***新聞 日時不明 (切リ抜キ)
S湖、謎の旱魃
某日、N県行政庁は県下S湖において旱魃被害が起きていることを発表した。
発見者は附近住民。原因は目下調査中であるが、S湖は日本有数の豊かな湖であり、このように突然、大規模に湖水が干上がったことは観測史上例を見ないという。
なお、行政庁はS湖の調査中、国有地でなく、また登記のされていない一帯を湖畔において発見した。当該地には複数の古い民家、社、及び鳥居が残されていたため、同庁は所有者の特定を速やかに行うとした。
***
――ここはどこだったろうか。
緩慢に焦点を結ぶ意識の中、ふと私はあらゆるモノへの未視感を感じていた。
臙脂と白の線が入った紺ブレザーの袖を見て、あぁ、と一人頷いた。
そうか、高校だ、私が通っていた。
石張りの廊下を歩く音が遠く反響する。外を見れば天高く馬肥ゆる秋。薄玻璃に響くがごとき昼の陽光、吹く風の肌に冷たき、
「……なんてね」
しゃんとしない頭のままふらふらと私の教室へ入った。誰もいない、そうか、今日は休日か。
私は私の席に座り、教師の中でもっとも厳しい奴の授業を受けるときのようにきちんと背筋を伸ばして黒板に正対した。新鮮な気持ち。かつていつも通る道を逆しまに通るだけで非日常を喚び出すことができるという偉大な発見をした詩人は誰であったろうか。欠落が新しい何かをもたらすこともあるというものだ。
澄んだガラス球のようにすっきりとした教室で私は一人大きな伸びをして、はたととても大事なことに思い至った。
欠落、そうだ、欠落といえば。
私は今日の私のふがいなさに思い至り、思わず舌打ちをした。
彼女はどこに行ってしまったのだろう、私はそれだけを考えて生きているのだ。本当に。
嘘ではない、さっきまで忘れていたのだけどなにかの間違いじゃないかと思うほど、いつもその思いは心のどこかにこびりついている。
あの聡明で、美しく、でも少し抜けていて茶目っ気のある、いつも私たちとは違うどこかを見ていた彼女は、どこに行ってしまったのだろう。私にはそればかりが気にかかって仕方がないのだ。
そう、彼女。いつも私たちの憧れだったけど、しかし彼女が何を思っているかなんてちっともわかっていなかったのかもしれない。
机の左半分を秋の日光が照らしている。
陽気な明るさだけど、夏のような乱暴な熱量はない。まるで竹光みたいな。
これもひとつの欠落だろうか。
秋は何かと欠落を感じる気がする。私だけかもしれないけど、終わりの秋は死の冬より寂しいのだ。遠足よりも遠足の準備をしている時の方が楽しい、というのと同じ理屈かもしれない。あるいは死んだらどうするか、という問いが意味を成さないのと。
がらんとした教室に漂う埃が、光を乱反射して舞っている。
彼女は何を思っていたのだろう。彼女は自分の部屋で、ひとりどんな顔をしていたのだろう。そう思いながら、私は右隣、日が当っていない方の椅子を触ってみた。ひやりとした感触が手に染みた。
「彼女は、泣いていたわ」
机の向こう側に、黒いソックスを履いたすっきりした脚が二本、並んでいた。
見上げると、私と同じ制服の女の子が微笑んでいた。胸元のバッジを見るに、私の一つ下のようだ。
「私は可哀想だと思ったわ。心が二つに裂かれるのは辛いものね」
ぼんやりとした私にお構いなく女の子はそういって、まるでそれが自分の気持ちでもあるかのように目を伏せた。
「でも、彼女は最後まで朗らかだったじゃない、いつものようにさ。明日からさようならなんて顔、一度もしていなかった」
「取り繕っていたのよ。心に蓋をして、心配かけまいとしていたんだわ。きっとそう、彼女はそういう人だったでしょう」
「いや、彼女は笑っていたな」
振り返れば、教室の後扉に一番近い席、遅刻が一番ばれないと言われる席の机に、凛々しい顔をした女の子が腰掛けていた。
「そんなはずないじゃない、あなたには彼女がそんなに性悪に見えるのかしら?」
すっきりした足の女の子はぷりぷり怒りながら食って掛かる。頬を膨らませて、腰に手を当てていた。きっとそういうタイプなんだろう、私は嫌いじゃないけどね。
「違うさ。そういう意味じゃないし、彼女は間違いなく素晴らしい人だ」
凛々しい顔をした女の子は神経質そうに首を振り振りそう答えた。
「彼女は私たちみたいな凡人とは違うでしょう。量ではなく、質として……。いつまでも私たちがくっついていて善い人物じゃない、彼女はもっと自分に見合ったところへ行ったんだ。それが喜ばしくないわけがない」
女の子は喋りながら頬を紅潮させ、眼はうっとりとして潤んだ光を放っている。信仰、と言う言葉が私の頭をよぎった。
「いや、でも彼女は、自分の生き易さより周りの人のことを優先しちゃうタイプだったよ、昔からさ」
「それは過去の話なんだよ。確かに彼女は優しくもある、でも、ついに飛び立ってしまったのさ」
「ちょっといい加減にして! なんで彼女をそんな酷薄な人みたいに言うのよ!」
