自分自身の能力と、それが活かされる場所とが見合わないということは、世の中には度々あることである。私は先般、自宅の玄関先に投げ込まれていた文々。新聞に掲載されていた幾つかの記事から、改めてそのことに思い至った。以下は、その記事から読み取れる話に、私の経験を加えて仕立て直したものである。
――――――
妖怪の山の中腹には、山の防衛を担う白狼天狗の練兵場がある。
練兵場とはいっても、人間たちが剣だの槍だの弓だのの修練に使うような、屋根のある道場を連想してはいけない。疲れを知らず峻厳な山々を駆け抜ける白狼たちのこと、そこにはおよそ建物と呼べそうなものはひとつもない。小屋だとか東屋さえ存在しないのだ。その代わりであるかのように林立する的や巻き藁は、地ならしさえされていない山肌に直に据えつけられているものだから、どれもこれも地形の影響を露骨に受けて傾いでいる。
実戦本位を称する彼らは、平地での調練に安住しないのだ。山での戦いは常に不安定な足場で行われるのが常であるから、あえて傾いだ的を相手に剣や弓を取るのだという、もっぱらの主張がそこには在った。
白狼天狗の、特に男盛りを迎えた青年たちの姿を探すには、この練兵場に行くのがもっとも良いといわれる。何せ調練に伴う気合いの雄叫びは、半里ほど離れていてもまだ耳に入ると噂されるほどの大音声。彼らの声があまりに力強く轟々と響き渡るものだから、天狗の領域を侵さぬようにおっかなびっくりで狩りをしている麓の猟師にとっては、恐怖以外の何物でもないともいう。
裂帛の気迫とともに巻き藁を木剣で打ち据え、それが終われば朋輩同士で向き合って、互いの剣を打ち交わす。それぞれの身に剣がぶち当たっても気にも留めない。面や防具の装着は御法度である。傷や痛みを恐れるは怯懦(きょうだ)であり、白狼天狗がもっとも嫌うものであるからだ。それだけならば優しい方で、高い崖から飛び降りて地上の巻き藁に剣を打ち当てたり、木々の間を脚力だけで飛び回り、密かに樹上に取りつけられた土器(かわらけ)を自力で見つけ出して、これを割ってくるという力試しも頻繁に行われる。むろん、どちらにも命綱など使われない。
一日の調練が終われば、皆の身体は一か所ならずと腫れ上がる。眼の潰れた者も居るし、誰彼となく毎年一度は手足を折る。そうやって自身の身体をいじめ抜くことが彼らの修行の要諦であり、しかし悦びでもあった。頑健な肉体を持つ天狗ならではのことだと言えよう。妖怪の山の強固な防衛網は、彼らが辛苦の上に積み上げた珠玉にして、練磨に継ぐ練磨から生み出される精髄なのだった。
そのような修行の場で事件が起こったのは、ある夏の日のことである。
いかなる痛みにも呵々と笑うを良しとする白狼たちも、酷暑の下で動き続けるのはさすがに難儀すると見え、みな諸肌脱ぎになり、半身を晒したかたちで調練を行っていた。鍛え上げられた屈強な肉体に、傷のない者はひとりもない。およそこの日の練兵場に集まった白狼たちのなかで、実際の戦いを知らぬ者はひとりとして居なかったし、また、剣の腕においてもいずれ劣らぬ手練れ揃いだった。
その手練れの男たちが、半裸に汗の珠を飾り、手にした木剣を打ち合わせている。夏は獣の性が刺激されるのか、勢い余って、一度の立ち合いで剣が二本、三本と折られてしまうのも決して珍しくなかった。
この日、彼らは調練に参加している者たちを二組に分けたうえで、互いの組に属する者を一人ずつ戦わせ、終われば次の者を出す……という総当たりの立ち合い稽古をしていたのだが、行程も半分ほどまで過ぎたかという頃に、不思議なことがあった。
片方の組の人数が、ひとり多いのである。
