標識を支柱にして麻布を引っ掛けただけのハンモックの上でまどろむ。寝床がいい加減であればあるほど浅く睡眠が出来る。報告待ちの短眠には丁度良い。
「紫様。ただいま戻りました。やはり、例の仙霊はこの里を根城にしているようです」
そんな紫の状態を察しているのか、藍は彼女を揺り起こさず報告した。報告を聞いた紫はのっそりとハンモックから降り、標識と麻布をスキマに仕舞った。
「そう、ご苦労。後は引っ込んでいいわ。私が直接出向くから」
紫がそう宣言すると藍は意外そうに目を細めた。
「遠目にしか姿を見ていませんが、あの者は危険です。いきなり貴女が出張る必要はないのでは……」
「何を以て危険だと?」
紫がそう訊くと藍は短く返答した。
「彼女は、強い」
言葉を飾らず言い切った。純粋に、藍はそう感じたのだ。強く、危険だと。
「強い者は危険、だというあなたの意見には同調するわ。しかし、ならばだからこそ私が出向かなくてはなりませんわね。あなたでは荷が重い」
紫から見て藍は遠巻きに眺めただけのその仙霊に対して萎縮しているようだった。これでは交渉も何も出来たものではない。
「しかし紫様……」
「大丈夫よ。別に戦いに行くわけではないのだから。それに、たまには自分から足を動かさなければ身体が鈍ってしまいますわ」
心配そうな藍を余所に紫は笑みをこぼし、彼女の頭を軽く撫でた。本音を言えば、好奇心というものもあった。長らく生きているせいでそういった感情は死滅しているものだと思っていたものだが、『月を相手にたった一人で襲撃を続ける仙霊』という規格外の存在が幻想郷にやってきたという事実に彼女は昂ぶった。月にそんな天敵がいるなんてことは第一次月面戦争・第二次月面戦争時の調査でも把握していなかった。一体どういう存在なのか、楽しみだった。あわよくば幻想郷を守る賢者の一人に取り込もうと楽観的に考えていた。
そんな自身の思考に紫は後悔することになる。
自らの足でのフィールドワークというのは何年ぶりだろうか、と紫は思考しつつ茂みを歩く。彼の仙霊の元に足を使わずスキマで乗り込むのは論外だった。そんなことをすれば敵性存在だと断定されても仕方ない。あくまで穏便に、彼女と接触してその人格を図るのが今回の目的だった。
報告によれば彼女は住処を探しているのか、幻想郷内の各地を転々としているらしい。最近では魔法の森に近い平地に屋根も立てずに住み着いているようだった。雨風が苦にならないのだろうか。
仙霊の住処の方へ歩いていると前方から三つ生命の気配を感じた。妖精だ。丁度いい。彼女達なら多少は仙霊の情報を持っているかもしれない、と思い至り紫はその妖精と接触すべくスキマ移動した。
「あーあ。もうちょっと遊んで行きたかったなぁ」
「しょうがないでしょ。そろそろお昼にしないといけないわ」
「……思ったんだけど、純狐さんのところでご馳走になればよかったんじゃない?」
「ルナ、ずうずうしい意見だけどナイスアイディア! じゃあ早速戻ろうか!」
「さよならした直後に顔合わせるのもなんだかなぁ。でもあれ、あのひとってご飯食べるのかしら」
「こんにちは」
背後から紫が声を掛けると三妖精は飛び上がった。
「「「うひゃあ!」」」
振り返った三妖精は紫の姿を確認すると床にへたりこんで更に縮み上がった。
「い、いつかの暴力妖怪!」
サニーミルクが指をさす。
「い、いつかの傘のお化け!」
スターサファイアが二人の影に隠れる。
「スキマの年寄り!」
