「この前、初めてセックスしたんだ」
席を立とうとするところで、蓮子はさらりとそう口にした。どう反応すればいいのかわからず、そのままマグカップを持って立っていると、彼女の手のひらが目の前でひらひらと揺れた。
「メリー、大丈夫? 行くよ」
彼女はケータイを開きながら店の自動ドアをくぐった。私は我に返って彼女のあとを追った。蓮子は店の外で地図アプリをいじりながら私を待ってくれていた。
「ええと、ここか。案内は――ここから歩いて二十分。幽霊が出るにしちゃ、ずいぶん所帯じみた場所だね」
突き出された画面を覗くと、あまり行ったことがない場所だったが、確かにここから近かった。私は画面から離れて肩をすくめた。
「そうはいってもこの街は色々なところに境界があるから」
「そうだった。さて、今回はどんな景色が見られるでしょうか?」
蓮子がにやりと笑うと、眩しい陽光が彼女の笑顔に降り注いだ。
街は五月の終わりを迎えている。街路樹も淡い緑から濃く深い色へと変わりはじめていた。少し熱っぽい風が頬を撫でる。街の人たちが私たちの前を通り過ぎ、私たちを追い越していく。この過ごしやすい時期もあと少しで湿っぽい梅雨に変わり、あっという間に息苦しい夏になってしまう。
けれど、そんなことよりも、私はさっきの蓮子の一言が気になって仕方がない。隣を歩く彼女を横目で何度も見やるけれど、彼女は話したくてたまらないという様子でもなかった。なんであのタイミングでそんな一言が出てきたのだろう。話の先を聞きたいとは思うけれど、どう話しかければいいか。こんなお昼の街中で夜の情事の話をするのも気恥ずかしい。
そんな私の迷いを蓮子があっさりと破った。
「さっきの話の続きなんだけどさ」
「さっき?」
「セックス」
「え、と、うん」
私だけが視線を泳がせるばかりで、蓮子は何事もないようにケータイと目の前の道を見比べていた。
「このまえ、彼氏ができたって言ったじゃない」
「二ヶ月くらい前? でも、あのときは恥ずかしくて手もつなげないとか言っていたじゃない」
「あれ、そうだっけ?」
「そもそも、その人とまだ付き合ってたことが驚きだったわ」
「そう言われると、確かに」
蓮子は少しだけ虚空を眺めて、確かに、ともう一度呟いた。
「で、先週の土曜日デートして、まあ、なんていうの。デートが終わったら、こう、ぐいと」
「ホテル?」
「そうそう」
そこで蓮子は急に左に曲がって小道に入った。私も慌てて彼女を追うと、さっきの大通りとは打って変わって急に車もビルも消えた。代わりに古い京都の町並みが遠くまで続いていて、その中にちらほらと人が歩いていた。蓮子はその中を止まることなく進んでいく。
「綺麗なホテルだったよ」
「ラブホテルだったの?」
「そう、ビジネスホテルより全然綺麗。自動ドアをくぐったら、ロビーはすごく暗かった。でも、中央に大きな水槽があって熱帯魚をそこで飼っていたの、アクアリウムみたいに。入り口で好きな飲み物も選べるんだ。お酒まであるから、私はワインを持っていった」
古都を歩きながら語られる風景はファンタジーだ。想像するだけで頭がくらくらする。蓮子の話は続く。
「部屋も広いし、照明もロマンチックに演出できる。それなのに数千円なんて信じられなかった。テレビも見たことないくらい大きくて、カラオケまでできるの。お風呂も四人入れるくらい大きくて、つい泡風呂までやっちゃった」
蓮子は再び左へと曲がり、路地の入り口で立ち止まった。私も少し遅れて立ち止まる。問題の場所はこの小道の奥だ。今度は車も人通りもまるでない。昔の町並みどころか、人も住まなくなって打ち捨てられた家々が並んでいた。さっきの陽気もここまでは届かず、あたりは肌寒く薄暗かった。
