殺したい。殺させて欲しい。殺したい。殺させて欲しい。殺したい。殺させて欲しい。殺したい。殺させて欲しい。殺したい。殺させて欲しい。殺したい。殺させて欲しい。殺したい。殺させて欲しい。殺したい。殺させて欲しい。殺したい。殺させて欲しい。殺したい。殺させて欲しい。殺したい。殺させて欲しい。殺したい。殺させて欲しい。殺したい。殺させて欲しい。殺したい。殺させて欲しい。殺したい。殺させて欲しい。殺したい。殺させて欲しい。殺したい。殺させて欲しい。殺したい。殺させて欲しい。殺したい。殺させて欲しい。殺したい。殺させて欲しい。殺したい。殺させて欲しい。殺したい。殺させて欲しい。殺したい。殺させて欲しい。殺したい。殺させて欲しい。殺したい。殺させて欲しい。
斬り殺したい。斬り殺させて欲しい。
絞め殺したい。絞め殺させて欲しい。
殴り殺したい。殴り殺させて欲しい。
突き殺したい。突き殺させて欲しい。
撃ち殺したい。撃ち殺させて欲しい。
蹴り殺したい。蹴り殺させて欲しい。
刺し殺したい。刺し殺させて欲しい。
焼き殺したい。焼き殺させて欲しい。
ズタズタになるまで。ボロボロになるまで。コナゴナになるまで。グシャグシャになるまで。バラバラになるまで。ドロドロになるまで。ベトベトになるまで。
お前を殺したい。
お前を殺せるならば、私が消滅しても構わない。
――それが恋なのだと、誰かが言った。
* * *
……ナイフはどこに行ったのだろう? あれがなくては――
* * *
地上は、穢れている。
古い経血のように。
地上は、美しい。
処女の経血のように。
ベタベタと、ジメジメと、不愉快に、鬱陶しく、どこまでも穢れていて
――だからこそ、美しい。
経血のように。
* * *
空には、遠き日に捨て去りし故郷が、青々と、寒々と輝いている。
幻想郷には珍しい熱帯夜の暑ささえ、その光の前には無力なようだ。ちらりと、視界の端にそれを捉えただけで、ぞわっと腕に背中に鳥肌が立つ。
ルナティック・ムーン。かつて、誰かがそう呼んだ。月のような月。狂気的な狂気。言葉の意味としては、最悪だ。ただ、センスは良いと思う。語呂がいいし、なにより、今の私の――鈴仙・優曇華院・イナバの感想を、これ以上ないくらい的確に表している。月に、狂っているという意味を当てはめた遥か彼方の地にある英国とやらの人間は、きっと本質を理解する力を持っていたのだろう。
襲い掛かる寒気に手を擦りながら歩いていると、やっと目的地が見えてきた。
草木も眠る丑三つ時。当然、人里は静まり返り、外を出歩く者などただ1人もいない。――はずにも係わらず、そこには人垣が出来ている。近づくと、熱帯夜の暑さに集まった人間たちの熱気が加わり、先程まで手を擦っていた私ですらシャツの胸元を緩めたくなる程の暑苦しさを感じる。目に映る波長すら暑苦しい。どうやら、集まった人間たちは、一様に興奮し、期待しているらしい。
噂では、この人だかりの向こうにある空き地には、毎晩のように歪な建物が建つそうだ。その瞬間を見逃すまいと、今か今かと待っているのだろう。ちなみに、もともとあった建物は、先週焼失したとのことだ。まったく、火災で死んだ者もいるかもしれないというのに。……いや、近づいて気が付いたが、僅かに肉の焼けた不愉快な臭いが残っている。確かに、ここで誰かが死んだのだ。そして、一週間も経たない間に、その前で人間たちは目をきらめかせて騒ぎ立てている。最低だ。本当に、地上は穢れている。無邪気に騒ぎ立てる人間たちが、全て焼け死んでしまえばいいのに。
と思ったけど、そうすると自分も焼けることになるから、祈るのは止めておこう。よく考えたら、こうして見学に来た私も、同じ穴の狢なのだ。……兎だけれど。
どうにか空き地が見える場所を確保しようと悪戦苦闘していると、不意に人だかりの途絶えた空間があることに気づいた。もしかすると、なにか足場が悪いとか不都合があるのかもしれない。折角なので利用する事にする。人間には辛くても、私兎だし。というか、妖怪だし。
人だかりをかき別けて、空間に近づく。
すると気が付いたが、どうやら先客が1名いるらしい。
明らかに、里の人間ではない。
銀色の髪に、白い肌。同じく眩しい程白いドレスには、ところどころ鮮血のように紅い模様が描かれている。綺麗に塗られたマニキュアも、目の覚めるような紅だ。頭には、なぜか鹿撃ち帽。そして何より、パタパタと楽しげに動く、隠す気のさらさら無さそうな蝙蝠羽。私ですら耳を帽子で隠しているというのに、本当に周りの視線を気にしない妖怪のようだ。周囲では、アイツが原因なんじゃねぇかとかひそひそ話している声まで聞こえる。
ああ、誰か判った。判ってしまった。当然の帰結とはいえ、異常なまでのエンカウント率だ。アレに言わせれば、きっと運命だとかなんとか宣うのだろうけれど、正直不幸なだけだと思う。
よし、決めた。他人のフリをしよう。というか、そもそも昨日珍しく会っただけの他人だし。一から十まで他人なんだし。アレと一緒だとは、思われたくないものねぇ。
ごそごそと、無理矢理人だかりをかき別け直して、遠ざかろうとする。
が、目が合った。
合ってしまった。
手まで振られてしまった。
流石にもう、他人のフリは出来ない。
さようなら。私の平穏な時間。今度人里に来るときは、違う帽子にするからね。
「こんばんわ。レミリア・スカーレットさん」
一応、先に挨拶をしておく。こういうのは先手必勝だと永遠亭で学んだ。というか、先手を取らないとお師匠様が怖い。
「ああ、お前も来たんだね。えーと……鈴仙、優曇華院、イナバ、どれで呼べば良かったんだっけ?」
「鈴仙か優曇華院でお願いしたいですね。イナバは、単に兎っていう意味だから」
「ふーん。猫にネコとか、馬に馬刺しって名前を付ける輩も多いって聞くけど」
馬刺しは、正直ちょっと違うと思う。
「まあ、いいや。鈴仙で。短いし」
「いいわよ。それで」
「お前は、アームチェアディテクティブではない。それは、今回は正解。事件は会議室で起きているんじゃない。現場で起きているんだ。お前は、もうすぐヒントを見つけるだろう。明後日の答えを楽しみにしてるよ。薬屋さん」
しかも、結局名前で呼ばないし。だったら、なんで聞いたのよ。
……とりあえず、怪異を眺めている時間は、とてもとても長く感じた。だって、周囲の視線が痛いんだもん。
* * *
永遠亭に、客は珍しくない。
例え、それが日の昇りすらしない、早朝も早朝だったとしてもだ。
貧弱な人間は、突然病気になったり怪我をしたりするし、貧弱じゃない妖怪も、突然病気になったり怪我をしたりする。要するに、24時間なにかしら、健康を害する者はいるのだ。そう、生きるということは危険と隣り合わせ。例えば、落とし穴に落ちたとか。落ちた際に足を挫いたとか。色々あるのだ。
とりあえず、要するに、永遠亭に客は珍しくないのだ。例え、それが早朝でも。
だとしても、その客は予想外だった。
予想もしていなかったし、予想もしたくなかった。
茶に近い黄金色、要するに狐色の長い髪に、黒を基調に金と朱を豪勢にあしらった中華風の服装。忘れもしない。
正直、会いたくなかったというか、なんで来たのよと思う。普通、殺し合った相手の住処にこんなに堂々とは来ない。来るとしたら、お礼参りの時くらいのものだ。だから、彼女が――純狐が、普通に扉を叩いて玄関前で待っていて、「月のお土産ですよ。お前には懐かしいでしょう」とか言って手土産まで渡された時は流石に硬直した。お土産は懐かしかったけど、解せない。そもそも、なんで月の都のお土産を持ってるんだとも思う。つい最近まで月の女神、嫦娥の命を狙い、月の都と戦争をしていた当事者の癖に。月の都名物「ツクヨミ団子・いちご味」……凄く美味しいのは確かだけれど。
結局、どうしたらいいのか判らなくて、「あ、ええ? はい。ありがとうございます」と、お土産を受け取って固まることしか出来なかった。困ったなー、誰か来てくれないかなーとか、ちらちらと廊下の向こう側に視線を送る。とはいえ、早朝だ。誰かが来ることなどない……はずが、たまたま師匠である八意永琳が通りかかった。
「あら、どうしたのかしら? 初めて見る顔ね」
その声に、救われたような思いになる。お師匠様に、後光が差しているようにすら感じた。
「初めて会いますね。お前がこの子を送り出したという、かつての月の賢者ですか。私の名は純狐。月の民に仇なす仙霊である」
「あら、この子の客かしら。ウドンゲ、ここはお前に任せたわ」
けれど、そう言って、お師匠様は私の背中を押して玄関から追い出すと、扉を閉めた。がしゃっとか、鍵をかけた音まで聞こえた。酷い。後光なんて差してなかった。錯覚だった。幻覚だった。
「……どうしましょうか?」
結局、出来たことと言えば、殺し合った相手に訊ねる事だけで……
「そうですね。幻想郷は初めてですから、観光案内でもしてください」
帰って来たのは、案外常識的な提案だった。少なくとも、お師匠様の対応よりは、だいぶ常識的で人道的だ。
殺し合いを演じた仲であるはずなのに。
* * *
私――鈴仙・優曇華院・イナバと純狐は、並んで歩いている。
共に月の都と幻想郷の存亡をかけて命のやり取りをした者同士が、こうして平和に歩みを進めているのだから、それだけでもある意味不思議な光景だと思う。
しかも、歩む場所は人里だ。
