◇◇◇ 序
泥酔して帰った日のことだった。
元はと言えば、反抗的な態度が癪に障ったのだ。
だから俺は悪くない。
(中略)
頭に冷水を浴びせられたようだった。酔いが醒めてしまったことに、酷い苛立ちを覚える。
とりあえず、これをどうにかしなければ。
(中略)
無事に捨てることができた。誰にも見付からなかったのは僥倖だろう。
何かがいる。
暗闇の中で、視覚の代わりに敏感になった全身の皮膚の感覚が、気配としか言いようのないものを背後に感じ取った。虚ろな気配だった。どう肯定的に捉えても生きた人間のものとは思えない、冷たく澱んだ気配だった。さーっ、と足元を冷気が流れて、一斉に鳥肌が立った。
一瞬の内に、振り返るべきか否か判断を迫られた。
考えている間にも、気配だけであったそれの存在は、粘性の液体が垂れ続けるぼたぼたとした明確な音となって差し迫っていた。最悪に生臭い悪臭が鼻を刺激した。
怒りと恐怖が入り混じって冷静な判断が下せなくなる。半ば自棄的に振り返った眼前には、無様で醜悪な脂肪の塊が転がっていた。
嫌でも見覚えのあるその姿は、喩えるのなら、醜く太った蛙に似ていた。
口が引き攣ったのは、良い気味だとでも蔑む意味での失笑だったかも知れない。だが、歯の根が噛み合わされているのは、紛れも無く恐怖が原因のことだった。そいつが太った巨体を引き摺りながら近付いて来るのに、射竦められたように動けなくなったのも事実だった。
我に返ったのは、そいつの口から漏れる激しい異臭を嗅いで吐き気を催した瞬間だった。ただし逃げるには少し遅い。ぶよぶよとした屍肉の感触が腕に触れて、恐怖よりも先に爆発したのは生理的な嫌悪感。
魂切る絶叫が、夜気を劈いた。
◇◇◇
よく言われているものだと、川のヌシを釣るだのという話を聞くか。
「……やあ。元気にしてる?」
ここは、御山の中腹。中腹と言っても広いのだが、中腹の、山頂から降りてくるよりは、裾野から登った方が近い辺りになる。
喧騒から切り取られたような無音だった。風さえ吹かずに、柔らかな木漏れ日に光る水面は、鏡面のように凪いでいた。新秋の今、蓮の花は時季を外してしまったのか、円い形が特徴的な緑色だけを、静かな水面に浮かべている。
そう、大蝦蟇の池だ。
その畔に、見た目年齢にして8才ほどの少女が立っていた。さらさらとした金髪は肩口で切り揃えられて、鬢髪には赤い紐が結われている。なにげなく話す声音さえ神韻縹渺とした響き。浮世離れした雰囲気の少女だった。少女は、洩矢諏訪子。
諏訪子は軽い調子で声を掛けながらも、その実、敬意と誠意を持って、神聖な気配を醸し出す池を見つめていた。この池のヌシは蝦蟇蛙だ。そのことを見誤る諏訪子ではない。
この場合のヌシとは、もちろん釣り人に釣られるようなものは含まずに、土地の脈に根を下ろした生き物を指して言う。根を下ろすには、それだけでも長い時間を要する。必然的に、ヌシはその土地の最古老であることが多かった。
例えば、引っ越してからいきなり『山は私自身であり、山は私への信仰の対象です』とか言ってしまう誰かさんは、残念ながらヌシの本質を分かっていないと見える。新参者が山の神など、諏訪子に言わせれば片腹痛い。いや、別に誰とは言わないけれど。
「ふーん、そうなんだ」
水面は水泡一つ立てない静寂を保っていたが、諏訪子は蝦蟇の言葉を理解する。
諏訪子もまた、御山の山頂に湖ごと引っ越してきた土着神だった。ヌシの中でも特に力を持った存在を、土地神や、産土神、地主神、言い方も形態も様々だが、ここでは土着神と呼ぶことにする。
土着神は、国津神とは明確に異なる。天から地上に下った神が国津神となっても、土着神と呼ばれることは、まず無い。有り得ない。土着神は、元からそこにいたものだ。長く棲み付いているものだ。土地と共にある歴史が、取るに足らない自然の存在をヌシに、更にその果てに、ローカルな神様にさせる。
諏訪子の手には、引っくり返した帽子があった。おかきやら、おせんべいやら、あとは黒糖のかりんとう、諏訪子のお気に入りのお菓子が、帽子の中一杯に詰まっている。池の畔には祠も見えていたけれど、諏訪子は直接、池の中ほどを目がけて帽子を放り投げた。ちょうど、輪投げの要領。くるくると回転しながら水平を保った帽子は、見事、ちゃぷんと池に着水する。
「おみやげだよ。それじゃあ、またね」
広がるさざ波が、蓮の葉を揺らす。帽子の舟は、ぷかぷかと浮かびながら、短い船旅を続ける。
やがて、波紋が小さくなって消える頃になって。とぷん、と。水中に潜んでいた何かに引き摺り込まれたようにして、水中に沈んだ。
気泡が浮かんで、ぱちんとはじけた。
水面に映る巨大な影が、ゲコ、と鳴いた。
◇◇◇
そして。
「えっと……うちの神社に何かご用ですか?」
諏訪子は、ご苦労にも御山に山登りを試みる人間と話をしていた。中年の男は山頂の守矢神社への参拝客らしい。登山道の整備やら索道やら何やらの話も持ち上がっていたが、うやむやに終わっていたはずだ。男は体格も良いがそれ以上に恰幅も良い。登山は無謀だろう。まったくもってご苦労なことである。
諏訪子が立ち話をしているここは、大蝦蟇の池から降りてきた、登山道と言えなくもない細い道の入り口付近。背後には御山。そして前方には長い畦道が伸びているだけの場所だった。
君は守矢神社の子供かと訊ねられ、諏訪子はものすごくいいかげんに答える。
「はい。神奈子はお母さ……母です」
そんなわけない。
「あたしは洩矢早苗。8才です」
そんなわけない。
神奈子による精力的な布教の結果、守矢神社は御山の外にまで知られるようになったようだ。神奈子の顔は知られているだろうが、早苗はまだまだで、諏訪子に関してはこの通り、全くだ。だからこうして、守矢早苗なる、守矢神社の新しい一員が生まれていた。
それとも、あまりにも特徴的過ぎる帽子を今は被っていないことが一役買っているのだろうか。あの帽子なら、衣裳箪笥の中にびっしりと詰め込まれている。不用意に箪笥を開けた子供の頃の早苗が、中から覗く無数の視線と目が合って失神したという話は、守矢家では笑い話として伝わっていた。
さて、閑話休題。一応は諏訪子の素性が明らかになった後も、その人間は口を渋っていた。
諏訪子は、信仰とか参拝客とか、はっきり言って大した興味を持っていない。この人間が山頂の神社まで辿り着けないだろうことも、知ったことではなかった。
御山──妖怪の山は人里では危険な場所と知られているはずだ。その事情を差し置いてまで、この人間は守矢神社の霊験を求めた。では、その理由は何か。それなりに深刻ではあるのだろう。そこまで把握しておきながら、諏訪子は特に何かをするつもりは無かった。信仰集めは神奈子が勝手にやっているだけだ。そもそも御山の神社として山に棲む妖怪の間にはある程度は浸透し、山の神の面目だけは立っているだろうに。
信仰が完全に失くなって困るのは諏訪子だが……
まさか、ミシャグジ様が長きに渡って貯め込んだ呪力が、そうそう簡単に底をつくとでも思っているのか。
……………………
なんの気まぐれか、気が向いた。
「あの、私で良かったら、お話をうかがいます。これでも、守矢神社の巫女ですからねっ」
胸の前で両手をグーにして、諏訪子は元気いっぱいに言う。
「あ、そうだこれ。ちょっとした奇跡ですが」
更にそう言って、足元の地面を、とんっ、と軽くつま先で叩いた。すると茶色の地面には、見る間に真新しい緑が広がった。
それで完全に、その人間は諏訪子を信用したようだ。訥々と、身の上を語り始めた。
◇
その男の話を聞くことに、諏訪子は開始5秒も経たない内から飽き始めていた。
里の講組や役員がどうとか言っていたが、諏訪子はその辺りを綺麗さっぱり聞き流す。そこはかとなくどうでもいい。亭主関白。世間体ばかり気にする愚の骨頂。こういう人種はたいがい、家の中に目を向けることが無い。せせこましいプライドを維持することだけに全精力を注いでいるのだろう。ご苦労なことだ。仕事に支障がとか、本当にどうでもいい。
諏訪子は胡乱な殺意の滲む眼差しで、神奈男(仮名)さんを見ていた。
要点だけ、掻い摘もう。
これは男の話した内容それ自体ではなく、諏訪子が注目した点だった。
一つ、男がわざわざ人里離れた守屋神社を訪ねようとした理由は、世間体。幻想郷には神社が無い、と言うと少々変わっているように聞こえるかも知れないが、機能する神社が少ない村落自体は決して珍しくはないだろう。ただ、そういう場合でも土俗の宗教体系はきちんと存在している。民間の呪術者や、拝み屋だ。神道とは無関係にそれらは存在しているし、そうしたものがなければ冠婚葬祭や季節の祭りが立ち行かない。それどころか、疳の虫さえ払えない。博麗神社でそれらを請け負っている様子が無い以上、確実に、人里には祭事の担い手がいるはずだ。
たしか……上白沢慧音。
諏訪子は聞いた名前を思い起こした。
男は、自分が講組に属しているとも言っていた。それならば、まず彼女、民間の識者に相談するのが道理だろう。しかしそうはしなかった。それは不自然だ。要するに、後ろめたい気持ちでもあるのだろう。
二つ目。呪われていると、男は言う。確かにその腕、右手の手首と肘の中ほどには、赤紫とも青紫とも付かない黒ずんだ痣がくっきりと残っていた。痣は激痛を発する。数日は耐えられたが流石に限界だと、男は悔しそうに言った。
強い力で握られたような痣。そして、醜悪に歪んだ人間の顔に見えるような痣。苦悶の表情は誰がどう見ても明確に、恨みつらみを訴えている。
「人面瘡?」
と、言う程ではなかった。
「ちょっとシュミラクラ現象的に顔っぽく見えるだけかな」
包帯を解いて痣を見せるだけでもなく、多少は真に迫った様子で悪夢に魘される話もしていたが、そちらは聞き流していた。鬱陶しい。不幸自慢の身の上話などつまらないし、ましてや、それが不当なものともなれば、聞くに堪えないのは当然だった。
諏訪子の呟きに、まさかカタカナ語の意味が分かったのではないだろうが、軽い調子を感じたようだ。男は期待するように息巻いて、無害なのかと問うた。
「うん?」
不思議がって首を傾げる。
「そんなわけないでしょ」
そして、囁く。
「有害ですよ。これは紛れも無い呪詛だもの」
命に関わることも、あるかもしれませんね。
巫女様からの死の宣告。
やにわに、男の告白は泣訴の色を帯びてきた。それは神前での懺悔に似ている? 諏訪子は失笑した。これは、それとは違う。
体格の良い男は、平素であれば体面に気を使っていたのだろうが、今や完全に威厳は失われていた。折れればこんなものか。男自身が命の危機を誰より理解している。だからこそ、ここまで追い詰められている。真剣に神頼みをする者には、それなりの理由があるというわけだ。困った時だけ、よくもまあ。
