夜の風を貫いて、馬を駆る何者かがいる。
それは子を連れた父親
子を大事にそして暖かく抱きしめている。
坊や、どうしてそんな恐ろしそうに顔を隠すんだい?
お父さんには見えないの? そこに魔王<ErlKing>が居るよ。
坊や、それはたなびく霧だよ。
シューベルト作 魔王 より
* * *
昼、太陽の出ている時間。
多くの生命が活動を基本とする時間でもある。
では、妖怪達はどうであろうか。
朝に起き、昼に動き、夜に眠る。
真逆の生活を送る妖怪も多いので一口には括れないが、意外とこのサイクルで動くものが多いのも事実である。
今、広い草原を駆ける小さな影が5つ。
彼女たちも、そんな人間のようなサイクルで動く妖怪妖精の類であった。
正確に言えば、影は4つ闇が一つ。
そして、時間も昼というには影が差して、夕刻に近い。
「そーれっ!」
子供らしい、突き抜けて明るく高い声を上げて、妖精が闇に向かって抱き着く。
闇からは「きゃあ」とこれまた愛らしい悲鳴があがり、傍目からみても判るぐらいに、闇がその場に倒れ込む。
「ちょ、ちょっとルーミア、大丈夫?」
「うん、へーき」
「へへへ、ルーミアまた捕まえた!」
「チルノちゃん、そんなに勢いつけちゃ危ないよ」
闇の、宵闇の妖怪であるルーミアと、そのルーミアを捕まえた氷の妖精チルノの下に駆け寄ってくるのは、彼女たちの友人である。
「うー……また捕まっちゃった」
悔しそうな声と共に、ルーミアが立ち上がる。
周囲からは丸い闇にしか見えないが、それでも大まかな動きが判ってしまうのがなんとも面白い。
が、それ故に不便なのもまた確かであった。
「ルーミア、その能力解除しちゃいなよ。ずっと負けっぱなしじゃん」
「だって光に当たるの嫌だし」
「じゃあ、森で遊ぼうよ。あそこかなら陽の光も翳って、ルーミアも大丈夫でしょ? っていうか、いつもそうしてるのに」
「そ、それは……」
そう、いつもなら遊び場所には森を利用している。
開けた場所で思いっきり体を動かしたり、人里の近くで人間をからかう悪戯等もやるが、森だって立派な遊び場だ。
身を隠す木は沢山あるし、落ちている木の実拾いやちょっとした冒険ゴッコをやるのにだって困らない。
だと言うのに、今日はルーミアが森には近づきたくないと言い出して、一日中追いかけっこや弾幕遊び(ごっこですらない)に興じている。
それはそれで面白いし何の問題も無いのだが、光が苦手なルーミアが四六時中、自分を闇で覆っている為、ルーミアはずっと負けてばかりなのだ。
最初はルーミアをカモにしていた友人達も、ワンパターンでは段々と飽きてきてしまう。
しかも、ルーミアは何故、森が嫌なのか口を開こうとしない。
こんな事は初めてで、友人たちは首を傾げるばかりである。
そうこうしている内に、彼女の達の耳に聞こえたのはカラスの鳴き声だった。
見上げれば、見事な茜色に染まっている空にカラスたちがねぐらを目指して飛んでいるのが見える。
夜が近づいている証拠であった。
「じゃあ、そろそろ帰ろっか」
「えっ!?」
チルノが、この時間において至極真っ当な事を口にする。
対して、ルーミアは何か戸惑うような声を上げた。
闇を取り払って、友人達に必死になって訴える。
「も、もっと遊んで行こうよ!」
「えぇ? だってもう日が沈むし。お腹空いたし」
「暗くなっても遊べるよ!」
「そりゃルーミアは平気だろうけどさ、アタイ達にとっては夜はご飯食べて寝る時間だし」
周囲の友人達も、チルノに同意するように頷く。
先にも言った通り、夜に活動する者もいるが、それは言ってしまえば「妖怪としての仕事」をするようなものだ。
とは言え、脅かしたり襲うべき人間は夜には里に閉じこもり出てくるものなど稀にしかいないし、下手をすると博麗の巫女に退治されるのでそれを行う者もあまりいない。
「で、でも!」
「いいじゃん! 遊びたいならまた明日。今日はもうお終いだよ!」
チルノは笑顔で、また明日一緒に遊ぼうと宣言する。
それは陽の光を透かした氷のようにキラキラしていて、氷の妖精である彼女にこれ以上ないくらい相応しい笑顔だ。
ルーミアだって大好きな笑顔で、こういう顔ができる子だからチルノと一緒にいるのは楽しい。
いつだって、一日の終わりは笑顔でさよならをする。
チルノの言う通り、また明日ね、と声をかけあって。
だけど、今は……
「じゃあね、ルーミア! また明日!」
「ま、まって……」
引き留めようとするが、それよりも早く皆は去って行ってしまう。
別に意地悪をされている訳じゃない。ただ単純に、お腹が空いたから寒いから、はやく帰りたい。
そんな、当たり前の理由。
後には、ルーミアが一人で取り残される。
辺りは段々と暗くなる。
暗くなれば、昼にもふいていた木枯らしは益々冷たさを増していく。
こんな寒さでは、ますます外を出歩く人間もいないし、なによりルーミア自身が外にいたくない。
それを考えれば、友人達がいなくなるのも、当然なのだが。
「……こ、怖く無いよ、妖怪なんだから、怖くなんかない」
自分に言い聞かせるように、ルーミアは家路に急ぐ。
森の中に在る、自分の塒に。
まるで怯える鼠のように、何かから身を隠すように、その小さな体を更にちぢこめて、翳る陽を浴びて黒い口を開くような森の中へと走り去っていった。。
* * *
可愛いぼうや、儂と共に行こう。
儂と共に遊ぼうではないか
岸辺には見事な花が一面に咲き誇っているし
儂は美しい服を沢山もっているぞ
お父さん、お父さん聞こえないの?
魔王が僕に囁いているのが!
静かにしていなさい息子よ。
枯葉が風にざわめていているだけだよ
* * *
日は沈み夜が過ぎ、また日が昇る
朝が来て昼が近付く。
それは、子供達の時間だ。
正確に言えば、妖精や妖怪は子供、とは言い難い。
姿形は幼く、物言いもそれに見合うように聞こえるものの、その中に確かな年月の積み重ねが見える。
狡猾に見えて打算的、物は知れど考えなし。
無礼に見えて洒落ており、落ち着きが無いように見えて地に足を付けている。
洒落た言葉遊びに興じているかと思えば……実にシンプルな体を動かす昔ながらの遊びが好きだったり。
その日のルーミアも、友人達とそんな遊びを楽しんでいた。
森に入るのは相変わらず嫌がったが、それでも幻想郷は遊び場には事欠かない。
今日の彼女たちの遊び場は、太陽の畑である。
夏には目もくらむばかりの眩い向日葵で埋め尽くされるその場所も、秋の際たるこの季節には向日葵も頭を垂れていささか寂しい印象を受ける。
だがその代り、大量の向日葵の種を拾えるのだ。
思いっきり遊んで、小腹が空いたら向日葵の種でそれを満たす。
外の世界では、種を殻ごと食べて口から吹き出すのが主流な食べ方と聞いて、試してみてからすっかりはまってしまった。
口の中で種をカリっと砕いて。中身を食べてプッと吹き出す。
西瓜の種吹きの様で中々に面白い。
面白くて美味しければ、ついつい食べ過ぎてしまうものだ、
「あー! 美味しかったー!」
お腹いっぱいになるぐらい種を堪能して、彼女たちはすっかり上機嫌だ。
「ちょっと食べすぎたかな?」
「へーきへーき、まだまだ沢山種落ちてるんだし」
「でも、こんなに汚しちゃって……」
確かに、見れば地面に種の殻が小さな山を幾つも築いている。
「もし、幽香に見つかったら……」
その一言に、彼女たちはひえっと首を竦める。
風見幽香、言わずと知れた太陽の畑の主。
嘘か真か知らないが、他人を虐めるのが日課なのだという。
その為にあちらこちらの人妖に喧嘩をふっかけ……るのは幻想郷の住民としては大して珍しくもなんとも無いとして。
力の強い妖怪である、と言うのは事実であり、力が強く無い彼女たちとしてはあまり遭遇したくない。
「でも、種美味しいよね」
お互いに頷く。
幽香は怖い、が、種は美味しいし惜しい。
「できるだけ、取ってちゃう?」
そうだ、持って行ってしまおう。
持って帰って、またゆっくり愉しもう。
まだまだ沢山あるから沢山持って行ってもきっと幽香は気が付かないだろうし、なにより幽香のような強い奴からなにかを掠めとるというのは実に痛快だ。
面白い悪戯を思いついて、クスクスと笑う。
だから、早速彼女たちは萎びた向日葵畑の中に飛び込んでいった。
夏には鮮やかな色を精一杯に解き放って、まるで窒息しそうなその畑。
でも、今はすっかり力を失って、ルーミア達が駆けてゆくのに丁度良い。
太陽の光を浴びて太陽を向く向日葵たちが、ある程度陽の光を遮ってくれるので、ルーミアも自分を闇で覆わずともなんとかなる。
夢中になって種を集めて、瞬く間にポケット一杯になってしまった。
「ねえ、チルノ、何か袋持ってない?」
持ってる訳無いと判っていつつも、貪欲さが勝って聞いてしまう。
だが、返事が無い。
おや? とルーミアが周囲を見渡すと、さっきまでいたはずのチルノ達が居なくなっていた。
どうも、種拾いに夢中になってはぐれてしまったようだ。
「チールーノー 皆ー」
名前を呼びながら、ルーミアは向日葵の迷宮を歩く。
ポケットに詰め込んだ種がぽろぽろと落ちてしまう。
折角の獲物が惜しくて、時折ポケットにちゃんと収まるように直しながら、いつもの闇とは違った閉ざされた世界を歩く。
「どこ行っちゃったのかな」
しばらくウロウロしていたが、どこにも見つからない。
そうしている内になんだが疲れてしまって、歩くのが億劫になってしまう。
最近は、よく眠れなくて寝不足なのだ。皆で騒いでいる間は忘れて居られるが、こうして一人になると段々眠気が忍び寄ってくる。
「ふわぁ……」
大きな欠伸を小さな手で遮って、とろんとしてきた目を覚醒させるために擦る。
あぁ、もう駄目だ、何処か適当な処で一眠りしよう。
物陰はどこかに無いものか。
まだ日が高いし、森も遠いから「アイツ」もここには来ないだろう。
そんな風に考えて、今度は陰を探す。
こちらは見つけるのが比較的簡単で、迷宮を抜けたすぐ先に丁度いい大きさの岩がある。
やあ、これは丁度いい。
チルノ達は、後で探せばいいや。
ルーミアは、太陽から隠れて陰に潜む。
宵闇の彼女にとって、本来そこは数少ない安息の場所だ。
冷たい岩に背を預けて、ルーミアは微睡の中に堕ちてゆく。
風が騒めく。
揺れる向日葵たちも同じように騒めき、なんだか話をしているように思えた。
それは本当に風が騒めいているだけなのだろうか。
話をしているよう、ではなく本当に話をしているのではないか。
頭を垂れて、ひそひそひそひそと。
ルーミアは、岩陰からそっと覗いてみる、
周囲は嫌に暗く、良く見えないがそれでも無数の影が揺らめいているのは判った。
それらが、向日葵達である事も。
枯れ果てた彼等、死ぬ行く彼ら、嘗ては瑞々しかったであろう衣を纏ったそれらが何かを相談している。
あんなに大勢で、何を話しているのだろう。
それが気になって、ルーミアはじっと様子を伺う。
その、ルーミアの視線に気が付いたのか、不意に向日葵が此方を向いた。
大きな大きな、一つの黒い瞳。
無数にあるその瞳が、ルーミアを見つける。
思わずルーミアはひっと悲鳴を上げて、岩陰に隠れてしまう。
だが隠れても無駄だ、確かに視線が合った。間違いなく、ここに居るのをあいつ等は判っている。
その証拠に、岩の向こうであいつ等がさっきよりも大きく喚いているのが聞こえてくる。
まるで、何かを大声で呼んでいるようだ。
一体何を呼んでいるのだろう、なんにしろ、ここにはいられない。
音を立てないように、ゆっくりと這い出す、慎重に慎重に進む。
本当は、恐怖で体が竦んでいる。
思うように動かない自分をなんとか鞭うって動かしているのを慎重に進むと自分に言い聞かせているにしか過ぎない。
だから、逃げて居るつもりでも、全然その場から離れて何かいない。
だから、そう、だから、見つかってしまった。
闇の中に現れる影。
それが、ルーミアを覆う。
背を向けていても尚昏くなったを自覚出来てしまうほどの昏さで。
呼吸が止まってしまうと思うほどに息を呑み、ルーミアは後ろを振り返る。
嗤っていた。
哂っていた。
小さなルーミアを嘲る様に、大きな大きなそれが。
大気を圧するほどの大声で。
そして、ルーミアに赤紫の穢れた指を伸ばすのだ。
其処ら辺におちている木の実を拾い上げるような仕草で、指がルーミアをむんずと掴み……
「きゃあああああああああああああ!!」
「!?」
甲高い悲鳴を上げて、ルーミアは目を覚ました。
同時に、ルーミアの目の前にいた鮮やかな紅が驚きに見開かれる。
「起こしたぐらいで悲鳴だなんてご挨拶ね」
「あ……え?……」
浴びせられた冷ややかな声に、ルーミアは戸惑う。
気が付けば、周囲は日暮れ時、そして目の前には一人の妖怪が佇んでいる。
夏の草花の様な髪と、満開の薔薇のようなその瞳の妖怪を、ルーミアは知っていた。
「ゆ、幽香?」
名前を呼ばれた風見幽香が、ジロリとルーミアを睨みつける。
ルーミアと同じ色でありながら、ルーミアには無いえも知れぬ“凄味”が宿ったそれに射貫かれ、夢の中とは違う形で固まってしまった。
夢?