我慢の限界を超えたようで、すっきりした脚の女の子が机を叩いた。金属と木の板が震える音は植物状態の校舎へ静かに吸い込まれていった。
馬鹿にしたように咎める凛々しい顔をした女の子と、憤りに駆られるすっきりした足の女の子の間で口論が始まってしまった。こうなったらどちらかが馬鹿らしくなるまで喧嘩は終わらないだろう。
「さよなら」
私は、若干の寂寞と、ぽかんとした清々しさに満ちた休日の校舎を後にした。
***
川面を奔り土手の斜面を駆け上がる秋風に吹かれながら、二人の女学生を思う。
二人の、彼女に対する印象は相反するものだった。しかし、いや、ゆえに、一層私たちが共通するルーツに立つことを思い知らされるのだ。
それは、彼女への執着。彼女の存在の大きさ。私たちはみな、彼女の欠落という大きな穴に心を騒がされて、中を見定めようと躍起になっている。なんという存在の強さだろう、喪われてなお、彼女は心の中心に鎮座していた。
川向こうには、収穫を終えた水田が広がっている。残された藁は土に埋もれたり、積まれていたりで、一面ねずみ色の斑模様をしている。夏には、青々とした稲穂が、生い茂るのだろうか。
鞄を探ると、食べ物が出てきた。葡萄パンだった。
悪くない。私はそれをかじりながら土手道をぶらつくことにした。
葡萄パン。中には木の実も混ぜ込んである。なんとも秋らしい食べ物じゃないか、私はこれを造ってくれたパン職人をすっかり気に入ってしまった。どこで買ったのか、まるで覚えていないのが残念だったけど。
紅葉に栗や葡萄、茸や芋。秋は全く色彩に溢れているのに、なぜ寂しさが付きまとうのだろう。清い湧き水のような手触りの、この風のせいだろうか。さえぎるもののないあの高い空のせいだろうか。
秋は冬よりもどこか寂しいのだ。
晩年というのは死を意識してしまう分、なまじ死んでからより一層ふさぎこむものなのだろうか、私はお婆さんになんてなったことがないし、よくわからないけど。
空の高いところで風が吹いている。
パンがただ一つ、私に残された温もりのような気がして、すがるようにそれをひと欠片口に含んだ。
一つ言えるのは、秋の風が季節から熱を運んで去るとき、私たちの胸からも何かを掠め盗り行ってしまうという印象。
彼女もその風に乗ってどこかへ行ってしまったのだと思う。
なら、私たちの行為に一体どんな意味があるのだろう。喪ったものの形や手触りや匂いを心に留めておけば、季節が一巡りするうちに代わりの何かが満たしてくれるのだろうか。
二人の女の子が持っていた欠落、私はどちらのそれも違う、とは思えなかった。ただ、私の思う彼女とは違っていた。
そう、彼女を思い浮かべたときに胸に去来する手触りは、反面女の子たちの話を聞く前と後では全く変わっていない。これだけは確信できる。
ただ、それが何なのか、確かめようとするたびに焦点は狂い、掌は空を切る。
ひどく遠い。遠い昔の話のように。秋のような不安が心にまとわりつく。
「あの子は、生き神様だったんです」
不意にした声の主は道の傍に座る老婆であった。彼女の自転車には、「アイスキヤンデー」と書かれた幟と、その物が入っているであろうクーラーボックスがくくり付けられていた。
「彼女ほど立派な人物はいない。皆口を揃えて言います。当たり前なんです、神様なんですから」
「神様……?」
「ええ、私どもみんな、心の隙間やひび割れをあの子に埋めてもらっていたんです。お陰で明日とも知れない身にはもったいない大安心の境地にしていただいて……」
これ、食べなさいと差し出された季節外れのアイスキャンデーを口に運ぶ。薄寒い空の下で食べるそれは、ひやりと胃に沈んで、葡萄パンと混ざった。
「こうしてね……、一人ひとり手のひらを優しく握って下さって、いつまでも微笑んでお話を聞いてくださるんです。そうするとね、いつの間にか一座みんなの心が一つに通い合うような心持ちがするんです。蝋燭一本で、輪の外ッ側の人なんて姿も見えないのにね、あっ、今笑ったな、泣いているななんて手に取るようにわかるようになるんです」
老婆は皺の寄った掌をいとおしむように何度も撫で、日向で寝ている猫のように満足げに微笑んだ。
「心が一つになってね、何も悩みなんてなくなってしまうんです。本当にありがたくて……。ですからね、あの子には私たち、本当に感謝しているんですもの、どこかへ行ってしまったって不平一つ言いません。きっと偉い偉い御霊屋へお還りになったんだろう、なんて」
「なにが神様ですか。そうやっていい大人が焚きつけるからああいう子が調子に乗ってしまうんです」
かっちりとスーツを着込み眼鏡をかけた、いかにも厳格そうな中年の女性は弛緩した場の空気を裂くように割って入り、そう言った。