「呪われるようなことでも、したのでしょう? 心当たりは、あるはずですけどね」
ピタリと、不自然なほど唐突に、男の啜り泣きは止まった。言葉を選ぶような沈黙の後、ひどく苦しげに、男は言った。
蟇を……蟇蛙を、殺したのです。
……へぇ。そう来たか。
この男が生き長らえている理由は、雑事さえ億劫に感じた諏訪子の緩慢に振り下ろす鉄槌に、土下座する速度が先んじた、それだけの事だった。嗚咽を喉から垂れ流し、無様に地面に頭を擦り付ける男は、諏訪子のどうでもよさげな視線には気付かない。
なんかもう、だいだいわかっちゃったんだけどなぁ。
と言うか、話を聞いてすぐに解決していたも同然だったのだけれど。暇を持て余した諏訪子は指に髪を絡めて遊んでいた。簡単な話、自業自得。呪われるようなことをして呪われただけだ。ただ、確かめるべき事柄は、一つだけあるが。
諏訪子は神で、神は必ずしも人の味方をしない。加えて、諏訪子は神と崇められた化物だ。その性格は、都合良く神頼みの対象となる神様とは根本から異なった。もし、この男に助かる道があるとすれば、それは善意の祈祷者の元を訪れ、正直に罪を告白することだろう。
「相応な場所で告解でもしてはいかがです?」
諏訪子にしては珍しい、良心的な提案。
もしもこの場面を神奈子が見ていたなら、突然の慈雨に備えて洗濯物を取り込んだだろう。半分は皮肉で、もう半分は真面目な話だ。
けれども男は、だからこうして訴えているのです、と。
どうやら、真面目に救われる気は無いらしい。
すると問題になるのは、見物して面白いかどうかだが……どうせ今日の予定は無い。元より、そのつもりで話を聞いたのだ。ほんのわずかな期待から、諏訪子はもう少しだけやる気を出した。精々、面白くなってくれれば良いのだけれど。
「良いよ。その祈祷、私が引き受けましょう」
何も知らず感謝の言葉を述べる男の後頭部を、諏訪子は冷たく見下ろした。
◇
「呪いを解くのは、とても難しいことだよ」
そんなわけない。
まあ、諏訪子の場合はスケールが違い過ぎて逆に難しいということもあるか。てきとうを言うまでもなく、細かい作業は苦手と言うか、嫌いの部類。容易と言えば容易なのだけれど、どちらにしても、請われた通りに呪いを解くつもりなど、諏訪子には毛頭無かった。
「貴方は蛙を殺して呪われたと言う。だったら、まずはその現場を見せてくれるかな?」
まずは、確認すべき事柄の確認から。
そうして男が諏訪子を連れてきたのは、人里の外縁近くに通っている堀だった。見下ろすと、あまり綺麗ではない水が底を流れている。数尋の深さのある、真っ直ぐな用水路だ。綺麗ではない、と言っても、御山の清流を見慣れた諏訪子から見ての話。堀は深いが、実際に流れている水量は膝の高さ程度。ただ、より高い位置まで水の痕跡があって、雨の日には水嵩が増すことが窺えた。
「ここに蛙が? まあ、それはいいや。貴方が“蛙だと主張するもの”を殺してしまった時の状況を、詳しく教えてみなよ」
男は既に落ち着きを取り戻していた。冷静に、あの時の私はどうかしていたのですとどうでもいいにも程がある言い訳から入って、自分に不利とならないように留意しながら、求められた情報を語り始めた。
聞きながら、諏訪子はふと思う。
巫女様とはいえ8才児なら騙せるとでも、男はそう考えているのだろう。相手が思慮分別の付く大人なら、こうはいくまい。金髪は疑問に感じないのかとも諏訪子は思うが、東風谷早苗はメロンフロートみたいな奇跡色の髪の色をしていた。
で。それはさておき。
一週間ほど前の夜、男は一人でこの道を歩いていた。暗がりのために足元が見えず、誤って蛙を踏み潰してしまった。これは決して、故意ではない。蛙は異様な大きさをしていて恐ろしかった。咄嗟に膝を突いて用水路に手を合わせ謝罪した所、暗い水面から上がってきた妖怪に、腕を掴まれた。その時は腕を振り払い逃げることが叶ったが、家に帰ってみると、例の痣が残っていた。それからと言うもの、痣は痛み、悪夢には魘され、水辺に近付く度に不可解な水音が聞こえる。
要するに、だいたい虚偽の申告だろう。聞く意義は無かった。
「貴方が見たものの姿を、もう少し」
とにかく醜い姿だった。贅肉の垂れ下がる身体は醜く、首は無いに等しい。顔面はだぶついた皺だらけで、開きっぱなしの口からはへらへらとした笑い声にも似た呻き声が漏れている。それは、太った蟇蛙のような容姿だったとか。
諏訪子はその説明に対してだけはまともに頷いた。よくもまあそこまで言うな、とは思ったが。
蛙らしきものを見なければ、蛙を殺したという作り話は出てこない。男は確かに呪われている。
「だけどそれは蛙じゃないね」
そして、そう言い切った。
「この私が断言しよう。例えば、大蝦蟇の池で蛙を殺したのならいざ知らず、こんな用水路の蛙を殺したところで、何の祟りもありはしないよ。だって、カエルは所詮カエルなんだからね」
諏訪子は、用水路の底を覗き込む。小さなせせらぎにもヌシがいることもあるが、流石にここは用水路。特に変わった様子は見当たらない。
「呪われる。その多くは、生き物の命を不用意に奪ったことが原因だけれど、それだけで呪われるなんてことは、もちろん無い。ましてや、誤ってカエルを踏み潰してしまったという話が本当なら、呪われる可能性は限り無く低い。普通のカエルは祟らないし呪わない、何故ならそうするだけの力が無いからね。ある程度の大きさを持った生き物を、多少は惨たらしく殺さなければ、呪われるということは、まず無いよ?」
普通のカエルは、祟らないし、呪わない。
幻想郷だからと非常識に浸かるのも良いが、非常識の中にも決まり事はあった。しかし、現に男は呪われている。諏訪子はその矛盾を指摘した。
それならば、自分の殺したものは蛙ではなかったのだろう。
男はあっさりと、嘘を間違いだったとして撤回した。
「だとすると、困ったね。さっきも言ったけど、呪いを解くのは難しいよ。正体を明かすことは対処には必須なのに」
そんなわけない。別に必須とは限らない。
が、男は言葉の真偽など知る由も無い。一般人は霊能の世界に関して、そんなものかと思うより他になかろう。とは言え、ここで狼狽しないのは大した肝の据わり具合だ。
ともかく、怪異の発生場所は問わないらしいが、気を利かせるのなら、現場の方が無難か。
本来なら、ここで色々と証言の裏を取るための聞き込みをすべきなのだろうか。しかし面倒にも程があった。男の素行も仮説を裏付ける重要な要素だが、面倒なものは面倒だ。諏訪子は頭脳労働というものをあまり好かないし、なにも律儀に言質を取る必要も無い。探偵ごっこなら、やりたい時にやる。
どうせ、待っていれば証拠は向こうの方からやって来るのだ。おおよその確認は既に取れた。期待した通りの惨劇が見られるだろう。後は楽しく見届けるだけで構わなかった。
日が傾くのを待つことにした。池を後にしたのが昼を大分回った頃で、もう日が落ちるのも早い季節になった。待つ時間は、そう長くない。水辺で待機していれば、辺りが暗くなると同時に現れるはずだ。
急に黙った諏訪子に男は何かを言うが、諏訪子は「霊視するから集中させてね」と適当なことを言って黙らせる。
言ってしまった手前、集中する振りをしながら、諏訪子は空想を始めた。
例えば、この件が早苗の所に持ち込まれたとして。
この場合、取り立てて変わったことは起こらない。祈祷料を取って、神社でお祓いをして、それで終了。この程度の呪詛を祓う難易度は大して高くない。滞りなく、事態は表面的な解決に向かうだろう。残念ながら、表面的な、と付け足さざるを得ないけれど、早苗にそれ以上を要求するのは酷というものだ。
例えば、この件が神奈子の所に持ち込まれたとして。
この場合も、早苗とほとんど同じだ。けれど、その内実は違ったものになる。神奈子は諏訪子と同様に、話を5秒聞いた程度で真相を看破しながらも、ビジネスライクに対応するだろう。呪詛への対処は早苗よりも遥かに容易に、軽く息を吹きかけるだけで済む。まあ、神奈子のことだ。大仰なパフォーマンスを挟むかも知れないが。
それとも相手にしないだろうか? なるほど、どうすべきかを問うのなら、それが最も正しい対応な気もする。気が向かなければ諏訪子もそうしていた。
刻一刻と日は暮れて。
薄らと、凄惨な微笑が、諏訪子の口元に浮かんだ。
◇◇◇
「木落しって言ってね。私の神社のお祭りでは、切り倒した御神木を山の急斜面から滑り落とさせるんだけどね。これ、危ないよねぇ。車輪とかも使わないで、人の力だけで引っ張って、かなり乱暴に運ぶの。不思議なお祭りだよね。普通、神社建築に使う柱は、地面に触れないようにして丁寧に運ぶものなんだよ。布を被せたりとか、注連縄を用意することも多いね。でも、御柱は知っての通り。上に人が乗ったりとか、神聖な御神木に対してそんな行為は言語道断……なんだけど、みんなでこぞって乗りたがる。急な斜面を滑り落とす時に乗ってると、英雄扱いだもん。誰も、止めたりなんかしない。地元の人達はね、みんな、こう言うんだよ。怪我人が出るくらいの方が盛り上がる。神様もそれを喜んでる、って」
うんっ♪ あのお祭りは楽しいよ。
夕暮れが辺りを赤く染めるのと同時に脈絡無く語り始めて、そして諏訪子は喜色満面に、そう言った。
「そもそもあの柱は、御神木じゃない。あれはつまりね、生贄の見立て、人柱なんだよ。だから、こうも言えるね。──信仰とは、生贄だ」
千鹿頭神社の御頭祭りも、好例だろう。
諏訪地方の神事は血腥いなどと言われることがよくある。諏訪の神は流血を好むのだ。
かつて、ミシャグジ様には思考中枢と呼べる部位が無かった。そして偶然か必然か、洩矢神はミシャグジ様の頭になった。ソソウ神を始めとして多くの神様が習合した“ミシャグジ様という集合体”は、無論のこと洩矢神さえ取り込んでいる。
有り体に言うのなら、諏訪子はミシャグジ様の一部で、丁度、頭に当たる部分ということだ。
全身どっぷりミシャグジ様に浸かった諏訪子の趣味嗜好は、今や完全にミシャグジ様と同一になっていた。それとも、趣味嗜好がミシャグジ様と共通していたからこそ頭に割り振られたのか、それは諏訪子にも分からない。
そもそもミシャグチ様がいかなる存在か、実は諏訪子自身も把握していないのだ。土着神の頂点ともあだ名される神様は本質を辿ることができない程に混沌としていて、磐座の神とも地震の神とも言われている。つまりは典型的な自然神なのだろうが、では、ミシャグジ様の“起源”は何だったのだろう?