誰が最初であるともなくそれには気づいて、途中で遅れて来た仲間が居たのかと思ったが、どうも違う。ひとり多いというその者は、男というにはいやに小柄が過ぎる。つばの広い黒い帽子を被り、薔薇の紋様で飾られた洋装を身に着けるに至っては、あまりにも軟弱な格好である。尚武の徒である白狼天狗においては、あんな着物はたとえ女ですら遠ざけることだろうと思われた。そのうえ、胸元に抱いた青い色の珠の奇怪さだ。目蓋があり、睫毛が生えている。子供の握り拳ほどもある大きさを見るに、首飾りとも言い難い。面妖、と、誰かが呟いた。見るに、天狗ではない。声を聞くには、少女である。面妖、と、再び誰かが呟いた。
天狗でないとするならば、どこかの野良妖怪か妖精か、あるいは人里の子供が迷い込んだか。天狗という生き物の例に漏れず、白狼たちもまた排他の気性を強く持つ。まして天狗の国の防人として、山を侵す者を処断するのが彼らの職掌。調練の妨げゆえ、今この場で殺さぬまでも、さっさとつまみ出してしまわねば。
皆は互いに目配せし合い、やがて一人の白狼が進み出た。
彼は何の躊躇もなく少女の元まで歩み寄ると、警告の文句より先にその首根っこを押さえようとした――が、できぬ。
ぐわりと腕を伸ばした途端、少女はぬらりとその場から離れた。狙いを外し、勢い余ってつんのめった白狼を周りの仲間たちが笑う。それなら俺が捕らえてやると、ひとり、またひとりと進み出て少女に向かっていくが、何度挑んでも結果は同じだ。少女は白狼が向かってくる度にすらりと、あるいはむるりと逃げ去って、気づけば五歩、六歩の彼方。
しかも、その動きが尋常一様ではない。
迫りくる何かを避けようと思えば、心はことさらそちらに向き、視線、鼓動、呼吸、足取り、そのような諸々の兆候が、ひとつならずとその人の身体という外形に現れるものである。しかし、少女にはそれがない。自分に捕獲の手が及ぼうとすると、気づいていながらにして気づいていないというべきか、自分が自分でないかのような心地らしく、笑みさえ浮かべて離れていく。そこも、あそこも、皆はじめから自分の庭であり、身体の一部であるとでもいうように。身体の一部である以上は、こうしよう、ああしようと必死に努めて動かすものではない。少女にとっては、何かの癖で知らずと指先を動かすような意味しか、白狼たちから逃げるということには割かれていないのである。
そうなると、面白くないのは白狼たち。
仮にも幾多の実戦を潜り抜けてきた男たちが、女子供に翻弄されているのでは、山の防人の名折れである。彼らは態度にこそ出さなかったが、心のうちでは怒りに燃えていた。この生意気な娘の、手足の一本でも折ってから叩き出してやると。悲しいかな、気短(きみじか)の直情径行であることもまた、白狼天狗を語るうえでは欠かせない性のひとつである。
天狗たちは各々の木剣を握り締め、雄叫び上げて少女に躍りかかった。
ある者は胴を薙ごうとし、ある者は後ろから袈裟懸けに剣を叩きつけようとする。
男たちの決死の突撃は、しかし、とうとう実を結ぶことはない。少女はまた身を翻すと――やはり面妖であることには、“自分がいま白狼天狗の集団に襲われていることにも気づかない様子で”、包囲を脱け出してしまった。そして驚愕に目を見開く男たちのうち、ひとりの手から得物を奪い取ると、首を傾げる素振りを見せた。
ややあって、自分の手にある道具が何かの武器だとようやく気づいたか、少女は群がる敵たちの頭を、背を、尻を、肩を、それぞれ一度ずつ打ち据えていく。その太刀筋はまったく技巧的でない。否、太刀筋というほどのものはなく、ただ振り回しているだけだ。
よほど武術、剣術の技巧というものを知らないのかとも思われたが、やはりその動きは手練れの白狼たちにも読み切れない。言うなれば、秋の日の風にさらわれ、無軌道に舞い落ちる枯れ葉のようだ。風の流れとそこに乗った葉の動きを、すべて見極めるのは難しい。そこには何の意思もなく、次の動きの兆候が読めないからだ。少女は、その枯れ葉の動きで白狼たちに勝ったのである。
勝者は、敗者たちを罵りも嘲りもしなかった。