幻想郷で唯一雑多に人間たちが住む、要するに最も穢れた場所。考えられうる限りで、これ程月から縁遠い場所もない。
そんな場所を、月に過ごした2人が、ぶらぶらと歩む。
私は、薬売りとして歩いた知識を生かして、人里の穴場を案内していく。人里は、けっして観光地などではない。けれども、注意して見ていれば、突然現れる見ごたえのある建物や、絶妙な景色が見えるアングル、よく判らない謎の店、腕のいい大道芸人が技を競っている地区、地味ながらも美味しい食事処など、魅力的な場所は沢山あるのだ。その猥雑な魅力は、竹林にも、当然月にも無いものだ。
そして純狐は、その1つ1つに「感心したわ」「地上にこんな景色があったなんて」「どういうこと? 何故こんなものが存在するのです?」「魔法も無しにこのようなことが出来るなんて……驚いたわ!」「美味しいですね。月にはこのような味は無いでしょう」などと、楽しげに感想を返してくれる。
これで、案内する側のテンションが上がらないわけがない。よっしゃあ! 止めだ! とばかりに、自分の秘密のとっておきの甘味処に純狐を案内する。実は竹林の兎たちにも、お師匠様にすら話していない、自分だけの秘密の店だ。
心もち足もウキウキと浮かせながら、「これは秘密なのですけれど、幻想郷で一番おいしい甘味処ですよ」などと宣言しながら、純孤を案内する。純狐も「それは楽しみですね」と、心もち楽しそうについて来てくれる。
大通りから小路に入り、地元民と私くらいしか知らないような路地を抜ければ、そこは素敵な甘味処だ。
* * *
甘味処は、路地を抜けた先に、地元民すら滅多に知らない程ひっそりと商いをしている小さな店だ。店主に拡大志向が無いためか、机すら2つしか置かれていない。当然、客も少ない。店主の腕を考えれば少々と言わず勿体ないが、それはそれ。この店ならば誰か知り合いに出会うこともまずあり得ないという点もお気に入りなので、このままであって欲しいと思っている。
それなのに……
「薬屋。こんなところで出会うとは奇遇ね」
甘味処には先客が居た。それも、顔見知りだ。薄桃色のノースリーブのワンピースの腰を、きゅっと紅い帯のように大きなリボンで縛った、銀髪の小柄な美少女。
「どうやら、人気店のようですね」
そうやって相槌を打つのは、半袖のやや丈の短いメイド服を纏った、これまた銀髪の少女だった。
「咲夜。たまには寄り道もいいでしょう。いい店を見つけた私を称えなさい」
「お嬢様、適当な路地に入って道に迷うことは、寄り道とは言いませんよ」
紅魔館の主にして、自称夜の王、客観的に見ても幻想郷の悪魔の盟主である吸血鬼レミリア・スカーレット。
そして、その従者にして紅魔館のメイド長、十六夜咲夜。
永遠亭の上客で金払いは良いが、付き合うとロクな目に合わないことは間違いない2人組だ。正直、甘味屋を諦めてでもさっさと話しを切り上げたい。幸い、もう1つの机も、地元民の客が使っていて埋まっている。
「純狐さん、ごめんなさい。今日は珍しく満席だったみたいで……」
やんわりと、この場を離れようとする。
だが、そうは問屋が卸さない。問屋は薬売りの敵だ。彼らは原材料費が値上がりしたときは卸売価格を上げるくせに、原材料費が値下がりしたときは据え置きだ。酷く憎々しい。そして、運命の問屋はもっと悪質だ。運命の問屋がもう少し良心的ならば、きっと自分の運命は大きく変わっていた事だろう。少なくとも、月で友を見捨てて地上に逃げる羽目にはならなかったはずだ。こんなにも、罪に穢れることは無かった。もちろん、横に立って微笑む純孤も。……今の私は、それを恨むだけではないけれど。
「薬屋。妙な連れを連れてるじゃないか。運命が点であり、同時に球。一次元であると同時に三次元。黒色にして全ての色でもある。ただ1つであるが故に、何よりも大きい。……気が向いたわ。同席しなさい」
咲夜。私の隣に来なさい。そう言って従者を動かして席を開けると、レミリアは私たちに手招きをする。最悪だ。ここまでされて逃げるわけにもいかない。ほんのり甘いはずの甘味が、なんとなく苦く感じそうな予感がした。
* * *
「そんでねー。その時の患者ってのが、タチの悪い霊に憑かれてたって話でねー。お師匠様も霊に効く薬は強いの切らしてたって感じで、永遠亭は大ピンチ。ところがどっこい、そこでこの鈴仙さまの登場ですよ。悪霊に波長を合わせて触れられるようにしたら、アッパーカットで大除霊。さすがの悪霊も、この私の前では土下座で平謝りだったってわけ」
結局、いつの間にやら甘味屋で呑んでいた。なんでそもそも甘味屋でお酒があるのかもわからないが、なんとなく皆普通に注文していたし、案外にこのお酒が美味しい。おそらくは、吟醸酒かそれに近いものなのだけれど、口当たりがあっさりしていて、それでいて絶妙な程度に舌に感じる深みと重さが、ジャストで和菓子に合うのだ。これはもう、和菓子のために作られたと言っても過言ではないお酒だ。気が付けば、目の前には空いた一升瓶が3本も並んでいる。あまりにも口当たりがよかったのと、重い空気から逃げる為の行為もあって、いつの間にか増えた。そして最終的には調子に乗って、ガンガン開けた。流石に3本は呑み過ぎだ。何かとんでもないことを言ってしまうかもしれない。危険だ。これで最後にしよう。4本目がラストだ。
「悪霊ねぇ……咲夜。そういえばちょうど、怪異が人里で起こってるんだっけ?」
こちらはレミリアが、なぜか従者に器を持たせて呑んでいる。お酒を口元に持っていてもらって、飲み終わったら、今度は笹の露餅を口に。正直、見ていて鬱陶しい。
「ええ、お嬢様。先程隣の机に居合わせた客も、その話で盛り上がっていましたね。何でも、夜な夜な燃えたはずの建物が組み上がっていっては、朝には崩れるのだとか」
咲夜が、レミリアの口を懐紙で拭いてやりながら答える。
過保護だ。やり過ぎだ。純狐は苛立たないのだろうかと横を見れば、純狐は微笑ましそうに、もう失った遠いものを見るような眼で微笑んでいる。そう言えば、彼女は遠い昔に息子を失ったのだ。もしかしたら、亡くした息子のことを思い出しているのかもしれない。……だとしたら、純狐も相当過保護だったのだろう。この場に、常識人は自分しかいないらしい。
「というわけで、薬屋。1つゲームをしない? 人里の怪異の全容を明かして、解決したら勝ち。勝ったら、この店で好きなだけ奢ってもらう。3日後の夜に再集合でどう?」
常識が無い吸血鬼が、常識に欠ける提案をしてきた。なんで、そんなことに首を突っ込まなくちゃいけないのやら。
「薬屋。お前は、永琳が匙を投げた悪霊憑きを治療したんだろう? 鮮やかな解決に期待しているよ」
「え、いや。それは、まあ……」
否定できない。とんでもないことを言ってしまうかもしれないと、ほんのちょっと前に思った。嘘だった。もうとっくに言っていたらしい。今更、調子に乗って脚色しましたとも言えない。
「穢土(えど)に落ちた月の兎(せんし)。私の月の都侵略計画を跳ね除けた、月の都と幻想郷の切り札。活躍が楽しみですね」
その上、純狐がにこやかに退路を断った。
もはや、どうしようもない。八方塞がりだ。いわゆる四面楚歌。私の精神的月の都の周りからは、地獄の妖精たちの大合唱が聴こえてくる。
「……なんで、3日後なのよ」
せめて奇跡よあれと、精一杯の抵抗を口にする。
「主に訊ねて1日。御子に訊ねて1日。精霊に訊ねて1日。十分だろう?」
「悪魔なのに、神を語るの?」
「聖書を読まない悪魔に、ロクな悪魔はいないんだよ。力ある悪魔は、聖書の言葉で語りかけるものさ。ねぇ? 咲夜」
「お嬢様の聖書は、サイドテーブルの引き出しから出されている姿を見たことがありませんが」
「この前使ったよ。咲夜がソーサーを忘れた時。カップの置き場にちょうど良かったわ」
けれど、抵抗など関係なく、話は纏まってしまった。
純狐が興味を示した事だけが、不思議だった。
* * *
『ガランガランガラン。ガランガランガラン。
昨日もここで建物が建ったんだ。
歪な歪な建物が、積み木のように建ったんだ。
さあさあ、そこのご婦人方にお子様方。どうかお話聞いてくだせぇ。
こちらに起こりし不思議な話。
不思議な夜も、ご婦人方にはお肌の敵。良い子はおねむの時間です。
だから、あっしが語って差し上げましょう。
ガランガランガラン。ガランガランガラン。
昨日もここで建物が建ったんだ。
歪な歪な建物が、積み木のように建ったんだ。
柱に窓。壁に屋根。全部ごちゃごちゃガンガンガン。
いっしょくたにゴウンゴウンゴウン。
そいつは勝手に建ってゆく。
そこにはだぁれも、いやしねぇ。
空き地の周りは人だかり。
みんな仕掛けを探せと目はお皿。
けれど、なぁんにもみつからねぇ。
そのうち朝日が昇って崩れちまう。
近づきすぎた馬鹿者は、欠片に当たって大騒ぎ。
痛てぇのなんのと大泣きだ。
ガランガランガラン。ガランガランガラン。
昨日もここで建物が建ったんだ。
歪な歪な建物が、積み木のように建ったんだ』
――大道芸人の歌い文句
* * *
私、そして純狐、レミリア、咲夜の4人は、甘味屋の席についている。
もう、とうの昔に陽は落ちて、席を照らすのは窓から入る半月の光と、暖色ながらも寒々しい裸電球1つの明かりだけだ。