諏訪子は目を閉じて、無意味な憶測に耽る。
恐ろしいもの。悍ましいもの。祟るもの。
古代の人間の本能に強く訴えるような何か。
きっと、蛇。それもただの蛇でも、大蛇でもない。大蛇の神と来れば、うまさけの三輪山が代表的な神奈備と言えよう。ミシャグジ様の御神体は諏訪の山ではない、とされている。ミシャグジ様は神奈備ではなく磐座の神だ。そして、しかしと繋げるべきか、蛇でもある。
磐座。蛇。渾然一体の集合体。その特徴を満たす、シンプルで印象深い自然の産物は?
──夥しい数の蛇の群れが蠢く巨大な巣。
ふと。
何処からか吹き込んだ風が、鉄錆の臭いを運んできた。
空気が調律されたように、ピンと張りつめる。更に、太陽が沈んだこととは全く別の要因によって、場の明度が数段下がった。
「ホラー映画だと、蛍光灯がチカチカして切れちゃうような、そんな感じかもね」
それは決して諏訪子がテレビで見た映画の中だけでなく、実際に遊びに出掛けた時の実体験でもあった。
異形の者は現実に姿を見せることに大変な労力を伴う。それなら、現実の側を侵食してしまうのが手っ取り早い。この怪奇は、これから来る異形の者が姿を現しやすいように、諏訪子が自身の気配を撒いた影響だった。変質する空気はじりじりと現実味を削り取っていき、視覚や聴覚にどこかノイズが掛かったような、怪奇に適した環境に変貌していく。
つん、と鼻に突き刺さる鉄錆の異臭。一日の終わりを優しげに照らすはずだった秋の夕暮れは、今や辺り一帯を血にも似た色に染め上げていた。
そして諏訪子は、目を開く。
金でも青でもない赫い瞳が、その光景を舐めるように見つめる。
「さあ、出ておいで」
どぷんっ。
皮切りは、水の中で何かが動く音。ひた、と湿っぽい音が続く。伸びた手が、ふやけて輪郭がぼだぼだになった五本の指で、用水路の縁を掴む。目に映らない場所でも冷たい気配が動いているのも、ありありと分かった。
血の色をした黄昏時の中で現れたそれは、明らかな怪現象だった。その開始と同時に、上腕を抑えて苦しみだ始めた男に、諏訪子は男の苦悶が視界に入っていないかのような静かな態度で、やはり静かに問い掛ける。
「……で? 貴方は誰を殺したのかな?」
普通のカエルは祟らないし呪わない。ある程度の大きさを持った生き物を、多少は惨たらしく殺さなければ、呪われるということは、まず無い。
痣の形は、人の手で強く握られたようで、そして人面に見えた。最初から蛙の要素など何処にも無い。よっぽどの考え無しでもなければ普通に気付く。あれは人の呪いだ。
わざわざ人里離れた守矢神社にお祓いを求めた理由が、それだった。後ろ暗い事情のある男は、まさか人里の守護者様に頼るわけにもいかなかっただろう。
話を聞いて5秒で分かる程度の下らない話。
男はただ単に、無惨に人を殺して、呪われた。それだけだ。
「奥さん、だね?」
元々らしい肥満体は水を吸って更に膨張している。人体の形状を留めているとは言い難い。そんなザマなので、地面を這う動きは緩慢だった。蟇蛙と言うか牛蛙と言うか、トドやオットセイとか、その仲間に近い。全貌が露わになると、魚が腐ったような生臭い悪臭が這い寄るように地面を伝ってくる。怨嗟の呻き声を漏らす口は、その悪臭も垂れ流しにしていた。
そして予想通り、醜い悪霊は、やはり女性だった。
なおも大声で喚き続ける男を、諏訪子は完全に無視……しようと思ったが、やめた。うるさい。軽く手を振る。ほぼ連動して、男の脛の肉がぱっくりと割れた。もういいからおとなしく襲われていて欲しい。
痛みの悲鳴に尚勝り、やたらうるさいだけの怒声が響き渡った。
その内容は諏訪子を詰るものだ。今更、諏訪子の真意に気付いたらしい。諏訪子は困った風に肩を竦めて見せた。
「貴方を助ける? 嘘うさ♪ ……って、これは竹林の白兎がよく言うやつだったね」
どうでもいいけれど。
まあ、ついでだ。諏訪子は言葉を弄して丁寧に教え諭すような性格ではないのだが、今回ばかりは懇切丁寧に、白兎の言いそうなことでも言ってみよう。
「救われるべきでない者を救えとでも言うのかな? 別に良いよ。それは正しい行為ではないけれど、善悪なんて知~らないっ。貴方のことも気分次第で助けてあげる。でも、私の忠告を無視したのは貴方だよね? 私はちゃんと言ったよ? 相応な場所で告解でもしてはいかがです? って。ま、貴方が聞かないのなんて、最初から知ってたけど」
と、こんなところだろうか。
問答無用で八つ裂きにしても構わない人間を相手にわざわざ答えを教えてあげるなんて、諏訪子としては、ほとんど奇跡的な甘さだった。
「それにしても馬鹿馬鹿しい。身の安全よりも、体面の方を重視するなんて、何を考えているんだか。貴方は人を殺しておきながら、不自由の無い生活を……ですらなくて、なんかよく分かんない体面を保つことに必死だったんだ。貴方はどこまで身勝手なの? はあ、実に身勝手で矮小で浅ましいね。ま、人の望みなんていつもそんなものだけど」
諏訪子が呆れている間にも、ずるずると女に引き殺されそうになっている男。
危うく、見逃すところだった。諏訪子は無駄口を叩くのをやめ、その光景に期待を込めた眼差しを向けて、愉しく観賞する。
「人を一人、無惨に殺した。その結果がコレ。何も不思議なことはないよねぇ」
女の頭は、後頭部の辺りが陥没している。些細なことから諍いとなり、つい手でも出たか。当たり所でも悪かったのだろう、それ自体は不運な事故だと言ってやっても良い。だから何だという話だが、計画性は無かったのだ。しかしまあ、妖怪が死肉を食べることを期待して里の外に捨てたのは悪質か。もし上手くいけば、大真面目な顔で喪主でも務めたのかも知れない。
現代社会の法律で言うと、これはどの程度の罪状になるのだろう。あまり詳しくはない諏訪子の当てずっぽうによると、多分、ふざけたことに、死刑になるほど重くはない。人が人を殺す意味の重さは、人の権利の重さに取って代わられている。
不倫。暴力。
探偵ごっこをしていれば、男の素行に関して、そんなキーワードが上がったかも知れないが、「ケロちゃんは神様なので、人の業くらいは見れば分かるのですよ」で済む程度のことで、別に大した問題じゃない。家庭の事情に興味は無い。「知らんわ、んなこと」だ。惨劇さえ見られれば、それで良い。
「さて。何日振りか知らないけど、感動の再会だね。私はこれが見たかったんだよ」
俺は悪くないぞ! お前が悪いんだろうが!