ただ、木剣というものを振り回しても面白くないと思ったのか、それを地面に放って、自分からどこかに行ってしまった。後には、呆然とする白狼たちだけが残された。
明くる朝、所用があって前日の調練を欠席していた白狼天狗の老師範が練兵場に姿を見せると、白狼たちはこぞって彼に詰め寄った。私たちをも上回る、あの剣の使い手にお心当たりはございませぬか。先生は、鞍馬の山の護法魔王尊の直々に京八流の極意を授かったと承っておりますが、その縁(えにし)に連なる者ではありますまいか。あるいはあの娘こそは、鴉天狗の射命丸文が自らの直弟子としきりに吹聴する九郎義経の末裔では……などなど。
師範は、自身の皺首を指でこすってしばらく弟子たちの話に耳を傾けていたが、やがて深々と呼吸をしてから語り出した。これこそは、神武不殺の極致に他ならぬと。
曰く、神武不殺とは『易経』に拠る言葉である。周の文王は傑出した武力武勇の持ち主ながら、仁政を行い、天下の潮目が変わるのを待ち続けた。悪政を続けて無辜(むこ)の人民を苦しめる殷の紂王を討つべきときを、見計らっていたのである。真の武人はいたずらに自らの武勇を振り回さないものなのだ。
曰く、神武の極致に至るということは、自他を隔てる心の境界を取り払うことに等しい。無我の領域に足を踏み入れればこそ、相対する敵が自らの身体の一部のごとくにのみ感じられ、逆に自らは敵の身体の一部にも等しくなるので、ことさらに殺意、害意を抱かずとも、次にどのように動けば良いのかが意識の中において自明である。
曰く、自他の境界を取り払うということは、申さば、自身も他人も、さらにまたこの世界さえも、すべて一体の存在であると気づいてしまうことである。そうなると、そもそも戦うとか仕合うとかいったことすらも無意味であり、武勇を振り回したり誇ったり必要がなくなる。
曰く、つまり神武の極致とは、剣を取って剣を忘れ、斬って斬らず、終いには剣が何であったかすらも忘れることだ。空気を斬るに五十年、雨を斬るに三十年、時を斬るに二百年。それほど斬ればようやく解ることだと私の古い剣友は言っていたが、子供の姿形(なり)でその境地を会得しているとは。白狼たちを打ち据えた少女は、ただの人間や妖怪ではない。
そこまで説くと、数多の戦いを経験した戦場の古老とも言える師範は、山深い緑の向こうにそびえ立つ、守矢神社の御柱を仰ぎ見た。そして地面に膝を突くと恭しくひざまずき、自らの額で大地を削るのであった。
きっとお前たちを打ち据えたというその少女は、世に類なき無双の軍神である八坂の神が遣わした者であるに違いないと、彼は言った。八坂の神はわれわれ白狼天狗に対し、これからも山の防人として気を緩めることなく、より一層の修練に励むよう仰せられたのだと。さすれば、このような神武の極致にも至ることができようと。何という深き神慮、またお恵みであることか。
老人特有の信心深さだろうか、師範は目の端に涙さえ浮かべて八坂の神を褒め称えた。
一方、弟子である若い白狼たちはどうも解せぬといった様子であったが、自分たちの師範がそう言うのであれば、そうかもしれない。ひとまずは師に倣い、はるか遠くの御柱を遥拝するのだった。
――――――
ちょうど七日後、老師範は数名の高弟たちを引き連れ、ばっちりと正装に身を固めて守矢神社を訪れた。皆の手には、新鮮な野菜や果物、餅などを載せた折敷(おしき)に三方(さんぽう)。生きた獣を連れている者も居れば、芳香発する酒樽を担ぐ者も居る。八坂の神に、此度(こたび)の啓示について謝し奉るための贈り物を持参したのである。
風祝の東風谷早苗に導かれ、神前への案内を受けた白狼たちは、少女というかたちでの一風変わった神使(つかわしめ)を発した、八坂の神の諧謔を褒め称えた。そしてまた、白狼天狗が自らの武威に溺れることなく修行に励むよう諭す、その軍神らしい粋なやり方に深く感謝する旨を、滔々と述べた。