ルナチャイルドが言う。殺意がこみ上げたが、堪えつつ紫は笑みをこぼす。本人としては友好的に接しようとして見せた笑みだったが、三妖精相手には逆効果だったようでひいひい言いながら三人は肩身を寄せ合っていた。
「そんなに怯えなくても。今日はあなた達に聞きたいことがあって声を掛けました」
「あ、そうなんだ」
「なーんだ。びびらせないでよもう」
サニーミルクとスターサファイアは一転してへらへらとし始める。妖精は脳がないのか、と今更な感想を紫は抱く。
「聞きたいことってなんですか? わたしたち怖いやらお昼ごはん食べたいやらで早く行きたいのだけど」
ルナチャイルドが言う。紫は思わず妖力弾で彼女達を薙ぎ払ってしまわないように自制しつつ質問をする。
「この先に仙霊が住み着いてるのを知っているかしら?」
「センレイ?」
「あー、純狐さんのことじゃない? あの人、私の能力で気配が探りにくいし。霊体に近い身体を持っているわ」
スターサファイアが申告する。霊夢と魔理沙の話に聞いた名前だった。純狐、間違いない。
「純狐さんがどうかしたんですか?」
「いえ、すこしお話がしたくて」
「あのひとすっごく優しいから話してると楽しいよ!」
「サニーは純狐さんの話一方的に遮っちゃうからあれ会話とは言えないわよ」
「サニーはちょっと落ち着きがなさすぎだわ」
「むきーっ! 二人してなによう」
三妖精は互いを貶しだす。紫は何故か一つのハードルを越えた気分だった。この無礼な妖精達を相手をしていても『優しい』という評を得られるような人物ならそれはもうしなやかな柳のような人格をしていると言えるだろう。
「その純狐さんとあなた達はどういう馴れ初めだったのですか?」
「ナレソメ?」
「どうやって知り合ったかって意味よ、サニー」
ルナチャイルドが言う。
「えーっと、普通に森まで来たときにふらふら三人で遊んでたら声掛けられて。なんだか感じたことのない気配だったからわたしも最初は警戒したわ」
スターサファイアは首を傾けて思い出すように言う。感じたことのない気配。神霊の類ではあるのだろうが、こればかりは接触してみなければ分類がわからない。
「たしかここへ来たばかりで友達がいないから一緒に遊びましょって感じだったかなー」
「それからわたし達は暇なときはあそこに通ってるんです」
随分とフレンドリーだ。霊夢と魔理沙の報告とはえらく食い違う。確か彼女達の話では純狐は月への復讐心のせいかかなり気性の激しい人物だったはずだが。あの二人の人物評はあてにならないな、と紫は嘆息つく。
「へえ。仲が良さそうで羨ましいわ。他に、気づいたことはある?」
「キヅイタコト?」
「サニー、そのボケはつまらないわ」
「何をー!」
「うーん気づいたことと言えば」
ルナチャイルドが空を指す。
「純狐さん、たまに花火してるみたいね」
どうでもいい情報だった。
三妖精と別れ、彼女達から貰った情報のおかげで幾分か気が抜けた紫だったが純狐の住処に着いた時点でそんな緩みは吹き飛ぶ。異様な空間だった。平地に、異常成長したかのような草の壁。空気も、酸素濃度が高いのか重く感じる。
なんだこれは。一体どういう能力があればこんな状態になるのか。草の茂みを傘で払いつつ抜けると、そこは地面が大きくすり鉢状に抉れた光景になっていた。土は一度融解したかのように波打って硬質化している。そのすり鉢の中央に佇んでいるのは黒を基調とした豪奢な漢服を着た女性だった。
目を閉じ、空を仰いでいる。日光浴か?
