「鈴仙さん。見せたい原付があるので、ついてきてくれませんか?」
そんなことを言われたのは夏も終わりに近づいたある日、昼下がりのことだった。
鈴仙は、早苗に連れられて守矢神社を訪れた。
二人はひょんなことから交流を深め(詳しくはこちら)、今では暇があると一緒にランチを取ったりする仲である。だから、別に早苗に何か誘われること自体は驚くことではない。
しかし、である。
見せたい原付とは一体どういうことなのだろうか。なぜそんな物を自分に見せようと言うのか。
状況があまりうまく飲み込めなかったが、早苗の表情は夏の空のように晴れやかでどこまでも清々しく、断られるとは微塵も思っていないその顔を見ていたら、気付いた時には「うん」と二つ返事をしていた。
そんなわけで守矢神社である。
境内は神聖さを感じさせる清潔が保たれていた。きっと今朝も早苗が掃除をしたのだろう。まず、立派な鳥居があり、それを潜ると左右に石造りの灯籠が建ち並び、その奥に手水舎がある。柄杓のひとつひとつの並び方まで気を配っているのは、巫女として立派である。
手水舎の前を通り過ぎさらに進んだ先に拝殿がある。厳かである。決して煌びやかではなく、あくまで日本的な落ち着いた雰囲気なのだが、それが却って堂々たる風貌を醸し出している。
いつ来てもここは鈴仙に不思議な感慨を抱かせる。ぴりっとした緊張感のある、それでいて心休まる、そんな場所だ。
だが、今日は一カ所だけ神社にはそぐわない異物が置かれている。
「じゃーん。こちらが見せたい原付です」
そう言って両手を使って指し示す早苗。
そこには黒いボディの原付が、自己主張をしながらひっそりと佇んでいる。
「これが、それか」
知識として一応知っていたが、実物を見たのは初めてだった。この幻想郷ではなかなかお目にかかれないだろう。
早苗が原付に視線を流しながら、言ってよこす。
「これはですね、私が偶々落ちているのを発見したんです。外の世界の物が流れ着くのは良くあることですが、さすがに原付を見たのは初めてだったので興奮しました」
と彼女はその時の様子を思い出したのか、鼻息荒い様子で説明する。
「キーはついてたのですけど、壊れているようでうんともすんともいいませんでした。せっかく見つけたのに残念でしたが……。でも、修理すればまた動くようになると思ったので、持って帰ることにしたんです」
結構苦労しました、と彼女は苦笑いを浮かべた。
「修理はにとりさんにお願いしました。快く引き受けてくれましたよ。あちこち痛んでいた姿は、三日も経たずに新品同様の姿で戻ってきたのは驚きましたけど。いやあ、にとりさんってすごいですね」
なるほど。見た目がぴかぴかなのはそういうことか。鈴仙は納得する。
「それで、なんでこれを私に見せようと思ったの?」
よくぞ訊いてくれました、と彼女は大げさに頷いて見せ、
「憧れてたんです。ほら、映画とかドラマで良くあるでしょう。バイクに跨ってどこか遠くの地へ行ってどうのこうのって。ああいうの、いいなーって思ってたんです。いつか私もやってみたいと思ってたんですけど、残念ながらその夢を叶える前にこの幻想郷に移って来てしまいましたから……」
ふうん、と鈴仙は相槌を打つ。
早苗は原付のハンドル部分を軽く握ると、
「せっかくこうして原付が手に入ったんです。これはもう乗って走るしかないでしょう。この幻想郷を原付で駆け抜けるんです! ……そこでですね」
こほん、と彼女は一度咳払いをする。
「できれば、ツーリングという形で一緒に走ってくれる人がいてくれればいいなーって思って。もう一台あれば文句なしなんですけど、今は一台しかないので。それで……」
鈴仙は頷く。彼女の言おうとしていることはわかった。
「つまり、早苗がこれに乗って運転するから、私に後ろに乗って欲しいってことでしょう?」
「はい、そうなんです! ……いいですか?」
子猫のような上目遣いの視線に射抜かれる。
鈴仙としては別に断る理由も見あたらない。それに原付というものに乗ってみたい気持ちも少しある。
「うん。それくらいなら、いいよ」
と軽い気持ちで答えた。
すると早苗はぱっと表情を明るくして、
「本当ですか!? わかりました。じゃあこれからさっそく乗りましょう。! あ、そうだ、ちょっと準備してくるので待っていてください」
そう言ってものすごい勢いで母屋の方へ走って行ってしまった。鈴仙がしばらく待っていると、行ったときと同じ速度で早苗が駆け戻ってきた。
お待たせしました、と息を切らせながら言う彼女はさっきまで来ていた巫女服ではなく、
「どうですか? 私が学校で着ていたセーラー服を着てみちゃいました」
「はあ……似合ってる、けど。なんで着替えてきたの?」
「いやあ、だってほら、鈴仙さんが制服っぽい服着てるから私も合わせてみようかなーって。それに女の子二人で原付に乗るんですから、こっちの方が雰囲気的にもいいじゃないですか」
そういうものだろうか。まあ、早苗がそれで良しとするなら鈴仙としても言うことはない。
セーラー服を身に纏った早苗はスタンドを蹴り上げるとさっそく原付に跨り、キーをねじ込んでエンジンを起動させる。かん高い音と共に排気ガスが吐き出し、振動を始めた。
「さあさあ、乗ってください」
「え、ここで? 他にもっと走りやすそうな場所に移動した方が」
「いいからいいから。さあどうぞ」
催促されて、鈴仙は早苗のすぐ後ろにぴったりとくっつく形で座った。脚で原付の腹を挟み込み、腕はどうしようかと迷ったあげく、早苗の腰に回すことにした。
「準備いいですか?」
「うん」
てっきり鈴仙は、早苗が試しにちょっとだけ走ってみようとしているのだと思っていた。だってここは神社の境内で原付が走り回るスペースなんてほとんどない。それこそアリもひき殺せないような速度で、あくまで二人乗りの原付がどういった感じで動くのかを感覚的に掴むため軽く走ってみるものだと思っていた。
鈴仙の頭の中には、女の子らしい落ち着いた運転をする早苗と、後ろに乗って「ほら、もっとスピード出しなよ」と笑いながら声を出す自分の姿。「これくらいがちょうどいいですよ」「えー、ちょっと遅いよ」「そんなことありません」「そう?」「そうです」みたいな感じで、きゃっきゃうふふしながら原付を走らせるのだ絶対そうだと思っていた。
間違いだった。
鈴仙が「あっ」という声も上げる暇もなくガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタッ。何をとち狂ったのか早苗は原付を急発進させると、スロットルを限界に入れたまま境内を突っ切り、鳥居を潜ると階段へ突入。そのままものすごいスピードで駆け下りる。
そもそも原付ごときが階段を下りることなんて想定しているわけがない。サスペンションはもはや飾りだ。鈴仙の首から上が振動でカクテルシェーカーになった。
階段を一息に駆け下り、道に沿って突き進む。エンジンが唸りを上げて、さらに加速していく。
「~~~~~~~~~~!!!」
何もかもが予想外すぎて思考が追いつかない。放り出されなかっただけで奇跡だ。
恐怖のあまり何も言えない。とにかく必死に早苗の背中にしがみついた。その背中からウキウキでイケイケな感情が読み取れて、例えばここで「止めて!」とか「もっとスピードを落として!」なんて言ったところで聞き入れられないだろうということは明らかだった。
「ちゃんと掴まっていてくださいね。もっとスピードをあげます」
「ちょ、……やめ…………!」
早苗が楽しげな声を上げて手首を捻る。
途端に推進力が増す。体が置いてけぼりを食らいそうになる。
鈴仙が肝を冷やす。早苗が楽しげな声を上げる。そのまま道なりに突き進んでいると、目の前に森が現れた。
道なんてないと思った。が、良く見れば一カ所だけぽっかりと空間が空いている。鈴仙にはその道が肉食獣の胃袋に繋がっているように見えた。
早苗は原付の勢いをまったく衰えさせることもなく、木々が上から押しつぶしてくるかのように生い茂ったその細道に突入する。
光が遮断されて薄暗い。
木や草のせいで視界が悪い。
カーブの先がどうなっているのかまったく見えない。というのに、早苗は頭の中にコースは入っていると言わんばかりに、エンジンを吹かしてますます速度を上げていく。
視界の端で、左右に乱立した木々が信じられない勢いで流れていく。
右へ行ったと思ったら、今度は左へ。車体を思いっきり傾けて0コンマ単位で状況が変わる道筋に対応していく。
車体があまりにもグリングリン揺れ動いてその度に周りの景色が180度変わるもんだから、鈴仙は何が何だかわからなくなっていた。台風の直撃にあった船だってこんなひどい揺れ方はしない。フライパンの上でひっくり返されるパンケーキか、もしくはメトロノームの針にでもなった気持ちだ。
おまけに人里のように綺麗に整えられた道ではない。とりあえずここら辺を通れるようにしておきますね、という感じで用意された道であり、獣道よりは幾分かマシ程度だ。そんなんだから地面から伝わってくる振動で乗り心地は最悪だ。
信じられない速度で妖怪の山を下った原付は、勢いを失うことなく爆走を続ける。
ほんの一瞬前まで妖怪の山にいたと思ったら、今度は花畑にいた。向日葵の咲く道を二人は走り抜ける。
早苗はすこぶる楽しそうで、
「ヒャッホォーーーウ!」
花畑にエンジン音と叫び声が響く。
鈴仙はガタガタとグリングリンでもうすでにダメになっていた。ほとんど白目をむきかけていたし、口はだらしなく開けられて今にも舌が飛び出てきそうだ。