彼らの贈り物のうち獣たちはさっそく御頭の贄として供えられ、その血の元で、白狼たちと軍神とが酒を介して相交わる夜通しの宴が張られたという。
けれども、少し不思議なことがある。
守矢神社におけるもう一柱の祭神である洩矢の神が、射命丸記者に語ったところによると、八坂の神は白狼天狗の所に神使など送っていない。きっと何かの間違いであろうということだ。八坂の神は優しいから、己を信仰する者があれば、奇跡も何もないただの勘違いであろうと、拒むことはできないのである。
――――――
この不思議な出来事の真相は、案外あっさりと解き明かされた。
ここからは、私自身の体験の話だ。
祖父が亡くなったとき、私は親族連中に頼まれて通夜に参ずることと相成ったのだが、皆は故人の思い出を語ると称して奥の方に引っ籠り、酒と飯に舌鼓を打ち始める始末。下戸の私ではどうがんばっても酒飲みの相手が務まるものではないので、自分ひとりで祖父の棺を守る羽目になってしまった。
さて、故人の棺を守るといえば、思い出されるのが火車猫の妖怪だろう。
古伝に曰く、生前に悪事を働いた者の屍体を盗りに来るという悪癖を持つこの妖怪が、決して清廉とはいえない高利貸しで一財産を築いた、私の祖父のもとにも現れたのである。
火車は妖怪画に見るような恐ろしい姿をせず、むしろ可憐な少女と言った方がふさわしい風貌で、ご丁寧にもあたいは火焔猫燐さと名前まで明かしてくれた。言うまでもなく彼女は祖父の遺体を盗りに来たのだが、通夜の役目を申しつけられている以上、こちらとしても引き下がるわけにはいかない。私が飲まぬためにひとり分が余ってしまった酒瓶を、半ば強引に火車に押しつける。燐は、女を酔わせて何をするつもりだいとからかいながらも、酒に誘われること自体は満更でもなかったらしい。互いの仕事はひとまず脇に押し遣って、われわれ二人の酒盛りが、そのときにわかに始まった。
私たちは(燐だけは酒に頼って)互いに色々の身の上話を繰り広げたが、その中にさっきの事件の真相があった。白狼天狗の練兵場に突如現れた、謎の少女の正体である。
曰く、古明地こいしというその少女は、燐の飼い主である覚り妖怪の妹君であり、“心読まずの覚り”であるのだという。
心読まずの覚りは、その名の通り、他者の心を読むことをやめてしまった覚り妖怪だ。
古明地こいしは、己と他人との間に壁をつくりながらも、同時に無為の境地、無意識の地平に自らの心を追い落とす。無為の境地は、自他の間に境なきこと。何を思わずともすべての行いは迷いなく自明であるのだし、意思が生ずる以前の行いであるからこそ、何者にも気取られぬ。そのこいしという少女は、どこにでも自らの心を置くことができるのだ。どこにでも心を置くことができるから、心を読めぬにも関わらず、自らの手足が相手の手足である如く感ずる。相手の動きを読んで応ずるのではなく、自身の動きが応じた先にたまたま相手が居る。ただそれだけのことなのだと、古明地こいしは火焔猫燐に語ったという。
しかし、それこそは世に数多の武人が欲し、長い長い修行の果てに到達するという無我の境地ではあるまいか。古明地こいし嬢がその気になれば、どんな武道武術においても歴史に名を残せるはずだ。あるいは思索を深くし哲学者の道を進むなら、西洋の神秘主義や東洋の禅と並び称されるような、人間の魂と世界とを結びつける全一の道を見つけ出した、偉大な思想家と呼ばれるようになるだろう。
そんなことを問うと、燐は苦笑いをして答えた。
「あァ、そんなしかつめらしいことを考えたってむだだよ、おにいさん。さっきあたいが言ったこいし様の無意識と、その極意みたいなやつはね。あの方が妖精を獲って遊ぶときなんかに使ってる、ただそれだけの子供の技術(ワザ)なんだから。子供の考えることだから、別に天狗さん方の道場破りをしようってこともない。ただ、そこに面白そうなことが転がってたから、拾い上げてみたってところだろうさ」