「私が担任だった頃から、彼女はそんな子でした。……たしかに、人を惹きつけずにはいられない雰囲気は彼女の個性です。でも、神や巫女といったオカルティックな考えが他の生徒に広まることは教育上よろしくない。だから私は彼女を呼んで指導しました。『学校は教育をする場です。教育とは実際に在るものを在ると教える場ですから、貴方の特殊な世界観に他の生徒が影響を受けないよう配慮して下さい』と」
そわそわと眼鏡を直す女性の心にあるのは、苛立ちか、不安か。
「そうしたら彼女、あのいつもの薄笑いを浮かべて言ったんです。『先生、アメリカの一部の学校では進化論を教えないそうです。彼らは、進化論などありえない、と思っているんですね。……そもそも在りや無しやなんて、誰が決めたら良いんでしょう』って。はっきり言って、あまりに不遜な発言だと思いました」
「見えないものを信じるも、信じないも、人が決めることではありませんか。現にあの子に私たちは助けていただいたんです、他所の人が頭ごなしにそれを跳ねつけて良いのですか」
表情をこわばらせながらも、老婆は穏やかな口調で女性を諌める。
「彼女にとってはそれが現実だったんじゃないのかな……それが正しいのか、正しくないのかはわからないけど」
「いいえ、これは人格形成の過渡期である思春期特有の行動です、例えば戦士症候群という言葉があるように……」
喧々諤々、話は終わらないがもう日は傾いてきていた。こんなところにいても仕方が無い。
私は何かに突き動かされるように土手を後にした。
***
黄昏時であった。
私は、公園にいた。
ブランコも、滑り台も、シーソーも、皆夕焼けの陽に染まっていた。敷地を囲むように生い茂る木々は濃い陰影の中に溶け合い、私の世界は朱と黒のたった二色に塗りつぶされているようであった。
誰もいない公園は、今にも燃え落ちそうな家のようにぎらぎらと照らされていた。
私は、その中に居た。
「彼女は、それを誇りだと言っていたよ」
幼い少女は私のスカートの裾をいじりながらそう言った。手の動きに合わせて、真新しい赤のランドセルが揺れる。
「何だかわからなくなってきたわ……。忘れたくなくて、ここまで来たのに。皆てんで違うことを言うから、本当の彼女がどんなだったか、どうして居なくなったのか、もう。私には」
ざわざわと書き割りの背景のような陰影が揺れる。あちこちへ翻弄されて、くたくたになった私のことを笑っているのか。
「彼女は、それを呪いだと言っていたよ」
砂場にしゃがみこんで土を盛っている男の子は、そう言ってこちらを見上げた。ランドセルはどこかに置いてきたのか、女の子と同じ年の頃に見える。
女の子は彼を認めると、たちまち嬉しそうに駆けていった。
二人は手を繋いでジャングルジムに走り寄ると、なんとも器用に、するすると頂点まで登りきってしまった。
私の方を向いて、仲良くならんで座っている。夕焼けの逆光で濃く翳った表情は、何となく無邪気な笑顔に見えた。
「そうよね、呪いは誇りね」
「そうだね、誇りは呪いだね」
夕陽の朱が子供たちに収斂していくような錯覚をおぼえ、瞬間意識が遠のく。
一緒に血の気も引いたのか、狭窄した視野は、暗い公園をいっそう冥くさえぎる。
――磁場が歪んでいるような。
そう、私はいま、奇妙な世界に迷い込んでいた。
お構い無しに、二人の子供たちは歌うように言挙げる。
「ケガレを従え、ハレを齎すの」
「祝りは葬り」
小鳥がさえずるような笑い声をあげる二人。
「スティグマね」
「うん、スティグマだね」
「お姉ちゃんはわかるかな?」
「わかるよ。いろんなしがらみを越えてこんなところまで来たんだから」
ぱちぱちと手を叩いて、私をじっと見つめてくる。
「わからないわよ!」
瞬間、血液が沸騰するかのような苛立ちに背中をどやされ、私は信じられないほどの大声をあげた。遠く、死にかけた太陽までもビリビリと震わせた。
「あんたたちねぇ、揃いも揃って偉そうに……。わかったようなことを言って、何なのよ! あんたら彼女の何なわけ!? みんなてんでバラバラなことを、それが答えですみたいな顔して言ってるけどさ、彼女の何を知っているのよ! 何でそれが彼女ですってわかっちゃってんのよ!」
一息に叩きつけると、まるで吐き戻す直前のように背骨と内臓ががくがくとわなないて、私はその場にへたり込んでしまった。
腹立たしいことに、子供たちは満足そうな笑顔を浮かべている。
ジャングルジムの傍に寄り添っている教師も、アイスキャンデー売りの老婆も嬉しそうな顔をしている。
中腹に腰かけている凛々しい顔をした女の子はにっこり笑って手を振ってみせた。すっきりした脚の女の子はその美しい脚をぷらぷらとさせている。
「なんなのよ、もう……」
知らぬ間に積み重なっていた鬱憤の最後のひとかけらは、虚脱した声となって、夕の朱と夜の青が交わっている空へ煙のように立ち上っていった。
私以外の全員が満足そうな、どこかねぎらうような微笑みを浮かべている。
「それが言いたかったのね、ずっと」
「君の心を塞いでいたものって訳だ」