この顔でダブルピースでもかませば、もう完全にナニがナニしてナニ状態だった。もしその姿を写真にでも収めて永遠亭に送ってみろ。稲妻のような青筋こしらえた永琳を筆頭に永遠亭の全戦力が守矢神社に集結して、
「うちの子に何してくれんてんじゃわれぇえええ!?」
と天を裂く怒鳴り声が響き、続いて、
「はあ~~~~~!? 宣戦布告もせずに大軍引き連れてやって来たと思ったらなあ~~~に訳のわからんこと抜かしやがる。あんまりふざけた事してくれるとこっちだって黙っちゃいねえぞ!」
と地を揺るがす咆哮が響き渡る。たちまちにして幻想郷中を巻き込む戦火が生まれ、その日から楽園は地獄へと成り果てる。
もしかしたらそんな世界線がどこかにあるのかもしれない。とりあえずこの世界線ではそうはならないので安心してもらいたい。
花の妖怪がいる。その横には人形の妖怪。
原付が二人の横を頭のおかしい速度で駆け抜けて行った。遅れてやって来た風に二人の髪とスカートが揺れる。
通り過ぎた原付の後ろ姿を目で追いかけていた人形の妖怪が、
「なにあれ?」
「さあ」
花の妖怪の返答は素っ気ない。
原付の姿が地平線に溶けていくまで熱い視線を飛ばし続け、ふんと鼻を鳴らし「ばっかみたい」と悪態をつく。
すると花の妖怪がかがみ込んで、
「馬鹿みたいなことも時には必要なのよ」
自分には何もかもわかっているという花の妖怪の言い方が気にくわない。人形の妖怪にはよくわからないからだ。でもそんな気持ちすらお見通しだったのか、花の妖怪は「わからなくてもいいのよ」と微笑んだ。
人形の妖怪はむすっとして、それから原付が逃げていった方向をもう一度睨み付けた。
世界は黄色と青色でできていた。
◇
「パーキングエリアに着きましたよ。ちょっと休憩しましょう」
原付のエンジンがようやく静かになったのは、人里の駄菓子屋の前だった。早苗はここをパーキングエリアと勝手に決めつけた。
鈴仙は原付から降りて、近くにあった椅子に座り込んだ。へとへとに疲れていた。深く息を吐いた。今までずっと息をすることすら忘れていた気がする。
「お疲れですね。大丈夫ですか。はい、サイダーをどうぞ」
気を利かせて買ってきてくれたらしい。お礼を言って受け取ると、すぐに口を付けた。炭酸で喉が焼ける。冷たさが腹の底まで下りていく。
一言、
「生き返る」
「良かったです」
早苗は微笑んで隣に腰掛けた。
原付は陽射しを受けて輝いていた。何となくその様子が、道具として本来の姿を取り戻したことによって生き生きしているようにも見える、ような見えないような。
ともあれ鈴仙としては、
「もう乗りたくない」
「ええ~~~~~~~~~!? どうしてですか!?」
そんなに驚かなくても。というか自覚無しか。
あんなにかっ飛ばして、ここまで無事に来られたことが自分としては信じられない。はっきりいってシートにお尻を付けている間、生きている心地がしなかった。
ところが早苗はこんなに楽しいことは人生で初めてであるとばかりに目を輝かせて、
「まだまだこれからじゃないですか。せっかく念願の原付を手に入れたんですよ。二人でロードムービーの主人公やりましょうよ!」
なんだそれは。
もう嫌だ。怖い。
このまま家に帰って布団の中に入って寝て、夕方くらいになったらお腹が空くからそうしたら起きて、姫様がどこからか手に入れて来たカップ麺にお湯を注いで、それをがっついた後にまた布団に入って「ああー今日は色々あって大変だったけどこうして振り返ってみればまあいい一日だったな」と総括して寝たい。
本音ではそうだ。
そうしたいと願っているのに、そうしないのは自分が甘いから。
早苗が求めてくるように自分に視線を送ってくる。後ろに乗って欲しいと目で訴えてくる。それだけ自分の本音は溶けてしまう。
相方が欲しいなら熊のぬいぐるみでも乗せておけばいい。そんなことを言えたらどんなに楽だろう。
でも心の奥底の、誰にも見せたくないし誰にも知られたくない部分で、早苗が自分のことを原付の後ろに乗っけたいと思ってくれていることが、一緒に楽しい時間を共有したいと思ってくれていることが、嬉しくて。
だから、鈴仙はこう言う。
「安全運転してくれるなら……」
早苗はうんうんと何度も頷いてみせる。
「します、します。善処します。人里の道は整備されてて走りやすいので、ここでやめるなんてもったいないです」
エンジンが再び震え出す。待ってましたと言っているみたいだ。
原付に跨った早苗の後ろに同じように腰を下ろす。お尻の位置を調整し、一番しっくりする場所に陣取る。
「準備いいですか?」
「うん、おっけー」
だから安全運転をお願いね、と言おうとしたその瞬間、
――キュルルルルルルルル……!
タイヤがけたたましい音を立てて高速回転。ロケットスタートを決めた原付はたちまちに加速を始める。
鈴仙は早苗の腰に回した腕に思いっきり力を込めながら叫ぶ。
「だからそれやめてって言ったのに~~~~~~!」
鈴仙の叫び声を残して、原付は人里を爆走する。
◇
それから走りに走り回った。
柳の木が揺れる川の近くを走って、石造りの橋を渡って、民家と民家の間の細い道を通り抜けて、商店街だってお構いなしに走り抜けた。
さすがに人がたくさんいるところでは速度を落としたが、それでも十分速いし目立つしで、里の人達からものすごく熱い視線を飛ばされているのをひしひしと感じた。
早苗は心の底からツーリングを楽しんでいるようだった。
鈴仙としてもそれはいい。早苗が楽しんでくれるのなら自分としても嬉しい。だがあまりに無謀な運転だけは勘弁して欲しい。
最初は後ろに乗っているのが怖くて仕方なかったものだが、不思議なことに慣れるもので、ちょっとずつではあったものの、鈴仙も少し楽しめるようになってきていた。
会話をする余裕もできた。
「鈴仙さん、楽しんでますか!?」
「……た、たの、……し」
原付が傾き、右へ進路を取る。
「風が気持ちいいですね! 鈴仙さんはどうですか!?」
「……か、かぜ、……いい」
今度は左へ。
「最高ですね~~~~!」
「さ、さいこ~~……」
このようにコミュニケーションはばっちりだ。
二人の旅路は順風満帆に見えた。問題なんて何もなくて、ただ気持ちのままに走り抜けていればいいように思えた。
このまま早苗が満足しきるまで、自分はここに座っていればいい。それだけでいいのだと思う。
だが、何事もそう簡単にはうまくいかないものなのだ。世の中何もかも思い通りうまくいくなんてことはあり得ないのだ。鈴仙は普段から苦労してきた性格のせいか、そのことを良く理解していた。
だから、その瞬間がいざ来てみてもそれほどの驚きはなかった。
「なにやってんのよあんたたち!」
早苗と鈴仙の行く先を塞ぐように、ある人物が突如として現れた。
白と紅のおめでたい衣装に身を包んだ少女。幻想郷の住民なら名を知らない者はいないほどの有名人。
博麗霊夢のお出ましだ。
早苗がブレーキをかけ、霊夢からおよそ十メートル手前で停止する。
「里で原付を乗り回している二人組がいるって連絡受けて、来てやったわよ」
霊夢はこちらをぎろりと睨んで、迫力のある声を飛ばしてくる。
「原付の法定速度は時速30km! さらにヘルメットの着用は必要不可欠! 二人乗り運転なんてもってのほか! おまけに里の中は軽車両以外の車両進入禁止! あんた達どんだけルール違反すれば気が済むのよ! さっさと原付から降りなさい!」
早苗が後ろを振り返り、鈴仙と視線がぶつかる。
言葉はなかったがお互いにうんと頷いた。
幻想郷の秩序を司る博麗の巫女に逆らうのは得策じゃない。逆らったら何をされるかわかったもんじゃないからだ。
そんなわけで、鈴仙は「ここは大人しく言うとおりにしよう」という意味を込めて頷いて見せたわけだ。
鈴仙の言いたいことはすべてわかった、という表情を浮かべた早苗はゆっくりと正面に向き直り、霊夢に向かって堂々と言い放つ。
「ルールなんて青春の前では糞食らえです! 私たちは今、青春街道を一直線に進んでいるんです! 邪魔しないでください!」
そして早苗はどうやら、鈴仙の頷きを「霊夢なんて無視して走り続けよう!」と受け取ったようだった。
言葉によるコミュニケーションの重要性を強く理解した時にはすでに遅かった。
「な~~~に訳のわからないこと言ってるのよ。いいから降りなさい!」
霊夢が激しい口調で言ってよこす。
「嫌です!」
「……まったく。口で言ってもわからないようね」
はあ、とため息。
鈴仙は何とか口を挟もうとするが、その前に早苗が、
「霊夢さんだって、口で言ってわかるような相手じゃないって、最初から理解してるんでしょう」
「そんな事はないわ。注意したら素直に従ってくれる事を期待してたわよ」
早苗が、
「嘘ですっ!!!!!!!」
続けて、
「じゃあ何で、……何で霊夢さんはカブになんか乗ってるんですか!?」
霊夢がにやりと笑った。
外の世界の警察が乗り回しているオートバイ。白く塗りつぶされた車体はシート部分のみ黒い。後ろについているカゴには「POLICE」の文字。
多くの人が「警察のバイク」と聞いてまず頭に浮かべるのがこのスーパーカブであろう。白バイが乗っている大型自動二輪車と比べれば性能は格段に落ちるが、乗り回しの良さは折り紙付きだ。
そう、霊夢は今、少し型は古いものの、そのスーパーカブに乗っている。ちなみにヘルメットもちゃんと装着している。
