注文をつけたからだ。サグメは片手で文庫本を持ち、もう一方の手でホット・チョコレートが注がれたカップを手に持っていた。二人の間にはチェス盤が置かれ、盤面に午睡の気だるさが横たわっていた。
ドレミーはナイトを動かしてから、サグメを真っ直ぐに見つめた。
「とうとう、彼らの仲間入りをする準備ができたわけですね」
「違うちがう、そうじゃない。月の民として、見過ごせない事態が起こっているのよ」
事情を説明すると、ドレミーは鞭のように尻尾を振るった。
「何度も忠告したはずです」腕を組んで云った。「貴方の言霊は強すぎる。ですが万能ではないと。地上に堕ちた玉兎が原隊に復帰するなんて話は聞いたことがありません。不用意に喋ってごらんなさい、彼女たちにもっと不幸な結末が訪れるかもしれませんよ」サグメが駒を進めても、彼女は見向きもしなかった。「昔からそうでしたが、貴方には高慢なところがあります。普段は上手く隠してらっしゃいますが、ふとした時にそれが顔を出します。異変の時は〝月の都が救われさえすれば、地上はどうなっても好い〟といった風情だったくせに、今になって興味を示し出す。かと思えば、今度は同じく彼の地に惹かれる玉兎たちに釘を刺そうとしている――」
喋りながら立ち上がっていたドレミーは、ふと我に返ったように顔を伏せ、ソファに座り直した。尻尾はくたびれたように肘掛けに横たわっていた。ホット・チョコレートを舌で転がしてから、サグメはカップを置いた。
「……今日に限ってどうしたの。えらく突っかかってくるわね」
「突っかかってなんかいません」
「まだ、根に持っているの?」
「何をですか」
「偽の、月の都のこと」ひと呼吸を入れてから続ける。「確かに大がかりではあったけど、それに見合う対価は支払ったでしょう?」
ドレミーが恨めし気な視線を寄越してきた。
「……さんざん無茶振りされて、冷や冷やさせられて、用が済んだら〝ご苦労様〟で、はいお終い。時を置かずに今度は地上体験ツアーときた。――私は、貴方から感謝の言葉ひとつ頂いていない。そういうところが高慢だって云ってるんです」
手を止めて、無言で獏を見つめた。先に視線をそらしたのは彼女だった。
「ドレミー……、貴方」サグメは眉を持ち上げた。「〝報酬さえ貰えればそれで好い〟って、この前に云ったばかりじゃない」
「云いましたよ。云いましたけど――」彼女は繰り返した。「今回ばかりは、その、少しは労って欲しいなと思っただけです。これでも頑張ったんですよ。半年間も。貴方に負けない程度には」
ドレミーは顔をそらし続けていた。頬が赤みを帯びていた。憂いを宿した瞳に差しかかる、長い睫毛(まつげ)に視線を奪われた。いつも飄々とした笑みを浮かべている少女が、このように感情を表に出したところを見るのは、覚えている限りで初めてだった。
「ドレミー……」
サグメは言葉を探したが、生来の寡黙が災いした。柱時計が鳴った。時間は流れ続けた。誰もが挨拶のようにかけ合う感謝の言葉に、サグメは触れる機会を持たなかった。誰もが自分の前では言葉に慎重になった。目の前の少女以外は。
彼女だけは。
どんな言葉でも、好き嫌いせずに食べてくれたのだ。この場所で。夢のなかで。ずっと、ずっと。
好きなだけ語らえるように。
――サグメの、好きなだけ。
「今のは、……忘れてください」ドレミーは立ち上がって云った。「通路はご自由に使って頂いてけっこうです」
チェス盤を片づけると、足早に部屋を出て行った。ドアを閉める際に、呟くように言葉を結んだ。
「話すまでもありませんが、夢と現実は別物です。どうか、お気をつけて」
#07
蟻の巣のように入り組んだ槐安通路を抜けて、レイセンとサグメは地上に降り立った。天探女は地上の空気を吸いこむと、周りを取り囲む木々に渋い顔をした。