――――――
妖怪の山の中腹には、山の防衛を担う白狼天狗の練兵場がある。
練兵場とはいっても、人間たちが剣だの槍だの弓だのの修練に使うような、屋根のある道場を連想してはいけない。疲れを知らず峻厳な山々を駆け抜ける白狼たちのこと、そこにはおよそ建物と呼べそうなものはひとつもない。小屋だとか東屋さえ存在しないのだ。その代わりであるかのように林立する的や巻き藁は、地ならしさえされていない山肌に直に据えつけられているものだから、どれもこれも地形の影響を露骨に受けて傾いでいる。
実戦本位を称する彼らは、平地での調練に安住しないのだ。山での戦いは常に不安定な足場で行われるのが常であるから、あえて傾いだ的を相手に剣や弓を取るのだという、もっぱらの主張がそこには在った。
白狼天狗の、特に男盛りを迎えた青年たちの姿を探すには、この練兵場に行くのがもっとも良いといわれる。何せ調練に伴う気合いの雄叫びは、半里ほど離れていてもまだ耳に入ると噂されるほどの大音声。彼らの声があまりに力強く轟々と響き渡るものだから、天狗の領域を侵さぬようにおっかなびっくりで狩りをしている麓の猟師にとっては、恐怖以外の何物でもないともいう。
裂帛の気迫とともに巻き藁を木剣で打ち据え、それが終われば朋輩同士で向き合って、互いの剣を打ち交わす。それぞれの身に剣がぶち当たっても気にも留めない。面や防具の装着は御法度である。傷や痛みを恐れるは怯懦(きょうだ)であり、白狼天狗がもっとも嫌うものであるからだ。それだけならば優しい方で、高い崖から飛び降りて地上の巻き藁に剣を打ち当てたり、木々の間を脚力だけで飛び回り、密かに樹上に取りつけられた土器(かわらけ)を自力で見つけ出して、これを割ってくるという力試しも頻繁に行われる。むろん、どちらにも命綱など使われない。
一日の調練が終われば、皆の身体は一か所ならずと腫れ上がる。眼の潰れた者も居るし、誰彼となく毎年一度は手足を折る。そうやって自身の身体をいじめ抜くことが彼らの修行の要諦であり、しかし悦びでもあった。頑健な肉体を持つ天狗ならではのことだと言えよう。妖怪の山の強固な防衛網は、彼らが辛苦の上に積み上げた珠玉にして、練磨に継ぐ練磨から生み出される精髄なのだった。
そのような修行の場で事件が起こったのは、ある夏の日のことである。
いかなる痛みにも呵々と笑うを良しとする白狼たちも、酷暑の下で動き続けるのはさすがに難儀すると見え、みな諸肌脱ぎになり、半身を晒したかたちで調練を行っていた。鍛え上げられた屈強な肉体に、傷のない者はひとりもない。およそこの日の練兵場に集まった白狼たちのなかで、実際の戦いを知らぬ者はひとりとして居なかったし、また、剣の腕においてもいずれ劣らぬ手練れ揃いだった。
その手練れの男たちが、半裸に汗の珠を飾り、手にした木剣を打ち合わせている。夏は獣の性が刺激されるのか、勢い余って、一度の立ち合いで剣が二本、三本と折られてしまうのも決して珍しくなかった。
この日、彼らは調練に参加している者たちを二組に分けたうえで、互いの組に属する者を一人ずつ戦わせ、終われば次の者を出す……という総当たりの立ち合い稽古をしていたのだが、行程も半分ほどまで過ぎたかという頃に、不思議なことがあった。
片方の組の人数が、ひとり多いのである。
誰が最初であるともなくそれには気づいて、途中で遅れて来た仲間が居たのかと思ったが、どうも違う。ひとり多いというその者は、男というにはいやに小柄が過ぎる。つばの広い黒い帽子を被り、薔薇の紋様で飾られた洋装を身に着けるに至っては、あまりにも軟弱な格好である。尚武の徒である白狼天狗においては、あんな着物はたとえ女ですら遠ざけることだろうと思われた。そのうえ、胸元に抱いた青い色の珠の奇怪さだ。目蓋があり、睫毛が生えている。子供の握り拳ほどもある大きさを見るに、首飾りとも言い難い。面妖、と、誰かが呟いた。見るに、天狗ではない。声を聞くには、少女である。面妖、と、再び誰かが呟いた。