「原付を取り締まるのはカブの役割だって相場は決まってるからよ」
「じゃあ、取り締まってみてください。やれるものなら!」
バンシーの叫び声にも似た大音響は、高速回転したタイヤが地面の上を滑る音で、次の瞬間には鈴仙を後ろに乗せたまま早苗の原付が猛然と走り出す。
突然のスタートダッシュ。
鈴仙は声も出せないまま、必死に早苗の身体にしがみついた。霊夢の横を通り抜けて、あっという間に最高速度に到達した原付は里の通りを爆走する。
土埃を上げて走り去った原付の後ろ姿を、霊夢は黙って見送る……、ような性格ではない。
鈴仙は後方でエンジン音が唸りを上げるのをはっきりと耳にした。
振り返る。
白いオートバイがためらう様子もなく追いかけてくる。久しぶりの獲物を見つけて嬉々としている肉食獣みたいだ。間違いない。捕まったら最後、喉笛を食いちぎられる。本気でそう思った。
「うわあ、やばいよこれぇ。早苗逃げてええええええ!」
言われなくても、と早苗はアクセル全開。メーターはもうとっくに振り切れている。
民家を数十軒通り過ぎ、通行人を軽く百人は追い抜かし、霊夢との距離は依然として変わらず、そのまま走り続けていると、道幅が段々と狭まっていき、そこで、
「行き止まり!?」
正面に壁が立ちふさがる。
しかし早苗は速度を緩める素振りはまったく見せない。
「早苗! 前、前、前まえまえまえ! ブレーキブレ~~~キ~~~~!」
このままでは激突は免れない。
後ろを振り返れば、霊夢が猛然と追いかけてくる。前を向けば壁が行く手を遮っている。
そして原付は止まる様子がない。
あ、これはもう死んだかもしれない。そう思った。
だが、そこで気付いた。行き止まりに見えた道は、右への抜け道があった。その角度90度。
曲がり角の手前、ぎりぎりの所で早苗がようやくブレーキに手を掛けた。わずかに減速した後、
「しっかり掴まってください!」
何もかも投げ出すように車体を倒した。
遠心力を信用しきっためちゃくちゃなコーナリング。タイヤの焦げ付く匂いがする。鈴仙の鼻先3cmを尋常じゃない速度で地面が流れていく。
呼吸が止まる。エンジンの音や風を切る音が消え、代わりに自分の心臓の音がやけにうるさい。もう何がどうなってるのかわからない。
コーナーを曲がりきりヤジロベエのように体勢を立て直す。
深く息を吐いた。
「…………生きてる……!」
コーナーを曲がりきったことよりも、自分が未だに息をしていることが信じられない。
大きく深呼吸を繰り返し、ふと後ろを振り向く。
霊夢は…………来ない。来ない。来ない。
来ないでくれ。頼むから。しかし、鈴仙のそんな願いはむなしく散る。
べったりと車体を寝かしながら、信じられない速度で曲がってきた。絶妙なコース取りだ。コーナーに侵入する前よりも明らかに距離を詰められている。
霊夢はそのまま加速して、ますます距離を縮めてくる。
「このままじゃ追いつかれる」
「さすがですね、霊夢さん……!」
じりじりと少しずつ近づいていてくる霊夢。
目を丸くしてこちらを見てくる通行人の横を過ぎ、原付は大通りへ進入。すぐ後ろを霊夢の乗ったカブが追ってくる。
そして、そこで早苗からの指示が飛んでくる。
「鈴仙さん、やっちゃってください」
「やるって何を!?」
「決まってるでしょう。霊夢さんを得意の射撃で撃ち抜いてください」
「な、なな何言ってるのよ。そんなの無理、絶対無理」
後ろを振り向くのだって怖い。この状況で片手を離せなんて、そんなもんサーカス団員だって嫌がるに決まってる。
「あなたなら絶対にできます。自分を信じて!」
信じてもクソもない。怖いもんは怖い。
が、そこで早苗は急遽、車体を左に傾け進路変更。
その瞬間、原付の横を圧倒的な速度で霊夢が放った札が通り過ぎていった。
「あ、危なかった」
早苗がハンドル操作をしなければ、今頃二人一緒に吹き飛ばされていたに違いない。
通りの中央に生け垣が現れた。道を二分するように造られたそれは、色とりどりの花が咲いており、通行人の目を楽しませている。
クチナシ、桔梗、向日葵……。夏の花を挟んだ向こう側、ついに霊夢が原付と並んだ。
目が合う。
不敵な笑み。「どうしたの? やり返してきなさいよ。こないなら、こっちからガンガン行くわよ」とその顔が言っている。
怖いのなんのといっている場合ではなくなった。やらなければやられる。
鈴仙は腰に回した右手を離し、人差し指の先を対峙するスーパーカブに向ける。
銃の弾丸を模した弾幕。
指先から発射された八発の弾は、霊夢が車体を左右に傾け、蛇行運転することで簡単に避けられてしまった。
「今度は私の番ね」
霊夢のお札弾幕。
原付の前方めがけて放たれた十枚の札は弧を描き、進行方向から向かって来るように襲いかかって来た。
早苗のハンドリング。左に寄せて一枚目をかわし、そのままじわじわと我慢するように左へゆっくりと進路を取り、二枚目三枚目もやり過ごす。
その後は逆へ。四枚目と五枚目の間を通り抜け、一気に車体を右へ傾け、道を斜めに横断する形で残りの札を全てかわし切った。
「す、すごい早苗、あれを全部かわしちゃった……」
「まだです。油断しないで!」
と、霊夢が間髪入れずに次の札を展開。同じように前から向かってくる形だが、今度は密度が違う。
さっきの倍以上の枚数が襲いかかってくる。
「今まで数え切れないほどの妖怪どもを葬り去った自慢の札よ。そう簡単に避けられちゃ、博麗霊夢の名が廃るわ」
霊夢が言う。
「私だって、この幻想郷でたくさんの経験を積みました。こんな所で、やられるわけにはいかないんです」
早苗が返す。
「避けられるの!?」
鈴仙が背中から声をかける。
「避けてみせます!」
そう言って早苗はアクセルを入れ、向かってくる札の大群にこっちから突っ込んでいく。
無謀にも見えるが、どうやら早苗は考えがあるらしい。
そのまま速度を上げ、わずかに車体を傾け斜めに切り込むような形で、突入。針の穴に糸を通すみたいに札と札の間を一気に突き抜け、それで半分ほどを避ける。
次いでブレーキング。
わずかにドリフトをかけながらジグザグにコースを取り、弾幕の隙間を狙って車体を滑り込ませる。
早苗と鈴仙の耳をかすめて、凶暴な札が後方へと流れ去って行く。少しでも操作をミスすればドカン。その時点で何もかもがパアだ。
早苗が集中しているのが背中から伝わってくる。向かってくる札と、そこから予想される安全地帯。そこに至るまでの速度とタイミング。全てを瞬時に計算し、それを正確に原付へと伝えている。
最後の二枚を右へ進路を取ってかわし切った。
早苗は顔を向けてその二枚へと視線を流し……、そこで唐突に行く手からもう一枚が現われる。
早苗には見えていない。完全に死角だった。
鈴仙は咄嗟に右手を伸ばしてブレーキをつかんだ。
ぎりぎりの所で減速が間に合い、衝突を避けることに成功する。
「鈴仙さん、助かりました。ナイスです!」
「寿命が縮まったわ……」
霊夢の攻撃を抜けきって、ふうと息を吐き、
エンジン音がやたら近くから聞こえた。
二人が「え」と思う暇もなく、カブに跨った霊夢が生け垣を飛び越えて、こちら側に侵入してくる。勢いそのままに、体当たりされた。
バランスを崩す原付。
早苗は何とかハンドルを操り体勢を立て直そうとする。が、霊夢はその暇すら与えてくれない。
そのまま強引な幅寄せをしてくる。行く手を遮られ、徐々に左へと押しやられる。
左手には壁。
里で有名な稗田の屋敷。それをぐるりと取り囲む美しい漆喰の塀。
見るからに上等なその塀に原付の車体の一部が擦れて、チャンネルのあわないラジオみたいな馬鹿うるさい音が鳴り響く。
原付のボディが傷つき、漆喰の壁に豪快な跡を残す。このままではじり貧だ。早苗の判断は早かった。
急ブレーキ、からのフルスロットル。
鈴仙の顔が早苗の背中に激しくぶつかり、今度は身体全体が逆方向へ大きく振られる。
「ひぃいいいいいいいいいいいい!!!!」
鈴仙は肝を冷やす。早苗の腰に回した両腕が命綱だ。離したら死ぬ。離したら死ぬ。離したら死ぬ。
涙目になりながら、自分を振り落とそうとする暴れ馬にしがみつく。
可能なら今すぐにでも飛び降りたかった。こんな恐怖なかなか味わえない。でも、早苗の願いを叶えてあげたい。悲しそうな顔を浮かべた顔は見たくなかった。だからせめて今だけは、彼女の望んだ通りのことをしてあげたい。
そんな思いを胸に鈴仙はさらに力を腕に込めた。
早苗と鈴仙の乗る原付は霊夢の後方から右サイドへ。そこには先ほどと打って変わって広大なスペースが広がっている。
「やるじゃない!」
霊夢が悪そうな笑みを浮かべて言ってくる。
鈴仙はその顔を横目で見ながら叫ぶ。
「楽園の素敵な巫女って嘘よ。どっからどう見たって悪魔か死神の類にしか見えない」
「聞こえますよ!」
安心したのもつかの間、
「早苗、前!」
「あれは……」
約百メートル先、人だかりができている。どうやら荷車が壊れたかして動かなくなったらしい。完全に道がふさがれている。
「どうす…………」
鈴仙が、「る」と言い終わる前に、早苗が原付を思いっきり寝かせて、ほぼ直角に左へ曲がる。
瀟洒な木製の門をぶち抜いて、阿求の屋敷の敷地内へ。
そのまま一直線に迷うことなく屋敷の入口へ。たまたま買い出しに出かけようとして扉を開けた女中の脇をかすめるように猛スピードで、
「お邪魔します!」
早苗が叫ぶ。
続いて間を開けずに霊夢が突入してくる。
「人の家に入ったからって逃げ切れると思わないことね!」