男は女に怒鳴る。
それが、最期の言葉になった。実に馬鹿げたことに、男は最期まで、自分は悪くないとでも思っていたらしい。
男の抵抗も空しく、大きな物が沈む水音。それっきり、用水路は沈黙を続けた。
「……………………あれっ? もう終わり?」
諏訪子は思わず、そう言ってしまう。
ぽけーっと呆けた顔は、可愛いにも程があった。
「うっわぁ、期待外れにも程がある。なんかこう……スプラッタ的な流血を楽しみに待ってたのに」
用水路を覗き込んで、諏訪子は様子を確認する。見事な溺死死体が暗い水の底にあった。翌朝に見付かる頃には、すっかりふやけて見るに耐えなくなっているだろうが、そこまでは待つ価値は無い。
それと、水の底から見上げる女と、目が合ってもいた。
その眼球は半ば以上にゼラチン質と化して濁っていて、焦点など合っていようはずもないが、生きているものを恨めしく凝視していると分かるだけの負の感情が宿っていた。
人里は田舎だ。豊かな伝統が残り、下らない因習も多く残っている。望んだ結婚だったとも限らない。夫婦生活は最悪だったろう。
諏訪子は敢えて、心にも無いことを訊ねる。
「貴方は恨みを晴らした。殺された恨みだけじゃないね? 昔年の、吐き気がするような嫌悪感を晴らしたんだ。これで、成仏できるかな?」
もちろん悪霊に正気など残っていない。虫よりも愚かに、女は諏訪子を男同様に襲おうとする。先程もそうしたように、ずるずると用水路から這い出して、その体をもたげた。
やれやれとも言わず、先程もそうしたように、軽く手を振る諏訪子。
ぶずぶずっ……と。あまり、血は飛び散らなかった。
十数本ほど、先端が釣り針のように曲がった、敢えて呼ぶとすれば鉤のような何かが、女の背から生えている。剣山の根元を辿っていけば、そこは諏訪子の手だ。しかしそれは袖の中から飛び出したのではなかった。大きさも太さもてんでバラバラな鈍い色をした金属の棒が、体内の奥の奥の方から、ギチギチと繊維を引っ掻いて傷付けながら、少女の柔肌をぷつっと突き破り、飛び出していたのだ。
遊び道具ではない方の“洩矢の鉄の輪”。それが女を串刺しにしている凶器の正体だった。刀を血振りするような所作で、諏訪子は鉄の輪を大きく振った。
先端が鉤状の凶器で女の身体を串刺しにしたまま、乱暴に、腕を大きく振った。
その当然の結果として、ブチブチブチと濡れた布を引き千切るような嫌な音と共に、女は用水路の脇の草むらに放られた。
「人を呪わば穴二つ。聞いたことくらいはあるでしょう? 貴方達は二人まとめて、被害者とは言い難いんだ。ロクに生きてこなかった、その報いだとでも思って納得でもしたら? いや、私はもちろん、矮小で身勝手な貴方達が、そう簡単に自分の落ち度を認められるとは思わないんだけどね」
ところで、見境なく通行人を襲う彼女を放置しておけば犠牲者も出たかも知れない。諏訪子にその認識は無いが、諏訪子は比較的、良いことをしたのだった。
そして諏訪子は、蔑みを湛えた瞳でどぶを見下ろし、吐き捨てるように言う。
「神様に救われたければ善行でも積んでろよ。天にまします主様は見ていてくださるんじゃねぇの? 知らないけどさ。勘違いしないでよね。私は神だけどね、都合の良い神様と一緒にすんな。信仰とは、生贄だ。おぞましい化物を慰撫するために捧ぐ、流血だ。お前達が私に捧げろ。気が向いたら、受け取ってあげるよ。愉しめたなら、祟るのは許してあげるよ。信仰ってのはそういう構造なんだけど、知らなかった?」
それを聞く人間なんて、ここにはもういなかったけれど。
「……あーあ、つまんなかったなー」
諏訪子は漫画の立ち読みを終えた時と同じ気分で呟くと、それ以上は何も思い煩うことなく、ケロリとした笑顔を浮かべて、男のことも女のことも綺麗さっぱり忘れたのだった。
もうすぐ完全に日が暮れて、辺りは真っ暗になる。すっかり現代被れしている諏訪子は「時計が無いとこういう時に不便だよねー」などと言うのだが、つまり晩ごはんの時間だった。
夕暮れの畦道を、諏訪子は歩いて帰る。
一日中遊んだ子供のように、子供心に秋の夕暮れに寂しさも感じながら、長い影法師を連れて、てくてくと歩いて帰る。
ぐにゃり、と。
ほんの一瞬。見逃すか、見ていても見間違いだと思っただろうが、確かに一瞬だけ、諏訪子の影が歪んだ。しかし正確には、歪んだのは諏訪子の影だけではない。
そしてまた、異常はもう一度、先よりも長く。
景色が歪んだ。そうとしか思えない程に、諏訪子が顔を上げた途端、周囲の気配がぐにゃりと歪んだのだ。確かな異常は、見逃すことも、見間違いだと思うことも許さない。赫色の名残を微かに残した夕景色の中に滲む暗闇が蠢いて、生きているかのように動き出したのだ。
しゅるしゅるしゅるしゅる……と。無数の鱗が擦れ合う音を──無数の蛇の群れを率いて、諏訪子は歩く。しかしこんなものは、湖底に眠るミシャグジ様全体の、ほんの末端に過ぎなかった。
諏訪子は信仰の獲得には、あまり興味が無い。
どうして、コレを抑えるのをやめるだけで集まる畏怖と恐怖のために、わざわざ神様の方が努力をする必要があるんだろう?
だから諏訪子には、神奈子のやっていることは、まったくもって無意味で、そればかりか的外れなこととしか思えず、頭を抱えても何も分からないほど、理解に苦しむものがあった。
上げた顔を傾けて、諏訪子は今しがた歩いてきた畦道を振り返る。
その唇は、笑みの形に歪んでいた。
事実、諏訪子は悦に浸っていた。神奈子の勝手には激怒すらしかけたが、幻想郷は良い所だったからだ。妖怪の跋扈する幻想郷は、息詰まる現代社会よりも余程、諏訪子の好む娯楽にも満ちている。この分ならば、散策だけでもまだまだ十分に愉しめそうだ。
神奈子のやっていることは意味が分からないけれど、ここに引っ越してきたこと自体は正解だった。その点では、諏訪子は神奈子に感謝している。もっとも、『祟り神なんてものは、その手に玩具を握らせておけばおとなしくなるだろう』という神奈子の意図があったことは想像に難くないのだが。
秋の日は長くない。やがて空の色が山際に紺色を残すばかりになると、諏訪子の影も暗闇に溶けて消えていった。
街灯なんて気の利いたものがあるはずもない田舎道は、実の所、諏訪子が住んでいた町とさして変わらない。特に、今日のような月の無い夜には、1メートル先も覚束無い、完全に光源の無い暗闇になるものだ。
そして夜になると、当然、もう何も見えなくなって。一回だけ、赫い光が瞬いた。
◇◇◇ 終
「ただいまー」
守矢家の食事当番は一日毎に交代で、週に一回だけ外食をする決まりになっている。今日の当番は早苗だった。諏訪子は素直な良い子なので、ちゃんと晩ごはんの前に帰宅した。偉いぞ。
すると何故か、神奈子が玄関で待ち構えていた。
決して、子供が遊んで帰ってくる時間としても、目くじらを立てるような時刻ではないはずなのだけれど。どんと、峻厳たる態度で、腕まで組んで、立ち塞がるように待ち構えていた。
外から帰ったら手を洗ってうがいしろと言うのなら、言われなくても分かっている。
神奈子が諏訪子の残虐性を快く思っていないことも、言われなくても分かっている。
無言で威圧する神奈子の態度に、諏訪子は露骨にうんざりとした溜め息を吐いた。
大方、諏訪子がこれでは守屋神社の沽券に関わるとでも思っているのだろう。
科学の発展に過剰に反応にし、僅かな信仰の損失に酷くプライドをいためた神奈子。内に目を向けず、外部からの認識に拘泥する神奈子は、まるであの男のようだ。世間体や体面ばかり気にして、本質を見失っていると諏訪子は思う。無論、人と神ではスケールが違う。あの男、神奈男(仮名)さんは人間らしく浅ましく矮小だったが、神奈子は神らしく高慢だ。それは全く違うものである一方で、やっていることは同じで、似てもいた。
乾の象意は、剛健や威厳。自分を蛇に、諏訪子を蛙に当て嵌めたのもそう。あの注連縄も、高圧的な態度も、どれもこれも体面のために、面目を保つためだけに。めんどくさいったりゃありゃしない。まさかとは思うが、人間と神様のどちらが捧げる側か、間違えているんじゃないだろうか。努力して信仰してもらうなんて、そんなものはもはや信仰ではなかった。それなのに、だ。
あの注連縄も、喩えるならあれ、ライオンのたてがみのようなもの。ただ身体を大きく見せて強さをアピールするためのもの。
……あほくさ。
感想は、たった一言で済んだ。
……あれ? 前にテレビで、喧嘩の時に急所の首を守るとかどうこう言ってたっけ? それじゃあ、たてがみの方が有意義っぽいのかも。
などと、むしろ別のことを考えてみたり。
乾は男性原理で、坤は女性原理。
男性原理とは、秩序と規範性の遂行者としての権威であり、女性原理は、善悪の見境なくあらゆるものを包含する。
断言してしまえば、諏訪子と神奈子の認識の間には、それこそ天と地ほどの隔絶があるということだ。
「ただいま。神奈子。愛してるよ」
傲岸不遜な神奈子に見下ろされながらも、そんなことはまるで気にしていないケロリとした笑顔を浮かべる諏訪子は、蔑みを込めた冷たくも熱い声色で、その台詞を言った。
そうして、諏訪子と神奈子は、早苗が呼びに来るまでのしばらくの間、玄関で見つめ合っていた。
泥酔して帰った日のことだった。
元はと言えば、反抗的な態度が癪に障ったのだ。
だから俺は悪くない。
(中略)
頭に冷水を浴びせられたようだった。酔いが醒めてしまったことに、酷い苛立ちを覚える。
とりあえず、これをどうにかしなければ。
(中略)
無事に捨てることができた。誰にも見付からなかったのは僥倖だろう。
何かがいる。
暗闇の中で、視覚の代わりに敏感になった全身の皮膚の感覚が、気配としか言いようのないものを背後に感じ取った。虚ろな気配だった。どう肯定的に捉えても生きた人間のものとは思えない、冷たく澱んだ気配だった。さーっ、と足元を冷気が流れて、一斉に鳥肌が立った。
一瞬の内に、振り返るべきか否か判断を迫られた。
考えている間にも、気配だけであったそれの存在は、粘性の液体が垂れ続けるぼたぼたとした明確な音となって差し迫っていた。最悪に生臭い悪臭が鼻を刺激した。