天狗でないとするならば、どこかの野良妖怪か妖精か、あるいは人里の子供が迷い込んだか。天狗という生き物の例に漏れず、白狼たちもまた排他の気性を強く持つ。まして天狗の国の防人として、山を侵す者を処断するのが彼らの職掌。調練の妨げゆえ、今この場で殺さぬまでも、さっさとつまみ出してしまわねば。
皆は互いに目配せし合い、やがて一人の白狼が進み出た。
彼は何の躊躇もなく少女の元まで歩み寄ると、警告の文句より先にその首根っこを押さえようとした――が、できぬ。
ぐわりと腕を伸ばした途端、少女はぬらりとその場から離れた。狙いを外し、勢い余ってつんのめった白狼を周りの仲間たちが笑う。それなら俺が捕らえてやると、ひとり、またひとりと進み出て少女に向かっていくが、何度挑んでも結果は同じだ。少女は白狼が向かってくる度にすらりと、あるいはむるりと逃げ去って、気づけば五歩、六歩の彼方。
しかも、その動きが尋常一様ではない。
迫りくる何かを避けようと思えば、心はことさらそちらに向き、視線、鼓動、呼吸、足取り、そのような諸々の兆候が、ひとつならずとその人の身体という外形に現れるものである。しかし、少女にはそれがない。自分に捕獲の手が及ぼうとすると、気づいていながらにして気づいていないというべきか、自分が自分でないかのような心地らしく、笑みさえ浮かべて離れていく。そこも、あそこも、皆はじめから自分の庭であり、身体の一部であるとでもいうように。身体の一部である以上は、こうしよう、ああしようと必死に努めて動かすものではない。少女にとっては、何かの癖で知らずと指先を動かすような意味しか、白狼たちから逃げるということには割かれていないのである。
そうなると、面白くないのは白狼たち。
仮にも幾多の実戦を潜り抜けてきた男たちが、女子供に翻弄されているのでは、山の防人の名折れである。彼らは態度にこそ出さなかったが、心のうちでは怒りに燃えていた。この生意気な娘の、手足の一本でも折ってから叩き出してやると。悲しいかな、気短(きみじか)の直情径行であることもまた、白狼天狗を語るうえでは欠かせない性のひとつである。
天狗たちは各々の木剣を握り締め、雄叫び上げて少女に躍りかかった。
ある者は胴を薙ごうとし、ある者は後ろから袈裟懸けに剣を叩きつけようとする。
男たちの決死の突撃は、しかし、とうとう実を結ぶことはない。少女はまた身を翻すと――やはり面妖であることには、“自分がいま白狼天狗の集団に襲われていることにも気づかない様子で”、包囲を脱け出してしまった。そして驚愕に目を見開く男たちのうち、ひとりの手から得物を奪い取ると、首を傾げる素振りを見せた。
ややあって、自分の手にある道具が何かの武器だとようやく気づいたか、少女は群がる敵たちの頭を、背を、尻を、肩を、それぞれ一度ずつ打ち据えていく。その太刀筋はまったく技巧的でない。否、太刀筋というほどのものはなく、ただ振り回しているだけだ。
よほど武術、剣術の技巧というものを知らないのかとも思われたが、やはりその動きは手練れの白狼たちにも読み切れない。言うなれば、秋の日の風にさらわれ、無軌道に舞い落ちる枯れ葉のようだ。風の流れとそこに乗った葉の動きを、すべて見極めるのは難しい。そこには何の意思もなく、次の動きの兆候が読めないからだ。少女は、その枯れ葉の動きで白狼たちに勝ったのである。
勝者は、敗者たちを罵りも嘲りもしなかった。
ただ、木剣というものを振り回しても面白くないと思ったのか、それを地面に放って、自分からどこかに行ってしまった。後には、呆然とする白狼たちだけが残された。