「大丈夫ですよ、すぐ近くです」レイセンは励ますように云った。「幻想郷でいちばん高い山にある、大きな湖。そこに前線基地の跡地があります。座標通りです」
レイセンは水音を目指して歩き始めた。違和感を覚えて振り返ると、木立の入り口でサグメが佇んでいた。彼女の前には、腰の丈ほどの高さがある群生した雑草。口元に手を当てて、ためらっている様子だった。
「サグメ様、行きましょう」
「…………」
まばらに差しこんだ月明かり。虫の合唱や草の匂い。粘ついた空気の感触。都で暮らしてきた賢者は、地上の夜を知らないようだ。レイセンはヘルメットを被り直し、ライフル銃の装填を確かめてから道を戻った。彼女の手を引いて、獣道をかき分けるようにして進んだ。サグメの手は冷たかった。地上で生きている者には持ちえない、氷のような体温だった。
林を抜けて、湖畔に出た。対岸に明かりらしきものが見えた。
「あれです」
空を飛ぶことを思い出したレイセンは土を蹴ろうとして、手首を強く引っ張られた。サグメの翼は委縮しており、地上の湖を前にして、脚は後ずさりを始めていた。手からは微かな震えが伝わってきた。
「どうされたのですか、サグメ様。〝地上には前にも訪れたことがある〟と、仰っていたではないですか」
サグメは唇に指を当てたまま首を振った。何かを伝えようとしていた。見た目通りの少女のように、その姿は弱々しく見えた。お忍びで、と悪戯っぽく笑ったあの快活さは、何処に行ってしまったのだろう。
「もしかして……」レイセンは思いついたことを口にした。「〝生身〟では、初めてなのですか?」
天探女は何度か頷いた。
「今から戻るわけには――」
レイセンは意を決して、サグメの背中と膝裏に手を回した。その場を飛び立って、湖上を突っ切った。彼女が頼りない力で制服を握ってくる。紅い瞳は閉じられていて、眉間に皺が寄っている。対岸に辿り着いて降ろしてやると、足元が覚束ないのか、二、三歩進んだところで寄りかかってきた。
「サグメ様、しっかり」
焚き火の前で胡坐をかいていた兎が立ち上がる。「探女様、それに……」
「レイセンよ。綿月邸の」
「そっか。あんたが」
「ええ」
「始末しにきたの?」
「え?」
「私たちを」
「違うわ。その逆よ。助けに来たの」
鈴瑚の瞳が揺れた。脱力したようにその場に尻餅をつく。「そっか、本当に消されるのかと思った」
「驚かせて、ごめん」
「……私は、もう駄目だよ。戻れない。見れば分かるでしょ」
レイセンは改めて鈴瑚を観察した。服は汚れが目立ち、指先は酷使のために傷ついていた。隣のサグメが息を呑む音が伝わってきた。湖から釣り上げたらしき魚の残骸が、一箇所に固めて置かれていた。地上の果物の芯も転がっていた。
鈴瑚は視線を合わせずに云った。「私のことは好いんだ。清蘭を見てやって。今、あっちで眠っているから」立ち上がって、背後の木立に足を向ける。「たぶん、あの子も難しいと思うけど……」
本来は銀色の塗装が施されたシェルターは、追従迷彩が機能して、木立に溶けこむように色を変えていた。鈴瑚に続いて、レイセンとサグメも入り口である膜を通り抜けた。調整された空気は澄んでいて、混じり気がない。清蘭はシェルターの一室でぐっすりと眠っていた。レイセンは、毛布を抱いて丸くなっている清蘭をじっと見ていた。その場の誰もが無言だった。
シェルターの外に出てから、鈴瑚が呟いた。
「やっぱり、駄目なのかな」
レイセンは首を振った。「そんなことない」
「もう終わってしまったことだもの。私らの運命は決したんだ。そうでしょう、探女様?」
サグメは何も云わなかった。首を振ることもなかった。