怒りと恐怖が入り混じって冷静な判断が下せなくなる。半ば自棄的に振り返った眼前には、無様で醜悪な脂肪の塊が転がっていた。
嫌でも見覚えのあるその姿は、喩えるのなら、醜く太った蛙に似ていた。
口が引き攣ったのは、良い気味だとでも蔑む意味での失笑だったかも知れない。だが、歯の根が噛み合わされているのは、紛れも無く恐怖が原因のことだった。そいつが太った巨体を引き摺りながら近付いて来るのに、射竦められたように動けなくなったのも事実だった。
我に返ったのは、そいつの口から漏れる激しい異臭を嗅いで吐き気を催した瞬間だった。ただし逃げるには少し遅い。ぶよぶよとした屍肉の感触が腕に触れて、恐怖よりも先に爆発したのは生理的な嫌悪感。
魂切る絶叫が、夜気を劈いた。
◇◇◇
よく言われているものだと、川のヌシを釣るだのという話を聞くか。
「……やあ。元気にしてる?」
ここは、御山の中腹。中腹と言っても広いのだが、中腹の、山頂から降りてくるよりは、裾野から登った方が近い辺りになる。
喧騒から切り取られたような無音だった。風さえ吹かずに、柔らかな木漏れ日に光る水面は、鏡面のように凪いでいた。新秋の今、蓮の花は時季を外してしまったのか、円い形が特徴的な緑色だけを、静かな水面に浮かべている。
そう、大蝦蟇の池だ。
その畔に、見た目年齢にして8才ほどの少女が立っていた。さらさらとした金髪は肩口で切り揃えられて、鬢髪には赤い紐が結われている。なにげなく話す声音さえ神韻縹渺とした響き。浮世離れした雰囲気の少女だった。少女は、洩矢諏訪子。
諏訪子は軽い調子で声を掛けながらも、その実、敬意と誠意を持って、神聖な気配を醸し出す池を見つめていた。この池のヌシは蝦蟇蛙だ。そのことを見誤る諏訪子ではない。
この場合のヌシとは、もちろん釣り人に釣られるようなものは含まずに、土地の脈に根を下ろした生き物を指して言う。根を下ろすには、それだけでも長い時間を要する。必然的に、ヌシはその土地の最古老であることが多かった。
例えば、引っ越してからいきなり『山は私自身であり、山は私への信仰の対象です』とか言ってしまう誰かさんは、残念ながらヌシの本質を分かっていないと見える。新参者が山の神など、諏訪子に言わせれば片腹痛い。いや、別に誰とは言わないけれど。
「ふーん、そうなんだ」
水面は水泡一つ立てない静寂を保っていたが、諏訪子は蝦蟇の言葉を理解する。
諏訪子もまた、御山の山頂に湖ごと引っ越してきた土着神だった。ヌシの中でも特に力を持った存在を、土地神や、産土神、地主神、言い方も形態も様々だが、ここでは土着神と呼ぶことにする。
土着神は、国津神とは明確に異なる。天から地上に下った神が国津神となっても、土着神と呼ばれることは、まず無い。有り得ない。土着神は、元からそこにいたものだ。長く棲み付いているものだ。土地と共にある歴史が、取るに足らない自然の存在をヌシに、更にその果てに、ローカルな神様にさせる。
諏訪子の手には、引っくり返した帽子があった。おかきやら、おせんべいやら、あとは黒糖のかりんとう、諏訪子のお気に入りのお菓子が、帽子の中一杯に詰まっている。池の畔には祠も見えていたけれど、諏訪子は直接、池の中ほどを目がけて帽子を放り投げた。ちょうど、輪投げの要領。くるくると回転しながら水平を保った帽子は、見事、ちゃぷんと池に着水する。
「おみやげだよ。それじゃあ、またね」
広がるさざ波が、蓮の葉を揺らす。帽子の舟は、ぷかぷかと浮かびながら、短い船旅を続ける。
やがて、波紋が小さくなって消える頃になって。とぷん、と。水中に潜んでいた何かに引き摺り込まれたようにして、水中に沈んだ。
気泡が浮かんで、ぱちんとはじけた。
水面に映る巨大な影が、ゲコ、と鳴いた。
◇◇◇
そして。
「えっと……うちの神社に何かご用ですか?」
諏訪子は、ご苦労にも御山に山登りを試みる人間と話をしていた。中年の男は山頂の守矢神社への参拝客らしい。登山道の整備やら索道やら何やらの話も持ち上がっていたが、うやむやに終わっていたはずだ。男は体格も良いがそれ以上に恰幅も良い。登山は無謀だろう。まったくもってご苦労なことである。
諏訪子が立ち話をしているここは、大蝦蟇の池から降りてきた、登山道と言えなくもない細い道の入り口付近。背後には御山。そして前方には長い畦道が伸びているだけの場所だった。
君は守矢神社の子供かと訊ねられ、諏訪子はものすごくいいかげんに答える。
「はい。神奈子はお母さ……母です」
そんなわけない。
「あたしは洩矢早苗。8才です」
そんなわけない。
神奈子による精力的な布教の結果、守矢神社は御山の外にまで知られるようになったようだ。神奈子の顔は知られているだろうが、早苗はまだまだで、諏訪子に関してはこの通り、全くだ。だからこうして、守矢早苗なる、守矢神社の新しい一員が生まれていた。
それとも、あまりにも特徴的過ぎる帽子を今は被っていないことが一役買っているのだろうか。あの帽子なら、衣裳箪笥の中にびっしりと詰め込まれている。不用意に箪笥を開けた子供の頃の早苗が、中から覗く無数の視線と目が合って失神したという話は、守矢家では笑い話として伝わっていた。
さて、閑話休題。一応は諏訪子の素性が明らかになった後も、その人間は口を渋っていた。
諏訪子は、信仰とか参拝客とか、はっきり言って大した興味を持っていない。この人間が山頂の神社まで辿り着けないだろうことも、知ったことではなかった。
御山──妖怪の山は人里では危険な場所と知られているはずだ。その事情を差し置いてまで、この人間は守矢神社の霊験を求めた。では、その理由は何か。それなりに深刻ではあるのだろう。そこまで把握しておきながら、諏訪子は特に何かをするつもりは無かった。信仰集めは神奈子が勝手にやっているだけだ。そもそも御山の神社として山に棲む妖怪の間にはある程度は浸透し、山の神の面目だけは立っているだろうに。
信仰が完全に失くなって困るのは諏訪子だが……
まさか、ミシャグジ様が長きに渡って貯め込んだ呪力が、そうそう簡単に底をつくとでも思っているのか。
……………………
なんの気まぐれか、気が向いた。
「あの、私で良かったら、お話をうかがいます。これでも、守矢神社の巫女ですからねっ」
胸の前で両手をグーにして、諏訪子は元気いっぱいに言う。
「あ、そうだこれ。ちょっとした奇跡ですが」
更にそう言って、足元の地面を、とんっ、と軽くつま先で叩いた。すると茶色の地面には、見る間に真新しい緑が広がった。
それで完全に、その人間は諏訪子を信用したようだ。訥々と、身の上を語り始めた。
◇
その男の話を聞くことに、諏訪子は開始5秒も経たない内から飽き始めていた。
里の講組や役員がどうとか言っていたが、諏訪子はその辺りを綺麗さっぱり聞き流す。そこはかとなくどうでもいい。亭主関白。世間体ばかり気にする愚の骨頂。こういう人種はたいがい、家の中に目を向けることが無い。せせこましいプライドを維持することだけに全精力を注いでいるのだろう。ご苦労なことだ。仕事に支障がとか、本当にどうでもいい。
諏訪子は胡乱な殺意の滲む眼差しで、神奈男(仮名)さんを見ていた。
要点だけ、掻い摘もう。
これは男の話した内容それ自体ではなく、諏訪子が注目した点だった。
一つ、男がわざわざ人里離れた守屋神社を訪ねようとした理由は、世間体。幻想郷には神社が無い、と言うと少々変わっているように聞こえるかも知れないが、機能する神社が少ない村落自体は決して珍しくはないだろう。ただ、そういう場合でも土俗の宗教体系はきちんと存在している。民間の呪術者や、拝み屋だ。神道とは無関係にそれらは存在しているし、そうしたものがなければ冠婚葬祭や季節の祭りが立ち行かない。それどころか、疳の虫さえ払えない。博麗神社でそれらを請け負っている様子が無い以上、確実に、人里には祭事の担い手がいるはずだ。
たしか……上白沢慧音。
諏訪子は聞いた名前を思い起こした。
男は、自分が講組に属しているとも言っていた。それならば、まず彼女、民間の識者に相談するのが道理だろう。しかしそうはしなかった。それは不自然だ。要するに、後ろめたい気持ちでもあるのだろう。
二つ目。呪われていると、男は言う。確かにその腕、右手の手首と肘の中ほどには、赤紫とも青紫とも付かない黒ずんだ痣がくっきりと残っていた。痣は激痛を発する。数日は耐えられたが流石に限界だと、男は悔しそうに言った。
強い力で握られたような痣。そして、醜悪に歪んだ人間の顔に見えるような痣。苦悶の表情は誰がどう見ても明確に、恨みつらみを訴えている。
「人面瘡?」
と、言う程ではなかった。
「ちょっとシュミラクラ現象的に顔っぽく見えるだけかな」
包帯を解いて痣を見せるだけでもなく、多少は真に迫った様子で悪夢に魘される話もしていたが、そちらは聞き流していた。鬱陶しい。不幸自慢の身の上話などつまらないし、ましてや、それが不当なものともなれば、聞くに堪えないのは当然だった。
諏訪子の呟きに、まさかカタカナ語の意味が分かったのではないだろうが、軽い調子を感じたようだ。男は期待するように息巻いて、無害なのかと問うた。
「うん?」
不思議がって首を傾げる。
「そんなわけないでしょ」
そして、囁く。
「有害ですよ。これは紛れも無い呪詛だもの」
命に関わることも、あるかもしれませんね。
巫女様からの死の宣告。
やにわに、男の告白は泣訴の色を帯びてきた。それは神前での懺悔に似ている? 諏訪子は失笑した。これは、それとは違う。
体格の良い男は、平素であれば体面に気を使っていたのだろうが、今や完全に威厳は失われていた。折れればこんなものか。男自身が命の危機を誰より理解している。だからこそ、ここまで追い詰められている。真剣に神頼みをする者には、それなりの理由があるというわけだ。困った時だけ、よくもまあ。
「呪われるようなことでも、したのでしょう? 心当たりは、あるはずですけどね」
ピタリと、不自然なほど唐突に、男の啜り泣きは止まった。言葉を選ぶような沈黙の後、ひどく苦しげに、男は言った。
蟇を……蟇蛙を、殺したのです。
……へぇ。そう来たか。