そこで、ようやくルーミアはついさっきまで見てたものが夢であった事に思い至る。
そうだ、夢なのだ。
ここは太陽の畑で、自分が住処にしている森では無い、だからあいつが居るはずがない。
「よ、よかったぁ」
安心して、大きく息を吐き出す。
「変な子ね」
が、また固まる。
そう、あいつは居なくても、風見幽香が居るのだ、しかも見つかってしまった。
「向こうでチビ達が独り足りないと騒いでいたけど」
どうも、皆も見つかってしまったらしい。
「え、えっと……」
喧嘩をふっかけられたら、どうしようか。
弾幕ゴッコならもしかしたらほんのちょびっとだけ、勝機があるかもしれない。
そんな、淡い期待と虐められるのではないかという不安が言葉を詰まらせる。
「来なさい、他の連中が待ってるわよ」
それだけ言って、幽香は足早に歩いていってしまう。
ルーミアも立ち上がって、慌ててそのあとを追う。
夕刻に日傘をさして、大きな影をつくるその後ろ姿。
振り返りもしないし、話も無い。
ルーミアも、幽香に話しかける勇気が無い。
なんとも、気まずい道中である。
「ルーミーアー!」
「あ! チルノ!」
不意に、その雰囲気が打ち破られた。
見知った顔の妖精が、自分の名前を呼んだからだ。
声の先を辿れば、そこにはチルノと友人達が集まっている。
おもわずルーミアは彼女たちの元へと駆け出した。
「もう、ルーミアどこいってたのさ!」
「ご、ごめん」
「私たち、すっごく探したんだよ」
「お蔭で幽香にも見つかっちゃうし」
「良く言うわ、途中で向日葵の種を集める事に夢中になっていたでしょう」
上から咎めるような声が降ってきて、友人達がうへぇと首を竦める。
幽香の言う事が本当なら、なんとも調子の良い事だが、ルーミアとて探している間に居眠りをしたのだから人の事は言えない。
要するに、いつもの様子で、ようやくルーミアはほっとして安心した笑みを浮かべた。
「それじゃあ、もう帰ろうよ!」
もうだいぶ日も傾いてきた。
すぐに夜がやってくるだろう。出来るなら、暗くなる前に家に帰りたい。
そういう思いからの発言であったが、またしても頭上からそれを遮る声がした。
「ダメよ」
ルーミアも、友人達もそれに凍りつく。
やはり、見逃してはくれないのだろうか。
向日葵の種もこんなに取ってしまったし。
「なによ、向日葵の種ぐらいいいじゃん!」
あ、バカ!
ルーミア達が止める間も無く、チルノは一歩前に出て幽香に抗議する。
なんて無謀な、いくら妖精だからって!
「そうじゃないわ」
しかし、氷精の気勢に対して、幽香は至って自然に対応していた。
チルノとルーミアたちをじろりと一瞥して、すこし不機嫌な感じで日傘を手の中で弄ぶ。
「向日葵の種の殻を散らかしたのは、貴女達ね?」
幽香の瞳に、判りやすい感情がゆらりと揺れる。
「片づけていきなさい」
有無を言わさぬ一言であった。
それから、ルーミア達は向日葵の種を堪能した場所に戻され、幽香が用意していた箒と塵取りで念入りに掃除をさせられた。
どういう訳か、殻ところか落ち葉まで掃除をする羽目になってしまい、日もほとんど沈んでしまっている。
「……まぁ、このぐらいで良いでしょう」
大分すっきりした太陽の畑の一角で、幽香が終了の一言を告げる。
「うへぇ、大変だった」
「最初からきちんと片づければ、こうはならなかったわよ」
「なんでさ、いいじゃん、鳥や鼠だって其処ら辺に殻落としてるし!」
「獣には獣の理と礼節が、そして知ある者には知あるものの理と礼節があるの、貴方達は知のあるものなのだから、自分のだしたゴミはちゃんと自分で片づけなさい」
「幽香もゴミの片づけとかするの?」
「当たり前じゃない、やらないのは愚か者か王様ぐらいよ」
「王様はしなくていいの!? じゃあ、アタイ王様になる!」
「……貴女が? 王様に?」
「うん、妖精の王様って格好いいじゃん!」
「止めておきなさい」
「なんでさ」
「王様には王様の理と礼節があるの、掃除よりも大変のがね」
「掃除より大変?」
「そうよ。妖精王<ErlKing>を気取りたいのなら、そういうのを幾つもね」
「うへぇ」
ルーミア達は茫然とするしかない。
あの幽香と、風見幽香と、ごくごく普通に話をしてるチルノ。
……いままでちょっぴり見下していた事があったけど、今度からは改めよう。
そんな事を誓っていた処に、木枯らしが一つ吹く。
そして、ルーミアの視界の端で影が揺れた。
「ねぇ! もう終わりなんでしょ!? 帰っていいんでしょ!?」
薄暗がりに、宵闇の悲鳴にも等しい声が上がる。
チルノも友人達も、そして幽香も、びっくりした様子でルーミアを見た。
「えぇ、良いわよ」
返ってきたのは、変わらぬ幽香の静かな声。
「おお、そうか! それじゃあ帰ろう!」
続くチルノの元気な声を切欠に、彼女たちは「またね」「明日ね!」「さようなら!」とそれぞれの家路を目指す。
無論、ルーミアも同じように、いや、かなり急いだ様子で走りだそうとした。
「ルーミア」
太陽の畑の主に、呼び止められる。
ルーミアが振り返ると、幽香はじっとルーミアを見つめてこう言った。
「何が、怖いの?」
「っ!? こ、怖くなんか無いよ! 絶対に、怖くなんかない!」
私は、宵闇の妖怪なんだから!
ルーミアはさっきよりも行き詰まった大声を出して、そしてその叫びから逃れるように空を目指す。
月も隠れた夜が、そこには広がっていた。
* * *
さぁ、可愛い子、儂と共に行こうでは無いか
儂の娘達はお前と仲良くするようにに言いつけてある
儂の娘たちは夜毎に舞い踊る
お前と共に遊び、子守歌を唄って寝かしつけてくれるよ
お父さん見えないの!? 暗がりにいる魔王の娘たちが!!
勿論見えているとも、お前が見ているのは、古い柳の木だよ。
* * *
星のみが瞬く夜である。
月は地球の影に隠れてしまい、その姿を観る事が出来ない。
即ち、いつもよりも闇の深い夜である。
日の光を優しく遮る木陰も、雄大なる山も、この夜は全て闇の中に呑み込んでしまう。
本来であるならば、それはルーミアにとって本領たる世界だ。
だからルーミアは走る?
宵闇の妖怪が、闇の中を走るのは不思議でも何でもない?
そうかもしれない。
ただ、その幼い面影に恐怖と焦りさえ浮かんでいなければ。
月明かりすら無い夜の森はまさに漆黒である。
日の昼間ですら、どこか薄暗さが伴うのに星の光で森を照らしきれるわけが無い。
手を伸ばした先すら何も見えず、聞こえるのはただ風の音とルーミアの足が、枯葉を踏む音。
自分の塒を目指して、一直線に走る。
早く帰りたい。
早く帰って扉を閉めて鍵をかけて。
布団の中に潜ってじっと息を潜めなくては。
早く、早く、早く。
そう思えば思うほど、通り慣れたはずの道が嫌に遠い。
とっくに着いていてもおかしくないぐらいに走っているはずなのに、まだ見えない。
じわり、と不安がこみあげてくる。
ひょっとして道を間違えたのではないのか?
もしかして、通り過ぎてしまったのではないか?
まさか、間違えて別の森に入ってしまったのではないか?
いや、それよりも、それよりも……
暗い森が、ルーミアの不安に呼応するかのように騒がしくなる。
風に揺られている?
いや、違う、これは自ら震えているのだ。
黒い森が、愉悦に震えている。
憐れな獲物が、自分の腹のなかで右往左往しているのを見て、ケタケタと笑っている。
早く、早く、早く、早く
早く、早く、早く、早く、早く
早く、早く、早く、早く、早く、早く!
もうこんな処にいたくない!!
不意に、視界が開けた。
深い漆黒の中に浮かび上がる一本の老木
きっと長い時を、下手な妖怪よりも更に古い時を重ねてきたに違いない。
人が見ても妖怪が見ても、大きく力強いと断言できるその老木。
「あ……」
自分を出迎えるように現れたソレを見て、ルーミアは間の抜けた声しか出せなかった。
木の実なのかなんなのか、赤紫のなにかを幾つもぶら下げたソレ。
ソレが、くるりと「振り返る」
そうしてルーミアを見つけると、ニヤリと嗤った。
無論、眼など無い。
だが視線を感じる。
うねる樹皮が果て無く歪み、そこには奈落のような瞳が燃えている。
当然、口など無い。
だが声が聞こえる。
底知れぬ洞がぱっくりと開いて暗黒を覗かせている。
フフフフフフ……
ハハハハハハハハッハハハ!