「こんなところまで迎えに来るなんて思わなかったよ」鈴瑚は頷いた。「私らは大丈夫だ。今のところは上手くやれている。住めば都って云うしね」
レイセンは彼女の手を取った。「私も何か方法を考えるよ。サグメ様だっている。皆で知恵を絞りましょう」
「繰り返すけど、私のことは好いんだ。どのみち限界だったし。――でも、本当に何か方法があるのなら、清蘭のことは頼んだよ。ジャンケンに負けたせいで居残り組じゃ、あまりに報われないだろ」
それから、鈴瑚はサグメに視線を移した。様々な感情が紅い瞳を通り過ぎた。何度か口を開いては閉じ、そのどれもが言葉にならなかった。長い沈黙の末に、彼女は云った。
「探女様、……こんな私のためにご足労くださり、感謝いたします」
今まで、ありがとうございました。
鈴瑚はレイセンの肩を叩くと、焚き火に水をかけて消し、シェルターの中へ戻っていった。一度も振り返らなかった。気温が急激に下がったように感じられ、レイセンは身震いした。サグメも震えていた。消えてしまった熾火の焦げた匂いが、鼻孔をつんと突いた。月明かりが差す湖畔で、二人は長い間、その場に立ち尽くしていた。
#08
夢の屋敷は跡形もなく姿を消した。木々はゼリーのように溶け崩れ、空はガラスの破片となって舞い落ち、虹色の水が全てを飲みこんだ。二人が過ごした書斎は、館に溜めこまれた想い出を巻き添えにして、泥土の底に沈んでいった。ドレミー・スイートは然したる感慨を抱くこともなく、砂塵のように吹き荒れ、そして散ってゆく世界の終焉を眺めていた。
地上から戻ってきたサグメは、以前にも増して無口になっていた。夢のなかでも同様だ。ひと言、ふた言の指示を残したほかは、何も語らなかった。ドレミーも訊ねることはしなかった。夢と現実は別物。賢者でさえ誘惑には打ち克てず、見誤ってしまうことはあるのだ。サグメが初めてではない。何百回、何千回と見届けてきた末路だった。
それから数週間は、管理が疎かになっていた区域の補修に回った。綻びをいくつか繕った。手遅れになってしまいかねない危うい箇所も散見された。サグメとの付き合いに、予想以上にのめりこんでしまっていた自分に気がついた。これではいかんな、と活を入れて、仕事に打ちこんだ。
時どき、クラゲのようにふらふらと彷徨っている彼女の姿を見かけた。首を左右に巡らせていた。自分を探しているのだろうか、と思った。声をかけるべきか迷ったが、そんな義理はないと思い直し、無視した。
ある夜のことだった。異変が終わり、今ではすっかり無人となった〝偽の月の都〟で、ドレミーはサグメと顔を合わせた。彼女は独りで街を見回っていた。まるで、今も都の凍結が続いているかのように。
気配を察したサグメが顔を上げ、二人の視線が交わった。逃げる機会を逸したドレミーは、仕方なく隣に降り立った。
「如何なさいました、こんな所で」
サグメは翼をひらひらさせるばかりで答えない。
「どうにも消しづらくて、残しておいたんです。なんせ私にとっては大仕事でしたから」
街路に転がる石のひとつひとつまで再現された月の都を、ドレミーは眺め渡した。答えを促すために、尻尾の先でサグメの足に触れることまでした。それでも彼女は黙っていた。
「……半年間も、独りきりで無人の街を護っていたのです。精神的に参ることもあったでしょう」群青色の前髪を指で梳きながら、ドレミーは云った。「少々、疲れていたのではないですか。それで、あんな現実逃避みたいな真似を? 重責から解放されたんです、肩の力を抜いて、別の世界を体験してみたくなったのだとしたら、無理もないことだと私は思います」
彼女がこちらを振り返った。瞳には縋るような憂いが秘められていた。
「だから、……ええ、そうですね」