店にまともな照明が付いていないのは、店があまり儲かっていないのか、そもそも陽が落ちてからの営業を想定していないのか。おそらく、両方とも正解なのだろう。レミリアは、幾許かの金を積んで、無理矢理夕方から店を貸し切りにしたらしい。店主も、今は2階の住居に戻っている。たまに注文を聞きに降りてくれば、店にいなくても良い。そういう話で通しているらしい。そこまでするのなら、別の店で集まれば良かったのに。金持ちの考えることはよく判らない。そう、心から思う。ちなみに、レミリア本人にそれを問いただしたところ、「私は、縁を大切にするんだよ」との答えだった。ますます判らない。意味が、ではない。思考回路が、だ。正直、ちょっと狂っていると思う。月の民ほどでは無いにしても。
……こんな狂っている場所に、ずっと居るのも不毛だ。さっさと終わらしてしまおう。
「謎は全て解けました」
開幕一番に、立ち上がって宣言を叩きつける。
ほう。とか、へぇ。とかそんな感じの反応が帰って来た。思ったよりも、しょっぱい。そこは、「な、なんだってー!!」みたいなノリを期待していたのに。まあ、そこはこれからの鈴仙・優曇華院・イナバ様の華麗なる謎解きをお披露目してからでもいいだろう。
「最初に、状況を整理するわ。
この怪異は、丑の刻の頃から日の出までの間、建物が歪に組み建っていくと言うもの。その組み上がり方はゆっくりとしたもので、完成する前に朝を迎えて崩れてしまうわ。そして、もはやそれは、人里で密かに噂になっている。深夜まで起きて見物する者すら珍しくない。これは、現場を直接見たわ。間違いないかしら、レミリアさん」
ちらりと、一昨日の深夜に隣にいた少女に視線を送る。
「間違いないわ」
当然、帰って来たのは肯定の回答だ。
「ちなみにいうと、今のところまでは補足説明することも無いわね。続けて」
煎茶を一口すすって喉を湿らせてから、説明を続ける。
「そして、ここからは私の独自の聞き込みよ。薬売りとして、里人から聞いた話。
あの場所には、もともと建物があったの。でも、先週火災で焼失したのよ。どうやら、昔から建っていたらしいわね。そうとう古い建物だったそうよ。話を聞いた地上人たちが生まれる前から、ずっとあったらしいわ」
さて、と咳払いを1つ。机に片手を付けて身を乗り出す。
「ここまで判れば、答えなんて出たも同然でしょ。もう、言う必要もないくらい。簡単な謎だったわね」
奢りよろしく。と言って、ひょいっと席に座り直す。本当に単純な話だったのだ。
「どういうこと? なぜお前は最後の説明を省くのです?」
なのに、純狐がなぜか質問を返してくる。察しが悪いわね。と、まさか口に出すわけにも行かず、肩をすくめて、解りやすいように解説をしてやる。月の都侵略作戦などを立てた純狐が、ここまで察しが悪いとは予想外だった。
「いい? 建物は、古かったの。それで、燃えてしまった。燃えてしまった建物は、夜な夜な立て直され、朝には崩れ去ってしまう。これが示す答えはただ1つ。
建物は、もう付喪神になっていたのよ。それで、自分の身体が壊れてしまったから、もとに戻そうとしている。けれど、戻り切る前に朝を迎えるから、崩れてしまって、また最初からやり直し。大工か何かを呼んで、建て直せば話は終わりよ」
純狐が、レミリアが、私の名推理に何も言えなくなったのか、貝のように口を閉じている。完璧すぎて、口を挟む場所すらなかったらしい。
「というわけで、ここの奢りは私のものね。お疲れ様でした。店員を呼ぶわね」
手を口元に持って行って、店員を呼ぼうとする。
だが、
「店員を呼ぶには早いんじゃないかしら?」
それを咎める声があった。咲夜の声だった。
「そこの兎の言うことは、一見すると正しいように見えます」
咲夜が、歌うように語る。
「ですが、致命的な点が抜けていますわ。はたして、そんな単純な怪異なのかしら?」
咲夜が、皆の視線を集める。
「1つだけ、質問させていただきましょう。その建物が建ってから、どれだけ時間が経っているかは調べましたか?」
問いには、誰1人として答えない。答えられないのだ。直接訊ねられている、私すらも。
「それが答えです。建物は、まだ建てられてから100年を迎えていません。これが、彼女の推理の唯一にして最大の欠点ですわ」
思わず立ち上がった。椅子に足をぶつけた音がした。咲夜に人差し指を突きつける。
「100年経つ以外にも付喪神が生まれる要因はあるじゃない! それだけで、違うなんて言わせないわ」
「小人の小槌の事ですか? 確かに、小槌の魔力でも付喪神は生まれますわ。けれど、その場合は周囲の他の物まで付喪神になっていないとおかしい。つまり、あなたの推理は穴だらけ。月の表面と同じね」
ぎりっ……と、奥歯から微かに音が聞こえた。
「そうまで言うならば、貴方の推理とやらを聞いてあげようじゃない。どうせ、馬鹿みたいなものなんだろうけど」
舌打ちしたい気分を堪えて、座り直して腕を組んだ。
どうせ間違ってるのだ。最後まで聞いてから、崩してあげればいい。
咲夜が、人差し指を立てて説明を始める。
「そこの兎の状況整理の中で、触れられなくてはならなかったにも係わらず、触れられない事実がありました。お嬢様にはお判りですね」
「2つかしら。けど、それは咲夜の口から言わないと意味がないわね」
「正解ですわ。お嬢様。
まず、建物が何の用途に使われていたのか?
2つ目、火災で死者は出たのか?
3つ目、死者はどんな人間だったのか?
の3つです」
咲夜の立てた指が1本増え、2本増え、3本になる。
「うるさいなぁ、咲夜は。私は数字に弱いんだ。細かいとモテないよ」
「私は1人からモテれば十分ですよ」
「捨ててやろうかしら?」
さて、それはともかく……と、咲夜が誤魔化すように咳払いをした。立てていた指を1本に戻す。
「火災で燃え、そして怪異の元となった建物は、遊郭として使われていました。そして、その火災で亡くなった人間は2人。遊女が1人と、客の男が1人です。
そして、ここで重要なのは客の男です。男の職業が何かわかりますか? 鈴仙さん」
すっと目を細めて、咲夜が話を振ってきた。
「別に、何でもいいでしょ。死んだ地上人の職業なんて」
丁寧ながら、どこかしら相手を小馬鹿にした態度だ。所謂、慇懃無礼。無性に苛立つ。答える声に、棘が混じったのが判った。
「いいえ、これが重要なんです。亡くなった男の職業は大工。つまり……」
咲夜が、僅かに間を置いた。誰1人、口を挟むものは居ない。
「亡くなった男の亡霊が、崩れた建物を建て直そうと働いているのです」
これなら、朝になると建物が崩れる理由も説明できますしね。幽霊は、夜にしか動けませんから。そう言って、咲夜は話を閉じた。
……正直、そんな暴論があるかと思う。
流石に、無茶だ。
「異議! 異議ありです!」
とりあえず、席を立って咲夜を指さす。
「貴方の推理は、一見筋が真っ直ぐ通って見えます。けれど、遠くから見ればフラフラ。動機があまりにも弱すぎるわ!」
それは……と、咲夜が口を開きかける。が、先に口を開いたのはレミリアだった。
「異議を認めるわ。薬屋さん。咲夜は、ナイフは鋭く切れる割には鈍いのよ」
「お嬢様……?」
咲夜が、音を立てそうな固い動きで主人を振り返った。
主人に否定されて、動揺しているのだろう。無茶苦茶な推理で、他人に噛みつくからだ。ちょっとばかし、良いざまだと思う。
「咲夜は、いい所までは行っていたわ。でも、そこの兎が言うように、いつもフラフラ。真実のすぐ傍までは行くのに、絶対に核心に辿り着かないのよね。変な事ばかりしているからかしら?」
きゃらきゃらと、レミリアは笑う。
「というわけで、お前の推理の時間だけど?」
そう言って、レミリアは純狐に話を振った。
「私は答えをパスします。
残念ながら、私は "彼女" の思考回路を理解してしまいました。
流石は穢土。ここまで瑕穢(かあい)に満ちているなんて。……こんな感想を抱く私の答えなんて、誰も聞きたくないでしょう?」
「あら、残念。それは聞きたくないねぇ。それじゃあ、答え合わせに行こうか」
レミリアは、咲夜のポケットに手を入れて懐中時計を引っ張り出した。時間もちょうどいいわね。などと頷きながら、店員を呼ぶ。
「ちょっと待って。貴方は推理を語らないわけ?」
思わず、レミリアを呼び止めた。いくらなんでも、傍若無人すぎる。
「薬屋。急かなくてもいいよ。私は現場で話すから」
言ったでしょ。事件は会議室で起きているんじゃない。現場で起きているって。そう言って、店員に金子を握らせて、レミリアと咲夜は店を出てしまった。見れば、純狐も咎めることなく、それについて行く気らしい。こうなってしまっては、腑に落ちなくともついて行くしか出来ない。
……どうでもいいけど、ここは会議室じゃなくて甘味屋だと思う。
* * *
「ねぇ、どいてよ」
レミリアが、人垣をかき別ける。ある人間は舌打ちし、ある人間は邪魔だと怒鳴ろうとする。そして、そのいずれもがレミリアの隠すこともない蝙蝠羽と、人里にはあり得ない銀髪に気づいては、大げさなくらいに道を開ける。幻想郷では、妖怪は人間の上に位置する存在だ。ルールでではない。純粋に、力として。死にたくないならば、ただ頭を下げて言うことを聞くしかない。妖怪退治を生業に出来るような、ごく一部の例外を除いては。