この男が生き長らえている理由は、雑事さえ億劫に感じた諏訪子の緩慢に振り下ろす鉄槌に、土下座する速度が先んじた、それだけの事だった。嗚咽を喉から垂れ流し、無様に地面に頭を擦り付ける男は、諏訪子のどうでもよさげな視線には気付かない。
なんかもう、だいだいわかっちゃったんだけどなぁ。
と言うか、話を聞いてすぐに解決していたも同然だったのだけれど。暇を持て余した諏訪子は指に髪を絡めて遊んでいた。簡単な話、自業自得。呪われるようなことをして呪われただけだ。ただ、確かめるべき事柄は、一つだけあるが。
諏訪子は神で、神は必ずしも人の味方をしない。加えて、諏訪子は神と崇められた化物だ。その性格は、都合良く神頼みの対象となる神様とは根本から異なった。もし、この男に助かる道があるとすれば、それは善意の祈祷者の元を訪れ、正直に罪を告白することだろう。
「相応な場所で告解でもしてはいかがです?」
諏訪子にしては珍しい、良心的な提案。
もしもこの場面を神奈子が見ていたなら、突然の慈雨に備えて洗濯物を取り込んだだろう。半分は皮肉で、もう半分は真面目な話だ。
けれども男は、だからこうして訴えているのです、と。
どうやら、真面目に救われる気は無いらしい。
すると問題になるのは、見物して面白いかどうかだが……どうせ今日の予定は無い。元より、そのつもりで話を聞いたのだ。ほんのわずかな期待から、諏訪子はもう少しだけやる気を出した。精々、面白くなってくれれば良いのだけれど。
「良いよ。その祈祷、私が引き受けましょう」
何も知らず感謝の言葉を述べる男の後頭部を、諏訪子は冷たく見下ろした。
◇
「呪いを解くのは、とても難しいことだよ」
そんなわけない。
まあ、諏訪子の場合はスケールが違い過ぎて逆に難しいということもあるか。てきとうを言うまでもなく、細かい作業は苦手と言うか、嫌いの部類。容易と言えば容易なのだけれど、どちらにしても、請われた通りに呪いを解くつもりなど、諏訪子には毛頭無かった。
「貴方は蛙を殺して呪われたと言う。だったら、まずはその現場を見せてくれるかな?」
まずは、確認すべき事柄の確認から。
そうして男が諏訪子を連れてきたのは、人里の外縁近くに通っている堀だった。見下ろすと、あまり綺麗ではない水が底を流れている。数尋の深さのある、真っ直ぐな用水路だ。綺麗ではない、と言っても、御山の清流を見慣れた諏訪子から見ての話。堀は深いが、実際に流れている水量は膝の高さ程度。ただ、より高い位置まで水の痕跡があって、雨の日には水嵩が増すことが窺えた。
「ここに蛙が? まあ、それはいいや。貴方が“蛙だと主張するもの”を殺してしまった時の状況を、詳しく教えてみなよ」
男は既に落ち着きを取り戻していた。冷静に、あの時の私はどうかしていたのですとどうでもいいにも程がある言い訳から入って、自分に不利とならないように留意しながら、求められた情報を語り始めた。
聞きながら、諏訪子はふと思う。
巫女様とはいえ8才児なら騙せるとでも、男はそう考えているのだろう。相手が思慮分別の付く大人なら、こうはいくまい。金髪は疑問に感じないのかとも諏訪子は思うが、東風谷早苗はメロンフロートみたいな奇跡色の髪の色をしていた。
で。それはさておき。
一週間ほど前の夜、男は一人でこの道を歩いていた。暗がりのために足元が見えず、誤って蛙を踏み潰してしまった。これは決して、故意ではない。蛙は異様な大きさをしていて恐ろしかった。咄嗟に膝を突いて用水路に手を合わせ謝罪した所、暗い水面から上がってきた妖怪に、腕を掴まれた。その時は腕を振り払い逃げることが叶ったが、家に帰ってみると、例の痣が残っていた。それからと言うもの、痣は痛み、悪夢には魘され、水辺に近付く度に不可解な水音が聞こえる。
要するに、だいたい虚偽の申告だろう。聞く意義は無かった。
「貴方が見たものの姿を、もう少し」
とにかく醜い姿だった。贅肉の垂れ下がる身体は醜く、首は無いに等しい。顔面はだぶついた皺だらけで、開きっぱなしの口からはへらへらとした笑い声にも似た呻き声が漏れている。それは、太った蟇蛙のような容姿だったとか。
諏訪子はその説明に対してだけはまともに頷いた。よくもまあそこまで言うな、とは思ったが。
蛙らしきものを見なければ、蛙を殺したという作り話は出てこない。男は確かに呪われている。
「だけどそれは蛙じゃないね」
そして、そう言い切った。
「この私が断言しよう。例えば、大蝦蟇の池で蛙を殺したのならいざ知らず、こんな用水路の蛙を殺したところで、何の祟りもありはしないよ。だって、カエルは所詮カエルなんだからね」
諏訪子は、用水路の底を覗き込む。小さなせせらぎにもヌシがいることもあるが、流石にここは用水路。特に変わった様子は見当たらない。
「呪われる。その多くは、生き物の命を不用意に奪ったことが原因だけれど、それだけで呪われるなんてことは、もちろん無い。ましてや、誤ってカエルを踏み潰してしまったという話が本当なら、呪われる可能性は限り無く低い。普通のカエルは祟らないし呪わない、何故ならそうするだけの力が無いからね。ある程度の大きさを持った生き物を、多少は惨たらしく殺さなければ、呪われるということは、まず無いよ?」
普通のカエルは、祟らないし、呪わない。
幻想郷だからと非常識に浸かるのも良いが、非常識の中にも決まり事はあった。しかし、現に男は呪われている。諏訪子はその矛盾を指摘した。
それならば、自分の殺したものは蛙ではなかったのだろう。
男はあっさりと、嘘を間違いだったとして撤回した。
「だとすると、困ったね。さっきも言ったけど、呪いを解くのは難しいよ。正体を明かすことは対処には必須なのに」
そんなわけない。別に必須とは限らない。
が、男は言葉の真偽など知る由も無い。一般人は霊能の世界に関して、そんなものかと思うより他になかろう。とは言え、ここで狼狽しないのは大した肝の据わり具合だ。
ともかく、怪異の発生場所は問わないらしいが、気を利かせるのなら、現場の方が無難か。
本来なら、ここで色々と証言の裏を取るための聞き込みをすべきなのだろうか。しかし面倒にも程があった。男の素行も仮説を裏付ける重要な要素だが、面倒なものは面倒だ。諏訪子は頭脳労働というものをあまり好かないし、なにも律儀に言質を取る必要も無い。探偵ごっこなら、やりたい時にやる。
どうせ、待っていれば証拠は向こうの方からやって来るのだ。おおよその確認は既に取れた。期待した通りの惨劇が見られるだろう。後は楽しく見届けるだけで構わなかった。
日が傾くのを待つことにした。池を後にしたのが昼を大分回った頃で、もう日が落ちるのも早い季節になった。待つ時間は、そう長くない。水辺で待機していれば、辺りが暗くなると同時に現れるはずだ。
急に黙った諏訪子に男は何かを言うが、諏訪子は「霊視するから集中させてね」と適当なことを言って黙らせる。
言ってしまった手前、集中する振りをしながら、諏訪子は空想を始めた。
例えば、この件が早苗の所に持ち込まれたとして。
この場合、取り立てて変わったことは起こらない。祈祷料を取って、神社でお祓いをして、それで終了。この程度の呪詛を祓う難易度は大して高くない。滞りなく、事態は表面的な解決に向かうだろう。残念ながら、表面的な、と付け足さざるを得ないけれど、早苗にそれ以上を要求するのは酷というものだ。
例えば、この件が神奈子の所に持ち込まれたとして。
この場合も、早苗とほとんど同じだ。けれど、その内実は違ったものになる。神奈子は諏訪子と同様に、話を5秒聞いた程度で真相を看破しながらも、ビジネスライクに対応するだろう。呪詛への対処は早苗よりも遥かに容易に、軽く息を吹きかけるだけで済む。まあ、神奈子のことだ。大仰なパフォーマンスを挟むかも知れないが。
それとも相手にしないだろうか? なるほど、どうすべきかを問うのなら、それが最も正しい対応な気もする。気が向かなければ諏訪子もそうしていた。
刻一刻と日は暮れて。
薄らと、凄惨な微笑が、諏訪子の口元に浮かんだ。
◇◇◇
「木落しって言ってね。私の神社のお祭りでは、切り倒した御神木を山の急斜面から滑り落とさせるんだけどね。これ、危ないよねぇ。車輪とかも使わないで、人の力だけで引っ張って、かなり乱暴に運ぶの。不思議なお祭りだよね。普通、神社建築に使う柱は、地面に触れないようにして丁寧に運ぶものなんだよ。布を被せたりとか、注連縄を用意することも多いね。でも、御柱は知っての通り。上に人が乗ったりとか、神聖な御神木に対してそんな行為は言語道断……なんだけど、みんなでこぞって乗りたがる。急な斜面を滑り落とす時に乗ってると、英雄扱いだもん。誰も、止めたりなんかしない。地元の人達はね、みんな、こう言うんだよ。怪我人が出るくらいの方が盛り上がる。神様もそれを喜んでる、って」
うんっ♪ あのお祭りは楽しいよ。
夕暮れが辺りを赤く染めるのと同時に脈絡無く語り始めて、そして諏訪子は喜色満面に、そう言った。
「そもそもあの柱は、御神木じゃない。あれはつまりね、生贄の見立て、人柱なんだよ。だから、こうも言えるね。──信仰とは、生贄だ」
千鹿頭神社の御頭祭りも、好例だろう。
諏訪地方の神事は血腥いなどと言われることがよくある。諏訪の神は流血を好むのだ。
かつて、ミシャグジ様には思考中枢と呼べる部位が無かった。そして偶然か必然か、洩矢神はミシャグジ様の頭になった。ソソウ神を始めとして多くの神様が習合した“ミシャグジ様という集合体”は、無論のこと洩矢神さえ取り込んでいる。
有り体に言うのなら、諏訪子はミシャグジ様の一部で、丁度、頭に当たる部分ということだ。
全身どっぷりミシャグジ様に浸かった諏訪子の趣味嗜好は、今や完全にミシャグジ様と同一になっていた。それとも、趣味嗜好がミシャグジ様と共通していたからこそ頭に割り振られたのか、それは諏訪子にも分からない。
そもそもミシャグチ様がいかなる存在か、実は諏訪子自身も把握していないのだ。土着神の頂点ともあだ名される神様は本質を辿ることができない程に混沌としていて、磐座の神とも地震の神とも言われている。つまりは典型的な自然神なのだろうが、では、ミシャグジ様の“起源”は何だったのだろう?