明くる朝、所用があって前日の調練を欠席していた白狼天狗の老師範が練兵場に姿を見せると、白狼たちはこぞって彼に詰め寄った。私たちをも上回る、あの剣の使い手にお心当たりはございませぬか。先生は、鞍馬の山の護法魔王尊の直々に京八流の極意を授かったと承っておりますが、その縁(えにし)に連なる者ではありますまいか。あるいはあの娘こそは、鴉天狗の射命丸文が自らの直弟子としきりに吹聴する九郎義経の末裔では……などなど。
師範は、自身の皺首を指でこすってしばらく弟子たちの話に耳を傾けていたが、やがて深々と呼吸をしてから語り出した。これこそは、神武不殺の極致に他ならぬと。
曰く、神武不殺とは『易経』に拠る言葉である。周の文王は傑出した武力武勇の持ち主ながら、仁政を行い、天下の潮目が変わるのを待ち続けた。悪政を続けて無辜(むこ)の人民を苦しめる殷の紂王を討つべきときを、見計らっていたのである。真の武人はいたずらに自らの武勇を振り回さないものなのだ。
曰く、神武の極致に至るということは、自他を隔てる心の境界を取り払うことに等しい。無我の領域に足を踏み入れればこそ、相対する敵が自らの身体の一部のごとくにのみ感じられ、逆に自らは敵の身体の一部にも等しくなるので、ことさらに殺意、害意を抱かずとも、次にどのように動けば良いのかが意識の中において自明である。
曰く、自他の境界を取り払うということは、申さば、自身も他人も、さらにまたこの世界さえも、すべて一体の存在であると気づいてしまうことである。そうなると、そもそも戦うとか仕合うとかいったことすらも無意味であり、武勇を振り回したり誇ったり必要がなくなる。
曰く、つまり神武の極致とは、剣を取って剣を忘れ、斬って斬らず、終いには剣が何であったかすらも忘れることだ。空気を斬るに五十年、雨を斬るに三十年、時を斬るに二百年。それほど斬ればようやく解ることだと私の古い剣友は言っていたが、子供の姿形(なり)でその境地を会得しているとは。白狼たちを打ち据えた少女は、ただの人間や妖怪ではない。
そこまで説くと、数多の戦いを経験した戦場の古老とも言える師範は、山深い緑の向こうにそびえ立つ、守矢神社の御柱を仰ぎ見た。そして地面に膝を突くと恭しくひざまずき、自らの額で大地を削るのであった。
きっとお前たちを打ち据えたというその少女は、世に類なき無双の軍神である八坂の神が遣わした者であるに違いないと、彼は言った。八坂の神はわれわれ白狼天狗に対し、これからも山の防人として気を緩めることなく、より一層の修練に励むよう仰せられたのだと。さすれば、このような神武の極致にも至ることができようと。何という深き神慮、またお恵みであることか。
老人特有の信心深さだろうか、師範は目の端に涙さえ浮かべて八坂の神を褒め称えた。
一方、弟子である若い白狼たちはどうも解せぬといった様子であったが、自分たちの師範がそう言うのであれば、そうかもしれない。ひとまずは師に倣い、はるか遠くの御柱を遥拝するのだった。
――――――
ちょうど七日後、老師範は数名の高弟たちを引き連れ、ばっちりと正装に身を固めて守矢神社を訪れた。皆の手には、新鮮な野菜や果物、餅などを載せた折敷(おしき)に三方(さんぽう)。生きた獣を連れている者も居れば、芳香発する酒樽を担ぐ者も居る。八坂の神に、此度(こたび)の啓示について謝し奉るための贈り物を持参したのである。
風祝の東風谷早苗に導かれ、神前への案内を受けた白狼たちは、少女というかたちでの一風変わった神使(つかわしめ)を発した、八坂の神の諧謔を褒め称えた。そしてまた、白狼天狗が自らの武威に溺れることなく修行に励むよう諭す、その軍神らしい粋なやり方に深く感謝する旨を、滔々と述べた。
彼らの贈り物のうち獣たちはさっそく御頭の贄として供えられ、その血の元で、白狼たちと軍神とが酒を介して相交わる夜通しの宴が張られたという。
けれども、少し不思議なことがある。