「こんにちは」
声を掛けられる。こちらの気配には当然気づいていたといった様子で。
「こんにちは」
紫は挨拶を返す。
「どちら様ですか?」
純狐が訊く。フラットな、綺麗な声だった。
「お初にお目にかかります、八雲紫です。この幻想郷の結界の維持や管理を生業としている一妖怪ですわ」
「ああ、貴方が紫さんね。私は純狐です。会えて光栄です。月への侵攻経験があると聞いています」
純狐はそこでようやく目を開き紫を視界で確認した。彼女は同志を得たかのように緩やかな笑みを見せた。
「結果はさんざんでしたけれどね」
「そんなことはありません。攻める姿勢があるだけで私からすれば尊敬に値します。あの卑怯で傲慢で関わりあいたくもない愚図の愚図の塵芥を有している能無しの卑怯者集団に挑むほどの勇敢な気概を備えた妖怪がここに居るとは。うれしくなりますね」
……違和感があった。何か、月の様子を語るときの口調がえらく早口だったような。
「そ、そうですか」
「まあ、立ち話もなんです。お茶を用意しましょう」
純狐は茂みの奥から椅子と机を取り出した。念動力に類するような力を持たないのか、手作業でせっせと用意している。
「それで、結界の主たる貴方が今日はどういったご用件で?」
「そんな大層なものじゃありませんわ」
謙遜しつつ、紫は純狐を観察する。ここまでの挙動にまだ彼女の危険性は感じない。力があることはわかる。だがそれを武器にして暴れようとする気性にはとても思えない。終始、笑みを絶やさない。身振り手振りを加えて話すところに愛嬌も感じる。
「今日はちょっと雑談をしに来ただけです」
純狐の用意した椅子に紫は座る。二人は向かい合うような形になった。
「まあ嬉しい! まだここへは来たばかりなので、話し相手が少なくて」
純狐はニコニコと紫に笑いかける。
「ええ。先ほど、すれ違った妖精達にも同じ話を聞きましたわ」
「サニー達ね。よくここへ来てくれるの。とてもいい子達だわ」
「妖精が好きなのですか?」
「ええ、ああいう小さい子を見ていると私の子どもがいた時のことを思い出しまして……」
純狐はすこしだけ声のトーンを落としつつそう言う。過去形なのは、つまりそういうことだろう。紫はすこし気まずくなり、言葉を捜している内に違和感を覚える。何か、分子の運動がおかしくないか?
境界を操作する紫は、自身も分子にその能力を働きかけ攻撃や防御に転用することがあるのでこういったミクロの物理的な運動に敏感だ。何が原因なのかは探すまでもなかった。純狐だ。彼女の右手付近の分子の運動が特に活発になっていた。
「……純狐さん?」
「――」
純狐は、表情を変えていない。笑みのままだ。しかし、何か呪文のように同じ言葉を声に出さずに繰り返しているようだった。幾分か間をおいて、それはようやく音になって純狐の声帯から放たれる。
「じょ、嫦娥ぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!! ああああああ私の子どもを!!! よくもよくもよくも! 倶に、倶に天を戴かずとも貴様への恨みは消えない!! 消えることは、ないのだああああああああああああああ!!!!」
熱エネルギーの純化。紫は彼女の能力を察した。生まれ出る正熱により地面が融解する。すり鉢状になった地面はこれが原因だったのか。そして、濃縮した熱エネルギーはついに上空へ放たれる。
真っ赤な太陽のような光球。それは昼の月目掛けて目測で音より早い速度で飛んでいった。紫の目測が正しく、そしてあれがその速度のまま失速せず月へ向かうとなるとおよそ320時間後には月の表面には新たなクレーターが出来る計算になる。
――まさかこうして月の表面はクレーターだらけになったのか? 咄嗟に思いついた突拍子のない仮説を、しかし紫は即座に否定することができず呆然としていた。
光球を放った直後、純狐は平静になり椅子に座って手元のカップの紅茶を一杯煽った。
「……ふう。すっきり。さて、何の話でしたっけ?」
なんでもないように、純狐は会話を続けようとする。正気か? 紫は戦慄した。一体今のはなんだったのだろうか。