「本当に幽霊でも出そう」
蓮子がぼそりと呟く。けれど、彼女の目は好奇心に満ちていた。ケータイをポケットにしまい、ゆっくり歩き出した。
「メリー、境界が見えるかどうかだけ、チェックしておいて」
「ええ」
蓮子の話の続きが気になるが仕方ない。私は思考回路を一度切って、目の能力を開いた。
私の目から入る情報量は以前より多くなった。そのことに最初はわくわくしたが、日常的に多量の情報が入ってくることがだんだん煩わしくなってきた。そこで、私は能力を「閉じる」方法を覚えたのだ。それで普段は快適に暮らせるようになったけれど、逆にこういう探索で能力を「開く」ときにも意識の切り替えが必要になってしまった。
開いた目であたりを見回したが、特に境界は見つからない。蓮子に続いて歩いていくが、肌だけが妙な雰囲気を感じるばかりだ。蓮子は空を見上げている。真っ青な空に上弦の月がおぼろげに浮かんでいた。
「うん、あと数十メートルだね。メリー、境界は?」
「いいえ、特に見当たらない」
「現場にしかないのかもね、行こう」
一分ほどすると、蓮子が再び立ち止まり、右の廃屋に目を向けた。現場はそこだった。二階建ての廃屋で、二階の窓は全部取り外されていた。一階の窓は埃のせいか、くすんでいて中の様子がまるで見えない。木の壁は腐りかけていて、錆びきった真っ赤なアルミドアがかすかに開いていた。
「ううん、やばいね、ザ・廃屋」
それでも蓮子は躊躇わずにドアノブに手をかける。その瞬間、あ、と私の口から変な声が漏れた。蓮子の中に境界が見える。彼女は境界を踏み越えようとしている。彼女が足を進めると、境界はからからと乾いた音を立てて崩れていく。彼女はこちら側に戻らない。
待って。私は声にならない叫びを上げた。けれど、それは何の意味もなかった。ばりばりと何かが破れるような音を立てて、ドアは開かれていく。そして、視界が残酷にも切り替わる。
視界を埋め尽くすのは白く眩い光。ドアの向こう側の光景に、私はそう思った。そして、白い光の正体は大量の胡蝶蘭だった。私と蓮子は廃屋の中心に立ち尽くしたまま、茫然とそれを眺めていた。
一階の床に胡蝶蘭がこれでもかというほど並べられていた。二階部分はほとんど床が残っておらず、屋根も半分ほどどこかへ飛ばされていた。残っていた階段と二階の壁にも胡蝶蘭が飾られていて、消えた屋根から入り込む陽光に眩しく白色を返していた。不思議な匂いがあたりを埋め尽くしていて、そこだけまるで別の世界のようだった。
「メリー」
かなり時間が経ってから、蓮子が口を開いた。
「見える?」
「特に見えないわ」
「そう、きっと誰かがこれを幽霊と見間違えただけだろうね」
蓮子は大きなため息をついて、そこに置いてある古い椅子に腰かけた。
「胡蝶蘭が自然にこんなに咲き乱れることはないから」
「どういうこと?」
「胡蝶蘭は育てるのが難しいのよ。日光に当てるといけないとか、水やりは成長度合いによって変えないといけないとか。ここまで咲いているのは相当経験がある人が世話をしていたからよ。こうやって朽ちていない椅子があるのも、その人が置いたからだと思う。この近辺に住んでいる誰か」
私は二階の胡蝶蘭を見上げた。なるほど、言われてみればそんな場所に咲いていることも自然ではなかった。
「この前のセックスも、こんな感じだったなあ」
蓮子が明らかに物足りなそうな顔で不意に呟いた。はっと蓮子に目を向けたが、彼女は足下の胡蝶蘭をぼんやりと見つめているだけだった。