「私どもの思いもわかるけれど」
「そのどれとも違う、ということですね」
「じゃあお姉ちゃんはどう思ってるの?」
「あの人は何を思って、旅だったのかな?」
穏やかな顔のまま、六人は私に問いかける
「それは……」
私が最も聞かれたくなかった核心。
何のために。何を探しているのか。かつてはあからさまなほどはっきりしていたはずなのに、今ではひどく、ひどく遠い。
それでも、私は彼女を、彼女のことを、誰より、
「それは……!」
***
暗転。一瞬の後、明転。
気がつくと私は、どこかの川原にいた。
日は落ちて、薄曇りの空に半端に欠けた月が出ている。
宵の口か、夜明け前か。どちらであってもおかしくないし、もしかしたらどちらでもないのかもしれない。
下草はじっとりと濡れ、薄墨のようなもやが川向こうを隠していた。
なんとも、虚ろな場所であった。
「やれやれ、こんなところまでご苦労様なことだ」
声の主は、湿気で青色の肌をてらてらとさせた蛙であった。
蛙は皮肉っぽくりるりると鳴いた。
「何が何やら、といった顔をしているな」
蛙の後ろから顔を出した白蛇は、血の色を映した眼を細め、重々しくしゅうと鳴いた。
「……ここはどこなの」
訳がわからないのはもう百も承知だ。最初から最後まで、事は私の都合なんて無視して吹き抜けていくのだ。
「ここはどこか、か。……残念ながら、我等にもわからない。そもそも、この期に及んで場所など意味をなさないのだ」
蛇はしゅるしゅるとわらいながらそう言った。
「意味がない……?」
「そうさ」
蛙が、りいると嘲笑って言った。
「風が居なくなれば、そこは真空さ。すぐ風が流れ込むけど、でもそれはもと居た風ではないだろう?」
言葉を切り、私の目をじっと見つめて、ふと笑ってみせた。
蛙が笑うなんてなんとも現実味の無いものだけれど、どこか懐かしい面影が胸に去来する。
「そう。なんにもない、なんにもないのさ……実の在るものは。しばしの間の残響、それだけだよ」
「我等はあの子と共に新天地へ旅立った。そうして飛沫のように、泡沫のようにつかの間残った余韻、それが我等なのだ」
「あの子……彼女のこと? どうして、彼女は行ってしまったの? 彼女は今どうしているの?」
上ずる声を抑えきれずに私は尋ねた。
まぁまぁと宥めるように、蛙はつるんと頭をなでた。
「言っただろう? みんな終わってしまった話なんだよ。あんたは一生懸命空っぽの器を叩いてただけなのさ」
なんにもない。そう呟くと蛙はピョンとひと飛びして、後には煙ひとつ残っていなかった。
草や小石や、霧や河が、亡骸のように折り重なって倒れている。
気がつくと髪も服も、露でじっとりと濡れていた。
体のなかがどろどろと溶けてきて、私は一つの淀みのようになっていた。
世界からは風が残らず消え失せてしまったみたいだ。
私は胎児のような安堵に包まれていた。
遠く遠く、心の彼方でずっと響いていた予感は今、目の前にまで現れていたようだ。
「残響なのさ……私もあいつらも、そしてあんたも」
そう。私は、思い出すために。
そして、
「風もない、空もない。ただお前の思いが写っていただけの事」
いつしか蛇も消えていた。天も、地も消えていた。サナギのようにどろどろになった私だけが虚無に浮いていた。
「そうね。……そして彼女も」
げにや、げに、蛇と蛙は晴れ晴れとして笑った。
「ご明察」
「風は風でしかないのさ」
耳元で風がびょうびょうと吹き荒れていた。
「そっか。なにもかも見当ちがいってわけだったのね」
あはは、はははと喝采の声も遠く。
澄みきった空に燃え上がる火柱のような。
私は既視感に囲まれた景色を幻視している。
「……よかった」
虚無は今や見渡す限りの秋に包まれていた。
プリズムのようにくるめく赤や黄の中に、懐かしい緑が見えた気がした。
***
同誌 日時不明 (切リ抜キ)
S市、謎の連続変死
N県下、日本有数の湖を抱えるS市において一月という短い期間に複数の変死事件が報告されている。
互いに面識はなく、さらには生活上の接点や共通軸もない反面、遺書はみな一様であり短くただ一筆「思い出すために」と記されていたとのこと。
県警は何らかの事件性を推定し調査に当たっている。
***
同誌 日時不明 (切リ抜キ)
S市少女、入水自殺か
某日、県警はS市内S湖畔にて入水を図ったと思われる少女を保護した。
病院へ搬送されたものの昏睡状態から回復する兆しはなく、数日の後息をひきとった。死因は心不全。
発見場所から数十メートル離れた場所には彼女の物とされる遺留品と樹に刻まれた遺書が残されていものの、動機は全くの不明であり、当局は事件と自殺双方の線から調べを進めている。
***
S湖、謎の旱魃
某日、N県行政庁は県下S湖において旱魃被害が起きていることを発表した。
発見者は附近住民。原因は目下調査中であるが、S湖は日本有数の豊かな湖であり、このように突然、大規模に湖水が干上がったことは観測史上例を見ないという。