「え、ええと。お子さんのはなしでs……」
そこまで言いかけたところで紫は言葉を切る。ああ、まずい、もしかしてこの話題が駄目だったのか。
直後、紫は自身の推測が正しかったことを知る。
「子……、私の……。じょ、嫦娥ぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
眩暈がした。なんだこれは。狂っている。とても制御できる人格ではない。紫は瞬時にそう判断した。まさかこの判断を早計だと批判できるものはいないだろう。それから純狐は、紫との会話の節々で発狂をし、光球を上空に放つというルーチンを繰り返した。
紫が逃げなかったのは、何かの拍子でその光球が幻想郷に向かって放たれないか気が気じゃなかったからだ。
日が傾き始め、ようやく地獄が終わろうとしていた。
「あら、もうあんなに日が落ちてる。長々とお話に付き合ってもらって申し訳ありませんでしたね」
「……、え、ええ」
純狐の放つ熱エネルギーの余波で紫はぼろぼろだった。しかし、その価値はあったと紫は判断する。純狐との雑談の中で、紫は彼女のNGワードを判別し、その殆どを把握することに成功していた。おかげで雑談の後半部分では純狐は殆ど発狂することがなくなっていた。
紫にはこの幻想郷で自分以上に彼女と安全に会話できる者はいないだろう、という妙な自負まで生まれていた。転んでもただでは起きないのが八雲紫である。このNGワード集を帰ったら先ず自分の式神達と共有しよう。収穫はあったのだ。半ば自身に言い聞かせるように紫は思考する。
「どうかしら。また私とお話してくれる?」
「え、ええ。是非」
二度と会いたくないというのが本音だった。NGワード避け以外に彼女の発狂を抑える方法には思い至ってたが、それでも会う気にはならない。ちなみにその方法というのは小さな子を同伴させるというものだった。妖精達と普通に友好的な関係が成立していたところから判断した。幼子を見ると自身の子どもがそこに生きているかのように錯覚して鎮静するのかもしれない。もしも再会が避けられないような状況がくればその際には橙を同行させよう。
「では帰ります。また会いましょう」
「ええ。――帰る……カエル? か、蛙? じょうが……」
純狐は笑顔のまま復唱する。ああ、と紫は絶望的な気分になった。純狐発狂の前兆である。ここに来て踏み損ねていた地雷ワードを踏んでしまったらしい。勘弁してくれ。
熱エネルギーが純化する。もはや体力の限界だった。紫は朦朧とした意識のまま純狐の花火を阻止することも出来ず佇んでいた。
「もー、だめよー純狐。そんなに暴れちゃあ」
突然だった。純化した熱エネルギーが何者かに握りつぶされる。
頭を振って紫は飛びかけた意識を覚醒させる。いつの間にか純狐の隣に奇抜な格好の女性が立っていた。惑星を模したかのような妙なバルーンを首についた鎖で繋げて宙に三つ浮かばせた黒いTシャツの女性。スカートも縦に三色に分かれていて、なんだか外の世界の信号のようだった。
よく見ればTシャツに文字が書かれているのも確認できる。welcome hell。文法おかしくないか?
「ほらあ、お客様もぼろぼろじゃない。なにやってるのよん」
女性は紫へ近づき、肩を貸す。そのときに紫は確認したのだが、光球を握りつぶした彼女の手には傷一つついてなかった。なんだこの人は。いったい何者だ? 疑問符が紫の脳内で浮かび続ける。
「ああ。ヘカーティア。こんばんわ。どうしたの?」
「どうしたのじゃないわよ。月に居る私から貴方がいくつも弾を飛ばしてるって連絡があってね。何かあったのかと心配したのよ」
「そうなの? ごめんなさい、気づかなかったわ。また私は無意識に月を攻撃していたのね。あの塵を匿う負の惑星を攻撃していたの私は正しい月よ潰れてしまえ消えろ、砕けろ壊れろ壊れろ壊れろおおおおおおおおおおおおおおおお」
「もーう、駄目だってば」
こともなげに女性は純狐の攻撃を抑え始める。ヘカーティア。その名にはもちろん聞き覚えがあった。現役バリバリの三界を治める女神である。まさか、何故だ。何故そんな外界でも知名度のある神性が幻想入りしている?