後にはぽかんと口を開けた女中だけが残される。
阿求の屋敷は宴会の準備に大忙しだ。
女中はフル動員され、それぞれが仕事に勤しんでいる。そんな中を二台のオートバイが我が物顔で駆け抜ける。
食事を用意していた女中が驚いて、「きゃー」やら「わー」と声が飛び交い、その度に持っていたお盆をぶちまけるもんだから、エビが舞うわ、鯛が舞うわ、豪勢な食材が紙吹雪のごとく三人を祝福する。
鈴仙たちの後ろをついていた霊夢はちゃっかりそれらをキャッチして「POLICE」と書かれたカゴの中へとしまい込んだ。帰ったら食べるつもりだ。
女中たちの間を縫い、廊下を阿呆な速度で走り抜ける。
「ごめんなさい。道を開けてください」
という言葉とは裏腹に原付の速度を緩める素振りはまったく見せない早苗。後ろからは依然として目をぎらつかせた霊夢がついてくる。
細長い道に途中で飽きた、というわけでもないのだろうが早苗は急遽、障子をぶち破って畳敷きの室内へ。
畳に豪快なタイヤ跡を残して、まさに牛のごとく突き進む。襖という襖を、一枚、二枚、三枚、四枚、…………、八枚、九枚……一枚足りない! ご安心を。しっかり十枚目もぶち破って、再び長い廊下へ飛び出る。
そこで霊夢が横に並び、こちらに向かって、
「いい加減にしなさい。これ以上里の住民に迷惑かけるのは許さないわよ」
「霊夢さんだって、人のこと言えないじゃないですか。さっきだって私の後をそのままついてくれば良かったのに、わざわざ他の襖を突き破ってたでしょう!」
「あれは仕方ないのよ。だって後ろから見てたら私もやりたくなっちゃったんだもん」
「なんて自分勝手な!」
「あんたこそ人のこと言えないじゃない!」
おでことおでこをくっつけ合わせ、二人がにらみ合う。ちなみに今も狂ったスピードで廊下を突っ走っている。
鈴仙はそんな二人の様子を後ろから眺め、無事に家に帰れるかな、と心の中で思っていた。
と、そこで、
「なにやってんですかーーーーーーー!?」
阿求の絶叫。
ここに来てやっと当主のお出ましだ。
三人のせいで屋敷はめちゃくちゃである。障子や襖、畳だって上等なものを使っている。被害は相当な額だ。
でもいい。阿求は里一番の名家である。一言で言えば金持ちだ。三人が荒らした分の修理費なんて蚊に刺された程度である。
これで襖屋やら畳屋が儲かる。畳屋はその儲かった金で風呂にでも入るか、ってんで風呂に入る。すると今度は風呂屋が儲かる。さらに今度は、風呂屋が「じゃあもっと上等な桶でもそろえるか」というわけで最終的に桶屋が儲かるってんだから、今日も世界は平和だ。
行く手を阿求が両手を水平にあげて塞ぐ。
「どいてください!」早苗。
「どきません!」強い意志。
「どいて~~~~~!」鈴仙。
「どきません!」強固な意志。
「どきなさい轢き殺すわよ!」霊夢。
「どきません!!!」鋼の意志。
二台のオートバイが同時に急ブレーキをかける。
けたたましい音を立てながら木目の美しい廊下に墨をぶちまけたようなブレーキ痕を刻みつける。阿求の立っている手前の十字路で、二台は横滑りしながら二手に分かれた。早苗と鈴仙は左、霊夢は右である。
「やっとまいた……。あんなのに追っかけられたら命がいくつあっても足りないわ」
「そうですね。さすが博麗の巫女です」
今の内に何とかあの凶悪な巫女から逃げられないものだろうか。
「ねえ、外に行きましょう。屋敷から脱出するのが一番だと思う」
「それが良さそうです」
早苗が同意してくる。
それにしても馬鹿みたいに広い屋敷だ。永遠亭もその広さは半端ではないのだが、稗田家の屋敷はもしかしたらそれ以上かもしれない。
何度か角を折れ、出口を探していると鈴仙の右手側の視界が開けた。
そこは中庭だった。
一目見ただけで実に良く手入れされているとわかる美しい風景が広がっている。玉砂利は狂いなく敷かれ、計算され尽くした緑がとても映えている。
そして、気付いた。
その向こう側。まるで示し合わせたかのように原付とぴったり並んで、霊夢がカブを走らせている。
距離が離れているにも関わらず、鈴仙には向こう側にいる人物の口元がはっきりと歪むのが見て取れた。
目があった。それが合図となった。
中庭を挟んで再び、再び弾幕勝負が展開される。
「もう見つかった! やばいやばいやばいやばい~~~」
鈴仙が早苗の背中をばしんばしん叩く。
向こうからの容赦ない針攻撃。
早苗はスロットルを操り緩急をつけることで、鋭く飛んでくる針をぎりぎりの所でかわす。二人に当たらなかったそれらは障子に穴を開けていく。まるで機関銃でなぎ払ったかのような跡だ。
鈴仙は「もうどうなっても知らねえぞこんちくしょー」の根性で、やり返す。
右手から射出される何十発の弾。しかしそれが相手を撃ち抜くことはなかった。
だが、それなら。
とっておきをお見舞いする。
――スペルカード発動。幻朧月睨(ルナティックレッドアイズ)
途端に中庭一杯に弾幕が展開。円形状に広がる数え切れない光弾。圧倒的な物量。霊夢の姿が弾幕に隠れ見えなくなる。
当たる。
この限られた空間、しかも今はオートバイに乗っている。空を飛ぶのと比べれば圧倒的に機動力が劣る。さすがの霊夢の避けられるとは思えない。
――スペルカード発動。霊符「夢想封印」
しかし鈴仙が展開した数え切れない弾幕は、霊夢が生み出した光り輝く球体によっていとも簡単にかき消されてしまう。
弾幕を腹一杯食い散らかしたその球体たちは、次の獲物に原付を選んだらしい。こちらに向かって高速で飛んでくる。
早苗の反応は早い。
開いていた障子の隙間に車体を突っ込んで室内へ。
後ろから破壊音。吹き飛ぶ障子。飛び込んでくる輝く球体。
「追ってきてる!」
鈴仙が絶望的な声を上げる。
「このままではまずいですね……」
地平線まで続く畳の上をフルスロットルで駆け抜けるが、霊夢の放った光弾はぐんぐん追いついてくる。
左右は襖で仕切られている。適当にどこかを選んで突っ込んでみるのはどうか。いや、さっきの障子みたいにどうせ何事もなかったかのように吹っ飛ばされるだけだ。
あれこれ考えている間に、ついにあと五メートルほどの所まで迫ってきた。
と、鈴仙の頭にひとつの案が降りてくる。
「後ろじゃもう間に合わない。前を狙うから、早苗しっかり避けてね」
「避けるって何を……」
鈴仙は、前方の畳に向かってめちゃくちゃに弾幕を撃った。弾が当たった衝撃により、いくつもの畳が宙へと飛び上がる。
「そういうことですか!」
早苗は驚いた声を発したが、すぐに理解した。前方を塞ぐように宙を舞っている畳と畳の隙間に車体を強引にねじ込む。
そこしかないという間を通り抜けた。
瞬間、後ろから轟音。夢想封印と畳が破壊的な出会いをする。
忍者の手裏剣やクナイを受けてもびくともしないほど畳は頑丈である。畳の守備力を舐めてはいけない。
畳は木っ端微塵に消し飛んだが、それは追尾してきた光弾だって同じだ。
「畳返しとは、考えましたね」
「姫様とのお遊びでよく使ったの。まさかその経験が生かされるとは思わなかったけれど」
何とか夢想封印から逃げ切ったが、霊夢はまだ逃がしてはくれないようだった。
右方向の襖すべてを吹き飛ばすような勢いで、カブが突入してきた。
「逃がさないわよ~~~~~~~」
霊夢が声を張り上げ、二人が悲鳴を上げる。
どうやら無我夢中で逃げていたら、屋敷をぐるりと一周していたらしい。前方に自分たちが入ってきた時と同じ入口が見えた。
突入してきた時と同じように玄関で固まっている女中の横を通り過ぎて、外に飛び出した。
「お邪魔しました~~~~」
今度叫んだのは鈴仙だった。
二台のオートバイと三人の爆走はまだ続く。
後ろから近づいてくる大きな足音が耳に入り、玄関で固まっていた女中はようやく我に返った。
「あの人たちは!?」
振り返ればそこには息を切らせた阿求の姿がある。
「たった今、ここから出て行かれました」
女中がそう答えると阿求は開いた扉から顔を出して、外をじろりと睨んだ。遠くからエンジン音が微かに聞こえる。
阿求は深く息を吐くと、扉をぴしゃりと閉めた。
「あとで玄関に塩をまいといてください」
はあ、と女中は曖昧な返事をする。阿求はその返事を聞いているのか聞いていないのか、上がり框にどかりと座り込んだ。
「屋敷をだいぶ荒らされてしまいました。まったく…………。まあ、いいです。どうせ修理費なんて稗田家の財産から見たらミジンコみたいなものです。稗田家当主としてここは寛容な心で許してあげましょう」
と言う彼女の顔は、発言の内容とは裏腹に不機嫌さを隠そうともしていない。だが稗田家に仕えて二十年のその女中は、そんな阿求の様子を見てくすりと笑う。
阿求が目を細めて、
「何が可笑しいんですか?」
「いえ、だって……。屋敷を荒らされて怒っているというよりは、自分も一緒に騒いで楽しみたかったのにと悔しがっているように見えたので」
女中がそう言うと、阿求は一瞬ぽかんとした表情を浮かべ、より一層不機嫌な顔をしてむくれて見せた。
◇
聖白蓮はその時、里へ調味料の買い出しに来ていた。
一輪からの「私が行きます」との申し出を断り、わざわざこうして寺から出てきたのは愛車を乗り回したいと思ったからだった。
オカルトの騒ぎ以来、すっかりバイクにはまってしまった。
もちろん里の中で走り回るなんてことはしない。里の中ではしっかりエンジンを切り、手で押して歩く。
買い物ついでに寺から里までをひとっ走り、というのが聖のここ最近の楽しみになっている。その時は大体ちょっとだけ遠回りするが、それくらいはご愛敬だ。