なお、行政庁はS湖の調査中、国有地でなく、また登記のされていない一帯を湖畔において発見した。当該地には複数の古い民家、社、及び鳥居が残されていたため、同庁は所有者の特定を速やかに行うとした。
***
――ここはどこだったろうか。
緩慢に焦点を結ぶ意識の中、ふと私はあらゆるモノへの未視感を感じていた。
臙脂と白の線が入った紺ブレザーの袖を見て、あぁ、と一人頷いた。
そうか、高校だ、私が通っていた。
石張りの廊下を歩く音が遠く反響する。外を見れば天高く馬肥ゆる秋。薄玻璃に響くがごとき昼の陽光、吹く風の肌に冷たき、
「……なんてね」
しゃんとしない頭のままふらふらと私の教室へ入った。誰もいない、そうか、今日は休日か。
私は私の席に座り、教師の中でもっとも厳しい奴の授業を受けるときのようにきちんと背筋を伸ばして黒板に正対した。新鮮な気持ち。かつていつも通る道を逆しまに通るだけで非日常を喚び出すことができるという偉大な発見をした詩人は誰であったろうか。欠落が新しい何かをもたらすこともあるというものだ。
澄んだガラス球のようにすっきりとした教室で私は一人大きな伸びをして、はたととても大事なことに思い至った。
欠落、そうだ、欠落といえば。
私は今日の私のふがいなさに思い至り、思わず舌打ちをした。
彼女はどこに行ってしまったのだろう、私はそれだけを考えて生きているのだ。本当に。
嘘ではない、さっきまで忘れていたのだけどなにかの間違いじゃないかと思うほど、いつもその思いは心のどこかにこびりついている。
あの聡明で、美しく、でも少し抜けていて茶目っ気のある、いつも私たちとは違うどこかを見ていた彼女は、どこに行ってしまったのだろう。私にはそればかりが気にかかって仕方がないのだ。
そう、彼女。いつも私たちの憧れだったけど、しかし彼女が何を思っているかなんてちっともわかっていなかったのかもしれない。
机の左半分を秋の日光が照らしている。
陽気な明るさだけど、夏のような乱暴な熱量はない。まるで竹光みたいな。
これもひとつの欠落だろうか。
秋は何かと欠落を感じる気がする。私だけかもしれないけど、終わりの秋は死の冬より寂しいのだ。遠足よりも遠足の準備をしている時の方が楽しい、というのと同じ理屈かもしれない。あるいは死んだらどうするか、という問いが意味を成さないのと。
がらんとした教室に漂う埃が、光を乱反射して舞っている。
彼女は何を思っていたのだろう。彼女は自分の部屋で、ひとりどんな顔をしていたのだろう。そう思いながら、私は右隣、日が当っていない方の椅子を触ってみた。ひやりとした感触が手に染みた。
「彼女は、泣いていたわ」
机の向こう側に、黒いソックスを履いたすっきりした脚が二本、並んでいた。
見上げると、私と同じ制服の女の子が微笑んでいた。胸元のバッジを見るに、私の一つ下のようだ。
「私は可哀想だと思ったわ。心が二つに裂かれるのは辛いものね」
ぼんやりとした私にお構いなく女の子はそういって、まるでそれが自分の気持ちでもあるかのように目を伏せた。
「でも、彼女は最後まで朗らかだったじゃない、いつものようにさ。明日からさようならなんて顔、一度もしていなかった」
「取り繕っていたのよ。心に蓋をして、心配かけまいとしていたんだわ。きっとそう、彼女はそういう人だったでしょう」
「いや、彼女は笑っていたな」
振り返れば、教室の後扉に一番近い席、遅刻が一番ばれないと言われる席の机に、凛々しい顔をした女の子が腰掛けていた。
「そんなはずないじゃない、あなたには彼女がそんなに性悪に見えるのかしら?」
すっきりした足の女の子はぷりぷり怒りながら食って掛かる。頬を膨らませて、腰に手を当てていた。きっとそういうタイプなんだろう、私は嫌いじゃないけどね。
「違うさ。そういう意味じゃないし、彼女は間違いなく素晴らしい人だ」
凛々しい顔をした女の子は神経質そうに首を振り振りそう答えた。
「彼女は私たちみたいな凡人とは違うでしょう。量ではなく、質として……。いつまでも私たちがくっついていて善い人物じゃない、彼女はもっと自分に見合ったところへ行ったんだ。それが喜ばしくないわけがない」
女の子は喋りながら頬を紅潮させ、眼はうっとりとして潤んだ光を放っている。信仰、と言う言葉が私の頭をよぎった。
「いや、でも彼女は、自分の生き易さより周りの人のことを優先しちゃうタイプだったよ、昔からさ」
「それは過去の話なんだよ。確かに彼女は優しくもある、でも、ついに飛び立ってしまったのさ」
「ちょっといい加減にして! なんで彼女をそんな酷薄な人みたいに言うのよ!」
我慢の限界を超えたようで、すっきりした脚の女の子が机を叩いた。金属と木の板が震える音は植物状態の校舎へ静かに吸い込まれていった。