紫は自身の管理能力の限界を感じた。そうだ、何人か力のある妖怪を管理者に勧誘しよう。
月を背景に上空で展開される純狐とヘカーティアの弾幕ごっこを遠めに眺めながら紫はそう決意した。
「紫様。ただいま戻りました。やはり、例の仙霊はこの里を根城にしているようです」
そんな紫の状態を察しているのか、藍は彼女を揺り起こさず報告した。報告を聞いた紫はのっそりとハンモックから降り、標識と麻布をスキマに仕舞った。
「そう、ご苦労。後は引っ込んでいいわ。私が直接出向くから」
紫がそう宣言すると藍は意外そうに目を細めた。
「遠目にしか姿を見ていませんが、あの者は危険です。いきなり貴女が出張る必要はないのでは……」
「何を以て危険だと?」
紫がそう訊くと藍は短く返答した。
「彼女は、強い」
言葉を飾らず言い切った。純粋に、藍はそう感じたのだ。強く、危険だと。
「強い者は危険、だというあなたの意見には同調するわ。しかし、ならばだからこそ私が出向かなくてはなりませんわね。あなたでは荷が重い」
紫から見て藍は遠巻きに眺めただけのその仙霊に対して萎縮しているようだった。これでは交渉も何も出来たものではない。
「しかし紫様……」
「大丈夫よ。別に戦いに行くわけではないのだから。それに、たまには自分から足を動かさなければ身体が鈍ってしまいますわ」
心配そうな藍を余所に紫は笑みをこぼし、彼女の頭を軽く撫でた。本音を言えば、好奇心というものもあった。長らく生きているせいでそういった感情は死滅しているものだと思っていたものだが、『月を相手にたった一人で襲撃を続ける仙霊』という規格外の存在が幻想郷にやってきたという事実に彼女は昂ぶった。月にそんな天敵がいるなんてことは第一次月面戦争・第二次月面戦争時の調査でも把握していなかった。一体どういう存在なのか、楽しみだった。あわよくば幻想郷を守る賢者の一人に取り込もうと楽観的に考えていた。
そんな自身の思考に紫は後悔することになる。
自らの足でのフィールドワークというのは何年ぶりだろうか、と紫は思考しつつ茂みを歩く。彼の仙霊の元に足を使わずスキマで乗り込むのは論外だった。そんなことをすれば敵性存在だと断定されても仕方ない。あくまで穏便に、彼女と接触してその人格を図るのが今回の目的だった。
報告によれば彼女は住処を探しているのか、幻想郷内の各地を転々としているらしい。最近では魔法の森に近い平地に屋根も立てずに住み着いているようだった。雨風が苦にならないのだろうか。
仙霊の住処の方へ歩いていると前方から三つ生命の気配を感じた。妖精だ。丁度いい。彼女達なら多少は仙霊の情報を持っているかもしれない、と思い至り紫はその妖精と接触すべくスキマ移動した。
「あーあ。もうちょっと遊んで行きたかったなぁ」
「しょうがないでしょ。そろそろお昼にしないといけないわ」
「……思ったんだけど、純狐さんのところでご馳走になればよかったんじゃない?」
「ルナ、ずうずうしい意見だけどナイスアイディア! じゃあ早速戻ろうか!」
「さよならした直後に顔合わせるのもなんだかなぁ。でもあれ、あのひとってご飯食べるのかしら」
「こんにちは」
背後から紫が声を掛けると三妖精は飛び上がった。
「「「うひゃあ!」」」
振り返った三妖精は紫の姿を確認すると床にへたりこんで更に縮み上がった。
「い、いつかの暴力妖怪!」
サニーミルクが指をさす。
「い、いつかの傘のお化け!」
スターサファイアが二人の影に隠れる。
「スキマの年寄り!」