アーッハッハッハ!!!
巻き起こる風に乗って、老木の笑い声が木々の間を駆け抜けてゆく。
太い枝から伸びた赤紫の指で闇夜の空をさらに覆い。
年月を重ねた古いローブを広げて、まるで森の支配者の様に振る舞っている。
ルーミアはその威容を見て、思わず後ずさりをしてしまう。
影のようなその巨体だけでも恐ろしいのに、響き渡る笑い声はルーミアの体を押しつぶしてしまいそうだった。
そうだ、あの時と同じだ。
夜の闇が心地よいと、気分よく愉しんでいたあの日、ルーミアはコレを見つけてしまった。
この黒い森の中、数多の何かを従える、この恐ろしい魔王を!
魔王が、面白そうに何かを指さす。
つられてルーミアが振り返る。
何もいない? 否、見えないだけだ。
そこには、無数の何かが蠢いている。
木の陰に、枯葉の下に、森の闇の奥に。
正体は伺いしれない、だがどれもルーミアを周りをまる取り囲んで、まるで檻を作る様に踊り狂っている。
儂はお前が気に入った。
魔王が口を開く。
森の闇そのものを衣の様に引きずって、ルーミアに近づいてくる。
お前を連れていくとしよう。
魔王の眼が愉快に歪む。
だがそこには病のような悪意が渦巻いている。
嫌だと言うなら
魔王が嘲笑う。
腐敗した汚泥のような声を上げて。
そして、そして、あの夢の様に、穢れた赤紫の指を伸ばして……
力 づ く だ ぞ ?
「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
夜を斬り裂く悲鳴を上げて、ルーミアは空に逃げた。
早く森から逃げなければ!
森は何処へ行っても、魔王の庭なのだ、空にしか逃げ場は無い!
嗚呼、でも、でも!
フハハハハハハハハハハハハハハ!!
空に逃げても、魔王の嘲笑がルーミアを捉えて離さない。
妖怪である自分が、宵闇の妖怪である自分が、闇から逃げているのだ!
自分の領域である闇から逃げるなんて、こんな事があるのだろうか!
だが信じようとも信じられなくても、ルーミアが追われているには違いない。
渦巻く何かが迫ってくるのがはっきりと判る。
たった一本の木が、何もかもを巻き込んで、鼠を呑む蛇の如く空を這うのを感じる。
一切の光の無い、圧倒的な量の闇。
その中で、おぞましい悪意が嗤っている。
小さなルーミアをまるで狩りをするように追いまわし、弄ぶ。
あの指を伸ばしているのだろうか?
あの衣で空を覆い尽くしているのだろうか?
あの眼で自分を捕えているのだろうか?
どこにいて、何をしようとしている?
感じはすれど、目にする事が出来ない。
逃げるしか出来ないのに、どこに逃げればいいのか判らない。
そもそもに、今どこを逃げているのかすら判らない。
嗚呼! 何も見えないと言う事がこんなにも恐ろしいなんて!
「きゃあ!?」
空から地に、ルーミアは叩き落とされる。
直前には、何かに突っ込む感触。
それに邪魔されて、ルーミアは飛行制御に失敗して大地を転がってゆく。
おそらくは、木か何かにぶつかってしまったのだろう。
十分な高度を取っていれば、確実に避けられたのだろうが、今は自分がどの高さで飛んでいるのかすらルーミアには判らなかったのだ。
「いたい……」
全身を隈なく叩き付けしまい、耐え難い鈍痛がルーミアを苛む。
だが、その傷みがルーミアの心に届く前に、再びあの気配が迫っている事を察する。
深い暗闇のベールの向こうで、ルーミアの醜態を見て嗤っている。
見えもしないのに、それだけがなんだかはっきりわかって、悔しさと恐怖があふれ出てきてしまう。
立ち上がって、走る。
のろのろと、空を飛ぶよりも遥かに遅い。
空を飛ぶ力も湧かない。
背後からの気配だけではない。
昼間にも観た無数の単眼がルーミアを見下ろしている。
逃げ場なんて、どこにあるのだろう。
けれども、逃げなければ捕まってしまう。
体が痛い。
空気が冷たい。
お腹が空いた。
もう疲れた。
もう、こんなのは嫌だ。
だれか、だれか……
「助けてよぉ」
か細い、口から洩れた瞬間、消えてしまうような願いであった。
そう、消えてしまうような願いであったが……ルーミアはその時、希望を見つけた。
灯りだ。
夜の闇の中に、小さな灯りが見える。
そこに、だれかがいる。
そう理解したルーミアは最後の力を振り絞る様に走りだす。
向日葵の躯を駆け抜けて、一縷の望みを灯りに託して。
そうして、ルーミアがたどり着いたのは、一件の小屋である。
独り住まいには丁度よさそうな、ログハウス。
明るい処で見れば、外の世界から流れ着いたような素敵な家だと興味が沸くかもしれない。
しかし、今のルーミアにそんな余裕は無い。
小屋の扉に息を切らせて縋りつき、思いっきり拳を叩き付ける。
「誰か、誰か! 助けて!」
ドンドンドンと、何回も扉を叩き助けを求めた。
もう、一歩も動けそうにない。
この扉が開かなければ、きっと自分は魔王に連れ去られてしまう。
誰でもいいから、扉を開けてくれないか。
そんな、必死な願い。
そして、その願いは通じた。
「騒々しいわね、一体なんなの?」
静かな、しかして威圧的な声色を、ルーミアは知っている。
ついさっきに、聞いたばかりの声だ。
「幽香」
「……また貴女?」
風見幽香が、怪訝な顔をしてルーミアを見下ろす。
普通なら、ここで逃げてしまうだろう。
風見幽香の家に押しかけてこんな事、おっかなくてできるはずがない。
しかし、この時はそんな事よりも、見知った相手が出てきた安心感の方が勝った。
「お願い幽香、助けて!」
ルーミアは叫ぶ。
幽香は困惑する。
もしかして、助けてもらえないかもしれない。
そんな、絶望的な不安がよぎった時、幽香が体を横に寄せる。
「入りなさい」
「え……」
「早く」
幽香に急かされるまま、ルーミアは家の中へと滑り込んでいった。
* * *
その中でまず目にしたのは、煌々と闇を跳ね除けるランプと寒さを押しのける暖炉の火である。
背後からはガチャリと鍵をかける音。
外と中を隔てる音を、それを実感する事もできず、何もできずにただ茫然とするばかり。
そんなルーミアを、ふわりと何かが包み込んだ。
暖かな感触の正体は、良い匂いのする毛布と、毛布越しに触れる幽香の手。
そのまま幽香の手は、ルーミアを暖炉の前に誘う。
薪が爆ぜ、炎が揺らめき、暖かさが毛布を通じてルーミア伝わる。
「ほら、飲みなさい」
幽香が、白いマグカップを差し出す。
白い湯気が立つそれを、言われるがままにうけとり口をつけた。
ほのかに、甘い。ただのお茶ではない、蜜か何かを溶かしこんでいるのだろうか。
蜜と暖かさが、寒さと恐怖に縛られていたルーミアを解きほぐす。
「何があったの?」
「……幽香」
ここに至り、ようやくルーミアは自分が助かったのだと理解した。
自分を追っていた漆黒のような楔が抜け落ち、押しとどめていたものが流れだす。
「幽香……幽香……!……幽香ぁ……!」
わんわんと、大声で泣く。
幼いその姿そのままに。
だが必死になって言葉を紡ぐ。
森の中で恐ろしい何かが居た事。
その何かに追われここまで逃げてきた事。
何回も言い間違えたり、言葉が詰まったりしたが、確かに幽香に伝わる。
「……それに会ったのは、今日が初めてじゃないわね?」
「……うん」
「だから、昼間様子がおかしかったのね」
「だって、私、妖怪なのに、宵闇の妖怪なのに、闇にいる何かが怖いなんて……」
ルーミアとて、一端の妖怪である。それ故に、プライドもある。
自分の住処の、自分の時間に、得体の知れない何かを怯えているなど、言い出せるはずがない。
「全く」
幽香の呆れるような声。
それを聞いて、ルーミアはしょげこんでしまう。
結果がこれでは、もう何も言えない。
「今夜はここに泊まっていきなさい」
「……いいの?」
「あの夜の中に出てゆけるの?」
思いっきり首を振る。
「明日になったら、その怪物がいる処に案内しなさい」
「な、なんで?」
「興味があるからよ」
それだけ言って、幽香はその場を立ち去る。
残されたルーミアは、暖炉の暖かさから離れられず、視線で幽香を追うばかり。
それも適わなくなって、なんとなくカップの中身を啜る。
ちょっとだけ熱いそれが、唇を潤してくれるのであった。
それからの事は、ルーミアにとって信じられない事ばかりだった。
まず、地面に叩き付けられて埃だらけ土だらけになった服を脱がされ、暖炉にも負けないぐらいあったかい湯船に入れてもらった。
たっぷりのお湯に肩まで浸かって、とてもいい気持になったし、さっぱりもした。
お風呂から上がったら、渡された寝巻に着替える。
桃色のシンプルだがとっても可愛い寝巻だ。
サイズがあっていないので、手も隠れてしまうし、スカートも引きずって歩きづらい。
自分が着るとぶかぶかで似合わないけど、きっと、幽香が着たらすごく似合うんだろうな、とそんな事が容易に想像出来てしまう。
着替え終わった後は、食事である。
出された物は、ジャガイモと鶏肉のミルク煮だ。
白いスープの中で、堂々と自分を主張するジャガイモと鶏肉。
まるで思いっきりかぶりついてくれ! と言わんばかり。
そんな御馳走を前に、幽香は静かに「いただきます」と礼をして、ルーミアも同じように「いただきます」と礼をする。
本当に、食べていいのだろうかと幽香をちらりと見やる。
ルーミアのそんな様子に気が付いていないのか、気が付いていても無視しているのか、幽香はもくもくと食事を始めた。
助けてもらって、お風呂に入れてもらって、食事を用意して貰う。
どれも、ルーミアにとっての風見幽香のイメージに当てはまらない。
故に、戸惑う。
「冷めるわよ」
戸惑いを穿ったのは、やはり風見幽香であった。
短い、聞きようによってはつっけんどんな言い方であるが、早く食べなさいと言っているのは明白である。
「う、うん」
せっつかれて、ルーミアはミルク煮を口に運ぶ。
たっぷりとスープが染みで口の中で崩れるジャガイモ。
しっかりとした、それでいて噛むのが苦にならない鶏肉。
そういうのがお腹に入ったのだ、もう戸惑いも遠慮もルーミアを止められない。
ルーミアは皿の中を呑み込みそうな勢いでミルク煮を書きこむ。
付け合わせのサラダにも手を伸ばして、口いっぱいに食べ物を詰め込むのだ。
ゆっくり味わって食べるのが、良い食べ方なのはルーミアも知っている。
ただ、それと同じぐらい、沢山の食べ物でお腹一杯に満たしてゆく幸福感も食事の重要な要素だと信じている。
そんな感じで食べるものだから、瞬く間に皿は空になってしまう。
「お代りは?」
「ちょうだい!」
絶妙なタイミングでの呼びかけに、ルーミアは迷わず皿を突きだす。
辛うじてジャガイモを呑み込んで、返事ができただけ僥倖と言うべきなのだろうか。