「味噌とお塩です。ご入り用の品はこちらだけですか?」
「はい、ありがとうございます」
店員から必要な物を受け取って、聖はふと空を見上げた。
暑い。
夏も終わりに近いが、暑さはまだまだ過ぎ去ろうとはしない。
聖は夏が好きだった。この暑さも、愛すべき対象である。それにバイクで走行していて爽快感を一番感じられる季節だと思う。
そんな聖の後方を、二台のオートバイが走り抜けていった。
軒下に吊された風鈴が、揺れた。
遠ざかるオートバイ。陽炎が揺らめく人里の通り。打ち水をしている可愛らしい女の子。まだ真っ昼間であるにも関わらず、ビールを豪快に流し込む日に焼けた男性。天高くそびえる入道雲。響いてくるエンジン音。
聖の中で、何かが揺れた。
「すいません。これ、また後で取りに来ますので、置いといてもらえますか」
そう言って、味噌と塩の入った小包を手渡す。
少し戸惑いつつも「わかりました」と返事をよこす店員に背を向け、後ろに止めていた単車に手をかける。
ボディが陽射しを照り返し光っている。キックでエンジンをかける。獰猛な獣みたいに低い唸り声があがる。
颯爽と跨り、ハンドルを握りしめる。
「何だかわからないけれど、楽しそうなことしてるじゃない」
遠くなる二台の姿をしっかりと目に収め、聖はアクセルを入れた。
◇
霊夢が原付を追って里の通りでカブを走らせていると、後ろから新たなエンジン音が近づいてくる。
腹の底に響いてくる重低音。
「また面倒臭いのが……」
後ろから迫ってきたバイクは聖白蓮が運転するもので、
「面倒臭いとはなんですか」
独特の色合いをした長髪を後ろに流しながら、横に並んだ彼女が言ってくる。
「思ったままを口にしただけよ」
「面白いことをしてらっしゃるようなので、私も交ぜていただこうかと」
微笑む聖に霊夢はため息を吐き、
「あのね、私は別に遊びで走らせてるわけじゃないのよ。これは前を走ってる馬鹿どもを止めるために……」
「あらそうなのですか。でもそれって博麗の巫女の役割なのかしら」
「どういう意味よ」
「原付のお尻を追いかけ回すのが、巫女の役割の内に入ります?」
ハンドルを握る手に力が入る。
「里から頼まれたのだから仕方ないでしょう」
「それなら自分がオートバイに乗る必要なんてないように思えますが」
「………………」
「本当はただ一緒に走りたかっただ……」
睨み付けて黙らせる。聖が肩をすくませる。
「何にせよ、このまま放っておくことはできないわ。あの馬鹿二人組は止めるし、あんたもさっさとそれから降りないのなら、こっちは容赦しないわよ」
すると前を走っていた早苗が、
「私たちを止めることは、誰にもできません!」
聖が笑う。
「ですって」
「まったく……」
「というわけで、私も止まるわけにはいきません。一度やってみたかったんですよね、ツーリング」
「聖さん、……一緒に走りましょう!」
霊夢は、
「ああ、もう!」
大きくため息を吐いた。
「そんなにオートバイを走らせたいのなら、わかったわ」
言い放つ。
「よーくわかった。あんたらが何を言っても聞かないってのは。だったらむしろこっちだって思いっきり走ってやるわ。ねえ、レースをしようじゃない」
今の言葉に三人の視線が集まった。
「レースをして私が勝ったら、今後里で原付やらバイクを乗り回さないと約束しなさい」
「霊夢さんが負けたら?」
「そしたらあんたたちが何しようが、私は止めないわ」
「面白そうね」
聖がにやりと笑みを浮かべる。
「どう、やる?」
「いいでしょう。お受けします」
「私もぜひ」
「わかった。ルールを説明するから、一度止まりなさい」
そう言うと、あれだけ追い回してもまったく止まる様子を見せなかった原付が、素直に従って通りの真ん中で止まる。
霊夢はその右に停車し、聖は逆側だ。
「ルールは至ってシンプル。ゴールは南門。そこに一番早く辿り着いたやつが勝ち。簡単でしょう」
霊夢、早苗、鈴仙、聖。四人の頭の中に、ここから南門までの最短ルートが形成される。
「異議はありません」
「ええ私も」
「ねえ、早苗。私もやっぱり乗ってなくちゃだめ?」
「当たり前です」
「……だよね」
と、そこに天から颯爽と舞い降りてくる影。
「話は聞かせて貰いましたよ~~」
シャキーンと効果音が鳴りそうな着地をして、射命丸文がカメラを構える。
「これはネタになりそうです。里を駆け抜ける乗り物レースバトル。博麗の巫女VS守矢の巫女、そこに加わるのは命蓮寺の僧。マスコットには永遠亭の兎。いやあ、いいですねえ」
パシャリ、パシャリ。
「文、写真はいいから、スタートの合図をお願い」
「あやや、その大役お受けしましょう」
里の通り。
三台のオートバイが並ぶ。
たまたま通りがかった人達は、何だなんの騒ぎだと興味深げな視線を送る。
文は仰々しい足取りでオートバイの前を横切ると、道の端によって大声で叫ぶ。
「レディ~~~スエーーンジェントルメ~~~ン! さあさあ始まるよ、幻想郷最速(地上)を決める戦いが! 勝つのは一体この三台の内、どれか!?」
そこにいた里の住民たちは、何だかわからんけれどとりあえず盛り上がっとけ、みたいなノリで「うおおおおおおお」と声を上げ腕を突き上げた。
――なんだなんだレースが始まるのか。四人とも頑張れー。女の子がオートバイに跨ってる姿っていいよね。博麗の巫女様~。緑髪とうさ耳のJK最高! おっぱいライダー!
などなど、思い思いの声援を飛ばしている。
「では準備はいいですか?」
四人が頷く。
三人がアクセルに手をかける。
文が手を挙げる。
「それでは」
まっすぐ伸ばされた手が、
「スタート!」
勢いよく振り下ろされる。
唸るエンジン。三台が同時に動き出す。
少女たちのレースが始まった。
◇
射命丸文は三台のスタートを見送った直後、マッハで妖怪の山に帰還。寝ていたにとりを叩き起こして、撮影機材をかき集め、にとりを引っ張ってマッハで里に帰ってきた。
河童印のカメラは映像用で、二人の働きによりレースの様子はテレビ放送される。
もとより幻想郷の住民はお祭り好きである。
スタート地点から広まった「可愛い女の子がバイクでレースしてる」という噂はたちまちにして広がり、今や里の注目の話題となった。
そんな中でテレビ放送が始まったとあって、近くの古道具屋に里の住民が殺到。テレビが置いてある店は人だかりができ、みんなでそれを取り囲んで、大盛り上がりだ。
そして、そんな熱狂の余波は、永遠亭にも及ぼうとしていた。
蓬莱山輝夜はその時、カップ焼きそばを流し台にドバーしたことで、不貞寝をしていた。
暇だ。
姫は、圧倒的に暇であった。
畳の上で意味もなくごろごろする。そのまま行けるところまで行く。ごろごろ。
気持ち悪くなってやめた。
暇だった。
と、そんな所に足音。どたどた。やけに物騒な足取り。この永遠亭にそんな音を立てて歩くやつはいない。
「誰かしら」
近づいてくる。部屋のすぐ外。
障子が吹っ飛ぶような勢いで開いた。
「お邪魔するわ」
と部屋に押し入ってきたのは二人組。でかいのと小さいの。見たことある。名前は、忘れたが守矢神社の神だ。
「いらっしゃい」
「守矢神社の八坂神奈子です」
「同じく洩矢諏訪子です」
「蓬莱山輝夜です」
自己紹介完了。
「永琳先生はおられますか?」
「んー、永琳に用事があるの。じゃあ呼ぶわ。えーりーん!」
十秒後、
「はいはい。呼びましたか。……あら、あなた方は守矢の。どういったご用件かしら」
「どうも先生。その節はお世話になりました。それで、うちの早苗のことなんですが」
「どうかされましたか?」
永琳が尋ねると、諏訪子が小さな腕を振って、
「説明するよりも見てもらった方が早いよ」
「うむ、そうだな」
畳にどんと置かれたのは、ブラウン管テレビ。
「コンセントはどこかしら?」
「ないわ」
輝夜が答えると、プラグを握りしめていた神奈子は、
「なんてこった!」
「神奈子、こうなったらあれしかない」
「ええい、致し方ないわね」
プラグを放り出し、テレビから一歩分の距離まで来ると、彼女は掌を伸ばし、それを大きく振りかぶって、
「神のちから~~~~~!」
ブラウン管テレビに斜め四十五度の角度でばちこーんとチョップを叩きこむ。刹那、テレビの画面が反応し、三秒ほど砂嵐を映した後、くっきりとした映像に切り替わる。
そこに映っていたのは、三台のオートバイ。
「あら、イナバが乗ってるじゃない」
「まあホント。運転してるのは早苗さんね」
永琳が腕組みをして言う。
輝夜は二柱に顔を向けて、
「どういうこと?」
「レースをしている。相手は霊夢と、命蓮寺の聖白蓮だ」
「把握したわ」
輝夜はようやく畳から体を起こし、テレビの前に陣取る。ものすごく自然な動作で諏訪子を膝の上に乗せる。諏訪子もあまりにも自然に膝の上に乗せられたので、特に何も言わなかった。
なぜ彼女たちがレースをしているのか。そういう疑問など、どうでもいい。重要なのは目の前で面白そうなことが実際に起こっているということだ。
「応援しましょう。全力で」
「うむ。私たちもそのつもりだ」
「だー」
神奈子が強く頷き、膝の上の諏訪子が可笑しそうに声を上げる。
永琳は、三人の後ろから二メートルくらい距離を開けてテレビを眺め、
「ここは勝手に使っても構いませんが、私は加わりませんよ」
三人の「えー!?」という声が重なる。
「お遊びに付き合っていられるほど、暇じゃないのです」
「えー、やだー、永琳も一緒に応援しよう」