ルナチャイルドが言う。殺意がこみ上げたが、堪えつつ紫は笑みをこぼす。本人としては友好的に接しようとして見せた笑みだったが、三妖精相手には逆効果だったようでひいひい言いながら三人は肩身を寄せ合っていた。
「そんなに怯えなくても。今日はあなた達に聞きたいことがあって声を掛けました」
「あ、そうなんだ」
「なーんだ。びびらせないでよもう」
サニーミルクとスターサファイアは一転してへらへらとし始める。妖精は脳がないのか、と今更な感想を紫は抱く。
「聞きたいことってなんですか? わたしたち怖いやらお昼ごはん食べたいやらで早く行きたいのだけど」
ルナチャイルドが言う。紫は思わず妖力弾で彼女達を薙ぎ払ってしまわないように自制しつつ質問をする。
「この先に仙霊が住み着いてるのを知っているかしら?」
「センレイ?」
「あー、純狐さんのことじゃない? あの人、私の能力で気配が探りにくいし。霊体に近い身体を持っているわ」
スターサファイアが申告する。霊夢と魔理沙の話に聞いた名前だった。純狐、間違いない。
「純狐さんがどうかしたんですか?」
「いえ、すこしお話がしたくて」
「あのひとすっごく優しいから話してると楽しいよ!」
「サニーは純狐さんの話一方的に遮っちゃうからあれ会話とは言えないわよ」
「サニーはちょっと落ち着きがなさすぎだわ」
「むきーっ! 二人してなによう」
三妖精は互いを貶しだす。紫は何故か一つのハードルを越えた気分だった。この無礼な妖精達を相手をしていても『優しい』という評を得られるような人物ならそれはもうしなやかな柳のような人格をしていると言えるだろう。
「その純狐さんとあなた達はどういう馴れ初めだったのですか?」
「ナレソメ?」
「どうやって知り合ったかって意味よ、サニー」
ルナチャイルドが言う。
「えーっと、普通に森まで来たときにふらふら三人で遊んでたら声掛けられて。なんだか感じたことのない気配だったからわたしも最初は警戒したわ」
スターサファイアは首を傾けて思い出すように言う。感じたことのない気配。神霊の類ではあるのだろうが、こればかりは接触してみなければ分類がわからない。
「たしかここへ来たばかりで友達がいないから一緒に遊びましょって感じだったかなー」
「それからわたし達は暇なときはあそこに通ってるんです」
随分とフレンドリーだ。霊夢と魔理沙の報告とはえらく食い違う。確か彼女達の話では純狐は月への復讐心のせいかかなり気性の激しい人物だったはずだが。あの二人の人物評はあてにならないな、と紫は嘆息つく。
「へえ。仲が良さそうで羨ましいわ。他に、気づいたことはある?」
「キヅイタコト?」
「サニー、そのボケはつまらないわ」
「何をー!」
「うーん気づいたことと言えば」
ルナチャイルドが空を指す。
「純狐さん、たまに花火してるみたいね」
どうでもいい情報だった。
三妖精と別れ、彼女達から貰った情報のおかげで幾分か気が抜けた紫だったが純狐の住処に着いた時点でそんな緩みは吹き飛ぶ。異様な空間だった。平地に、異常成長したかのような草の壁。空気も、酸素濃度が高いのか重く感じる。
なんだこれは。一体どういう能力があればこんな状態になるのか。草の茂みを傘で払いつつ抜けると、そこは地面が大きくすり鉢状に抉れた光景になっていた。土は一度融解したかのように波打って硬質化している。そのすり鉢の中央に佇んでいるのは黒を基調とした豪奢な漢服を着た女性だった。
目を閉じ、空を仰いでいる。日光浴か?