馬鹿にしたように咎める凛々しい顔をした女の子と、憤りに駆られるすっきりした足の女の子の間で口論が始まってしまった。こうなったらどちらかが馬鹿らしくなるまで喧嘩は終わらないだろう。
「さよなら」
私は、若干の寂寞と、ぽかんとした清々しさに満ちた休日の校舎を後にした。
***
川面を奔り土手の斜面を駆け上がる秋風に吹かれながら、二人の女学生を思う。
二人の、彼女に対する印象は相反するものだった。しかし、いや、ゆえに、一層私たちが共通するルーツに立つことを思い知らされるのだ。
それは、彼女への執着。彼女の存在の大きさ。私たちはみな、彼女の欠落という大きな穴に心を騒がされて、中を見定めようと躍起になっている。なんという存在の強さだろう、喪われてなお、彼女は心の中心に鎮座していた。
川向こうには、収穫を終えた水田が広がっている。残された藁は土に埋もれたり、積まれていたりで、一面ねずみ色の斑模様をしている。夏には、青々とした稲穂が、生い茂るのだろうか。
鞄を探ると、食べ物が出てきた。葡萄パンだった。
悪くない。私はそれをかじりながら土手道をぶらつくことにした。
葡萄パン。中には木の実も混ぜ込んである。なんとも秋らしい食べ物じゃないか、私はこれを造ってくれたパン職人をすっかり気に入ってしまった。どこで買ったのか、まるで覚えていないのが残念だったけど。
紅葉に栗や葡萄、茸や芋。秋は全く色彩に溢れているのに、なぜ寂しさが付きまとうのだろう。清い湧き水のような手触りの、この風のせいだろうか。さえぎるもののないあの高い空のせいだろうか。
秋は冬よりもどこか寂しいのだ。
晩年というのは死を意識してしまう分、なまじ死んでからより一層ふさぎこむものなのだろうか、私はお婆さんになんてなったことがないし、よくわからないけど。
空の高いところで風が吹いている。
パンがただ一つ、私に残された温もりのような気がして、すがるようにそれをひと欠片口に含んだ。
一つ言えるのは、秋の風が季節から熱を運んで去るとき、私たちの胸からも何かを掠め盗り行ってしまうという印象。
彼女もその風に乗ってどこかへ行ってしまったのだと思う。
なら、私たちの行為に一体どんな意味があるのだろう。喪ったものの形や手触りや匂いを心に留めておけば、季節が一巡りするうちに代わりの何かが満たしてくれるのだろうか。
二人の女の子が持っていた欠落、私はどちらのそれも違う、とは思えなかった。ただ、私の思う彼女とは違っていた。
そう、彼女を思い浮かべたときに胸に去来する手触りは、反面女の子たちの話を聞く前と後では全く変わっていない。これだけは確信できる。
ただ、それが何なのか、確かめようとするたびに焦点は狂い、掌は空を切る。
ひどく遠い。遠い昔の話のように。秋のような不安が心にまとわりつく。
「あの子は、生き神様だったんです」
不意にした声の主は道の傍に座る老婆であった。彼女の自転車には、「アイスキヤンデー」と書かれた幟と、その物が入っているであろうクーラーボックスがくくり付けられていた。
「彼女ほど立派な人物はいない。皆口を揃えて言います。当たり前なんです、神様なんですから」
「神様……?」
「ええ、私どもみんな、心の隙間やひび割れをあの子に埋めてもらっていたんです。お陰で明日とも知れない身にはもったいない大安心の境地にしていただいて……」
これ、食べなさいと差し出された季節外れのアイスキャンデーを口に運ぶ。薄寒い空の下で食べるそれは、ひやりと胃に沈んで、葡萄パンと混ざった。
「こうしてね……、一人ひとり手のひらを優しく握って下さって、いつまでも微笑んでお話を聞いてくださるんです。そうするとね、いつの間にか一座みんなの心が一つに通い合うような心持ちがするんです。蝋燭一本で、輪の外ッ側の人なんて姿も見えないのにね、あっ、今笑ったな、泣いているななんて手に取るようにわかるようになるんです」
老婆は皺の寄った掌をいとおしむように何度も撫で、日向で寝ている猫のように満足げに微笑んだ。
「心が一つになってね、何も悩みなんてなくなってしまうんです。本当にありがたくて……。ですからね、あの子には私たち、本当に感謝しているんですもの、どこかへ行ってしまったって不平一つ言いません。きっと偉い偉い御霊屋へお還りになったんだろう、なんて」
「なにが神様ですか。そうやっていい大人が焚きつけるからああいう子が調子に乗ってしまうんです」
かっちりとスーツを着込み眼鏡をかけた、いかにも厳格そうな中年の女性は弛緩した場の空気を裂くように割って入り、そう言った。
「私が担任だった頃から、彼女はそんな子でした。……たしかに、人を惹きつけずにはいられない雰囲気は彼女の個性です。でも、神や巫女といったオカルティックな考えが他の生徒に広まることは教育上よろしくない。だから私は彼女を呼んで指導しました。『学校は教育をする場です。教育とは実際に在るものを在ると教える場ですから、貴方の特殊な世界観に他の生徒が影響を受けないよう配慮して下さい』と」