「そう言われましても」
「じゃあわかったわ。そこからでいいから、一緒にテレビを観ましょう。それだったらいいわよね」
永琳は渋々といった様子で、
「まあ、それくらいなら」
と、そこでテレビから実況の射命丸の声が流れてくる。
『熾烈を極めるレースは現在トップに霊夢。その後ろを白蓮。最後が早苗、鈴仙のペアとなっています』
「私が応援してあげるんだからしっかりしなさい。イナバ!」
「そうだ早苗。自転車で鍛えたその腕前、見せてやれ!」
テレビの前はヒートアップ。
「ああ、今のコーナーで抜けそうだったのに。あのでかいバイクがコースを塞いで来たね」
諏訪子がそう言って、いつの間にかごく自然に交ざっていたてゐが、
「あんのくそ坊主が! 邪魔すんじゃないよ!」
その声に、そうだそうだ、道を開けろ、という声が返ってくる。
永琳はそんな様子を後ろから眺めて、
「まったく」
ため息を吐いた。
◇
早苗はこれまでにないほど集中していた。
少しでも気を抜いたら置いて行かれる。
突如として始まったレース。勝負に理由なんていらない。絶対に負けられない戦いがそこにはある。
直線に見えるコースは、実際に走ってみると緩いS字を描いていることがわかる。ほんのわずかなコース取りの差が、後々大きな差になってくる。
前を走る聖のバイクにぴったりとくっつき、風の抵抗を防ぐ。
聖のすぐ前には霊夢の姿。差はほとんどない。
まずは機を見て、聖を抜き去る。
「鈴仙さん大丈夫ですか?」
後ろで必死にしがみついてくる鈴仙に聞く。
「な、なんとか」
緩いS字カーブの道を抜け、ストレートへ。ここは上り坂になっていてマシンの性能の差が出てしまう。聖が馬力にものをいわせて、原付から離れていく。そのまま前方を走っていた霊夢の横へ並ぶと、抜き去る。
坂を上り切ると今度は下り坂へ。頂上部分は上りから下りへの切り替えが激しく、そこで大きく車体が跳ねる。
聖は着地の衝撃でバランスを崩し、車体が大きく左右に揺れ動いてしまう。それを強引に力でねじ伏せるが、その間にすかさず霊夢が聖のバイクを抜き去り、再び首位に返り咲く。
早苗は着地を細心の注意を払ってうまくやり過ごすと、聖のバイクの後方へ。下り坂を過ぎ、直後の右コーナーへ進入する直前で、スリップストリームを利用し、一気に前へ躍り出る。霊夢と聖のオートバイの間に原付をねじ込んで、ポジションをキープ。
コーナーは速度を出しすぎると外側へ大きく膨らんでしまう。車体をぎりぎりまで押し倒し、曲がりきれる限界の速度で霊夢の後に続く。
右コーナーを抜け、約百メートルの直線。すぐに今度は左カーブ。基本に忠実なアウトインアウトを意識して左カーブに進入。カーブそのものは短く、入るときと出るときのライン取りに気をつければ、なんてことない。
今度は長めのストレート。トップは依然として霊夢。
早苗はバックミラーで後方の聖をうかがう。早苗と霊夢が乗っているものに比べて、彼女が乗っているバイクは大きく重たい。コーナリングではその分不利になるが、こういう長い直線だと彼女に分がある。
聖がすかさずフルスロットルで追い抜いてくる。
バイクが横に並んだ瞬間、腰に回されていた鈴仙の腕に力が入るのを感じる。
聖が自分を追い抜き、さらに霊夢も追い抜いたのを確認し、鈴仙に声をかける。
「大丈夫です。安心してください。確かに聖さんが乗っているバイクの性能はすごいですが、それで順位が決定的なものになることはないと思います」
「どうしてそう思うの?」
「もしそうだったら、霊夢さんは最初から勝負をしようなんて言い出しませんよ」
「なるほど、確かに」
マシンの性能では聖が圧倒的だ。
しかし、あの霊夢が負けるとわかっていて勝負を挑むはずがない。
それに、彼女が設定したゴールは南門。他の三つの主要な門と比べ、南門はちょっと特殊だ。というのも、門までの道のりが他と比べかなり複雑なのだ。あの辺りはかなり地理的に入り組んでいる。つまり、曲がり角だらけ、ということだ。
「勝負所は後半です。それまでに聖さんから多少距離を離されてしまうかもしれませんが、落ち着いて霊夢さんの後についていけば、勝機はあります」
「うん。早苗頑張って」
思った通り直線で聖に差を付けられた。
だが、すぐ前を走っている霊夢の背中を見ればわかる。自信に満ちあふれた、自分が負けるなんて微塵も思っていない背中だ。
勝負は後半。
集中は切らさない。
来るべき時のために、爪を研いでおく。
◇
里はどういうわけか大盛り上がりだった。
三台のオートバイが通った後は、観客の声援に飲まれる。
鈴仙には何がどうしてこうなったのかわからないが、とにかく盛り上がっているなら喜ぶべきなのかもしれないと思った。
何より原付を運転する彼女はこの状況を心から楽しんでいるようだ。顔を見なくてもわかる。自分の役割は後ろに乗って早苗を信じることだけだ。
聖とはかなり距離を離されていた。
それでも早苗は落ち着いている。霊夢もそう見える。
そろそろ勝負は後半に差し掛かろうかという所。前を走っていた霊夢の後ろ姿に、変化が見られた。
例えば、肉食獣が獲物を前にして、狩りのモードへと切り替える時のような変化、といえばいいだろうか。
そういう類の独特なぴりぴりとした感覚が、彼女から放たれている。
霊夢が一瞬、背後を振り返り、こちらを見た。
笑っている。
――私について来られるかしら?
そう言っているように見えた。
そして霊夢は前に向き直り、猛スピードを出したまま右カーブへ突入しようとする。
鈴仙の目から見ても明らかにオーバースピードだ。とてもじゃないが曲がりきれるものじゃない。その速度で壁になんて激突したら、ただじゃ済まない。
鈴仙が目を見張っていると、霊夢はまさに本当にぎりぎりのタイミングでブレーキをかけた。
そのまま壁すれすれのインコースをついてカーブに入った。
見ているこっちの肝が冷えるようなコーナリングだ。
早苗は、霊夢を追う。
霊夢の挙動を完全に真似するには至らないが、かなり際どいタイミングのブレーキング。インコースをしっかりとついた悪くない曲がり方をしたように思う。
それでもコーナーを抜けたとき、差が広がっている。
霊夢が交差点へ入り、左折。早苗が後追い、食らいつく。イン側からアウト側へ。スムーズなコース取り。さらに左折。
が、そこで焦ったのか早苗はわずかにスピードを殺しきれず、アウト側へ膨らんでしまう。
早苗が深く息を吐いたのを感じる。
この周辺は本当に入り組みすぎている。まるで迷路だ。利便など考えず、気の赴くままに開発していったとしか思えない。
いくつもの民家を縫うように進んでいく。
霊夢との距離は広がる一方だ。およそ三秒の間隔。たった三秒でも、この間隔を埋めるのはかなり難しい。
だがそこで今まで見えなかった聖の姿を、ついに捉える。
霊夢はぐいぐいその差を詰め、聖をあっという間にパッシング。後半の入り組んだ地形を戦略に組みこんだ見事なレース展開。堂々の首位奪還を果たし、それでも勢いを止めずに、霊夢は攻めの姿勢を崩さない。
早苗も聖のマシンとの距離を詰める。こちらは小回りが利く分、コーナーがあればあるほど有利だ。
早苗はパッシングポイントを次の複雑なコーナーに決めたようだった。左、右、左とS字を描くこの区画は、最初の二つのカーブは緩やかなのに対し、最後の左カーブがかなり急だ。右から左への切り替えがキモと言える。
高速のまま最初の左コーナーへ進入。聖のマシンに連結するようにぴたりとくっつき、プレッシャーをかける。
そのまま猛烈なプレスをかけ続け、右コーナーへ。勝負は次だ。このカーブを曲がりきり、逆側へのカーブに進入する時に、抜き去る。ひっそりと息を殺し、その時を待つ。
そして、右カーブの終わりが見え、勝負の時。
聖がブレーキをかけ、車体を左へ傾ける。が、急激なコースの曲がり具合に耐えきれず、わずかにアウト側へ膨らむ。
早苗はその瞬間を見逃さなかった。最小限のブレーキングでわずかに減速した後、イン側へ原付を突っ込む。接触するかしないか際どいライン。二台のオートバイが擦れ合うようにすれ違う。早苗と鈴仙は最短ルートを通って、聖をパッシング。
鈴仙はバックミラーに映る聖の驚いた顔を一瞬だけ見る。
まずは一安心。しかし、まだ先を行く霊夢を追わなければならない。一瞬たりとも気を抜けない。
◇
その頃の永遠亭。
「いいぞ~~~早苗~~~~!」
左手に枝豆、右手にビールを装備した八坂神奈子が叫んだ。
隣では輝夜が赤十字のマークが入った手旗を振って「頑張れー」と嬉しそうな声を上げている。その膝で諏訪子が両手を叩いてはしゃいでいて、さらにその横でてゐがファイティングポーズを取って、シュッシュやりながら「ぶったおせー」と声を張り上げている。
『おおっと~~、ここでついに早苗、鈴仙ペアが白蓮をとらえた~。二位と三位の順位が入れ替わる。さすが! あ、ついでに言っておきますが、早苗さんは私の嫁です』
「何だと射命丸、うちの子はやらんぞ! 私たちが文々。新聞を購読してるからといって調子に乗るな!」
テレビに向かって神奈子の大声が飛んだ。
そうだそうだ、と諏訪子が右手を挙げて賛同する。
人里の各地から、「ふざけんな~!」「百合最高!」「早苗さんはみんなの嫁!」という声が飛び交った。
永琳はテレビにかじりついている四人の後ろで腕組みをして、
「楽しそうね、まったく」
ぽつりつぶやいた。
◇
レースは終盤へ。
後方の聖との差を開きながらも、前方の霊夢には追いつけないでいる。