これは、口にすべきではないかもしれない。
それでも、ドレミーは語りかけた。
「――貴方は頑張りましたよ、サグメ。この私が保証します」
でも、今回のような無茶はもう、そう云いかけたところで、ドレミーは動けなくなった。抱えていた本が地面に落っこちた。数秒間、そのままの姿勢で凍りついてから、手を上げて、胸元に顔を埋めているサグメの髪をなでた。彼女は姿勢を崩して、地面に膝を突いた。ドレミーも背を曲げた。言葉もなく、嗚咽もなく、翼を震わせながら、少女は啼いていた。
……労って欲しいのは、私の方だったのにな。
嘆息しながらも、ドレミーはサグメの背中をさすりながら、幻の都が少女に魅せた夢について、想いを馳せていた。
#09
鈴瑚が朝食の用意をしていると、籠を背負った清蘭が木立から這い出るようにして姿を現した。籠のなかは熟れた柿のほか、大小様々な木の実で半分くらい埋まっていた。彼女は笑みを浮かべてそれを鈴瑚の前に置き、腰に手を当ててみせた。
「どう、恐れ入った?」
「……必要な分だけ採る方が賢明だよ。天狗に眼をつけられる」
「ちょっとは褒めてくれたって好いじゃない」
山菜を入れたもち米に、ほぐしたイワナの身を混ぜこんで、蒸し上げたものが朝食だ。鈴瑚の料理の腕前は日に日に上達していたが、清蘭は口につけなかった。茶碗の中身をかきこむ鈴瑚を、傍で見ているだけだった。
いつもと違うのは、ずっと笑顔を浮かべていたことだ。
「今日は何だか機嫌が好いじゃない」朝食を終えてから、鈴瑚は訊ねてみた。「どうしたのさ」
「あっ、やっぱり聞きたい? 聞きたいよね?」
この野郎、と思ったが、先を促した。
「昨日の夢にね、サグメ様が出てきたんだよ」
「探女様が?」
「他にも、イーグル・ラヴィの皆がいたっけ。必死になって、私たちを助ける方法を探してた。これってさ、吉兆じゃないかと思って。夢兆とも云うのかな。とにかく、そうであれば好いなって思ったんだよ。――ま、落ちこんでいても仕方ないよね」
清蘭の耳には、黄金色のタグが今も着けられたままだった。陽光を受けて輝いていた。鈴瑚の眼には眩しかった。
「そうだな」湯呑みを啜った。「そうなれば好い」
「あ、信じてないでしょ。やだやだ、すっかり地上の兎になっちゃって。私はあんたとは違うんだからね」
以前の同じ言葉とは、勢いに雲泥の差があった。鈴瑚は自然と微笑んでいた。
「それでこそ、我が部隊の鉄砲玉だよ」
「また馬鹿にしてくれちゃって」
清蘭は舌を出して、その場から飛び去った。何処に行くのかは知れない。彼女にとっての潜入捜査は、まだ終わっていないらしい。視線を移すと、青空に有明の月が浮かんでいた。鈴瑚は熟れた柿を掲げて、月に見立ててみせた。それから首を左右に振り、甘い果実に勢い好くかじりついた。
#10 Epilogue
入室の許可を求めるクリアランス・コールが鳴った。稀神サグメはモニターに映し出されたレイセンの姿を確認すると、羽根ペンやインク壺、書きかけの手紙を引き出しの奥に隠した。入室したレイセンは一礼し、綿月依姫からの報告を口頭で述べた。サグメが発した肉声は、レイセンの耳を通じて全ての兎に伝わっていた。口にしたのはその眼で確かめた事実だけだったが、玉兎たちの間を翔け抜けた地上世界への熱気は下火になりつつあった。
危機は去った、とレイセンは報告を結んだ。
サグメは手元のボードを操作した。『ご苦労様。悪かったわね、電信で済むところを、何度も呼び出してしまって』
「いえ」
『依姫にも伝えて。保安上の処置は必要なくなった。明日からは今まで通り、通常回線を使ってくれて構わないと』
「はい」
『ありがとう』
「は、――はい」