そわそわと眼鏡を直す女性の心にあるのは、苛立ちか、不安か。
「そうしたら彼女、あのいつもの薄笑いを浮かべて言ったんです。『先生、アメリカの一部の学校では進化論を教えないそうです。彼らは、進化論などありえない、と思っているんですね。……そもそも在りや無しやなんて、誰が決めたら良いんでしょう』って。はっきり言って、あまりに不遜な発言だと思いました」
「見えないものを信じるも、信じないも、人が決めることではありませんか。現にあの子に私たちは助けていただいたんです、他所の人が頭ごなしにそれを跳ねつけて良いのですか」
表情をこわばらせながらも、老婆は穏やかな口調で女性を諌める。
「彼女にとってはそれが現実だったんじゃないのかな……それが正しいのか、正しくないのかはわからないけど」
「いいえ、これは人格形成の過渡期である思春期特有の行動です、例えば戦士症候群という言葉があるように……」
喧々諤々、話は終わらないがもう日は傾いてきていた。こんなところにいても仕方が無い。
私は何かに突き動かされるように土手を後にした。
***
黄昏時であった。
私は、公園にいた。
ブランコも、滑り台も、シーソーも、皆夕焼けの陽に染まっていた。敷地を囲むように生い茂る木々は濃い陰影の中に溶け合い、私の世界は朱と黒のたった二色に塗りつぶされているようであった。
誰もいない公園は、今にも燃え落ちそうな家のようにぎらぎらと照らされていた。
私は、その中に居た。
「彼女は、それを誇りだと言っていたよ」
幼い少女は私のスカートの裾をいじりながらそう言った。手の動きに合わせて、真新しい赤のランドセルが揺れる。
「何だかわからなくなってきたわ……。忘れたくなくて、ここまで来たのに。皆てんで違うことを言うから、本当の彼女がどんなだったか、どうして居なくなったのか、もう。私には」
ざわざわと書き割りの背景のような陰影が揺れる。あちこちへ翻弄されて、くたくたになった私のことを笑っているのか。
「彼女は、それを呪いだと言っていたよ」
砂場にしゃがみこんで土を盛っている男の子は、そう言ってこちらを見上げた。ランドセルはどこかに置いてきたのか、女の子と同じ年の頃に見える。
女の子は彼を認めると、たちまち嬉しそうに駆けていった。
二人は手を繋いでジャングルジムに走り寄ると、なんとも器用に、するすると頂点まで登りきってしまった。
私の方を向いて、仲良くならんで座っている。夕焼けの逆光で濃く翳った表情は、何となく無邪気な笑顔に見えた。
「そうよね、呪いは誇りね」
「そうだね、誇りは呪いだね」
夕陽の朱が子供たちに収斂していくような錯覚をおぼえ、瞬間意識が遠のく。
一緒に血の気も引いたのか、狭窄した視野は、暗い公園をいっそう冥くさえぎる。
――磁場が歪んでいるような。
そう、私はいま、奇妙な世界に迷い込んでいた。
お構い無しに、二人の子供たちは歌うように言挙げる。
「ケガレを従え、ハレを齎すの」
「祝りは葬り」
小鳥がさえずるような笑い声をあげる二人。
「スティグマね」
「うん、スティグマだね」
「お姉ちゃんはわかるかな?」
「わかるよ。いろんなしがらみを越えてこんなところまで来たんだから」
ぱちぱちと手を叩いて、私をじっと見つめてくる。
「わからないわよ!」
瞬間、血液が沸騰するかのような苛立ちに背中をどやされ、私は信じられないほどの大声をあげた。遠く、死にかけた太陽までもビリビリと震わせた。
「あんたたちねぇ、揃いも揃って偉そうに……。わかったようなことを言って、何なのよ! あんたら彼女の何なわけ!? みんなてんでバラバラなことを、それが答えですみたいな顔して言ってるけどさ、彼女の何を知っているのよ! 何でそれが彼女ですってわかっちゃってんのよ!」
一息に叩きつけると、まるで吐き戻す直前のように背骨と内臓ががくがくとわなないて、私はその場にへたり込んでしまった。
腹立たしいことに、子供たちは満足そうな笑顔を浮かべている。
ジャングルジムの傍に寄り添っている教師も、アイスキャンデー売りの老婆も嬉しそうな顔をしている。
中腹に腰かけている凛々しい顔をした女の子はにっこり笑って手を振ってみせた。すっきりした脚の女の子はその美しい脚をぷらぷらとさせている。
「なんなのよ、もう……」
知らぬ間に積み重なっていた鬱憤の最後のひとかけらは、虚脱した声となって、夕の朱と夜の青が交わっている空へ煙のように立ち上っていった。
私以外の全員が満足そうな、どこかねぎらうような微笑みを浮かべている。
「それが言いたかったのね、ずっと」
「君の心を塞いでいたものって訳だ」
「私どもの思いもわかるけれど」
「そのどれとも違う、ということですね」
「じゃあお姉ちゃんはどう思ってるの?」
「あの人は何を思って、旅だったのかな?」
穏やかな顔のまま、六人は私に問いかける
「それは……」