だから、レミリアの前には道が出来る。人間達はぶつかりひしめき合いながら道を作り、遠巻きに、この恐れを知らない妖怪は一体全体どこの妖怪だと囁き合う。視線が集まる。レミリアと、レミリアの後ろについて歩く、咲夜や純狐、そして私に対して。……ああ、他人になりたい。そう、心から思う。でも、とっくに手遅れだ。たぶん、甘味屋でレミリアに出会ってしまった瞬間から。さようなら。私の帽子2号。
やがて辿り着いた場所は、当然のように、件の怪異の現場だ。空き地には、燃え尽きて焼け焦げた木材たちが未だに片づけられることも無く転がっている。きっと、怪異が収まるまでは、誰1人手を付けないのだろう。放っておけば、そのうち業を煮やした地主か誰かが、博麗の巫女にでも依頼をするのかもしれない。最近であれば、守矢の巫女も有力だろうか。人間が妖怪の山に登るのは危険極まりないため、守矢の巫女が布教に人里を訪れた時限定にはなるが。
とにかく、あるいは兎に角、ひたすらに注目を浴びながら焼け跡に辿り着くと、レミリアはためらいもなく場所を封鎖する綱を潜って中に入っていった。空を見上げれば時は丑三つ時。焼け跡では、焼け焦げた木材たちが、1つまた1つと動き、組み合わさり始めている。だが、そんなことはお構いなしに、レミリアは日傘で焼け跡を荒らし始める。ザクザクと焼け跡を掘り返しては、小さな木片をひょいっと投げ飛ばす。時には、人間の足の太さほどもある柱の焼け残りすら。
やがてレミリアは、「うん。あった。あった。意外と見つからないものね。こういうものは、現場に残されてるってセオリーで決まってるんだけどねぇ」などと誰にとはなしに話しながら、やり遂げたといった笑みで何か煤けた黒いものを拾ってきた。暗くて見づらいため、少々波長を合わせると、どうやらそれは金属らしい。焼けてひしゃげた刃物だろうか。なぜか、レミリアはそれをジャグリングしている。くるくると廻るそれは、宙に手にと無軌道に行ったり来たりを繰り返し……そして、腕に弾かれて焼け跡へと戻っていった。もう用済みなのだろうか、と思ったが、どうやら違うらしい。レミリアの顔には、露骨に失敗したと書いてある。しばらく黙った後、レミリアが口を開いた。
「咲夜。薬屋。拾ってきて」
咲夜は従者らしく、「はい。お嬢様」などと言って拾いに行ったが、冗談ではない。誰が、あんな注目を浴びたいものか。これまででも十分すぎるのに……とぐずっていたら、ギロリと睨まれた。正直かなり怖かったので、しぶしぶ従った。大いに人間たちの注目と、木灰を浴びながら、なんとかして焼け焦げた金属を拾い直す。手に持って判ったが、どうやらこれは、焼ける前はナイフだったようだ。
手渡すと、「ありがとう、薬屋。お前は出来た従者だねぇ」と言われた。きっと、出来た従者とは、便利使いできる従者という意味なのだろう。そう言えば、お師匠様や姫様にも、いつも便利使いされている気がする。
「さて、これが今回の怪異の原因よ」
おもむろに、レミリアが受け取ったナイフを指で挟みながら言った。
だが、ナイフは焼け焦げているだけだ。取り立てて、怪しい点も、妖気も感じない。
「ナイフはね、刺せないと意味が無い。咲夜のナイフは、咲夜と違ってよく切れるけれどね、これはダメだろうねぇ。ここまで焼け焦げて歪んでしまったら……」
ほら、折れた。と、レミリアが笑った。折角拾ってきたナイフは、レミリアの指の間で2つに別れてしまっている。なんてことをするのよ。と、文句の1つも言いたくなるが、また睨まれるのが怖いので言わない。代わりに、質問です。と、手を上げた。ナイフが使い物にならないことと怪異の間に、どんな関係があるのですか? と。
答えたのは、純狐だった。
「お前は、まだ理解していないのですね。殺したいと殺されたい。欲しいと欲しがられたい。愛したいと愛されたい。この2つの感情は近いようで全く違うのですよ」
丁寧なようで、まったく理解の出来ない言葉を重ねる。混乱は、深まるばかりだ。
レミリアが、ため息をついた。
「いいかい、薬屋。この建物は、咲夜の調べた通り遊郭だった。そして、たった2人の男女だけが焼け死んだ。なんでか判るかしら?」
そんなもの、判るわけがない。首を横に振った。
「簡単な話よ。建物が燃える前に、2人は心中していたのさ。男が女を殺したのよ。だから、2人は逃げることが出来なかった。
……ところで、女はそれについてどう思ったと思う?」
レミリアが、ニヤニヤと猫のように笑う。
その笑みにも、やはり首を横に振る事しか出来ない。
「正解は、"冗談じゃない"。
だって、女も、男に対して心中をする気だったんだもの。それはもう心残り。残念無念また来週よ」
意味が解らない。
「そんなの、どっちから殺しても、2人とも心中する気なら同じじゃないですか?」
思わず、チェシャ猫の笑みを浮かべるレミリアに問いかけた。
「不合理で複雑なんだよ。人間は。少なくとも、兎よりははるかに」
レミリアが、くつくつと笑う。
「あら、私は合理的ですわ。お嬢様」
咲夜が、眉をひそめる。
「咲夜は、マンドラゴラで紅茶を淹れたことがあったわね」
「死人の経血から生えるのですから、血に近いと思ったのですよ。合理的に」
レミリアの笑いは、もはやこらえきれないといった感じで、きゃらきゃらとした笑い声まで聞こえてくる。
「それで、お嬢様。心中をしようとして、相手に先に心中をされたということは理解しました。合理的に。それで、これからどうするのですか?」
「当然、こうするんだよ。合理的な咲夜」
レミリアは、手の平を上にして、咲夜の前に持って行った。
咲夜は、手の平に手を重ねた。まるで、犬のお手だ。
レミリアが、一瞬咲夜の手を握ってから、振り払った。
「ナイフをちょうだいって言ったのよ。不合理な咲夜」
「言葉にしてくれませんと、伝わりませんよ。合理的に」
新しいナイフを握って、レミリアが振り返る。
「ああそうそう、薬屋。あんた波長を弄れるんでしょ? 合わせてよ。幽霊が見えるようにさぁ」
なんとなく、これから起こることが予想がついた気がした。けれど、素直に従って、波長を弄る。誰の目にも木材を運ぶ幽霊の姿が瞭然となった。まだ比較的若い、白粉が馴染み切っていない顔立ちの女性だ。その目鼻立ちは、遠目にも生前は美人だったのだろうということがよく判る。その女性の霊が、木材を抱えておろおろと何かを探しては、抱えた木材を積み上げていく。
レミリアが、霊に向かって歩みを進める。けれど、それより先に、純狐が綱を飛び越えた。ただ歩くようにふわりと、綱のすぐ上を滑るように。
「お前は、愛しい者が欲しいのですね。殺したいが故に欲し、欲するが故に殺害を望む。その渇望は、とてもよく解ります。ですが、お前のそのような姿は見たくなかったですね」
霊の横で囁く純狐の手の中には、いつの間にかナイフがあった。代わりに、レミリアの手の中には何もない。虚しく空を握ったり開いたりしながら、舌打ちをしている。
「私の名は純狐。お前の純粋な望みに、形を与えてさしあげます」
優しげに、ただ、ほんのちょっとだけねっとりと、それでいて羨ましげに純狐は囁いて、霊に丁寧にナイフを掴ませた。手の平に乗っけて、小指から順に、薬指、中指、人差し指、親指と折りたたんでやる。
霊は、暫くナイフを胡乱気に眺めていた。そして、おもむろに喜色を浮かべると、それを足元の骨に向かって振り下ろした。1回、2回、3回、4回……何度も。やがて、足元の骨が砕けた。足元の骨が砕けると、霊は満面の笑みを浮かべて、喉元にナイフを構えた。ためらいもなく突き入れる。鮮血が……溢れることも無く、ナイフは霊の首の中に吸い込まれ、そして霊は消えた。ナイフだけが、かつんと地面に落っこちた。
「彼女は、心中するためのナイフを探していたのね……」
口にする気も無かったのに、しみじみとため息が漏れた。要するに、そのくらいの事しか出来なかった。
ただただ地面に落ちたナイフを見つめていると、突然肩に軽く手を置かれた。肩に乗る腕の先を視線で追っていけば、そこには純狐がいた。
「お前は、彼女が幸せだと思いますか?」
意外な質問だった。
純狐がそれを問うことも。その問いの内容も。
死ぬことは穢れで。死ぬことは幸せなんかではなくて。でも、そもそも、彼女は既に死んでいたわけで……
「解んないわ。でも、望みを叶えることは出来たんじゃない?」
暫く、間があった。
「そうですね。私もそう思います」
やがて、純狐がそう呟いた。
* * *
……ナイフはどこに行ったのだろう? あれがなくては、殺せないのに。
……ナイフはどこに行ったのだろう? あれがなくては、殺せないのに。
……ナイフはどこに行ったのだろう? あれがなくては、殺せないのに。
……ナイフはどこに行ったのだろう? あれがなくては、殺せないのに。
必死に焼けた建物の廃材を積み上げて探していたら、いつの間にか私の手の中にナイフがあった。知らない、銀色に光る美しいナイフだ。どうやら、誰かが渡してくれたらしい。
少し先には、愛しいあの人が眠っている。
良かった。やっと愛を伝えることが出来る。
おもいっきりナイフを振り上げて、愛しいあの人に振り下ろした。
何度も、何度も振り下ろした。
やがて、骨の砕ける音がした。
私は、あなたが大好きです。
決して結ばれることが無い間柄だけど、大好きです。
やっと、言えた。
やっと、あの人は私のものになった。
あとは、私を殺すだけだ。
ナイフを自分の首元に当てた。
全力で突き入れた。
もう1度、骨の砕ける音がした。
* * *
嫦娥よ。見ているか?