レイセンは敬礼して、部屋を後にしようとした。数歩、足を進めたところで振り返った。
「サグメ様」
玉兎はうつむき加減にこちらを見ていた。
「清蘭と鈴瑚の件では、本当にお世話になりました」
『私は、何もしていない。何もできなかった。あれから、二人の件に進展はあったの?』
「いえ、……それは、特に」
『そう、厳しいわね』
「――サグメ様」
『何?』
「私こそ、お礼を云わせて下さい。都のことです。私たちは何も知らずに日々を過ごしていました。全てを知ったのは、全てが終わった後でした。サグメ様がどれほど苦心して事態の収拾に当たっていたのか。それに思い至ったのは本当にごく最近のことでした。私のような兎では、お礼を申し上げることさえ失礼かもしれませんが、それでも――」
『レイセン』
「はい」
『好いのよ、言葉にしなくても』
「はい」
『充分に伝わったから』
「……はい」
『お礼なら、八意様と、あの地上人たちに伝えるべきね。私は言葉を添えただけ。大したことは何もしていない。いつもそう。誤解されやすいんだけど、私の力は万能じゃない。いつだって崖っぷちの状況で生きてる。最善だと思って講じた策が、翌日には悪手に化けていることもある。自分の言葉にさえ振り回されながら生きている。時には痛い目を見ることだってある』
「…………」
『下がって好いわ。こちらこそ、世話になったわね』
レイセンが再び頭を下げた。顔を上げたとき、その眼に涙が溜まっているのが分かった。彼女は退室した。サグメは動くことなく、レイセンが立っていた床の模様を見つめていた。
今のは、誰のための涙なのだろう。何のための。……言葉にならない気持ちの分だけ、瞳から零れ落ちてしまうものなのだろうか。彼女に、――ドレミーに縋りついた私のように。
執務を終えたサグメは、伸びをしてから立ち上がった。ウィンドウに片手を突いて、月面に横たわる都の、眠ることを知らない色とりどりの明かりや、静かの海、郊外に広がるクレーター群を眺めた。それからデスクの引き出しを開けて書き上げた手紙を取り出すと、隣室のベッドの枕元に置いた。自身も倒れこむようにシーツへ潜り、泥のような眠りに落ちた。
夢の世界に辿り着いたサグメは、左右を見渡した。どうして、という言葉が口をついて出た。
「あら、いらしていたのですか」
ドレミー・スイートが草の絨毯に降り立った。右手には本を、左手には手紙を持っていた。
「お便り、確かに受け取りましたよ」
「ドレミー、これは一体?」
「何となく、惜しくなってしまって。誠に勝手ですが、創り直しました」
古ぼけた屋敷こそ無かったが、そこは彼女と短い季節を過ごした、あの湖畔だった。湖の至るところに無数の白鷺(しらさぎ)がいた。深緑に色づいた森や、青みがかった湖面の色に包まれて、真っ白な翼はひときわ美しく見えた。
「今回は、ちょっとした趣向を用意しましてね」
ドレミーが指を鳴らすと、白鷺はいっせいに飛び立った。青空に、渦を巻くようにして広がっているちぎれ雲の階段。それを翔け上がるようにして、白鷺の群れは昇っていった。羽ばたきの音、葉擦れのさざめき、風の唄声。あらゆる音がサグメの胸に迫った。片翼の羽根、一枚いちまいが共鳴するように開いていった。両手を胸に引き寄せて、サグメは白鷺たちを見守っていた。彼らが青空に溶けゆくまで。
視線を隣に戻すと、ドレミーが手紙から顔を上げていた。
「サグメ、この手紙、その……」彼女は拗ねたように唇を曲げた。「もっと、情感が欲しいと云いますか。あまりに事務的で、素直に喜べないのですが」
「最初に云い出したのは貴方じゃない。〝口にできないのなら、せめてお手紙で〟って」
「私が恥ずかしい想いをした分だけ、貴方も勇気を振り絞るべきでしょう」