「こんにちは」
声を掛けられる。こちらの気配には当然気づいていたといった様子で。
「こんにちは」
紫は挨拶を返す。
「どちら様ですか?」
純狐が訊く。フラットな、綺麗な声だった。
「お初にお目にかかります、八雲紫です。この幻想郷の結界の維持や管理を生業としている一妖怪ですわ」
「ああ、貴方が紫さんね。私は純狐です。会えて光栄です。月への侵攻経験があると聞いています」
純狐はそこでようやく目を開き紫を視界で確認した。彼女は同志を得たかのように緩やかな笑みを見せた。
「結果はさんざんでしたけれどね」
「そんなことはありません。攻める姿勢があるだけで私からすれば尊敬に値します。あの卑怯で傲慢で関わりあいたくもない愚図の愚図の塵芥を有している能無しの卑怯者集団に挑むほどの勇敢な気概を備えた妖怪がここに居るとは。うれしくなりますね」
……違和感があった。何か、月の様子を語るときの口調がえらく早口だったような。
「そ、そうですか」
「まあ、立ち話もなんです。お茶を用意しましょう」
純狐は茂みの奥から椅子と机を取り出した。念動力に類するような力を持たないのか、手作業でせっせと用意している。
「それで、結界の主たる貴方が今日はどういったご用件で?」
「そんな大層なものじゃありませんわ」
謙遜しつつ、紫は純狐を観察する。ここまでの挙動にまだ彼女の危険性は感じない。力があることはわかる。だがそれを武器にして暴れようとする気性にはとても思えない。終始、笑みを絶やさない。身振り手振りを加えて話すところに愛嬌も感じる。
「今日はちょっと雑談をしに来ただけです」
純狐の用意した椅子に紫は座る。二人は向かい合うような形になった。
「まあ嬉しい! まだここへは来たばかりなので、話し相手が少なくて」
純狐はニコニコと紫に笑いかける。
「ええ。先ほど、すれ違った妖精達にも同じ話を聞きましたわ」
「サニー達ね。よくここへ来てくれるの。とてもいい子達だわ」
「妖精が好きなのですか?」
「ええ、ああいう小さい子を見ていると私の子どもがいた時のことを思い出しまして……」
純狐はすこしだけ声のトーンを落としつつそう言う。過去形なのは、つまりそういうことだろう。紫はすこし気まずくなり、言葉を捜している内に違和感を覚える。何か、分子の運動がおかしくないか?
境界を操作する紫は、自身も分子にその能力を働きかけ攻撃や防御に転用することがあるのでこういったミクロの物理的な運動に敏感だ。何が原因なのかは探すまでもなかった。純狐だ。彼女の右手付近の分子の運動が特に活発になっていた。
「……純狐さん?」
「――」
純狐は、表情を変えていない。笑みのままだ。しかし、何か呪文のように同じ言葉を声に出さずに繰り返しているようだった。幾分か間をおいて、それはようやく音になって純狐の声帯から放たれる。
「じょ、嫦娥ぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!! ああああああ私の子どもを!!! よくもよくもよくも! 倶に、倶に天を戴かずとも貴様への恨みは消えない!! 消えることは、ないのだああああああああああああああ!!!!」
熱エネルギーの純化。紫は彼女の能力を察した。生まれ出る正熱により地面が融解する。すり鉢状になった地面はこれが原因だったのか。そして、濃縮した熱エネルギーはついに上空へ放たれる。
真っ赤な太陽のような光球。それは昼の月目掛けて目測で音より早い速度で飛んでいった。紫の目測が正しく、そしてあれがその速度のまま失速せず月へ向かうとなるとおよそ320時間後には月の表面には新たなクレーターが出来る計算になる。
――まさかこうして月の表面はクレーターだらけになったのか? 咄嗟に思いついた突拍子のない仮説を、しかし紫は即座に否定することができず呆然としていた。
光球を放った直後、純狐は平静になり椅子に座って手元のカップの紅茶を一杯煽った。
「……ふう。すっきり。さて、何の話でしたっけ?」
なんでもないように、純狐は会話を続けようとする。正気か? 紫は戦慄した。一体今のはなんだったのだろうか。
「え、ええと。お子さんのはなしでs……」
そこまで言いかけたところで紫は言葉を切る。ああ、まずい、もしかしてこの話題が駄目だったのか。
直後、紫は自身の推測が正しかったことを知る。