何にしろ、ルーミアの前には幽香の手によってまたミルク煮が運ばれてきた。
具が惜しみなくたっぷりと入った、山盛りのミルク煮だ。
もちろん、ルーミアはそのミルク煮にスプーンを滑らせてほくほくのジャガイモやあつあつの鶏肉を口に運ぶ。
一方の幽香はゆっくりと噛みしめながら食べる。
ルーミアが2杯目を食べている最中でも、まだ一皿目の半分程度だ。
とても対照的な光景であるが……きっとそれは珍しくもない光景なのかもしれなかった。
やがて腹が満たされ、二人で御馳走様と礼をして、食事が終わる。
後片付けは、ルーミアも手伝った。
食事を振る舞ってもらって、そのまま片づけまで任せるほどに彼女は図々しくも子供でも無い。
私がやるよ、と申し出て、幽香が、なら手伝ってと返す。
二人分の食器で大した手間では無い、甕の水を汲んで、食器を洗い、拭いてからよく乾かす為に並べるだけだ。
けれども共同作業をやるなんてルーミアにとってはあまり経験が無い。
だからから、ちょっとだけ、ちょっとだけ楽しかったし、幽香が「ご苦労様」と言ってくれたのが嬉しかった。
そんなささやかな時間も終わって、ルーミアはベッドの中にいる。
ごく普通のシングルベッド。普段、風見幽香が使っているベッドだ。
「幽香は、どうするの?」
「貴女がそんな事を気にしなくてもいいでしょ」
言い方は、やっぱり冷たい。
他人を突き放しているような、変わらない幽香だ。
けど、けどもしかしたら……
ルーミアが、ある期待を持った時、窓から大きな音が聞こえた。
何かが思いっきり叩き付けられる音。
窓を揺らして、こじ開けようとしているような音。
もしかして、魔王が入ってこようとしているのではないか。
おもわず、ルーミアは首を竦めてしまう。
だが、ルーミアに触れるのは魔王ではない。
「大丈夫よ」
「幽香?」
「何が来ても、私が倒してやるわ」
「幽香が?」
「この、風見幽香の力を疑うの?」
ルーミアは首を横に振う。
幽香の声は、自信に満ち溢れていた。
風見幽香が、強者であるのが当たり前だと言わんばかりに。
そして、ルーミアも幽香が強者である事を知っている。
「それじゃあ、早く寝なさい」
「うん、あ、ねぇ幽香」
「何?」
呼び止められた幽香の瞳がルーミアに向く。
やっぱりそうだ。
“凄味”があって、気づきづらい。
物言いもちょっとキツくて判りづらいけど。
幽香の目は、全然怖く無い。
優しい目だ。
「ありがとう」
だから、ルーミアは自然とその言葉を言えた。
言わなければ、いけない言葉だった。
「いいわよ、そんなの」
幽香は、そっけなく返して部屋を出て行く。
顔を背けていたので、表情は判らない。
けどきっと、微笑んでいたのだろうな、とそんな気がした。
* * *
再び日は上り、朝が来る。
幻想郷の隅々で照らすようなその時に、森の前に二輪の花が佇んでいた。
一人は、勿論、風見幽香。彼女自身のトレードマークとも言える日傘をさして。
もう一人は、その後ろを追うルーミアだ。
幽香が夜中に洗って暖炉の前で乾かしてくれたいつもの黒い服に、これまた幽香が貸してくれた日傘をさして幽香の後ろに隠れている。
夜は何もかもが黒に沈む森も、この時間はただ季節の姿をそのままに枯葉で全てが埋まっていた。
だが、譬え黒にあらずとも、ここは恐ろしい魔王の森。
「行くわよ」
「う、うん」
優雅に森に進む幽香。
ルーミアは、コンパスの違いもあるがそれ以上に戸惑いのある足取りで必死に後を追う。
不安げに周囲を見回すルーミアであるが、森は想像以上に静かだ。
あの影たちもいない。
陽の光が、彼らを押し込めているのだろうか。
やがて、昨夜の恐怖が嘘の様に、二人は一本の木の元へたどり着く。
高く太く、力に満ち満ちた木。
赤紫の実を幾つもぶら下げた、老木であった。
「こ、これだよ」
「……ふぅん」
幽香は老木に近づき、その周囲をぐるりと回る。
その細い指で老木に触れ、燃えるような眼で何かを見定めるように。
「……なるほど」
何かを悟ったのであったのだろうか。
今度は老木から遠ざかり、手にした大輪の花を畳んでしまう。
「ルーミア、下がっていなさい」
ルーミアは、言われた通りに幽香から離れ、近くの木の陰に隠れる。
そうして恐る恐る覗き込んでみれば、老木と幽香の間に、なにか緊張が高まっていくのが判る。
「木を揺らすのは風かしら? それとも霧? いいえ貴方のような古いものなら、それは必要ないでしょうね」
幽香は、手の傘を老木に突きつける。
それはまるで、花でできた剣の様だ。
「姿を現しなさい。それとも、この私が恐ろしくて出てこれないのかしら?」
侮蔑を含んだ声。
ルーミアも聞いたことが無い、幽香の声色。
「さぁ、榛の木の王<erlking>よ! 曲がりなりにも森の支配者なればこの風見幽香の挑戦を受けるがいい!!」
まるで絵画に描かれたお伽噺。剣をもった女傑のような幽香の姿。
そして、その在り様にこれ以上ないくらいに相応しい、高らかなる宣戦である。
これを受けて、応えるものがいるであろうか?
無論、いる、だからこそ風見幽香はここに居るのだ。
フフフフ……
笑い声が聞こえる。
老木が、否、森そのものが歪む。
歪みが形作るのは、あの奈落のような目と、暗黒の咢。
ルーミアはその威容を目の当たりにするだけで、身をすくませてしまう。
フハハハハハハ……ハーハッハッハッ!!
魔王が、幽香の宣戦を呑み込むように高笑いを上げ、それに伴い歪みは更に大きさを増す。
森の全てが、魔王の中に堕ちてゆくように。
「幽香!!」
ルーミアは悲鳴を上げる。
ほんの少しでも気を抜けば、たちまちの内に魔王の腹に引きずり込まれそうだ。
だが、その時ルーミアは見たのだ。
魔王の前に立ちふさがり、魔王の嘲笑などものともしない一つの花を。
「この程度?」
花が、魔王を笑う。
不遜? 傲慢? 虚勢?
否、これが風見幽香なのだ。
あの四季映姫ヤマザナドゥを前にしても一歩も引かなかった、大妖の姿である。
ルーミアは、その花を眼に焼き付ける。
だってそれは、幻想郷で最も美しい花に違いない。
刹那、花が光を放つ。
魔王に向けて目もくらむような極大の光。
幽香の前に立つものすべてを薙ぎ払う、恐るべき奔流であった。
魔王の歪みと幽香の光、その二つの衝突が、森に轟く。
圧倒的な暴力のせめぎ合いに、ルーミアはたまらず目を閉じて身をかがめる。
次の瞬間、何かが破れられる音と、爆音がその場の全てに襲い掛かった。
地と天も揺るがすような衝撃が駆け抜け、やがてそれは静かに治まってゆく。
「……もう大丈夫よ」
ルーミアに語りかける幽香の声。
恐る恐る顔を上げれば、そこには、風見幽香と老木があった。
森は静寂を取り戻している。
光と歪みの為か、木々の枯葉が沢山落ちているだけで、老木もほかの木も傷ついてはいない。
「や、やっつけたの?」
「えぇ」
「本当に?」
「本当よ」
あまりにも、あっけない結末だ。
「全く、私が巫女の真似事とはね」
服の埃を払って、幽香は愚痴る。
ルーミアは、恐る恐るながらも老木に近づき、その幹に触れた。
……ただの、本当にただの何の変哲もない老木だ。
試しに乱暴に叩いてみても、何の反応もしない。
「木を乱雑に扱うのは止めなさい」
幽香に咎められ、ルーミアはバツが悪そうにする。
だが、そのお陰で、この木に魔王がいないのは確認できた。
やっぱり、幽香はすごい妖怪なんだ。
自分があれほど恐れた魔王を蹴散らした幽香に、ルーミアは羨望のまなざしを向ける。
「……なによ」
「なんでもないよ!」
ちょっと面倒そうな声でも、本当はちっとも怖く無いのをルーミアは知っている。
だから、ちょっと勇気を出してみる事にした。
「ねぇ、幽香」
また、幽香の家に行っていい?
そんな事を訪ねようとする。
「ダメよ。貴方の塒はここでしょ。怖いのもいないのだから」
全部を言い切る前に、幽香に断られてしまった。
ちょっと……いや、かなり残念で、しょげてしまう。
そんなルーミアを見て、幽香は少し悩ましげにして……
「……どうしても、という時だけよ?」
ため息と共に、そう言ってくれた
「………うん!!」
ルーミアの宵闇の二つ名に相応しくないぐらいの満面の輝く笑顔。
幽香も、おもわずこまったままに笑みを浮かべる。
「あ! ルーミア!!」
「チルノ!」
「どうしたのさルーミア、なにがあったの!? 幽香に何かされたの!?」
「ちがうよ、幽香は助けてくれたんだよ」
森の向こうから、氷精達が走ってくる。
おそらくは、さっきの轟音を聞いてここに来たのだろう。
それを迎えるルーミアの表情は明るい。
この数日を悩ませてくれた魔王から、彼女は解放されたのだ。
姦しく騒ぐ小さな妖怪達を横目に、幽香は改めて老木に向き合う。
……アレは、一体何だったのだろうか?
妖怪、なのだろうか?
妖精にも思える。
無論、あれほど強大な力を持った妖精などおらぬ。
しかし妖怪に、してはなにか、こう、もっと根源的というか精霊にも似ている。
倒しはしたが、結局の処、なんであるのかは判らずじまいだ。
そもそも、本当に倒したのだろうか?
今のこの木からは、何も感じないし、何の反応も無い。
だからと言ってここにもう何もいないとは限らない。
私たちは妖怪だ、永い時を生きている。
けれども、全てを知っている訳では無い。
私たちは闇に住まう者だ、闇を良く知っている。
けれども、自分たちよりも深い闇が無い等と、誰が断言できるのだろう。
もしかしたら、人の恐怖としての私たち妖怪があるように、もっと大きな恐怖としての何かが居るのではないだろうか。
何処かの戯曲に出てくる、魔王とも妖精王とも榛の木の王とも訳される、得体の知れない何かが。
魔王<Erlking>・妖精王<ErLKing>・榛の木の王<ErlKing>!
アレを一体なんと呼ぶべきであったのか。
何にしろ、幽香はやれるだけの事はやった。
恐らく、アレもしばらく大人しくしているだろう。
「それにしても」
人には人の理と礼節が、獣には獣の理と礼節が、妖怪には妖怪の理と礼節がある。
アレの理と礼節がなんなのかは知らぬ。
知りはせぬが、言わずにはいられない。
「あんな小さな子を脅かすのは止めて頂戴」
もし、王なれば王らしく振る舞ってほしいものだ。
できるなら、関わってほしくも無い。
「幽香!」
向こうで、ルーミア達が幽香を呼ぶ。
幽香は日傘を広げると、何時もの様に歩き出す。
あぁ、今日は騒がしい日になりそうだなとそんな予感を抱きながら。
森の中に風が吹く。
その風にのって、嘲るような揶揄うような、そんな笑い声が、聞こえた、ような、気が、した。
それは子を連れた父親
子を大事にそして暖かく抱きしめている。
坊や、どうしてそんな恐ろしそうに顔を隠すんだい?