「彼氏、下手だった。前戯もあんまり気持ちよくなかったし、いざ入れられるとお腹痛かったし。がんばって彼が動くから、私も彼も汗臭くなっちゃうし」
蓮子は立ち上がって首を振った。
「なんていうか、期待外れ」
彼女は肩をすくめながら、足下の胡蝶蘭を避け、ゆっくりと出口へ向かった。私はそんな彼女の背中に問いかける。
「その彼とはどうするの?」
「まだ付き合っていくよ。セックスがすべてってわけじゃないからね」
蓮子はそう答えて、軋むアルミドアをくぐり抜けていった。
私は能力を閉じて、もう一度背後の胡蝶蘭を振り返った。不意に秘封倶楽部が終わるのではないか、という予感に襲われる。蓮子が彼氏と付き合って、セックスだけではない、色々な現実を知っていく。やがて、私たちの活動が意外とがっかりすることばかりだと思うのかもしれない。そうしたら、蓮子はあっさりと秘封倶楽部を終わらせる。そんな気がする。そうして、不思議な世界に私だけが取り残されてしまう。
胡蝶蘭が音もなく揺れた。誰に見られずに静かに育てられていた花は、そのまま誰に見られずに枯れていく。私たちのまったく知らない誰かは、どういう思いでこの花を育てたのか。本当のところはわからないけれど、私にはなんとなく想像できる。そして、今の私がこの花と同じ側にいるような、そんな気がした。
「メリー、どうしたの?」
外から蓮子の声がする。私は後ろ髪を引かれる思いで、廃墟を出た。外では蓮子が腕を組んで私が出てくるのを待っていた。私がごめん、というと、彼女は行こう、と応えた。そうして、私たちは廃墟の続く道を出て、再び人が行き交う小道へと戻った。
明るい道に戻ると、蓮子が気の抜けた声を出しながら伸びをした。
「どうしようか。またお茶するにもちょっと微妙な時間だし」
「何か他の噂はなかったの?」
「そうだなあ、全然調べてなかった。そうしたら、まずは噂話を調べるところからにしようか」
「だったらあのカフェに戻らない?」
「ああ、結局私たちはお茶してばっかりね」
蓮子が呆れたように笑いながら歩き始めた。私もその隣を歩く。人々の喧騒の中に戻ると、私たちが見てきた光景がこの世のものではなかったように思えてくる。そう意味で私たちは確かに幽霊を見てきたのだ。もう後ろを振り向こうとは思わなかった。
もう一度、私は静かに能力を開いた。けれど、蓮子の中に境界が見えることはなかった。能力を閉じて蓮子に少し肩を寄せた。
この先私はどうなるのか、想像もできない。ただ蓮子と一緒に時間を過ごしていく。今はそれ以外のことは何も考えられない。そう、そうやって私たちは日常を過ごしていけばいい。車も人も行き交う大通りに戻るときには、そう思えていた。
もうすぐやってくる六月の、湿っぽい雨の匂いが私の鼻先をつついた。
秘封列車な蓮子とそれに乗り込んだメリーの関係が堪らなくツボでした。面白かったです。
蓮子があまりにも境界をやすやすと越えていくのが言いようもなく寂しいですね。
よい秘封でした。
最初の一文に釣られましたがいい作品でした。
エスパーだからわかる
天才だからわかる
ただ、私としましては話全体を通して淡泊に成りすぎた感がどうしても拭い切れませんでした。物語を引っ張って引っ張って、そうして導き出した結論にしては蓮子の考えが簡素な答えに帰結するのが早すぎると、そう思えてしまいました。
これが物語の経過であるならば文句無しの高評価でしたが、結果として見た場合はもう少し、読み手の想像に任せる部分が随所にあっても良かったのではないかというのが個人的な感想です。
すべてを説明してしまう小説が悪いというわけではありませんので、ここは個人の嗜好による価値観としての相違としか言いようがありませんが。