早苗の懸命なチェイスも、霊夢のスタイリッシュな運転の前には力及ばずである。
風を切り裂きながら十字路を突っ切り、波打っている道路の影響により20メートルくらいのビッグジャンプをかまし、二人並んで歩くので精一杯という細道をマシンの限界速度を出して突っ走る。
「く……霊夢さんとの差が埋まらない」
早苗の苦しげな声。
原付の前を行くカブ。その姿はずっと視界に収まっている。というのに、まるで追いつける気がしない。蜃気楼でも追いかけているみたいだ。
鈴仙は、思う。
何かできないだろうか。
別にレースがしたいと望んだわけじゃない。それでも始まったからには勝ちたい気持ちが出てくる。
こんなにすごい走りを体験して、興奮しないといえば嘘だ。だからかもしれない。自分も何かしたいと思う。
そして、閃く。
「ねえ早苗。私がナビゲートしようか?」
「ナビゲート?」
「私の能力で、この先の道がどうなっているのか正確に把握できる」
すべての物には波長が存在する。鈴仙はそれを感じ取ることができる。コーナーの角度や路面の状況、障害物の有無。それらをいち早く察知し、早苗に伝える。
「あまり力になれないかもしれないけれど……」
早苗は一言力強く、
「お願いします!」
鈴仙はそれだけでやる気がでる。
「二百メートル先、レフト、角度30、道路脇に溝があるから気をつけて」
「はい!」
間違った情報は命取りになる。鈴仙は確実に波長を読み取り、それを正確に、かつ簡潔に伝える。
昼間から居酒屋で酔っぱらってる阿呆どもの横を通り過ぎ、里では珍しい洋風の屋敷を横目に見ながら、原付は霊夢の後を追う。
鈴仙のナビが功を奏したのか、わずかに霊夢との距離が縮まってきているように思う。
「三百メートル先、ライト20、その後すぐにレフト40、若干下り坂になってるわ」
「了解」
カブが逃げる。原付が追う。
まとわりつく熱気すらも追い払うように、走って走って走りまくる。
「ゴールまでもう少し。そろそろ勝負をかけないと……」
鈴仙がそう言って、路面の波長を感じ取った時だった。
「! 早苗、前方三百メートル、U字路。イン側の路面は荒れてるわ。タイヤを取られるかも」
「わかりました。外側を回りましょう」
U字路に先に突入した霊夢に続き、二人も進入。と、霊夢のカブが一番カーブのきつくなっている所に差し掛かった時、リアタイヤが横滑りし、車体が大きく揺らぐ。鈴仙の言っていた荒れた地面にやられたのだ。霊夢は咄嗟にフルカウンターをくらわせ、強引に体勢を戻そうとするが、マシン全体が滑って大幅に減速してしまう。
そこを早苗と鈴仙の乗った原付が、アウト側から攻め込む。霊夢が体勢を元に戻す前に、一気に距離を詰め、U字コーナーを抜けきった時、
「並んだ!」
鈴仙が叫ぶ。
今までずっと先を行っていた霊夢とついに肩を並べる。
そして、およそ1.5キロのストレートへ。ここを抜けた先、最後の曲がり角を右へ行った所に、ゴールである南門が姿を現す。
左右を埋め尽くす観衆。二台のオートバイが火花を散らしながら駆け抜ける。
「行かせないわ、勝つのは私よ」
「いいえ、私たちが勝ちます」
早苗と霊夢がにらみ合う。
最後のストレート。お互いにまったく譲らない。横並びの状態のまま、最高速度で突っ走る。
残りもあと半分ほどとなった所だ。
と、そこで後ろから爆発音。それは今まですっかり忘れていた存在。
鈴仙が後ろを確認する。
ものすごい音を響かせて、聖白蓮の単車があり得ない速度で向かってくる。
早苗が目を大きく開く。
「……あの加速、もしかしてニトロ積んでたんですか」
「んな馬鹿な」
霊夢が呆れたような声を出した。
「勝つのは、私でーーーーす」
後ろから聖の叫び。あっという間に二台をごぼう抜きし、単車はマフラーから火を噴きながらロケットみたいな勢いで走り去る。
「そ、そんなのありぃ……」
鈴仙が情けない声を漏らす。
爆音をまき散らして爆走する単車。どう考えたって追いつけない。
こんな決着ありか。いや、なしだ。
そんなわけで、道ばたにネコが飛び出す。
そのネコはここらをシマにしている焦げ茶縞のいわゆるキジトラで、性格はやんちゃで悪戯好き、近くにあるフィッシュマーケットにちょっかいを出しに行くのを日課としていて、魚屋の店主である強面の「源さん」とはネコと人間の間柄でありながら犬猿の仲であり、いってしまえばどこにでもいるごく普通のネコだ。
聖は、急に飛び出してきたネコを避けようとして、
転けた。
すんでの所でネコをかわすのに成功はしたが、聖はバイクから放り出され地面を転がる。普通ならただじゃ済まない。しかし彼女の魔法効果による補助によって守られた肉体は、この程度でどうにかなるものではなかった。しっかりと受け身を取り、ダメージを最小限に減らす。
運転者の方は問題がなかったが、今度は空っぽになったバイクの方に問題があった。
めちゃくちゃな転がり方をするバイクは、まるで陸に打ち上げられた魚だ。あれだけ馬鹿みたいな速度で転げたのだからその跳ね方も実にダイナミックである。
そして、そんな跳ね回る無機物の塊へと接近する二台のオートバイ。目の前の出来事に呆気に取られ、運転を忘れている。
このままではぶつかる。
「!」
先に反応したのは霊夢。咄嗟にブレーキをかけて、暴れ回るそれを避けようとする。
が、そこで、
「早苗!」
霊夢が叫んだ。
その声でようやく早苗の思考回路が状況を把握する。地面をバウンドし、大きく宙を舞うその巨大なバイクは、原付に向かって真っ直ぐ飛んでくる。実際にはこちらから近づいているのだが、早苗や鈴仙にはそう見えた。
ブレーキをかける。だが、遅すぎた。鉄の塊が二人を押しつぶすように襲ってくる。
その時、早苗と鈴仙は完全なシンクロをした。
早苗は鈴仙が危ないと考え、鈴仙は早苗が危ないと考えていた。二人の思考が交差して絡み合い、ひとつになる。
あり得ない挙動で原付が傾いた。それはもはや早苗の意志によるものではなくて、原付が二人の意志を汲んで己から動いたようにすら見えた。
アクション映画さながらのダイナミックドリフトで、飛んできたバイクを紙一重でかわす。
エンジンの熱と排気ガスのにおい。
早苗と鈴仙の鼻先をかすめるように高速回転したバイクは後方へ流れていった。
「助かった……!」
「まだです!」
ぎりぎりで避けることに成功したが、原付はドリフトから元の体勢を立て直せない。直線コースを横切るような形で、そのまま壁に向かって突進し、
「あああああああああああああああああ!」
鈴仙の大絶叫。
が、早苗が奇跡のスーパーテクニックを披露する。すぐ横のゴミ捨て場へ向かってコースを強引に変更し、そこに捨てられていた廃材をうまい具合にジャンプ台に利用。原付が跳ね上がり、塀の上へと絶妙なバランスで着地。そのまま塀を伝って民家の屋根へと飛び移る。
佐藤さん家、鈴木さん家、高橋さん家の屋根を通り、最後に小鳥遊さん家の切妻屋根の斜面を駆け上って大ジャンプ。
原付が空を舞う。
無重力状態。
鈴仙は思う。
ああ、きっとこのまま月へ帰れる。
帰ったらどうしよう。みんなになんて言おう。とりあえず、友達ができたことを言おう。
素朴で純粋で、それでいてちょっとおかしな所があって、恋愛に対してうぶな癖してバナナの食べ方はやたらとエロいし、原付に乗せたら危険だ。でも、すごくすごく魅力的な女の子。みんなに自慢してやろう。
うん、そうだ。
と考えたが、地球の重力がそれを許さなかった。
元の道へと何とか戻った二人。
しかし着地の衝撃で鈴仙は原付のシートから跳ね飛ばされてしまう。
「……あ」
宙に浮くからだ。
遠ざかる早苗の背中。
咄嗟に振り返って、こっちを見る彼女の顔。
何もかもが、スローモーション。
鈴仙はただその様子を見守ることしかできない。
早苗が何かを叫んだ。口元の動きを見て取った後、遅れて声が届く。
「つかまって!」
早苗が右手を後ろへ思いっきり伸ばす。
それを見た瞬間、鈴仙も右手を思い切り伸ばして、
つかんだ!
しっかりつかんだ手を離さずに、早苗が鈴仙の体を引っ張ってシートへ戻す。
「一緒にゴールしましょう、鈴仙さん!」
「うん!」
腕を再び彼女の腰に回し、がっちりキープ。
と、後ろから、
「待ああああああああちなさーーーーーーい!」
霊夢が怒鳴り声をあげながら猛スピードで追い上げてくる。
原付はストレートを抜け、最終コーナーへ。この右カーブの道はアウト側に柵を隔てて大きな池があり、そこには蓮の花が咲いている。
ここを抜けきれば、すぐ目の前にゴールの南門。つまりこのコーナーを先に抜けた方が勝つ。
先にコーナーへ進入したのは早苗と鈴仙。その後をわずかに遅れて入ってくる霊夢。
原付に乗った二人はハングオン。インコースぎりぎりを走り抜ける。
霊夢が後を追ってくる。じりじりと差を縮め、ぴったりと原付の後ろへつける。彼女の方がスピードは上だった。そして、ついに霊夢がアウト側からかぶせて来るように追い抜いてくる。
――抜かれる!
鈴仙はそう思った。
しかし、鈴仙が思った瞬間、霊夢が乗っているカブが大きく揺らいだ。追い抜こうとするあまりスピードを出し過ぎ、遠心力に負けたのだ。
「……な!」
霊夢が驚きの声を上げ、バランスを崩した車体はアウト側へ。そのままの勢いで柵に衝突してしまう。
衝突の勢いで綺麗にカブから射出された霊夢は、池に向かってドボン! 盛大な水しぶきを上げ、空には虹が架かる。
背後にその様子を見ながら、早苗と鈴仙が最終コーナーを抜けきり、そして、
――ゴール!