地上はかくも美しい。
いつか最後の寝物語に語ってやろう。
この、お前が逃げ出した地上の美しさを。
汚れきった、経血のような美しさを!
斬り殺したい。斬り殺させて欲しい。
絞め殺したい。絞め殺させて欲しい。
殴り殺したい。殴り殺させて欲しい。
突き殺したい。突き殺させて欲しい。
撃ち殺したい。撃ち殺させて欲しい。
蹴り殺したい。蹴り殺させて欲しい。
刺し殺したい。刺し殺させて欲しい。
焼き殺したい。焼き殺させて欲しい。
ズタズタになるまで。ボロボロになるまで。コナゴナになるまで。グシャグシャになるまで。バラバラになるまで。ドロドロになるまで。ベトベトになるまで。
お前を殺したい。
お前を殺せるならば、私が消滅しても構わない。
――それが恋なのだと、誰かが言った。
* * *
……ナイフはどこに行ったのだろう? あれがなくては――
* * *
地上は、穢れている。
古い経血のように。
地上は、美しい。
処女の経血のように。
ベタベタと、ジメジメと、不愉快に、鬱陶しく、どこまでも穢れていて
――だからこそ、美しい。
経血のように。
* * *
空には、遠き日に捨て去りし故郷が、青々と、寒々と輝いている。
幻想郷には珍しい熱帯夜の暑ささえ、その光の前には無力なようだ。ちらりと、視界の端にそれを捉えただけで、ぞわっと腕に背中に鳥肌が立つ。
ルナティック・ムーン。かつて、誰かがそう呼んだ。月のような月。狂気的な狂気。言葉の意味としては、最悪だ。ただ、センスは良いと思う。語呂がいいし、なにより、今の私の――鈴仙・優曇華院・イナバの感想を、これ以上ないくらい的確に表している。月に、狂っているという意味を当てはめた遥か彼方の地にある英国とやらの人間は、きっと本質を理解する力を持っていたのだろう。
襲い掛かる寒気に手を擦りながら歩いていると、やっと目的地が見えてきた。
草木も眠る丑三つ時。当然、人里は静まり返り、外を出歩く者などただ1人もいない。――はずにも係わらず、そこには人垣が出来ている。近づくと、熱帯夜の暑さに集まった人間たちの熱気が加わり、先程まで手を擦っていた私ですらシャツの胸元を緩めたくなる程の暑苦しさを感じる。目に映る波長すら暑苦しい。どうやら、集まった人間たちは、一様に興奮し、期待しているらしい。
噂では、この人だかりの向こうにある空き地には、毎晩のように歪な建物が建つそうだ。その瞬間を見逃すまいと、今か今かと待っているのだろう。ちなみに、もともとあった建物は、先週焼失したとのことだ。まったく、火災で死んだ者もいるかもしれないというのに。……いや、近づいて気が付いたが、僅かに肉の焼けた不愉快な臭いが残っている。確かに、ここで誰かが死んだのだ。そして、一週間も経たない間に、その前で人間たちは目をきらめかせて騒ぎ立てている。最低だ。本当に、地上は穢れている。無邪気に騒ぎ立てる人間たちが、全て焼け死んでしまえばいいのに。
と思ったけど、そうすると自分も焼けることになるから、祈るのは止めておこう。よく考えたら、こうして見学に来た私も、同じ穴の狢なのだ。……兎だけれど。
どうにか空き地が見える場所を確保しようと悪戦苦闘していると、不意に人だかりの途絶えた空間があることに気づいた。もしかすると、なにか足場が悪いとか不都合があるのかもしれない。折角なので利用する事にする。人間には辛くても、私兎だし。というか、妖怪だし。
人だかりをかき別けて、空間に近づく。
すると気が付いたが、どうやら先客が1名いるらしい。
明らかに、里の人間ではない。
銀色の髪に、白い肌。同じく眩しい程白いドレスには、ところどころ鮮血のように紅い模様が描かれている。綺麗に塗られたマニキュアも、目の覚めるような紅だ。頭には、なぜか鹿撃ち帽。そして何より、パタパタと楽しげに動く、隠す気のさらさら無さそうな蝙蝠羽。私ですら耳を帽子で隠しているというのに、本当に周りの視線を気にしない妖怪のようだ。周囲では、アイツが原因なんじゃねぇかとかひそひそ話している声まで聞こえる。
ああ、誰か判った。判ってしまった。当然の帰結とはいえ、異常なまでのエンカウント率だ。アレに言わせれば、きっと運命だとかなんとか宣うのだろうけれど、正直不幸なだけだと思う。
よし、決めた。他人のフリをしよう。というか、そもそも昨日珍しく会っただけの他人だし。一から十まで他人なんだし。アレと一緒だとは、思われたくないものねぇ。
ごそごそと、無理矢理人だかりをかき別け直して、遠ざかろうとする。
が、目が合った。
合ってしまった。
手まで振られてしまった。
流石にもう、他人のフリは出来ない。
さようなら。私の平穏な時間。今度人里に来るときは、違う帽子にするからね。
「こんばんわ。レミリア・スカーレットさん」
一応、先に挨拶をしておく。こういうのは先手必勝だと永遠亭で学んだ。というか、先手を取らないとお師匠様が怖い。
「ああ、お前も来たんだね。えーと……鈴仙、優曇華院、イナバ、どれで呼べば良かったんだっけ?」
「鈴仙か優曇華院でお願いしたいですね。イナバは、単に兎っていう意味だから」
「ふーん。猫にネコとか、馬に馬刺しって名前を付ける輩も多いって聞くけど」
馬刺しは、正直ちょっと違うと思う。
「まあ、いいや。鈴仙で。短いし」
「いいわよ。それで」
「お前は、アームチェアディテクティブではない。それは、今回は正解。事件は会議室で起きているんじゃない。現場で起きているんだ。お前は、もうすぐヒントを見つけるだろう。明後日の答えを楽しみにしてるよ。薬屋さん」
しかも、結局名前で呼ばないし。だったら、なんで聞いたのよ。
……とりあえず、怪異を眺めている時間は、とてもとても長く感じた。だって、周囲の視線が痛いんだもん。
* * *
永遠亭に、客は珍しくない。
例え、それが日の昇りすらしない、早朝も早朝だったとしてもだ。
貧弱な人間は、突然病気になったり怪我をしたりするし、貧弱じゃない妖怪も、突然病気になったり怪我をしたりする。要するに、24時間なにかしら、健康を害する者はいるのだ。そう、生きるということは危険と隣り合わせ。例えば、落とし穴に落ちたとか。落ちた際に足を挫いたとか。色々あるのだ。
とりあえず、要するに、永遠亭に客は珍しくないのだ。例え、それが早朝でも。
だとしても、その客は予想外だった。
予想もしていなかったし、予想もしたくなかった。
茶に近い黄金色、要するに狐色の長い髪に、黒を基調に金と朱を豪勢にあしらった中華風の服装。忘れもしない。
正直、会いたくなかったというか、なんで来たのよと思う。普通、殺し合った相手の住処にこんなに堂々とは来ない。来るとしたら、お礼参りの時くらいのものだ。だから、彼女が――純狐が、普通に扉を叩いて玄関前で待っていて、「月のお土産ですよ。お前には懐かしいでしょう」とか言って手土産まで渡された時は流石に硬直した。お土産は懐かしかったけど、解せない。そもそも、なんで月の都のお土産を持ってるんだとも思う。つい最近まで月の女神、嫦娥の命を狙い、月の都と戦争をしていた当事者の癖に。月の都名物「ツクヨミ団子・いちご味」……凄く美味しいのは確かだけれど。
結局、どうしたらいいのか判らなくて、「あ、ええ? はい。ありがとうございます」と、お土産を受け取って固まることしか出来なかった。困ったなー、誰か来てくれないかなーとか、ちらちらと廊下の向こう側に視線を送る。とはいえ、早朝だ。誰かが来ることなどない……はずが、たまたま師匠である八意永琳が通りかかった。
「あら、どうしたのかしら? 初めて見る顔ね」
その声に、救われたような思いになる。お師匠様に、後光が差しているようにすら感じた。
「初めて会いますね。お前がこの子を送り出したという、かつての月の賢者ですか。私の名は純狐。月の民に仇なす仙霊である」
「あら、この子の客かしら。ウドンゲ、ここはお前に任せたわ」
けれど、そう言って、お師匠様は私の背中を押して玄関から追い出すと、扉を閉めた。がしゃっとか、鍵をかけた音まで聞こえた。酷い。後光なんて差してなかった。錯覚だった。幻覚だった。
「……どうしましょうか?」
結局、出来たことと言えば、殺し合った相手に訊ねる事だけで……
「そうですね。幻想郷は初めてですから、観光案内でもしてください」
帰って来たのは、案外常識的な提案だった。少なくとも、お師匠様の対応よりは、だいぶ常識的で人道的だ。
殺し合いを演じた仲であるはずなのに。
* * *
私――鈴仙・優曇華院・イナバと純狐は、並んで歩いている。
共に月の都と幻想郷の存亡をかけて命のやり取りをした者同士が、こうして平和に歩みを進めているのだから、それだけでもある意味不思議な光景だと思う。
しかも、歩む場所は人里だ。
幻想郷で唯一雑多に人間たちが住む、要するに最も穢れた場所。考えられうる限りで、これ程月から縁遠い場所もない。
そんな場所を、月に過ごした2人が、ぶらぶらと歩む。
私は、薬売りとして歩いた知識を生かして、人里の穴場を案内していく。人里は、けっして観光地などではない。けれども、注意して見ていれば、突然現れる見ごたえのある建物や、絶妙な景色が見えるアングル、よく判らない謎の店、腕のいい大道芸人が技を競っている地区、地味ながらも美味しい食事処など、魅力的な場所は沢山あるのだ。その猥雑な魅力は、竹林にも、当然月にも無いものだ。