お父さんには見えないの? そこに魔王<ErlKing>が居るよ。
坊や、それはたなびく霧だよ。
シューベルト作 魔王 より
* * *
昼、太陽の出ている時間。
多くの生命が活動を基本とする時間でもある。
では、妖怪達はどうであろうか。
朝に起き、昼に動き、夜に眠る。
真逆の生活を送る妖怪も多いので一口には括れないが、意外とこのサイクルで動くものが多いのも事実である。
今、広い草原を駆ける小さな影が5つ。
彼女たちも、そんな人間のようなサイクルで動く妖怪妖精の類であった。
正確に言えば、影は4つ闇が一つ。
そして、時間も昼というには影が差して、夕刻に近い。
「そーれっ!」
子供らしい、突き抜けて明るく高い声を上げて、妖精が闇に向かって抱き着く。
闇からは「きゃあ」とこれまた愛らしい悲鳴があがり、傍目からみても判るぐらいに、闇がその場に倒れ込む。
「ちょ、ちょっとルーミア、大丈夫?」
「うん、へーき」
「へへへ、ルーミアまた捕まえた!」
「チルノちゃん、そんなに勢いつけちゃ危ないよ」
闇の、宵闇の妖怪であるルーミアと、そのルーミアを捕まえた氷の妖精チルノの下に駆け寄ってくるのは、彼女たちの友人である。
「うー……また捕まっちゃった」
悔しそうな声と共に、ルーミアが立ち上がる。
周囲からは丸い闇にしか見えないが、それでも大まかな動きが判ってしまうのがなんとも面白い。
が、それ故に不便なのもまた確かであった。
「ルーミア、その能力解除しちゃいなよ。ずっと負けっぱなしじゃん」
「だって光に当たるの嫌だし」
「じゃあ、森で遊ぼうよ。あそこかなら陽の光も翳って、ルーミアも大丈夫でしょ? っていうか、いつもそうしてるのに」
「そ、それは……」
そう、いつもなら遊び場所には森を利用している。
開けた場所で思いっきり体を動かしたり、人里の近くで人間をからかう悪戯等もやるが、森だって立派な遊び場だ。
身を隠す木は沢山あるし、落ちている木の実拾いやちょっとした冒険ゴッコをやるのにだって困らない。
だと言うのに、今日はルーミアが森には近づきたくないと言い出して、一日中追いかけっこや弾幕遊び(ごっこですらない)に興じている。
それはそれで面白いし何の問題も無いのだが、光が苦手なルーミアが四六時中、自分を闇で覆っている為、ルーミアはずっと負けてばかりなのだ。
最初はルーミアをカモにしていた友人達も、ワンパターンでは段々と飽きてきてしまう。
しかも、ルーミアは何故、森が嫌なのか口を開こうとしない。
こんな事は初めてで、友人たちは首を傾げるばかりである。
そうこうしている内に、彼女の達の耳に聞こえたのはカラスの鳴き声だった。
見上げれば、見事な茜色に染まっている空にカラスたちがねぐらを目指して飛んでいるのが見える。
夜が近づいている証拠であった。
「じゃあ、そろそろ帰ろっか」
「えっ!?」
チルノが、この時間において至極真っ当な事を口にする。
対して、ルーミアは何か戸惑うような声を上げた。
闇を取り払って、友人達に必死になって訴える。
「も、もっと遊んで行こうよ!」
「えぇ? だってもう日が沈むし。お腹空いたし」
「暗くなっても遊べるよ!」
「そりゃルーミアは平気だろうけどさ、アタイ達にとっては夜はご飯食べて寝る時間だし」
周囲の友人達も、チルノに同意するように頷く。
先にも言った通り、夜に活動する者もいるが、それは言ってしまえば「妖怪としての仕事」をするようなものだ。
とは言え、脅かしたり襲うべき人間は夜には里に閉じこもり出てくるものなど稀にしかいないし、下手をすると博麗の巫女に退治されるのでそれを行う者もあまりいない。
「で、でも!」
「いいじゃん! 遊びたいならまた明日。今日はもうお終いだよ!」
チルノは笑顔で、また明日一緒に遊ぼうと宣言する。
それは陽の光を透かした氷のようにキラキラしていて、氷の妖精である彼女にこれ以上ないくらい相応しい笑顔だ。
ルーミアだって大好きな笑顔で、こういう顔ができる子だからチルノと一緒にいるのは楽しい。
いつだって、一日の終わりは笑顔でさよならをする。
チルノの言う通り、また明日ね、と声をかけあって。
だけど、今は……
「じゃあね、ルーミア! また明日!」
「ま、まって……」
引き留めようとするが、それよりも早く皆は去って行ってしまう。
別に意地悪をされている訳じゃない。ただ単純に、お腹が空いたから寒いから、はやく帰りたい。
そんな、当たり前の理由。
後には、ルーミアが一人で取り残される。
辺りは段々と暗くなる。
暗くなれば、昼にもふいていた木枯らしは益々冷たさを増していく。
こんな寒さでは、ますます外を出歩く人間もいないし、なによりルーミア自身が外にいたくない。
それを考えれば、友人達がいなくなるのも、当然なのだが。
「……こ、怖く無いよ、妖怪なんだから、怖くなんかない」
自分に言い聞かせるように、ルーミアは家路に急ぐ。
森の中に在る、自分の塒に。
まるで怯える鼠のように、何かから身を隠すように、その小さな体を更にちぢこめて、翳る陽を浴びて黒い口を開くような森の中へと走り去っていった。。
* * *
可愛いぼうや、儂と共に行こう。
儂と共に遊ぼうではないか
岸辺には見事な花が一面に咲き誇っているし
儂は美しい服を沢山もっているぞ
お父さん、お父さん聞こえないの?
魔王が僕に囁いているのが!
静かにしていなさい息子よ。
枯葉が風にざわめていているだけだよ
* * *
日は沈み夜が過ぎ、また日が昇る
朝が来て昼が近付く。
それは、子供達の時間だ。
正確に言えば、妖精や妖怪は子供、とは言い難い。
姿形は幼く、物言いもそれに見合うように聞こえるものの、その中に確かな年月の積み重ねが見える。
狡猾に見えて打算的、物は知れど考えなし。
無礼に見えて洒落ており、落ち着きが無いように見えて地に足を付けている。
洒落た言葉遊びに興じているかと思えば……実にシンプルな体を動かす昔ながらの遊びが好きだったり。
その日のルーミアも、友人達とそんな遊びを楽しんでいた。
森に入るのは相変わらず嫌がったが、それでも幻想郷は遊び場には事欠かない。
今日の彼女たちの遊び場は、太陽の畑である。
夏には目もくらむばかりの眩い向日葵で埋め尽くされるその場所も、秋の際たるこの季節には向日葵も頭を垂れていささか寂しい印象を受ける。
だがその代り、大量の向日葵の種を拾えるのだ。
思いっきり遊んで、小腹が空いたら向日葵の種でそれを満たす。
外の世界では、種を殻ごと食べて口から吹き出すのが主流な食べ方と聞いて、試してみてからすっかりはまってしまった。
口の中で種をカリっと砕いて。中身を食べてプッと吹き出す。
西瓜の種吹きの様で中々に面白い。
面白くて美味しければ、ついつい食べ過ぎてしまうものだ、
「あー! 美味しかったー!」
お腹いっぱいになるぐらい種を堪能して、彼女たちはすっかり上機嫌だ。
「ちょっと食べすぎたかな?」
「へーきへーき、まだまだ沢山種落ちてるんだし」
「でも、こんなに汚しちゃって……」
確かに、見れば地面に種の殻が小さな山を幾つも築いている。
「もし、幽香に見つかったら……」
その一言に、彼女たちはひえっと首を竦める。
風見幽香、言わずと知れた太陽の畑の主。
嘘か真か知らないが、他人を虐めるのが日課なのだという。
その為にあちらこちらの人妖に喧嘩をふっかけ……るのは幻想郷の住民としては大して珍しくもなんとも無いとして。
力の強い妖怪である、と言うのは事実であり、力が強く無い彼女たちとしてはあまり遭遇したくない。
「でも、種美味しいよね」
お互いに頷く。
幽香は怖い、が、種は美味しいし惜しい。
「できるだけ、取ってちゃう?」
そうだ、持って行ってしまおう。
持って帰って、またゆっくり愉しもう。
まだまだ沢山あるから沢山持って行ってもきっと幽香は気が付かないだろうし、なにより幽香のような強い奴からなにかを掠めとるというのは実に痛快だ。
面白い悪戯を思いついて、クスクスと笑う。
だから、早速彼女たちは萎びた向日葵畑の中に飛び込んでいった。
夏には鮮やかな色を精一杯に解き放って、まるで窒息しそうなその畑。
でも、今はすっかり力を失って、ルーミア達が駆けてゆくのに丁度良い。
太陽の光を浴びて太陽を向く向日葵たちが、ある程度陽の光を遮ってくれるので、ルーミアも自分を闇で覆わずともなんとかなる。
夢中になって種を集めて、瞬く間にポケット一杯になってしまった。
「ねえ、チルノ、何か袋持ってない?」
持ってる訳無いと判っていつつも、貪欲さが勝って聞いてしまう。
だが、返事が無い。
おや? とルーミアが周囲を見渡すと、さっきまでいたはずのチルノ達が居なくなっていた。
どうも、種拾いに夢中になってはぐれてしまったようだ。
「チールーノー 皆ー」
名前を呼びながら、ルーミアは向日葵の迷宮を歩く。
ポケットに詰め込んだ種がぽろぽろと落ちてしまう。
折角の獲物が惜しくて、時折ポケットにちゃんと収まるように直しながら、いつもの闇とは違った閉ざされた世界を歩く。
「どこ行っちゃったのかな」
しばらくウロウロしていたが、どこにも見つからない。
そうしている内になんだが疲れてしまって、歩くのが億劫になってしまう。
最近は、よく眠れなくて寝不足なのだ。皆で騒いでいる間は忘れて居られるが、こうして一人になると段々眠気が忍び寄ってくる。
「ふわぁ……」
大きな欠伸を小さな手で遮って、とろんとしてきた目を覚醒させるために擦る。
あぁ、もう駄目だ、何処か適当な処で一眠りしよう。
物陰はどこかに無いものか。
まだ日が高いし、森も遠いから「アイツ」もここには来ないだろう。
そんな風に考えて、今度は陰を探す。
こちらは見つけるのが比較的簡単で、迷宮を抜けたすぐ先に丁度いい大きさの岩がある。
やあ、これは丁度いい。
チルノ達は、後で探せばいいや。
ルーミアは、太陽から隠れて陰に潜む。
宵闇の彼女にとって、本来そこは数少ない安息の場所だ。
冷たい岩に背を預けて、ルーミアは微睡の中に堕ちてゆく。
風が騒めく。
揺れる向日葵たちも同じように騒めき、なんだか話をしているように思えた。
それは本当に風が騒めいているだけなのだろうか。
話をしているよう、ではなく本当に話をしているのではないか。
頭を垂れて、ひそひそひそひそと。
ルーミアは、岩陰からそっと覗いてみる、
周囲は嫌に暗く、良く見えないがそれでも無数の影が揺らめいているのは判った。
それらが、向日葵達である事も。
枯れ果てた彼等、死ぬ行く彼ら、嘗ては瑞々しかったであろう衣を纏ったそれらが何かを相談している。
あんなに大勢で、何を話しているのだろう。
それが気になって、ルーミアはじっと様子を伺う。
その、ルーミアの視線に気が付いたのか、不意に向日葵が此方を向いた。
大きな大きな、一つの黒い瞳。
無数にあるその瞳が、ルーミアを見つける。
思わずルーミアはひっと悲鳴を上げて、岩陰に隠れてしまう。
だが隠れても無駄だ、確かに視線が合った。間違いなく、ここに居るのをあいつ等は判っている。
その証拠に、岩の向こうであいつ等がさっきよりも大きく喚いているのが聞こえてくる。
まるで、何かを大声で呼んでいるようだ。
一体何を呼んでいるのだろう、なんにしろ、ここにはいられない。
音を立てないように、ゆっくりと這い出す、慎重に慎重に進む。
本当は、恐怖で体が竦んでいる。
思うように動かない自分をなんとか鞭うって動かしているのを慎重に進むと自分に言い聞かせているにしか過ぎない。
だから、逃げて居るつもりでも、全然その場から離れて何かいない。
だから、そう、だから、見つかってしまった。
闇の中に現れる影。
それが、ルーミアを覆う。
背を向けていても尚昏くなったを自覚出来てしまうほどの昏さで。
呼吸が止まってしまうと思うほどに息を呑み、ルーミアは後ろを振り返る。
嗤っていた。
哂っていた。
小さなルーミアを嘲る様に、大きな大きなそれが。
大気を圧するほどの大声で。
そして、ルーミアに赤紫の穢れた指を伸ばすのだ。
其処ら辺におちている木の実を拾い上げるような仕草で、指がルーミアをむんずと掴み……
「きゃあああああああああああああ!!」
「!?」
甲高い悲鳴を上げて、ルーミアは目を覚ました。
同時に、ルーミアの目の前にいた鮮やかな紅が驚きに見開かれる。
「起こしたぐらいで悲鳴だなんてご挨拶ね」
「あ……え?……」
浴びせられた冷ややかな声に、ルーミアは戸惑う。
気が付けば、周囲は日暮れ時、そして目の前には一人の妖怪が佇んでいる。
夏の草花の様な髪と、満開の薔薇のようなその瞳の妖怪を、ルーミアは知っていた。
「ゆ、幽香?」
名前を呼ばれた風見幽香が、ジロリとルーミアを睨みつける。
ルーミアと同じ色でありながら、ルーミアには無いえも知れぬ“凄味”が宿ったそれに射貫かれ、夢の中とは違う形で固まってしまった。
夢?