守矢神社におけるもう一柱の祭神である洩矢の神が、射命丸記者に語ったところによると、八坂の神は白狼天狗の所に神使など送っていない。きっと何かの間違いであろうということだ。八坂の神は優しいから、己を信仰する者があれば、奇跡も何もないただの勘違いであろうと、拒むことはできないのである。
――――――
この不思議な出来事の真相は、案外あっさりと解き明かされた。
ここからは、私自身の体験の話だ。
祖父が亡くなったとき、私は親族連中に頼まれて通夜に参ずることと相成ったのだが、皆は故人の思い出を語ると称して奥の方に引っ籠り、酒と飯に舌鼓を打ち始める始末。下戸の私ではどうがんばっても酒飲みの相手が務まるものではないので、自分ひとりで祖父の棺を守る羽目になってしまった。
さて、故人の棺を守るといえば、思い出されるのが火車猫の妖怪だろう。
古伝に曰く、生前に悪事を働いた者の屍体を盗りに来るという悪癖を持つこの妖怪が、決して清廉とはいえない高利貸しで一財産を築いた、私の祖父のもとにも現れたのである。
火車は妖怪画に見るような恐ろしい姿をせず、むしろ可憐な少女と言った方がふさわしい風貌で、ご丁寧にもあたいは火焔猫燐さと名前まで明かしてくれた。言うまでもなく彼女は祖父の遺体を盗りに来たのだが、通夜の役目を申しつけられている以上、こちらとしても引き下がるわけにはいかない。私が飲まぬためにひとり分が余ってしまった酒瓶を、半ば強引に火車に押しつける。燐は、女を酔わせて何をするつもりだいとからかいながらも、酒に誘われること自体は満更でもなかったらしい。互いの仕事はひとまず脇に押し遣って、われわれ二人の酒盛りが、そのときにわかに始まった。
私たちは(燐だけは酒に頼って)互いに色々の身の上話を繰り広げたが、その中にさっきの事件の真相があった。白狼天狗の練兵場に突如現れた、謎の少女の正体である。
曰く、古明地こいしというその少女は、燐の飼い主である覚り妖怪の妹君であり、“心読まずの覚り”であるのだという。
心読まずの覚りは、その名の通り、他者の心を読むことをやめてしまった覚り妖怪だ。
古明地こいしは、己と他人との間に壁をつくりながらも、同時に無為の境地、無意識の地平に自らの心を追い落とす。無為の境地は、自他の間に境なきこと。何を思わずともすべての行いは迷いなく自明であるのだし、意思が生ずる以前の行いであるからこそ、何者にも気取られぬ。そのこいしという少女は、どこにでも自らの心を置くことができるのだ。どこにでも心を置くことができるから、心を読めぬにも関わらず、自らの手足が相手の手足である如く感ずる。相手の動きを読んで応ずるのではなく、自身の動きが応じた先にたまたま相手が居る。ただそれだけのことなのだと、古明地こいしは火焔猫燐に語ったという。
しかし、それこそは世に数多の武人が欲し、長い長い修行の果てに到達するという無我の境地ではあるまいか。古明地こいし嬢がその気になれば、どんな武道武術においても歴史に名を残せるはずだ。あるいは思索を深くし哲学者の道を進むなら、西洋の神秘主義や東洋の禅と並び称されるような、人間の魂と世界とを結びつける全一の道を見つけ出した、偉大な思想家と呼ばれるようになるだろう。
そんなことを問うと、燐は苦笑いをして答えた。
「あァ、そんなしかつめらしいことを考えたってむだだよ、おにいさん。さっきあたいが言ったこいし様の無意識と、その極意みたいなやつはね。あの方が妖精を獲って遊ぶときなんかに使ってる、ただそれだけの子供の技術(ワザ)なんだから。子供の考えることだから、別に天狗さん方の道場破りをしようってこともない。ただ、そこに面白そうなことが転がってたから、拾い上げてみたってところだろうさ」
天狗さんの気持ちは分からんでもないけど
こいしちゃんに戯れに捕まえられて小枝のように振り回される妖精になりたかった。
意識があるからこそ極致であると見出せて、無意識だからこそ、極致すら等しく無意味にできる。
そんな風にも思える面白い話でした。
師範の剣友さん気になりますねぇ・・・