そして純狐は、その1つ1つに「感心したわ」「地上にこんな景色があったなんて」「どういうこと? 何故こんなものが存在するのです?」「魔法も無しにこのようなことが出来るなんて……驚いたわ!」「美味しいですね。月にはこのような味は無いでしょう」などと、楽しげに感想を返してくれる。
これで、案内する側のテンションが上がらないわけがない。よっしゃあ! 止めだ! とばかりに、自分の秘密のとっておきの甘味処に純狐を案内する。実は竹林の兎たちにも、お師匠様にすら話していない、自分だけの秘密の店だ。
心もち足もウキウキと浮かせながら、「これは秘密なのですけれど、幻想郷で一番おいしい甘味処ですよ」などと宣言しながら、純孤を案内する。純狐も「それは楽しみですね」と、心もち楽しそうについて来てくれる。
大通りから小路に入り、地元民と私くらいしか知らないような路地を抜ければ、そこは素敵な甘味処だ。
* * *
甘味処は、路地を抜けた先に、地元民すら滅多に知らない程ひっそりと商いをしている小さな店だ。店主に拡大志向が無いためか、机すら2つしか置かれていない。当然、客も少ない。店主の腕を考えれば少々と言わず勿体ないが、それはそれ。この店ならば誰か知り合いに出会うこともまずあり得ないという点もお気に入りなので、このままであって欲しいと思っている。
それなのに……
「薬屋。こんなところで出会うとは奇遇ね」
甘味処には先客が居た。それも、顔見知りだ。薄桃色のノースリーブのワンピースの腰を、きゅっと紅い帯のように大きなリボンで縛った、銀髪の小柄な美少女。
「どうやら、人気店のようですね」
そうやって相槌を打つのは、半袖のやや丈の短いメイド服を纏った、これまた銀髪の少女だった。
「咲夜。たまには寄り道もいいでしょう。いい店を見つけた私を称えなさい」
「お嬢様、適当な路地に入って道に迷うことは、寄り道とは言いませんよ」
紅魔館の主にして、自称夜の王、客観的に見ても幻想郷の悪魔の盟主である吸血鬼レミリア・スカーレット。
そして、その従者にして紅魔館のメイド長、十六夜咲夜。
永遠亭の上客で金払いは良いが、付き合うとロクな目に合わないことは間違いない2人組だ。正直、甘味屋を諦めてでもさっさと話しを切り上げたい。幸い、もう1つの机も、地元民の客が使っていて埋まっている。
「純狐さん、ごめんなさい。今日は珍しく満席だったみたいで……」
やんわりと、この場を離れようとする。
だが、そうは問屋が卸さない。問屋は薬売りの敵だ。彼らは原材料費が値上がりしたときは卸売価格を上げるくせに、原材料費が値下がりしたときは据え置きだ。酷く憎々しい。そして、運命の問屋はもっと悪質だ。運命の問屋がもう少し良心的ならば、きっと自分の運命は大きく変わっていた事だろう。少なくとも、月で友を見捨てて地上に逃げる羽目にはならなかったはずだ。こんなにも、罪に穢れることは無かった。もちろん、横に立って微笑む純孤も。……今の私は、それを恨むだけではないけれど。
「薬屋。妙な連れを連れてるじゃないか。運命が点であり、同時に球。一次元であると同時に三次元。黒色にして全ての色でもある。ただ1つであるが故に、何よりも大きい。……気が向いたわ。同席しなさい」
咲夜。私の隣に来なさい。そう言って従者を動かして席を開けると、レミリアは私たちに手招きをする。最悪だ。ここまでされて逃げるわけにもいかない。ほんのり甘いはずの甘味が、なんとなく苦く感じそうな予感がした。
* * *
「そんでねー。その時の患者ってのが、タチの悪い霊に憑かれてたって話でねー。お師匠様も霊に効く薬は強いの切らしてたって感じで、永遠亭は大ピンチ。ところがどっこい、そこでこの鈴仙さまの登場ですよ。悪霊に波長を合わせて触れられるようにしたら、アッパーカットで大除霊。さすがの悪霊も、この私の前では土下座で平謝りだったってわけ」
結局、いつの間にやら甘味屋で呑んでいた。なんでそもそも甘味屋でお酒があるのかもわからないが、なんとなく皆普通に注文していたし、案外にこのお酒が美味しい。おそらくは、吟醸酒かそれに近いものなのだけれど、口当たりがあっさりしていて、それでいて絶妙な程度に舌に感じる深みと重さが、ジャストで和菓子に合うのだ。これはもう、和菓子のために作られたと言っても過言ではないお酒だ。気が付けば、目の前には空いた一升瓶が3本も並んでいる。あまりにも口当たりがよかったのと、重い空気から逃げる為の行為もあって、いつの間にか増えた。そして最終的には調子に乗って、ガンガン開けた。流石に3本は呑み過ぎだ。何かとんでもないことを言ってしまうかもしれない。危険だ。これで最後にしよう。4本目がラストだ。
「悪霊ねぇ……咲夜。そういえばちょうど、怪異が人里で起こってるんだっけ?」
こちらはレミリアが、なぜか従者に器を持たせて呑んでいる。お酒を口元に持っていてもらって、飲み終わったら、今度は笹の露餅を口に。正直、見ていて鬱陶しい。
「ええ、お嬢様。先程隣の机に居合わせた客も、その話で盛り上がっていましたね。何でも、夜な夜な燃えたはずの建物が組み上がっていっては、朝には崩れるのだとか」
咲夜が、レミリアの口を懐紙で拭いてやりながら答える。
過保護だ。やり過ぎだ。純狐は苛立たないのだろうかと横を見れば、純狐は微笑ましそうに、もう失った遠いものを見るような眼で微笑んでいる。そう言えば、彼女は遠い昔に息子を失ったのだ。もしかしたら、亡くした息子のことを思い出しているのかもしれない。……だとしたら、純狐も相当過保護だったのだろう。この場に、常識人は自分しかいないらしい。
「というわけで、薬屋。1つゲームをしない? 人里の怪異の全容を明かして、解決したら勝ち。勝ったら、この店で好きなだけ奢ってもらう。3日後の夜に再集合でどう?」
常識が無い吸血鬼が、常識に欠ける提案をしてきた。なんで、そんなことに首を突っ込まなくちゃいけないのやら。
「薬屋。お前は、永琳が匙を投げた悪霊憑きを治療したんだろう? 鮮やかな解決に期待しているよ」
「え、いや。それは、まあ……」
否定できない。とんでもないことを言ってしまうかもしれないと、ほんのちょっと前に思った。嘘だった。もうとっくに言っていたらしい。今更、調子に乗って脚色しましたとも言えない。
「穢土(えど)に落ちた月の兎(せんし)。私の月の都侵略計画を跳ね除けた、月の都と幻想郷の切り札。活躍が楽しみですね」
その上、純狐がにこやかに退路を断った。
もはや、どうしようもない。八方塞がりだ。いわゆる四面楚歌。私の精神的月の都の周りからは、地獄の妖精たちの大合唱が聴こえてくる。
「……なんで、3日後なのよ」
せめて奇跡よあれと、精一杯の抵抗を口にする。
「主に訊ねて1日。御子に訊ねて1日。精霊に訊ねて1日。十分だろう?」
「悪魔なのに、神を語るの?」
「聖書を読まない悪魔に、ロクな悪魔はいないんだよ。力ある悪魔は、聖書の言葉で語りかけるものさ。ねぇ? 咲夜」
「お嬢様の聖書は、サイドテーブルの引き出しから出されている姿を見たことがありませんが」
「この前使ったよ。咲夜がソーサーを忘れた時。カップの置き場にちょうど良かったわ」
けれど、抵抗など関係なく、話は纏まってしまった。
純狐が興味を示した事だけが、不思議だった。
* * *
『ガランガランガラン。ガランガランガラン。
昨日もここで建物が建ったんだ。
歪な歪な建物が、積み木のように建ったんだ。
さあさあ、そこのご婦人方にお子様方。どうかお話聞いてくだせぇ。
こちらに起こりし不思議な話。
不思議な夜も、ご婦人方にはお肌の敵。良い子はおねむの時間です。
だから、あっしが語って差し上げましょう。
ガランガランガラン。ガランガランガラン。
昨日もここで建物が建ったんだ。
歪な歪な建物が、積み木のように建ったんだ。
柱に窓。壁に屋根。全部ごちゃごちゃガンガンガン。
いっしょくたにゴウンゴウンゴウン。
そいつは勝手に建ってゆく。
そこにはだぁれも、いやしねぇ。
空き地の周りは人だかり。
みんな仕掛けを探せと目はお皿。
けれど、なぁんにもみつからねぇ。
そのうち朝日が昇って崩れちまう。
近づきすぎた馬鹿者は、欠片に当たって大騒ぎ。
痛てぇのなんのと大泣きだ。
ガランガランガラン。ガランガランガラン。
昨日もここで建物が建ったんだ。
歪な歪な建物が、積み木のように建ったんだ』
――大道芸人の歌い文句
* * *
私、そして純狐、レミリア、咲夜の4人は、甘味屋の席についている。
もう、とうの昔に陽は落ちて、席を照らすのは窓から入る半月の光と、暖色ながらも寒々しい裸電球1つの明かりだけだ。
店にまともな照明が付いていないのは、店があまり儲かっていないのか、そもそも陽が落ちてからの営業を想定していないのか。おそらく、両方とも正解なのだろう。レミリアは、幾許かの金を積んで、無理矢理夕方から店を貸し切りにしたらしい。店主も、今は2階の住居に戻っている。たまに注文を聞きに降りてくれば、店にいなくても良い。そういう話で通しているらしい。そこまでするのなら、別の店で集まれば良かったのに。金持ちの考えることはよく判らない。そう、心から思う。ちなみに、レミリア本人にそれを問いただしたところ、「私は、縁を大切にするんだよ」との答えだった。ますます判らない。意味が、ではない。思考回路が、だ。正直、ちょっと狂っていると思う。月の民ほどでは無いにしても。