そこで、ようやくルーミアはついさっきまで見てたものが夢であった事に思い至る。
そうだ、夢なのだ。
ここは太陽の畑で、自分が住処にしている森では無い、だからあいつが居るはずがない。
「よ、よかったぁ」
安心して、大きく息を吐き出す。
「変な子ね」
が、また固まる。
そう、あいつは居なくても、風見幽香が居るのだ、しかも見つかってしまった。
「向こうでチビ達が独り足りないと騒いでいたけど」
どうも、皆も見つかってしまったらしい。
「え、えっと……」
喧嘩をふっかけられたら、どうしようか。
弾幕ゴッコならもしかしたらほんのちょびっとだけ、勝機があるかもしれない。
そんな、淡い期待と虐められるのではないかという不安が言葉を詰まらせる。
「来なさい、他の連中が待ってるわよ」
それだけ言って、幽香は足早に歩いていってしまう。
ルーミアも立ち上がって、慌ててそのあとを追う。
夕刻に日傘をさして、大きな影をつくるその後ろ姿。
振り返りもしないし、話も無い。
ルーミアも、幽香に話しかける勇気が無い。
なんとも、気まずい道中である。
「ルーミーアー!」
「あ! チルノ!」
不意に、その雰囲気が打ち破られた。
見知った顔の妖精が、自分の名前を呼んだからだ。
声の先を辿れば、そこにはチルノと友人達が集まっている。
おもわずルーミアは彼女たちの元へと駆け出した。
「もう、ルーミアどこいってたのさ!」
「ご、ごめん」
「私たち、すっごく探したんだよ」
「お蔭で幽香にも見つかっちゃうし」
「良く言うわ、途中で向日葵の種を集める事に夢中になっていたでしょう」
上から咎めるような声が降ってきて、友人達がうへぇと首を竦める。
幽香の言う事が本当なら、なんとも調子の良い事だが、ルーミアとて探している間に居眠りをしたのだから人の事は言えない。
要するに、いつもの様子で、ようやくルーミアはほっとして安心した笑みを浮かべた。
「それじゃあ、もう帰ろうよ!」
もうだいぶ日も傾いてきた。
すぐに夜がやってくるだろう。出来るなら、暗くなる前に家に帰りたい。
そういう思いからの発言であったが、またしても頭上からそれを遮る声がした。
「ダメよ」
ルーミアも、友人達もそれに凍りつく。
やはり、見逃してはくれないのだろうか。
向日葵の種もこんなに取ってしまったし。
「なによ、向日葵の種ぐらいいいじゃん!」
あ、バカ!
ルーミア達が止める間も無く、チルノは一歩前に出て幽香に抗議する。
なんて無謀な、いくら妖精だからって!
「そうじゃないわ」
しかし、氷精の気勢に対して、幽香は至って自然に対応していた。
チルノとルーミアたちをじろりと一瞥して、すこし不機嫌な感じで日傘を手の中で弄ぶ。
「向日葵の種の殻を散らかしたのは、貴女達ね?」
幽香の瞳に、判りやすい感情がゆらりと揺れる。
「片づけていきなさい」
有無を言わさぬ一言であった。
それから、ルーミア達は向日葵の種を堪能した場所に戻され、幽香が用意していた箒と塵取りで念入りに掃除をさせられた。
どういう訳か、殻ところか落ち葉まで掃除をする羽目になってしまい、日もほとんど沈んでしまっている。
「……まぁ、このぐらいで良いでしょう」
大分すっきりした太陽の畑の一角で、幽香が終了の一言を告げる。
「うへぇ、大変だった」
「最初からきちんと片づければ、こうはならなかったわよ」
「なんでさ、いいじゃん、鳥や鼠だって其処ら辺に殻落としてるし!」
「獣には獣の理と礼節が、そして知ある者には知あるものの理と礼節があるの、貴方達は知のあるものなのだから、自分のだしたゴミはちゃんと自分で片づけなさい」
「幽香もゴミの片づけとかするの?」
「当たり前じゃない、やらないのは愚か者か王様ぐらいよ」
「王様はしなくていいの!? じゃあ、アタイ王様になる!」
「……貴女が? 王様に?」
「うん、妖精の王様って格好いいじゃん!」
「止めておきなさい」
「なんでさ」
「王様には王様の理と礼節があるの、掃除よりも大変のがね」
「掃除より大変?」
「そうよ。妖精王<ErlKing>を気取りたいのなら、そういうのを幾つもね」
「うへぇ」
ルーミア達は茫然とするしかない。
あの幽香と、風見幽香と、ごくごく普通に話をしてるチルノ。
……いままでちょっぴり見下していた事があったけど、今度からは改めよう。
そんな事を誓っていた処に、木枯らしが一つ吹く。
そして、ルーミアの視界の端で影が揺れた。
「ねぇ! もう終わりなんでしょ!? 帰っていいんでしょ!?」
薄暗がりに、宵闇の悲鳴にも等しい声が上がる。
チルノも友人達も、そして幽香も、びっくりした様子でルーミアを見た。
「えぇ、良いわよ」
返ってきたのは、変わらぬ幽香の静かな声。
「おお、そうか! それじゃあ帰ろう!」
続くチルノの元気な声を切欠に、彼女たちは「またね」「明日ね!」「さようなら!」とそれぞれの家路を目指す。
無論、ルーミアも同じように、いや、かなり急いだ様子で走りだそうとした。
「ルーミア」
太陽の畑の主に、呼び止められる。
ルーミアが振り返ると、幽香はじっとルーミアを見つめてこう言った。
「何が、怖いの?」
「っ!? こ、怖くなんか無いよ! 絶対に、怖くなんかない!」
私は、宵闇の妖怪なんだから!
ルーミアはさっきよりも行き詰まった大声を出して、そしてその叫びから逃れるように空を目指す。
月も隠れた夜が、そこには広がっていた。
* * *
さぁ、可愛い子、儂と共に行こうでは無いか
儂の娘達はお前と仲良くするようにに言いつけてある
儂の娘たちは夜毎に舞い踊る
お前と共に遊び、子守歌を唄って寝かしつけてくれるよ
お父さん見えないの!? 暗がりにいる魔王の娘たちが!!
勿論見えているとも、お前が見ているのは、古い柳の木だよ。
* * *
星のみが瞬く夜である。
月は地球の影に隠れてしまい、その姿を観る事が出来ない。
即ち、いつもよりも闇の深い夜である。
日の光を優しく遮る木陰も、雄大なる山も、この夜は全て闇の中に呑み込んでしまう。
本来であるならば、それはルーミアにとって本領たる世界だ。
だからルーミアは走る?
宵闇の妖怪が、闇の中を走るのは不思議でも何でもない?
そうかもしれない。
ただ、その幼い面影に恐怖と焦りさえ浮かんでいなければ。
月明かりすら無い夜の森はまさに漆黒である。
日の昼間ですら、どこか薄暗さが伴うのに星の光で森を照らしきれるわけが無い。
手を伸ばした先すら何も見えず、聞こえるのはただ風の音とルーミアの足が、枯葉を踏む音。
自分の塒を目指して、一直線に走る。
早く帰りたい。
早く帰って扉を閉めて鍵をかけて。
布団の中に潜ってじっと息を潜めなくては。
早く、早く、早く。
そう思えば思うほど、通り慣れたはずの道が嫌に遠い。
とっくに着いていてもおかしくないぐらいに走っているはずなのに、まだ見えない。
じわり、と不安がこみあげてくる。
ひょっとして道を間違えたのではないのか?
もしかして、通り過ぎてしまったのではないか?
まさか、間違えて別の森に入ってしまったのではないか?
いや、それよりも、それよりも……
暗い森が、ルーミアの不安に呼応するかのように騒がしくなる。
風に揺られている?
いや、違う、これは自ら震えているのだ。
黒い森が、愉悦に震えている。
憐れな獲物が、自分の腹のなかで右往左往しているのを見て、ケタケタと笑っている。
早く、早く、早く、早く
早く、早く、早く、早く、早く
早く、早く、早く、早く、早く、早く!
もうこんな処にいたくない!!
不意に、視界が開けた。
深い漆黒の中に浮かび上がる一本の老木
きっと長い時を、下手な妖怪よりも更に古い時を重ねてきたに違いない。
人が見ても妖怪が見ても、大きく力強いと断言できるその老木。
「あ……」
自分を出迎えるように現れたソレを見て、ルーミアは間の抜けた声しか出せなかった。
木の実なのかなんなのか、赤紫のなにかを幾つもぶら下げたソレ。
ソレが、くるりと「振り返る」
そうしてルーミアを見つけると、ニヤリと嗤った。
無論、眼など無い。
だが視線を感じる。
うねる樹皮が果て無く歪み、そこには奈落のような瞳が燃えている。
当然、口など無い。
だが声が聞こえる。
底知れぬ洞がぱっくりと開いて暗黒を覗かせている。
フフフフフフ……
ハハハハハハハハッハハハ!
アーッハッハッハ!!!