諏訪子は目を閉じて、無意味な憶測に耽る。
恐ろしいもの。悍ましいもの。祟るもの。
古代の人間の本能に強く訴えるような何か。
きっと、蛇。それもただの蛇でも、大蛇でもない。大蛇の神と来れば、うまさけの三輪山が代表的な神奈備と言えよう。ミシャグジ様の御神体は諏訪の山ではない、とされている。ミシャグジ様は神奈備ではなく磐座の神だ。そして、しかしと繋げるべきか、蛇でもある。
磐座。蛇。渾然一体の集合体。その特徴を満たす、シンプルで印象深い自然の産物は?
──夥しい数の蛇の群れが蠢く巨大な巣。
ふと。
何処からか吹き込んだ風が、鉄錆の臭いを運んできた。
空気が調律されたように、ピンと張りつめる。更に、太陽が沈んだこととは全く別の要因によって、場の明度が数段下がった。
「ホラー映画だと、蛍光灯がチカチカして切れちゃうような、そんな感じかもね」
それは決して諏訪子がテレビで見た映画の中だけでなく、実際に遊びに出掛けた時の実体験でもあった。
異形の者は現実に姿を見せることに大変な労力を伴う。それなら、現実の側を侵食してしまうのが手っ取り早い。この怪奇は、これから来る異形の者が姿を現しやすいように、諏訪子が自身の気配を撒いた影響だった。変質する空気はじりじりと現実味を削り取っていき、視覚や聴覚にどこかノイズが掛かったような、怪奇に適した環境に変貌していく。
つん、と鼻に突き刺さる鉄錆の異臭。一日の終わりを優しげに照らすはずだった秋の夕暮れは、今や辺り一帯を血にも似た色に染め上げていた。
そして諏訪子は、目を開く。
金でも青でもない赫い瞳が、その光景を舐めるように見つめる。
「さあ、出ておいで」
どぷんっ。
皮切りは、水の中で何かが動く音。ひた、と湿っぽい音が続く。伸びた手が、ふやけて輪郭がぼだぼだになった五本の指で、用水路の縁を掴む。目に映らない場所でも冷たい気配が動いているのも、ありありと分かった。
血の色をした黄昏時の中で現れたそれは、明らかな怪現象だった。その開始と同時に、上腕を抑えて苦しみだ始めた男に、諏訪子は男の苦悶が視界に入っていないかのような静かな態度で、やはり静かに問い掛ける。
「……で? 貴方は誰を殺したのかな?」
普通のカエルは祟らないし呪わない。ある程度の大きさを持った生き物を、多少は惨たらしく殺さなければ、呪われるということは、まず無い。
痣の形は、人の手で強く握られたようで、そして人面に見えた。最初から蛙の要素など何処にも無い。よっぽどの考え無しでもなければ普通に気付く。あれは人の呪いだ。
わざわざ人里離れた守矢神社にお祓いを求めた理由が、それだった。後ろ暗い事情のある男は、まさか人里の守護者様に頼るわけにもいかなかっただろう。
話を聞いて5秒で分かる程度の下らない話。
男はただ単に、無惨に人を殺して、呪われた。それだけだ。
「奥さん、だね?」
元々らしい肥満体は水を吸って更に膨張している。人体の形状を留めているとは言い難い。そんなザマなので、地面を這う動きは緩慢だった。蟇蛙と言うか牛蛙と言うか、トドやオットセイとか、その仲間に近い。全貌が露わになると、魚が腐ったような生臭い悪臭が這い寄るように地面を伝ってくる。怨嗟の呻き声を漏らす口は、その悪臭も垂れ流しにしていた。
そして予想通り、醜い悪霊は、やはり女性だった。
なおも大声で喚き続ける男を、諏訪子は完全に無視……しようと思ったが、やめた。うるさい。軽く手を振る。ほぼ連動して、男の脛の肉がぱっくりと割れた。もういいからおとなしく襲われていて欲しい。
痛みの悲鳴に尚勝り、やたらうるさいだけの怒声が響き渡った。
その内容は諏訪子を詰るものだ。今更、諏訪子の真意に気付いたらしい。諏訪子は困った風に肩を竦めて見せた。
「貴方を助ける? 嘘うさ♪ ……って、これは竹林の白兎がよく言うやつだったね」
どうでもいいけれど。
まあ、ついでだ。諏訪子は言葉を弄して丁寧に教え諭すような性格ではないのだが、今回ばかりは懇切丁寧に、白兎の言いそうなことでも言ってみよう。
「救われるべきでない者を救えとでも言うのかな? 別に良いよ。それは正しい行為ではないけれど、善悪なんて知~らないっ。貴方のことも気分次第で助けてあげる。でも、私の忠告を無視したのは貴方だよね? 私はちゃんと言ったよ? 相応な場所で告解でもしてはいかがです? って。ま、貴方が聞かないのなんて、最初から知ってたけど」
と、こんなところだろうか。
問答無用で八つ裂きにしても構わない人間を相手にわざわざ答えを教えてあげるなんて、諏訪子としては、ほとんど奇跡的な甘さだった。
「それにしても馬鹿馬鹿しい。身の安全よりも、体面の方を重視するなんて、何を考えているんだか。貴方は人を殺しておきながら、不自由の無い生活を……ですらなくて、なんかよく分かんない体面を保つことに必死だったんだ。貴方はどこまで身勝手なの? はあ、実に身勝手で矮小で浅ましいね。ま、人の望みなんていつもそんなものだけど」
諏訪子が呆れている間にも、ずるずると女に引き殺されそうになっている男。
危うく、見逃すところだった。諏訪子は無駄口を叩くのをやめ、その光景に期待を込めた眼差しを向けて、愉しく観賞する。
「人を一人、無惨に殺した。その結果がコレ。何も不思議なことはないよねぇ」
女の頭は、後頭部の辺りが陥没している。些細なことから諍いとなり、つい手でも出たか。当たり所でも悪かったのだろう、それ自体は不運な事故だと言ってやっても良い。だから何だという話だが、計画性は無かったのだ。しかしまあ、妖怪が死肉を食べることを期待して里の外に捨てたのは悪質か。もし上手くいけば、大真面目な顔で喪主でも務めたのかも知れない。
現代社会の法律で言うと、これはどの程度の罪状になるのだろう。あまり詳しくはない諏訪子の当てずっぽうによると、多分、ふざけたことに、死刑になるほど重くはない。人が人を殺す意味の重さは、人の権利の重さに取って代わられている。
不倫。暴力。
探偵ごっこをしていれば、男の素行に関して、そんなキーワードが上がったかも知れないが、「ケロちゃんは神様なので、人の業くらいは見れば分かるのですよ」で済む程度のことで、別に大した問題じゃない。家庭の事情に興味は無い。「知らんわ、んなこと」だ。惨劇さえ見られれば、それで良い。
「さて。何日振りか知らないけど、感動の再会だね。私はこれが見たかったんだよ」
俺は悪くないぞ! お前が悪いんだろうが!