「子……、私の……。じょ、嫦娥ぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
眩暈がした。なんだこれは。狂っている。とても制御できる人格ではない。紫は瞬時にそう判断した。まさかこの判断を早計だと批判できるものはいないだろう。それから純狐は、紫との会話の節々で発狂をし、光球を上空に放つというルーチンを繰り返した。
紫が逃げなかったのは、何かの拍子でその光球が幻想郷に向かって放たれないか気が気じゃなかったからだ。
日が傾き始め、ようやく地獄が終わろうとしていた。
「あら、もうあんなに日が落ちてる。長々とお話に付き合ってもらって申し訳ありませんでしたね」
「……、え、ええ」
純狐の放つ熱エネルギーの余波で紫はぼろぼろだった。しかし、その価値はあったと紫は判断する。純狐との雑談の中で、紫は彼女のNGワードを判別し、その殆どを把握することに成功していた。おかげで雑談の後半部分では純狐は殆ど発狂することがなくなっていた。
紫にはこの幻想郷で自分以上に彼女と安全に会話できる者はいないだろう、という妙な自負まで生まれていた。転んでもただでは起きないのが八雲紫である。このNGワード集を帰ったら先ず自分の式神達と共有しよう。収穫はあったのだ。半ば自身に言い聞かせるように紫は思考する。
「どうかしら。また私とお話してくれる?」
「え、ええ。是非」
二度と会いたくないというのが本音だった。NGワード避け以外に彼女の発狂を抑える方法には思い至ってたが、それでも会う気にはならない。ちなみにその方法というのは小さな子を同伴させるというものだった。妖精達と普通に友好的な関係が成立していたところから判断した。幼子を見ると自身の子どもがそこに生きているかのように錯覚して鎮静するのかもしれない。もしも再会が避けられないような状況がくればその際には橙を同行させよう。
「では帰ります。また会いましょう」
「ええ。――帰る……カエル? か、蛙? じょうが……」
純狐は笑顔のまま復唱する。ああ、と紫は絶望的な気分になった。純狐発狂の前兆である。ここに来て踏み損ねていた地雷ワードを踏んでしまったらしい。勘弁してくれ。
熱エネルギーが純化する。もはや体力の限界だった。紫は朦朧とした意識のまま純狐の花火を阻止することも出来ず佇んでいた。
「もー、だめよー純狐。そんなに暴れちゃあ」
突然だった。純化した熱エネルギーが何者かに握りつぶされる。
頭を振って紫は飛びかけた意識を覚醒させる。いつの間にか純狐の隣に奇抜な格好の女性が立っていた。惑星を模したかのような妙なバルーンを首についた鎖で繋げて宙に三つ浮かばせた黒いTシャツの女性。スカートも縦に三色に分かれていて、なんだか外の世界の信号のようだった。
よく見ればTシャツに文字が書かれているのも確認できる。welcome hell。文法おかしくないか?
「ほらあ、お客様もぼろぼろじゃない。なにやってるのよん」
女性は紫へ近づき、肩を貸す。そのときに紫は確認したのだが、光球を握りつぶした彼女の手には傷一つついてなかった。なんだこの人は。いったい何者だ? 疑問符が紫の脳内で浮かび続ける。
「ああ。ヘカーティア。こんばんわ。どうしたの?」
「どうしたのじゃないわよ。月に居る私から貴方がいくつも弾を飛ばしてるって連絡があってね。何かあったのかと心配したのよ」
「そうなの? ごめんなさい、気づかなかったわ。また私は無意識に月を攻撃していたのね。あの塵を匿う負の惑星を攻撃していたの私は正しい月よ潰れてしまえ消えろ、砕けろ壊れろ壊れろ壊れろおおおおおおおおおおおおおおおお」
「もーう、駄目だってば」
こともなげに女性は純狐の攻撃を抑え始める。ヘカーティア。その名にはもちろん聞き覚えがあった。現役バリバリの三界を治める女神である。まさか、何故だ。何故そんな外界でも知名度のある神性が幻想入りしている?
紫は自身の管理能力の限界を感じた。そうだ、何人か力のある妖怪を管理者に勧誘しよう。
月を背景に上空で展開される純狐とヘカーティアの弾幕ごっこを遠めに眺めながら紫はそう決意した。
純狐の異能を象徴する住処の描写も、どれもリアリティがあって楽しめた。
残念な点を挙げるとすれば、それはこのSSの長さが120kbではなく12kbであった点だろう。
リアルだわ
自分が勝てない月にしょっちゅう喧嘩売る化け物相手に緊張感ないし
三月精の話もあんま信じないし
純狐さんヤバすぎ