巻き起こる風に乗って、老木の笑い声が木々の間を駆け抜けてゆく。
太い枝から伸びた赤紫の指で闇夜の空をさらに覆い。
年月を重ねた古いローブを広げて、まるで森の支配者の様に振る舞っている。
ルーミアはその威容を見て、思わず後ずさりをしてしまう。
影のようなその巨体だけでも恐ろしいのに、響き渡る笑い声はルーミアの体を押しつぶしてしまいそうだった。
そうだ、あの時と同じだ。
夜の闇が心地よいと、気分よく愉しんでいたあの日、ルーミアはコレを見つけてしまった。
この黒い森の中、数多の何かを従える、この恐ろしい魔王を!
魔王が、面白そうに何かを指さす。
つられてルーミアが振り返る。
何もいない? 否、見えないだけだ。
そこには、無数の何かが蠢いている。
木の陰に、枯葉の下に、森の闇の奥に。
正体は伺いしれない、だがどれもルーミアを周りをまる取り囲んで、まるで檻を作る様に踊り狂っている。
儂はお前が気に入った。
魔王が口を開く。
森の闇そのものを衣の様に引きずって、ルーミアに近づいてくる。
お前を連れていくとしよう。
魔王の眼が愉快に歪む。
だがそこには病のような悪意が渦巻いている。
嫌だと言うなら
魔王が嘲笑う。
腐敗した汚泥のような声を上げて。
そして、そして、あの夢の様に、穢れた赤紫の指を伸ばして……
力 づ く だ ぞ ?
「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
夜を斬り裂く悲鳴を上げて、ルーミアは空に逃げた。
早く森から逃げなければ!
森は何処へ行っても、魔王の庭なのだ、空にしか逃げ場は無い!
嗚呼、でも、でも!
フハハハハハハハハハハハハハハ!!
空に逃げても、魔王の嘲笑がルーミアを捉えて離さない。
妖怪である自分が、宵闇の妖怪である自分が、闇から逃げているのだ!
自分の領域である闇から逃げるなんて、こんな事があるのだろうか!
だが信じようとも信じられなくても、ルーミアが追われているには違いない。
渦巻く何かが迫ってくるのがはっきりと判る。
たった一本の木が、何もかもを巻き込んで、鼠を呑む蛇の如く空を這うのを感じる。
一切の光の無い、圧倒的な量の闇。
その中で、おぞましい悪意が嗤っている。
小さなルーミアをまるで狩りをするように追いまわし、弄ぶ。
あの指を伸ばしているのだろうか?
あの衣で空を覆い尽くしているのだろうか?
あの眼で自分を捕えているのだろうか?
どこにいて、何をしようとしている?
感じはすれど、目にする事が出来ない。
逃げるしか出来ないのに、どこに逃げればいいのか判らない。
そもそもに、今どこを逃げているのかすら判らない。
嗚呼! 何も見えないと言う事がこんなにも恐ろしいなんて!
「きゃあ!?」
空から地に、ルーミアは叩き落とされる。
直前には、何かに突っ込む感触。
それに邪魔されて、ルーミアは飛行制御に失敗して大地を転がってゆく。
おそらくは、木か何かにぶつかってしまったのだろう。
十分な高度を取っていれば、確実に避けられたのだろうが、今は自分がどの高さで飛んでいるのかすらルーミアには判らなかったのだ。
「いたい……」
全身を隈なく叩き付けしまい、耐え難い鈍痛がルーミアを苛む。
だが、その傷みがルーミアの心に届く前に、再びあの気配が迫っている事を察する。
深い暗闇のベールの向こうで、ルーミアの醜態を見て嗤っている。
見えもしないのに、それだけがなんだかはっきりわかって、悔しさと恐怖があふれ出てきてしまう。
立ち上がって、走る。
のろのろと、空を飛ぶよりも遥かに遅い。
空を飛ぶ力も湧かない。
背後からの気配だけではない。
昼間にも観た無数の単眼がルーミアを見下ろしている。
逃げ場なんて、どこにあるのだろう。
けれども、逃げなければ捕まってしまう。
体が痛い。
空気が冷たい。
お腹が空いた。
もう疲れた。
もう、こんなのは嫌だ。
だれか、だれか……
「助けてよぉ」
か細い、口から洩れた瞬間、消えてしまうような願いであった。
そう、消えてしまうような願いであったが……ルーミアはその時、希望を見つけた。
灯りだ。
夜の闇の中に、小さな灯りが見える。
そこに、だれかがいる。
そう理解したルーミアは最後の力を振り絞る様に走りだす。
向日葵の躯を駆け抜けて、一縷の望みを灯りに託して。
そうして、ルーミアがたどり着いたのは、一件の小屋である。
独り住まいには丁度よさそうな、ログハウス。
明るい処で見れば、外の世界から流れ着いたような素敵な家だと興味が沸くかもしれない。
しかし、今のルーミアにそんな余裕は無い。
小屋の扉に息を切らせて縋りつき、思いっきり拳を叩き付ける。
「誰か、誰か! 助けて!」
ドンドンドンと、何回も扉を叩き助けを求めた。
もう、一歩も動けそうにない。
この扉が開かなければ、きっと自分は魔王に連れ去られてしまう。
誰でもいいから、扉を開けてくれないか。
そんな、必死な願い。
そして、その願いは通じた。
「騒々しいわね、一体なんなの?」
静かな、しかして威圧的な声色を、ルーミアは知っている。
ついさっきに、聞いたばかりの声だ。
「幽香」
「……また貴女?」
風見幽香が、怪訝な顔をしてルーミアを見下ろす。
普通なら、ここで逃げてしまうだろう。
風見幽香の家に押しかけてこんな事、おっかなくてできるはずがない。
しかし、この時はそんな事よりも、見知った相手が出てきた安心感の方が勝った。
「お願い幽香、助けて!」
ルーミアは叫ぶ。
幽香は困惑する。
もしかして、助けてもらえないかもしれない。
そんな、絶望的な不安がよぎった時、幽香が体を横に寄せる。
「入りなさい」
「え……」
「早く」
幽香に急かされるまま、ルーミアは家の中へと滑り込んでいった。
* * *
その中でまず目にしたのは、煌々と闇を跳ね除けるランプと寒さを押しのける暖炉の火である。
背後からはガチャリと鍵をかける音。
外と中を隔てる音を、それを実感する事もできず、何もできずにただ茫然とするばかり。
そんなルーミアを、ふわりと何かが包み込んだ。
暖かな感触の正体は、良い匂いのする毛布と、毛布越しに触れる幽香の手。
そのまま幽香の手は、ルーミアを暖炉の前に誘う。
薪が爆ぜ、炎が揺らめき、暖かさが毛布を通じてルーミア伝わる。
「ほら、飲みなさい」
幽香が、白いマグカップを差し出す。
白い湯気が立つそれを、言われるがままにうけとり口をつけた。
ほのかに、甘い。ただのお茶ではない、蜜か何かを溶かしこんでいるのだろうか。
蜜と暖かさが、寒さと恐怖に縛られていたルーミアを解きほぐす。
「何があったの?」
「……幽香」
ここに至り、ようやくルーミアは自分が助かったのだと理解した。
自分を追っていた漆黒のような楔が抜け落ち、押しとどめていたものが流れだす。
「幽香……幽香……!……幽香ぁ……!」
わんわんと、大声で泣く。
幼いその姿そのままに。
だが必死になって言葉を紡ぐ。
森の中で恐ろしい何かが居た事。
その何かに追われここまで逃げてきた事。
何回も言い間違えたり、言葉が詰まったりしたが、確かに幽香に伝わる。
「……それに会ったのは、今日が初めてじゃないわね?」
「……うん」
「だから、昼間様子がおかしかったのね」
「だって、私、妖怪なのに、宵闇の妖怪なのに、闇にいる何かが怖いなんて……」
ルーミアとて、一端の妖怪である。それ故に、プライドもある。
自分の住処の、自分の時間に、得体の知れない何かを怯えているなど、言い出せるはずがない。
「全く」
幽香の呆れるような声。
それを聞いて、ルーミアはしょげこんでしまう。
結果がこれでは、もう何も言えない。
「今夜はここに泊まっていきなさい」
「……いいの?」
「あの夜の中に出てゆけるの?」
思いっきり首を振る。
「明日になったら、その怪物がいる処に案内しなさい」
「な、なんで?」
「興味があるからよ」
それだけ言って、幽香はその場を立ち去る。
残されたルーミアは、暖炉の暖かさから離れられず、視線で幽香を追うばかり。
それも適わなくなって、なんとなくカップの中身を啜る。
ちょっとだけ熱いそれが、唇を潤してくれるのであった。
それからの事は、ルーミアにとって信じられない事ばかりだった。
まず、地面に叩き付けられて埃だらけ土だらけになった服を脱がされ、暖炉にも負けないぐらいあったかい湯船に入れてもらった。
たっぷりのお湯に肩まで浸かって、とてもいい気持になったし、さっぱりもした。
お風呂から上がったら、渡された寝巻に着替える。
桃色のシンプルだがとっても可愛い寝巻だ。
サイズがあっていないので、手も隠れてしまうし、スカートも引きずって歩きづらい。
自分が着るとぶかぶかで似合わないけど、きっと、幽香が着たらすごく似合うんだろうな、とそんな事が容易に想像出来てしまう。
着替え終わった後は、食事である。
出された物は、ジャガイモと鶏肉のミルク煮だ。
白いスープの中で、堂々と自分を主張するジャガイモと鶏肉。
まるで思いっきりかぶりついてくれ! と言わんばかり。
そんな御馳走を前に、幽香は静かに「いただきます」と礼をして、ルーミアも同じように「いただきます」と礼をする。
本当に、食べていいのだろうかと幽香をちらりと見やる。
ルーミアのそんな様子に気が付いていないのか、気が付いていても無視しているのか、幽香はもくもくと食事を始めた。
助けてもらって、お風呂に入れてもらって、食事を用意して貰う。
どれも、ルーミアにとっての風見幽香のイメージに当てはまらない。
故に、戸惑う。
「冷めるわよ」
戸惑いを穿ったのは、やはり風見幽香であった。
短い、聞きようによってはつっけんどんな言い方であるが、早く食べなさいと言っているのは明白である。
「う、うん」
せっつかれて、ルーミアはミルク煮を口に運ぶ。
たっぷりとスープが染みで口の中で崩れるジャガイモ。
しっかりとした、それでいて噛むのが苦にならない鶏肉。
そういうのがお腹に入ったのだ、もう戸惑いも遠慮もルーミアを止められない。
ルーミアは皿の中を呑み込みそうな勢いでミルク煮を書きこむ。
付け合わせのサラダにも手を伸ばして、口いっぱいに食べ物を詰め込むのだ。
ゆっくり味わって食べるのが、良い食べ方なのはルーミアも知っている。
ただ、それと同じぐらい、沢山の食べ物でお腹一杯に満たしてゆく幸福感も食事の重要な要素だと信じている。
そんな感じで食べるものだから、瞬く間に皿は空になってしまう。
「お代りは?」
「ちょうだい!」
絶妙なタイミングでの呼びかけに、ルーミアは迷わず皿を突きだす。
辛うじてジャガイモを呑み込んで、返事ができただけ僥倖と言うべきなのだろうか。
何にしろ、ルーミアの前には幽香の手によってまたミルク煮が運ばれてきた。
具が惜しみなくたっぷりと入った、山盛りのミルク煮だ。