南門をくぐり抜けた瞬間、黒と白のチェッカーフラッグが振られ、観衆の声援が爆発した。
「やった……やりました。…………やりましたよ、鈴仙さん!」
「すごいよ早苗。すごいよ……!」
早苗が大きな声を上げてはしゃぎ、鈴仙は右手を高々と上げて、埋め尽くす観客達に向かってアピールをする。
最高の気分だ。勝者だけが許されるウイニングラン。観衆の大声援。たまらないほどの興奮。
「鈴仙さんのおかげです。あなたの力がなかったら、絶対に勝てませんでした」
「そんなことないよ。早苗の運転技術があったからこそだと思う」
二人は顔を合わし、
「じゃあ、二人の力ですね」
「そういうこと!」
力一杯笑い合った。
どこからか聞こえる歓声を耳にしながら、霊夢は池の水面に体を浮かべていた。
口の中に入った水を吐いた。ぴゅーと噴水みたいに飛び出る。
そこに、
「霊夢さん、大丈夫ですか?」
聖だ。
柵に手をかけ、こちらを覗き込むように見ている。
平気だという意味を込めて、手を持ち上げると、彼女はほっとしたようだった。
霊夢はその持ち上げた手を、顔にやった。顔面に張りついた水を払いのける。
「……ったく。無茶して、あんの馬鹿」
そう毒づく霊夢の顔は、言葉とは裏腹にどこか少しだけ嬉しそうでもあった。
「はぁ~、夏だなあ……」
霊夢の呟きに、聖も顔を上げて空を見た。
空はいつの間にかオレンジ色になっていた。とても綺麗だった。
コップに溶かし込んで飲み干せたら、きっと美味しいだろうな、と霊夢は思った。
◇
永遠亭。
二台のオートバイが最終コーナーへ入った時、輝夜、諏訪子、神奈子、てゐの四人はテレビ画面に食いついて、大声を上げていた。
もう四人とも興奮のあまり画面から五センチと離れていない所に顔をやり、みんなほっぺとほっぺをくっつけ合わせている。
「行けえええ! ここで負けたら承知しないわよ!」
「早苗ええ、踏ん張るんだ!」
「うげええ霊夢がすごい追い上げだよ!」
「ちっくしょーー、鈴仙何とかしろーーー!」
こんな感じで大盛り上がりであり、そして霊夢が耐えきれなくなってコースアウトした瞬間の四人は、
「…………………………」
アホみたいにぽかんと口を開けて信じられないといった様子で、画面を呆然と眺め続ける。
ついに早苗と鈴仙が見事に一位でゴールをした瞬間、四人がそれぞれ視線を交わし合って、輝夜、諏訪子、神奈子、てゐの四人は、遅れてやって来た歓喜の声を一斉に上げようとした。
その時、四人の後ろでそれまでほとんど黙ってただ画面を見ているだけだった永琳が、誰よりも早く、そして誰よりも大きな声で、
「いよっっっっっっしゃああああああああああああああああああああ!!!!」
四人が背後を一斉に振り返る。
あんぐりと口を開けた輝夜。死ぬほど驚いた顔のてゐ。目をまん丸くしている神奈子と、突然の大声にびくりと体を硬くする諏訪子。
そしてそんな四人の視線を一身に受け、渾身のガッツポーズをかましている自分の姿に、誰よりも驚きを隠せていない永琳。
数秒の沈黙。
永琳が、ガッツポーズを静かに解き、手を口前にまで持ってきて、あからさまな咳払いをひとつ。
「ま、まあ、あの子たちもなかなかやるじゃない」
四人が再び視線を交わし、ふっと笑顔を作り、その輪から抜けだした輝夜が永琳に飛びついた。
「えーりーん!」
「ちょ、ちょっと、姫様!」
その後ろで、神奈子が「うんうん」と腕を組みしながら何かとても満足げな顔で頷き、てゐと諏訪子が「イエーイ」とハイタッチを交わしていた。
テレビから射命丸の声がする。
『一位は早苗、鈴仙ペア! なんという劇的な展開でしょう。実に素晴らしいレースでした。感動をありがとう。それでは、皆様、ここら辺でお別れとなります。これ以上の中継は野暮でしょう。後は二人の物語。我々は黙って、その姿を見送りましょう。後日、優勝のお二人のインタビューを載せた記事をお配りします。興味のある方は我が文々。新聞を是非ともお手にとってください。それではご機嫌よう! さようなら!』
プツン……。
◇
どんな物語にも終わりは来るように、二人と一台の物語にも終わりが見えた。
セーラー服とブレザー姿の二人組は川沿いの土手を進んでいた。
夕日が二人を照らし出し、何倍にも大きくなった影が青々とした稲のなる田んぼへ伸びている。
時折、窪みにタイヤを取られて激しく揺れ動くのにさえ目をつぶれば、今までで一番穏やかな走行だった。
ガソリンは残るところ後わずか。原付の命の灯が消えるは寸前の所まで迫っている。
――パスン、パスン。
鈴仙には原付がため息をしているように聞こえる。この時間を終わりにさせたくないと思っているかのように。そしてそれは鈴仙も同じだった。
あれだけ飛び降りてしまいたいと思ったこのシートも、今となってはこのままずっと乗り続けていたいとすら思う。道が続く限り、どこまでも行ってみたいと思う。不思議だった。
世界が赤く染まっていく。
柔らかい風が二人を包む。
川のせせらぎと虫の鳴き声。
一日の終わりが近づく。
長い旅だった。思い返せば気が遠くなるほどに色々あった気がする。なぜ自分が原付に乗ることになったのかすら思い出せない。早苗に振り回されっぱなしの一日だった。本気で怖かったし、もう一度やるなんて死んでもごめんだし、腕と脚はもう力が入らないくらい疲れ切っている。
でも、いい一日だったと思う。
うん。そうだ。
「風が気持ちいいですね」
「うん。そうね。こういう土手を走るのって、雰囲気があって結構いい感じ」
「お、鈴仙さん良くわかってるじゃないですか」
早苗が嬉しそうな声を上げた。
柔らかい毛布のような風が体を包み込むように流れ、スカートの裾をはためかせる。
旅の終わりは小高い丘の上だった。ガソリンを使い果たし、ついに原付の動きが止まった。
シートから降り、鈴仙は久しぶりに地面の感触を得る。腕を高く上げながら伸びをする。そこからは燃えるように赤く染まった人里が一望できた。
背後でスタンドを立てる音がして、早苗がゆっくりこちらへと近づいてくる。
「どう、満足した?」
と鈴仙が尋ねると、早苗も同じようにう~んと伸びをした後、
「はい。とっても。まさかこっちに来てから願いが叶うなんて、思っていませんでした」
横から夕日に照らし出された彼女の顔は、柔らかい笑みを湛えていた。
「そう……。それなら、付き合って良かった。なんだかんだ言って私も楽しかったし」
肌で感じた恐怖感も過ぎ去ってしまったのか、後に残ったのは妙な満足感だった。鈴仙は手で目を覆いながら沈みゆく夕日を眺めた。哀愁を感じさせる色合いだと思った。
目の前にいた早苗が太陽に背を向けるように木製の柵にもたれ掛かり、鈴仙と視線を合わせる。
「とっても、とっても楽しかったです。きっと鈴仙さんが後ろに乗ってくれてなきゃ、ここまで楽しめなかったと思います。本当に、ありがとうございますね」
面と向かって言われると照れてしまう。夕日が出ていて助かった。頬が赤くなっているのがばれないで済む。
鈴仙は一言、
「いいよ。友達だもん」
早苗はいい笑顔を作って、
「それなら、また今度一緒に乗りましょうね」
「それはちょっと……遠慮させてもらおうかな」
え~~どうしてですか、と言ってよこす彼女がちょっとだけ可笑しく鈴仙は笑った。
こうして二人の一日は終了を迎えたわけなのだが、帰り際になって早苗が、
「あっ!」
「どうしたの?」
彼女は大変なことを思い出したというような足取りで、止めてあった原付に駆け寄った。
「ガス欠です! どうしよう。これじゃ走って帰れない」
「あ~……」
そういえばそうだ。ガソリンを全部使い切ったのだから。
早苗はすがりつくように懸命な声音で言う。
「鈴仙さんお願いです。これ持って帰るの手伝ってください!」
確かにここから一人で持って帰るのは大変だろう。
鈴仙は顎に手を当ててどうしようか思案する。友人の顔を見やり、それから今日一日乗り回した原付を見やり、そしてゆっくりと、ゆっくりと今日一番の笑みを浮かべて、
「私はもう帰らないといけないから。じゃ、頑張ってねー」
楽しい一日だった。満足のいく一日だった。でも、やっぱり原付に乗っていた時に感じた恐怖は本物で、あんな恐い思いを体験させてくれた早苗に対してささやかなお返しをする。
早苗はまるで神に見放されたみたいな絶望的な表情を作り、
「そんな薄情な~~!」
悲痛な叫び声が夕焼けの空に響き渡った。
◇
秋も深まってきたある日、昼時のことだ。
鈴仙は久しぶりに早苗に誘われて、人里で昼食を取ることになった。早苗と会うのはあの時以来で、かれこれ四週間ほど経っていた。その間に暑さはすっかりどこかへ過ぎ去り、人里を駆け抜ける風には少しだけ肌寒さを感じるようになった。
待ち合わせをしている龍神像の前には、すでに早苗の姿があった。
「久しぶり、あの時以来ね。元気にしてた?」
「どうもー私はいつも通りです。そちらはお変わりありませんか」
「こっちもいつも通り。師匠にはこってり絞られてるわ」
「あはは、それは……大変ですね」
二人は近くにあったちょっとだけ洒落たカフェに入り、窓際のテーブル席に座った。早苗はスパゲッティを注文したので、鈴仙は迷ってからミックスピザにした。
鈴仙が運ばれてきたミックスピザを切り分けて(ピザを切り分ける時に使うこのギザギザの名称ってなんていうんだろうと考えながら)、一切れを掴んで頬張ろうとした時だ。
対面に座る早苗がフォークにスパゲッティを巻き付けながらそっと声を上げた。
「あのですね」
その声の響き具合は、どこかで聞いたことがあるような気がした。
鈴仙はおそるおそるピザにやっていた視線を上げ、早苗の方を見る。彼女は言葉の続きを探しているのか、手元のフォークを動かし続け次から次へとスパゲッティを巻き込んでいく。
巻き込まれたスパゲッティが拳骨サイズになった頃、彼女は「これしかない」という言葉を見つけたのか、花が咲くような笑顔を作ってこう言った。
「鈴仙さんに見せたい自転車があるんです」
鈴仙は口にしようとしていたピザを皿に戻して、氷の入ったコップを掴んで水をごくりと一口飲み込んだ。
そして、思う。
もう勘弁してよ、と。
二人と永琳はじめ保護者一同と…いやさ登場人物全員がいきいきとしていて楽しそうでとてもよかったです。
なんでかヨコハマ買い出し紀行が読みたくなってきちゃった…。
楽しかったです。
しかし早苗鈴仙コンビいいですねえ
どのキャラも楽しそうでこっちまで楽しくなりました。
可愛かったけど
この二人のお話をもっと読みたいです
テンションMAXで人里を爆走する早苗さん達から、作者さんがノリノリで書いているのが見えるよう。前回のサバゲーのノリと言い、作者さんが楽しそうだとキャラが生き生きしてくるのか、読んでいると楽しくなってきますね。
青春ど真ん中をバイクで疾走するような痛快SSでした。
面白かったです!