……こんな狂っている場所に、ずっと居るのも不毛だ。さっさと終わらしてしまおう。
「謎は全て解けました」
開幕一番に、立ち上がって宣言を叩きつける。
ほう。とか、へぇ。とかそんな感じの反応が帰って来た。思ったよりも、しょっぱい。そこは、「な、なんだってー!!」みたいなノリを期待していたのに。まあ、そこはこれからの鈴仙・優曇華院・イナバ様の華麗なる謎解きをお披露目してからでもいいだろう。
「最初に、状況を整理するわ。
この怪異は、丑の刻の頃から日の出までの間、建物が歪に組み建っていくと言うもの。その組み上がり方はゆっくりとしたもので、完成する前に朝を迎えて崩れてしまうわ。そして、もはやそれは、人里で密かに噂になっている。深夜まで起きて見物する者すら珍しくない。これは、現場を直接見たわ。間違いないかしら、レミリアさん」
ちらりと、一昨日の深夜に隣にいた少女に視線を送る。
「間違いないわ」
当然、帰って来たのは肯定の回答だ。
「ちなみにいうと、今のところまでは補足説明することも無いわね。続けて」
煎茶を一口すすって喉を湿らせてから、説明を続ける。
「そして、ここからは私の独自の聞き込みよ。薬売りとして、里人から聞いた話。
あの場所には、もともと建物があったの。でも、先週火災で焼失したのよ。どうやら、昔から建っていたらしいわね。そうとう古い建物だったそうよ。話を聞いた地上人たちが生まれる前から、ずっとあったらしいわ」
さて、と咳払いを1つ。机に片手を付けて身を乗り出す。
「ここまで判れば、答えなんて出たも同然でしょ。もう、言う必要もないくらい。簡単な謎だったわね」
奢りよろしく。と言って、ひょいっと席に座り直す。本当に単純な話だったのだ。
「どういうこと? なぜお前は最後の説明を省くのです?」
なのに、純狐がなぜか質問を返してくる。察しが悪いわね。と、まさか口に出すわけにも行かず、肩をすくめて、解りやすいように解説をしてやる。月の都侵略作戦などを立てた純狐が、ここまで察しが悪いとは予想外だった。
「いい? 建物は、古かったの。それで、燃えてしまった。燃えてしまった建物は、夜な夜な立て直され、朝には崩れ去ってしまう。これが示す答えはただ1つ。
建物は、もう付喪神になっていたのよ。それで、自分の身体が壊れてしまったから、もとに戻そうとしている。けれど、戻り切る前に朝を迎えるから、崩れてしまって、また最初からやり直し。大工か何かを呼んで、建て直せば話は終わりよ」
純狐が、レミリアが、私の名推理に何も言えなくなったのか、貝のように口を閉じている。完璧すぎて、口を挟む場所すらなかったらしい。
「というわけで、ここの奢りは私のものね。お疲れ様でした。店員を呼ぶわね」
手を口元に持って行って、店員を呼ぼうとする。
だが、
「店員を呼ぶには早いんじゃないかしら?」
それを咎める声があった。咲夜の声だった。
「そこの兎の言うことは、一見すると正しいように見えます」
咲夜が、歌うように語る。
「ですが、致命的な点が抜けていますわ。はたして、そんな単純な怪異なのかしら?」
咲夜が、皆の視線を集める。
「1つだけ、質問させていただきましょう。その建物が建ってから、どれだけ時間が経っているかは調べましたか?」
問いには、誰1人として答えない。答えられないのだ。直接訊ねられている、私すらも。
「それが答えです。建物は、まだ建てられてから100年を迎えていません。これが、彼女の推理の唯一にして最大の欠点ですわ」
思わず立ち上がった。椅子に足をぶつけた音がした。咲夜に人差し指を突きつける。
「100年経つ以外にも付喪神が生まれる要因はあるじゃない! それだけで、違うなんて言わせないわ」
「小人の小槌の事ですか? 確かに、小槌の魔力でも付喪神は生まれますわ。けれど、その場合は周囲の他の物まで付喪神になっていないとおかしい。つまり、あなたの推理は穴だらけ。月の表面と同じね」
ぎりっ……と、奥歯から微かに音が聞こえた。
「そうまで言うならば、貴方の推理とやらを聞いてあげようじゃない。どうせ、馬鹿みたいなものなんだろうけど」
舌打ちしたい気分を堪えて、座り直して腕を組んだ。
どうせ間違ってるのだ。最後まで聞いてから、崩してあげればいい。
咲夜が、人差し指を立てて説明を始める。
「そこの兎の状況整理の中で、触れられなくてはならなかったにも係わらず、触れられない事実がありました。お嬢様にはお判りですね」
「2つかしら。けど、それは咲夜の口から言わないと意味がないわね」
「正解ですわ。お嬢様。
まず、建物が何の用途に使われていたのか?
2つ目、火災で死者は出たのか?
3つ目、死者はどんな人間だったのか?
の3つです」
咲夜の立てた指が1本増え、2本増え、3本になる。
「うるさいなぁ、咲夜は。私は数字に弱いんだ。細かいとモテないよ」
「私は1人からモテれば十分ですよ」
「捨ててやろうかしら?」
さて、それはともかく……と、咲夜が誤魔化すように咳払いをした。立てていた指を1本に戻す。
「火災で燃え、そして怪異の元となった建物は、遊郭として使われていました。そして、その火災で亡くなった人間は2人。遊女が1人と、客の男が1人です。
そして、ここで重要なのは客の男です。男の職業が何かわかりますか? 鈴仙さん」
すっと目を細めて、咲夜が話を振ってきた。
「別に、何でもいいでしょ。死んだ地上人の職業なんて」
丁寧ながら、どこかしら相手を小馬鹿にした態度だ。所謂、慇懃無礼。無性に苛立つ。答える声に、棘が混じったのが判った。
「いいえ、これが重要なんです。亡くなった男の職業は大工。つまり……」
咲夜が、僅かに間を置いた。誰1人、口を挟むものは居ない。
「亡くなった男の亡霊が、崩れた建物を建て直そうと働いているのです」
これなら、朝になると建物が崩れる理由も説明できますしね。幽霊は、夜にしか動けませんから。そう言って、咲夜は話を閉じた。
……正直、そんな暴論があるかと思う。
流石に、無茶だ。
「異議! 異議ありです!」
とりあえず、席を立って咲夜を指さす。
「貴方の推理は、一見筋が真っ直ぐ通って見えます。けれど、遠くから見ればフラフラ。動機があまりにも弱すぎるわ!」
それは……と、咲夜が口を開きかける。が、先に口を開いたのはレミリアだった。
「異議を認めるわ。薬屋さん。咲夜は、ナイフは鋭く切れる割には鈍いのよ」
「お嬢様……?」
咲夜が、音を立てそうな固い動きで主人を振り返った。
主人に否定されて、動揺しているのだろう。無茶苦茶な推理で、他人に噛みつくからだ。ちょっとばかし、良いざまだと思う。
「咲夜は、いい所までは行っていたわ。でも、そこの兎が言うように、いつもフラフラ。真実のすぐ傍までは行くのに、絶対に核心に辿り着かないのよね。変な事ばかりしているからかしら?」
きゃらきゃらと、レミリアは笑う。
「というわけで、お前の推理の時間だけど?」
そう言って、レミリアは純狐に話を振った。
「私は答えをパスします。
残念ながら、私は "彼女" の思考回路を理解してしまいました。
流石は穢土。ここまで瑕穢(かあい)に満ちているなんて。……こんな感想を抱く私の答えなんて、誰も聞きたくないでしょう?」
「あら、残念。それは聞きたくないねぇ。それじゃあ、答え合わせに行こうか」
レミリアは、咲夜のポケットに手を入れて懐中時計を引っ張り出した。時間もちょうどいいわね。などと頷きながら、店員を呼ぶ。
「ちょっと待って。貴方は推理を語らないわけ?」
思わず、レミリアを呼び止めた。いくらなんでも、傍若無人すぎる。
「薬屋。急かなくてもいいよ。私は現場で話すから」
言ったでしょ。事件は会議室で起きているんじゃない。現場で起きているって。そう言って、店員に金子を握らせて、レミリアと咲夜は店を出てしまった。見れば、純狐も咎めることなく、それについて行く気らしい。こうなってしまっては、腑に落ちなくともついて行くしか出来ない。
……どうでもいいけど、ここは会議室じゃなくて甘味屋だと思う。
* * *
「ねぇ、どいてよ」
レミリアが、人垣をかき別ける。ある人間は舌打ちし、ある人間は邪魔だと怒鳴ろうとする。そして、そのいずれもがレミリアの隠すこともない蝙蝠羽と、人里にはあり得ない銀髪に気づいては、大げさなくらいに道を開ける。幻想郷では、妖怪は人間の上に位置する存在だ。ルールでではない。純粋に、力として。死にたくないならば、ただ頭を下げて言うことを聞くしかない。妖怪退治を生業に出来るような、ごく一部の例外を除いては。
だから、レミリアの前には道が出来る。人間達はぶつかりひしめき合いながら道を作り、遠巻きに、この恐れを知らない妖怪は一体全体どこの妖怪だと囁き合う。視線が集まる。レミリアと、レミリアの後ろについて歩く、咲夜や純狐、そして私に対して。……ああ、他人になりたい。そう、心から思う。でも、とっくに手遅れだ。たぶん、甘味屋でレミリアに出会ってしまった瞬間から。さようなら。私の帽子2号。
やがて辿り着いた場所は、当然のように、件の怪異の現場だ。空き地には、燃え尽きて焼け焦げた木材たちが未だに片づけられることも無く転がっている。きっと、怪異が収まるまでは、誰1人手を付けないのだろう。放っておけば、そのうち業を煮やした地主か誰かが、博麗の巫女にでも依頼をするのかもしれない。最近であれば、守矢の巫女も有力だろうか。人間が妖怪の山に登るのは危険極まりないため、守矢の巫女が布教に人里を訪れた時限定にはなるが。