私が最も聞かれたくなかった核心。
何のために。何を探しているのか。かつてはあからさまなほどはっきりしていたはずなのに、今ではひどく、ひどく遠い。
それでも、私は彼女を、彼女のことを、誰より、
「それは……!」
***
暗転。一瞬の後、明転。
気がつくと私は、どこかの川原にいた。
日は落ちて、薄曇りの空に半端に欠けた月が出ている。
宵の口か、夜明け前か。どちらであってもおかしくないし、もしかしたらどちらでもないのかもしれない。
下草はじっとりと濡れ、薄墨のようなもやが川向こうを隠していた。
なんとも、虚ろな場所であった。
「やれやれ、こんなところまでご苦労様なことだ」
声の主は、湿気で青色の肌をてらてらとさせた蛙であった。
蛙は皮肉っぽくりるりると鳴いた。
「何が何やら、といった顔をしているな」
蛙の後ろから顔を出した白蛇は、血の色を映した眼を細め、重々しくしゅうと鳴いた。
「……ここはどこなの」
訳がわからないのはもう百も承知だ。最初から最後まで、事は私の都合なんて無視して吹き抜けていくのだ。
「ここはどこか、か。……残念ながら、我等にもわからない。そもそも、この期に及んで場所など意味をなさないのだ」
蛇はしゅるしゅるとわらいながらそう言った。
「意味がない……?」
「そうさ」
蛙が、りいると嘲笑って言った。
「風が居なくなれば、そこは真空さ。すぐ風が流れ込むけど、でもそれはもと居た風ではないだろう?」
言葉を切り、私の目をじっと見つめて、ふと笑ってみせた。
蛙が笑うなんてなんとも現実味の無いものだけれど、どこか懐かしい面影が胸に去来する。
「そう。なんにもない、なんにもないのさ……実の在るものは。しばしの間の残響、それだけだよ」
「我等はあの子と共に新天地へ旅立った。そうして飛沫のように、泡沫のようにつかの間残った余韻、それが我等なのだ」
「あの子……彼女のこと? どうして、彼女は行ってしまったの? 彼女は今どうしているの?」
上ずる声を抑えきれずに私は尋ねた。
まぁまぁと宥めるように、蛙はつるんと頭をなでた。
「言っただろう? みんな終わってしまった話なんだよ。あんたは一生懸命空っぽの器を叩いてただけなのさ」
なんにもない。そう呟くと蛙はピョンとひと飛びして、後には煙ひとつ残っていなかった。
草や小石や、霧や河が、亡骸のように折り重なって倒れている。
気がつくと髪も服も、露でじっとりと濡れていた。
体のなかがどろどろと溶けてきて、私は一つの淀みのようになっていた。
世界からは風が残らず消え失せてしまったみたいだ。
私は胎児のような安堵に包まれていた。
遠く遠く、心の彼方でずっと響いていた予感は今、目の前にまで現れていたようだ。
「残響なのさ……私もあいつらも、そしてあんたも」
そう。私は、思い出すために。
そして、
「風もない、空もない。ただお前の思いが写っていただけの事」
いつしか蛇も消えていた。天も、地も消えていた。サナギのようにどろどろになった私だけが虚無に浮いていた。
「そうね。……そして彼女も」
げにや、げに、蛇と蛙は晴れ晴れとして笑った。
「ご明察」
「風は風でしかないのさ」
耳元で風がびょうびょうと吹き荒れていた。
「そっか。なにもかも見当ちがいってわけだったのね」
あはは、はははと喝采の声も遠く。
澄みきった空に燃え上がる火柱のような。
私は既視感に囲まれた景色を幻視している。
「……よかった」
虚無は今や見渡す限りの秋に包まれていた。
プリズムのようにくるめく赤や黄の中に、懐かしい緑が見えた気がした。
***
同誌 日時不明 (切リ抜キ)
S市、謎の連続変死
N県下、日本有数の湖を抱えるS市において一月という短い期間に複数の変死事件が報告されている。
互いに面識はなく、さらには生活上の接点や共通軸もない反面、遺書はみな一様であり短くただ一筆「思い出すために」と記されていたとのこと。
県警は何らかの事件性を推定し調査に当たっている。
***
同誌 日時不明 (切リ抜キ)
S市少女、入水自殺か
某日、県警はS市内S湖畔にて入水を図ったと思われる少女を保護した。
病院へ搬送されたものの昏睡状態から回復する兆しはなく、数日の後息をひきとった。死因は心不全。
発見場所から数十メートル離れた場所には彼女の物とされる遺留品と樹に刻まれた遺書が残されていものの、動機は全くの不明であり、当局は事件と自殺双方の線から調べを進めている。
***
エヴァの最終回っぽいというか、仄めかしのみで展開されているので早苗さんの魅力が伝わってこないというのもありました。
では、次回作に期待しています。
作者さんが感じた早苗さんのわからなさってのはまぁ伝わったんだけど
最終的にあんまりおもしろくない
今度はそのわからなさをわかるように見せてくれたらと思うよ
物語の味付けというか方向性がハッキリとしていれば、また違った評価なのかもしれないけど