男は女に怒鳴る。
それが、最期の言葉になった。実に馬鹿げたことに、男は最期まで、自分は悪くないとでも思っていたらしい。
男の抵抗も空しく、大きな物が沈む水音。それっきり、用水路は沈黙を続けた。
「……………………あれっ? もう終わり?」
諏訪子は思わず、そう言ってしまう。
ぽけーっと呆けた顔は、可愛いにも程があった。
「うっわぁ、期待外れにも程がある。なんかこう……スプラッタ的な流血を楽しみに待ってたのに」
用水路を覗き込んで、諏訪子は様子を確認する。見事な溺死死体が暗い水の底にあった。翌朝に見付かる頃には、すっかりふやけて見るに耐えなくなっているだろうが、そこまでは待つ価値は無い。
それと、水の底から見上げる女と、目が合ってもいた。
その眼球は半ば以上にゼラチン質と化して濁っていて、焦点など合っていようはずもないが、生きているものを恨めしく凝視していると分かるだけの負の感情が宿っていた。
人里は田舎だ。豊かな伝統が残り、下らない因習も多く残っている。望んだ結婚だったとも限らない。夫婦生活は最悪だったろう。
諏訪子は敢えて、心にも無いことを訊ねる。
「貴方は恨みを晴らした。殺された恨みだけじゃないね? 昔年の、吐き気がするような嫌悪感を晴らしたんだ。これで、成仏できるかな?」
もちろん悪霊に正気など残っていない。虫よりも愚かに、女は諏訪子を男同様に襲おうとする。先程もそうしたように、ずるずると用水路から這い出して、その体をもたげた。
やれやれとも言わず、先程もそうしたように、軽く手を振る諏訪子。
ぶずぶずっ……と。あまり、血は飛び散らなかった。
十数本ほど、先端が釣り針のように曲がった、敢えて呼ぶとすれば鉤のような何かが、女の背から生えている。剣山の根元を辿っていけば、そこは諏訪子の手だ。しかしそれは袖の中から飛び出したのではなかった。大きさも太さもてんでバラバラな鈍い色をした金属の棒が、体内の奥の奥の方から、ギチギチと繊維を引っ掻いて傷付けながら、少女の柔肌をぷつっと突き破り、飛び出していたのだ。
遊び道具ではない方の“洩矢の鉄の輪”。それが女を串刺しにしている凶器の正体だった。刀を血振りするような所作で、諏訪子は鉄の輪を大きく振った。
先端が鉤状の凶器で女の身体を串刺しにしたまま、乱暴に、腕を大きく振った。
その当然の結果として、ブチブチブチと濡れた布を引き千切るような嫌な音と共に、女は用水路の脇の草むらに放られた。
「人を呪わば穴二つ。聞いたことくらいはあるでしょう? 貴方達は二人まとめて、被害者とは言い難いんだ。ロクに生きてこなかった、その報いだとでも思って納得でもしたら? いや、私はもちろん、矮小で身勝手な貴方達が、そう簡単に自分の落ち度を認められるとは思わないんだけどね」
ところで、見境なく通行人を襲う彼女を放置しておけば犠牲者も出たかも知れない。諏訪子にその認識は無いが、諏訪子は比較的、良いことをしたのだった。
そして諏訪子は、蔑みを湛えた瞳でどぶを見下ろし、吐き捨てるように言う。
「神様に救われたければ善行でも積んでろよ。天にまします主様は見ていてくださるんじゃねぇの? 知らないけどさ。勘違いしないでよね。私は神だけどね、都合の良い神様と一緒にすんな。信仰とは、生贄だ。おぞましい化物を慰撫するために捧ぐ、流血だ。お前達が私に捧げろ。気が向いたら、受け取ってあげるよ。愉しめたなら、祟るのは許してあげるよ。信仰ってのはそういう構造なんだけど、知らなかった?」
それを聞く人間なんて、ここにはもういなかったけれど。
「……あーあ、つまんなかったなー」
諏訪子は漫画の立ち読みを終えた時と同じ気分で呟くと、それ以上は何も思い煩うことなく、ケロリとした笑顔を浮かべて、男のことも女のことも綺麗さっぱり忘れたのだった。
もうすぐ完全に日が暮れて、辺りは真っ暗になる。すっかり現代被れしている諏訪子は「時計が無いとこういう時に不便だよねー」などと言うのだが、つまり晩ごはんの時間だった。
夕暮れの畦道を、諏訪子は歩いて帰る。
一日中遊んだ子供のように、子供心に秋の夕暮れに寂しさも感じながら、長い影法師を連れて、てくてくと歩いて帰る。
ぐにゃり、と。
ほんの一瞬。見逃すか、見ていても見間違いだと思っただろうが、確かに一瞬だけ、諏訪子の影が歪んだ。しかし正確には、歪んだのは諏訪子の影だけではない。
そしてまた、異常はもう一度、先よりも長く。
景色が歪んだ。そうとしか思えない程に、諏訪子が顔を上げた途端、周囲の気配がぐにゃりと歪んだのだ。確かな異常は、見逃すことも、見間違いだと思うことも許さない。赫色の名残を微かに残した夕景色の中に滲む暗闇が蠢いて、生きているかのように動き出したのだ。
しゅるしゅるしゅるしゅる……と。無数の鱗が擦れ合う音を──無数の蛇の群れを率いて、諏訪子は歩く。しかしこんなものは、湖底に眠るミシャグジ様全体の、ほんの末端に過ぎなかった。
諏訪子は信仰の獲得には、あまり興味が無い。
どうして、コレを抑えるのをやめるだけで集まる畏怖と恐怖のために、わざわざ神様の方が努力をする必要があるんだろう?
だから諏訪子には、神奈子のやっていることは、まったくもって無意味で、そればかりか的外れなこととしか思えず、頭を抱えても何も分からないほど、理解に苦しむものがあった。
上げた顔を傾けて、諏訪子は今しがた歩いてきた畦道を振り返る。
その唇は、笑みの形に歪んでいた。
事実、諏訪子は悦に浸っていた。神奈子の勝手には激怒すらしかけたが、幻想郷は良い所だったからだ。妖怪の跋扈する幻想郷は、息詰まる現代社会よりも余程、諏訪子の好む娯楽にも満ちている。この分ならば、散策だけでもまだまだ十分に愉しめそうだ。
神奈子のやっていることは意味が分からないけれど、ここに引っ越してきたこと自体は正解だった。その点では、諏訪子は神奈子に感謝している。もっとも、『祟り神なんてものは、その手に玩具を握らせておけばおとなしくなるだろう』という神奈子の意図があったことは想像に難くないのだが。
秋の日は長くない。やがて空の色が山際に紺色を残すばかりになると、諏訪子の影も暗闇に溶けて消えていった。
街灯なんて気の利いたものがあるはずもない田舎道は、実の所、諏訪子が住んでいた町とさして変わらない。特に、今日のような月の無い夜には、1メートル先も覚束無い、完全に光源の無い暗闇になるものだ。
そして夜になると、当然、もう何も見えなくなって。一回だけ、赫い光が瞬いた。
◇◇◇ 終
「ただいまー」
守矢家の食事当番は一日毎に交代で、週に一回だけ外食をする決まりになっている。今日の当番は早苗だった。諏訪子は素直な良い子なので、ちゃんと晩ごはんの前に帰宅した。偉いぞ。
すると何故か、神奈子が玄関で待ち構えていた。
決して、子供が遊んで帰ってくる時間としても、目くじらを立てるような時刻ではないはずなのだけれど。どんと、峻厳たる態度で、腕まで組んで、立ち塞がるように待ち構えていた。
外から帰ったら手を洗ってうがいしろと言うのなら、言われなくても分かっている。
神奈子が諏訪子の残虐性を快く思っていないことも、言われなくても分かっている。
無言で威圧する神奈子の態度に、諏訪子は露骨にうんざりとした溜め息を吐いた。
大方、諏訪子がこれでは守屋神社の沽券に関わるとでも思っているのだろう。
科学の発展に過剰に反応にし、僅かな信仰の損失に酷くプライドをいためた神奈子。内に目を向けず、外部からの認識に拘泥する神奈子は、まるであの男のようだ。世間体や体面ばかり気にして、本質を見失っていると諏訪子は思う。無論、人と神ではスケールが違う。あの男、神奈男(仮名)さんは人間らしく浅ましく矮小だったが、神奈子は神らしく高慢だ。それは全く違うものである一方で、やっていることは同じで、似てもいた。
乾の象意は、剛健や威厳。自分を蛇に、諏訪子を蛙に当て嵌めたのもそう。あの注連縄も、高圧的な態度も、どれもこれも体面のために、面目を保つためだけに。めんどくさいったりゃありゃしない。まさかとは思うが、人間と神様のどちらが捧げる側か、間違えているんじゃないだろうか。努力して信仰してもらうなんて、そんなものはもはや信仰ではなかった。それなのに、だ。
あの注連縄も、喩えるならあれ、ライオンのたてがみのようなもの。ただ身体を大きく見せて強さをアピールするためのもの。
……あほくさ。
感想は、たった一言で済んだ。
……あれ? 前にテレビで、喧嘩の時に急所の首を守るとかどうこう言ってたっけ? それじゃあ、たてがみの方が有意義っぽいのかも。
などと、むしろ別のことを考えてみたり。
乾は男性原理で、坤は女性原理。
男性原理とは、秩序と規範性の遂行者としての権威であり、女性原理は、善悪の見境なくあらゆるものを包含する。
断言してしまえば、諏訪子と神奈子の認識の間には、それこそ天と地ほどの隔絶があるということだ。
「ただいま。神奈子。愛してるよ」
傲岸不遜な神奈子に見下ろされながらも、そんなことはまるで気にしていないケロリとした笑顔を浮かべる諏訪子は、蔑みを込めた冷たくも熱い声色で、その台詞を言った。
そうして、諏訪子と神奈子は、早苗が呼びに来るまでのしばらくの間、玄関で見つめ合っていた。
どんな状況でもケロリとしてそうな諏訪子様が簡単に想像できてとてもしっくりきました
ケロチャンだけにケロリと言うわけですね
土着神など信仰してる連中も含めて大したことないかもね
何がいいかわからんしわかるやつがいたとしたらぶん殴りたいw
>国津神
あれ?こいつらも土着神じゃね?
面白かった。
なんかこう、自業自得とはいえ、それを差し引いても不遜な諏訪子に対してもやもやした思いが残りました。
>私はちゃんと言ったよ? 相応な場所で告解でもしてはいかがです? って。ま、
>貴方が聞かないのなんて、最初から知ってたけど
とは言うものの、最初に自分を「早苗だ」と詐称したのは諏訪子が先で、彼にとっては「相応な場所」なんじゃないかしら。
諏訪子の祟り神らしさを描いた作品としてはすごくいいけど、もうちょっとゲスイ以外の魅力が諏訪子に欲しかったです。
しかしその感想自体、人間としての物差しでしか神様を図れない私の限界ということかもしれません。
こういうのもたまにはいいなあと思います。
とんでもない8才( ですねえ。