もちろん、ルーミアはそのミルク煮にスプーンを滑らせてほくほくのジャガイモやあつあつの鶏肉を口に運ぶ。
一方の幽香はゆっくりと噛みしめながら食べる。
ルーミアが2杯目を食べている最中でも、まだ一皿目の半分程度だ。
とても対照的な光景であるが……きっとそれは珍しくもない光景なのかもしれなかった。
やがて腹が満たされ、二人で御馳走様と礼をして、食事が終わる。
後片付けは、ルーミアも手伝った。
食事を振る舞ってもらって、そのまま片づけまで任せるほどに彼女は図々しくも子供でも無い。
私がやるよ、と申し出て、幽香が、なら手伝ってと返す。
二人分の食器で大した手間では無い、甕の水を汲んで、食器を洗い、拭いてからよく乾かす為に並べるだけだ。
けれども共同作業をやるなんてルーミアにとってはあまり経験が無い。
だからから、ちょっとだけ、ちょっとだけ楽しかったし、幽香が「ご苦労様」と言ってくれたのが嬉しかった。
そんなささやかな時間も終わって、ルーミアはベッドの中にいる。
ごく普通のシングルベッド。普段、風見幽香が使っているベッドだ。
「幽香は、どうするの?」
「貴女がそんな事を気にしなくてもいいでしょ」
言い方は、やっぱり冷たい。
他人を突き放しているような、変わらない幽香だ。
けど、けどもしかしたら……
ルーミアが、ある期待を持った時、窓から大きな音が聞こえた。
何かが思いっきり叩き付けられる音。
窓を揺らして、こじ開けようとしているような音。
もしかして、魔王が入ってこようとしているのではないか。
おもわず、ルーミアは首を竦めてしまう。
だが、ルーミアに触れるのは魔王ではない。
「大丈夫よ」
「幽香?」
「何が来ても、私が倒してやるわ」
「幽香が?」
「この、風見幽香の力を疑うの?」
ルーミアは首を横に振う。
幽香の声は、自信に満ち溢れていた。
風見幽香が、強者であるのが当たり前だと言わんばかりに。
そして、ルーミアも幽香が強者である事を知っている。
「それじゃあ、早く寝なさい」
「うん、あ、ねぇ幽香」
「何?」
呼び止められた幽香の瞳がルーミアに向く。
やっぱりそうだ。
“凄味”があって、気づきづらい。
物言いもちょっとキツくて判りづらいけど。
幽香の目は、全然怖く無い。
優しい目だ。
「ありがとう」
だから、ルーミアは自然とその言葉を言えた。
言わなければ、いけない言葉だった。
「いいわよ、そんなの」
幽香は、そっけなく返して部屋を出て行く。
顔を背けていたので、表情は判らない。
けどきっと、微笑んでいたのだろうな、とそんな気がした。
* * *
再び日は上り、朝が来る。
幻想郷の隅々で照らすようなその時に、森の前に二輪の花が佇んでいた。
一人は、勿論、風見幽香。彼女自身のトレードマークとも言える日傘をさして。
もう一人は、その後ろを追うルーミアだ。
幽香が夜中に洗って暖炉の前で乾かしてくれたいつもの黒い服に、これまた幽香が貸してくれた日傘をさして幽香の後ろに隠れている。
夜は何もかもが黒に沈む森も、この時間はただ季節の姿をそのままに枯葉で全てが埋まっていた。
だが、譬え黒にあらずとも、ここは恐ろしい魔王の森。
「行くわよ」
「う、うん」
優雅に森に進む幽香。
ルーミアは、コンパスの違いもあるがそれ以上に戸惑いのある足取りで必死に後を追う。
不安げに周囲を見回すルーミアであるが、森は想像以上に静かだ。
あの影たちもいない。
陽の光が、彼らを押し込めているのだろうか。
やがて、昨夜の恐怖が嘘の様に、二人は一本の木の元へたどり着く。
高く太く、力に満ち満ちた木。
赤紫の実を幾つもぶら下げた、老木であった。
「こ、これだよ」
「……ふぅん」
幽香は老木に近づき、その周囲をぐるりと回る。
その細い指で老木に触れ、燃えるような眼で何かを見定めるように。
「……なるほど」
何かを悟ったのであったのだろうか。
今度は老木から遠ざかり、手にした大輪の花を畳んでしまう。
「ルーミア、下がっていなさい」
ルーミアは、言われた通りに幽香から離れ、近くの木の陰に隠れる。
そうして恐る恐る覗き込んでみれば、老木と幽香の間に、なにか緊張が高まっていくのが判る。
「木を揺らすのは風かしら? それとも霧? いいえ貴方のような古いものなら、それは必要ないでしょうね」
幽香は、手の傘を老木に突きつける。
それはまるで、花でできた剣の様だ。
「姿を現しなさい。それとも、この私が恐ろしくて出てこれないのかしら?」
侮蔑を含んだ声。
ルーミアも聞いたことが無い、幽香の声色。
「さぁ、榛の木の王<erlking>よ! 曲がりなりにも森の支配者なればこの風見幽香の挑戦を受けるがいい!!」
まるで絵画に描かれたお伽噺。剣をもった女傑のような幽香の姿。
そして、その在り様にこれ以上ないくらいに相応しい、高らかなる宣戦である。
これを受けて、応えるものがいるであろうか?
無論、いる、だからこそ風見幽香はここに居るのだ。
フフフフ……
笑い声が聞こえる。
老木が、否、森そのものが歪む。
歪みが形作るのは、あの奈落のような目と、暗黒の咢。
ルーミアはその威容を目の当たりにするだけで、身をすくませてしまう。
フハハハハハハ……ハーハッハッハッ!!
魔王が、幽香の宣戦を呑み込むように高笑いを上げ、それに伴い歪みは更に大きさを増す。
森の全てが、魔王の中に堕ちてゆくように。
「幽香!!」
ルーミアは悲鳴を上げる。
ほんの少しでも気を抜けば、たちまちの内に魔王の腹に引きずり込まれそうだ。
だが、その時ルーミアは見たのだ。
魔王の前に立ちふさがり、魔王の嘲笑などものともしない一つの花を。
「この程度?」
花が、魔王を笑う。
不遜? 傲慢? 虚勢?
否、これが風見幽香なのだ。
あの四季映姫ヤマザナドゥを前にしても一歩も引かなかった、大妖の姿である。
ルーミアは、その花を眼に焼き付ける。
だってそれは、幻想郷で最も美しい花に違いない。
刹那、花が光を放つ。
魔王に向けて目もくらむような極大の光。
幽香の前に立つものすべてを薙ぎ払う、恐るべき奔流であった。
魔王の歪みと幽香の光、その二つの衝突が、森に轟く。
圧倒的な暴力のせめぎ合いに、ルーミアはたまらず目を閉じて身をかがめる。
次の瞬間、何かが破れられる音と、爆音がその場の全てに襲い掛かった。
地と天も揺るがすような衝撃が駆け抜け、やがてそれは静かに治まってゆく。
「……もう大丈夫よ」
ルーミアに語りかける幽香の声。
恐る恐る顔を上げれば、そこには、風見幽香と老木があった。
森は静寂を取り戻している。
光と歪みの為か、木々の枯葉が沢山落ちているだけで、老木もほかの木も傷ついてはいない。
「や、やっつけたの?」
「えぇ」
「本当に?」
「本当よ」
あまりにも、あっけない結末だ。
「全く、私が巫女の真似事とはね」
服の埃を払って、幽香は愚痴る。
ルーミアは、恐る恐るながらも老木に近づき、その幹に触れた。
……ただの、本当にただの何の変哲もない老木だ。
試しに乱暴に叩いてみても、何の反応もしない。
「木を乱雑に扱うのは止めなさい」
幽香に咎められ、ルーミアはバツが悪そうにする。
だが、そのお陰で、この木に魔王がいないのは確認できた。
やっぱり、幽香はすごい妖怪なんだ。
自分があれほど恐れた魔王を蹴散らした幽香に、ルーミアは羨望のまなざしを向ける。
「……なによ」
「なんでもないよ!」
ちょっと面倒そうな声でも、本当はちっとも怖く無いのをルーミアは知っている。
だから、ちょっと勇気を出してみる事にした。
「ねぇ、幽香」
また、幽香の家に行っていい?
そんな事を訪ねようとする。
「ダメよ。貴方の塒はここでしょ。怖いのもいないのだから」
全部を言い切る前に、幽香に断られてしまった。
ちょっと……いや、かなり残念で、しょげてしまう。
そんなルーミアを見て、幽香は少し悩ましげにして……
「……どうしても、という時だけよ?」
ため息と共に、そう言ってくれた
「………うん!!」
ルーミアの宵闇の二つ名に相応しくないぐらいの満面の輝く笑顔。
幽香も、おもわずこまったままに笑みを浮かべる。
「あ! ルーミア!!」
「チルノ!」
「どうしたのさルーミア、なにがあったの!? 幽香に何かされたの!?」
「ちがうよ、幽香は助けてくれたんだよ」
森の向こうから、氷精達が走ってくる。
おそらくは、さっきの轟音を聞いてここに来たのだろう。
それを迎えるルーミアの表情は明るい。
この数日を悩ませてくれた魔王から、彼女は解放されたのだ。
姦しく騒ぐ小さな妖怪達を横目に、幽香は改めて老木に向き合う。
……アレは、一体何だったのだろうか?
妖怪、なのだろうか?
妖精にも思える。
無論、あれほど強大な力を持った妖精などおらぬ。
しかし妖怪に、してはなにか、こう、もっと根源的というか精霊にも似ている。
倒しはしたが、結局の処、なんであるのかは判らずじまいだ。
そもそも、本当に倒したのだろうか?
今のこの木からは、何も感じないし、何の反応も無い。
だからと言ってここにもう何もいないとは限らない。
私たちは妖怪だ、永い時を生きている。
けれども、全てを知っている訳では無い。
私たちは闇に住まう者だ、闇を良く知っている。
けれども、自分たちよりも深い闇が無い等と、誰が断言できるのだろう。
もしかしたら、人の恐怖としての私たち妖怪があるように、もっと大きな恐怖としての何かが居るのではないだろうか。
何処かの戯曲に出てくる、魔王とも妖精王とも榛の木の王とも訳される、得体の知れない何かが。
魔王<Erlking>・妖精王<ErLKing>・榛の木の王<ErlKing>!
アレを一体なんと呼ぶべきであったのか。
何にしろ、幽香はやれるだけの事はやった。
恐らく、アレもしばらく大人しくしているだろう。
「それにしても」
人には人の理と礼節が、獣には獣の理と礼節が、妖怪には妖怪の理と礼節がある。
アレの理と礼節がなんなのかは知らぬ。
知りはせぬが、言わずにはいられない。
「あんな小さな子を脅かすのは止めて頂戴」
もし、王なれば王らしく振る舞ってほしいものだ。
できるなら、関わってほしくも無い。
「幽香!」
向こうで、ルーミア達が幽香を呼ぶ。
幽香は日傘を広げると、何時もの様に歩き出す。
あぁ、今日は騒がしい日になりそうだなとそんな予感を抱きながら。
森の中に風が吹く。
その風にのって、嘲るような揶揄うような、そんな笑い声が、聞こえた、ような、気が、した。
特にソレの理と礼節に対する距離感が
風見幽香でも理解しきれない深遠に潜む何か、不気味な余韻を残しつつも、とりあえずはハッピーエンドで良かった。
久々にかっこいい幽香を読めてうれしかったです。
花の妖怪のカリスマをここに見た気がします。
守る相手がルーミアというのもとても良かったです。
幽香の事が好きになるお話でした。