とにかく、あるいは兎に角、ひたすらに注目を浴びながら焼け跡に辿り着くと、レミリアはためらいもなく場所を封鎖する綱を潜って中に入っていった。空を見上げれば時は丑三つ時。焼け跡では、焼け焦げた木材たちが、1つまた1つと動き、組み合わさり始めている。だが、そんなことはお構いなしに、レミリアは日傘で焼け跡を荒らし始める。ザクザクと焼け跡を掘り返しては、小さな木片をひょいっと投げ飛ばす。時には、人間の足の太さほどもある柱の焼け残りすら。
やがてレミリアは、「うん。あった。あった。意外と見つからないものね。こういうものは、現場に残されてるってセオリーで決まってるんだけどねぇ」などと誰にとはなしに話しながら、やり遂げたといった笑みで何か煤けた黒いものを拾ってきた。暗くて見づらいため、少々波長を合わせると、どうやらそれは金属らしい。焼けてひしゃげた刃物だろうか。なぜか、レミリアはそれをジャグリングしている。くるくると廻るそれは、宙に手にと無軌道に行ったり来たりを繰り返し……そして、腕に弾かれて焼け跡へと戻っていった。もう用済みなのだろうか、と思ったが、どうやら違うらしい。レミリアの顔には、露骨に失敗したと書いてある。しばらく黙った後、レミリアが口を開いた。
「咲夜。薬屋。拾ってきて」
咲夜は従者らしく、「はい。お嬢様」などと言って拾いに行ったが、冗談ではない。誰が、あんな注目を浴びたいものか。これまででも十分すぎるのに……とぐずっていたら、ギロリと睨まれた。正直かなり怖かったので、しぶしぶ従った。大いに人間たちの注目と、木灰を浴びながら、なんとかして焼け焦げた金属を拾い直す。手に持って判ったが、どうやらこれは、焼ける前はナイフだったようだ。
手渡すと、「ありがとう、薬屋。お前は出来た従者だねぇ」と言われた。きっと、出来た従者とは、便利使いできる従者という意味なのだろう。そう言えば、お師匠様や姫様にも、いつも便利使いされている気がする。
「さて、これが今回の怪異の原因よ」
おもむろに、レミリアが受け取ったナイフを指で挟みながら言った。
だが、ナイフは焼け焦げているだけだ。取り立てて、怪しい点も、妖気も感じない。
「ナイフはね、刺せないと意味が無い。咲夜のナイフは、咲夜と違ってよく切れるけれどね、これはダメだろうねぇ。ここまで焼け焦げて歪んでしまったら……」
ほら、折れた。と、レミリアが笑った。折角拾ってきたナイフは、レミリアの指の間で2つに別れてしまっている。なんてことをするのよ。と、文句の1つも言いたくなるが、また睨まれるのが怖いので言わない。代わりに、質問です。と、手を上げた。ナイフが使い物にならないことと怪異の間に、どんな関係があるのですか? と。
答えたのは、純狐だった。
「お前は、まだ理解していないのですね。殺したいと殺されたい。欲しいと欲しがられたい。愛したいと愛されたい。この2つの感情は近いようで全く違うのですよ」
丁寧なようで、まったく理解の出来ない言葉を重ねる。混乱は、深まるばかりだ。
レミリアが、ため息をついた。
「いいかい、薬屋。この建物は、咲夜の調べた通り遊郭だった。そして、たった2人の男女だけが焼け死んだ。なんでか判るかしら?」
そんなもの、判るわけがない。首を横に振った。
「簡単な話よ。建物が燃える前に、2人は心中していたのさ。男が女を殺したのよ。だから、2人は逃げることが出来なかった。
……ところで、女はそれについてどう思ったと思う?」
レミリアが、ニヤニヤと猫のように笑う。
その笑みにも、やはり首を横に振る事しか出来ない。
「正解は、"冗談じゃない"。
だって、女も、男に対して心中をする気だったんだもの。それはもう心残り。残念無念また来週よ」
意味が解らない。
「そんなの、どっちから殺しても、2人とも心中する気なら同じじゃないですか?」
思わず、チェシャ猫の笑みを浮かべるレミリアに問いかけた。
「不合理で複雑なんだよ。人間は。少なくとも、兎よりははるかに」
レミリアが、くつくつと笑う。
「あら、私は合理的ですわ。お嬢様」
咲夜が、眉をひそめる。
「咲夜は、マンドラゴラで紅茶を淹れたことがあったわね」
「死人の経血から生えるのですから、血に近いと思ったのですよ。合理的に」
レミリアの笑いは、もはやこらえきれないといった感じで、きゃらきゃらとした笑い声まで聞こえてくる。
「それで、お嬢様。心中をしようとして、相手に先に心中をされたということは理解しました。合理的に。それで、これからどうするのですか?」
「当然、こうするんだよ。合理的な咲夜」
レミリアは、手の平を上にして、咲夜の前に持って行った。
咲夜は、手の平に手を重ねた。まるで、犬のお手だ。
レミリアが、一瞬咲夜の手を握ってから、振り払った。
「ナイフをちょうだいって言ったのよ。不合理な咲夜」
「言葉にしてくれませんと、伝わりませんよ。合理的に」
新しいナイフを握って、レミリアが振り返る。
「ああそうそう、薬屋。あんた波長を弄れるんでしょ? 合わせてよ。幽霊が見えるようにさぁ」
なんとなく、これから起こることが予想がついた気がした。けれど、素直に従って、波長を弄る。誰の目にも木材を運ぶ幽霊の姿が瞭然となった。まだ比較的若い、白粉が馴染み切っていない顔立ちの女性だ。その目鼻立ちは、遠目にも生前は美人だったのだろうということがよく判る。その女性の霊が、木材を抱えておろおろと何かを探しては、抱えた木材を積み上げていく。
レミリアが、霊に向かって歩みを進める。けれど、それより先に、純狐が綱を飛び越えた。ただ歩くようにふわりと、綱のすぐ上を滑るように。
「お前は、愛しい者が欲しいのですね。殺したいが故に欲し、欲するが故に殺害を望む。その渇望は、とてもよく解ります。ですが、お前のそのような姿は見たくなかったですね」
霊の横で囁く純狐の手の中には、いつの間にかナイフがあった。代わりに、レミリアの手の中には何もない。虚しく空を握ったり開いたりしながら、舌打ちをしている。
「私の名は純狐。お前の純粋な望みに、形を与えてさしあげます」
優しげに、ただ、ほんのちょっとだけねっとりと、それでいて羨ましげに純狐は囁いて、霊に丁寧にナイフを掴ませた。手の平に乗っけて、小指から順に、薬指、中指、人差し指、親指と折りたたんでやる。
霊は、暫くナイフを胡乱気に眺めていた。そして、おもむろに喜色を浮かべると、それを足元の骨に向かって振り下ろした。1回、2回、3回、4回……何度も。やがて、足元の骨が砕けた。足元の骨が砕けると、霊は満面の笑みを浮かべて、喉元にナイフを構えた。ためらいもなく突き入れる。鮮血が……溢れることも無く、ナイフは霊の首の中に吸い込まれ、そして霊は消えた。ナイフだけが、かつんと地面に落っこちた。
「彼女は、心中するためのナイフを探していたのね……」
口にする気も無かったのに、しみじみとため息が漏れた。要するに、そのくらいの事しか出来なかった。
ただただ地面に落ちたナイフを見つめていると、突然肩に軽く手を置かれた。肩に乗る腕の先を視線で追っていけば、そこには純狐がいた。
「お前は、彼女が幸せだと思いますか?」
意外な質問だった。
純狐がそれを問うことも。その問いの内容も。
死ぬことは穢れで。死ぬことは幸せなんかではなくて。でも、そもそも、彼女は既に死んでいたわけで……
「解んないわ。でも、望みを叶えることは出来たんじゃない?」
暫く、間があった。
「そうですね。私もそう思います」
やがて、純狐がそう呟いた。
* * *
……ナイフはどこに行ったのだろう? あれがなくては、殺せないのに。
……ナイフはどこに行ったのだろう? あれがなくては、殺せないのに。
……ナイフはどこに行ったのだろう? あれがなくては、殺せないのに。
……ナイフはどこに行ったのだろう? あれがなくては、殺せないのに。
必死に焼けた建物の廃材を積み上げて探していたら、いつの間にか私の手の中にナイフがあった。知らない、銀色に光る美しいナイフだ。どうやら、誰かが渡してくれたらしい。
少し先には、愛しいあの人が眠っている。
良かった。やっと愛を伝えることが出来る。
おもいっきりナイフを振り上げて、愛しいあの人に振り下ろした。
何度も、何度も振り下ろした。
やがて、骨の砕ける音がした。
私は、あなたが大好きです。
決して結ばれることが無い間柄だけど、大好きです。
やっと、言えた。
やっと、あの人は私のものになった。
あとは、私を殺すだけだ。
ナイフを自分の首元に当てた。
全力で突き入れた。
もう1度、骨の砕ける音がした。
* * *
嫦娥よ。見ているか?
地上はかくも美しい。
いつか最後の寝物語に語ってやろう。
この、お前が逃げ出した地上の美しさを。
汚れきった、経血のような美しさを!
多分自分のイメージにぴったりでした
特に大人しく常識的な姿の中に狂気が垣間見える純狐は素晴らしかったです
人を愛して、それゆえに穢れることの美しさは、まあ、わかります。憧れさえします。でも経血のような美しさってどういうことなんでしょうか。生命の美しさでしょうか、猟奇的な意味でしょうか、湾曲すぎてよくわかんないです。無粋かもしれないけど純狐は何を思って「経血のような」と言ったのか教えて欲しい