「恥ずかしいのはどっちよ。啼いたのなんて、それこそ何年ぶりだか……」
ドレミーは溜め息をついて、手紙を本に挟んだ。「まぁ、あの時のしおらしい貴方の姿を思い返すだけでも、しばらくは食べていけそうです」
「また減らず口を」
「……サグメ」
獏はサグメの銀髪を透き通った指で梳いた。
「夢は、上手に使って下さいね。この前みたいに心配させられるのは、二度と御免ですからね」
サグメは頷いた。「分かってる」
「全ては儚いからこそ美しいのですよ。でも、貴方が疲れてしまった時は、いつでもいらっしゃって結構ですから」
「……ええ」
「私は待っていますからね、サグメ。おやすみなさい」
獏は姿を消そうとした。反射的にその手を握った。ドレミィ、と呼びかけた。
「あ、――ありがとう」
喉がつっかえたが、サグメは云い切った。ドレミーは眼を細めて幸せそうに笑った。そして風にさらわれるようにして消えてしまった。跡形もなく。――それでも、サグメの手のひらにはドレミーの体温が残っていて、それは宙に放り出されることなく胸に留まっていた。彼女が創り出した全ての風景、彼女が運んだ全ての香り、彼女がくれた全ての温もり。それらの多くは夢だったが、サグメのなかではどれもが本物として息づいており、次に彼女と巡り逢う夜まで、大事に取っておかなければならないものなのだ。
~ おしまい ~
(引用元)
Truman Capote:Master Misery, the first story in Capote's Collection;A Tree of Night and Other Stories, Random House, 1949.
川本三郎 訳(邦題『夢を売る女』),短編集『夜の樹』所収,新潮文庫,1994年。
.
静かで落ち着いた文章なのに、きちんと感情の揺らぎや熱量を感じられる所がいいなあ
身も蓋もない言い方をしてしまうと、絶妙な距離感のドレサグ最高!ってことになってしまうのですが
まさに夢のように儚くて美しいです
玉兎3匹の心情も上手く描かれていて没頭してしまいました
デキる人だけど性格と能力の釣り合いがとれてなくて、前線に送られちゃった中間管理職のイメージがあります
爛れた感じの共依存関係が良いですね。
飲み込んだ言葉、こぼれた言葉、声で綴ることのちから。
夢は夢のままであるからこそ美しい、けれど、夢から覚めたからといって、夢を忘れる必要はないのだと。
そんな言葉の浮かぶ作品でした、サグメさん不器用可愛いです。
色彩が豊かで文章は静謐。こんな文章僕も書きたい。
そして何と言ってもサグメとドレミーのビジネスライクな関係からのロマンスがギャップも相まって堪らない…
堅物と道化じみた二人に見えてどちらも内面が似ているのは凄く微笑ましくて好みなキャラ像でした。
#07がとてもこのみ
淡々として穏やかな文章なのに、登場人物の表情が伸びやかに表現されていて、思わずため息を吐いてしまう。実に見事です。
ドレミーとサグメの話は雰囲気のいい文章が合いますね。
それといま、コメント確認したら敬称が抜けていたので書き直しました! 失礼しました。
ついでなのでさらにコメントの追加を。私はあなたの作品は最初期から追っていますが(現在のアルファベットの名前になる前から)、この作品を読んだときに、文章が最初の頃と比べてより洗練されているように感じました。これからも素敵な文章によって紡がれる物語を期待しております。
サグメの不器用さと危うさにちょっと不満げながら
満更でもない微妙な関係 いいですね
鈴湖は幻想郷に生まれてた方が幸せだったのかも知れませんね
清蘭は…どうなるんだろう…
夢が描写によく出るので朧げな感じがとても好きです